丹波篠山 春日神社


奈良の春日大社の分祠を祭り、地元では「おかすがさん」と呼ばれる氏神。

平安時代初期の876年(貞観18年)当時、日置荘を領有者であった藤原基経、藤原時平父子により藤原氏の氏神である春日大社(奈良県)より分祀し黒岡村南部の当時は笹山と呼ばれた現在は篠山城のある小山に勧請し、祀り氏神としたのが起源とされる。

後の1609年(慶長14年)、篠山城築城の際に現在の地に遷された。

階段上には愛宕社があったが2017年10月に接近した台風21号の強風による倒木で押し潰されてしまった。

能楽殿で演じられる春の春日能と秋の祭礼(10月第3土・日)の京都八坂の祇園祭を模したといわれる4基の神輿、華麗な飾り付けを施された9基の山鉾巡行は京文化を強くうかがわせ、笛や鐘の囃子を響かせながら小京都雰囲気の残るの古い町並みを練り歩く様子は、近代的な町で行われる本場の京都の祇園祭よりも情緒あるものとして知られる。

国重要文化財の能舞台を持つ篠山市黒岡の丹波篠山春日神社で1日0時20分ごろから、全国で最も早い演能として知られる元朝能「翁(おきな)神事」が開かれる。

毎年、初詣で訪れた客らでにぎわう。

秋の祭礼に使われる4柱の神霊を移した金神興は、2基を黒岡村より元禄7年6月に、他の2基は安永8年9月(元禄13年の説もある)篠山町より寄進されたもの。

9台のちんちき山と呼ばれる山鉾は寛文3年以降に各町内より寄進されたもので、京都の祇園の山鉾を模し造られており、絢爛豪華である。

明治後期までは鳳凰・孔雀・蘇鉄・猩猩等の鉾をつけ巡行したが、電線が障害となり現在は鉾を付けずに巡行される。

春日神社祭礼画帖、篠山城大書院に展示のもの。

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丹波篠山 青山歴史村


青山歴史村は、篠山藩主青山家の別邸であった「桂園舎」と呼ばれた建物を中心にして、 3棟の土蔵と長屋門から成っていますがあいにく工事中で中には入れません。

内部には全国的にも珍しい漢学書関係の版木1200余枚、 篠山城石垣修理伺い図面、藩政始末略、印判、ねずみ草子等、江戸時代の歴史文化を物語る史料の数々を展示しています。

また、内庭には石造金櫃、篠山藩士で和算学者「万尾時春」の顕彰碑、「篠山城惜別の碑」などを屋外展示しています。

さらに、篠山藩政文書、青山家ゆかりの品々や篠山藩校「振徳堂」の蔵書なども所蔵し、 歴史村の名にふさわしく、江戸期の政治、文化、生活の実態を体感いただけるところ。

丹波篠山デカンショ館は、青山歴史村内部に隣接して建てられています。

篠山の歴史と文化を歌詞にのせて歌ったデカンショ節をはじめ、 「日本遺産のまち 丹波篠山」の魅力あふれる歴史・文化・自然・特産品等を紹介しています。

デカンショ節はあまりにも有名で皆さんご存じのところ。

市役所の庭にはデカンショ節の像と歌詞の碑が建っています。

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丹波篠山 小林家長屋門


案内板によると「 茅葺入母屋造りで文化年間(1805年)頃、篠山藩主青山忠祐(ただやす)が老女小林千衛のために改築した長屋門である。

城の西堀に面して風光と展望し得る物見の間に、見晴らし窓を設け南に曲り家を取りつけた住宅兼用の独特な長屋門形式が創建当初の姿を残しています。 

木造間口17.3メートル 奥行3.6メートル 」とあります。
小林家長屋門は江戸時代後期に建てられた篠山市内に残る数少ない武家長屋建築の1つとして貴重なことから兵庫県指定文化財に指定されています。

内部は非関連記事公開。


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甲山神呪寺八十八ヶ所巡り


武庫山神呪寺は平安時代初めに弘法大師空海が開山したといわれていますがミニ八十八箇所が作られたのは江戸時代の寛政10(1798)年になってから。

信心からでなくても、全行程2.5kmほどの散策コースもおすすめ。

88カ所たった2キロ 200年続く「時短」お遍路。


洞窟状の仏像も。

第60番 大日如来坐像。


西宮市街が見渡せる場所も。

甲山、神呪寺を望む。

1200万年前に噴火したとされる。
岩質は輝石安山岩からなり、隣接した花崗岩(いわゆる御影石)からなる六甲山とは全く形成過程が異なる。

1200万年前の活動期には大きく広がる山体を持っていた。

約200万年間の活動が終息した後、侵食によりわずかに火口付近の火道周囲のみが塊状に残るに至ったことが確認されている。


大岩がごろごろ転がる遍路道。

全行程2.5km、楽しいお遍路。

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甲山大師 神呪寺


神呪寺(かんのうじ、神咒寺)は兵庫県西宮市甲山山麓にある真言宗御室派別格本山の寺院。
通称甲山大師(かぶとやまだいし)と呼ばれる。
新西国三十三箇所第21番札所。

画像は仁王門、江戸時代(1804年)建立、三間一戸八脚門(中央高屋根四脚門)

寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。

神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺の如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。
家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。
融通さん、融通観音とも称されている。

なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。

神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。

一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。

この「多宝塔」は天長8年(831年)に神呪寺が開創されてから1150年目にあたる昭和55年に国家安泰、十方施主、万徳円満を祈願し、神呪寺の無窮の興隆を念願して建立されたといわれている。

1200万年前に噴火したとされる。岩質は輝石安山岩からなり、隣接した花崗岩(いわゆる御影石)からなる六甲山とは全く形成過程が異なる。

1200万年前の活動期には大きく広がる山体を持っていた。約200万年間の活動が終息した後、侵食によりわずかに火口付近の火道周囲のみが塊状に残るに至ったことが確認されている。

神功皇后が平和を祈願して兜等を埋めたという伝説があり、またその山の形がかぶとに似ているところから、甲山と名付けられたこの山の中腹に、神呪寺がある。
ただ一般には神呪寺というより、甲山大師の名で親しまれている。

天長7年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。

この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。
同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。

如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。

この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。

鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。
境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。

境内から西宮市街を望む。

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馬の寺 石馬寺


石馬寺は、滋賀県東近江市五個荘石馬寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。

山号は御都繖山(ぎょとさんざん)。
本尊は十一面千手観世音菩薩。

自然石に刻された寺号碑が建っています。
この地には聖徳太子が建立された大門が建ってたそうです。

伝承によれば、今からおよそ1400年前に霊地を探していた聖徳太子が当地を訪れ、繖山(きぬがさやま)の山麓の松の木に馬をつなぎ山上に登った。

山の霊異に深く感動して戻ってくると、馬は石と化して池に沈んでいた。

これを瑞相と捉えた太子は、山を御都繖山と名付け、この地に寺院を建立し、石馬寺と号したという。

聖徳太子筆と伝承する「石馬寺」の木額や太子馬上像等を所蔵する。
登山口付近には、石馬が背中を見せている蓮池がある。

乱れ石積みのかんのん坂

山門跡から本堂へは、苔むした自然石の乱れ石積みの階段が続く。

この石段はかんのん坂と呼ばれ、百段ほど上ると途中で二つに分れ、左は山上の神社へ右へとれば寺へ達する。

古くより僧や行者をはじめ、多くの人々が信仰を求めて歩いた跡が偲ばれる。

上り出してすぐ左に僧坊跡。
未整理の石仏がごろごろころがっています。

しばらく石段を上ると左右に道があり、右手に曲がると石馬寺、左手に曲がると六所神社、直進すると雨宮瀧神社へ続く道のようです。

右手の案内板に「亡者の辻」とあります。

この辺りは霊がさまよう辻ということなのでしょうか?

直進すると雨宮瀧神社へ続く、特に何もないそうだ。

右に曲がり石馬寺へ向かう。

参道には五輪塔を中心に石仏が並んでいます。

永禄11年(1568年)、織田信長の兵火を受け、伽藍や院坊等が焼失する。

その後、寺領及び山林を没収され、山主や僧徒は退散を命じられた。
慶長8年(1603年)徳川家康により石馬寺が復興。

寛永11年(1634年)、徳川家光の上洛にあたり、旧神崎郡伊庭村に造営された御茶屋御殿の伊庭御殿を移して大方丈とした(旧本堂)。

正保元年(1644年)11月、奥州松島の雲居希膺(うんごきよう)を中興祖として招き、臨済宗妙心寺派の寺院となる。

頂上が見えてきました。
石段は約300段。

本堂。

本堂脇に不動明王石像。
ユニークです。

本堂から鐘楼を見る。

太子駒繋ぎの松。

さりげなく壁面に聖徳太子筆と伝わる、石馬寺と書かれた扁額。

『かくれ里』白洲正子 新潮社

繖山の裾を東へ向かっていくと、近江商人発祥の地である東近江市の五個荘に出る。
白洲さんは、まちはずれの石馬寺(いしばじ)を拝した。

「苔むした自然石の石段がつづく。(中略)下から見あげる茅葺きの本堂は美しい」(同)と描写し、お堂の中へ。

「私の興味をひいたのは、水牛に乗った大威徳明王であった。
等身大一木作りの、のびのびとした彫刻で、ことに水牛がすばらしい。

頭をちょっと左にかたむけ、恭順を示しながら、一朝事であれば飛び出しそうな気配である」。

岩戸山観世音寺風天洞


そこは豊田市大藏町岩戸山。足助・香嵐渓に向かう途中にあります。

県道沿いに立ち並ぶ異界へのゲートの向こうには、天空へと伸びる細道。

導かれるように足は一歩また一歩奥へと

十二支の動物の頭を持つ守り本尊が入り口に並んでいます。


1178年(治承2年)に建立された当地方における最古の寺院であり、当地の領主、原田家一門の菩提寺です。

聖徳太子御自らの彫刻によると言い伝えられし「聖観世音菩薩像」を安置しています。

その昔、洞窟の整備をしていた職人たちが洞窟から出てくる姿が、風天神様に見えたことから風天神様の住まう洞「風天洞」と名付けられ、呼ばれるようになりました。

境内に1000体以上の様々な像が並び、”仏像のデパート”と呼ばれる珍スポット。

名物の「風天洞」と呼ばれる洞窟は全長500メートルもあり、その中にも300体以上の像がズラリ。

また、途中にある「銭洗いの水」でお金を洗うと1万倍にもなるといわれている。

ラストの風天神という仏面が円柱に貼り付けられたオブジェは圧巻です。


中でも、石窟の天井に描かれた寝拝み楊柳観音は、台座に寝て拝むという世にも珍しい拝み方をするトルツメ観音として有名。


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天王寺7坂めぐり ⑦真言坂


生國神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏廃仏毀釈まで神社周辺で栄えていた。

うち、神社の北側には医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼陀羅院の六坊があった。

すべて真言宗であったので、この坂は真言坂と呼ばれた。

天王寺七坂の一番北にあるのが真言坂。

真言坂はかつて真言宗の寺が六坊並んでいた為、その名が付いた。
生國魂神社の周りは、江戸時代から大阪で最も人が集まる場所の一つで、往来客を見込んだ店が次々にオープン。

更に遊女がいる泊茶屋も次々にオープン。
この近隣にラブホテルが多いのは、泊茶屋の伝統がラブホテル街に受け継がれている為。

初代 米沢 彦八(よねざわ ひこはち、生没年不詳)は、江戸時代(元禄から正徳)中期の上方の落語家。
一部書籍では1714年7月14日(正徳4年6月3日)に興行先の名古屋で死去したとされている。

本名は不明。豊笑堂と号す。

大道に床几を据えるだけの文字通りの辻咄から生玉神社(いくたまじんじゃ、現在の生國魂神社)境内の小屋に、大道芸人が技を競いあい大いに賑っていた。

そのなかで彦八は人の足を止めて注目させるため、「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出して興行している

松尾芭蕉句碑。

1694年(元禄7年)9月9日(重陽の節句の祭礼日)に奈良から難波に入り、ここ生玉で『菊に出でて奈良と難波は 宵月夜』の句を詠んだとされる。

ここの句碑は石に直接文字が刻まれておらず、タイルが組め込まれている。
2000年(平成12年)建立。

地下鉄谷町9丁目駅のすぐ南西側にある生國魂神社は幼い頃のオダサクにとって大切な遊び場だった。

この神社は『木の都』『放浪』『雨』などオダサクの作品にもしばしば登場する。
バイオリニスト辻久子をモデルにした『道なき道』や6年前に見つかった未発表の『続夫婦善哉』にも。

『木の都』には「幼時の記憶は不思議にも木と結びついている。
それは、生國魂神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり……」と書いた。

行き暮れてここが思案の善哉かな
大黒橋から道頓堀川を眺める。 太左衛門橋 橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開い … 続きを読む →


生玉神社といえば井原西鶴。

浮世草紙(小説、好色一代男とか)を書く前は俳諧師(俳句読み)だったらしく、なかでも夜を徹して数多くの俳句を創作する「矢数俳諧」の先駆者として有名で、この生玉神社でも1680年に一晩で四千句を読み上げたとのこと。

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天王寺7坂めぐり ⑥源聖寺坂


天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで、名称は坂下にある寺院名に由来する。

画像は銀山寺、銀山寺には、近松門左衛門の「心中宵庚申」にでてくるお千代、半兵衛の比翼塚が建てられている。

「齢延寺」には、幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢東畡、藤沢南岳父子の墓がある。

これは、司馬遼太郎「世に棲む日日」の1巻で吉田松陰が大阪に行ったときに、藤沢東畡を訪ねたというあの人物です。

松屋町筋に面する坂下の源聖寺と金台寺の間から東へ石畳を登り、上町台地の急崖に差し掛かると石段となり、少し東南東に向きを変える。

再び石畳を登り、坂上の齢延寺と銀山寺の間で水平となる。

道は坂上からも東へ伸び、中寺筋を横断して谷町筋・生玉南交差点の一つ南の辻へと至る。

下寺町(25ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)を横断し、坂上から東は生玉中寺町(12ヶ寺)を横断するため、周辺には寺院が多い。

松屋町筋から東に10mほどの石畳は、昭和44年に廃止された大阪市電の敷石が転用されているということです。

上り始めは石畳の緩やかな坂道ですが、途中から急勾配で大きくカーブした石の階段になります。
「天王寺七坂」の中でも、一番複雑な構造の坂だと思います。

かつて石段を上りきった場所に昭和末期まで「源九郎稲荷」があった。

コンニャク好きの狸が祀られ、天王寺区史に「こんにやくの八兵衛」という祠があったことが記されている。

現在どこへ還座されたかは不明で、生國魂神社に還座されたと記した資料がある一方、同名の末社とは無関係との記述もある。

名前の由来となった源聖寺。

源聖寺坂の南2軒となりには新選組の大阪旅宿跡である萬福寺が。

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天王寺7坂めぐり ⑤口縄坂


天王寺区下寺町2丁目から夕陽丘町にかけて東西にのびている坂で、東側(夕陽丘町)の標高が高くなっており、途中は石畳の階段になっている。

前後の道はそのまま西側は松屋町筋、東側は谷町筋(地下鉄四天王寺前夕陽ヶ丘駅付近)につながっている。

「口縄」とは大阪の古い言葉で「蛇」のことであり、坂の下から道を眺めると、起伏が蛇に似ていることからそう呼ばれるようになったとされている。

南側に織田作之助の文学碑があり、彼の著書である『木の都』の一節が刻まれている。

また、織田作之助が七坂の内、一番愛した坂でもある。

口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた 私は石段を降りて行きながらもうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った 
青春の回想の甘さは終わり 新しい現実が私に向き直って来たように思われた 
風は木の梢にはげしく突っ掛ていた

織田作之助「木の都」より

行き暮れてここが思案の善哉かな
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