落柿舎


落柿舎(らくししゃ)は、京都市右京区の嵯峨野にある草庵である。

松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた場所であり、その名の由来は、庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちたことによる。

芭蕉も3度訪れ滞在をし、『嵯峨日記』を著した場所としても知られている。

去来がこの草庵について書いた『落柿舎ノ記』がある。

庵の庭には40本の柿の木があり、日頃去来は人にこの庵の管理を任せていた。

ある時(1689年(元禄2年)頃)、去来がちょうど在庵中に、都から柿を扱う老商人が訪ねてきて、庭の柿を一貫文を出して買い求めたので、去来は売る約束をして代金を受け取った。

しかしその夜、嵐が吹き、一晩にして柿がすべて落ちてしまった。

翌朝来た老商人がこの有様に呆然としつつ、代金を返してくれるよう頼み込み、去来はこれを不憫に思って柿の代金を全額返した。

この老商人が帰るにあたって去来は友人あての手紙を託し、その中で自ら「落柿舎の去来」と称したという。

去来は、貞享2-3年(1685年 – 1686年)ころに、嵯峨野にあったこの庵を入手した(なお、去来の当時の庵の正確な場所は不明である)。
もともと豪商が建築したものである。

芭蕉は、1689年(元禄2年)以来3度にわたってこの庵を訪れた。

とくに1691年(元禄4年)には4月18日から5月4日までと長く滞在し、『嵯峨日記』を著した。

このほか、野沢凡兆とその妻・羽紅(うこう)、去来が訪ねてきて一つの蚊帳で5人が一緒に寝たりしている。

現在の庵は、1770年(明和7年)に俳人・井上重厚(嵯峨出身で、去来の親族でもある)により再建されたものである。

この場所は弘源寺の跡であった。
また明治初年にも再興されている。

現在の庵の裏手には去来の墓がある。

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化野念仏寺


化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。

山号は華西山。
化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。

化野は古来より鳥辺野、蓮台野ともに葬地として知られ和歌では 「化野の露」として人生の無常をあらわす枕詞に使われています。

寺伝によれば当寺は空海が弘仁年間(810~824)に小倉山寄りを金剛界、曼茶羅山寄りを胎蔵界と見立てて千体の石仏を埋め中間を流れる川〔曼荼羅川〕の河原に五智如来を立て、一宇を建立し五智如来寺と称したのが始まりといわれています。

当初は真言宗でしたが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念仏寺と呼ばれるようになりました。

1712年(正徳2)黒田如水の外孫の寂道が再建したといわれています。

本堂には本尊の阿弥陀如来像を安置し、境内には賽の河原を現出した多数の石塔、石仏が立ち並んでいます。

竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります。

風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました。

死後その悲しみを雷神の身体を白色にして宗達は黒の風神図として供養したともいわれています。

寛永9年(1632年)、死去。享年62。
本墓は遺言により一族の墓所がある二尊院でなく、化野念仏寺に置かれた(二尊院にも墓所はある)。

本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建されたもの。

境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年(1903年)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。

境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。

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愛宕念仏寺


愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)は京都府京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の仏教寺院。

本尊は厄除千手観音、別名千二百羅漢の寺。
愛宕山参道の山麓の入り口に位置する嵯峨野めぐりの始発点として知られる。

8世紀中頃、称徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建。
平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたらしい。

すでに荒れ寺となっていた上に、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失。
廃寺同然を、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。

千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗に属した。

この際いったんは七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えたが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。

1922年それらを移築して現在地での復興を目指すが失敗。
あまりの荒れように、1955年に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝も、引き受けるのをためらったという。

それを清水寺貫主・大西良慶の「それだけ傷んでおれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、おまえは復興者、復興者やといってもらえる。

わしも手伝ってやるから」の激励で復興に取りかかった。

以来、仏師として全国を飛び回る傍ら、本堂、地蔵堂、仁王門などを整備した。

素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』が始まったのは、1981年。当初は五百体が目標だったが、10年後には千二百体に達した。

五百羅漢の石像を奉納する希望者が、自身で1人1体ずつ彫りました。

寺に通いながら作業して、1人が7日から10日ほどかかっていましたね。

石は栃木県の大谷石というキメ細かく細工しやすい石を直方体に切り出して送ってもらいましたが、1200体の完成とともに原石がなくなり今ではもう産出してないそうです。

阿羅漢というのは、釈迦の弟子のこと。仏の教えを伝えた聖人です。“羅漢さん”と呼ばれることも。

日本では、戦災などで多くの人命が失われた時に、その霊を慰めるために五百羅漢が作られました。

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「鏡絵馬」で美人祈願!河合神社


河合神社は下鴨神社の摂社として古くより祀られ、女性守護としての信仰を集めるお社である。

ご祭神には神武天皇の母、玉依姫命をお祀りし、玉依姫命は玉の様に美しい事から美麗の神としての信仰も深い。

この神社にお参りするのは圧倒的に女性が多く、しかも若い女性がほとんど! その理由は河合神社・中門の看板に記されている「女性守護 日本第一美麗神」の文字!

手鏡の形をした絵馬(顔を表す模様が入った)にご自身の普段使用されている化粧品でメイク、裏に願意をご記入。

絵馬にご自身の綺麗な表情を描いて、絵馬に願いを託すことにより外見だけでなく内面も磨いて美しくなっていくと言う絵馬である。

創建年代は不詳ながら、神武天皇の御代にまで遡るという伝承がある。

三大随筆の一人、鴨長明に関係の深いお社で鴨長明は河合神社の禰宜の息子として幼少時代を過ごした。

現在では、この河合神社には長明が晩年過ごしたと言われる建物を再現した方丈の庵が展示されている。

ラクビーボールの形の絵馬は、「河合神社」で販売(500円)、数多くのラグビー部員、ファンの絵馬が奉納されている。

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スイてます嵐山


コロナウイルスの蔓延であちこちの観光地ががらすきです。

こんな嵐山を見るのは何年ぶりだろう。

おかげで気持ちよく観光できます。

混雑する竹林から亀山公園に向かいます。

亀山公園の由来は小倉山から伸びる屋根で山の形が亀に似ていることから、この名前がつけられたといわれています。

山頂からの桂川(大堰川)の眺めもなかなかいいものです。

ミツバツツジがきれいでした。

嵯峨天皇火葬塚

桓武天皇の第2皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。
異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。

譲位後、洛西の嵯峨院に住み、また嵯峨の山北に葬られたことから嵯峨天皇と追号された。

嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)大覚寺の近くにあり>


村岡局の像

彼女は元の名を津崎矩子といい、公卿の近衛忠煕に仕え、中臈を経て老女となり、村岡局を名乗った。

黒船来航以降、近衛忠熈が尊王攘夷派の公卿として頭角を現すと、彼女は清水寺の僧・月照や水戸の鵜飼吉左衛門らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たります。

その月照を通して知り合った西郷隆盛の活動も手助けします。

幕末に近衛家の老女津崎村岡局が浄土宗の寺として再興したのが現在の直指庵である。
紅葉と竹 嵯峨野の直指庵
1646年(正保3)に隠元禅師の高弟独照性円禅師が草庵を結んだのが始まり。 直指 … 続きを読む →

近衛忠熙篆額による村岡の顕彰碑があります。
小雨の大覚寺
投稿日時: 2016年7月28日
弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。 正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と … 続きを読む →


角倉了以像

現在の像は2代目で、1代目の像は大正元年に建立され、戦時中の資材供出で撤去された。
現在の像は1988年に地元の有志が設置したもの。

三条京阪の高山彦九郎像、円山公園の坂本龍馬像と並んで「京都三大銅像」の一つとされている。

茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう:呉服商)、後藤庄三郎(後藤正三郎:金座の当主)と並び、京都の三長者と言われる。

保津川開削や高瀬川開削で力量を発揮して、安定した収入源を築き上げ、莫大な富を手にした。

角倉了以別邸跡 高瀬川源流庭苑
現在のみそそぎ川は京都府立医大病院の北側で鴨川から取水し、そのまま暗渠で荒神橋を … 続きを読む →

角倉了以の石碑があります。
桜咲く伏見を散策
この暖かさで桜も一気に開花する、ここ伏見では桜祭りが開催されていた。 弁天浜の1 … 続きを読む →


今、アセビが花盛りです。

保津川下りの船が下ってきました。

保津川という呼び方も亀岡流域の保津地区から保津峡の区間に限ってのことであり、嵐山に入ると渡月橋の下流までを大堰川と呼んでいます。

大堰川の名は秦氏が嵐山の下流に大きい堰を設け、農耕のために水利の便をはかったことからこのあたりを大堰川と呼ぶようになりました。

嵐山から下流は桂川と呼ばれる。

謡曲「小督」の旧跡

小督局は、桜町中納言藤原成範の女(むすめ)で、宮中で美人の誉れ高く、高倉天皇(第80代、在位1168~80)の寵愛を一身に集めていた。

しかし、平清盛の女、徳子(建礼門院)が中宮であったため、平家の圧迫をおそれて、この地、嵯峨野に身を隠した。
その時の仮住居が、この「小督塚」辺りであったといわれている。

謡曲「小督」は、天皇の命により、小督局を探しに当地を訪れた弾正大弼源仲国が秋霧の間に微かに聴える琴の調べを便りに遂に局の居所を探し得たという物語である。

今でも、渡月橋の北詰にある石橋は、琴聴橋とも、駒留橋とも呼ばれ、仲国が想夫恋の曲を聴いたところと伝えられている。
                     京都謡曲史跡保存会

この「琴きき橋」には、とても美しくも切ない恋の物語があります。

そのお話のヒロインは小督局(こごうのつぼね)
藤原成範の娘。

時は平家全盛の平安時代最末期、時の帝、高倉天皇が琴の名手で京都一の美貌とまでいわれた小督を寵愛したところからはじまります。

しかし、高倉天皇の中宮(后)は平清盛の娘徳子であり、小督のことを知った清盛は大変怒り、平家からの小督に対する圧力は凄まじいものでした。

自分の身が危ういことより、自分を愛してくれる高倉天皇にわざわいがふりかかることを恐れた小督は、ひそかに宮中を去り嵯峨野に隠れてしまいます。

高倉天皇は、小督がいなくなったことを深く悲しみ、源仲国に小督を捜すように命じます。

仲国は8月10日(陰暦の十五夜)、名月の夜なら琴を弾いているにちがいないと思い、千代古道をたどり嵯峨野辺りを訪ね馬を走らせます。

二人はひっそりと逢瀬を重ね、中宮徳子よりも早く高倉天皇の子供を産みますが、しかし、またも清盛の知るところとなり、小督の髪を剃り出家さされ、二人は引き裂かれます。

哀れかな、高倉天皇は、若干21歳で崩御され、東山にある清閑寺に葬られます。

尼となった小督は、清閑寺近くにに住み、高倉天皇の菩提を弔いながら44歳まで生きたとされます。

小督局悲恋の地 清閑寺
歌の中山清閑寺、和歌や古典文学に名高い清閑寺は由緒ある寺で延暦21年(802)に … 続きを読む →


渡月橋を渡る人々の流れは緩やかです。

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遣唐使船の守護神


唐に使いする朝廷官吏や留学生のほか遣唐使船を動かす主だった乗組員は、「難波ノ津」を出る前にかならずこの住吉大社に詣で、航海の神・海の軍神である「住吉三神」(底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと))に渡海の無事を祈ることになっていた。

その海上安全の祭祀を司る神職(津守氏)は遣唐神主として遣唐使船に乗船し、船の舳先に立てた「三神」の護符の前で航海中ずっと神事を行うのである。

「津守」とは「津を守る(神職)」の意。

「反橋」は住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれています。

現在の石造橋脚は、慶長年間に淀君が豊臣秀頼公の成長祈願の為に奉納したと伝えられている。

かつての「反橋」は足掛け穴があいているだけで、とても危なかったそうです。

川端康成は作品『反橋』(昭和23年)において、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです、私は母に抱かれておりました」と記しています。

「反橋」を渡ったところにある鳥居は四角柱で角鳥居と呼ばれています。

このような四角柱の柱は古い様式で大変珍しく、各本殿と拝殿の間に建っている木造朱りの鳥居が原形となっているそうです。

なお、額は陶製で、有栖川宮熾仁の筆。

「反橋」のたもとの古木。

神宮寺跡は神仏混淆(こんこう)の名残りで、平安時代には有名神社のほとんどに設けられたという。

当寺は天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)創建と伝えられ、津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていた。

明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸したが、そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、移築され現存している。

なお今に伝わる住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものという。

荘厳浄土寺について触れています。
住吉公園界隈の桜便り
この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。 画像は2013年3月30日訪問 … 続きを読む →


境内には今開催中の大相撲立浪部屋の土俵があります。
コロナの影響で無観客での開催となって寂しい限りです。

津守王子は、九十九王子の6番目の王子。

大阪市住吉区墨江2-3の墨江小学校にあったが現在は姿を留めていない。

現在は住吉大社境内の摂社・新宮社に合祀されたとも、住吉区沢之町1-10-4の止々呂岐比売神社(若松神社)に合祀されたともいわれている。

津守という名称は、住吉大社の古代よりの奉斎氏族であり宮司家でもあった津守氏にちなんだものである。

熊野御幸をした天皇、上皇たちは、この地の住吉大社に和歌を奉げた。

熊野御幸記を歩く②住吉大社~信太山
熊野御幸記を歩く第二回、今回は住吉大社~信太山まで20㎞だ。 津守王子跡 津守王 … 続きを読む →


五大力パワーもコロナにはかなわなかった。

神仏習合の影響で、神宮寺の五大力尊信仰と結びついた。
その「五大力さん」というのは、仏教の中の、五人の明王のことです。

住吉大社への観光は路面電車の阪堺電車。

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信貴山朝護孫子寺


信貴大橋のバス停を降りると白虎が出迎えです。

開運橋上路

1930年(昭和5年)に大阪から信貴山へのアクセスとして、信貴山急行電鉄(鋼索線と、高安山駅~信貴山門駅の鉄道線)が開業したが、信貴山門駅から朝護孫子寺の間に大きな谷(大門池)があり、大きく迂回する必要があった。

そうした不便を解消するため、熱心な信者であった旧松尾橋梁株式会社の社長が信貴山に寄進したとのこと。

トレッスル橋脚を用いたカンチレバー橋であり、日本では最初期のもので、現在でも非常にめずらしい形式である。
外観は朱塗りされ、欄干には信貴山のシンボルである寅のイラストが随所に施されている。

戦国時代には木沢長政が信貴山頂に信貴山城を築いた。

1577年(天正5年)に同城の城主・松永久秀と織田信長の間で信貴山攻防戦が行われて久秀は滅亡し、寺も焼失するが、豊臣秀頼によって再建された。

現在、山頂には同寺の「空鉢堂」があり、本堂付近から参道で連絡している。

2/22、23はトラ祭りの大法要が行われる。

休憩所の特設祭壇に山積みに納められた約5000体の「張り子のトラ」を読経供養する法要が寅祭り。

祭りの当日は大変混雑するためあえて前もって訪問した。

今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。

太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。

その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。

太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。
以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されている。

境内の至るとこる寅のオンパレード。

よく見かける大寅、遠景は本堂。

成福院の塔越しに本堂を望む。

本堂から成福院の塔、地蔵尊を望む。
神仏習合の名残から、境内には鳥居も並んでいる。

醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をしました。

加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。
よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。

なお、当時醍醐天皇の病気は相当進んでいたようで、1か月後の9月29日に死去しており、この点は説話と異なっている。

信貴山は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境に位置し、朝護孫子寺の住所は奈良県であるが、『宇治拾遺物語』『扶桑略記』には「河内の信貴(志貴)」と表現されている。

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生駒聖天宝山寺


「宝山寺」はお寺ですが、神社の象徴である鳥居を設けている、古代のヒンドゥー教とも言えるバラモン教の神(天部)を祀っているからです。

途中でかわいい花を見つけました。

ここの賽銭箱は少し変わっています、御本尊の聖天さん=大歓喜天が持っている「砂金袋」そして胴の部分には歓喜天の大好物で、食べると体内が浄化されると言われる大根を組み合わせてデザインされています。

また、よく見ていると不思議な光景を目にします、お財布を賽銭箱にこすりつけています。
そうなんです。

こうすることで聖天さんのご利益を、ダイレクトにお財布に頂こうというものなんです。
信じるかどうかは人それぞれ。

ここの魅力は杉林から差し込むサイド光。
四季折々、時間により光線の角度が変わります。

奥之院への参道両側には約三百体の石仏が並んでいます。

麓から続く参道の階段は奥の院までを含めると1000段余りあり西日本有数の規模を誇ります。

この道を行く人は、袋いっぱいの一円玉を手に、一つ一つお顔が違うお地蔵様にお賽銭をささげ、丁寧にお参りしながら進んでいかれます。

宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。

生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれ、本尊は不動明王。
鎮守神として歓喜天(聖天)を聖天堂(天堂)に祀っている。

生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。

江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。この時が事実上の開山と思われる。

江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪商人の信仰を集めた。京都の皇室や江戸の徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い。

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淡嶋神社


淡嶋神社は、人形供養で有名な神社。
全国に1000社もある「淡嶋系統」の総本社となっています。

全国で行われているひな流しの原型は、加太の淡嶋神社だと言われています。

三月三日は、朝から神社のなかは人々の熱気でむせかえります。

それぞれの思いや願いと共に、関西はもとより日本全国から境内に女性たちが集まってきます。

そして、日が高くのぼった正午、ひな流しの神事がおごそかに始まります。
当日は境内はもちろん港までの狭い道も人で埋め尽くされます。

雛祭りの起源は、中国から伝わった厄払いの儀式とされていますが、淡島神社では全国から奉納された雛人形や形代を海に流し供養を行っています。

午後から神事が行われ、3艘の船に乗せられた人形達が海に流されます。
なお、流された人形はその後回収されお焚き上げがなされ供養されます。

針供養の神社としても有名で、同神社境内には針塚が建てられており毎年2月ごろに全国から集められた針を供養する。

近年では縫い物をする機会が少なくなっていることから、供養に奉納される針の数も減っているという。

淡嶋神社で針供養
流し雛で有名な加太の淡嶋神社で8日、針供養が行われた。 この日は朝から多くの女性 … 続きを読む →

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節分祭 あびこ観音


通称あびこ観音。
山門付近の石柱は吾彦観音寺の表記となっている。
あびこの名は、この地の豪族、依網吾彦(よさみのあびこ)に由来するといわれる。

百済と交易をしていた依網吾彦の一族が百済の聖明王から一寸八分の観音像を贈られ、欽明天皇7年(546年)にこの地の人々がその像を祀る堂を立てた。

そして、推古天皇14年(607年)に聖徳太子がその観音像を祀る観音寺を建立したとされる。

1615年(元和元年)大阪夏の陣の折、真田幸村に追われた徳川家康はこの寺に逃げ込み、本堂の須弥壇に隠れ、難を逃れたとのことで、その後家康の寄進により、再建した。江戸時代には、徳川家の帰依もあり、境内に36の支院があったといわれ隆盛をきわめた。

巨樹の楠、幹周/4. 8m、樹高/19. 5m、樹齢/約700年。

池には見事なコイが泳ぐ。

本堂の周りには、本堂を囲むように33体の観音像が並んでいます。

節分のときには線香の量が多すぎて炎があがっている。

線香と護摩祈祷の煙が境内に立ち込める。

1月・2月に行われる護摩祈祷がよく知られている。
修験道形式の天蓋護摩(てんがいごま)で、奉書などで作られた紙製の天蓋を護摩炉の上に吊す。

天蓋は護摩炉の炎が近くに至っても燃えないという。

1月・2月に護摩堂で行われる護摩祈祷は、申し込み者の御祈祷への立ち会いは可能。

御祈祷の後、御祈祷を受けた御札を手渡される。

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