雪に埋もれた長浜城


寒波襲来で長浜地域は大雪、長浜城も雪に埋もれており簡単には近づけない。

直之は降り続いておりこの画像は晴れ間のちょっとした隙間に撮ったもの。
雪つりもこれくらいの積雪になると威力を発揮する。

長浜城の天守閣は、琵琶湖の方から撮影するには朝から晩までいい光に恵まれる。
逆に言うと、天守閣の入口側からだと早朝に限る。

湖岸はすぐそこに見えいるのだがふみ後はほとんどなく、ラッセルしながらの行軍。

やっとの思いで湖岸にたどり着く。
ここからの天守の眺めもなかなかのもの。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されている。

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秀吉と長浜

織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。

小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。

天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。

翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
 
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。

長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしました。

その帰途に喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄り茶を所望しました。
対応した寺の小姓は、まずぬるめの茶を一杯に入れた大ぶりの茶碗を出しました。

喉が乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干しもう一杯所望しました。
次に小姓は、やや小ぶりの茶碗に、やや熱めの茶を出しました。

秀吉がもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの茶碗に熱い茶を入れて出しました。
小姓の気心配りに感心した秀吉は、その小姓を城に連れ帰り家来としました。
この小姓が後に五奉行の一人となった石田三成と伝えます。

戦国時代の頃の話。織田信長は美濃の斎藤攻めで、堅城の稲葉山城の攻略が難航していました。

そのとき、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、城の背後からの奇襲を織田信長に進言。実行隊長となります。
木下藤吉郎は稲葉山城の侵入に成功。稲葉山城に火を放ちます。

そして、信長本隊に送った合図が 槍の先に付けた瓢箪だったという話です。
そして木下藤吉郎の活躍もあり、稲葉山城は落城。(1567年)

功あった木下藤吉郎に、織田信長が 瓢箪を馬印にすることを許可しました。
これが木下藤吉郎改め、豊臣秀吉の馬印が瓢箪となり、高々と掲げられるようになりました。

そして、快進撃の止まらぬ秀吉は 戦に勝つ度に馬印の瓢箪を増やしていきました。
その結果、秀吉の馬印のことを、千成瓢箪と言います。

「市章」を中央に、長浜城主であった「豊臣秀吉」の 馬印である「千成瓢箪」をデザインしたマンホール蓋。

「市章」は、「千成瓢箪」を長浜祭の曳山の数「12」を 周囲に配置し、中央に長浜の「長」を図案化したものです。

秀吉が活躍した稲葉山城の攻略、この時の功で千成瓢箪を馬印に・・・・
戦国武将の野望を物語る 岐阜城
今年3月に訪問した時の記事戦国の攻防を伝える美濃の名城 岐阜城がこちらにあります … 続きを読む →


千成瓢箪のデザインの角型マンホール蓋。

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童謡の里龍野

春の盛り、日本のうた“赤とんぼ”の作詞者である詩人三木露風の生誕地龍野を訪れた。
前回訪問時の記事「播磨の小京都 龍野城」、龍野城の訪問記です。

姫新線の列車から降り立つと、ホームの柵越しに「赤とんぼ」の像が出迎えてくれます。

市域のほぼ中央を流れる揖保川は遠く鳥取県境に源を発し、延長70㎞と県下で三番目に長い川、朝日橋を渡って龍野城を目指す。

龍野城は鶏籠山(けいろうさん)の山城と山麓の平山城とのニ期に分かれます。

山城は約500年前赤松村秀(あかまつむらひで)によって築かれ、現在の平山城は寛文(かんぶん)12年に信州飯田から脇坂安政公(わきざかやすまさこう)が移って築城したとされています。

本丸御殿(ほんまるごてん)、白亜(はくあ)の城壁、多聞櫓(たもんやぐら)、埋門(うづみもん)、隅櫓(すみやぐら)などを復元しています。

現在の本丸御殿は当時の古図に基づき1979年に再建されたもの。

満開を少し過ぎているが、庭園には桜が咲く。

八重桜は見ごろを迎え、一帯を華やかに彩る。

塀際ではキンシバイがきれいだ。
当初、花の名前がわからなかったが、画像を長居植物園に持って行き、相談員に聞くと季節がらたぶんキンシバイだろうということであった。

ネコがじゃれています、のどかな春の日です。

龍野藩の家老屋敷の門と伝えられる門で宝暦2年(1752)の城下町を描いた絵図では「新御屋敷」の記述がある。

屋敷自体も廃藩置県後も残され龍野県庁舎や中学校の校舎などに使用されましたが昭和32年に門だけを残し解体された。

赤とんぼ歌碑

大正10年三木露風33歳のとき、北海道トラピストより「樫の実」で発表。
ふるさとの想い出と幼き日の母の思い出を歌ったものと思われています。

歌碑五線譜は作曲者山田耕作の絶筆。

看板の文字も右から左に書かれていて、レトロな和風建築でおよそ銀行らしく見えないが、自動ドアになっていて、中にはチャンとATMなんかもある。

歴史の町、龍野に見事溶け込んでいる。

喫茶店ののれんも赤とんぼ、かわいいね。

ワンマンカーで運転されている姫新線、ラインカラーは赤とんぼをイメージした朱色だ。

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龍野城へのアクセス、行き方歩き方

兵庫県たつの市龍野町上霞城

姫新線「本竜野駅」から西へ徒歩20分

初秋の福知山城

初秋の福知山城を訪れたが冷たい秋雨に打たれながらの観光であった。
今年の夏に訪れた時も確か雨だった。

その時の記事があります。明智光秀が築いた名城 福知山城
詳細はそちらを参照ください。

紅葉とは言い難い状況です、枝先の雨雫が冷たそう。

門の外の様子、まるで晩秋かのような景色、木の葉が落ち、枯れ木状態。

階段には落ち葉が積り、折からの秋雨とあいまってさみしい雰囲気。

尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。

昇龍橋を見渡せる場所にある桜の木もさみしい。
左は佐藤太清記念美術館。

見学を終えた傘の軍団が下りてきました。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍しました。

今、立っている場所はもと二の丸のあった部分だが、二の丸の台地そのものがそっくりなくなっている、どうやら役所の建設などに伴って台地そのものを削り取ってしまったようだ。

平面図などをもとに藤岡通夫・東京工大名誉教授の設計によって大小の天守と続櫓が復元されたが、古写真などの史料がないため、厳密な外観復元ではないという。

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福知山城へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都府 福知山市 字内記(内記一丁目)5
電話:0773-23-9564 福知山城(郷土資料館)

山陰本線「福知山駅」下車徒歩約15分、又は京都交通か西日本JRバス「福知山城公園前」下車

熊野灘にそびえる海の城 新宮城

新宮城は、熊野川沿岸の田鶴原(たづはら)とも呼ばれるあたりの小高い丘である丹鶴山(現在の和歌山県新宮市新宮字丹鶴)に築かれた平山城である。

別名、丹鶴城は、もとこの地に、源為義と熊野別当の娘の子である丹鶴(たんかく)姫の住まいがあったとすることからである。

最初のトイレ休憩は紀ノ川サービスエリア、煙たなびくのどかな風景が広がる。
和歌山平野・和歌山湾を一望できます。

二度目のトイレ休憩は、道の駅「熊野古道中辺路」牛馬童子ふれあいパーキング。
熊野古道の面影が色濃く残るなかへちの道の駅は、国道311号沿いにあり、古道を歩く人とドライバーの両者の休憩の地としてにぎわっています。

ここから少し山中に入ったところに花山法皇の伝説を残す牛馬童子像、また、近露王子や野長瀬一族の墓などの観光ポイントもすぐ近くにあります。

鐘の丸の南下に無料駐車場に車を停め、公園の南側を通る道を西へ歩いて来ると、城址南西に模擬大手門(冠木門)が建てられている。
最初から急な階段が続く。

冠木門をくぐり、真っ直ぐ伸びる石段を喘ぎながら登って行く。

新宮へ来ても新宮城へ立ち寄らない人が多いのではないだろうか、石垣の遺構の素晴らしい城跡だ。

石段を少し登ると、松の丸へ入る虎口へ出る。

松の丸へ入るとすぐ右手に鐘の丸への虎口がある。

そちらは後回しにしてまず、水の手へ回る。

水の手郭・炭納屋群跡
丹鶴城跡では過去数度発掘調査が行われたが、その最大の発見は水の手郭の炭納屋群遺構である。

この水の手は軍港であり、物資を輸出する経済的物流港でもあった。
その傍らにあるのが炭納屋群跡の遺跡である。

当時備長炭という上質な炭がいつも炭納屋に1万俵ほど保管されていた。
江戸城はじめ、江戸庶民の燃料源であった。

江戸の炭消費量の約3割を賄っていたといわれている。

また、三輪崎や太地で鯨を捕らせ、鯨油などを集めこれも江戸へ売った。
鯨油は貴重で、行灯の油として欠かせなかった。

この二つの燃料提供者であった第9代忠(ただ)央(なか)は他藩が羨む大富豪だった。

本丸の様子。
石垣の上に建っている土蔵風の建物はトイレ。

本丸はケーブルカー時代にかなり改変されているようで、天守台に直接登る階段ができていたりする。

遠く神倉神社を望む、実はここが「新宮」の地名の由来の地なのだ。

神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。
新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。

山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。

熊野三山の一つ熊野速玉大社は、全国に3000余社分祀されている熊野神社の総本山です。

大社は熊野三所権現降臨の神倉山から神を遷し、現在地に新たに宮殿が造られたことから「古宮」に対して「新宮」と呼ばれるようになりました。

これが市の名前の由来とされています。

熊野信仰が盛んになると、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。

この説に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された。

平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野参詣記にもいく度かその名が登場する。

『平家物語』巻一〇の平維盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427年)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる。

与謝野寛(鉄幹)の歌碑

「高く立ち秋の熊野の海を見て誰そ涙すや城の夕べに」

与謝野鉄幹が明治39年来新、大石誠之助、北原白秋らと熊野を漫遊したとき詠んだ歌。

本丸の北西部に突き出た一画があるが、櫓が建っていたのだろう。
その一角に、丹鶴姫の碑が立っている。

鎌倉幕府をひらいた源頼朝と、平家を倒したあと悲劇的な最期を遂げる源義経。
歴史に名をとどめるこの兄弟の叔母にあたるのが、新宮が産んだ女傑・丹鶴姫だ。

丹鶴姫の父・源為義は武家の棟梁であり、源氏の総帥でもあった八幡太郎義家の孫。
この為義が後白河院の熊野御幸に検非違使として随行した際、第15代熊野別当・長快の娘をみそめて結ばれる。 

「熊野の女房」とか「立田の女房」とか呼ばれていた彼女は、生地の新宮で一女一男を産んだ。

女児が丹鶴姫で、男児が新宮十郎行家だ。

姉の丹鶴姫は、第18 代熊野別当湛快の妻となって男児を産んだ。
それがのちに第21代別当となる湛増だ。

夫の湛快の死後、19代別当行範(鳥居法眼)のもとに再嫁したとされる丹鶴姫は、22代別当行快や行忠、長詮を産み、鳥居禅尼と称して、源平のパワーゲームに揺れる新宮にあって強力な熊野水軍を源氏方につけるのに大きな役割を果たした。

義仲の挙兵、頼朝の義仲討伐にも、また義経が一の谷で平家を破ったときも事態を静観していた湛増は、戦局が進むにつれ、源平いずれにつくか迷った。

そこで、湛増は田辺の今熊野権現(闘鶏神社)の社前で白い鶏7羽、赤い鶏7羽を蹴合わせて神意を伺ったという。

白は源氏、赤は平家の象徴だったが、蹴合いは白い鶏が勝った。
熊野水軍の兵船200余艘に乗った屈強の熊野衆2000余人は、屋島から壇ノ浦へと出陣した。

源氏の白い旗が船のへさきにひるがえるのを見た平家の軍兵は、どっと西の海へと逃げた。

本丸北東の枡形門跡。
搦め手に当たる。
丹鶴姫の碑の横に搦手虎口があるが、現在はここからは降りられなくなっている。

本丸虎口は、通路を何度も折り曲げて二重の虎口を設けている。

本丸下の郭から水の手曲輪を望む。

天守台はなぜか中央部が破壊されてしまっている。
そのために妙に幅の狭い石垣のように見えてしまう。

端の部分だけが細くそびえ建ち、なんとも異様な光景である。

下から、長く続く本丸の石垣を望む。

1954年には新宮城本丸周辺は民有地となっていて当時旅館業を営んでいた業者が通称二の丸(本来の二ノ丸は現在の正明保育園の場所に位置する)と本丸を結ぶケーブルカーを運行していたが、1980年(昭和55年)に休止し、1990年代正式廃線となっている。

地下には紀勢本線のトンネルが通されている。

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新宮城へのアクセス、行き方歩き方

住所:新宮市新宮7691-1

JR紀勢線「新宮駅」下車、徒歩10分。

岸和田城再訪

一段と秋らしくなったこの日、岸和田城を再訪した。
詳細は前回の訪問記猪伏山 千亀利城と呼ばれた岸和田城を参照いただきたい。
関連記事:城下町岸和田を散策
廻遊式日本庭園 五風荘(ごふうそう)散策

スタート地のJR難波駅に向かいます。

家で飼われていたものが迷い出たのか小鳥が一羽、少し弱っているようだが・・・・

東側から見た天守、柳とのコラボーレーションがきれい。

天守からは遠く、岩湧山、三国山、葛城山を望む。

岸和田城周辺のジオラマ、5重の天守の建つ本丸の西に二の丸、そして、本丸と二の丸を取り囲むように二の曲輪、三の曲輪が取り囲んでいたようです。

もとは今の二の丸が本丸だったようで、古い絵図には旧裁判所のところに、馬具の鐙(あぶみ)のような形のあぶみ堀が描かれている。

このジオラマもよく見るとそのように作られている。

天守には楠木正成の肖像画が掲げられるが、岸和田城は南北朝時代に楠木正成一族の和田高家が築いたと言われており、戦国時代にはここを拠点に秀吉が紀州根来寺・雑賀衆を征伐し、その後に秀吉叔父の小出秀政により5層天守の建築や城郭整備が行われた。

天守は落雷により江戸時代に焼失したが、昭和29年に3層鉄筋の復興天守が再建された。

現在の天守閣は三層ですが、本来は五層の天守閣でした。

岸和田城庭園(八陣の庭)は、昭和28年に日本の昭和期における代表的な庭園研究家であり作庭家でもあった重森三玲(しげもりみれい)氏によって、設計、作庭されました。

本庭園は、上・中・下3段の基壇の中央に、大将の石組みを配置し、これを中心に8つの石組みが円形に配置されています。

中国三国志の英雄として名高い諸葛孔明(しょかつこうめい)の「八陣法」をイメージしたもので、これらの石組みは地上からは、360度どの角度からも鑑賞することができるようになっています。

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岸和田城へのアクセス、行き方歩き方

住所:大阪府岸和田市岸城町9-1
電話:072-431-3251
南海電気鉄道蛸地蔵駅から徒歩7分

秀吉が初めて築いた長浜城

長浜城も昨年の6月以来の再訪だ。
関連記事:琵琶湖にたたずむ湖城 長浜城
私費で建設した明治天皇行在所 慶雲館

長浜は、羽柴(豊臣)秀吉が江北12万石の領主として、天正2年(1574)から翌年にかけて、はじめて自らの城を築き城下町を形成した地である。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので市立長浜城歴史博物館として運営されている。

湖畔にあった馬屋跡。

長浜城再現図
長浜城は、天正2年(1574)から翌年にかけて、羽柴(豊臣)秀吉公が築いた城です。

その後、山内一豊公など4人の城主が入りましたが、元和元年(1615)には廃城となっています。

このように、長浜城の歴史は約40年に過ぎず、江戸時代の大半は城がなかったので、その構造(縄張)は現状から推定することはできません。

古絵図などを基にした長浜城の復元によれば、上図のように2重の外堀と内堀に囲まれた水城で、南北約1.2キロ・東西約0.7キロの大きさであったと考えられます。

内堀跡
市民プール前の交差点前駐車場の入口付近、現在の豊公園全体が内堀の内側といった感じか。

模擬天守の北側に長浜城の天守閣跡が残されています。
天守台の大きさは、江戸時代の絵図によれば、東西12間×南北10間とあります。

天守の西の湖岸に長浜城築城時に秀吉が掘らせたといわれている太閤井戸跡碑が建つ。

船木朴堂句碑
「えりの門に月のさざなみあるばかり」

天守からの眺望、彦根城、佐和山城址が望まれる。

湖畔の渚がきれいだ。

ちょうど黒田官兵衛博覧会が行われており大勢の観光客が押し寄せている。
市内には、黒田家発祥の地・木之本町黒田、官兵衛の息子・黒田長政が人質として過ごした長浜城、そして官兵衛が参陣した天下分け目の賤ヶ岳古戦場を有する。

黒田官兵衛像。

関ヶ原古戦場、虎御前山、小谷城址を望む。

竹生島を望む。

比良山、沖ノ島、安土城址を望む。

駐車場脇の民家の庭で見かけたネコ。

豊公園入り口でかわいい小鳥たち。

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長浜城へのアクセス、行き方歩き方

住所:滋賀県長浜市公園町10-10(豊公園)

JR琵琶湖線「長浜駅」下車 徒歩 5 分

初秋に佐和山城を訪れる

初秋のこの日、昨年6月に引き続き佐和山城を再訪した。
前回の記事:三成の夢の跡 佐和山城址

佐和山城跡は、西側山麓にある龍潭寺(彦根市古沢町1104)が所有しているが、好意により無料での入山が許可されており、境内に登山口がある。

山道の突き当たりにある、立派な山門。
龍潭寺の山門だ。

四脚門。
「龍潭寺」という名が示すとおり、屋根の上には龍が横たわる姿が施されている。

脇戸の横の城壁を見る。五本線が入っている。
「定規筋」と言う水平線が描かれているこの壁は「筋塀」と呼ばれ、皇室に由来する格式を持つ場所を示すもの。

その奥の壁は土と瓦を交互に積み上げる「練塀(ねりべい)」で瓦を埋め込むことで強くなる、戦いのための壁。
火矢で燃えたり、鉄砲で撃ちぬかれたりすることを防ぐためとも言われる。

各地の城で見かけるが石清水八幡宮の通称「信長塀」は有名だ。
関連記事:都の裏鬼門を守護する王城守護の神 石清水八幡宮

仏殿
方丈から床下の高い渡廊が仏壇に通じている。
庭園との重なりが静寂な領域をつくっている。

松尾芭蕉門下の森川許六(きょりく )の描いたとされるふすま絵が見える。

庭園に据えられた庭石、輪蔵の回転軸受け石か。

佐和山城の陣鐘も晩鐘となり龍潭寺の玄関に吊されていました。

塩硝櫓跡。
武器・弾薬庫でもあったのでしょうか?

発掘調査中、もともと巨大な穴が開いていたようだ。

ここは 塩硝櫓(火薬を保管する場所)ではなく 塩櫓(塩を保管する場所)だったのではという研究結果もあるそうだ。

発掘の成果を期待したい。

塩硝櫓跡を過ぎると地図にあった3つの曲輪のうち真ん中の曲輪は竹林となっていて、整備のため伐られた竹が積上げられていた。

三角点、佐和山の山頂標高232.9mの位置に本丸があったとされる。

本丸跡を大手方面に下ると、岩盤上にわずかに残る石垣を確認することができます。
この石垣は本丸の隅部に位置し、しかも石垣の基底部であったと考えられます。

本丸跡の外周では、このような石垣を7箇所で確認することができ、本丸跡の石垣の想定ラインを復元する上で貴重です。

日本城郭史に詳しい同志社大非常勤講師の中井均さんによると、山城では山を切り開く過程で出た岩石を石垣に使う。

佐和山はチャートと呼ばれる堆積岩の一種でできており、佐和山城跡に2個だけ現存する石垣の石もチャートであることから、佐和山城の石垣はチャートだったとみていいという。

ところが、彦根城の石垣の修理の必要性を把握するため、中井さんが理事長を務めるNPO法人「城郭遺産による街づくり協議会」が市教委の委託で調査したところ、彦根城の石垣でチャートと特定できた石は10個に満たなかった。

残りは琵琶湖東部産の「湖東流紋岩」だった。

善政をして領民からも慕われた三成の象徴を完全に消し去ろうとしていたようです。
一説には山を高さ十四mにわたって削り取ったとも伝えられ、佐和山の山の形が台形状をしているのは、このためだとも云われている。

と、いうか彦根城はこの近さ、残しておいたのでは防御の上から問題がありました。

本丸跡からの眺望は素晴らしい、ちょうど米原駅を出発した新幹線の車両が見えています。

真ん中の白い塔はエレベーターのフジテックの実験塔。

千貫井。
佐和山の南斜面にある、城中の飲料水として用いられた井戸。
お金の千貫目にかえがたい貴重な井戸というので命名された。

千貫井」の傍らに「紫鱗龍王」、ネットで調べたがわからなかった。
御存じの方教えていただけたらと思います。

2007年の築城400年祭のとき「佐和山一夜城プロジェクト」で築造した石造りのミニチュア佐和山城。

三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。

そのあたりを松本清張の著書から引用する。

西軍は、先に岐阜、犬山、竹鼻の線が東軍によって破られたため、すぐに大垣から使いを大阪に出して毛利輝元に出馬を乞うた。

と同時に急使を越前に馳せ、大谷吉継に京極、脇坂らの隊を伴って関ケ原付近に来会するように告げた。
そして、三成自身は大垣城を脱出して、密かに佐和山に帰り、防禦に専念したのである。

これは、東軍が赤坂に集結して急には大垣城に迫らず、垂井、関ケ原付近に放火したのを見て、三成は東軍がすぐにも自分の居城佐和山を襲う計画だと早合点したからである。

こんなところにも、総指揮官としての三成の狭量さが出ている。

天下の兵力を二分した、東西の大会戦が迫っているというのに、何ぞわが城の大事なる。
自分のケチな城などは無視して、全体の作戦に専念すべきだが、どうも三成のやり方はコソコソし過ぎている。

しかも、大阪の毛利輝元のところに出した使者は、途中で東軍のために捕えられ、輝元のもとには達しなかったのである。
それを三成は、最後まで知らなかったのだから、いよいよ万事、立ち遅れている。

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佐和山城址へのアクセス、行き方歩き方

滋賀県彦根市古沢町
お問い合せ 彦根市役所 TEL:0749-22-1411 FAX:0749-22-1398
JR東海道本線線彦根駅~徒歩約10分(登城口)

細川藤孝の築城 丹後の舞鶴城(ぶがくじょう)

田辺城(たなべじょう)は京都府舞鶴市にある戦国時代から江戸時代にかけての城。
別名は舞鶴城(ぶがくじょう)。
「舞鶴」の地名は、田辺城の別称「舞鶴城」(ぶかくじょう)に由来しています。

舞鶴若狭自動車道の福知山インターを過ぎると石原(いさ)トンネルを抜けて由良川を渡る。
その前方、私市丸山トンネルの上方にドーム状の建造物?が見えてきます、 由良川流域では最大?の円墳私市丸山古墳です。

中国自動車道が抜ける三木市の有安古墳が、N.T.Pトンネル工法により 破壊を免れ保存されていますが、自動車道建設計画で発掘された丸山古墳もその保存のため、トンネル工事の工法が切り土からトンネルへと設計変更されたといいます。

マス鶴が近づいてきました、前方に舞鶴市を東西に分ける五老岳にそびえ立つタワーが見えてきます。

タワーからの展望は、近畿100景第1位に選ばれた舞鶴湾の美しいリアス式海岸や舞鶴市街地、国際ふ頭である舞鶴国際ふ頭が一望することができます。

城下町の駅前広場には、大きな“太鼓櫓(たいこやぐら)”の時計塔が待ち受けています。
正午と午後5時に太鼓と音楽で時を告げ、夜には広場を城壁のように囲むガラスブロックに明かりが灯ります。
田辺城の城下町にふさわしい趣のある憩いの場です。

西舞鶴駅、JR西日本の舞鶴線と、KTRの宮津線の2路線が乗り入れ、接続駅となっている。宮津線は当駅が起点となっている。

舞鶴城(田辺城)大手門。

舞鶴城(まいづるじょう/ぶかくじょう)は日本の城の雅称の一つで以下の城がこの雅称を持つ。

三春城(陸奥国、福島県田村郡三春町)
太田城(常陸国、茨城県常陸太田市)
甲府城(甲斐国、山梨県甲府市)
丹後田辺城 (丹後国、京都府舞鶴市)
福岡城(筑前国、福岡県福岡市)
柳川城(筑後国、福岡県柳川市)
唐津城(肥前国、佐賀県唐津市)
津奈木城(肥後国、熊本県葦北郡津奈木町)
村上城(越後国、新潟県村上市)
国分城(大隅国、鹿児島県霧島市国分中央)
米沢城([出羽国]]、山形県米沢市)

JR舞鶴線 西舞鶴駅から北へ徒歩10分。
「二の丸」交差点の北側に立派な櫓門が見えてくる。

ここは舞鶴公園となっていて、城内に田辺城跡、資料館などがある。
園内の建物はすべて模擬建造物。

櫓門の北隣には二層櫓や堀も再建されている。
こちらもすべて模擬。
櫓門は歴史博物館、二層櫓は文化資料館となっているようだ。

彰古館には、市指定文化財「糸井文庫」の錦絵資料から「酒呑童子」、「安寿と厨子王」、「浦島太郎」などを展示しています。

田辺城を築城した細川藤孝(幽斎)の銅像。

細川家は室町幕府の管領を務めた名家で、細川藤孝(幽斎)は室町幕府第十五代将軍足利義昭の家来でしたが、義昭が信長を討とうとした際に、信長方につき、その後明智光秀の与力として、丹波国丹後国平定に力を尽くした恩賞として、天正八(1580)年に織田信長から丹後国を与えられ、子の忠興とともに、この田辺城を築城しました。

博物館を出る。
二層櫓の東側には復元された本丸井戸跡がある。

説明板によると、背後の本丸石垣の半円形のくぼみを調査したところ細川家時代の井戸跡が見つかったためここに復元。

井戸跡の上から区画の礎石が見つかったことから埋めて屋敷を建てたとされる。

細川幽斎《細川藤孝は隠居後、幽斎玄旨と号する》ゆかりの庭園。
庭園名は幽斎(ゆうさい)の和歌から付けられた。

慶長5年(1600)7月、関ヶ原の戦いにさいし、留守を預かる幽斎が西軍の福知山城主小野木氏らに包囲され、50余日籠城。田辺城に籠城した幽斎が万一討ち死にすれば、歌道の奥義が廃絶することを憂慮した後陽成天皇は、勅使を送り幽斎に開城を勧めた。

しかし、幽斎は、開城は武人の本意ではないと固辞し、勅使に古今伝授の秘伝書と和歌一首を託した。

その和歌一首が下の歌です。

「いにしへも今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」

変らない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです。(そのように私の歌と心も残るならば有り難いことです)

この秘伝書と和歌を伝えた場所が、心種園(しんしゅえん)に建っている「古今伝授の碑」のところと伝えられている。

のちの城主牧野親成(まきのちかしげ)は、その歌にちなんで城内の庭園に「心種園」と名づけた。

近くには、細川幽斎が秘伝書を渡す際に詠んだという歌碑が建っている。

「古(いにしえ)も今もかわらぬ世の中に 心のたねを のこす ことの葉」。
悠久の時を超えて和歌は心の種を残すものだ、私の歌と心もそのように残っていけば有り難い、というような意味合いとのこと。

天守台跡の石垣 古式穴太積で天正年間の築城当時のものと言われる、そのころは周囲には水掘があったという。天守台の広さは20×30メートルほどで、一軒の民家が建てられるほどの面積。

田辺城城郭復元図。
現在の地図と当時の縄張りを比較し易いよう重ねてあるが、ちょっと見づらい。

堀は内側から本丸堀、内堀、外堀と3重になっており、現在の模擬城門は本丸堀の上に建っている。

田辺城周辺のジオラマ。

天守台跡発掘作業の説明。

戦国大名の婚姻関係図、手作りのもので中々の労作だ。

京極 高知(きょうごく たかとも)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。丹後宮津藩(宮津城)初代藩主。
高知流京極家の祖

近江守護の名門京極高吉の次男として生まれる。
早くから豊臣秀吉に仕え、その功により羽柴姓を許されて羽柴伊奈侍従と称す。

文禄2年(1593年)、義父毛利秀頼の遺領を(秀頼の嫡男秀秋を差し置いて)任され、信濃飯田城主として6万石を領し、従四位下侍従に任ぜられた。

また、領内にキリスト教の布教を許可し、のちに自身もキリシタンとなっている。文禄3年(1594年)、10万石に加増される。

秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)には岐阜城攻めに参戦し、関ヶ原の戦いでは大谷吉継隊と戦うなどの戦功を挙げた。

戦後は丹後12万3000石を与えられ、国持大名として京極丹後守を称した。田辺城に入城後、宮津城に拠点を移す。

その後、領地は嫡男・高広、三男・高三、甥で婿養子の高通の3人に分封し、宮津藩・田辺藩・峰山藩の3つに分割された。

嫡流は宮津7万8200石の領主となったが、3代で改易となる。
その後、子孫が高家として取り立てられ、幕末まで続く。

田辺藩京極家は3代で但馬豊岡へ転封となった。
峰山藩京極家は幕末まで転封もなく、幾人もの若年寄を出すなど譜代格の大名として幕政にも参画した。

舞鶴市のマンホールの蓋、五老ケ岳から見た舞鶴湾のザイン。
舞鶴湾の眺めは、近畿100景の1位です。
湾内に北海道定期航路の大型高速フェリーを、手前には市の花の「ツツジ」を配している。

細川氏は、多くの大名の中でも、鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いた希有な家である。

どちらかというとしたたかに情勢分析をし、器用に要領よく生き抜いたというイメージ。

初代細川藤孝は、足利一門の三淵晴員の子として、(実質は、12代将軍義晴を父とし、清原家から下女奉公した母との息子)管領家の細川家へ養子に入る。

『細川』と言う名跡は、血縁家門の途絶えた”名門の姓”で、鎌倉、室町時代は家老職を賜る名跡で、つまりは、下女奉公の生んだ将軍の胤に、『細川』の名高い姓を継がせて、次代の将軍補佐として格を整えた。

細川藤孝公の母の実家は清原家で、代々学者の家系。
京都吉田神社(吉田兼好につながる)系統の長岡神社神主の家系。

13代将軍義輝に仕え(兄の政治補佐)、武術と軍学を学び、兄をリードする責を負わされます。

将軍義輝が松永久秀に襲われたると、(下克上)、朝倉義景を頼り、14代将軍を押し立てて、一方で、14代将軍義昭が信長に反旗を翻すと、”将軍補佐役”の職を放棄して、”朝倉家”頼りから、信長支持にスイッチ。

信長の家来の丹波方面の大名へと転身していく。

明智光秀と細川藤孝は気心が通じ、親交が厚く、にも関わらず、本能寺の変の緊急事態の時には、明智光秀の八方塞的挙兵に共鳴味方せず、頭を剃って冷静に対処、入道し、幽斎と名乗る。

細川家は、情に流されない冷静な情勢分析に長けて、混乱戦国機にも惑わない、生き残り術に長けている家系と言う評価が高い。

平時は文人=学者の顔を持ち、三条西実条(にしさねえだ)から、古今和歌の難解な語句の解釈を、九条タネミチから、源氏物語のそれを伝授されます。

(当時、歌の道も流派流儀の『奥義』で粉飾されて、物々しい伝授作法があった様子。
閉鎖的な古今伝授の間で、余人を排してひそかに伝授される。)

”古今和歌集、源氏物語への奥義解釈”は、細川幽斎個人の造詣、文才としてだけでなく、国家的な財産(無形文化財)であった。

後陽成天皇は.、関が原の合戦の時、幽斎公が丹波田辺の戦国大名として500の人数で、田辺城を守り、敵勢15,000人に攻め囲まれて孤立無援になった時、幽斎の命とともに、国家的な文化財産が失われるのを恐れ、幽斎の延命を図る仲裁に入ります。

普段余り戦の成り行きに介入しない『天皇』が戦場に分け入り仲立ちされます。

関が原の主戦場で徳川方が勝利したため、石田方の丹波勢力は消滅しましたが、天皇は、幽斎から弟の八条の宮への奥義解釈の伝順を申しつけます。

その時の、その伝授の為の書院が桂離宮に江戸期を通じて保存されて、残存し、大正元年に水前寺成趣園に移設され、《古今伝授の間》(こきんでんじゅのま)として保存されます。

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舞鶴城へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都府舞鶴市字南田辺15-22
電話:0773-76-7211 田辺城資料館

舞鶴線「西舞鶴駅」から徒歩5分

明智光秀が築いた名城 福知山城

先日来の大雨災害で訪問が危ぶまれたが何とか訪問にこぎつけた。
関連記事:悲運の武将 明智光秀終焉の地  淀殿ゆかりの 淀古城跡  祇園白川に 明智首塚  ガラシャゆかりの勝竜寺城

観測史上最大の大豪雨で町が完全に水没!法川(旧堀)の辺りで間まだ懸命の復旧作業が続けられている。

親水公園から本丸に復元された望楼型天守を望む。

明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと大修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。

明智光秀は本能寺の変では勝利したが、山崎の戦いでは敗北し後に暗殺された。明智光秀の在城期間はわずか3年間だけであった。

大天守(鉄筋コンクリート造、竣工・昭和61年11月9日)
外観3層の望楼型天守。

二重櫓に入母屋の大屋根をかけその上に小望楼をのせた姿は初期天守閣の様式をよく表わしている。
内部は4階で、福知山市郷土資料館・産業館となっている。

銅門番所、この建物は、福知山城二の丸の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で、当時の面影をしのばせる城内の建築物。
大正時代のはじめに天守台に移築され、さらに天守閣の再建に伴いこの場所に移された

本丸石垣下奥の石垣にも転用石が多く使われている。

福知山城天守閣復元鯱瓦。

本丸、天守の東側に「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸が残っている。
この井戸は城主であった朽木稙昌の父朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだものである。

井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。
高所に関わらず水深37mもあり、現在も満々と水をたたえている。

伝承ではこの井戸に抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがある。

第二次世界大戦前まで二ノ丸の北側に深い洞穴があったようだが、奥が行き詰っており氷室であったという指摘もある。

天守から福知山市街を望む。

大天守から小天守越しに北方向を望む、城下通りと由良川に架かる音無瀬(おとなせ)橋。

錦絵四天王大江山入之図。

福知山城の本丸には朝暉神社(あさひじんじゃ)があります。

1669年(寛文9年)6月に入部した、福知山初代藩主である朽木稙昌(くつきたねまさ)が父・稙綱(たねつな)を藩祖として城中に祀ったことにはじまり、11代藩主・綱條(つなえだ)のときに一社を建立して朝暉神社と号しました。

廃藩により城外に移されましたが、1881年(明治14年)に町民らの要望によって天守台跡に再建されました。
さらに1986年(昭和61年)の天守再建にともなって、現在の位置に移築されました。

現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。

天守台から本丸にかけての石垣は、400年前の光秀築城当時の物で、自然石の野面積(のづらづみ)で、石垣の名人と言われた近江穴太(あのう)衆が得意とした穴太積様式が取り入れられています。

これは、不ぞろいな大きさの細長い石を奥のほうで組み合わせた後、隙間に細かい小石をはめ込んで補強するというもので、大変丈夫でした。

石垣には五輪塔や宝篋印塔などがそのまま使われていて、その数は185個とも…

左から大天守、続櫓、小天守(東面)。

登城路(右側・坂道)をUターンして石垣下を奥に行った所に転用石の展示場が設けてあります。
石垣に使用された石仏 これだけ大量の石仏使用は、日本のお城の中では、この福知山城と、光秀が先生となって築城方法を教えたと言われる筒井順慶の大和郡山城だけだそうです。

光秀の出自はよくわからない部分もあるが、清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。
生年は『西教寺過去帳』『明智軍記』『細川家文書』からは享禄元年(1528年)とされる。
場所は岐阜県可児市明智の明智城が有力とされる。

青年期の履歴は不明な点が多い。
通説によれば、光秀は美濃国の守護土岐氏の一族で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。

その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉義景に仕えたという。

永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって襲殺されると、その弟義昭が姉婿である若狭国守護武田義統のもとに逃れ、さらに朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。

義景の母は若狭武田氏の出であり、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられることから、義昭の接待役を命じられたといわれる。
義昭が上洛を期待しても義景は動かず、そこで義昭は斎藤氏から美濃を奪取した織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるよう、光秀を通じて要請した。

光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。

本能寺の変の原因説は諸説あっていまだに定説がないが気になる説を2,3あげておく。

四国説
信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。

光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。

大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。

家康黒幕説
家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。

大阪と京を結んだ水陸の要所 淀城に解説記事があるので参照されたい。

「神君伊賀越え」は予定通りのルートであり、苦難とされたのは、予定通りの行動であることを世間に隠すためのカモフラージュというものである。

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福知山城へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都府 福知山市 字内記(内記一丁目)5
電話:0773-23-9564 福知山城(郷土資料館)

山陰本線「福知山駅」下車徒歩約15分、又は京都交通か西日本JRバス「福知山城公園前」下車