万葉文化館


奈良県立万葉文化館は奈良県高市郡明日香村にある美術館・博物館。
日本最古の歌集『万葉集』をテーマとする。

『万葉集』は、古く5世紀から、8世紀にかけて詠まれた4500余首を収めたわが国最古の歌集で、日本人の心の古典、言葉の文化遺産といえる。そのなかでも、奈良を対象に詠まれた歌が最も多く、県内各地には『万葉集』ゆかりの歴史的風土・自然景観が多く残されている。

「歌の広場」(古代の市空間を再現)「さやけしルーム」(万葉人が感じたであろう、音や光を体験)「万葉劇場」(人形や映像などを用いて万葉の世界を紹介)などの展示が行われている。

平成13年9月に、建設費約140億円の巨額資金を投入して明日香村飛鳥に開館したが、当初、年間25~30万人と見込んでいた入館者数は半数以下の10万人前後と低迷を続けており、存続そのものが問われている。

以前の訪問時、展示の紹介を行った。
万葉人のくらし
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ゾロアスター教徒の飛鳥時代伝来説 酒船石遺跡


以前から知られている酒船石に加えて、平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになった。

この命名は明日香村教育委員会によるが、研究者の間では酒船石と亀形石造物との関連性を疑う意見も強く、この名称は適当ではないとの意見も存在する。

平成4年(1992年)に酒船石の北の斜面で石垣が発見され、『日本書紀』の斉明天皇の時代に記述される工事に該当する遺跡と推測されている。

記述中の「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」の「宮」が酒船石の南西にある伝飛鳥板蓋宮跡であり「東の山」が酒船石のある丘ということである。

松本清張の小説『火の路』は、酒船石(さかふねいし)の前で、若き古代史の研究者 高須通子とカメラマン 坂根要助、福原副編集長が出会うシーンから始まる。

ペルシア人・ゾロアスター教徒の飛鳥時代伝来説を描き話題を呼んだ、著者の古代史ミステリーの代表的長編。

『火の路』(ひのみち)は、松本清張の長編推理小説。『朝日新聞』に『火の回路』のタイトルで連載され(1973年6月16日 – 1974年10月13日)、改題の上、1975年11月・12月に文藝春秋から刊行された。

1976年にテレビドラマ化されている。

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夫婦和合の奇祭「おんだ祭」で知られる飛鳥坐神社


飛鳥坐神社は、奈良県高市郡明日香村にある神社。
式内社(名神大社)で、旧社格は村社。

2月第1日曜日(元は旧暦1月11日)のお田植神事「お田植祭(おんだまつり)」には、天狗や翁が竹棒で人々を追い回して叩いたり、夫婦和合の所作(種まき前の胤付けの意で、天狗とオカメが性行為、特に正常位を踊る)があり、奇祭として知られている。

境内には、男性器を模した石が多く安置されている.

画像はあまりにもリアルではばかりがあるので省略、実際に現物を見ることをお勧めする。。

創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。

創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。

また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条に「奉幣 於居紀伊国国懸神 飛鳥四社 住吉大社」とあり、天武天皇の病気平癒祈願のため幣帛が奉られた。
『日本紀略』によれば、天長6年(829年)、神託により、現在の鳥形山へ遷座した。(遷座する前の場所については諸説ある)

寛永17年(1640年)に高取城に入った高取藩初代藩主・植村家政は、高取城の鬼門に当たる当社を深く信仰した。

享保10年(1725年)に里からの火災により社殿の大半を焼失したため、天明元年(1781年)に高取藩8代藩主・植村家利により再建された。

平成13年(2001年)、大滝ダム建設に伴って移築することとなった吉野の丹生川上神社上社から旧社殿を譲り受け、天明以来200年を経て老朽化していた社殿を再建した。

折口信夫 – 折口信夫の祖父・酒造ノ介は、岡寺前の岡本善右衛門の8男であったが、当社81代宮司飛鳥助信の養子となった上で折口家に入った。

父・秀太郎の代には交流は途絶えていたが、明治33年(1900年)夏に初めて当社に参詣し、同37年には祖母・つた、叔母・えいと共に参詣し旧交を復した。

折口は、祖父が大和飛鳥の由緒ある神社の出自であったことを終生誇りにしており、慶應義塾の教授時代にもよく学生を連れて飛鳥を旅している。

今日のお昼は手打ち十割そば 山帰来(さんきらい)

十割蕎麦とは思えないほどのなめらかな喉越しは感動を覚えるほど。

サクサクに揚がった桜エビの天ぷら、珍しい紫色の辛味大根、少し甘めのツユを一緒に味わえば、口いっぱいに爽快感が広がります。
おすすめです。

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日本で最初の仏教寺院 飛鳥寺


飛鳥寺は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。
蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身。

本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子。
山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。

手水は「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」と言われた酒船石遺跡を彷彿とさせる。

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飛鳥寺(安居院)の本尊で、飛鳥大仏の通称で知られる。
1940年に重要文化財に指定されており、指定名称は「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」である。
像高は275.2センチメートル。

鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けている。

1933年に石田茂作が調査した際の所見では、頭の上半分、左耳、右手の第2?第4指は鋳造後に銅の表面に研磨仕上げがされており、当初のものとみられるが、体部の大部分は鋳放し(表面の仕上げがされていない)で後世のものと思われ、脚部は銅の上に粘土で衣文をつくっており、左手は木製のものを差し込んでいるという。

また、像の各所に亀裂があり、亀裂の上から紙を貼って墨を塗ったところも見受けられた。

聖徳太子孝養像

向かって左側には、室町時代に造られた聖徳太子孝養像が置かれています。

聖徳太子が16歳の時、父である用明天皇の病気回復を願う姿と言われています。

阿弥陀如来坐像

飛鳥大仏の向かって右側には、平安時代に造られた木造の阿弥陀如来がおまつりされています。

飛鳥寺には複数の呼称がある。
法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。

都が平城京へ移るとともに飛鳥寺も現在の奈良市に移転し元興寺となった。

一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)である。

『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている。

飛鳥時代の行基瓦の残る元興寺
最古の寺といわれる飛鳥寺がルーツ。 平城遷都にともない、この地に移転、南都七大寺 … 続きを読む →

元興寺世界遺産めぐり
元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子 … 続きを読む →


飛鳥寺(安居院)の本堂の左手前に、「思惟殿」があります。↓
堂内には、聖観世音菩薩が安置されています。

大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も飛鳥寺は尊崇され、天武天皇の時代には官が作った寺院(官寺)と同等に扱うようにとする勅が出され、文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて官寺並みに朝廷の保護を受けるようになった。

蘇我入鹿首塚と伝える五輪塔

乙巳の変で、中大兄(天智)と中臣鎌足(→藤原鎌足)らによって蘇我入鹿が暗殺されたのは、飛鳥寺の少し南の飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)であったであろうとされているようですが、その時入鹿の首がこの地まで飛んできたので、ここに埋めたとも、入鹿の首が空中に舞い上がり襲ってきたので、供養のために五輪塔を立てたとも伝えるが、確かなことではない。

万葉集と古代史の謎を訪ねて
古代史も新しい事実や解釈が出てきて面白くなってきた。 日本書紀などは改竄もあり得 … 続きを読む →


飛鳥寺の南の一帯は真神原(まがみはら)と呼ばれ飛鳥寺境内からの明日香の眺めを「真神原(まがみはら)の眺め」といい案内板には「真神原の眺め。新羅の慶州、百済の扶余と酷似している」と記載されている。

万葉歌碑

佐々木信綱博士の筆による山辺赤人の長歌と近衛文麿氏の筆による篆額(てんがく)が刻まれています。

鐘楼

1745年に建立。梵鐘は、太平洋戦争の際に供出されましたが、1958年に新しく鋳造さた。

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初秋の生駒聖天


宝山寺は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。
生駒聖天とも呼ばれる。

本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天(聖天)を聖天堂(天堂)に祀っている。

振り返ると生駒の街並みが。

境内に足を踏み入れると頭上に般若窟がそびえる。

般若窟は、由緒書によれば「中生代、古瀬内火山に属する一火山の噴火口類」とされる自然の岩屋である。

この窟は、役行者が修行して大般若経を納めたと伝えられる聖跡で、また、若かりし頃の弘法大師が修行したという伝承も付帯していたことから、それを聞いた湛海律師が「ここで弘法大師と共に弥勒菩薩下生の時を待つ」と語り、寺を開いたと伝えられる。

聖天堂の前にあったお賽銭箱は、歓喜天さまに付きものの「巾着袋」型。

歓喜天像が手にする巾着袋は砂金を入れるものとされ、ご利益の象徴的なアイテムです。

また、描かれているクロスした大根もシンボルの一つ。

歓喜天の供物で、白い色に力があり、体内の毒や煩悩を消し去る効果があるとされています。

生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。

その当時は都史陀山 大聖無動寺(としださん だいしょうむどうじ)という名であったという。

江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。
この時が事実上の開山と思われる。

熱心な信者が黙々と奥の院目指す。

江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪商人の信仰を集めた。

京都の皇室や江戸の徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い。

1918年には日本最初のケーブルカー、生駒鋼索鉄道(現、近鉄生駒鋼索線)が敷設されるほどだった。
現在でも年間300万人の参拝客を集めるとされる。

麓から続く参道の階段は奥の院までを含めると1000段余りあり西日本有数の規模を誇る。

この先には歴代山主の墓所があります。

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比叡山横川


横川は本堂にあたる横川中堂を中心とする区域です。

西塔から北へ4キロメートルほどのところにあり、第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれた。

本堂は、遣唐使船をモデルとした舞台造りの横川中堂です。

他に往生要集著者の源信僧都が隠居していた恵心堂やおみくじ・魔除けの角大師で有名な元三慈恵大師良源を祀っている四季講堂(元三大師堂)などがあります。

横川駐車場から約300m歩いたところにある九頭龍池は元三大師が大蛇を掌にのせて仏法の守護神としてこの池にすまわせた伝説のあるところ。

ここから見える中堂は若葉や紅葉の海に浮かぶ船の形をしています。

横川の本堂にあたるのが、この横川中堂です。
舞台造りで全体的に見て船が浮かんでいる姿に見えるのが特徴です。

お堂の中央部が2メートル程下がっていて、そこに本尊として慈覚大師作と伝えられる聖観音菩薩が祀られています。
現在の建物は昭和46年に再興された建物です。

横川中堂の本尊 聖観音菩薩

観音菩薩は衆生の苦しみや救いの声を聞きつけて馳せ参じてくださる仏様で 性別は女性でも男性でもないとされ、必要に応じて刹那刹那にあらゆる姿に変化される「かたよりのない存在」といわれています

四季講堂(元三大師堂)へ向かう杉並木、涼しい木立です。

途中に道元禅師得度霊跡への道の分岐があります。 

四季講堂(元三大師堂)

慈恵大師(良源)(元三大師)の住居跡と伝えられる元三大師堂は、康保4年(967年)、村上天皇の勅命によって四季に法華経が論義されたことから四季講堂とも呼ばれています。

現代のおみくじの形は、元三慈恵大師良源が考え出したと言われており、この元三大師堂はおみくじ発祥の地となります。

ここでは、角大師(つのだいし)のお姿を授与していて、魔除けの護符になっています。

修行中の僧侶が干しているわらじでしょうか…

この、ちょっと怖いようなお姿が、元三大師さまのお姿だそうです。

角大師(つのだいし)と呼ばれるそうです。
元々、立派な僧侶でしたが、疫病が流行した時に鏡に向かい合う姿で座禅を組み、瞑想に入られたそうです。

すると、鏡の中の元三大師の姿が、次第に変化して…

このような、鬼のような姿になったそうです。
それを弟子が書き写し、護符(お守り)として家々に配ったとか。

そのおかげで、疫病の流行は治まったそうです。
今でも、お堂の中では、この大師のお姿の護符をわけておられました。

怖いものに対しては怖い姿で対決されたのでしょうか…

四季講堂(元三大師堂)参拝の後バス停へ向かいますが厳かな雰囲気の場所です。

途中きれいな水場がありました。

今辿ってきた道が元三大師道です。

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比叡山西塔

西塔は、東塔より1キロほど離れた静かで美しい環境の中にあります。
天台建築様式の代表とされる荘厳な釈迦堂を中心に、にない堂・椿堂・瑠璃堂などが点在します。

親鸞聖人修行の地

法華堂

隣の常行堂と渡廊下によって連結していることから、両者あわせて「にない堂」と称されています。
天長3年(826)に建立されましたが、その後幾度かの焼失をへて、文禄4年(1595)に現在の建物が再建されました。

向かって左が阿弥陀如来を本尊とする常行堂。

同形の2棟の建物が廊下でつながり、弁慶が廊下に肩を入れて担いだという伝説が残されていることから「にない堂」とも呼ばれる

釈迦堂へ行く階段を降りる途中に恵亮堂・西塔政所があります。

この恵亮堂は恵亮和尚(800‐859)を本尊として祀っています。

この和尚は大楽大師と称し、当時お山の中では修力霊験に最も優れた和尚だったそう。

京都の妙法院を創建し延暦寺西塔の興隆に尽力した

比叡山では、座ることを坐禅止観といって、最も大切な修行のひとつとしています。

恵亮堂

恵亮和尚(800‐859)を本尊として祀る。

この和尚を大楽大師と称し、当時お山の中では修力霊験に最も優れた和尚であり、京都の妙法院を創建した人であった。

なお、恵亮は延暦寺西塔の興隆に尽力した。

釈迦堂(転法輪堂)

西塔は本堂にあたる釈迦堂を中心とする区域です。

西塔の本堂にあたるのが、この転法輪堂です。
一般にはご本尊の釈迦如来にちなみ、釈迦堂の名で知られています。

現在の釈迦堂は、延暦寺に現存する建築中最古のもので、もとは三井寺の園城寺の金堂でしたが、秀吉が文禄四年(1595年)に西塔に移築したものとなります。 国重要文化財に指定されています。

にない堂をみあげる。

浄土院へ向かう。

浄土院

伝教大師の御廟がある浄土院は、弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂された大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置した場所です。

浄土院御廟所。

山王院へむかう、少々距離がある。

元三大師霊場。

山王院は東塔の惣持院の西方に位置する小堂です。
見た目は、まるで田舎の小高い丘にあるひなびた神社のようです。

ここは智証大師円珍(814~91)の住房であったことで知られています。

天台宗第六祖・智証大師円珍の住房で後唐院とも呼ばれた。

千手観音を祀ることから、千手堂、千手院とも呼ばれる。

円珍没後、天台宗は円珍派と慈覚大師円仁派の紛争が起こり、円珍派は、ここから円珍の木像を背負って園城寺(三井寺)に移住したのだという。

武蔵坊弁慶が千日間の参籠をした堂とも伝えられている。

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比叡山東塔へ


涼しいという話に乗って比叡山を目指す。
高野川では子供たちが魚とり、これは涼しそうだ。

叡山電車「八瀬比叡山口駅」から徒歩1分という便利な場所にある叡山ケーブル「ケーブル八瀬駅」。
ここから「ケーブル比叡駅」まで移動します。

ケーブル比叡山駅についたら叡山ロープウェイに乗り換え、「ロープ比叡駅」から「比叡山頂駅」に移動。
そこから延暦寺まではバスが出ています。

比叡山に広大な寺域を持つ、天台宗の総本山。
平成6年に世界文化遺産に登録されています。

奈良時代末期、19歳の最澄(さいちょう)(767-822)が、比叡山に登り草庵(そうあん)を結んだのが始まり。

最澄が中国に留学して天台宗を開立してからは、弘法大師(こうぼうだいし)の開いた高野山金剛峰寺(こうごうぶじ)とともに、約1200年もの間、日本の宗教界最高の地位に君臨し、この比叡山からのちに日本仏教をささえた円珍(えんちん)(814-891)、円仁(えんにん)(794-864)、慈円(じえん)(1155-1225)、源信(げんしん)(942-1017)、法然(ほうねん)(1133-1212)、親鷲(しんらん)(1173-1262)、一遍(いっぺん)(1239-89)、道元(どうげん)(1200-53)、日蓮(にちれん)(1222-82)などの傑僧(けっそう)を輩出しています。

画像は大講堂

大講堂は比叡山延暦寺東塔に位置する建物で、単に「講堂」とよばれることもありますが、横川の四季講堂などと区別するため「大講堂」と称されています。

戒壇院よりも高い場所に位置しており、多くの法会の舞台ですが、幾度も焼失してきました。

現在の建物は昭和38年(1963)に讃仏堂を移築したもので、寛永11年(1634)の建立です。

東塔は延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域。

伝教大師最澄が延暦寺を開いた場所であり、総本堂根本中堂をはじめ各宗各派の宗祖を祀っている大講堂、先祖回向のお堂である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっています。

大講堂の西側、一寸した高台の上に「戒壇院」が建っている。

ここは、天台宗の僧が住職になるための必修の条件である大乗戒(規律)を受ける堂で、年に一度授戒会が行われる。
このためか「戒壇院」比叡山中でも最も重要な堂の一つであるとされている。

最澄上人が大乗戒壇院を建立すべく心血を注いでいたが、存命中は実現せず、最澄の死後7日目に嵯峨天皇より勅許が下ろされ、堂は天長5年(828年)に第一世義真座主により創建されたといわれている。

気温27度といううたい文句につられてきたが、木陰は涼しいものの、日向に出ると熱風が容赦なく吹き付ける。

阿弥陀堂

昭和12年(1937)に建立された、檀信徒の先祖回向の道場。
本尊は丈六の阿弥陀如来です。
一般の方々の回向法要もしております。

法華総持院東塔

昭和55年に阿弥陀堂の横に再興された。

伝教大師最澄は日本全国に6か所の宝塔を建て、日本を護る計画をされましたが、その中心の役割をするのがこの東塔になります。

本尊は大日如来をはじめとする五智如来が祀られており、塔の上層部には仏舎利と法華経が安置されています。

本尊の阿弥陀如来

「雷すでに起らずなりぬ秋ふかく大比叡の山しづまりたまへ」

吉井勇は比叡山に来るといくらでも歌が作れたらしく、著作「京都歳時記」には山中での出来ことを題材にした多くの歌が詠まれている。

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大阪暮らし


木戸門を入ると、大通りの両側には商家が並び、路地の奥には裏長屋が。

天神祭のしつらいを再現した「夏祭りの飾り」。

屋根の上では猫のにらみあい。

路地では犬が。
のどかな天保初年の風情。

涼し気な町家の中庭。

天保初年(1830年代前半)の大坂の庶民の暮らしぶりをのぞく。

明治45年(1912)市電の敷設にともなって堺筋は12間幅に拡幅された。
これを機に近代的ビルや近代的町家が建てられ、都市景観は大きく変った。

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淀屋橋


橋の南西に居を構えていた江戸時代の豪商・淀屋が米市の利便のために架橋したのが最初で、橋名もこれに由来する。

米市は橋の南詰の路上で行われていたが、1697年(元禄10年)に堂島へ移った。

現在の橋は都市計画学者でもあった關一第7代大阪市長による御堂筋拡幅工事の一環として、1935年(昭和10年)に完成した鉄筋コンクリート造りのアーチ橋。

淀屋橋と対になる、堂島川に架かる御堂筋の橋である大江橋も同年完成で、両橋のデザインは1924年(大正13年)の大阪市第一次都市計画事業で公募されたもの。

パリのセーヌ川を参考に景観に配慮したデザインは、一部補修された以外は懸架された当時のままで、市の第一次都市計画事業の目指すところを後世に伝えている。

2008年(平成20年)には、「大江橋及び淀屋橋」として、コンクリート橋としては珍しく重要文化財に指定された。

淀屋家は堂島米市場や天満青物市場、さらに雑喉場(ざこば)魚市場の形成に多大な貢献をしたといわれるが、宝永2年(1705)突如として闕所(けっしょ)処分とされ、家が断絶となった歴史が残っている。

当時の橋は明治18年(1885)の大洪水のため流失した。

淀屋は、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商であるり、総資産は約20億両 (現在の貨幣価値に換算すると約200兆円) 。

全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。

米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。

しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興した。

幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。

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