旧逢坂山隧道


旧逢坂山トンネルは、明治13年6月28日に完成した、日本人技術者だけで始めて造ったトンネルである。
全長664.8m、東海道線大津~京都間の旧線大津(現在の膳所)~大谷間にあって、大正10年7月31日まで使用されていた。

担当技師の國澤能長は、明治4年に見習技師となり、外国人について大阪~神戸間の線路建設に従事。明治11年、京都~大津間の工事で主として逢坂山トンネルを担当した。鉄道記念物に指定されている。

このトンネルは開業から130年以上経過しており、大変古いトンネルである。

確かに廃トンネルには違いはないのだが、路線の廃止後も活躍してきた。
廃止直後は生活通路として使用されてきた。

また、戦時中は住居を失った人が一時的に住みついたりもした。
そして現在トンネル内は京都大学による地震測定の研究が行われているようである。

さらに鉄道記念物として文化財にも指定されており、現在もなお生き続けるトンネルなのである。

扁額に刻まれた碑文は三條実美の揮毫による「楽成頼功」。
「落成」ではなく「楽成」となっているのは落盤に通じる「落」の文字を避けたからだと言われている。

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3箇所の蝉丸神社と蝉丸説話


蝉丸神社下社  滋賀県大津市逢坂1丁目15-5
 祭神---豊玉姫命(或いは、道反大神-チガヘシ)
 合祀---蝉丸

かなり老朽化が進んでいる。

以前の訪問記
琵琶の名手蝉丸
四の宮をすぎると、間もなく逢坂山へかかり、大谷の集落から、滋賀県に入る「関の清水 … 続きを読む →


逢坂の関の清水に影みえて今やひくらん望月の駒 紀貫之

「今やひくらん望月の駒、云々」は、八月十五日夜の日に、ここで信州の牧場から来た馬を、朝廷に引渡す行事があり、
満月にちなんで「望月の駒」と呼ばれた。・・・・・このことを詠んだ歌は多いが、中でも有名なのは紀貫之の作である。

『近江名所図会』という、江戸時代に書かれたガイドブックがある。
「蝉丸の社内にあれども、長明[無名抄]に、その時すでに水かれたるよし見えたれば」とある。
江戸時代以前に、すでに水は枯れていたらしい。

白洲正子の説
四の宮をすぎると、間もなく逢坂山へかかり、大谷の集落から、滋賀県に入る「関の清水」は、蝉丸神社(下社)の中にあるが、これは後に作られたもので、本物は清水町の人家の中にあったという。

『近江山河抄』より

蝉丸神社上社  滋賀県大津市逢坂1丁目
 祭神---猿田彦命
 合祀---蝉丸(逆髪とする説もある)

関蝉丸神社上社は、急斜面にある。。

何故、蝉丸神社が3カ所も。

東海道が通る逢坂峠の関の鎮守・道祖神として創建されたと考えられている。

上社と下社に分かれ、祭神は、上社が猿田彦命に琵琶の名手の蝉丸霊を合祀し、下社は豊玉姫命に蝉丸霊を合祀する。

社伝によれば、弘仁13年(822年)に小野岑守が旅人を守る神である猿田彦命と豊玉姫命を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのに始まるという。

貞観17年(876年)に従五位下を授かった近江国「坂神」がこれに相当する国史見在社と見られている。

平安時代中期の琵琶法師で歌人として知られた蝉丸が逢坂山に住んでいたことから、その死去後に彼も上社と下社に祀られるようになった。

天禄2年(971年)には円融天皇から下された綸旨により、以後歌舞音曲の神としても信仰されるようになった。

蝉丸神社は後から造られたため「分社」となっています。

目の前には、名神高速道路の高架橋が、国道一号線を横断するように架かっている。

近世に道が掘り下げられた事などから、関のあった場所は現在では定かでない。

しかし、逢坂2丁目の長安寺付近にあった関寺と逢坂関を関連付ける記述が更級日記や石山寺縁起に見られる事などから同寺の付近にあったと見られる。

なお、これとは別の滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇には「逢坂山関址」という碑が建てられている。

逢坂は、「合坂」(『日本書紀』)、「相坂」(『万葉集』)、「会坂」とも書かれた。
 
本来の「逢坂」の意味は、「あふさか」であり、「人が坂に出合う」の意という。
また、「二つの坂が出合う」場所として峠も意味した。

古墳時代-弥生時代はこの「人が坂に出会う」だった。

200年頃、14代・仲哀天皇没後、竹内宿禰は、忍熊王(おしくまおう)らの反乱を逢坂で鎮圧した。
この時、両軍勢が出会った坂が逢坂だったという。

その後、平安時代以降は、「人と人が出合う」意味に変わっていく。

この急な階段を上がったところが 蝉丸神社分社(蝉丸神社) 大津市大谷町
 祭神---蝉丸
 合祀---猿田彦命・豊玉姫命

ここはウナギのかねよで有名。
優雅な庭園を眺めながら堪能 日本一のうなぎ 「かねよ」
琵琶湖疏水の散策に出かけ、京都と滋賀の県境・逢坂山に店を構える明治5年創業の老舗 … 続きを読む →

蝉丸説話

小倉百人一首の中でも有名な蝉丸(せみまる)は、平安前期の歌人。
また、盲目でありながら、大変な琵琶の名人であったともいわれている。

しかしそれ以外となると、色々な逸話は残されているものの、その正確な人物像は定かではありません。
なぜなら蝉丸は、その本名を始め、血筋や生没年さえも不詳とされているからです。

諸説としては、第五九代天皇の宇多天皇の皇子である敦実親王に仕えた蔵人見習いであったとか、第六十代天皇の醍醐天皇の第四皇子であったなどというものもあります。
しかし、そのどれもに確実性はなく、推察の域を出ないそうです。

特に、「今昔物語集」の中に収録された蝉丸と源博雅に関する話は有名。
逢坂の関に庵を構えていた蝉丸を、当時、管弦の名人と評判であった源博雅が訪ね、三年がかりにしてやっと、琵琶による秘曲を蝉丸に伝授されたという話です。

また、逢坂の関に庵を構えていたという蝉丸は、逢坂の関の守護明神として祀られており、蝉丸自身が琵琶の名手であったことから、芸能や歌舞伎の祖神としても崇められています。

能楽の『蝉丸』では次のような話となる。

蝉丸は醍醐天皇の第四皇子であったが、生まれつきの盲であったため、逢坂の関に粗末な庵を与えられて捨てられる。

前世の報いのため、来世の幸せのために、従容と運命を受け入れる蝉丸。

そこへ一人の狂女がやってくる。
生まれつき髪の毛が逆立って櫛が通らない異形故に遠ざけられ狂乱した、蝉丸の姉宮である逆髪宮であった。

逆髪は琵琶の音色に惹かれて庵を訪ねると、そこには弟宮の蝉丸があった。
薄幸の姉弟はそこで互いの不運を嘆き、慰め合う。

しかし時が来て、逆髪宮は別れを告げて、いずこともなく去っていってしまう。

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関寺の牛塔


長安寺の前の名称は関寺。

関寺は、創建年代は不明であるが、逢坂の関の近くにあった大寺院である。
平安時代日本三大仏の一つ関寺大仏は特に有名である。

鎌倉時代時宗宗祖一遍上人が遊行し「おどり念仏」を奉納。
慶長の兵火に羅災の後、寺の名称を長安寺と改めた。

昔、長安寺のある一帯は「関寺」と呼ばれ、大寺院があった。

平安時代に復興工事が行なわれた際、資材の運搬に一頭の牛が見事な働きをした。
その牛は仏の化身と噂され、時の権力者である藤原道長まで拝みに来たという。

しかし、工事終了と共に牛は死に、霊牛の供養塔として作られたのが牛塔だという。

「これと匹敵するのは、逢坂山を越えた所にある、関寺の牛塔であろう。

石塔寺との間には、約三百年のへだたりがある。
ここはもはや大陸の残り香はなく、完全に日本のものに化している。

人工から再び自然に近づいたといえようか。
はっきりした形は失ったかわり、漠然とした大きさと、暖かみにあふれ、笠をのせたような印象をうける。

牛塔とか牛塚と呼ばれるのは、横川の恵心僧都が、関寺の再興をはり、工事のために牛を使役していた。

その牛が、迦葉菩薩の化身であるという噂が立ち、前関白道長や、頼通が、拝みに来るという騒ぎだったが、噂にたがわずその牛は、工事の終了とともに死んでしまった。

その供養のために建てたのが、この宝塔であるというが、俗に和泉式部とか、小野小町の塔とも呼ばれている。

「年々に牛に心をかけながらこそ越えね逢坂の関」と、式部が詠んだからで、小町の方は、謡曲の「関町小町」から出た伝説に違いない。

が、牛や美女では不似合いで、よほど名のある高貴な人か、もしかすると、恵心その人の供養塔だったかも知れない。
いずれにしても、こんな美しい石塔が、二つながら近江の地にあることは、良材に富んでいたのはもちろんだが、その裏にある石の信仰と伝統のたまものといえよう。」

白洲 正子のエッセイ 『かくれ里』より


境内には、元亀二年の織田信長の比叡山焼き討ちなどにより、比叡山山麓の坂本付近に埋もれていたものを、昭和三十五年に百体、境内に移し祀った「埋もれ百体地蔵」がある。

埋もれ百体地蔵の奥には、小野小町の供養塔がある。
謡曲の「関寺小町」が晩年の小野小町を歌っている縁で、置かれたのだろう。

小野小町といえば、平安時代の歌人で絶世の美女とされる。
彼女は、晩年を山科(京都市)の随心院のあたりで暮らしたといわれる。

大津から逢坂山を越えれば、山科である。

あらすじを少し紹介すると、僧侶が弟子たちを連れて、近江に住む和歌の上手いおばあさんに歌を教わりに行きます。

おばあさんと話をしているうちに、僧侶はこの人が、実は小野小町なのでは?と気づくという話です。
関寺小町は能の中でも最も難しい曲目だそうです。

小堂(本堂)の前にて。牛塔にちなんで、牛の置物が置かれている。

本堂の右側に建つ庫裏の横から石段が始まり 参道となる。

園城寺の境内に続く山道を登る。
途中には西国三十三カ所めぐりの石仏が処々に立っている。

崩れかけの石積みもある。
山道は落ち葉が積もり、人の訪れを感じさせない。

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鶏足寺


鶏足寺への小径、途中の沼沢地。


亀山の茶畑

己高庵より鶏足寺(旧飯福寺)への道。
ここには北国には珍しくお茶畑が広がるが、平安時代からの伝統があるという

鶏足寺は、山岳信仰の霊地であった己高山(こだかみやま、923m)の山中に所在した。

寺は昭和8年(1933年)に焼失し、その後は事実上廃寺となっているが、伝来した仏像のみ山下の収蔵庫に安置され、地元住民によって管理されている。

旧飯福寺は紅葉の名所として名高く、秋には多くの観光客でにぎわう。

秋の紅葉めぐり 鶏足寺(旧飯福寺)
鶏足寺跡とされる寺院跡は己高山の山頂近くにある。 また、山麓の古橋地区から徒歩1 … 続きを読む →


鶏足寺は己高山の中心寺院であった観音寺の別院であったもので、伝承によれば天平7年(735年)、行基によって開基。

いったん荒廃したものを延暦18年(799年)最澄が再興したという。
文永6年(1269年)下野国・薬師寺の慈猛が、それまで天台・真言宗、兼帯であったのを真言宗に改宗した。

奈良・興福寺に属する寺院を書き上げた『興福寺官務牒疏』という資料(嘉吉元年・1441年)には、己高山の五箇寺として法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺の名があり、観音寺の別院として鶏足寺、飯福寺、円満寺が挙げられている。

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石道寺界隈


石道寺(しゃくどうじ)は、滋賀県長浜市にある真言宗豊山派の寺院。
山号は己高山。 作家井上靖が、小説「星と祭」の中で当寺の観音像の姿を村の若い娘に例えたことで知られる。

主人公である会社社長、架山が、前妻との間にできた17歳の娘を琵琶湖で亡くし、その悲しみの心の変化を描写した小説です。

遺体が見つからないことから、きちんとした形で娘の葬儀すらできないことに悶々としながらも何年も過ぎていくのですが、その間に琵琶湖の十一面観音のことを知ります。

一度、誘われて十一面観音を拝観しに行ったところ感銘を受け、その後も他の十一面観音を訪ねるようになります。

石道寺のよこから鶏足寺(旧飯福寺)に行く石段があります。

旧木之本町の東方にある己高山(こだかみやま、923m)の山頂および西麓一帯には、古代から中世にかけて多くの寺院が建立され、天台系山岳信仰の聖地であった。

石道寺も己高山関連寺院の一つで、もとは現在地よりさらに1kmほど東の山中にあったが、大正3年(1914年)本堂を現在地に改築し、石道観音堂を合併し新石道寺が誕生した。寺は地区住民により管理されている。

與志漏神社

景行天皇の御代 武内宿称勅命により、北陸巡行の折この地にさしかゝり、荒廃殊の外著しく、この原因は大蛇生棲し人畜に危害を及ぼすと聞き、その子波多八代之宿称を招き須佐の男命の神霊を御剣に勧請しこれを討ち給う、これによって難を他郷に避けていた郷人帰農しいたく宿称の徳として、須佐之男命の神霊と併せ祀るに至る。

聖武天皇の御字、行基この地に来錫し、この大神と習合するに己高山に鶏足寺を創建し、当地の傍らに社坊を建立した。

降って桓武天皇の御宇、最澄が鶏足寺の荒廃を再興し「十所権現」と称して鶏足等の鎮守としたが、当社もその内に加えられた。
「世代山戸岩寺」も現存し、天平時代の諸佛を遺し重文となっている。

浅井長政も神田を寄進その奥方お市の方の寄進と伝える屏風一双あり、昭和38年神社境内地に校倉式の収蔵庫を建設して天平佛、鎌倉佛を収蔵した。
明治9年村社に同18年郷社に列し、同42年神饌幣帛料供進神社に指定された。延喜式内社。

滋賀県神社庁

旧岩戸寺の本堂。

後ろには興志漏神社の拝殿と本殿があって、己高閣と世代閣は神社の境内にあるのが分かります。

大きな樹にできた祠に、別の木が生えてきています。
台風で、こちらがわの幹が折れてできた祠だそうです。

山麓の古橋地区の与志漏神社(よしろじんじゃ)境内には薬師堂、大日堂のほか、己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)と称する2棟の収蔵庫が建ち、鶏足寺や関連寺院に伝わった仏像などはこれらの収蔵庫にて収蔵・公開されている(指定文化財の仏像の所有者名義は「鶏足寺」となっている)。

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眼の地蔵菩薩 木之本地蔵院


伝承によれば、天武天皇の時代(7世紀後半)、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりという。

その後、現在の木之本に移転する経緯については2つの異なる伝承がある。

一つの伝承は奈良・薬師寺の僧を開山とするものである。
これによると、天武天皇4年(675年)、地蔵像をより縁深き地に安置するため聖武天皇の勅命を受け、薬師寺の祚蓮上人が北国街道を下った。

休憩のため地蔵像を柳の下に降ろしたところ、そこから動かなくなったため、この地を安置場所と定め、柳本山金光善寺と号して一寺を建立した。

後にこの地は、「柳の本(やなぎのもと)」と言われ、さらに「木之本(きのもと)」と言われるようになったという。

今一つの伝承は、文武天皇が北陸の白山参詣の途上、木之本の地で紫の雲を見て、この地が霊地であると知り、難波の金光寺を木之本に移したとするものである。

以上の草創伝承は各地に多くある霊験譚の域を出ないものであり、どこまで史実を反映したものであるかは定かでない。

境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされている。

眼の地蔵菩薩として信仰を集めている。

木之本地蔵院は、眼の仏さまであり、片目をつむった身代わり蛙たちが住んでいます。

お寺に住む蛙は、多くの人々が眼の病気で困っているのを見て、「すべての人々の大切な眼がお地蔵さまのご加護をいただけますように」と、自らが片方の目をつむることによって身代わりの願をかけたと言い伝えられています。

北国街道

木之本宿には昭和の初めまで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していましたが、現在では埋め立てられ、商家の家並みに昔の情景を残しています。

旧本陣 竹内五左衛門家

京都、江戸、北陸を結ぶ宿場の本陣跡。

藩政時代には、大名などが、絶えず宿泊した宿札や記録が数多く残っている。

また、将軍の息女、溶姫一行が滞在したときは、三千人分の寝具などを、助郷から集めたと記されている。

先々代の当主は、明治二十六年全国で日本薬剤師第一号の免状を取得されている。

軒下柱の馬繋ぎ金具に宿場の面影を残す。(現地案内板)

木之本地蔵院の斜め向かいの、富田八郎家〈富田酒造〉。

天文2年(1533)、当地に移り住み、以来、酒屋を営む傍ら庄屋を務めたと言うお家。

創業470年の歴史を誇る酒蔵。
ここのお酒のラベルは、当家に逗留した北大路魯山人によって書かれたものだという。

また、ここは明治天皇の北陸巡幸の際、岩倉具視が宿泊をしたところだ。

町の花こぶしと、町を流れる3つの清流高時川、杉野川、余呉川をデザインしたマンホール。

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観心寺 雨中の散策


伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。

その後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。

これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。

今日は雨中の散策となってしまった。

ボタンも雨に濡れてきれい。

金堂は大阪府下で本堂として最古の国宝建造物であり、七間四方、単層入母屋造、和様、禅宗様、大仏様の折衷様式の代表的な遺構である。

室町時代初期に建立され、豊臣秀頼の時、江戸時代の中期、明治の初め、昭和の初め等たびたび修理し、昭和五十九年に昭和大修理の落慶をみた。

本尊は如意輪観音で脇侍は不動明王、愛染明王、内陣に板製の両界曼茶羅がある。

境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。

伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている。

後村上天皇桧尾陵へと通じる、南朝の後村上天皇は後醍醐天皇の思いを受け継ぎ、足利尊氏を討ち果たして天下の覇権を握る野望に固執した生涯の果てに、住吉行宮でその野望と共に崩御する。

その南朝軍と足利軍との戦いの中でも最終局面において、後村上天皇はなぜ賀名生を出、天野山金剛寺・観心寺をも通過点にして住吉行宮を終焉の地としたのでしょうか?

南朝の里 賀名生梅林散策
奈良には「三大梅林」というのがある。 「賀名生(あのう)梅林(2万本)」「月ヶ瀬 … 続きを読む →


楠木正成首塚。

開山堂(本願堂)、本山の実質的開基で空海の弟子だった道興大師実恵(じちえ)が祀られている。

訶梨帝母天堂

鎮守社・鎮守堂とも呼ばれており、訶梨帝母天を鎮守としてまつっている。

訶梨帝母は、サンスクリット語のハーリティーを音写したもので、鬼子母神とも呼ばれて、次のような伝承があります。

訶梨帝母は他人の子どもをさらって食べてしまいます。

仏は一計を案じ、彼女の子どものひとりを隠しました。
子を失う親の苦しみを悟らせました。

それ以後、訶梨帝母は改心して、仏教を守護するようになったというものです。




楠木正成像。

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我が国 最小の塔 慈眼院の多宝塔


南北朝の正平8年(1353年)、戦火を受けて焼失。その後、後村上天皇と後亀山天皇の勅命により再興された。

慈眼院の位置する日根荘(ひねのしよう、日根野荘)は、五摂家の1つである九条家の荘園であった。

文亀元年(1501年)から4年間、前関白の九条政基が日根に滞在して領地の直接経営にあたり、日記「政基公旅引付」(宮内庁書陵部蔵)を残している。

多宝塔は、石山寺、高野山金剛三昧院の塔と並ぶ日本三名塔の一つで、 鎌倉時代に建立されました。その高さは10メートル余、我が国 最小の塔とされており泉佐野市では唯一の国宝とされています。

山号は大悲山、寺号は願成就寺。
近世末までは、隣接する日根神社の神宮寺であった。

境内が「日根荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されている。
仏塔古寺十八尊第十二番。

伝承によれば、天武天皇2年(673年)、天皇の勅願寺として、井堰山願成就寺無辺光院の名で覚豪阿闍梨により開創され、奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願寺となり、寺領1千石が加増されたという。

その後、弘仁6年(815年)、 空海(弘法大師)によって多宝塔、金堂をはじめとする諸堂が再興されたと伝える。

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孝恩寺(観音寺)釘無道


国宝に指定されている観音堂は、もとは「観音寺」と称し、孝恩寺とは別個の寺院であった。

旧・観音寺は「和泉名所図会」のような近世の文献には「木積観音」(こつみかんのん)とあり、奈良時代の神亀3年(726年)、行基による開基と伝える古寺。

現存する観音堂は「木積の釘無堂」と呼ばれ、鎌倉時代の密教建築様式を伝える貴重な文化財として国宝の指定を受けている。

なお「釘無堂」とは建築に際し釘を使用していないとの意味であるが、伝統工法の木組みを用いた社寺建築では、構造部分に釘を使用しないのは必ずしもこの堂に限ったことではない。

境内の宝物館には、仏像など国の重要文化財19件を所蔵・展示している。

行基の開創伝承をもつ寺は奈良県西部から大阪府南部にかけて多数存在し、観音寺もその1つで、「行基建立四十九院」の一つとされている。

付近の地名を「木積」というが、これは行基が多数の寺院を建立するにあたり、山から切り出してきた材木の集積場であったことに由来する地名であるという。

平安時代初頭までに七堂伽藍が揃っていたが、室町時代に山名氏や大内氏らの戦火に巻き込まれ大半の建物を焼失、安土桃山時代には根来寺の傘下にあったがために、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めで観音堂以外のほぼ全ての建物を焼失した。

この際に、仏像を薬師池に沈めて消失を免れた、という逸話は地元の人間には有名な話である。

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花に包まれて


桜の時期に石山寺を訪れた、伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされる。

袿(うちき)姿で物語の構想を練る紫式部。

後ろにちょこんと顔を出しているのは、娘の賢子(かたいこ)=大弐三位と思われる。
紫式部と大弐三位の歌は百人一首57番・58番に採られています。

めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に
雲隠れにし夜半の月かな
紫式部

有馬山猪名の笹原風吹けば
いでそよ人を忘れやはする
大弐三位

室町時代に出来た源氏物語の古注釈書「河海抄」などには、「八月十五夜の月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた式部の脳裏にひとつの構想が浮かび、源氏物語は書き始められた」とある。
それは、第十二帖じょう「須磨」の巻である。

帝みかどの寵愛ちょうあいを受けていた女性との密会が発覚し、官位を剥奪された光源氏は、更なる処分から逃れるため、流謫るたくの地として知られた須磨(現・神戸市須磨区)に退去し、わびしい籠居生活を送る。

その中で光源氏は、須磨の夜空に浮かぶ満月を見て、都での華やかな生活を思い出し、寂しさを募らせる。

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