聖武天皇勅願 海住山寺


当寺の創建事情については必ずしも明らかではないが、寺伝では天平7年(735年)、 聖武天皇の勅願により良弁(奈良東大寺の初代別当)を開山として藤尾山観音寺という寺号で開創したという。

伝承によれば、聖武天皇は、平城京の鬼門にあたる現・海住山寺の地に伽藍を建立すれば、東大寺大仏の造立が無事成就するであろうとの夢告を受け、良弁に命じて一寺を建立させた。

良弁が感得した十一面観音像を本尊として開創したのが、海住山寺の前身の観音寺であるという。

なお、史実としては聖武が大仏建立の詔を発したのは天平15年(743年)であり、平城京の地で大仏造立を開始したのは天平17年(745年)である。

海住山寺という寺号の由来については、『明本抄』「良算聞書」に以下のようにある。

まず、「海」とは、観音の衆生を救済しようという誓願が海のように広大であることを意味し、海のような観音の誓願に安住するという意味があるとする。

また、インドの仏教では観音の住処は南方海中の補陀洛山(ポータラカ山)にあるとされ、当寺を海に住する山である補陀洛山になぞらえる意味もあるという。

海住山寺秋の文化財特別公開、国宝五重塔開扉の告知ポスターが境内に貼られてました。

通常は奈良博にいらっしゃる、五重塔を守護する「四天王立像(重文)」。

五重塔(国宝)。
塔高17.7m、初層方三間、本瓦葺、裳階付。建保二年(1214年)建立。
室生寺五重塔に次いで日本で二番めに小さい塔。

パッと見ると六層に見えますが、一番下の屋根は「裳階(もこし)」と言われる、耐久力を増すための飾り屋根になっています。

裳腰つきの五重塔は、現存するのは法隆寺とここだけ。

木造十一面観音立像 重要文化財

像全体の特徴は、バランスがよく伸びやかな体躯をもち、肉身は張りがあって、衣はその質感がよく表わされている。

十一面観音の象徴である頭上面は、頂上に仏面、髻の中ほどに三面(正面は菩薩面、左は瞋怒面、右は牙上出面)、地髪の上に七面を配する。右手を施無畏印とし、左手は肘を曲げて水瓶を執り、後述するように体躯に動きを表して蓮肉上に立つ。

五重塔内陣を厨子風に造り、8枚の扉に一体ずつ、華麗な彩色で梵天・帝釈天などの天部や比丘像が描かれる。

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聖武天皇謎の彷徨 恭仁京を訪ねる


740年、聖武天皇は平城宮を離れ、恭仁宮(京都府木津川市)に遷都。

しかし、恭仁京の完成を待たず744年には難波宮(大阪市)、翌745年には紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に都を移します。

有名な大仏建立の詔は紫香楽宮で出され、建立が始まります。

なぜこのように頻繁な遷都が繰り返されたのでしょう? 理由はよくわかっていません。

宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。

現在は、大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が残り、恭仁宮跡周辺では晩夏から秋にかけて、蕎麦の花、彼岸花、コスモスが見頃となります。

大極殿(石碑)から北方面を見る。(田圃一帯を恭仁京跡地として保存されている)
13年度の調査で「内裏西地区、内裏東地区」が確認された。
築地塀、掘立柱塀などで囲まれていた。

今(いま)造(つく)る、久迩(くに)の都は、山川(やまかは)の、さやけき見れば、うべ知らすらし

大伴家持

山の中腹に 聖武天皇の勅願と伝わる海住山寺(かいじゅうせんじ)が見えている。

大極殿基壇の北西隅に残る礎石、他に、南西隅に九重の石塔の台座として使われている礎石など数点があった

塔の心礎(大きさは人の大きさで判断ください)

そろそろ残り柿が郷愁をそそる季節となりました。

なぜこのように頻繁な遷都が繰り返されたのでしょう? 諸説あり、理由はよくわかっていません。

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この時期の風物詩 野焼きも見られます。

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蟹満寺縁起


昔、山城国(現山城町綺田)に観音様を厚く信じる農家の父娘がいました。
ある日、娘は村人がとる蟹を哀れみ逃がしてやりました。

またある日、父は田で蛇にのまれんとしている蛙を助けるのに「娘を嫁にやるから蛙を助けて欲しい」とうっかり言ってしまいました。

その夜、立派な男性の姿をした蛇が娘を貰いに来ますが、「三日待ってくれ」と懇願しました。
男性は一度、引き帰りました。

蟹満寺三日目、板を打ち付けた部屋の中で父娘は懸命に観音経普門品を唱え祈っていました。
やってきた蛇は約束が違うと怒りだし、家の周囲で暴れました。

しかし突然、その音もやみました。夜が明けて見てみると、家の周囲には蟹の鋏で切り裂かれた蛇の死体が転がっていました。

その時に死んだ蟹と蛇の屍を葬り塚を作ってその上に観音堂を建てたのが、蟹満寺といわれています。
現在、毎年4月に蟹供養がおこなわれています。

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蟹満寺


蟹満寺(かにまんじ)は、京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗智山派の寺院。
山号は普門山。

本尊はかつては観音菩薩であったが現在は飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造釈迦如来坐像(国宝)が本尊となっている。

寺の所在地の地名綺田(かばた)は、古くは「カニハタ」「カムハタ」と読まれ、「蟹幡」「加波多」などと表記された。

寺号についてもかつては加波多寺、紙幡寺などと表記されたものが蟹満寺と表記されるようになり、蟹の恩返しの伝説と結びつくようになったもの。

この伝説が『今昔物語集』に収録されていることから、蟹満寺の寺号と蟹の報恩潭との結びつきは平安時代後期以前にさかのぼることがわかる。

本堂は、2010年4月に完成したとても新しいものです。

本堂の梁や瓦、境内の燈籠やお賽銭箱など至る所に蟹さんがいます。

この蟹の紋は、牡丹の花を蟹にアレンジしたの紋なのだとか。

言われると確かに!ボディーが牡丹の花で、目や手足が葉っぱになっています!!

この寺の創建年代や由緒についてはついては不詳であるが、周辺の発掘調査から飛鳥時代後期(7世紀末)の創建と推定されている。

その後、江戸時代の正徳元年(1711年)智積院の僧亮範が入寺し再興された。

今昔物語集等に記載がある蟹の恩返しの伝承で有名である。

銅造釈迦如来坐像(国宝)

像高240.0㎝。本来は鍍金がほどこされていたが、頬のあたりに鍍金の痕跡を残すのみで像表面は黒色を呈する。

右手は胸の辺に上げ第一指と第二指で輪をつくり、左手は掌を上にして膝上に置き、第三指を軽く曲げる(ただし、第三指の半ばから先は木製の後補)。

材質、像高、前述の両手の印相などの図像的特色を含め、奈良・薬師寺金堂薬師三尊の中尊薬師如来像との類似が指摘される(薬師寺像の像高は254.7cm)。

様式的には興福寺仏頭(もと山田寺講堂本尊、685年開眼)と薬師寺像の中間に蟹満寺像を位置付けるのが通例であるが、天平期(8世紀)に入っての作とみなす説もある。

この仏像の注目ポイントは、お釈迦様の手。

仏様を表す際の三十二相のルールのうちの一つ「手足指縵網相(しゅそくし・まんもう・そう)」がはっきりとわかります。

手足指縵網相(しゅそくし・まんもう・そう)とは、指のあいだにある水かきのような膜のこと。
たくさんの人を救えるようにとこのような水かきがあるのだとか。

この水かきは、悟りを開いた如来では第一関節からあり、悟りを開く前の菩薩では第二関節からあるそうです。

上記の蟹の報恩潭は観音霊験説話であり、当寺の山号の普門山も法華経の観世音菩薩普門品に因むものであることから、当寺の本来の本尊は観音菩薩であったとみられる。

現在も寺の入口付近に観音堂があるが、本尊は釈迦如来に変わっている。

本尊の銅造釈迦如来坐像(像高240㎝)は飛鳥時代後期(白鳳期)の作であるが、造像の由緒は不明で、当初から蟹満寺にあったものか、他の寺院から移されたものかについては諸説ある。

市章入りクボタシーアイ製のマンホール。
汚水管ハンドホール蓋

町の木モミジと町の花キク、特産品である筍とお茶をデザイン。
旧町名「やましろ」と入っていますが、中央のマークは新の木津川市のもの。
汚水管マンホール蓋

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来迎院


来迎院は京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派に属する仏教寺院。
山号は明応山。本尊は阿弥陀如来。泉涌寺の塔頭。

寺伝によれば、大同元年(806年)に空海(弘法大師)が唐(中国)で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされる。

なお境内一角に赤穂義士・大石義雄建立の茶室「含翠軒(がんすいけん)」があり、念持仏・勝軍地蔵尊は本堂に祀られている。

院内庭園には小さいながらも独特の雰囲気をかもし出しており、殊に晩秋の紅葉はすばらしい。

秋の紅葉めぐり 禁裏御菩提所泉涌寺別当 来迎院
来迎院(らいごういん)は京都市東山区にある真言宗泉涌寺派に属する仏教寺院。 山号 … 続きを読む →


弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」は、縦穴の井戸ではなく、崖の下の部分から横方向に伸びる洞窟のような形状をしており、柄の長い柄杓を用いて汲み上げる。

伝承によれば、霊元天皇の寵愛を受けた女官、小少将局の娘は生まれつき目が不自由であったが、独鈷水で目を洗うと良いというお告げに従ったところ、たちまちにして目が治ったと言われる。

祈願の御石 境内に立つ弘法大師像の脇に祈願の御石が積まれている。
石に願い事を書いて、像を3回廻り、立石の梵字に当て祈念し、石を奉納する。

弘法大師像

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善能寺


久し振りの訪問です。

この寺は一説によれば、元は西八条猪熊二階堂町にあった二階観音堂と呼ばれていた寺であったが、弘仁14年(823年)に空海がこの寺に稲荷大明神(荼枳尼天)を祀って寺の名称を善能寺に改めたという。

その後、平城天皇の勅願寺となったこともあるが、天文24年(1555年)に後奈良天皇の命で泉涌寺の塔頭とされ、今熊野観音寺の西北に移された。

泉涌寺の塔頭のひとつで、本尊は聖観音。洛陽三十三所観音霊場第18番札所である。

ところで泉涌寺と言えば天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置し、御寺と呼ばれているわけだがなぜか天武以後称徳女帝までの8代7人の天武系の天皇の位牌が無いのです。
この辺りから当時の時代背景を辿ると面白いことだらけだ。

そして、何よりも紅葉がきれいなのである。
秋の紅葉めぐり 御寺(みてら)泉涌寺
平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちり … 続きを読む →

もちろん善能寺も隠れた紅葉の名所だ。

秋の紅葉めぐり 泉涌寺塔頭 善能寺
善能寺(ぜんのうじ)は、京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひ … 続きを読む →

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今熊野観音寺


参道を進むと朱塗りの「鳥居橋」があり、橋の傍に『今熊野観音寺』と刻まれた石柱が立てられているのが見える。

ここから奥が観音寺の境内になっているように思われるが、通常の寺院に見られるような山門がない。
観音寺は泉涌寺の塔頭であり、そのため山門が設けられていないのかも知れない。

観音寺は、京都市東山区泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院。

泉涌寺の塔頭のひとつで、今熊野観音寺とも称される。山号は新那智山。

秋ともなるとここは隠れた紅葉の名所。

紅葉の穴場、新那智山 今熊野観音寺
東福寺のあまりの混雑にビックリされて途方に暮れた方、大丈夫です。 近くに、今熊野 … 続きを読む →


杉並木の傍の参道を通り抜け境内を奥に進むと、先ず目につくのは「子護大師像」。
像は観音寺の開基である弘法大師の姿であろうと思われる。

階段を上がり振り返ると子護大師像の大きな背中が。

空海が唐で真言密教を学んで帰国した翌年にあたる大同2年(807年)、東山から光が出ているのを見つけた空海は、不思議に思って当地にやってきたところ、老人の姿をした熊野権現が現れた。

熊野権現は空海に天照大神御作の一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡してこの地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り、衆生を救済するようにと言った。

そこで空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像をその体内仏として中に納め、熊野権現の言うようにこの地に一宇を建てて奉安した。

これが当寺の始まりであるとされる。

現在、この観音寺は泉涌寺の塔頭であるが、応仁の乱以前は泉涌寺をしのぐ大寺だったという。

観音寺は「頭の観音」といわれているように、「ぼけ封じ祈願」の寺としてよく知られている。

「ぼけ封じ観音」の台座の近には多数の「身代わり石仏」が置かれている。

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秦氏の氏寺 広隆寺


広隆寺は真言宗系単立。
山号を蜂岡山と称する。

蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。

渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。

国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。

毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。

参道正面には本堂にあたる上宮王院太子殿がある。

『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。

一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。

『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。

これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

この奥に桂宮院本堂がある。

桂宮院本堂(国宝)-境内の西側、塀で囲まれた一画にある。

聖徳太子像を祀る堂で、法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。

通常非公開で、4、5、10、11月の日曜、祝日のみ外観が公開される。

じっとしておれないほどの暑さだが、桔梗はしゃきっと咲いている。

詳細は以前の訪問記を参照されたい。

弥勒の微笑が迎える太子ゆかりの寺 広隆寺
弥勒菩薩で有名な広隆寺を訪れた。 この寺の名称は、古くは蜂岡寺と云い、また秦寺、 … 続きを読む →

古式床しく 釿始め(ちょうなはじめ) 広隆寺
宮大工の古式床しい釿始めの儀式が番匠保存会により毎年、1月2日に太秦・広隆寺で行 … 続きを読む →

京都太秦ユダヤのパワースポット?大酒神社
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世界遺産 天龍寺


竹林の小径、最近は人力車の通路を竹林の中に設けてある、なかなかのアイデア。
竹の黒いしみが気になる、もしンして落書きを消したものか??!

天龍寺(てんりゅうじ)は、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。
山号は霊亀山(れいぎざん)。

寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。

足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

この庭園は約700年前に天龍寺の開山である夢窓国師が室町時代に作庭してといわれ、今でも当時の面影をとどめています。

嵐山や亀山を借景として取り入れた曹源池庭園は、日本初の史跡・特別名勝指定にも指定され、回遊式庭園としては最古の遺構といわれています。

天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。

その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 – 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 – 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。

「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

中国より伝来した「平和観音」。
観音像の前の涌き水は地下80mのから涌き出る霊泉。
これを喫する者は愛と幸を受けると伝えられることから「愛の泉」と呼ばれる。

その観音様を守るカエル。
この泉の中央には、願いの成就を競うかのようにお皿が置かれて、そこに賽銭を投げ入れるようになってます。

レンゲショウマ(蓮華升麻)

花が蓮に、葉がサラシナショウマ(晒菜升麻)に似ているので、レンゲショウマ(蓮華升麻)の名がつけられた。

花茎の下部に茎葉と根出葉がある。葉は二-四回三出複葉で、小葉は卵形、あらい鋸歯を持つ。

シオカラトンボ(塩辛蜻蛉、Orthetrum albistylum speciosum)

もっともなじみ深いトンボのひとつ。シオカラトンボとは、成熟して水色になったオスにつけられた名前で、茶色いメスは俗にムギワラトンボと呼ばれる。

アメンボ(水黽、水馬、飴坊、飴棒)

足先の毛だけを水面につけて、毛が水を撥く表面張力を利用して水面に浮かぶ。
表面張力は、雌が雄を背に乗せられる程度に強い。

中脚の運動で推進し、後脚で方向を定めて、水面を滑走する。
全て肉食で、水面に獲物や死骸が落ちると、すばやく接近して前脚で捕獲し、針のように尖った口器を突き刺して体液を吸う。

臨済禅師1150年・白隠禅師250年を記念して各種催しが行われた。

このところの酷暑でとても長時間外に立っておれません、汗をふきふきそこそこに拝観を済ませてしまいました。
以前の訪問記がありますよろしければどうぞ嵐山から天龍寺へ 癒しを求めて初夏の散歩路
いいですね~、空いている天龍寺。 新緑のもみじを通して北山~東山を借景にし、澄ん … 続きを読む →

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萬福寺とお茶


萬福寺の総門は、1661年(寛文元年)の建立(重文)。
中央の屋根が高く、左右の屋根が低い牌楼式(ぱいろう)の中国的な門。

中央の屋根の左右に乗せられているのは想像上の生物・摩伽羅(まから)。

摩伽羅は、ガンジス河の女神の乗り物で、そこに生息しているワニをさす言葉だという。

聖域結界となる入口の門・屋根・仏像等の装飾に使われている。

隠元禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。

日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。

のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に禅寺を創建。

古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山。

萬福寺の三門前の句碑は、江戸時代に尼僧として諸国行脚に明け暮れた俳人・一字庵田上菊舎のもの。

1790年(寛政2年)に萬福寺を訪れて「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」と詠んだ。

三門を出たときに、門前の茶畑から茶摘み唄が聞こえ我に返ったときの句だという。

売茶翁を煎茶の祖として祀る売茶堂の入り口。

萬福寺は、売茶翁ゆかりの寺でもある。

売茶翁、月海元昭(1675~1763)は佐賀出身。黄檗宗の僧侶だが、自ら茶道具を担いで京の大路に簡素な席を設けて煎茶を出したことで知られる。

茶代は随意で、茶を喫しながら禅道や世俗の話をした。

70歳で還俗し、「高遊外」と号して清貧の中、気が向くままに煎茶を売り歩く。

その客には相国寺の僧・大典など高僧や文人が多く、同時代の画家・若冲は売茶翁の生き方に憧れ、肖像画も描いている。

売翁堂の近くに茶具塚もあります。

門前、総門前にみられる「駒蹄影園(こまのあしかげえん)碑」。

鎌倉時代の初め頃、住民が茶の種のまき方がわからず困っていたところ、京都西北部の栂尾・高山寺の明恵上人が馬で畑に乗り入れ、馬のひずめの跡に種を蒔くように教えたといわれています。

これが宇治茶の始まりといわれ、大正15年(1926)に宇治の茶業組合によって建立された。

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