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利長とまつを祭る 尾山神社

神社の名称が尾山神社に改められ利家公が祀られたのは1873年(明治6年)のことです。

江戸時代に最大の外様大名であった前田家は幕府から謀反の疑いを掛けられないように、利家公を金沢城の近くに祀ることはせず、浅野川の向こう側、今のひがし茶屋街の先にある宇多須神社に祀っていました。

神門

3層目には、ギヤマンがはめ込まれ、夕刻のギヤマンが夕日に映える頃や、日没から午後10時までの明かりが点灯する頃は見事。

屋根には避雷針が設置されている[2]。これは、日本最古の避雷針とされ、現在も現役である。
オランダ人医師ホルストマンが建設中の神門を見て、北陸が雷が多く高い建物は雷の被害に遭う可能性があるとして助言したことが始まりとされる。

「利家公金鯰尾兜」

この兜は、御祭神前田利家公が戦国の昔二十三歳にして桶狭間の戦に臨まれたとき以来、幾度の合戦に着用されたもの。

利家公は文武に長け刀槍剣鉾を友として、初め織田信長公に仕え後に豊臣秀吉公と共にその覇業を成し遂げた。

この間利家公は戦に臨まれるときは必ずこの兜を身に付け、戦えば勝ち一戦ごとにその功績は高く評価されたそうです。

利家公を祀る神社に限らず、前田家では家名存続のために絶えず幕府に忠誠の意思を示しました。

その代表的なものが、利家亡き後、おまつの方(芳春院)が自ら人質となり江戸に渡ったことです。

おまつの方は江戸へと向かう際に、息子たちに「母は死んだと思いなさい」と言い残して旅立ちました。
後世の歴史家の間では、初代藩主の前田利家よりも、おまつの方を高く評価する声が目立ちます。

この像の利家も「槍の又左」にふさわしく長い槍を持ち、背中に母衣(ほろ)をつけています。

母衣「ほろ」について

流れ矢を防ぐために、鎧(よろい)の背にかけた布のことを言います。

その後時代の推移により風にふくらんだ形を示すために、竹串、鯨の骨類、ひげ等を骨組みに入れるようになり、これを母衣と呼びました。

戦国時代(西暦一五六〇年頃)に騎馬武者は、これを背に戦場を駆け巡り連絡の役をつとめました。このような騎馬武者を母衣衆と呼びました。

織田軍団の母衣衆は、佐々成政を筆頭とした十人の黒母衣衆と、前田利家を筆頭に九人の赤母衣衆とで合計十九人でした。

そして、戦闘となれば、諸隊のガイド的役割もあり、敵にとって目に付きやすく、大変危険でもありました。

神苑

尾山神社が建設される前に、この地にあった金沢城金谷御殿の庭に手を加えて今に至る。

別名は楽器の庭。琴をモチーフにした琴橋や琵琶をイメージした琵琶島など、おもに日本の雅楽で使われる楽器や楽器を演奏するための衣装などをモチーフにした橋や島から成り立つ。 

東神門

もともとは、金沢城二の丸御殿で利用されていた。
二の丸御殿はたびたび火事にあっているが、その際この門は一度も燃えなかった。

その理由としては、立派な龍の彫刻が施されており、この龍が水を吹いて火災を免れたという伝説がある。(作者名は不明)

その後、金沢城は廃城となり金沢城跡が陸軍の拠点となると、訓練などに支障が出るとして卯辰山の寺院に移動された。(なお、この後にも陸軍が二の丸御殿で火事を起こしている) 卯辰山の寺院がなくなると、尾山神社に移され、現在は裏門として利用されている。

社殿の隣脇になんと、カエルを発見、しかも金のカエルです。

神苑にひかれた導水管。
3代藩主利常の頃犀川上流から金沢城に導水した辰已用水が完成しその一部を分岐し金谷御殿(今の尾山神社)にも通水した。昭和の道路工事で当時の水道管が発見された。

前回の訪問記

前田家十七代の藩主と正室をお祀りする尾山神社
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初秋の金沢城

金沢城は金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む)。

現在、重要文化財に指定されている石川門は、天明8(1788)年に再建されたもの。

今は完全に埋め立てられていますが、延宝期はしっかりと水がはられていました。
そして、塞き止められお堀となっています。

この百間堀は前田利家入城前に城主、正確には 一向一揆の御山御坊を攻め落とした佐久間盛政がこの百間堀を掘ったとも言われています。
正確なことはまだわからないようです。

石川門は一般的な枡形構造の城門と同様に、一の門(高麗門)、二の門(櫓門)、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門となっています。

最初の門(一の門)を入るといわゆる枡形虎口になっていて、右に90度曲がったところにもうひとつの門(二の門)があります。

一の門から入って正面の壁と、左手の壁にあたる部分です。
明らかに異なる積み方がなされています。

三ノ丸

橋詰門一の門(復元)

橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門です。

高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。

「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、二の門の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門でした。

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。

「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。

二の門をくぐれば二の丸。

二の丸から眺めた菱櫓と五十間櫓。
菱櫓は三層三階の建物で、金沢城一の高さを誇っていた。

本丸との間の空堀に架かる極楽橋と現存の三十間櫓の様子。

案内板によると「 二ノ丸から本丸への通路に架かる橋、金沢城内ではっきりした名称の付いている橋は珍しい。

その名称から金沢御堂時代の遺構であるとの伝承がある」とあります。
金沢御堂は戦国時代、一向一揆の拠点になった場所の1つで、寺院全体が城砦化していたとも云われています。

金沢御堂時代にも空堀のような防衛施設があり念仏を唱えながら橋を渡り極楽浄土を願っていたのかも知れません。

極楽橋の上から兼六園方向を撮影したもの。
右側が本丸方面であり、見事な石垣が積み上がっている。
見事な石垣が積み上がり、かなりの高低差を作り出している。

三十間長屋からはすぐに本丸に至るが、この景色から考えると、本丸まで攻め込むのは容易ではなさそうだ。

三十間長屋

本丸付段に安政5年(1858)に再建された長屋で、金沢城に現存する長屋建築としては唯一のものです。
宝暦の大火(1759)で焼失した後、100年近くたって再建された。

幅3間、長さ26.5間余りの2階建て多聞櫓で、鉛瓦葺の堅牢な構造が特徴的です。

「陸軍の破壊」、明治のやっつけ仕事、粗悪な改修一目瞭然

明治は城「受難」の時代だった。

戊辰(ぼしん)戦争で破壊された東北各藩の城以外にも、無事に残った各地の名城も悪しき旧体制のシンボルとして解体破壊されていった。

文化財として守る意識など皆無だった。

あの姫路城でさえ解体寸前だったが、今に残ったのは解体費用がかかりすぎるため手を出せなかったからだという。
 
陸軍が利用した金沢城は、明治4年の廃藩置県で新政府の兵部省所管となった。
6年には名古屋鎮台分営、8年に歩兵第七連隊となっていくが、兵舎として使える建物以外は次々撤去された。

金沢城公園の本丸と二の丸の間の石垣をくり抜いて造られたトンネル。

明治から昭和の初めにかけて、金沢城は兵部省、のちに陸軍省の所轄となりました。
このトンネルは、旧陸軍の弾薬庫通路として造られたもの。

本丸跡地に、その弾薬庫はあったそうですが、現在は残っていません。

トンネルは煉瓦積みで、荷車などを通すためか、結構大きい。
現地には簡単な説明が書かれた紙がトンネルの前に貼られているだけ。

このトンネル、石垣を崩してレンガを積み、また石垣を積みなおしたのだと思われます。
弾薬庫への往来ということで、直線ルートが欲しかったんでしょう。

鶴の丸休憩所からの眺め。

鶴の丸は三の丸と東の丸の間にある小さな曲輪。

前田利家の夫人、芳春院が白い鶴が舞い下りるのを見て鶴の丸と命名したという言い伝えが残っている。

江戸時代初期には加賀藩二代目藩主・前田利長が休憩用の御殿を建てたそうですが、大坂の役の際には、一向宗徒や百姓・町人をここに人質として収容したそうです。

石川門の内部。

秋です、すすきが風に揺れていました。

かつての「いもり堀」は、金沢城の南西側を囲む外堀で、明治40年(1907)、旧陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は、陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用されました。
 
江戸時代の堀は、幅が広いところで約40m、深さが10m以上あり、水を湛えていました。
斜面は土羽で、比較的緩やかな勾配で造られており、南東端には鯉喉櫓台の石垣がありました。

外周の南端、ここには城内随一の高石垣がある。

この4段の石垣!段々に積み上がっている石垣は美濃岩村城などでも見られるが、ここは一段一段がかなり高いのでとても迫力がある。
しかし石垣麓の説明板に衝撃の事実が。

なんとこの石垣は今の上3段分が繋がった高さ22m以上の高石垣だった。
しかし明治時代に何故か(堀を埋めるためか)削り取り、今の4段構成に改変してしまったとのこと。

壊してしまわず、ちゃんと4段に積みなおしてくれただけでも良かったと思うべきか。

本丸南面の4段高石垣の全景。
石垣の向こうの深い森の奥が本丸。

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秋の気配 兼六園

兼六園は小立野台地の西北端近くにあり、金沢城跡とは百間堀をへだてて相対している。
江戸時代の代表的な回遊池泉式庭園で日本三名園の一つ。

穏やかな初秋の光を浴びて秋の始まりを感じさせる園内を散策。

「兼六園」の名前の由来

奥州白河藩主松平定信公が、12代藩主前田斉広(なりなが)の依頼により命名。
中国の古典『洛陽名園記』の中の「湖園」の章から採り、

宏大(こうだい)、幽邃(ゆうすい)、人力(じんりょく)、蒼古(そうこ)、水泉(すいせん)、眺望(ちょうぼう)
の「六勝」を兼ね備えていると言う意味で命名された。

長らく殿様の私庭として非公開だったが、1871年(明治4年)から日時を限っての公開が開始。

同年に園内の山崎山の下に異人館が建てられ、噴水前には理化学校が開設された。
1872年(明治5年)には異人館は成巽閣とともに国内初の博物館である金沢勧業博物館となった。

同館は1909年(明治42年)に廃止されるが、その間1879年(明治12年)に図書館、1887年(明治20年)に金沢工業学校(後の石川県立工業高等学校)が附属されるなど、大規模なものに拡張された。

徽軫灯籠と霞ヶ池(かすみがいけ)

霞ヶ池は兼六園で最も大きな池。
周辺に徽軫灯籠、虹橋、唐崎松、蓬莱島、栄螺山、内橋亭などの名勝、銘石が配されている。

徽軫灯籠(ことじとうろう)

霞ヶ池の北岸に位置する灯籠で、兼六園を代表する景観となっている。
脚が二股になっており、琴糸を支える琴柱に似ていることから名付けられた。

無料で24時間解放されたときの深夜、何者かによって灯籠が破壊される事態が発生し、当時のものは別のところに保管され、現在の灯籠は新造されたものである。

唐崎松(からさきまつ)と秋を感じさせるすすき。

唐崎松は前田斉泰が琵琶湖の唐崎松から育てた兼六園内でも有名な樹木。
雪の重みによる枝折れを防ぐ為の雪つりは冬の風物詩。

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まちに開かれた公園のような美術館

金沢21世紀美術館は屋外展示のオブジェと大通りとの間には垣根がありません。
開放的に感じる要因のひとつは敷地の周囲に垣根がないことです。

美術館や博物館の中には、敷地の周囲に垣根を巡らし、敷地に入る時点で有料となるミュージアムが多く見られますが、21美には垣根がなく、来場者は3方向から街角の公園に立ち寄るような感覚で敷地に入ることができます。

金沢21世紀美術館は垣根のない憩いのアート広場です。

建物は地上1階、地下1階建て。芝生の敷地中央にあり、円形(直径112.5m)総ガラス張りで正面といえる面がなく、逆に言えばすべてが正面といえる。

外壁同様各所にガラスが多用されているため、館内の見通しが非常に利く。

中央の有料エリアからも建物外部の公園や道路を見ることが出来るため、開放的だ。

外周が全面ガラス、映り込みを楽しみながら一周。

多くの美術館では写真撮影は一切禁止という施設が多いのですが、21美では館内の「撮影禁止」となっている展示室以外は作品の撮影もokです。

今日は日曜日で大変な人出です、待ち行列の長さに圧倒されそそくさと退散。

朝の光の中「乙女の像」が陽を浴びてまぶしい。

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本多の森最後の散策は、静寂の水面に想う鈴木大拙館

金沢市出身の仏教学者である鈴木大拙への理解を深め、思索の場とすることを目的に、金沢市が2011年(平成23年)10月18日に開設した。

前方に鈴木大拙館が見えてきました。

施設の設置に併せ、本多の森公園の斜面緑地に沿って金沢市立中村記念美術館まで「緑の小径」が整備された。

辰巳用水が流れる斜面横の階段を上がれば石川県立美術館、用水沿いに下れば金沢21世紀美術館に抜けられ、まちなかの回遊性に配慮されている。

奥の「穴」の向こうには,つくばい様の石が,なぜか三角形のくぼみに水をたくわえます。

施設の設計は金沢市にゆかりの深い日本芸術院会員の谷口吉生。
大拙生誕地の近くに立地し、借景となる本多の森公園との調和や大拙の精神とされる「静か」「自由」の具現化を図ったとされる。
なお、開館日の10月18日は大拙の生誕日(旧暦)である。

内部回廊、奥の光のところに「玄関の庭」が。

簡素な小屋。これが思索空間です。

心を表す水鏡の上に浮いているように佇んでいます。
思索というものと、心というものの関係性を見出しているように思えます。

心地良く孤立したこの空間では、誰にも邪魔されない思索に耽ることができます。

左の山手が県立美術館のある高台。
歩いてきた経路は,左の壁の外の奥の方から手前。
また、前記事の松風閣庭園は,左の壁の外側一帯。

建物は「玄関棟」「展示棟」「思索空間棟」とこれらを結ぶ回廊からなり、回廊の両側には「水鏡の庭」「玄関の庭」が配されている。

「水鏡の庭」は浅く水をたたえ、「思索空間棟」はその中に浮かぶように立っており、静かな空間を演出している。

「思索空間棟」は床が上下し、座禅を組んだり、腰を掛けて語り合う場として想定されている。

「展示棟」では収蔵品のうち大拙の書、写真など33点が展示されている。
展示品には詳細な説明はなく、これは来館者がそれぞれに考え、大拙の思考を感じるための趣向であるとされる。

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松風閣庭園-金沢の人たちも知らなかったミニ兼六園

松風閣庭園は、1968年(昭和43年)に個人の所有から北陸放送の所有となった後も、一般市民の目に触れることはありませんでした。

庭園が一般公開されるようになったのは鈴木大拙館がオープンした2011年のことです。

加賀藩の筆頭家老職本多家は、現在の出羽町、本多町、下本多町の一帯に上、中、下の屋敷を持っていた。

上屋敷は当主を中心に家臣が詰める公の場で小立野段丘の上、中屋敷は当主の子供や隠居した人が住みその直下にあった。
家臣の住む町内である下屋敷は中屋敷を取り囲んでいた。

いわば本多五万石の城下町である。
上-中屋敷をつなぐ高低差10mにいまは廃道となっているつづら折りの坂道があって、江戸期の遺構として復元された。

散策ルートの途中には陶芸工房があります。

この工房は『北陶』という陶芸の会社が所有する工房で、工房の代表である飯田雪峰氏は金沢市の文化活動賞を受賞している著名な陶芸家です。

松風閣庭園は江戸時代初期に、古沼と自然林を生かして作庭された庭園で、霞ヶ池の周辺には多くの大木が植生し、本多の森と一体の樹林を形成しています。

この豊かな樹林を背景にして、蓬莱島を浮かべる霞ヶ池は、奥行きと広がりを感じさせ、静寂で深遠な庭園空間を構成しています。

また、旧加賀八家本多家下屋敷跡に位置する庭園は、本多家ゆかりの松風閣が移築され、かつて辰巳用水から霞ヶ関に導水されていた水路跡を遺し、旧加賀八家筆頭本多家の威光を今に伝えています。

元和元年(1615)、本多政重が3代藩主利常から現在地の周辺一帯約10万坪を与えられ、下屋敷地として本多家家臣団が居住する区域となりました。

本多家2代政長は茶人の金森宗和と親交があり、宗和の子方氏が寛永2年(1625)宗和の代人として加賀藩に仕えたことから、その指導を受けて作庭したものと推定されます。

木の影に覆われている薄暗い散策ルートから、池の対岸を見渡すと木々の緑に太陽が燦々と降り注いでおり、明と暗のコントラストが心に静寂をもたらしてくれます。

明治19年(1886)に元本多家上屋敷から移築された旧広坂御広式御対面所が、明治40年(1907)現在地に再移築された際に「松風閣」と改称され、庭園も松風閣庭園と呼ばれるようになりました。

北陸放送MROの社屋を通り抜けることができないことから、鈴木大拙館との連絡口から入園することになります。なお、入園は無料です。

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美術の小径を鈴木大拙館へ

本多公園から大乗寺坂にかけての区域は「加賀八家」本多家の屋敷跡であり、県立美術館裏の斜面緑地には上屋敷へ至る道跡とそれに付随する2基の石垣、石積み基礎の堀跡と門跡が残されています。

本多家上屋敷遊歩道はこれらの遺構を見学しながら歴史遺産にふれあえる空間として整備し、「美術の小径」や「緑の小径」と接続して本多町周辺の回遊性を向上させるものです。

木漏れ日の素敵な本多の森、兼六園・成巽閣・石川県立美術館・本多の森・金沢21世紀美術館、更には鈴木大拙館など、金沢の象徴「兼六園」を中心にその周辺の見所を巡る半日コースです。

崖地の通勤路 ― 本多の杜の「家臣坂」

斜度30度は超えると思われる坂道を、500人の武士が日々上り下りした通勤路があった。
坂の上の上屋敷と坂下の家中町・下屋敷を結んだ加賀藩筆頭家老職、本多家家臣団の幻の「サラリーマン坂」である。

階段は木に似せた現代風デザインを使用されており、階段下の遺構を踏まないように配慮してあります。

小径がくの字に曲がっていることが特徴的です。

下段の石垣は金沢城にも用いられた戸室石が使用されています。
上段の石垣は戸室石の上に川原石で増築されています。

石垣には刻印も見受けられる。

本多の森を流れる辰巳用水

金沢兼六園のすぐ近くにあります。
辰巳用水は兼六園に流れるのと、こちらの本多の森にも分流されています。

寛永9年(1632)に、3代藩主・利常(としつね)が、金沢城の防火用水を確保するためなどに設置した用水で、後に兼六園の曲水として用いられることとなりました。

用水の取り入れは、金沢の南を流れる犀川の上流で、本園から約10km離れた上辰巳町にあります。
今も昔も変わらず園内に水を運んで、渓流や滝、池泉など美しい庭景を保っています。

石川県立美術館・石川県立歴史博物館などと本多公園を結ぶ「美術の小径」、本多公園と鈴木大拙館・松風閣庭園を結ぶ「緑の小径」の2本の小径が整備されていました。

本多公園と鈴木大拙館・松風閣庭園を結ぶ「緑の小径」。

緑いっぱいの気持ちいい小径です。

前方に鈴木大拙館が見えてきました。

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本多の森に映える 赤レンガミュージアム

金沢散策でどちらかといえば見逃されがちな本多の森を散策、歴史の径、緑の径と辿り最終は鈴木大拙館です。

朝の清々しい光が射す小立野通り、兼六園の南側を進む。

本多の森のあたり一帯は、もともと加賀藩の筆頭家老本多家の武家屋敷が軒をつらねていたところ。

戦後は金沢市立美術工芸大学の学校用地として利用されていた。

周辺は藩政期からあった緑濃い森でおおわれ、森の中には歴史博物館、美術館、能楽堂をはじめとする文化施設が多く残されており、一帯は「兼六園周辺文化の森」として文化の香り高いゾーンとして親しまれています。

木々も少し紅葉の雰囲気を伝えています。

また、夏季の朝夕には本多の森公園内でヒグラシの泣き声が聞くことができ、1996年に当時の環境庁(現在の環境省)が定めた日本の音風景100選に選ばれている(「本多の森の蝉時雨」)。

石川県立美術館

国宝に指定されている「色絵雉香炉」をはじめ、加賀蒔絵の大名道具、古九谷などの美術工芸品など、工芸王国石川県の歴史的逸品を展示。
世界的パテシエ辻口氏のカフェもあります。

石川県立能楽堂、右側の建物。
左は石川県庁石引分室。

金沢能楽美術館
金沢の能楽は、加賀藩前田家が武家の式楽(儀式に用いられる音楽や舞踊)として保護、 … 続きを読む →

加賀藩の奨励により、金沢で宝生流の能楽が栄え、武士にとどまらず、職人や庭師なども能楽を嗜み、「空から謡が降ってくる」と言われるほどになりました。能楽の装束や面などを収蔵・展示するこの美術館は、日本唯一のもの。能装束着装体験もできます。

石川県立能楽堂に立つ謡曲「杜若(かきつばた)」の像。碑文には2代目佐野吉之助がモデルと記されている

ケヤキのそばにある県立歴史博物館の3棟の煉瓦造りの重厚な建物は、元は旧金沢陸軍兵器支廠の建物で、明治42年から大正3年にかけて建てられた。

戦後は金沢美術工芸専門学校(現在の金沢美術工芸大学)の校舎になりましたが、鉄扉、窓の鉄枠など今も戦前の兵器庫の趣が残ります。

明治時代から大正時代にかけての代表的な建築様式のひとつに赤レンガがあります。

全国的には横浜の赤レンガ倉庫が有名ですが、金沢にも赤レンガ造りの重要文化財があります。

ひとつは香林坊のすぐ近くに位置し、旧制金沢第四高等学校の校舎だった石川四高記念文化交流館で、もう一つが、兼六園の先の本多の森に佇む「いしかわ赤レンガミュージアム」です。

いしかわ赤レンガミュージアムは、1909年(明治42年)から1914年(大正3年)にかけて旧陸軍の兵器庫として建設された建物で、戦後は金沢美術工芸大学として使用されていました。

赤レンガの建物は3棟あり、2棟が石川県立歴史博物館、1棟が加賀本多博物館となっています。

赤レンガミュージアムでは、辰巳用水に用いられた石管が噴水として再利用されています。
毎日数回にわたって放水が行なわれており、絶好の撮影スポット。

石川県立歴史博物館内部、ジオラマや大型画面での迫力ある映像などにより、石川の歴史と文化を学ぶことができます。
昔の衣装や道具を体験できるメニューも充実しています。

残念ながら撮影禁止で展示物を紹介できません。

加賀本多博物館は、加賀藩の筆頭藩士で5万石の禄高を誇った本多家の所蔵品を展示しているミュージアムです。

江戸時代の大名の3分の2が5万石以下の禄高であった中で、5万石という禄高は大名に仕える身としては破格の待遇でした。

ちなみに赤レンガミュージアムが位置する本多の森は、かつて本多家の上屋敷が置かれた場所です。

展示室では本多家に伝わる鎧、兜、刀、槍などの武具をはじめ、加賀象嵌を施した鐙や蒔絵の鞍などの馬具、金箔や蒔絵を施した重箱、前田家からお輿入りしたお姫様の嫁入り道具などが展示されています。

入口に展示されている、日の丸馬験(ひのまるうまじるし)。
初代本多政重が大坂の陣で用いた馬験。

長柄の先に、日の丸の扇の作り物をつけている。
こちらも残念ながら内部は撮影禁止です。

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金沢散策

昨夜は「月見のおわら」で夜遅く金沢のホテルへ入った。

ぐっすり眠り、早朝から散策です、あさの光が清々しい。

いつも撮らされてしまう、郡順治という方の「走れ!」という作品で、金沢まちなか彫刻作品国際コンペティション2004で入賞したものだそうです。

ショウウィンドウへの映り込みがきれい、四高記念館前。

こういうのって撮りだしたらキリがないね。

小立野通りを本多の森方向へ進んでいます。

石川県政記念しいのき迎賓館

旧石川県庁として1924年(大正13年)6月8日に竣工。

石川県内の建築物としては初めて鉄筋コンクリート構造を採用したもので、国会議事堂などの設計を手掛けた矢橋賢吉による近代的な建築物。

石川県庁が金沢市鞍月に移転するまでは、永らく広坂地区のランドマークとして位置づけられていた。

迎賓館前にある樹齢300年の一対のシイノキ、国の天然記念物。

石川四稿記念公園西側の並木、紅葉が始まりそうな雰囲気。

昭和33年に建てられた、明治・大正・昭和3代の四高生を表した記念像。

石川四稿記念文化交流館。

1年ぶりに金沢を訪れたが、武蔵野交差点が地価の変わっている。

鼓門が夕日に照らされる。

日の入りです。

お月様も出て夜です。
今日もよく歩きました、26000歩、昨日と合算で43000歩。

サンダーバードは貸し切りで一人2シート、快適です。

大伴楼の駅弁を買い込み準備万端。

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利家は、今に残るような近世城郭へと大修築を行った。  利家・利長・利常の3代に渡 … 続きを読む →

素晴らしきかな 金沢21世紀美術館
金沢21世紀美術館、愛称はまるびぃ(由来は「丸い美術館」)であるが、一般的には「 … 続きを読む →

金沢は金箔の街
金箔の街金沢「箔座」を訪れた。 「箔座」では店内に、最高級の金箔を約4万枚使って … 続きを読む →

金沢の夜明け
月見のおわら明けの早朝、金沢駅辺りを散策。 ANAクラウンプラザホテル脇の竹林、 … 続きを読む →

真夏の朝 金沢の街を早朝散策
昨日は川北の花火観賞を終え深夜金沢の宿に入りました。 泊りはホテルルートイン金沢 … 続きを読む →

小雨の古都 金沢の街を早朝散策
旅行の度に早朝散策を心掛けているが、今回はあいにくの雨であった。 雨の古都金沢も … 続きを読む →

金沢 長町武家屋敷跡
長町界隈は、かつての藩士が住んでいた屋敷跡であり、土塀の続く町並みの中では今も市 … 続きを読む →

加賀百万石の威容 金沢城
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦 … 続きを読む →

香林坊
町名の由来は、比叡山の僧であった香林坊が還俗して、この地の町人向田家の跡取り向田 … 続きを読む →

思索空間 鈴木大拙館
名の「大拙」は居士号。 同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友 … 続きを読む →

絶景かな 卯辰山公園
金沢城から見て東(卯辰の方角)に位置することから名づけられた。 宇多須山(うたす … 続きを読む →

兼六園の日の出
献六江のの日の出の撮影に挑戦、圧6時前にホテル出発。 兼六園での日の出撮影は初め … 続きを読む →

幻想空間 玉泉院丸庭園
加賀藩代々の藩主たちが愛でた大名庭園を、夕焼けをテーマに気品ある灯りで表現、幻想 … 続きを読む →

冬の兼六園
雪の兼六園が撮りたいなという漠然とした願望を持ち続けていたが、雪とライトアップと … 続きを読む →

21世紀美術館はアートな雰囲気
金沢散策で是非立ち寄りたいところがありました、21世紀美術館です。 足早に駆けつ … 続きを読む →

兼六園逍遥
月見のおわらのかえり、金沢の街を歩き回った。 兼六園はこ岡山市の後楽園と水戸市の … 続きを読む →

空から謡(うたい)が降ってくる ひがし茶屋街
ひがし茶屋街は石畳の道の両側に紅殻格子のお茶屋が並んでおり、江戸時代の雰囲気を残 … 続きを読む →

加賀藩の秘策 人呼んで、忍者寺 妙立寺(みょうりゅうじ)
妙立寺(みょうりゅうじ)とは、石川県金沢市にある日蓮宗の寺院。山号は正久山。 潮 … 続きを読む →

日本三名園 兼六園
17世紀中期、加賀藩により金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表 … 続きを読む →

前田家十七代の藩主と正室をお祀りする尾山神社
社伝によると、 前田利家公の沒後、その霊を神として奉祀しようとしたが、当時はばか … 続きを読む →

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