京都迎賓館 正面玄関


京都迎賓館は、1994年(平成6年)10月に「国立京都迎賓館」として、その建設が閣議決定され、2005年(平成17年)4月17日に開館した。

内閣府のサイトの公式説明によると、京都迎賓館というのは、日本の歴史や文化を象徴する都市である京都において、海外からの賓客を心をこめてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただくことを目的に建設された、という。

場所としては、江戸時代に園家・柳原家・櫛笥家など、複数の公家の邸宅が建っていた京都御苑の敷地の北東部に建設された。

正面玄関の扉には、樹齢700年の福井県産の欅(けやき)の一枚板を使用しています。

引手は銅製で、京都の組紐をモチーフにして絆の意を込めたシンプルなデザインの「有線七宝(ゆうせんしっぽう)」が施されています。

福井産の木は、直径二メートルを超える巨木だったという。

伐採後、三十年ほど眠っていた。

ゆっくりじっくり乾燥した木。
京都迎賓館の設計を担当した日建設計理事佐藤義信さん(五七)は「二つとある木ではない。出会いがすべて」と振り返る。

木目を生かすため、板には何も細工をしていない。
取り付けた最初は、全体が黄色っぽく、むらもあった。

「バタバタした木」と表現する人もいたが「木を知っている者は何も心配しなかった」と佐藤さん。
 
一年半過ぎて、扉は変わった。
色が落ち着き、木目は際立ってきた。
これからまだ変わる、という。時の流れが楽しみになってくる。

天井には吉野杉が用いられ、舟底形の天井になっています。

前方に見えるのが正門。

見学者は西門からはいります。

床板には欅(けやき)材を使用し、特殊な加工を床板に施すことによって、傷がつきにくくなっています。

カーテンは一切使用せず、窓などの内側は障子としています。

池が見えています。

正面玄関で靴からスリッパに履き替えましたが、国公賓客はそのまま靴で歩けるようにと、廊下の板には特殊加工がされているそうです。

賓客はそのまま靴で歩きますが、見学者には厳しいのです、柱に少し触れたら注意されますし、撮影時に膝をついたらだめといわれた。

「折り紙」をイメージした行灯

行灯は本美濃紙を使用し、鉄や釘を一切使わない伝統的技法である京指物で組まれています。

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黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝ゆかりの 金地院


金地院(こんちいん)は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。
小堀遠州作の庭が国の特別名勝に指定されている。

南禅寺の塔頭の1つで、江戸幕府の法律外交を担った僧・以心崇伝が住したことで知られる。

先ず明智門をくぐる。

「金地院」には6つの門がありますが、拝観窓口のすぐ左にある小さめの唐門が「明智門」。

その名の通り明智光秀ゆかりの門で、光秀が母の菩提を弔うために同じ京都にある名刹、「大徳寺」に建立したものですが、明治になってここ「金地院」に移築された。

水連に半夏生が見頃。

苔が見事。




楼門、外部の通路より。

楼門から東照宮への回遊路を望む。

東照宮への回遊路。

東照宮

日本全国には約130もの東照宮が残存するといわれていますが、その中でも徳川家康の遺言に残された3ヶ所の有名な東照宮があります。

本宮である日光東照宮、御遺体が祀られてある久能山東照宮、そして遺髪と持念仏が祀られている金地院東照宮です。

東照宮としての歴史も縁もとても深いのが金地院東照宮です。

軒下に懸け仏。神式建物に懸け仏、どういう意味が込められているのでしょう。


重要文化財。
小堀遠州の作。徳川家康の遺言で建てられ家康の遺髪と念持仏を祀っている。

幕府の公式記録である『徳川実紀』によれば、家康は元和2年(1616年)4月2日、側近の以心崇伝、南光坊天海、本多正純を召し、「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て後下野の国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。

京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」と遺言したという。

江戸期には京都所司代の番所が置かれ、創建当初は日光東照宮と比されていた。

拝殿天井の鳴龍は狩野探幽の筆。

36歌仙の額は土佐光起の筆である。


崇伝像(開山堂)

開山堂内。正面に後水尾天皇の勅額、左右に十六羅漢像が安置され、奥中央に崇伝像が祀られています。

鶴亀の庭 (特別名勝金地院庭園)

崇伝が徳川家光のために作らせ、作庭には小堀遠州が当たった(遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例)。
庭師は賢庭と伝わる。

本堂(大方丈)は重要文化財。
桁行11間、梁間7間の大規模な建物であるが、平面形式は禅院方丈に典型的な六間取りである。

すなわち前列中央が「室中」、その奥が本尊地蔵菩薩像を安置する「仏間」。

西側は奥が「富貴の間」(衣鉢の間)、その手前が「次の間」(檀那の間)、東側は手前が「鶴の間」(礼の間)、奥が「菊の間」(書院の間)となる。

亀島に視点を移す。

こちらも鶴島と同様に築山に石を組み亀島を表現。

特に築山に植えられたヒノキ科の真柏(しんぱく)が趣ある。
幹が朽ち果て白骨化した舎利(しゃり)となり、まるで盆栽のようだ。

作庭当初からこのような姿だったといわれている。

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南禅寺水路閣


南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。

「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。
この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。

現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。

亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(出家)して法皇となった。

2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。

伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。

文明開化から間もない1888(明治21)年に作られた、全長93.2m、高さ9mのアーチ型橋脚の水道橋です

レンガ・花崗岩造のレトロな風貌が、禅寺の和の雰囲気と周囲の自然を引き立てます。一説には、ローマの水道橋をモデルに作られたとも。

疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などであった。

ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、1889年に蹴上に発電所が建設され、91年には送電を開始した。

また水力発電の増強と水道用水確保のため、1908年に第2疎水の工事が、始まり、1912年に完成している。

同時期に蹴上浄水場が建設され、現在は上水道の水源として利用されている。

当初計画では水路は山の中を通るはずであった。

トンネル工事も特段難工事でもなく、計画は順調に進んでいた。

ところが着工直前、計画部分に亀山天皇の分骨場がある事が判明し、宮内庁からストップがかかった。

そこで、急遽浮上したのが現在のコース。
当時建設場所は今より谷が深かったという。

その谷を少し埋め戻し、更にローマの水道よろしく橋をかけ水路としたわけだ。

関係者の話によると、三井寺、南禅寺と京都市(当初は京都府)との争いは裁判に持ち込まれ、三井寺とは8年前にやっと話し合いが成立したそうだ。

さらに、南禅寺側に立った福沢諭吉は「南禅寺は京都にとって重要な観光資源。
その境内に水道橋を通すとは正気の沙汰では無い。 

末代の恥。
さらに京都の伝統産業にとって疏水がどれほどの役に立つか」と反対したという。

撮影スポットとしては、この場所が人気です。

レンタル着物を着た女性たちがこの風景に入りこむと大正時代? のようなノスタルジックな風景に。

特に秋の紅葉の時期が人気で、秋には大混雑になります。

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日本初の路面電車は「京都」琵琶湖疎水記念館


京都の偉大な産業遺産である「琵琶湖疏水」は、大津市観音寺から京都市伏見区堀詰町までの全長約20kmの「第1疏水」、全線トンネルで第1疏水の北側を並行する全長約7.4kmの「第2疏水」、京都市左京区の蹴上付近から分岐し北白川に至る全長約3.3kmの「疏水分線」などから構成され、今も現役で活躍している施設です。

そもそも「琵琶湖疏水」とは、琵琶湖の水を京都に引き込む人工の水路のこと。

明治18(1885)年に着工し、明治23(1890)年に完成を迎えた。

明治維新で首都を東京に遷されたことにより、衰退の一途をたどっていた京都。

活気を呼び戻すためには、近代化が不可欠だった。

そこで持ち上がったのが、琵琶湖疏水の建設計画。

滋賀・京都・大阪を水路でつなぐことによって流通を活発化し、水力で発電して工場や家庭に電気を供給することが主たる目的だった。

疏水の全長は約8.4km。第一トンネルは約2.4kmで、当時としては日本一の長さだった。

この大規模な工事を、ほとんど機械を使わずに人力で行ったのだという。

当時はすべて手作業、苦難の工事の様子が壁画に残されている。

大正時代を再現したジオラマ、疏水の用途がわかる。

インクライン下端の船溜(ふなだまり)。
琵琶湖疏水記念館、旧インクライン機械室、噴水、白川合流点など、疏水関連の見所がいっぱい。

中央にある噴水は、琵琶湖疏水の高低差による水圧だけで噴き上がるナチュラル噴水。

電気などの動力を必要とせず、昼夜を問わず動き続けています。

船を運ぶ鉄道「蹴上インクライン」を操作していたドラム工場。

琵琶湖疏水記念館の隣にあり、同館の改装オープンに合わせて公開が始まった。

ペルトン式水車、スタンレー式発電機。

蹴上インクラインは蹴上船溜りと現在の琵琶湖疏水記念館前の南禅寺船溜りを結ぶ延長640メートル、敷地幅22メートル、勾配15分の1の路線で、運転用の巻き上げ機は蹴上発電所の電力で運転した。

通過時間は10分から15分だった。

インクラインの春は桜が見事。
桜満開 蹴上の春
地下鉄東西線蹴上駅から地上に出ると、まず目に入ってくるのがインクライン跡の緩やか … 続きを読む →


現場には復元された台車が2台(坂の途中と、蹴上船溜り)残されている。
1996年(平成8年)には国の史跡に指定された。

巨大な送水管。

田辺朔郎は、田辺孫次郎の長男として生まれました。

工部大学校を卒業、その後土木工学者となります。

琵琶湖疏水工事を担当。
日本で最初の水力発電事業を起こしました。

その後、。北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手します。

日本の近代土木工学の礎を築いた人物です。

ねじりまんぽ

このトンネルの壁は螺旋状にねじれている。
まるで奥へ渦を巻いているかのように。

中へ入った瞬間、引き込まれるような感覚になるのはこのねじれのせいだったのか。

このねじれは、斜めに積み上げられたレンガによるもの。
耐久性を上げるために斜めに積み上げられている。

トンネルの入口上部には、第3代京都府知事だった北垣国道が書いた扁額があります。

三条通り側には「見事な眺めと優れた考え」という意味の【雄観奇想(ゆうかんきそう)】の言葉が。

南禅寺側には「精神を集中して物事を行えば、どんな困難にも打ち勝てる」という意味の【陽気発処(ようきはっするところ)】という言葉があります。

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「恋の寺」六角堂と京のヘソ石


頂法寺は、京都市中京区堂之前町にある天台宗系単立の仏教寺院。
山号は紫雲山。

本尊は如意輪観音(秘仏)。
西国三十三所第十八番札所。

敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。

この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。

これが後の頂法寺本尊。

太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。

そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。

その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。

観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。

そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。

六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、1974年から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。

六角堂が史料に現れるのは11世紀初め。

藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。

他にも『小右記』(藤原実資の日記)などに六角堂の名が見える。

『梁塵秘抄』所収の今様には「観音験(しるし)を見する寺」として、清水、石山、長谷(清水寺、石山寺、長谷寺)などとともに「間近く見ゆるは六角堂」とうたわれている。

こうしたことから、六角堂は平安時代後期には観音霊場として著名であったことがわかる。

鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、叡山の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。

正式の寺号は頂法寺(山号を冠して紫雲山頂法寺)であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。

ヘソ石

『元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという。

この六角堂に恋の伝説があった。

平安時代初期のこと。
妃を探していた嵯峨天皇はある夜、不思議な夢を見た。
如意輪観音が現れ、「六角堂の柳の下を見てみなさい」と告げた。

さっそく帝が六角堂に人を遣わすと、境内の柳の下にこの世の人とは思えないほど美しく、良い匂いのする女性が立っていた。
この時代は良い香りがする女性が、美人の条件の一つだった。

天皇はその女性を妃に迎え、寵愛したという。

その伝説から、「六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる」とか「恋が成就する」といった噂が広まり、縁結びや恋が叶う場所として信仰されるようになった。

本堂前の柳の枝におみくじが結んであるのをよく見かける。

2本の柳の枝をひとつにし、おみくじを結んでおくと縁結びの御利益があるようだ。

早咲き六角堂の御幸桜
頂法寺は、天台宗系単立の仏教寺院。 山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。 西 … 続きを読む →

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京都芸術センター


京都芸術センターは、京都市の中心部にある芸術振興の拠点施設。

明治に京都の町衆たちの力でできた明倫小学校が廃校になったあと、その跡地と校舎を利用して、アートスペースをつくったもの。

京都市における芸術の総合的な振興を目指し、平成12 年に開館いたした。

ギャラリー、公演会場、制作室などを併設する複合文化施設。

展覧会や公演以外にも、図書室、情報コーナー、談話室、カフェなどご利用できる施設がある。

戦前の番組小学校の特徴をそのまま残しており、自由な芸術活動を行えるよう配慮しつつ、外観や大広間、講堂や教室、廊下など、既存の施設をできる限り生かした改修がされている。

平成20年には登録有形文化財として登録。
特に、学校の中に和室がある点は非常にユニーク。

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祇園祭鉾建て・山建て始まる


いよいよ暑い夏の始まりです。
祇園祭2019鉾建て・山建てが7月10日から始まってます。

7月10日7時、四条通から「くじ取らず」1番の長刀鉾、5番の函谷鉾、8時から月鉾、室町通の鶏鉾と四条室町を中心に始まり、交通の加減で菊水鉾は15時30分から組み、11日には「くじ取らず」1番の長刀鉾、5番の函谷鉾、そして月鉾、室町通の鶏鉾、菊水鉾と倒して「縄がらみ」で組み上げた鉾が重機を使用したり、見処たっぷりに建ち上がります。

祇園祭の主役ともいえる、[山]や[鉾]を組み立てます。山鉾は、木造の部材の組み合わせと縄で絞めることで出来ています、釘を一本も打ち付けることはありません。

縄のくくりは職人技です。

釘を使わない組み立て「縄がらみ」、巡行時の衝撃と歪みを吸収する役目があります。

巨大な鉾の組み立てには、釘を使わず木と縄だけで形をつくっていきます。

これを「縄がらみ」といい、古くから伝わる祇園祭ならではの技法です。

縄がらみは、どの部分を固定するかも細かく決められており、外側から内側から交互に通すなど縄をかけていく順番も複雑です。

間違うことは許されないので工事現場でも緊張感が漂い、2名ないし3名1組で確認しながら、時にはずれないように縄や木を木槌でたたきながら慎重に行っています。

編まれた縄の上からさらにバネのように絡めながら横方向に編むことで、ほどけないように固く結ばれ、衝撃を吸収するクッションのような作用をする工夫になっています。

鉾の櫓をつくる作業は専門の職人が手がけますが、設計図はなく、練習するわけでもありません。
しかしその手際の良さはお見事。

鉾の中心をつらぬき、長さが20メートル前後ある真木は、そのままでは取り付けられないので、一旦鉾を横に倒して取り付けられます。

横に倒すために、地中に差し込まれ固定された杭と回転軸になる丸太、そして鉾の3つを縄で固く結び、水で濡らして滑りを良くします。

太めの縄で引っ張りゆっくりと横に倒すと、数10人で長い真木が運ばれ鉾に差し込まれます。

真木の差し込まれた反対側の先には、それぞれの鉾にとってのシンボルである鉾頭が取り付けられます。

長刀鉾では厳重にとりつけられた鉾頭の鞘袋がとりはずされて、キラリと銀色に光り輝く長刀があらわになり歓声が沸きます。

その後再びロープを引っ張り、見る見るうちに真木が立ち上がって、わずか5分ほどで真上を向きます。長刀が天を指したとき、鉾建てにおいて一番の歓声があがります。

鉾を支え、巡行のために欠かせない車輪の重量は、なんと1個につき約1トン。

長刀鉾であれば人が乗っていないときの重さが約7トンといわれているので、4つの車輪だけで半分以上占めていることになります。

車輪の取り付けはテコの原理を用い、20人近い大人数で鉾を持ち上げてはめていきます。

車輪は町会所の奥から1個ずつ転がしてきますが、近くには見物客もいるため4~5人体制で慎重に運びます。

力仕事ばかりではありません。

鉾建て・山建てに並行するように粽づくりがおこなわれています。

なぜ祇園祭で厄除けの粽が売られるかというと、八坂神社の祭神、スサノオノミコトが旅先で宿に困ったときに、貧しいながらも手厚くもてなしてくれた蘇民将来(ソミンショウライ)に感謝し、その子孫にわたって災厄から守ることを約束し、その目印として茅(ち)を巻いて輪にしたもの身につけるように言ったという故事によります。

この話にあやかり、蘇民将来の子孫である目印として、茅を巻いた「茅巻き」=「粽」を玄関先に飾って厄除けとするようになったのです。

粽に「蘇民将来之子孫也」あるいは「蘇民将来子孫者也」と書かれた紙がついているのは、この家は蘇民将来の子孫の家だと示しているわけです。

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後藤象二郎寓居跡


ホテルリソル京都 河原町三条の敷地内は土佐藩士であり、後に明治新政府でも活躍した後藤象二郎(1838~1897)が京都に滞在中、常宿とした醤油商「壷屋」があった場所。

この地は土佐藩出入りの醤油商で、今中弥兵衛を当主とする「壷屋」のあった場所。

土佐藩邸に近いこともあり、この「壷屋」に藩重役であった後藤象二郎が幕末の京都滞在の折に寄寓していました。

象二郎が当時、この「壷屋」に寄寓していたことは、伝承によるほか、いくつかの文献で確認できます。龍馬の寄寓していた材木商「酢屋」の当主であった中川喜兵衛や、書店「菊屋」の峯吉からの聞き取り調査では、当時の象二郎の居所は「河原町三条下ル東入醤油商壷屋」と記録されています。

ホテルの入り口は狭い路地となっており、まっすぐ進んだ突き当りには醤油の樽が積まれています。

ホテルリソル京都 河原町三条の「後藤象二郎寓居跡ギャラリー」、当時の周辺街並みの復元ジオラマ。

高瀬川を挟んでこちら側が坂本龍馬の常宿「酢屋」、向こう側が後藤象二郎の常宿「壷屋」、間に彦根藩邸がありました。

後藤象二郎寓居之跡の石碑がある河原町通には、坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡の石碑もあります。

また、河原町通の1本東の木屋町通には、土佐藩邸跡もあります。

酢屋は今も残る、滞在していた2階の部屋の格子から向いの舟入に向けてピストルの試し撃ちをしたというエピソードも伝えられています。

慶応3年(1867年)、龍馬の提案とされる船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。

土佐藩の在京幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らの賛同を得て、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと会談し薩土盟約を締結した。

しかし、イカルス号事件の処理で土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉を命じられるなど時間を消耗したため、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。

薩摩との提携解消後も大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。

10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。

これらの功により、後藤は中老格700石に加増され、役料800石を合わせて計1,500石に栄進する。

慶応4年(1868年)、天皇謁見に向かうパークス一行の護衛を勤め、パークス暗殺を計画して斬り込んできた浪士と抜刀して斬り合い、そのうち一人の朱雀操を討ち取る。この事件の功により、中井弘と共にイギリスのヴィクトリア女王から恩賜の刀を贈られている。

象二郎が英国女王から贈られた宝剣の復元展示されている。

明治維新の功により賞典禄1,000石を賜る。

幕末の土佐藩士。明治維新後は政治家・実業家として活躍。
前藩主・山内容堂に登用され、若くして藩の重職に就く。

坂本龍馬が示唆したとされる大政奉還策を容堂に提言し、容堂に連署して「大政奉還建白書」を幕府に提出。徳川慶喜の大政奉還に大きな役割を果たした人物である。

維新後に懇意にしていた福沢諭吉は、時事新報に「後藤伯」と題する社説を掲載し、政府の現状を変え、諸悪をはらい清める「非常大胆の豪傑・満天下唯一の人物」は後藤伯だけであると、幕末から維新に至るまでの功績を絶賛した。

後藤象二郎は義叔父である吉田東洋(とうよう)の塾で学び、安政5年(1858)には東洋の推挙で幡多(はた)郡の奉行職に就いた。

文久2年(1862)東洋が暗殺され、武市(たけち)瑞山(ずいざん)(半平(はんぺい)太(た))らの土佐勤王党の力が大きくなると、政治の一線から身を引き、江戸で西洋の学問を始め航海術を学んでいる。

元治(げんじ)元年(1864)以降,再び藩政に返り咲き、土佐勤王党の弾圧をはじめ、武市を切腹に追いやり、前藩主の山内容堂の信任を得るところとなる。

慶応(けいおう)2年(1866)には参政職に、翌3年には家老職に就き、土佐藩の若き重臣となる。

坂本龍馬の船中八(せんちゅうはっ)策(さく)の考えに強く感銘を受け、山内容堂を通じて将軍 徳川慶喜に大政奉還の必要性を説いた。

明治維新後、新政府では盟友である板垣退助らと共に自由民権運動にも力を注ぐ一方、逓信(ていしん)大臣(郵便や通信を管轄する)や農商務大臣など政府の重職にも就いている。 

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安藤忠雄の世界 TIME’S


建物は京阪・地下鉄三条駅より三条大橋を渡り、少し歩いた先にかかる三条小橋西詰に建っています.

昭和初期の三条小橋碑(三条通り角)

江戸時代より木屋町~河原町間の三条通は現在より道幅が狭く、現在の河原町以西の道幅と同じでした。

又、小橋右側(北側)の旅館『吉岡家』は、江戸時代から続く旅館です。

幕末に「新撰組」の基礎である「浪士組」を結成し、その後新撰組と袂を分け、江戸の警護をして有名な庄内藩士『清河八郎』が安政二年に書いた紀行文「西遊草」のなかで、三条河原かたわらの「吉岡や」に泊まったと記してあります。

また、左側の有名なアールデコ風の出窓がある旅館も江戸時代から続く「大津屋」(現在は、有名な建築家・安藤忠雄によるタイムズビル)で、池田屋騒動の「池田屋」は、まだ、この当時までは、建物は残っていました。

又、「京城勝覧」(儒学者・貝原益軒著1630~1714)のなかに「三条小橋高瀬側にわたせり。 此下より舟にのり伏見にゆく。 此邊(このへん)より大橋の際まで旅篭屋多し」。と当時の三条小橋周辺を紹介しています。
(案内板より)

中規模の商業建築の集中的に手掛けた80年代(1984年)の作品ですが、7年後に増築されており、作品集では「TIME’S I・II」と表記するものが多い。

フロア床を打ち放しの横帯で、それ以外を馬目地のコンクリートブロックで仕上げるやり方は「B-LOCK北山」でも見られましたが、時期としてはこちらが先です。

さてこちらは三条通と同じレベルとなる2階フロア、最初は開けた通路ですが途中から路地並みにグッと狭くなり、建物中央部には2階をガラス壁で囲まれた中庭が出現します。

京町屋の『オク』を連想させますが商業的にはマッチせず、周囲のテナントは全て空という寂しいものに。

設計当初は川を自邸の庭まで引いて再度流すという古い京都の邸宅から発想を得て、建物中央に高瀬川の水を引き込もうとしていたようですが、行政に猛反対されたそうな。





そして更に奥へと進むと、細い通路の向こうに出口を発見、こちらは坂本龍馬の隠れ家が通り沿いにあることから名付けられた『龍馬通』への出入口。

池田屋騒動でなじみの池田屋。

頃は幕末。材木商「酢屋」の6代目酢屋嘉兵衛は坂本龍馬の活動に理解を示し、幕府及び倒幕急進派の双方から命を狙われていた龍馬をかくまっていました。

店では龍馬は「才谷さん」と変名で呼ばれ、滞在していた2階の部屋の格子から向いの舟入に向けてピストルの試し撃ちをしたというエピソードも伝えられています。

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2019祇園祭は始まっています


京都駅ビルで祭の魅力を紹介するパネルやミニチュアの鉾の展示が行われています。

各山鉾の粽や手ぬぐい、扇子なども展示されます。

7月10日7時、四条通から「くじ取らず」1番の長刀鉾、5番の函谷鉾、8時から月鉾、室町通の鶏鉾と四条室町を中心に始まり、交通の加減で菊水鉾は15時30分から組み、11日には「くじ取らず」1番の長刀鉾、5番の函谷鉾、そして月鉾、室町通の鶏鉾、菊水鉾と倒して「縄がらみ」で組み上げた鉾が重機を使用したり、見処たっぷりに建ち上がります。

古くは平安時代に疫病・災厄の除去を祈った祇園御霊会を始まりとする、八坂神社の祭礼です。

1ヶ月にわたり様々な神事・行事が行われます。

岐阜の高山祭、埼玉の秩父夜祭とともに日本三大曳山祭りのひとつでもあります。

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