秋 大阪城


大阪城公園も紅葉真っ盛りだ。

森の宮から散策を始める、まず外周約1kmを誇る「イチョウ並木」。

玉造口を目指す、この辺りもイチョウの紅葉がきれいだ。

長い階段、人通りは少ない。

林に差し込む光線がきれいだ。

桜がきれいに紅葉している。

雁木坂

大阪城の本丸を取り囲む二の丸は北が低く、内堀の東にあたるこの通路は南から北にかけて急な下り坂となっている。

空堀を西日が照らす。

内堀の石垣の紅葉。

重森三玲作の秀石庭、見学には事前予約が必要だが塀が低いので撮影は可能だ。

昔、男の背中という歌が流行ったこともあったっけ。

日本庭園、大阪城が一番きれいな場所だ。

本丸 隠し曲輪 にある リュウキュウハゼ 、きれいです。

ところがこのおばさん、いろいろとポーズをとりながら中々どけない、こちらもしまいに根負け。

空堀でおじさんが呼んでいるので行ってみると、なんとヌートリア、こんなところにもいるのか。

近くにはススキが群生していてきれい。

見上げれば空には秋の雲。

こちらも見事なスジ雲。

南外堀ではカモが見事な編隊飛行。

堀の上は見事な紅葉のトンネル。

一歩林へ踏み込むと色づいた落ち葉の絨毯。

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紅葉の小谷城址


小谷城址は6年ぶりの訪問だ、画像は『江 姫たちの戦国』の放映を記念して建てられた記念碑。

中腹(番所跡)までの約4キロをシャトルバスで送迎してくれる。

紅葉真っ盛り。

前回の訪問時は小雨の中の登城だった。
小谷山上に築かれた近江の名城 小谷城
今回は小雨をついての登頂敢行だ。 右側の尾根筋を六防迄登り、清水谷を小谷城戦国歴 … 続きを読む →


当時より足の衰えを感じる。

天正元年(1572年)再び小谷城に侵攻した信長は虎御前山に築城し、小谷城が落城するまでの間、最前線の砦として利用された。

手前の北國脇往還は信長が、秀吉が長政が義景が駆け抜け、死闘を繰り返した道だ

御馬屋跡。

戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した。

その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となった。

現在は土塁・曲輪などのほか、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っている。

国の史跡に指定されている。

首据石(くびすえいし)
馬洗池から少し登ったところにある。

天文2年(1533)初代亮政は六角氏との合戦の際家臣今井左衛門尉秀信が敵方に内通していたことを知り、見せしめのため秀信の首をここにさらしたことで有名な石。

黒鉄門跡。

桜の馬場跡の紅葉もきれいです。

桜の馬場跡。

大広間址

この城跡で最も大きい平地、家臣達を集めての会議などを行ったところ。

このすぐ後ろの一段高くなったところに城主がいた本丸址がある。

本丸跡、兵どもの戦いはどこへやら、美しい紅葉が・・・・・

織田、浅井の死闘

天下取りへの転換点 金ヶ崎城
南北朝、戦国期を通じ常に天下取りへの転換点となった金ヶ崎城址への訪問記。 金ヶ崎 … 続きを読む →

朝倉義景討伐を企てた織田信長が越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏裏切りの報が…。

朽木に信長遁走の跡を訪ねる
興聖寺はもともと現在の位置とは安曇川を挟んで反対側の上柏村指月谷にあったが、江戸 … 続きを読む →

興聖寺脇の渓流沿いの小径、朽木氏の闘争のための経路という。
信長もこの経路で脱出したようだ。

姉川の戦い
「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅 … 続きを読む →

午前6時頃に戦闘が始まる。
浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長公記)」という激戦になったが、織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。

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大阪城


今日は玉造口からの登城を目指します。

玉造口定番屋敷跡、江戸幕府にとって大阪は江戸に次ぐ最重要の城だった、大坂城には玉造口とほぼ反対側の京橋口の二か所に定番が設けられており役目は城の出入り口での守衛、城内警備が主な仕事だったようです。

南外堀、大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。

石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。

幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。

内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。
櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。

大阪城には四つの出入口があります。
その内の一つが青屋口です。
そこの桝形にある門が青屋門と呼ばれています。

2度焼失しており、明治時代に陸軍が、昭和になり大阪市が再建しています。

青屋門と言う名前は、戦国時代の石山本願寺の青屋町から来てますが、この「青屋」というのは、染物屋のことです。

またの名を「紺屋(こうや)」と呼ばれていました。
染物とは紺色に染めることから来ているのでしょう。

。青屋門から本丸に登城するには、本丸の北側にかかる極楽橋という橋を渡ります。

一説によるとこの橋は、大坂本願寺時代、豊臣期大坂城の時代にも存在しており、現在の大阪城でもその名称が引き継がれています。

秀頼、淀殿ら自刃の地

前年の大坂冬の陣の講和で堀が埋められてしまった大阪城は、野戦での奮戦も虚しく、慶長20年(1615年)5月8日に落城する。

前日の7日に大勢が決し、大阪城内は内応者による放火が始まり、火事場泥棒の如く裏切る浪人も多数現れた。
城主である豊臣秀頼をはじめ、生母の淀殿、恩顧の武将や女房など約30名は難を逃れ、徳川家康の孫である妻の千姫による助命嘆願が聞き届けられるのを待つことになる。

潜んだ場所は、天守閣の北にあたる山里曲輪にある隅矢倉であったと伝えられる。

しかし助命は叶わず、隅矢倉に立て籠もった者は火を放ってことごとく自害して果てたのであった。

ただ全てが灰燼に帰したため、遺体はあったものの誰であるかは分からない状態であったとされる。

秀頼については、吉光の短刀のそばに首のない遺体があり、短刀が秀吉から秀頼に与えられたものであったために、それが本人であると確認されたという。

山里丸石垣の機銃掃射痕

山里口出桝形

隠し曲輪の入り口。
何の表示も無いので、ほとんどの観光客はここを素通りしていきます。

この奥に広場があるとは、誰も気付きません。

姫門を出て西へ行くと南北に長い帯曲輪に出ます。

「隠し曲輪」と呼ばれ、城が攻められた時に兵士を隠しておく曲輪とされています。

隠し曲輪と言われるだけあってここに曲輪があることは分かりづらく、本丸に人があふれている時でも、落ち着いて大阪城を感じることができる場所ともいえます。

「隠し曲輪」の石垣構築工事を担当した伊予大洲藩、丹波園部藩の刻印石が多くみられます。

天守東側を堀に沿って歩く、ミライザ(前の大阪市立博物館。旧第四師団司令部庁舎)の裏手。

前面に何か祭祀の場所のようなものがある。

馬印櫓は3層の櫓であったが、明治維新の折に焼失した。

解説板によると此処にあった櫓には、家康が大坂の陣で用いたという馬印が納められていたということです。

大坂城代は、この馬印を拝するのを例とし幕末に大坂城を訪れた14代将軍家茂もこの櫓で馬印を拝覧したそうです。

右先方は梅園。

今日は違うアングルから天守を。

桜門桝形の巨石 蛸石と振袖石。

桜門

西側から見た空堀

南仕切り門跡・太鼓櫓跡、前方は石山本願寺推定地。

大手口桝形と巨石

独古組み(どっこぐみ)

こちらは大阪城の追手門に使われている継ぎ手を再現したもの。
当時は継いだ状態からは内部構造がどうなっているか不明で、X線による解析で内部構造が分かったそうです。
縦にも横にも動かない、とても難解な組木です。

大手門からの堀。

大手門

生玉神社御旅所跡

南外堀の石垣の高さは大阪城で2番目となっていて、堀の幅も広いので雄大な外堀の景色を楽しめます。

築城技術が全盛で、さらに南外堀は築城の最終段階でつくられたこともあるので 石垣の石組の完成度が非常に高くなっています 

二番櫓、三番櫓、四番櫓、五番櫓、七番櫓は第二次世界大戦の空襲と戊辰戦争の大火により焼失しています。現存しているのは一番櫓と六番櫓のみ。

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彦根城


彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工された。

当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城された。

画像は中堀から二の丸佐和山口多門櫓、天守を望む。

二の丸佐和山口多聞櫓

いろは松から彦根城を訪れる時、最初に出逢う櫓。
左手に見える櫓は明和8年(1771年)に再建されたもの。
現在、重要文化財に指定されています。

佐和山口多聞櫓の上や下に多くのサギや鵜。

多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。

佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。

二季咲桜

内堀沿い、金亀児童公園内にあるこの桜は春(4月〜5月)と冬(11月〜1月)の2回開花する珍しい桜。
昭和47年4月に水戸市より寄贈された。

玄宮園から天守を望む。

琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられた。
4代藩主直興により延宝5年(1677年)に造営。

臨池閣の一部。

楽々園、槻(けやき)御殿は藩主の下屋敷で、玄宮楽々園の名で国の名勝に指定されている。

四代藩主直興が延宝5(1677)年に造営。
大書院、地震の間、雷の間、楽々の間など、工夫を凝らした部屋が残っています。

茶座敷(地震の間)
城主である井伊家は文化9(1812)年、11代藩主の直中(なおなか)が隠居するにあたり、下屋敷の大規模な増改築を行った。
その際、ここに「地震の間(ま)」が設けられた。

200年前前にいわば免震構造のような形になっているのです。

黒門跡。

黒門山道を西の丸目指して登ります。

見事な高石垣です。

今回も逆からの登城です。

彦根城は、明治に解体の危機にみまわれました。
しかし、今も往時の面影が今日によく残っているのは、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、保存するようにと大命を下されたからでした。

一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。

また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。

今朝降った雪が残っています。

近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。

このうち、松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城の天守は国宝です。

現存天守の記事を見る

佐和山城跡を望む。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

多景島

竹生島

国宝彦根城天守は北西に附櫓(つけやぐら)が、さらに長い多聞櫓が連なります。

また、破風は変化の妙に富んでいます。

天守一層目の軒に並ぶ八つの「へ」の字形の切妻破風は、それぞれの大きさと奥行きに変化をもたせ、二層目は、南北を切妻破風、東西を入母屋破風とし、南北にが唐破風が設けられています。

太鼓門櫓の内部。

太鼓門櫓から西の丸三重櫓を望む。

本丸の西側一帯を西の丸と呼び、その西の丸の一番はずれにあるのが三重櫓です。
10m以上にも及ぶ高い石垣の上に築かれています。

三重櫓の東側一帯は桜が植えられ、春にはお花見のスポットとして賑わいます。

本丸への最後の関門である太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。

登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。

太鼓門櫓を過ぎると、正面に天守が現れます。

時報鐘の前に立ち、右に太鼓門を見ながら仰ぐ天守雄姿は格別です。

佐和山城を嫌った直政は琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。

時報鐘、城全体に響くようにと『鐘の丸』より移されたもので、今も定時に鐘がつかれ「日本の音風景百選」に選ばれています。

幕末期12代藩主直亮の時に、より美しい音色にしようと鋳造のさい大量の小判が投入されました。



天秤櫓の上から表門山道を下る人々。

天秤櫓、表門から坂を上がって行くと廊下橋(非常時には落とし橋となる)が見えます。

この橋を中央として左右対称に建てられているのが天秤櫓です。
まるで天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれています。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。

現存例の少ない築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。
向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

私は大手山道を下ります。

梅林、かつて、彦根城の公儀御用米の米蔵があった場所。

例年は、3月中旬から下旬にかけて、紅梅・白梅など約450本が春の訪れを告げます。

大手門橋跡る。

振り返って大手門跡を見る。

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大阪城梅園


大阪城梅園、ただいま六分から7分咲かといったところ。

梅園といえば普通山間部を連想しますが、ここでは京橋の高層ビル群をバックに梅を見るのも何ともいえない風景。

普通には梅の萼は赤い色。
緑萼梅は萼が緑色、梅としては珍種の部類です。

当梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付した事で、昭和49年3月に開園となりました。

現在では97品種1240本を数える規模になっており、品種の豊富さでは関西随一の梅園となっている。

緋の司 (ひのつかさ)、普通咲きの中では比較的早く咲き始めます。

八重咲きの枝垂れ梅『呉服枝垂』、この花は枝垂れ梅の中でも主要品種のひとつとして数えられる、クレハシダレ(ゴフクシダレ)です。

実梅の代表種の一つ。
大阪城 梅林内にも約180本の白加賀が植えられています。

その名前から加賀の国(石川県)の原産みたいに見えますが、神奈川県旧加賀村で発見された品種です。

また、大阪管区気象台が定める大阪府の梅の標本木として、大阪城 梅林内の白加賀が採用されています。

梅の原産地は中国であり、奈良時代以前に、遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされたと言われています。

梅園が一番きれいなのは、2月中旬から3月上旬、これからが本番。

天守閣をバックに、一番のポジションかな。

蝋梅(ろうばい)もちらほらと一緒に咲いています。

天守台からの眺望、こちらもなかなかのポジションです。

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篠山城址


二の丸登り口は、三の丸から二の丸の御殿跡に至る最も重要な動線で、絵図によると延長100mの範囲に北廊下門、表門、中之門、鉄門が配置され、篠山城内の動線の中でも特に厳重に造られていたことが分かります。

東枡形、大書院の北正面の位置にある枡形で、東西11m、南北16mの広場となっています。
調査の結果、動線の敷石と中之門に続く階段跡が発見されました。

鉄門跡、二の丸へ至る最後の門跡で呼び名の通り門扉には鉄板が張られていたと考えられます。

調査の結果、門跡は廃城後の明治時代にやく1.5m埋められていましたが、埋土を取り除いたところで、門跡の敷石と階段跡などの遺構が江戸時代の姿で発見されました。

これによって鉄門は幅約5m、奥行約4.5mの広さがあり、東側の石垣高さ約4m、西側の石垣高さ4.5mとの間に造られており、二の丸へ至る最後の関門にふさわしい、厳重な造りになっていた様子が確認されました。

水筋にあたる城の北、約2キロの田の中に、玉水と称するどんな旱年にも干したことのない水溜まりがありますが、これは城中の水量観測のために掘られたものといわれ、今も老松の陰にふしぎに涸れることなく、城の水の安全を保証しています。


葡萄の間の草花小禽図屏風。江戸時代後期の狩野惟信の作品で、藩主の青山家に伝えられていたもの。

大書院構造模型。大書院を復元するのに先立ち製作されたもので、建物の1/3の範囲が模型化されている。

大書院のような大規模建築は設計図だけでは構造把握が難しいことから、このような模型を作った。
宮大工二人が4か月かけて製作された非常に手のかかったもの。

二の丸は、大書院、小書院(こしょいん)、中奥御殿(なかおくごてん)、奥御殿(おくごてん)、台所(だいどころ)などの建物と築山(つきやま)をもつ庭園があり、儀式、執務を行う場と城主の生活空間の場で篠山城で最も重要な場所であった。
 
これらの御殿群の周囲には三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟とそれをつなぐように多聞櫓(たもんやぐら)と門が配置されていた。
 
現在残っている二の丸御殿間取図(にのまるごてんまどりず)や発掘調査の結果から御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり、増築されたりしていたようである。
 
しかし大書院を除く建物は廃藩後には取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年に焼失し、城郭の建物はすべて無くなってしまっていた。

明治時代に入った1871(明治4)年に篠山城は廃城となりますが、藩主・青山家の旧恩を追慕する人々が青山家の御霊を祀る神社の創建を熱望。

青山家の遠祖・青山忠俊公を御祭神として1882(明治15)年5月に創建されたのが、ここ青山神社です。

篠山城の本丸の場所は築城当初と変わっています。

当初は現在の二の丸が本丸でした。
天守台が造られたことにともなって、ここが本丸になりました。

この埋門、非常時(敵が攻め入った時など)には、土砂などで埋めて塞ぎ、侵入を防ぐことを目的として造られた門です。

埋門を抜け、南内堀沿いを歩いて見学できるルートが整備されているがなぜか今は通行不可となっている。

説明板にもあるとおり、外堀は現存だが内堀について言及されていないのは、内堀は戦後に一度公園化に伴い埋め立てられた(その後 史跡として復元された)経緯があるため。

高石垣で囲まれた本丸と二の丸のすべてに犬走が設置され、その外側には三の丸と水堀が広がっています。

今は駐車場になっている三の丸から内堀と石垣を眺めながら散策。

右奥が埋門、従来はここから南内堀沿いを歩いて見学できるルートが整備されていたが今回、残念ながら通行不可になっていた。

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篠山城址外堀


篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城で、篠山藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。

朝の光の中で先ずきれいな外堀からせめる。

大書院も見えている。
遠景には霧も見える。

ドラマでは歌手の石川さゆりさんがお牧を演じるが、果たして丹波篠山で、はりつけにされるのか。

多くの大河ドラマで時代考証を担当した静岡大学の小和田哲男名誉教授は「光秀が母を人質に出したという伝承は、江戸期に始まった可能性が高い」とみている。

本能寺の変の真相は「怨恨(えんこん)説」「天下取りの野望説」「信長の非道阻止説」「黒幕説」など、さまざまな研究があるが、お牧が絡む怨恨説は「近年あまり取られない」と話す。

明智光秀の生まれた年や出生地がはっきりしないように、お牧の生涯についても確かな記録は残っていない。

1996年の大河ドラマ「秀吉」で女優の野際陽子さん演じる母が木にはりつけられ、やりで突き殺される壮絶なシーンは多くの人の心に残っている。

1609年(慶長14年) – 徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。

これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。

篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成した。

外堀沿いには桜が約1000本、植えられているので、春には多くの花見客でにぎわう。

南馬出、東馬出のように過度な整備は行われておらず、自然のまま最低限の整備(草刈り)が行われているようだ。
馬出の周囲を守る土塁がしっかり残っている。
なお写真はないが、土塁の外側には堀も残っていた。

1873年明治6年) – 城郭の建造物が取り壊され始めた。

二の丸の大書院(おおしょいん)は取り壊しに多くの費用が必要なことや旧藩士の安藤直紀の働きかけで保存されることになり取り壊しから免れた。
城地には役所や学校などが建てられた。

堀に不法投棄される自転車などのゴミや、増える外来種を駆除するために堀の水を抜いて作業するなどして水質を改善する活動が行われている。

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上野城


藤堂高虎が大規模に改修した時は、大坂城の備えとして西側の防備を固めた。
これは、徳川家康が不利となった場合、この城で籠城する時に備えて、相当数の兵員を収容できるよう、細部の完備や美観を整えるより実戦本意に配慮した。

藤堂高虎は伊賀忍者に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊賀上野城を改修の参考にしたという伝承が残っている。

慶長16年(1611年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張したが、大坂の陣によって、当時高虎が従属する家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。

大坂城の高石垣とともに日本で一、二を競う石垣は1611年(慶長16年)に「打込はぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さを誇り、三方に折廻して、延長368mに及ぶ。

加藤清正公の熊本城の石垣と比べ、石垣が直線的に積み上げられているのが藤堂高虎流。

天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築きました。

菊岡如幻の『伊水温故(いすいうんご)』によれば、城は高丘の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守閣を建て、城下町は古くから開けた北側(現在の小田町)を中心としました。

慶長13年(1608)6月、筒井定次は改易となりましたが天守閣は、寛永10年(1633)頃に倒壊したと推定されます。

石垣の上に登ると、柴小屋や米蔵などの跡地を指す看板が建っていた。

本丸東側に一段高く石垣が組まれた曲輪がある。 
これが筒井時代の本丸で、藤堂時代には城代屋敷があった所だ。  

実際この曲輪に立つと、この城の一番高所で「ここが本当の本丸」といった思いがする。 
筒井時代にはここに三層の天守があり、現在天守台上に石碑が建てられている。

筒井定次の伊賀での石高は5万石とも10万石ともされ、それが事実だとすると事実上の左遷となっています。

筒井順慶の死後、筒井家の力が弱まっていたのと、筒井定次の失政もあったようで、重臣だった島清興(島左近)も1588年2月に、筒井家を離れています。

松倉重政、森好高、布施慶春といった家臣も筒井定次の元を去っています。

しかし、筒井定次は伊賀12万石、伊勢の内で5万石、山城の内に3万石の合計20万石だったとする江戸時代の史料もあり、伊賀での石高に関しては議論が分かれるところです。

昭和34年(1959)神部滿之助氏の篤志寄付により俳聖芭蕉翁を顕彰する事業のひとつとして建てられた。

館内の芭蕉文庫には翁の真蹟をはじめ近世から現代に至る連歌俳諧に関する資料等が数多く保存されています。

芭蕉記念館入り口に立つ杖を持った松尾芭蕉の旅姿。

天井に届くほどの巨大さです。

竹の茂みの中にひっそりと立つ灯篭。

立て札には、「この灯篭は松尾芭蕉の旧主藤堂新七郎家の築山にあったのが当館落成のさい同家十一代の当主藤堂志津氏より寄贈されたものである」とあります。

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天下の名城の花見


友人の展示会を見に行ったついでに大阪城公園に立ち寄ってみた。

今年は開花が早くすでに満開。

西の丸庭園でのんびりとお花見。

花はいいが人の多さにうんざり。

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初秋の金沢城

金沢城は金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む)。

現在、重要文化財に指定されている石川門は、天明8(1788)年に再建されたもの。

今は完全に埋め立てられていますが、延宝期はしっかりと水がはられていました。
そして、塞き止められお堀となっています。

この百間堀は前田利家入城前に城主、正確には 一向一揆の御山御坊を攻め落とした佐久間盛政がこの百間堀を掘ったとも言われています。
正確なことはまだわからないようです。

石川門は一般的な枡形構造の城門と同様に、一の門(高麗門)、二の門(櫓門)、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門となっています。

最初の門(一の門)を入るといわゆる枡形虎口になっていて、右に90度曲がったところにもうひとつの門(二の門)があります。

一の門から入って正面の壁と、左手の壁にあたる部分です。
明らかに異なる積み方がなされています。

三ノ丸

橋詰門一の門(復元)

橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門です。

高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。

「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、二の門の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門でした。

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。

「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。

二の門をくぐれば二の丸。

二の丸から眺めた菱櫓と五十間櫓。
菱櫓は三層三階の建物で、金沢城一の高さを誇っていた。

本丸との間の空堀に架かる極楽橋と現存の三十間櫓の様子。

案内板によると「 二ノ丸から本丸への通路に架かる橋、金沢城内ではっきりした名称の付いている橋は珍しい。

その名称から金沢御堂時代の遺構であるとの伝承がある」とあります。
金沢御堂は戦国時代、一向一揆の拠点になった場所の1つで、寺院全体が城砦化していたとも云われています。

金沢御堂時代にも空堀のような防衛施設があり念仏を唱えながら橋を渡り極楽浄土を願っていたのかも知れません。

極楽橋の上から兼六園方向を撮影したもの。
右側が本丸方面であり、見事な石垣が積み上がっている。
見事な石垣が積み上がり、かなりの高低差を作り出している。

三十間長屋からはすぐに本丸に至るが、この景色から考えると、本丸まで攻め込むのは容易ではなさそうだ。

三十間長屋

本丸付段に安政5年(1858)に再建された長屋で、金沢城に現存する長屋建築としては唯一のものです。
宝暦の大火(1759)で焼失した後、100年近くたって再建された。

幅3間、長さ26.5間余りの2階建て多聞櫓で、鉛瓦葺の堅牢な構造が特徴的です。

「陸軍の破壊」、明治のやっつけ仕事、粗悪な改修一目瞭然

明治は城「受難」の時代だった。

戊辰(ぼしん)戦争で破壊された東北各藩の城以外にも、無事に残った各地の名城も悪しき旧体制のシンボルとして解体破壊されていった。

文化財として守る意識など皆無だった。

あの姫路城でさえ解体寸前だったが、今に残ったのは解体費用がかかりすぎるため手を出せなかったからだという。
 
陸軍が利用した金沢城は、明治4年の廃藩置県で新政府の兵部省所管となった。
6年には名古屋鎮台分営、8年に歩兵第七連隊となっていくが、兵舎として使える建物以外は次々撤去された。

金沢城公園の本丸と二の丸の間の石垣をくり抜いて造られたトンネル。

明治から昭和の初めにかけて、金沢城は兵部省、のちに陸軍省の所轄となりました。
このトンネルは、旧陸軍の弾薬庫通路として造られたもの。

本丸跡地に、その弾薬庫はあったそうですが、現在は残っていません。

トンネルは煉瓦積みで、荷車などを通すためか、結構大きい。
現地には簡単な説明が書かれた紙がトンネルの前に貼られているだけ。

このトンネル、石垣を崩してレンガを積み、また石垣を積みなおしたのだと思われます。
弾薬庫への往来ということで、直線ルートが欲しかったんでしょう。

鶴の丸休憩所からの眺め。

鶴の丸は三の丸と東の丸の間にある小さな曲輪。

前田利家の夫人、芳春院が白い鶴が舞い下りるのを見て鶴の丸と命名したという言い伝えが残っている。

江戸時代初期には加賀藩二代目藩主・前田利長が休憩用の御殿を建てたそうですが、大坂の役の際には、一向宗徒や百姓・町人をここに人質として収容したそうです。

石川門の内部。

秋です、すすきが風に揺れていました。

かつての「いもり堀」は、金沢城の南西側を囲む外堀で、明治40年(1907)、旧陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は、陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用されました。
 
江戸時代の堀は、幅が広いところで約40m、深さが10m以上あり、水を湛えていました。
斜面は土羽で、比較的緩やかな勾配で造られており、南東端には鯉喉櫓台の石垣がありました。

外周の南端、ここには城内随一の高石垣がある。

この4段の石垣!段々に積み上がっている石垣は美濃岩村城などでも見られるが、ここは一段一段がかなり高いのでとても迫力がある。
しかし石垣麓の説明板に衝撃の事実が。

なんとこの石垣は今の上3段分が繋がった高さ22m以上の高石垣だった。
しかし明治時代に何故か(堀を埋めるためか)削り取り、今の4段構成に改変してしまったとのこと。

壊してしまわず、ちゃんと4段に積みなおしてくれただけでも良かったと思うべきか。

本丸南面の4段高石垣の全景。
石垣の向こうの深い森の奥が本丸。

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