未来への偉大な贈りもの

大塚製薬グループの創業75周年事業として1998年(平成10年)に開設され、運営は一般財団法人大塚美術財団。
とくしま88景に選定。

システィーナ礼拝堂天井画

バチカン市国のバチカン宮殿内に建てられたシスティーナ礼拝堂の天井に、ミケランジェロ・ブオナローティによって描かれた絵画作品。

エリュトレイアの巫女。

リビアの巫女。他の4人の巫女とともに古典文学や人文主義の啓蒙を表す。

向かって左側には天国へと昇天していく人々が、右側には地獄へと堕ちていく人々が描写されている。

スクロヴェーニ礼拝堂

イタリアのパドヴァにある礼拝堂。
エンリコ・デッリ・スクロヴェーニが購入し、礼拝堂を建てた場所が古代ローマの競技場(アレーナ)であるアンフィテアトルム跡に隣接していることから「アレーナ礼拝堂」とも呼ばれる。

天井の青が美しい礼拝堂。

テュルプ博士の解剖学講義  レンブラント

描かれているのは、ニコラス・テュルプ博士が腕の筋肉組織を医学の専門家に説明している場面。

死体は矢作り職人アーリス・キント(Aris Kindt)のもので、その日の午前、持凶器強盗の罪で絞首刑になった。

見学者の一部は、絵に描いてもらう代金を支払った医者たち。

トビアスとその家族と別れる天使  レンブラント

トビトは貸した金を集めに息子トビアスを旅立たせる。

同行した大天使ラファエルがトビアスを呑み込もうとした魚を捕え、内臓を取っておく。

集金を終えたトビアスは肝臓とと心臓をいぶして親戚の娘サラから悪魔を払い妻とする。

家に帰り胆嚢の薬をトビトに飲ませると眼病はたちどころに治る。
大天使ラファエルは正体を明かして去る。

作者はヒュー・ゴールドウィン、「エデンの園」と題された1900年の作品。

何よりも印象的なのは公園の一郭で連れの男性に笑みを浮かべる女性の表情がなんとも素晴らしい。

我が子を食らうサトゥルヌス

サトゥルヌスは、ローマ神話の農耕神で、主神ユピテルの父。

鎌で父ウラノスを去勢させ権力を奪う。

予言で、自分と同じように、我が子に支配権を奪われると言われ、次々と我が子を食らって殺した。
ユピテルだけが、母の機転で救われる。

ユーディットとホロフェルネス

旧約聖書外伝からの主題、イスラエルの未亡人ユーディットは、敵軍アッシリアの将軍ホロフェルネスを誘惑し熟睡中にその首を切り落とし、イスラエル軍に持ち帰った。

女性の残酷さ、or 勇敢さ or 救国の女傑・・・・・

聖書外伝トビア書の、邪悪な愛と肉欲の悪魔アスモディア

赤いマントの女性アスモディアが男性を魔女の夜宴へ連れ去るという話なのだが、描かれている情景は少し違う。

読書(解読)

読書とは軽すぎる題である。
重要な情報が書かれているのは明らか。

食事をする二老人

エリザベート=ルイーズ作「画家と娘」

ヘラクレスとオンファレ

オンファレは、夫亡き後、女王として気丈にリュディアを統治していた。
3年間の奉公のあいだ、力自慢のヘラクレスは、例によって盗賊や猛獣、近隣の残虐な王らを倒して、オンファレに奉仕する。
 
が、その一方で、女王に見事制圧されてしまったヘラクレス。

彼から奪い取った獅子の毛皮を纏い、棍棒を手にして命令する女王の前に、ヘラクレスのほうは従順に従い、女装して糸を紡ぎまでした。
なんという情けなさ、軟弱さ。

ジョン・エヴァレット・ミレーのオフィーリア

この絵はちょうどオフィーリアが溺れる前、歌いながら川に浮かんでいる姿を描いている。
このシーンは『ハムレット』第4幕第7場で王妃ガートルードのせりふの中で表されている。

描かれたエピソードは舞台上では見られず、ガートルードのせりふにのみ存在する。

牛乳を注ぐ女 フェルメール

青いターバンの少女 フェルメール

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大塚国際美術館へのアクセス、行き方歩き方

大塚国際美術館公式サイト

徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦

①大阪・なんばから、大塚美術館への直通バスがあります。
岸和田観光バスの <鳴門うずしおルート>

②高速バスで鳴門まで行き、路線バスに乗り換えて美術館へ行くルート。

③JRで兵庫県舞子まで行き、そこから高速バスに乗るコース。

しまなみ海道行ったり来たり

村上水軍上を訪ねる旅、それはまさにしまなみ海道を訪ねる旅でもあります。

因島大橋~多島美景観に調和する優美な吊橋~

しまなみ海道で尾道側から2番目の「因島大橋」です。

中央支間長770mは完成時には日本一の長さで、この橋を作るために培われた技術は以降の長大橋建設に大きな影響を与えました。

橋は2層構造になっていて、下の部分は徒歩や自転車などでも通行することができます。

隣接する大浜PAから歩いていくこともできるので、約1時間のお気軽な海上散歩を楽しむことができます。

多々羅大橋~県境に架かる世界最大級の斜張橋~

しまなみ海道の尾道側から4番目の橋で、広島県と愛媛県との県境にかかる斜張橋です。

この橋は完成時には斜張橋として世界最長を誇り、その鳥が羽を広げたような美しい姿は見る者を圧倒します。

また橋の支柱の下で手を叩くと「鳴き竜」と呼ばれる、パーンと乾いた音が反射しながら空に向かって登っていくような現象が体験できます。

大三島側から眺めた生口島。

多々羅大橋を渡っている最中にも感じるのですが、「生口島には妙に高い山があるなあ」ということです。

島というか、海から突き出た山のように見えます。
橋の上から眺めると、圧迫感を感じるほど。

この山はこのあたりの離島の中では傑出して高い山で、観音山(かんのんやま)といって、標高が472メートルもあります。

標高が高いことから、雨乞いや祈祷に昔から利用されてきたようです。

生口島サービスエリア、平山郁夫書の碑が建つ。
平山画伯は生口島の生まれです、美術館もここにあります。

一般には、西瀬戸自動車道周辺地域振興協議会が公募した愛称である瀬戸内しまなみ海道または、単にしまなみ海道と呼ばれる。

「しまなみ」の呼称は、本道路の開通後、広島県東部や愛媛県北部の複数の団体・企業等の名称に用いられている。
なお、橋自体の名前は「瀬戸内海大橋」。、

海峡部の橋梁として新尾道大橋、因島大橋、生口橋、多々羅大橋、大三島橋、伯方・大島大橋(伯方橋、大島大橋)、来島海峡大橋(来島海峡第一大橋・来島海峡第二大橋・来島海峡第三大橋)の10本(尾道大橋を含めて11本とすることもある)がある。

伯方・大島大橋~多島美に調和した桁橋と吊橋~

伯方島と大島間の風光明媚な宮窪瀬戸に架かる橋で、伯方橋は桁橋、大島大橋は吊橋です
大島と今治間の海の難所・来島海峡に架かる世界初の三連吊橋。

空にそびえる6基の主塔、美しく弧を描くケーブルが優美な姿をみせており、20世紀の架橋技術の結晶といえるものです。

来島海峡大橋での夕日の景色

冬至をはさんで前後1ヶ月の11月下旬と1月下旬、世界初の三連吊橋の主塔が一直線に並ぶ中に真っ赤な夕日が沈む珍しい風景が楽しめます。

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気分は海賊!! 能島 潮流体験

能島(のしま)は、瀬戸内海のほぼ中央、伯方島と大島との間の宮窪瀬戸、鵜島の南西に位置する無人島。

能島村上氏の拠点として知られ、干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害ともなった。

港を出港すると伯方・大島大橋、能島が見えてくる。

海底の岩礁に潮が当たって、白く波立つところが見えます。

なかでも、能島の周囲は最大10ノット(時速約18km)にもなる潮流が渦巻き、時には船を呑み込んでしまうほどです。

中世、村上水軍の一派、能島水軍(野島氏)が水軍城を設けた。
この付近の海域は帆船時代、瀬戸内海航路の最も重要な航路の一つであった。

しかも宮窪瀬戸の東側で能島と鵜島とが流れをさえぎるような位置関係であることから、干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害ともなった。

このため、平時には通過する船に対して水先案内人として行きかう船を案内し、帆別銭(一種の通行料)を徴収、室町期以降この地に能島城を築き、この海域の制海権を掌握していた。

能島城には本丸、二の丸、三の丸、出丸などがあり、中世の水軍城としても規模が大きいものであった。

能島の桜は1931年(昭和6年)に宮窪村(当時)の有志により、植えられた。桜満開の時期の週末には季節船が運航されており、花見客でにぎわう。

応永26年(1419年)村上山城守雅房によって築かれたと云われる。
三島村上水軍の一つ能島村上氏の拠点の一つとして築かれた。

天文24年(1555年)陶晴賢と毛利元就が戦った厳島合戦で、能島村上氏は毛利方につき勝利に貢献した。

フロイスの『日本史』では日本最大の海賊と称されるほどの勢力を持っていたが、豊臣秀吉による四国征伐ではこれに従わず、小早川隆景の攻撃を受けて降伏、安芸国鎮海山城主となった。

戦国末期、村上氏は豊臣秀吉との戦いに参戦したが敗北を喫し、秀吉の海賊停止令により、水軍の歴史は終わりを告げた。

能島城は廃城となり、江戸時代以降無人島となったため、その城塞遺構はよく保存されている。

慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で村上武吉の嫡男元吉は加藤嘉明の居城である伊予国松前城を攻めたが、三津刈屋口の戦いで敗れて討死した。

島全体が要塞化されており、岩礁には柱穴や犬走りなどの遺構も残っている。

鵜島との狭い海路には、海面に段差ができるほどの激しい潮流が流れる。

見近島の手前は鶏小島灯台。

くじらを助けた、お地蔵さん。

鯨が昼寝をしていると、潮が引いて、帰れなくなってしまい、お地蔵さんが鯨を助け、鯨が恩返しをする話です。

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能島へのアクセス、行き方歩き方

愛媛県今治市宮窪町宮窪1293-2(村上水軍博物館前)
tel.0897-86-3323(物産館兼魚食レストラン「能島水軍」)

JR今治駅よりしまなみ海道経由大島南ICより車で約10分(宮窪桟橋まで) 宮窪港から船約5分

来島村上氏の拠点 来島城

来島城は来島瀬戸に浮かぶ周囲1km程の小島に築かれている。

現在も人が住んでおり、定期船が運航され簡単に渡ることができる。

波止浜から出た船は来島までわずか5分という短い船旅だ。

出航するとすぐに来島に向かって真っ直ぐに船が進む。

舟は全長7,8m位か、乗車定員は20名程度で、屋根のついた客室があるが、乗船時間が短いせいか、だれも中に入らず、外のデッキにある椅子に座る。

天正10年(1582年)、来島氏は河野氏から織田信長側についたため、毛利氏および河野氏による攻撃を受け、村上(来島)通総は備中国にあった羽柴秀吉の下に逃走した。

来島氏の来島復帰は本能寺の変後の天正12年(1584年)で、秀吉と毛利氏の和睦の結果である。

その後四国征伐に通総が先鋒として伊予を攻め、通総は秀吉から風早郡1万4千石を与えられた。

関ヶ原の戦いの後、西軍に属した来島長親は所領を没収された。

のちに来島氏は豊後国玖珠郡森で大名に復帰したが来島に戻ることは無く、来島城は廃城となった。

河野水軍伊予統治の拠点 湯築城の記事は此方にあります。
河野水軍伊予統治の拠点 湯築城
湯築城は湯の街道後のど真ん中にあるがあまり知られていないのでは、しかも100名城 … 続きを読む →


八千矛神社。

伊予河野氏が来島城の守り神として建立。

今も綺麗に整備されて守られています。

魚を生きる糧にしていた島ならではの石碑。

築城は15世紀中頃とみられる。

村上義顕の三男吉房が来島に分家した際に築いたもの。

吉房子孫の来島村上氏(久留島氏・来島氏)は、6代約160年にわたって来島城を本拠地とした(戦時の防衛拠点としての居城であり、平時の居館は対岸の波方浦に存在した)。

高さはさほどないものの、急な階段を上がると村上神社が祀られている。

すでにこのあたりから城域となっており、ここから東に進むと、心月庵という旧館跡がある。

三の丸は平坦な郭だが、二の丸は北の本丸に向かって登り勾配がついている。

本丸跡に到着。

来島城は島全体が要塞化された水軍城だ。

城の主要部は島の西側に南北に伸びた山で、北端の鉄塔のある所が主郭、南に向かって二郭、三郭と連なっている。

足下は来島海峡の激流だ。

島の北側にある岩礁には桟橋を支えていた柱の穴(ピット)が無数に現存しており、干潮時には島を一周することができるようである。

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来島城へのアクセス、行き方歩き方

愛媛県今治市来島
0898-36-1608(今治市文化振興課)

JR波止浜駅より徒歩で約30分 波止浜港へ、今治駅前バス停より(せとうちバス 今治-渡し場経由波方港北線)で渡し場下車 徒歩ですぐ

今治北ICより車で約10分 波止浜港へ、波止浜港渡船(人のみ)で約5分

造船のまち波止浜

波止浜は東は今治市、南は乃万村と接し、北は来島海峡に面す。
来島城跡に渡るべく波止浜に来ている。

港口には来島・小島の2島を控え、古来、箱港と呼ばれている。

燧灘・斎灘を航行する船舶が、来島海峡の急潮と風波を回避するため利用していたほか、漁港としても利用されてきた。

かつては塩田で栄えたが、時代ともに消滅。

その後塩田は埋め立てられ造船所が立地するようになり現在では今治造船、新来島波止浜どっくなどの造船会社の本社、工場がある。

造船が盛んなことから造船関連の産業も発達し渦潮電機、潮冷熱の工場が立地している。

波止浜港の待合室横に灯明台があります。

「和式灯台」とも呼ばれ、明治になって洋式灯台が築かれるまでは、灯台の役目を果たしていました。

幕末のころ、全国には100基余りあったと伝えられ、波止浜港に残る灯明台もその一つです。
 
この灯明台は花崗岩(かこうがん)の切石を積み重ねた石造灯明台で、嘉永2(1849)年の築造です。

塔身部には「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」の文字が刻まれ、航海安全を神に託す、当時の海事関係者の思いが込められています。

この桟橋から来島へ渡ります。
定期運航の隙間を縫って船をチャーターしています。

ペルーの舟かな、Arequipa(アレキパ市)の文字が見える。

こちらは昭和油槽船(現 : 昭和日タン)の外航オイル・ケミカルタンカー”SHOSHUN”。

港内は修理の舟で満杯です。

溶接の火が見える。

さびれた酒屋が一軒、うらぶれた港町の風情。

西側は古くから港町で栄えてきた歴史を感じさせる建築物・構築物もみられ、来島・小島への定期船もこちらの桟橋から発着する。

東側は西側に比べると新しく開けたエリアであり、造船所等の集積する工業港区である。

今治のマンホールの蓋、伊予水軍のデザイン、「いまばり」「おすい」の文字。

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波止浜へのアクセス、行き方歩き方

波止浜駅→市内バスに乗り換え高部から渡し場経由波方港北線経由→渡し場下車(徒歩約1分)
→波止浜観光港

しまなみ海道(今治北インター)→車で約10分

村上水軍を訪ねる旅 今日の泊りは今治

村上水軍を訪ねる旅、今日の泊りは造船とタオルの生産、焼き鳥などで有名な今治

今日の泊りは今治国際ホテル

しまなみ海道・瀬戸内海、今治城を一望。

名物の焼き鳥をいただこうと街へ繰り出す。

今治焼鳥:串焼きもあるが、鶏肉を鉄板にへらなどで押さえつけて焼く鉄板料理が特徴で、その中でも「皮焼き(皮)」が有名。

しかし、おすすめの皮焼きだが、パリッと感がなく今一でした、その点大阪の焼き鳥はうまいよ、今治の人一度食べにいらっしゃい。

翌朝日の出を撮ろうと出かける、現在6時過ぎ、辺りはまだ暗い。
右奥の高い建物が今治国際ホテル。

6時30分、少し明るくなってきました。

今治は古くから瀬戸内海の海上交通の要所であったことから、平安時代以前は伊予国国府が置かれ、江戸時代は今治城の城下町として発展した。

慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城開始され、慶長9年(1604年)に完成した。
別称「吹揚城(吹上城)」。

慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。
高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。

天守閣の向こう側が明るくなっています、日の出の方向です。

石垣と内堀がほぼ江戸時代の姿を残している。

昭和55年(1980年)に5層6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられた。

今治城の天守は、一次資料が不足しているため、築城当時に建造されたか否かが確定されていない。

藤堂家の家譜『宗国史』巻二には「城中に五層の高楼を建て、府下を五街に開き」と記述されているが、敷地内に天守の遺構が確認されていないためである。

白み始めた空に藤堂高虎像が浮かび上がる。

日の出間近ですが、曇りがちの空模様、ホテルの朝食時間、出発時間も気になります。

朝食後ホテルの部屋から今治城の方向を見る、雲が多く日の出はお預けです。

部屋の窓からしまなみ海道が見えています、これから来島水軍城へ向かう。

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今治国際ホテルへのアクセス、行き方歩き方

愛媛県今治市旭町2-3-4

JR予讃線で今治駅下車徒歩10分。
しまなみ海道今治方面今治IC下車今治市街方面へ車で約10分。

伊予国一宮 大山祇神社

全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社。

また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。

源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。

本殿、元亨2年(1322年)の兵火での焼失を受け、室町時代の応永34年(1427年)に再建されたもの。
三間社流造、檜皮葺。国の重要文化財に指定されている。

拝殿、本殿同様に室町時代の応永34年(1427年)の再建による。

慶長7年(1602年)に大修理が実施されている。
素木造で屋根は切妻造檜皮葺。

正面中央に一間の向拝を設ける。
国の重要文化財に指定されている。

薩摩の隼人族が大和朝廷の貢物とした芸能が隼人舞だといわれている。
その祖型は山幸彦が海幸彦に勝利した物語を表現したものとも言われ、隼人族と朝廷との親密な関係があったことが『日本書記』から読み解ける。

現在隼人舞は隼人の鹿児島神宮で伝承されており歌舞伎成立以前の古代芸能として大変貴重な文化遺産である。

像は狩衣(かりぎぬ)の装束に鳥兜(とりかぶと)をかぶり、右手に扇子、左手に鉾を持ち、「隼人舞」を舞う人の姿を表現しており、台座上部から鉾の先までの高さは2.53mある。

近代においても、日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官の山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。

現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝がある。

太平洋戦争の終戦直後の一時期には、旧帝国海軍関係の貴重な資料や教材を戦利品として連合国に没収されることを恐れた海軍兵学校から、厳島神社と合わせて約1万点を「奉納」の名目で預かっていた。

そして後に自衛隊が創設されると、自衛隊に返還がなされた。
また、GHQは刀剣類の異常な多さを問題視し、国宝級を除いて処分を命じたが神社側は密かに土中に秘匿した。

原始林社叢の楠群、国の天然記念物(指定名称は「大山祇神社のクスノキ群」)。

1951年(昭和26年)6月9日指定。
境内には多くのクスの古木が残って原生林の名残を留めている。
うち38本が指定対象となっている。

能因法師雨乞いの樟(枯死)幹周17m(現在は10m以下)。

神池近くにある。伝承樹齢3,000年。
かつて日本最古の楠と言われた。

18世紀に枯死し腐朽がかなり進行しているが、1990年頃の調査でも胸高幹周10mの大木である。

名称は、1066年の大干ばつの際、能因法師がこの木に幣帛を掛け雨乞いを行ったことに由来する。

このことは『金葉和歌集』の大治2年(1127年)に詠まれている。

乎千命(おちのみこと)御手植の楠、幹周11.1m、根周り20m、樹高約15.6m。

神社境内のほぼ中央にある。
伝承樹齢2600年。

兵火や洪水・落雷により樹勢は衰えているが下枝は葉をつけている。
現在では息を止めて3周すると願い事が叶う、一緒に写真を撮ると長生きできるなどと信仰がある。

小千命の手植えとの伝承があり、名称はこれに由来する。
根本は柵で保護されているがその周りは踏み固められており、やや枯れ枝が目立つ。

河野通有兜掛の楠(枯死)、幹周14m(現在は3m以下)。

弘安4年(1281年)元寇出兵時、河野通有が大山祗神社に参籠祈願した際に兜を掛けたとされる。

1322年の兵火で大被害を受け枯れているが、現在も幹の一部が社殿の脇に横たえている。

大三島海事博物館 (葉山丸記念館)

昭和天皇の採集船である葉山丸を中心に、瀬戸内の動植物や全国の鉱山から奉納された鉱石を展示。

マンホールには町の名産「みかん」と、町の花である「みかんの花」が描かれています。

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大山祇神社へのアクセス、行き方歩き方

今治市大三島町宮浦3327
TEL:0897-82-0032

今治駅前約60分 → 大山祇神社前下車 → 徒歩・約1分
大三島IC → 約10分

古民家を訪ねて 小豆島(旧吉田)の農村歌舞伎舞台

農村歌舞伎は、とり入れや田植えなどを祝って、村人たちが自分達で歌舞伎を演じていたもので、小豆島(しょうどしま)にはかつて、歌舞伎を演ずる舞台が24ありました。
移設元旧香川県小豆郡内海町

昭和38年(1963)に小豆島の吉田部落より移築されたこの舞台は、小規模なもので、安政6年(1859)の棟札(むなふだ)が残っています。

向かって左が下手、右が上手。

移築するに当たり吉田部落でなごりの興行が行われたときの舞台が再現されている。
絵本太功記 十段目 光秀の母、皐月が隠遁する尼ヶ崎庵室の段。

「絵本太功記」は寛政11年に初演された浄瑠璃で、歴史上有名な織田信長に対する明智光秀の反逆を題材にしています。
勇ましい戦の中での光秀とその家族の悲哀が描かれた一幕です。

舞台の前には観覧席が設けられ、最上段には社殿が位置しています。

舞台下手袖には花道がつけられ、上手には楽人の座る台がつくられています。
チョボ床といい、義太夫・三味線の席です。

上手横にのぞき窓、幕間に観客の入りを見た。

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今里新橋通商店街でわくわく阿波踊り

今や全国各地で阿波踊りが開催される、今回今里新橋通商店街での踊りを取材した。

今回は深雪連 (伊丹市)と大仏連 (奈良市)の参加です。

秋田の「西馬音内の盆踊り」、岐阜の「郡上踊り」、徳島の「阿波踊り」を日本三大盆踊りというが、江戸開府より約400年の歴史がある日本の伝統芸能のひとつ。

徳島城が竣工した際、当時の阿波守・蜂須賀家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥という説もある。

阿波おどりという名称は徳島県内の各地で行われてきた盂蘭盆の踊りの通称であり、昭和初期からそう呼ばれるようになった。

男踊りは振りが大きいのが特徴。

男踊りは半天(法被)を着て踊る半天踊りと、男物の浴衣をしりからげに着て踊る浴衣踊りがあり、いずれもたびを履いて踊る。

踊りの所作の振りは大小さまざま、時には勇猛に、時には滑稽に躍る。

基本的には素手だがうちわやちょうちんなどを使っていることも多い。
なお、この男踊りを女性の踊り手や少女が踊る場合もある。

女踊りは女物の浴衣に網笠を深く被り、草履ではなく下駄を履くのが特徴。

艶っぽく、上品に踊るのが良いとされる。

一般の浴衣と異なりじゅばん、裾除け、手甲を付け黒繻子の半幅帯をお太鼓のように結ぶ場合が多い。

熱心に見入る群衆の中のサングラスの女性、実は踊りの飛び入り参加者なのだ。

踊が動き出すと流れに乗って器用に踊る。

足元も見てください、本格的だ。

男の外人さんもいます、踊りを勉強中とインタビューに答えていた。

締太鼓(しめたいこ)の甲高い音を聴きますと 心が浮き立ちます、リズミカルな音 キット踊り子さんを 元気づけするでしょうね。

三味線鳴り物の中では最前列で演奏される。
笛の調子に合わせて調律し、一般的に笛の六本調子に対して三味線の六本調子三下がり(三弦を本調子から一音下げる)で調律され、やや暗い音調で演奏される。

以前訪れた徳島での踊り、続きを見る・・・・・・

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こんぴら船々

江戸時代末期には「こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」との民謡が歌われ始める。

松山自動車道、吉野川ハイウェイオアシスで昼食をいただき金毘羅へ向かう。
美馬地区、山の上まで集落が広がる。

こんぴらさんの参道、曇りがちの空のもと観光客はそこそこいる。

こんぴらさんの表参道にある江戸情緒漂う日本酒の歴史館。

白壁を復元した酒蔵には、酒造りの作業をモデルを使ってわかりやすく説明してある歴史館や、日本各地の酒やその起源に関する情報を集めた文化館などが設けられている。

刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれる。

長く続く参道の石段が有名で、奥社まで登ると1368段にもなる。

かつては、金刀比羅宮と倉敷市にある由加山(蓮台寺、由加神社本宮)の両方を参拝する両参りという習慣があったといわれている。

鳥居から本宮までは、石段が785段。

上っていく途中、左手には内部に灯籠が釣られた灯明堂がある。
長細い瓦葺きのこの建物は、1858年に建てられたもの。

備後国や因島などから寄進されたという釣灯籠が多く納められており、漁民や船乗りの間での、金毘羅講の厚い信仰の様子がうかがえる。

ふもとに駕籠タクシーが営業しており、大門まで有料で参詣客を送迎している。
しかし大門から本殿までも相当な階梯であり高齢者や体力に自信のない者は慎重に参拝計画を立てなければ下山時にヘタりこんでしまうことになる。

乳幼児連れの場合ベビーカーが利用できる余地はほとんど無いので抱きかかえて参詣する必要がある。

門前町の土産物店の店頭では無料での杖の貸し出しがある。

こんぴらさんの参道を歩いていると、ふぜいのある建物が見えます。
虎屋そばです。

いまではそばだけでなく、うどんも両方味わえます。

「こんぴらさん」(金刀比羅宮)の長い石段を歩きや籠に乗ってお参りする様子と、 周りには町の木・サクラ、美女桜が描かれています。
「ことひら」「おすい」の表記。
汚水管マンホール蓋。

高松自動車道を西へ向かっています、車窓には屋島。

淡路SAではすっかり夜になってしまいました、大阪へ帰路を急ぐ。

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