達磨寺こと法輪寺


法輪寺は1727年(享保12年)に開山。開基は大愚和尚。
創建当時からの本堂の他に起上り達磨堂などが並ぶ。

コンクリート造の大法輪塔1階には多数のだるまを展示、2階には南太平洋方面の戦没者の位牌が英霊殿に、映画関係者がキネマ殿に、それぞれ祭祀される。

三国一を称する起き上り達磨をはじめ、諸願成就に奉納された達磨が、およそ8000余をまつる達磨堂は特に有名で節分は参詣者で賑わう。

梁の武帝は仏教を信仰し、多くの寺や経典を翻訳させて功徳を積んだつもりでいた。
そこで達磨の渡来を聞いた武帝は、達磨と謁見して尋ねた。

「私は即位以来、寺を造り経典を写し僧を挙げ、仏教振興のために尽してきたが、如何なる功徳があろうか」と。

しかし達磨が平然として「並びに功徳無し」と云った。

びっくりした武帝は「どうして功徳がないのか」と尋ねたが、これに対しても達磨は「これはただ人天の小果、煩悩の因、影の形に随うが如く有りと雖も、実に非ず」と答えた。

何がなにやら分らない武帝は「では仏教の第一義とは何であろうか」と尋ねた。
これに対して達磨は云った、「不識」と。

名僧と聞いていた武帝は不審に思って「それではお前は一体何者なのだ」と尋ねた。
これにも達磨は云った、「不識」と。
達磨はそのまま飄然として去っていったという

達達磨大師は手も足もなくなってしまうほど修行したといわれています。
この坐禅をしている姿をモデルにしているのがダルマ人形です。

私たちと同じように手足はあるのですが、衣に隠れているだけです。

実際に僧侶が坐禅をする場合、足は衣で包まれていますが、手は印を組み、見えています。

手を衣に隠さないのが坐禅の流儀なのですが、達磨大師の絵像の多くは手が衣によって隠されています。

手まで衣で隠れている総像を書くようになったのは日本人の画家の手によるようです。

それでは、聖なるものが無いと言うのであれば、いったい私と話している貴方は誰ですか?

すかさず、達磨は「不識」(識らん)と答えた。「誰の誰です」と答えたら「廓然無聖」とならない。
当たり前のところです。

どうやら武帝と達磨は縁が無かったようです。

武帝がいくら仏心天子といえども、「無功徳」・「廓然無聖」・「不識」と達磨はありのままを答えているのに、境界の相違は天と地のようです。

そして達磨はいつまでもこのような人と話しをしていても埒が明かんと思い、揚子江を渡って北方の魏の国へ行ってしまわれました。

ダルマの眼光は鋭く、対面するものの心胆を刺す勢いがある。
こちらによほどの精神力がなければ、ダルマに根性を見抜かれてしまうという恐ろしさである。

できればそういう眼を開きたいと思うのも人々の素朴な願望であろう。

ダルマを招福の守護神とする風俗はもともと道教のものであり、それが今日のように我が国の津々浦々に普及したのも、徳川期に来朝して明代の禅を伝えた黄檗宗の禅僧によってであろう。

ダルマの眼光に寄せる人々の信頼と招福開運の思想が重なって、今日も各地で福ダルマが大いに活躍しているようだ。

面壁九年

達磨(だるま)大師が、中国の嵩山にある少林寺に籠り、九年間も壁に向かって座禅を組み、悟りを開いたという故事から。

この少林寺で大師は面壁九年、手も足もなくなり、尻の腐るほど修業をしたといわれる。

鋭い眼光のダルマも見ていると何か親しみを感じる。

とにかくいろいろなダルマがあり、こちらはタヌキのダルマ。

日本の女性のかがみ 姫ダルマ 内強うして眉目うるわしく

仏涅槃木像 

金箔等身蓮上聡耳の木像。時代は桃山、4百余年前の作といわれる。

仏頭、仏顔、仏身、仏足に触れてわが身を按ずると智慧と徳相と寿命とを得ると尊崇がきわめて深い。

周囲を十二支の動物に囲まれた達磨石像、芙蓉が似合います。

芙蓉は、朝に咲き夕方には萎む花。
ピーク時には、それを繰り返し次々と花を咲かせます。

綺麗な法輪寺の芙蓉を観賞したい方、そんな方は、朝方がオススメ。

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