因幡に大伴家持を訪ねる 因幡国庁跡


因幡国庁跡(いなばこくちょうあと)は、鳥取県鳥取市国府町中郷に所在する、律令制下の地方行政機関の中心施設跡。

1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。

発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。

因幡国庁は、大伴家持が国守として着任したことでも知られる。

758年、家持は因幡守に就任する。
絶頂にあった仲麻呂政権が旧勢力を嫌っての左遷だったとされている。
 
新しき年の初めの 初春の今日降る雪の いや重け吉事
(巻二十・四五一六)
 
『万葉集』は家持のこの歌をもって終わる。
因幡国に着任したその挨拶として詠んだ歌とされ、万葉全歌をしめくくる歌であるとともに、以降に家持の歌はない。
 
そして、764年、家持は因幡守から薩摩守へ、重ねての転任というかたちで再び左遷させられている。

慎重に行動するよう戒めた「族に諭す歌」から約7年後にして家持が、今度は自らが戒められる側に回ったからである。

仲麻呂暗殺計画に参画したのだ。

暗殺計画の首謀者は藤原良継ら、仲麻呂の身内である。

良継の兄は広嗣で、橘諸兄政権のとき、吉備真備と僧・玄防の排斥を聖武天皇に奏上し、沈下していた藤原氏の復権をにらんだ人物である。

聞き入れられずに赴任先の大宰府で乱を起こし、このときの連座で良継は伊豆へ流罪となった経験を持つ。
 
流罪を解かれた後、良継は地方官を経て在京官僚に復帰するが、芽が出ないでいた。

仲麻呂の息子たちは参議にのばっで将来の少中大納言、あわよくば大臣職までを約束されるが、良継は50歳近くとなっでも従五位上。

ぎりぎり貴族と呼ばれるばかりの立場である。

これが伝統体制勢力である佐伯今毛人、石上宅嗣、そして家持を誘った。
 
これはいわば藤原氏の内輪もめで、計画はすぐに仲麻呂側に漏洩してしまい、良継、今毛人、宅嗣、家持は逮捕された。
 
時に家持は40代半ば、脂は乗りきっでいるが位階は従五位上である。

左遷による地方生活が長いことに、中央へのかなりの反発心が為っだことが想像されるが、心情を図れる歌は残っていない。

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しまなみ海道行ったり来たり

村上水軍上を訪ねる旅、それはまさにしまなみ海道を訪ねる旅でもあります。

因島大橋~多島美景観に調和する優美な吊橋~

しまなみ海道で尾道側から2番目の「因島大橋」です。

中央支間長770mは完成時には日本一の長さで、この橋を作るために培われた技術は以降の長大橋建設に大きな影響を与えました。

橋は2層構造になっていて、下の部分は徒歩や自転車などでも通行することができます。

隣接する大浜PAから歩いていくこともできるので、約1時間のお気軽な海上散歩を楽しむことができます。

多々羅大橋~県境に架かる世界最大級の斜張橋~

しまなみ海道の尾道側から4番目の橋で、広島県と愛媛県との県境にかかる斜張橋です。

この橋は完成時には斜張橋として世界最長を誇り、その鳥が羽を広げたような美しい姿は見る者を圧倒します。

また橋の支柱の下で手を叩くと「鳴き竜」と呼ばれる、パーンと乾いた音が反射しながら空に向かって登っていくような現象が体験できます。

大三島側から眺めた生口島。

多々羅大橋を渡っている最中にも感じるのですが、「生口島には妙に高い山があるなあ」ということです。

島というか、海から突き出た山のように見えます。
橋の上から眺めると、圧迫感を感じるほど。

この山はこのあたりの離島の中では傑出して高い山で、観音山(かんのんやま)といって、標高が472メートルもあります。

標高が高いことから、雨乞いや祈祷に昔から利用されてきたようです。

生口島サービスエリア、平山郁夫書の碑が建つ。
平山画伯は生口島の生まれです、美術館もここにあります。

一般には、西瀬戸自動車道周辺地域振興協議会が公募した愛称である瀬戸内しまなみ海道または、単にしまなみ海道と呼ばれる。

「しまなみ」の呼称は、本道路の開通後、広島県東部や愛媛県北部の複数の団体・企業等の名称に用いられている。
なお、橋自体の名前は「瀬戸内海大橋」。、

海峡部の橋梁として新尾道大橋、因島大橋、生口橋、多々羅大橋、大三島橋、伯方・大島大橋(伯方橋、大島大橋)、来島海峡大橋(来島海峡第一大橋・来島海峡第二大橋・来島海峡第三大橋)の10本(尾道大橋を含めて11本とすることもある)がある。

伯方・大島大橋~多島美に調和した桁橋と吊橋~

伯方島と大島間の風光明媚な宮窪瀬戸に架かる橋で、伯方橋は桁橋、大島大橋は吊橋です
大島と今治間の海の難所・来島海峡に架かる世界初の三連吊橋。

空にそびえる6基の主塔、美しく弧を描くケーブルが優美な姿をみせており、20世紀の架橋技術の結晶といえるものです。

来島海峡大橋での夕日の景色

冬至をはさんで前後1ヶ月の11月下旬と1月下旬、世界初の三連吊橋の主塔が一直線に並ぶ中に真っ赤な夕日が沈む珍しい風景が楽しめます。

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村上水軍 因島水軍城

昭和58年、水軍のふるさと因島に築城された、全国でもめずらしい城型資料館。

村上水軍は南北朝から室町戦国時代にかけて、この辺りの海路を制覇し、水軍王国として活躍しました。

この因島水軍城は、金蓮寺の住職が、因島村上水軍の資料館と因島を代表する観光地を作ろうと構想したもので、昭和58年(1983年)に完成。

金蓮寺の北にある小高い山の上にあり、資料館は城の形をしています。

この外観は歴史家の奈良本辰也氏が監修したもので、本丸は水軍資料館、二の丸は展示室、隅櫓は展望台となっています。

「黒潮に 男ありけむ 八幡船」入り口には勇ましい碑が建つ。

八幡大菩薩の旗を掲げ、朝鮮半島から中国、東南アジアまでその名をとどろかせました。

因島、能島、来島にあった村上三家は、14世紀に因島を支配した村上師清が祖になっているとも言われ、因島には24の城があったそうです。

因島水軍城がある場所は、片刈城の家老の居宅跡と言われています。

城の向かい側にある山にも青陰城があり、海を見張るために、島中に城や見張所があったことがわかります。

水軍資料館でまず目に留まるのは、戦国時代末期に水軍で使われていた大阿武船の模型。

排水量は200トンを越える巨大なもの。
また、上の文字が書かれた上り旗は、「上」の漢字の左側下が撥ねられているのが因島村上水軍の証。旗の上部にある横線が少ないほど位が高い印です。

手火防台から見える金蓮寺の本堂裏、ここには村上水軍の墓地があります。

この寺は村上氏の菩提寺で、以前は外浦の谷間にあったものを現在の場所に移し、同時に因島各地にあった石塔類を裏山に集めたと伝わっています。

墓銘は読めなくなっていますが、歴史を感じる宝篋印塔や五輪塔が立ち並びます。

二の丸では、人形を使って再現した水軍戦法会議が展示されていて、勇姿を見ることができます。

こちらの盃状穴石は、元重井町一本松にあったもの。

盃状穴とは、人が何らかの目的で石等の道具を使って彫った盃状の穴で当時の風俗等を知ることができる貴重な民俗資料です。

外国の先史時代の墓にあるのが古く、日本では山口県の弥生時代前期の墓にあるのが最初の発見です。

女性を表現し、最初は再生を願って墓に彫り、後には子宝・安産・豊作を願うものに変わったと考えられます。

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因島水軍城へのアクセス、行き方歩き方

広島県尾道市因島中庄町3228-2

本州方面から-しまなみ海道「因島北IC」から約5分
四国方面から-しまなみ海道「因島南IC」から約10分

JR山陽本線尾道駅から因島土生港行きバスで約37分「要橋」乗換、島内路線バス大浜行き約8分「水軍城入口」下車、徒歩約10分

小早川水軍の拠点 三原城

小早川水軍は三原湾の大島と小島を石垣でつないだ海城で、天守台は大島の中心にあった。
また、小早川水軍の母港の役割も果たす海賊城でもあった。

臨海一番櫓址前方は、当時は海であった。

JR三原駅南側のペアシティ三原西館(三原国際ホテルなどが入居しているビル)西側に残る本丸中門跡。

濠はJRによって分断された北側の濠に通じ、海水を引き入れていた。

駅のコンコースに残る小早川隆景の名前。

三原城は永禄10年(1567年)頃に、小早川隆景によって整備が始められたとされる。

後に隆景は、現在の沼田川河口の三原湾に浮かぶ小島や中州をつないで、いわゆる砦を築き水軍の拠点とした。
これが三原城の原型を成したものと思われ、三原要害とも呼ばれていたようである。

元和5年(1619年)、福島正則が改易となった後、紀伊和歌山藩主浅野長晟の一門で筆頭家老の浅野忠長が紀伊新宮より入り、広島藩の支城として幕末まで利用された。

最盛期の構造は、天主台を北(陸側)に頂いた本丸、その東・西・南側に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた梯郭式の城であった。

さらには海に向かって船入りを開いており、郭を隔てる縦横の堀の重なりも加わると、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。

明治27年(1894年)、山陽鉄道三原駅建設の際に、城地は駅用地に使用され、また石垣も糸崎港建設の用材として大部分が撤去された。

その後、東築出から馬ノ口の海側には、国道2号が敷設されることになり、これにより海からも遠く離れることになった。

現在窺われる遺構としては、天主台とそれを取り巻く3方の堀、駅の南側の船入櫓の石垣および、本丸中門跡・臨海一番櫓跡の石垣・堀を残すのみである。

この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。

しかも余人では真似るべきではないといわれた「アブリ積み」という特殊の工法は、古代の石積形式を400年以上経た今でも立派に伝えています。

天守台跡のむこうは三原駅新幹線ホーム。

昭和50年(1975年)の山陽新幹線開業では、同新幹線と山陽本線の三原駅(高架改良後)が本丸および天主台跡を貫いていることもあり、城地は寸断され現在の姿になる。

2004年度より天主台跡を囲む堀の周囲の景観を保存し、公園化する工事が進められている。

本丸跡。

船入櫓跡、城南東の小島に手を加えた海上の櫓で、瀬戸内海に面していた。

三原を代表する祭り「やっさ祭り」で披露されるやっさ踊りは、この城の完成を祝い、老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われている。

マンホールの蓋にも名残が残る。

「三原には過ぎたるものが3つある」という言葉があり他藩から羨ましがられた。

第一に三万石の居城に相応しくない規模の三原城、第二に月渓院に関係する徳川将軍家の「葵」の紋、第三に日光東照宮の修理を10日間で成し遂げた鈴木方衛(すずきなみえ)という家臣がいたということであると伝えられている。

月渓院については、なぜ徳川家縁の姫が外様である広島藩、さらにその家老職で既婚者であった浅野忠真へ側室としての輿入れが認められたか、月渓院が江戸城内において忠真に一目惚れをし、何度もなだめた末、どうしても曲げなかったので下賜という扱いで忠真に輿入れしたという。

また徳川家光の乳母であった春日局が、当時、小早川秀秋の補佐役であった夫・稲葉正成と共に三原城で過ごしていたため、この輿入れに深く関与したと考えられている(また、江戸幕府の「一藩一城」の方針にも関わらず、大名でもない広島藩の一家老の居城の存続が認められていたのは、春日局および月渓院に縁があったことが大きな要因であったとされている)。

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三原城跡へのアクセス、行き方歩き方

広島県三原市城町

JR山陽本線、三原駅下車すぐ。駅が天主台の上に建っている。

天主台跡へはJR三原駅コンコース内からのみ入ることができ、通路は朝6時から夜10時まで開いている。
入場券は不要である。

舟入櫓跡は市の港町公園となっているので常時見学できる。

伝説の岡山市 桃太郎コース

『岡山市は桃太郎市に改名します!』2013年1月29日、岡山市長による架空の記者会見動画がインターネット上で流れ話題騒然!でも、もともと岡山市は「桃太郎」にゆかりの深い街。

桃太郎と名が付く場所や桃太郎をモチーフにしたオブジェがあふれているんです!

岡山駅東口にある郵便ポストにも桃太郎がいます。
王道の桃太郎像とは対照的に、ポップな衣装とキュートなポーズで異彩を放つ桃太郎。
ポストの上に寝転んで、手にはきびだんごではなく筆を持っています。

JR岡山駅東口広場の桃太郎像、何故か檻に入れられています。

全線において、電線類地中化や歩道のタイル舗装化が施されている。
また中央分離帯には岡山電気軌道の併用軌道と柱が設置されている。

柱は架線と照明の機能を兼ね備えており、架線部分は「吊り橋」が、照明部分は「桃」がそれぞれデザインされている。

桃太郎大通り(ももたろうおおどおり)は、岡山県岡山市北区の岡山駅前と岡山電気軌道城下駅 (しろした)を結ぶ延長約1kmの目抜き通り。
いわゆる駅前通りとしての性格を持つ。

「人間道路会議賞」人と車と道路のよりよい関係の実現を目指した道路整備を広く社会にアピールすることを目的に今後の道づくりのモデルになる優れた道路に与えられる賞です。

町を歩いていると目に入るのが、マンホールに描かれた桃太郎。

こればかりでなく、消火栓の蓋や側溝の蓋にも桃太郎や桃が描かれています。

「ももたろう」はもちろん、愛らしい「いぬ」、「さる」、「きじ」の銅像が点在。

橋の欄干には桃が。

桃太郎大通りから見える「若き日の母」の像。
長崎平和祈念像の作者として有名な彫刻家北村西望(きたむら・せいぼう)の作品。

妖怪ウォッチで話題になった「もんげー」は、岡山弁がルーツ?!だけど、岡山県人はそんなに「もんげー」を使わないんですよ。

おまけにその「もんげー」が岡山県のキャッチフレーズになってしまい、岡山県は大騒ぎ??

「妖怪ウォッチ」のサブキャラ、コマさんが使う台詞として話題に、びっくりすると、すぐに「もんげー」という。

「ものすごい」の岡山弁は、でーれー、ぼっけー、そしてかろうじて「もんげー」らしい。

岡山駅西口のバスターミナル横の広場にある銅像。

銅像の下には「青春感謝」と書かれたプレ-トがあり、後ろ側面には下記の説明板がついていました。

『第六高等学校は明治三十三年岡山市に創設され西暦二千年に創立百年を迎えた。

昭和二十五年廃校までの五十年間を操山で過ごした六高生の中から国家有為の人材を多く輩出した。

三年間の六稜生活は弊衣破帽、文武両道に励み、時に街頭に出て校歌放吟することもあったが「六高マン」の愛称で温かく見守られた。

ここに感謝の誠を捧げると共に二十一世紀に向かって日本の将来を背負って立つ君たち若人にこの像を贈る。

平成十二年三月 第六高等学校 同窓会 会長 木村睦男 撰文 京都教育大学 教授 谷口淳一 彫』

平成十二年(2000年)、旧制第六高等学校の創立百周年記念祭が行なわれた際に、第六高等学校同窓会長であった元参議院議長木村睦男氏が、青春の3年間を第六高等学校で過ごしたことを偲んで、寄贈したものらしい。

全国に伝わる桃太郎の物語は,実は大和政権(大和朝廷:大和王権)による全国統一の戦いと深く関わっているようです。

鬼退治で有名な桃太郎の話ができたのは室町時代以前で,一説によると鎌倉時代まで遡(さかのぼ)ると言われています。

有力説の一つとしては、第7代孝霊天皇の第3皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命兄弟の吉備国平定における活躍と、岡山県(吉備国)の温羅伝説に由来するものとする説がある。

これは、古代の大和政権と吉備国の対立構図を、桃太郎と鬼の争いになぞらえたとするものである。

この説をもとに、岡山では笹ヶ瀬川が桃太郎の桃が流れた川と伝承が残っている。

甦る古代吉備の国 謎の鬼ノ城
鬼ノ城は、吉備高原の最南端、鬼城山(きのじょうざん 標高397メートル)に遺る神 … 温羅は当地を拠点とし、討伐に赴いた吉備津彦命と戦って敗北したのち、吉備津神社の御釜殿の下に埋められたという…続きを読む

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故郷の山河

ふるさとは遠くにありて思うもの・・・・・・
故郷へ所要がありつかのまの里帰り、観光もない短い滞在です。

今回は真庭リバーサイドホテルへ宿をとった『大人の隠れ家』をコンセプトにしたホテル、目覚めると朝焼け、しかし、小雨が降っている。
朝もやと朝焼けのコラボレーションかな。

真庭市(まにわし)は、岡山県の北中部に位置し鳥取県と境を接する市。

2005年3月31日、上房郡北房町、真庭郡勝山町・落合町・湯原町・久世町・美甘村・川上村・八束村・中和村の5町4村が合併により発足した。

面積は、県下自治体の中で最大だ。

朝食後、旭川の土手を散策。
川霧が立ち、山はガスに覆われている。

旭川(あさひがわ)は、岡山県を流れる一級河川で、旭川水系の本流。
同県中央部を流域とし、吉井川・高梁川と並び岡山三大河川の一つに数えられる。

上流域では中国山地の山々を流れ深い谷を形成し、中流域では吉備高原のなだらかな丘陵地や扇状地性の盆地(落合盆地)などを形成しながら蛇行している。

モノクロにすれば水墨画の世界。

高瀬舟で木材や大豆、鉄などが運搬された。

高瀬舟は初期の頃落合(真庭市落合町)から、その後美作高田(真庭市勝山地区)から岡山城下まで航行し、岡山城下の京橋付近をはじめ、久世、福渡、金川などに船着き場が設けられ、川湊として賑わいをみせた。

動物は、源流部に、特別天然記念物のオオサンショウウオが生息し、上流部は清流を好むアマゴ、カジカ、スナヤツメなどが、湯原ダムには、コイ、ギンブナ等が生息し、カルガモやマガモ等のカモ類が飛来している。

また、ニホンザルやイノシシ、ムササビなどもみられる。

ホッと心が安らぐヒノキの回廊=岡山県真庭市役所、木を素材にしたユニークな市庁舎です。

木質バイオマス利用を強力に推し進めている自治体ですので、産業観光部内に木質バイオマス課という部署があります。

また、市役所本体建物に隣接してエネルギー棟があり、そこで発生した木質バイオマス利用エネルギーを市役所へと供給しています。

バスの待合所は日本で初めて構造躯体(柱や梁のこと)にCLTを使用した建築物です。

CLTとは、クロス・ラミネーテッド・ティンバーの頭文字を取ったもので、直交集成板とも呼ばれます。
 
板の木目が層ごとに垂直に交わるように重ねて接着して出来ており、強度・断熱・耐火・遮音性に優れ、施工が速く、軽いことが特徴。

ヨーロッパではその優れた製品性能が高く評価され、これまで高層建築物の躯体に使用されてきた鉄筋コンクリートに代わる建築材料として需要は飛躍的に拡大しています。

真庭関連の過去の記事、併読をお勧めします。

紅葉の神庭の滝逍遥
国の名勝と岡山県立自然公園に指定されている神庭の滝は、高さ110m、幅20m。 … 続きを読む

のれんのかかる町 町並み保存地区 勝山
勝山は三浦藩2万5千石の城下町である。 昭和60年に町並み保存地区に指定され、昔 … 続きを読む

日本の滝百選 西日本一 神庭(かんば)の滝
高さ約110mの断崖から幅20mで豪快に落下する、西日本有数の規模を誇る名瀑。両 … 続きを読む

旧遷喬小学校 迎賓館を思わせる明治のモダンな校舎
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世界最古の庶民のための公立学校!閑谷学校(しずたにがっこう)

古民家を訪ねてシリーズを始めたばかりですが、季節の話題を挟ませていただきます。

今回は「東洋のマチュピチュ別子銅山と山陽しまなみ秋景色」というタイトルのツアーです。
秋晴れの難波からのスタートです。

秋らしい雲の広がる中、淀川を渡る。

最初の訪問地は閑谷学校。

岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校。

藩士のための教育施設(藩校)「岡山学校」に続き、岡山藩立の学校として開かれた。
建築は2期に分けて行われ、32年の月日を費やした。

他に例をみない手間隙かけた質とスケールを誇り330余年の歴史をもっている。
地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。

また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。

2本の巨大な楷(かい)の木や周辺のもみじが美しく、秋の紅葉名所でもある。

と、言うのがうたい文句なのだが今年はご覧の通り無残な姿。
夏の高温のせいだとか。

画像は「聖廟」

国宝 講堂(こうどう)は元禄十四年(1701)の完成で内部は十本の円柱に囲まれた内室と、その周囲の入側からなり外廻りを広縁でとりまいている。

材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一分の狂いもみられない。

学校建築としては唯一の国宝。
儒学の殿堂にふさわしい様式を備えている。

講堂内の黒光りする床も、10本もケヤキの丸柱も、江戸時代のまま、床は漆塗りで鏡のように光を反射している。

「読初の儀」は、約340年前に創設された旧閑谷学校が江戸時代から教えていた儒学(朱子学)の祖・孔子の徳をたたえる儀式「釈菜(せきさい)」(10月)と並ぶ二大行事。

旧閑谷学校を直営していた岡山藩が廃止された明治期以降、途絶えていましたが、平成17年、論語の精神を現代に生かそうと復活させた。

厳冬期、昔ながらの作法で花頭窓(かとうまど)を開け放ち 、ヒノキの床に正座して執り行われますが、参加者には「リンとして、厳粛な気持ちになる」と人気があります。

その後、全員で、ネルの布で約100畳の広さの床を磨きます。

建物の屋根は耐久性の高い備前焼瓦で葺かれた。

使用されている瓦は、釉薬を使用しない窯変瓦で、備前焼技法が応用されている。

焼き具合によって1枚1枚色合いが違うのが特徴である。
また一般の瓦が寿命60年といわれるのに対して、閑谷学校の瓦は300年経過しても殆ど割れないまま使用できている。

高い耐久性は高温で焼結されている為であるが、制作過程で変形が起きやすく、屋根に拭いたときに隙間ができて雨漏りしやすいという欠点がある。

そのため様々な漏水対策が施されている。

重要文化財 石塀(せきへい)、校門の左右から出て、閑谷学校の施設をすべて囲み全長七六五Mにもおよんでいる。

河内屋治兵衛を棟梁とする石工集団によって築かれたもので「切り込み接ぎ式」の工法が用いられており、元禄十四年(1701)に完成した。

内部には洗浄した割栗石をつめて排水を助けており、三百年を経て今も端然たる姿をたたえている。

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閑谷学校へのアクセス、行き方歩き方

岡山県備前市閑谷784
0869-67-1436

JR山陽本線吉永駅下車、タクシーで10分。

瀬戸内昼間のクルージング

通常瀬戸内海の航行は夜間に行われるが、船内で暴れた客がおり、海上保安庁も出動するという騒ぎが発生したため偶然、昼間の瀬戸内クルージングが実現した。

9/26早朝、トイレに起きると船内が妙に静かだ、これは停船してるなと直感。

現在am5時前、既に停船から3時間前後経過している。
海上保安官が出入りしているが船客への説明はなく騒ぐ客も、事件を目撃した人もおり、口伝えで様々なうわさが行き交う。

デッキで心配そうに海上を見つめる乗客、海上保安庁の巡視船が数隻フェリーを取り巻いている。

フェリーに接岸している巡視船を撮影したところパンツ1枚の裸の男が写っているではないか、これが噂の犯人だな。
しかし、肖像権の問題もあると考えるのでブログへの掲載は控える。

場所は来島海峡大橋の今治寄り、反対を向いて航路外に停船している。

海上保安庁の方々が到着したころには乗組員や乗船客が 四苦八苦して取り押さえた後のことらしい。

停船を解かれ再び動き出したのはさらに2時間半後の7時30分ごろ。

船客には何の説明もなく中には大声でわめく人も。
10時半ころから昼食用のカレーが提供されるが長蛇の列、結局全員には行きわたらなかったようだ、フェリー会社の不手際が目立つ。

結局5.5時間前後の遅れだ。
気をとり直しめったに見られない昼間の瀬戸内のクルージングを楽しむことにした。

来島海峡大橋は通常夜中に通過するので海上から見ることはない、通称しまなみ海道と呼ばれる。

伊予水軍が根拠地としたところで風景が美しい。

日本三大急流のひとつで、潮流が速く、最高時には各所に大渦がみられる。
この海峡をまたいで来島海峡大橋が架かっている。

天候は曇りがちで時折り雲間からの陽光が光芒を作りきれいだ。

燧灘(ひうちなだ)は、瀬戸内海中央部、香川県の荘内半島と愛媛県高縄半島の間を占める海域で、北は備後灘に接する。

東西約60 km、南北約40 kmの海域で、一帯はタイ、サワラなどの好漁場として知られる。

沿岸地域から火打石が産出したことからこの名がついた。

曇り空だが讃岐富士の姿が美しい。

前方に瀬戸大橋が見えてきた、この橋も夜中に通過するため海上から見ることはすくない。

瀬戸大橋は塩飽諸島の5つの島の間に架かる6つの橋梁と、それらを結ぶ高架橋により構成されており、橋梁部9,368 m、高架部を含めると13.1kmの延長を持つ。

これは鉄道道路併用橋としては世界最長で、人工衛星写真でも確認できる。
橋梁は吊り橋・斜張橋・トラス橋の3種類を併設。

ただ今列車通過中。

現在、橋梁のライトアップが事前に決められた日にしか行われないのは、ライトアップの光により「明るすぎて眠れない」「漁業に影響が出る」等の光害に対し住民に配慮したものである。

なお、このライトは元々、橋梁の保守・点検用である。

備讃瀬戸(びさんせと)は瀬戸内海のうち岡山県と香川県の間の海域の名称。

東は小豆島をはさんで播磨灘に、西は笠岡諸島、荘内半島をはさんで備後灘、燧灘に接する。交通の要衝であり、本四架橋(本州四国連絡橋)のうち児島・坂出ルートの瀬戸大橋が南北方向に架けられている。

乗客たちもトラブルのことは忘れたように昼間の瀬戸内クルージングを楽しんでいる。

この辺りも潮流は速く、好漁場として知られる。

男木島女木島(通称鬼ヶ島)を通過。

1.那須与一が射落とした扇の一部が流れ着いたことから「メギ」という名がついた(このあたりでは「壊れる」ことを「めげる」と言う)。
2.北隣にある男木島と合わせて、2つの島を男女に見立ててオギの「オ」に対応するものとしてメギの「メ」がついた。

のどかに航跡を曳いて船は東へ進む。

この海を太陽の鉛筆で表現するとこうなるかな。

播磨灘(はりまなだ)は、瀬戸内海東部の海域。兵庫県南西部(旧播磨国)の南側に位置し、東は淡路島、西は小豆島、南は四国で区切られて西北部に家島諸島がある。

面積約2500 km2。深さ40 m前後であるが、海峡部では100 mを越えるところもある。
近畿地方から中国地方・四国地方・九州地方方面への重要な航路が横断する。

岩礁が多く、鯛などの好漁場。イカナゴもよく獲れ、イカナゴの釘煮(佃煮)は播州の特産品であったが、海砂の採取によってイカナゴの生息地が打撃を受けたことから減産している。

明石海峡大橋が見えてきた。
これで瀬戸内三大架橋を昼間通過したことになる。

下から見ていると煙突がつかえるのではと一瞬ひやりとする。

大阪が近づいてきました、甲山も見えています。

神戸空港へ着陸する飛行機を発見。

三宮、メリケンパークの辺りを滑空。

折り返し離陸の飛行機が。

遥か彼方に関空も見える。

南港の高層ビル群に交じってアベノハルカスも見えている。

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『海色の歴史回廊』呉をゆく

広島県呉(くれ)市といえば、やっぱ造船のまち。駅前でスクリューが出迎えてくれます。
港町くれの玄関口、真っ先に目に飛び込んでくるのが、巨大なスクリュー、潜水艦等々。
海と船と平和をテーマにしたべエリアを潮風に吹かれながら散策するだけで旅情たっぷり。

「海色の歴史回廊くれ」そんなキャッチフレーズがぴったりの町だ。
戦国時代に瀬戸内海を掌握していた村上水軍の拠点でもあった呉は、明治維新後の近代は帝国海軍、戦後は海上自衛隊の拠点として栄えた都市。

また第二次世界大戦中は、呉海軍工廠で「戦艦大和」などが建造され、現在に通じる造船技術、特殊鋼応用技術の発展の地でもある。

戦艦「陸奥」の主錨

進水したばかりのコンテナ船「ヒューストン・ブリッジ」、その右「ヘルシンキ・ブリッジ」

潜水調査船「しんかい」

水中翼船「きんせい」

多くの海上自衛隊艦が停泊している

戦艦「大和」の前甲板の左半分を実寸大で表現した公園

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)に展示されている戦艦「大和」の船首部分。

戦艦「大和」を3Fフロアから俯瞰したところ

戦艦「大和」の大きさ比較表

電気推進機関搭載の、本土決戦用人間魚雷「回天」10型 試作型
試作のみで使われることはなかった。

ハッチ後ろの長く突き出した部分、艇体のくびれ等、旧タイプの回天とは形がかなり違っている。

零式艦上戦闘機62型
展示の機体は愛知県明治基地、第210海軍航空隊の所属で、1945年(昭和20年)8月6日夕刻、吾妻常夫中尉の操縦で飛行中にエンジントラブルを起こし琵琶湖に不時着したと言うもの。

説明ボードによれば中島飛行機で製造された機体で製造番号は82729となっている

「海龍」は世界初の有翼潜水艇。
水中を飛行機のように自由に潜航、浮上することを目指して開発されたもので、操縦装置も飛行機と同じ物を使用していた。

大和ミュージアム展示の「海龍」は、昭和20年、静岡県で艇尾部に米軍航空機のロケット弾の直撃をうけて沈没し、昭和53年に引き揚げられたもの。
本土決戦に備え開発されましたが、特攻兵器として実戦で使用される事はなかった。

潜水艦展望テラスよりの実物潜水艦「あきしお」
平成16年3月まで現役勤務をしていた潜水艦。

長さ:76.2m(ジャンボジェット機並み)
高さ:16.3m(5階建ての高さに匹敵)
重さ:2.250トン

ペルシャ湾で掃討した機雷
実物の潜水艦「あきしお」を陸揚げして展示する日本初の施設。
艦内を一般公開するほか、海上自衛隊の歴史や掃海艇の活躍なども紹介している。

発令所
潜水艦の頭脳、艦長はここで指揮する。

操舵席
外が見えないため、操舵員は計器だけを頼りに艦を三次元移動させる。

潜望鏡

推進器(プロペラ)低音化は各国の技術の粋が注がれている。

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厳島神社 清盛が造営した威風堂々たる神々の社

久安2年(1146)、29歳で安芸神に任ぜられ、厳島神社を深く信仰。
仁安3年(1168)ごろ、清盛により社殿が造営された。

夢枕で「厳島の宮を造営すれば、必ずや位階を極めるであろう」(平家物語)とのお告げを聞いたためだと伝えられる。
その寝殿造りの粋を極めた荘厳華麗な建築美は、まさに世界遺産にふさわしい。

JR宮島口桟橋からJR西日本宮島フェリーで約6分の海上の旅。
もちろん青春18切符が使えます。

フェリーは早朝5時から22時まで運行されており、夕日に染まる大鳥居を撮りたいという願望も叶えてくれる。

宮島に近づくと大きく弧を描いて大鳥居に最接近のサービス。

厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は天文24年10月1日(1555年10月16日)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦。
織田信長の桶狭間の戦い・源義経の鵯越[ひよどりごえ]の戦いと並び日本三奇襲戦の一つ。

天文20年(1551年)に大寧寺の変で大内義隆を討ち、大内氏の実権を握った陶晴賢と対立するに至っていた毛利元就は同年、厳島の宮尾に城(宮尾城)を築いた。

これは厳島が周防から安芸へ水運を利用する際に重要な位置を占めており、そこに城を築くことで水運路を扼することを狙ったものだったが、同時に晴賢の軍を厳島に誘引するいわば囮の役割も果たしていた。

江戸時代のはじめ、全国を行脚した儒学者、林春斎が「日本国事跡考」において、 卓越した三つの景観とした、日本三景。

松島、天橋立、宮島は海の青と松の緑が対象の妙をなし、その美しさは人々の心の琴線に触れる。

厳島のシカとサルは、フェリー桟橋付近にも現れたり、マスコットキャラクターとして図案化されたりして、「宮島のシンボル」ともいうべき知名度がある。
厳島のシカは神の使い「神鹿(しんろく)」として神聖視されている。

拝殿前の回廊の屋根裏は朱塗りの木組みが軽やかで開放的な印象。
廻廊は異常水位でも壊れないよう、隙間が。

海水の圧力を弱め、廻廊に上がった海水を流す役目をする。
廃仏毀釈の時代には、白木になったこともあるという。

厳島神社のみどころの一つ「鏡の池」。
社殿のすぐ近くの砂浜に水が湧き出る丸い池がありる。(この写真の右側の丸い池)
この池は干潮時に火災が発生したときの消火用の水の役割を果たしたと言われる。

この池に映る月は最も美しいと言われていて、水面に映る秋の名月を詠じた古歌が多く残されている。

卒塔婆石
喜界が島に流された平康頼が卒塔婆1000本を海に流し、その内の1本が厳島神社に流れ着いたという平家物語にも出てくるエビソード。
その卒塔婆が流れ着いた石がこれといわれている。

近くには卒塔婆がきっかけで許された平康頼が、赦免後神恩に感謝して奉納したと伝わる康頼灯籠もある。
残念ながら観光客の入れないエリアなので遠くから見るだけ。

海から大鳥居、拝殿まで一直線
海から大鳥居、灯篭、火焼前、高舞台、拝殿、幣殿、本殿、不明門が一直線に並ぶように整列。

背後に神が降臨すると考えられる弥山が控えている。
自然に神を見る日本古来の信仰をそのまま形にし、自然美と人工美を調和させている。

この石段を登りきったところに大聖院がある。

大同元年(806年)に空海が弥山を開基して以来、1200年の歴史を持つ宮島の総本坊。

国の重要文化財 林家住宅(上卿屋敷)
林家は古くから厳島神社の社家{上卿職)で、祭事の時、朝廷から差し遣わされる奉幣使「勅使」の代参を務めた神職の家で現在も住んでおられる。

主屋正面の意匠や表門など、いかにも社家らしい雰囲気を持ち、昭和53年国の重要文化財に指定された。

棚守屋敷跡
江戸時代、厳島神社は神仏習合(しんぶつしゅうごう)の社として信仰を集め、その菅理・運営は棚守(たなもり)・座主(ざす)・大願寺(だいがんじ)によって行われていた。
棚守は、神職を代表して神事を行い、自らも舞楽を舞っていた。

戦国時代の棚守房顕(ふさあき)は、大内義隆(おおうちよしたか)や毛利元就(もうりもとなり)の御師(おし)を努め、厳島神社の再興に尽力し、厳島神社高舞台(たかぶたい)の擬宝珠(ぎぼし)には「棚守左近将監(さこんしょうかん)房顕 天文15年(1546年)の銘文がある。

この屋敷は、広島藩主などの来島時の宿泊所となり、邸内には能舞台もあったといわれる。
また、ここから大聖院(だいしょういん)にかけての石垣の上には、祝師(ものもうし)・上卿(しょうけい)などの神職や、仏事を行った社僧(しゃそう)、東泉坊(とうせんぼう)・執行坊(しゅぎょうぼう)・修善院(しゅうぜんいん)・多聞坊(たもんぼう)などの寺院が並んでいた。
(現地案内板より)

干潮によって大鳥居まで干上がった状況。
宮島のシンボルになっている大鳥居は、海の上に置かれているだけ。
何故浮いたり動いたりしないのか。

秘密は、鳥居の上の屋根の下の箱状の横木。
この中にこぶし大の石が約7トン入っており、総重量は約60トン。
この重さで、どっしりと立っていられる。

清盛の没後770年を記念し、昭和29年(1954)に創建された。
清盛の偉績を讃え、霊をお慰めするため、毎年命日にあたる3月20日に厳島神社祭が行われ、厳島神社高舞台で舞楽が一曲奉奏される。

大願寺
この寺の秘仏厳島弁財天は弘法大師空海の作と伝えられ、日本三大弁財天の一つ。
木造薬師如来像、木造釈迦如来像、阿難尊者像、迦葉尊者像はすべて重要文化財に指定されている。

社前の松は大願寺の九本松といい、口頭伝承によると、伊藤博文公が明治時代頻繁に来島され、その際に植えられたものと伝えられている。

小松内大臣平重盛公御手植松
重盛公(清盛公長男)厳島辯財天の神徳霊験に感服し国家安泰家門隆盛祈願の為参籠の際境内にお手植になった老松。

千畳閣と五重塔がある高台の敷地はあまり広くないため、五重塔は下から上を見上げるような鑑賞になってしまう。
高さ : 27.6m
応永14年(西暦1407年)建立。

千畳閣
天正15年(1587年)、豊臣秀吉が戦歿将兵の慰霊のために大経堂として建立した。
畳857枚分の広さがあることから「千畳閣」と呼ばれるようになった。

秀吉の死により工事が途中で中止され、板壁も天井の板もない未完成の状態のままとなっている。
明治初年の神仏分離により本尊の釈迦如来座像は大願寺に遷され、厳島神社末社・豊国神社とされた。

夕日に染まる大鳥をきれいに撮りたいと思いやってきたのですが、下層に雲が出てしまい、茜に染まる夕日は取れませんでした。

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厳島神社へのアクセス、行き方歩き方

宮島へは宮島口よりフェリーで約10分。
(宮島口~宮島桟橋は、約15分間隔でJR連絡船と松大汽船が運行している。
運賃/片道大人170円 小人80円)
●JR連絡船/TEL(0829)56-2045 
●松大汽船/TEL(0829)44-2171