大雲院特別公開

天正15年(1587年)、正親町天皇の勅命を受けるという形で、貞安(じょうあん)を開山として、織田信長の子信忠の菩提を弔うために、信忠が討たれた二条御所跡(烏丸御池)に創建したのが初めで、大雲院という寺院名は、信忠の法名からつけられた。

正面左側の廻縁に大理石製の釈迦涅槃像が。

まず、正面の入口は総門。
東京から移築されたもので、旧宮家の門と伝えられている。

織田信長と子信忠の墓。

境内墓地には石川五右衛門の墓があり、これは処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁による。

祇園閣 – 1928年(昭和3年)に建築された3階建ての建物で、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部。

屋根は銅板葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったため。

祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太。
1997年(平成9年)12月12日、国の登録有形文化財に登録された。

先端によく見ると鶴がついています。
通常は鳳凰を飾るが、建てた人物の幼名「鶴吉」に因んだもの。


高台寺境内からの大雲院 祇園閣。

日本画の巨匠竹内栖鳳が昭和のはじめに構えた私邸跡のレストランTHE SODOH HIGASHIYAMAからの大雲院 祇園閣

生け花が飾られライトアップされた大雲院 祇園閣。

開山の貞安(ていあん)上人は有名な安土論争で信長の知遇を得、出世の糸口をつかみます。

貞安上人は、『信長公記』に「浄土宗は、墨衣にて、如何にも左道なる仕立、関東の長老、安土田中の貞安長老二人、是も硯・料紙を持ち候て、出らる。」「貞安問ひて云ふ、法花八軸ノ中ニ念仏有ルカ」と記されている僧です。

天正7年5月、安土城下の浄厳院で行われた法華・浄土宗論の当事者の一人となった人。

宗論で勝った貞安は織田信長の知遇を得ます。

「信長公厚く帰依し給ひ、江州八幡に西光寺を建立して、貞安ここに住職す」。

その織田信長・信忠父子が天正10年(1582)の本能寺の変で亡くなります。
そのことを伝え聞いた貞安は京都に上り、正親町天皇の命により信長・信忠の菩提を弔うために、二条烏丸あたりに一宇を建立します。

信忠の法名が大雲院殿三品林仙厳大居士ということから、「大雲院」と号したのが、当寺の起源。
そして、天正18年(1590)秀吉の命により寺町四条下ルの地に移転。

「信長が法華宗を不当に弾圧した」という歴史学上の見解には非常に疑問が残る。

安土宗論(あづちしゅうろん)は、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。

安土問答とも称される。

織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われた。

法華宗は信長の意図的な弾圧により、敗れたとされ、処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。

浄土宗側は、黒染めの衣で、質素ないでたち、霊誉と、安土田中の西光寺の聖誉・貞安(せいよていあん)、正福寺信誉洞庫、知恩院一心院助念の4人が筆記用具を持って登場。

法論の出席者は以下の通り。
浄土宗側 – 霊誉玉念(浄蓮寺)、聖誉定(貞)安(西光寺)、信誉洞庫(正福寺)、助念(知恩院、記録者)
法華宗側 – 日諦(常光院)、日珖(頂妙寺)、日淵(久遠院)、普伝(妙国寺)、久遠院大蔵坊(記録者)
判定者 – 鉄叟景秀(南禅寺、建仁寺)、華渓正稷(南禅寺帰雲院)、仙覚坊(法隆寺)、(因果居士)
名代 – 津田信澄
奉行 – 菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一
目付役 – 矢部家定、森蘭丸

史料の信憑性

日蓮宗側の論拠は主に「安土問答実録(著者・日淵)」「因果居士記録(因果居士から聞き取ったとされる)」だが、この2つの史料には問題がある。

前者には因果居士が登場せず、後者には日淵が登場しないのである。両者を統合しようとする考えとして、「日淵が因果居士のことを書き忘れた。

そして日淵は日雄(因果居士記録に登場)と同一人物である」とする説がある。

しかし「因果居士記録」において、因果居士は宗論に非常に大きく干渉して、浄土宗側を勝利に導いた立役者となっており、その名前を書き忘れるのは甚だ不自然であることや、日淵=日雄を立証する史料が見つかっていないことなどから、少なくともどちらかは虚偽だと思われる。

ちなみに信長は、宗論後も本能寺を始めとした法華宗の寺を宿泊施設として使っており、信長側が不正をしていない傍証になる。

ルイス・フロイスの『日本史』でも、信長公記と全く同じ流れで宗論が進んでおり、やはり「妙」のところで法華宗側が回答に詰まって決着がついている。

宗論の項冒頭にフロイスが書いている通り、彼にとっては法華宗も浄土宗もどちらも「悪魔の教え」として完全否定すべきものであり、また「彼らはなんら哲学的知識を持っていなかったので」などと両者とも蔑視している。

つまりフロイスが浄土宗の勝利のために信長と口裏を合わせる理由は全くないと言え、信憑性は高い。

結論として、「信長が法華宗を不当に弾圧した」という歴史学上の見解には非常に疑問が残る。

信長がこのようなことを主催した動機については、予ねてから法華宗をどう諌めようか想定していたから、という説が有力である。

一応、経済的に豊かであった法華宗寺院及び信者から矢銭を調達するための策略であった、という説もあるが、当時すでに織田家は非常に裕福だったと思われることや、天文法華の乱の被害規模を考えれば、利益とリスクが全く釣り合わない話である。

井沢元彦も「もし信長が法華宗を嵌めたのなら、なぜ素直に詫び証文を書いたのか、また当時の宗教は世俗の権力に徹底的に反抗するのが常であり、特にその傾向が強い法華宗がなぜ大規模な法華一揆を起こさなかったのか」と指摘している。

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勧修寺の半夏生

『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。

胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。

山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。

勧修寺には、見所がたくさんあります。これはさざれ石。

藤原高藤と宮道列子に関する説話

『今昔物語集』巻22「高藤内大臣語 第七」には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。
藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。

ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。

勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。

翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。

その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。

それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。
列子には娘がいた。

6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。
この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。

半夏生の頃(毎年7月2日頃)に花を咲かせることから半夏生(ハンゲショウ)とよばれています。

また、葉の一部分を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説もあります。
見頃は6月下旬から7月上旬。

庭は勧修寺氷池園という池泉庭園である。

中心を占める池は氷室の池といい蓮で知られており、平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。

この「氷室池」は、山科区内でも有数の水面らしく、年によっては冬にかなりの数のガンカモ類などが羽を休めます。

トンボが忙しく飛び回る。

シノブが涼し気に・・・・

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夏の装い けいはんな記念公園

けいはんな記念公園はすっかり夏の装い。
木陰を吹き抜ける風は爽やかです。

モニュメント「嵐」

ザクロが実をつけています。

ザクロ(石榴、柘榴、若榴、学名: Punica granatum)は、ミソハギ科ザクロ属の1種の落葉小高木。

タカノツメ(鷹の爪、Gamblea innovans)は、ウコギ科、タカノツメ属の樹木。

落葉高木で雌雄異株。別名イモノキ。

スミレの仲間、草地に可憐に咲いています。

スミレ科にはおよそ16属850種があるが、そのうちでスミレ属が400種を占める。

日本産のものはすべて草本で、河畔のヨシ群落に生息するタチスミレのように背の高くなる例外もあるが、ほとんどがごく背が低い草。

茎を地表より高く伸ばさないものが多い。
葉はハート型か、それを引き伸ばしたような形をしている。

お昼ご飯の席にこがねむしの仲間が登場。

長谷池の西の端の湿地に半夏生が咲きました。

夏至を過ぎた頃に長さ10~15cmほどの穂状花序を葉の付けねにつける。

また、花のすぐ下に位置する葉の表面が白く変化し花弁の役目を果たすのが本種の特徴。

開花期にはドクダミに似た独特の匂いを出す。

名前の由来は、半夏生(太陽の黄経が100°になる日。グレゴリオ暦で毎年7月2日頃)の頃に花を咲かせることに由来する説と、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説がある。

また、葉の片面(表面)だけが白くなることから古くはカタシログサ(片白草)とも呼ばれている。

池の中ほどではカメさんが連れだって甲羅干し、そばにはカワウ、いつも一緒だ、仲がいいのかな。

巨石群の中にアジサイが。

巨石をバックにはいポーズ。

紅葉谷の木漏れ日の中、撮影にはもってこいの環境です。

紅葉谷の小径、みどりがきれいです。

谷あいの道を抜け西入口へ向かう。

傍らにはや、桔梗が咲く。
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早すぎました 岩船寺のアジサイ


期待しながら山門を潜る。

まだまだ色がついていません。

ここ数年、見頃に出会えたのは一回のみかな。

岩船寺 アジサイが見頃です
壱岐・対馬の旅の掲載を始めたばかりですが、季節の話題を挟ませていただく。 壱岐・ … 続きを読む →

花の寺 岩船寺
岩船寺は真言律宗の寺院、開基(創立者)は行基と伝える。 アジサイの名所として知ら … 続きを読む→

当尾のあじさい寺 岩船寺
京都府木津川市、京都と奈良の県境に近い当尾(とうの)と呼ばれる山里にあるのは、関 … 続きを読む →


深い緑の中に佇む三重塔。

木立の中のアジサイ、玉ボケねらいです。

美しい玉ボケを存分に楽しむ。

この時期だけの貴重な瞬間、残念がっていないで存分に楽しもう。

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浄瑠璃寺のアジサイ

浄瑠璃寺は、京都府木津川市加茂町西小(字)札場(にしお ふたば)にある真言律宗の寺院。
山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人。

本堂(国宝)は寄棟造、本瓦葺き。桁行11間、梁間4間(ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。
堂正面の柱間装置は、左右両端間は上半を連子窓、下半を土壁とし、他の9間は板扉とする。

三重塔(国宝)は、『浄瑠璃寺流記事』によると1178年(治承2年)、京都の一条大宮から移建したとするが、もともとどこの寺院にあったものか不明。

構造上の特色は、初層内部には柱がないことで、心柱は初層の天井から立てられている。

緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。

堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。

池の周りは緑が鮮やか。

花に蝶が群がる姿が見られる。

木立の中のアジサイ、陽に透かして見る。

雨が似合うアジサイだが今年は梅雨入り宣言後雨が一滴もない。

カシワバアジサイの白が鮮やか。

透けている姿が見事。

お昼はこのそば屋で、というのが定番になってしまった。
この店のアジサイ園は広大で見事、一見の価値あり。

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親鸞聖人の手植えの大楠 青蓮院門跡


門前の大クスノキは親鸞聖人の手植えと伝わる。

相阿弥の庭

小御所東側の池を中心とした庭園は室町時代、相阿弥の作と伝え、その北方の「霧島の庭」(霧島つつじを植える)は小堀遠州の作と伝える。

華頂殿(書院)ここから眺める相阿弥作の庭は圧巻。
三十六歌仙額絵、木村英輝氏奉納の、蓮の襖絵(60面)がある。

一文字手水鉢、伝豊臣秀吉寄進。

カモのつがいが仲よく昼寝。

竹林の眺めが見事。

青蓮院は、梶井(現在の三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。

「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王・入道親王(皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を務め、格式を誇ってきた。

江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。

宸殿前庭、木立の緑と木漏れ日が美しい。

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花しょうぶが見頃 平安神宮


西神苑の白虎池(びゃっこいけ)に、江戸系、伊勢系、肥後系を中心に日本古来のものばかり約200品種・2,000株が咲き競います。

木立の木の色とのコラボが素敵です。

サギはエサ取りに夢中。

木立の緑も息をのむほどの鮮やかさ。

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今日のお昼はがんこ二条苑

「がんこ二条苑」はおおよそ380年前の慶長16年 角倉了以によってつくられその後、明治の元勲山県有朋の別邸「第二無鄰庵」となり第三代日本銀行総裁川田小一郎の別邸、阿部信行首相別邸等をへて現在は大岩邸として伝わり、がんこが引き継いでいる。

木漏れ日の美しい窓際の席です。
欄干は明治時代に能舞台として使われていた名残。

たまたま舞妓のショーが有り楽しませてもらう。

高瀬川源流の流れ、吉野石の石橋と木漏れ日がきれいです。

たがそでのつくばい

着物の袖の形をしていることからこの名が付いた。

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緑滴る 酬恩庵一休寺

一休寺はあくまで通称で、正式には酬恩庵(しゅうおんあん)という。
創建は鎌倉時代で、その後荒廃していたお寺を一休宗純が復興した。

酬恩庵という名は、宗祖である南浦紹明の「恩に酬いる(報いる)」というところから来ている。

新田辺駅では一休さんがお出迎え。

総門前には金春禅竹による屋敷跡があったと伝えられており今現在は「薪能金春の芝跡」という碑が建てられている。

一休和尚筆七仏通戒偈「悪いことはするな、よいことをせよ」の意。

総門をくぐると石畳の参道が続く。

両脇には楓が植えられ足もとには隙間なく苔がしきつめられています。
桜、つつじ、さつき、沙羅、萩、楓など四季を通じて楽しむことが出来ます。

どこまでも続く緑のトンネル、見事。

禅師は文明13年(1481)11/21に88歳で示寂されたがこれに先立って文明7年(1475) ここに寿塔を立て慈楊塔と名付けられた。

前面の庭は禅院式枯山水の様式で室町の古風を存している。
現在墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされており門扉に菊花の紋があるのもそのためである。

とりあえずこの先で拝観料の支払い。

後ろを振り返ってみる、見事。

方丈は住職の接客や仏事を行うところ。
江戸時代慶安3年(1650)に加賀三代目藩主前田利常公の 寄進により再建された。

南庭は宗純王廟と虎丘を背景としてこれら建物の北部斜面を利用してサツキの刈込があり西部に大きい蘇鉄が 植えられている典型的な江戸時代の禅苑庭園。

刈込から軒下までは白砂が敷き詰められており さっぱりとした中に落ち着いた雅味をあたえている。

とんち話にも出てくる虎。

方丈中央の内陣を昭堂と称しここに一休禅師の木像を安置してある。

この木像は一休禅師逝去の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので自身の頭髪と髭を植えたとされている。

北庭は禅院枯山水としての蓬莱庭園。

東北隅に約2メートルの巨石を配しいわゆる観音石として用いている。
これに他の集団石組をもって枯滝落水の様子を表現している。

その昔、正面には木津川を上下する白帆を眺めることが出来また晴れた日には比叡山を望んで楽しんだと言われる。

これら三方からなる庭園は江戸初期のものとしては第一流であり当代庭園の白眉とされている。
この作庭は石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の3名の合作とされている。

さらに本堂へ向かう。

本堂は仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が安置されている。

当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物。

1429年から1441年の永享年間に 室町幕府六代目将軍足利義教公の帰依により建立された。


「美人陰有水仙花香」(美人の陰<ほと>に水仙の花の香有り)という題がついた漢詩がある、要するに性愛を赤裸々に詠んだものである。

水上勉は、一休が盲目の森女の膝を枕に、静かに死出の旅に招かれたていったと考えたようだった。

その後、一休は文明13年11月21日(1481年12月12日)、88歳で亡くなるまでをここで過ごし臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。

なお、金春禅竹が総門のまえで一休のために能を演じたという。

乗ったタクシーの運転手から田辺手はこの一休寺と観音寺くらいかなと言われた。

竹送りの寺 国宝十一面観音を拝む 大御堂観音寺
国宝十一面観音が美しい寺だ。

京都府京田辺市の『観音寺(大御堂)』は、奈良時代に、天武天皇の勅願により法相宗の … 続きを読む →

なんかホッとする像だ。

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早朝の京都駅


早朝の古代階段、強すぎるコントラストをどう表現しよう。

伊勢丹側の大階段は段数171段、高低差は11階建てビルに相当する35m、全長は70mある。

南側に回って見る、曇りがちの空からの陽光。

北側の顔はやはり京都タワーかな。

いつの間にか見慣れない建造物、羅城門の模型です。

JRについては在来線特急の発着種類が日本一多い駅。

京都タワーの切り取りは数限りなくある。

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