信貴山城址

一昨年足の怪我以来山登りができず「戦国初期の八大名城」のうち信貴山城址のみが未制覇となっていたがやっと念願を果たした。

「戦国初期の八大名城」とは春日山城 |一乗谷城 |七尾城 |小谷城 |井ノ口城(稲葉山城) |要害山城 |観音寺城 |信貴山城 をいう。

100名城築城年代別リスト
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開運橋から信貴山城址を望む。

信貴山朝護孫子寺からわずか500m少々、これが何ともならず悔しい思いをしていたが思い切って挑戦。

信貴山城は大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城。

信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀はこの山上に南北880m、東西600mに及ぶ城郭を築いた。

信貴山中腹には、朝護孫子寺がある。
また、付近には、高安山城、南畑ミネンド城、立野城といった支城が存在した。

永禄3年(1560年)11月に、大和国を制圧した松永久秀は、信貴山城を選んで大和支配の拠点とした。

信貴山城を今日にみられるような規模の城郭としたのは久秀である。
久秀が信貴山城を拠点として選んだ理由は、木沢長政の後継者として大和国を支配するという政治的アピールがあったと考えられる。

『和州信貴山古城図』では、空鉢堂が建っている部分を本丸、少し下ったところにある細曲輪が二の丸、ハイキングコースがある部分を三の丸と記載されている。

『探訪日本の城』によると、この本丸跡に4層の天守櫓が建っており、伊丹城(1521年)につぐ日本で2番目に建造された天守で、織田信長の安土城もこの天守を参考にしたのではないかと思われ、松永久秀は築城の才覚も備わっていたと記載されている。

天正5年(1577年)8月、信長に謀反を起こした久秀は信貴山城に籠城した。

信長は松井友閑を信貴山城に派遣して翻意を促したが、久秀の決意は固かった。
やむを得ず、信長は9月29日に信貴山城攻撃のための軍を出撃させた。

10月3日には、織田信忠に率いられた織田方の軍勢が城下を焼き払い、9日には信貴山城に火の手が上がる。
翌日、信忠らが本城を包囲して攻めると、ついに久秀は「天主」を自焼して自ら命を絶った。

これ以後、信貴山城が使われた形跡はなく、この時に廃城になったとされる。

信長が久秀の命と引換えに望んだ天下の名器「平蜘蛛の茶釜」に火薬を仕込み爆死したともいわれている。

その日は、久秀が筒井・三好三人衆との戦いにおいて東大寺大仏殿を焼いたとされる日と一致し、その因果(仏罰)だといわれている。

信貴山山頂からの眺望。
空鉢堂から南側を撮影、後方が金剛山。

松永久秀について

初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。
久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。

また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。
長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。
織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。

天守を中心とした城郭建築の第一人者であり、多聞作りを創始した人物とされている。
城門と櫓を一体化させ防御力を向上させるという発想は、当時は非常に革新的であった。

天守の創始者と言われていたが近年、伊丹城に天守に相当する櫓が存在したことが判明し、否定されている。
また古代の古墳を破壊して築城した事でも有名だが、これは主君である三好長慶に倣ったものともされる。
古墳は高台や水濠を備えていたことから城に改造するには最適な地形であり、また大和国は数多くの古墳が存在する。

多聞山城にいた頃、かつて三好長慶や織田信長などの歴代の権力者を幻術で手玉に取った仙人・果心居士を招き、「自分は戦場でも一度も恐怖を味わった事がない、そなたの術でわしを恐怖させてみよ」と豪語した。

果心居士はこれに応じ、部屋の明かりを消し、人払いをさせた後、自身の姿を一人の女人の幽霊に変えて久秀に近づいたという。
外ではにわかに稲妻が走り、雷雨が落ちると久秀の顔も恐怖のあまり蒼白し、「分かった、もうやめよ」と声をあげた。実は、この女人の幽霊は久秀の妻(故人)であり、幽霊が消えたあとも、久秀の震えは止まらなかったという。

果心居士の幻術-新潮文庫-司馬-遼太郎

『常山紀談』で信長が語った久秀の「三悪事(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)」に対し、信長自身も、主君に当たる織田大和守家の当主であった織田信友を討滅し、将軍であった足利義昭を追放し、比叡山焼き討ちを敢行する等、久秀とまったく同じような所業を成している。

斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されている。
「下剋上の代名詞」、「謀反癖のある人物」などのイメージを一般には抱かれており、小説を始めとした創作物においてもそのような人物として描かれることが多いが、こうした久秀のイメージは、後世に成立した『常山紀談』などを典拠として成立したところが大きい。

しかし実際の久秀は主君・三好長慶の存命中は、目立って謀反を起こしたり専横をしたことは一次史料からは確認できない。
また長慶の嫡男・義興や長慶の弟・十河一存を暗殺し、長慶の弟・安宅冬康を讒訴して殺させ、三好政権を崩壊へと導いたといわれるが、これらの情報も多くは軍記物などを典拠としたもので、信憑性に乏しい。

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信貴山朝護孫子寺


信貴大橋のバス停を降りると白虎が出迎えです。

開運橋上路

1930年(昭和5年)に大阪から信貴山へのアクセスとして、信貴山急行電鉄(鋼索線と、高安山駅~信貴山門駅の鉄道線)が開業したが、信貴山門駅から朝護孫子寺の間に大きな谷(大門池)があり、大きく迂回する必要があった。

そうした不便を解消するため、熱心な信者であった旧松尾橋梁株式会社の社長が信貴山に寄進したとのこと。

トレッスル橋脚を用いたカンチレバー橋であり、日本では最初期のもので、現在でも非常にめずらしい形式である。
外観は朱塗りされ、欄干には信貴山のシンボルである寅のイラストが随所に施されている。

戦国時代には木沢長政が信貴山頂に信貴山城を築いた。

1577年(天正5年)に同城の城主・松永久秀と織田信長の間で信貴山攻防戦が行われて久秀は滅亡し、寺も焼失するが、豊臣秀頼によって再建された。

現在、山頂には同寺の「空鉢堂」があり、本堂付近から参道で連絡している。

2/22、23はトラ祭りの大法要が行われる。

休憩所の特設祭壇に山積みに納められた約5000体の「張り子のトラ」を読経供養する法要が寅祭り。

祭りの当日は大変混雑するためあえて前もって訪問した。

今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。

太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。

その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。

太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。
以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されている。

境内の至るとこる寅のオンパレード。

よく見かける大寅、遠景は本堂。

成福院の塔越しに本堂を望む。

本堂から成福院の塔、地蔵尊を望む。
神仏習合の名残から、境内には鳥居も並んでいる。

醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をしました。

加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。
よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。

なお、当時醍醐天皇の病気は相当進んでいたようで、1か月後の9月29日に死去しており、この点は説話と異なっている。

信貴山は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境に位置し、朝護孫子寺の住所は奈良県であるが、『宇治拾遺物語』『扶桑略記』には「河内の信貴(志貴)」と表現されている。

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生駒聖天宝山寺


「宝山寺」はお寺ですが、神社の象徴である鳥居を設けている、古代のヒンドゥー教とも言えるバラモン教の神(天部)を祀っているからです。

途中でかわいい花を見つけました。

ここの賽銭箱は少し変わっています、御本尊の聖天さん=大歓喜天が持っている「砂金袋」そして胴の部分には歓喜天の大好物で、食べると体内が浄化されると言われる大根を組み合わせてデザインされています。

また、よく見ていると不思議な光景を目にします、お財布を賽銭箱にこすりつけています。
そうなんです。

こうすることで聖天さんのご利益を、ダイレクトにお財布に頂こうというものなんです。
信じるかどうかは人それぞれ。

ここの魅力は杉林から差し込むサイド光。
四季折々、時間により光線の角度が変わります。

奥之院への参道両側には約三百体の石仏が並んでいます。

麓から続く参道の階段は奥の院までを含めると1000段余りあり西日本有数の規模を誇ります。

この道を行く人は、袋いっぱいの一円玉を手に、一つ一つお顔が違うお地蔵様にお賽銭をささげ、丁寧にお参りしながら進んでいかれます。

宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。

生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれ、本尊は不動明王。
鎮守神として歓喜天(聖天)を聖天堂(天堂)に祀っている。

生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。

江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。この時が事実上の開山と思われる。

江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪商人の信仰を集めた。京都の皇室や江戸の徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い。

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紅葉の名所 正暦寺


正暦寺は菩提山龍華寿院と号し、奈良と天理の間の山あいに位置する。
菩提山真言宗の大本山(単立)。本尊は薬師如来である。

「錦の里」と呼ばれ、紅葉の名所として知られるだけあって、バスを降りるとすぐに錦秋の世界。

境内を流れる菩提仙川の清流の清水を用いて、菩提泉という銘柄の清酒が日本で初めて醸造されたという伝承があり、「日本清酒発祥之地」の碑が建つ。

例年紅葉の時期は、JR・近鉄奈良駅から臨時バスある。

円照寺へ向かう道。

山号の菩提山は、奈良の東山一帯を釈迦修行の聖地に見立て、鹿野園(ろくやおん)・誓多林(せたりん)・大慈山(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)・菩提山と名付けた五大山の一つである、菩提山に由来する。

正暦3年(992年)、一条天皇の発願により、関白藤原兼家の子兼俊僧正が創建した。

正暦寺には、3000本を超える楓が山内にあります。

秋、11月になるとそれらが順番に色づいて紅葉していきます。

木々の緑と黄色や赤の紅葉が織り交ざって、山内をあでやかに染める様は錦の色に見えます。

このことから、正暦寺は古来より『錦の里』と呼ばれてきました。

紅葉の時期に一番みどころとなるのが借景庭園!庭自体は小ぶりですが、正暦寺西側の山に色付く木々の借景を楽しむ事ができます。

この景色を目当てに来られる方々が多いので、早い時間帯に行くと、縁側でまったりしながら紅葉を観賞できるのでオススメ。

しかし、近年、紅葉シーズンのカメラマナーの悪化によるトラブルが多く発生。

ご拝観の方々が気持ちよくお参りできない事態が発生しておりますことを鑑みまして、紅葉シーズンは本堂・福寿院の建物内での撮影を禁止させていただきます。

と、いうことで誠に残念。

せめて向かい側からの景観を・・・・

往時には、報恩院以下86坊の堂塔伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、治承4年(1180年)に、平重衡による南都焼き討ちによって焼失した。

江戸時代に入り、慶長6年(1601年)には寺禄は約1000石を数えていたが、応仁の乱後に再興された82坊によって、往時の様を取り戻していた。

本堂、三重塔、護摩堂、観音堂、地蔵堂、灌頂堂、鐘楼、経蔵、如法経堂、御影堂、十三重塔、弥勒堂、六所明神、鎮守などの堂塔伽藍が建ち並んでいたという。

明治の廃仏毀釈によって荒廃した。往時の威容は、参道沿いに延々と続く石垣によってしのぶことができる。

昭和42年(1967年)、本山仁和寺から独立し、菩提山真言宗大本山を名乗る。

また、秋から冬にかけては1000株以上の南天が赤い実をつけて参道を染めます。紅葉と並んで南天の実の色づきの素晴らしさは圧巻です。


柿がたわわに実り風情を添えます。

境内は飲食が禁止されているが河原に降りこの辺りまで来ると腰を下ろしてお弁当を広げられる。

紅いもみじにススキが・・・風情があります。




泣き笑い地蔵。

手前が円光光背の水子地蔵尊(泣き地蔵)、向こう側が船型光背を負う身替地蔵尊(笑い地蔵)。

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初秋の馬見丘陵公園


県営「馬見丘陵公園」は、奈良県広陵町と河合町の両町にまたがる公園です。
わが国でも有数の古墳群と、良好な自然環境が残された地域にあります。

日中はまだ暑い日が続いていますが季節はもう秋。

紅葉の早い桜はもう色づいています。

タカノハススキの群生がきれいです。

少しちさいがパンパスグラスも存在感を示しています。


「花の道」では、ニューギニアインパチエンス(桃色や白色の花)、宿根サルビア(紫色の花)やコスモスなどが綺麗に咲いています。

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馬見丘陵公園 ダリアが見頃


奈良県は、ダリアの球根生産量が日本一です。

北エリアの「ダリア園」では秋になると、約120品種1,000株のダリアが一斉に咲き誇ります。

ダリア園の見頃は例年、10月上旬から11月上旬にかけてです(皇帝ダリアは11月中旬から12月上旬です)。

また、ダリアの開花シーズンである10月上旬~中旬には「馬見フラワーフェスタ」を開催しています。

ねむの雨

黒蝶

大海原

白陽

京美人



弁慶

宇宙

トンボを見かけましたもう秋ですね。

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万葉文化館


奈良県立万葉文化館は奈良県高市郡明日香村にある美術館・博物館。
日本最古の歌集『万葉集』をテーマとする。

『万葉集』は、古く5世紀から、8世紀にかけて詠まれた4500余首を収めたわが国最古の歌集で、日本人の心の古典、言葉の文化遺産といえる。そのなかでも、奈良を対象に詠まれた歌が最も多く、県内各地には『万葉集』ゆかりの歴史的風土・自然景観が多く残されている。

「歌の広場」(古代の市空間を再現)「さやけしルーム」(万葉人が感じたであろう、音や光を体験)「万葉劇場」(人形や映像などを用いて万葉の世界を紹介)などの展示が行われている。

平成13年9月に、建設費約140億円の巨額資金を投入して明日香村飛鳥に開館したが、当初、年間25~30万人と見込んでいた入館者数は半数以下の10万人前後と低迷を続けており、存続そのものが問われている。

以前の訪問時、展示の紹介を行った。
万葉人のくらし
万葉人はどのように暮らし、どんな恋をし、どんなふうに四季の移ろいを眺めたのでしょ … 続きを読む →

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ゾロアスター教徒の飛鳥時代伝来説 酒船石遺跡


以前から知られている酒船石に加えて、平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになった。

この命名は明日香村教育委員会によるが、研究者の間では酒船石と亀形石造物との関連性を疑う意見も強く、この名称は適当ではないとの意見も存在する。

平成4年(1992年)に酒船石の北の斜面で石垣が発見され、『日本書紀』の斉明天皇の時代に記述される工事に該当する遺跡と推測されている。

記述中の「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」の「宮」が酒船石の南西にある伝飛鳥板蓋宮跡であり「東の山」が酒船石のある丘ということである。

松本清張の小説『火の路』は、酒船石(さかふねいし)の前で、若き古代史の研究者 高須通子とカメラマン 坂根要助、福原副編集長が出会うシーンから始まる。

ペルシア人・ゾロアスター教徒の飛鳥時代伝来説を描き話題を呼んだ、著者の古代史ミステリーの代表的長編。

『火の路』(ひのみち)は、松本清張の長編推理小説。『朝日新聞』に『火の回路』のタイトルで連載され(1973年6月16日 – 1974年10月13日)、改題の上、1975年11月・12月に文藝春秋から刊行された。

1976年にテレビドラマ化されている。

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夫婦和合の奇祭「おんだ祭」で知られる飛鳥坐神社


飛鳥坐神社は、奈良県高市郡明日香村にある神社。
式内社(名神大社)で、旧社格は村社。

2月第1日曜日(元は旧暦1月11日)のお田植神事「お田植祭(おんだまつり)」には、天狗や翁が竹棒で人々を追い回して叩いたり、夫婦和合の所作(種まき前の胤付けの意で、天狗とオカメが性行為、特に正常位を踊る)があり、奇祭として知られている。

境内には、男性器を模した石が多く安置されている.

画像はあまりにもリアルではばかりがあるので省略、実際に現物を見ることをお勧めする。。

創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。

創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。

また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条に「奉幣 於居紀伊国国懸神 飛鳥四社 住吉大社」とあり、天武天皇の病気平癒祈願のため幣帛が奉られた。
『日本紀略』によれば、天長6年(829年)、神託により、現在の鳥形山へ遷座した。(遷座する前の場所については諸説ある)

寛永17年(1640年)に高取城に入った高取藩初代藩主・植村家政は、高取城の鬼門に当たる当社を深く信仰した。

享保10年(1725年)に里からの火災により社殿の大半を焼失したため、天明元年(1781年)に高取藩8代藩主・植村家利により再建された。

平成13年(2001年)、大滝ダム建設に伴って移築することとなった吉野の丹生川上神社上社から旧社殿を譲り受け、天明以来200年を経て老朽化していた社殿を再建した。

折口信夫 – 折口信夫の祖父・酒造ノ介は、岡寺前の岡本善右衛門の8男であったが、当社81代宮司飛鳥助信の養子となった上で折口家に入った。

父・秀太郎の代には交流は途絶えていたが、明治33年(1900年)夏に初めて当社に参詣し、同37年には祖母・つた、叔母・えいと共に参詣し旧交を復した。

折口は、祖父が大和飛鳥の由緒ある神社の出自であったことを終生誇りにしており、慶應義塾の教授時代にもよく学生を連れて飛鳥を旅している。

今日のお昼は手打ち十割そば 山帰来(さんきらい)

十割蕎麦とは思えないほどのなめらかな喉越しは感動を覚えるほど。

サクサクに揚がった桜エビの天ぷら、珍しい紫色の辛味大根、少し甘めのツユを一緒に味わえば、口いっぱいに爽快感が広がります。
おすすめです。

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日本で最初の仏教寺院 飛鳥寺


飛鳥寺は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。
蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身。

本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子。
山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。

手水は「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」と言われた酒船石遺跡を彷彿とさせる。

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飛鳥寺(安居院)の本尊で、飛鳥大仏の通称で知られる。
1940年に重要文化財に指定されており、指定名称は「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」である。
像高は275.2センチメートル。

鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けている。

1933年に石田茂作が調査した際の所見では、頭の上半分、左耳、右手の第2?第4指は鋳造後に銅の表面に研磨仕上げがされており、当初のものとみられるが、体部の大部分は鋳放し(表面の仕上げがされていない)で後世のものと思われ、脚部は銅の上に粘土で衣文をつくっており、左手は木製のものを差し込んでいるという。

また、像の各所に亀裂があり、亀裂の上から紙を貼って墨を塗ったところも見受けられた。

聖徳太子孝養像

向かって左側には、室町時代に造られた聖徳太子孝養像が置かれています。

聖徳太子が16歳の時、父である用明天皇の病気回復を願う姿と言われています。

阿弥陀如来坐像

飛鳥大仏の向かって右側には、平安時代に造られた木造の阿弥陀如来がおまつりされています。

飛鳥寺には複数の呼称がある。
法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。

都が平城京へ移るとともに飛鳥寺も現在の奈良市に移転し元興寺となった。

一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)である。

『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている。

飛鳥時代の行基瓦の残る元興寺
最古の寺といわれる飛鳥寺がルーツ。 平城遷都にともない、この地に移転、南都七大寺 … 続きを読む →

元興寺世界遺産めぐり
元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子 … 続きを読む →


飛鳥寺(安居院)の本堂の左手前に、「思惟殿」があります。↓
堂内には、聖観世音菩薩が安置されています。

大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も飛鳥寺は尊崇され、天武天皇の時代には官が作った寺院(官寺)と同等に扱うようにとする勅が出され、文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて官寺並みに朝廷の保護を受けるようになった。

蘇我入鹿首塚と伝える五輪塔

乙巳の変で、中大兄(天智)と中臣鎌足(→藤原鎌足)らによって蘇我入鹿が暗殺されたのは、飛鳥寺の少し南の飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)であったであろうとされているようですが、その時入鹿の首がこの地まで飛んできたので、ここに埋めたとも、入鹿の首が空中に舞い上がり襲ってきたので、供養のために五輪塔を立てたとも伝えるが、確かなことではない。

万葉集と古代史の謎を訪ねて
古代史も新しい事実や解釈が出てきて面白くなってきた。 日本書紀などは改竄もあり得 … 続きを読む →


飛鳥寺の南の一帯は真神原(まがみはら)と呼ばれ飛鳥寺境内からの明日香の眺めを「真神原(まがみはら)の眺め」といい案内板には「真神原の眺め。新羅の慶州、百済の扶余と酷似している」と記載されている。

万葉歌碑

佐々木信綱博士の筆による山辺赤人の長歌と近衛文麿氏の筆による篆額(てんがく)が刻まれています。

鐘楼

1745年に建立。梵鐘は、太平洋戦争の際に供出されましたが、1958年に新しく鋳造さた。

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