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「けいはんな記念公園」は愛称であり、正式名称は京都府立関西文化学術研究都市記念公園。
関西文化学術研究都市(けいはんな学研都市)建設を記念し、また平安京遷都1200年を記念事業の一つとして、平成7年(1995年)4月に開園した
学研都市の中核地区の精華・西木津地区に位置しており、周辺には国立国会図書館関西館やけいはんなプラザ等の学研都市の主要施設がある。
けいはんな学研都市の理念である「自然との調和」をテーマに設計された。
24.1haにもなる広大な公園であり、14.1haの自然保全区域と、10.1haの交流施設区域とに大きく分けられている。
自然保全区域はもともとあった自然林や永谷池を活かし自然を楽しめる区域であり、交流自然区域は人々の交流を目的に「芝生広場」「谷あい」「日本庭園(水景園)」等が設置されている。
また公園のイメージシンボルが「月」であり、水景園は月の新名所となることをめざし、「観月橋」や月を意識させるオブジェの設置されている。
朝の陽を浴び木々が輝く。
光りは斜光で撮影にとっては願ってもない光だ。
ゲートから生垣の誘歩道が続く。
入り口にある「嵐」と題するモニュメント、風雨の中、街角で見かけた道行く女性の姿をモチーフにし、心動かされたその情景を彫刻的フォルムで表現している。
里山の自然が美しい広大な公園であるが、春は桜、夏は木漏れ日、秋は紅葉、冬の雪景色というように、自然と四季が楽しめ、日本の原風景が体感できるように設計されている。
観月橋の下、巨石群に沿って光の中を歩く。
差し込む光が景色を美しく輝かせる。
もみじは赤く染まり
黄葉は陽に輝く。
巨石群の滝、スローシャッターにしたため少しぶれているが、お愛嬌。
あちらもこちらも優しい斜光。
池のリフレクションがきれいです。
PLフィルターなしでこの写り。
散りモミジに赤く色づいた紅葉が映り込む。
ここは紅葉谷、まさに一面紅葉です。
歩道の落ち葉も色とりどり、斜光が優しく映し出す。
永谷池を巡る遊歩道、ススキが揺れ、水面も輝く。
水辺の小径、木洩れ日の道と木々を仰ぎながら歩く。
至る所に柿木も
永谷池をほぼ一周して観月楼を正面から見る。
秋の風情を堪能する「観月の夕べ」。
庭園内には「観月橋」や「観月楼」など、月にちなんだ施設がありここで開催される好評のイベント「観月の夕べ」。
中秋の名月の夜、無料公開される公園内の日本庭園「水景園」で、月をめでながら庭園の夕べの風情を楽しめるという企画です。
なかでも池にかかった高さ10メートル、長さ123メートルの観月橋から眺める名月は最高。
庭園は美しくライトアップされ、池上のステージでは歌や演奏が幻想的なムードを高めます。
人面石だなどと勝手に呼んでカメラマンが好んで撮る。
帰りは観月楼を歩きます。
巨石群
高さ6〜7m、重さ20〜40(最大70)tの巨石、約500個からなる延長150mの壮大な空間です。
岡山県犬島産の御影石を使用しています。
紅葉を楽しみながら光と戯れた一日でした。
アクセス
JR祝園駅、近鉄新祝園駅より
奈良交通バス:56系統「学研奈良登美ヶ丘駅行き」など(約9分)
近鉄学研奈良登美ヶ丘駅より
奈良交通バス:56系統「祝園駅行き」など(約14分)
※水景園へお越しの方…「公園東通り」下車
※芝生広場へお越しの方…「けいはんな記念公園」下車
お車でお越しの方
京奈和自動車道
精華学研I.C.を降りて精華大通りを西へ約1㎞
国道163号線
乾谷西交差点を北へ約2㎞、精華大通りを東へ300m
府道八幡木津線
精華大通りとの交差点を西へ約2.2㎞
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今日はNikon Nikkor Z 24-200mm f/4-6.3 VRの筆おろしの日。
便利ズームという概念が破壊されていておじさんびっくりしちゃったよ!
とか、至高の万能レンズ の必要性が分かる動画~とか、なかなかの評判だ。
寺伝によれば、養老4年(720年)、法道仙人による開山とされ、法道が本尊十一面千手観音菩薩を刻み草堂に安置したのが始まりだという。
画像は、仁王門 明治29年の台風に倒壊し、昭和6年に鎌倉様式で再建されたという。
その後応和元年(961年)、空也により中興され七堂伽藍が建立されたと伝える。
法道は兵庫県播磨地方を中心に寺院開基伝承が残る伝説上の人物である。
鎌倉時代、北条時頼・貞時らの厚い庇護を受け、25余坊の寺坊が軒を並べる中本山の寺院として栄えた。
しかし、天正4年(1576年)、明智光秀による焼き討ちにより焼失した。
現在では、丹波のあじさい寺として知られている。
20世紀半ば頃、秘仏本尊開帳時に万灯万華を供養しようと発願され、その万華の花としてアジサイが選ばれ、多種栽植されたのが始まりである。
丹州観音寺は、奈良養老四年(720年)にこの地を訪れた法道仙人によって開かれたお寺です。
平安時代(961年)になって、空也上人が七堂伽藍を建立し、丹波地方の観音信仰の中心となって栄えてきました。
その後鎌倉時代に最盛期を迎え、北条時頼・貞時等の比護を受け、25余坊の寺院をもつ中本寺の寺として栄える。
約3600通余りの古文書、聖教類(京都府指定文化財)が現存します。
観音寺には、かわいいお地蔵さんがあちこちにおられます。
“今がわるくても 悲観することはない 曇り空のむこうに 青空があるように かならず 幸せは やってくる”
また、丹州観音寺の本堂を参拝するには石段を上らないといけません。
その高さにやや怯んでしまう人もいるであろう石段なのですが、意を決してその石段を上り始めると、手すりの部分に励ましの言葉が。
石段の一段一段に奇麗なアジサイが・・・・・・
今の辛い歩みも無駄ではない、とポジティブ思考をしてしまうような細かい”仕掛け”があるのです。
本堂
あじさいと並ぶ境内のフォトスポットが、本堂の格子のスペースに所狭しと並べられた「だるまみくじ」。
おみくじを格子のスペースに埋めるきっかけとなったのも、お寺を訪れた参拝客なのだとか。
もちろん持ち帰りも可能ですが、多くの方がだるまの背中に願い事を書いて格子に並べるのだそうです。
千羽鶴がきれいです。
ほおずえ地蔵
慈母観音 沙羅双樹も咲いています。
2019年からは手水舎にあじさいを浮かべる「花手水」が新名物となっています。
ピンクや白もありますが、あじさいはやっぱり青が綺麗。
「小国鶏」(しょうこくけい)とあじさいが織り成す景色は、まるで伊藤若冲の世界のよう。
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建仁寺から人通りの少ない道をトコトコ、八坂の塔、寺の正式名は法観寺です。
八坂神社と清水寺の中間に位置しており、「八坂の塔」という呼称で余りにも有名なので、正式名はあまり知られていないようです。
八坂通りの【奇妙な】画廊
この不思議な人間の体のパーツをモチーフにした作品の数々
危ないからどうぞ近寄らないでおくれやす。
そして写真撮る時は100円と書かれてます。
三本の和傘が象徴的な二寧坂入口。
西暦807年より坂が整備されて約1200年の歴史がある坂。
大正時代に現在のように整備され、近年、電線が地中化。
大正の香りを遺す風情ある道として、フォトスポットとしても人気のスポットです。
画家・詩人の竹久夢二がこの近くに住まいしたことでも知られています。
yahooで「竜馬葬送の道」で検索してみてください。
わがブログが2編検索にかかります。
明治維新の舞台!創業143年の老舗料亭「京大和」
故司馬遼太郎さんはこの料亭をよく使われていたそうです。
前方に大雲院祇園閣。
別名銅閣寺とも呼ばれる中々異色な建築。
1928年(昭和3年)に建築された3階建ての建物で、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部。
屋根は銅板葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったため。
祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太。
元からこの地にあるもので、1972年の大雲院の移転により伽藍の一部となった。
寺内は通常は非公開であるが数年おきに期間を限って公開され、公開の際は祇園閣に登ることや、墓地の石川五右衛門墓所や織田信長らの慰霊碑の参拝もできる。
書院の内部公開は行われない。
大雲院特別公開
天正15年(1587年)、正親町天皇の勅命を受けるという形で、貞安(じょうあん) … 続きを読む →
狭い路地に入ると、路面には石畳が敷き詰められ、両側には町屋が並び、京都らしい風情を楽しむことができます。
路に敷き詰められた石畳の一部は、廃止された京都市電の敷石を移設したそうです。
町屋の石垣がまるで石塀のように見えることから「石塀小路」と呼ばれるようになりました。
石塀小路といえば山村美紗を思い出す。
国内におけるミステリー界の女王やトリックの女王と呼ばれ、日本のアガサ・クリスティとも讃えられた。
今は故人の彼女の住まいはこの近くにある。
石塀小路の歴史は浅く、明治末期から大正初期にかけてお茶屋の貸家が軒を連ねていました。
現在は、旅館や料亭、庭園が美しい喫茶店などが立ち並び、祇園の奥座敷の位置づけにあります。
路は曲がりくねって、袋小路のように思えますが、高台寺通り(ねねの道)へと通り抜けることが出来ます。(逆方向の散策もOK)
なお、「石塀小路」には2箇所ほど行き止まりがありますが、基本的には高台寺道と下河原通をショートカットする小路。
こういった小路のことを京都では辻子または図子(両者とも「ずし」と読む)といい、行き止まりの小路を路地(ろうじ)と呼びます。
京都ならではの呼び名を少し学んでから「石塀小路」を訪問すると、またひとつ違ったものが見えてくるかもしれません。
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客殿(方丈)・経蔵・開山塔・楼門(宝陀門・宝陀閣)があります。
また苔むした庭には栄西禅師お手植えの菩提樹があります。
明治時代中期に再建されたとも言われています。
三門は八脚門です。
望闕楼(ぼうけつろう)とも言われています。
望闕楼とは御所を望む楼閣を意味します。
江戸時代末期に静岡・安寧寺(あんねいじ)に建立され、1923年(大正12年)に移されました。
なお三門は本瓦葺です。
勅使門は平清盛(たいらのきよもり)の嫡男・平重盛(たいらのしげもり)の六波羅(ろくはら)邸の門を移したとも、平教盛(たいらののりもり)の館の門を室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))後に移したとも言われています。
鎌倉時代後期(1275年~1332年)に建立されました。
なお勅使門は銅板葺です。
戦乱の矢の痕があり、矢の根門(やのねもん)・矢立門 (やたちもん) とも言われています。
建仁寺織田信長供養塔は庭園・大雄苑に建立されている七重石塔。
織田信長供養塔はかつて1582年(天正10年)に織田信長の弟・織田有楽斎が兄・織田信長追善の為に建立した十三重石塔だったと言われています。
江戸時代に開山塔の南の溝の底に隠されていたとも言われているが、1898年(明治31年)に現在の場所に移されたとも言われています。
3つの石を2つと1つに分けた石の配置、その廻りの白砂が作り出す「間」
大雄苑は1940年(昭和15年)に植熊(うえくま)三代目・加藤熊吉(かとうくまきち)が作庭した枯山水式庭園。
大雄苑は中国江西省奉新県の百丈山(ひゃくじょうざん)の眺めを模し、百丈山の別名・大雄山から大雄苑と名付けられました。
ちなみに百丈山は奈良時代後期に当たる784年(興元元年)に百丈懐海(ひゃくじょうえかい)が入山し、百丈寺(郷導庵)を創建し、黄檗希運(おうばくきうん)らが参禅すると最初の独立の禅宗寺院になりました。
こちらは、方丈から南方向に広がる庭、「大雄苑」を見たところ。
正面の唐門の向こうに聳えるのが、天井画「双龍図」が描かれている建物、「法堂」。
枯山水様式の「大雄苑」(だいおうえん)は、昭和15年(1940年)に、昭和の天才作庭家「植熊」 の三代目・加藤熊吉により作庭されたもので、中国の百丈山の眺めを模して造られたと言われています。
潮音庭は四面正面の枯山水式庭園。
潮音庭には法堂の三尊仏に見立てた三尊石があります。
三尊石の東側には座禅石を据えている。
座禅石の周辺に尾は小石を散らしているあたりに非凡な美的意識を感じる。
○△ロ乃庭は2006年(平成18年)に作庭されました。
○△ロ乃庭は臨済宗古月派の禅僧で、画家・仙がい義梵(せんがいぎぼん)の「○△ロ」の掛軸から名付けられました。
単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)水(○)火(△)で象徴したものとも言われる。
方丈の北側に配置された「納骨堂」。
直線的な模様の白川砂の庭を横切るように、踏み石を雁行させながら配置しています。
方丈の「竹林の七賢図」は16世紀の画家・海北友松筆の筆によるもの。
一番右の人物は、巻物を見ながら語り合っている2名と少し離れて、ちょっといじけた様子・・・
近世初期の建仁寺復興にからんで海北友松が制作した日本を代表する水墨画群、重要文化財「建仁寺丈障壁画」五十面のうち礼の間を飾る八面の襖絵。
建仁寺方丈に招かれた客が最初に通される礼の間に於いて、北面には咆哮とともに雲間から出現する龍が、西面には待ち構えるように睨みをきかす龍が、それぞれに雲を従えながら圧倒的な迫力をもって描かれている。
近世以来武門・禅門に特に好まれた龍を画題として、力量の試される大画面に余すことなく描きあげた本作品は、海北友松の得意とする水墨の龍の中でも随一の作品と言える。
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今の中国、宋の国に渡り、日本に初めてお茶を持ち込んだのが臨済宗の開祖栄西禅師。 … 続きを読む →
寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。
なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。
法堂の天井いっぱいに阿吽の口をした2匹の龍が描かれる。
阿形の龍は手に玉をつかむ。仏法守護として、また水の神として仏法の教えの雨(法雨)を降らせるたとえから、禅宗の法堂に描かれることが多い。
建仁寺法堂は古くより龍は描かれず素木(しらき)とされてきたが、1年10ヶ月の歳月を経て、建仁寺創建800年を記念して平成14年(2002)4月に小泉淳作画伯の筆により完成したものである。
風神雷神図は見逃せない国宝です。
風神雷神図は珍しい二曲一双屏風(にきょくいっそうびょうぶ)で、左に雷神・右に風神がダイナミックに描かれています。
風神雷神図は元々豪商・打它公軌(うだきんのり)が妙光寺(みょうこうじ)の再興を記念し、絵師・俵屋宗達(たわらやそうたつ)に製作を依頼したものです。
風神雷神図は江戸時代前期の1639年(寛永16年)頃に妙光寺に奉納されたが、その後妙光寺から寄贈されました。
なお風神雷神図は現在京都国立博物館に寄託され、見られるのは複製の屏風と陶板です。風神雷神図は里帰りすると雷鳴が響くとも言われています。
風神雷神図は俵屋宗達の真筆とされているが、俵屋宗達の印章(いんしょう)・落款(らっかん)はどこにもないそうです。
『対馬行列興』
臨済宗大本山 建仁寺 長崎県対馬「以酊庵」とのつながり
朝鮮通信、対馬藩宗家が起こした国書偽造の柳川一件以来対馬の外交(文書)は、漢籍にあかるい京都五山とその子院の高僧が輪番で担うようになる。
その高僧を対馬の以酊庵までお連れしたのがこの輿。
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今日はあいにくの雨です。
木々の緑が雨に洗われて生き生きとしています。
森の緑もきれいです。
一人で来たときはこの辺りも楽しみながらロープウェイの駅まで行くのだが、今日は団体行動です、あまりゆっくりしておれません。
まだ桜が残っているのではと期待していたがさすがにもう見当たりません。
いつもは晴れの日が多いのですが、初めての雨の日に当たりました。
ケーブルの車窓もはじめてみる雨の風景です。
叡山ケーブル・ロープウェイは、施設メンテナンスのため、冬季は運休、比叡山延暦寺へは、坂本ケーブル、比叡山ドライブウェイまたは奥比叡ドライブウェイをご利用となります。
かわらけ投げ広場からの遠景、雲海がきれいです。
今日は霧をどう表現するかなと興味つづ。
雲のグラデーションを表現したかったのですが、なかなか難しい。
モノクロの表現のほうが向いているかな。
雲の切れ間から東塔の景色が見えます。
この辺りまで来ると桜も見れます。
散り際の桜・・・・
雨に濡れたアセビに桜の花びらが・・・
藤の丘から霞む展望塔。
ガーデンは冬季休暇から昨日オープンしたばかりです。
花がどうかなと心配していたのだか、なかなかきれいだ。
何時もは花と絵画が目に付くのだが今回は霧に気を取られている。
気になってた睡蓮の庭へ。
モネたちが愛したモチーフです。
少しづつずらしながら・・・
彼らが思い描いた日本風の庭園・・・
何度も行きつ戻りつしながら霧にかすむ庭を楽しんでいます。
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帰りも霧を楽しみます。
ちょっと霧が深すぎるかな。
ケーブルのすれ違い場所。
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連歌所の井戸の横には、枝垂桜が咲きます。
まだそれほど大きくはありませんが、これからの成長が楽しみです。
北野桜は、北野天満宮の本殿などの東側にある社務所前で咲きます。
一重で中輪の白い花を咲かせる樹齢約120年の桜です。
開花が進むにつれて色が白からピンクに代わる特徴があり、北野天満宮の御神木として大切にされてきました。
特に名前も付けられていませんでしたが、桜の新品種に認定され、「北野桜」と命名されたのは、2016年と実は最近のことです。
ここがらタクシーで原谷苑に向かいます。(先日ブログ化)
原谷苑の後、タクシーで仁和寺に向かうも御室桜はまだ蕾。
宝暦5年(1755年)洪水により破損し再建される。
寺の南側には広大な鏡容池があり、周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる。
桜の季節は、桜の島が池に浮かんでいるようにも見えて、かわいらいしい風景です。
龍安寺の桜 龍安寺の桜苑の光景。
龍安寺には鏡容池の他、桜苑と呼ばれる所に桜が植えられており、訪れる観光客、参拝客の目を楽しませてくれる。
桜苑には、八重紅枝垂れ桜が多く植えられており、こちらも見ごろとなっていました。
桜が多いですが、中には「枝垂れ桃」という変わった桃も。
龍安寺は、京都市右京区龍安寺御陵下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。
大本山妙心寺の境外塔頭。
山号は大雲山。
本尊は釈迦如来。
開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。
もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。
円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。
この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450年)敷地内に龍安寺を建立した。
初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。
義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。
創建当初の境内地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。
『都名所図会』(安永9年(1780年)刊行)によると、当時は龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として紹介されており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名だったようである。
方丈庭園(国の史跡・特別名勝)、いわゆる「龍安寺の石庭」。
白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴を有する。
幅25メートル、奥行10メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。
これらの石は3種類に大別できる。
各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。
塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。
その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。
この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されていることや、これらの石は全て戦国武将の織田信定が運んだことでも有名。
どこから鑑賞しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている。
今では枯山水の石庭で世界的に知られていますが、ここまで有名になったのは1975年にエリザベス2世が龍安寺を公式訪問した際に石庭を称賛したのがきっかけ。
当時の禅ブームの後押しもあって世界的にブレイクしました。
また石庭の正確な築造時期や作者、意図などが定かでないため、謎深き庭として様々な憶測をよんでいます。
方丈(重要文化財)
元の方丈が寛政9年(1797年)の火災で失われた後、塔頭の西源院方丈を移築したもの。
慶長11年(1606年)、織田信包による建立。
本来ここには狩野派の手による襖絵があったが、それらは明治初期の廃仏毀釈の影響により寺から出て散逸してしまった。
現在の襖絵は、龍と北朝鮮の金剛山が題材で、1953年(昭和28年)から5年がかりで皐月鶴翁によって描かれたものである。
知足の蹲踞(つくばい) – 蹲踞は茶室に入る前に手や口を清めるための手水鉢のこと。
茶室「蔵六庵」の露地にあり、水戸藩主徳川光圀の寄進によるものと伝えられている。
見学コースで方丈北側にある蹲踞は精密な複製である。
蹲踞の上部にある文字は一見「五・隹・疋(但し、上の横棒がない)・矢」と読めるが、水溜めに穿った中心の正方形を漢字部首の「口」と見て「吾れ唯だ足るを知る」となる。
「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の格言を謎解き風に図案化したものである。
桜が美しい鏡容池では、春は桜と雪柳、夏は睡蓮や蓮の花、秋には鮮やかな紅葉が見られます。
鏡容池には弁財天の鳥居が建つ弁天島と伏虎島(ふしとらじま)の二つの島があります。
鏡容池を左に見て石庭拝観入り口の庫裏に向かう道には背の高い紅枝垂桜から花の枝が降り注ぎます。
桜の特徴
サクラの種類によって微妙に咲く時期が異なるため、長期間にわたり楽しむことができます。
桜の種類
ソメイヨシノ、ヤマザクラ、ベニシダレザクラ、ヤエザクラ
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原谷苑は「京の桜の隠れ里」と言われており、20種以上の桜が植えられています。
期間限定で一般公開され、3月上旬~中旬は梅、3月下旬~4月下旬は桜、11月下旬~12月上旬は紅葉を楽しむことができます。
特に枝垂れ桜の名所として有名で、春になると大勢の花見客で賑わいを見せます。
レンズベビーで・・・
桜だけではない原谷苑の花々。
原谷苑の主役は、シャワーのような八重紅枝垂桜ですが、脇役も多士済々です。
白の雪柳、黄色のヤマブキ、ピンクの吉野つつじが準主役として脇を固めます。
その他にも、サトザクラ、桃、木瓜(ボケ)、シャクナゲ、利休梅・・・と挙げていけばキリがないくらいのたくさんの花々で彩られます。
多くの花木に名札がかかっているのもうれしいところです。
原谷苑はちょっとした植物園です。
原谷苑の桜の見ごろですが、京都市内のソメイヨシノが見頃から一週間遅れて見頃を迎えます。
山あいにある原谷苑なので、京都市内では散ってしまった後でもまだ桜が楽しめるというのは重要なポイントです。
見頃の目安
1月末~ 河津桜~3月1週目から10日頃満開
3月一週目~ 京都御苑近衛邸跡、霊山観音などで山桜、枝垂桜などが開花~20日頃満開
3月半ば頃~ ソメイヨシノなど主要な桜が開花:東寺、清水寺、龍安寺(少し遅め)
3月末から4月初旬に満開
4月1週目~御室桜開花、10日頃満開 原谷苑の見頃は御室桜の少し後4月7日頃~ 北野桜開花。
昨年と同様に進捗すれば、原谷苑では10日以降に見頃に入るものと推定されます。
ただし、ソメイヨシノはもう少し早めに見頃に入ります。
また原谷苑の入苑料はなんと時価!
花の咲き方によって300円から最大1500円までという幅があります。
肝心なのがアクセス。
桜が咲く春の一般公開中は自家用車で行くことは不可能。
まず1つめのアクセス方法は京都市バス。
立命館大学前と原谷の間を結ぶM1系統は1時間に1~2本しかありませんが、唯一の原谷へ通じる公共交通機関です。
2時間に1本程度ですが北大路バスターミナルと原谷を結ぶルートもあります。
2つめのアクセス方法はタクシー。
バスの時間が合わない場合はおとなしくタクシーの利用がベター。
例年、北野桜が咲いていますので、北野天満宮で北野桜を楽しんでから、タクシーで原谷苑に向かうといいでしょう。
3つめのアクセス方法はシャトルバス。
実は原谷苑へ向かうシャトルバスが運行されているのはあまり知られていません。
乗り場はわら天神宮の鳥居前あたりで、原谷苑の門前まで9:00~16:00の間を約10分で結んでいます。
4つめのアクセス方法はツアーに参加すること。
桜シーズンの京都は各旅行会社によるツアーが数多く販売されていますが、原谷苑がコースに入っているツアーも毎年企画されています。
原谷苑以外の桜も同時に楽しみたいのなら、お手軽にツアーに申し込むのが賢いかもしれません。
ツアー参加の場合はタクシーで原谷苑へ向かうことになります。
「原谷苑」へは、ハイキングで辿り着けるのか?
もちろんいけないことはありません。
公式のサイトによれば、市バス北1系統源光庵バス停より約2.5kmほど、所要時間は約30~40分と書いてあります。
ただ、平坦な道ではないので、歩き慣れている方ならばまだしも、ハイキングを普段しない方は避けた方がいいかもしれません。
その他、鹿苑寺金閣より、約2.2kmほど、所要時間は約30~40分。
御室仁和寺より、約2.1kmほど、所要時間は約30~40分になります。
ちなみに筆者は前回は源光庵バス停より徒歩で、今回は北野天満宮からタクシーで・・・
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どうやら寒の戻りは終了らしい、いよいよ待望の春到来といったところか。
霊鑑寺へ行ったついでに哲学の道を南禅寺まで歩いた。
道の名は、大正時代に哲学者の西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことに由来する。
法然院近くには西田が詠んだ歌「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり」の石碑も見られる。
哲学の道の桜は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪と妻・よねが、1921年(大正10年)に京都市に300本の桜の苗木を寄贈したのに始まる。
寄贈の経緯は画家として大成した関雪が、京都に対する報恩を考えた際によね夫人が桜を植えてはどうかと発案をした事による。
当初の木はほぼ樹齢が尽きたと思われるが、佐野藤右衛門らの手により植え替えられ手入れされ現在に至っている。
代替わりをした今でも桜並木の名称として「関雪桜(かんせつざくら)」と呼ばれている。
「日本の道100選」に選定されている。
若王子橋から浄土寺橋まで続く疏水沿い、全長約2kmの散策道には、約400本のソメイヨノなどが咲き誇る。
満開時の桜のトンネルは感動的だ。
人の顔を思わせる石があった。
蹴上発電所は琵琶湖から京都へ水を導く「琵琶湖疏水」を利用した水路式水力発電所です。
日本初の事業用水力発電所として、明治24年(1891年)に運転を開始し、運転開始から125年以上経った今なお、現役の発電所として電気を送り続けています。
日本初の路面電車は「京都」琵琶湖疎水記念館
京都の偉大な産業遺産である「琵琶湖疏水」は、大津市観音寺から京都市伏見区堀詰町ま … 続きを読む →
冷泉通を疏水沿いに行く桜の穴場
川端冷泉通りを疏水沿いに行く道は、桜の穴場として親しまれています。
… 続きを読む →
この夷川発電所は、明治23年(1890)に琵琶湖疏水が竣工し、翌年にその水力を利用した我が国最初の事業用水力発電所である蹴上発電所が建設された後、第二疎水計画と軌を一にして、下流の墨染発電所と同時に建設されました。
田辺朔郎は、在学中に、京都府知事・北垣国道が、遷都で疲弊した京都の活性化のために、角倉了以・角倉素庵時代からの長年の懸案だった琵琶湖疏水工事を天皇下賜金で断行することを知り、1881年(明治14年)に卒業研究として京都へ調査旅行に赴き、卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を完成させる。
のちに同論文は海外雑誌にも掲載され、イギリス土木学会の最高賞であるテルフォード賞を授与された。
大鳥圭介工科大学校学長の推薦により、1883年(明治16年)に卒業と同時に京都府の御用掛に採用され、弱冠21歳で大工事である琵琶湖疏水の担当となる。
工事途中の1888年(明治21年)に議員の高木文平とともに渡米し、ダムや運河の水力利用で世界的な製紙の町となったホルヨーク (マサチューセッツ州)や世界初の水力発電を実現したアスペン鉱山を視察し、当初予定の水車動力を水力発電に変更し、蹴上発電所を創設。この変更は、のちの京都の近代産業化に大いに寄与した。
蹴上インクラインは、南禅寺の近くにあり、全長582mの世界最長の傾斜鉄道跡で、高低差約36メートルの琵琶湖疏水の急斜面で、船を運航するために敷設された傾斜鉄道の跡地です。
1891(明治24)から運航し、舟運の衰退とともに1948(昭和23)年に役割を終え、現在はその廃線跡は京都市の文化財に指定されています。
琵琶湖疏水クルーズの船が着いたところです。
義経地蔵は、鎌倉時代作という。
厚肉彫りの阿弥陀坐仏であり、舟形光背を背負う。
義経伝説と大日如来の信仰が一体化し、義経大日如来とも呼ばれた。
本来は、石造地蔵(九体仏)の一つであり立像もあったという。地
蔵は、義経伝説とは関係なく、近くの粟田口刑場で処刑された人々を弔うために安置されたともいう。
蹴上・義経伝説
蹴上は古く「松坂」と呼ばれ、松の生い茂る急な峠だったという。
蹴上の語源としては、「馬の蹴り上げ」、「力を入れて蹴り上げる」が由来という。
また、「つま先上がりになるほどの急坂」を意味するともいう。
義経地蔵は、蹴上の地名に関わりがあるともいう。
平安時代後期-鎌倉時代初期の武士・源義経(1159-1189)にまつわる伝承が残る。
義経は、平家打倒を胸に秘め、鞍馬山より橘次(さつじ)末春(金売吉次、吉次信高)に従い、奥州平泉・藤原秀衡のもとに赴いた。
それに先立ち、首途(かどで)八幡宮で旅の無事を祈願している。
1177年秋、日の岡峠(現在の蹴上)に差し掛かり、京都へ入る平家の武士、美濃国の関原与市(与一)重治(せきはら-よいち-しげはる)の一行とすれ違う。
その従者の一人(馬とも)が峠で湧水を撥ね、義経の衣を汚した。
一行は謝罪もせずに通り過ぎたため義経は怒った。
9人(10人とも)の武士をその場で切り捨て、与一の耳鼻は削いで追い払ったという。
また、与一も斬られたともいう。
義経は、東へ向かう門出の吉兆として喜んだ。
村人は、斬られた9人の菩提を弔うために、9体の石造地蔵(九体仏)を九体町(山科区)に安置して弔ったともいう。
また、我に返った義経は村人に菩提を弔うように頼んで旅を続けたという。
九体仏の1体が安置されたのが現在地、九体町付近だったという。(『異本義経記』『山城名勝志』『雍州府志』)
九体仏のうちの1体は、「義経大日如来」としてこの地に安置された。
かつて、祠の傍らに「鎧掛けの松」があったという。
九条山には4体の石仏がいまも点在するという。
国道北側に3体が祀られているともいう。
義経が血糊の刀を洗ったとされるのが「太刀洗池」といわれる。
蹴上の南東に当たる、現在の山科区御陵血洗町(みささぎ-ちあらいちょう)付近にあったという。
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閑静な住宅街を抜けると、うっそうと茂ったみどりのなかに総門の石段が見えてきます。
左側の石碑にある「圓光大師」とは、浄土宗の開祖・法然上人のこと。
鎌倉時代に生きた法然上人ですが、江戸時代、元禄10年(1697)に初めての大師号(高徳な僧に朝廷から贈られる尊称)が贈られました。
大師号といえば、最澄の「伝教大師」、空海の「弘法大師」が有名ですね。法然上人は、現在までに8つの大師号を下賜され、生前の遺徳を讃えられています。
2019年春、参道に新たな枯山水庭園が作庭されました。
ガラス造形作家・西中千人さんによるガラス枯山水“つながる”。
苔の築山の上に配されているのは、石ではなくリサイクルガラス!
そして苔の島を正面に見るとグリ石が山の方から崩れ落ちているようなデザインもかっこいい。
白砂壇(びゃくさだん)
Byakusadan-Terrace of White Sand
山門を入ると、両側に白い盛り砂がある。
水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。
寺の起こりは鎌倉時代に法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。
江戸時代の延宝8年(1680年)に、知恩院の38世である萬無が法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍澂と共に再興したとされる。
元は浄土宗内の独立した一本山であったが、1953年(昭和28年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。
境内の拝観は無料であり、6:00から16:00の拝観時間には、自由に境内を参観できる。
写真撮影が目的ならば朝早い時間が望ましい。
地蔵菩薩像
Image of Ksitigarbha (Jizo Bodhisattva)
本堂正面の石段上にある。この尊像は、1690年(元禄3)、忍澂和尚46歳の時、自身と等身大の地蔵菩薩像を鋳造させ、安置されたものである。
本堂の向い側、石段の上に祀られる地蔵菩薩像は「祠の地蔵」と呼ばれ、本堂とほぼ時を同じくして祀られています。
地蔵菩薩の隣に置かれる佛足石も、江戸時代のもの。
境内のそこかしこから、古刹の重みを感じられます。
鎌倉時代初期、法然とその弟子 住蓮・安楽が鹿ヶ谷の草庵で六時礼賛(昼夜に阿弥陀仏を六度拝むこと)を唱えたのに由来するという。
創建からわずか数年後の建永元年(1206)、後鳥羽上皇の行幸中に女官 鈴虫・松虫が住蓮・安楽を慕って出家する事件が起こり、激怒した上皇によって法然は島流しに、弟子の二人は死刑になってしまう。
その後長らく荒廃するが、延宝八年(1680)知恩院 三十八世 萬無(ばんぶ)とその弟子 忍澂(にんちょう)が法然ゆかりの地の念仏道場として再興した。
近くにある安楽寺も同じ草庵に由来する寺院である。
本堂は延宝九年(1681)、講堂は元禄七年(1694)、経蔵は元文二年(1737)の建立でいずれも修築が行われつつも江戸時代のものが現存している。
方丈は貞享四年(1687)に移築したもので、元は文禄四年(1595)に建てられた後西天皇の皇女の御殿である。内部には狩野光信、堂本印象の襖絵が飾られている。
境内には谷崎潤一郎、河上肇ら文豪の墓がある。
5年前の訪問記
三銘椿、春期特別公開 法然院
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正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通っている。 … 続きを読む →