インド中国の仏像たち


ブラフマー神

ブラフマー(梵、ヒンディー語: ब्रह्मा Brahmā)はヒンドゥー教の神の1柱、創造神でありトリムルティ(最高神の3つの様相)の1つに数えられる。

4つの顔を持ち、それぞれの顔は四方を向いているとされる。

現代のヒンドゥー教ではブラフマーは人気のある神格とは言えず、ヴィシュヌやシヴァと比べトリムルティの中での重要性も低い。

ブラフマーは古代の聖典の中では礼賛されているものの、インドでは重要な神として人々の信仰を集めることは稀であった。

そのためインドにあるヒンドゥー寺院でブラフマーを奉るものは少ない。

最も有名なものとしてはラージャスターン、プシュカルのブラフマー寺院 (プシュカル)(英語版)が挙げられる。

ブラフマー寺院はインド国外にも存在し、タイ王国のエーラーワンの祠 などが有名である。

ドゥルガー女神

ドゥルガー(サンスクリット語: दुर्गा, durgā)は、ヒンドゥー教の女神。

その名は「近づき難い者」を意味する。
デーヴァ神族の要請によってアスラ神族と戦った。
シヴァ神の神妃とされ、パールヴァティーと同一視された。

外見は優美で美しいが、実際は恐るべき戦いの女神である。
3つの目を持っており、額の中央に1つの目がある。

10本あるいは18本の腕にそれぞれ神授の武器を持つ。

虎もしくはライオンに乗る姿で描かれる。

また、ドゥルガーは別名をヴィカラーラ(「恐るべき者」の意)といい、仏教では興福寺八部衆や二十八部衆の畢婆迦羅、十二神将の毘羯羅となっている。

また、密教に於いては菩薩(天台宗では如来)とされ、六観音、七観音の一尊である准胝観音となっている。

黒闇天とも同一視される。
また、突伽天女、塞天女とも呼ばれ、玄奘三蔵の伝記『大慈恩寺三蔵法師伝(慈恩伝)』では突伽という表記で登場する。

シヴァ神は、ナタラージャ(Nataraja)とも呼ばれている。

“Nata”は「踊り」、”Raja”は「王」、「踊るシヴァ神」という意味。

胴体からのびる4本の腕。
それぞれのポーズをとる4本の手は、それぞれ象徴的な道具を持っているところを表現しています。

一つ目は、ダマルと呼ばれる砂時計形の胴をもつ両面太鼓を持つ手。
この太鼓で世界創造のリズムを取ると言われています。

そして二つ目の手には、 「再生」「破壊」「現世」を表す先が3つに分かれた「トリシューラ」と呼ばれる鉾を。

三つ目の手には「破壊」と「浄化」を意味する火炎(アグニ)。

そして、最後の手は、「保護・庇護」を象徴した型をとっています。

踊っているかのような両足の動き。
持ち上げている左足は、救いの道の方角を指し、そしてしっかりと地面に踏みつけている足は、悪を破壊することを象徴しています。

ダキーニ女神(空行母)

荼枳尼天の起源であるインドのダーキニーは、裸身で虚空を駆け、人肉を食べる魔女である。

ダーキニーの起源は明らかでないが、ヒンドゥー教もしくはベンガル地方の土着信仰から仏教に導入されたと考えられている。

十一面観自在菩薩

顔の数の由来など、起源の明確な根拠が少ない。
ヒンドゥー教の影響下に7世紀ごろ成立したとされる。

密教系の尊格であるが、雑密の伝来とともに奈良時代から信仰を集め、病気治癒などの現世利益を祈願して十一面観音像が多く祀られた。

観音菩薩の中では聖観音に次いで造像は多く、救済の観点からも千手観音と並んで観世音菩薩の変化身の中では人気が高かった。 関連記事


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伝承では、奈良時代の修験道僧である泰澄は、幼少より十一面観音を念じて苦修練行に励み、霊場として名高い白山を開山、十一面観音を本地とする妙理権現を感得した。

平安時代以降、真言宗・天台宗の両教を修めた宗叡は、この妙理権現を比叡山延暦寺に遷座し、客人権現として山王七社の1つに数えられている。

文殊菩薩、梵名マンジュシュリー(梵: मञ्जुश्री, mañjuśrī、別名:マンジュゴーシャ、मञ्जुघोष、mañjughoṣa)は、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。
一般に智慧を司る仏とされる。

文殊菩薩が登場するのは初期の大乗経典、特に般若経典である。

ここでは釈迦仏に代って般若の「空(くう)」を説いている。

『華厳経』では善財童子を仏法求道の旅へ誘う重要な役で描かれることなどからもわかるように、文殊菩薩の徳性は悟りへ到る重要な要素、般若=智慧である。

尚、本来悟りへ到るための智慧という側面の延長線上として、一般的な知恵(頭の良さや知識が優れること)の象徴ともなり、これが後に「三人寄れば文殊の智恵」ということわざを生むことになった。

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聖武天皇勅願 海住山寺


当寺の創建事情については必ずしも明らかではないが、寺伝では天平7年(735年)、 聖武天皇の勅願により良弁(奈良東大寺の初代別当)を開山として藤尾山観音寺という寺号で開創したという。

伝承によれば、聖武天皇は、平城京の鬼門にあたる現・海住山寺の地に伽藍を建立すれば、東大寺大仏の造立が無事成就するであろうとの夢告を受け、良弁に命じて一寺を建立させた。

良弁が感得した十一面観音像を本尊として開創したのが、海住山寺の前身の観音寺であるという。

なお、史実としては聖武が大仏建立の詔を発したのは天平15年(743年)であり、平城京の地で大仏造立を開始したのは天平17年(745年)である。

海住山寺という寺号の由来については、『明本抄』「良算聞書」に以下のようにある。

まず、「海」とは、観音の衆生を救済しようという誓願が海のように広大であることを意味し、海のような観音の誓願に安住するという意味があるとする。

また、インドの仏教では観音の住処は南方海中の補陀洛山(ポータラカ山)にあるとされ、当寺を海に住する山である補陀洛山になぞらえる意味もあるという。

海住山寺秋の文化財特別公開、国宝五重塔開扉の告知ポスターが境内に貼られてました。

通常は奈良博にいらっしゃる、五重塔を守護する「四天王立像(重文)」。

五重塔(国宝)。
塔高17.7m、初層方三間、本瓦葺、裳階付。建保二年(1214年)建立。
室生寺五重塔に次いで日本で二番めに小さい塔。

パッと見ると六層に見えますが、一番下の屋根は「裳階(もこし)」と言われる、耐久力を増すための飾り屋根になっています。

裳腰つきの五重塔は、現存するのは法隆寺とここだけ。

木造十一面観音立像 重要文化財

像全体の特徴は、バランスがよく伸びやかな体躯をもち、肉身は張りがあって、衣はその質感がよく表わされている。

十一面観音の象徴である頭上面は、頂上に仏面、髻の中ほどに三面(正面は菩薩面、左は瞋怒面、右は牙上出面)、地髪の上に七面を配する。右手を施無畏印とし、左手は肘を曲げて水瓶を執り、後述するように体躯に動きを表して蓮肉上に立つ。

五重塔内陣を厨子風に造り、8枚の扉に一体ずつ、華麗な彩色で梵天・帝釈天などの天部や比丘像が描かれる。

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聖武天皇謎の彷徨 恭仁京を訪ねる


740年、聖武天皇は平城宮を離れ、恭仁宮(京都府木津川市)に遷都。

しかし、恭仁京の完成を待たず744年には難波宮(大阪市)、翌745年には紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に都を移します。

有名な大仏建立の詔は紫香楽宮で出され、建立が始まります。

なぜこのように頻繁な遷都が繰り返されたのでしょう? 理由はよくわかっていません。

宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。

現在は、大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が残り、恭仁宮跡周辺では晩夏から秋にかけて、蕎麦の花、彼岸花、コスモスが見頃となります。

大極殿(石碑)から北方面を見る。(田圃一帯を恭仁京跡地として保存されている)
13年度の調査で「内裏西地区、内裏東地区」が確認された。
築地塀、掘立柱塀などで囲まれていた。

今(いま)造(つく)る、久迩(くに)の都は、山川(やまかは)の、さやけき見れば、うべ知らすらし

大伴家持

山の中腹に 聖武天皇の勅願と伝わる海住山寺(かいじゅうせんじ)が見えている。

大極殿基壇の北西隅に残る礎石、他に、南西隅に九重の石塔の台座として使われている礎石など数点があった

塔の心礎(大きさは人の大きさで判断ください)

そろそろ残り柿が郷愁をそそる季節となりました。

なぜこのように頻繁な遷都が繰り返されたのでしょう? 諸説あり、理由はよくわかっていません。

なぜ? ふたつの大極殿 平城京の謎
第二次大極殿跡から第一次大極殿跡を望む。 藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世 … 続きを読む →

第1次平城宮大極殿(復元)
恭仁京大極殿は第1次平城宮の移築とされる。

平城宮跡 天平祭2014
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この時期の風物詩 野焼きも見られます。

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蟹満寺縁起


昔、山城国(現山城町綺田)に観音様を厚く信じる農家の父娘がいました。
ある日、娘は村人がとる蟹を哀れみ逃がしてやりました。

またある日、父は田で蛇にのまれんとしている蛙を助けるのに「娘を嫁にやるから蛙を助けて欲しい」とうっかり言ってしまいました。

その夜、立派な男性の姿をした蛇が娘を貰いに来ますが、「三日待ってくれ」と懇願しました。
男性は一度、引き帰りました。

蟹満寺三日目、板を打ち付けた部屋の中で父娘は懸命に観音経普門品を唱え祈っていました。
やってきた蛇は約束が違うと怒りだし、家の周囲で暴れました。

しかし突然、その音もやみました。夜が明けて見てみると、家の周囲には蟹の鋏で切り裂かれた蛇の死体が転がっていました。

その時に死んだ蟹と蛇の屍を葬り塚を作ってその上に観音堂を建てたのが、蟹満寺といわれています。
現在、毎年4月に蟹供養がおこなわれています。

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港住吉神社


当社は1842年(天保13年)に、大坂城代幕命を奉じ、摂津一宮である住吉大社より4座の御分霊を目印山(旧天保山)に勧請した。

以来、本社と本末の関係を以て祭祀を継続し、大阪三郷の関係住民及び海運業者の日夕の崇拝するところの守護神となった。

1864年(元治元年)天保山に台場が築かれたので、天保町に奉遷した。

1906年(明治39年)官幣大社住吉大社の境外末社となり、翌年西区靭中通二丁目永代濱住吉神社を合祀し、1917年(大正6年)天保町より築港遊園地だった現在地に奉遷した。

「名前の刻ま れたたくさんの石」「逆向きの鳥居」「笑っている 狛犬」等なぞの多い不思議な場所でもあります。

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築港高野山


創建年は明治末期の1910年。
真言宗の開祖である弘法大師(空海)が遣唐使で唐に渡ったのを顕彰する為、遣唐使一行が出航したとされる跡地に弘川寺の末寺の寺号である「釈迦院」の名前を継承して開基された。

開基当初の釈迦院は現在地より東の天保山運河の近くに位置し、7400坪程の広大な敷地を有していた。
大正時代から昭和初期にかけて同寺は大師信仰の中心地として栄え、東の四天王寺、西の築港高野山と呼ばれるほどであったが、大阪大空襲により寺は全焼。

浪曲塔

釈迦院の山門から入って右手に浪曲塔と呼ばれる石碑が建っている。

戦前、港湾労働者の間では浪曲が盛んで、浪曲師で浪曲の寄席「広沢席」の席主でもある広沢虎吉が釈迦院の住職の弟子であった関係で、同寺の境内に浪曲の祖とされる藤原澄憲を祀る碑が建てられた。

碑は大阪大空襲で寺が焼失した際に失われたが、寺の再建に伴い碑も再建された。

同寺では毎年8月30日に浪曲師たちの供養を兼ねた「浪曲まつり」が開かれている。

行者堂

真ん中に不動明王・隣に空海と役小角の石像が祀られている。

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いにしえの風情ただよう 高島びれっじ


駅前に10メートルぐらいのガリバーの特大銅像があり、ガリバーが敵国の艦隊を拿捕するシーンである。

これは高島市内に『ガリバー旅行村』のキャンプ場があるため。

いにしえの風情ただよう旧城下町、高島市勝野。
陣屋の惣門や武家屋敷が今なお残っています。

築150年の旧商家を商工会の有志が手づくりで改修し「びれっじ」として再生しました。
現在は1号館から8号館まで整備されています。

ここはびれっじ3号館■淡海堂(スイーツ・お酢)

びれっじ6号館■Wani Cafe(ワニカフェ)(ランチ・パスタ)

大溝まつりの曳山の収納庫も見える。

趣のありそうな路地を入ってみる。

ここはレンタルサイクル店、店先のマキは冬季のストーブ用かな。

コスモスの咲く広い空間、いきなり足元からキジが飛び立った、山里の風情を残す空間だ。

古い板塀も残る。

造り酒屋を見つけたが残念ながらお休み。

大溝城下で特に注目されるのは、幅約1メートル、深さ1メートルほどのまちわり水路が町並道路の中央を流れていること。

その水路は、南北の主な四通 りに敷設されている。
もともと大溝は山水やわき水に恵まれ、堀割を活用して町屋に引水していた。

そうした引水流路の錯綜状態を、町割の整備とともに四つの 水路に改修したのがまちわり水路であって、飲用・防火の生活水路であった。
したがって、城下の町屋は井戸を持たない

未だにその水路が保存されているのも素晴らしいですが、当時の上水道(古式水道)は今現在においても使われているそうです。

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竹生島


竹生島は葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大きい島。
右側には伊吹が見える。

湖岸波除石

近江今津は、1595年から明治まで金沢藩前田家の近江領だった。
1700年代に幕府の許可を得て、湖岸波除石垣を造った。

波除石垣の完成以降、水害から守られ古い街並みが石垣より少し内陸側に出来、 町は発展した。

クルーズ船と琵琶湖周のうた歌碑。

島全体が花崗岩の一枚岩からなり、切り立った岩壁で囲まれているのが特徴である。

「観音堂」「都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿」が見える。

竹生島港には琵琶湖周航のうた歌碑が建つ。

この曲は1917年(大正6年)6月28日、第三高等学校(三高。現在の京都大学)ボート部の部員による恒例の琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎による詞を「ひつじぐさ」(作曲:吉田千秋)のメロディーに乗せて初めて歌われた。

その後この歌は、三高の寮歌・学生歌として伝えられた。

4.瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮
 古い伝えの 竹生島(ちくぶじま)
 仏の御手(みて)に 抱(いだ)かれて
 眠れ乙女子 やすらけく

165段の石段を上った広場左手に「本堂(弁才天堂)」が建てられている。

本堂前の広場にある「石造五重塔」の横から更に石段を登った狭い場所に、朱塗りも鮮やかな「三重塔」と、「宝物殿」が建てられている。

今津方向を眺める、波にきらめく陽光がきれいだ。

「観音堂」から「都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿」までの間に「舟廊下」が通じている。

舟廊下と呼ばれているのは、これが秀吉の御座舟を利用して造られたことに由来するといわれる。

「舟廊下」も唐門、観音堂と同じ年、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼が片桐且元に命じ、京都から移築したものとされている。

龍神拝所

竹生島港からの伊吹山。

今津港へ向かうクルーズ船の航跡、陽を受けて虹がかかりきれいだ。

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国立民族学博物館


国立民族学博物館は、人間文化研究機構を構成する大学共同利用機関。

民族学・文化人類学を中心とした研究・展示を行っている、博物館を持った研究所。
略称は民博(みんぱく)。

東京帝国大学の学生だった渋沢敬三(後の蔵相、日銀総裁)が1921年に東京・三田にある自邸の車庫の屋根裏部屋を利用して、アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)をつくり、二高時代の同級生らと共に動植物の標本や民具などの蒐集を始めた。

1935年には渋沢と白鳥庫吉らを中心に日本民族学会が設立され、国立民族学博物館設立を構想し、政府に陳情したが、戦局の悪化から採り上げられなかった。

渋沢の死後、1964年に日本民族学会などは国立民族研究博物館の設置を政府に要望し、1965年には日本学術会議が総理大臣に国立民族学研究博物館の設置を勧告した。

一方で、1970年に開催された日本万国博覧会では、岡本太郎がチーフプロデューサー・小松左京がサブ・プロデューサーを務めるテーマ館に世界中の神像や仮面、生活用品などを陳列するため、東京大学教授の泉靖一と京都大学教授の梅棹忠夫らが中心となって、世界中から資料を蒐集していた。

本館の展示は地域展示と通文化展示に大きく分かれている。

地域展示ではオセアニア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、日本を含むアジア各地域に分かれ、オセアニアから東回りに世界を一周するようになっている。

通文化展示は地域、民族毎に分けての展示ではなく、音楽と言語など世界の民族文化を通じて概観する展示がある。

開館当初からビデオテークが設置され、世界中の生活や文化を紹介する映像を利用者が選択し、視聴することができる。

また、1999年には映像と音声による展示解説を行う携帯型の「みんぱく電子ガイド」が登場した。

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キトラ古墳壁画体験館 四神の館

「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」は、国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区内にある、体感型施設。

1階の「キトラ古墳壁画保存管理施設」では、実物の壁画や出土遺物を保存管理する施設となっています。
実物の壁画は四半期毎に期間限定で公開する予定。

入館は下の入り口から。

前は四神の広場

キトラ古墳周辺地区の最も大きな芝生広場。 

各種イベントの実施のほか、お弁当を食べたり、ゆったりくつろいだりもできる、ひろびろ気持ちのいい広場です。

エントランスホールに浮かび上がる白虎。

キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見※された壁画古墳で、壁に描かれた東西南北を守る玄武(北)、青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)や天井に描かれた精密な天文図で知られています。

四神の館は、キトラ古墳の隣にある体感型施設(入館無料)で、実物の壁画や出土遺物を保存管理しています。

頭上の天文図は、地球の自転軸は年々変化しているので、これの原本が中国で作られた年代までも推測できるのだそうです。

もちろん、世界最古の天文図です。

渡来文化と飛鳥

大陸から伝わった文化や、飛鳥時代に生まれた文化、当時の人々の生活を、2メートル四方のジオラマ等を通じて学べるゾーン。

キトラ古墳とも関わりの深い渡来人のコーナーです。

稲作の様子などが模型で展示されています。

飛鳥エリアの古代建物遺構からは、L字型カマド、大壁建物、オンドルなどの朝鮮半島由来のものが多く見つかっています。

東漢氏(やまとのあやうじ)、鞍作氏、平田氏、軽氏等々の渡来人たちが基盤を置いた飛鳥の地。

日本最古の仏像として知られる飛鳥寺の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を造ったのも鞍作止利でしたよね。

キトラ古墳は2段に造られた円墳。
発掘調査を経て現在は埋め戻され、2015(平成27)年に古代の大きさに復元されています。

古墳鑑賞広場ではその姿を一望することができます

キトラ古墳地形復元模型 雨に打たれています。

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