熊野御幸記を歩く⑥布施屋~藤白神社

今回で6回目、いよいよ大阪編の最終回です。
ここには本地仏3体が祀られていてここで熊野へ参ったとする人も多くいるのです。

本日の出発地布施屋、地名の布施屋は、かつてこのあたりの人々が熊野詣の旅人を接待したことに由来します。

先ず川端王子を目指します。
しかし、なんとも無神経な掲示ですね。

川端王子(かわばたおうじ)の旧址は布施屋駅の南西にある。
近世には一帯の氏神であったが、明治末年に近隣の高積神社に合祀された。

しかし、第二次大戦の最中に、頻繁に神社参拝をするのに不便であるとして、旧社地に遥拝所として小祠が建てられた。
江戸時代の銘がある石灯籠2基がある。

導き石。
和歌山市では、町なかの交差点に導き石が埋め込まれていて、道のわかりにくいところは、この石を目印に進みます。

旧中筋家住宅[きゅうなかすじけじゅうたく]は、敷地の東側が熊野古道に面しており、江戸時代末期の和佐組大庄屋にふさわしい屋敷構えを残しています。

嘉永5年(1852)建築の主屋は、三階の望楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家です。

川端王子から南西に進み、矢田峠の手前にある石碑の辺りが和佐王子(わさおうじ)の跡地。

「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月8日条に「ワサ王子」の名が記されているが、日前國懸宮での奉幣のため別の道をとったため、参詣していない。

矢田峠を目指す。

役の行者の祠を過ぎ、みかん畑の中を登っていくと矢田峠に至り、振りかえると紀ノ川平野の景観が一望できるのもこのコースの魅力です。

平緒王子へ向かう。

和佐王子から矢田峠を越え、導き石にしたがって進んで、伊太祁曽神社へ向う道から分かれ、平尾地区中央の小字王子脇の自治会館の辺りが平緒王子(ひらおおおうじ)の跡地。

和歌山電鐵 貴志川線 猫のスーパー駅長「たま」でお馴染みの貴志川線を越え奈久知王子を目指す。

伊太祁曽神社は我が国に樹木を植えて廻ったと 『日本書紀』 に記される 「五十猛命(いたけるのみこと)」 を祀る神社。
今日はここでお弁当です。

奈久知王子(なくちおうじ、那口王子とも)の跡地には2つの異説がある。
『紀伊名所図会』が伝える跡地は、平緒王子から南に進み、和歌山電鐵貴志川線を越え、西側のミカン畑の中にあり、小祠が祀られている(和歌山県和歌山市須佐3)。

『紀伊続風土記』はここからさらに南に進んで、県道と阪和自動車道を越えた薬勝寺地区にあり、竹やぶの中に小祠が祀られているところを跡地としている(和歌山県和歌山市薬勝寺)。

『和歌山県聖蹟』は後者の説を採り、地名に基づいて「柏原王子」の名で伝えている。

祠が新調されています。

たんぼの畦道を通る近道もあり。

松坂王子(まつさかおうじ)跡地は、奈久知王子から南下し、亀ノ川を渡って県道に突き当たる辺りにある。

汐見峠は削り取られ、切り通しになっています。
左手の畑の中に昔の峠へ通じる径が残っています。

京・大坂から和歌山に入って最初に海が見えた所なのでこの名が付いたそうです。

また「呼び上げ地蔵」は安政2年(1855年)の大地震の大津波に逃げ場を失った人々を、不思議な力で呼び上げて救ったお地蔵さまなのだそうだ。

春日山城は、中世の城で紀伊国守護の城「大野城」の支城でした。

「守護所」というのは、紀伊国の現在の県庁にあたるもので、和歌山県の県庁所在地が昔、ここ海南市にありました。(和歌山市に移る前のお話です。)

知事にあたる守護大名が海南で紀伊国を統治していました。

その守護大名の城が「大野城」です。(近世でいうと、和歌山城にあたります)
この「春日山城跡」からは、守護所跡や大野城跡など大野の里が遠望できます。

松代王子(まつしろおうじ)は、松坂王子から県道を南下して古道に入り、日方川沿いに進んで松代橋の傍らにある説明板と道標を手がかりに、山道に 200メートルほどわけ入ったところに緑泥片岩の石碑が建てられているあたりに比定される。

菩提房王子(ぼだいぼうおうじ)は、松代王子から古道に戻り、春日橋で日方川を越えて蓮花寺を過ぎた会社の脇辺りにある。

この辺りの地名を鳥居と称する。
古くは熊野一ノ鳥居があった場所と考えられており、聖域に入る直前に身を清める潔斎所であったようだが、鳥居は天文18年(1549年)に失われたという。

如来寺裏手斜面にある墓地の中を通り祓戸王子へ向かう。

祓戸王子(はらいどおうじ、はらえどおうじ)跡は、菩提房王子から西へ進み、紀勢本線の線路の手前を南に折れて、如来寺裏手斜面にある墓地の中を通り、頂上を越したところに碑がある。

街道からだいぶ離れた場所にあるが、かつてはもっと街道よりの麓近くにあったといわれ、地元の伝承によれば如来寺の隣地であったという。

ここからは海南の街が見渡せる。

今日の目的地藤代神社に到着、石碑には「これより熊野路の初め」と刻まれた石碑であり、熊野三山の入り口と言われたとされる。

九十九王子のなかでも別格とされた五体王子のひとつ藤代王子の旧址で、「藤代神社」「藤白権現」「藤白若一王子権現」などとも呼ばれた。

中世熊野御幸の盛期には、九十九王子の中でも特に格式の高い五体王子のひとつとして崇敬され、熊野詣の途上における要所であった。

境内にある藤白王子権現本堂は藤代王子を顕彰するもので、祭神の本地仏3体が祀られている。

これらの仏像はもともと藤代王子の神宮寺であった中道寺に祀られていたものであったが、豊臣秀吉の紀州征伐に際して危害が及んだ際に縁の寺院に避難させていたものを江戸時代に復したものである。

明治の神仏分離の際の破棄を免れ今日に伝わっている。

阿弥陀如来 – 家都美御子大神の本地仏
薬師如来 – 熊野速玉大神の本地仏
千手観音 – 熊野夫須美大神の本地仏

の本地仏3体。

右端の画像は木造十一面観音立像 – 藤白若一王子の本地仏、ただ今出張中。

五体王子とは・・・
1.大阪府泉佐野市の「樫井(籾井)王子」、
2.和歌山県海南市の「藤代王子」、
3.印南町の「切目王子」、
4.上富田町の「稲葉根王子」、
5.中辺路町の「滝尻王子」です。


「藤白の 御坂を越ゆと 白栲(しろたへ)の 我が衣手は 濡れにけるかも」 (1675番・詠み人不詳)

訳  下津より海南への 岬の坂を越えると きっと わたしの袖は泪で濡れてしまうだろう。
有間の皇子の悲話を 思い出して。

有間皇子神社、由緒書には、今から千三百年前、孝徳天皇の皇子であった有間皇子は皇位継承を巡る争いの中で十九歳の若さで散る。

政敵であった中大兄皇子が蘇我赤兄を誘って有間皇子に謀反を勧めて、罠に掛かった皇子は釈明のため、白浜にいる斉明天皇の許に赴いた帰路にこの地で殺害されたという。

万葉集には有間皇子の二首が納められている。

芭蕉翁藤塚、もとは祓戸王子社内にあったとされ、芭蕉を尊敬する二夕坊が建立したとされる。
鳥居を入って左側にある。

御歌塚、後鳥羽上皇建仁元年、熊野御幸の際に催された藤白王子和歌会の熊野懐紙が納められている。

後鳥羽院の建仁元年(1201年)の熊野詣の際には藤白の次の宿泊地であった湯浅で歌会が催され、その歌会で詠まれた歌が藤白王子に献納されている。

このときの後鳥羽院らの詠歌が熊野懐紙として3通が残されており、陽明文庫などに所蔵されている。

芭蕉翁藤塚の裏側にあります。

楠の巨木
南方熊楠は、藤白王寺の境内にあるこの社から「熊」・「楠」の字を授けてもらった。

また、兄妹の名前に見える「藤」の文字も子どもが生まれると、この社から授けてもらい神の加護によって無事成長することを祈って命名した。

これは楠の木に対する信仰に由来する。

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熊野御幸記を歩く⑤山中渓入り口~布施屋渡し場

熊野御幸記も今回で5回目です、今回も小さいカメラです。

前回はここ、泉南I.C.北交差点まで歩きました。

先ず「琵琶ヶ岸懸」(びわががけ)を目指す。

薄暗い山中渓沿いの道を進む。

この先、道は大きくえぐれて道幅は50cmほどで、しかも路面は谷に向かって大きく傾いており、左手は石崖でつかむところがない。

縄が1本渡してあるのでバランスをとるためだけにこの縄をつかんで慎重に渡る。

また、現地の説明板では、次のように具体的な情景を描写している。

昔、琵琶法師が熊野詣を思い立ち、琵琶を背にこの谷まで来たとき、一陣の突風に思わず杖をとられて真っ逆さまに山中川に転落してしまった。

法師のなきがらは川底に横たわり愛用の琵琶が途中の崖の木に引っかかっていたという。
その後谷底を流れる水音が「コロン、コロン」と琵琶を奏でるように聞こえるので、人々はこの谷を「琵琶ヶ岸懸」と呼ぶようになったと伝えられています。

熊野古道の山中川沿いに進むこの道は、きわめて危険で熊野参詣の難所の一つと言われていました。

今もわずかに人一人が通れるくらいの道幅で下は断崖絶壁であり、廃道となっています。

後鳥羽熊野御幸記には「八日天晴拂暁出道参信達一ノ瀬王子又於坂中祓参地蔵堂王子次参ウマ目王子次参中山王子」とある。

一ノ瀬王子の次は地蔵堂王子とあり、この時には長岡王子はない。

地蔵堂王子はこの石碑があるのみ。

現在、馬目王子は波太神社摂社の鳥取神社に合祀されている。
馬目王子は山中神社(現、地福寺)に合祀され、この山中神社が鳥取神社に合祀され、さらに波太神社の摂社になったと言う事である。

熊野古道とは関係ないが、田中武八翁碑(山中村庄屋田中家12代当主)

1874年(明治7年)、和泉国第二十四区山中村戸長を拝命し、小学校創設や地福寺の再建に尽力したという

山中宿目指し進む。

古くから「山中宿」と呼ばれる宿場町として発展し、現在も古い街並みが残っている。
江戸時代、紀州徳川藩の参勤交代時には山中宿が利用された。

石畳が整備されいい雰囲気になっています。

右手に江戸時代中期の建築といわれる「旧山中宿の庄屋屋敷」が残っている。

山中神社の祭礼にぶつかる。

この板状の石を屋根にした小社は、塞之神(さえのかみ)をかねた道祖神である。
山中の南の入口に鎮座され、南からの邪神、疫病の入りくるのをさえぎり、また「蟻の熊野詣」の時代から数多くの旅人の道中の安全を守ってきた。

山中渓駅(JR阪和線)を通過する列車。

JR山中渓駅を南下してしばらく行くと 山中関所址 がある。
かつては熊野街道を通る人々から木戸銭を徴収して儲けたようである。

日本最後の仇討ち場の碑が県境に建つ。
安政四年(1857)に土佐藩士『広井大六』は同藩士の『棚橋三郎』に口論の末に斬捨てられた。

『大六』の子『岩之助』は安政五年江戸に申し出て『仇討ち免許状』を与えられた、『岩之助』は加太に潜んでいた『三郎』を発見し紀州藩へ改め仇討ち申し出た所、

紀州藩は『三郎を国払いとし境橋より追放する仇討ちをしたければ境橋の和泉側にて仇討ちすべし』と伝えた。

文久三年(1863)岩之助は境橋の和泉側で三郎を待ち受け見事に仇討ちを果たしたとされる。

この先はもう和歌山県だ。

熊野古道道標。

第一滝畑踏切を渡った所に中山王子跡がある。

和歌山県にはこのような詳しい案内板が王子毎に建つ。

中山王子址

案内板には・・・・前半割愛

『後鳥羽院熊野御幸記』(建仁元年~1202~の後鳥羽上皇熊野参詣に随行した藤原定家の旅行日記)には、十月八日の頃に「天、晴る。ウハ目王子に参る。沢、中山王子に参る。」と記されている。

ここから南へ約四キロ行くと次の山口王子社がある。

雄ノ山峠は阪和道建設時に削り取られて切通しになっている。

かつての雄ノ山峠を回顧できるものは殆ど残っていないが唯一峠付近から移転された不動明王像が往時の面影を伝える。

ここを超えると急な下り坂になります。
遠く向こうに紀ノ川が見えます。

本日の最終目的地布施屋もあの辺りか。

山口王子は泉州から和歌山へ入った二番目の王子社で雄ノ山峠を下って山を下りた地点である。
前の中山王子社から徒歩約1時間。

「熊野参詣(宴曲抄)」に、長岡信達も過ぎぬれば、あの彼方是方の峰つづき、雲の幾重ぞ外に見えし、葛城山の山中、山口の王子に来にけらし、と出ている。

中山王子から、雄の山峠を越えると、紀伊路に入る。
このあたりに関があった。

白鳥の関という紀州民話の中にこの白鳥伝説が残されている。
かなり古くからあるらしく、万葉集に、こんな歌が残されている。

吾が背子が あとふみもとめ 追いゆかば 紀の関守い 留めてむかも

(あの方の後を追っかけて真土山まで行ったなら、紀伊の関所の番人は、引き留めるでしょうね)

神亀元年(724年)10月聖武天皇の玉津島行幸の際、お伴の中にある女性の恋人がいて、その人に送るために金村が女性から依頼されて作った歌である。

もう刈り入れも終わっている、柿の木といいコラボレーションだ。

まっすぐに集落の間を登った所に山口神社があります。

古くは日吉春日神社といわれたが、明治四十二年、山口王子社、白鳥神社をはじめ、山口村各地の神社を合祀したのを機に、山口神社と改称されたようです。

当社は王子社ではないが、熊野街道沿いにあり、上皇や女院もしばしば立寄ったと伝えられています。

今日はここでお昼の弁当をいただきました。

出発時から台風の接近を気にしながら歩いているが、この雲は台風の影響によるものと思われ、時折ポツリと来る。

この辺りからは、この導き石に沿って進みます。

川辺王子と言われている所は2カ所あり、山口王子跡から南下して、県道粉河加太線を右折してJR紀伊駅方向に進む。

紀伊上野バス停留所付近を左折。
この道を南に降ると小さな社が見えてくる。

たんぼの中を中村王子跡を目指す。

中村王子址

田んぼ端の高札には こう記す。

川辺から神波、楠本にかけて、平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけ盛んにおこなわれた熊野三山への参詣(熊野詣)の道が通っていた。

この参詣道の要所要所には、休憩や熊野三山の遙拝のための施設(王子社)が設けられており、この付近には中村王子社があった。

楠本の古い地名が中村であったと伝えられているために、中村王子社と呼ばれている。

川辺王子社や中村王子社の位置はいくつかの異なった考証があるが、これは熊野参詣道の道筋が年代によって多少変わったためと考えられる。

中村王子社の次の王子社は、紀ノ川を渡って吐前王子社となる。

     平成五年三月三十一日

      和歌山市教育委員会

力侍(りきし)神社「川辺(かわなべ)王子跡」

中村王子跡の東約200mに力侍神社の鳥居があります。
鳥居の脇には「和歌山県指定文化財 史跡川辺王子跡」の石碑が立っています。

大阪から雄ノ山峠を越えて、中山王子、山口王子に次いで3番目の王子ですが、場所については諸説があります。

鳥居をくぐり200mほど参道を北へ進むと、力侍神社と摂社・八王子神社の社殿に到着します。
2つの本殿は共に江戸時代寛永年間に建造されたもので、県指定の文化財になっています。

大正15年県委員の調査は、ここを川辺王子跡としている

中村王子跡の看板から、南に向いて行くと紀ノ川の土手に出る。
土手の下には紀ノ川の渡しの説明板がある。

往事はここに渡しがあり、たくさんの人々の行き来を見守ったであろう。
現在は、土手を登り、右に曲がって川辺橋に迂回して渡る。

川辺橋は県下最長の橋のようだ、長さ755.5m。

橋を渡った土手に建つ道標。

布施屋の渡し場址
現在の国道は川辺橋を渡るが、徒歩で旅をしていた時代は船に頼らざるを得なかった。

渡し場跡を示す高札
昭和30年代まで渡し場が使われてきたことが書かれていた。

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熊野御幸記を歩く④和泉橋本~山中渓入り口

熊野御幸記も今回で4回目です、前回の反省から今回はカメラを一回り小さくしました。

泉大津パーキングエリアでとりあえずトイレ休憩。

今日のスタート地点、JR和泉橋本駅。

前回はこの交差点まで歩きました。

南近義(みなみこぎ)神社
旧称は丹生神社・天野明神社という。
古く近木庄は高野山麓にある丹生明神社領であったという。

旧村社で罔象女神(みつはのめのかみ)(水神)・誉田別命・蛭子命・大国主命など9柱を祀っている。

神社は、少し荒れてはいるが静かな森の中にあり、鎮守の社として昔を今に伝えている。

この辺りは立派な家が多い。

眼の前をダンジリが走り去る、ちょうど秋の祭礼の時期だ。

奈加美神社
泉佐野市中庄にあり、創建時代は不明ですが、平安時代初期と考えられています。
旧の社名を大宮神社といい、この地域の中心の神社でした。

新しい名前の由来は中庄の「な」上瓦屋の「か」湊の「み」を取り3町合同の願いをこめて名づけられたそうです。
本殿は華麗な彩色の三間社流造で府の指定文化財です。

ススキの穂が爽やかです。

和歌山貝塚線を南西方向に進み、佐野川を越えると泉佐野市に入る。
バス停田出を越えて200m程行くと右に折れる道がある。

それを少し進むと佐野王子跡の石碑が立っている。
いかにも王子跡らしいが、実際の所判っておらず、推定地に建てたに過ぎない。

佐野王子跡近くの熊野古道碑。

古い道標です、「すぐ和歌山道」と詠めます。
「すぐ」の表示は、「すぐに」という意味ではなく「真っ直ぐに」という意味です。
また、直進でない「道なり」に進む場合も「すぐ」で表現することがある。

この辺りも立派なおうちが続く。

南の池公園で昼食です。

遠く紀泉高原の山並みが美しい、この辺りは既に刈り入れも済んでいます。

このまま真っ直ぐ歩くと長南中学校の建物が見えてきますが、その手前の駐車場の角に、「安松八丁畷の石地蔵」があります。

このお地蔵様、特に熊野古道と関わりがあるわけではないのですが、台石には天平十八年(1363年)の年号が刻まれているそうで…
ほぼ650年前から鎮座しておられると思われるお地蔵様なのです。

当然、熊野詣の人々の道行も見守っていたものと思われます。

塙(ばん)団右衛門直之の五輪塔

信長に仕えていた。
普段はおとなしい性格だが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖があり重用されていなかった。

秀吉にも仕えたが羽柴家でも重用されなかった。
後に加藤嘉明の家臣として仕え、鉄砲大将として活躍した。

朝鮮出兵にも参加して活躍し、350石の知行を与えられた。
しかし関ヶ原の戦いのとき、軍令違反により嘉明と対立し、そのもとを去った(城門に恨みの漢詩を貼り付けて去ったとも言われている)。

その後、諸将に仕えたが、いずれも旧主の嘉明による邪魔が入って長続きせず、一時期は仏門に入っていた。

大阪冬の陣に豊臣方として参加して活躍したが、翌年の大坂夏の陣で浅野の軍勢と戦って戦死した。(このときの旗印に「塙団右衛門」と書いて自身の名を天下に知らしめた)

籾井王子はイズミモータースの奥、個人の住宅の庭にあります。

古い雰囲気をのこした街道沿いに塙団右衛門の墓少し進んで淡輪六郎兵衛の墓がある。 

慶長20年(1615)4月、大坂夏の陣の樫井合戦で豊臣方の先鋒隊を率いて、紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく泉州に進んだ、塙団衛門、淡輪六郎兵衛は4月29日早朝、熊野街道を南下し待ち構える浅野軍に突入した。

激戦が展開されたが大坂方は敗れこの地で討ち死にした、団衛門は時に48歳という、両者の縁者が墓を建てて弔っている。

街道を進むと明治大橋の手前に樫井古戦場跡の碑が。

史跡海会寺(かいえじ)跡
白鳳時代(約1350年前)に建てられた古代寺院「海会寺」跡とその建立を行なったとされる豪族の住居跡が完全な姿で発見され、国史跡の指定をうけています。

講堂跡の柱跡。

7世紀中頃から後半(白鳳時代の約1350年前)に建てられた、古代寺院の「海会寺」はとても保存状態が良く、これまでの発掘調査により、金堂 ・ 塔 ・ 講堂 ・ 回廊 ・ 南門 ・築地等の主要な伽藍が発見され、その伽藍配置は法隆寺式の伽藍配置であることが判明している。

回廊の柱跡、一段高い部分は五重の塔の築地。

豪族の屋敷跡。

畦道にはマンジュシャゲが咲いている。

厩戸王子

籾井王子から紀州街道旧道を西に1.5kmほど進み、海営宮池という池の近くの交差点を北に向かう脇道に入ったところに墓地があり、その北側に石碑と説明板がある。

信達宿本陣。
中世より熊野詣の宿駅として栄え、江戸時代には紀州徳川家の参勤交代の街道となり、本陣、旅籠など設けられたとの説明板があった。

信達市場の熊野古道碑。

信達宿の野田藤。

和泉砂川駅から熊野街道に出るとすぐ明王山往生院があります。… 3院6坊を擁する大寺院でしたが、信長の根来攻め時、明王山往生院と共に堂塔が焼失し、現在の諸堂宇は江戸時代に入って建立されたものです。

道路へ埋め込まれているプレート。

信達一ノ瀬王子跡は、往生院から少し歩いたところにあり、馬頭観音を祀っている。
境内はあっさりしている。

また、周辺はブロック塀に囲われているが、どうも味気ない。
うっかりすると見過ごしてしまう。

境内には説明板もないので、ここが歴史街道の王子跡ということも忘れ去られてしまうのではなかろうか?

このあたりの坂道は、定家の『熊野御幸記』によると、建仁元年(1201年)10月8日に、「天晴る 払暁道に出でて 信達一ノ瀬の王子に参ず 又坂の中において祓 次で地蔵堂の王子に参ず 次でウハ目の王子に参ず」とある。

私たちは、この坂道を直進せず、「左あたご道」と道標にある林昌寺に向かった。

林昌寺  
天平年間行基菩薩によって開創された泉南の古刹です。

この地の水が鉱質に富むところから、山号を温泉山としたが、平安の後期に堀河天皇が当山に行幸の折、山つつじが見事なことから躑躅山と改められました。

織田信長の南逆征討の時に、3院6坊はことごとく焼失したが江戸時代初期から中期にかけて再建され現在に至っています。
美しく手入れされた庭園では、山号にもなっている躑躅が毎年五月ごろ色づきはじめます。

永禄8年2月28日長崎温泉(雲仙)山の修験僧祐海上人が、この地の海岸から不動明王の縁日である28日に渡海したという。
そのくだりは、山門の脇に建つ「補陀洛渡海碑」に記録されている。

薬師堂

山上へと続く参道、行ってみたいが体力も限界だ。

地蔵堂

山門を辞す。

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熊野御幸記を歩く③信太山~和泉橋本

いよいよこのシリーズも三回目、炎天下の7月21日、はじめから嫌な予感が。

今日のスタートは、放光池池公園、前回の終点、平松皇子のそば。

公園の側に「放光池石燈篭」があり、昔、船の航路案内をしていたいう。

公園を出て進路を南にとる。

ここは和泉市伯太町。

陸上自衛隊 信太山駐屯地。

自衛隊信太山駐屯地前に「小栗街道」道標があり、右に進む。

陸上自衛隊信太山駐屯地前からの古道は風情が楽しめる。

伯太高校前に熊野街道碑があり。

泉井上神社
境内に「和泉」という国名の元になった「泉」がわき出している井戸があります。
和泉国庁の近くにあるので、和泉の「総社」なっています。

「総社」というのは「この神社に参拝すれば、国中の神社全部を参拝したことになる」といわれる神社です。

都から赴任してくる国司の便宜を図るために国庁の近くにある神社が「総社」とされました。

井ノ口町、柳田橋手前に井ノ口王子跡がある。

久米田寺は奈良時代に僧行基が開鑿した久米田池を管理するために建立されたという伝説を持った寺院です。

戦乱で何度か荒廃して、その都度再建され、現在の建物は寺の所有になっていた古墳群を岸和田市に売って、新しく再建されたものです。

久米田池
大阪府で最大の面積を持つ池で、農業用水として水田をうるおすとともに風致地区に指定されるほどの美しい景観を景観を持つ池です。

久米田池の築造は奈良時代に遡ります。
僧行基が干ばつに悩む農民を救うために、橘諸兄の協力を得て築造したと言われていいます。

実はこの辺りから体調に異変が、頭がボーッとして足がふらつきます。
後で考えたらどうやら軽い熱中症にかかったようです。

久米田寺の裏へ出ると大きな前方後円墳がある。

橘諸兄(たちばなのもろえ)の墓と言われていますが、これは5世頃に築造された古墳で、橘諸兄は8世紀の人だから時代が合いません。

この付近には15基余りの円墳がありますが、すべて岸和田市が買収して「古墳公園」として整備されました。
付近は住宅や学校になっています。

積川(つみかわ)神社の鳥居
この鳥居は熊野古道に面しているので、街道を歩く人たちは、ここから2キロほど東にある積川神社を遙拝しました。

鳥居には白河天皇の宸筆で「正一位 積川大明神」と書かれた額(複製品)が掲げられています。

この辺りの地名も「額原町」といいます。

恋の淵
何故か、この辺りに和泉式部に関する伝説が多く残っています。

彼女は素敵な男性に会うと「恋の淵」で顔を洗い、恋心を燃やして男を追いかけ、やがて熱が冷めてくると、この近くにある「恋いざめの淵」で顔を洗って恋心を冷ました、という伝説が残っています。

そのまま歩いて右へ曲がり、さらに家の間を右へ入った所に「恋ざめの淵」の標識があります。

30号線で東貝塚駅を過ぎて次の交差点である半田北の交差点を左に入り、道なりに行くと半田一里塚がある。
熊野街道の一里塚の一つで原型がよく残っている。

もう頭の中は限界です。
恥じも外聞もなくリタイアを申し出たのですが、「このあたりに駅はありません、終点まで歩くしかありません」
冷たい鬼のような言葉が突き刺さります。

最後の気力を振り絞って橋を渡ります。

福永橋を渡ると長谷川ノ坂の上りとなります。

近木川を渡った古道は長谷川の坂へ差し掛かる。
江戸末期に疳医者として有名な長谷川屋敷があった事から坂の名がある。

きれいな坂道の古道、しかし、シャッターを押す気力はもうありません、この先はもう今日の終点JR和泉橋本駅だ。

夢遊病者のようにふらふらと駅を目指す。

帰りの電車の中で何人もの人から何度も止めようと思ったと聞いた、そうか皆しんどかったんだ。

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熊野御幸記を歩く②住吉大社~信太山

熊野御幸記を歩く第二回、今回は住吉大社~信太山まで20㎞だ。

津守王子跡
津守王子跡としては2ヶ所が考えられる。

※津守廃寺跡--住吉区墨江4丁目付近
一般には、『津守王子』は墨江小学校付近にあったとされ、小学校正門横の植え込みに立つ「津守廃寺跡」の石碑が王子跡を示すというが、石碑の説明には津守王子についての言及はなく、真偽不明。

津守廃寺は資料がなく詳細不明だが、昭和15年の道路拡張工事と区画整理の際の発掘調査で、白鳳期の瓦などが出土したことから、この辺りに古代豪族・津守氏にからむ寺院があったと推定され、津守廃寺と名づけられた。

明治初年頃まで、その後身といわれる“津守寺”(901創建)が当小学校の地にあったことから、当地が津守廃寺跡とされている。

※住吉大社末社・新宮社--住吉区住吉2丁目付近
住吉大社の本殿東に末社数祠が並び、その端に『新宮社』(王子社との立て札あり)との小祠があり、説明には「熊野新宮に本社あり、熊野王子の一社と伝う」とある。

祭神はイザナギ尊・コトサカノオ命・ハヤタマ命で、いずれも熊野に祀られている神々である。
 
本来の住吉大神は海の神・航海の神だが、平安時代には何故か和歌の神として朝野の信仰を受け、熊野詣の上皇方は、ここに参詣して和歌を奉るのを恒例としていたという。

そんなことから、津守王子は当社内あるいはこの付近にあったのかもしれない。

この辺りは石碑が多く建つ。

路面に埋め込みの碑。

熊野詣は、苦しければ苦しいほど来世の御利益が約束される非常に困難な旅であった。
二流貴族である定家が不平不満を抱きながら後鳥羽院に同行した折の記録からは定家の人間的側面がよく見えてくる。

いつの世も「下流」は哀しい。
「百人一首」の歌人、藤原定家も、下級貴族の不満と呻吟と呪詛を綿々と56年間も綴った日記「明月記」を残した。

現代の下っ端役人なみに、揉み手すり手で猟官に励み、その俗っぽく滑稽なさもしさは、中世の奇観と言えよう。

「熊野御幸記」はその「明月記」からの抜抄である。
建仁元年(1201年)、後鳥羽上皇の熊野詣に定家が供奉した際の記録で、珍しや定家の直筆本ゆえに国宝に指定されている。

このあたり、おりおの。

明治時代中ごろの地図には現在の「遠里小野橋」(おりおのばし) はなく、 「大和橋」しかありません。
明治時代の熊野古道は大和橋まで戻って、そこからまっすぐ 堺に入っています。

しかし地図をよく見ると遠里小野のあたりで、点々で記述されたような 道らしきものがまっすぐ大和川を横断しています。

大和川は江戸時代に現在の位置に人為的に付け替えられています。
もともと上町台地の東側の河内湖に流入して、淀川と合流していました。

そのため、熊野街道はこのあたりでは大きな川を渡る必要がありませんでした。

のんびりと釣りを楽しむ。

境王子は現在の大阪府堺市堺区北田出井町付近にあったと推定されている。
この地域は、摂津国、河内国、和泉国の境があった場所で、境王子の名はこれに由来する。

また、「堺」(「境」の別表記)という地名も境王子が置かれた平安時代後期から歴史文献に登場するようになり(1081年(永保元年)の『藤原為房卿記』には境王子が「和泉堺之小堂」という名称で登場し、これが「堺」という地名の初出である)、境王子がその由来となったと考えられている。

旧向泉寺閼伽井碑文
第四十五代聖武天皇は深く佛教に帰依せられ、高僧行基に命じて天平年中にこの地に勅願寺院を建立された。

行基はまず閼伽井を得んとして一泉を掘りこれに向って金堂その他諸堂宇を建て多くの学僧を擁した大寺院であった。

この地は攝津、河内、和泉、三ケ國の界に位置していたので三國山遍照光院と号し、堂宇が泉に向っているところから向泉寺と名づけ、またこの寺が和泉の國に向っていたので、向泉寺と称したともいわれる。

この水は閼伽井の他王子、方違、東原天王の三社の祭祀用水に用い、また諸病に霊験あり、用うればたちまち平癒いわれたが永正年中に寺は兵火にあい市中に移って後は用いる人も次第に少なくなり遂に享保年間に廃寺となった。

寺名の由来ともなったこの井戸は堺市にとって歴史上意義深い史跡である。
            昭和四十二年六月十七日
                              堺市教育委員会
                            榎土地区画整理組合

竹内街道
方違神社を南下した街道は三国ヶ丘高校の脇を通り竹之内街道と合流しました。
大仙稜の北に当たるこの辺りは西高野街道もあり古街道の合流地点だったのでしょう。

堺市内の熊野古道はよくわかっていません、したがって看板の表記のように熊野街道とせず、「熊野へ続く道」と苦肉の策。

堺東の西南2KMの地点に阪堺線の御陵前の駅がある。
このから海側に紀州街道、東側を小栗街道がそれぞれ南へ分岐している。

小栗街道は穢多道と言い、癩病(ハンセンシ病)患者などが通り、都の貴族はより東側の熊野古道を利用したと言われている。

小栗街道は国道26号線を越えて南下し、大鳥大社の東側に出る。

土居川 
やがて御陵通りを西に進んだ街道は旧堺市街に入ります。
堺いは中世に栄え環濠を持った自治都市であった。

環濠は今では埋め立てられて痕跡が有りませんが、南宗寺南側の土居川は環濠の跡と言われています。

水の循環が悪く、川は異臭を放つ、何とかならないものか。
付近の人は良く平気で暮らせるものだ。

南宗寺の南西に山ノ口橋がありそこから堺市の熊野古道が始まる。

橋の欄干には熊野詣の絵が掲げられる。

石津神社
社伝では、八重事代主神が五色の石を携えてこの地に降臨したとしており、そこから石津の地名ができたという。

孝昭天皇7年8月10日に勅願により創建され、垂仁天皇の時代に天穂日命の子孫である野見宿禰を神主としたとしている。

大島郡の式内社石津太神社一座とあり、当社と石津太神社とが論社として、定まっていない。『泉州志』は在下石津村とし、当社を記載していない。
『大日本地名辞書』では逆に当社を式内として、下石津を記していない。

石津村が上下に分離した際、一方に本社、もう一方にお旅所などがあったのを、それぞれ氏神とした事によるのかも知れない。

この辺りまで来るとはっきりと「熊野古道」と表記されている。

大鳥大社の御祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と大鳥連祖神(オオトリムラジノミオヤノカミ)を祭っている、とあります。 

社伝によると、日本武尊(景行天皇第二皇子)は東夷征伐の帰り道、伊勢でお亡くなりになったが白鳥に姿を変え、最後に来られたのがここだといいます。

等乃伎神社
巨木伝説があり、先史からの樹霊信仰と弥生時代の太陽信仰の聖地であったとされる。

聖神社の神域はかつては信太の森と呼ばれた。
安倍晴明の母、葛の葉の伝説で知られます。

ー泉井上神社の境内に湧く「和泉清水」が和泉の国名の元となったという。

篠田王子跡

『熊野御幸記』のよると定家らは、

 「まづ松の下にて御禊あり 宗行御使となり シノタの明神に参ず」

とある。
この王子跡も注意しないと見落としてしまう。

平松王子は九十九王子の10番目で現存していない。
石碑が大阪府和泉市幸町3の放光池1号公園前に立っている。
和泉市伯太町5-22の伯太神社に合祀されている。

和泉市幸町、幸第二団地に平松王子跡の石碑と後鳥羽院の歌碑「平松は また雲深く立ちにけり 明けゆく鐘は なにはわたりに」。
この歌は正治2年(1200年)の平松御所での和歌会で詠まれたもの。

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熊野御幸記を歩く①八軒屋浜~住吉大社

実は熊野古道大阪編は5月5日に第一回が始まったのですが、どうも歩き通す自信がなく、ブログを書き渋っていました。
先日第4回まで65㎞を何とか歩き通せたので何とかなるんじゃないかと掲載を始めた次第です。

熊野詣は城南宮(鳥羽離宮)を出立、舟で淀川を下り、ここ八軒屋浜に上陸、ここから陸路熊野を目指すことになります。
熊野古道というとどうも中辺路辺りがクローズアップされますが、どうせ歩くなら始発の八軒屋浜から歩きたいもの。

この日はあいにくの雨でした。

鳥羽離宮のことは「鳥羽離宮跡とその界隈」 にまとめてありますのでどうぞ。

熊野御幸前には陰陽師のト占により御精進、御進発の日が定められまず5日から1週間程の御精進は上皇はじめ随従する人々が魚、肉、葱、韮などを絶ってこもり鳥羽の離宮で院政を執っていたので、ここの御殿を精進屋に当てここから往復一月にも及ぶ信心の旅に出掛けたのです。

別の日に撮影した現在の八軒屋浜。

この旅は歌人藤原定家の熊野御幸記を辿る旅です。
40歳の定家にこの辺境は初めての地だった。
22歳の後鳥羽院はすでに3回、熊野に通っている。

定家は足に自信がない。
それでも同行したのは、院政実力者の内大臣、源通親が熊野に随従するため、なんとか取り入って権少将から中将に官位をあげてもらおうと切望したからだった。

熊野御幸記は現在入手できませんが、神坂次郎の歌人藤原定家の熊野御幸記が入手可能です。

三十石船は八軒家と京・伏見の間、十一里余(約四五㎞)を上り一日、下り半日で運航し、江戸時代を通して 貨客輸送の中心を占めた。

大阪天満橋にある永田屋昆布本店に八軒家船着場の石碑が建つ。

永田屋昆布本店さんで頂いた冊子は、かなりのスグレモノというか、ほとんど八軒家浜(八軒屋浜)を語り尽くしているのではないか、と思えてくるほど素晴らしいものです。
忘れずにいただいていきましょう。

御祓筋へ入る角に熊野街道の碑が立っている。

歌人藤原定家の苦難の熊野詣紀行、22日間にわたる苦行の始まりです。
実は私の苦行の始まりでもあります。

窪津王子(くぼつおうじ)は、熊野九十九王子の1番目。
八軒家船着場のすぐ近く、大阪府大阪市中央区天満橋付近にあった。

現在その跡には坐摩神社行宮が建っている。
また大阪市天王寺区堀越町の堀越神社の摂社・「熊野第一王子社」に合祀されている。

坂口王子は中央区神崎町であるが、南大江公園の南西に狸坂大明神が鎮座、側に朝日神明宮旧跡の碑がある。
坂口王子はこの公園の南西の筋向かい「狸坂」の上り口の教会のある場所とも言われる。

この狸坂の道は残っていないが、坂の途中に鎮座していた狸坂大明神の祠が移転してきている。

朝日神明宮旧跡の碑。

また朝日神明宮旧跡の南に樹齢六百年と推定される榎があり、榎木大明神の神祠(正一位稲荷大明神また巳(みい)さんで白蛇を祀る)が置かれている。

当地を坂口王子時跡とされる有力な説がある。一里塚だとする説もある。
なお、この木は榎ではなく槐(えんじゅ)だそうだ。

長年に渡り地元の人達に「エノキさん」「巳さん」と親しみ呼ばれているこの大樹は、正しくは「槐(エンジュ)」という中国原産の樹である。
楠木正成公がお手植という説もあり、樹齢はおよそ六百五十年と言われる。

豊織の時代には当地も大坂城内で、この辺りは紀州熊野参りとお伊勢参りの街道筋だった。
だから大きくそびえるこの樹は、何よりの目印になったし、また地元の人達は土地神として「白蛇大明神」の祠を建てて代々この樹をお守りしてきた。

榎木大明神。

四天王寺南大門、熊野詣でにはまずこの場所にて熊野権現を礼拝し、道中の安全を祈り熊野古道を南に向かった。

熊野権現礼拝石の説明。

四天王寺の熊野権現礼拝石。
その昔、聖地熊野を目指した人々が、この礼拝石の上に立って手を合わせたと伝えられます。

彼方に鎮まる熊野権現に向かって手を合わせ、道中の安全を祈願したといわれます。
平らな石の表面は、人が上に立つには都合が良さそうです。

昔の旅は今とは比べものにならないほど過酷でした。
そのため、熊野権現礼拝石で祈願した後、熊野権現への道中で力尽きた人も多かったのではないでしょうか。

四天王寺は聖徳太子が建立した日本最古の官寺。
いくつかの門の中でも“西大門”は彼岸の中日、大阪湾に沈む夕陽が丁度、門の向こうに見えるため、西方極楽浄土を願う庶民の信仰を集めた。

この門は別名、極楽門という。
鐘の音に耳を澄まし、雑念を追い払ってしばし合掌…。

関連記事:「四天王寺に有難い夕陽を拝む」

安倍晴明神社
阿倍王子神社の飛び地とされる。

祭神は安倍晴明。
境域は余り広くはないが、当神社は、「晴明宮御社伝書」によれば平安朝時代の寛弘4年(1007年)、第66代一条天皇の創建とされている。
関連記事:陰陽師・安倍晴明の神秘は不滅

阿倍王子神社
「阿倍王子権現縁起」によれば、仁徳天皇のご創建と伝えられ、また一説には、往古この地を本拠とした阿倍氏の創建ともいわれています。

平安朝の時代より世をあげて熊野詣が盛んになると、熊野九十九王子社第二王子社として、阿倍野王子等と称せられ、たいへん賑っていた。

府下、唯一の旧地現存の王子社としても貴重な存在。

万代池
街道は池の西端に沿っている。

上町台地の浸食谷をせき止めてつくられた池と思われます。
明治の終りころまで、潅漑池として利用されていました。

昔は付近に人家はほとんどなく、魔物が住むと恐れられていましたが、聖徳太子が曼陀羅経をあげてしずめたことから「まんだら池」がなまったものと伝えられています。

第一回はここ住吉大社までです。
藤原定家の熊野御幸記によると歌会が行われたと。

あひおひの ひさしき色も 常磐にて
  君が代まもる 住吉の松

等、三首が載せられている。

「御幸記」の定家はいじましい。
一行に先駆けて船や昼食、宿所を設営する役――現代でいえば「ロジ(スティクス)役」に励む。

席を温める暇もなく暁暗に起き出し、輿に乗ったり馬を馳せたり、御幸の先触れや途中の王子社での御経供養や奉幣と走りまわる。

夜は後鳥羽院のお召しで歌会の講師役、へとへとで詠んだ歌に「霜の心すでにもって髣髴(おぼろおぼろ)たり、卒爾の間、力及ばず」と傍書するほどだ。

やっと解放されて寝るのは「三間の萱葺屋で板敷無し」、窮屈平臥を強いられる。
ついに寝坊して白拍子の舞いを見損ねた。

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