1200体の羅漢 愛宕念仏寺

境内の1200体もの羅漢さんは、寺の復興を祈念して昭和54年から10年間、1200人の一般の参拝者自身の手によって彫られた。

愛宕山参道は古い家並みも残り風情のある景観が楽しめる。

一の鳥居と平野屋、目的地まであと少し。

愛宕念仏寺は嵯峨野では一番奥に位置するので嵯峨野めぐりの始発点として訪れるのがいい。

愛宕念仏寺付近の観光名所
化野念仏寺(800m ⇒ 徒歩10分)
鳥居本八幡宮(1.2km ⇒ 徒歩16分)
祇王寺(1.5km ⇒ 徒歩20分)
滝口寺(1.5km ⇒ 徒歩20分)
二尊院(1.4km ⇒ 徒歩18分)
宝筐院(1.8km ⇒ 徒歩21分)
清凉寺(1.9km ⇒ 徒歩23分)
大覚寺(2.2km ⇒ 徒歩26分)
直指庵(2.6km ⇒ 徒歩34分)

※距離、時間はおおよその目安。

8世紀中頃、称徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建。
平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたらしい。

すでに荒れ寺となっていた上に、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失。

廃寺同然を、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。
千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗に属した。

この際いったんは七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えたが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。

1922年それらを移築して現在地での復興を目指すが失敗。
あまりの荒れように、1955年に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝も、引き受けるのをためらったという。

それを清水寺貫主・大西良慶の「それだけ傷んでおれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、おまえは復興者、復興者やといってもらえる。

わしも手伝ってやるから」(※)の激励で復興に取りかかった。

以来、仏師として全国を飛び回る傍ら、本堂、地蔵堂、仁王門などを整備した。

素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』が始まったのは、1981年。

当初は五百体が目標だったが、10年後には千二百体に達した(※西村公朝『仏像は語る』新潮社、1993年8刷、212頁)

苔がいい感じです、表情に癒されます。

多宝塔と1200羅漢。

本堂前にあるふれ愛観音堂に入ると、堂内にふくよかなふれ愛観音像が安置されています。

手垢で黒光りしている部位は皆さん共通に悩みを抱えている部位かな。

一体一体がとても個性的、カラオケでもやっているのかな。

一つとして同じ羅漢さんはなく、訪れる人々を和ませてくれます。

ほのぼのとさせてくれる素朴な羅漢。

草に埋もれて眠りたい。

帰路、チャノキを見つけた。

チャノキ(茶の木、学名:Camellia sinensis)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。

花は10-12月初旬ごろに咲く。
そのため「茶の花」は日本においては初冬(立冬〔11月8日ごろ〕から大雪の前日〔12月7日ごろ〕)の季語とされる。

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愛宕念仏寺へのアクセス、行き方歩き方

愛宕念仏寺公式サイト

京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5
電話 075-865-1231

阪急嵐山線 嵐山駅から嵐電嵐山駅経由の京都バス清滝行で18分、「愛宕寺前」下車すぐ
JR京都線 京都駅から京都バス72番清滝行で60分、「愛宕寺前」下車すぐ

弥勒谷十三仏


柳谷参詣道から、古刹「乗願寺」への岐れ道角に苔むした石仏がある。

弥勒谷十三仏と言われるもので、岩壁に不動明王・大日如来・地蔵菩薩など13体の仏様が安置されています。

十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、江戸時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる13の仏(正確には仏陀と菩薩)。

また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられる。

死亡した時を1日目として数え、初七日は命日から7日目(6日後)。
他の日数・年数も(一周忌以外は)全て同様。(関西地方では、死亡した日の前日から数えることもある)

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石位寺 最古の石彫り三尊仏


大宇陀に向かう166号線は、外鎌(とがま)山と鳥見山に挟まれた峡谷に入って行く。
峡谷の入口から外鎌山の西麓を粟原川に沿って続いている集落がある。

桜井市大字忍阪である。この集落の中に、我が国の最古の石仏を安置していることで知られる石位寺がある。

収蔵庫に安置されている本尊は、白鳳時代に製作された薬師三尊であると伝えられている。
我が国に現存する最も古い石彫りの三尊仏で、国の重要文化財に指定されている。

三尊を刻んだ石版の大きさは、高さ1.15m、幅1.5m、底辺1.21m、厚さ約0.2mで、丸みをおびた砂岩製である。

石仏の願主は万葉歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)だったとの伝承がある。
額田王の念持仏として作られ、もとは栗原寺(おおばらでら)にあったが、栗原川の氾濫で流されてきたというのだ。

栗原寺は、和銅8年(715)に比売朝臣額田(ひめあそんぬかた)によって川上の粟原集落に建立された寺だが、比売朝臣額田が額田王であるとする言い伝えが古くからある。

造型は、長谷寺の銅盤法華説相図中の三尊物とよく似ているという。

三尊とも薄い法衣を通して内部の肉体の起伏がよく現れており、布の質感も巧みに描かれています。
彩色されていたらしく、その痕跡が像の唇と着衣にわずかに残る美しい石仏です。

川端康成が 晩年 この石仏を一見しほのぼのとした暖かいものがある 美少女といった感じでもあろうかと言ったという。

≪南東部石碑群≫
4基の石碑は、右から3基は「西国三十三所巡礼供養碑」
 
西国三十三所観音霊場を供養した記念碑的要素が強いもの。

右より戦国末~江戸前期のもので法名を刻み、二つ目は江戸時代初期・正保4年(1647)で物故者供養、三つ目は寛文4年(1664)で俗名で構成されたもの。

これらの石碑は、もともと境内の北西隅にあったもので、昭和53年の建て直し時に移設されたもの。
 
左端の石碑は、庚申講衆碑で、大型ですが浅い梵字の形状、半肉彫りですが形骸化した蓮弁などから16世紀後半頃の戦国末から江戸前期のももと推定できます
 
これは昭和28年の国道165号線開通による現・庚申堂の移転に伴い、移設されたもの。

人家の屋根越しに舒明天皇押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)が見える。

粟原川(忍坂川)の谷には非蘇我系皇族の忍坂王家の人々の墳墓と思われる古墳が数多く存在する。

被葬者別に 並べると、大伴皇女墓、段の塚古墳(舒明天皇陵)。鏡王女墓の三陵墓(但し鏡王女墓は現在は指定外)があり段の塚古墳は舒明天皇と、母の田村皇女の合葬の為4人の皇族が葬られています。

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石位寺へのアクセス、行き方歩き方

桜井市忍阪870
予約必要(予約先 桜井市役所観光まちづくり課 電話0744-42-9111)

JR・近鉄桜井駅南口から菟田町行きバス、「忍阪」バス停下車、徒歩2分

高取城の護り五百羅漢

西国三十三所巡礼の札所であり、眼病封じのお寺としても知られる『壷阪寺』。

本堂から1キロ余、山径を東へ廻ると高取山の山中、高香山に奥ノ院がある。
堂字は残されていないが、五百羅漢両界曼荼羅の石仏像があり幽玄な趣が漂っている。

この山道は大淀古道の呼ばれる旧道ですが、かつての生活道路も、今はたまにこの地を訪れるハイカーしか利用しなくなると、けもの道かとも思えるほどの大悪路となっている。

倒木が残されたままの所が何か所もあり、ハイカーのために設けられた階段が深くえぐられている所も多く残ってしまった。

こうした仏さまは、山中の20ヶ所くらいにも及ぶというのですから、全部で何体あるのか想像もつきません。
周遊コースのようになっていますので、ぜひ歩いて色んな仏さまにお会いしてみてください。

画像はお地蔵さんで新しいものです。

この五百羅漢岩がいつ頃のものかは確かな記録は遺されていないようです。
16世紀末ごろ、豊臣家の重臣・本田利久が高取城を築城した際に、石工たちに命じて掘らせたという説が有力とされているとか

また、その周辺の岩に三尊像・五社大神・来迎如来・施無畏像・護法大黒など、たくさんの磨崖仏が刻まれています。

過去の高取町の訪問記は下記です。

土佐街道 高取町の町を散策
高取町の「土佐」は飛鳥時代、都造営のために連れて来られた土佐(現在の高知県)の人 … 続きを読む →

日本最大の山城 高取城
「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた高取城。 日本国内では最 … 続きを読む→

苔むす石垣に名城の面影を偲ぶ 高取城
高取城は別名、芙蓉城ともいわれ近世山城の典型としてよく知られ、巽高取雪かと見れば … 続きを読む→

お里沢一の霊蹟 壺阪寺
本尊十一面観音は眼病に霊験があるといわれ、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃 … 続きを読む→

高取・土佐街道 「町家の雛めぐり」
2007年から、始まった「町家の雛めぐり」は、今回で8回目。 100カ所の会場で … 続きを読む→

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壺阪寺へのアクセス、行き方歩き方

壺阪寺公式サイト

近鉄吉野線「壷阪山」駅下車。
駅前から、奈良交通バス「壺阪寺前」行きに乗車し、終点の「壺阪寺前」で下車する。
バス乗車時間約15分。
12月~2月の冬期期間のバス運行頻度は極端に少ないので、この期間中、路線バスは事実上利用できないと考えた方がよい。

石畳の旧柳生街道「滝坂ノ道」を歩く

奈良から春日山を越えて、忍辱山(にんにくせん)円成寺を通り西から柳生へ至る、通常「旧柳生街道」と言われている道の途中が「滝坂ノ道」で、風流な石畳の道だが少ししんどい山道だった。

日曜日の奈良公園は家族連れも多く子供たちが鹿と戯れる姿が見受けられた。

白乳(しらち)神社、春日大社の摂社で、(婦人)の腰から上の病に、赤乳神社は腰から下の病にご利益があるという。

石畳道が木立の中に続く。

能登川(左)沿いの滝坂の石畳道を進む。

川霧が立ち込めるような場所もあり木立の道は涼しい。

寝仏、道ばたのなにげない石の裏側に大日如来が横に刻まれています。
近くの四方仏の一体が転がり落ちたといわれ、室町前期の作です。
(案内板より)

「夕日観音」の案内板がある場所から見えるのは二つの三体地蔵と地蔵菩薩磨崖仏。

その二つの石仏の更に高いところに来迎印の阿弥陀如来像はあります。
鎌倉中期の作で像高1.6m胸に卍があり来迎印を結んでいるそうですが定かではありません。

朝日観音、対岸の岸壁に彫られているのは朝日観音。

これは早朝高円山の頂からさしのぼる朝日につま先に照らされることから名付けられたもので、実際には観音ではなく中央は弥靭仏 左右は地蔵仏です。

この石窟には文永二年(1265)の銘があり、鎌倉時代の石彫の代表的なもので、この下の夕日観音と同じ作者と思われています。

大木の根がタコ足状に地面にはい出た三叉路。

谷川沿いのこの道は滝坂道と呼ばれ、江戸中期に奈良奉行によって敷かれた石畳の道は、昭和の初めまで柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背につけて下り、日用品を積んで帰っていくのに使われたものです。

荒木又右衛門が試し斬りしたと伝えられる首切地蔵です。
彫刻の手法から鎌倉時代の作と思われます。

休憩所の脇に滝坂道の案内板が建っています。

休憩所より1キロ強行くと峠の茶屋(石切峠)に着く。
石切峠の近くにある茶屋。

家のカモイには、古めかしい鉄砲や槍が掛けられ、武芸者が飲み代のカタにしたという。
神道無念流を図解した武芸帳もあります。

近くの誓多林(せたりん)や大慈仙(だいじせん)の集落の名は、インドの聖跡から付けられたといわれています。
(案内板より)

今回はここから引き返しますが来た道とは別の道を進む。
道は鎖場となっており鎖に掴まって通ります。

地獄谷聖人窟(石窟仏)、聖が住んでいたという伝承から「聖人窟」とも呼ばれています。
 
東大寺の大仏殿を造る石を切り出したあとの洞に線刻したものだと言う説もある。

史跡 地獄谷石窟仏(聖人窟)
1、年代 奈良時代後期(藤原時代)-推定
2.作者 未詳
3、 仏像
   凝灰岩層をくりぬいた石窟で側面に仏像が線彫されている。
   聖(ひじり)が住んでいたという伝説があり、聖人窟ともよばれる。
   向かって右側壁 妙見菩薩坐像
   奥壁右      十一面観音像
   中央        廬舎那仏
   左         薬師如来
弥勒仏は石仏で作られることから、中央廬舎那仏は弥勒仏という諸説がある。 
今も彩色が残っている。
          (近畿中国森林管理局 奈良森林管理事務所)


急な坂を下って、なおも行くと、奥山ドライブウエイの広い道に出ます。

「首切地蔵」の立っている直ぐ上が「地獄谷園地」です。
かなり高い所(標高366m)なのに「新池」があり、能登川の源流です。

先ほど上った石畳み道を奈良公園へと急ぐ。

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臼杵磨崖仏

臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)は、大分県臼杵市深田にある4群60余躯の磨崖仏。
一般には臼杵石仏(うすきせきぶつ)の名で知られている。

磨崖仏造営の時期や事情を証する史料は一切残っていない。

地元に伝わる「真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)」は、用明天皇が登場することから6世紀後半が舞台と考えられるが、この伝説では長者が亡くなった娘の菩提を弔うために磨崖仏を彫らせたという。

しかし、実際の磨崖仏は、仏像の様式などから大部分は平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定されている。

山岳仏教の衰退と共に忘れ去られてしまった磨崖仏は1000年の風雨に曝され続けることとなる。

元々阿蘇山からの火砕流が溶結した凝灰岩に掘られた石仏は脆く、また参拝者によって自然にできた道が大雨の際は川に変わり石仏を削り取った。

現在、多くの石仏の下半身が切り取られたように無くなっているのはそのためである。

劣悪な環境の中で仏頭の多くが剥落した。
中でも、最も有名な古園石仏群の大日如来像の仏頭は、1994年(平成6年)3月に保存修復が完了するまでの間、仏体下の台座に置かれたままであった。

修復にあたっては、元の姿に戻すべきという意見と、臼杵のシンボルともなっている像の姿を大きく変えることを憂慮する意見との間で激しい論争が起きたが、仏頭の元の位置への修復が国宝指定の条件として文部省(当時)から提示されたため、最終的に元の位置へ復元されることとなった。

鎌倉時代の上屋の礎石と伝えられている。

石仏が作り出された時代からあるということになる。

ホキ石仏第一群(堂ヶ迫石仏)は、4つの龕に分かれる。

第一龕と第二龕はともに如来坐像3躯を配し、第一龕はさらに脇侍菩薩立像2躯を配す。
第三龕は金剛界大日如来坐像を中心に、その左右に1躯ずつの如来坐像、さらに左右に1躯ずつの菩薩立像を配す。

第四龕は左脚を踏み下げて坐す地蔵菩薩像を中心に、その左右に十王像を配す。
以上のうち、第三・四龕は鎌倉時代の追刻とみられる。

他に、第一・二龕間に愛染明王坐像がある。

山王山石仏群は全3躯で、丈六の如来坐像を中心に、その左右に小さめの如来坐像1躯ずつを配する。

なかには掘りかけの石仏もある。

古園石仏群は全13躯で、金剛界大日如来坐像を中心に、その左右にそれぞれ如来像2躯、菩薩像2躯、明王像1躯、天部像1躯を配する。尊像構成の意図には諸説あり、金剛界曼荼羅を表したものとする説もある。

古園石仏群の大日如来像の仏頭は、1994年(平成6年)3月に保存修復が完了するまでの間、仏体下の台座に置かれたままであった。

駅前にはこの像が彫られた当初の姿を復元したレプリカが設置されている。
仏頭が再び体とつながったことで、参拝すると首がつながる、会社でリストラ(解雇)されないという俗説が生まれた。

山頭火は昭和四年に臼杵へ来ている。

十二月、九六位山から臼杵石仏へ向かった。
しぐれの時期に濡れながら山路を歩きに歩いて深田についた山頭火は、その後友人に当てた手紙にこう記している。

「秋風の送られて時雨に迎えられてここまで来ましたが、毎日の雨で詮方なしに『雨日聴雨受用不尽』などと呟いております。

仏陀の慈悲蔭いや深くして意外な供養を受けました」と。

また、「濡れ仏となって臼杵の石仏を拝観しました。
或は観賞し、礼拝しているうちに、すっかりうれしくなって、抱きつきたいやうな気分になりました。

そして豆腐で一杯やりました、こんなに親しみのある仏様、こんなにうまい酒がメッタにあるものではありません」と記し「しぐるるや石を刻んで仏となす」と詠っている。

山頭火は臼杵が気に入ったのか、八日間に及ぶ異例の長滞在であった。

この地で初めて黄色い彼岸花に出くわした、しかし、今回の度では結構行く先々でこの花に出くわす。
そう珍しい花でもなさそうだ。

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じゃらん 臼杵周辺の宿

臼杵磨崖仏へのアクセス、行き方歩き方

大分県臼杵市大字深田804-1
TEL:0972-65-3300 臼杵石仏事務所

JR日豊本線臼杵駅からJRバス野津方面行きで約20分、臼杵石仏バス停下車すぐ

厄除けまいり発祥の社 吉田神社

吉田神社は、859年に京都の守護神として、都の表鬼門に位置する吉田山に創建された。

通称「神楽岡」と呼ばれ、霊域として崇められていた。
御神徳《厄除開運、方除、良縁と女性に特別の得を授ける神として知られる》

藤原家は、都が大和(平城京:奈良)にあった時は都の東に春日神社を建て氏神を祀り、長岡京(京都府長岡京市)に遷都した時は近くにあった大原野神社に氏神を祀った。

そして、平安京では吉田神社 を建て奈良の春日神社の神を移しているのである。

神社に仕えた吉田家は、全国の神社の神職の任免権などを持ち、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。

「徒然草」の吉田兼好もその一門である。

今宮社・木瓜大明神(こうりだいみょうじん)の鎮座起源は不明らしい。

祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ)、大雷神、建速須佐之男命の三神。

牛頭(ごず)天王(建速須佐之男命)を木瓜大明神と称するのであるが、その木瓜大明神が御神祭にないのが不思議。

若宮社 (摂社)、祭神は天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)で、例祭は毎年4月18日。

水徳の神様で、後醍醐天皇の延元元年(1336)吉田兼熈(かねひろ)が社殿を造り奉祠した。

神鹿像、昭和32年(1957)、吉田神社御鎮座千百年記念事業の一つとして、境内の一角に鹿を遊ばせたが、鹿の増加と周辺地区への配慮から打ちきられた。

その後、昭和60年(1985)、神鹿として鋳造した。

日本の国歌でも出てくる「さざれ石」(学名:石灰質角礫岩)。

石灰石が長い年月、雨水で溶解され、粘着力の強い乳状液が小石を凝結し巨岩となり、苔むしたものをいう。

世を重ねるたびに益々盛んに繁栄する意味を象徴する、めでたい石である。
ここに置かれている石は、竹下内閣の時の「ふるさと創生」記念事業の一環として、岐阜県春日村から奉納されたもの。

吉田神社 大元宮の東側にある、山上へと続く遊歩道への南側入り口右手に「紅もゆる歌碑道」の道標がある。

山頂からは南側にある広場の一角に三角点があり、その近くに「紅萌ゆる丘の花」記念碑がある。

「紅萌ゆる丘の花」というのは、この山のすぐ近くにあった旧三高(現京都大学)の逍遥の歌であり、丘とは吉田山(神楽ヶ岡)のことを指している

菓祖神社、祭神は田道間守命、林浄因命のニ神を祀る。昭和32年(1957)、京都菓子業界の総意により創建。

兵庫県の中島神社、和歌山県の橘本神社、奈良県の林神社の祭神を鎮祭する。

境内を菓子業者の石柱が囲む。
例祭は、春は4月29日、秋は11月11日。

山蔭神社、祭神は藤原山蔭卿、相殿は恵比須神。
藤原山蔭卿は、吉田神社創建の大役を果たした人。

また、山蔭卿は、我が国においてあらゆる食物を調理、調味づけられた料理飲食の祖神で、四条流包丁道の元祖としても知られている。

昭和32年(1957)全国の料理関係者が創建に協賛。
例祭は毎年5月8日。生間流包丁式が厳粛に奉納される。

大元宮中門、斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)。
吉田神道の根本道場。

正式名称は「日本最上神祇斎場所日輪大神宮」という。
もと吉田家(卜部(うらべ)家)私邸にあったのを文明16年(1484)に吉田兼倶(かねとも)が移建し、今の斎場所大元宮と伝承された。

大元宮(国重要文化財)、斎場所大元宮の本殿で、平面八角形の社殿が特徴で、南向き亀腹の土台。

なぜ「八角」なのかはわからないが、文献では中国には古く(前2世紀頃)から八角形の宗教哲学が成立していることから、中国古代の宗教思想の影響を受けているものと推測出来る。

本殿(重要文化財) 慶長6年(1601)の建物で平面八角に六角の後方を付し、屋根は入母屋造、茅葺き、棟に千木をあげ、中央に露盤宝珠を置き、前後には勝男木をおく特殊な構造で、神仏習合・陰陽五行を統合した吉田神道の理想を形に表している

幽斎桜、細川幽斎は天正8年(1580)丹後に左遷され、吉田山より京都の風情を込めた桜木を移植しその心を慰めたといい、現在400年の爛漫と咲くしだれ桜に成長し、舞鶴市天然記念物として、丹後吉田の瑠璃寺にその威容を誇っている。

平成16年、吉田神社創建1050年を記念して、瑠璃寺より苗木を懇請し、里帰りを果たす。

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吉田神社への行き方歩き方

【住所】左京区吉田神楽岡町30
【電話番号】075-771-3788

京阪電車 出町柳駅下車 徒歩約15分
市バス 京大正門前下車 徒歩約5分

初春の当尾(とおの)の里 石仏めぐり

三寒四温というが今日は雨の予報で温かい、光線もきつくなく絶好の写真日和だ。
久し振りに当尾(とおの)の里に出かけた。

以前の記事は下記の通り。
当尾のあじさい寺 岩船寺

小田原山 浄瑠璃寺

「石仏の里」当尾(とうの)の仏像巡り

枝の雨粒が素敵です。

梅もほころぶ。

鎌倉中期の「十三重石塔」 重要文化財です。
初重軸部の四仏は梵字で表されている。

ご縁観音、特別古い石仏ではありません、姿に見とれてしまいました。

岩船寺から浄瑠璃寺までの約1.7㎞を歩きます。(下りで楽だから)
当尾には45体ほどの石仏がありますが、今回はそのうち20体ほどの石仏を巡る予定。

最初は一願不動(岩船不動明王立像)【弘安10(1287)】

ただ一つだけのお願いを、一心にお願いすれば、叶えてくださるという一願不動さん。
高さ1.2mほどで右手には剣を持ち憤怒の顔をされています。
(母親が子どもを叱るように、愚かな人間を叱っているそうです)

しばらく下りの道が続きますが、途中にはこのような巨岩がゴロゴロ。

下りきったら浄瑠璃寺へ向け平坦な道が続きます。
鼻歌の一つも出てきそうな雰囲気。

木津川市内東南部の加茂町当尾(とおの)地区は古来、南都仏教の影響を色濃く受け、世俗化した奈良仏教を厭う僧侶が穏遁の地として草庵を結び、念仏に専心したと伝えられています。

やがて草庵が寺院へと姿を変え、塔頭が並び「塔の尾根」ができ、いつしか「当尾」と呼ばれるようになったといわれる。

途中古い神社がありますがなぜか立ち入り禁止。
いい写真が撮れそうなんだけどなぁ、未練たらしくパチリ。

農家の庭先で漬物用の野菜を干しています。

散策コースの道中では旬の野菜や漬物が並ぶ吊り店(露店)など、四季折々の美しい山村の風景が楽しめます。

漬物1パック100円はおすすめ、何種類もあってとてもおいしいんです、土産には最高。

藪の中三尊磨崖仏【弘長2(1262)】

藪の中の岩に舟形の光背を彫りくぼめ、中央に地蔵と十一面観音、向かって左に阿弥陀を配する非常に珍しい配置の石仏です。

作者は橘派の橘安縄、1262年彫刻とあります。

そろそろ浄瑠璃寺、道端でかわいいモニュメントを見つけた。

土手には蕗の薹が、摘んで帰りたいのだが・・・・

浄瑠璃寺の手前で素敵なカフェを見つけた。

自家焙煎珈琲と手作りピザが自慢のお店です。
マスターが趣味で集めた9台の蓄音機。

蓄音機の生音って聞いたことがありますか?
電子音に馴らされてしまった耳にはとても優しく聞こえます、農作業の農婦の姿を眺めながら窓辺でついウトウト。

エジソン発明の蝋管レコードは、ざっと100年近く前にまで、作られていたレコード。
ロウに音楽が刻み込まれている。

100年前の音が聴けるんです。

こんな田舎で、道楽としか言いようのない店だか、生きてる喜びを感じる、当尾に来たらまた寄りたい店です。

浄瑠璃寺バス停200m北、「cafe瑠璃」

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当尾へのアクセス、行き方歩き方

JR奈良駅または近鉄奈良駅 から奈良交通バス加茂駅行きで約30分 浄瑠璃寺下車 徒歩3分
お得な「フリー乗車券」ををお忘れなく、片道570円が1日フリー切符500円。

浄瑠璃寺 – 岩船寺間を歩いて石仏を見学する場合は、岩船寺を先に訪問してから浄瑠璃寺へ向かうと、道が下りになります。
浄瑠璃寺前 ⇔ 岩船寺 コミュニティバス 約6分。

「石仏の里」当尾(とうの)の仏像巡り

先日岩船寺を訪れ当尾の石仏巡りがしてみたくなったのと、岩船寺のアジサイの咲き具合が今一だったので再訪した。

「石仏の里」と呼ばれる当尾(とうの)は、中世には修行のため数多くの寺院が建てられました。 
現在残る「岩船(がんせん)寺」と「浄瑠璃寺」の二寺の周辺には数多くの石仏や石塔が点在します。

鎌倉時代の名高い石工が彫った石仏と、岩船寺、浄瑠璃寺を参拝する「当尾の里」巡りです。

前回一週間前に訪問の当尾のあじさい寺 岩船寺も併せてご覧ください。

今回は文句なく満開です。
土曜日ということもあり、観光客も多く撮影に苦労。

ご縁観音。

「本堂」の南側の池の傍に「身代地蔵菩薩」がある。

この地蔵は土中から掘り出されたもので、罪深い衆生を仏道に導くために、成仏されることなく衆生の苦しみを自ら受けられる地蔵という。

ここで不愉快な出来事があった。
三脚を据えて撮影している最中にJR東海のツアーの面々があらわれ、ガイド嬢いわく「すみません、どいてください」

「なっ、なんと、人が何しているか見りゃわかるやろ」
と、言いたいところカメラマンのマナーの悪さが云々される昨今、言葉を飲み込んだ。

途端にツアー客がドッと人のカメラの前に・・・・
団体の横暴も許されまへんで。

ここは三脚禁止になっていませんでしたが、トラブル起こすと三脚禁止になりかねない、そうなると多くのカメラマンに迷惑がかかる、グッと我慢の子でした。

門前左側にひっそりと建つ石龕のお地蔵さまです。
南北朝時代。

これから浄瑠璃寺までの約1.7㎞の仏像巡りの出発です。

一願不動(岩船不動明王立像)【弘安10(1287)】

ただ一つだけのお願いを、一心にお願いすれば、叶えてくださるという一願不動さん。

高さ1.2mほどで右手には剣を持ち怒った顔をされています。
(母親が子どもを叱るように、愚かな人間を叱っているそうです)

仏像巡りの途中にはこんな岩が所々にあって、なかなか趣きのある径です。

わらい仏(岩船阿弥陀三尊磨崖仏)【永仁7(1299)】★京都府指定有形文化財

当尾の代表的な石仏の一つです。
蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀仏です。

永仁7年(1299)の銘文があり、上部の屋根石が廂となっているので、風蝕の影響も少なく保存状況は良好です。

特に夕陽の中にたたずむ、やさしい微笑みをたたえた姿は微笑ましいものがあります。
伊行末の子孫(と伝えられる)伊末行作。

この画像は傾きを修整しています。
上の画像の角度が正確です。

眠り仏(埋もれ地蔵)【南北朝】

わらい仏の向かって左脇に、半身を土のお布団にくるまれて心地よくすやすやと眠るお地蔵さまがいらっしゃいます。

眠りながらも右手には錫杖を持っておられます。
わらい仏と同じ伊派の石工行経(作)か?

このような説明が付けられていました。

日中でも涼しい木陰の径を進む。

少し開けたところへ出てきました、アジサイもきれいに咲いています。
ずっと奥の方まできれいな棚田が続いています。

カラスの壷【康永2(1343)】

古くから分岐点にあります。
岩の中央に15cmほどの穴が掘られた礎石が粉を挽く唐臼に似ていることから「からすの壷」と呼ばれます。

カラスの壷二尊(阿弥陀・地蔵磨崖仏)【康永2(1343)】

一つの岩に阿弥陀如来坐像と、面を変えて地蔵菩薩立像が彫られています。

阿弥陀仏の横に線彫灯籠は、火袋を彫り込み、そこへ燈明が供えられる珍しいものです。

あたご燈籠【江戸】

三叉路に建つ形式にとらわれない変わり燈籠で、愛宕神は火の神様(火伏せ)を司っています。

当尾ではお正月にここからおけら火を採り雑煮を炊く風習があったそうです。
同型の燈籠が、穴薬師の前と岩船の集落にもあります。

やぶの中三尊 十一面観音菩薩立像・地蔵菩薩立像・阿弥陀如来坐像

東小田原西谷浄土院 弘長二年(1262) 大工 橘安縄 小工 平貞末

正面に地蔵菩薩、向かって右に錫杖を持つ長谷型十一面観音。
左の岩には阿弥陀如来坐像。

銘文にある弘長二年は当尾の石仏にある年号銘中最古のもの。

左の岩の阿弥陀如来坐像。

近鉄「奈良駅」からは「急行バス浄瑠璃寺前」行きに乗車、通常片道570円のところ、一日フリー切符500円でした。
ラッキー。

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岩船寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43番地
電話:0774-76-3390

JR関西本線(大和路線)「加茂駅」から徒歩約1時間30分。
またはコミュニティーバス当尾線「岩船寺」下車すぐ

JR・近鉄「奈良駅」からは「急行バス浄瑠璃寺前」下車徒歩約40分。
またはコミュニティーバス当尾線乗り換え「岩船寺」下車すぐ

般若寺 初夏のコスモスと紫陽花がきれいです

般若寺、本尊は文殊菩薩。
コスモス寺の名で知られる。

信頼できる史料における「般若寺」の初出は、天平14年(742年)10月3日付の「金光明寺写経所牒」(正倉院文書)であるとされている。

ただし、これについても、今の奈良県香芝市にあった片岡寺(別名般若寺)を指すとみる説もある。

その後平安時代末頃までの歴史はあまり明らかでない。
治承4年(1180年)、平重衡による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。

廃寺同然となっていた般若寺は、鎌倉時代に入って再興が進められた。
寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・良恵(りょうえ)らによって建立され、建長5年(1253年)頃までに完成した。

この時期アジサイはいたるところで見られますが、仏像と重ね合わせることによりより風情が増します。

花言葉は威張り屋、無情、あなたは冷たい、移り気、浮気。

「紫陽花や 藪を小庭の 別座敷」 松尾芭蕉

「散りたまる 花や般若の 紙の向き」 向井去来

菩薩のやさしい顔とコスモス一輪。

「紫陽花や はなだにかはる きのふけふ」 正岡子規

「紫陽花の 八重咲く如く やつ代にを いませわが背子 見つつ見つつ偲ばむ」 橘諸兄 万葉集 (巻20 4448)

「あぢさゐの 下葉にすだく 蛍をば 四ひらの数の 添ふかとぞ見る」 藤原定家

鐘楼の梵鐘は、正確な鋳造年代は不明ですが、江戸時代初期のものとみられ、西大寺の奥の院から伝来した梵鐘といわれています。

「般若寺の つり鐘ほそし 秋の風」 子規

「楼門」は門では数少ない国宝の一つという貴重な建物です。
旧京街道に面する西向きの建築となっている。

般若寺門前を南北に通る道は「京街道」は、大和(奈良県)と山城(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道でありました。

会津八一歌碑

ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に

こさめ ながるる はる は き に けり

歌集 『鹿鳴集』 の 「南京新唱」 にある歌で、詞書に 「奈良坂にて」 とある。

わかりにくい場所にあるので見落とさないよう。

「十三重石塔」は境内の中枢的な位置にあり高さも14.2mもある巨大な石塔で般若寺
のシンボルと言うべきものです。

コスモスに埋まって大きく聳え立っており一際目立ちます。

「ちちろ虫 十三塔を つつみ鳴く」一邑

創建当初の旧相輪は石塔の脇にありますがコスモス時期はコスモスに隠れていますのでご注意。

保元の乱では、平為義が夜討ちを進言しますが、頼長は「由緒ある朝廷の戦いで夜討ちなんて卑怯なマネはできない!」と却下。

そうしたら逆に、後白河側に夜討ちをかけられて負けてしまったのでした…。

兄に陥れられ、最後には一番の味方だと思ってた父に裏切られ…
ショックをうけた頼長さんは舌をかみきって亡くなったとも言われています。
享年37歳

遺体は奈良の般若寺に埋葬されますが、実検のため役人によって掘り起こされ、しばらく放置されてしまったという。

後に、京都の相国寺に埋葬され、今に残っている首塚が建てられます。

平家の南都焼き討ちで、東大寺、興福寺を火の海にした平重衡(たいらのしげひら)の供養塔。

重衡の兵火で、堂塔伽藍が全て焼き尽くされた。
しかも、平家物語によると、火を放ったのはこの般若寺だったようです。
(般若寺近くの民家だったという説もあります)

この笠塔婆は、宋人で伊行吉が父の一周忌に追善供養として建てたものであることが判明していますが、かつては重衡の供養塔として考えられていた時代があったようです。

その証拠に、能の古曲に「笠塔婆」という題材があって、その中で重衡の亡霊が登場するんですね。

「唐びとが 月をろがみし 笠塔婆」 秋桜子

石灯籠は、鎌倉時代に製作された花崗岩製の高さ3.14メートルの灯籠で、古くから「般若寺型」「文殊型」と呼称される有名な灯籠です。

竿と笠部分は後世の補修で造り直されたものですが、基台・中台・火袋・宝珠部分は製作当初のものです。

また火袋部には、「鳳凰」「獅子」「牡丹唐草」が浮き彫りされています。

般若寺と大塔宮との関係は、「太平記」によると、元弘の変の時、後醍醐天皇様と共に笠置寺に立て籠もり幕府勢を相手に戦われ、城が落ちた後、般若寺へ潜伏されたのですが敵の探索を受けた際、大般若経の唐櫃に潜まれて危難を遁れられ、無事熊野へ落ち行かれたと記されます。

「般若寺は 端ぢかき寺 仇の手を

のがれわびけむ 皇子しおもほゆ」 森鴎外

「般若櫃 うつろの秋の ふかさかな」 阿波野青畝

「大塔宮 在せし寺や 百日紅」 小牛

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南朝御聖蹟碑

同寺は、後醍醐天皇など南朝方とゆかりが深く、本尊の八字文殊菩薩像は同天皇の勅願。また笠置山落城後、大塔宮護良親王が同寺に潜伏し、大般若の唐櫃(からびつ)に潜んで難を逃れた、などの話が残されている…

不動明王が乗っていて健康増進の霊験があるという「かんまん石」

よく見れば石の上に不動明王。

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般若寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:奈良県奈良市般若寺町 MAP
電話:0742-22-6287

近鉄奈良駅→奈良交通バス奈良阪・青山住宅行バス12分「般若寺」下車徒歩5分