野田・福島界隈散策

かつてこの辺りは鹿飢島(餓鬼島)と呼ばれていたが、九州太宰府に左遷させられる菅原道真公が、当地の住民に慰められ、そのさいに福島へと改名した。

野田城跡伝承地 地下鉄千日前線玉川駅前

享録4年(1531)頃、三好元長と細川晴元が対立し、三好方の浦上掃部の軍勢が野田・福島に陣取ったさいに砦を築いたのが城の起源とされています。

元亀元年(1570)に三好三人衆と織田信長が対立すると、打倒信長をめざす石山本願寺が呼応して三好勢と籠城。

石山合戦がはじまって、天正4年(1576)に明智光秀・荒木村重の猛攻で落城しました。

現在、野田城の遺構は全く残っていませんが「城之内」「弓場」という地名が明治はじめまで残されていたことから、玉川付近にあったと推察されています。

極楽寺

真 宗 大 谷派(東 本 願 寺)の 野 田 御 坊 です。天 文 2 年(1533)、本願寺第10世証如上人が布教活動中、六角定頼と法華宗徒に襲撃されました。

この時、野田福島の一向宗門徒の百姓たちが、命がけで証如上人を守って紀州へ逃がしましたが、21人が殉教死しました。

その菩提を敬うため、門徒宗の墓所に建てられたのが極楽寺です。

江戸初期には、大阪・南御堂(難波別院)の掛所となり、その後、野田御坊として今日に至っています。

恵美須神社

社伝によれば永久元年(1113)、当地開発のさいに恵比須神を歓請したのが起源とされます。

神社に保存されている建石には「永久三乙未年三月」と刻まれています。

当時このあたりは「難波八十島」と呼ばれ、漁業が盛んな地域でした。

恵比須神は古来から漁業の神として祀られており、当社も野田福島の漁民の守り神として信仰されていたと考えられます。

円満寺

天文2年(1533)、証如上人を守るために殉教死した21人の門徒宗の菩提のために、久左衛門と申す者が証如上人より教圓という名を授けられて、天文3年(1534年)に一宇の坊舎を建立しました。

これが居原山円満寺のはじまりです。

創建時は摂津国下仲嶋野田村惣道場と称していました。

境内には証如が与えた感謝の文書と供養碑があります。

二十一人討死之碑(玉川コミュニティセンター)

玉川地区には21人討死碑が4基あります。

玉川コミュニティセンター内にある「21人討死之碑」は昭和15年(1940)に西野田青年団が生涯橋のすぐ西側に建てたもの。

下福島中学校のプール建設のため昭和52年(1977)に現在地へ移されました。

大阪市中央卸売市場本場

農水産物などの市場が形成されたのは、豊臣秀吉が大阪城を築城した頃から。

以後、江戸時代を経て発展。

現在の市場は、昭和6年(1931)に開設されたもの。

天神社

福島三天神のひとつで、福島天満宮が上の天神というのに対して、天神社は下の天神といわれています。

昌泰4年(901)に菅原道真が九州・太宰府へ左遷させられたさい、当社に参拝して海路の平穏を祈ったと伝えられています。

当時、この辺りが「鹿飢島(餓鬼島)」と呼ばれていましたが、地元の人たちに非常に親切にもてなされた菅原道真は、好字の「福」をつけて「福島」へと改めさせました。

今はちょうど梅が見頃です。

天神社(下福島天神社)

江戸時代の「摂津名所図会」に記されている福島三天神のの一つ。

あとの二天神は、現福島天満宮の上の天神と、太平洋戦争で焼失した中の天神(福島天満宮に合祀)。

菅原道真公が船で大宰府に流される際、旅の安全を祈願し、この辺りを福島と名付けたとも伝えられている。

福島聖天了徳院

東寺真言宗の仏教寺院。

創建年月は、洪水で記録が失われたため不明。

「浦江の聖天さん」の名で親しまれている。

ご本尊の11面観世音菩薩は、福島の海に沈んでいたのを地元漁師が引き上げ、奉ったと言われている。
また、松尾芭蕉も訪れ「杜若 語るも旅の ひとつ哉」と句を詠んでいるほど、カキツバタの名所でもある。

聖天通商店街・福島聖天通商店街

JR福島駅まで東西600mほどの商店街。

聖天さん(福島聖天了徳院)の参拝道であることから商店街の名が付けられた。

また、易相(占い)の大家・水野南北(1760~1837年)が聖天さんと縁があり、「売れても占い商店街(占い商店街)」の誕生のきっかけとなっている。

多くの占い師がおり、占いの館も常設。
占いを目当てに訪れる人が多い。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

九条島に眠る朝鮮通信使の悲話


現在の松島橋。

明治2年(1869)に松島橋が架橋され、大きな反橋(船を通すため)で有名になり、初代長谷川貞信の『浪花百景』にも描かれましたが、残念なことに明治18年(1885)の淀川大洪水で流出。

現在の橋は昭和5年(1930)に架けられたもの。

豪農・池山新兵衛によって開発された九条島。

大坂市中への海の玄関口として賑わい、松島の竹林寺は朝鮮通信使節の宿坊にもなりました。

一条も二条もないのに何故「九条」。

本格的に開発したのは、江戸初期の幕府役人・香西晳雲らと言われており、交友のあった儒学者・林羅山が「衢壌(くじょう)島」と命名。

「衢」は「ちまた、賑やか」を意味し、「壌」は「土地」に通じ、賑やかな場所になるように願ってつけられたとのこと。

その後、「九条」に変わったのは、諸説あるものの、「衢壌」が難しすぎるので簡単な字になったのが真相らしい。

古代縄文期の「九条」は、なにわの海の底で、上町台地を除いて陸地の面影はなかった。

その後、淀川などが運んだ土砂が堆積して陸地化が進み、なにわ八十島と言われるほど多くの島々が大阪湾に誕生。
その一つが九条島。

対岸は以前取り上げた「トコトコダンダン」

木津川遊歩空間(愛称:トコトコダンダン tocotocodandan)
今日は24節季の一つ「雨水」。 空から降るものが雪から雨に変わり、積もった雪も解 … 続きを読む →


松島橋の碑

かつては寺島と呼ばれ、木津川と尻無川との合流地点であるので、舟大工職人が数多く住んでいた。

明治元年(1868)に町名をつけるさいに、島北端の戎社に推定樹齢300年の「えびす松」があって景勝地として有名であったため、そこから松島と名づけられた。

明治初めには川口に外国人居留地が造られ、松島はその遊興地として開発。

大阪最大の遊所・松島遊郭が開かれ、のちには松島文楽座も出来て殷賑を極めました。

ジオラマで知る「川口居留地」
大阪住まいの今昔館8F、明治から戦後にかけての大阪を代表する住宅地を再現した住ま … 続きを読む →


九条島と朝鮮通信使の碑

朝鮮通信使は徳川将軍が代替わりした時などに朝鮮から日本へやって来た友好親善の使節で、江戸時代には計12回来日しています。

正使と副使の他に書記、通訳、書家、画家、僧侶、医師など、時には500名以上にもなる大集団でした。

異国情緒溢れる通信使が来訪すると、大坂三郷はおろか近隣からも見物者が訪れ、大坂中がお祭騒ぎになったといいます。

彼らは釜山を出港して対馬、瀬戸内海、九条島を通って川口で船を降り、そこから川御座船に乗り換えて淀へ向かい、淀からは陸路で江戸に向かいました。

梅本橋顕彰碑

明治3年(1870)、川口居留地と松島を結ぶために戎島渡が廃止されて梅本橋が架けられました。

橋名は西詰の梅本町からつけられましたが、梅本町の町名の由来は、竹林寺境内にあった「浪速津香之梅」という名樹に因むといいます。

大正4年(1915)には市電(松島~安治川線)が通るほど賑わいましたが、昭和27年(1952)頃、運河埋立工事で撤去されてしまいました。

現在では松島公園の一部となっています。

竹林寺は九条島を開いた豪農・池山新兵衛と幕府役人・香西皙雲によって慶安2年(1649)に建てられたといわれています。

朝鮮通信使の墓

江戸に行かず大坂に残った朝鮮通信使の宿舎としても使用され、明和元年(1764)、11回目の朝鮮通信使の金漢重(キムハンジュン)の墓があります。

金は朝鮮東莱府草梁の人ですが大坂で病に臥せ、同寺で亡くなりました。

本国には愛する妻と2人の子供がいて、望郷の念に駆られて子供に逢いたいと縋る金の姿に、大坂の医者たちも心を痛め、同じ年頃の日本の子供2人を金の枕元へ呼んで、我が子に見立てて看病させたといいます。

また同年の朝鮮通信使では、対馬の通詞・鈴木伝蔵が、御堂御台所で行列奉行の朝鮮人と口論になって打擲され、その恥辱を晴らすために全く関係ない通詞の崔天悰を殺害するという「唐人殺し」が起こりました。

鈴木は逮捕されて処刑されましたが、崔天悰の供養は同寺で行われました。

ちなみに事件は当時の常として面白おかしく脚色され、『世話料理鱸包丁』(『今織蝦夷錦』)『漢人韓文手管始』『世話仕立唐縫針』などの歌舞伎狂言の演目になっています。

九島禅院

江戸時代の大坂名所案内『蘆分船』に「龍渓禅師庵」として小さい草庵の図が掲載され、『九条村絵図』にも「屋舗五歩、興禅庵大隨」と記載されています。

山号は霊亀山で、これは龍渓禅師が弟子に招かれて九島院の開山法要をした際、亀が花を背負って祝福に来たという故事によるもので、境内には「亀の墓」もあります。

寛文10年(1670)8月、九条村が洪水に襲われたとき、弟子たちが禅師に再三、避難を勧めましたが、禅師は沈着冷静に「生死は数なり」と一偈を書いて、座禅を組んでお経を唱え、泰然として入寂したと言い伝えられます。

後世の人々は「九条の人柱」といってその死を悼み、後水尾法皇は龍渓禅師の弟子であったので、以後、毎年8月に水灯施餓鬼を修して禅師の菩提を弔いました。

10年後に幕府が河村瑞賢に命じて九条島を開削して安治川を通しましたが、それには「龍渓禅師の人柱」も動機のひとつになったといわれています。

九島禅院の境内、左手に亀の墓があります。

茨住吉神社

茨住吉神社の茨は、当時この地域に茨が群生していたからという説や、摂津菟原郡(茨郡)の住吉神社から分祀したので元は「うばら」で、それが「いばら」に転訛した・・・といった説がありますが、確かな事は判っていません。

かつて当地には楠があり、その傍に祀られていた小祠でしたが、池山新兵衛の勧請で新田・河川の守護神として祀られました。

楠は戦前、樹齢約700年といわれていましたが、大阪空襲で焼け、しかし御神木として今も大切に保存されて「焼け楠」と呼ばれています。

にぎやかなアーケード商店街を抜けると九条新道。

大阪市電創業の地碑、花園橋停留場があった場所に建つ、かの、松下幸之助氏は、この大阪市電を眺めながら「これからは電気の時代!」と思いついたと、松下電器の社史にも記されています。

明治36年(1903)9月、九条新道の花園橋を起点に築港埠頭までの約5キロメートルに大阪市電が開通。

公営による電気鉄道は日本初の快挙でした。翌年(1904)には、これまた日本初の試みで「2階付電車」が走り、これは路面電車の上に長椅子が並ぶテント屋根付きのデッキを備えたもので、夏は「納涼電車」、冬は「魚釣り電車」と呼ばれて一躍、大阪名物となりました。

この「2階付電車」は市電創業50周年記念のさいに模擬電車が作られ、現在、緑木検車場(住之江区)に保存されています。

その後も大阪市電は拡張し続け、最盛期には総延長約110キロメートルまで路線が拡大、市電としては東京都電に次ぐ規模に達しました。

しかし戦後、中馬馨大阪市長が大阪港の防波堤工事を田中角栄大蔵大臣に陳情したさいに「防波堤工事は国がやるが、代わりに大阪市電廃止を」(角栄は日本列島を高速道路、新幹線で結ぶ列島改造論者だったので)と言われ、結局、大阪市側はそれを承諾。

高速道路主体、自動車偏重の都市計画が進み、大阪市民に愛惜されながらも、昭和44年(1969)に、大阪市電は、その栄光の歴史を終えました。

千代崎橋

明治初期の木津川は、高い帆柱を有した船が数多く往来したため、橋を架けるのにも舟運と陸上交通を両立させる工夫が必須でした。

明治5年(1872)に架橋された初代千代崎橋は、その課題を克服するために、橋板の中央部分が開く構造になっていました。

また、この橋の反りは大きく、端部の最急勾配は18%にもなっていました。

珍橋として浪花名所になりましたが、この橋も明治18年(1885)の淀川大洪水によって流出。

その後、普通の木桁橋が架けられましたが、これは関西の貿易港として神戸がどんどんと隆盛していき、大阪(安治川、木津川、尻無川)が没落していった証明でもありました。

千代崎橋は松島橋、伯楽橋と同様に戦前の都市計画事業によって、現在の橋に架け換えられています。

なお、地盤沈下によって橋が低くなったこともあって、昭和31年(1956)に嵩上げ工事が行われています。

安治川河底トンネル
かつて安治川上流には、マストの高い船の航行に邪魔にならないよ うに、ロクロを利用 … 続きを読む →

大阪歴史博物館
久し振りに同館を訪れたが10年1日のごとく何も変わっておらず、唖然とした。 水都 … 続きを読む →

水都大阪の安治川河口の様子。

天満宮行宮

天神祭のクライマックスである船渡御は、現在は大川上流に遡りますが、明治期から昭和初期までは大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸。

その後、陸路で松島の天満宮行宮(御旅所)を目指しました。その後、松島遊郭で夜通し遊び、翌朝に天満に帰っていったといいます。

しかし、戦後の地盤沈下によって船が橋をくぐれなくなったため、現在のようなコースに改められました。

京セラドーム大阪

平成9年(1997)に大阪ガス工場跡地に完成。東京ドーム、福岡ドームに次ぐ日本3番目のドーム球場です。

プロ野球のオリックス・バファローズの本拠地で、阪神タイガースも主催公式戦の一部を開催しています。

草野球向けの一般貸し出しも可能。

施設命名権(ネーミングライツ)売却で、平成18年(2006)から呼称を京セラドーム大阪としています。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

モダン大阪発祥の地 川口居留地


~木津川橋を渡ってみれば文明開化の音がする~

慶応4年(1868)に架けられた木津川橋を渡った先に川口居留地がありました。

木津川橋は明治9年(1876)に木橋から鉄橋に架け替えられ、馬車道と歩道が区別されました。

明治初めの新風俗は川口から入り、大阪に暮らす人々の生活に多大な影響を与え、変化をもたらしました。

開港時の様子を思い浮かべながら歩いてみたい。

船手会所は元和6年(1620年)に設けられた江戸幕府の役所で、大阪湾から木津川・淀川に出入りする船の管理と、湾内に停泊している船の管理を行う船番所は、川口の会所と、春日出と三軒家にあった。

会所は元治元年(1864年)廃止され、神戸海軍操練所に業務移転した。

旧川口居留地は、1868年から1899年まで現在の大阪府大阪市西区川口1丁目北部・同2丁目北部に設けられていた川口外国人居留地の跡地。

旧大阪居留地、旧大阪川口居留地ともいう。

開市開港直前の大阪では、安治川と木津川の分岐点に位置する川口に船番所や組屋敷を設置していた大坂船手が軍艦奉行の勝海舟の提言によって1864年に廃止され、その跡地を外国人居留地に充てることが予定されていた。

しかし、貿易港としては短命に終わっている。

川口および当時の大阪港である安治川左岸の富島は、安治川河口から約6km上流に位置する河港であるため水深が浅く、大型船舶が入港できなかった。

1872年には外国船の入港が途絶え、川口の外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へ続々と転出した。

川口居留地の廃止

明治27年(1894)7月、第2次伊藤博文内閣の外務大臣・陸奥宗光は、英国と新しい通商航海条約に調印し、安政五箇国条約(1858年調印)の改正に成功しました。

この条約改正により明治32年(1899)7月に日本各地の居留地は廃止されることになりました。

同年7月、居留地議事館裏のグラウンドではお別れパーティが開かれ、居留民らは別れを惜しみました。

居留地議事館では第126回居留地会議が開かれて居留地は大阪府に引き渡され、大阪府は大阪市に居留地を引き継ぎました。

居留地時代の建物は現存しないが、1920年竣工の壮麗な大聖堂である日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会(ウィリアム・ウィルソン設計、大阪府指定文化財)が当時の街の面影を伝えている。

川口には外国人貿易商に代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、孤児院、学校を設立し経営を行った。

1884年には、26区画の内、キリスト教関係の施設が20区画を占め、2年後には10区画が増設されるほどだった。

平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されたのである。

それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、武家屋敷の破却により空地が生じた玉造をはじめ、現在の天王寺区や阿倍野区域に当たる上町台地へ広い敷地を求めて次々と移転して、川口は衰退への道をたどることになる。

カッフェー・キサラキ゛跡

明治末に大阪で最初に開業したカフェで、川口教会の南東側にあり、木津川に面した洋風2階建ての建物であった。

カフェには画家・詩人・演劇人などの芸術家が集まるサロンとして賑わった。

大阪開港の地(川口運上所跡)
大阪電信発祥の地(川口電信局跡)
川口運上所跡と大阪電信発祥の地
西区川口二丁目の9

慶応3年(1876年)この地に大阪税関の前身である「川口運上所」が設置され、外国事務、税関事務を取り扱っていた、今も隣接に大阪税関富島出張所がある。

諸外国の貿易取り締まり、関税徴収を担当する運上所は、幕末から明治初年に各開港場、開市場に設置されました。

大阪の運上所では、慶応4年(1868)4月末から五代友厚らがその任にあたって大阪開港前後の諸問題を解決しました。

また、運上所は川口居留地造成のための地上げ普請請負業者の募集や競売開催などを含む居留地関係の事務も担当しました。

明治3年(1870年)に川口運上所内に川口電信局が設置され、川口運上所から神戸まで電信線が架設開通しました。

これが日本最初の電信線であり大阪電信発祥の地である。

後に明治天皇がこの地に立ち寄られたので「明治天皇聖躅」の石碑が大正14年に建立されている。

富島天主堂跡

明治12年(1879年)頃、フランス副領事の請願にもとずき、ここ富島に本格的な赤レンガ造りゴシック様式の建物で「カトリック礼拝堂」をこの地に建てました。

今はありませんが大阪府庁江の子島庁舎と共に当時は洋風建築の代表的建造物でした。

今は聖マリア教会と聖マリア幼稚園になっています。

またこの辺はかっては外国人雑居地であった、多くの中国人が中華料理店や理髪店を開いていた。

安治川橋之碑

川口居留地設置後、明治6年(1873)に新たに架けられた安治川橋は、中央の二径間が鉄橋で、高いマストの船が航行する際には橋桁が旋回する可動橋であり、「磁石橋」というあだ名が付けられました。

明治18年(1885)の淀川大洪水では、浪華三大橋(難波橋、天神橋、天満橋)など多くの橋が流出し、流木となって安治川橋に引っ掛かりました。

危険を回避するために安治川橋はそのときに爆破され、以後架けられませんでした。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

淀殿の墓のある 太融寺


太融寺は、大阪市北区太融寺町にある高野山真言宗の寺院。
新西国三十三箇所第2番札所。

嵯峨源氏の祖である源融ゆかりの寺で、古くから当寺付近の地名にもなっている。

承和10年(843年)に嵯峨天皇の皇子である左大臣源融によって境内地が広げられ、八町四面の七堂伽藍が建立された。

その際、山号を佳木山とし、源融の諱から寺名を太融寺と改めたうえ、鎮守社として神野太神宮(現・綱敷天神社)も創建されている。以後は浪華の名刹として参詣者でにぎわった。

清涼寺
嵯峨釈迦堂の通称で知られる浄土宗知恩院派の古刹。光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇 … 続きを読む →

幽霊屋敷 河原院跡
源氏物語「夕顔の巻」は圧巻である。 源氏は五条辺りに住む夕顔と恋におち、「某の院 … 続きを読む →

事件現場の「某の院」は、源氏のモデルとなった左大臣源融の邸だという(融の実像は式部が描くような女好きではないが)。

「源氏物語ゆかりの地・枳殻邸(渉成園)」
渉成園は東本願寺の飛地境内地(別邸)です。 1602(慶長7)年教如上人が徳川家 … 続きを読む →

源融ゆかりの塔
左大臣源融は、嵯峨天皇の皇子であったが源の姓を賜って臣籍に下った。
「源氏物語」の主人公、光源氏のモデルの一人とも言われている。

太融寺本堂

慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の兵火で全焼するが、元禄年間(1688年 – 1704年)に本堂など25の諸堂が再建される。

1945年(昭和20年)6月1日の第2回大阪大空襲により再び全焼してしまうが本尊は無事であった。
戦後になって本堂、大師堂を始め20余りの堂宇が再興された。

明治13年(1880)には太融寺で国会期成同盟が結ばれ、自由民権運動はここから全国へ広がったと言われています。

一願不動明王は古来より「1つだけ願い事を叶えてくれる」と信仰を集めてきた不動明王です。

人生でただ1つの願い事ですから、何をお願いするかはしっかりと考えた上で参拝したいものです。

一願不動明王が安置されている場所には陽の光が直接届かないためにほの暗く、後ろの岩屋の上からは糸のような滝が水を落としており、一種独特の神秘的な雰囲気を醸し出してます。

本堂の鬼瓦、なんとも味のある顔つきだ。

太融寺の資料では「元和元年5月、大阪城落城によって秀頼と共に自刃して果てた淀殿の遺骨は、大阪城外鴨野郷、弁天島に一祠を作って埋められた。
これが淀姫神社である。

明治10年11月城東練兵場(現大阪城公園)造成に当り移祀されることになり、豊臣に縁りの深い当寺に埋め九輪の塔(現在戦災に依り六輪)を建て境内西北隅に祀った。」とあります。

昭和になり、元は「淀君」と表記していた案内板を、差別用語でもあるため「淀殿」と表記を改めたそうだ。

移転先に四天王寺が候補に挙がったが、家康の本陣だった茶臼山に近いことから淀殿は嫌がるだろうと、北の太融寺にとなった。
ここまでが寺の記録として残っている。

淀殿ゆかりの 淀古城跡
淀古城は、徳川幕府が築城した淀城の東北、500m程のところにあります。 江戸時代 … 続きを読む →

僅かに残る「淀古城址」の石碑は妙教寺鐘楼前にある。

大阪城の謎を探る
大阪城の謎を探ると題するツアーに参加した。 大阪冬の陣夏の陣で家康の本陣となった … 続きを読む →

鴫野神社(しぎのじんじゃ) – かつては弁天島(現在の大阪ビジネスパークの位置)に祀られており、淀殿が篤く崇敬した。

淀殿死去の後は淀姫社と呼ばれるようになった。

秋晴れの大阪城を散策
何度も通いなれた大阪城だが、意外と知らない場所がある。 いかに表面的にしか見てい … 続きを読む →

慶長20年(=元和元年、1615年)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えられている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

酒乱が治ると評判のお寺 かしく寺


法清寺(かしく寺)、創建は不明。
1911年(明治44年)に再建された伽藍は戦災をまぬがれ現存している。

境内には江戸時代中期に存在した遊女・かしくの墓所として広く知られている。

かしくは北の新地の遊女で、日常は従順な女性でしたが、ひとたび酒が入ると人が変わって乱れたといいます。

寛延2年(1749)のある日、彼女の兄が諌めたところ逆上し、あやまって兄を傷つけて殺してしまいました。

かしくは死罪を申し渡され、市中を引き回されましたが、その途中「油あげ」を所望し、それで乱れ髪をなでつけて身を整えてから、斬首されたといわれています。

劇作家にして小説家の長谷川幸延さんの手になる「酒の咎 引き受け申しそろ かしく」という石碑。

禁酒、断酒を誓う人たちの願いがしゃもじに込められている。

この事件はすぐに芝居に仕立てられて評判をよびました。
後になってかしくの墓石をかき取り、せんじて飲めば酒乱がなおるという風評がたち、数多くの参詣人で賑わったといわれています。

法清寺では、命日の3月18日に毎年かしく祭りの法要が行われています。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

天満天神繁昌亭


上方落語の始まりは1700年頃といわれています。

京都で露の五郎兵衛、大阪で米沢彦八などが神社の境内などでおもしろい噺を聞かせる「辻ばなし」とも言われ、これが落語の元祖だと言われています。

一次は廃れたものの、1800年頃の寛政時代に大阪坐摩神社で桂文治が初めて寄席をつくり落語を演じるようになり、笑福亭、林家、月亭などの落語家が登場します。

大阪城の謎を探る
大阪城の謎を探ると題するツアーに参加した。 大阪冬の陣夏の陣で家康の本陣となった … 続きを読む →

米沢彦八が上方落語のルーツといわれており・・・・・・・

いよいよ開場!その合図となるのが「一番太鼓」だ。入り口前に備えられた太鼓の音が、これから始まる落語への期待感を一層盛り立ててくれる。

2003年に上方落語協会会長に就任した桂三枝(後の6代桂文枝)が、天神橋筋商店街で落語会を行える空き店舗の提供を商店街側に依頼したことから、繁昌亭開亭の構想が始まる。

商店街はこの依頼を大阪天満宮に持ち込み、上方落語協会も交えて話し合いを重ねた結果、天満宮用地に落語専門の定席を新設することで合意。

用地は大阪天満宮の寺井種伯宮司の厚意により、無料で提供された。

繁昌亭から徒歩数分、天満宮北側の星合池(通称・亀の池)のほとりに、境内社として「高坐招魂神社」が二年前に建立された。

「話の神様」「技芸の神様」として口下手で困っている人や大事なプレゼンや愛の告白を前にして悩む人にはご利益がるとのことなので、寄席に訪れた際には是非足を延ばしてみては。

初代春團治が活躍した時代をモチーフに建設された繁昌亭にあわせ、明治時代の様式による、黒い屋根付きの特殊郵便ポストが設置された。
投函者第1号は、除幕式に立ち会った桂三枝。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

大阪天満宮


延喜3年(903年)に菅原道真が没した後に天神信仰が広まり始めるが、天暦3年(949年)に道真ゆかりの大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。

そして、それを聞いた村上天皇の勅命によってこの地に天満宮が建立される事となった。
以後、当社は大将軍社を摂社として新たに天満宮が中心の社となる。

表門、天井には東西南北と十二支の名の記載された方角盤が飾られています。

度々火災に見舞われている。

なかでも享保9年(1724年)の享保の大火(妙知焼け)では全焼の憂き目にあっている。

後に復興したものの、今度は天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱による大火でまたも全焼してしまった。
天保14年(1843年)には現在の本殿が再建されて復興を果たしている。

1945年(昭和20年)の大阪大空襲の際には幸運にも被害を免れている。

登竜門

初詣のさいなどは、大勢の人が門をくぐりますが、登竜門というのは、中国の大河・黄河を上流に向かって登っていくと龍門に着き、高く険しい瀧や厳しい早瀬を飛び越えると、鯉が龍になる…という「登龍門の伝説」から来ています。

中国では、龍は王道を歩む王者の象徴で、人徳共に兼備した人のことを指しています。

蛭子門(えびす門) 大阪天満宮には六つの門があり、それぞれに用途と由来がある。

正面西側(南西側)の蛭子門は、もともとこの門を入ってすぐ左手に戎社が祀られていたことから「戎門」と呼ばれており、現在は戎社は移動されたがその名が今に伝えられている。

戦後途絶えていた十日戎が、上方落語協会会長・六代桂文枝の意向もあり2007年(平成19年)に「天満天神えびす祭」として復活する。

天満天神えびす祭では天神祭などで活躍した天神天満花娘が福娘として奉仕する。

大阪ガラス発祥の地の石碑、裏面には「宝暦年間(一七五一)長崎商人播磨屋清兵衛天満天神鳥居前ニ工場ヲ設ケ当時ノ玉屋ヲ開業大阪ガラス商工業ノ始祖トナル」と刻まれています。

この辺りは旭硝子や東洋ガラスの発祥の地でもあり、戦前は多くのガラス工場が建ち並んでいたそうです。

白雉元年(650年)、孝徳天皇が難波長柄豊崎宮を造営した際、その西北に守護神として大将軍社を創建したのがそもそもの始まりである。

延喜元年(901年)に菅原道真が藤原時平によって九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、この地にあった大将軍社に参詣し、旅の安全を祈願している。

本殿裏手にある十二社に祀られている神々、読んでいて、このうちの何人かが非業の死を遂げていることに気がつきました。

右から吉備聖霊・早良親王・藤夫人・伊豫親王、とんで藤原廣嗣・橘逸勢・丈太夫たちが政争に絡んで非業の死を遂げた方々、火雷神・火産霊神は火・雷ということですから道真公を意識した祟り神、埴山比売神・天吉葛神・川菜神は荒ぶる火の神を鎮める力を持つ神様たちということのようです。

すなわち道真公と同様、政争により非業の死を遂げた方々を一緒に祀ってその霊を慰める一方、特に道真公についてはその怒りを鎮める神々三柱を配しているようです。

白米(しらよね)稲荷社 – 祭神:稲荷大神。
伏見稲荷大社の奥院と称される。

付近に七夕池・明星池・夫婦池等が明治年間まで現存していた事は昔「難波碕」の付近に残った沼沢の名残であると思われます。

昭和の初めまで池には「宇賀の社」があり、紅梅紫藤が咲きみだれ付近には歌舞伎を常打としていました。

天満八千代座浪花節の国光席 吉本興業発祥となった天満花月吉川館などの寄席が隣接していた歓楽街でした。

池に架かっている「星合橋」は一名「愛矯橋」とも言われています。

天神橋の橋名飾板が2枚ありました。
裏面に明治21年と記されています。

祖霊社 – 祭神:大阪天満宮神官の神職および氏子・崇敬者の祖霊を祀る。

招魂社は、戦後、上方落語の復興に尽力した六代目笑福亭松鶴ら「四天王」をはじめ、同協会が発足した1957年以降に死去した落語家を祭っている。

天満宮北側の星合池のほとりにあり、落語定席「天満天神繁昌亭」と目と鼻の先という落語家やファンになじみの地に新設された。

川端康成誕生地跡

明治32年(1899)6月14日、川端康成は大阪天満宮の表門からほんの少し東、現在は料亭「相生楼」が建つ場所で生まれた。

その門前に「川端康成生誕の地」の石碑が静かにたたずんでいる。

大阪北区天満、当時の大阪市北区此花町のこの場所で、康成の父・栄吉は開業医として医院を営んでいたが、肺結核を患い、康成が1歳になるかならない内に死去。

母・ゲンの実家近く(現在の東淀川区に)へ転居したが、その母も明治34年(1901)、1月に亡くなった。

幼くして両親とも亡くした康成は翌年、祖父母に引き取られ、現在の茨木市宿久庄、当時の大阪府三島郡豊川村へと移り住む。

住吉大社 枝垂れ桜見納め
早朝に住吉大社を訪れた。 汐掛け道は人通りもまばら、ちょうど側道の植え込みに潅水 … 続きを読む →

川端康成が、戦後に発表した、「しぐれ」「住吉」とともに住吉3部作の一つとして数えられる「反橋」には、「上るよりもおりる方がこはいものです。

私は母に抱かれておりました」と描いており、橋の傍には康成の文学碑が設置されております。

文末にあらすじを掲載しておきます。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

先哲の眠る東寺町をめぐる

大坂の陣の後、松平忠明による復興の際には、北の防御線として天満北縁の西成郡川崎村および北野村に天満寺町が形成された。

天満堀川を境に天満東寺町・天満西寺町とも呼ばれる。

善導寺、江戸中期の町人学者山片蟠桃(やまがたばんとう)、三弦合奏創始者近藤宗悦、大阪画壇の西山芳園・完瑛父子の墓がある。

山片蟠桃は大阪町人・大阪商人の学塾である懐徳堂で中井竹山・履軒兄弟に朱子学を、先事館で麻田剛立に天文を学ぶ。

幼時から大阪の両替商である升屋に仕え、明和8年(1771年)に24歳の若さで番頭となり、傾いていた経営を軌道に乗せ、桝屋を繁盛させた。

財政破綻した仙台藩に建議し仙台藩の財政を再建。

『夢ノ代』の冒頭である「天文編」で地動説と太陽系を紹介し、太陽系と同じものが宇宙に無数にあることや万有引力説を説いている。

近年大阪府が国際的な文化賞として、山片蟠桃賞を設けている。

適塾と緒方洪庵
蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。 … 続きを読む →

懐徳堂は、江戸時代後期に大坂の商人たちが設立した学問所。

明治初年の閉校、大正時代の再建、太平洋戦争による罹災焼失を経て、現在は大阪大学が継承しているとされる。

門下より草間直方・富永仲基・山片蟠桃のごとき特徴的な町人学者を輩出したことでも知られる。

天徳寺

儒者・書家の篠崎小竹の墓がある。

詩・書に優れ、書籍を刊行しようとする者のほとんどが小竹に序・題・跋などの文章を求めるほど人気があった。
篆刻も得意とし稲毛屋山の『江霞印影』にその印が掲載されている。

大塩平八郎とも養父・三島に初読を習った弟子である関係で交流があったが、平八郎は陽明学者で朱子学者とは犬猿の仲であり、兄弟子である小竹とも学説上の対立があった。

宝珠院

縁起によれば弘仁年間(810年 – 824年)空海が開基。

紀伊国伊都郡(現・和歌山県伊都郡高野町)の高野山草創の頃、平安城の東寺より往来する際、しばらくこの地に安居して駄都秘法(駄都法)を練習した所で、後に、高弟の室生山堅恵上人が師の跡を慕って駄都法を修し寺院に改めた。

菅原道真が清和天皇に奏請して天満郷を寺領として貰い受けたので菅原山という。

九品寺

伝、行基開創後、浄土宗に改宗。

寺内に五井持軒の墓がある。

大阪生まれの儒学者。

伊藤仁斎・貝原益軒と親交があった。

龍海寺

現在の大阪大学の前身にあたる適塾を開設し、天然痘治療に貢献した、日本の近代医学の祖といわれている緒方洪庵の墓がある。

緒方洪庵の功績は、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲などの幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したこと。

日本陸軍の創始者、大村益次郎の足塚があります。

大村は刺客に襲われて足の傷が原因で死亡。

足塚は「切断した足を洪庵先生の墓傍に埋めてほしい」という遺言による。

適塾と緒方洪庵
蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。 … 続きを読む →

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

日本三大えびす 堀川戎神社


江戸時代中ごろより祭礼が盛り上がり、ミナミの今宮えびすとキタの堀川えびすが大阪の十日えびすを代表するようになる。

また今宮戎、西宮戎と並び、「三大戎」に数えられる。

赤い鳥居である。この鳥居は阪神大震災で倒壊した鳥居の後継として建てられたもの。

社伝によれば、欽明天皇の時代、止美連吉雄が蛭子大神の神託により堀江で玉を得、それを神体として富島に蛭子大神を祀ったのに始まる。

当時は瓊見社(たまみのやしろ)・止美社(とみのやしろ)と呼ばれていた。

明治40年(1907年)、近隣の神社を合祀して「堀川神社」に改称し、村社に列格した。

昭和20年(1945年)に戦災で全ての建物を焼失し、昭和38年(1963年)に本殿が再建された。

福興戎像(ふくこう・ふくおこしえびす)

平成7年1年17日の「阪神淡路大震災」で破断した表門石造鳥居(昭和2年奉納)の柱に彫刻されています。

平成10年の十日戎に奉納され、平成12年、「幸いを与える」の「福」と、「生ずる・起きる・盛んになる」の「興」を付けた「福興戎像(ふくこう・ふくおこしえびす)」の応募名称を採用し命名されました。

被災鳥居から蘇った由来をもって、除災招福の象徴として、広く崇敬者の心の支えとなっている。

神の世界もコロナが蔓延していると見えて、マスクをしてござる。

榎木神社(えのきじんじゃ)は、堀川戎神社の境内社である。

本殿は地車(だんじり)の形をしており、地車稲荷の通称で知られる。

木の神・句句廼知神と稲荷神・宇賀御魂神を祀る。

かつての榎の大木の根元には吉兵衛という老狸が住んでおり、毎夜、決まった時間に地車囃子の真似をしていたと伝えられる。

本殿が地車型なのはそのためである。

地車稲荷の神使は狐ではなく狸である。

願い事が叶うとその夜に地車囃子が聞こえるとされ、願いが叶ったお礼として地車の模型や絵馬を奉納する習わしとなっている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

大塩平八郎の墓所成正寺


成正寺は江戸時代後期、当時の幕政を揺り動かし、新しい歴史の契機ともなった大阪大塩家8代目中齋大塩平八郎の菩提寺です。

乱後は当然廃墓となりましたが、お寺が密かに土中に埋蔵しました。

明治三〇年、「中斎大塩先生墓」、大正五年に「大塩格之助君墓」が建立されました。

ところが昭和二〇年三月の大阪大空襲で、本堂・庫裏とともに墓碑も損傷しました。

それらは、戦後昭和三二年に縁者により、元の場所に復元されました。
また、墓地整理中に土中の墓が発見され、安置されました。

「大塩の乱に殉じた人びとの碑」は、昭和六二年、乱一五〇年を記念して、大塩事件研究会員及び全国有志の浄財により建立されたものです。

大塩の乱とは

天保8年(1837)2月19日早朝、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎が、飢饉の最中幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件。

奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300人を率いて「救民」の旗をひるがえし、天満の自宅から大坂城をめざしたが、わずか半日で鎮圧された。

乱による火災は「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失した。

当時配布された「檄文」は大名から民衆まで密かに伝わり、また、乱の情報は、大塩父子がしばらく潜伏し手配されたため、全国に広く伝わり、幕藩体制に大きな衝撃を与えた。

明治維新の30年前である。
乱の参加者はほとんど捕らえられ、獄中で死亡した者が多かった。

そして檄文は残った

大塩の蜂起の動機と思想は檄文に集約されている。

以下はその要旨である。

「天下の民が困窮すればその国は滅びるであろう。
徳川家康公も“よるべもない弱者にこそ憐みをなす政治を行うことが仁政の基なり”と申されている。

ここ245年の太平の間、上層の者は贅沢三昧で驕りを極め、役人は公然と賄賂を授受している。

私腹を肥やし、民百姓に過分の用金を申しつけている。

我々はもう堪忍できない。
天下のため血族の禍の禁を犯し、有志と申し合わせ、民衆を苦しめている諸役人を攻め討ち、驕りたかぶる金持ちを成敗することにした。

生活に困っている者は金銀や米を分け与えるから大坂で騒動が起こったと聞いたなら一刻も早く大坂に駆けつけてほしい。

これは一揆蜂起の企てとは違う。

また、天下国家を狙い盗もうとする欲念より起こした事ではない。
ここに天命を奉じ天誅を致すものである」

文面からは、大塩が幕藩政治の改革を強く望んでいたことがわかる。

「大塩の乱」の後、厳しい回収令にもかかわらず檄文は民衆によって筆写を重ね、全国に流布した。

そのうち、大塩平八郎の足跡をたどってみたいと思っている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!