藤原宮跡のコスモス

奈良県橿原市にある藤原宮跡は、日本初の本格的な都城「藤原京」の中枢部の跡。
藤原京は、7世紀末に飛鳥から遷され、平城京遷都までの16年間、日本の首都でした。

全体として柵などは設けられておらず、春ゾーン(ナノハナ)、朝堂院東ゾーン(コスモスなど)、蓮ゾーン(ハス)、夏ゾーン(キバナコスモス)、秋ゾーン(コスモス)と5つのゾーンで季節ごとの花が楽しめます。.

藤原宮跡に満開の菜の花を訪ねる
藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハ … 続きを読む →


大極殿跡の南側に3万平方メートルものコスモス畑が広がっています。

花びらの形や色の違う数種類のコスモスがあり、約300万本が一面に咲き誇ります。
大極殿跡の南東の朝堂院東ゾーンでも植栽しています。

画像後方は耳成山。

万葉の旅 大和三山を訪ねる 耳成山
耳成山は死火山。万葉集では、「耳梨山」と書かれていた。 風変わりな名前ですが、山 … 続きを読む →


煙のたなびく向こうは天香久山。

万葉の旅 大和三山を訪ねる 天香久山
天香久山は標高は152.4メートルと三山の中では標高は2番目。他の二山が単独峰で … 続きを読む →


万葉で巡る三京ウォーク(藤原京、飛鳥京、平城京)
昨日に続き今日もウォーキングです。 連休のメジャーでない観光地は人も車も少なく快 … 続きを読む →




ススキが陽光にきらめききれいです。

野焼きの煙も風情があります。

彼方には二上山を望む。

悲劇の皇子を悼み 二上山麓散策
ため池越しに二上山をのぞむ。 手前の芝生が鳥谷口古墳。 そもそも、皇子の墓所につ … 続きを読む →

二上山に沈む夕日
高見の郷の桜の後は道の駅で買い物をしたりと楽しいドライブです。 「道の駅宇陀路 … 続きを読む →


こちらは畝傍山。
万葉の旅 大和三山を訪ねる 畝傍山
かつては「畝火山」、「雲根火山」、「宇禰縻夜摩」とも記され、「慈明寺山」、「御峯 … 続きを読む →


そして遥か彼方には若草山も望めます。

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キトラ古墳壁画体験館 四神の館

「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」は、国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区内にある、体感型施設。

1階の「キトラ古墳壁画保存管理施設」では、実物の壁画や出土遺物を保存管理する施設となっています。
実物の壁画は四半期毎に期間限定で公開する予定。

入館は下の入り口から。

前は四神の広場

キトラ古墳周辺地区の最も大きな芝生広場。 

各種イベントの実施のほか、お弁当を食べたり、ゆったりくつろいだりもできる、ひろびろ気持ちのいい広場です。

エントランスホールに浮かび上がる白虎。

キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見※された壁画古墳で、壁に描かれた東西南北を守る玄武(北)、青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)や天井に描かれた精密な天文図で知られています。

四神の館は、キトラ古墳の隣にある体感型施設(入館無料)で、実物の壁画や出土遺物を保存管理しています。

頭上の天文図は、地球の自転軸は年々変化しているので、これの原本が中国で作られた年代までも推測できるのだそうです。

もちろん、世界最古の天文図です。

渡来文化と飛鳥

大陸から伝わった文化や、飛鳥時代に生まれた文化、当時の人々の生活を、2メートル四方のジオラマ等を通じて学べるゾーン。

キトラ古墳とも関わりの深い渡来人のコーナーです。

稲作の様子などが模型で展示されています。

飛鳥エリアの古代建物遺構からは、L字型カマド、大壁建物、オンドルなどの朝鮮半島由来のものが多く見つかっています。

東漢氏(やまとのあやうじ)、鞍作氏、平田氏、軽氏等々の渡来人たちが基盤を置いた飛鳥の地。

日本最古の仏像として知られる飛鳥寺の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を造ったのも鞍作止利でしたよね。

キトラ古墳は2段に造られた円墳。
発掘調査を経て現在は埋め戻され、2015(平成27)年に古代の大きさに復元されています。

古墳鑑賞広場ではその姿を一望することができます

キトラ古墳地形復元模型 雨に打たれています。

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橿原考古学研究所・附属博物館


奈良県内の遺跡から出土した貴重な資料などを展示している博物館です。
今日は畝山が少しガスっています。

奈良県立橿原考古学研究所は、奈良県橿原市畝傍町に設置された県立の埋蔵文化財調査研究機関。

奈良県に属する機関。
現在まで存続している公的な埋蔵文化財研究機関としては最も古い歴史を持つ。

橿考研(かしこうけん)と略されることもある。

昭和13(1938)年に行われた橿原遺跡の発掘調査を契機に創立された「橿原考古学研究所」は、今年で80周年を迎えます。

これを記念して、橿原考古学研究所附属博物館では、考古学・古代史研究の新たな1ページを切り開いた貴重な資料を選び、80周年記念特別展「古代の輝き-日本考古学と橿考研80年の軌跡-」が開催中です。

春季・秋季の2回にわけて実施され、開催中の春季展では、旧石器時代~古墳時代中期までの資料を、秋季展(10月6日~11月25日)では、古墳時代後期、飛鳥・奈良時代を中心とした資料が展示されます。

日本歴史を再発見・再構築し、広く伝えてきた橿原考古学研究所。その80年の歩みに触れられる、充実した内容です!

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古代の墓 橿原考古学博物館


土壙墓(どこうぼ)
縄文時代晩期 前1000~400B.C
御所市観音寺本馬遺跡

人骨の近くに解説パネルがありました。

観音寺本馬遺跡(橿原市・御所市)で発掘された縄文時代晩期(今から約3,000年前)の土壙墓(どこうぼ)と呼ばれるお墓です。

この土壙墓からは、埋葬状態をよく示す人骨が出土しました。
そこで、発掘現場から遺構ごと切り取って、当研究所に持ち帰り、展示のために保存処理をおこないました。

埋葬状態と特徴

出土した状況から、1体分の人骨が、手足を折り曲げた屈葬の状態で、あお向けに埋葬されていることがわかります。

人骨の特徴から、埋葬された人物は20~60歳(比較的若い可能性がある)の男性であることがわかりました。

また、推定身長は約165cmで、縄文人の平均身長(158前後)に比べると、背の高い人物だったといえます。

奈良県では、縄文時代の人骨の出土例が極めて少ないことから、当時の埋葬方法と縄文人の特徴を知る上で、たいへん貴重な資料です。

土器棺墓

子どもが亡くなったときは、特別な扱いがされた。

大人の葬られる墓地にではなく、集落のはずれに葬ることがあった。
大きな甕(かめ)を棺とし、鉢や高杯(たかつき)で蓋をしたものが発見されている。

広い中庭のある博物館も珍しいと思われるのですが、その中庭の廊下に桜井市ホケノ山古墳の家形石棺が展示されていました。

こうして見ると、やはり存在感が違いますね。
蓋の部分には縄掛突起のようなものも見られます

太安萬侶墓(太安万侶墓)

昭和54年(1979年)、茶畑の開墾中に偶然に発見された墓室の中から遺骨や真珠とともに銅版製の墓誌が見つかりました。

墓誌には、日本書紀と並ぶ最古の歴史書である「古事記」の編纂者の太安萬侶の名前が刻まれており、現在のJR奈良駅の西に住み、養老7年(723年)に亡くなったことが記されていました。

このことにより、太安萬侶は、実在の人物であったことが証明されました。

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水のまつり 橿原考古学博物館


奈良県御所市南郷大東(なんごうおおひがし)遺跡は、幅6mほどで深さ1.2mほどの小川を石積みでせきとめて水を溜め、そこから木樋で小屋に導水して水の祭りをしていました。

小屋の周りは柵で囲まれ、導水木樋の両側に人々が集まって笛や太鼓を鳴らしながら、神を鎮める祈りを捧げます。

小屋周辺から木刀・弓・盾・琴・サルノコシカケ・桃の種などの祭祀用具や多量の「焼けた木片」があり、祭りは夜に行われたことが分かっています。

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斑鳩に眠る二人の貴公子 橿原考古学博物館

藤ノ木古墳は未盗掘の横穴式石室で、家形石棺に成人男性2人が合葬されていた。

副葬品が金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などであるからこの当時の支配階級の一人であったと考えられているが、円墳であることから大王クラスではないが、貴金属を用いたきらびやかな副葬品が多いことから強大な権力を持った人物であったと推測されている。

前園実知雄(奈良芸術短期大学教授)や白石太一郎(奈良大学教授)は、2人の被葬者が『日本書紀』が記す587年6月の暗殺時期と一致することなどから、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部皇子の可能性が高いと論じている。

一方、井沢元彦や高田良信(法隆寺長老)は副葬品や埋葬の様子から「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟でこれもまた蘇我馬子が東漢駒に暗殺させた第32代崇峻天皇が合葬された」との説を主張した。

なお、南側被葬者については、女性説も存在する。

金銅飾履=葬儀に使う装飾用の履物。
精巧な文様が彫られた金銅板で作られている。

三国時代、特に百済で多く製作されたと伝えられている。
公州の武寧王陵、公州の水村里(スチョンリ)古墳群、高敞(コチャン)の鳳徳里(ポンドクリ)1号墳など、馬韓・百済圏の13の遺跡で合計17点が出土した。

死者の魂がより良い場所に昇っていけるよう願う子孫の願いが履き物という象徴性に込められている。

金銅製筒形品

金銅製鞍金具

木製の鞍部の鞍橋(くらぼね)に取付られた金属板で「前輪」と「後輪」から成る。
古代東アジアにおいても類例を見ない、精緻な透彫りが施されている。

前輪、後輪の覆輪、海金具、磯金具がほぼ元のままで残っている。
覆輪と磯金具にはパルメット唐草文が彫られている。

海金具を構成する六角繋ぎの文の中には、象、鳳凰、兎、竜、獅子、マカラといった動物文、パルメット文などの植物文が透かし彫りされている。

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宮山古墳 橿原考古学博物館


宮山古墳(葛城襲津彦の墓とされている、全長238m・5世紀中)の埴輪群。


宮山古墳の埴輪。

室宮山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説として武内宿禰(たけしうちのすくね/たけうちのすくね)の墓に比定する説が知られる。

中世の『帝王編年記』仁徳天皇78年条の記す一説では、武内宿禰は大和国葛下郡で薨じ死所は「室破賀墓」であるとしており、同記の編纂当時(南北朝時代頃)には本古墳に関して武内宿禰被葬者説が存在したことが知られる。

ただし、この武内宿禰は7世紀頃の創出と見られる史実性の薄い人物になる。

別説として近年では、被葬者を葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)に比定する説が有力視される。

この襲津彦は『古事記』で武内宿禰の子に位置づけられる人物で、記紀以前の『百済記』にも類似名称の記載があることから、4世紀末から5世紀前半頃の実在性が有力視される。

襲津彦の活動時期は本古墳の築造時期とも一致し、また朝鮮半島に派遣されたという襲津彦の人物像は北石室出土の船形陶質土器とも関連づけられるが、本古墳を襲津彦の墓とする明確な根拠は知られていない。

また葛城襲津彦に比定する場合でも、記紀の記す襲津彦の人物像にはモデル人物が複数存在する可能性があるため、本古墳の被葬者と一対一に対応するものではない。

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橿原考古学博物館 仏教遺物 塼(せん)


天人文塼 (せん)
奈良時代 岡寺

大型多尊塼 (せん)仏
飛鳥時代 当麻寺

鳳凰文塼(せん)
奈良時代 岡寺

方形三尊塼 (せん)仏
飛鳥時代 川原寺裏山遺跡

塼は中国で焼成される立方体あるいは直方体の煉瓦(れんが)で、専、甎、磚とも書く。

立方体のものは方、直方体のものは条あるいは長方の名があり、内部が中空のものを空または坑という。
黒色か灰色を呈し、空は中国では戦国時代から墓室の構築に用いられ、このような墓は室墓とよばれる。

方は床に敷くほか、秦(しん)・漢代以降は表面に文字や文様を刻んで壁面に用いたものがあり、唐代には浮彫りによる蓮華(れんげ)文や宝相華(ほっそうげ)文などの装飾が施された画像が出現する。

もっとも一般的なものは条で、前漢末から城壁・家屋・墓室の構築に用いられた。
わが国へは朝鮮から導入され、仏教建築の建立に伴い、基壇側面の化粧積みや床面に瓦(かわら)とともに利用された。

これらのなかで壁面に用いたものとしては、奈良の岡寺出土の天人文・葡萄唐草(ぶどうからくさ)文・鳳凰(ほうおう)文が著名で、同じく川原(かわら)寺出土の緑釉(りょくゆう)波文は須弥壇(しゅみだん)上に蓮池(れんち)として敷かれたと考えられて注目される。
 
ほかに画像として仏がある。

中国南北朝時代から三尊仏・五尊仏・千体仏などが制作されたが、わが国では奈良の川原寺・橘(たちばな)寺、三重の夏身廃寺(なつみはいじ)出土の三尊仏や五尊仏が代表的遺例で、千体仏では独尊・四尊・十二尊の形式がみられる奈良の山田寺出土のものが名高い。

とくに山田寺出土の千体仏は独尊のスタンプが押し並べられ、上に金箔(きんぱく)をはって壁面を華麗に飾ったものと推定されている。

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雨の日 十輪院を訪れる


予期せぬ雨になってしまった、久しぶりに十輪院を訪問。

本堂(国宝)
この建物は内部にある石仏龕を拝むための礼堂として建立された。
近世には灌頂堂とも呼ばれていた。

石造不動明王立像

鎌倉期の作、高さ205センチメートル、一部に彩色が残る。

ここには川島英五が眠る。

ハギはやや早いかな、雨に打たれている。

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懐かしきかな


本薬師寺跡に行く途中、ポポーを見つけた。

田舎で父親が育てていて、子供のころよく食べた、それ以来見かけることもなかったが懐かしさのあまりかけよった。

ポーポー(英語: Pawpaw、学名:Asimina triloba)は、バンレイシ科に属する落葉高木。
果実を食用とする。
北米原産。明治期に日本に持ち込まれた。

ポポーやポポーノキ、ポポ、アケビガキとも呼ばれる。

春に腐肉臭のする紫色の花をつけ、秋には黄緑色の薄い外果皮を持つ果実をつける。

果実は大小不揃いになりやすいが、小さくとも完熟する。完熟すると木から自然に落下するが、その時から数日後香りが強くなってきた頃が食べ頃である。

果肉は黄色から薄いオレンジ色でねっとりとした食感。とても甘く、香りが強い。
この強い芳香のために、人によって好き嫌いが別れる。中には多数の黒い種子がある。

日本では明治頃から富豪の屋敷で栽培が始まり、細々と実生苗が出回った(高価で)。
戦後には主食として食べる家もあったという。

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