神農さん


祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。

神社の入口に金色の虎の像がある。

文政5(1822)年に、日本でコレラが大流行し、道修町薬種商は、疫病除薬として、「虎面殺鬼雄黄円」という丸薬を無料で施した。

このとき、張子の虎をつくり、丸薬とともに神殿で祈願し、張子の虎は、病除祈願のお守りとされている。

この五葉笹(神虎)には、表面に「祈願 家内安全 無病息災」と記された赤い紙札、「薬」の文字印が腹に押された「張子の虎」、少彦名大神御靈と記された布製の神札、花詞(はなことば)の札が付けられている。

医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰を集めている。
また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。

近年ではペットの病気平癒・健康祈願に参拝する人も多い。伊勢講から始まった神社でもあるため、伊勢神宮のお札を求める参拝者で正月は賑わう。


少名彦神社は谷崎潤一郎の『春琴抄』、菊田一夫の『がしんたれ』の舞台となったことで知られ、谷崎潤一郎の文学碑「春琴抄の碑」がある。

「春琴抄」は、谷崎が43歳のときの作品である。(昭和8年・1933年)

船場の商人の娘・春琴と奉公人・佐助。

気が強く、尊大な態度を佐助に振舞う容姿端麗の春琴、子どもができても、頑として否定する春琴・佐助。

ある日、熱湯をあびせられた春琴の部屋にゆく佐助。

自分の目を針で刺し、見えなくなった佐助は、春琴に『佐助、それはほんとか』と言われたとき、佐助は、『この世に生まれて、これほど生きていてよかった』ことはないと思えたのである。

「春琴抄」は 妻 松子夫人への愛を道修町の豪商の娘である盲目の琴三弦の天才 春琴 と使用人であり彼女の弟子であった佐助に託して創作した至高の愛の物語 である。

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京都鉄道博物館


京都鉄道博物館エントランスホール

「京都鉄博」のある梅小路公園は、元々は日本貨物鉄道(JR貨物)の「梅小路駅」があった場所であり、また、かつては「梅小路蒸気機関車館」という蒸気機関車だけの博物館があった場所でもあります。

スロネフ25形501号車 「トワイライトエクスプレス」

1989(平成元)年に登場し、本年3月12日に引退した寝台特急「トワイライトエクスプレス」のA個室車両。

「スイート」1室と「ロイヤル」4室の客室を備え、特に「スイート」は眺望のための大きな窓があり、移動手段としてではなく乗車時間を楽しむ部屋として大変人気がありました。

キハ81系は1960年(昭和35年)に東北本線の特急「はつかり」として登場。

非電化区間のホープとして誕生し、翌年に誕生したキハ82系と共に国鉄特急のネットワークを構築し、旅客輸送の近代化に大きく貢献。

登場時の上野~青森間の「はつかり」での活躍後、電化などに追われて、「つばさ」「いなほ」「ひたち」と転属し、1972年(昭和47年)から紀勢本線の特急「くろしお」として活躍しましたが、1978年(昭和53年)9月新宮~和歌山間の電化完成により、その役目を381系へと譲り、引退となりました。

100系125型5003号

0系新幹線に代わり、1985年に東海道・山陽新幹線に登場した100系新幹線電車。

『ひかり』『こだま』として国鉄からJR西日本・JR東海に引 き継がれたが、300系・500系などJR世代の新幹線電車の台頭によって2003年に東海道新幹線から撤退。

500系521形1号車

JR西日本は、自社の路線である山陽新幹線の航空機に対する競争力強化の一環として、より一層の高速化を目指して「500系」を開発。

車体強度・台車強度・力行性能などすべて320km/h対応として設計・計画され、1996年1月から1998年12月にかけ、16両編成9本合計144両が製造された。

当初は山陽新幹線区間限定で「のぞみ」運用を中心として運転を開始し、その後東海道新幹線での営業運転を開始し、後続系列である700系の最高速度が285km/hと低く抑えられたこともあり、「のぞみ」の中でも特に速達性を重視した運用に長く充当された。

2代目京都駅貴賓室シャンデリア

このシャンデリアは昭和天皇の御大典に合わせて駅舎が改築された時に新調されたものですが、大正3年の駅舎新築当時からあって渡辺節さんのデザインによるものと、新たに錯覚してしまうほど。

扇形機関庫

国指定の重要文化財である扇形車庫と、蒸気機関車がダイナミックに回転しながら向きを変える転車台。
ここには、明治から昭和にかけて活躍した代表的な蒸気機関車を展示しています。

SLスチーム号で活躍しているC62形は日本を代表する蒸気機関車の1つで、C62形の中でも人気の高い2号機は、特急「つばめ」の牽引で活躍しました。

C62形2号機は除煙板に『つばめマーク』が付いていることから『スワローエンゼル』の愛称で呼ばれていました。

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民博 オセアニア

海がほとんどの面積を占めているオセアニアには、大小数万をこえる島々が点在しています。
そこには、発達した航海術をもち、根栽農耕を営む人びとが暮らし てきました。

オセアニアの中で一番目についたのが、シングルアウトリガー・カヌーでした。

アウトリガーとは腕木の事だそうです。

シングルアウトリガー・カヌーは、オセアニアの人びとが島に移住・定着してから、島間の人の移動や物の交換には欠かせない乗り物であった。

民博の収蔵品としては、固有名がついている点でも特殊だし、おそらくもっとも知名度が高いもののひとつではなかろうか。

このカヌーは、1975年の沖縄海洋博覧会の企画として、ミクロネシア・カロリン諸島のサタワル島から洋上を航海してきたものである。

6名の乗組員たちが昼夜をとおして操縦し、47日間かかって3000kmの距離を走破した。

カヌーの全長は8メートル、マストの高さは7メートル。
建物の天井よりもマストが高いので、展示場では船体が大きく傾いているが、結果として、帆に風を受けて荒波を乗り切る姿が再現されている。

カヌーの船首飾り
パプアニューギニア 19世紀後半制作

あかくみ

カヌーにたまった水を汲みだす道具。
木材を手斧(ちょうな)で彫り込み、船腹のかたちに合うように丸みを付け、水を逃さないよう工夫されている。
この形式のあかくみは、オセアニアのほぼ全域に分布する。


ラピタ人骨の復顔像  片山一道監修(2004年制作)

出土した前1800年ごろの頭骨をもとに、復顔されたラピタ文化人の胸像。
発掘者によってマナと名づけられたこの人物は、大柄で骨太の健康的な女性だった。

アモイ(復顔)  チリ ラパヌイ(イースター島)

アモイはラパヌイの人々が帰属する親族集団の祖先をあらわしたものとされる。
11世紀から16世紀ごろまでに作られた。

凝灰岩を使用しており、大きいものには10mに及ぶものもある。

オセアニアの割れ目太鼓。

顔みたいな彫刻がかわいらしい太鼓。

「パプアニューギニア」で、1974年に収集された「祖先霊の彫像」

女性や子供は立ち入ることができない男性集会所のなかに置かれる。

木彫「ビス」  インドネシア アスマット族

ニューギニア島南部に住むアスマットの人々は、尖塔などで多数の死者が出たときに儀礼をおこない、この木彫のビスを作った。
 
死者の像を重ねたビスは、敵への報復が成功するまで男性集会所の前に立てておかれた。

女神像 ハワイ

キリスト教が浸透する以前、ハワイ諸島の人々は様々な神をまつっていた。

アウマクアと呼ばれるこの女神像は祖先の霊をあらわしている。
個人や家族が家でまつっていた。

仮面 パプアニューギニア カプリマン族

仮面 パプアニューギニア パイニング族

木の枠にタパをぬいつけて、と鳥をあらわしている。

子供の誕生を祝う儀礼などの際に、仮面の下部に長い草の葉をのれん状につけ、中に人が入って踊る。

仮面 パプアニューギニア ラオ族

仮面 パプアニューギニア セビック川流域

葬儀長の衣装 フランス領ポリネシア ソサエティ諸島 ヒロ・オウ・ウェン地域

タヒチの首長階層の葬礼で喪主が身に着けていた衣装。
喪主は首長に最も近い親族や神官がつとめた。

前掛けや帽子などにはタパ、ケープにはタパと羽毛、胸飾りやマスクには真珠貝が使われている。

仮面 パプアニューギニア セビック川流域

クラは、ニューギニア島に近いトロブリアンド諸島でおこなわれてきた活動である。

島民たちは、隣島から「宝物」を受け取ると、しばらく手元においた後、反対側の隣島にこれを贈る。
受け取った相手は、同じようにして反対側の隣島にこれを贈与する。

「宝物」が一巡してもとの島に戻ってからも、同じことがくりかえされて、「宝物」は島々を循環し続ける。
こうした循環的な贈与の連鎖がクラである。

クラのときに贈られる「宝物」には、反時計回りに島々を循環する腕輪(ムワリ)と、

時計回りに循環する首飾り(ソウラヴァ)がある。

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インド中国の仏像たち


ブラフマー神

ブラフマー(梵、ヒンディー語: ब्रह्मा Brahmā)はヒンドゥー教の神の1柱、創造神でありトリムルティ(最高神の3つの様相)の1つに数えられる。

4つの顔を持ち、それぞれの顔は四方を向いているとされる。

現代のヒンドゥー教ではブラフマーは人気のある神格とは言えず、ヴィシュヌやシヴァと比べトリムルティの中での重要性も低い。

ブラフマーは古代の聖典の中では礼賛されているものの、インドでは重要な神として人々の信仰を集めることは稀であった。

そのためインドにあるヒンドゥー寺院でブラフマーを奉るものは少ない。

最も有名なものとしてはラージャスターン、プシュカルのブラフマー寺院 (プシュカル)(英語版)が挙げられる。

ブラフマー寺院はインド国外にも存在し、タイ王国のエーラーワンの祠 などが有名である。

ドゥルガー女神

ドゥルガー(サンスクリット語: दुर्गा, durgā)は、ヒンドゥー教の女神。

その名は「近づき難い者」を意味する。
デーヴァ神族の要請によってアスラ神族と戦った。
シヴァ神の神妃とされ、パールヴァティーと同一視された。

外見は優美で美しいが、実際は恐るべき戦いの女神である。
3つの目を持っており、額の中央に1つの目がある。

10本あるいは18本の腕にそれぞれ神授の武器を持つ。

虎もしくはライオンに乗る姿で描かれる。

また、ドゥルガーは別名をヴィカラーラ(「恐るべき者」の意)といい、仏教では興福寺八部衆や二十八部衆の畢婆迦羅、十二神将の毘羯羅となっている。

また、密教に於いては菩薩(天台宗では如来)とされ、六観音、七観音の一尊である准胝観音となっている。

黒闇天とも同一視される。
また、突伽天女、塞天女とも呼ばれ、玄奘三蔵の伝記『大慈恩寺三蔵法師伝(慈恩伝)』では突伽という表記で登場する。

シヴァ神は、ナタラージャ(Nataraja)とも呼ばれている。

“Nata”は「踊り」、”Raja”は「王」、「踊るシヴァ神」という意味。

胴体からのびる4本の腕。
それぞれのポーズをとる4本の手は、それぞれ象徴的な道具を持っているところを表現しています。

一つ目は、ダマルと呼ばれる砂時計形の胴をもつ両面太鼓を持つ手。
この太鼓で世界創造のリズムを取ると言われています。

そして二つ目の手には、 「再生」「破壊」「現世」を表す先が3つに分かれた「トリシューラ」と呼ばれる鉾を。

三つ目の手には「破壊」と「浄化」を意味する火炎(アグニ)。

そして、最後の手は、「保護・庇護」を象徴した型をとっています。

踊っているかのような両足の動き。
持ち上げている左足は、救いの道の方角を指し、そしてしっかりと地面に踏みつけている足は、悪を破壊することを象徴しています。

ダキーニ女神(空行母)

荼枳尼天の起源であるインドのダーキニーは、裸身で虚空を駆け、人肉を食べる魔女である。

ダーキニーの起源は明らかでないが、ヒンドゥー教もしくはベンガル地方の土着信仰から仏教に導入されたと考えられている。

十一面観自在菩薩

顔の数の由来など、起源の明確な根拠が少ない。
ヒンドゥー教の影響下に7世紀ごろ成立したとされる。

密教系の尊格であるが、雑密の伝来とともに奈良時代から信仰を集め、病気治癒などの現世利益を祈願して十一面観音像が多く祀られた。

観音菩薩の中では聖観音に次いで造像は多く、救済の観点からも千手観音と並んで観世音菩薩の変化身の中では人気が高かった。 関連記事


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伝承では、奈良時代の修験道僧である泰澄は、幼少より十一面観音を念じて苦修練行に励み、霊場として名高い白山を開山、十一面観音を本地とする妙理権現を感得した。

平安時代以降、真言宗・天台宗の両教を修めた宗叡は、この妙理権現を比叡山延暦寺に遷座し、客人権現として山王七社の1つに数えられている。

文殊菩薩、梵名マンジュシュリー(梵: मञ्जुश्री, mañjuśrī、別名:マンジュゴーシャ、मञ्जुघोष、mañjughoṣa)は、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。
一般に智慧を司る仏とされる。

文殊菩薩が登場するのは初期の大乗経典、特に般若経典である。

ここでは釈迦仏に代って般若の「空(くう)」を説いている。

『華厳経』では善財童子を仏法求道の旅へ誘う重要な役で描かれることなどからもわかるように、文殊菩薩の徳性は悟りへ到る重要な要素、般若=智慧である。

尚、本来悟りへ到るための智慧という側面の延長線上として、一般的な知恵(頭の良さや知識が優れること)の象徴ともなり、これが後に「三人寄れば文殊の智恵」ということわざを生むことになった。

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聖武天皇勅願 海住山寺


当寺の創建事情については必ずしも明らかではないが、寺伝では天平7年(735年)、 聖武天皇の勅願により良弁(奈良東大寺の初代別当)を開山として藤尾山観音寺という寺号で開創したという。

伝承によれば、聖武天皇は、平城京の鬼門にあたる現・海住山寺の地に伽藍を建立すれば、東大寺大仏の造立が無事成就するであろうとの夢告を受け、良弁に命じて一寺を建立させた。

良弁が感得した十一面観音像を本尊として開創したのが、海住山寺の前身の観音寺であるという。

なお、史実としては聖武が大仏建立の詔を発したのは天平15年(743年)であり、平城京の地で大仏造立を開始したのは天平17年(745年)である。

海住山寺という寺号の由来については、『明本抄』「良算聞書」に以下のようにある。

まず、「海」とは、観音の衆生を救済しようという誓願が海のように広大であることを意味し、海のような観音の誓願に安住するという意味があるとする。

また、インドの仏教では観音の住処は南方海中の補陀洛山(ポータラカ山)にあるとされ、当寺を海に住する山である補陀洛山になぞらえる意味もあるという。

海住山寺秋の文化財特別公開、国宝五重塔開扉の告知ポスターが境内に貼られてました。

通常は奈良博にいらっしゃる、五重塔を守護する「四天王立像(重文)」。

五重塔(国宝)。
塔高17.7m、初層方三間、本瓦葺、裳階付。建保二年(1214年)建立。
室生寺五重塔に次いで日本で二番めに小さい塔。

パッと見ると六層に見えますが、一番下の屋根は「裳階(もこし)」と言われる、耐久力を増すための飾り屋根になっています。

裳腰つきの五重塔は、現存するのは法隆寺とここだけ。

木造十一面観音立像 重要文化財

像全体の特徴は、バランスがよく伸びやかな体躯をもち、肉身は張りがあって、衣はその質感がよく表わされている。

十一面観音の象徴である頭上面は、頂上に仏面、髻の中ほどに三面(正面は菩薩面、左は瞋怒面、右は牙上出面)、地髪の上に七面を配する。右手を施無畏印とし、左手は肘を曲げて水瓶を執り、後述するように体躯に動きを表して蓮肉上に立つ。

五重塔内陣を厨子風に造り、8枚の扉に一体ずつ、華麗な彩色で梵天・帝釈天などの天部や比丘像が描かれる。

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聖武天皇謎の彷徨 恭仁京を訪ねる


740年、聖武天皇は平城宮を離れ、恭仁宮(京都府木津川市)に遷都。

しかし、恭仁京の完成を待たず744年には難波宮(大阪市)、翌745年には紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に都を移します。

有名な大仏建立の詔は紫香楽宮で出され、建立が始まります。

なぜこのように頻繁な遷都が繰り返されたのでしょう? 理由はよくわかっていません。

宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。

現在は、大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が残り、恭仁宮跡周辺では晩夏から秋にかけて、蕎麦の花、彼岸花、コスモスが見頃となります。

大極殿(石碑)から北方面を見る。(田圃一帯を恭仁京跡地として保存されている)
13年度の調査で「内裏西地区、内裏東地区」が確認された。
築地塀、掘立柱塀などで囲まれていた。

今(いま)造(つく)る、久迩(くに)の都は、山川(やまかは)の、さやけき見れば、うべ知らすらし

大伴家持

山の中腹に 聖武天皇の勅願と伝わる海住山寺(かいじゅうせんじ)が見えている。

大極殿基壇の北西隅に残る礎石、他に、南西隅に九重の石塔の台座として使われている礎石など数点があった

塔の心礎(大きさは人の大きさで判断ください)

そろそろ残り柿が郷愁をそそる季節となりました。

なぜこのように頻繁な遷都が繰り返されたのでしょう? 諸説あり、理由はよくわかっていません。

なぜ? ふたつの大極殿 平城京の謎
第二次大極殿跡から第一次大極殿跡を望む。 藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世 … 続きを読む →

第1次平城宮大極殿(復元)
恭仁京大極殿は第1次平城宮の移築とされる。

平城宮跡 天平祭2014
大型連休中の恒例行事となった平城京天平祭、今年は5月3日から5月5日に行われまし … 続きを読む →

難波宮跡
大阪歴史博物館10F、古代フロア、高御座から窓の外を眺めると、難波宮跡公園の全貌 … 続きを読む →


この時期の風物詩 野焼きも見られます。

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蟹満寺縁起


昔、山城国(現山城町綺田)に観音様を厚く信じる農家の父娘がいました。
ある日、娘は村人がとる蟹を哀れみ逃がしてやりました。

またある日、父は田で蛇にのまれんとしている蛙を助けるのに「娘を嫁にやるから蛙を助けて欲しい」とうっかり言ってしまいました。

その夜、立派な男性の姿をした蛇が娘を貰いに来ますが、「三日待ってくれ」と懇願しました。
男性は一度、引き帰りました。

蟹満寺三日目、板を打ち付けた部屋の中で父娘は懸命に観音経普門品を唱え祈っていました。
やってきた蛇は約束が違うと怒りだし、家の周囲で暴れました。

しかし突然、その音もやみました。夜が明けて見てみると、家の周囲には蟹の鋏で切り裂かれた蛇の死体が転がっていました。

その時に死んだ蟹と蛇の屍を葬り塚を作ってその上に観音堂を建てたのが、蟹満寺といわれています。
現在、毎年4月に蟹供養がおこなわれています。

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港住吉神社


当社は1842年(天保13年)に、大坂城代幕命を奉じ、摂津一宮である住吉大社より4座の御分霊を目印山(旧天保山)に勧請した。

以来、本社と本末の関係を以て祭祀を継続し、大阪三郷の関係住民及び海運業者の日夕の崇拝するところの守護神となった。

1864年(元治元年)天保山に台場が築かれたので、天保町に奉遷した。

1906年(明治39年)官幣大社住吉大社の境外末社となり、翌年西区靭中通二丁目永代濱住吉神社を合祀し、1917年(大正6年)天保町より築港遊園地だった現在地に奉遷した。

「名前の刻ま れたたくさんの石」「逆向きの鳥居」「笑っている 狛犬」等なぞの多い不思議な場所でもあります。

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築港高野山


創建年は明治末期の1910年。
真言宗の開祖である弘法大師(空海)が遣唐使で唐に渡ったのを顕彰する為、遣唐使一行が出航したとされる跡地に弘川寺の末寺の寺号である「釈迦院」の名前を継承して開基された。

開基当初の釈迦院は現在地より東の天保山運河の近くに位置し、7400坪程の広大な敷地を有していた。
大正時代から昭和初期にかけて同寺は大師信仰の中心地として栄え、東の四天王寺、西の築港高野山と呼ばれるほどであったが、大阪大空襲により寺は全焼。

浪曲塔

釈迦院の山門から入って右手に浪曲塔と呼ばれる石碑が建っている。

戦前、港湾労働者の間では浪曲が盛んで、浪曲師で浪曲の寄席「広沢席」の席主でもある広沢虎吉が釈迦院の住職の弟子であった関係で、同寺の境内に浪曲の祖とされる藤原澄憲を祀る碑が建てられた。

碑は大阪大空襲で寺が焼失した際に失われたが、寺の再建に伴い碑も再建された。

同寺では毎年8月30日に浪曲師たちの供養を兼ねた「浪曲まつり」が開かれている。

行者堂

真ん中に不動明王・隣に空海と役小角の石像が祀られている。

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いにしえの風情ただよう 高島びれっじ


駅前に10メートルぐらいのガリバーの特大銅像があり、ガリバーが敵国の艦隊を拿捕するシーンである。

これは高島市内に『ガリバー旅行村』のキャンプ場があるため。

いにしえの風情ただよう旧城下町、高島市勝野。
陣屋の惣門や武家屋敷が今なお残っています。

築150年の旧商家を商工会の有志が手づくりで改修し「びれっじ」として再生しました。
現在は1号館から8号館まで整備されています。

ここはびれっじ3号館■淡海堂(スイーツ・お酢)

びれっじ6号館■Wani Cafe(ワニカフェ)(ランチ・パスタ)

大溝まつりの曳山の収納庫も見える。

趣のありそうな路地を入ってみる。

ここはレンタルサイクル店、店先のマキは冬季のストーブ用かな。

コスモスの咲く広い空間、いきなり足元からキジが飛び立った、山里の風情を残す空間だ。

古い板塀も残る。

造り酒屋を見つけたが残念ながらお休み。

大溝城下で特に注目されるのは、幅約1メートル、深さ1メートルほどのまちわり水路が町並道路の中央を流れていること。

その水路は、南北の主な四通 りに敷設されている。
もともと大溝は山水やわき水に恵まれ、堀割を活用して町屋に引水していた。

そうした引水流路の錯綜状態を、町割の整備とともに四つの 水路に改修したのがまちわり水路であって、飲用・防火の生活水路であった。
したがって、城下の町屋は井戸を持たない

未だにその水路が保存されているのも素晴らしいですが、当時の上水道(古式水道)は今現在においても使われているそうです。

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