シーズンオフの磯ノ浦


磯ノ浦は遠浅で昔からの自然の砂浜が残り、海水浴シーズンには紀北では片男波と人気を二分する海水浴場。

京阪神間では最も近いサーフィンのできる海水浴場としもて知られる。

万葉集に「磯の浦に 来寄る白波かへりつつ 過ぎかてなくは 誰にたゆたへ」と歌われています。

パーキングの看板、いかにも書き足した感じが面白い。    

レンタルボードのお店、シーズンオフはほとんど閉店。
4月ごろ開店予定とか。

海水浴客目当ての食堂も当然閉まっている。

この浜でウミガメの産卵があったとか。

マリーナに無造作に積まれたボート、シーズンまでこのままかな。

廃屋が結構多い。

作品つくりにはもってこいの材料になる。


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磯ノ浦 波とたわむれる


京阪神間では最も近いサーフィンのできる海水浴場として知られている。
大阪からの海水浴場客の間では「イソコ」と呼ばれている。

地元民はそのまま「いそのうら」と呼ぶ。
新日鐵住金の和歌山製鐵所近くに位置する。

この日は波も穏やかでこんな日は浜には人っ子一人としていない。

波の作り上げた芸術を一つ一つカメラにおさめる。

波のひいた後の砂浜にはきれいな芸術作品が現れる。

角度を変えると様々に変化する。

何の変哲もない浜だが国際的にもサーファーの間では有名らしい。

ヨットハーバーには国際色豊かな人たちが集まっている。

浜は西に向かって開いており夕日がとてもきれいだ。
いつか撮りに来たいと思った。

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加太の街


和歌山市駅から終点加太駅までは、南海線の”加太さかな線”に乗ります。
ここでおすすめなのが、ピンクの車体が可愛らしい「めでたいでんしゃ」。

石垣にも「めでたいでんしゃ」の文字が。

加太は、和歌山市の北西にある港町。水質のよい紀淡海峡の好漁場に恵まれ、鯛の一本吊りなど、魚釣りのメッカでもあります。

和歌山県と大阪府の県境にほど近い場所に位置する加太(かだ)は、古い建物や史跡が残る歴史ある港町です。

今回は、南海加太線の終着駅である「加太駅」から徒歩で海岸を目指し、お寺巡りやグルメを楽しむ小旅行へ。

和歌山を代表する緑色片岩(通称=青石)。

街中は古い建物のオンパレード。

古い趣のあるお店が沢山あります。

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淡嶋神社


淡嶋神社は、人形供養で有名な神社。
全国に1000社もある「淡嶋系統」の総本社となっています。

全国で行われているひな流しの原型は、加太の淡嶋神社だと言われています。

三月三日は、朝から神社のなかは人々の熱気でむせかえります。

それぞれの思いや願いと共に、関西はもとより日本全国から境内に女性たちが集まってきます。

そして、日が高くのぼった正午、ひな流しの神事がおごそかに始まります。
当日は境内はもちろん港までの狭い道も人で埋め尽くされます。

雛祭りの起源は、中国から伝わった厄払いの儀式とされていますが、淡島神社では全国から奉納された雛人形や形代を海に流し供養を行っています。

午後から神事が行われ、3艘の船に乗せられた人形達が海に流されます。
なお、流された人形はその後回収されお焚き上げがなされ供養されます。

針供養の神社としても有名で、同神社境内には針塚が建てられており毎年2月ごろに全国から集められた針を供養する。

近年では縫い物をする機会が少なくなっていることから、供養に奉納される針の数も減っているという。

淡嶋神社で針供養
流し雛で有名な加太の淡嶋神社で8日、針供養が行われた。 この日は朝から多くの女性 … 続きを読む →

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関西一の早咲き桜 紀三井寺


JR紀三井寺駅方向から名草山(なくさやま、228.6メートル)を望む、山桜がきれいです。

寺域は紀ノ川河口平野の南部にある名草山の中腹にあって、境内から和歌浦湾を一望のもとに収める。

竹の青とと桜、そして空がきれい。

寺号は詳しくは紀三井山金剛宝寺護国院と称し、宗教法人としての公称は「護国院」であるが、古くから「紀三井寺」の名で知られる。

仏殿から北を眺める。

山内に涌く三井水(さんせいすい:吉祥水・清浄水・楊柳水)は紀三井寺の名の由来とされ、いずれも水源には慶安3年(1650年)の年記とそれぞれの名水の名を刻銘した砂岩製の水槽がある。

楼門からの231段の急な石段は結縁坂と呼ばれている。

豪商紀ノ国屋文左衛門は若いころ貧しいが孝心篤い青年でした。

ある日母を背負って紀三井寺の表坂を上り観音様にお参りしましたが草履の鼻緒が切れてしまいました。

困っていた文左衛門の鼻緒をすげ替えてくれたのは和歌浦湾にある玉津神社の宮司の娘おかよさんでした。

これがきっかけで二人に恋が芽生え結ばれました。
その後文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立てミカンと材木を江戸へ送って大儲けしたのです。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂はそれ以来結縁坂と呼ばれるようになったそうです。

護国院楼門(重要文化財)、本来はこちらが正門 – 参道正面、境内への入口に建つ楼門。

室町時代中期の建立、三間一層入母屋造。
寺伝では永正6年(1509年)に建立、永禄2年(1559年)に加修。下階中央間は開放で扉がなく、正面両脇間に仁王像を安置している。

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一乗山大伝法院根来寺


大門
根來一山の総門で嘉永3年(1850年)に再建されたもので、左右に仁王像を配し、この寺にふさわしい大門です。

上層には釈迦三尊と十六羅漢像が安置されています。
高さ16.88m 横幅17.63m 奥行6m

入り口にたくさんの無縁仏群があります。

永禄の年号が刻まれたお地蔵さんもおられました。秀吉の根来攻め以前の石仏です。

平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧といわれた覚鑁が大治5年(1130年)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。

鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護した。2年後の長承元年(1132年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立した。

さらに2年後の長承3年(1134年)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。

大伝法堂(三尊像)
根来寺を総括した本堂。

中央に大日如来、左脇に金剛薩た、右脇に尊勝仏頂尊を安置してあります。

このお堂は、天正十三年に焼失を免れた直後に、秀吉は京都紫野大徳寺の文蔵主に管理を任せたのですが、どう間違ったものか文蔵主は拝領したものと思い、大傳法堂を解体して紀の川を下り海路淀川をさかのぼりはじめたところで差止められ、文蔵主は罰せられて流罪となりお堂の用材はその場に全部荷揚げしてそのまま朽ち果ててしまいました。

今の淀川河口の伝法町がその場所といわれています。
現在のお堂は文政十年(1827年)に再建されたものであります。

大塔(多宝大塔) – 国宝。

高さ40メートル、幅15メートルの日本最大の多宝塔。

「多宝塔」とは二層一階建ての塔で、通例、初層(裳階)の平面が方形、上層が円形に造られる。

この塔も、初層の外見は方形だが、初層内部には円形の内陣が造られており、円筒形の塔身の周囲に庇を付した、多宝塔本来の形式をとどめている。

内部には12本の柱が円形に立ち、そのなかに四天柱が立っている。

覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。

保延6年(1140年)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が発生。

覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。

室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2,700とも)を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁した。

また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。

織田信長とは石山合戦に協力するなど友好関係を築いたが、信長没後、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいて徳川方に通じ留守の岸和田城を襲ったほか南摂津への侵攻を図ったことで秀吉の雑賀攻めを招くこととなった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川方が勝利した翌年、家康は東山の豊国神社の付属寺院の土地建物を根来寺の僧で焼き討ちされた塔頭智積院の住職であった玄宥に与え、智積院は東山の地に再興した。

慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家が滅びた後、家康によって秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲寺が根来寺に寄進されるが、そのまま智積院が譲り受けて寺地を拡大させた。

閼伽井(あかい)

仏にお供えする水の他、宗門僧侶の水垢離(みずごり)用として使用される。この水は当山中第一の清水で、永雨で河川がにごっても、この水はにごらない。
しかも非常に冷たい水であり、依って金剛清水と呼ばれている。

鐘楼門
鐘楼が付いた門、毎日、午前6:00に鐘を鳴らしています。

名勝聖天池に浮かぶ堂は聖天堂で聖天尊を安置している。

この堂正面の朱塗の壇が有名な「根来塗」で古くから伝わっているものです。

九社明神

根來寺の草創当時から豊福寺の鎮守社。
丹生大明神(にう)・
高野大明神(こうや)・
伊太祁曽大明神(いたきそ)・
御船三所大明神(みふねさんしょ)・
金折六所大明神(かなおりろくしょ)・
金峯山金剛蔵王(きんぷせんこんごうざおう)・
熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)・
白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)・
牛頭天王八王子(ごずてんのうはちおうじ)を祀っています。

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根来寺 身代り不動


根来寺は広大な寺域を持つ寺院だが不動堂は、少し本堂から離れた、こじんまりとした所にあります。

本尊は大聖不動明王大仏。

高野山にて真言宗の立て直しを押し進めた覚鑁上人に対し、反対派は刺客を差し向けますが不動明王が身代わりとなって上人の危機を救ったという故事から「きりもみ不動」として信仰されている。

四大明王、文殊菩薩、愛染明王も祀られます。

「身代わりお不動さん」の信仰が広く親しまれており、体の悪いところや、病気の場所などをタワシで洗います。

「八角円堂」の後ろに「北向不動明王」がおられるようです。

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恵方初詣 南南東 熊野本宮大社


最後の恵方参拝は熊野本宮大社。

画像は国道から見た大斎原大鳥居、かつて神倉の地に降臨した熊野三神のうち熊野家津御子大神(けつみこおおかみ)が川を遡りこの地に坐したのが始めとされています。

熊野本宮大社の旧社地である大斎原は熊野川・音無川・岩田川の3つの川が合流する川の中州にある。

ちなみに、江戸時代まで音無川には橋が架けられなかったそうです。
そのため参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉したそうです。

熊野では「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」と言って水で濡れたわらじと泥で汚れた着衣での参拝が許されていました。

参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、入ることができない神域として信仰されていたそうです。

現在の社地は山の上にあるが、1889年(明治22年)の大洪水で流されるまで社地は熊野川の中州にあった。

明治以後、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ、大規模な洪水が引き起こされ、旧社地の社殿は破損した。

現在、旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い大鳥居(高さ33.9m、横42m、鉄筋コンクリート造、平成12年完成)が建っている。

こちらが参道、木々がとても美しい。

現在の熊野本宮大社は、流失を免れた上四社3棟を明治24年(1891)に現在地に移築・再建したもの。

大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられています。
 
大斎原の大社は、およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。

この大鳥居高さ約34m、幅約42m、ほんとに巨大です!!

入り口参道鳥居と立ち並ぶ表参道の白旗と階段。
立ち並ぶ「熊野大権現」の白旗が印象的。

参道入り口の鳥居は、神が宿る神域と人間が住む俗界との結界を表します。

参道の中央「正中」は神様のお通りになる道なので、右端を登り、左端を下るのが作法です。

杉木立に囲まれた158段の階段を上る広い境内には堂々とした本宮大社拝殿と神殿が建っている。

「八咫烏(やたがらす)」の神旗がお出迎え。

門をくぐって、向かって左手の社殿が牟須美(むすみ)・速玉(はやたま)の両神。
中央は主神の家津美御子神(けつみみこのかみ)。

そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られています。

甘酒拝戴所で甘酒をいただきました。

「熊野権現垂迹縁起」によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされている。

熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされるが、その素性は不明。

太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。

家都美御子大神について他にも五十猛神や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係する説もあるが、やはりその素性は不詳とされる。

古代から中世にかけて、神職はニギハヤヒの後裔で熊野国造の流れを汲む和田氏が世襲していた。

かつては湯立が行われており、「熊野権現垂迹縁起」では大斎原が「大湯原」と表記されていることや、熊野をユヤと読む際に湯屋や湯谷の字をあてられたことなどから、熊野信仰の中核に湯の観念があったことが指摘されている。

和泉式部が熊野詣をして、伏拝の付近まで来たとき、急に月の障りとなり参拝ができないと悲観してこれでは本宮参拝もできないと諦め、彼方に見える熊野本宮の森を伏し拝んで、歌を1首、詠んだ。
「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき」。

すると、その夜熊野権現が、夢に現われて
「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき」
とお告げがあり、参拝することができたという。

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恵方初詣 南南東 滝尻王子


2番目の恵方参拝は滝尻王子。

現在の宗教法人としての名称は滝尻王子宮十郷神社(たきじりおうじぐうとうごうじんじゃ)。

前身は九十九王子の滝尻王子で、五体王子の一つに数えられた(『熊野権現蔵王宝殿造功日記』)。
国の史跡「熊野参詣道」(2000年〈平成12年〉11月2日指定)の一部である。

現在は天照皇大神、日子火能迩々芸命、天忍穂耳命、日子穂々手見命、鵜茅葺不合命の5柱を祀るが、『熊野縁起』(正中元年〈1326年〉、仁和寺蔵)によれば九十九王子の一であった時代には不空羂索菩薩を本地としていた。

滝尻王子は熊野の神域への入り口として古くから重んじられ、『中右記』には「初めて御山の内に入る」との添書きがあるだけでなく、『源平盛衰記』にも同じ趣旨の記述を見出すことができる。

中世熊野詣の頃には宿所があったともいわれ、藤原定家の「熊野道之間愚記」(『明月記』所収)建仁元年(1201年)10月13日条や藤原経光の参詣記(『民経記』所収、寛喜元年〈1229年〉)にそれを示唆する記述があるが、詳細は定かではない。

滝尻王子からはいきなり急坂が始まります。胎内くぐり、乳岩、不寝王子を経て「剣ノ山経塚跡」までは激しい登りが続きます。

滝尻の上の山中にはいくつかの磐座があり、入り口近くにもこのような大岩を咥えこんだ気が見られた。

参詣者が初めて岩田川に出会う稲葉根王子から滝尻王子まで、参詣者は何度となく岩田川を徒渉しなければならず、一種の難所であった。

「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月13日条で、この間の道中について、幾度も川を渡り山を越さなければならないと述べると同時に、紅葉が川面に映るさまを見事であると讃えている。

滝尻王子に至った参詣者たちは、奉幣を行い、王子の目の前の流れに身を浸して垢離の儀礼を行った。

滝尻王子における垢離について、鎌倉時代初期以降成立の寺社縁起『諸山縁起』は、右の川は観音を念ずる水、左の川は病を除く薬の水 — 『諸山縁起』とし、さらに前出の『熊野縁起』は、滝尻両方河ニ橋ヨリ上ニハ千手浄土御坐。又丑寅ヨリ流タル河ニハ薬師浄土御坐ス。彼水ハ偏其浄刹ヨリ落智水ナリ。是以テ無始無終罪滅ス。
— 『熊野縁起』

と述べて、観音菩薩の補陀落浄土から流れてくる岩田川の水と、薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる石船川の水で沐浴することで罪が滅される、と滝尻での垢離の意義が説かれている。

帰路「道の駅 熊野古道中辺路」でトイレ休憩。

花山法皇の伝説を残す牛馬童子像(モニュメント)。

ただいま16時19分、日暮れも間もなくです、前方の山に次の王子を目指す一行があった。

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恵方初詣 南南東 闘鶏神社


今年の恵方は南南東。

まず訪れたのは闘鶏神社、允恭天皇8年9月、熊野権現(現在の熊野本宮大社)を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。

白河法皇の時代に熊野三所権現を勧請した。

平安時代末期の熊野別当・湛快のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。

二ノ鳥居、講師からは台輪のある鳥居は宇佐神宮と何らかの関連があると説明されたが、調べてみると少し違うようだ。

台輪のある明神鳥居を、特に台輪鳥居と呼ぶ。伏見稲荷などの稲荷神社に多いので、稲荷鳥居とも呼ばれる。

台輪鳥居の特徴

 (1)反り増がある
 (2)島木がある
 (3)貫が柱から出ている
 (4)額束がある
 (5)台輪がある

柱と島木の接続部分に、一枚の台輪と称する座をはめてあります。防腐効果を持たせるためと言われていますが、多分にデザイン的なものでしょう。

宇佐鳥居の特徴の一つにご覧の通り額束がない、しかし、闘鶏神社の鳥居にはちゃんと額束がある。

弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院から寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る。

田辺は熊野街道の大辺路・中辺路(熊野古道)の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参蘢し、心願成就を祈願した。

熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。

拝殿。

『平家物語』などによれば、治承・寿永の乱(源平合戦)の時、湛増は社地の鶏を紅白2色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。

このことから「闘鶏権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離の際に鬪雞神社を正式な社名とした。

2016年10月23日、第40回世界遺産委員会継続会議において、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録された。

神木の大楠

大楠は、落雷により中央部を失ったため高さはないが、幹回り、枝振りは見事なもので、樹齢1200年ほどと推測されていまる。
歯病平癒の御利益があるとされ、楠の下に立って楠の葉を患部に付け、祈願すると平癒するとか。

熊楠の妻は、闘鶏神社宮司であった田村宗造の四女・松枝(まつゑ)であり、そうした縁もあり、熊楠は、この闘鶏神社の森を「熊野植物研究の中心基礎点」とした。

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