青葉の季節を迎えた犬山城

犬山城は江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつ。
また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。

黒門跡、現在礎石が一つ残る。

登城道の最後の坂を登りつめたところに岩坂門があった。

本丸門(鉄門)、桜は葉桜になり、みどりがとてもきれいです。

前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。

また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。

江戸時代には尾張藩の付家老の平岩親吉が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。

江戸時代には尾張藩付家老成瀬氏の城として維持され、白石城と同じく大名家の城ではなかった。

城は最近まで個人の所有であった。

現在は財団法人「犬山城白帝文庫」に譲渡されているが、成瀬家の姫(成瀬 淳子氏)が理事長に就任して管理している。

過去の犬山城訪問記

犬山城の紅葉 あいにくの雨でした
犬山城は、現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひ … 続きを読む →

桜咲く白帝城 犬山城
東海の山城、今日は二日目、まず訪問したのは山城でなく平山城の犬山城。 関連記事: … 続きを読む →

木曽川の畔にたたずむ後堅固の城 犬山城
木曽川を背に建つ、国宝犬山城は兵法に言う「後堅固(うしろけんご)の城」です。 標 … 続きを読む →

犬山早朝散策 美しい日の出を求めて・・・・
犬山での宿泊は久し振り、昨夜は雨だったが今日はどうやら晴れらしい。 今朝の目覚め … 続きを読む →

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姫路城ビューポイント探訪

2015年3月27日再公開以来人出の多さを気にしながら訪問の機会をうかがっていたが突然前夜思い立ち訪問。
歩数31000歩、丸一日がかりの探訪でした。

まずピオレ姫路〔piole HIMEJI〕屋上から偵察。

ここはJR姫路駅からも近く、姫路城の南面を非常に高い位置から望める貴重なスポット。
電車の空き時間などちょっとした時間で楽しめるスポットだ。

地上からでは見ることができない姫路城全体の縄張りを、一望することができる。

JR姫路駅前の城見台からの画像。

大手前通りの歩道は黄色いイチョウが落ち葉を散りばめきれい。

イーグレー姫路(屋上5階)、地上からでは見ることができない姫路城全体の縄張りを、一望することができ、距離も近いため望遠レンズがなくても、それなりに撮影することができて便利。

大手前公園から。

城見台公園の鯱の間から。

城見台公園からの画像、大手門から5分もかからずに行ける場所であるにもかかわらず、人の流れからは外れているせいか、あまり観光客が多くいる場所でなく穴場。

動物園横の広場から、この辺りも人はまばら。

「喜斎門跡(きさいもんあと)」は、姫路城の裏口・勝手口という意味合いの搦手口(搦手門)。

現在は石垣しか残っていませんが、日中も人の流れが少なく、落ち着いて写真撮影ができるスポット。

姫路城の東側を大迫力で写真に収めることができます。

ススキと残り柿が晩秋の雰囲気。

喜斎門跡の石垣越しに。

喜斎門跡を入ったところの広場、ここからは石垣の扇の勾配がきれい。

姫路市立美術館のエリアも観光客はほとんどなくゆっくりと撮影できる、ススキと紅葉がいい。

堀も晩秋の佇まい。

シロトピア記念公園・ふるさとの森、逆光で天守の撮影には今一だが、趣のあるきれいな公園だ。

県立歴史博物館の壁面、ガラスでできたキューブ、周辺の風景が映るという仕組みのマジックミラー。

残念なのはライトアップの映り込みを撮り忘れたこと、ま、その内訪問するか。

木々が真っ赤に紅葉してきれいでした。

扇観亭前の庭園、龍水都紅葉がきれいでした、扇観亭は黒川紀章 設計。

寒桜が寒さにふるえている。

この辺りもまだまだ紅葉がきれいだが、天守は逆光。

紅葉が終わり清掃に追われています。

内堀の紅葉とワの櫓。

ワの櫓付近の石垣。

ネコちゃんが堀端を散歩。

こちらはクロネコ、眼光鋭く。

内堀の石垣の様子。

三の丸広場から、芝生は養生中で近寄れません。

三の丸広場からの天守。

ただ今、重要文化財「リの一渡櫓」と「リの二渡櫓」は修理工事中。

約30年とされる漆喰の耐久性を保つために外壁を塗り直しているほか、屋根瓦のふき直しを進めており、最終段階を迎えている。
工事は来年3月までの予定。

入り口前の石垣。

入り口前から天守を。

三国濠(有料エリア:入城料を払った後に行けるエリア) 、入城ゲートを通って、最初の門(菱の門)をくぐるとすぐ右に見える。

濠が鏡になって、逆さのお城が撮れるスポット。

西の丸からの景色は、よく時代劇のロケなどで使われている。

石垣と天守がダイナミックに撮れるスポット。

化粧櫓付近から。

天守屋上から、夕日に海が輝く。

天守台から、ここまで来ると広角でないと無理。

ライトアップの始まり、ブルーの空に白亜の天守が浮かぶ。

ブルーと白のコントラスト。

城見台公園からの夜景。

喜斎門跡からの夜景、堀への映り込みがきれい。

喜斎門跡奥の広場から。

ここまで来ながら、県立歴史博物館のキューブへの映り込みを撮り忘れたのは不覚。
朝10時から夜7時まで歩数31000歩の探訪、疲れました。

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熊本城震災5か月目の復興状況をレポート

別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」とも言われる熊本城、復興状況を見たいと思いながら5ヶ月目にやっと実現。

行幸橋のたもとの清正公、さぞやびっくりしたことだろう。

まず市役所14階から城の全貌を見る。
天守閣、本丸御殿、数寄屋丸が確認できる。

白いシートも見える。
手前下は田子櫓等の櫓群。

少しズームすると天守閣の瓦が崩落している状況が確認できる。
本丸御殿では白いシートも確認できる。

更にズームすると悲惨な状況が目の当たりに。
鯱も崩落して屋根に落ちている。

西に目をやれば隅石1本で支えている飯田丸五階櫓の倒壊防止の緊急工事の様子が見える。

坪井川に沿って長塀通りを進む。
あの美しい長塀も被害を受けているが白いシートがしてあり状況は確認できない。

続く馬具櫓の石垣は地震ではなく、その後の長雨で崩落、立ち入り禁止区域を広くとっていたことによってけが人が出ずに済んだ。

櫓の壁にヒビが入っているのはわかります。

二の丸広場を通って加藤神社まで歩いてみることにする、宇土櫓の状況が気になっているのです。

戌亥櫓、天守、宇土櫓が遠望できる、塀は崩落している。

先ほどの石垣から繋がる”戌亥櫓”の様子を北西方面から眺める。
粒の小さい石が使用されており、近年に復元されたことがわかる

更に進む、北側の石垣はほぼ完全に崩落している、この辺りは全く手つかずのように見える。

加藤神社に続く通路脇には、崩落防止のフレコンバックが積み上げられていたが、黒い素材のものがチョイスされており、およそ3倍の耐久性が確保されているとのこと。

続く2枚の写真は、加藤神社に進む橋の両脇を撮影したもの。
たもとの左側と右側で、使用されている石の大きさが違うことから、違う時代で復元を繰り返してきたことがわかる

宇土櫓は幸いにしてまだ被害が少ないほうですが、続櫓は完全に倒壊しています。

熊本復興キャンペーンのツアー参加です、ガンバレ熊本!!

以前に訪れた際の熊本城の記事が下記にあります。
秋の九州爽やかウォーキング 熊本城
熊本城は日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上 … 続きを読む →

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熊本城へののアクセス、行き方歩き方

熊本城公式サイト

熊本県熊本市中央区本丸1−1
096-352-5900

熊本市電 花畑町電停より 城内まで約30m、櫨方門まで約400m、頬当御門まで約600m。
熊本市電 熊本城・市役所前電停より 城内および須戸口門まで約200m、不開門まで約400m。
熊本交通センターより 城内まで約300m、櫨方門まで約400m、頬当御門まで約600m。
熊本交通センターより 頬当御門まで熊本都市バス「熊本城周遊バス(しろめぐりん)」で約8分 130円(8:30 – 17:00)
JR熊本駅より 頬当御門まで熊本都市バス「熊本城周遊バス(しろめぐりん)」で約18分 130円(8:30 – 17:00)
熊本市電 杉塘電停より 城内(三の丸公園)まで約150m。

村上水軍を訪ねる旅 今日の泊りは今治

村上水軍を訪ねる旅、今日の泊りは造船とタオルの生産、焼き鳥などで有名な今治

今日の泊りは今治国際ホテル

しまなみ海道・瀬戸内海、今治城を一望。

名物の焼き鳥をいただこうと街へ繰り出す。

今治焼鳥:串焼きもあるが、鶏肉を鉄板にへらなどで押さえつけて焼く鉄板料理が特徴で、その中でも「皮焼き(皮)」が有名。

しかし、おすすめの皮焼きだが、パリッと感がなく今一でした、その点大阪の焼き鳥はうまいよ、今治の人一度食べにいらっしゃい。

翌朝日の出を撮ろうと出かける、現在6時過ぎ、辺りはまだ暗い。
右奥の高い建物が今治国際ホテル。

6時30分、少し明るくなってきました。

今治は古くから瀬戸内海の海上交通の要所であったことから、平安時代以前は伊予国国府が置かれ、江戸時代は今治城の城下町として発展した。

慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城開始され、慶長9年(1604年)に完成した。
別称「吹揚城(吹上城)」。

慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。
高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。

天守閣の向こう側が明るくなっています、日の出の方向です。

石垣と内堀がほぼ江戸時代の姿を残している。

昭和55年(1980年)に5層6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられた。

今治城の天守は、一次資料が不足しているため、築城当時に建造されたか否かが確定されていない。

藤堂家の家譜『宗国史』巻二には「城中に五層の高楼を建て、府下を五街に開き」と記述されているが、敷地内に天守の遺構が確認されていないためである。

白み始めた空に藤堂高虎像が浮かび上がる。

日の出間近ですが、曇りがちの空模様、ホテルの朝食時間、出発時間も気になります。

朝食後ホテルの部屋から今治城の方向を見る、雲が多く日の出はお預けです。

部屋の窓からしまなみ海道が見えています、これから来島水軍城へ向かう。

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今治国際ホテルへのアクセス、行き方歩き方

愛媛県今治市旭町2-3-4

JR予讃線で今治駅下車徒歩10分。
しまなみ海道今治方面今治IC下車今治市街方面へ車で約10分。

早春の松本城

安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。

松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。

市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。
しかし文献上には烏城という表記は一切ない。

二の門と枡形

内堀を渡ったところにある門で、高麗門。

平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、枡形が復元された。

この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。

松本城 一の門、本丸へ入る重要な入り口です。

この門を入るとかつては本丸御殿がありました。

本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられています。

門を入ると美しい姫が出迎えです。

市川量造と小林有也のレリーフ

向かって左が市川量造(いちかわりょうぞう)、右が小林有也(こばやしうなり)で、明治以降松本城の保存に功績のあった人です。

明治5年(1872)1月、松本城天守は競売に付され235両1分永(えい)150文(「永」は銭のこと)で個人が落札しました。

これを知った下横田町の副戸長(商人・自由民権家)市川量造を中心とした有志が立ち上がり、明治6年から9年まで五回の博覧会を松本城天守中心に開催し、その収益と寄付金で天守を買い戻したと伝えられています。

「松本城天守を博覧会に使用したい」と筑摩県権令(ちくまけんごんれい)に宛てた市川の嘆願書、懇願書が大天守六階西側の額に展示されています。

小林有也は、泉州(大坂)伯太(はかた)藩家老の子息で、明治18年から大正3年まで松本中学校の校長を務めました。

天守の傷みや傾きが顕著になり、明治34年に松本城天守閣保存会を組織して全国から約2万円の寄付金を集め、天守の明治の大修理の中心になりました。

駒つなぎの桜

加藤清正が城見のために松本城を訪れた時に駒をつないだという話を伝える桜。

城内にあった老木が「駒つなぎの桜」「御殿桜」と呼ばれていたという伝承があり、昭和30年代後半から昭和40年代前半に、現在の位置に幼木が植えられ、現在の大きさに育ちました。

現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守。

左から大天守、辰巳附櫓、月見櫓。
これら三棟は、江戸の家康を監視する城として、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれています。

豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子により創建された大天守・乾小天守・渡櫓は、文禄2~3年(1593~4)にかけて築造されたというのが松本市の公式見解です。

大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、戦国時代末期に築造され、辰巳附櫓と月見櫓は、江戸時代初めに造られたと考えられています。

天守・乾小天守・渡櫓の石垣は修理を施していますが、400年前に積まれたままで積み替えは行われていません。

天守台の石垣は野面積(乱積)で未加工の自然石を使用した石垣です。
傾斜も緩い。

※未加工の自然石だがほぼ大きさの揃った石材を横方向に並べ、横目が通った積み方を「野面布積」といいます。

横目が通っているが所々乱れているものを「布積くずし」といいます。
松本城本丸北側の外堀の石垣はこの布積くずしです。

天守からの展望、正面奥は美ヶ原王ヶ頭。

以前美ヶ原を訪れた際の王ヶ頭の記事。

標高2008メートル 美ヶ原の果ての崖っぷち 王ヶ鼻
山本小屋では「朝の自然散策教室(朝飯前の散歩)」が行われる。 朝食前の朝の清々し … 続きを読む →


こちらからは槍ヶ岳が望めるはずですがガスって見えない。

5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。

右から乾小天守、渡櫓、大天守、辰巳附櫓、その手前に月見櫓。

前回訪れた際の記事。
信州の名城を訪ねて 現存天守の残る 国宝 松本城
クラブツーリズムのツアーに便乗、松本城、松代城、上田城と「信州の名城を訪ねて(日 … 続きを読む →

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松本城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県松本市丸の内4-1
電話:0263-32-2902

自動車利用:松本ICから 4km 15分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車 バス 8分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車→徒歩 15分

金沢城 石垣めぐり

金沢城では、前田利家の入城後、本格的な石垣づくりが始まりました。

出入口や庭園といった場所に応じて、特殊な技術やデザインが工夫されたこと、また何度も修築が繰り返されたことなどから、現在、さまざまな種類の石垣を見ることができます。

石川門の枡形。
もちろん石垣がある。

枡形の2面は門で、残り2面が石垣でその上に土塀がある。
この石垣、よくみると積み方が異なっている。

外から入って正面が切り込みハギ積み、入って左側は打ち込みハギになっている。

面が違うとはいえ同じ場所であり、不思議である。
手元にあるパンフレット、”金沢城の石垣めぐり”では、明和2年(1765)の改修時のもの、と書かれている。

どちらが古いのかは明確には書かれていないのだが、一般には切り込みハギの方が新しい技法である。

左右で違うのはおかしい、と書かれて古文書もあるそうだ。
積みなおす際に新しい技法を使った結果なのかもしれないが、やはりちょっと違和感もある。

打ち込みハギ積みの石垣には櫓があるので、石垣をそのままにしたのかもしれない? 理由はわからない。

切石積み、割石をさらに加工した切石を用いて、隙間なく積む技法で出入り口など重要な部分の石垣に見ることができる。

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣

ここから見える三の丸側が「粗加工石積」、裏手の二の丸側が「切石積み」となっている。

「粗加工石積」の多くは郭の外周などに、「切石積み」は出入り口など重要なところによく見られる。

東の丸北面石垣

前田利家が、文禄元年(1592年)、平山城であった金沢城の石垣改修を行った時のもの。

城内で最も古い技法が用いられており、金沢城の初期の姿を伝える数少ない貴重なもので、 自然石や粗割しただけの石を緩い勾配で積み上げた「野面積み(のづらづみ)」になっています。

創建:文禄(1592〜1595年)頃 ・改修:一部改修の後が見られるが時期は不明 ・現状:創建時の姿がよく残る。

数寄屋敷 石垣

数寄屋を取り囲む低い石垣を見ると、キレイに直方体に加工された殆どの石材に刻印がされている一種異様な状態だった。

鉄門石垣
本丸への入口となるのが、鉄門。

「切り込みハギ」の技法で、表面を多角形に加工を施したすぐれたデザインで、丁寧なつくりになっている。

宝暦の大火(1759年)で金沢城は大きな被害を受けましたが、続く明和・安永年間に、さかんに石垣の改修が行われました。

創建:寛永8年(1631年)頃 改修:明和3年(1766年) 現状:明和3年改修時の姿を残す

三十間長屋石垣

「切り込みハギ」で、表面の縁取りだけをきれいに揃え、内側を粗いままにしておく「金場取り残し積み」という技法が用いられている。  

精密な細工をしながらも、わざとあらあらしく見えるように工夫されている。

戌亥櫓石垣

「打ち込みはハギ」の積み方をしていながら、 石の隙間に平らな石をはめ込むことで「切り込みハギ」のように見せる技法が用いられている。

長い年月の間に、はめ込まれた石が抜け落ちている箇所があるので、 はめ込まれた石が残っているところと抜け落ちたところを比較すると面白い。

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金沢城へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)

金沢城の日の出

一夜明けて今日は金沢城の日の出の撮影です、やはり6時前にホテルを出発。

ここでもまず日の出の出現位置の予測から。
散策に訪れた人の意見なども聞きながら、この石川門の右辺りと狙いを定める。

来ました、石川門と雪吊りを構図に収めることに成功。

急いで右へ移動、内堀への映り込みを狙う、ここでは思惑がずれてしまった。

狙いはもう少し右に寄って雪吊りも内堀の映り込みに入れたかったのだが・・・・・

これからは日の出の壮大なドラマの始まり、照らし出された地表が光る。

少し引いて、河北門も入れ、トワイライトブルーの空と地表の輝きを狙う。

約30分の日の出ショーも終わりです、通学、通勤の人達の動きが始まりました、ホテルへ帰り朝食です。

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金沢城へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)

幻想空間 玉泉院丸庭園

加賀藩代々の藩主たちが愛でた大名庭園を、夕焼けをテーマに気品ある灯りで表現、幻想の空間が広がります。。

夕焼けの庭。

宵の庭。

夜更けの月見の庭

石垣もライトアップされており、近づいて見ることもできます。

唐傘の高台の方向から。

尺八や筝など和楽器の演奏に合わせた玉泉院丸庭園ならではの四季折々の灯り。

演出①と演出②合わせて7分間の灯りの演出です。

三十間長屋も幻想の闇に浮かぶ。

玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主「前田利常」による寛永11年(1634)の作庭を始まりとし、その後五代「綱紀」や十三代「斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで金沢城内玉泉院丸に存在していた庭園です。

庭園は明治期に廃絶され、その面影は失われていましたが、平成20年から5年間をかけて実施した発掘調査の成果や、絵図、文献、その他類似事例等に基づき設計を行い、平成25年5月に整備工事に着手。

新幹線の開業に合わせたかのように、平成27年3月、歴代藩主が愛でたであろう庭園の姿が再現された。

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玉泉院丸庭園へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)

荘厳空間 金沢城

金沢城ライトアップ冬の段、荘厳な雰囲気の中にうかぶ金沢城。

石川門は金沢城の搦手(裏口)門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門。

ライトアップに浮かぶ姿は荘厳です。

いよいよ夜の場内に入ります。

広い三の丸広場です、3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいます。

これらの建物は、戦の際に二ノ丸を守るための施設で、石落しや鉄砲狭間となる格子窓、白塗漆喰壁や海鼠壁で防火構造になっている外壁がその強固さを示しています。
右は河北門。

左の橋爪門から鶴の丸広場へ。

前方は東の丸北面石垣のライトアップ、夜間はこれ以上進めません。

松坂門跡から玉泉院丸庭園へと進む。

ライトアップに浮かぶ極楽橋。

玉泉院丸庭園に面した石垣群、上は三十間長屋。

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金沢城へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)

利家の大修築 名城金沢城

利家は、今に残るような近世城郭へと大修築を行った。 
利家・利長・利常の3代に渡って整備され、同時に城下町金沢も整えられた。

なお、金沢の地名は園内にある湧き水「金城霊沢」(きんじょうれいたく)を由来としている。

兼六園に向かい合って建つ石川門はかつては搦手門(からめてもん)と呼ばれる裏門でした。

旧百間堀の底を道路とした百間堀通り(百万石通り)を橋で渡ったところにある。

白く見える屋根瓦には鉛を使用。

鉛瓦と言っても、全てが鉛で出来ているわけではありません。
瓦の形をした木に、厚さ4~8mmの鉛板を貼りつけたものです。

他の城でも鉛瓦は一部用いられていますが、金沢城のように櫓(やぐら)や門、塀の全てに用いられた例はありません。

鉛瓦が用いられたのには、次の三説が考えられるといわれています。

「城の意匠として気品があるから使われた」といわれる説。
これは、なまこ塀の城壁と、時がたつにつれてくすんだ銀色になる鉛瓦が、城全体に気品をもたらすことからきた説。

金沢城で鉛瓦が使われた理由の一つは、「いざという時に、鉛を弾丸として使うため」といわれるものです

「寒冷地なので、焼き物瓦では長持ちしないから」といわれる説。
これは、豪雪地帯で厳寒の北陸では、当時の技術の焼き物瓦では長持ちせず、城の維持を考えた場合、大変なコストがかかるので、鉛瓦になったのだという説です。

また、鉛瓦の芯の部分に木の板を使ってあるのは、屋根の総重量を少なくするための工夫だといわれています。

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。

「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。

金沢城公園の新しいシンボル、新しく復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。

3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいます。
これらの建物は、戦の際に二ノ丸を守るための施設で、石落しや鉄砲狭間となる格子窓、白塗漆喰壁や海鼠壁で防火構造になっている外壁がその強固さを示しています。

明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国最大規模で、大径木の事前調達や土台石垣の解体、修築を含め、平成10年3月から実に3年4ヶ月をかけて造られました。

菱櫓という名前の通り、建物の平面は菱形で、四隅の内角は夫々80度と100度になっています。

建物が菱形の場合、柱も菱形です。

金沢御堂址地は勝家の重臣佐久間盛政により金沢城が築城されます。

1582年(天正10年)6月2日信長は明智光秀によって討たれ、豊臣秀吉の天下となると前田利家が入城、加賀百万石の祖を築き、明治維新まで前田家が城主を務めます。

犀川上流の金沢市上辰巳より取水し、約4kmの導水トンネルを経て小立野台地に出た後、兼六園の園内の曲水となる。

かつては、導水管を用いて外堀をくぐらせ金沢城内に水を供給し、さらに市内に配水していた。

金沢城は堀に囲まれていたが、板屋兵四郎は水の高低差を利用して金沢城内に水を吹き出させた。

これは取水地が金沢城より高い位置にあることを利用した逆サイフォン(当時は「伏越の理(ふせこしのことわり)」と呼ばれた)であった。

当初は木管が用いられていたが、後に石管に替えられた。石管は、市内の石川県立歴史博物館の中庭等で保存されている。

1950年代頃から地表部に生活排水の流入が目立ち始め兼六園の曲水にも悪影響が出始めたため、地表部分の大半には並行して兼六園専用のバイパスが埋設された。

石管には、富山県砺波市で産出した金屋石が使用され、富山県十二貫野用水の第一分水である龍の口用水で使われた技術が利用されている。

鶴の丸広場、本丸・東ノ丸の真下にある郭のことで、東ノ丸にいた芳春院(利家夫人)が、ここに白い鶴が舞い下りているのを見て、 これは前田家が長く栄えていく瑞祥(めでたい事の兆し、吉兆)であるとして、 この郭を鶴ノ丸と名付けたという。

初め、二代藩主利長がここに便殿(休息用の御殿)を 建てて住み、政治を見ていた。

また、ここに人質を置く建物があり、慶長19年(1614)及び 翌元和元年の大坂の役の時、出兵中に領民による騒乱を防ぐために加能越三国の一向宗の坊主や百姓・ 町人の主だったものを人質としてここに収容したとも伝えられている。

本丸と二ノ丸、鶴の丸をさえぎる場所にある、大きな石垣。
中央部分がナナメに切られ薬研堀のようにも見えるが、よくみると斜面にも石垣が積んである。

二ノ丸から直接本丸(東の丸)へこのルートでは行けないように仕切っていたと思うのだが、左側の本丸石垣だけでなく、なぜ右側の石垣もあるのかは不明。

金沢御堂は百姓の持ちたる国、一向宗徒加賀の拠点として1546年(天文15年)に築かれました。

1575年(天正3年)8月15日信長は越前一向一揆衆を滅ぼしその勢いで加賀に攻め込み南二郡を攻め滅ぼし、簗田広正に与えられます。

しかし、一向一揆の力は強く広正は苦戦します。
加賀平定は一行に進まず、信長は広正に見切りを付け柴田勝家に加賀平定を命じます。

1578年(天正6年)3月信長に契機が訪れます。
加賀、能登、越中などの地を巡って争っていた越後の上杉謙信が急死したのです。

柴田勝家は加賀侵攻を試みますが、一向一揆を攻めあぐねます。
しかし、1580年(天正8年)閏3月5日信長は10年間に渡って争った一向宗総本山石山本願寺の顕如と和睦、閏3月9日勝家は野々市砦を攻略、金沢御堂も攻略されます。

しかし、3月17日和睦の条件として加賀の地は一向宗に返すこととなります。
しかし、あくまでも信長に従順ならばという条件付きであり、加賀一向一揆は信長と激しく争い、結果的に戦いは激化11月17日ついに勝家は加賀一向一揆を攻め滅ぼします。

丑寅櫓跡、東ノ丸の隅櫓があった所で、本丸から北東(丑寅)の方角にあるので「丑寅櫓」と名付けられた。

物見や本丸の防御を狙っていましたが、宝暦の大火(1759)の際に焼失。

目の前は兼六園、遠く戸室山、医王山などが眺望できる展望台となっています

辰巳櫓跡、辰巳は天守閣から見て南東の方角、丑寅は北東の方角、戌亥は北西の方角のことで、 辰巳櫓、中櫓、丑寅櫓は、百間掘を挟んで、金沢城の一番の弱点である小立野台地(兼六園方向)に 睨みを利かせ、戊亥櫓は二ノ丸を始め、城内全部に目を光らせたのでしょう。

辰巳櫓跡の展望エリアからの眺望。
いもり堀と鯉喉櫓台が見える。

いもり堀は、今の復元堀の向こう側に隣接する3車線ぐらいの車道あたりまでが当時の外堀だった。

写真では分かりづらいが、手前の下に見えている四段石垣の上3段分が当時の高石垣だったので、櫓自体はこの数m先の空中に建っていたイメージか。

兼六園から見た辰巳櫓跡、以前の撮影です。

築城当時は天守や御殿を始め多くの建造物が建ち並ぶ城の中心地だったようだが、築城からそれほど経っていない1602年には落雷で本丸全体が炎上(火薬庫に火が移ったからとか)、その後は天守は再建されなかったという。

今はこのとおり森。
古くは金沢御堂(加賀一向一揆の本願寺本拠地)があった場所という。

三十間長屋から本丸石垣沿いに鶴丸倉庫の方へ下ると見えるトンネル。
第九師団駐屯当時の、弾薬庫への通路。

三十間長屋、本丸付段に安政5年(1858)に再建された長屋で、金沢城に現存する長屋建築としては唯一のもの。

宝暦の大火(1759)で焼失した後、100年近くたって再建された。

幅3間、長さ26.5間余りの2階建て多聞櫓で、鉛瓦葺の堅牢な構造が特徴。

二ノ丸は城内中央の郭で、周囲が530m。

慶長7年(1602)の天守閣焼失以降、城の中心は二ノ丸へと移され、藩主の居館として二ノ丸御殿が整備されていった。

宝暦9年(1759)と明治14年(1881)に焼失。現在は広場になっている。

二ノ丸から本丸への通路に架かる極楽橋、金沢城内ではっきりした名称の付いている橋は珍しい。

その名称から金沢御堂時代の遺構であるとの伝承がある。

昔、金沢御堂に参詣する人は朝、念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方、日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰ったと云われている。

以前の訪問記です。

加賀百万石の威容 金沢城
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦 … 続きを読む →

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金沢城へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)