昭和レトロ


地下1階に広がるのは、昔懐かしいレトロな街並みを再現したレストラン街「滝見小路」。

梅田スカイビルのスタイリッシュさ・ダイナミックさからは想像つかない空間です。

ビクターのロゴマークになったニッパー君にも注目したいところ。

ニッパー君は1884年にイギリスで生まれたフォックス・テリア系の雑種。

やんちゃでよく人の足を噛もうとするのでニッパー(挟む)と言う名前がつけられました。

ダイハツ『ミゼットMP5型』も展示されています。

石畳の路地に暖簾や格子戸、お稲荷さんを眺めながら歩くと、当時にタイムスリップしたような感覚に浸れる。

大阪グルメを代表する串かつやお好み焼きに加え、洋食屋居酒屋など様々なお店が22件も軒を連ねる人気の飲食街。

法善寺に本店を構えるカツ丼専門店「喝鈍」。

超有名店の味を、昭和レトロな独特の街並みの情緒漂う空間の中で食すことができます。

瀧見小路で昭和レトロを満喫した後はそのまま外に出て「中自然の森」を散策。

人工ですが瀧もあり、逆流する様子を見ることができます。

都心とは思えないほど自然に囲まれており、リフレッシュにはもってこい!

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76年目の夏


昨日は76回目の終戦記念日。

護国神社には多くの人々が参拝しています。

一昨日からの大雨も今朝(15日)には一応闇、式典の行われる頃には晴れ間も見られた。

今年は終戦 [第二次世界大戦終結] から 76年 にあたります。

8月15日の「玉音放送」は、76年0か月と-1日前、76年0か月と0日目です。

9月2日の「降伏文書調印」は、76年-1か月と12日前、76年-1か月と13日目です。

・第二次世界大戦終結・終戦は、昭和20年(1945年)です。

終戦の日(しゅうせんのひ)は、日本における第二次世界大戦の終結(終戦)の日の呼称。

日本では一般に終戦記念日は8月15日と認識されているが、アメリカ合衆国など多くの国々では第二次世界大戦は1945年9月に終結したと認識されている(国によって1945年9月2日とする国(アメリカ合衆国など)と9月3日とする国(中華人民共和国など)がある)。

日本において第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結したとされる日については諸説あり、主なものは以下のとおりである。

1945年(昭和20年)8月15日:正午からラジオで放送された玉音放送により、前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された日。

帝国政府が軍に武装放棄と連合軍への投降命令を発し、連合国もそれを受け戦闘を止めた。

1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。

1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日。

4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれている。

連合国軍の占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの新聞紙上[要追加記述]では、9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と呼んでいた。

1963年5月14日の閣議決定(第2次池田第2次改造内閣)により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。

1982年4月13日、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された(鈴木善幸改造内閣)。

現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われており、お盆は月遅れのお盆と一致することから、「お盆=8月15日」となっている。

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大阪の豪商 鴻池善右衛門宗利によって開墾された 鴻池新田


鴻池新田会所は、江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理・運営をおこなった施設です。

江戸時代中期以来の古建築群と庭園、鴻池家から寄贈された民具類を現代に伝えています。

表長屋門

近代的な市街化が進んだ東大阪市周辺に残る数少ない歴史的建造物群のひとつです。

10,662m2の 会所敷地は国の史跡で、本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵と江戸時代の本屋座敷の棟札、米蔵の御札は重要文化財です。

江戸時代中期に、大阪の豪商・鴻池家三代目、。

当初の入植者は8軒ほどで、二回目に10数軒が入植。2010年時点で13代目位の人々が住んでいる。

主な入植者居住場所は鴻池本町(会所の北東エリア)となっており、最も古い地域となる。

朝日社境内の絵馬堂には明治・大正時代の浄瑠璃番付や相撲番付が掲げられていて、いずれも村人が勧進元になって興行が行われていたようです。

鴻池家の先祖は山陰の戦国大名尼子氏の家臣、山中鹿之助幸盛 ( 遠祖 ) であると言われています。

鹿之助の長男新六幸元 ( 始祖 ) は戦難を逃れるため、摂津国長尾村鴻池 ( 現伊丹市 )
で大叔父の山中喜六信直 ( 太祖 ) に育てられました。

のちに屋号となる「鴻池」はこの地に由来するものです。

新六はこの地で商才を発揮し、慶長年間 (1596 ~ 1615) には造酒屋で成功を収めています。

また、元和 5 年 (1619) には大阪内久宝寺町にも店を構えました。

さらに寛永 2 年 (1625) には海運業を始めて、江戸・大坂間の物資輸送をつとめたほか、大名蔵屋敷の蔵物 ( 年貢米 ) を担保に金を貸し付ける大名貸しも始めています。

また、宝永 2 年 (1705) からは鴻池新田での農業経営に参画し、のちに海運業・酒造業を廃止しました。

宗利は事業を安定させるために家訓や店則を定め、代々、両替商や大名貸しをはじめとする金融業と新田経営に専念させ、幕末ごろには、「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋にあり」というように形容されるほど鴻池家は財をなしました。

旧鴻池新田会所 本屋

北面突出部 桁行3.0m、梁間11.8m、北面下屋附属、入… 河内平野を流れる大和川の付け替え後、町人請負として開発された鴻池新田の会所で、宝永年間に開設された。 周囲に堀を回した敷地の中央に本屋が建ち、その北に屋敷蔵、西方に文書蔵・米蔵・道具蔵が並ぶ。

本屋土間

河内平野を流れる大和川の付け替え後、町人請負として開発された鴻池新田の会所で、宝永年間に開設された。

周囲に堀を回した敷地の中央に本屋が建ち、その北に屋敷蔵、西方に文書蔵・米蔵・道具蔵が並ぶ。本屋は大規模で、土間には豪壮な梁組を見せるが、床上部は質素であり、また、屋根は破風を多用して城郭風の趣もみせるなど、会所の建築としての特色をよく示している。

四棟の蔵は屋敷構えの一環として重要であり、米蔵が特に大規模なのも特色の一つである。

本屋内部 勘定場と座敷

宝永元年(1704年)に大和川付け替え工事が行なわれ、旧河川・水位が減少した湖沼に広大な敷地が生じた。

そのうちの新開池という大きな池のあった辺り(現在の東大阪市北部の鴻池町周辺)二百町歩あまりの開発権利を、大和屋六兵衛・庄屋長兵衛 両名が落札した。

それを 鴻池善右衛門が譲り受け、新田開発をおこなった。

新田開墾のため伊勢や枚方などあちこちから農民を入植させた。

村高は「天保郷帳」・「旧高旧領」共に1706石余。

宝永2年(1705年)に工事が開始され、大和川付け替え工事でできた新田の中でも最大の開発面積(約119ヘクタール)となった。

本屋の広壮な土間と高い梁、開放的で簡素な座敷、中庭に面して建ち並ぶ蔵、米つき場など、民家建築とは異なり、新田経営のなかで生み出された飾りの少ない大きな造作が特徴です。

鴻池、三島、新庄あたりは米農家が多く台所が土間の家がいくつか平成近くまで現存していた。

村の人達は互いに 「鴻池の⚪︎⚪︎」「三島の⚪︎⚪︎」と村の名前をつけて呼び合い 互いに婚姻をするなど結びつきが強かった 鴻池本町はとくに水路が多く 各々の所有する舟が家の軒先につってあり、それで米を会所まで運んでいた。

その痕跡は重要文化財の会所の内側に船着場が残されており 残念ながら1970年代重要文化財に指定される改築時、無粋な壁を作られ外からは見えず半分埋れた形となっている。

昭和時代後期以降の宅地開発によって、耕作地は住宅地へと変貌していった。

鴻池新田会所庭園

鴻池新田の管理事務所として、宝永4年(1707年)に完成した。当時の建築物や濠がほぼそのまま現存しており、貴重な文化遺産であるため、敷地は1976年(昭和51年)に日本国の史跡に指定され、また本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵の5棟が1980年(昭和55年)に日本国の重要文化財に指定された。

現在は東大阪市が所有・管理している。

かつて東に遠望できた生駒山を借景とした庭園は、弁天池を設け、植木の種類や刈り方を変えたり、庭石や石燈籠を配して、庭を巡って変化を楽しむように造られています。

江戸時代末のいわゆる池泉鑑賞式の平庭です。

常緑樹が多く、カヤ、クスノキの巨樹がみられ、「大阪みどりの百選」のひとつです。

会所は、新田とともに竣工し、240年あまりにわたって使われました。

会所では、鴻池家から派遣された支配人の管理下で、小作農民からの小作料、肥料代の徴収、幕府への年貢上納、耕地、家屋の管理・補修、宗門改帳の作成・整理、老人への米の配給、幕府や鴻池家からの指示伝達、新田内での争いの裁定をおこないました。

新田では、小作農民がおもに米と綿を栽培しました。

江戸時代には、綿とその製品はこの地方の主要な産物でした。

生駒山を借景にした回遊式庭園や、本屋/米蔵(国の重要文化財)など当時の様子を思わせる家屋は、時代劇のロケに使われたこともあり、現在でもときおり特別展示や講演会などが催されている。

10,662m2の 会所敷地には、本屋、蔵のほか、長屋門、居宅、朝日社などの伝統的な建物群と庭園が残されています。

敷地は1976年に国の史跡に指定され、1980年には本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵と本屋座敷の宝暦9年(1759)棟札、米蔵の享和2年(1802)御札が重要文化財になりました。

米蔵

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付け替え工事により村は南北に分断され、多くの田地を川の敷地に奪われるため、東瓜破・西瓜破両村は大和川 付け替えに反対しました。

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滋賀のラピュタ!土倉鉱山跡


滋賀県長浜市木ノ本町に国道303号線が通っており途中、金居原(かねいばら)と呼ばれる集落がある。

少し東に移動するとすぐに岐阜県揖斐川町の県境を跨ぐことになる。

国道303号に入り八草峠を目指していると、右手に「土倉鉱山跡」の看板が目に入る。

頭上に見える橋は現国道303号線の橋梁だ。

かつて国道303号線は八草峠と呼ばれる峠を延々走り続けなければならず、狭隘、軟弱な道路を使って岐阜県と滋賀県を行き来するのはくたびれるの一言に尽きたはずである。

現国道303号線であるバイパスが完成し、八草トンネルが開通してからというもの、その利便性は飛躍的に上昇し、八草峠を通過するのに3分とかからない。

鉱山は杉野川上流で明治末期に採掘が始まった。

昭和30年代には人口が千人を数え、住宅や商店、映画館が並んだ。
しかし、海外から安価な銅が輸入され、採算が合わなくなり閉山した。

近年は散策ツアーが行われる。

閉山から半世紀を経た産業遺産と豊かな自然が、新たな地域資源として価値を見直されている。

往時はトロッコが出入りした坑道の入り口。

朽ちた人工物の隙間から木々が生える。

その姿が人気アニメ映画「天空の城ラピュタ」の舞台を思わせると、インターネット上では「滋賀のラピュタ」とも呼ばれる。

土倉鉱山は土蔵岳と呼ばれる標高1003mほどの山麓に坑道が掘られ、1907年(明治40年)に奥土倉という、現在の鉱山跡よりも若干北にある場所で鉱山が開かれた。

だがその後、度重なる豪雨被害や土砂災害などにより、拠点を南側の出口土倉に移した。

これが現在土倉鉱山跡と一般的に呼ばれている場所である。

1965年(昭和40年)に閉山し、現在では出口土倉に選鉱所跡と坑口が残されている。

採掘した岩石は建物の一番上に運ばれ、薬液の入った沈殿分離槽に入れられた。

浮かんだ銅鉱石を取り出した上で、残りを下段の槽へ運ぶということを繰り返し、残った石は建物の外へ捨てたという。

現在、あらわになっている柱のような構造物は土台で、「その上に木造の建物があった」。

集めた銅鉱石は、空中に張ったワイヤを使い、ロープウエーのようにカゴで運搬した。

「そこらの山頂に鉄塔が建っていて、(約12キロ離れた)木ノ本駅まで運んでいた」という。

「若い人? 来ますよ、なんともいえない衣装をつけて。土日は多くて20~30人くらいかな」。

選鉱場の前を通る国道303号付近には事務所や独身寮があった。

付近では積雪が4メートルに達することもあったため、山麓の小学校まで通えない子供たちのために冬季限定の「分教場」も。

麓には診療所や鉱山会社の幹部が住む一戸建ての社宅があったという。

なお、奥へと歩を進める。

伊吹山地の横山岳と土蔵岳のはざまに位置する杉野川源流部の森にはトチノキやサワグルミの巨木が並ぶほか、さまざまな草も生え、豊かな植生をとどめる。

現在は鉄柵で封鎖されている坑道への入り口。

かつてトロッコが走ったレールが見える。

坑道入口を封印する鉄格子は真ん中が鍵付きの扉となっていて、鉱山関係者が点検をする際に使用すると思われる。

中は水があふれ、右端からは鉱水が勢い良く流れ出して暗渠を通し杉野川へ注がれていた。

かつて愛媛県新居浜市の別子銅山跡を訪問したことがある。
土倉鉱山跡よも遥かに大規模で観光地として再開発され、「東洋のマチュピチュ」とよばれ、多くの観光客を集めている。

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いかごの里で糸取り見学


竹生島、葛籠尾崎を左手に見ながらバスは北國街道を北上する。
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隠れ里菅浦集落と奥琵琶湖桜並木
琵琶湖の北端は「奥琵琶湖」と呼ばれ、湖岸まで山がせり出しているその地形は、北欧の … 続きを読む →


西野水道(にしのすいどう)

滋賀県指定文化財。

西野水道(にしのずいどう)は、西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mの排水用の岩穴です。

今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業です。

能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけてノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴です。

清水(しょうず)

大音・西山地区で糸取りが今も続けられている理由の一つに”水“があるとされる。

糸や織りに関する諸作業には多くの良質な水が必要で、水の良し悪しが大いに影響する。

この地区は、賎ケ岳に続く背後の峰々を水源とする湧水が豊富である。

大音も西山も昔からこの湧井戸の水を竹樋によって作業場へ誘導し使ってきた。

湧水は鉄分を含まないため、白く仕上がるとされる。
水で色の出方が違うとされてきた。

これら地区には“清水”と呼ばれる池が多く点在し利用されてきたが、昨今の道路工事などで湧出が止まり今では数カ所残すのみとなった。

大音軍治

「旧家・大音軍治」宅があります。

ここは大音唯一の武家屋敷であり、祖先は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉軍の武将として仕え果敢な活躍をしたと伝えられています。

江戸時代には柳ケ瀬の関所の奉行を務めた、とあります。

三味線・琴糸の生産地である木之本町大音地区では古くから生糸生産の技術が伝わりました。

近世以降では大規模な工場も設立され、昭和初期には最盛期を迎えました。

近年では衰退してしまいましたが、毎年梅雨の時期になると工房では生糸の生産が行われます。

資料館では糸とりの技術の紹介や道具の展示をしています。

賤ヶ岳 雨の登頂
昨日からの雨はいよいよ激しく、雨具を付けての登頂です。 リフトの真下に群生のシャ … 続きを読む →

余呉湖への径。

余呉湖には湖の琴」という水上勉作の悲しい物語があります。

糸取りは江戸時代から受け継がれてきた。

糸は高品質で知られ、国の選定保存技術でもある。

戦前は七十軒ほどの工房があり、「琴糸の里」として水上勉の小説「湖の琴」(一九六六年)の舞台にもなった。
 
しかし安価なナイロン糸が普及したほか、梅雨時だけの仕事のため、サラリーマン化で担い手の確保が難しくなり衰退していった。

現在、糸取り職人は七人でほとんどが六十代。後継者育成が長年の課題だ。

糸取りは、藁(わら)の箒(ほうき)を繭(まゆ)を下から上へとさすって糸口を辿ります。

その糸の端を25本ぐらいの合わせ、糸によりをかけて生糸にし、後方の”こわく”で巻き取ります。

85度くらいの熱湯が入った釜の中で作業するから、湯気でびっしょりとなるとの事でした。

釜のお湯は昔は炭やガスで一定の温度に保っていましたが、IHクッキングヒーターで沸かしています。

でも、木枠の回転には電力を使わず、昔ながらの足踏みミシンのように足で回転させていました。

その方がいつでも回転速度の調整や停止がしやすいように感じられました。

この生糸を一定の太さに保つように時々糸を足さなければなりません。

この糸を足す作業は熟練を要し、一本の糸を両手で引っ張って、メガネの所に近づけて切って絡ませる。

この作業は一瞬の出来事ですから、眼を凝らして観ていないとわからない。

“糸取りの実演”を訪問された時はぜひこの”匠の技”を肌で感じて観て欲しいと思います。

残念ながら早すぎてお写真では撮れませんでした。

皆さん、蚕一匹の呼び方はご存知ですか?

なんと牛や馬のように1頭、2頭と数えるのだそうです。

大音の糸取りの歴史は古く、平安時代の昌泰二年(899年)、伊香厚行が、伊香具神社境内にある湧水で繭を煮て生糸を作り、都で大変な評判になったと文献に伝えられています。

遅かりし八重桜のトンネル 伊香具神社
伊香具神社(いかぐじんじゃ)は、滋賀県長浜市木之本町大音にある神社。 式内社(名 … 続きを読む →


4代目の佃三恵子さん。

琵琶湖湖北地方の大音(おおと)は、昔から養蚕業や製糸業が盛んでしたが、戦後、化学繊維の普及により衰退し、佃三恵子さんの工房がだけが残りました。

実演等で伝統技術の伝承活動が認められ、2018年秋の褒章に黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を受賞しました。

糸取りは、「だるま」と呼ばれる糸取り機で行います。

まず、85度くらいの熱湯が入った釜の中に、水に浸しておいた繭を入れ、稲で作ったお手製の糸箒で、糸口を辿ります。

(事件の糸口をたどる、という慣用句はここから生まれたのでしょうか。)

そこから、約20個分の繭から手繰り寄せた糸を「メガネ」と呼ばれる小さな穴に入れます。

そして上の方の「小車」と呼ばれる滑車までの間に、一本の太い糸になるように腕で摩って糸によりをかけます。

一本の糸に変わると、後方の「こわく」と呼ばれる道具に糸が巻き取られていきます。

その間、糸を出し切った繭を釜から取り除いていきます。

この作業を繰り返し、繰り返し、生糸がつくられていきます。

今は、釜のお湯はIHクッキングヒーターで沸かしていますが、昔は炭、そのあとはガス。

巻き取られた糸は、木ノ本駅側にある「丸三ハシモト株式会社」で邦楽器用の糸に加工されます。

丸三ハシモトさんでは、加工の見学もさせていただけるそうです。

繭一個の糸の長さは、1200~1400m 生糸一本に繭15~16個必要、琴糸一本に繭250個要すとされる。

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ヤマトタケルの西征 建部大社


瀬田の唐橋の東約500m。

この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。

祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)。

日本武尊が船団を従えて海路をたどったという故事に基づいて行われる建部大社の夏祭り「船幸祭」では、神輿を乗せた船団が瀬田川を行き交い、唐橋に近付くころになると夜空に花火が打ち上げられる。

滋賀県大津市神領にある神社。
式内社(名神大社)、近江国一宮。

旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「建部神社」。

2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。

社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅によって、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現在の東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる。

建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられている。

のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座したという。

遷座後、元の千草嶽の麓には神護景雲2年(768年)に聖真大明神と建部大明神が設けられたとされ、現在は建部神社が建てられている。

源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となった。

征西を命じる

天皇の命令で、皇子の小碓尊が熊襲征伐のため派遣されることになりました。

この時小碓尊(兄に代わり天皇の後継者となっていたので「尊」をつけています)はまだ16歳でした。

各地の敵を従えながらやがて相模国(現在の神奈川県)に辿り着いたときのことです。

この地の国造(くにのみやつこ:地方を治める官職の一種)は、言葉巧みにヤマトタケルノミコトを野に誘い出し、火を放ち殺そうと企みます。

騙されたことを知り、進退きわまったヤマトタケルノミコトは火打石を取り出します。

そして草薙剣を抜き辺り一帯の草を薙ぎ払い、火打石で向かい火を放ちます。

炎は逆方向に燃え広がり、ヤマトタケルノミコトは無事に生還。

国造らをすべて斬り滅ぼし、さらに火を放ちました。
この出来事が、草薙剣と言う名の由来になったと言われています。

オトタチバナヒメの入水

ヤマトタケルの一行は走水(はしりみず=現在の浦賀水道)に赴いたとき、海が荒れ、動くことができなくなった。

同行してきた后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海神の怒りを鎮めようと自ら入水。

これによりヤマトタケル一行は難を逃れたのだった。

ヤマトタケルと伊吹山の神

「日本武尊が東征から都(当時は大和の国)に帰る途中、伊吹山の魔物(豪族)を征伐するために伊吹山に来てみると、伊吹山を幾重にも大蛇が取り巻いていた。

そこで日本武尊は大蛇を跨いで通り抜けようとした時、毒気に当たって高熱を出して倒れてしまった」とあります。

毒気とは伊吹山に生息するトリカブトだと考えられています。

雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →

【伝説】日本武尊(やまとたける)が東の国征伐から帰る途中、伊吹山に荒神がいることを聞き・・・・・・

ヤマトタケルと白鳥伝説

大和朝廷全国統一のために命令を受け西方と東方に遠征、勝利を収めたが、帰途に伊勢の能褒野で没した。

ヤマトタケルは白鳥に姿を変え、大和に向かって飛び立った。

琴弾原(奈良県御所市付近)に降り立ったあと再び飛び立ち、河内の旧市邑(羽曳野市古市付近)に舞い降りた。

神門

明治2年(1869)膳所城城門の一つを移して神門とするが、昭和9年(1934)の台風で倒壊。
その後再建された。

拝殿


伊勢神宮遙拝所


近年人気なのは瀬田シジミ型の絵馬。

貝殻の内側に願いを書き、閉じて奉納するため願い事が他人に見られません。

絵馬を奉納する絵馬所は夜になると照明と相まって金色に輝きます。

なお、夜に参拝できるのは正月や船幸祭などの限られた日のみです。(通常17時閉門)

菊花石(きっかせき)は、菊の模様が浮き出た不思議な石です。

本殿の裏にあり、自然に菊の模様が浮き出たという珍しい石です。

特別天然記念物に指定されていて、病気平癒や長寿のご利益をいただけるそうです。

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日の出 住吉大社


光が心地よい朝の住吉大社。

梅雨も一休み、青空が広がっています。

第三本宮と第四本宮の間にさす光が好きです。

今6時20分、空に気持ちよさそうな雲が浮かんでいます。

奥に進んでみます。

光が射し込み厳かな雰囲気が広がります。

御文庫(おぶんこ)施主は大坂を中心にして、京や江戸の書籍商たちだった。

奉納された書物は膨大な数に上ると言われています。

侍者社(おもとしゃ)

初代神主田裳見宿禰を顕彰して、住吉大神の最も御傍にて祀ることから、侍者(おもと)と称したのではないかとされています。

近年では「神と人」を結ぶ、仲執り持ちの役目を担ったことから、縁結びの神として篤く信仰されています。


楠君社に来ました、光が強烈です。

初辰まいりの中心的な神社で「はったつさん」と親しまれ、古くより商いを営む方から篤い信仰を受けています。

五所御前、多くのインバウンドであふれていましたが今はひっそりとしています。

この『五所御前』は約1800年前に住吉大神鎮座の際、最初にお祀りされた場所と伝えられる神聖な場所です。

体力・智力・財力・福力・寿力が授かるといわれており、御守にして持つと心願成就という。

参拝者が水をジャバジャバかけていきました、水に濡れるといい感じです。


丹後局は傍らの大石を抱いて男児を出産しました、後の島津氏初代・島津三郎忠久公である。

正面から見たところ、薩摩藩士の燈籠が並び島津家代々の信仰と藩士の忠義を遺す石燈籠です。

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消えた花街の記憶をたどって


細井川に架かる何の変哲もない橋だが・・・・

季刊誌「大阪春秋」平成23年春号 すみよし ~住吉大社1800年の「住吉大社に花を添えた住吉新地 消えた花街の記憶をたどって」という記事によるといわくがありそうだ。

江川橋

新町の粋人・江川兵次郎さんにに尋ねますと、「いやー、実はこの橋は私のおじいちゃんが架けた橋なんです。

新町で瓢箪家という雀鮓をやってたんですが、実は住吉新地にコレがおりまして・・・・」にこっと笑って、左の小指をつっと差し出して、「好きな芸妓にはよ会いたい云うて架けましたんや」。

聞けば、かみさんの目を盗んで店を抜けだし南海電車で住吉公園まで、細井川に橋が無く、公園を通って高燈籠のほうから国道16号線(現在の国道26号線)の大正橋を回って行くのが「もうたまらん!」と、自分で金を出して木橋をかけたのが「江川橋」。

言われて同じ道を歩いてみたのですが、たった3分の違い。

兵次郎さんによると、「たかが」と「されど」の違い、それは「粋」と「無粋」の分かれ目でした。

萬目地蔵さん

国道26号線、住吉公園を南に行くとすぐ陸橋があり、その東詰めに立派な石碑とまだ新しい祠があります。

「浜口萬目地蔵尊の碑」です。

「真志目(まじめ)なら願いも叶ふ 地蔵尊」と大書され、「大阪新町雀鮓本家 江川瓢雀」、その左に、「同加代」、と有ります。

もうお分かりのように、全てが「粋」で通されているのには訳があります。

そうこの碑も実は、粋人の祖父・江川兵蔵四が建てたもので、実は江川橋の袂に有ったものを移築、平成12年、地蔵盆供養としてお化粧直ししたものなんです。

その意味とは、

一 萬目地蔵とは、本来住吉浦の波間から出現したありがたい地蔵菩薩なんですが、真面目なら願いも叶うと小さな「志」の字を加えています。

二 瓢雀とは、瓢箪家の雀鮓の略で、兵蔵氏の号ですが、その左の加代とは? かみさんの名はツチのはずですが・・・・

半世紀にわたり、府内全域の歴史や文化、産業を特集してきた季刊誌「大阪春秋」が4月の182号をもって休刊するという。

貴重な雑誌でしたが残念。

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高井田~鴻池新田 初夏を感じてぶらり


前回、高井田から長瀬川を南に歩いたので今回は北に歩きます。

新開池伝説の西堤から高井田村へ、古の長栄寺へ
長瀬川は旧大和川分流のなかでも本流となる大きな川。 流域の小高い土地に開けた高井 … 続きを読む →

長瀬川、大阪府柏原市上市で大和川から分かれ柏原市内を北流。

八尾市に入ってすぐの八尾市二俣で玉串川が右方向に分かれ、長瀬川は向きをやや北西に変えて八尾市内を流れる。

JR西日本大和路線八尾駅付近からは流路の屈曲がやや激しくなる。

東大阪市に入ると多少の屈曲はあるもののおおむね北流し、国道308号をくぐる辺りから向きを北西に変え、大阪市に入ってすぐの城東区諏訪で第二寝屋川と合流する。

ただ今、6時過ぎ、差し込む朝日は強烈です。

放出駅 – 久宝寺駅の南区間が2008年3月15日に「おおさか東線」として部分開業しており、残る新大阪駅 – 放出駅の北区間が2019年3月16日に開業した。

淀川橋梁に併設された赤川仮橋では2013年10月31日に閉鎖されるまでの間、貨物列車を間近に見ることができた。

ありがとう赤川鉄橋
昭和4年から85年間、地域住民から長らく愛されてきた「赤川仮橋」が10月31日2 … 続きを読む →


川俣スカイランド(川俣水みらいセンター)
川俣下水処理場の屋上にある公園。

東大阪市の「川俣水みらいセンター」の屋上を利用した公園です。

屋上というと狭いイメージがあるかもしれませんが、ここには、野球も出来る多目的グラウンドをはじめ、芝生広場や水辺の広場、幼児広場など広大な敷地が広がっています。

川俣スカイランド過ぎると第2寝屋川に突き当たる、ここから川沿いに北上。

第2寝屋川

平成12年ごろから始まった再開発計画により、分譲マンションが立ち並ぶ一方で、商店街を抜けるとノスタルジックな雰囲気が漂う放出駅前の町並み。

おおさか東線の接続駅でもあるこの駅と高井田中央駅間にある車両基地では、計20名の社員で昼夜、車両のメンテナンスを行っている。

江戸時代中期~後期にかけ、同市の稲田地区で盛んに栽培されていた「稲田桃」。

稲田桃は日本古来の野生種で、実が小さく先がとがっているのが特徴。

お盆の供え物として大阪市内や京都へ出荷され重宝されていた。

当時は同地域の約7割が桃林だったといわれ、江戸時代の「河内名所図会」には、川に舟を浮かべて花見を楽しむ様子が描かれているという。

江戸時代後期ごろからは河内木綿の栽培が盛んになって桃の栽培は減り、1885(明治18)年の大洪水で大半が枯死した。

司馬遼太郎記念館でも庭に植えてあり季節にはタイミングが良ければいただくことができる。

放出の近くの踏切、左が学研都市線、右がおおさか東線。

長瀬川はこの先で第2寝屋川と合流。

阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)は、大阪市鶴見区にある神社。

延喜式神名帳に記されている式内社で、旧社格は、郷社。

江戸時代の頃は八剣神社と称されていたが、延喜式式内社の比定を行った並河誠所により、当社が延喜式における阿遅速雄神社にあたるとして、「阿遅速雄社社号標石」をおいた。

それ以降、阿遅速雄神社と呼ばれるようになった。

起源は、668年(天智天皇7年)に発生した草薙剣盗難事件の際、新羅の僧・道行が草薙剣を持って船で新羅に逃げ帰る時、突然の嵐に巻き込まれ、これを神罰と恐れをなして、途中の河口に放り投げられ、その後、草薙剣は里人により拾われ、この神社に一時納められたのが創始と伝わる。

そして、草薙剣は無事に熱田神宮に返還されたと伝わる。

明治時代に浪速鉄道(現:片町線)建設の折に現在地に遷座した。

大クスノキ

樹齢1000年と伝わるクスノキで樹高16メートル、幹周り6メートルの巨木。

大正時代に落雷に遭い主幹が枯れてしまったが、樹木医の治療により支幹は健在である。

昭和45年(1963年)2月20日、「阿遅速雄神社のクス」の名称で大阪府により天然記念物に指定された。

昔、鴻池新田会所へ舟で米を運んだ「鴻池井路」という水路は、今ではせせらぎのある遊歩道「鴻池四季彩々とおり」へと生まれ変わり、全長約3kmのウォーキングコースとして、地域の方には親しまれています。

井路とは水路、灌漑用水路のこと。

遊歩道には夏の花アガパンサスが咲いてた。

江戸時代中期に、大阪の豪商・鴻池家三代目、鴻池善右衛門宗利によって開墾された。

当初の入植者は8軒ほどで、二回目に10数軒が入植。
2010年時点で13代目位の人々が住んでいる。

主な入植者居住場所は鴻池本町(会所の北東エリア)となっており、最も古い地域となる。

宝永元年(1704年)に大和川付け替え工事が行なわれ、旧河川・水位が減少した湖沼に広大な敷地が生じた。

そのうちの新開池という大きな池のあった辺り(現在の東大阪市北部の鴻池町周辺)二百町歩あまりの開発権利を、大和屋六兵衛・庄屋長兵衛 両名が落札した。

それを 鴻池善右衛門が譲り受け、新田開発をおこなった。

新田開墾のため伊勢や枚方などあちこちから農民を入植させた。

村高は「天保郷帳」・「旧高旧領」共に1706石余。宝永2年(1705年)に工事が開始され、大和川付け替え工事でできた新田の中でも最大の開発面積(約119ヘクタール)となった。

コロナ過で今は休園中です。

鴻池、三島、新庄あたりは米農家が多く台所が土間の家がいくつか平成近くまで現存していた。

村の人達は互いに 「鴻池の〇〇」「三島の〇〇」と村の名前をつけて呼び合い 互いに婚姻をするなど結びつきが強かった。

鴻池本町はとくに水路が多く 各々の所有する舟が家の軒先につってあり、それで米を会所まで運んでいた。

その痕跡は重要文化財の会所の内側に船着場が残されており 残念ながら1970年代重要文化財に指定される改築時、無粋な壁を作られ外からは見えず半分埋れた形となっている。

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新開池伝説の西堤から高井田村へ、古の長栄寺へ


長瀬川は旧大和川分流のなかでも本流となる大きな川。

流域の小高い土地に開けた高井田の集落。
いまは大和川付け替え後、長瀬川は灌漑水路となって高井田村を潤しました。

また、暗越奈良街道が横切り、古代から東西往来の要所でもありました。

昭和43年(1968年)、第二寝屋川ができるまでは、この周辺には楠根川が流れていた。

新開池伝説

西堤神社

西堤の地名は楠根川の西の堤ではなくて、現在の大東市に内介淵(ないすけがふち)という池があり、その西堤に住んでいた人たちがこの地に移転したことで命名された。


境内社に、水神社がある。
「鱗殿(うろこ殿)」とも呼ばれ、内介淵で大蛇を退治した時にはがされた大蛇の鱗が祀られているという。

日照りの時、この鱗殿をお参りすると、雨が降ったと伝えられている。
鳥居をくぐってすぐ右側(北側)にあり、祠の周囲の堀には昔は亀が住んでいたという。

江戸時代前期の貞享2年(1685年) に刊行された井原西鶴『西鶴諸国はなし』にも、内介に関する逸話が記載されている。

他に、天満宮(菅原道真公)がある。
脇には素朴な牛の彫像が安置されている。
その後ろに、御神木のクスノキがある。

幹周5.5メートル、樹高は約25メートル、樹齢は推定400年。
市の保存樹木で、「施無畏(せむい) 八大龍王」を祀る。

「楠さん」として親しまれる御神木で、「おかかえ石」やお百度石も安置されている。



古代から大和川の本流としてその水運は利用されてきた。
当時は長瀬川という名称ではなく、大和川であった。

中世以降は大和川の支流である平野川とともに大阪と奈良を最短距離で結ぶ水路としての利用も活発で、流域には八尾・久宝寺(ともに八尾市内)といった集落が発達した。

このため、中世には大和川は一部地域では久宝寺川とも呼ばれていた。

しかし大和川は非常な暴れ川でもあった。

大和川は流域面積のうち保水能力に富んだ山地の占める割合が大きく、降った雨が蓄積されるのだが、梅雨や台風の際には保水能力を超えることもあり、また、奈良盆地から大阪平野(河内平野)に注ぎだす柏原口が狭く漏斗の役割を果たし、紀州山地や奈良盆地で蓄えられた多量の水を吐き出すために、急流となり、大和川の通常の流れである蛇行しながら北上する河道を通る際に溢れ出し水害となるのである。

また河川の勾配が大阪平野に入ると緩いために流送土砂が堆積して天井川となり、洪水の被害をさらに甚大なものとしていた。

1703年10月に幕府は大和川水路修治の令を発して1704年2月に付替工事が始まった。

3年計画の工事は、作業に協力した近隣の庄屋の指揮のもと動員された多くの百姓らと、財政的に支援した大阪の多くの商人の働きによってわずか8ヶ月足らずで完成し、同年10月13日に付替地点の古い堤防を切り崩して水の流れる方向を変えた。

その結果、大和川は大阪平野を西流して大阪市と堺市の境で大阪湾に注ぐようになった。

次第に埋め立てられていった旧河道には新田が開発されたが、元々が川底であることから砂地であり稲作には不向きであった。

このため砂地での栽培に適した桃の栽培、木綿の栽培や綿業が盛んになり、河内木綿と呼ばれるまでになった。

また綿業の副産物として綿種油の生産も盛んになり、現在も長瀬川沿いには油脂関連の企業が立地している。

宝永元年(1704年)柏原市安堂付近から大阪湾に流れ込む新川が掘削されると、水量が激減した旧川筋では、川床を埋め立てた新田が多数開発されました。

新喜多新田もその一つで、開発を請け負ったのは、鴻池家の一統で有力な両替商であった鴻池新七とされていますが、また鴻池新十郎・鴻池喜七・今木屋多兵衛の三名がたずさわり、その名の一字づつをとって『新喜多』と名付けたとも言われています。

新田は、川を埋め立てた土地だけに区域は南北に細長く、現在のJR学研都市線放出駅の手前まで続いています。

暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)

大阪から奈良へ通じる旧街道として、4~500年前に開けた街道です。

暗峠越奈良街道は、大阪高麗橋を起点として西から東へと通じ、生駒山地を暗峠で越える最短ルートの街道です。

江戸時代には旅客・貨物の重要な交通路として利用され、特に伊勢参りの旅人により大いに賑わいました。

西岸地蔵

大坂と奈良とを結ぶ暗越奈良街道(くらごえならかいどう)筋の長瀬川西岸に位置することから、その名が付いたとみられます。

以前は新喜多地蔵と呼ばれていましたが、昭和五十五年地蔵堂改修の際、建築材に「西岸地蔵」の墨書が発見され、もとはこの名で呼ばれていたことがわかりました。

堂内には一辺 43cm ・高さ 27cm の花崗岩の台石をを置き、その上に直径 34cm ・高さ 20cm の蓮華座と高さ 94cm の地蔵菩薩立像とが安置されています。

蓮華座と地蔵菩薩立像は砂岩製で同じ石から掘り出されたもののようです。

このうち蓮華座の周囲の蓮弁表面にだけ風化の痕が残ることからかつては蓮華座だけが外気にさらされていたと考えられます。

また、台石の全面中央に太字で「法界(ほっかい又はほうかい)の二文字、その右側に寛延二年(1749)、左に十月吉と刻んでいます。

このことから、この地蔵菩薩立像は大和川付替えから四十五年後の寛延二年十月に建立されたことが知られます。

暗越奈良街道沿い、旧大和川(長瀬川)の堤防だったところと交わった場所にあります。

大和川付け替え後に設置されたもので、当時川幅が推測できます。

高井田地蔵尊(清水地蔵)

立派なお堂と解説板付きなのですが、それだけで街中地蔵よりも格上、史跡地蔵だとか思ってしまいます。

中のお地蔵さんは、光背に梵字9文字が刻まれているのが特徴です。

『渡シ地蔵と旧高井田村の石仏

堂前の線香立の石柱に「渡シ地蔵」と刻まれている地蔵石仏は、高さ 95cm・幅 30cm の舟形光背に高さ 70cm の地蔵菩薩立像をまつっています。

年号などは確認できませんが、江戸時代初期の作と推定されています。

この場所は旧大和川の本流である長瀬川の西堤にあたり、大和川付替え以前は川幅が 200m ちかくもあって、舟の渡し場になっていたようです。

付け替え後は川床が埋め立てられ、新喜多新田となりました。

渡シ地蔵の南 150m にある喜楽地蔵堂内には、高さ 68cm・幅 30cm の舟形光背に両手で宝珠もつ高さ 46cm の地蔵菩薩立像が半肉彫されています。

像の左に宝暦九年(1759)の銘が刻まれています。

長栄寺は、聖徳太子の開創と伝えられ、本尊の十一面観世音-重要文化財-も太子が自ら刻んだものといわれ、府の文化財に指定されています。

本堂は火災で焼失し、文政8年(1825年)に再建されました。

境内の奥には、慈雲尊者が修禅研学をしたという双龍庵禅那台が端正な姿で残っています。

後年荒れてしまった当寺を延享元年(一七四四)二十七歳の慈雲尊者が中興。

ここで弟子たちと修行し、正法律(真言律)の復興を唱え、その道場としました。

享保三年(一七一八)大坂中之島の高松藩蔵屋敷で生まれた慈雲は、大阪南田辺の名刹真言宗法楽寺で得度。
のち、二十七歳でこの長栄寺へ来たということです。

以後高貴寺とともに正法律の一派として幕府に認可され、広められることになります。

慈雲は宗派にとらわれず、それまで漢訳仏典でこと足れりとしてきた日本の仏教界を批判しました。

梵学(サンスクリット学)をもきわめた彼はその後有馬、長尾の滝、京都、河内高貴寺などに転住しますが、この寺へはよく立ち寄り、大阪における説法は常に長栄寺でおこなわれました。

高貴寺に石上露子を訪ねる
開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。河内高貴寺縁起によると、役行 … 続きを読む →

慈雲尊者霊廟。京都阿弥陀寺で亡くなった尊者の遺体は、郡山城を経由して運ばれ、ここ高貴寺の奥の院に埋葬された




鴨高田神社

一説には、鴨高田の神は「迦毛大御神」すなわち鴨氏の祖神・阿遅鉏高日子根神であり、古くから高井田の里に鎮座していたとも。

中世には、石清水八幡領となったため「八幡宮」と呼ばれていたようだ。
おそらくはこの時に「神功皇后」「応神天皇」が勧請されたのだろう。

また、社頭の説明には、醍醐天皇・延喜18年(918)、大洪水に見舞われ五穀が稔らず困窮したとき、諸民が当社に祈願したところ霊験があり、百姓がおおいに喜んだ。

後桃園天皇の安永年間(1772?80)、悪疫が流行したとき、時の神職・久左衛門が1月9日から10日間、断食して悪疫祓除を祈願し、全村その厄をまぬがれた。

という逸話が掲載されている。

牛頭天王=速須佐之男命が祀られてたのは、悪疫祓除の祈願の頃だろうか。

社伝によると、白鳳2年(673年)に古代豪族の鴨氏がその開祖である大鴨積命を祀ったのが始まりだという。

ちなみに、京都の上賀茂神社の創建が白鳳6年であるから、それよりも4年早く創建されていることになる。

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