常寂光寺・青もみじと苔の撮影スポット


常寂光寺は京都市の嵯峨野にある日蓮宗の仏教寺院。

山号は小倉山。
旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)。

山門

太い角材を格子に組んで造られた山門は、江戸後期に作り変えられたもので、江戸中期出版の「都名所図会」には、袖に土塀をめぐらした薬医門が図示されています。

閉門しても墨色に塗られた角柱の格子の間から参道が見える開放的な山門です。

「常寂光寺」はそのまま読むと常に寂しく光ってるお寺。
あまりいい名前とは思えないのですが、その由来は「常寂光土」という仏教用語から。

常寂光土とは「天台宗で言われる四土(しど)で一番最高の世界。
真理そのものが具現化されている世界」という意味だそう。

少し噛み砕いた説明をすると「仏様の住む世界は四つあって、その中でも一番の理想郷」という風になります。

ハスのきれいな季節です。

平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として当山を開いた。

歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。

百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、境内の庭園には200余本のカエデが植えられており、秋は全山紅葉に包まれる。

その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。

石段横の斜面に広がる苔が美しい。

足腰の病を癒やすとされ、信徒が奉納したわらじが壁に掛けられている。

仁王門

南北朝時代の貞和年間に本圀寺の南門として建立、元和2年(1616年)に現在地に移築、藁葺き 仁王像 – 福井県小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移された。

寺伝に運慶作というが実際の作者は不明。

もう一度。上から仁王門を見下ろします。

境内からは嵯峨野を一望できる。

嵯峨野は竹の美しいところでもあります。

ミドリが心に沁みわたる世界です。

鐘楼 – 寛永18年(1642年)建立。

梵鐘は第二次世界大戦中の金属供出により失われたため、昭和48年(1973年)に京都工芸繊維大学教授青木一郎の音響設計により鋳造されたもの。

仁王門正面の石段を登らず、門を右にすすむと、末吉坂があります。
石段横の斜面に広がる苔が美しい。

ここがまさに撮影スポットだ。

1930年代に端を発した第二次世界大戦には、2百万にのぼる若者が戦場で生命を失いました。

その陰にあって、それらの若者たちと結ばれるはずであった多くの女性が、独身のまま自立の道を生きることになりました。

その数は50万余ともいわれます。

女性のひとりだちには困難の多い当時の社会にあって、これらの女性たちは懸命に生きてきました。
 
今、ここに、ひとり生きた女の〃あかし〃を記し、戦争を二度と繰り返してはならない戒めとして後世に伝えたいと切に希います。

さらに、この碑が今後ひとり生きる女性たちへの語りかけの場ともなることを期待します。
 
この碑は、独身女性の連帯の組織である独身婦人連盟の会員が中心となって、常寂光寺の支援のもとに建立しました。

             碑文揮毫  参議院議員  市川房枝

もう一度末吉坂を振り返ります。

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緑滴る参道が美しい!夏の「二尊院」


二尊院は、京都市右京区嵯峨にある天台宗の寺院。

山号は小倉山。寺号は華台寺。詳しくは小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)と称する。

二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。

総門

慶長十八年(一六一三)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたもの。

室町時代の建築として京都市指定文化財となっています。

総門には文様(装飾のための図柄)があり、唐草模様、数珠入り三つ巴紋、桃の巴蓋瓦など多彩。

西行法師庵跡

歌人西行(1118~90)は俗名を佐藤義清といい鳥羽上皇(1103~56)や徳大寺家などに仕えていたが、保延6(1140)年出家した。

以後、仏道修行と和歌三昧の生活を送り、全国各地に足跡が残されている。
その一つがこの地であり、二尊院門前近くに庵を結んだとされる。

この石標はその庵跡を示すもの。

我かものと
   秋の梢を思うかな
  小倉の里に
    家居せしよ里
 
          西行法師

総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。

秋には真っ赤に紅葉し多くの参拝者が訪れる。

振り返って参道を見る。

境内入り口に美しいアジサイの水鉢があった。

角倉了以の像がここにはあり、法衣姿で石割斧を持っている姿が特徴的。

角倉了以翁墓道とある石段を上る。

二尊院は嵯峨天皇の勅願により慈覚大師 円仁によって建立され、鎌倉時代初期に法然上人の高弟だった湛空上人により再興されました。

本堂のそばにある石段を上っていくと湛空上人廟があり、その周囲には二条家、鷹司家、四条家の墓のほか、角倉了以、伊藤仁斎の墓、さらには小倉百人一首を編纂した藤原定家が営んだと伝えられる時雨亭跡などがあります。

高所にある二尊院の墓所からは緑の木々のあいまから京都市内の眺めも見ることができます。

角倉了以・角倉素庵父子の墓

角倉家の墓と書かれた一画の一番端に、了以・素庵の墓がある。
親子で祀られている。

上中央、4つの墓石が並んでいるが、左2つが了以とその夫人。
右2つが素庵とその夫人である。

角倉了以別邸跡 高瀬川源流庭苑

現在のみそそぎ川は京都府立医大病院の北側で鴨川から取水し、そのまま暗渠で荒神橋を … 続きを読む →

高瀬川開発には7万5千両を費やしたとされているが、角倉家に納められる通行料は年間1万両を超えるものだったと考えられる。
開発に費やした工事費をわずか8年で回収したことから、かなり高額な通行料にも思えるが、これでも人馬で運ぶ手間よりは安かったので、鉄道輸送が本格化するまでは利用されてきた。

化野念仏寺
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。 山号 … 続きを読む →

竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります。
風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました。

本堂

六間取り方丈形式の間口の広い建物は京都市指定文化財。

室町時代の応仁の乱(一四六七〜七七)の兵火で諸堂が全焼しますが、永正十八年(一五二一)に三条西実隆が諸国に寄付を求めて再建。

本堂脇にもアジサイの水鉢。

庭には、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道で苦しむ衆生を救済してくれる六地蔵菩薩が祀られています。

本堂横の手水舎では半夏生を見ることができます。

半夏生は暦の用語の1つにもありますが、植物の半夏生は美しく化粧を施した女性を連想させるところから、半化粧の字が用いられることも。

例年6月下旬頃から7月初旬にかけては葉が白く変化しますが、その前の新緑の時期も大変美しい植物です。

そして不思議なことに、白く変化した部分は盛夏の頃には再び緑色へと変色してゆきます。

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祇王寺に残る悲恋と無常の物語


祇王寺の手前に怪しげな寺がある、その名も壇林寺。

現在の壇林寺は真っ赤な嘘で、実は古道具屋であると白洲正子が書いている。

檀林寺とは、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后)が815年(弘仁6)に建立、京都で最初の禅寺で12の塔頭を持つ壮大な寺院でしたが、平安初期の仏教文化の一中心地でしたが平安中期に廃絶。

その跡地に天龍寺が建てられた。

祇王寺は、奥嵯峨にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。

寺自体は尼寺。
山号は高松山。院号は往生院。
本尊は大日如来。

法然の弟子・念仏房良鎮が創建したと伝えられる往生院の旧跡]。

この時期青もみじがとてもきれいです。

寺号は、平清盛の寵愛を受け、のちに捨てられて出家した白拍子の祇王に由来する。

せめてもの忘れ形見にと

萌えいづるも 枯るるもおなじ 野辺の草 いづれか秋に
あはではつべき

と障子に書き残して去っていく。

『平家物語』『源平盛衰記』によれば、若い仏御前にその座を奪われ、清盛の邸を追われた祇王(21歳)が、妹の祇女(19歳)、母の刀自(45歳)と共に尼となったのが嵯峨の奥、往生院の庵。

草庵の吉野窓。
窓の外には季節の草花が植えられ、見る時季によって表情を変えます。

時間帯によって影が虹のように見えるため、「虹の窓」とも呼ばれている。

印象深いかやぶき屋根のこの草庵は、元京都府知事・北垣国道(きたがき くにみち)の別荘を移したもの。

北垣国道といえば、琵琶湖疏水の建設を進め、京都の近代化に尽力した知事です。

のちに“いつか我が身も同じ運命”と悟った仏御前(17歳)が旧怨を捨てた祇王母子に加わり、四人で念仏三昧の余生を送ったという。

本堂内には本尊の大日如来のほか平清盛と四尼僧の木像が安置され、境内には清盛の供養塔と祇王姉妹らを合葬した宝篋印塔が建立されている。

苔の庭で知られ、秋の散り紅葉が見事。

平清盛を取り巻く女性たち
激動の人生を送った平清盛だが、彼をとりまく女性たちもそれぞれ波乱に満ちた人生を送 … 続きを読む →


雨に濡れたタケがきれいです。

清盛の供養塔と祇王姉妹らを合葬した宝篋印塔。

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清涼寺


嵯峨釈迦堂の通称で知られる浄土宗知恩院派の古刹。光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)の山荘「棲霞観」に阿弥陀堂を建立、棲霞寺としたのが始まり。

その後、永延元年(989)奈良東大寺の凋然(ちょうねん)が宋から持ち帰った釈迦如来を山内の釈迦堂に安置、清涼寺として創建された。

1980年(昭和55年)に行われた大坂城三の丸跡の学術調査で、発掘現場から豊臣秀吉の三男の豊臣秀頼公のものと思われる頭蓋骨が出土しました。

その後の調査でこの骨が人為的に丁寧に埋葬されていることや、介錯の跡、周囲からの出土品などから考察して秀頼公のものと断定されました。

秀頼が没してから368年振りの昭和58年(1983)に、秀頼公が再興につくした由縁を持つ清凉寺に首塚が造られ、ここに首が納められました。

およそ1メートル半の高さを持つ首塚は小豆島から運ばれた石で造られているそうです。
首塚の脇には大坂の陣諸霊供養塔も並べて造られています。

大阪城の時代
外出が緩和され少しづつ動いている。 久しぶりに大阪城を訪れた。 人出は少なくショ … 続きを読む →

そんなわけで、大坂の陣を書くのだから「女の城」といったふうな題まで考えていたのですけれども、ところが調べてみると、淀殿のつまらなさがどうしようもなくて、さらに秀頼という人物もどうにもならない。

本堂の西に薬師寺がある。

小野篁ゆかりの寺である。

「生の六道 小野篁公遺跡」の石碑がある。

日月門をくぐると境内には三地蔵尊がある。本堂の中にはご本尊の薬師如来像や阿弥陀三尊像があるが、残念ながら8月24日の地蔵盆の時にしか一般公開されない。


清凉寺の西、通りの北に「夕ぎり大夫遺跡」の小さな石標が立つ。
 
この地は、江戸時代の名妓と謳われた島原の初代・夕霧太夫の墓を示すという。

夕霧太夫を偲んで清凉寺で夕霧祭
夕霧太夫は生年不詳 – 延宝6年1月7日(1678年2月27日)。
本名は照。
出身地は一説によると、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるといわれる … 続きを読む →

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大阪城の時代


外出が緩和され少しづつ動いている。
久しぶりに大阪城を訪れた。

人出は少なくショップは手持無沙汰のようです。
天守にも登ったのですがエレベーターは身障者専用で、すべての人は徒歩で8階まで登ります。
老体にはこたえた。

司馬遼太郎が考えたこと 5に大阪城の時代という随筆が掲載されています。
非常にわかりやすく纏められているのでその要約を利用させてもらいます。

もっとも、百姓をただで使っていたのではなくて、日当としてお米を支給していたんですね・・・・こういう明快さが秀吉流儀でしょう。

当時、人夫はもういらないというくらいに志願者が多くて、結局あらかたな工事は3年くらいでできている。

そのときすでに現在の大阪城の数倍あって、その後だんだん大きくしていったものですから、完成時にはどのくらいの大きさだったでしょう。

よく知られているように、秀吉という人は浮浪児の出身な分けてセスが、このように社会の最下層から出てきて、関白になり、そして大阪城を作った。なぜそれを世間が認めたかということを考えねばならないでしょう。

それは応仁の乱(1467)から戦国という、日本中を火炎に包んだ百年の内乱からこの城はできたように思えます。

この城の権力的な魔術性は秀吉一代で尽きてしまったのですけれど、妙なことに秀頼と淀殿が濃厚に魔術にかかり続けていた。

そのあたりを調べていくと、淀殿という人物はこの城の暗示にかかりっぱなしのつまらない女だったということになる。

じつは、城塞を書く前は、淀殿には何かあるだろうと思っていたのです。

そんなわけで、大坂の陣を書くのだから「女の城」といったふうな題まで考えていたのですけれども、ところが調べてみると、淀殿のつまらなさがどうしようもなくて、さらに秀頼という人物もどうにもならない。

およそ凡庸な、世間に対して嬰児のように無知な二人が、あれだけ世間を動かすことができたのですから、見方を変えれば彼や彼女が主人公ではなかったということになる。

大阪城という建造物が主人公で歴史を動かしたとみるべきでしょう。

そういう意味で大坂の陣の主人公はあくまでも大阪城であって淀殿や秀頼ではない。

それで題を城塞にしたのです。

家康についたも触れておかねば片手落ちだと思います。

家康は成功者の代表みたいな人ですけれども、大坂の陣については歴史的な失敗者ではないでしょうか。

現実政治家としての家康は、豊臣恩顧の諸大名に対する配慮もあって、秀頼をどのようにそつなく引っ込めようかと実に腐心したらしい。

相手があまりに巨大な城を持っているために、彼は手も足も出なくなってしまい、一方、70を超えた自分の寿命についてのあせりから、この城と、この城の魔術にかかった人間どもを生かしておいては、徳川家のためにならないと考えたんでしょうね。

ですからもうこうなった以上、北は南部から、南は九州の大名に至るまで総動員することによって、大坂の陣を徳川家に対する大名の服従心のテストにし、さらには全ての大名を共犯者にしようとした。

その計算も計画も見事でしかも成功しています。

ところが後世への計算と演技をあやまり、後世の民衆の心象から言えば、史上最大の悪人になってしまった。

徳川家は残せても後世に対して大きなミスをしてしまったことを思うと、秀頼や淀殿、およびこの城で討ち死にした数万の人々は、家康のそういう評価と心中できたということで、わずかに以って瞑するところがあるといえるかもしれません。

「国盗り物語」で斎藤道三のことを書き、秀吉については「新史太閤記」で述べ、さらにその後のことは「関ケ原」で触れたわけですが、それだけではなお思いが残っておりまして、その後の豊臣家はどうなったのか、また元亀・天正(1570~92)から続いた日本人のバイタリティはどこで終わるのか・・・・というようなことになると大阪城を書かなければいけないような気がして、書いてみたわけですけれども。

ですから「国盗り物語」て゜道三が美濃国をかすめとるところから始まって、「城塞」で後藤、真田が大きな時代の幕を引くようにして戦死するまでのことを考え続けてきますと、私なりに日本人のもつ最もアクティブであったじだいとかというものが、なにやら自分なりにわかったような気がするのですが、どうでしよう。

秀吉の大坂城 – 大坂城豊臣石垣公開プロジェクトが進行しています。

令和3(2021)年春のオープンを目指すという。

公開されるのは、本丸内の天守閣南東約50メートルに位置し、大型複合商業施設「ミライザ大阪城」(元市立博物館)から北約30メートルの地点に埋もれている石垣遺構。

大阪城に残る戦災の傷跡
あまりにも平和ボケしてしまった現代人は、つい半世紀ほど前の戦災のことなど忘れてし … 続きを読む →

昭和20年(1945年)8月14日、米軍は大阪市を空襲し、「大阪陸軍造兵廠」(現在の大阪城公園周辺)に多数の1トン爆弾を投下した。
この時、1トン爆弾の命中によって、天守閣石垣の北東が歪んだ。

高まる期待 大阪城 秀吉時代の石垣公開へ
今回の調査は、昭和59年度に見つかった豊臣期詰ノ丸の石垣を再発掘して公開するとい … 続きを読む →

今回の調査は、昭和59年度に見つかった豊臣期詰ノ丸の石垣を再発掘して公開するという豊臣石垣公開プロジェクトに先立ち、周辺の遺構の状況を把握するために実施。
豊臣期の石垣は上端部を再発掘した。

秋晴れの大阪城を散策
何度も通いなれた大阪城だが、意外と知らない場所がある。 いかに表面的にしか見てい … 続きを読む →

平成元(1989)年のドーンセンター建設の折、敷地内から発見されたこの石垣は豊臣秀吉の最晩年に当たる慶長三(1598)年に1万7千もの民家を城外へ強制移転させて大坂城の防御力強化のために築かれた三の丸のものである。

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絶景を望む天空の寺院「大悲閣千光寺」へ


カツラ川の右岸をさかのぼります。

渡月橋あたりは人混みなのに、川をさかのぼる道を歩く人はまばら。

維持費を得なくてはならない事情があるのだろう、なんとか人を招くように、「京都一絶景」とか「TheBest in Kyoto 」とか、英文やら略地図までくわえて、元気のいい看板を作って立ててあった。

対岸は亀山公園。

戸無瀬瀧は蛇谷からさらに50メートルほど上流に歩いた山肌にある三段に落ちる滝のことを云う。

天龍寺の正西背後にあたり、造営された亀山殿からもこの滝が眺められている。

突然サルが!!

嵐山モンキーパークいわたやまでは、現在約120頭のニホンザルが野生の状態で暮らしています。

新緑が鮮やかです。

通例として、京都市右京区京北地区の流域にかけては「上桂川(かみかつらがわ)」、南丹市園部地区に入ると「桂川」、南丹市八木地区から亀岡市にかけては「大堰川(おおいがわ)」、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは「保津川(ほづがわ)」[1]などと名を変え、嵐山から合流地点は再び「桂川」と称される。

新緑が川面に反射してきれいです。

松尾芭蕉に、夏目漱石や谷崎潤一郎も訪れ、近年では司馬遼太郎が「街道をゆく」の中でも紹介している嵐山の隠れた名所。

嵯峨野の旅は、古くは、「絶壑ノ間ニ孤立ス」と表現された山峡の水尾から始まった。

司馬遼太郎は、はるか昔この地に辿り着いた清和天皇に触れ、天皇を祀るお社を護持し続ける里人の心遣いに注目する。

嵐山の渡月橋では、古代、山城国(京都)に定住し、土木技術によって田野を切り開いたといわれる渡来系氏族の秦氏について考える。

見まわせば、渡月橋下の中洲も松尾大社も、現代に残る秦氏の足跡なのだった。
天竜寺塔頭の妙智院で嵯峨名物の湯豆腐を食べながら、司馬さんの思いは遠く豆腐の起源にまで遡る。
街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻-朝日文庫-司馬-遼太郎

店の名は、むかしから二軒茶屋というのだそうで、いつのほどか一軒だけになった。

とあるが、今はその一軒もなくなって、かつてそういう茶屋があったと記した札が道端の木にかかっていた。

司馬遼太郎一行は川沿いの道を歩いたとき、オデンの屋台に寄り道している。

屋台は路傍にあり、客席はそれより降りて瀬ぎわの平床几(ひらしょうぎ)だった。そばに、水でまるくなった岩場がうねっていて、その上に五、六点の濡れた下着が置かれていた。

「身投げでもあったんですか」
と、須田画伯はゆるゆると老婦人にきいた。身投げがあれば、いくらこの老婦人ものんきにオデンを煮ていられまい。

「あれは私の干しものどす」
「そう」
 
画伯はオデンを食べはじめた。
ここのところは読むたびに、つい笑ってしまう。

千鳥ヶ淵は戸難瀬瀧より430メートル先の断崖に望んで深い淵となっているところを云う。

往生院に滝口入道を訪ねた横笛は、再会適わなかったのを嘆きこの淵に身を投げたと伝える。

山深い隠れ里のような風情 滝口寺
元々は法然の弟子・良鎮が創建した往生院の子院三宝寺跡を引き継いで今日に至る。 明 … 続きを読む →

『平家物語』の斎藤時頼(滝口入道)と建礼門院の侍女横笛の悲恋の寺として知られている。

二つの悲恋を語り継ぐ寺 滝口寺
滝口寺は、滝口入道と横笛そして新田義貞と勾当内侍の二つの悲恋を語り継ぐ寺である。 … 続きを読む →


星のや京都(もと嵐峡館)
京都市西京区嵐山元録山町11-2

右岸をさかのぼる道がつきあたるところに宿がある。

路傍より下の崖に、料理旅館があり、嵐峡館とあった。二十年ほど前、この旅館にきたことをおもいだした。

そのとき、右岸を歩かず、渡月橋からいきなり舟でここへきた。

今は嵐峡館の名はなく、全国で老舗旅館の再生を手がけている星野リゾートにより、2009年から「星のや京都」になっている。渡月橋のたもとから送迎の舟が往復しているのは今も同じ。
街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻-朝日文庫-司馬-遼太郎

門前、上り口の左手には「花の山 二町のぼれば 大悲閣」という松尾芭蕉の歌碑が置かれています。

途中には何度か「大悲閣 千光寺」の案内看板が出てきますので道が間違っていないことを確認できてちょっと安心。

そして「京都一の絶景・GREAT VIEW」などと書かれた案内板に心が躍ることでしょう。

ここからは約10分の登りです。

大須賀乙字の句碑「嵐気動く奥は蝉声晴れてあり」

千光寺(せんこうじ)は、京都府京都市西京区嵐山中尾下町にある黄檗宗系の単立寺院。

山号は嵐山、寺号は詳しくは大悲閣千光寺と称する。本尊は恵心僧都作といわれる千手観音菩薩。江戸時代の豪商角倉了以の木像があることで知られる。

境内にある、切り立った岩肌に建つ舞台造りの観音堂(客殿とも)は大悲閣と呼ばれるため、寺そのものの別称も「大悲閣」と呼ばれる。

参道途中の洗心亭をさらに上る。


松尾芭蕉の句碑「六月や峰に雲おくあらし山 はせを翁」

この寺の創建年代等については不詳であるが、当初は現在の嵯峨清涼寺の近くにあり、後嵯峨天皇の祈願所であったが長らく衰退していた。

江戸時代初期の慶長19年(1614年)、豪商角倉了以が、大堰川を開削する工事で亡くなった人々を弔うために、嵯峨の中院にあった千光寺を現在地に移転させた。もとは天台宗であったが、文化5年(1808年)に黄檗宗に改宗した。

山門に到着。

渡月橋から写真を撮りながらゆっくり歩いて30分ほどで着きました。

つづら折れの石段を登れば、やがて見えてくるのがまるで清水の舞台のような建物。

これが「大悲閣 千光寺」の客殿です。

ここからの眺めが絶景といわれるポイント!客殿と本堂が見えてきたらそこが境内の中心地の展望台エリアです。

三回まで無料でつけます。

客殿からの絶景。

一段と高い山が比叡山です。

目を少し右に転ずると千光寺の大悲閣が山の中腹に小さく展望できる。

大悲閣千光寺:江戸時代、角倉了以が大堰川の開削工事で亡くなった人たちを弔うためによって建立した。

春に大河内山荘より
大河内山荘は区嵯峨にある日本庭園。 時代劇などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘と … 続きを読む →


温かみのある客殿内には、住職さんがコピーした様々な資料が所狭しと並んでいて、まるで寺子屋の様相。

現在の大悲閣は、保津川の開削を計画した角倉了以や、その一族(外祖父)で塵劫記の著者の吉田光由に因み、そろばんや数学・理学向上の寺ともされている。

椅子の置かれた縁側からの京都市街の眺望が良い。無料で使える双眼鏡が備えられている。

秋にはこの山が紅く染まります。

住職と向こうは途中から同行してくれた老人、ことし91歳という、とても元気です。

ここで御朱印をもらいます。

明治維新で一旦衰退した後、大悲閣以外や境内を失った後、徐々に本堂などを再建したが、1959年の伊勢湾台風により大きな被害を受けた。

本堂も大悲閣も屋根の多くが飛び、仮補修でしのいできたが、1978年に本堂は解体された。

仮本堂 かつての本堂に祀られていた仏像や角倉了以の像がぎっしりと安置されている。

角倉了以の像がここにはあり、法衣姿で石割斧を持っている姿が特徴的。
今もこの大悲閣から川の安全を見守っているかのようです。

角倉了以別邸跡 高瀬川源流庭苑
現在のみそそぎ川は京都府立医大病院の北側で鴨川から取水し、そのまま暗渠で荒神橋を … 続きを読む →

高瀬川開発には7万5千両を費やしたとされているが、角倉家に納められる通行料は年間1万両を超えるものだったと考えられる。
開発に費やした工事費をわずか8年で回収したことから、かなり高額な通行料にも思えるが、これでも人馬で運ぶ手間よりは安かったので、鉄道輸送が本格化するまでは利用されてきた。

化野念仏寺
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。 山号 … 続きを読む →

竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります。
風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました。

山を下ります。
同行してくれた老人は最後まで付き合ってくれました。

知る人ぞ知る、穴場のエリア
参拝客の7割が外国人!?

そろそろお昼です、舟が増えてきました。

右側の舟は物を売りに来た舟です。

トロッコ列車と保津川下り

この風流な保津川下りは夏目漱石の『虞美人草』を始め、水上勉、薄田泣菫、大町桂月、三島由紀夫など幾つもの文学作品に登場した。

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嵐山羅漢


京都・嵯峨野の宝厳院の前に嵐山羅漢という珍名所があります。

宝厳院の呼び掛けで、日本各地の個人や企業がそれぞれ思いを石仏に託し奉納されたものが、「嵐山羅漢」で阪神・淡路大震災以降に建てられ始めました。

羅漢とはお釈迦様の弟子で、修行を完成して尊敬するに値する人、悟りを得た人を指し、元々は「阿羅漢(あらはん)」と言って羅漢(らかん)は略された呼び方。

原始仏教・部派仏教において阿羅漢は、修行者の到達し得る最高位である。

学道を完成してこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を無学位(むがくい)という。

それ未満の、不還果(ふげんか)・一来果(いちらいか)・預流果(よるか)を「有学位」(うがくい)という。

仏教では、阿羅漢でない者が、自分が阿羅漢でないことを知っていながら、故意に阿羅漢を名乗ることを「大妄語」とし、最も重い波羅夷罪を科して僧団追放の対象とした。

中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢、第1回の仏典編集(結集:けちじゅう)に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して尊崇することも盛んになった。

十八羅漢とは十六羅漢に加えて慶友・賓頭廬(びんずる)の2人か、または、大迦葉・軍徒鉢歎(ぐんとはつたん)の2人を加えた18人の羅漢を指します。

経典によって追加される羅漢に差異があるようです。

興味のある人は書物で見比べてみるのもいいでしょう。

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源氏物語の宮 野宮神社 良縁、子宝の神様

2011年9月の記事ですが誤って消去してしまったものを今回再掲載したものです。
記事の内容は当時のままです違いがあればご容赦願います。

嵯峨野は一面の秋の花も枯れ枯れて、松風に楽の音がかすかに聞こえてくる。
野々宮からである。

近づくにつれてはかなき小柴垣、黒木の鳥居が神々しく、闇の中に浄火がちらちらと燃えて、恋ゆえの訪問はまことに憚り多き斎垣(いがき)の中。

ここに自分のためにしめじめと物思いを尽くす人が隠れ住むのかと思うと、御息所のことが痛ましく悲しい・・・・・・・
源氏物語「賢木」の巻

野宮はその昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです。

嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地でした。

その様子は源氏物語「賢木の巻」に美しく描写されています。

野宮の場所は天皇の御即位毎に定められ、現在の場所が使用されたのは平安時代のはじめ嵯峨天皇皇女仁子内親王が最初とされています。

斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶しました。

その後は神社として存続し、勅祭が執行されていましたが、時代の混乱の中で衰退していきました。

中央の本殿には、健康と知恵授けの神・野宮大神(天照大神)、境内右手の奥には、子宝、安産、商売繁盛の神・白福稲荷大明神、財運と芸能の神・白峰弁財天をまつる。

野宮大黒天は縁結びの神で、横の神石「お亀石」をさすると、願い事が叶うといわれる。

境内左手の井戸にまつられた龍神は、病気で苦しむ人の救いの神。
多種多様な神々からの御利益を授かりに訪れたい。

境内には苔を用いた美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」がある。
また、源氏物語「賢木」の巻にも現れ、謡曲「野宮」の題材ともなっている。

斎宮行列は、平安京から伊勢神宮まで向う斎宮(斎王)の行列を再現したものです。

斎宮(斎王)とは、伊勢神宮で祭祀を奉仕した未婚の内親王です。

斎宮行列の予定は、野宮神社(12時出発予定)⇒JR嵯峨嵐山駅前(12時30分ごろ)⇒天龍寺前⇒渡月橋⇒中之島公園(13時20分ごろ)⇒渡月橋⇒通船北乗船場近くの禊会場(14時到着予定)。
到着後、禊会場で禊の儀、雅楽奉納が行われる。

また、斎宮行列前日には、禊会場で14時から前日祭(嵯峨大念仏狂言や演奏会)が行われる。

10月第3日曜日
開催時間 12時~

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野宮神社 斎宮行列

2011年10月の記事ですが誤って消去してしまったものを今回再掲載したものです。
記事の内容は当時のままです違いがあればご容赦願います。

なお、 野宮神社斎宮行列2020は2020年(令和2年)10月18日(日曜日)12:00から行われます。(要確認)
なお10:30から神事、14:00頃からは嵐山北乗船場で御禊の儀が行われます。(小雨決行)

「斎宮(斎王)」とは、天皇が新たに即位 するごとに、天照大神の御杖代(みつえしろ)と して伊勢神宮に遣わされた斎王(未婚の内親王もしくは女王)のこと。

この歴史は飛鳥時代の天武天皇の頃にはすでに確立されており、南北朝時代の後醍醐天皇の頃まで およそ660年間、64人の姫君が遣わされていたと言い伝えられています。

10時30分斎王が人力車で野宮神社に到着。

紅いこっぽりが可愛い。

境内では式典が行われています。

いよいよ行列の出発です。

斎宮行列ののぼりを先頭に行列が進みます。

監送使(かんそうし)です。斎王群行の責任者です。

竹林の中を進む斎王代の輿。

命婦を従えすすむ斎王代の輿。

祭典の行われる大堰川北岸に到着。

騎乗官人・火炬小女(ひたきのしょうじょ)・戸座(へざ)・女官・文官の代表者を従え台座へ向かう。

斎宮は五月の葵祭と同じ遣り方で御禊を行います。

続いて、斎宮以下は伊勢神宮のある方向を向いて遥拝を行います。

今年で13回目の「斎宮行列」

平成17年より「斎宮夢行列」から「斎宮行列」に名称変更しています。

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大河内山荘


時代劇などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘として造営した回遊式庭園。

入場者には抹茶と茶菓子のサービスがある。
茶菓子は「大河内山荘」と刻印されたモナカで、これは土産として販売もされている。

本来入場料1000円の処時節柄500円。

入口より庭園を見上げる。

中門(登録有形文化財)

庭園

東の嵐山、遠くは比叡山、西の保津峡を借景にした回遊式であり庭師広瀬利兵衛とともに造営を行った。

大乗閣(登録有形文化財)

寝殿造、書院造、数寄屋造など日本の住宅の伝統的様式を合わせ取り入れた建物で傳次郎の構想に基づき数寄屋師の笛吹嘉一郎が施工した。

昭和9年(1931年)、傳次郎34歳のとき、当時長期保存が難しかったフィルムに対し永く消えることのない美を追究するため自身で設計しこの庭の造営を始めた。

映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで30年の歳月をかけてこつこつと作り上げたものである。

場所は小倉百人一首でも知られる小倉山の南東面、嵐山公園(亀山公園)に挟まれた約2万平方メートルの荒地であったところに位置している。

資料館をのぞく、代表作の「丹下左膳」、「姓は丹下、名は左膳」の名ゼリフで一世を風靡した伝説の時代劇ヒーロー・丹下左膳。

右目には大きな刀傷、おまけに右腕がない隻眼隻腕。

ドクロの紋を染め抜いた黒襟白地の着物、下には女物の派手な長襦袢。

素浪人忠弥

槍一筋の風喜児・丸橋忠弥が、浪人弾圧の圧政の中で正義と幸福を求めながらも、遂に由比正雪の一味に加担して、幕府反逆の狼火を上げる無血悲壮篇。

傳次郎の別荘であった当時は、高峰秀子・片岡千恵蔵・山田五十鈴・京マチ子といった傳次郎の共演者たちが山荘に招かれている。

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