心象


ベニン王国の王母の頭像。

ドゥルガー(サンスクリット語: दुर्गा, durgā)は、ヒンドゥー教の女神。

その名は「近づき難い者」を意味する。
デーヴァ神族の要請によってアスラ神族と戦った。

シヴァ神の神妃とされ、パールヴァティーと同一視された。

仏塔の周囲の欄順やトーラナには、釈迦の生涯やその前世の物語が浮彫として描かれ、彼らが釈迦を追慕することができた。

仏塔の装飾モチーフに、ハスの花や水であふれた壺、樹木神など、生命力や豊穣多産をあらわすシンボルが登場することも注目されます。

仏塔はその姿をさまざまに変えながらも、日本を含むアジア各地で建立されました。

四臂観自在菩薩(しひかんじざいぼさつ)

六字観自在菩薩は観音菩薩の変化観音として、チベットでは最も人気のある菩薩。

四臂(四本の腕)を持つことから、四臂観音ともいわれています。
四臂観音は、四本腕の一対の右手で数珠、左手で蓮華を持っています。

そして、もう一対の両手でサンプタ合掌(十指を集め、両手の間に少しの空間を残す合掌)をしています。

チベットの宝生如来。

阿弥陀如来は仏舎利を持っています。

寺名の由来であるナーラーヤン(ヴィシュヌ神)とその妃ラクシュミー女神。

カルティケーヤ神

ヒンドゥ教におけるシヴァ神の次男。
ちなみに長男はガネーシャであり二人は兄弟である。

母はパールバティ。

誕生は少し複雑で、火の神アグニが7人の聖なる仙人の妻たちに恋をし、しかしながら不倫を我慢していたところ、妻であるスヴァーハーが次々とその妻達に化け、アグニと寝所をともにし、その時に受けた精をアシュターベ山の黄金の穴に落としていったと言う。

6人まで化けることに成功し、6回分の精液を落とした時、カルティケーヤが生まれたのだという。

ナタラージャ(naṭarāja、踊りの王)という形で表現されるシヴァも広く受け入れられている。

「ナルタカ」(Nartaka、踊り手)とニチャナルタ(Nityanarta、永遠の踊り手)という名前もシヴァ・サハスラナーマに紹介されている。

シヴァと踊り、シヴァと音楽とのつながりが顕著になるのはプラーナ文献の時代(4世紀から14世紀)である。

特徴的なナタラージャのポーズの他にもインド各地で様々な踊りの形(nṛtyamūrti、リチャムールタ)が見られ、タミル・ナードゥ州では特によく体系化されている。

ダンスの形で最も有名なものとして、ターンダヴァ(英語版)とラースヤ(英語版)が挙げられる。

世界の破壊が必要になった時にはシヴァ(マハーカーラ)が舞うターンダヴァと、パールヴァティの踊るラースヤ、優美で繊細で穏やかな感情が特徴的な女性の舞踊によって、世界の破壊が遂行される。

ラースヤは女性的な踊りとしてターンダヴァと対を成す[263]。ターンダヴァとラースヤは世界の破壊と再生に結び付けて考えられる。

モノシャ女神

インド各地で崇拝される女神。
ベンガル地方では蛇神として祀られる。

悪魔が大地を水中に沈没させた時に、ヴァラーハ(野猪)に化身したヴィシュヌが、水中に一気に潜ってその頑丈な牙で大地を再び引き上げたという。

ラクシュミー女神

乳海攪拌の際に誕生した。

ヒンドゥー教の最高神の1人ヴィシュヌの妻とされており、数多くあるヴィシュヌの化身と共に、ラクシュミーも対応する姿・別名を持っている。

幸運を司るため、移り気な性格であるともいわれる。
ラクシュミーが誕生した時、アスラたちが彼女を手に入れようとしたが、失敗に終わった。

あるアスラはラクシュミーを捕まえることに成功し、頭の上に乗せたが、その途端に逃げられた。

かつてはインドラと共にいたこともあったが、インドラでさえラクシュミーを自分の元に留めておくためには、彼女を4つの部分に分けなければならなかったという。

サラスバティ女神

ヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)である。

そもそもはブラフマーが自らの体からサラスヴァティーを造り出したが、そのあまりの美しさのため妻に娶ろうとした。

逃れるサラスヴァティーを常に見ようとしたブラフマーは自らの前後左右の四方に顔を作りだした。

さらに、その上に5つ目の顔(後にシヴァに切り落とされる)ができた時、その求婚から逃れられないと観念したサラスヴァティーは、ブラフマーと結婚し、その間に人類の始祖マヌが誕生した。

また、元々はヴィシュヌの妻であり、後にブラフマーの妻になったという異説もある。

牧童姿のクリシュナ神

クリシュナはヴリンダーヴァンで牧童の暮らしをし、時にその本性を現して村人を救済しつつ、成長していく。

夕刻仲間とともに牛を集めて帰村すると、神聖な牛の埃を浴びようと村人たちが出迎える。

特に牧女(ゴーピー)たちはクリシュナの姿に魅了させられるのであった。

この時期より、クリシュナの神性と、魅惑的な身体を飾る孔雀の羽根や蓮の花、野の花のレイ、ウコン色の腰布、手に持つ横笛など図像的シンボルが定着する。

ドゥルガー女神

近寄りがたい者の意味。
戦いと勝利の女神。シヴァの奥さんであり、パワーの源。

【別名】
・マヒシャスラマルディニー(水牛の姿をした悪魔を殺す女神)

この方、実はパールヴァティー様のもう一つのお姿といわれております。
パールヴァティー様の化身としては超人気度がたかい女神様のひとり。

なんたって超美人だし。強いし。虎かライオンにのっかって、手にはいっぱい武器をもった美しい女神の姿か、 水牛の悪魔と戦っている姿で描かれる。

ヒンデゥー教の破壊の神さまのシヴァは腕を6本持っており、パールヴァティ神は彼の妻で、二人一組で描かれたり、像が作られることも多い。

ガネーシャ神

太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭をもった神で、4本の腕をもつ。

障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、事業開始と商業の神・学問の神とされる。

インドのマハラシュトラ州を中心にデカン高原一帯で多く信仰されている。ガネーシャの像の中には杖を持っているものもおり、この杖は「アンクーシャ」と呼ばれている。

文殊菩薩

大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。一般に智慧を司る仏とされる。

『文殊師利般涅槃経』によると、舎衛国の多羅聚落の梵徳というバラモンの家に生まれたとされる。
また一説に釈迦十大弟子とも親しく仏典結集にも関わったとされる。

ヤマーンタカ尊

梵名のヤマーンタカとは『死神ヤマをも殺す者』の意味で、降閻魔尊ともよばれる。

このヴァジュラ・バイラヴァのバイラヴァとは、インド神話の主神の一柱であるシヴァ神の最も強暴な面「バイラヴァ」のことである。

また、マヒシャ・サンヴァラのマヒシャ(マヒシャースラ)とは、インド神話で女神ドゥルガーと戦った水牛の姿のアスラ神族の王のことである。

ダーキニーは日本では、ダキニ天として、狐に乗る女神としてお稲荷様のご本尊だということはあまり知られていない。

徳川家康が天下統一のために自分の胆を差し出し、願いをかなえてもらったとかいう話もあったり。

一方チベット仏教では、ダーキニーは知恵を与える女神として大変重要な地位にある。
彼女は頭蓋骨でできた杯で血を飲み、裸で流し目の艶かしい姿で表現されることもある。

チベットのタンカ(曼荼羅絵)にも好んで描かれる。
チベット仏教では、単なる魔女ではなく神格が昇華されたというところか。

十一面観音は、『法華経』の「普門品」に説かれる「あらゆる方角を向いた(samantamukha)」という表現から派生したいわゆる変化観音の一つであり、西インド・カーンヘリーの貴重な石像をはじめ、日本にも奈良・滋賀の両県を中心に名作が多い。

実際に、チベットなどでも十一面観音は「十一面を持つもの」より、「大慈を持つもの」と呼ばれる傾向が強いことは示唆的である。

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龍馬の育ったまちを訪ねる


龍馬の生まれたまち記念館が路面電車 上町一丁目下車(はりまや橋乗り換え)すぐのところにある。

坂本龍馬が生まれた高知市上町にある記念館では、昔の上町の町並みを半立体模型で再現し、龍馬の精神的なバックボーンを育てた上町という町を紹介しています。

入り口で龍馬像がお出迎え、おなじみの懐手のポーズ。

龍馬を中心に乙女、近藤長次郎の像。

乙女は、天保3(1832)年1月1日、父・八平と母・幸の間に生まれた。
本名は「留(とめ)」であり、「おとめ(乙女)」は当て字である。

きょうだいは兄・権平と長姉・千鶴、次姉の栄であり、龍馬はその3年後となる天保6(1835)年11月15日に生まれている。

母・幸が弘化3(1846)年に死去した後、龍馬の母代わりとなって教育したと言われる。(実際は、龍馬の少年時代に与えた影響力は、継母の伊与のほうが大きいのではないかと思われる)

人物は、「男勝りの豪快な女」のイメージがあるが、三味線、一絃琴、謡曲、浄瑠璃、琵琶、舞踊などの芸術的な技能も多彩であった。

また、剣術や長刀(薙刀)、馬術、水泳などにも通じており、文武において高い能力を持っていたらしい。

身長は5尺8寸(約176cm)、体重は30貫(約112kg)もあったそうで、成人男子の平均身長が155cmほどであった当時の人々には、途方もない大きさに感じられたことだろう。

近藤長次郎

坂本龍馬と仲が良く、龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立した人物。

龍馬の命令で長州藩に赴き、小銃を売り渡したのも近藤。

ユニオン号引渡しで長州藩から得た謝礼金をイギリス商人に渡した上、イギリス船に乗り込みイギリスに留学しようとした事と、密かに亀山社中の資金を横流ししていた罪により、社中の隊士たちより切腹を言い渡される。享年29歳。

龍馬が土佐藩を脱藩するまでの少年,青年時代のエピソードを映像や音声で紹介しています。

龍馬が育った上町の様子。

龍馬が育った上町の様子。

坂本家の離れをイメージした空間。
龍馬へ宛てたメッセージノートなど、思いを馳せながらゆっくりくつろぐことができます。

また龍馬・乙女姉さんとの写真撮影も楽しめます。

龍馬の育った才谷屋この先にある。

高知駅前にーぶんした「龍馬伝」幕末志士社中、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で使われた龍馬の生家セット。

「龍馬伝」で使われた龍馬の部屋。

しかし、龍馬が偉大な人物だったことは認めるが、高知って龍馬しかいないの?
展示内容が少し薄っぺらすぎませんかねえ、物足りなさを感じる。

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仮面

民博にはアフリカ・オセアニア他から集められた神像や仮面、生活用品などがたくさん展示されている。

仮面は人間の仮の「おもて・顔」。

人間の複雑な心の動きを具体的な物で表現したともいえます。
そこには地域文化の特色とともに、地域文化を越えた人間の心の表現があるのではないでしょうか。

木彫 男と女

ニュージーランド マオリ族

上部は男性の顔、下部は女性の顔を表している。
ともに伝統的な入れ墨(モコ)が施されている。

クリスマス人形「キリスト降誕」  フランス

ヨーロッパ南部ではクリスマスに、イエスが生まれた馬小屋のセットを飾ることが多い。

母マリアと父ヨゼフのほかに、誕生を祝福する動物もいる。
毎年人形を買い足して豪華なセットにする家庭も多い。

ソゴボ(操り人形付き動物仮面)

パナマの人々の社会では、男性だけが所属する仮面結社が様々な儀礼に携わるが、これとは別に、男女を問わず若者たちが組織するグループが、操り人形付き仮面の舞踏を上演する。

仮面  インドネシア  ジャワ

仮面舞踏トペン・チルボンに使われる。

ジャワ島西部北海岸の町チルボンとその周辺のジャワ人社会で演じられる。
踊り手は順番に仮面を付け替えて踊る。

仮面 パンジ

仮面 トリジョヨ

仮面 シダカルヤ

仮面舞踊劇トペン・パジェガンに使われる仮面。

バリ舞踊9種類、ユネスコの世界無形文化遺産に認定されたがそのうちの一つ。

道祖神の仮面 長野市

目、鼻、鼻の穴、唇、見事にすべてわら、しめ縄のような眉毛とひげでしょうか。

昔、周囲の村で病がはやった時、医者がはやり病が村に入ってこないよう村境の芦ノ尻道祖神に祀り、悪霊を追い払ったといわれています。

縁結びの神様としても祀られ、正月の松飾りのしめ縄で、道祖神の文字碑に独特の顔が、毎年1月7日に作られます。

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世界各地の暮らし

国立民族学博物館は、世界各地の人々のくらしや固有の文化、社会情勢などを学習・体験できる博物館をもった研究所、その一部をのぞいてみよう。

チチャ(トウモロコシの醸造酒)の売り子。
左手にひょうたんの杯、右手にひしゃくをもつ。

甕(かめ)全体が甕から酒をくむ女性像になっている点がユニークである。
インカ文と名づけられた幾何学模様は、ペルーの古代文化を想起させる。

地域:チュルカナス ペルー

アラビアコーヒーにみるアラブ世界のおもてなし文化。

「寛容の象徴」という「アラビアコーヒー」が、ユネスコの人類の無形文化遺産になりました。

砂漠でベドウィン(アラブ遊牧民)のテントを見つけてあいさつに行くと、かならずコーヒーが出てきます。

現在のエジプトを代表するベリーダンサー、ダンダシュさんの衣装。

アレキサンドリアの芸能一家に生まれ、ダンサーとなる。

いつも午後4時に起床、夜になると仕事場にむかう。
一晩で3つの舞台をかけもちすることもある。

ブータン高地ではヤクを飼い、その乳、毛糞(ふん)、肉などを利用する。

夏のあいだ、ヒマラヤ山麓で放牧するときにはヤクの毛で織った黒いスパイダー・テントに泊まる。

乳からはバターを、残った脱脂乳からは乾燥チーズを作る。

カザフ草原の暮らし。

現在のモンゴルは私たちが想像している以上に都市化している。

「ゲル」と呼ばれるテントに住み、季節の移り変わりと共に場所を移動し、昔ながらの遊牧の生活を営んでいる人たちなど、今ではすっかり少数派になっている。

地理的には中国やロシアなどに挟まれているため、社会主義体制にどっぷり組み込まれていた時期はチンギス・ハーンのことにふれることさえタブーになっていたようである。

アイヌの家。

東西に長い長方形の一間づくりで、入口の土間に農具や薪が置かれる。

東壁にひとつ、南壁にふたつの窓がある。
中央に炉が切られており、その上の火棚に魚や獣の肉をのせてくん製にした。

主人の席は炉の北側の東寄りで、仕事をしながら南壁の窓ごしに、屋外のクマ檻を見張ることができる。
このような伝統的住居は、現在では野外博物館などでみられるだけである。

アイヌの祭壇(ヌササン)。

アイヌの伝統的な家屋の東壁に、神の出入りする窓がある。

そこからみえる屋外の位置にイナウ(けずりかけ)を立てならべた祭祀の場、ヌササンが設けられていた。

展示では重要な儀礼であるイオマンテ(飼育グマの霊送り)の最終場面を表現しており、さまざまな神に捧げられた形態の異なるイナウがならんでいる。
せか
この窓から家の中をのぞくことはタブーとされている。

主家の屋根は奈良盆地特有の大和棟。
屋根の切妻の部分を壁土で塗りその上に瓦を並べたもので地元では「タカヘ」と呼ばれている。

大屋根の両側に一段低く瓦屋根の落棟がつき庭や干し場を建物で囲む住まいは旧家に多く見られる。

秋山郷の住まい。

合掌造り。

岩手県南部の曲家(まがりや)。

二棟造り  沖縄県竹富島。

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民間信仰

今ちょうどお盆の最中だが、世界中には様々な形の民間信仰があ。
民博の展示の中から一部を紹介しよう。

メキシコの民間信仰では、動物に変身する能力をもった人や、人を守る動物霊をナワルとよぶ。
展示品はヤギに変身したナワルの木彫。

ナワルとは、メソアメリカ地域において伝承される鳥獣に変身する能力を持つとされた妖術師や魔女(シャーマン)の変身後の姿である。

木彫「龍」(メキシコ、オアハカ州)

この仮面はアフリカ大陸南部のザンビアに住むチェワ族の「死者の化身とされる<ニャウ>」が儀式の際に踊る時に身につける仮面。

インドネシア・バリ島のシンボルともいえる聖獣バロンと魔女ランダ。
その仮面は、村でご神体として祀られるものもあれば、土産物となるもの、観光芸能ショーで用いられるものもある。

バリの人々の暮らしにはバロンとランダを慕ったり、恐れたり、頼ったりする習慣がある。。

シャマニズム儀礼用具

モンゴルでは古来から続くシャーマニズムが、チベット仏教と時に対立しながらも混じり合い、信仰されつづけてきた。

シャーマニズムは、シャーマンの能力により成立している宗教やや宗教現象で、シャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされている。

タイトルは「悪魔像」。
4本の足で床を踏みしめ、今にも飛びかかってきそうな姿勢、2本の角を生やした鬼のような形相、1本まっすぐに上にのびた細長い尻尾が周囲を威嚇する。

そして無色で木地のままの身体。

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町中骸骨だらけ!メキシコ死者の日

メキシコで、死者の日が近づくと、町中に死者を表す骸骨が溢れる。
家や仕事場や学校、商店、ホテル、教会、地下鉄内、道と、あらゆる場所に死者の日の飾りつけがされ、死者を迎えるための祭壇が作られる。

メキシコでは2500-3000年前から、祖先のガイコツを身近に飾る習慣があった。

また、死と生まれ変わりの象徴として、他者(多くの場合は敵)のガイコツもトロフィーの様に扱われていた。
死者の日の祝祭は地域によって様々な形で生まれ伝承されてきた。

中でも、アステカ族には冥府の女神ミクトランシワトルに捧げる祝祭があった。

やがて、死者の貴婦人、カトリーナに捧げる祝祭へと形を変え、アステカ暦の9番目の月を祝うようになった。

これは現在の8月前半にあたる。
その後、スペインからの侵略を受け、カトリックの諸聖人の日と融合して今の形になっていった。

自分の親しかった親兄弟、友達、子供など、死んだ人が、骸骨になって、死者の日に自分を訪ねてやってくるのである。

その骸骨達と楽しく過ごそうというのが、メキシコの人達の死者の日の過ごし方なのかもしれない。

死者の日には家族や友人達が集い、故人への思いを馳せて語り合う。

祝祭はカトリックにおける諸聖人の日である11月1日と翌日2日に行われる。
地域によっては、10月31日の晩も前夜祭として祝われる。

市街地はマリーゴールドの香りに包まれ、公園には露店が立ち並ぶ。

11月1日は子供の魂が、2日は大人の魂が戻る日とされ、供え物がチョコレートなどのお菓子からメスカルなどの酒に変わっていく。

日本のお盆に近い位置付けであるが、あくまで楽しく明るく祝うのが特徴である。
死を恐怖するのではなく、逆にあざ笑うというモチーフとなっている。

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古代史と万葉の史跡を訪ねる 高鴨神社


高鴨神社の朱色の鳥居。

高鴨神社境内の宮池と、浮舞台で奉納される雅楽と舞は奈良県景観資産にも登録されています。

その美しい水辺景観は、日本神事の原点を見るようでもあります。

仲秋の名月には雅楽などによる観月演奏会が催され、境内にはより一層雅な雰囲気が醸されます。

拝殿は石段を上った所にある。

高鴨神社(たかかもじんじゃ)は、奈良県御所市の金剛山東山麓にある神社。

式内社(名神大社)。社格は県社。京都の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社と称する。

4月中旬から5月初旬にかけて500種2,200鉢以上の日本サクラソウが咲く。

阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)を主祭神とし、下照比売命・天稚彦命を配祀する。

当地は鴨氏一族の発祥の地であり、その氏神として祀られたものである。

鴨氏はこの丘陵から奈良盆地に出て、葛城川の岸辺に移った一族が鴨都波神社を、東持田に移った一族が葛木御歳神社を祀った。

後に、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった。

「カモ」は「カミ」と同源であり「カモす」という言葉から派生し、「気」が放出している様子を表しています。

当神社の神域は鉱脈の上に重なり、多くの「気」が出ていることでも有名です。

夏場に参詣されますと、涼しく感じられるのはその為です。「気」は身体に大変よく、ぜひ神域を巡られて神様の「気」をお受けになられ、心身共に甦られることをお祈り申し上げます。

~高鴨神社 パンフレットより~

宇賀御魂命を祀る稲荷神社の鳥居。

八幡社、一言主社、猿田彦社、聖社などが木々に囲まれた参道沿いに祀られており、さらに進んで行くと朱色の鳥居が目印のお稲荷さんがありました。

ここのお稲荷さんだけは、右手の石段を少し上がった所に祀られていました。

古代史と万葉の史跡を訪ねる葛城の道の旅も終わりです。

バスの車窓からの大和三山、この日もただ暑く、バスの座席に座り冷気を浴び一息。

帰りに立ち寄った道の駅、暑いけれども、空は澄み渡り気持ちいい一日であった。

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古代史と万葉の史跡を訪ねる 高天寺 橋本院


橋本院の入り口の万葉歌碑 
「 葛城の 髙間の草野(かやの) 早や知りて
     標(しめ)刺さましを 今ぞ悔(くや)しき
 」   巻7-1337 作者未詳

( 葛城の髙間の草野、そこをいち早く見つけて、「ここは俺のものだ」と目印を
  立てておけばよかった。
  いつの間にか他人に刈られてしまったわい。悔しい! )

草野は屋根材の最高級品とされた茅(かや)の群生地のことで、当時このあたりに生い茂っていたようです。

この歌は「草に寄す」に分類されているので、草野は若く美しい女性の譬えとされ、標刺すは我が物にすること。

目を付けていた女性が、知らない間に他人と一緒になった悔しさを詠っています。

葛城古道から見た橋本院、季節ごとの花のきれいな寺としても有名で、アジサイもその一つ。

長い参道にはユリなど季節の花が美しい。

真言宗のお寺で、ご本尊は十一面観世音菩薩像。

ご本尊はお彼岸などのお寺の行事の時や毎月開帳される。

高天寺は奈良時代に元正天皇の勅により行基が開いたとされる。

鑑真和尚も聖武天皇の任命により高天寺の住職になったほど、格式の高い寺院です。

また修験道の祖と崇められる役の行者のこの寺で修行を積んだと伝えられています。

奈良時代には高天原エリア一帯に敷地がひろがる大きな寺院でした。

時代の移り変わりとともに奈良の興福寺に属し、後に弘法大師の真言宗に属しました。

一時は大寺院として勢力を誇った高天寺でしたが、中世に入り南北朝時代になると 高天寺は戦乱で焼き払われ、なんとか一院だけ焼け残りました。

この院がちょうど池の橋の横にあったことから「橋本院」と呼ばれるようになり このことから現在は「高天寺 橋本院」として信仰を集めています。

カメラマンのファンの多い「瞑想の庭」

高天寺・橋本院での見所はなんといっても「瞑想の庭」と呼ばれる庭園。

白雲岳を背景に四季おりおりの草花が 野趣あふれる形で楽しむことができます。
葛城古道を紹介するテレビの収録が数多く行われているお庭です。

奈良盆地の西南、大阪府と奈良県の境に連なる二上、葛城、金剛山の峰々は古くは総称して葛城山(かつらきやま)とよばれていました。

その東側の山裾(奈良県側)を南北に辿る道が葛城古道で、古代豪族葛城氏や鴨氏の本拠地とされています。

葛城氏は天皇家との結びつきが強く、その祖とされる襲津彦(そつひこ)の娘が仁徳天皇の皇后、磐姫、万葉集最古の歌を詠んだといわれる女性です。

「 葛城の 襲津彦真弓(そつびこまゆみ) 新木(あらき)にも
   頼めや君が  我が名 告(の)りけむ
 」
                          巻11-2639 作者未詳

 ( 葛城の襲津彦(そつびこ)の持ち弓、その新しい弓材が強いように
  あなた様は私を強く信じ切って下さった上で、私の名を他人に明かされたのでしょうか)

古代、恋人の名を他人に告げることは禁忌とされていました。

他人の口から人の名が発せられると、その人の魂が抜け出てしまい、お互いの関係が消滅すると考えられていたのです。

この歌の作者は、自分の名を明かした男に、
「 なぜ人に教えたの.
  教えても私の気持ちが心変わりしないと強く信じておられたの。
  それとも、もうお互いの関係は終わっても良いという心づもりなので
  しょうか 」 と問い詰めています。

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古代史と万葉の史跡を訪ねる 高天彦神社


創建は不詳。金剛山東麓に鎮座し、元々は社殿後背の白雲岳(白雲峰、標高694メートル)を神体山に祀った神社とされる。

元々は当地の地主神の「高天彦」を祀ったものと推測される。

社名・神名の「高天(たかま)」は一帯の地名でもあり、神話に見える高天原の伝承地とする説が古くからあるほか、高皇産霊神の神名の転訛が由来とする説、高皇産霊神の別名が「高天彦神」とする説、「高間」すなわち金剛山中腹の平地を意味するとする説がある。

『万葉集』では、「葛城の高間」と詠まれた歌が知られる(巻7 1337番)。

『延喜式』神名帳では宇智郡に高天岸野神社・高天山佐太雄神社が見え、いずれも五條市の金剛山中腹の神社に比定されることから、「高天彦神」を金剛山の神霊そのものとする説もある。

葛城の 高間の草野 早知りて

            標刺さましを 今ぞ悔しき

葛城の高間の草野を早くに知っておればシメを立てたものを、今となっては 悔しい!

参道の老杉>

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古代史と万葉の史跡を訪ねる 一言主神社


葛城古道界隈は風情のある民家が続く。

綏靖天皇は神武に次ぐ第二代の天皇で、その存在については疑問視されています。

しかしながらこの辺りは葛城襲津彦の子にして第十六代仁徳天皇の皇后である磐之姫の古郷と言われ、古事記には磐之姫が熊野に行っている間に天皇が八田若郎女を宮中に入れ遊び戯れている話を知り、大いに怒って(磐之姫は嫉妬深いことで有名)宮中に帰らず、堀江を遡って山代へ向かい、更に奈良山の手前まで行き次の歌を詠んだとされます。

 「つぎねふや 山城川を 宮のぼり わがのぼれば あおによし 那良を過ぎ をだて 大和を過ぎ わが見がほし国は 葛城高宮 吾家のあたり

いずれにしてもこの地が古代の天皇家と深い関わりがあったのではないでしょうか。

嫉妬にまつわる逸話

古事記下巻仁徳天皇条には「その太后石之日売命、甚(いと)多く嫉妬(ねた)みたまひき。
故、天皇の使はせる妾(みめ)は、宮の中に得臨(えゆ)かず、言立てば、足もあがかに(=地団太踏んで)嫉妬みたまひき」という記述が見られるように、妬み深い人物として知られる。

その様から他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇は宮殿を離れた時か、彼女が宮殿から出かけた時に迎えいれるしかなかったという。

ただ、裏を返せばそれだけ仁徳天皇が多情であったということであろう。

『古事記』には、仁徳は黒日売(くろひめ)という美女を見初めたが、黒日売は石之日売の嫉妬を怖れて国に帰ったという話を伝えている。
『日本書紀』には、仁徳が女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが磐之媛の嫉妬が強くて召し上げられないと嘆く話が出てくる。

天皇が八田皇女(八田若郎女)を宮中に迎えたことへの太后の怒りについては記紀ともに伝えている。

太后が豊楽(とよのあかり。酒宴のこと)の準備のために、料理を盛る木の葉御綱柏(みづなかしわ)を採りに紀伊の国へ行った留守中に、天皇が八田皇女を後宮に納れたことを知り、採取した御綱柏をすべて海に投げ捨て、天皇の元へ戻らなかった。

『古事記』では、独り身を歌った八田皇女の天皇への返歌が添えられており、そのことから、八田が身を引き天皇と石之日売は和解したという研究者の解釈がある。

また、その後起こった女鳥王(八田皇女の妹)とその夫・速総別王の討伐(仁徳に求婚された女鳥王は石之日売の怒りを怖れて速総別王と結婚したが仁徳の怒りを買って二人とも殺害された)ののちの酒宴に再び石之日売が登場し、討伐を実行した武人・山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)の妻が女鳥王の腕輪をつけていることに気付き、「主君の屍から腕輪をはぎ取り、妻に与えるとは無礼だ」と激怒し、山部を死刑に処した、と記している。

『日本書紀』では、天皇の浮気を知った磐之媛は実家の葛城高宮を懐かしみ、近くの筒城(筒木)岡に宮室を造営して以後そこに暮らし、天皇が面会に来ても会うことはなく筒城宮で没したと伝える(『日本書紀』では八田皇女の妹夫婦討伐の話は太后の死後としている)。

研究者の大久間喜一郎は、太后が八田皇女を頑なに認めなかったのは、豪族出身の太后に対し、八田皇女は応神天皇の娘であるため、格上の家柄の女性を宮中に迎えたくなかったからではないかとしている。

また、天皇が即位後に、それまでの妻に代わって位の高い女性を皇后に改めて迎える例は多々あるが、八田皇女が皇后となるのは太后の死後であり、太后の4人の息子のうち3人が連続して天皇に即位したことから見ても太后の権威は大きかったと推測している。

日本最古の歌集とされる万葉集には彼女の愛情の深さを表す歌が四首収められている。なお、ここでいう「君」はもちろん仁徳天皇を指す。

君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ

かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを

ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに

秋の田の 穂の上に霧らむ 朝霞 何処辺の方に わが恋い止まむ

3首目の意味は「豊かな私の黒髪が白くなるまであなたを待ちましょう」という意味であり、この歌を詠んだのが上記と同一人物とは信じられず、後の時代に別の誰かによる創作とも考えられている。


「いちごんさん」の石段をのぼると目の前にはムクロジの大樹があり、本殿前には銀杏の大樹がありす。

樹齢650年といわれるムクロジの大樹。

ムクロジは神社・寺によく植えられる落葉高木。

ムクロジの実は果皮に多量のサポニンを含み、水を泡立てる働きがあるので、洗濯などに広く利用されてきました。
黒い種は羽子板の羽に使われていました

拝殿前にはイチョウの古木(乳銀杏)があり、樹齢1,200年ともいわれ神木とされている。

この一言主神に関しては、『日本書紀』[原 3]『古事記』[原 4]における雄略天皇との対面説話が知られる。

両書によれば、雄略天皇が葛城山中で狩猟をしていた際、天皇と同じ姿の一言主神(一事主神)が現れ、天皇と狩猟を競ったという。

ただし、『古事記』では天皇が大御刀・弓矢・百干の衣服を神に献じて拝礼したとして一言主神の方が優位に記述されている一方、『日本書紀』では天皇が物を献じることはなく一言主神と天皇が対等に近い立場で記述されている。

『古事記』の方が原初的と見られることから、『古事記』の説話は一言主神の奉斎氏族とされる葛城氏が皇室外戚として強い勢力を持った頃の政治情勢を反映したもので、『日本書紀』の説話は葛城氏勢力が衰えて一言主神の地位も低下した頃の情勢を表すと考えられている。

さらに時代が下り、平安時代の『日本霊異記』[原 1]や『今昔物語集』[原 5]では、一言主神は役行者(役優婆塞/役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、さらに役行者の怒りにふれ呪縛された、と記されるまでに神威の低下が見られる。

なお、この使役の時に一言主神は自らの顔の醜さを隠して昼は働かず夜のみ働いたとされるが、その説話を受けて松尾芭蕉は『笈の小文』に歌を残している。

松尾芭蕉 『笈の小文』

やまとの国を行脚して、葛城山のふもとを過るに、よもの花はさかりにて、峯々はかすみわたりたる明ぼののけしき、いとど艶なるに、彼の神のみかたちあししと、人の口さがなく世にいひつたへ侍れば、
 猶(なお)見たし 花に明行(あけゆく) 神の顔

その意は、一言主は顔が醜かったというが、本当は、この花盛の山々の曙にふさわしく、きっと美しかったにちがいない。
そんな神の顔を見たいものだ、ということか。

葛城(かづらき)の 襲津彦(そつひこ)眞弓(まゆみ) 荒木にも たのめや君が わが名告(の)りけむ(万葉集巻11-2456)

この荒木の神をたよりとして、あなたは私の名前を人に明かしてしまったのでしょうか

この並木が、昔はもっと立派で美しい、しかも松並木だったらしい。
どのくらい昔かというと、これは分かっていて、昭和の後半。

奈良と和歌山を結ぶ県道建設のせいで参道が分断され、貧相な姿になってしまったという。
一言主は、どうも時代の巻き添えをくいやすい体質らしい

葛城連合は、古い時代には三輪王朝とタメを張って貫禄勝ちしていたが、やがて婚姻などを通じて大和連立政権に仲間入りして、一定の地位を確保する方向に動く。

実際5世紀頃の葛城氏は、次期大王推戴の豪族会議でも大きな発言権を有し、独自の経済力・軍事力を保っていたようだ。

それが衰退するのは、雄略という荒っぽい大王の登場がきっかけになっている。
王位継承のごたごたに絡んで、先帝の重臣だった葛城円(つぶら)が殺されてしまう。

雄略は、他の王位継承候補者をやたら殺しているが、円はそれに抵抗したのだろうか?

その時に、円の一族郎党が、まだ未開の地であった土佐に追いやられた可能性が考えられる。

土佐には、一言主を祀る都佐(土佐)神社という古社がある。
葛城に残った子孫が、後世の王朝に願い出て、葛城の一言主神社として祀りなおしたと伝えられる。

やがて藤原氏の台頭と律令制の整備によって、古代豪族という存在自体が影響力を失う。
葛城連合の末裔は、歴史の表舞台から消え、過去の事蹟も正史からはほとんど抹消され、神話と伝説の霧の中にかすかな足跡を残すだけになってしまった。

多分そういった経緯を反映して、書かれた時代によって異なる一言主の伝説があるのではないかと思われる。

蜘蛛塚--神武天皇即位前紀に、「高尾張邑(タカオハリムラ・当地の古地名)に土蜘蛛がいた。

その人態は身丈が短くて手足が長かく、侏儒(シュジュ)に似ていた。皇軍は葛の網を作って覆い捕らえ、これを殺した。
そこでこの邑を改めて葛城とした」と伝え、境内には、この土蜘蛛の頭と胴と足を三つに分けて埋められたという塚が三つ伝えられている

柱と島木の接続部分に、一枚の台輪と称する座をはめてあります。

防腐効果を持たせるためと言われていますが、多分にデザイン的なものでしょう。

両部鳥居の中に、台輪を使用しているものを多く見かけます。

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