卑弥呼と会える!大阪府立弥生文化博物館

古代を代表する女性といえば、必ず名前の挙がる邪馬台国の女王・卑弥呼。

しかし、卑弥呼がどのような女性であり、どのような暮らしを送っていたか、そして、邪馬台国をはじめとする弥生時代のクニがどのようなものであったか、ご存知ですか?

弥生時代の文化や習俗を紹介した大阪府立弥生文化博物館では、そんな女王・卑弥呼の人物像や暮らしぶりなどを知ることが出来るのです。

女王・卑弥呼は2世紀後半に勃発したとされるその「倭国大乱」の後、邪馬台国の女王として「共立」され、歴史の表舞台に登場して来ました。

写真は「卑弥呼の館」。

その名のとおり、当時、卑弥呼が暮らしていた館を想像的に再現した模型。

横5メートル、縦3メートルという大型模型で、環濠と城柵によってかこまれた内部には、卑弥呼の館のほかにも政事をつかさどった建物や倉庫、物見櫓なども再現されています。

『魏志倭人伝』によると、女王になってから卑弥呼の姿を見たものは少なく、一人の男子が飲食を給仕するために卑弥呼のもとに出入りしていたと記述されています。

この館のなかで卑弥呼はどのような暮らしを送っていたのでしょうか。

景初3年(239)、卑弥呼は難升米らを中国大陸に派遣。

魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられました。

ご覧のように、写真では銅鏡を高らかに掲げた卑弥呼の姿が再現されていますが、この時代、銅鏡が権威の象徴でもあったことを踏まえると、実際に卑弥呼がこのように銅鏡を掲げ、国内外にみずからの力を誇示していたことが容易に想像できます。

写真は卑弥呼の食卓を想像的に再現したコーナー。

季節は春に設定されており、各地の遺跡から出土した骨や種子などを分析して得られたデータのもとづいて再現されています。

野菜を混ぜ込んだ炊き込みご飯を主食とし、マダイの塩焼きや煮物、汁物などが並べられていますが、さすがは邪馬台国の女王であることを印象付けられる食卓です。

卑弥呼の宝石箱として、想定復元した首飾り等の宝飾品が展示されている。

先に示したように魏から賜った真珠や金八両から作った金環(イヤリング)は見当たらないが・・・。

先の卑弥呼の着衣と宝飾品で身を飾る様は、現代人と何ら変わることはなく、江戸期や昭和初期の庶民のモノトーンの世界と比べれば何なのかという想いがよぎる。

ひょっとすると卑弥呼の宮室は、賜った鉛丹により朱色に輝いていたのではないかと、飛躍して考えたくなる。

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