興福寺門跡寺院庭園 大乗院庭園


興福寺の門跡寺院である大乗院の寛治元年(1087年)創建と同時に築造された庭園は、12世紀における平重衡による南都焼討で被災し、興福寺別院である定禅院跡地に移築されたが、ここも15世紀中期の徳政一揆で荒廃したため、復興を目的に尋尊が銀閣寺庭園を作った善阿弥父子を招いて池泉回遊式庭園を改造させた。

以降、明治初頭まで南都随一の名園と称えられた。

西小池、南池。

同庭園は室町時代の徳政一揆で荒廃したが、その後門跡尋尊大僧正の依頼により、室町時代に活躍した作庭の名手善阿弥によって改造される。

将軍足利義政を始め公家たちがしばしば拝観に訪れた。

庭園の一部は修復工事の最中、聖ラファエル教会が遠望される。

名勝大乗院庭園文化館2階からの眺め。

奈良ホテル入り口。

岡の上から庭園を望む。

奈良ホテル、第二次世界大戦前には国営(鉄道院→鉄道省直営)の時代が長く、関西において国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる施設としての役割をになっていた。

このため「西の迎賓館」とも呼ばれる。今日でも著名人が多く宿泊し、皇族の奈良宿泊の際にはこのホテルが利用されることが専ら。

本館は寺社の多い奈良の景観に配慮し、屋根上に鴟尾を置き壁面を白い漆喰仕上げとした木造2階建て瓦葺き建築で、内装は桃山風の豪奢・華麗な意匠とドイツ風の重厚な意匠が混在する、和洋折衷様式となっている。

聖ラファエル教会、軽井沢の聖パウロカトリック教会と同じくA・レーモンドゆかりのレーモンド設計事務所の設計になる建物。

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大乗院庭園公式サイト

奈良市高畑町1083-1

JR・近鉄奈良駅→奈良交通バスで天理駅・下山行き「奈良ホテル前」下車すぐ、
JR奈良駅→徒歩20分、 近鉄奈良駅→徒歩15分

書写山円教寺雨中散策

円教寺は1千余年前に性空上人(しょうくうしょうにん)によって開かれた天台宗のお寺で西の比叡山とも呼ばれている。

今日はあいにくの雨、冷たい雨の中の散策となった。
まず、磨尼殿を訪れる。

西の比叡山と称される天台宗の古寺。
西国27番札所でもあり、ロープウェイを降りれば、そこは深山幽谷の世界。

京都の清水寺に似た摩尼殿、重要文化財の大講堂、食堂などは一見の価値がある。

摩尼殿の舞台から望む「はづき茶屋」は、 塔頭での精進料理(要予約)以外に食事の出来る唯一のお店。

磨尼殿のお参りをすました後は、もう一踏ん張り、水子地蔵の丘があり後方にずらっと並ぶ。圧巻。

瑞光院、一般公開はしていないようで、切妻、本瓦葺の表門は閉められています。

円教寺の参道からは長い古びれた土塀が印象的で古寺の雰囲気がありる。

案内板によると「創建、縁起は不詳。圓教寺の各塔頭は、往時は多数あった講(信者のグループ)の宿院も兼ねていた。

瑞光院も現網干観音講の宿院となっている。

書写山の紅葉は各所にあるが、門前の紅葉は11月ともなれば、古びた土塀ともよくあって抜群の美しさである。
本尊:六臂如意輪観世音菩薩」とあります。

大講堂の東南の隅に土塀で囲まれた姫路城城主本多家の墓所があり廟屋五棟と本多忠刻らの墓碑が並んでいる。

五棟の廟屋は、江戸初期から中期にわたる廟屋の建築として県下でも例のない珍しいもの。(兵庫県指定文化財)

本多家の墓所の前、そこには三つの堂と呼ばれる大講堂、食堂(じきどう)、常行堂の三つの建物がある。

食堂から大講堂、、常行堂、本多家の墓所をのぞむ。

円教寺の鬼瓦は面白いものが多い。

三つのお堂(重要文化財)の食堂には写経をするところもあるが、鬼瓦や仏像の貴重なものも展示されている。

食堂本尊僧形文殊菩薩坐像、間近で見ることが出来る。

常行堂(じょうぎょうどう)では、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行を行う。

本尊は、阿弥陀如来坐像。通常非公開。
本日は、。常行堂(じょうぎょうどう)では、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行を行うのです。

常行堂
本尊は、阿弥陀如来坐像。通常非公開。
本日は、扉が開いており、隙間から坐像を撮影。。

元は往生院の本尊で、1005年安鎮の作。 明治期に大講堂に安置された。
本尊は宝冠の弥陀と呼ばれ、法・利・因・語を含めた五尊で祀られていた。

安鎮は、性空上人の弟子で感阿(かんな)上人とともに彫刻に優れた技能を持っていた。

元は往生院の本尊で、1005年安鎮の作。 明治期に大講堂に安置された。

本尊は宝冠の弥陀と呼ばれ、法・利・因・語を含めた五尊で祀られていた。

安鎮は、性空上人の弟子で感阿(かんな)上人とともに彫刻に優れた技能を持っていた。

トムクルーズと渡辺謙が挨拶を交わすシーン撮影はこの常行堂で行われた。

またNHK大河ドラマ・武蔵(2003年)や軍師官兵衛(2014年)のロケ地にもなった。

圓教寺開山の性空上人をまつる堂。

書寫山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続け朝夕欠かさず勤行がおこなわれている圓教寺奥之院の中核。

現在の建物は、江戸初期の開山堂建築の代表作。

軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名。

回廊から護法洞、不動堂をのぞむ。

書写山円教寺には、和泉式部の歌塚がある。

伝説では、一条天皇の中宮彰子に仕えていた和泉式部が、彰子やほかの女房たちとともに性空上人を訪ねたが、上人は会ってくれない。
そこで式部は寺の柱に、一首の和歌を書いて立ち去ろうとした。

くらきより くらき道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月

この歌に感心した上人は、一行を呼び戻して丁重に教えを垂れたと伝えられている。

性空上人は、式部が彰子に仕えるより早く亡くなっているから、この話は事実ではないだろうけれど、詠まれた歌は確かに存在する。

昼寝の時に顔にいたずら書きをされ、顔を映したという池。
この後怒った弁慶が諸堂を焼き払ったという伝説がある。京都で義経と出会う前のお話。

大仏さんも雨に濡れて質感がしっとり。

十妙院、江戸時代の建物、平成4~7年大修理が完成。

建物は仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とを会わせた構造、壽量院と共に圓教寺型ともいえる独特の構造を持った塔頭。

この辺りからは姫路城も視界にとらえられるはずだが、ご覧の霧では・・・・・

悪路に難儀しながら進む。

参道に沿って33体の観音様がお迎えしてくれます。

ロープウェイ山上駅からの眺望、ほぼ視界ゼロ。

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書写山円教寺へのアクセス、行き方歩き方

書写山円教寺公式サイト

兵庫県姫路市書写
姫路駅からバスで30分「書写ロープウェイ行き」終点下車。ロープウェイで山上駅まで4分

住まい


「済州島(韓国)の民家

済州島は風が強いため、石垣をひさし近くまで積み上げ、低く作ったカヤぶきの屋根も縄で縛っている。

門屋を入ると、ウシ小屋などに使われている側屋があり、その前には農作業の場となる中庭がある。
この中庭をはさんで内屋と外屋がむかいあって建っている。

済州島ではこのような配置がよく見られる。
内屋の間取りは、板の間を中心に、西側に部屋を置く基本的な型である。

半島部と違い、オンドルの焚口が台所になく、別に取り付けられている

タシュケントの民家

築100年以上の民家で、ぶどう棚などのある中庭を囲んで家屋が建てられ、その外壁は街路に面している。

こうした家屋はウズベク語でハウリと呼ばれる。
今では高層マンションに暮らす人も多いが、ハウリでの暮らしも受け継がれている。

アイヌの伝統的家屋チセ。

大和棟。

合掌造り。

曲屋。

竹富島 二棟造り

伝統的な建物の配置は門を正面にすると、右手にフーヤと呼ぶ田の字四部屋型の主屋があり、左手はフーヤより少し小さいトーラと呼ぶ土間の台所部分がある二棟造りだ。

現在では台所がフーヤに移されていることが多く、トーラは物置などに利用されている。

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「民博」へのアクセス、行き方歩き方

電車でお越しの方
大阪モノレール「万博記念公園駅」・「公園東口駅」下車徒歩15分

車でお越しの方
万博記念公園「日本庭園前駐車場」徒歩5分、「東駐車場」徒歩15分、「中央駐車場」徒歩20分

くらし


ベドウィンの生活空間

ブータンの夏営地用テント(スパイダーテント)

ブータン高地ではヤクを飼い、その乳、毛糞(ふん)、肉などを利用する。

夏のあいだ、ヒマラヤ山麓で放牧するときにはヤクの毛で織った黒いスパイダー・テントに泊まる。
乳からはバターを、残った脱脂乳からは乾燥チーズを作る。

囲炉裏は食物の煮炊きに用いられる。

囲炉裏では自在鉤や五徳を用いて鍋を火にかけ、炊飯をはじめあらゆる煮炊きを行なった。

チワン族の住居

居間の奥には祭壇が設けられ、祖先や神祇の名が墨書された紅紙が貼られている。
前門と祭壇を中心軸に据える配置、漢字使用や対聯・門神を貼る行為には漢族の影響が見て取れる。

カザフ草原の暮らし

床にはフェルトが敷かれ、部屋中央の円形の低いテーブルには揚げパンや乾燥チーズがおかれて、スカーフをかぶった女性がサモワールでミルクティーをいれている。

男性は弦楽器ドンブラをかき鳴らし、子どもはその周りで遊んでいる。

タシュケントの民家の台所

モンゴルの住居・ゲル。

最近は太陽光発電やパラボラアンテナが普及しているのだとか。

ゲルの内部。

アイヌの伝統的家屋・チセ。

秋山郷の民家

江戸末期の様子。壁はヨシ簾をはりその外側はカヤ壁。
土間にムシロを敷いて生活していた。

夏は涼しそうですが冬は囲炉裏の傍以外は寒さ生やさしいものではなかっただろう。

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「民博」へのアクセス、行き方歩き方

電車でお越しの方
大阪モノレール「万博記念公園駅」・「公園東口駅」下車徒歩15分

車でお越しの方
万博記念公園「日本庭園前駐車場」徒歩5分、「東駐車場」徒歩15分、「中央駐車場」徒歩20分

初秋の秋篠寺

寺は奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。
奈良時代の法相宗の僧・善珠の創建とされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われているが、創建の正確な時期や事情はわかっていない。

「南門」を一歩入るとこんもりとした森の中で、都市伽藍の奈良には珍しい光景がひろがる。

秋篠寺は苔の美しいことで知られる、秋の木漏れ日を浴びる美しい苔。

かみなり石、鐘楼横にへんな石があります。昔々秋篠の里には雷がよく落ちたようで、村人は落ちてきた雷さまをこの石に閉じ込めへそを取ってしまったので二度と秋篠寺には雷が落ちなくなったとか。

へそをとられるのは人間ではなかったっけ。

「鬼瓦」の上に突起した鳥休みの飛び出し、時代を遡るほど少なくなるそうだ。

境内でくちなしの実を見つけた、くちなしの実は、10~11月頃に赤黄色に熟しますが、熟しても口を開かないことから「くちなし」の名前がついた。

くちなしの実を乾燥させたものは、食品を黄色に染める着色料として、栗やさつまいものシロップ煮、きんとん、たくあん漬け、麺類、お菓子などに使われます。

秋の日は釣瓶落とし、参拝の皆さんも家路を急ぎます。

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秋篠寺へのアクセス、行き方歩き方

奈良県奈良市秋篠町757
0742-45-4600

近鉄大和西大寺駅から押熊行バス「秋篠寺」下車すぐ
近鉄大和西大寺駅または平城駅から徒歩約15分

幸田文と法輪寺

斑鳩の北の端、三井(みい)の里にある法輪寺は、聖徳太子の御子 山背大兄王創建とも伝えられ、飛鳥時代の仏像と、昭和五十年再建の飛鳥様式の三重塔で知られている。

三重塔は1944年、雷火で焼失後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年に西岡常一棟梁により再建されたもの。

斑鳩の里はちょうど稲刈りも終わりのどかなたたずまいを見せる。

この辺りの休耕田にはコスモスが植えられ散策する人の心を和ませる。

三井寺と言う別名は、当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりと言われている3つの井戸があった所から来ている(3つの井戸のうちの1つが現存し、国の史跡に指定されている)。

現存する三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。

焼失した塔は、近隣の法隆寺、法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物であった。

幸田文と三重塔。

ことの発端は、たまたま文が岩波書店に用事で出向いた時に、やはり岩波書店へ寄付を願いに訪れていた住職の井上慶覚と出遭った、ということらしい。
三重塔焼失の様子、再建の経緯を直接住職から聞いた。

この三重塔再建の話は文の心のしこりにしみた。
なんとか役に立ちたいと、瓦一枚の寄贈から始め、さらには前進座が『五重塔』を上演する際の著作権使用料20万円を寄付、これを機に折々寄進をするようになる。
が、ここまでは一寄進者の範囲にとどまっていた。

ところが1969年(昭和44年)、募金活動を続けていた住職・井上慶覚が肺癌で亡くなり、折柄翌年に万国博覧会を控えて関西地方は空前の建築ブームを迎え、職人達の人件費が急騰、当初の予算では三重塔再建は全く立ち行かない状態に陥っていた。
再建の中心的存在を失って、募金も難航していた。

人気のない境内に材木小屋から「のみ」の音が淋しく響いていた。西岡楢光老人、長男常一、次男楢二郎のたった三人が木造りする音だった。

幸田文は塔再建の大きな貢献者であるが、執念ともいえる支援活動へ突き動かしたのは何だろう。

よく言われるのは、父、露伴の名作『五重塔』の影響であり、自らも認めておられるようだ。

だが、一年余り居を移して建築工事を見守る情熱は、宮大工の仕事へのなみなみならぬ関心があったからだと想像する。
がんらい職人気質の作家は、高度な職人の技をもってする塔再建という企てにロマン以上のエモーションをかきたてられたのだろうか。

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法輪寺へのアクセス、行き方歩き方

法輪寺公式サイト

奈良県生駒郡斑鳩町三井1570
0745-75-2686

JR大和小泉駅から徒歩15分
JR法隆寺駅から徒歩約35分

法隆寺

古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院。

創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。

金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。

明治36年(1903)以来の保存修理工事が始っています。

約3年弱の工期になるらしい。

 「五重塔」は現存最古の塔、塔高は31.5m。

大講堂、このお堂は仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されましたが、鐘楼とともに延長3年(925)に落雷によって焼失。

幸い正暦元年(990)には再建され、ご本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に作られている。

金堂と五重塔、「金堂」は世界最古の木造建造物として世界的に有名。
 
彩色豊かに彩られた中国の建物に金色に輝くインドの神様が安置されているのを見て古代人はど肝を抜くと同時に異国への憧れを持ったことでしょう。

仏教伝来は高度な文化の伝来でもありましたから。

2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。

その画像から割り出した結果、建立した年年輪年代測定を発表した。

それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることがあらためて裏付けられた。

法隆寺の寺域に並ぶ多数の建物のなかで最も新しくできたものが、境内の一番北寄りにある大宝蔵院。

百済観音堂を中心とする東西の宝蔵には、有名な夢違観音像(白鳳時代)・推古天皇御所持の仏殿と伝える玉虫厨子(飛鳥時代)・蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)をはじめ、百万塔や中国から伝えられた白壇造りの九面観音像・天人の描かれた金堂小壁画など、わが国を代表する宝物類を多数安置しています。

扁額に補陀落(ふだらく)と書かれています。

補陀落とは、観音菩薩が住むとされる山のこと、そしてこの部分には百済観音像が祀られています。

口の字の左側から入り、西宝蔵、そして百済観音のいる百済観音堂、東宝蔵、そしてまた元の場所に戻ってきます。

行信僧都が聖徳太子の没後、聖徳太子の住んでいた斑鳩宮跡に聖徳太子を偲んで建てたのがこの夢殿。

その中には救世観音像が安置されており、聖徳太子の等身として今なお斑鳩の平安を祈っています。

「夢殿」は東院の金堂で、世界的な建築家ブルーノ・タウトが夢殿を「建築の真珠」と絶賛したように際立って優れた姿をしています。

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法隆寺へのアクセス、行き方歩き方

法隆寺公式サイト

奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1
TEL.0745-75-2555

JR法隆寺駅から法隆寺門前行バス(約8分)「法隆寺門前」下車、徒歩すぐ

江戸時代の遊郭の面影 三丁町

三丁町(さんちょうまち)は小浜市の小浜香取地区にある江戸時代に栄えた遊廓で、今も古い家並みが残っている。

福井県内に残る数少ない花街であり、今も芸妓を抱えている料亭もある。千本格子の家々が軒を連ね芸妓の三味線の音が流れ、情緒豊かな通りが残っている。

今日のお昼は「いけす割烹 雅」

小浜公園そば、三丁町の入り口、朱塗りのカウンター席の前に生簀が設けられた割烹の店。
生簀の中で泳ぐ鯛やフグなど若狭湾の魚介が味わえる。

いけす割烹 雅 公式サイト

昔、柳町・猟師町・寺町の三つの町があったところから三丁町と呼ばれるが、一説には町の長さが三丁(327m)あるので、そう名付けられたともいう。

現在は料亭街になっていて、小浜では昔の情緒を残す唯一の町並みといえよう。
千本格子の家々が軒を連ねる。

小浜の遊里といえば『三丁町』、今も茶屋や料亭が並ぶ現役の花街。
重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。

小浜以外で茶屋町として指定されているのは、京都の祇園、金沢のひがし茶屋・主計町だけ・・・これはちょっと自慢してもいいのでは?

町並みの北側にある旧料亭酔月は「町並みと食の館」として公開されていますが、そのほかの建物は常時非公開。

しかし年に一度、夏に開催される「町家deフェスタ」の日になれば、数棟の茶屋や民家が一般公開される。

三丁町は貞享元(1684)年ごろまでには開発されていたと考えられます。
現在も全長200メートルほどの一本道の両側に明治以降の茶屋建築が建ち並び、繊細な格子戸や腰壁の装飾が華やかな印象を与えます。

三丁町の格子の特徴が、上のほうに水平材を入れていること。無目と呼ばれる材で、これを境に上と下でデザインを変えています。

また、同じ小浜でも三丁町は出格子が多い点も特徴です。

庚申堂や付近の家の軒先に猿をかたどった人形を吊す例が見られるが、さるぼぼとは異なり体を屈曲させ頭を垂れた姿勢である。

猿の吊し人形には、以下のようなものがある。

奈良県奈良市、ならまち庚申堂の身代わり猿
京都市東山区、八坂庚申堂のくくり猿

三丁町のシンボルが、町並みのほぼ中央にある蓬嶋楼。
明治時代の大規模な茶屋です。

表通り側は高さ2メートルを越す高壁に囲まれ、中の様子はうかがえませんが、2階の座敷からは向かいの家並みや遠方の山並みまで見渡すことができます。

プライバシーと眺望を両立した、茶屋建築ならではの空間設計ですね。

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三丁町へのアクセス、行き方歩き方゜

福井県小浜市小浜香取
0770-53-1111 小浜市商工観光課

小浜駅から徒歩で20分

鯖街道の宿場町 熊川宿

若狭ではいつの頃からか小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われており、与謝蕪村(1716~83)が「夏山や 通ひなれたる 若狭人」(安永5年 1776年の句)と詠んでもいるように若狭と京都はきわめて深い関係にありました。

道標と熊川番所、無電柱化で街はすっきりしている。

熊川は、もともと戸数40ほどの小さな寒村であったという。

室町時代に、戦略上の要地として足利将軍直属の武士、沼田氏が山城を構えたところであり、今もその遺構を確認する事が出来ます。

さらに、豊臣秀吉の相婿(実際は再従姉妹の夫)でもあり秀吉に重用された浅野長吉(長政)が、 小浜城主になった時に交通・軍事の要衝として、熊川に対し天象17年(1589)に諸役免除の布告を発し、この地の特別の発展を図った。

以来、若狭代々の領主は、この政策を受け継ぎ熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄していきました。
江戸時代初期から中期にかけて、熊川宿の戸数は200戸を越えていたようですが、現在では100戸ほどになっています。

熊川宿の歴史的景観に欠かせないのが、豊富で流れの速い水路である“前川”。

この清水は“平成の名水百選”に選定された。

平入建物(棟を街道に対して並行させた建物のことで、街道側では軒が真っすぐに見える。)と妻入建物(棟を街道に対して直角に置く建物のことで、街道側では、屋根の三角部分が見える。)が混在しながらも、連続性を持った町並みを形成しているのが特徴。

旧逸見勘兵衛家住宅。

熊川村の初代村長逸見勘兵衛、その子息で伊藤忠商事二代目社長となった伊藤竹之助翁の生家で、熊川を代表する町家のひとつ。

主屋、土蔵、庭が平成7年1月に町指定文化財となり、その後3カ年をかけて大規模な修理が行われ、町家造りを生かした機能的な現代の住まいとして一般公開されている。

熊川宿と言えば地酒「熊川宿」が絶品。

若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館。

昭和15年に、熊川出身で伊藤忠商事二代目社長の逸見竹ノ助により、近代洋風建築の熊川村役場が建てられた。
トスカナ風の柱頭をもつ円柱がポーチに建ち、寄棟瓦葺の2階屋根の中央には越屋根が付いている。

今日のお昼は鯖寿司。

「鯖街道」もいつの頃からかこの呼び方をされているが、熊川の古い文書には由来となるはずの若狭湾の鯖とわかる記載は見当たりません。

しかし18世紀後半になって若狭湾で多種類の海産物に混じり大量の鯖が水揚げされるようになった事や小浜の『森田宗太郎家文書』によれば宝暦(1751~63)以後、若狭の海で鯖が大量に漁獲され、これを京都の人々が大衆魚として広く庶民が賞味し、また祭礼にも欠く事が出来なかったためだ、とも考えられる。

これらが運ばれた道は幾通りもありましたが、鯖の運ばれた道の総称が「鯖街道」である。

白石神社 – 祭神は、彦火々出見尊、白鬚明神、小浜藩主酒井忠勝、および山の神。旧村社。

御蔵道はかつて北川を往来した舟運の米がこの路地を通り、松木神社境内にあった蔵屋敷に至ったことからこの名がついたという。

松木神社 – 若狭の義民松木庄左衛門が祀られている神社で、熊川宿の中では桜と紅葉の名所。

松木庄左衛門は、苦しみにあえぐ若狭の農民を救うため、一命を投げうって大豆年貢の引き下げを実現した。

時に庄左衛門は28歳の若さでした。

松木神社は昭和8年に建てられたもので、境内には庄左衛門の遺徳を顕彰するため、昭和10年に建てられた義民館がある。

また不思議な因縁だが、松木神社境内は、かつて小浜藩の年貢米を収納する米蔵があったところ。

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熊川宿へのアクセス、行き方歩き方

福井県三方上中郡若狭町熊川
0770-62-2711 若狭町歴史文化課

米原駅→(北陸本線 30分)→敦賀駅→(小浜線 60分)→上中駅下車→JRバス若江線10分→「若狭熊川」下車

京都駅→(湖西線50分)→近江今津駅下車→JRバス若江線30分→「若狭熊川」下車

閑院宮跡

閑院宮(かんいんのみや)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。

2代直仁親王の王子祐宮が後桃園天皇の崩御に伴い践祚して以来、閑院宮系の血統が現在の皇統となっている。

京都御苑は百日紅が花盛り、閑院宮跡の門前もご覧の通り。

アップでとらえてもきれい。

正門(東門)は石畳で段差のない入口です。

門を入ってすぐ左にある築山。

明治2年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が一段落した明治16年、宮内省京都支庁が設置されています。

第2次世界大戦後の昭和24年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のちに環境庁の京都御苑管理事務所などに使用されていました。

平成18年3月に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示品・解説を備えた収納展示室と庭園などを開放している。

閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、1710年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部のこの場所に屋敷を構えました。

創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいことはわかっていません。

撤去された官舎の部屋割りが木枠で示され、案内板にも説明されていますので、建物があった時のように玄関から入り、居室や客間からの眺めを楽しんでみてはいかが。

居室縁側に出て、縁先手水鉢を使う位置から見ると大木に守られたような庭園の全景が見えてきます。
樹林の大きな緑陰と手前の明るい池泉や芝地が、絶妙の構成美を創り出しています。

この縁側は居室を回り込むように設けられていたので、四季の風情が楽しめるようになっていたそうです。

大きな樹木と林床の木漏れ日が見せる涼やかな空間が閑院宮邸から続いています。
現況の樹木や空間を利用して明治・大正時代の開放的な雰囲気と美しさが作り出されました。

部屋の上部は虹梁(こうりょう)を渡し、「蟇股(かえるまた)」を置いた化粧屋根裏天井となっています。

蟇股や舟肘木(ふなひじき)が飾りとして壁にもあり、古い材からは歴史を感じることができます。

磨きあげられた床に庭の木々の緑が映り込む絶景です。

建物は、中庭をぐるりと囲む「ロの字」に配置されています。

ハギが存在感を増してきていますが、開花まであと一歩です。

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閑院宮跡へのアクセス、行きかた歩き方

京都市上京区京都御苑3
TEL075-211-6348

地下鉄「丸太町駅」下車 徒歩3分
市バス「烏丸丸太町」下車 徒歩3分
中立売西駐車場から徒歩10分