十輪院


立春は過ぎたがまだまだ寒い日が続く、そんな寒い日、十輪院を訪問。

境内は静かです。

池ではつがいの河童がお愛嬌。

寺伝によると、元正天皇(715-724)の勅願寺で、元興寺の一子院といわれ、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)の開基とも伝えられている。

「十輪院」の名称の文献上の初見は、鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』(弘安6年・1283年成立)とされている。

現存する本堂、石仏龕(せきぶつがん)、東京へ移築された宝蔵などはいずれも正確な年代は不明ながら鎌倉時代のものとされており、鎌倉時代には地蔵信仰の寺院として栄えていたと思われる。

こちらには河島英五のお墓があるので有名。

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日暮れ時の鹿たち


日暮れ時ともなると鹿たちは寝床へ急ぐのか群れで行動しています。

おしりの白いハートマークかわいいね。

でも、危険が訪れた時に白いお尻が変化します。
なんと1.5倍ほど大きくなります!

真っ白い毛を逆立て、危険が近づいていることを周りのシカに伝えているのです。

落ちる陽を浴びながら歩く。

オスとメスがじゃれあっています。
中むずましぃのですね。

もう陽が沈みかけています。

ねぐらの林はすぐ目の前。

地域の人は鹿の個体識別ができるようです。
日暮れ時ともなると鹿に名前で呼びかけている姿を目にします。

呼ばれた鹿はそそくさと駆け寄りえさをもらいます。

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奈良公園の夕焼け


冬の空、鉛色の雲がかかる。

荒池からの興福寺五重塔。

落ちようとする陽と鉛色の空のコントラスト。

センダンの実が残り、まるで花が咲いたよう。

面白い木を発見。

飛火野の夕焼けの始まり、皆それぞれに夕景を楽しむ。

沈む夕日をとらえた。

赤く染まる空を期待したのだが・・・・そろそろ夕闇が迫る。

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なら瑠璃絵 東大寺 夜間特別拝観


南大門(国宝)
平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。

上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられている。

これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたもの。

木造金剛力士像(国宝)もライトアップされている。

闇に浮かぶ中門(重要文化財)と金堂(大仏殿)(国宝)。

観相窓を開扉されライトアップされた金堂。

ズームアップ。

なら瑠璃絵でじっつされている夜参り提灯の皆さん。

金剛力士像の右足、力強さを感じる。

金剛力士像の左足。

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なら瑠璃会2018


~しあわせ回廊~なら瑠璃絵は、早春の2月に奈良を代表する三社寺(春日大社、東大寺、興福寺)を幻想的な「光の回廊」でつなぎ、美しく神秘的な瑠璃絵の世界を演出します。

ここ奈良春日野国際フォーラム甍では庭園イルミネーションが幻想的で神秘な空間を体感できます。

凛と冷えきった冬の空気に、染みわたるような青い光が輝く。

いつまでも瑠璃色の星が美しく輝くようにとの願いが込められています。。

画像は無料ゾーンから撮影したものですが、有料でイルミネーションの中を歩くこともできます。

きれいさに寒さを忘れていたが、奈良の冬は冷え込みます、そそくさと次の会場へ向かう。

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馬見丘陵公園のダリア


サルスベリ、ハナミズキなどが色づきすっかり秋です。

「ダリア園」前の花壇、たくさんのサルビアが開花していました。

インパチェンスもきれい。

奈良県は、ダリアの球根生産量が日本一。

当公園のダリア園では秋になると、約120品種1,000株のダリアが一斉に咲き誇ります。

花の大きさが30~40cmにもなる「エモリーポール」をはじめ、草丈が4~5mもの高さになる「皇帝ダリア」、奈良県内で作出された「奈奈」など、さまざまな種類を楽しめます。

その華やかな容姿からか、ダリアの花言葉は「優雅さと気高さ」とされます。
キク科に属するダリアは、菊の花と同じくその花期は秋とされます。

メキシコからグアテマラにおよそ15種が分布。

現在広く親しまれているのは、野生種を掛け合わせて作られた園芸品種群。

非常に多くの品種があり、花の形や大きさなどで細かく分類されている。

「ダリア」 (dahlia) の名は、スウェーデンの植物学者でリンネの弟子であったアンデシュ・ダール (Anders Dahl) にちなむ。

和名は、花の形がボタンに似ているため、テンジクボタン(天竺牡丹)と呼ばれた。

コリウス

花を咲かせずに育てれば、初夏から秋まで長く楽しむことができます。

和名は金襴紫蘇(きんらんじそ)、錦紫蘇(にしきじそ)。

葉は平滑なもの、深い切れ込みの入ったものや縮れのあるものなどがあり、葉の色はえんじ色・オレンジ・明るい黄色・サーモンピンクなど、レインボー系と呼ばれる、それらの色に緑の縁取りのついたものがポピュラーである。

[ペニセツム・ピロスム]

この植物は開花後、ススキやタンポポのように風で種が運ばれガーデンに広がります。

和名はギンギツネ。

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古代史と万葉の史跡を訪ねる 高鴨神社


高鴨神社の朱色の鳥居。

高鴨神社境内の宮池と、浮舞台で奉納される雅楽と舞は奈良県景観資産にも登録されています。

その美しい水辺景観は、日本神事の原点を見るようでもあります。

仲秋の名月には雅楽などによる観月演奏会が催され、境内にはより一層雅な雰囲気が醸されます。

拝殿は石段を上った所にある。

高鴨神社(たかかもじんじゃ)は、奈良県御所市の金剛山東山麓にある神社。

式内社(名神大社)。社格は県社。京都の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社と称する。

4月中旬から5月初旬にかけて500種2,200鉢以上の日本サクラソウが咲く。

阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)を主祭神とし、下照比売命・天稚彦命を配祀する。

当地は鴨氏一族の発祥の地であり、その氏神として祀られたものである。

鴨氏はこの丘陵から奈良盆地に出て、葛城川の岸辺に移った一族が鴨都波神社を、東持田に移った一族が葛木御歳神社を祀った。

後に、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった。

「カモ」は「カミ」と同源であり「カモす」という言葉から派生し、「気」が放出している様子を表しています。

当神社の神域は鉱脈の上に重なり、多くの「気」が出ていることでも有名です。

夏場に参詣されますと、涼しく感じられるのはその為です。「気」は身体に大変よく、ぜひ神域を巡られて神様の「気」をお受けになられ、心身共に甦られることをお祈り申し上げます。

~高鴨神社 パンフレットより~

宇賀御魂命を祀る稲荷神社の鳥居。

八幡社、一言主社、猿田彦社、聖社などが木々に囲まれた参道沿いに祀られており、さらに進んで行くと朱色の鳥居が目印のお稲荷さんがありました。

ここのお稲荷さんだけは、右手の石段を少し上がった所に祀られていました。

古代史と万葉の史跡を訪ねる葛城の道の旅も終わりです。

バスの車窓からの大和三山、この日もただ暑く、バスの座席に座り冷気を浴び一息。

帰りに立ち寄った道の駅、暑いけれども、空は澄み渡り気持ちいい一日であった。

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古代史と万葉の史跡を訪ねる 高天寺 橋本院


橋本院の入り口の万葉歌碑 
「 葛城の 髙間の草野(かやの) 早や知りて
     標(しめ)刺さましを 今ぞ悔(くや)しき
 」   巻7-1337 作者未詳

( 葛城の髙間の草野、そこをいち早く見つけて、「ここは俺のものだ」と目印を
  立てておけばよかった。
  いつの間にか他人に刈られてしまったわい。悔しい! )

草野は屋根材の最高級品とされた茅(かや)の群生地のことで、当時このあたりに生い茂っていたようです。

この歌は「草に寄す」に分類されているので、草野は若く美しい女性の譬えとされ、標刺すは我が物にすること。

目を付けていた女性が、知らない間に他人と一緒になった悔しさを詠っています。

葛城古道から見た橋本院、季節ごとの花のきれいな寺としても有名で、アジサイもその一つ。

長い参道にはユリなど季節の花が美しい。

真言宗のお寺で、ご本尊は十一面観世音菩薩像。

ご本尊はお彼岸などのお寺の行事の時や毎月開帳される。

高天寺は奈良時代に元正天皇の勅により行基が開いたとされる。

鑑真和尚も聖武天皇の任命により高天寺の住職になったほど、格式の高い寺院です。

また修験道の祖と崇められる役の行者のこの寺で修行を積んだと伝えられています。

奈良時代には高天原エリア一帯に敷地がひろがる大きな寺院でした。

時代の移り変わりとともに奈良の興福寺に属し、後に弘法大師の真言宗に属しました。

一時は大寺院として勢力を誇った高天寺でしたが、中世に入り南北朝時代になると 高天寺は戦乱で焼き払われ、なんとか一院だけ焼け残りました。

この院がちょうど池の橋の横にあったことから「橋本院」と呼ばれるようになり このことから現在は「高天寺 橋本院」として信仰を集めています。

カメラマンのファンの多い「瞑想の庭」

高天寺・橋本院での見所はなんといっても「瞑想の庭」と呼ばれる庭園。

白雲岳を背景に四季おりおりの草花が 野趣あふれる形で楽しむことができます。
葛城古道を紹介するテレビの収録が数多く行われているお庭です。

奈良盆地の西南、大阪府と奈良県の境に連なる二上、葛城、金剛山の峰々は古くは総称して葛城山(かつらきやま)とよばれていました。

その東側の山裾(奈良県側)を南北に辿る道が葛城古道で、古代豪族葛城氏や鴨氏の本拠地とされています。

葛城氏は天皇家との結びつきが強く、その祖とされる襲津彦(そつひこ)の娘が仁徳天皇の皇后、磐姫、万葉集最古の歌を詠んだといわれる女性です。

「 葛城の 襲津彦真弓(そつびこまゆみ) 新木(あらき)にも
   頼めや君が  我が名 告(の)りけむ
 」
                          巻11-2639 作者未詳

 ( 葛城の襲津彦(そつびこ)の持ち弓、その新しい弓材が強いように
  あなた様は私を強く信じ切って下さった上で、私の名を他人に明かされたのでしょうか)

古代、恋人の名を他人に告げることは禁忌とされていました。

他人の口から人の名が発せられると、その人の魂が抜け出てしまい、お互いの関係が消滅すると考えられていたのです。

この歌の作者は、自分の名を明かした男に、
「 なぜ人に教えたの.
  教えても私の気持ちが心変わりしないと強く信じておられたの。
  それとも、もうお互いの関係は終わっても良いという心づもりなので
  しょうか 」 と問い詰めています。

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古代史と万葉の史跡を訪ねる 高天彦神社


創建は不詳。金剛山東麓に鎮座し、元々は社殿後背の白雲岳(白雲峰、標高694メートル)を神体山に祀った神社とされる。

元々は当地の地主神の「高天彦」を祀ったものと推測される。

社名・神名の「高天(たかま)」は一帯の地名でもあり、神話に見える高天原の伝承地とする説が古くからあるほか、高皇産霊神の神名の転訛が由来とする説、高皇産霊神の別名が「高天彦神」とする説、「高間」すなわち金剛山中腹の平地を意味するとする説がある。

『万葉集』では、「葛城の高間」と詠まれた歌が知られる(巻7 1337番)。

『延喜式』神名帳では宇智郡に高天岸野神社・高天山佐太雄神社が見え、いずれも五條市の金剛山中腹の神社に比定されることから、「高天彦神」を金剛山の神霊そのものとする説もある。

葛城の 高間の草野 早知りて

            標刺さましを 今ぞ悔しき

葛城の高間の草野を早くに知っておればシメを立てたものを、今となっては 悔しい!

参道の老杉>

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古代史と万葉の史跡を訪ねる 一言主神社


葛城古道界隈は風情のある民家が続く。

綏靖天皇は神武に次ぐ第二代の天皇で、その存在については疑問視されています。

しかしながらこの辺りは葛城襲津彦の子にして第十六代仁徳天皇の皇后である磐之姫の古郷と言われ、古事記には磐之姫が熊野に行っている間に天皇が八田若郎女を宮中に入れ遊び戯れている話を知り、大いに怒って(磐之姫は嫉妬深いことで有名)宮中に帰らず、堀江を遡って山代へ向かい、更に奈良山の手前まで行き次の歌を詠んだとされます。

 「つぎねふや 山城川を 宮のぼり わがのぼれば あおによし 那良を過ぎ をだて 大和を過ぎ わが見がほし国は 葛城高宮 吾家のあたり

いずれにしてもこの地が古代の天皇家と深い関わりがあったのではないでしょうか。

嫉妬にまつわる逸話

古事記下巻仁徳天皇条には「その太后石之日売命、甚(いと)多く嫉妬(ねた)みたまひき。
故、天皇の使はせる妾(みめ)は、宮の中に得臨(えゆ)かず、言立てば、足もあがかに(=地団太踏んで)嫉妬みたまひき」という記述が見られるように、妬み深い人物として知られる。

その様から他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇は宮殿を離れた時か、彼女が宮殿から出かけた時に迎えいれるしかなかったという。

ただ、裏を返せばそれだけ仁徳天皇が多情であったということであろう。

『古事記』には、仁徳は黒日売(くろひめ)という美女を見初めたが、黒日売は石之日売の嫉妬を怖れて国に帰ったという話を伝えている。
『日本書紀』には、仁徳が女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが磐之媛の嫉妬が強くて召し上げられないと嘆く話が出てくる。

天皇が八田皇女(八田若郎女)を宮中に迎えたことへの太后の怒りについては記紀ともに伝えている。

太后が豊楽(とよのあかり。酒宴のこと)の準備のために、料理を盛る木の葉御綱柏(みづなかしわ)を採りに紀伊の国へ行った留守中に、天皇が八田皇女を後宮に納れたことを知り、採取した御綱柏をすべて海に投げ捨て、天皇の元へ戻らなかった。

『古事記』では、独り身を歌った八田皇女の天皇への返歌が添えられており、そのことから、八田が身を引き天皇と石之日売は和解したという研究者の解釈がある。

また、その後起こった女鳥王(八田皇女の妹)とその夫・速総別王の討伐(仁徳に求婚された女鳥王は石之日売の怒りを怖れて速総別王と結婚したが仁徳の怒りを買って二人とも殺害された)ののちの酒宴に再び石之日売が登場し、討伐を実行した武人・山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)の妻が女鳥王の腕輪をつけていることに気付き、「主君の屍から腕輪をはぎ取り、妻に与えるとは無礼だ」と激怒し、山部を死刑に処した、と記している。

『日本書紀』では、天皇の浮気を知った磐之媛は実家の葛城高宮を懐かしみ、近くの筒城(筒木)岡に宮室を造営して以後そこに暮らし、天皇が面会に来ても会うことはなく筒城宮で没したと伝える(『日本書紀』では八田皇女の妹夫婦討伐の話は太后の死後としている)。

研究者の大久間喜一郎は、太后が八田皇女を頑なに認めなかったのは、豪族出身の太后に対し、八田皇女は応神天皇の娘であるため、格上の家柄の女性を宮中に迎えたくなかったからではないかとしている。

また、天皇が即位後に、それまでの妻に代わって位の高い女性を皇后に改めて迎える例は多々あるが、八田皇女が皇后となるのは太后の死後であり、太后の4人の息子のうち3人が連続して天皇に即位したことから見ても太后の権威は大きかったと推測している。

日本最古の歌集とされる万葉集には彼女の愛情の深さを表す歌が四首収められている。なお、ここでいう「君」はもちろん仁徳天皇を指す。

君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ

かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを

ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに

秋の田の 穂の上に霧らむ 朝霞 何処辺の方に わが恋い止まむ

3首目の意味は「豊かな私の黒髪が白くなるまであなたを待ちましょう」という意味であり、この歌を詠んだのが上記と同一人物とは信じられず、後の時代に別の誰かによる創作とも考えられている。


「いちごんさん」の石段をのぼると目の前にはムクロジの大樹があり、本殿前には銀杏の大樹がありす。

樹齢650年といわれるムクロジの大樹。

ムクロジは神社・寺によく植えられる落葉高木。

ムクロジの実は果皮に多量のサポニンを含み、水を泡立てる働きがあるので、洗濯などに広く利用されてきました。
黒い種は羽子板の羽に使われていました

拝殿前にはイチョウの古木(乳銀杏)があり、樹齢1,200年ともいわれ神木とされている。

この一言主神に関しては、『日本書紀』[原 3]『古事記』[原 4]における雄略天皇との対面説話が知られる。

両書によれば、雄略天皇が葛城山中で狩猟をしていた際、天皇と同じ姿の一言主神(一事主神)が現れ、天皇と狩猟を競ったという。

ただし、『古事記』では天皇が大御刀・弓矢・百干の衣服を神に献じて拝礼したとして一言主神の方が優位に記述されている一方、『日本書紀』では天皇が物を献じることはなく一言主神と天皇が対等に近い立場で記述されている。

『古事記』の方が原初的と見られることから、『古事記』の説話は一言主神の奉斎氏族とされる葛城氏が皇室外戚として強い勢力を持った頃の政治情勢を反映したもので、『日本書紀』の説話は葛城氏勢力が衰えて一言主神の地位も低下した頃の情勢を表すと考えられている。

さらに時代が下り、平安時代の『日本霊異記』[原 1]や『今昔物語集』[原 5]では、一言主神は役行者(役優婆塞/役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、さらに役行者の怒りにふれ呪縛された、と記されるまでに神威の低下が見られる。

なお、この使役の時に一言主神は自らの顔の醜さを隠して昼は働かず夜のみ働いたとされるが、その説話を受けて松尾芭蕉は『笈の小文』に歌を残している。

松尾芭蕉 『笈の小文』

やまとの国を行脚して、葛城山のふもとを過るに、よもの花はさかりにて、峯々はかすみわたりたる明ぼののけしき、いとど艶なるに、彼の神のみかたちあししと、人の口さがなく世にいひつたへ侍れば、
 猶(なお)見たし 花に明行(あけゆく) 神の顔

その意は、一言主は顔が醜かったというが、本当は、この花盛の山々の曙にふさわしく、きっと美しかったにちがいない。
そんな神の顔を見たいものだ、ということか。

葛城(かづらき)の 襲津彦(そつひこ)眞弓(まゆみ) 荒木にも たのめや君が わが名告(の)りけむ(万葉集巻11-2456)

この荒木の神をたよりとして、あなたは私の名前を人に明かしてしまったのでしょうか

この並木が、昔はもっと立派で美しい、しかも松並木だったらしい。
どのくらい昔かというと、これは分かっていて、昭和の後半。

奈良と和歌山を結ぶ県道建設のせいで参道が分断され、貧相な姿になってしまったという。
一言主は、どうも時代の巻き添えをくいやすい体質らしい

葛城連合は、古い時代には三輪王朝とタメを張って貫禄勝ちしていたが、やがて婚姻などを通じて大和連立政権に仲間入りして、一定の地位を確保する方向に動く。

実際5世紀頃の葛城氏は、次期大王推戴の豪族会議でも大きな発言権を有し、独自の経済力・軍事力を保っていたようだ。

それが衰退するのは、雄略という荒っぽい大王の登場がきっかけになっている。
王位継承のごたごたに絡んで、先帝の重臣だった葛城円(つぶら)が殺されてしまう。

雄略は、他の王位継承候補者をやたら殺しているが、円はそれに抵抗したのだろうか?

その時に、円の一族郎党が、まだ未開の地であった土佐に追いやられた可能性が考えられる。

土佐には、一言主を祀る都佐(土佐)神社という古社がある。
葛城に残った子孫が、後世の王朝に願い出て、葛城の一言主神社として祀りなおしたと伝えられる。

やがて藤原氏の台頭と律令制の整備によって、古代豪族という存在自体が影響力を失う。
葛城連合の末裔は、歴史の表舞台から消え、過去の事蹟も正史からはほとんど抹消され、神話と伝説の霧の中にかすかな足跡を残すだけになってしまった。

多分そういった経緯を反映して、書かれた時代によって異なる一言主の伝説があるのではないかと思われる。

蜘蛛塚--神武天皇即位前紀に、「高尾張邑(タカオハリムラ・当地の古地名)に土蜘蛛がいた。

その人態は身丈が短くて手足が長かく、侏儒(シュジュ)に似ていた。皇軍は葛の網を作って覆い捕らえ、これを殺した。
そこでこの邑を改めて葛城とした」と伝え、境内には、この土蜘蛛の頭と胴と足を三つに分けて埋められたという塚が三つ伝えられている

柱と島木の接続部分に、一枚の台輪と称する座をはめてあります。

防腐効果を持たせるためと言われていますが、多分にデザイン的なものでしょう。

両部鳥居の中に、台輪を使用しているものを多く見かけます。

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