秦氏の氏寺 広隆寺


広隆寺は真言宗系単立。
山号を蜂岡山と称する。

蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。

渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。

国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。

毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。

参道正面には本堂にあたる上宮王院太子殿がある。

『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。

一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。

『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。

これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

この奥に桂宮院本堂がある。

桂宮院本堂(国宝)-境内の西側、塀で囲まれた一画にある。

聖徳太子像を祀る堂で、法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。

通常非公開で、4、5、10、11月の日曜、祝日のみ外観が公開される。

じっとしておれないほどの暑さだが、桔梗はしゃきっと咲いている。

詳細は以前の訪問記を参照されたい。

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世界遺産 天龍寺


竹林の小径、最近は人力車の通路を竹林の中に設けてある、なかなかのアイデア。
竹の黒いしみが気になる、もしンして落書きを消したものか??!

天龍寺(てんりゅうじ)は、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。
山号は霊亀山(れいぎざん)。

寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。

足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

この庭園は約700年前に天龍寺の開山である夢窓国師が室町時代に作庭してといわれ、今でも当時の面影をとどめています。

嵐山や亀山を借景として取り入れた曹源池庭園は、日本初の史跡・特別名勝指定にも指定され、回遊式庭園としては最古の遺構といわれています。

天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。

その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 – 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 – 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。

「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

中国より伝来した「平和観音」。
観音像の前の涌き水は地下80mのから涌き出る霊泉。
これを喫する者は愛と幸を受けると伝えられることから「愛の泉」と呼ばれる。

その観音様を守るカエル。
この泉の中央には、願いの成就を競うかのようにお皿が置かれて、そこに賽銭を投げ入れるようになってます。

レンゲショウマ(蓮華升麻)

花が蓮に、葉がサラシナショウマ(晒菜升麻)に似ているので、レンゲショウマ(蓮華升麻)の名がつけられた。

花茎の下部に茎葉と根出葉がある。葉は二-四回三出複葉で、小葉は卵形、あらい鋸歯を持つ。

シオカラトンボ(塩辛蜻蛉、Orthetrum albistylum speciosum)

もっともなじみ深いトンボのひとつ。シオカラトンボとは、成熟して水色になったオスにつけられた名前で、茶色いメスは俗にムギワラトンボと呼ばれる。

アメンボ(水黽、水馬、飴坊、飴棒)

足先の毛だけを水面につけて、毛が水を撥く表面張力を利用して水面に浮かぶ。
表面張力は、雌が雄を背に乗せられる程度に強い。

中脚の運動で推進し、後脚で方向を定めて、水面を滑走する。
全て肉食で、水面に獲物や死骸が落ちると、すばやく接近して前脚で捕獲し、針のように尖った口器を突き刺して体液を吸う。

臨済禅師1150年・白隠禅師250年を記念して各種催しが行われた。

このところの酷暑でとても長時間外に立っておれません、汗をふきふきそこそこに拝観を済ませてしまいました。
以前の訪問記がありますよろしければどうぞ嵐山から天龍寺へ 癒しを求めて初夏の散歩路
いいですね~、空いている天龍寺。 新緑のもみじを通して北山~東山を借景にし、澄ん … 続きを読む →

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萬福寺とお茶


萬福寺の総門は、1661年(寛文元年)の建立(重文)。
中央の屋根が高く、左右の屋根が低い牌楼式(ぱいろう)の中国的な門。

中央の屋根の左右に乗せられているのは想像上の生物・摩伽羅(まから)。

摩伽羅は、ガンジス河の女神の乗り物で、そこに生息しているワニをさす言葉だという。

聖域結界となる入口の門・屋根・仏像等の装飾に使われている。

隠元禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。

日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。

のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に禅寺を創建。

古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山。

萬福寺の三門前の句碑は、江戸時代に尼僧として諸国行脚に明け暮れた俳人・一字庵田上菊舎のもの。

1790年(寛政2年)に萬福寺を訪れて「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」と詠んだ。

三門を出たときに、門前の茶畑から茶摘み唄が聞こえ我に返ったときの句だという。

売茶翁を煎茶の祖として祀る売茶堂の入り口。

萬福寺は、売茶翁ゆかりの寺でもある。

売茶翁、月海元昭(1675~1763)は佐賀出身。黄檗宗の僧侶だが、自ら茶道具を担いで京の大路に簡素な席を設けて煎茶を出したことで知られる。

茶代は随意で、茶を喫しながら禅道や世俗の話をした。

70歳で還俗し、「高遊外」と号して清貧の中、気が向くままに煎茶を売り歩く。

その客には相国寺の僧・大典など高僧や文人が多く、同時代の画家・若冲は売茶翁の生き方に憧れ、肖像画も描いている。

売翁堂の近くに茶具塚もあります。

門前、総門前にみられる「駒蹄影園(こまのあしかげえん)碑」。

鎌倉時代の初め頃、住民が茶の種のまき方がわからず困っていたところ、京都西北部の栂尾・高山寺の明恵上人が馬で畑に乗り入れ、馬のひずめの跡に種を蒔くように教えたといわれています。

これが宇治茶の始まりといわれ、大正15年(1926)に宇治の茶業組合によって建立された。

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黄檗山 萬福寺


萬福寺は、京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。

山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来。

日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、

三門 – 延宝6年(1678年)の建立。
三間三戸二重門。

「三間三戸」は門の正面柱間が3間で、3間すべてが通路になっているものを指す(日本の禅宗寺院の三門は一般的には「五間三戸」である)。

開山堂

1663年(寛文3年)の建立された萬福寺開山・隠元隆琦を祀るお堂。

隠元隆琦は、日本における「煎茶道の祖」ともいわれ、普茶料理、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹(タケノコ)・木魚なども隠元が日本にもらたしたもの。

天王殿 – 寛文8年(1668年)の建立。
一重入母屋造。

本堂の手前にこのような堂を置くのは中国式の伽藍配置で、日本では珍しい。

内部には弥勒菩薩の化身とされる布袋像を安置する。
この像は日本で著名な半跏思惟形の弥勒菩薩像とは全く異なり、太鼓腹の布袋像として表されている。

他に堂内左右に四天王像、布袋像の背後に韋駄天像を安置する。

これらの像は来日していた明の仏師・范道生の作で、いずれも中国風の様式で造られている。

大雄宝殿-寛文8年(1668年)の建立。

入母屋造。2階建てに見えるが一重裳階(もこし)付きである。
本尊釈迦三尊像(脇侍は阿難と迦葉)、十八羅漢像を安置する。

日本の一般的な寺院の「本堂」「仏殿」にあたる建物である。

建物の前には白砂を敷いた「月台」がある。

本尊釈迦三尊像(脇侍は阿難と迦葉)

祖師堂 – 伽藍堂と対称位置に建ち、中国禅宗の祖である達磨の像と歴代住職の位牌を安置する。

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宇治の間


宇治の間は、光源氏の息子、薫、孫の匂宮が登場する源氏物語の第三部のうち「宇治十帖]と呼ばれる部分。

薫、匂宮、大君、中の君、そして浮船の五人が宇治の地で綾なす恋の物語。

桐壺院の八の宮(第八皇子)で、光源氏の異母弟である。

冷泉院の東宮時代、これを廃し代わりに八の宮を東宮に擁立せんとの弘徽殿大后方の陰謀に加担させられたため、時勢が移るとともに零落していったのである。

今は北の方に先立たれ、宇治の地で出家を望みながらも二人の姫君(大君、中君)を養育しつつ日一日を過ごしている。

宇治山の阿闍梨から彼を知った薫は、その俗聖ぶりに強く惹かれ八の宮のもとに通うようになりますます傾倒してゆく。

通い始めて3年目の秋、八の宮不在の宇治邸を訪れた薫は、有明の月の下で箏と琵琶とを合奏する姫君たちを垣間見る。

屈託のない、しかも気品高く優雅な姫君たちに、薫はおのずと心惹かれる。

薫は女房を介して大君に逢いたく思うが、代わりに老女房の弁が現れる。弁は故柏木の乳母子(めのとご、乳母の娘)で、今は八の宮の侍女である。弁は、薫の出生の秘密と柏木の遺言を伝えることを約束する。また薫は、案内してくれた邸の従者に自らが着ていた直衣を贈る。

京に戻ってから薫は大君と弁の言葉が気になって頭から離れない。薫は匂宮に宇治の姫君たちの存在を語り、匂宮はその話題にいたく興味を示し、「ついに薫にも恋が訪れたか」と驚く。

年の暮れの雪の日、宇治を訪れた薫は大君と対面し、匂宮と中君の縁談を持ち上げつつ、おのが恋心をも訴え、京に迎えたいと申し出るが、大君は取り合わなかった。

翌年の春、匂宮の中君への思いはますます募るようになり、夕霧の六の君との縁談にも気が進まない。また、自邸の三条宮が焼失した後始末などで、薫も久しく宇治を訪ねていない。

夏、宇治を訪れた薫は、喪服姿の姫君たちを垣間見て、大君の美しさにますます惹かれてゆくのであった。

薫の庇護を受けていた女が匂宮に連れ出されて宇治川対岸の隠れ家へ向かう途中に詠んだ和歌

「橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ」

橘の茂る小島の色のようにあなたの心は変わらないかも知れないけれど、水に浮く小舟のような私の身は不安定でどこへ漂ってゆくかも知れません。

宇治十帖(「橋姫」より「夢浮橋」まで。薫20-28歳) あらすじ

柏木と女三宮の不義の子・薫と、源氏の孫・匂宮が、宇治八の宮の三姉妹・(大君、中君、浮舟)をめぐって織りなす恋物語である。

つよい仏教色、無常感が作品の主調をなし、優柔不断で恋に対して決定的な強引さを持たない薫の人物造形がライバルである匂宮や第一部、第二部の源氏と対比されている。
薫の人物像はこの後の王朝物語、鎌倉物語に強い影響を与えた。

橋姫(薫20-22歳10月)

源氏の弟・八の宮は二人の娘とともに宇治に隠棲し、仏道三昧の生活を送る。
みずからの出生に悩む薫は八の宮の生き方を理想としてしばしば邸を訪れるうちに、ふとしたことから長女・大君に深く心を引かれるようになる。
都に戻って薫が宇治の有様を語ると、匂宮もこれに興味をそそられるのであった。

椎本(しいがもと)(薫23歳2月-24歳夏)

春、匂宮は宇治に立寄り、次女・中君と歌の贈答をする。
秋、八の宮が薨去。
二人の姫君たちは薫に托された。

薫は中君と匂宮の結婚を計画し、自らはを大君に想いを告げるが彼女の返答はつれない。
しかし薫の慕情はいっそうつのる。

総角(あげまき)(薫24歳8月から年末)

薫は再び大君に語らうが想いは受け入れられず、むしろ大君は中君と薫の結婚を望む。
秋の終わり、大君により中君と薫が一つ閨に取り残されるが、薫は彼女に手を触れようとしない。

やがて当初の計画通りに薫は匂宮と中君の結婚を果たすが、匂宮の訪れは途絶えがちで、これを恨んだ大君は病に臥し、遂には薫の腕のなかではかなくなる。。

早蕨(さわらび)(薫25歳春)

翌年、大君の喪が明けて中君は匂宮の元に引き取られる。
薫は後見として彼女のために尽くすが、それがかえって匂宮に疑われる始末であった。

宿木(やどりぎ)(薫24歳春-26歳4月)

匂宮と夕霧の娘・六の君が結婚し、懐妊中の中君は行末を不安に思う。
それを慰めるうちに彼女に恋情を抱き始めた薫に中君は当惑するが、無事男子を出産して安定した地位を得る。

一方で薫は今上帝の皇女・女二宮と結婚するが傷心は癒されない。
しかし初瀬詣の折に、故大君に生き写しである中君の異母妹・浮舟を垣間見て、心を動かされるのだった。

東屋(あずまや)(薫26歳秋)

浮舟は母の再婚により田舎受領・常陸介の継娘として育てられ、父の財力のために求婚者は多い。
しかし母は高貴の男性との婚姻を望んで、彼女を中君の元に預ける。

母の意中は薫にあったが、ある夜、匂宮が見つけて強引に契りを結ぼうとしたためにあわてて浮舟を引き取り、後に薫と相談して宇治に移す。

浮舟(うきふね(薫27歳春)

浮舟への執心やまぬ匂宮は、中君への手紙から彼女の居所を察し、薫を装って宇治に赴いて強引に浮舟との関係を結んでしまう。

やがて浮舟も宮を憎からず思うようになるが、何も知らない薫は彼女を京に移そうと準備を始め、匂宮もこれに対抗してみずからのもとに彼女を連れ去る計画を立てる。

その結果匂宮とのことは薫の知る所となり、裏切りを詰る歌を贈られた浮舟は二人の男のあいだで懊悩する。

蜻蛉(かげろう)(薫27歳春から秋)

浮舟は行方不明になり、後に残された女房たちは入水自殺を計ったと悟って嘆き悲しみながらも、真相を隠すために急遽葬儀を行う。
薫もこのことを知って悲嘆にくれる。

夏になって、薫は新たに妻の姉・女一宮に心惹かれるものを感じるのであった。

手習(てならい)(薫27歳3月から28歳夏)

実は浮舟は、横川の僧都によって入水自殺後に助けられていた。

やがて健康が回復した彼女はみずからの名を明かさないまま、入道の志を僧都に告げて髪を下ろす。
やがて、明石中宮の加持僧である僧都が浮舟のことを彼女に語ったため、このことが薫の知るところとなる。

夢浮橋(ゆめのうきはし)(薫28歳夏

薫は横川に赴き、浮舟に対面を求めるが僧都に断られ、浮舟の弟・小君に還俗を求める手紙を託す。
しかし浮舟は一切を拒んで仏道に専心することのみを思い、返事すらもない。

薫は浮舟に心を残しつつ横川を去るのであった。

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物語は京から宇治へ


物語は京から貴族の別業の地、宇治へと移ります。
展示も物語に合わせて「架け橋」と名付けた空間を通り、宇治十帖の世界へ誘います。

3部の舞台は宇治へと移るため、展示室もまた「宇治の間」へと移ります。
その間を繋ぐ「架け橋」は平安京から宇治への道中を体感する事が出来ます。



わが庵(いほ)は 都のたつみ しかぞすむ
     世をうぢ山と 人はいふなり

           喜撰法師(8番) 『古今集』雑下・983

私の庵は都の東南にあり、辺りには鹿もいるほど寂しいが、これこの通り静かに暮らしている。
それなのに人は私を世の中をつらいと思って宇治に遁れていると言っているそうだ。

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平安京と光源氏


先ず、平安の間を訪れます。

平安の間は、「源氏物語」の主人公光源氏が人生を謳歌した第一部、第二部が紹介される。

物語の空間的な展示や装束、遊び道具、調度品が物語の世界へ誘います

「空蝉」の巻より。

源寺の君は、それならば向かい合って碁を打っている女たちの姿を見たいものだとお忍びになり、そっと歩き出して、簾の隙間に忍び込まれました・・・・・・

紀伊の守が任国へ下り屋敷が女ばかりの日を狙って、夕闇のころ小君は源氏をそっと邸宅に招き入れる。

部屋から覗いてみれば、空蝉と継娘の軒端荻(のきばのおぎ)が二人で碁を打っているところだった。

空蝉は身体の線が細くそれほどの美人というわけではないが、慎ましく振る舞っていて趣深い雰囲気を漂わせている。

反対に軒端荻は奔放で明け透けな様子で、どうも落ち着きがなくはしたない感じがするが、美人なこともありこれはこれで興味を惹かれる女だと源氏は感じた。

夜も更けて皆寝静まった。

しかし空蝉は寝息を立てる軒端荻の隣で横になりつつも、源氏のことを考えると眠ることができない。

そんな暗闇の部屋に芳しい香りが漂ってきた。
記憶にある香りにその正体を察知した空蝉は驚くが、声も音も立てずに寝床を抜け出して逃げてしまう。

状況の変化に気づかぬ源氏だったが、寝入っている軒端荻に寄り添ってみると、どうも以前と感覚が違う。
そこでようやく空蝉が逃げてしまったことを察知したのであった。

半蔀車(はじとみぐるま)

屋形の横にある物見窓(ものみまど)が、引き戸ではなく、上に押し上げる半蔀戸になっていることによる名称。

屋形そのものは檜の薄い板を編んでおり、いわゆる網代車(あじろぐるま)の一種である。

上皇・親王・摂関、大臣のほか、高僧や女房が用いることもある。

光源氏が造営した「六条院」は、4つの町に分かれており、それぞれ春夏秋冬の季節に合わせた庭が造られていました。

そして、春の町には紫の上、夏の町には花散里、秋の町には秋好中宮、冬の町には明石の君が住みました。

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世界遺産 宇治上神社


宇治上神社(うじがみじんじゃ/うじかみじんじゃ)は、式内社で、旧社格は村社。
隣接する宇治神社とは対をなす。

ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。

鳥居から奥の参道、緑いっぱいのトンネル、涼風が吹き渡る。

創建年代などの起源は明らかではない。宇治上神社のすぐ近くには宇治神社があるが(位置)、宇治上神社とは二社一体の存在であった。

宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる。

拝殿前には上賀茂神社などと同じような形で、円錐形のお山(立砂、又は盛砂と言う)が二つ盛られています。
ただし、宇治上神社のお山は上賀茂神社のものと同じ意味ではありません。

上賀茂神社の立砂は、神社の北の方にある神山に見立てた神の依代よりしろですが、こちらは「清め砂」です。

9月1日に行われる八朔祭はっさくさいの時に氏子さんたちによって奉納された、境内のお清めのためのお砂です。

盛られたお砂は1年間盛られ続け、その後はお正月やお祭りの時に境内にまき散らし、境内を清めるのだそうです。

拝殿横の授与所では、自宅用の清め砂も販売されています。

本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられた。
また、1052年創建の平等院との深い関連性が指摘されている。

左殿:菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。応神天皇皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。

中殿:応神天皇 第15代天皇。菟道稚郎子命の父。

右殿:仁徳天皇 第16代天皇。菟道稚郎子命の異母兄。

本殿から見た拝殿。

本殿前に建てられている拝殿は鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれる。切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。

桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。

また境内には「桐原水」と称される湧き水があり、「宇治七名水」のうちでは唯一現存するものになる。

幹周/4. 8m、樹高/27m、樹齢/300年とケヤキの前に立つ宇治市名木100選の立て札にあります。

本殿東のパワースポットは、「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石。

この上に小石を乗せて、落ちなければ願いが叶うと言われており、参拝客が満願成就を願って乗せていった小石が積まれています。

かつて古神道では、磐境信仰(いわさかしんこう)というものがあり、岩を祀っていました。
宇治上神社のこの巨石も、磐境信仰によるものではないかという説もあります。

春日社 祭神:建甕槌命、天児屋根命

社殿は一間社流造で、檜皮葺。
鎌倉時代後期の造営とされ、国の重要文化財に指定されている。

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宇治散策


宇治橋のたもと、ハスの花が咲き、空は青くすみわたり気持ちのいい朝です。

道すがらチロリアンランプを見つけました、かわいい花です。

「アブチロン」(浮釣木(うきつりぼく))は葉の脇から長い花柄を垂れ下がらせて、赤い筒状の萼が目立ち、ランプをぶら下げたような形の色の花を咲かせる。

そのため、流通名をチロリアンランプという。

花は黄色だが、膨らんだ赤い5稜形の萼が目立つ。

雄しべと花柱(雌しべ)は飛び出している。

さわらびの道は源氏物語散策の道」としても親しまれているところ。

コースの途中には源氏物語ミュージアムや宇治十帖ゆかりの古跡などがあります。

木々に囲まれていて、静かな心地よい散策道です。

宇治十帖ゆかりの「早蕨」(さわらび)の古跡

年改まり、宇治の山荘にも春が来た。

今年も山の阿闇梨(あざり)から蕨や土筆(つくし)などが贈られてきた。
 
中君(なかのきみ)は亡き父君や姉君を偲びつつ

   この春はたれにか見せむ亡き人の
      かたみにつめる峰の早蕨

と返歌なさった。
 
二月の上旬、中君は匂宮(におうのみや)の二条院へ迎えられ、行先の不安を感じつつも、幸福な日々が続く。
 
夕霧左大臣は、娘の六君(ろくのきみ)を匂宮にと思っていたので、失望し、薫君(かおるのきみ)にと、内意を伝えたが、大君(おおいきみ)の面影を追う薫君は、おだやかに辞退した。
 
花の頃、宇治を思いやる薫君は、二条院に、中君を訪ねては懇ろに語るが、匂宮は二人の仲を、疑い始める。

宇治十帖ゆかりの「総角」(あげまき)の古跡のあたり

大君、中の君の父・八の宮の1周忌が近づいてきてその準備をする場面から「総角」が書き出されます。

姫君たちは仏前に供える名香の飾り紐を作るのです。

法要準備の見舞並びにその支度の手伝いをするために宇治を訪れた薫の君は、几帳の隙間から糸繰り台を垣間見ます。

そして、姫君に代わって法要の願文を薫の君が認めるのですが、その時に、薫の君はさりげなく贈答歌を書いて示すのです。

 あげまきに長き契りを結びこめ おなじ所によりもあはなむ

大君は煩わしく思いながらも、返歌を書きます。

 ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に 長き契りをいかがむすばむ   と。

薫の君が詠んだ歌に出てくる「あげまき(総角)」がこの巻の名となった。

宇治駅で燕を見かけた、そろそろ南へ帰る時期ではないですか。

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宇治橋の守り寺 放生院


604年(推古天皇12年)、聖徳太子の発願で創建されたのが始まりと伝えられている。
 
1281年(弘安4年)、西大寺の叡尊によって中興された。

叡尊は1286年(弘安9年)に宇治川の中州に十三重石塔を建立し、橋寺で放生会を行ったという。

そのため、橋寺は放生院とも呼ばれるようになった。

山号は雨宝山。
寺号は常光寺。
通称の「橋寺」の由来は、近くの宇治川に架かる宇治橋をこの寺が管理していたことによる。

寺伝によれば、推古天皇11年(603年)、聖徳太子の命を受けた秦河勝が宇治橋を架けた折、当寺も開創されたという。

ただし、境内にある宇治橋断碑の碑文によれば、宇治橋は元興寺の僧・道登によって大化2年(646年)に架けられたという。

鎌倉時代後期の弘安4年(1281年)、勝宝山西大寺(南都西大寺)の再興などで知られる僧・叡尊によって、当寺も再興された(『感身学生記』)。

文明11年(1479年)兵火に遭い室町幕府の援助などにより復興されたが、江戸時代の寛永8年(1631年)にも火災に遭い、焼失した。

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