吸湖山青岸寺


青岸寺は、滋賀県米原市の太尾山西麓にある曹洞宗の仏教寺院。

山号は吸湖山、近江湖北二十七名刹第27番札所、近江七福神(福禄寿)。

境内にある築山林泉式枯山水庭園「青岸寺庭園」で知られる。

創建は室町時代初期で、開基はバサラ大名で有名な佐々木道誉。

本尊は佐々木六角氏頼が造立した「お腹籠観音」の名で知られる聖観音立像を胎内仏とする秘仏聖観音坐像。

本堂裏の 築山林泉式枯山水庭園日本庭園は国の名勝に指定されている。

山門を入るとシダ植物の一つである“岩苔”とも呼ばれるイワヒバ(岩檜葉)が、苔状になって参道の左右に繁茂しています。

大きな枝振りの百日紅の後方にあるのが「青岸寺」の本堂です。

江戸時代前期の枯山水庭園。

三世住持の興欣により書かれた『築園記』によると、延宝6年(1678年)、興欣の依頼で、玄宮園・楽々園築造に関わった井伊家家臣の香取氏が作庭したとされる。

座視式を基本とする庭園であるが、面積2,717平方メートルと広大であるため回遊式も兼ねる。

平成30年(2018年)から庭園を眺められるカフェを住職自らが経営している。

通常、海を表現するのに白砂が使われるが、青岸寺では杉苔が用いられている。

庭園北西部には、桃山時代風の切石による反り橋が架けられている。

まるで渓谷のような景観を作り出し、杉苔と合わさって大変美しい。

画面上部には座敷がみえる。

大雨により苔庭が雨水で埋まり池泉庭園になるとのこと。
年に数回だけの奇跡の景観であるが、この目でみたいものだ。

庭園内にある織部灯篭(キリシタン灯篭)。

武将で茶人の古田織部正重然がキリシタン全盛時に信者や茶人の好みに合うように創案したと言われ、和洋折衷の寄せ灯篭です。

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丹波の国 国分寺跡


国分寺の付近は古代丹波国の中心地と云われ、丹波国府が置かれていました。

まだ、京の都が形成される前のはなし。

今は訪れる人も少なく、鄙びた風景の中に佇んでいます。

丹波国分寺跡 遠景手前に回廊跡、奥の樹叢に主要伽藍跡と現境内。

現在の本堂・鐘楼・山門は、安永3年(1774年)の建立。
いずれも亀岡市指定文化財に指定されている。

創建は不詳。出土瓦から実際の創建は奈良時代末期と見られている。
国分寺の付近は古代丹波国の中心地で、現在も丹波国一宮の出雲大神宮や千歳車塚古墳などが残る。

『延喜式』主税上では、丹波国の国分寺料として稲4万束があてられた旨が記載されている。

発掘調査からは平安時代末期頃の再建が認められるほか、平安時代後期の薬師如来坐像が本尊として伝わっているが、文献上ではその後の経緯は明らかでない。

寺伝では、戦国時代に明智光秀の兵火により焼失したため、安永3年(1774年)に護勇比丘によって現本堂が再建されたという。

ただし、国分寺には元禄14年(1701年)銘の鰐口が伝わることから、それ以前には復興されていたと考えられている。

「本堂」前には立派な「香炉」があります。

いつごろのものかは分かりませんが、この場に鎮座して、変わらぬ風景を見ながら、毎日時間の流れを感じているんでしょうね。

周囲は深い草に埋もれています。

暮れていく山肌を照らす光が幾重にも重なる山襞を映し出しきれいです。

国分寺跡遠景、深い森に静かに眠る。

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布袋さんのお寺 養仙寺


丹波七福神の第2番札所。

内外・大小・新旧さまざまな布袋さんが約600体ほどあり、「布袋寺」といわれ親しまれています。

清水焼布袋尊

和顔

家内隆昌
福寿円満
子孫長久
家内安全
学業成就

養仙寺の創建は天平13年(741)とも寛正年間(1460~1466年)とも云われる古寺です。

往時は寺運も隆盛したとされますが度重なる兵火により衰微し、戦国時代には明智光秀の侵攻により衰退しました。

境内に残された石仏、石碑、石塔等は光秀が築城した亀山城の石垣や石造物として利用され寺観も荒廃しました。

すすぎ揺れる丹波の田舎寺、のどかです。

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元愛宕 愛宕神社


京都府亀岡市千歳町国分にある神社。
旧称は「阿多古神社」。
式内社で、旧社格は村社>

愛宕灯篭

亀岡市内には愛宕灯篭がいくつかあり、石灯篭内部にある燭台は町内を回覧板のように各家に回っていく。

この燭台は手提げ式の灯篭になっており、各家は回ってきた燭台に火を灯して次の家に回す。

社伝では愛宕山の愛宕神社(京都府京都市)は当社からの勧請とし、そのため「元愛宕」や「愛宕の本宮」とも称される。

愛宕山の愛宕神社同様に「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参詣すると一生火災に遭わないとして信仰される。

つまり亀岡の愛宕神社が最初にあって、そこから京都市に勧請されたと言われているのです。

元祖が亀岡で、京都市のは分社ということです。

亀岡の方が創建年代が500年ごろ。

対して京都市の方が大宝年間(701~704)。亀岡のほうが二百年近くも早く作られています。

しかし、京都市のほうが人口も多いので、いつの間にか京都市側のほうが有名になってしまったわけです。

社伝によると創祀は神代で、山を神籬として祀られたという。

その後、継体天皇元年(507年?)に社殿が創建されたと伝える。

当社付近には丹波国分寺が位置するが、その衰退で僧侶が当社に奉仕したこともあり、神仏習合によって仏像が立てられ「愛宕権現」と称されたという。

現在、その仏像は当社西にある養仙寺に移されている。

また社伝では、当社の分霊が京都鷹ヶ峰に祀られた後、和気清麻呂により嵯峨山に遷され、これが現在の愛宕山の愛宕神社になるとしている。

そのため「元愛宕」「愛宕の本宮」とも称されるほか、社殿には当社が全国の愛宕神社の総本山であると記載してあり、鳥居脇の社号標にも「本宮 愛宕神社」と記している。

社務所の前には「亀岡の名木 大スギ」があり、境内の中央には「亀岡の名木 イヌマキ」。

当社の森にはムササビが住んでいるらしいのだが、参拝時には見かけなかった。

牛松山へ向かう道。

明智越に至り、 明智光秀が織田信長を奇襲攻撃するために、亀岡から京都へ抜けるために利用した山道である。

山道付近は紅葉の真っ盛り。


「和らぎの道」に至る。
桜の名所として有名です。

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柿本人麻呂を祀る柿本神社


柿本神社人丸山西麓の西鳥居。

亀の水(亀齢水)

人丸山西麓の西鳥居前に湧く地下水。
延命長寿の水としての信仰を有する。

元禄12年(1699年)、現在の西参道を造営するに際して手水舎として設けられたのが始まりという。
現存する手水鉢は享保4年(1719年)に飯塚宣政によって寄進された。

明石天文科学館展望室からの柿本神社。

人丸山の頂上に鎮座するが、山名も当神社に因むもの。
旧社格は県社。旧くは「人丸神社」と称し、地元では「人丸さん」とも呼ばれる。

柿本大明神とも称される柿本人麻呂朝臣を祀る。

嘉暦2年(1327年)に著された『人丸縁起』によると本地仏は十一面観音で、その像は旧別当寺として隣接する月照寺に祀られている。

ただし創祀の事情に関しては、人麻呂が水死させられたという説があるので本来は非業の死を遂げた人麻呂の怨霊を慰めるために祀られた可能性、あるいは『古今和歌集』に詠み人知らずの歌として「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れゆく舟をしぞ思ふ」という歌が載せられ、左註に「ある人」の言として作者は人麻呂であるとされ、神社ではこの歌を縁起として重視していることと、人麻呂が文武天皇から下賜された船乗十一面観世音の仏像が大和国の柿本寺という寺にあったのを覚証が迎えて楊柳寺の奥の院に祀ったところ仏像の胎内から『和歌秘弁抄』なる書物1巻が出たとの伝承があることから、和歌を含めた秘事口伝が重んじられるようになった時代に「ほのぼのと」の歌が人麻呂作と信じられそのことが直接の契機となって、神社が創祀された可能性が考えられる。

因みに当神社と密接な関係を持つ月照寺の寺伝によれば、覚証は大和国の広安寺なる寺から人麻呂の念持仏であった船乗十一面観世音を勧請して楊柳寺の奥の院に祀ると共に寺号を月照寺と改めたといい、また同寺では「ほのぼのと」の歌に「初生(ほのぼのと) 娑婆世界(あかしがうらの)朝立霧(あさきりに) 四魔滅(しまかくれゆく) 念仏(ふねをしぞおもふ)」との字を充て、各句を発心大円鏡智(生)、修行平等性智(老)、菩薩如観察智(死)、涅槃成行作智(病)、法界体性智(苦)の「生老死病苦」という仏教的摂理で解釈している。

811年(弘仁2年)空海がかつて明石城のあった赤松山に創建した湖南山餘鵜楊柳寺にはじまると伝えられている。

1618(元和4)年に明石城築城に伴い柿本神社とともに現在の位置に移った。

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中山正實画伯の壁画「阿騎野の朝」をもとに作られた柿本人麻呂像。

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宮本武蔵作庭園の残る 雲晴寺


1639年 (寛永16年)、明石藩主大久保忠職とその姉桃源院(東丸様、元安房館山藩主里見忠義正室)は、不遇の死を遂げた忠義の菩提を弔う為、ここにあった寺院の伽藍を整備し寺領を増やして供養を行い、里見忠義の法名「雲晴院殿心窓賢涼大居士」からとって雲晴寺と名が改められた。

本堂裏には戦前まで宮本武蔵作と伝えられる庭があったが、1945年(昭和20年)7月の大空襲によって雲晴寺は山門を残して全焼し、庭も戦後復興の過程で埋められた。

2003年(平成15年)、本堂建設に伴う発掘調査により庭園の一部が見つかり復元。

その後武蔵の孫弟子にあたる柴任三左衛門夫妻の墓石が発見され、武蔵ゆかりの寺院の裏付けが濃くなった。

軒を支える邪鬼

山門を入ってすぐ左手に、台座の上に立つ地蔵菩薩像があります。

花崗岩製で、高さ約1.5mの舟形光背面に浮彫りされ、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。

これは江戸時代前期のもので、地蔵菩薩像として非常に貴重なものであります。

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卑弥呼と会える!大阪府立弥生文化博物館

古代を代表する女性といえば、必ず名前の挙がる邪馬台国の女王・卑弥呼。

しかし、卑弥呼がどのような女性であり、どのような暮らしを送っていたか、そして、邪馬台国をはじめとする弥生時代のクニがどのようなものであったか、ご存知ですか?

弥生時代の文化や習俗を紹介した大阪府立弥生文化博物館では、そんな女王・卑弥呼の人物像や暮らしぶりなどを知ることが出来るのです。

女王・卑弥呼は2世紀後半に勃発したとされるその「倭国大乱」の後、邪馬台国の女王として「共立」され、歴史の表舞台に登場して来ました。

写真は「卑弥呼の館」。

その名のとおり、当時、卑弥呼が暮らしていた館を想像的に再現した模型。

横5メートル、縦3メートルという大型模型で、環濠と城柵によってかこまれた内部には、卑弥呼の館のほかにも政事をつかさどった建物や倉庫、物見櫓なども再現されています。

『魏志倭人伝』によると、女王になってから卑弥呼の姿を見たものは少なく、一人の男子が飲食を給仕するために卑弥呼のもとに出入りしていたと記述されています。

この館のなかで卑弥呼はどのような暮らしを送っていたのでしょうか。

景初3年(239)、卑弥呼は難升米らを中国大陸に派遣。

魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられました。

ご覧のように、写真では銅鏡を高らかに掲げた卑弥呼の姿が再現されていますが、この時代、銅鏡が権威の象徴でもあったことを踏まえると、実際に卑弥呼がこのように銅鏡を掲げ、国内外にみずからの力を誇示していたことが容易に想像できます。

写真は卑弥呼の食卓を想像的に再現したコーナー。

季節は春に設定されており、各地の遺跡から出土した骨や種子などを分析して得られたデータのもとづいて再現されています。

野菜を混ぜ込んだ炊き込みご飯を主食とし、マダイの塩焼きや煮物、汁物などが並べられていますが、さすがは邪馬台国の女王であることを印象付けられる食卓です。

卑弥呼の宝石箱として、想定復元した首飾り等の宝飾品が展示されている。

先に示したように魏から賜った真珠や金八両から作った金環(イヤリング)は見当たらないが・・・。

先の卑弥呼の着衣と宝飾品で身を飾る様は、現代人と何ら変わることはなく、江戸期や昭和初期の庶民のモノトーンの世界と比べれば何なのかという想いがよぎる。

ひょっとすると卑弥呼の宮室は、賜った鉛丹により朱色に輝いていたのではないかと、飛躍して考えたくなる。

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弥生農耕 大阪府立弥生文化博物館


弥生文化博物館は日本で唯一弥生時代をテーマにした歴史博物館だ。

弥生文化の基礎は農耕、特に水田でのコメ作りだと考えられています。

弥生研究の主テーマは各地での稲作の導入過程とその展開・結果の追求だったといってよいでしょう。

弥生土器、登呂式の新しい段階。
約AD1~AD180 静岡県登呂遺跡。

登呂遺跡で水田が最初にみつかってから現在まで、その具体像はおおよそ明らかになったといえますが、解決していない論点も残り、新たな分析手法の導入で逆に深まる謎もあります。

鋤、池島・福万寺遺跡 弥生時代前期 約BC700~BC400

排水管、志紀遺跡 弥生時代前期 約BC700~BC400

この時代にこんなものまで作られていたとは驚きです。

田下駄、曲金北遺跡 古墳時代中期 約AD400~AD500

本展では、水田というコメを栽培する場に焦点を当てるとともに、近年みえてきた畠作の問題を取り上げます。

農耕の意味を知るには、栽培はもちろん、収穫、保存、食べるまで含めて考える必要があります。

春の水田風景。

弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。

採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。

池上・曽根遺跡は、大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡。

南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がり、総面積60万m2に達する大集落遺跡である。
1976年に国の史跡に指定された。1995年から史跡整備が行われている。

高床式大型建物 建築様式:掘立柱建物建物は井戸の北側3.5mにあり、東西17m、南北7m、面積約135m2の最大級の独立棟持柱(むねもちはしら)の高床式建物跡で、神殿らしい。

建物を支えていた直径70cmヒノキ柱の基礎部分25本が腐らずに出土。

柱の間隔は1.8m、長辺の中央部2.3m前後。

土器編年では弥生時代中期後半であるが、柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、紀元前52年に伐採されたことが判明。

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秋の円教寺


書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる。

もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。

山号の由来はこの「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する。

湯屋橋: 湯屋橋摩耶殿の前面にある石橋で橋脚や、床版、欄干などが石造、宝珠が銅製となっている。

元和6年(1620)、姫路藩主となった本多忠政は円教寺に帰依し、大破していた湯屋橋を修築しています。

湯屋橋には「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」の銘が刻まれています。

護法石(弁慶のお手玉石) – 摩尼殿の手前にある直径約1 mの2つの石で、不動明王の化身である乙天(おつてん)と毘沙門天の化身である若天(わかてん)の2童子が降り立ったと伝えられる。

また、弁慶がお手玉にしたともいわれる。

武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされており、机などゆかりの品も伝えられ公開されている。
ただし史実である確証はない。

小さなお地蔵が沢山並んでいてかわいい。

突然視界に現れ、圧倒される摩尼殿。

円教寺は、本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。
西国三十三所第27番。

現住職は第140世。
宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。

西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。

京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。

秋空に映える摩尼殿。

摩尼殿から見下ろす、葉月茶屋は山内唯一の食堂。

樹間のうっそうとした道を三つの堂へ向かう。

左より常行堂・食堂・大講堂。

この大講堂・食堂・常行堂がコの字型に並び、三つのお堂を総称して「三之堂(みつのどう)」。

見事に掃き清められた、コの字の真中に当たる空間部分は大きな伽藍3つに囲まれ、何か世界が違うような…不思議な静寂を生み出しています。

そしてそのシーンのロケ地がこの圓教寺の常行堂。最初、圓教寺はロケ地の予定になかったそうですが、姫路城を視察に来たスタッフが時間が余ったためこの圓教寺を訪れ、エドワード・ズウィック監督が一目ぼれしてここでの撮影を決めたそうです。

護法堂

開山堂(重要文化財) – 宝形造(方形造)、本瓦葺、桁行5間、梁間6間。

開山の性空を祀る。寺記によれば、性空が没した寛弘4年(1007年)、性空の高弟・延照が創建したとするが、現在の堂は江戸時代初期、寛文11年(1671年)に再建されたものである。

軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名。

奥の院から摩尼殿へ向かう、樹齢700年の大杉などもあり、深い樹林を進む。

ロープウエイ三条駅へ向かう。

山上駅から仁王門へ至る参道は「西国巡礼の道」と称され、左右に、西国三十三所の各札所本尊を表した銅像が設置されている(1989年完成)。仁王門を通り、寿量院、圓教寺会館、十妙院を過ぎると、参道は「権現坂」と称する下りの階段になり、下りきったところが摩尼殿の縁下である。

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「真田丸」が置かれた三光神社


反正天皇の時代の創建と伝えられる。

創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える。

社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の西にある円珠庵(鎌八幡)の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。

かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。

拝殿

鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。

かつては大坂城の出丸である「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。

境内には大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)に描かれた真田信繁を元にした像がある。

千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁が造ったものではなく、真田丸を攻めた前田利常軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。

大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれる。

真田幸村雌伏の地九度山
真田幸村雌伏の地九度山を訪ねた。 講談本の人気とこの時期のドラマの影響で盛り上が … 続きを読む →

真田幸村雌伏の地九度山を訪ねた。
講談本の人気とこの時期のドラマの影響で盛り上がっているが、実態としては生活感の一部も感じられるものはない。

大阪は「陸軍発祥の地」と呼ばれるが、1869年(明治2年)明治新政府の兵部大輔となった大村益次郎が、陸軍の中央機関を大阪に置く方針を示し、大坂城と周辺に諸機関を創設したためである。

その一環で明治4年(1881年)1月に太政官弁官から兵部省に「大阪府下真田山ノ内ヲ兵隊の埋葬地トナス」(太政類典)と初の国立墓地の設置も認められた。

真田山陸軍墓地は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町にある大日本帝国陸軍の墓地。

日本で最初[1]かつ最大の陸軍墓地で、太平洋戦争終戦当時の規模を保つ点でも歴史的な価値がある(大阪市史編纂所)。

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