旧柳生藩陣屋跡


陣屋は柳生一族の菩提寺である「芳徳寺」が完成した後、江戸時代前半の寛永19年(1642年)に柳生藩初代藩主の柳生宗矩によって建てられたものであり、広さは1374坪(4534平米)であったとされています。

なお、正式な陣屋の建物があった期間はそれほど長くはなく、約100年後の延享4年(1747年)の火災による全焼後は復興せず、仮建築のまま廃藩を迎えたという歴史を持っています。

現在は静かな風情が広がる「広場」になっている陣屋跡は、建物などは残されていないものの史跡公園として奈良市により整備され、屋敷の区画が石垣で再現されているほか、春にはソメイヨシノが300本ほど咲き誇る隠れた「桜の名所」としても知られており、柳生エリアの観光・ハイキングの途中に休憩に立ち寄るのにも適した空間となっています。

ここは宮本武蔵が柳生石舟斎を訪ねたところです。
立ち合いのときに、風の音、鳥の声が聞こえるか?と諭しています。

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柳生八坂神社


元は春日大社の第四殿比亮大社を祀っていたが、柳生宗冬が大保町の八坂神社からスサノオの分霊を勧請して社殿を造営して、八坂神社と改めたという。


拝殿については同じく柳生エリアにある神社であり、本殿ではなく磐座をご神体とする天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)の能舞台として用いられていた建物を移築したという歴史も持っています。

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のどかな「柳生の里」を見渡す摩利支天山


摩利支天山へ向かう途中で見かけた天狗の案山子、とても怖そうです。

摩利支天(まりしてん)山は、剣豪の里「柳生」エリアの中心部、「柳生八坂神社」や「陣屋跡」に近い場所にある小高い丘(山)です。

柳生の集落を望む眺めの良い空間には、隣接する柳生八坂神社も創建した柳生藩2代藩主の柳生三厳の子柳生宗冬が武道・武将の神様としても信仰を集めた「摩利支天」を祀ったとされており、かつては祠があったとされています。

現在は祠は残されていませんが、それにちなんで「摩利支天碑」と呼ばれる石碑もあり、摩利支天のレリーフが刻まれています。

丘から家老屋敷を望む。

芳徳寺など柳生の名所や街並みが一望できます。
丘には桜が植樹され、春には桜で彩られます。

柳生中学校の南に位置する摩利支天山は、校地の一部であり、かつては桜の名所であった。

雑木の茂るままに長年放置されてきたこの山を復活させるために、以下の取組みを行った。

① 柳生中学校の環境整備活動の一貫として、生徒・教職員・保護者が頂上付近を伐採。
② 伐採の専門家を含む地域ボランティアが急 峻な斜面を伐採。

今後は、山桜の苗を入手し、苗木の植樹にふさわしい時期を選んで、関係者全員の手によって植樹する予定。

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旧柳生藩家老屋敷


バス停から家老屋敷跡へ向かう、田植えの終わったばかりの田に塀が映り込みきれいです。

ちょうど田植えの真っ最中、緑がきれいです。

柳生藩の財政立て直しを行った、家老小山田主鈴(おやまだしゅれい)の旧屋敷。

豪壮な石垣がみごとで、天保12年(1841)尾張石工が築いたと刻まれています。

旧柳生藩家老屋敷の「長屋門」。

説明文には「正門の両側に長屋があり、中間部屋としていた。
明治になって茶づくり部屋に改造されていたが一部を残して両はしの部分が取りこわされた。」とありました

長屋門をくぐって建物を見ると、庭のあちこちに「米蔵」「納屋」「平門」「物置」などの看板が立っていて、その配置が分かるようになっている。

玄関  柵があって ここからは入れない、当時は、主人と殿様や来客者のみが使用した。

家紋「二階笠」。
こちらは、坂崎出羽守という武将からもらった家紋です。

十兵衛映画やドラマを見ていると笠を被った姿が印象的です。

笠の下には眼帯をした十兵衛登場!といったところかな♪

柳生家家紋も”二蓋笠”と呼ばれる二つ笠を記した模様となっております。

殿中衣

庭園:面積約250㎡、東面から北面に、矩折に展開している。

作庭にあたっては大阪の茶人木津宗詮の指導を受けたと伝え、前庭と合わせて大小24基の灯篭が配置されていたという。

手水鉢のあとの石組みのほか、各所に岩の景石が残されている。

カエデ・カシ・モチの巨木は樹齢およそ200年を数えるとみられる。

修復にあたってはできるだけ原型をとどめるよう意を用いた。(現地案内板より)

主鈴は岩代国(現在の福島県)の出身。江戸の柳生藩邸に仕え、文政9年(1826)に国家老として奈良に移り、商才を生かして柳生藩財政を立て直した。

昭和39年作家山岡荘八氏の所有となり、氏の小説「春の坂道」(NHKでドラマ化)の構想を練った屋敷として注目を集め、氏の亡き後は、その意志により、奈良市へ寄贈されました。

柳生焼は、柳生十兵衛の祖母、春桃御前が馬頭観音を焼いたのが始まりと言われる伝統の窯。

藩の性格上「お庭焼」の域だったが、明治に至り、長く中断していたこの窯を、井倉家先々代より再興と研究し、先代喜太郎の代に柳生焼と成した。」とある。

燕が巣を作っています。

 『兵法の かちをとりても 世のうみを わたりかねたる 石のふねかな』
 (意訳:剣術でいくら勝っても、世の中どうにもならんよね)

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柳生の里散策


市内の中心部からバスで約50分、散策の出発点「柳生バス停」を目指す。

出発時はバスは満員、大半が途中の円成寺で降りる。

新緑の円成寺
奈良市街東方の柳生街道沿いに位置する古寺で、仏師・運慶のもっとも初期の作品である … 続きを読む →

柳生の里を何回かに分けて紹介します。

中央にある枯れた木が十兵衛杉。

墓地の最上部に在る巨大な杉で、真っ直ぐに天を衝き四方に雄大な枝を広げています。
昭和48年の夏、二度の落雷により枯れてしまいました。

 樹齢は350年ほど
 幹周りは目通り約4m

この杉は、柳生十兵衛三巖が三代将軍家光の内命を受け、柳生村を出立する時、先祖の墓所である中宮寺に、一本の杉の若木を植えたと伝えられます

柳の森は、柳生の地名の元になった場所で、大昔、ここに誰かが杖を立てておいたところ、やがてそれが柳の大木となりそこから柳生という地名になったという伝説の場所で、「柳の森」と呼ばれるようになりました。

「柳生」は大化の改新の頃には「楊生郷」という字が使われていましたが、南北朝時代に後醍醐天皇に味方して敗れ、建武の中興で復活して、以降、「楊生」から「柳生」に変わったと考えられています。

柳生の里は今田植えの真っ最中、まばゆいばかりの新緑です。

“柳生新陰流”で知られる剣豪・柳生の里は奈良市の東北部にあり自然豊かな里です。

柳生石舟齋宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)が徳川家康に無刀取りを披露し、将軍家の兵法指南役として仕えた。

柳生陣屋跡近くにある花しょうぶ園は、1万m2の広大な土地に期間限定でしょうぶ園が開かれます。

約80万本460品種のしょうぶがあり、一面の緑の中に青や紫、白や黄のしょうぶやあじさいが咲き乱れ観光客の目を楽しませています。
開園/6月上旬~下旬

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今井の環濠集落


八木西口駅からガードをくぐり蘇我橋を渡ったところが今井町。
橋のたもとに残る大エノキ。樹齢400ン十年とか。

天文年間(1532~55)、本願寺の今井兵部によって建てられた称念寺が、今井町の起こりと言われています。
農民などを門徒化し、ここを拠点に一向宗の布教を進めるためでした。

[歴史ある伝説の地には井戸がつきものですが、江戸時代の景観が今も残る今井町入口にも井戸がありました。

飛鳥川の畔、蘇武橋を渡った所にある蘇武の井。

蘇武の井の解説パネル

『かつて、蘇武井からは良質の水がこんこんと湧き出てき、今井の里の千軒の家々がこの水を毎日汲んでも、またいかなる日照りが続いても、涸れることはなかったという。

庚申の右手に石碑が立ち、「今井ソンボの朝水汲みは桶がもるやら涙やら」と歌の一節が刻まれている。

今井蘇武の朝水汲みは、桶から漏れる水と自分の涙で、襦袢や片袖がみな濡れたという意味だそうな。
朝水汲みの厳しさが伝わってくるような歌である。

この付近は昔の高市郡遊部郷にあたる地域で、飛鳥川も遊部川といい、蘇武井のある付近は”遊部の岡”とか”あそふ岡”と呼ばれていた。蘇武または尊坊は、”あそぶ”がなまって、”アソブベ”の上・下音アとベを省略した語であるとする説がある。

文明15(1483)年に書かれた聖徳太子伝玉林抄という書物では、「太子斑鳩より蘇武蘇武の橋を渡り、八木の里を経て橘京へ通う」と書かれているそうで、また、聖徳太子が水を飲まれたとも、愛馬の黒駒に水を与えられた井戸とも伝えられている。』 

この頃、天下統一を狙っていた織田信長と一向宗は敵対しており、各地で一向一揆が起こっていました。

今井町も濠を深くし、厳重武装で反抗していましたが、本願寺の降伏に伴い、交流の深かった堺の豪商や明智光秀のとりなしで武装放棄しました。

その後は、商工業都市として発展。俗に、「今井千軒」「海の堺 陸の今井」と呼ばれるほどになっていきました。

また、経済的に豊かな町民は、茶道などの文化・文芸にも従事し、華道・能楽・和歌・俳諧などが好まれ、各地との交流も盛んになりました。

豊臣秀吉が、吉野詣での途中に今井の茶室で接待されたという記録もあります。

条里制の基幹線である中街道 (下ツ道)は八木町の札の辻、井戸の辻、醍醐辻を南北に走り、醍醐辻を西に延長していくと、今井町の本町筋に合致し、今井町を形成計画していく上での中心線となっていて、ほぼ長方形の区域の中に東西南北方向に方眼状に道路を配し、町並みや街路の形状は町造りの始められた頃の区画が今も残っている。

下ツ道を行く 東の平田家訪問記
江戸時代中期以降「八木の札の辻」界隈は、伊勢参りや大峯への参詣巡礼などで、特に賑 … 続きを読む →


細く入り組んだ道が縦横無尽に張り巡らされた集落だけに、防災に対する意識も高いのでしょう。

旧米谷家や音村家のある通り沿いに「中町筋生活広場」という防災拠点が設けられていました。

過去の今井町散策記録。

古い街並みが残る「今井町」散策
近世以前の町並みがこれだけまとまって残っている場所は日本では他に無いといわれ、重 … 続きを読む →

今井町 上田家住宅
上田家は、今西家、尾崎家と共に惣年寄を勤めた家で、江戸時代初期には酒造業も営んで … 続きを読む →

今井町 中橋家住宅
称念寺東方斜め筋向かいの御堂筋北側に面する中規模な民家。 切妻造、本瓦葺、平入り … 続きを読む →

9今井町 町家茶屋 古伊
今井町の本町筋(豊田家の北側)にある、『町屋茶屋 古伊』。 中心部にあってアクセ … 続きを読む →

都市住宅の始まりを伝える江戸初期の町家 豊田家住
伝統的な都市住宅の先駆けと評価される豪商の住まい。江戸初期に建てられた塗り屋造り … 続きを読む →

「八棟造り」と呼ばれる 今西家住宅
投稿日時: 2016年5月19日
戦国時代の構造様式を残す建造物で慶安3年(1650年)に7代目当主今西正盛によっ … 続きを読む →

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第1回近畿の駅百選選定駅 浜寺公園駅舎


「東京駅」や「中之島中央公会堂」など、数々の重要文化財を手掛けた辰野金吾の設計により、1907年に建てられた木造平屋建ての駅舎は、1998年に国の登録有形文化財に登録されている。
第1回近畿の駅百選選定駅。

駅舎は1907年(明治40年)に現在の駅名に改められた時から現存するもので、私鉄最古のものとされている。

テレビ番組等でもしばしば紹介され、近代建築の代表作の一つとして知られる。

なお、近江鉄道日野駅、桜川駅の駅舎は同鉄道の資料によれば当駅より古い1900年(明治33年)開業以来のものとされている。

曳き家に先駆けて実施した構造補強の調査を行ったところ、従来は構造材の柱・梁・斜材などを露出させ構造材以外をモルタルで仕上げた「ハーフティンバー様式」と考えられていたが、旧駅舎の斜材などは構造材でなく装飾材であり同様式でもないことが判明した。

鉄道唱歌第5集(関西・参宮・南海篇)(1900年(明治33年)作詞)59番の歌詞にて、当駅が登場する。

かけじや袖とよみおきし その名高師が浜の波 よする浜寺あとに見て ゆけば湊は早前に

鉄骨で補強された姿が痛々しい。

建物を解体せずに移動させる「曳家(ひきや)」が実施され、元の場所から30メートルほど西側前方に移動した。

2018年(平成30年)4月15日 – 旧駅舎がギャラリー、カフェ・ライブラリー、イベントホールなどの営業を開始し、地域交流拠点として試験活用される。

木造平屋建ての南北2つの棟の間に通路がある。
南棟はかつて特等客の待合室として使われた。

高い天井、広い窓、シャンデリアが格調の高さを示し、壁際には小さな暖炉が今も残る。

日本最古の公立公園・浜寺公園の真ん前にある阪堺線の単式1面1線の終着駅。

公園前の開放的な空間にたたずむ1面ホームとレトロ感のある駅舎は、地方のローカル線の終着駅的な雰囲気を醸し出している。

浜寺駅前駅は、南海浜寺公園駅開業から遅れること15年の1912年(明治45年)に開業。

ともに1世紀以上の歴史を有する駅だ。

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甲賀流忍術屋敷


忍者自身の住居として現存する日本で唯一の建物。

甲賀忍者の五十三家の筆頭、望月出雲守の旧宅。

望月出雲守と甲賀忍者

甲賀忍者を世に知らしめた出来事が、長享元年(1487年)の鈎の陣。

幕府の命に背く佐々木六角高頼討伐のため将軍足利義尚自ら大軍を率いて近江に来攻した時、甲賀武士団は佐々木六角氏に助勢し、山中でさまざまな奇襲攻撃をかけ、時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、佐々木六角氏を助けた戦い。

これを機に、望月出雲守を筆頭とする甲賀武士団の神出鬼没の戦術やその高い戦闘能力の印象が、「甲賀忍者」と呼ばれるようになり、その後戦国時代には、各戦国大名を影から支えていきました。

甲賀望月氏本家旧邸の歴史

江戸時代元禄年間(1688~1704年)に建てられたもの。

江戸時代に入り、世の中が安定を取り戻しつつありましたが、戦国時代から百年余りで乱世の記憶も覚めない当時、また甲賀ゆれ(豊臣秀吉による改易処分)等厳しい経験を重ねてきたこともあり、甲賀忍者として高度な資質、能力を有していた望月氏は、今後の不測の事態に備え、身を守るために自身の居宅に、多くのからくりを施したと考えられます。

奈良時代より、甲賀は、杣地方として巨大木が多く、京都奈良の建築物に多く使用され、そのような中で培われた巧みな建築技術や、また非常に合理的な思考、深い洞察力を有していた忍者として、攻撃目的のからくりでなく、素早くその場を離れることを最優先にするというからくりの考案設計技術等、防御建築(防衛建築)としての観点からも、非常に見応えがあります。

くノ一について

女中や小間使いとして潜入して諜報活動を行っていた女性の忍者も存在した。

忍装束を着て映像作品や漫画作品などで活躍するような通俗的な姿は、近代の創作とされる。

史実として武田信玄に仕えた歩き巫女の集団が有名。

「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するがこれとは異なる。

名称については「くノ一(くのいち)」といい、“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現を語源とする説明が一般的である。

その他陰陽道における房術である「九一ノ道」からきたとする説など、いくつかの説がある。

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奥田忠左衛門「信楽陶芸村」


奥田忠左衛門窯は明治21(1888)年に、この山裾で開窯した6代続く100年以上の歴史を持つ窯元。

山の斜面を利用した登り窯や古い形式の穴窯が完全な形で残っています。

窯屋と呼ばれた古い時代の作業小屋や粘土を板状に調整するタタラ小屋など、当時の窯元が持つ仕事場の佇まいを肌で感じる。

陶芸村ののぼり窯は、昭和9年に作られ全長約22m、全11部屋あります。

登り窯の壁は何回もの焼成によって壁が直接火にさらされているため、赤褐色のひいろ(火色・緋色、または炎色)や黒褐色を呈しています。

ちなみに2019年後期のNHK朝の連続ドラマ小説『スカーレット』 ヒロインは戸田恵梨香で、大阪で生まれて滋賀に移り住んで、信楽焼に出会います。

「スカーレット」とは?緋色のことです。

「緋色」というのは、火の色のことなのかもしれません。

以前の訪問先

信楽焼 宗陶苑
宗陶苑は江戸時代に築窯された日本最大規模の登り窯で現在でも信楽焼を作り続けている … 続きを読む →

日本最大規模の登り窯
宗陶苑の登り窯は昔乍らの11室より成る巨大登り窯。 今もなお使い続けている唯一の … 続きを読む →

ロケがどこで行われるのか気になるところですね。

そんな、窯の中の「窯中カフェ」でお茶を飲みながら、薪の火によって土が焼成し、描き出した幻想的な色合いの窯中をじっくりと鑑賞。

のぼり窯の中でちょっと一服!心に安らぎと癒しを与えてくれます。

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御斎峠 司馬遼太郎文学碑を訪ねる


炭窯跡

昭和48年に週刊朝日に連載された司馬遼太郎さんの「街道をゆく」「甲賀と伊賀のみち」 の中で「路傍から白い煙が湧き出てきた。炭を焼いているのである。

私は「梟の城」を書いたころのこの坂の情景をおもいだした。
下柘植次郎左衛門という人物がこの坂をのぼって行ったはずでった。

ちょうどその情景の中にいるこの老人をみていると、われながら滑稽だがはじめて遭ったような気がしなくなってきた。

老人は初老の男とふたりで、ござにすわっている。どちらも無口で「わしは稲本や」と老人がいい、わしは福森や、と初老のひとがいった。」
とある炭窯跡です。

街道をゆく-甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか-朝日文庫-司馬-遼太郎


伊賀上野城を出発点にした司馬遼太郎は、自身の小説『梟の城』の最初の場面の舞台・御斎峠を目指す。途中、西高倉の集落で炭焼きをする老人ら2人に出会い、老人との会話から現代日本の忙しさをかえりみる。

付近にあるはずの廃補陀落寺跡を探すが見つからず、御斎峠を越えて甲賀へ入った司馬さんは、中世の近江の守護・六角高頼の危機を救った甲賀衆を思う。

多羅尾を過ぎ、信楽に至ると、この地を含め複数の地に遷都を繰り返した聖武天皇という人物を考察する。

御斎峠を目指す

案内板の内容。

ここ大杉谷は、昔より生活に深くかかわりのある処です。
東大寺造営の折、用材がこの奥より搬出されました。

下って鎌倉時代には、高倉社の別当補陀落寺建立され参拝者の道しるべとして奈良街道より「町石」が置かれ、熊野信仰が引越してきた感があると伝えています。

補陀落滝も「那智・不動・首落の滝」などの呼び名があり源義経がこの滝の名を忌み御斎峠越を避けたと源平盛衰記に記されています。

御斎峠展望台へ、80段あまりの階段をあえぎながら登る。

まさに絶景、伊賀盆地が一望。

伊賀の市街地、伊賀上野城も見える。

御斎峠は「音聞峠」と書くものもあり、「おとき」と濁らずに読ませるものもある。

標高は630m、滋賀・三重両県境に位置し、その名は鎌倉時代に臨済禅の高僧夢窓国師が伊賀三田の空鉢山寺に来られたときに、村人がここで斎(とき=食事の接待)をあげたことに由来するとのこと。
 
また、小説などでは、服部半蔵がここへ先行して狼煙を上げて忍びの者を集め、家康一行がここへ到着したときには、伊賀・甲賀忍者三百名が勢揃いしていたという。

伊賀国への歴史的交通路であり、壬申(じんしん)の乱(672年)時には大海人(おおあまの)皇子が伊賀から多羅尾にはいっている。

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