魏志倭人伝(伊都国・奴国)を訪ねる旅 王塚古墳

王塚古墳(おうづかこふん)は、福岡県嘉穂郡桂川町寿命(じゅめい)に存在する古墳で、5つの色彩で彩られた壁画が石室内ほぼ全面に施されていることで知られている。
日本の特別史跡。

1934年(昭和9年)9月30日に採土工事中に前方部が削られ、横穴式石室の前室右壁隅が開口し、偶然発見されたもので、6世紀中ごろに作られたとされている。

形状は前方後円墳であるが、先の工事によって墳丘の半分以上は失われている。

現在、石室は完全に密閉されて保存されており、通常は見学することは出来ないが、春と秋の年2回一般に公開されている。

福岡県によって調査され、1937年(昭和12年)6月15日に国の史跡に指定。

1952年(昭和27年)3月29日に装飾古墳としては初めて国の特別史跡に指定された。

出土遺物は1956年(昭和31年)重要文化財に指定され、京都国立博物館に寄託されている。

前室から見た玄室の入り口。
左右に馬が描かれています。

馬具が付いていることから騎馬なのが分かります。

前室玄室を再現した実物大レプリカ。

王塚古墳の最大の特徴は、石室のほぼ全面に施された壁画。

描かれている図像は馬、靫(ゆぎ)、盾、刀、弓などのほか双脚輪状文、蕨手文、三角文、円文などの幾何学的文様。

2005年7月現在、日本で確認されている装飾古墳の壁画で使われている色は6色(赤・黄・緑・青・黒・白)あるが、そのうち青を除く5色が使われており、国内最多である。

王塚装飾古墳館の敷地には、竪穴式石槨の古墳が二基存在する。

いずれもその場所に築かれたものではなく、桂川町内から移築されたもの。

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魏志倭人伝(伊都国・奴国)を訪ねる旅 福岡市博物館

福岡市博物館で卑弥呼の時代を確認します。

正面入口の両側に立っている4体のブロンズ像は、フランス近代彫刻の巨匠、エミール・アントワーヌ・ブールデル(1861~1929)の作品。

空間の美しい博物館です。
「漢委奴国王印」はオリジナルを保有、当館の自慢です。

奴国の時代
稲作伝来!時代がここから動き出す

大陸から朝鮮半島を経由し、福岡の地に稲作が伝わりました。

人びとは、稲作とともに新しい社会のしくみや技術の体系、稲の実りを願う祭祀や儀礼を受け容れ、農耕集落を築くようになります。

集落はやがて国へと成長し、海の向こうの世界と交流を始めました。

日本では縄文時代以降、甕棺墓が見られる。

縄文後期・晩期の遺跡からは、日本各地(東北~近畿~九州)で甕棺墓の風習があったことが判っている。

その後、弥生時代前期~中期の北部九州において最盛期を迎える。
北部九州の中でも福岡平野周辺一帯は、弥生早期から前期前半までは成人が主に木棺に埋葬されていたが、前期後半になると壺棺に代わった。

それまでは、小児が甕棺に埋葬されていた。中期後半には長崎県や熊本県の一部まで拡がった。

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盾持武人埴輪が出土した 仙道古墳

仙道古墳は古墳時代後期の6世紀頃に作られたもので、径45メートルの円墳。国指定の史跡。

朝倉郡筑前町の久光にある「仙道古墳」は、九州では珍しく盾持武人埴輪がほぼ完全な形で出土した装飾古墳として知られ、現在は国指定の史跡となり、周囲は緑豊かな古墳公園として整備されてい.

発掘から3年半がかりで復元された古墳の周りには、何とも憎めないユニークな表情の埴輪のレプリカが飾られ、石室も春と秋の年に2回一般公開されている。

仙道古墳は装飾古墳でもあり、石室内部はさまざまな模様でデコレーションされている。

残存している石室の全面に赤・緑色で〇・◎・△の幾何学文(きかがくもん)の装飾(そうしょく)が施されている。

石室の内部は公開されていませんが、古墳の近くにレプリカが展示されている。

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魏志倭人伝(伊都国・奴国)を訪ねる旅 奴国

奴国は現在の春日市から福岡市博多区一帯にあたり、那珂川と御笠川に挟まれた領域に広がり、その中心は春日市須玖と考えられる。
 
弥生時代中期前半以降、三〇程の集落形成が認められ、中期後半には奴国王墓と見なされる須玖岡本遺跡を筆頭に比恵・那珂遺跡群、上月隈遺跡、門出遺跡などからも銅剣、鉄戈など武具類を副葬レた墳墓が確認されている。

奴国の丘歴史資料館

1998年に開館した市運営の資料館。延床面積2,820平方メートル。奴国の館ともいう。

入館は無料で、考古資料展示室、民俗資料展示室、特別展示室、収蔵庫、研修室、実習室などを備えている。

王墓の上石

公園内の東の一角にある大石。

1899年に、この大石の下の甕棺墓からおよそ30面の中国の前漢鏡、また銅剣2本、銅矛5本、銅戈1本、中国からもたらされたであろうガラス璧(へき)、日本産のガラス勾玉1個、ガラス管玉多数などの多数の副葬品とともに甕棺墓が検出されたことで、これが厚葬墓(王墓)の上石(うわいし)であるものと判明した。

大石は甕棺墓の上に標石状にのせられていたものと考えられ、発見時の記録とその後の周辺の調査から、王墓が方形の墳丘墓であったことも判明した。

1998年に移設され以後の姿に至っている。

岡本遺跡の覆屋(おおいや)

公園名は古代のこの地が奴国の中心地であったとの歴史考証に由来し、春日市域西部に広がる春日丘陵の北部、弥生時代の遺跡の密集地である須玖(すぐ)・岡本地区の内の、東西にのびた支丘上に位置している。

1979年とその翌年にかけて行われた発掘調査をきっかけとして、1992年度から1997年度にかけて岡本遺跡を中心に周辺の緑地や溜池を含めた約2.3ヘクタールの区域が歴史公園として整備された。

弥生時代中期の甕棺墓や土壙墓・木棺墓などの埋葬遺跡からなる墓地、およびこれに伴う祭祀遺構の遺跡。公園頂上部に設けられた2棟の覆屋(おおいや)の中に発掘調査時の状態で保存されている。

奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」にあらわれる倭人の国である。
大和時代の儺県(なのあがた)、現在の福岡市付近に存在したと推定される[1]。

『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたという。

江戸時代に農民が志賀島から金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明された。

その金印には「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれていた。

刻まれている字は「委」であり、「倭」ではないが、委は倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭である。

このように偏や旁を省略することを減筆という。
金印については「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」と訓じて委奴を「伊都国」にあてる説や、匈奴と同じく倭人を蛮族として人偏を省略し委奴(わど)の意味とする説もある。

福岡市博物館所蔵の金印。

金印 印文「漢委奴国王」 筑前国那珂郡志賀島村(現福岡県福岡市東区志賀島)出土、こちらでの展示が唯一、実物と説明があった。

現物はとても小さく、スマホでうまく撮れないと賑やかであったが、隣の部屋で拡大したものを見ることができる。

大土居水城跡の木樋

水城(みずき)は、天智(てんじ)3(664)年に、唐(とう)・新羅(しらぎ)の侵攻に備えて築造された防衛施設で、今年は築造から1,350年目に当たる。

市内では、大土居と天神山の2カ所が国の特別史跡に指定されている。

大土居水城跡は、これまでの発掘調査によって土塁(どるい)の規模が幅40メートル以上、高さ8メートル以上であると分かった。

土塁は、数種類の質の違う土を突き固めながら層状に積み上げて崩れにくく造られており、版築(はんちく)と呼ばれる高度な土木技術が使用されている。

また、土塁の下部からは、木の板を組み合わせた導水管(木樋(もくひ))が発見されており、土塁の南側で水を取り入れ、北側の外濠(そとぼり)(想定)に吐き出す施設であると考えられている。

土塁と平行する外濠の存在は、堅固な防御の構えが想像される。


663年、白村江の戦いで唐や新羅の連合軍に負けたことをきっかけに、敵の侵攻に備えるため、水城や大野城、基肄城を築いた。

敵に攻められやすい博多湾の沿岸にあった那津官家も、現在の太宰府市の地に移され、「大宰府」が誕生したと考えられている。
このように「水城」は大宰府を守るのに最も重要な所であった。

当時は通用門が東門と西門の2ヶ所しかない大変厳重な施設であったが、現在は鉄道や高速道路などによって分断されている。

大和朝廷が七世紀に造った国防城塞 大野城
斉明天皇6年(西暦660)、朝鮮半島では日本の友好国百済(くだら)が唐(とう)・ … 続きを読む →


現在大規模な改良工事が進んでいる。

遠の朝廷と防人を訪ねて①
古代史と万葉集の史跡を訪ねる旅、今回は九州遠征。 大宰府万葉歌碑めぐりにそって数 … 続きを読む →

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魏志倭人伝(伊都国・奴国)を訪ねる旅 伊都国

多くの学説が乱立する中にあって、魏の使者が伊都国までは確実に来ているという点は統一的な見解と言っても良い。

このことは、伊都国までの道程や自然環境の正確な描写からくるもので、『倭人伝』の記述にある[其餘旁国]の名称が先の北部九州六ヶ国の名称を組合せたものが多い点からも窺われ、実際に見聞したものではないためだと考えられる。

原文のおよその意味は、「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。
そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)という。

1000余戸の家がある。世々(丗)に王があるも、みな[1]女王國に統べて属する。
帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、ここに常にとどまる場所である。」となる。

『魏志倭人伝』の中で『王』が居たと明記されている倭の国は伊都国と邪馬台国と狗奴国で、他の国々には長官、副官等の役人名しか記されていない。

伊都国に設置された「一大率]では、諸国が魏の都や帯方郡、朝鮮半島へ派遣する使譯たちを出国前に監督し、または、郡から使者が来たときはこれらを検閲していたとされる。

連合国家の中で伊都国が占める大きな役割のひとつである。
 
これまでの発掘調査では、一大率にあたる施設遺構は検出されていない。

しかしながら、『倭人伝』には検閲の際には港まで出向いたと記載されており、伊都国の領域内に倭人の港があったことは間違いない。

また、こうした施設が伊都国内に置かれた理由は、女王・卑弥呼の伊都国王に対する信頼の表れでもある。

旧怡土郡付近は大化の改新以前は怡土縣(いとのあがた)が置かれ、『日本書紀』によるとその祖の名は五十跡手(いとて)で仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したとされる。

『筑紫国風土記』逸文には五十跡手が「高麗の意呂山(おろのやま)に天より下った天日鉾命の後裔である」と天皇に述べたとある。

糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力。

弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ)(王墓)が連続して営まれており、それが三雲南小路遺跡・平原遺跡である。

井原鑓溝遺跡は遺物の点から「将軍墓」の可能性が高いとも言われる。

伊都国歴史博物館、建物は旧館と新館とからなり、新館1階に企画展示室・常設展示室1、エスカレーターを上ると3階になり、常設展示室2がある。

3階から連絡通路で旧館に渡ると旧館の2階に出、旧館常設展示室1・2がある。旧館1階にも若干の展示がある。

新館4階には展望スペース、図書コーナーと研修室があり、展望スペースからは周囲の山々と糸島平野を見渡すことができる。

平原(ひらばる)遺跡は糸島の山手、 雷山川と瑞梅寺川に挟まれた丘陵地帯の怡土地区にある、
ここは古墳が多く散見されるところでもある。

平原遺跡は1965年に発見された、弥生時代後期~古墳時代前記の墳墓遺跡群で、 史跡地内には1号墓(王墓)と他5基の墳墓が保存されている。

怡土城(いとじょう/いとのき)は、現在の福岡県糸島市にあった日本の古代山城(中国式山城)。
城跡は国の史跡に指定されている。

奈良時代に福岡市・糸島市の境にある高祖山の山腹西斜面に築城された。

『続日本紀』によると、遣唐使一行に加わること2度留学し、その後大宰府政庁の高官となった吉備真備が、孝謙天皇の命により天平勝宝8年(756年)6月築城に着手。

途中吉備が東大寺造営で佐伯今毛人と交代し神護景雲2年(768年)2月、完成されたとされる。

当時唐では、玄宗皇帝に対する安禄山の乱が勃発し、朝鮮半島では新羅が日本の国使との会見を拒否するなど、対外的な緊張が高まり九州の防備が急務となっていた。

城の特徴は中国式山城の築城法でもってたすき状に築かれ、山の尾根づたいに望楼(物見やぐら)を配し、西麓の平地に面して高さ10メートル南北2キロメートルにわたる土塁・石塁をもって固め、その間に城門や水門等を造り、敵襲に備えたとみられる。土塁の外側には幅15メートルの濠も確認されている。

現在遺構としては、高祖山の西裾に1.6キロメートルの土塁、尾根線上に計8か所の望楼跡が残るものの、城内はどのように利用されたか、いつごろ廃城となったか等不明な点が多い。

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宗像三女神を祀る  宗像大社

今日から魏志倭人伝(伊都国・奴国)を訪ねる旅。
まず宗像大社を訪問、『宗像大社』は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称であるが、現在では「辺津宮」のみを指す場合も多い。

筑前大島には沖津宮遥拝所(瀛津宮)もある。

祈願所。

宗像大社は日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社。

また、道の神としての総合神、貴(むち)の称号を伊勢神宮(おおひるめのむち)、出雲大社(おおなむち)に並び持ち、道主貴(みちぬしのむち)と称す。

神宝として古代祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。

伝えられる伝承では日本神話に起源を持つ。

天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の際、天照大神が素戔嗚の剣を噛み砕き、プッと吹き出した破片から生まれたのが宗像三女神である。

彼女たちはアマテラスの神勅を奉じて、皇孫ニニギノミコトを助けるため玄界灘に浮かぶ筑紫宗像の島々に降り、この地を治めるようになったのが宗像大社の起源とされている。

記紀に記載される「天から地に降りた神」はニニギノミコトと宗像三女神だけである。

宗像大社の神紋は、表紋に皇統守護の神勅(しんちょく)を戴く鎮祭の守護から「菊の御紋」を、裏紋に歴代の宗像大宮司家の家紋である「楢(なら)の葉紋」を用いている。

宗像は『古事記』では胸形という字が当てられ、また胸肩、宗形とも表記されるが、もとは水潟であったとする説もある。

古くから当地の民の氏神として信仰を集めてきたが、神功皇后が三韓征伐の際ここに航海の安全を祈り霊験があったといわれ、事あるごとに宗像に奉幣使を派遣する習いになったとされる。

大和朝廷から重視され、またこの逸話からは航海安全の守護神として崇められるようになった経緯がうかがえる。

高宮祭場、宗像三女神の降臨地と伝えられている。

沖ノ島と並び我が国の祈りの原形を今に伝える全国でも数少ない古代祭場。

現在の拝殿は小早川隆景が天正16年(1590年)による再建。
こけら葺きの大屋根が美しい本殿は天正6年(1578年)に大宮司宗像氏貞が再建したもの。

この楢の木は辺津宮(へつぐう)本殿横に約550年の樹齢を重ね、ご神木として人々を見守っています。

世界文化遺産への登録を目指している、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」について、ユネスコの諮問機関は「世界遺産にふさわしい」と勧告し、ことし7月に世界文化遺産に登録される見通しとなりました。

沖ノ島は玄界灘のほぼ真ん中に浮かぶ絶海の孤島。
その中腹に、 田心姫神(たごりひめのかみ)を祀る沖津宮が鎮座し、辺津宮より 神職が10日交代でたった一人で奉仕している。

住人はなく、女人禁制、上陸時の海中での禊、一木一草一石たりとも持ち出すことは禁ずるなどの掟が、いまでも厳重に守られている神聖な島です。

島全体が宗像大社の境内地であり、御神体島として皇室・ 国家安泰の祈りが連綿と捧げられている。

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遠の朝廷と防人を訪ねて⑤

大都市の目の前にありながら僅か10分の船旅で都会の喧噪を忘れられるとあって、福岡市民の身近な行楽地として親しまれる。
福岡でも屈指の菜の花・桜・コスモス・水仙の名所で、満開のころは一年で最も混雑する。

能古島が初めて登場する文献は『平安遺文』。
731年(天平3年)頃の住吉神社の社領を記述した文中に「能護嶋」の名で登場する。

『能古島の歴史 防人(さきもり)の島』 現地案内板より

「天智天皇の2年(663年)、唐・新羅の連合軍に攻略された百済の救援に向かった日本軍は、白村江の戦いで大敗した。

それ以降、北九州や壱岐・対馬などは、国を守る第一線となり、律令政府は、城を築いたり海岸に兵士を置いて守りを固めさせた。

九州や壱岐・対馬を守るこれらの兵士を「崎守」「岬守」といい、中国唐の制にならって「防人」の字をあてた。

諸国の防人は難波(大阪)の港まで歩いてきて、そこから船に乗り、九州に向かった。

防人は3年交替で食料などは自分持ちだったため、ひとりの防人が出れば、その家は滅びるとまでいわれた。

8世紀を通じて防人のほとんどは東国の兵士であったが、天平宝字1年(757年)には、東国防人が廃止され、西海道7国の兵士2000人がこれに従った。

なお、万葉集に「也良乃崎守」とある也良は、能古島最北端の松尾の荒崎をさし、対馬・壱岐以外での防人の配置を示す好例である。

“沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の防人 早く告げこそ
山上億良 巻16-3866

沖に棲む鳥の鴨という名の船が帰って来たら、也良の崎守りよ、早く知らせておくれ。

永福寺の入り口のだるまさん。

永福寺、能古島にあるお寺。

創建の由来は不明なのだそうですが、祇園山笠発祥の地として知られる承天寺の末寺という。

福岡の地行にある金龍寺ともかかわりが深いお寺ということで、曹洞宗に属する。
とてもきれいに整備されて、境内には登り窯跡、孔子廟などもあります。

能古博物館の入口近くには「まぼろしの能古焼」と言われている能古焼の古窯跡がある。

能古焼は江戸時代中後期に 陶磁器を作っていた窯で有田焼系の磁器であったようです。
今は能古島に焼き物の窯はなく滅びています。

能古博物館(島の歴史をはじめ和船、古高取の銘品床置、筑前亀井学の関連資料など展示)、冬季は閉館だが我々のため本日特別にあけていただけた。

博物館からは対岸が一望、見えているのは船出した姪浜かな。

白髭(しらひげ)神社は、能古島の生土神(うぶすながみ=氏神、鎮守の神)で祭神は住吉大神(すみよしのおおかみ)、神功皇后、志賀明神(しがみょうじん) など。

能古島という地名は「神功皇后が住吉の神霊を残した島なので残島(のこのしま)になった」といういわれがあり、この神霊を留めたのが 白髭神社だといわれています。

島で見かけたマンホールの蓋。

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能古島へのアクセス、行き方歩き方

能古島へはフェリー「レインボーのこ」「フラワーのこ」が合わせて1日23便(日・祝21便)運航しています。便数も多く朝早くから夜遅くまで船があるので日帰り観光もできます。

遠の朝廷と防人を訪ねて④

太宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。
三天神には諸説あり、太宰府と北野天満宮までは共通するものの、あとの一つを大阪天満宮等とする説も存在する。

延喜3年(903)2月25日、菅公は謫居(たっきょ)の地、南館(榎寺)において清らかな御生涯を終えられました。

その後、御遺骸を牛車に乗せて進んだところ、間もなくその牛が伏して動かなくなりました。
これは、菅公の御心によるものであろうとその聖地に御遺骸を葬りました。

飛梅が一輪寒風にさらされています。

大宰府へ赴くため都を発つ道真が庭先に立っている梅に対して「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と歌った。

太宰府天満宮拝殿・右手前にその飛梅が立っている。

東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ

この短歌は、菅原道真(すがわらみちざね・菅公)がうたった有名なもの。

彼は、もともと低い身分でしたが、学問に優れていたため、右大臣にまで出世した。
当時の左大臣の藤原時平からねたまれ、あらぬ罪で、大宰府に左遷させられた。

その時に、梅が大好きだった菅公が京都の紅梅殿の梅に向けて詠んだ歌。

現在も大宰府の天満宮には、梅があり、飛梅伝説として残っている。

大宰府天満宮には、梅の木の下で「ひょうたん酒」を飲めば、難を免れるという言い伝えがある。

天満宮で、厄除け祈願を受けると特別なお札・お守り、お神酒と厄晴れひょうたんを授かる。

この授かった厄晴れひょうたんの中に、願い事を書いた用紙を入れ自宅の神棚などにお祀りし、災難が降りかからないように祈願する。
そして、厄が晴れると、お礼参りをして、ひょうたんを本殿裏のひょうたん掛所へ納めれば良い。

大楠、樹齢 1000~1500年、樹高 :39m、幹回り 12m、根回り 20mと成っていて、国指定天然記念物。

妹(いも)が見し楝(あふち)の花は散りぬべしわが泣く涙(なみだ)いまだ干(ひ)なくに   巻五(七九八)

妻が見たセンダンの花はもうすぐ散ろうとしているよ。私の泣く涙はいまだ乾かないというのに

この歌も大伴旅人(おほとものたびと)の妻の死(巻五:七九三も参照)に対して山上憶良が贈った追悼歌で、巻五(七九四)の長歌に付けられた反歌のうちのひとつ。
「楝(あふち)」は植物のセンダンのこと。

そんな「妻が生前に見たセンダンの花はもうすぐ散ろうとしているよ。
私の泣く涙はいまだ乾かないというのに」と、月日は経っても妻を失った涙の乾かない哀しさを詠った挽歌となっています。

亡き妻が好んで見た花が散ってしまうことで妻との思い出のよすががひとつ消えてしまうような、そんな寂しさも感じさせる一首です。

よろづよに としはきふとも うめのはな たゆることなく さきわたるべし

いつの世までも梅(うめ)の花は絶えることなく咲き続けるでしょう。

天平2年1月13日、大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で催された宴会のときに詠まれた歌の一つ。

わが苑に 梅の花散る 久方の
     天より雪の 流れくるかも
 (大伴旅人 万葉集巻5-822)

わが家の庭に梅の花が散る。はるか遠い天より雪が流れて来るよ。

参道の商店で見かけた焼き物、梅色が見事だった。

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大宰府天満宮へのアクセス、行き方歩き方

大宰府天満宮公式サイト

福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号

西鉄太宰府線太宰府駅から徒歩5分

遠の朝廷と防人を訪ねて③


『源氏物語』にも登場する観世音寺は、天智天皇が、母君斉明天皇の冥福を祈るために発願されたもので、80年後の聖武天皇の天平18年(746年)に完成した。

古くは九州の寺院の中心的存在で、たくさんのお堂が立ちならんでいたが、現在は江戸時代初めに再建された講堂と金堂(県指定文化財)の二堂があるのみ。

境内はクスの大樹に包まれ、紅葉、菩提樹、藤、アジサイ、南京ハゼと季節が静かに移る。

昭和34年(1959年)多くの仏像を災害から守り完全な形で保管するため、国・県・財界の有志によって、堅固で正倉院風な周囲の景色に馴染みやすい収蔵庫が建設された。

この中には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体をはじめ、全て重要文化財の品々が収容されており、居並ぶ古い仏たちに盛時がしのばれる。

西日本最高の仏教美術の殿堂のようで、特に5m前後の観音像がずらりと並んでいる様には圧倒される。

また仏像の多くが樟材で造られたのも九州の特色といえる。

僧房跡、修行する僧たちの学問所兼寄宿舎址。

観世音寺の創建当時、講堂の北側には僧房の建物群があった。
修行する僧たちの学問所兼寄宿舎の性格を持っていた。

そのうち最も大きな建物を「大房」といい、長さ104m、幅10mの細長い建物で、数人ずつが起居するように仕切られていた。

現在の礎石は近年復元したもの。

この神社は観世音寺の鎮守であり、地元では「ヒヨシ神社」と呼ばれる。
比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので平安時代末には置かれていたらしい。

江戸時代の地誌によると、豊臣秀吉が九州下向の折、この日吉社に陣を張ったが、時の観世音寺別当は世情に疎く、秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て秀吉の怒りをかい、寺領を没収されたと伝える。(太宰府市案内板より)

観世音寺の境内には、五重塔(ごじゅうのとう)の中心の柱である心柱(しんばしら)を据えていた礎石<=心礎>がある。

かつて、東面する金堂と向き合うように西面した五重塔が建っていた。
 
現在は心礎の巨石と地覆石(じふくいし=建物の出入り口や基壇の下部に据えられた石)が残るのみ。

この梵鐘は京都妙心寺の梵鐘と兄弟鐘といわれ、その古さに於いても優秀さに於いても正に日本一と称され、糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられている。

榎社にいた菅原道真公の詩に「都府楼は纔(わず)かに瓦色を看る 観音寺は唯(ただ)鐘声を聴く」とあるのはこの鐘。

現在この梵鐘は「日本の音風景100選」に選定されている。
古代の人々も聞いた鐘が現代のまちにも鳴り響いている。

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遠の朝廷と防人を訪ねて②


御笠団印出土地

701年の大宝令(たいほうりょう)に定められた軍団(軍隊)の印判が発掘された所。

軍団は全国に置かれ、普通一軍団は兵士千人で構成され、その兵士は成人男子から三人に一人の割で徴発された。

平安時代初め筑前国には4軍団があり、この印にある御笠軍団はそのうちの一つだったと思われる。
近くの水城小学校からは遠賀団印が出土している。

太宰師(そち)大伴卿(まへつきみ)の歌二首

わが岡にさ男鹿(をしか)来鳴く初萩(はつはぎ)の花嬬(はなづま)問ひに来鳴くさ男鹿     巻八(一五四一)

わが家近くの岡に男鹿が来て鳴いているよ。
初萩を花妻として言問いに来て鳴く男鹿よ。

この辺りは、大宰師(だざいのそち) 大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅跡と伝えられています。

この歌は太宰師(だざいのそち)の大伴旅人(おほとものたびと)が詠んだ二首の歌のうちのひとつ。
題詞に「太宰師」とあるので大宰府に赴任中の歌でしょう。

「花妻(はなづま)」とは萩(はぎ)の花のことで、 鹿がいつも萩に寄り添うことから萩の花を鹿の妻だと見立ててこのように呼びます。

この歌でも「わが家近くの岡に男鹿が来て鳴いているよ。
初萩を花妻として言問いに来て鳴く男鹿よ」と、そんな花妻を求めて鳴く男鹿を詠った一首となっています。

大伴旅人は大宰府に赴任してきてすぐに妻を亡くしていますが、あるいは妻問いに鳴く男鹿に自身の姿を重ねて見たのかも知れません。

太宰府市の坂本八幡宮は、応神天皇を御祭神としています。

「圓満四王寺縁起のよると、嵯峨天皇弘仁2年(811年)辛卵二月勅宣にて四王院に釈迦の像を造立し、有智山寺の沙門鳳詮法及行願具足の僧十一輩を移し開眼供養を遂げられ水田五十町を寄付した給ふ鳳詮法師は坂本に住して善正寺と号す。

又坂本坊と呼り」とされている。

平安時代には、この坂本地区に四王寺の座主坊としての善生寺が成立していたとされています。

大宰師大伴卿(だざいのそちおおとものまへつきよみ)の凶問に報(こた)へる歌一首

世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり   巻五(七九三)

世の中がじつは空しいものだと思い知ったとき、いよいよますます悲しみが深まることだなあ。

この歌は万葉集巻五の冒頭に置かれた一首で、大伴旅人(おほとものたびと)の作。

大伴旅人は万葉集の編者といわれる大伴家持の父で代々の武門の名家出身者として九州で隼人の反乱を鎮圧するなどの活躍をした傍ら、赴任先の大宰府で山上憶良(やまのうへのおくら)らと親交を持ち、奈良の都のそれとは一風違った後世に筑紫(つくし)歌壇と呼ばれる多彩な歌を残しています。

旅人は太宰師として筑紫に着任した翌年、その地で妻の大伴郎女を亡くしました。

都から遠く離れた地で最愛の妻を亡くした喪失感は、旅人の心を想像以上に深く悲しませたようです。
そして今また、都から届けられた天武天皇の皇女、田形皇女の訃報。

「世の中は空しいものだと知識では知っていたけれど、こんなに不幸が続いて重なってくるとますます実感として思い知らされることだなあ。」との何のひねりもない歌の表現は、それゆえに旅人の実感がこもったもののように思われます。

妻を亡くした悲しみに沈んでいるときに、さらに都から届いた訃報は、旅人のこころをさらに重いものにしたのでしょう。

正月立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ  [大貳紀卿] 

むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ

睦月となり春は来ました 
このようにして梅を招き迎えて楽しく一日を過ごしましょう。

[大貳紀卿](ただいにきのまえつきみ): これは名前ではなく、このとき太宰府の大弐(位のひとつ)だった紀氏の人。
紀朝臣男人 (きのあそみおひと) 682(天武11)~738(天平10)年10.30、卒す。この時正四位下大宰大弐。『懐風藻』によれば享年五十七。

<大宰府の長官大伴旅人は妻を亡くし悲嘆の日々を過ごしていたが、山上憶良や異腹の妹、坂上郎女が妻のかわりに世話をしに都からやってきたことなどから次第に元気をとり戻していた。

しかし長屋王の変を知らされた旅人は直ちに藤原4兄弟の一人藤原房前に日本琴を贈り、自分には政治的に争う意志のないことを表明し藤原氏からの圧力を避けたい気持ちを表した。>

太宰府跡(特別史跡)と背後の山は大野城が築かれた四王寺山、この山全域が大野城。

7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)とした。

その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説がある。

万葉集には”遠の朝廷(みかど)”と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残 り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて、現在は公園となっている。

大宰府展示館の中、天平2(730)年正月13日、大宰師大伴旅人の邸で梅花を題とする歌宴が開かれた。
その様子を博多人形で再現されている。

子らを思へる歌一首并せて序

瓜食(うりは)めば 子供思ほゆ 栗食(くりは)めば まして思(しの)はゆ 何処(いづく)より 来(きた)りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとな懸(かか)りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ   巻五(八〇二)

「瓜を食べていても今わが子供はどうしているだろうかと思い出させる。
栗を食べればあの子にもこの栗をを食べさせてあげたいなあとまして思い出される。

どんなに遠くにいても目に浮かんできて思い出され、安眠さえできない。」との子供への深い愛情は、今の世の人々にもすんなりと受け入れられる解説の必要すらないものです。

万葉時代の人々も子供を思う気持ちはわれわれと何ら変わらないものだったのでしょう。

巻五(八〇三)の反歌

銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも   巻五(八〇三)

銀も金も玉もどれほどのことがあろうか。どんな宝も子供には遠く及びはしない。

大宰府と言えば天満宮の梅。

マンホールにもやっぱり市の花・梅が描かれています。
中央に市章。

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