旧武藤山治邸


明治40年に鐘紡の中興の祖と言われ、衆議院議員として活躍した武藤山治が舞子海岸に建てた住宅を再現した西洋館。

オリジナルの建物は洋館に和館がくっついた和洋折衷の建物だったが、今の場所には洋館のみ移築されている。

ちなみに、当時、住人は普段は和館に住んでいて、来客時に洋館を使用していたという。

建造材の大部分や外装材の一部は新材で再現されているものの、建具や内装の仕上げ材は当初のものが使われている。

平成7年、幸いにも阪神大震災に解体中であったため、ステンドグラス・窓ガラス・暖炉・家具なども当時のものがそのまま残っている。

窓からは、明石海峡大橋や淡路島の美しい景色が楽しめます。

手を触れないでとかの注意書きがやたらと多い中では、それらの表示もほとんどなく気持ちよく見学できる。


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自然史博物館


人間をとりまく自然について、その成り立ちやしくみ、その変遷や歴史について、研究、資料収集、展示、普及教育活動を行う博物館施設。

現在博物館が位置する長居公園内に開館したのは1974年(昭和49年)4月であるが、その前身である旧自然科学博物館は1950年(昭和25年)11月に大阪市立美術館内に開設した。

枕状溶岩

まず、海底で高温の溶岩が海水に触れて急冷される。

そして、急冷された部分には筒状の薄い殻ができる。

しかし、内部はまだ溶けたままであるため、次々と溶岩が流れ出ると、押されて殻が破れ、再び海水と触れて殻ができる。

こうした出来事が続くことによって形成される。

従って枕状溶岩の存在は、その形成の場が水底であったことを示す証拠となる。

展示室内部

オルニミムス類

全長は約3.5メートル。オルニトミムス類の中でも最も早く記載された属であるが、生息年代はグループの中でも最後期にあたる。

グループの名称の元になった属であるが、化石資料はストルティオミムス(ダチョウに似たもの、の意)の方が豊富であり、オルニトミムス類として知られる特徴はこちらによるところが大きい。

翼竜

翼竜が最初に報告されたのは1784年、イタリア人博物学者コジモ・アレッサンドロ・コリーニによってであった。

当初はその分類の帰属や生態にさまざまな説が飛び交い、哺乳類や水生動物であると考えられていたこともあるが、初めて翼竜が空を飛ぶ爬虫類だとしたのは、19世紀のフランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエである。

これまでに60以上の属が発見されている。

プロダクティルス

現在の所、最古の翼指竜亜目の一つでもある。

翼指竜亜目の祖先が嘴口竜亜目であることはほぼ確実であるが、プテロダクティルスは短い尾・長い首・短縮した第5趾・伸張した中手骨・癒合した前眼窩窓と鼻孔など、すでに翼指竜亜目として完成した体制を持っており、嘴口竜亜目の特徴を伺わせる部分は既に全くない。

イノセラムス

絶滅した二枚貝で,白亜紀には世界中に分布.日本の白亜紀の地層からも多く産出し、アンモナイトとともに白亜紀の重要な示準化石である。

その殻には、殻頂を中心とした同心円状の肋が発達しているのが特徴である.

ウミネコ

冬季になると中華人民共和国東部などへ南下し越冬するか、ロシア南東部や朝鮮半島では周年生息する。

日本では周年生息(留鳥)するが、冬季になると北海道や本州北部で繁殖する個体群は南下する個体が多い。

ヤベオオツノジン

発見された化石の分布から、日本列島のうちで北海道から九州までに分布していたと考えられている。

大陸にはいない日本固有種で、ナウマンゾウとともに更新世の日本の代表的大型哺乳類であった。

チョウセンイタチ

毛皮業者が養殖の為に持ち込んだものが、その後養殖場から逃げ出して、それ以後西日本を中心に分布を広げている。

また、ネズミ等の害獣駆除のために放獣された場所もある。

在来種であるニホンイタチと比べて体が一回り大きく、移入した場所ではチョウセンイタチが優勢になり、ニホンイタチを山間部に追い込んでいる。

また、住宅地に適応し、ニワトリ等の食害や、家屋に侵入して糞尿や騒音の問題を引き起こしている。

ナウマンゾウ

日本に生息していたゾウの1種である。

様々な説があり、はっきりとした年代は不明だが遅くとも65万年 – 42万年前頃にはすでに出現していたのではないかと言われている。

約2万年前頃から衰退し約1万5000年前の新生代更新世後期まで生息していた。

ゾウ目ゾウ科に属し、現生のアジアゾウと近縁である。

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昭和レトロ


「天保山マーケットプレース」に大阪万博(昭和45年開催)を目前にした、“大阪がもっとも元気に光り輝いていた時代”昭和40年前後の“元気な大阪”を演出テーマにしたなにわ食いしんぼ横丁がある。

50代以上には懐かしく、若い世代には新鮮に映る、古きよき日本がここにある。

懐かしい映画のポスターの数々。

オート三輪も懐かしい。

大阪のたこ焼きは、昭和8年会津屋の初代遠藤留吉が、肉、葱、蒟蒻などを入れて焼いたラヂオ焼きがはじまりです。

昭和25年、大阪桃谷の地で創業の大阪名物「いか焼き」元祖のお店もある。

創業1910年。

大正から昭和にかけて大阪を舞台に書かれた織田作之助の小説「夫婦善哉」にも登場する元祖「ソースをかけて混ぜる」東京にはない味、大阪市民の好物、名物カレーの自由軒。

大阪人がカレーにソースをかけるのは、自由軒がルーツです。

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北野異人館 風見鶏の館


実業家で政治家の山縣勝見が戦前、自らの会社である新日本汽船の名義で館を購入し、のちに山縣記念財団の所有となり研究室が置かれたが、1968年に神戸中華同文学校に売却した。

以前の訪問記
風見鶏の館
1904年(明治37年)にドイツ人貿易商の住宅として建てられた西洋館(異人館)で … 続きを読む →


山縣の長男と隣家の萌黄の館の小林家(神戸電鉄社長)の娘はのちに結婚している。

元ハンターシャープ氏の邸宅 萌黄の館
この建物はその色から「白い異人館」と呼ばれていたが1989年に、1987年からの … 続きを読む →


トーマス家では1914年(大正3年)、一人娘のエルゼ・トーマスをドイツ本国の上級学校に進学させるために、休暇を兼ねて一家三人でドイツへ一時帰国中だった。

その時勃発した日独戦争(第一次世界大戦)により日独が戦争状態に陥り、結果、一家は神戸の自邸への帰還ができなくなるという悲劇が起きた。

トーマス家では、館は敵性資産として没収されたと伝えられていたが、登記簿上では、戦争中に売買された形にされている。

1995年、阪神大震災でほぼ全壊するという大きな被害を受け、1年8か月かけて修復工事が行われた。

元の建材を70%以上使用して再建されたことで、重要文化財指定は取り消されずに済んだ。

玄関の北側にある書斎へと進みます。五角形の窓から降り注ぐ光の中、当時この館で使用されていた椅子とテーブルが飾られています。

窓の外は北野異人館街、神戸市買いが見渡せます。

窓からのぞくと像があります。

楽器を手にした野外彫刻(ブロンズ)が特徴の黒川晃彦氏の作品。

兵庫県神戸市中央区の神戸北野異人館の北野町広場には多数の作品が設置されています。

「風見鶏の館」の前でコルネットを吹く人がいます。

「コルネット吹きの休日」です。

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北野異人館 ラインの館


ラインの館(旧ドレウェル邸)は大正4年(1915年)にフランス生まれのJ.Rドレウェル夫人が58歳の時に建築され、大正9年(1920年)に亡くなるまでこの館で暮らしました。

元住人のオバーライン氏の故国ドイツのライン川と、壁面の下見板の美しい直線美にちなんで「ラインの館」と名付けられ、昭和55年(1980年)に神戸市認定伝統的建造物に認定されました。

大正初期の建築で、木造2階建下見板張りオイルペンキ塗りで、開放されたベランダ、ベイ・ウィンドー、軒蛇腹、よろい戸など、明治時代のいわゆる異人館の様式をそのまま受け継いでいる建物です。

庭には蘇鉄や楠の大樹があり、心地よい緑陰をつくっています。

窓からは異人館の街並みを見られます。

光が差し込んできてとてもきれいな場所です。

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関帝廟


この関帝廟の前身は大阪府中河内郡布施村にあった黄檗山萬福寺の末寺長楽寺であり、1892年(明治25年)に呉錦堂らによってこの地に移された。

昭和14年(1939年)関帝と天后像を祀るも、昭和20年(1945年)の空襲により長楽寺もろとも焼失した。

長楽寺跡に昭和22年(1947年)中国人有志によって関帝廟が造営され、その後拡張を重ね現在の姿となった。

本堂の屋根に一際目立つ青龍は北京の紫禁城と同じ皇帝色の瓦の上に飾られています。

宝玉をつかんで、お互いにらみ合っている青龍をみると幸せになるという言い伝えがあります

入口の山門に掲げられた「関帝廟」の扁額は、世界的に有名な書道家・于右任(蒋介石の元秘書)によるものです。

屋根にも獅子が。

関羽は、劉備と張飛と桃園の誓いを結んだ武将です。

この契りは、生まれたときは違うけれど、同じ日に死を望む義兄弟として生きていこうという約束のこと。

3人は蜀帝国の建国を目指し戦いましたが、関羽は曹操と孫権の連合軍に捕らえられて処刑されました。

劉備の一族は、関羽の死後、その功績を称えて廟を建立。これが、関帝廟の始まりです。

鉄人28号と三国志の街 新長田
ケミカルシューズの街を象徴するモニュメント、長田の復興を願って。 ふれあい花壇の … 続きを読む →

六間道の三国志なごみサロンの前には関羽の像。

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修景古墳 紀伊風土記の丘


総面積は65ヘクタール。

その広大な敷地全体が博物館施設となっている。

国の特別史跡に指定されている約400基の古墳群、復元した竪穴式住居、移築した江戸時代の古民家集落(重要文化財2件を含む)、資料館および万葉植物園などで構成される。

紀伊風土記の丘資料館から南西に花木園が位置する、途中に万葉植物園がある。

勢能山に 黄葉常敷く 神岡の 山の黄葉は 今日か散るらむ (巻9-1676)

花木園は、生活環境保全林として整備されたもので、その中央部あたり、墳丘に芝を張った4基の古墳がある。

古墳は、標高30mから37mに位置し、それぞれが古墳時代後期に造られた円墳である。

斜面上方から順に前山B花木園地区1・2・4・3号墳と呼び、昭和50年(1975)度に発掘調査が実施された。

現在は、調査成果をもとに復元修復されたものである。

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復元竪穴住居 紀伊風土記の丘


復元した古墳時代の竪穴住居。

和歌山市音浦遺跡で発掘調査された古墳時代の竪穴住居をモデルにして平成8年度に復元したもの。

内部の床面積は正面4.5m、奥行き5.2m で、23.4 ㎡ の広さがあり、畳に換算すると 14 畳ほどの広さとなります。

この時代の竪穴住居には床、窓、天井などがなく、すべてこのひと部屋で住んでいました。

こも編み機

原理は、木でできたおもり(「つちのこ」呼ぶ)で固定しながら編んでいきます。

弥生時代の前期には鋤や鍬も刃先まで木製であったが、中期以降、先端に鉄の刃先を装着するものが出現。

収穫具も中期後半から後期になると石包丁など穂先を摘み取って収穫するものから、根元を刈る鎌に変化していった。

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旧谷村家住宅 紀伊風土記の丘


旧谷村家住宅は、和歌山県の中部、有田川町粟生(あお)にあった茅葺きの農家住宅。

粟生地区は有田川の中流域にあり、林業のほか古くはシュロやハゼの生産などを行っていた地域です。

玄関を入ると、奥まで仕切りのない広い土間となっており、手前には地下にイモアナがあり、唐臼が据えられ、奥に三連のカマドが設けられています。

主屋の建立年代は不明ですが、言い伝えや建築手法から18世紀後期と推定されます。


苗籠

籠目編みで円形に浅く編まれ、針金で縁を留めている箇所もある。

苗籠とは苗代から代掻きの済んだ田へ苗を運搬する用具で、本来は2個1組として担棒で前後に担ぐもの。

「イモ穴」

「食事に必要な分を取り出したり、種芋として使ったりして先祖代々使い続けている。
冬場の生活に欠かせない」

山間部でよく利用されていたが、生活習慣の変化で次第に姿を消した。

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旧小早川家住宅 紀伊風土記の丘


旧小早川家住宅は、和歌山県中部の日高川町(旧中津村)三佐にあった伝統的な茅葺き民家で、建築に二間取りという古い形式を残している貴重な住宅です。

移築復元された主屋は、その形式から今から250年程前の18世紀後半に建てられたと考えられます。

桁行三間半、梁間三間強の小規模な建物で、入口を入ると土間(ニワ)が広がります。

左側には、板の間のオモテやナンドと呼ばれる部屋が並び土間側は建具が無く開放的になっています。

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