初秋の馬見丘陵公園


県営「馬見丘陵公園」は、奈良県広陵町と河合町の両町にまたがる公園です。
わが国でも有数の古墳群と、良好な自然環境が残された地域にあります。

日中はまだ暑い日が続いていますが季節はもう秋。

紅葉の早い桜はもう色づいています。

タカノハススキの群生がきれいです。

少しちさいがパンパスグラスも存在感を示しています。


「花の道」では、ニューギニアインパチエンス(桃色や白色の花)、宿根サルビア(紫色の花)やコスモスなどが綺麗に咲いています。

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馬見丘陵公園 ダリアが見頃


奈良県は、ダリアの球根生産量が日本一です。

北エリアの「ダリア園」では秋になると、約120品種1,000株のダリアが一斉に咲き誇ります。

ダリア園の見頃は例年、10月上旬から11月上旬にかけてです(皇帝ダリアは11月中旬から12月上旬です)。

また、ダリアの開花シーズンである10月上旬~中旬には「馬見フラワーフェスタ」を開催しています。

ねむの雨

黒蝶

大海原

白陽

京美人



弁慶

宇宙

トンボを見かけましたもう秋ですね。

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万葉文化館


奈良県立万葉文化館は奈良県高市郡明日香村にある美術館・博物館。
日本最古の歌集『万葉集』をテーマとする。

『万葉集』は、古く5世紀から、8世紀にかけて詠まれた4500余首を収めたわが国最古の歌集で、日本人の心の古典、言葉の文化遺産といえる。そのなかでも、奈良を対象に詠まれた歌が最も多く、県内各地には『万葉集』ゆかりの歴史的風土・自然景観が多く残されている。

「歌の広場」(古代の市空間を再現)「さやけしルーム」(万葉人が感じたであろう、音や光を体験)「万葉劇場」(人形や映像などを用いて万葉の世界を紹介)などの展示が行われている。

平成13年9月に、建設費約140億円の巨額資金を投入して明日香村飛鳥に開館したが、当初、年間25~30万人と見込んでいた入館者数は半数以下の10万人前後と低迷を続けており、存続そのものが問われている。

以前の訪問時、展示の紹介を行った。
万葉人のくらし
万葉人はどのように暮らし、どんな恋をし、どんなふうに四季の移ろいを眺めたのでしょ … 続きを読む →

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ゾロアスター教徒の飛鳥時代伝来説 酒船石遺跡


以前から知られている酒船石に加えて、平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになった。

この命名は明日香村教育委員会によるが、研究者の間では酒船石と亀形石造物との関連性を疑う意見も強く、この名称は適当ではないとの意見も存在する。

平成4年(1992年)に酒船石の北の斜面で石垣が発見され、『日本書紀』の斉明天皇の時代に記述される工事に該当する遺跡と推測されている。

記述中の「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」の「宮」が酒船石の南西にある伝飛鳥板蓋宮跡であり「東の山」が酒船石のある丘ということである。

松本清張の小説『火の路』は、酒船石(さかふねいし)の前で、若き古代史の研究者 高須通子とカメラマン 坂根要助、福原副編集長が出会うシーンから始まる。

ペルシア人・ゾロアスター教徒の飛鳥時代伝来説を描き話題を呼んだ、著者の古代史ミステリーの代表的長編。

『火の路』(ひのみち)は、松本清張の長編推理小説。『朝日新聞』に『火の回路』のタイトルで連載され(1973年6月16日 – 1974年10月13日)、改題の上、1975年11月・12月に文藝春秋から刊行された。

1976年にテレビドラマ化されている。

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夫婦和合の奇祭「おんだ祭」で知られる飛鳥坐神社


飛鳥坐神社は、奈良県高市郡明日香村にある神社。
式内社(名神大社)で、旧社格は村社。

2月第1日曜日(元は旧暦1月11日)のお田植神事「お田植祭(おんだまつり)」には、天狗や翁が竹棒で人々を追い回して叩いたり、夫婦和合の所作(種まき前の胤付けの意で、天狗とオカメが性行為、特に正常位を踊る)があり、奇祭として知られている。

境内には、男性器を模した石が多く安置されている.

画像はあまりにもリアルではばかりがあるので省略、実際に現物を見ることをお勧めする。。

創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。

創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。

また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条に「奉幣 於居紀伊国国懸神 飛鳥四社 住吉大社」とあり、天武天皇の病気平癒祈願のため幣帛が奉られた。
『日本紀略』によれば、天長6年(829年)、神託により、現在の鳥形山へ遷座した。(遷座する前の場所については諸説ある)

寛永17年(1640年)に高取城に入った高取藩初代藩主・植村家政は、高取城の鬼門に当たる当社を深く信仰した。

享保10年(1725年)に里からの火災により社殿の大半を焼失したため、天明元年(1781年)に高取藩8代藩主・植村家利により再建された。

平成13年(2001年)、大滝ダム建設に伴って移築することとなった吉野の丹生川上神社上社から旧社殿を譲り受け、天明以来200年を経て老朽化していた社殿を再建した。

折口信夫 – 折口信夫の祖父・酒造ノ介は、岡寺前の岡本善右衛門の8男であったが、当社81代宮司飛鳥助信の養子となった上で折口家に入った。

父・秀太郎の代には交流は途絶えていたが、明治33年(1900年)夏に初めて当社に参詣し、同37年には祖母・つた、叔母・えいと共に参詣し旧交を復した。

折口は、祖父が大和飛鳥の由緒ある神社の出自であったことを終生誇りにしており、慶應義塾の教授時代にもよく学生を連れて飛鳥を旅している。

今日のお昼は手打ち十割そば 山帰来(さんきらい)

十割蕎麦とは思えないほどのなめらかな喉越しは感動を覚えるほど。

サクサクに揚がった桜エビの天ぷら、珍しい紫色の辛味大根、少し甘めのツユを一緒に味わえば、口いっぱいに爽快感が広がります。
おすすめです。

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日本で最初の仏教寺院 飛鳥寺


飛鳥寺は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。
蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身。

本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子。
山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。

手水は「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」と言われた酒船石遺跡を彷彿とさせる。

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飛鳥寺(安居院)の本尊で、飛鳥大仏の通称で知られる。
1940年に重要文化財に指定されており、指定名称は「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」である。
像高は275.2センチメートル。

鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けている。

1933年に石田茂作が調査した際の所見では、頭の上半分、左耳、右手の第2?第4指は鋳造後に銅の表面に研磨仕上げがされており、当初のものとみられるが、体部の大部分は鋳放し(表面の仕上げがされていない)で後世のものと思われ、脚部は銅の上に粘土で衣文をつくっており、左手は木製のものを差し込んでいるという。

また、像の各所に亀裂があり、亀裂の上から紙を貼って墨を塗ったところも見受けられた。

聖徳太子孝養像

向かって左側には、室町時代に造られた聖徳太子孝養像が置かれています。

聖徳太子が16歳の時、父である用明天皇の病気回復を願う姿と言われています。

阿弥陀如来坐像

飛鳥大仏の向かって右側には、平安時代に造られた木造の阿弥陀如来がおまつりされています。

飛鳥寺には複数の呼称がある。
法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。

都が平城京へ移るとともに飛鳥寺も現在の奈良市に移転し元興寺となった。

一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)である。

『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている。

飛鳥時代の行基瓦の残る元興寺
最古の寺といわれる飛鳥寺がルーツ。 平城遷都にともない、この地に移転、南都七大寺 … 続きを読む →

元興寺世界遺産めぐり
元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子 … 続きを読む →


飛鳥寺(安居院)の本堂の左手前に、「思惟殿」があります。↓
堂内には、聖観世音菩薩が安置されています。

大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も飛鳥寺は尊崇され、天武天皇の時代には官が作った寺院(官寺)と同等に扱うようにとする勅が出され、文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて官寺並みに朝廷の保護を受けるようになった。

蘇我入鹿首塚と伝える五輪塔

乙巳の変で、中大兄(天智)と中臣鎌足(→藤原鎌足)らによって蘇我入鹿が暗殺されたのは、飛鳥寺の少し南の飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)であったであろうとされているようですが、その時入鹿の首がこの地まで飛んできたので、ここに埋めたとも、入鹿の首が空中に舞い上がり襲ってきたので、供養のために五輪塔を立てたとも伝えるが、確かなことではない。

万葉集と古代史の謎を訪ねて
古代史も新しい事実や解釈が出てきて面白くなってきた。 日本書紀などは改竄もあり得 … 続きを読む →


飛鳥寺の南の一帯は真神原(まがみはら)と呼ばれ飛鳥寺境内からの明日香の眺めを「真神原(まがみはら)の眺め」といい案内板には「真神原の眺め。新羅の慶州、百済の扶余と酷似している」と記載されている。

万葉歌碑

佐々木信綱博士の筆による山辺赤人の長歌と近衛文麿氏の筆による篆額(てんがく)が刻まれています。

鐘楼

1745年に建立。梵鐘は、太平洋戦争の際に供出されましたが、1958年に新しく鋳造さた。

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突然猫が・・・・・


2月堂の夕日の撮影を終えて登楼を降りていると突然猫が横切ったのです。

一番最後に降りたのでもう誰もいないと思い移動を始めたらしい。

見るとかわいい子猫ではないか。

今度は鹿の群れです。
裏参道を降り大極殿の角を左に曲がったところ。

ちょうど2月堂への参道、鹿がねぐらへ帰る群れと出くわしたのです、40~50頭はいたでしようか。
唖然として見送った。

大極殿、誰もいない、きれいなブルーの中を急ぐ。

前方には南大門、二人連れがゆく。

振り返ると大極殿、ブルーの中に浮かぶ。

南大門、奥に大極殿が闇に浮かぶ。

東大寺境内の重要なランドマークとも言える「南大門」ですが、その歴史は大仏殿等と同じく「奈良時代」にまで遡ります。

但し奈良時代から建設されていた門は平安時代中期の応和2年(962年)8月に台風の被害を受け倒壊し、200年以上経過してから鎌倉時代の正治元年(1199年)に東大寺中興の祖として現在も広く知られる「重源」が指揮を取る中で復興されたものが現在の南大門となっています。

闇に浮かぶ吽形像。
素晴らしいコントラスト。

正面から見て門の左側には阿形像、右側には吽形像が安置されていますが、これらは鎌倉時代の天才的仏師(仏像を造る職人)である運慶が指揮をとり、快慶らとともに彫り上げたもので、門が完成した後、建仁3年(1203年)にわずか69日間の製作期間で造り上げられたと言われています。

なお、夜間には阿吽も含め周辺がライトアップされ、運慶らの「才能」をひときわダイナミックに鑑賞できます。

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絶景 2月堂の夕日


鹿も暑いのか心なしか日陰に集まっているように見える。

夕日を求めてまたまた2月堂へやってきた。

夕日を待つ人たち、それぞれに待つ時間を楽しむ。

青銅製の手水鉢を沈みかけた夕日が直撃、素晴らしい陰影を見せる。

そろそろ夕日タイム。

空を真っ赤に染めて生駒の山に沈む夕日。

沈み切る前からすでにトワイライトのブルーが始まっているようだ。

青と赤のコントラストが何とも言えない。

いよいよブルーの世界。

人も三三五五と家路へつく。

松明が駆け上がる登楼から降りる、途中猫が飛びたすハプニングあったが改めて。

最後は好きな裏参道を下る、司馬さんもこの景色がすきだった。

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奈良県立民俗博物館


博物館の周囲に広がる大和民俗公園は、26.6万平方メートルの広大な敷地を有する都市公園で、自然との共生の場、里山も保持している。

梅林や菖蒲園で四季折々の草花を眺めたり、森林浴ウォーキングなども楽しめる。

奈良県内各所で江戸時代に建てられ実際に使われていた茅葺き屋根などの様々な建築様式の家屋(民家・土蔵)11件(15棟)を公園内に移築・展示している。

うち、2件(3棟)が日本国の重要文化財、7件(10棟)が奈良県指定有形文化財となっている。

こちらは唐箕(とうみ)。

風のチカラで穀物の実と、秕(しいな)・籾殻(もみがら)を吹き分ける農具です。

秕(しいな)とは、空ばかりで中身の無い籾(もみ)のことを言います。

必要なものと不要なものを選別する道具というわけですが、お米の国に生まれていながら唐箕のことを知らない人も多いのではないでしょうか。

水車を踏む風景。

奈良盆地のあちこちで、このような風景が見られた。

足踏脱穀機

足踏式脱穀機は、人が踏板を踏むとこぎ胴が自動的に連続回転するように工夫されていた。

その後、こぎ胴を発動機(ガソリンエンジン)や電動機(モーター)で回転させる脱穀機が登場し、脱穀作業の能率は飛躍的に高まった。

千歯扱き、千把扱き(せんばこき、せんばごき、せんばこぎ、せんばすごき)

木製の台に付属した足置きを踏んで体重で固定し、櫛状の歯の部分に刈り取った後に乾燥した稲や麦の束を振りかぶって叩きつけ、引いて梳き取る。

稲の場合にはこれで穂から籾が落ちるので、脱穀が完了する。

麦の場合には穂が首から折れて穂のまま落ちるので、これをさらに叩いて脱穀する。

山仕事、過酷で危険な重労働でした。

都市生活者はこのような光景を目にしたこともないのでは。

木馬(きんま)出し(ソリで運ぶ)。

割り木をならべた木馬道の上に、ソリをすべらせ、木を山からおろす。

木馬は枕木と摩擦して火を発することがあるので、木馬師は前に吊るした筒の中の油を枕木に塗りつつ、舵を取っていく。
なかなか重労働で、危険な作業。

こちらは筏流しの様子。

木で筏を組んで川に流します。
山があればそこには川があります。

川も重要な輸送経路であった。

機織りの様子。
日本昔ばなしでなじみがあるかも。

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古民家を訪ねて 十津川村の民家 旧木村家住宅(県指定文化財)


吉野郡十津川村大字旭字迫に所在していた山間の家で、農林業を営み、幕末頃には村役を務めたと伝えられている。

屋敷は狭い谷間の山腹を削って作られ、主屋をはじめ表門、納屋、物置の付属屋から構成されています。

主屋は棟札から文政4(1821)年に建てられたことがわかっています。

桁行12.5メートル、梁間7.3メートルの切妻平入の構造で、屋根は杉皮葺です。内部は「だいどころ」、「でい」、「なんど」、「ひろえん」などに分かれています。

この家が所在した当地は「迫と背中は見ずに死ぬ」言いならわされたほど山深い峡谷の地である。

また、全国でも最多降雨の一地帯であり、さらに季節によって、風が谷間から猛烈に吹上げる土地柄でもある。

その様な厳しい自然環境のため、県北部の民家とは姿や間取りが大きく異なっている。

主屋の建築当初の規模(間口4間、面積16.5坪)から増築をへて、さらに納屋・表門が建てられ、屋敷構えが拡充してきた過程も併せ示す好資料である。

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