十輪院


立春は過ぎたがまだまだ寒い日が続く、そんな寒い日、十輪院を訪問。

境内は静かです。

池ではつがいの河童がお愛嬌。

寺伝によると、元正天皇(715-724)の勅願寺で、元興寺の一子院といわれ、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)の開基とも伝えられている。

「十輪院」の名称の文献上の初見は、鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』(弘安6年・1283年成立)とされている。

現存する本堂、石仏龕(せきぶつがん)、東京へ移築された宝蔵などはいずれも正確な年代は不明ながら鎌倉時代のものとされており、鎌倉時代には地蔵信仰の寺院として栄えていたと思われる。

こちらには河島英五のお墓があるので有名。

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冬の貴船

雪の合間を縫ってきぶねをほうもん、寒さのわりに参拝者も多く、凛とした空気の中散策。

鞍馬寺西門。
爽やかな冷気の中、日差しが温かく感じられる。

鞍馬山 義経修行の道を歩
京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する。 鞍馬は牛若 … 続きを読む →


貴船神社山門、ご神木の桂、まるで御神氣が龍の如く大地から勢いよく立ち昇っている姿に似て、貴船神社の御神徳を象徴。

貴船神社は今や神社では必須アイテムの“絵馬”発祥の地でもあり、本宮では白と黒の2頭の馬の像が私たちを出迎えてくれます。

「水を司る神」を祀る「貴船神社」や「丹生川上神社」には、日照りや長雨が続くと、朝廷より勅使が派遣されて、降雨を祈願するときには「黒馬」が、止雨を祈願するときには「白馬」が、その都度、奉納される習わしになっていた。

和泉式部もたどったといわれる恋の道を奥宮へ向かう。

緑の風の中 貴船川沿いを華やかに染める 貴船祭
貴船神社の氏子は、わずか20世帯。 市街地のお祭りのように、決して賑やかとは言え … 続きを読む →


ちょうどお昼時、店の前では熱心に呼び込みが。

相生の大杉

樹齢1,000年の名木。
同じ根から生えた2本の杉の大木がぴったりと寄り添っている。
「相生」は「相老」に通じ、その寄り添う姿が仲睦まじい老夫婦の姿にたとえられ、夫婦円満の象徴として親しまれている。

奥宮の入り口にさしかかる、ここは「思ひ川」

奥宮参道の入り口に架かる橋を「思ひ川橋」といい、その下の流れを「思ひ川」という。
和泉式部の恋の道をたどり貴船へ
恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。 また同僚女房であった紫式部には … 続きを読む →

また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。

女人往生の念仏道場 誓願寺
女人往生のさきがけとして、都の才女・清少納言が誓願寺において発心し、髪を落して尼 … 続きを読む →

恋多き情熱の歌人・和泉式部が女人往生を遂げた誠心院
恋多き女も娘に先立たれ、この世のはかなさを思い、仏門に入ります。 その娘というの … 続きを読む →


かつては御物忌川(おものいみがわ)と呼ばれ、参詣する際にこの川で禊して心身を清めたと思われる。

和泉式部も参詣して恋を祈ったとことから、「おものいみがわ」が変じ、「おもひがわ」になったのではないかといわれている。

大木の中、和泉式部の恋の道を奥宮へ向かう。

奥宮の境内。

伝説では、第18代の反正天皇の御代(1600年程前)の創建といわれています。

今は奥宮ですが、元々ここが本宮だった。

この奥宮が鎮座している場所は、貴船の谷の一番低い所にあるためしばしば水の害に遭い、天喜3年(1055年)に貴船神社の本宮を現在の場所に遷したという。

左が神門、正面がご神木「連理の杉」
 
連理とは、別々の木が融合している状態のことで男女・夫婦仲の良いことに例えられることも。
この木は、杉と楓が和合した珍しい木。

拝殿、その奥が本殿、右奥が権地。

「権地」とは、社殿の新築・改築・遷座などで社殿の工事を行う際に、仮の社殿を建てる場所のことをいう。

文久年間(1861~63年)、本殿工事の際に大工が誤ってノミを本殿下の竜穴に落としたところ、にわかに天候が変わって突風が起こり、ノミを空中へ吹き上げたなどという話も伝わっています。
 
またその時、怒った竜が現れ、その大工は落命したという話もあります。
 
そんな伝説も遺されているほど、「決して侵したり、穢したりしてはいけない神聖な場所」だと考えられていたのでしょう。

船形石

鎮座地としての伝説では、浪花の津(大阪湾)に、黄色い船に乗った女の神様が現れ、「われは玉依姫(たまよりひめ)なり、この船の留まるところに社殿を建てて、そこの神様を大事にお祀りすれば国土を潤し、庶民に福運を与えん」とのお告げがあり、その船は淀川、鴨川をさかのぼって水源の地・奥宮辺りの川のそばから水の湧き出るところに船を留め、そこに、御社殿を建てたと言われています。

この黄船を隠すため小石を積み上げたとされるのが船形石。

小石は、旅行や航海安全のご利益として持ち帰る人もいるそうですが皆がそうすると大変なことになるので、やめたほうがいいでしょう。

白鳳6年(1300年程前)には、本殿を造り替えたとの社伝が残っておりキフネの地名は、玉依姫の乗ってこられた黄船から起こったともいわれています。

また、この地は丑の刻参りの伝説でも知られる。

宇治の橋姫伝説
さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫 「古今和歌集」 「む … 続きを読む →

能楽「鉄輪」とは夫に見捨てられた女が、貴船神社に丑の刻参りをして恨みを晴らそうとするも、安倍晴明に祈り伏せられるという物語である。

丑の刻参りと鉄輪の井
堺町筋を北に上がり、万寿寺通りを超え、松原通に出る手前の左側に不思議な路地ある。 … 続きを読む →

その形相はさながら夜叉の如く、詣でる時の服装はといえば、顔には朱をさし、体には丹を塗り、頭には鉄輪をかぶって、そこに三本のローソクを灯し、口に松明(たいまつ)をくわえて、洛中から遥か貴船までの道をひた走った。

悪縁切り 菊野大明神
河原町二条交差点の少し北東にある法雲寺は、ガランとした境内の地味なお寺という印象… 続きを読む →

「菊野大明神」の覆屋
縁切り石となった由縁は、「宇治の橋姫」が宇治から貴船神社へと通う毎夜、この石に腰を掛けて休んだからだとか。

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雪の庭で有名 妙満寺


顕本法華宗の総本山。
康応元年(1389)日什上人により、六条坊門室町(現在の、烏丸五条あたり)に創建。

度々の兵火にあい市内各地を移転。
昭和43年に寺町二条から岩倉の地に移転。

近年、門前に3000株のツツジが植えられて、花の寺として親しまれている。

境内には仏舎利を納めたインドブッダガヤ大塔を模した仏舎利塔がそびえる。
展示室には、娘道成寺で有名な安珍清姫ゆかりの鐘が安置されている。

本坊の雪の庭は、松永貞徳が造園した雪月花三名園の一つ。

本堂から東の景観、比叡山を正面に望む。

本堂。

方丈。

寺は俳諧発祥の地といわれる。

俳諧の祖・松永貞徳(1571-1653)により、初の俳諧興行「雪の会」が催された。
これにより、連歌から独立した文芸が確立された。
 
現在も句会が催され、春の「花の会」、秋の「月の会」、冬の「雪の会」がある。

本坊の庭は、枯山水式庭園であり、豪快な石組とともに東にある比叡山を借景にしている。

夏の日の出は比叡山頂から上る。白砂、石組、刈込、植栽などで構成されている。

かつて塔頭・成就院の庭園であり復元された。
「雪の庭」といわれ、「三成就院」の一つとされた。

清水寺・成就院の「月の庭」、北野か祇園にあった成就院の「花の庭」とともに、「雪月花の洛中三名園」といわれた。

雪の庭 – 俳諧の祖と仰がれる松永貞徳の造営。

安珍・清姫の鐘 – 和歌山県道成寺にあったとされる梵鐘で、安珍・清姫伝説ゆかりの梵鐘とされ、豊臣秀吉の紀州征伐の際に家臣の仙石秀久が京都に持ち帰ろうとしたが、鐘が重かったために途中で破却し近くの住民の手によって妙満寺に奉納。

安珍・清姫伝説の鐘

1359年(正平14)3月11日、道成寺では安珍、清姫の伝説以来、永く失われていた鐘を再鋳し、鐘供養を盛大に営みました。

その席に一人の白拍子が現われ、呪力で鐘を落下させると、蛇身に変わり日高川へと姿を消してしまいます。

その後、近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れた寺は鐘を竹林に埋めました。

後に、その話を聞いた「秀吉根来攻め」の大将・仙石権兵衛が掘り起こし、京都に運び込み、妙満寺に納めました。
鐘は供養で恐念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となりました。道成寺を演じる芸能人はこの鐘に芸道精進を祈ります。

仏舎利塔は、1973年に建立された。

紀元前200年頃、釈迦正道の聖地にアソカ王が建立したインドブッタガヤ大塔型を日本で初めて建立したという。
 
1階に釈迦牟尼仏坐像を安置する。
最上階には仏舎利、日什の分骨を奉安する。

発明家・実業家・豊田佐吉(1867-1930)以来の豊田家の遺骨が安置されている。

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近江八景「堅田の落雁」 浮御堂


近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。

平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。

現在の建物は昭和12年の再建によるもので、昭和57年にも修理が行われ、昔の情緒をそのまま残している。
境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。

伝によれば、源信(恵心僧都)(942年 – 1017年)が比叡山横川から琵琶湖をながめると、毎夜、その光明の赫々(かくかく)たるを怪しみ、網でこれを掬(すく)いとらせると、1寸8分の黄金の阿弥陀仏像であった。

よって魚類殺生供養のために阿弥陀仏像1体を造り、その体内にこれをおさめ、1000体の阿弥陀仏像をも奉安し、浮御堂を創建したという。

荒廃したときもあったが、桜町天皇(1720年 – 1750年)(在位1735年 – 1747年)は禁中の能舞台をたまわり、これを再興した。
松尾芭蕉(1644年 – 1694年)も訪れた。

先代の堂は昭和9年(1934年)に室戸台風によって倒壊、現在の堂は昭和12年(1937年)に再建されたものである。
室戸台風の直後に竜巻も近くで発生している。

対岸の山は標高432mの三上山、近江富士とも呼ばれている。

湖畔にたたずむおんなひとり・・・・・・

ここは「おとせの浜」。

おとせの石の伝説

源平争乱の時代、堅田の出身で京都の源氏の屋敷に奉公していた、おとせと言う女性がいた。

おとせは、平家滅亡の際に源氏の白旗を守って大津に逃れ、平家の追手をさけて湖に飛び込むが、平家の侍に白旗を握った手を切り落とされて死んだ。

片腕はこの地に流れ着き、浜の石を血で染めた。

そして、片腕はおとせの子が指を開かせるまで、忠義を貫いて白旗を離さなかったという。

以来、この浜は、おとせの浜と呼ばれるようになった。

その子は母の遺志を継いで白旗を守護し、のち木曽義仲の武将手塚太郎光盛になったという。

この話は、寛延二年(1749)浄瑠璃「源平布引滝」に役名を小万と替えて取り入られている。
(大津市史より)

近江八景は比良の暮雪、堅田の落雁、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、粟津の晴嵐、瀬田の夕照、石山の秋月、矢橋の帰帆、室町時代末期に選定された。

陽に輝くヨシがきれいです。

おとせの浜はかくれ桜の名所。

近くには「勾当内侍」の伝説も残る、桜のころにもう一度ゆっくり訪れたいものだ。

南北朝時代の武将として有名な新田義貞は、太平記によると、足利尊氏と戦って破れ、越前へ落ちのびる途中に、妻の匂当内侍を堅田に残したまま越前の藤島で戦死し、この知らせを聞いた内侍は京都嵯峨に草庵を構えて義貞の菩提を弔いながら余生を送ったとされています。

しかし、ここ、堅田に残る伝承によれば、匂当内侍は悲しみのあまり近くの琵琶湖琴ケ浜で入水自殺し、のちに村人たちによって内侍の霊を慰めるため石積みの塚が築かれ、野辺送りをした人々が野神神事衆をつくって内侍の霊を慰めてきたそうです。

その後、室町時代になって同地に野神神社が建立され、野神神事衆によって野神祭りが続けられています。

現在も毎年10月には入水伝説にちなむ野神祭りが行われるなど、悲しい物語が現実感を伴って感じられるところです。

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大通寺 長浜御坊

大通寺は真宗大谷派の寺院。

同派の別院。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。
本尊は阿弥陀如来。山号は「無礙智山」。
別名は「長浜御坊」。「長浜別院」、「大通寺」と略称される。

湖北の中心道場であった総坊を前身とし、慶長7年(1602年)に本願寺第十二代教如を開基として長浜城跡に創建。慶安4年(1652年)に現在地に移転する。

伏見城の遺構とされる本堂や大広間などの建築物(国の重要文化財)や、含山軒庭園と蘭亭庭園という2つの庭園(国の名勝)のほか、円山応挙や狩野山楽・狩野山雪らの障壁画など貴重な文化財を多数保有する寺院として知られる。

本願寺12世の教如上人が、湖北門徒に仏法を説き広めるための道場を、旧長浜城内に開いたのが始まりで、そのころは、長浜御堂と呼ばれていました。

安土桃山時代末期、京都に東本願寺が建立され、御堂を大通寺とし、その4年後に現在地に移築。

表参道から山門までの雰囲気が、「男はつらいよ」に出てくる柴又の帝釈天に似ていると感じる。

そうなんです!この大通寺の山門の下でも「男はつらいよ」のロケがされました。

急ぎ去れ  彼も親あり  花狐

「近江むかし話」によると、昔、大通寺(長浜御坊さん)に「お花はん」というきつねが住んでいたとか。

大通寺は、江戸時代には 琵琵湖岸の長浜城跡の中にあり 賑やかな街の中に移そうという賛成派と、反対派に意見がわかれ、本山(東本願寺)で決めてもらうことになったそうです。

お花はんは どうやら賑やかな街中に行きたかったらしく、お茶屋の娘に化けて 反対派の人たちの足止めをしたとか・・・で、今は この街中にあります。

お花ぎつねのオブジェ

明治のはじめ頃、大通寺に単身赴任してきたお坊さんがいた。

洗濯をしたある日、下帯だけ後で洗おうと思い縁の下に置いたままにしていたのだが、あくる朝、この下帯が本堂前に持ち出されていて、参詣に来た人々の目に入り大笑いされてしまった。

周囲の人に、赴任してきた時にお土産を「お花はん」に持ってこなかったからだと聞かされたお坊さんは、油揚げを買って大広間の天井へお供えした。

すると、それからピタリといたずらが止んだそうである。
大通寺では、今でも大広間に梯子がかけられていて、油揚げをお供えする人が後を絶えないという。

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朽木に信長遁走の跡を訪ねる


興聖寺はもともと現在の位置とは安曇川を挟んで反対側の上柏村指月谷にあったが、江戸時代に大火に遭い、朽木氏ゆかりの秀隣寺のあった現在地に移ってきたという。

秀隣寺は、朽木宣綱が、慶長11年(1606)に正室の菩提を弔うために、かつての岩神館のあった地に建立した寺院で、後に現在の朽木野尻へ移っている。 
 
安曇川が形成した段丘の縁にある旧秀隣寺庭園。

安曇川の清流とその背後に横たわる蛇谷ヶ峰を借景としている。
足利庭園ともよばれるこの庭園は戦国時代に、戦火を逃れてきた12代将軍足利義晴を慰めるために贈られたものだと伝わる。

享禄元年(1528年)の秋、足利義晴は京都の兵乱を避け、朽木稙綱を頼ってこの地に約3年間滞在する。
その際に、佐々木一族京極高秀や浅井亮政、朝倉孝景等の協力で管領細川高国が京都銀閣寺の庭園を元に作庭した。

なお、細川藤孝も2人の将軍に供奉して朽木に滞在しており、この時の縁で朽木から程近い熊川の沼田氏の娘を娶っています。
後に藤孝の嫡男・忠興は、茶の湯の師である千利休をこの庭園に案内したとも伝わっているそうです。

本堂に入ると、内陣の柱と梁の部分は、龍図の金欄が飾られていて、豪華荘厳な感じ。

須弥壇の上に、本尊釈迦如来坐像(国・重要文化財)が安置されている。

平安後期、桧の寄木造りで作者は不明だが、定朝様式の仏像。

「後一条天皇の皇子が幼少のとき亡くなられ、天皇の叔父頼道がその供養に三仏を彫らせた内の一体」だとか。

現存する寺域は城郭を思わせる石垣で囲まれている。

北東に残る鬼門封じの石垣。

鬼門思想は中国から伝来した考え方であることに間違いはないが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想になっている。

なぜなら風水に鬼門思想はなく、日本独自の陰陽道の中で出来上がった日本独特の思想であると考えるべきである。

これは、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位が凹ませてあることから、御所ですら鬼門を避けている、除けていると考えられ、それから鬼門を除ける手法とされてきたことにある。

興聖寺脇の渓流沿いの小径、朽木氏の闘争のための経路という。
信長もこの経路で脱出したようだ。

元亀元年(1570)4月、浅井長政の裏切りに合い、絶体絶命の危機に見舞われた織田信長。
信長は京に逃げ帰る道として朽木街道を選択します。

この時、浅井長政の勢力下にあったはずの朽木元綱は、長政を裏切って信長に味方し、信長が朽木谷を通過することを許します。

この時、もし元綱が長政に義理立てしていたら、信長はこの段階で歴史の舞台から姿を消していたでしょう。

この間の様子を『信長公記』は
「4月晦日、朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走を申し、京都に至って御人数打ち納められ・・」
と、簡潔に記しています。

ある資料では、元綱は実際 “信長を殺す” 気で待ち構えていたとの説もある。
 
彼らの武装した姿を遠目で見た信長が武士としてのカンで殺気を感じ、これはまずいとまず松永久秀に彼の真意を確かめに行かせたのは正解だっただろう。
 
元綱の真意が確認されるまでの間、信長は三ツ石の岩窟に身をひそめて待機していたと云う伝承がある。
通称「信長の隠れ岩」と呼ばれている。

実際、久秀の長い説得でやっと元綱は平服に着替えて信長に手を貸すことになった。
 
元綱は、信長の領内通過を認めただけでなく、手厚く接待した。
その晩は朽木城に宿泊させ、翌日は京都までの警護役まで務めた。 

その結果信長は葛川(大津市)・大原(京都市)を経て、30日には清水寺まで無事に帰還することができたという。

では、何故元綱は長政を裏切ったのでしょうか?それは、朽木家は小なりと雖も佐々木源氏に繋がる血筋と、代々室町将軍を軍事的に支える奉公衆をつとめる抜群の「格」が、そうさせたとのだろうか。

しかも、朽木谷という要害にあり、将軍を支える軍事力を持っています。
いざとなれば、長政と一戦交えることも覚悟したのではないでしょうか。

元綱は考えました。
「信長は室町将軍の名代で越前に侵攻した。
奉公衆として信長に味方する道理が朽木にはある。」と。

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南禅寺発祥の地南禅院

南禅院は南禅寺法堂(はっとう)の南方に位置する。
この地にはかつて亀山上皇の離宮・禅林寺殿があった。

離宮は上の御所(上の宮)と下の御所(下の宮)に分かれていたが、このうちの上の御所に弘安10年(1287年)建立された持仏堂を南禅院と号した。

明徳4年(1393年)以降、たびたび火災に遭い、応仁の乱以後は荒廃していたが、元禄16年(1703年)に桂昌院(徳川5代将軍・徳川綱吉の母)によって再建された。

方丈

元禄16年(1703年)に桂昌院によって再建され、内部の襖絵は狩野派によるものである

本堂から渡り廊下で繋がる茶室「龍淵窟」。

裏千家出入りの岡田永斎の作。

舞良戸の縦桟は左から三、一、二。障子の腰も三、一、二。

庭園は当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、周囲を深い樹林で包まれた幽玄閑寂の趣は格別である。

作庭は亀山法皇ともいわれ、早くから、京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されています。

向かって左の奥に滝口の石組みが組まれ、上池は曹源池と呼ばれ竜の形に作られ中央に蓬莱島があり、下池には心字島が設けられています。

記録によれば築庭当初には、吉野の桜、難波の葦、竜田の楓等が移植され、井手の蛙も放たれたと記されています。
心静かに鑑賞する庭園です。

亀山天皇は、正応2年(1289)離宮で出家して法皇となられ、離宮を寄進して禅寺とし大明国師を開山とされました。
ここは離宮の遺跡であり、また南禅寺発祥の地です。

一山国師霊塔 南禅寺3世・一山一寧(いっさんいちねい・1247~1317)元の渡来僧。

一山一寧は元から「朝貢しませんか?」という国書を持って日本へやって来たのですが、数年前に日本は元から2度の襲撃(元寇)を受けていて、元からの使者を警戒していた。

なので、一山一寧は伊豆修禅寺で幽閉される事となりますけど、そこでの修行が認められ名僧としてお寺を渡り歩き、後に上洛し南禅寺の住職となりました。

池に方丈の姿が映る。

こちらの庭園は「京都三名勝史跡庭園」のひとつにもなっていて、南禅院の庭園以外には、天龍寺と苔寺の庭園がそれにあたる。

デザインは亀山天皇、自らおこなっており作庭は夢窓疎石(むそうそせき)が行ったと言われています。

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水路閣


琵琶湖疏水の分線(蹴上以北)にある水路橋で1888年(明治21)完成。南禅寺境内を通過するため、周辺の景観に配慮して田辺朔郎が設計、デザインした。

全長93.2メートル(幅4メートル、高9メートル)レンガ、花崗岩造り、アーチ型橋脚の風格ある構造物で、静かな東山の風景にとけこんでいる。市指定史跡。

水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。

落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。
水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。

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南禅寺

開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。

日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。

南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって慶長10年(1605年)以心崇伝が入寺してから。

崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。

また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。これは日本全国の臨済宗の寺院を統括する役職である。

天井には今尾景年画伯畢生の大作と云われる幡龍が描かれている。

奥に少し気味の悪そうな像が見える。

奥にはには寒山拾得像という像がある。

奇行が多く、その生き方が神秘的であることから数々の伝説があり、絵画の題材にも好まれ名品が残されている。
明るく子供のようでありながら、風狂に徹した二人に対する人々の親しみと畏れがあらわされたユーモラスで少し不気味な表情で描かれることが多い。

経巻を開いているのが寒山で指をさしているのが拾得

森鴎外、芥川龍之介、井伏鱒二が「寒山拾得」について書いている。

南禅寺方丈庭園は小堀遠州作と伝えられ、江戸時代初期の代表的枯山水庭園。

巨大な石を横に寝かして配置する手法は、須弥山・蓬莱山などの仏教的世界観などを表現した庭園から脱した構成であり、俗に「虎の子渡し」の庭と呼ばれています。昭和26年に国指定の名勝となりました

竜の杉戸絵。

国宝である小方丈の西側に作られた庭園で、別名「如心庭(にょしんてい)」といい、その名の如く、心字形に庭石を配置した枯山水の石庭となっている。

庭石の配置については、『心を表現せよ』と当時の南禅寺管長であられた柴山全慶(しばやまぜんけい)老師が自ら熱心に指導されたとのこと。

小方丈からさらに奥に進むと「六道庭」に行き当たる。

「如心庭(にょしんてい)」が解脱した心の庭であるのに対し、この「六道庭」は、六道輪廻(りんね)の戒めの庭になります。

六道輪廻とは、天界、人間界、修羅の世界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観をいいます。

一面の杉苔の中に配石された景石を眺めていると、煩悩に迷い、涅槃(ねはん)の境地に達することなく六道を輪廻する我々凡夫(ぼんぶ)のはかなさを想います。

京都南禅寺の大硯。岐阜県産の大理石「紅縞」でできたとある。

南禅寺垣

竹と萩という違う素材を組み合わせた竹垣。

竹のもつ力強さ、萩のもつ柔らかなやさしさがうまく調和し見るものを引きつけます。

沢山の庭を巡ったが最後が還源庭。

こちらで抹茶をいただける、陽が射しこみのどかな風情。

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「天下竜門」南禅寺三門

南禅寺の三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つに数えられます。

三大門の残り2つの門は、知恩院と久遠寺(山梨県)。

五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。

藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したもの。

風雨にさらされた柱が古さを語る。

歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもん ごさんのきり)の二幕目返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな……」という名科白を廻す「南禅寺山門」がこれ。

ただし実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。

山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅僕を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされている。

しかし、楼上は撮影禁止につき画像でお見せできません。

三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。

山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです。

こちらは、楼上の東側から見下ろした法堂へと続く眺望。
さらに目線を下から上に向けていくと、南禅寺境内はもちろん京都市内を一望でき、四季折々の素敵な景色に巡りあうことができます。

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