九条島に眠る朝鮮通信使の悲話


現在の松島橋。

明治2年(1869)に松島橋が架橋され、大きな反橋(船を通すため)で有名になり、初代長谷川貞信の『浪花百景』にも描かれましたが、残念なことに明治18年(1885)の淀川大洪水で流出。

現在の橋は昭和5年(1930)に架けられたもの。

豪農・池山新兵衛によって開発された九条島。

大坂市中への海の玄関口として賑わい、松島の竹林寺は朝鮮通信使節の宿坊にもなりました。

一条も二条もないのに何故「九条」。

本格的に開発したのは、江戸初期の幕府役人・香西晳雲らと言われており、交友のあった儒学者・林羅山が「衢壌(くじょう)島」と命名。

「衢」は「ちまた、賑やか」を意味し、「壌」は「土地」に通じ、賑やかな場所になるように願ってつけられたとのこと。

その後、「九条」に変わったのは、諸説あるものの、「衢壌」が難しすぎるので簡単な字になったのが真相らしい。

古代縄文期の「九条」は、なにわの海の底で、上町台地を除いて陸地の面影はなかった。

その後、淀川などが運んだ土砂が堆積して陸地化が進み、なにわ八十島と言われるほど多くの島々が大阪湾に誕生。
その一つが九条島。

対岸は以前取り上げた「トコトコダンダン」

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今日は24節季の一つ「雨水」。 空から降るものが雪から雨に変わり、積もった雪も解 … 続きを読む →


松島橋の碑

かつては寺島と呼ばれ、木津川と尻無川との合流地点であるので、舟大工職人が数多く住んでいた。

明治元年(1868)に町名をつけるさいに、島北端の戎社に推定樹齢300年の「えびす松」があって景勝地として有名であったため、そこから松島と名づけられた。

明治初めには川口に外国人居留地が造られ、松島はその遊興地として開発。

大阪最大の遊所・松島遊郭が開かれ、のちには松島文楽座も出来て殷賑を極めました。

ジオラマで知る「川口居留地」
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九条島と朝鮮通信使の碑

朝鮮通信使は徳川将軍が代替わりした時などに朝鮮から日本へやって来た友好親善の使節で、江戸時代には計12回来日しています。

正使と副使の他に書記、通訳、書家、画家、僧侶、医師など、時には500名以上にもなる大集団でした。

異国情緒溢れる通信使が来訪すると、大坂三郷はおろか近隣からも見物者が訪れ、大坂中がお祭騒ぎになったといいます。

彼らは釜山を出港して対馬、瀬戸内海、九条島を通って川口で船を降り、そこから川御座船に乗り換えて淀へ向かい、淀からは陸路で江戸に向かいました。

梅本橋顕彰碑

明治3年(1870)、川口居留地と松島を結ぶために戎島渡が廃止されて梅本橋が架けられました。

橋名は西詰の梅本町からつけられましたが、梅本町の町名の由来は、竹林寺境内にあった「浪速津香之梅」という名樹に因むといいます。

大正4年(1915)には市電(松島~安治川線)が通るほど賑わいましたが、昭和27年(1952)頃、運河埋立工事で撤去されてしまいました。

現在では松島公園の一部となっています。

竹林寺は九条島を開いた豪農・池山新兵衛と幕府役人・香西皙雲によって慶安2年(1649)に建てられたといわれています。

朝鮮通信使の墓

江戸に行かず大坂に残った朝鮮通信使の宿舎としても使用され、明和元年(1764)、11回目の朝鮮通信使の金漢重(キムハンジュン)の墓があります。

金は朝鮮東莱府草梁の人ですが大坂で病に臥せ、同寺で亡くなりました。

本国には愛する妻と2人の子供がいて、望郷の念に駆られて子供に逢いたいと縋る金の姿に、大坂の医者たちも心を痛め、同じ年頃の日本の子供2人を金の枕元へ呼んで、我が子に見立てて看病させたといいます。

また同年の朝鮮通信使では、対馬の通詞・鈴木伝蔵が、御堂御台所で行列奉行の朝鮮人と口論になって打擲され、その恥辱を晴らすために全く関係ない通詞の崔天悰を殺害するという「唐人殺し」が起こりました。

鈴木は逮捕されて処刑されましたが、崔天悰の供養は同寺で行われました。

ちなみに事件は当時の常として面白おかしく脚色され、『世話料理鱸包丁』(『今織蝦夷錦』)『漢人韓文手管始』『世話仕立唐縫針』などの歌舞伎狂言の演目になっています。

九島禅院

江戸時代の大坂名所案内『蘆分船』に「龍渓禅師庵」として小さい草庵の図が掲載され、『九条村絵図』にも「屋舗五歩、興禅庵大隨」と記載されています。

山号は霊亀山で、これは龍渓禅師が弟子に招かれて九島院の開山法要をした際、亀が花を背負って祝福に来たという故事によるもので、境内には「亀の墓」もあります。

寛文10年(1670)8月、九条村が洪水に襲われたとき、弟子たちが禅師に再三、避難を勧めましたが、禅師は沈着冷静に「生死は数なり」と一偈を書いて、座禅を組んでお経を唱え、泰然として入寂したと言い伝えられます。

後世の人々は「九条の人柱」といってその死を悼み、後水尾法皇は龍渓禅師の弟子であったので、以後、毎年8月に水灯施餓鬼を修して禅師の菩提を弔いました。

10年後に幕府が河村瑞賢に命じて九条島を開削して安治川を通しましたが、それには「龍渓禅師の人柱」も動機のひとつになったといわれています。

九島禅院の境内、左手に亀の墓があります。

茨住吉神社

茨住吉神社の茨は、当時この地域に茨が群生していたからという説や、摂津菟原郡(茨郡)の住吉神社から分祀したので元は「うばら」で、それが「いばら」に転訛した・・・といった説がありますが、確かな事は判っていません。

かつて当地には楠があり、その傍に祀られていた小祠でしたが、池山新兵衛の勧請で新田・河川の守護神として祀られました。

楠は戦前、樹齢約700年といわれていましたが、大阪空襲で焼け、しかし御神木として今も大切に保存されて「焼け楠」と呼ばれています。

にぎやかなアーケード商店街を抜けると九条新道。

大阪市電創業の地碑、花園橋停留場があった場所に建つ、かの、松下幸之助氏は、この大阪市電を眺めながら「これからは電気の時代!」と思いついたと、松下電器の社史にも記されています。

明治36年(1903)9月、九条新道の花園橋を起点に築港埠頭までの約5キロメートルに大阪市電が開通。

公営による電気鉄道は日本初の快挙でした。翌年(1904)には、これまた日本初の試みで「2階付電車」が走り、これは路面電車の上に長椅子が並ぶテント屋根付きのデッキを備えたもので、夏は「納涼電車」、冬は「魚釣り電車」と呼ばれて一躍、大阪名物となりました。

この「2階付電車」は市電創業50周年記念のさいに模擬電車が作られ、現在、緑木検車場(住之江区)に保存されています。

その後も大阪市電は拡張し続け、最盛期には総延長約110キロメートルまで路線が拡大、市電としては東京都電に次ぐ規模に達しました。

しかし戦後、中馬馨大阪市長が大阪港の防波堤工事を田中角栄大蔵大臣に陳情したさいに「防波堤工事は国がやるが、代わりに大阪市電廃止を」(角栄は日本列島を高速道路、新幹線で結ぶ列島改造論者だったので)と言われ、結局、大阪市側はそれを承諾。

高速道路主体、自動車偏重の都市計画が進み、大阪市民に愛惜されながらも、昭和44年(1969)に、大阪市電は、その栄光の歴史を終えました。

千代崎橋

明治初期の木津川は、高い帆柱を有した船が数多く往来したため、橋を架けるのにも舟運と陸上交通を両立させる工夫が必須でした。

明治5年(1872)に架橋された初代千代崎橋は、その課題を克服するために、橋板の中央部分が開く構造になっていました。

また、この橋の反りは大きく、端部の最急勾配は18%にもなっていました。

珍橋として浪花名所になりましたが、この橋も明治18年(1885)の淀川大洪水によって流出。

その後、普通の木桁橋が架けられましたが、これは関西の貿易港として神戸がどんどんと隆盛していき、大阪(安治川、木津川、尻無川)が没落していった証明でもありました。

千代崎橋は松島橋、伯楽橋と同様に戦前の都市計画事業によって、現在の橋に架け換えられています。

なお、地盤沈下によって橋が低くなったこともあって、昭和31年(1956)に嵩上げ工事が行われています。

安治川河底トンネル
かつて安治川上流には、マストの高い船の航行に邪魔にならないよ うに、ロクロを利用 … 続きを読む →

大阪歴史博物館
久し振りに同館を訪れたが10年1日のごとく何も変わっておらず、唖然とした。 水都 … 続きを読む →

水都大阪の安治川河口の様子。

天満宮行宮

天神祭のクライマックスである船渡御は、現在は大川上流に遡りますが、明治期から昭和初期までは大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸。

その後、陸路で松島の天満宮行宮(御旅所)を目指しました。その後、松島遊郭で夜通し遊び、翌朝に天満に帰っていったといいます。

しかし、戦後の地盤沈下によって船が橋をくぐれなくなったため、現在のようなコースに改められました。

京セラドーム大阪

平成9年(1997)に大阪ガス工場跡地に完成。東京ドーム、福岡ドームに次ぐ日本3番目のドーム球場です。

プロ野球のオリックス・バファローズの本拠地で、阪神タイガースも主催公式戦の一部を開催しています。

草野球向けの一般貸し出しも可能。

施設命名権(ネーミングライツ)売却で、平成18年(2006)から呼称を京セラドーム大阪としています。

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