南禅寺発祥の地南禅院

南禅院は南禅寺法堂(はっとう)の南方に位置する。
この地にはかつて亀山上皇の離宮・禅林寺殿があった。

離宮は上の御所(上の宮)と下の御所(下の宮)に分かれていたが、このうちの上の御所に弘安10年(1287年)建立された持仏堂を南禅院と号した。

明徳4年(1393年)以降、たびたび火災に遭い、応仁の乱以後は荒廃していたが、元禄16年(1703年)に桂昌院(徳川5代将軍・徳川綱吉の母)によって再建された。

方丈

元禄16年(1703年)に桂昌院によって再建され、内部の襖絵は狩野派によるものである

本堂から渡り廊下で繋がる茶室「龍淵窟」。

裏千家出入りの岡田永斎の作。

舞良戸の縦桟は左から三、一、二。障子の腰も三、一、二。

庭園は当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、周囲を深い樹林で包まれた幽玄閑寂の趣は格別である。

作庭は亀山法皇ともいわれ、早くから、京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されています。

向かって左の奥に滝口の石組みが組まれ、上池は曹源池と呼ばれ竜の形に作られ中央に蓬莱島があり、下池には心字島が設けられています。

記録によれば築庭当初には、吉野の桜、難波の葦、竜田の楓等が移植され、井手の蛙も放たれたと記されています。
心静かに鑑賞する庭園です。

亀山天皇は、正応2年(1289)離宮で出家して法皇となられ、離宮を寄進して禅寺とし大明国師を開山とされました。
ここは離宮の遺跡であり、また南禅寺発祥の地です。

一山国師霊塔 南禅寺3世・一山一寧(いっさんいちねい・1247~1317)元の渡来僧。

一山一寧は元から「朝貢しませんか?」という国書を持って日本へやって来たのですが、数年前に日本は元から2度の襲撃(元寇)を受けていて、元からの使者を警戒していた。

なので、一山一寧は伊豆修禅寺で幽閉される事となりますけど、そこでの修行が認められ名僧としてお寺を渡り歩き、後に上洛し南禅寺の住職となりました。

池に方丈の姿が映る。

こちらの庭園は「京都三名勝史跡庭園」のひとつにもなっていて、南禅院の庭園以外には、天龍寺と苔寺の庭園がそれにあたる。

デザインは亀山天皇、自らおこなっており作庭は夢窓疎石(むそうそせき)が行ったと言われています。

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水路閣


琵琶湖疏水の分線(蹴上以北)にある水路橋で1888年(明治21)完成。南禅寺境内を通過するため、周辺の景観に配慮して田辺朔郎が設計、デザインした。

全長93.2メートル(幅4メートル、高9メートル)レンガ、花崗岩造り、アーチ型橋脚の風格ある構造物で、静かな東山の風景にとけこんでいる。市指定史跡。

水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。

落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。
水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。

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南禅寺

開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。

日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。

南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって慶長10年(1605年)以心崇伝が入寺してから。

崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。

また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。これは日本全国の臨済宗の寺院を統括する役職である。

天井には今尾景年画伯畢生の大作と云われる幡龍が描かれている。

奥に少し気味の悪そうな像が見える。

奥にはには寒山拾得像という像がある。

奇行が多く、その生き方が神秘的であることから数々の伝説があり、絵画の題材にも好まれ名品が残されている。
明るく子供のようでありながら、風狂に徹した二人に対する人々の親しみと畏れがあらわされたユーモラスで少し不気味な表情で描かれることが多い。

経巻を開いているのが寒山で指をさしているのが拾得

森鴎外、芥川龍之介、井伏鱒二が「寒山拾得」について書いている。

南禅寺方丈庭園は小堀遠州作と伝えられ、江戸時代初期の代表的枯山水庭園。

巨大な石を横に寝かして配置する手法は、須弥山・蓬莱山などの仏教的世界観などを表現した庭園から脱した構成であり、俗に「虎の子渡し」の庭と呼ばれています。昭和26年に国指定の名勝となりました

竜の杉戸絵。

国宝である小方丈の西側に作られた庭園で、別名「如心庭(にょしんてい)」といい、その名の如く、心字形に庭石を配置した枯山水の石庭となっている。

庭石の配置については、『心を表現せよ』と当時の南禅寺管長であられた柴山全慶(しばやまぜんけい)老師が自ら熱心に指導されたとのこと。

小方丈からさらに奥に進むと「六道庭」に行き当たる。

「如心庭(にょしんてい)」が解脱した心の庭であるのに対し、この「六道庭」は、六道輪廻(りんね)の戒めの庭になります。

六道輪廻とは、天界、人間界、修羅の世界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観をいいます。

一面の杉苔の中に配石された景石を眺めていると、煩悩に迷い、涅槃(ねはん)の境地に達することなく六道を輪廻する我々凡夫(ぼんぶ)のはかなさを想います。

京都南禅寺の大硯。岐阜県産の大理石「紅縞」でできたとある。

南禅寺垣

竹と萩という違う素材を組み合わせた竹垣。

竹のもつ力強さ、萩のもつ柔らかなやさしさがうまく調和し見るものを引きつけます。

沢山の庭を巡ったが最後が還源庭。

こちらで抹茶をいただける、陽が射しこみのどかな風情。

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「天下竜門」南禅寺三門

南禅寺の三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つに数えられます。

三大門の残り2つの門は、知恩院と久遠寺(山梨県)。

五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。

藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したもの。

風雨にさらされた柱が古さを語る。

歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもん ごさんのきり)の二幕目返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな……」という名科白を廻す「南禅寺山門」がこれ。

ただし実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。

山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅僕を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされている。

しかし、楼上は撮影禁止につき画像でお見せできません。

三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。

山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです。

こちらは、楼上の東側から見下ろした法堂へと続く眺望。
さらに目線を下から上に向けていくと、南禅寺境内はもちろん京都市内を一望でき、四季折々の素敵な景色に巡りあうことができます。

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黒衣の宰相以心崇伝の住した金地院

南禅寺の塔頭の1つで、江戸幕府の法律外交を担った僧・以心崇伝が住したことで知られる。

僧録司が置かれ一塔頭寺院に留まらず江戸時代を通じて五山十刹以下全ての住職の任命権を持つ事実上の最高機関とされた。

また10万石の格式を持ち寺大名とも呼ばれた。

東照宮楼門。

江戸期には京都所司代の番所が置かれ、創建当初は日光東照宮と比されていた。

家康の遺言による3つの東照宮のうちの一つがあり幕府による増改築が度々される。
京都三名席の茶室がある。

庫裏より明智門へ向かう。

苔の緑がきれいです。

以心崇伝(いしんすうでん、永禄12年(1569年) – 寛永10年1月20日(1633年2月28日))は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧。

明智門を入ると前面には弁天池が広がる。

「明智門」は、安土・桃山時代、1582年、明智光秀(1529-1582)が母の菩提のために黄金千枚を寄進して大徳寺に建立した。

桃山建築の唐門で、1868年(1877とも)に金地院に移築された。

字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれる。

本光国師の称は、寛永3年(1626)に後水尾天皇の師となり授けられたもの。
俗姓は一色氏。

徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取った。

起草した武家諸法度は老中以下諸大名の前で崇伝により布告された。
徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられた。

慶長15年(1610年)には駿府城内に駿府金地院が、元和5年(1619年)には江戸城内北ノ丸に江戸金地院が開かれ、駿府と江戸における崇伝の活動拠点となった。

東照宮

重要文化財。
小堀遠州の作。徳川家康の遺言で建てられ家康の遺髪と念持仏を祀っている。

幕府の公式記録である『徳川実紀』によれば、家康は元和2年(1616年)4月2日、側近の以心崇伝、南光坊天海、本多正純を召し、「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て後下野の国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。

京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」と遺言したという。

拝殿は総漆塗り、相の間・本殿は軸部(柱や梁)を丹で、壁や扉は白・黄・緑といった極彩色で彩られている。

また拝殿の天井には狩野探幽の筆による「鳴龍」が描かれており、さらにその欄間には土佐光起画・青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられている。

さらに開山堂へと進む。

開山堂 – 後水尾天皇の勅額を掲げる崇伝の塔所で、左右両側には十六羅漢像が安置されている。

崇伝像(開山堂)

慶長19年(1614年)、大坂の陣の発端にもなった方広寺の鐘銘事件にも関与し、「国家安康」「君臣豊楽」で家康を呪い豊臣家の繁栄を願う謀略が隠されていると難癖を付けたのは崇伝とされる説が流布しているが、近年では問題化の関与には否定的な研究もある。

国師日記には豊臣家の家臣・片桐且元に宛てた書状に、家康から諮問がありこの問題を初めて知ったと書き記している。

その後取り調べは崇伝がしており、釈明に訪れた片桐且元に対して鐘銘問題ではなく浪人召集の真意を詰問した。

鶴亀の庭 (特別名勝金地院庭園)

崇伝が徳川家光のために作らせ、作庭には小堀遠州が当たった(遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例)。
庭師は賢庭と伝わる。

特別名勝。
安土桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水庭園として知られる。

方丈から見て右手に鶴が左手に亀が配されており、鶴の背には常緑樹、亀の背には落葉樹が植えられている。

また、鶴と亀の間にあるたたみ5畳弱の長方形の巨石は、遥拝石とされ隣接する東照宮を拝むために置かれた石で、造営当時は庭から東照宮が見えたと伝えられる。庭内は大刈り込みが施されている。

この本堂(大方丈)は寺伝では慶長16年(1611年)に、崇伝が伏見城の一部を江戸幕府3代将軍徳川家光から賜り、移築したものといわれるが、建物には移築の痕跡は確認できず、実際は寛永4年(1627年)に崇伝によって建立されたものとみられる。

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北政所が晩年を過ごした 圓徳院


台所坂
ねねの道から高台寺の境内へと続く道で、北政所は秀吉の菩提を弔うためにこの道を往き来したといわれる。

圓徳院、開山は三江紹益。
豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)が晩年の19年間に自身の本拠地としたことで知られるほか、一説にはその終焉の地ともいう。

境内は苔が美しい。

説明によると、秀吉公好みの手水鉢、秀吉が今川義元の親戚にあたる西尾家に対して送ったものだそうです。

後に西尾家からこちらの圓徳院に寄贈されたという。

午後の日差しが優しく差し込む。

松竹梅図襖  木下育應 作

赤松画伯の遺作となった襖絵「白龍」を引き継いで制作された、下間(げかん)の間の襖絵。
「松竹梅」をテーマにしている。

雪月花図襖  志村 正 作

赤松画伯の遺作となった襖絵「白龍」を引き継いで制作された、上間(じょうかん)の間の襖絵。
「雪月花」をテーマにしている。

宗旦狐

この狐、結構文化的な狐で、千宗旦に憧れ宗旦に化けてお点前をした。

その腕前の見事さに、偽物とわかっても弟子は狐を追わなかった。

そのエピソードの後、時は幕末。

宗旦狐は、雲水に化けて相国寺で座禅をしたり、托鉢をして、時にはお寺の財政難を立て直すべく力を尽くしたそうな。

ある時、碁に熱中するあまり尻尾を出してしまったけど、人々は知らん顔をしてつきあっていたそうです。

秀吉公が主君であり、ねね様が臣下の礼をとっています。

秀吉公があぐらをかき、ねね様は膝立ち(いつでも動ける姿勢)

秀吉公の背景は華美ですがねね様の背景には何も描かれていません

北庭 – 指定名称は「旧円徳院庭園」。

北書院の東に位置する。

賢庭が作庭した伏見城北政所化粧御殿前庭の池泉回遊式庭園を移築したものだが、その際に敷地面積が縮小したことからこれを枯池泉座視式に改めている。

その後さらに小堀遠州によって整えられたのが今日にまで伝わる姿。

庭東の築山から枯滝を枯池に落とした2島を配置してこれを3本の石橋で結ぶという、桃山時代の典型的な枯山水の書院庭園の趣をもったもので、国の名勝に指定されている。

全体に巨岩を多数配置した珍しい庭園としても知られる。

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東山散策


円山公園、紅葉には少し早く、まだまだ緑がきれいです。

音楽堂の脇を東へ上る、建礼門院が落飾した寺 長楽寺があります。

黄台山 長楽寺 建礼門院が落飾した寺
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡、建礼門院は一門と共に入水したが、敵方の源氏の手によって … 続きを読む →


京都祇園堂付近に祇園女御の屋敷があり、その後、祇園女御の菩提をとむらう塚がおかれていた。

祇園女御は、白河法皇の寵妃で、法皇は子をはらんだ女御を平忠盛に嫁がせ、その女御が産んだ子が平清盛であるとされる。

しかし、当時、祇園女御は40歳代だったともいわれるし、子供の産めない体だったともいわれる。
養母であったというあたりが正解か。

祇園女御を巡る話で『平家物語』の中にある、平忠盛が祇園女御の元へ通う白河法皇の命を受け、闇夜に浮かぶ得体の知れない化け物を灯籠に油を注ぐ人と見破り、その忠盛の行動に感服した白河法皇が褒美として、忠盛に祇園女御を与えたとする話は有名。(「忠盛灯籠」)

そしてさらに続けて、白河法皇が忠盛に対して、『うめらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば忠盛の子が子にして弓矢とる身にしたてよ』(『日本古典文學大系32 平家物語 上』高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦 校注 岩波書店)と話したとされていることから平清盛皇胤説が流布される。

平清盛が母祇園女御を祀る厳島神社
平清盛が母祇園女御のため厳島神社の神を祀ったのが始まり。 社前の石鳥居は笠木が唐 … 続きを読む →


「ねねの道」を歩いていて、路地の奥に目を引くこの円形、あまりにも目立っています。
ここは高台寺の塔頭「岡林院(こうりんいん)」の参道。

奥まで進むとそこは岡林院の表門。
非公開寺院ですので中に入ることはできません。

陽に透かしたモミジがきれいです。

石塀小路はやはり火点し頃にならないと風情が出ないように思う。

石塀小路の土地は、当初は圓徳院のの所有地でしたが、明治時代になって税金を納める必要が出てきたため、圓徳院庭園の一部を取り崩して、通り抜けの道を造りました。

現在のような姿に完成したのは、昭和になって京都から市電が廃止されるようになって、市電に使われていた石畳をここに敷いたことからのようです。

二年坂の名の由来には二つの説があって、三年坂に比べて小さな坂という事から来ているという説と大同2年に出来たからとする説がある。

二年坂の中ほど、大正時代の代表的な画家・詩人である竹久夢二が、1917年(大正6年)に愛情関係のもつれから東京から逃れて来て暮らしていた所。

恋人彦乃が訪れるまでの数ヶ月をここで過ごした。

京都市の花、サトザクラをデザインした道路照明関係ケーブルの埋設管蓋。

この界隈には電柱が有りませんでした。

高台寺は秀吉の菩提を弔う為に正室ねねが建立。
ねねは高台寺の塔頭(たっちゅう) 「圓徳院」で晩年を過ごしたそうです。

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竜馬葬送の道


京都市東山区円山町、枝垂れ桜で有名な桜の名所。

龍馬・慎太郎像は公園の東側にある。
昭和9年に建立されたが、第二次大戦中供出させられ、昭和37年に再建された。

沢山の観光の方が歩くニ年坂から、左に曲がると急に人のいない坂道に入ります。

この坂道は、霊明神社・正法寺へ向かう坂道で龍馬坂と呼ばれています。

霊明神社、正法寺に至る急な坂は、いつしか「幕末志士葬送」の道と名付けられている。
 
もともと正法寺の参道であったが、文化六年(1809)、地下の村上都愷(くにやす)が正法寺の境内に霊明社を創建した。

徳川幕府の宗教政策により原則として全ての国民が仏教徒とされていた時代に、神道による葬式を始めた。

これにより、神葬祭を進める長州毛利家との縁ができ、在京志士の葬送・祭祀の地となった。
維新後、霊明社の土地は没収され、創建間もない東山招魂社に譲られた。
 
石碑の背後は神葬墓地となっている。
ここはもと土佐高知藩神霊社があり、東側の現在マンションのある場所には、吉村寅太郎ら天誅組志士の墓があった。

のち霊山護国神社内に移されている。

高低差は32m。斜度10度の坂道、坂の上から見下ろす。

この坂道は慶応3年(1867年)11月18日、海援隊士や陸援隊士らによる坂本龍馬と中岡慎太郎の葬列が通った「幕末志士葬送の道」。

坂本龍馬と中岡慎太郎が、近江屋事件で亡くなったのは1867年の11月。

坂本龍馬31歳。
中岡慎太郎29歳。

志士達が夢見た、明治維新はその翌年の1868年10月でした。

慶応3年(1867年)11月15日 自身33歳の誕生日に京都河原町蛸薬師近江屋新助宅にて狂刃に倒れた。

一週間前に福井から帰った龍馬は風邪気味で近江屋に用意されていた隠れ家の蔵では、寒さがこたえると母屋二階で火鉢を抱え中岡慎太郎と語り合っていた。

腹がへったなぁ、好物の軍鶏鍋でも食うかと使い走りの峰吉に四条小橋の「鳥新」まで軍鶏を買いにやらせた。
そのわずかなスキに賊は押し入り下僕の藤吉も犠牲になった。

入り口からさらに階段を上がっていくと、そこには坂本龍馬と中岡慎太郎並び、そこの横に申し訳なさそうにそして藤吉のお墓が並んでいる。

墓地からは京都市街が一望、八坂の塔も見える。

現在は墓地へ入るのは京都霊山護国神社から。

京都霊山護国神社は明治元年に初の官祭招魂社として創建され、その当時は霊山官祭招魂社といいましたが昭和14年に現在の名に改称。

幕末の長州、土佐、筑前、肥後といった各藩の殉難者ら549柱を祀ります。
その中には著名な方々の名前も数多くあげる事が出来ます。
坂本竜馬・中岡慎太郎・桂小五郎(木戸孝充)と幾松夫妻・吉田稔麿らの池田屋事件殉難烈士、久坂玄瑞らの禁門の変殉難の長州藩の面々・・・。

幕末ミュージアム「霊山歴史館」

館内には幕末の志士ゆかりの品々がたくさん展示されています。
わかりやすい幕末年表もあるので、初心者でも大丈夫!

あの松下幸之助さんが、「明治維新の時代に生きた人々は、日本の近代化の基礎を築いた人々である。

そんな人々の墓が荒れていることは嘆かわしい」と創設したことでも有名です。

こちらは司馬遼太郎の「竜馬が行く」にも度々登場する現在の明保野亭。
坂本龍馬の定宿の一つだったところです。

当時はもう少し北東にあったらしいのですが、石碑とともに産寧坂の近くで今も営業しています。

明保野亭といえば、坂本龍馬好きの方や、司馬遼太郎先生の竜馬がゆくにも登場する、幕末には、坂本龍馬が常宿し、倒幕の密議を志士たちと談合していた場所でもあり、小説上では、土佐藩家老息女のお田鶴様と、坂本龍馬が密会していた場所として登場する料亭です。

現在でこそ明保野亭は、様々な店舗が軒を連ね、あまり目立ちませんが、当時は京都でも選りすぐりの高い建物だったので、坂本龍馬も2階の窓からよく京都を一望していたそうで、新選組をはじめとする、幕吏からの追跡を警戒するのに、最適の場所であったのでしょう。

店の前には龍馬の写真も飾られている。

月真院は高台寺の塔頭の1つで、臨済禅宗建仁寺派に属します。
本尊は千体地蔵菩薩。

でも、それだけじゃないんです!
この月真院は、慶応3(1867)年6月に新撰組から分離した、伊東甲子太郎ら15名が公明天皇陵を守る御陵衛士として屯所を構えた地。

だから、御陵衛士のことを、別名高台寺党とも呼ぶ。
衛士が寝泊まりしたとされる部屋も残っている上、方丈からは八坂の塔、秋には美しい紅葉が見られるそうですが、内部非公開なのが惜しい………

以前の龍馬葬送の道の記事、今回加筆、改訂した。

坂本龍馬 葬送の道を訪ねる
本日の目的は竜馬葬送の道を訪ねることにある。 現在では高山寺参道脇の道を上がり、 … 続きを読む →

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江戸時代の大阪へ

天神橋六丁目、角のビル、9階に上るとあら不思議、そこはなにわの町の中。

案内にある町の姿。

ぶらり歩けば江戸時代に迷い込む。

木戸門をくぐると大通りの両側に、風呂屋、本屋、建具屋、小間物屋、唐物屋、呉服屋、薬屋が並び、町会所の上には火の見櫓もあります。

春から夏までは天神祭のしつらいを再現した「夏祭りの飾り」、秋からは商いの店先の様子を再現した「商家の賑わい」をテーマとした展示となるほか、年中行事や季節ごとに変わる座敷のしつらいを楽しむことができる。

音と光によって朝・昼・晩の時間の変化を演出し、屋外のように1日の変化を体験できる。

来館者は町の中を自由に散策し、展示史料は原則として自由に手にとって触れることができる。

お風呂屋さんは、営業は朝から始まり夜まで入れるのですが、火事に対する配慮から、夕方には火を消すそうです。

盗難が多かった為にロッカーが必要で、その仕組みは、札に書いてある番号のロッカーに衣類を入れて、手で施錠します。

そして開ける時は、高座に札を渡して専用の道具を使って開けてもらうというものです。

浴室の洗い場が石敷き(タイル風)になっている点が、江戸との違いだそうです。

洗い場で体を洗い、ざくろ口をくぐって浴槽に入ります。

ざくろ口は、湯気を外に逃がさない様に工夫されたものですが、床を這う位しゃがまないとくぐれません。

浴槽はもちろん木製で、お湯の中で腰掛けられる様に板が出っ張っています。

洗い場には、引き札という木の札がたくさん掛かっており、お店の宣伝広告だったそうです。

ここは小間物屋さんかんざしなどが並んでいます。

江戸時代の天保期(1830年代)の大坂の町家と町並みを専門家による学術的考証のもとに、伝統的工法を用いて実物大で復元し、家具・調度を置いて当時の暮らしを再現しています。

呉服屋さんの店先。

路地には犬の親子、表情がリアルです。

後方の焼き杉板の塀や地面の状態もリアルに再現されています。

皆さんの衣装は貸衣装。

屋根を見ればねこがじゃれています。

居間には将棋盤まで置いてあります。

大通りから裏長屋へ回ると、狭い路地の両側に、町家が建り並び、中は布団が畳んでおいてあったり、昔の庶民の生活をかいま見ることもできます。

右奥の屋根の上には明り取りが見えています。

家の中から見れば、ひもで開閉ができるようになっている。

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利長とまつを祭る 尾山神社

神社の名称が尾山神社に改められ利家公が祀られたのは1873年(明治6年)のことです。

江戸時代に最大の外様大名であった前田家は幕府から謀反の疑いを掛けられないように、利家公を金沢城の近くに祀ることはせず、浅野川の向こう側、今のひがし茶屋街の先にある宇多須神社に祀っていました。

神門

3層目には、ギヤマンがはめ込まれ、夕刻のギヤマンが夕日に映える頃や、日没から午後10時までの明かりが点灯する頃は見事。

屋根には避雷針が設置されている[2]。これは、日本最古の避雷針とされ、現在も現役である。
オランダ人医師ホルストマンが建設中の神門を見て、北陸が雷が多く高い建物は雷の被害に遭う可能性があるとして助言したことが始まりとされる。

「利家公金鯰尾兜」

この兜は、御祭神前田利家公が戦国の昔二十三歳にして桶狭間の戦に臨まれたとき以来、幾度の合戦に着用されたもの。

利家公は文武に長け刀槍剣鉾を友として、初め織田信長公に仕え後に豊臣秀吉公と共にその覇業を成し遂げた。

この間利家公は戦に臨まれるときは必ずこの兜を身に付け、戦えば勝ち一戦ごとにその功績は高く評価されたそうです。

利家公を祀る神社に限らず、前田家では家名存続のために絶えず幕府に忠誠の意思を示しました。

その代表的なものが、利家亡き後、おまつの方(芳春院)が自ら人質となり江戸に渡ったことです。

おまつの方は江戸へと向かう際に、息子たちに「母は死んだと思いなさい」と言い残して旅立ちました。
後世の歴史家の間では、初代藩主の前田利家よりも、おまつの方を高く評価する声が目立ちます。

この像の利家も「槍の又左」にふさわしく長い槍を持ち、背中に母衣(ほろ)をつけています。

母衣「ほろ」について

流れ矢を防ぐために、鎧(よろい)の背にかけた布のことを言います。

その後時代の推移により風にふくらんだ形を示すために、竹串、鯨の骨類、ひげ等を骨組みに入れるようになり、これを母衣と呼びました。

戦国時代(西暦一五六〇年頃)に騎馬武者は、これを背に戦場を駆け巡り連絡の役をつとめました。このような騎馬武者を母衣衆と呼びました。

織田軍団の母衣衆は、佐々成政を筆頭とした十人の黒母衣衆と、前田利家を筆頭に九人の赤母衣衆とで合計十九人でした。

そして、戦闘となれば、諸隊のガイド的役割もあり、敵にとって目に付きやすく、大変危険でもありました。

神苑

尾山神社が建設される前に、この地にあった金沢城金谷御殿の庭に手を加えて今に至る。

別名は楽器の庭。琴をモチーフにした琴橋や琵琶をイメージした琵琶島など、おもに日本の雅楽で使われる楽器や楽器を演奏するための衣装などをモチーフにした橋や島から成り立つ。 

東神門

もともとは、金沢城二の丸御殿で利用されていた。
二の丸御殿はたびたび火事にあっているが、その際この門は一度も燃えなかった。

その理由としては、立派な龍の彫刻が施されており、この龍が水を吹いて火災を免れたという伝説がある。(作者名は不明)

その後、金沢城は廃城となり金沢城跡が陸軍の拠点となると、訓練などに支障が出るとして卯辰山の寺院に移動された。(なお、この後にも陸軍が二の丸御殿で火事を起こしている) 卯辰山の寺院がなくなると、尾山神社に移され、現在は裏門として利用されている。

社殿の隣脇になんと、カエルを発見、しかも金のカエルです。

神苑にひかれた導水管。
3代藩主利常の頃犀川上流から金沢城に導水した辰已用水が完成しその一部を分岐し金谷御殿(今の尾山神社)にも通水した。昭和の道路工事で当時の水道管が発見された。

前回の訪問記

前田家十七代の藩主と正室をお祀りする尾山神社
社伝によると、 前田利家公の沒後、その霊を神として奉祀しようとしたが、当時はばか … 続きを読む →

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