今だけの穴場スポット 吉城園


観光客で溢れる東大寺や奈良公園と違い静寂な世界。

2022年に高級ホテルの開業が予定されており、さらに整備される可能性もあり今後の変化が愉しみな庭園でもある。
(当初2019年開業であったが、2022年に延期されました。)

吉城園(よしきえん)は名勝依水園(いすいえん)のすぐお隣(西南側)にある県所有の日本庭園です。

秋には「苔の庭」の周囲のモミジが色付き、美しいコントラストも楽しめます。

紅葉シーズン終盤の、苔の庭の杉苔を散り紅葉が敷き詰める様子はなんともうつくしいです。
11月下旬なら散り紅葉が楽しめると思います。

隣の依水園を訪問したついでに寄ったので紅葉はまだこれからです。

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紅葉一号は依水園


2020年の紅葉第一号は奈良の依水園。

寧楽の都をモチーフとし、若草山や東大寺南大門などを借景とする。
いずれも大和川支流吉城川(よしきがわ)の水を引いている。

後園の池泉回遊式庭園が依水園の紅葉シーンを代表する景観となっており、庭園のイロハモミジと合わせて、ほぼ同時期に色づく真っ赤なドウダンツツジも楽しめるようになっている。

真っ赤なドウダンツツジが見事。


真っ赤なモミジがこの時期のシンボル。

水車小屋のある水回り。

陽気に誘われてカタツムリが出現。

前園は寛文12年(1673年)に晒職人であった清須美道清の作庭で、茶室「三秀亭」がシンボル。


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奈良散策


吉城園を後にして二月堂へ向かう。

この辺りは巨木の古びた切り株が多い、歴史を感じさせる語り部だ

ノムラモミジの赤が青空に映える。

大仏池、いつもなら多くの鹿がたむろしているのだが今年はやはりおかしい。

木立越しに大仏殿の鴟尾を望む。

二月堂の裏参道を下ってくると大仏殿に面した北池に至る。

司馬遼太郎もお気に入りという二月堂裏参道

写真のように、古瓦を挟んだ質素な土塀というのが何とも風情があります。

あの司馬遼太郎氏もこの界隈を愛し、紀行文を残しています。

今日は二月堂北の無料休憩所でお弁当にした。

お水取りの松明を描いた絵が飾られていた。

東大寺修二会(お水取り)上堂の松明を見る
修二会のシンボルのような行事、二月堂の舞台で火のついた松明を振り回す「お松明」。 … 続きを読む →

春先取り 火と水が織りなす荘厳の世界 お水送り
天平勝宝 4年(752)インドの渡来僧・実忠が二月堂の建立の時、修二会を催して全 … 続きを読む →

遠敷川に松明の火を映して、三千人ほどの長い行列が続く、荘厳な雰囲気。


二月堂の舞台からの眺望、生駒が小さく見えます。

絶景かな東大寺二月堂から望む悠久の夜景
二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火に … 続きを読む →

遠くで雨が降っているような感じです。

すこしズームしてみます、見事に雲から水の柱が落ちているような風景です。

大きな香炉を…餓鬼達が、下で 必死に 支えております。

東大寺の鎮守手向山八幡宮~奈良
手向山(たむけやま)八幡宮は東大寺八幡宮ともいい、奈良時代聖武天皇が大仏の造営を … 続きを読む →

創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の際に東大寺から独立した。

かつての東照宮が納められている空間である「神楽所」の建物本体は、神門などの周辺の建物と比較するとひときわ古めかしい風情を漂わせており、半ば「手つかず」の雰囲気とも言えるような状況になっています。

夕方になると薄暗くなった空間にわずかな西日が差し込む風景が驚くほど美しく感じられ、数百年前の空間に降り立ったような気分にさせてくれます。


春日大社の砂ずりの藤の参道、幾多の善男善女が行きかい、通路も古色を帯びる。

奈良公園の夕焼け
冬の空、鉛色の雲がかかる。 荒池からの興福寺五重塔。 落ちようとする陽と鉛色の空 … 続きを読む →

飛火野の夕焼けの始まり、皆それぞれに夕景を楽しむ。

ならまちでコーヒータイム、明り取りの天窓から差し込む光がきれいだった。

興福寺五重塔のよき撮影ポイント – 猿沢池。

興福寺の西にあまり知られていない三重塔がある。

しかし、その知名度の低さというのは、裏返せば三重塔が貴重な「穴場スポット」であるということにもつながります。

奈良時代に建立された興福寺の多くのお堂が完全に焼け落ちてしまった治承4年(1180年)の平重衡による「南都焼討」の被害を受けた後、この三重塔は迅速に再建され、その後は災害や戦災、また廃仏毀釈のうねりなどを乗り越え、現在までほぼ再建時の姿のままで残される貴重な存在となっています。

その他のお堂が再建が遅れたり、また再度荒廃したりして失われることも多かった中で、この三重塔の存在が、現在の興福寺の建築物の中では「北円堂」と並ぶ最古の建築物となっているのです。

興福寺 五重塔夕景
鶴福院町から望む五重塔は「ならまち八景」のひとつ。 既に陽は西へ傾いている、パン … 続きを読む →

三重塔、こちらも国宝なのだが見逃されがちではないだろうか、南円堂から見ているときは空も真っ赤だったが遅かりし。

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吉城園


鹿の居場所、どうもいつもとは違っているような感じがする。

コロナの影響で人出が減り、鹿の出没する場所も変わってきたのではないか。

吉城園があるのは奈良県庁の東部、歴史ある奈良のお屋敷町といった土塀や白壁が多く残る一角。

県庁の東北側にある登大路町という交差点から東へ入った地点に入り口があります。

池の庭 – 江戸時代からの自然の地形、起伏、曲線を巧みに利用し、西に建つ旧正法院家住宅と一体となるよう造られている。

蹲かな、それにしても大きい。

吉城園は、「興福寺古絵図」によると同寺の子院の摩尼珠院があったところとされています。

明治に民間の所有となり大正8年(1919年)に現在の建物と庭園が作られました。

企業の迎賓施設の時代を経て、昭和の終わりから奈良県が所有し庭園を公開しています。

苔の庭 – 全面が杉苔に覆われた庭園で、茅葺屋根の離れ茶室と一体となり閑静なたたずまいを見せている。

地下に飛火野と同系の地下水脈が流れていると言われ、杉苔の生育に適した土地となっている。

切妻屋根が三つ(二つの向こうにもう一つ見えます)並んだ珍しい茶室です。

斑入りツワブキ。

斑入りや八重咲き、丁字咲き(花芯が発達してアネモネ咲きになる品種)などの園芸品種が栽培されてきました。

「離れ茶室」の南側にある石灯籠と手水鉢。

鉄鉢型の手水鉢は苔で覆われ趣がある。

竹で造られた水を流す樋は筧と呼ぶ。

手水鉢の右手にある石は湯桶石(手を清めるために一時的に茶室で使う湯桶を置く石)、手水鉢の左手にある石は手燭石(夜の茶会で使う手燭という明かりを一時的に置く石)がある。

手水鉢とこれらの石をあわせて蹲踞と呼ぶ。



礎石のようなものも使われています。

日本庭園の魅力は「苔」と「砂利」と思っている。
曲線美のグリーンとシルバーが見事に調和。


茶室の東側は杉苔でおおわれたお庭です。

離れ茶室内杉戸絵、羅俘山の扁額。



観光客の数もそれほど多くないため静かな写真撮影などには適した空間にもなっています。

秋には「苔の庭」の周囲のモミジが色付き、美しいコントラストも楽しめます。

観光客で溢れる東大寺や奈良公園と違い静寂な世界。

2022年に高級ホテルの開業が予定されており、さらに整備される可能性もあり今後の変化が愉しみな庭園でもある。
(当初2019年開業であったが、2022年に延期されました。)

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信貴山城址

一昨年足の怪我以来山登りができず「戦国初期の八大名城」のうち信貴山城址のみが未制覇となっていたがやっと念願を果たした。

「戦国初期の八大名城」とは春日山城 |一乗谷城 |七尾城 |小谷城 |井ノ口城(稲葉山城) |要害山城 |観音寺城 |信貴山城 をいう。

100名城築城年代別リスト
戦国時代、日本には3~5万もの城があった。 現在残る天守はわずか12だけ。現存天 … 続きを読む →


開運橋から信貴山城址を望む。

信貴山朝護孫子寺からわずか500m少々、これが何ともならず悔しい思いをしていたが思い切って挑戦。

信貴山城は大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城。

信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀はこの山上に南北880m、東西600mに及ぶ城郭を築いた。

信貴山中腹には、朝護孫子寺がある。
また、付近には、高安山城、南畑ミネンド城、立野城といった支城が存在した。

永禄3年(1560年)11月に、大和国を制圧した松永久秀は、信貴山城を選んで大和支配の拠点とした。

信貴山城を今日にみられるような規模の城郭としたのは久秀である。
久秀が信貴山城を拠点として選んだ理由は、木沢長政の後継者として大和国を支配するという政治的アピールがあったと考えられる。

『和州信貴山古城図』では、空鉢堂が建っている部分を本丸、少し下ったところにある細曲輪が二の丸、ハイキングコースがある部分を三の丸と記載されている。

『探訪日本の城』によると、この本丸跡に4層の天守櫓が建っており、伊丹城(1521年)につぐ日本で2番目に建造された天守で、織田信長の安土城もこの天守を参考にしたのではないかと思われ、松永久秀は築城の才覚も備わっていたと記載されている。

天正5年(1577年)8月、信長に謀反を起こした久秀は信貴山城に籠城した。

信長は松井友閑を信貴山城に派遣して翻意を促したが、久秀の決意は固かった。
やむを得ず、信長は9月29日に信貴山城攻撃のための軍を出撃させた。

10月3日には、織田信忠に率いられた織田方の軍勢が城下を焼き払い、9日には信貴山城に火の手が上がる。
翌日、信忠らが本城を包囲して攻めると、ついに久秀は「天主」を自焼して自ら命を絶った。

これ以後、信貴山城が使われた形跡はなく、この時に廃城になったとされる。

信長が久秀の命と引換えに望んだ天下の名器「平蜘蛛の茶釜」に火薬を仕込み爆死したともいわれている。

その日は、久秀が筒井・三好三人衆との戦いにおいて東大寺大仏殿を焼いたとされる日と一致し、その因果(仏罰)だといわれている。

信貴山山頂からの眺望。
空鉢堂から南側を撮影、後方が金剛山。

松永久秀について

初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。
久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。

また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。
長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。
織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。

天守を中心とした城郭建築の第一人者であり、多聞作りを創始した人物とされている。
城門と櫓を一体化させ防御力を向上させるという発想は、当時は非常に革新的であった。

天守の創始者と言われていたが近年、伊丹城に天守に相当する櫓が存在したことが判明し、否定されている。
また古代の古墳を破壊して築城した事でも有名だが、これは主君である三好長慶に倣ったものともされる。
古墳は高台や水濠を備えていたことから城に改造するには最適な地形であり、また大和国は数多くの古墳が存在する。

多聞山城にいた頃、かつて三好長慶や織田信長などの歴代の権力者を幻術で手玉に取った仙人・果心居士を招き、「自分は戦場でも一度も恐怖を味わった事がない、そなたの術でわしを恐怖させてみよ」と豪語した。

果心居士はこれに応じ、部屋の明かりを消し、人払いをさせた後、自身の姿を一人の女人の幽霊に変えて久秀に近づいたという。
外ではにわかに稲妻が走り、雷雨が落ちると久秀の顔も恐怖のあまり蒼白し、「分かった、もうやめよ」と声をあげた。実は、この女人の幽霊は久秀の妻(故人)であり、幽霊が消えたあとも、久秀の震えは止まらなかったという。

果心居士の幻術-新潮文庫-司馬-遼太郎

『常山紀談』で信長が語った久秀の「三悪事(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)」に対し、信長自身も、主君に当たる織田大和守家の当主であった織田信友を討滅し、将軍であった足利義昭を追放し、比叡山焼き討ちを敢行する等、久秀とまったく同じような所業を成している。

斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されている。
「下剋上の代名詞」、「謀反癖のある人物」などのイメージを一般には抱かれており、小説を始めとした創作物においてもそのような人物として描かれることが多いが、こうした久秀のイメージは、後世に成立した『常山紀談』などを典拠として成立したところが大きい。

しかし実際の久秀は主君・三好長慶の存命中は、目立って謀反を起こしたり専横をしたことは一次史料からは確認できない。
また長慶の嫡男・義興や長慶の弟・十河一存を暗殺し、長慶の弟・安宅冬康を讒訴して殺させ、三好政権を崩壊へと導いたといわれるが、これらの情報も多くは軍記物などを典拠としたもので、信憑性に乏しい。

梟雄松永久秀の居城 多聞山城
松永久秀によって、眉間寺山と呼ばれていた標高115メートル、比高30メートルの山 … 続きを読む →

朽木に信長遁走の跡を訪ねる
興聖寺はもともと現在の位置とは安曇川を挟んで反対側の上柏村指月谷にあったが、江戸 … 続きを読む →

幻の堺幕府と三好一族を訪ねる
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信貴山朝護孫子寺


信貴大橋のバス停を降りると白虎が出迎えです。

開運橋上路

1930年(昭和5年)に大阪から信貴山へのアクセスとして、信貴山急行電鉄(鋼索線と、高安山駅~信貴山門駅の鉄道線)が開業したが、信貴山門駅から朝護孫子寺の間に大きな谷(大門池)があり、大きく迂回する必要があった。

そうした不便を解消するため、熱心な信者であった旧松尾橋梁株式会社の社長が信貴山に寄進したとのこと。

トレッスル橋脚を用いたカンチレバー橋であり、日本では最初期のもので、現在でも非常にめずらしい形式である。
外観は朱塗りされ、欄干には信貴山のシンボルである寅のイラストが随所に施されている。

戦国時代には木沢長政が信貴山頂に信貴山城を築いた。

1577年(天正5年)に同城の城主・松永久秀と織田信長の間で信貴山攻防戦が行われて久秀は滅亡し、寺も焼失するが、豊臣秀頼によって再建された。

現在、山頂には同寺の「空鉢堂」があり、本堂付近から参道で連絡している。

2/22、23はトラ祭りの大法要が行われる。

休憩所の特設祭壇に山積みに納められた約5000体の「張り子のトラ」を読経供養する法要が寅祭り。

祭りの当日は大変混雑するためあえて前もって訪問した。

今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。

太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。

その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。

太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。
以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されている。

境内の至るとこる寅のオンパレード。

よく見かける大寅、遠景は本堂。

成福院の塔越しに本堂を望む。

本堂から成福院の塔、地蔵尊を望む。
神仏習合の名残から、境内には鳥居も並んでいる。

醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をしました。

加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。
よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。

なお、当時醍醐天皇の病気は相当進んでいたようで、1か月後の9月29日に死去しており、この点は説話と異なっている。

信貴山は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境に位置し、朝護孫子寺の住所は奈良県であるが、『宇治拾遺物語』『扶桑略記』には「河内の信貴(志貴)」と表現されている。

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生駒聖天宝山寺


「宝山寺」はお寺ですが、神社の象徴である鳥居を設けている、古代のヒンドゥー教とも言えるバラモン教の神(天部)を祀っているからです。

途中でかわいい花を見つけました。

ここの賽銭箱は少し変わっています、御本尊の聖天さん=大歓喜天が持っている「砂金袋」そして胴の部分には歓喜天の大好物で、食べると体内が浄化されると言われる大根を組み合わせてデザインされています。

また、よく見ていると不思議な光景を目にします、お財布を賽銭箱にこすりつけています。
そうなんです。

こうすることで聖天さんのご利益を、ダイレクトにお財布に頂こうというものなんです。
信じるかどうかは人それぞれ。

ここの魅力は杉林から差し込むサイド光。
四季折々、時間により光線の角度が変わります。

奥之院への参道両側には約三百体の石仏が並んでいます。

麓から続く参道の階段は奥の院までを含めると1000段余りあり西日本有数の規模を誇ります。

この道を行く人は、袋いっぱいの一円玉を手に、一つ一つお顔が違うお地蔵様にお賽銭をささげ、丁寧にお参りしながら進んでいかれます。

宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。

生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれ、本尊は不動明王。
鎮守神として歓喜天(聖天)を聖天堂(天堂)に祀っている。

生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。

江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。この時が事実上の開山と思われる。

江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪商人の信仰を集めた。京都の皇室や江戸の徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い。

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紅葉の名所 正暦寺


正暦寺は菩提山龍華寿院と号し、奈良と天理の間の山あいに位置する。
菩提山真言宗の大本山(単立)。本尊は薬師如来である。

「錦の里」と呼ばれ、紅葉の名所として知られるだけあって、バスを降りるとすぐに錦秋の世界。

境内を流れる菩提仙川の清流の清水を用いて、菩提泉という銘柄の清酒が日本で初めて醸造されたという伝承があり、「日本清酒発祥之地」の碑が建つ。

例年紅葉の時期は、JR・近鉄奈良駅から臨時バスある。

円照寺へ向かう道。

山号の菩提山は、奈良の東山一帯を釈迦修行の聖地に見立て、鹿野園(ろくやおん)・誓多林(せたりん)・大慈山(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)・菩提山と名付けた五大山の一つである、菩提山に由来する。

正暦3年(992年)、一条天皇の発願により、関白藤原兼家の子兼俊僧正が創建した。

正暦寺には、3000本を超える楓が山内にあります。

秋、11月になるとそれらが順番に色づいて紅葉していきます。

木々の緑と黄色や赤の紅葉が織り交ざって、山内をあでやかに染める様は錦の色に見えます。

このことから、正暦寺は古来より『錦の里』と呼ばれてきました。

紅葉の時期に一番みどころとなるのが借景庭園!庭自体は小ぶりですが、正暦寺西側の山に色付く木々の借景を楽しむ事ができます。

この景色を目当てに来られる方々が多いので、早い時間帯に行くと、縁側でまったりしながら紅葉を観賞できるのでオススメ。

しかし、近年、紅葉シーズンのカメラマナーの悪化によるトラブルが多く発生。

ご拝観の方々が気持ちよくお参りできない事態が発生しておりますことを鑑みまして、紅葉シーズンは本堂・福寿院の建物内での撮影を禁止させていただきます。

と、いうことで誠に残念。

せめて向かい側からの景観を・・・・

往時には、報恩院以下86坊の堂塔伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、治承4年(1180年)に、平重衡による南都焼き討ちによって焼失した。

江戸時代に入り、慶長6年(1601年)には寺禄は約1000石を数えていたが、応仁の乱後に再興された82坊によって、往時の様を取り戻していた。

本堂、三重塔、護摩堂、観音堂、地蔵堂、灌頂堂、鐘楼、経蔵、如法経堂、御影堂、十三重塔、弥勒堂、六所明神、鎮守などの堂塔伽藍が建ち並んでいたという。

明治の廃仏毀釈によって荒廃した。往時の威容は、参道沿いに延々と続く石垣によってしのぶことができる。

昭和42年(1967年)、本山仁和寺から独立し、菩提山真言宗大本山を名乗る。

また、秋から冬にかけては1000株以上の南天が赤い実をつけて参道を染めます。紅葉と並んで南天の実の色づきの素晴らしさは圧巻です。


柿がたわわに実り風情を添えます。

境内は飲食が禁止されているが河原に降りこの辺りまで来ると腰を下ろしてお弁当を広げられる。

紅いもみじにススキが・・・風情があります。




泣き笑い地蔵。

手前が円光光背の水子地蔵尊(泣き地蔵)、向こう側が船型光背を負う身替地蔵尊(笑い地蔵)。

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初秋の馬見丘陵公園


県営「馬見丘陵公園」は、奈良県広陵町と河合町の両町にまたがる公園です。
わが国でも有数の古墳群と、良好な自然環境が残された地域にあります。

日中はまだ暑い日が続いていますが季節はもう秋。

紅葉の早い桜はもう色づいています。

タカノハススキの群生がきれいです。

少しちさいがパンパスグラスも存在感を示しています。


「花の道」では、ニューギニアインパチエンス(桃色や白色の花)、宿根サルビア(紫色の花)やコスモスなどが綺麗に咲いています。

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馬見丘陵公園 ダリアが見頃


奈良県は、ダリアの球根生産量が日本一です。

北エリアの「ダリア園」では秋になると、約120品種1,000株のダリアが一斉に咲き誇ります。

ダリア園の見頃は例年、10月上旬から11月上旬にかけてです(皇帝ダリアは11月中旬から12月上旬です)。

また、ダリアの開花シーズンである10月上旬~中旬には「馬見フラワーフェスタ」を開催しています。

ねむの雨

黒蝶

大海原

白陽

京美人



弁慶

宇宙

トンボを見かけましたもう秋ですね。

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