古墳の町 上中まで歩く


昨夜のトラフグの宴会が尾を引いています。

全員昼食はいらない!!と 時間が余ってしまい結局バス停二つ分歩くはめに。

前方の山は冠雪しています、越前方面の山か。

天気も良くいい景色を眺めながら・・・

柿の実ひとつ。

こちらは吊るし柿、田舎の風情だ。

ピラカンサもきれい。

上中駅は相対式ホーム2面2線で交換設備を有する地上駅。
敦賀地域鉄道部が管理し、自治体が窓口業務を受託する簡易委託駅でありながら、みどりの窓口(営業時間7:00 – 18:00)も設置されている(e5489サービスによるきっぷの受け取りは不可)。

窓口は上りホーム側に面した南口側に設けられている。
駅舎は2005年(平成17年)3月3日に改築された。

福井県内の駅では最初にエレベーターが設置された駅(その約1ヵ月半後、福井駅には高架化工事完成と同時にエレベーターのほか、福井県内の駅では初のエスカレーターも設置された)。

JRバスはここから山中に分け入り、熊川宿を経て近江今津に至る。

ここ上中は古墳の町。

若狭(上中地域)の古墳と継体大王の擁立

5世紀後半の西塚古墳(福井県若狭町)からは金製の耳飾や金銅製の馬具が出土しているが、特に大加耶地域を中心に、ヤマト政権を介した外交によりもたらされた遺物と考えられている。
 
それが、5世紀末から6世紀前葉にかけての「十善の森古墳」(福井県若狭町)築造の時期には、金銅製の冠帽やガラス玉など百済産と考えられる遺物が出土するようになる。

この時期がまさに継体大王擁立の時期、つまりヤマト政権の不調和の時期に相当し、遺物の内容からも若狭の豪族が独自に朝鮮半島との交流をもった可能性が高いと考えられる。
 
さらに、継体朝から欽明朝にかけては再びヤマト政権の中央集権体制が強化される時期である。

若狭においては、6世紀中葉から首長墓が前方後円墳から円墳にいち早く変化している。

ここからの出土品は、画文帯神獣鏡や馬具など、全国的に見られるものとなっており、ヤマト政権の介入を古墳の形態と出土遺物からも読み取ることができる。
 
今城塚古墳(大阪府高槻市)に近い梶原1号墳からは、剣菱形の馬具が発見されており、十善の森古墳や丸山塚古墳(ともに福井県若狭町)からも類似したものが発見されている。

また、6世紀前半から中頃に築造された、下船塚古墳(福井県若狭町)などの埴輪は、尾張地方の古墳と類似しており、継体朝との関連が推測されている。

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名水百選 瓜割の滝


天徳寺縁起によれば、今からおよそ1300年前の養老年間、加賀・白山を開いた泰澄大師が当地宝篋ケ嶽に上り、馬頭観音像一躯を刻んで山腹の岩窟に安置し去ったことを以て寺の起こりとしている。

起源を、門前の湧き水の水神に対する強い信仰によるものとする説もある。

すなわち、水源地である水の森に祀る水神(ここでは不動明王)に対する近郷の信仰は篤く、旱魃の際に近郷こぞって雨乞いの祈願をした記事がいくつかの史書に見えることからも水神信仰に起源をおいたことは明らかというものである。

瓜割の滝上方の山道を100メートルほど進んだところに四国八十八ケ所石仏霊場がある。
ここは江戸・文化年間、時の住持本如上人が空海(弘法大師)の夢告を受け造営したもので、佐渡島で彫られた石像88体が安置されている。

かつて若狭から出た作家水上勉はその随想集の中で「石仏で名高い天徳寺。石仏は石段をあがりつめた山腹だが、四国八十八ケ所石仏といわれている。(中略)枝の混んだ杉、檜の木の木もれ陽の中で、静かに正座しておられる石仏をみていると、暗い奥山だけに、幽邃である。天徳寺は、また湧き水で名高い水の森があり、この石仏群のしじまのへ水音はきこえてくる。

若狭は、やはり仏の国だと思う」と言った(『若狭路』)。

柵内の岩の割れ目から湧き出す水量は、一日4500t。

水温は12度。冷たい水で瓜が自然に割れたという故事からその名がつけられた。

滝周辺は元々「水の森」と呼ばれる修験者の修行地で、また朝廷の雨乞いを司る祈祷所だったとされる。

また、水中には紅藻植物のヒルデンブリンディアリブラリス(Hildenbrandia rivularis、ヒルデンブリンディア属(英語版)の一種)が繁殖しているため、水中の石が赤く染まっている。

平成18年1月には、ふくいのおいしい水に認定された。

この冷たい湧き水を瓜割清水と呼び、それが滝のように落ちるから総体に瓜割の滝と呼んでいる。

江戸・元禄期に小浜藩から出た『拾椎雑話』という地誌書に「天徳寺門前に岩窟より湧出する清泉あり。

此所を水の森といふ。夏の日には其の冷なること氷のごとく、水中の小石を十拾い取るものなし。

瓜ひやし置かはおのつから破るに俗に瓜割水と呼」とあり、古来、この水がいかに冷たい水として周辺地域に知られていたかが窺える。

和歌森太郎編『若狭の民俗』によれば「この湧き水を中心に寺が出来、ムラが出来た」という。

それによれば、「天徳寺の所在地が、村氏神の岩上神社発祥の地、水の森に近く、集落を足下に控える渓口に位置し、かつその寺名を集落の名称としているところから、この寺が集落成立の草分け的役割を担った」という。

境内の杉や檜の群立する通称水の森と呼ばれる一角に湧く冷水、昭和60年、当時の環境庁が全国名水百選に選定した。

熊川宿、小浜を訪れる人は多いがほとんどの人が瓜割の滝は素通りだろう。
もったいないことだ。

ただ、環境保全の面からは願ってもないことだ。

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古刹 明通寺 紅葉2017

山号は創建当初棡木で本尊薬師如来を彫ったことから棡山といいます。真言宗御室派。

朝日が射し境内を照らす。

京都の清水寺も創建した坂上田村麻呂公が、大同元年(806)創建したと伝えられる。

三重塔は、文永7年(1270)建立の、初層平面方三間(4.18m)総高22.12m、桧皮葺木造三重塔婆。

全体的なバランスの良さや組ものの精密さなどから、高度な建築技術を駆使しており、国内でも鎌倉建築を代表する建造物。

爽やかな冷気が山内に満ちている。

国宝の本堂は、正嘉2年(1258)に建立された、入母屋造桧皮葺、桁行5間(14.72m)・梁行6間(14.87m)の建物。

木漏れ日に散りモミジ、いい風情です。

大伴家持の妻・恋人
 
かつて若狭の国府が置かれた小浜は、まるでこの町を優しくつつむような後瀬山に護られている。
 
後瀬とは、「後に逢瀬」を連想させ,国府小浜が比較的都に近いこともあって,その名は通っていたようである。
 
表題歌は、恋愛関係にありながら,別れたものの10年ほどの後に夫婦になったと言われる家持の妻の歌である。
 
これには、家持の返歌(万葉集巻4-739)がある。       
  後瀬山 後も逢はむと 思へこそ 死ぬべきものを 今日まで生けれ

こちらに後瀬山城の訪問記があります。
若狭武田氏の拠点 後瀬山城
後瀬山城はJR小浜駅の南西に聳える標高168m程の山に築かれている。 現在主郭に … 続きを読む →


木漏れ日と苔むした石組、そして紅葉、いい取り合わせだ。

山間部で陽が昇るのが遅く、ちょうど訪問時にはあちらもこちらも朝日が射して清々しい。

こちらのお堂には不動明王立像が祀られている。

立ち去りがたく、鵜黒を振り返りながら辞した。

明通寺の過去の訪問記

若狭の古刹・名刹 明通寺
明通寺は、福井県小浜市門前にある真言宗御室派の寺院。 山号は棡山(ゆずりさん)。 … 続きを読む →

坂上田村麻呂公の創建と伝わる明通寺
明通寺は、福井県小浜市門前にある真言宗御室派の寺院。 山号は棡山(ゆずりさん)。 … 続きを読む →

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お水送りの寺 神宮寺


お水送りの寺としてあまりにも有名だが紅葉もなかなかのもの、陽の射す表門より入る。

振り返るとはるか向こうまで参道が続く。

仁王門までは数100mある。

仁王門(北門) – 鎌倉時代末期再建。間口6.37m、奥行き3.64m、棟高5.5mの単層屋根、切妻造、二軒和様杮葺八脚門。至徳2年(1385年)造立の木造金剛力士像を一対を安置。

こちらはお水送りの記事ですが、仁王門から案内しています。
春先取り 火と水が織りなす荘厳の世界 お水送り
天平勝宝 4年(752)インドの渡来僧・実忠が二月堂の建立の時、修二会を催して全 … 続きを読む →


表門をくぐるとすぐに本堂。

本堂は、室町時代末期の建築で 入母屋造 檜皮葺の屋根、和洋唐様天竺様の3様式折衷建築物。(重要文化財) 

本堂の正面には、お寺にもかかわらず、鈴 と 注連縄 が掛かっています。(正月にかけ直す)   
仏教徒といいながら、毎朝 お水を神棚にあげて、柏手を打って拝礼する。

本堂右手は茶室。

本堂 – 室町時代は天文22年(1553年)越前国守護朝倉義景による再建。

間口14.34m、奥行き16.60m。建築様式は、和様を主体とする折衷様。建坪は110坪。

本堂横の紅葉。

本堂から庭を。

朝日が影絵のよう。

苔の庭に散りモミジ。

閼伽井戸
右手はお水取りの水を汲む「閼伽井戸(あかいど)」

神宮寺の御神体である長尾山(那伽王山)の水が地下をくぐり湧き出た水、別名、龍王神変水(りゅうおうしんぺんすい)とも呼ばれるそうです。

過去の神宮寺の訪問記

若狭の古刹・名刹 神宮寺
毎年3月2日、奈良東大寺二月堂に香水を送る「お水送り」神事を行っています。 若狭 … 続きを読む →

お水送りの寺 若狭神宮寺
若狭神宮寺は福井県小浜市にある天台宗の寺院。 山号は霊応山、本尊は薬師如来坐像。 … 続きを読む →

お水送り伝説の地 鵜の瀬を訪れる
名水百選(環境庁認定)に選ばれている鵜の瀬は、毎年3月2日に奈良東大寺二月堂への … 続きを読む →

この日は、2月15日から3月5日まではお水送りの祈祷中で参拝できませんと書かれていて参拝できず。。

春先取り 火と水が織りなす荘厳の世界 お水送り
天平勝宝 4年(752)インドの渡来僧・実忠が二月堂の建立の時、修二会を催して全 … 続きを読む →

雪の中、お水送りの開始を待つ間寒かったのを覚えています。

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日本紅葉100選 萬徳寺


小浜の紅葉巡り、最初に訪れたのは小浜随一の紅葉の名所萬徳寺。

朝日に照らされた紅葉が見事。

こういう光景って撮らされてしまいます。

朝一番の訪問でよかった、朝日が幻想的だった。

庭園は延宝5年(1677年)に小浜藩主酒井氏の命により築造された面積約1500平方メートルの蓬莱式枯山水庭園。

書院と庭園の間は白砂の広場で仕切られている。

樹齢500年の大山モミジは天然記念物(国指定)。

山麓の斜面地を利用して斜面中段中央に高さ3mの真言密教における本尊石を配し、天然記念物である大山モミジを借景としている。

本堂への階段前の紅葉も見事。

木造阿弥陀如来坐像 – 像高141.5cm、檜材寄木造、平安時代後期の作。
阿弥陀堂内須弥壇に安置。

当山の前身である極楽寺の本尊でもあった。両手先は後補。

重要文化財(国指定)

階段の散りモミジもきれい。

白ナンテン、朝露をまとい冬の風情を感じさせていました。

過去の萬徳寺訪問記

若狭の古刹・名刹 萬徳寺
萬徳寺は福井県小浜市にある高野山真言宗の寺院。 山号は延宝山、本尊は阿弥陀如来。 … 続きを読む →

延宝山 萬徳寺
萬徳寺の前身は極楽寺といい、文永2年(1265年)の若狭惣田数帳に存在が記されて … 続きを読む →

雪景色が印象的でした。

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阿納でトラフグを食す

今年も阿納でトラフグ!!

宿泊はお馴染みの若狭ふぐの宿 下亟(しもじょう)

宿の前の浜から日の出、早朝から鳥たちが騒ぐ。

東の空に赤みが差してくる。

民宿が朝日に照らされる、阿納のとらふぐ養殖は全国で5位にあり、日本海側では唯一、しかも最北端に位置する。

日の出です。

砂浜も赤く染まる。

昨夜はフルコースに挑戦!!
食べきれずてっちりは今朝の朝食に持ち越しです。

あさからてっちりを平らげた面々、全員昼食抜きでした。

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利長とまつを祭る 尾山神社

神社の名称が尾山神社に改められ利家公が祀られたのは1873年(明治6年)のことです。

江戸時代に最大の外様大名であった前田家は幕府から謀反の疑いを掛けられないように、利家公を金沢城の近くに祀ることはせず、浅野川の向こう側、今のひがし茶屋街の先にある宇多須神社に祀っていました。

神門

3層目には、ギヤマンがはめ込まれ、夕刻のギヤマンが夕日に映える頃や、日没から午後10時までの明かりが点灯する頃は見事。

屋根には避雷針が設置されている[2]。これは、日本最古の避雷針とされ、現在も現役である。
オランダ人医師ホルストマンが建設中の神門を見て、北陸が雷が多く高い建物は雷の被害に遭う可能性があるとして助言したことが始まりとされる。

「利家公金鯰尾兜」

この兜は、御祭神前田利家公が戦国の昔二十三歳にして桶狭間の戦に臨まれたとき以来、幾度の合戦に着用されたもの。

利家公は文武に長け刀槍剣鉾を友として、初め織田信長公に仕え後に豊臣秀吉公と共にその覇業を成し遂げた。

この間利家公は戦に臨まれるときは必ずこの兜を身に付け、戦えば勝ち一戦ごとにその功績は高く評価されたそうです。

利家公を祀る神社に限らず、前田家では家名存続のために絶えず幕府に忠誠の意思を示しました。

その代表的なものが、利家亡き後、おまつの方(芳春院)が自ら人質となり江戸に渡ったことです。

おまつの方は江戸へと向かう際に、息子たちに「母は死んだと思いなさい」と言い残して旅立ちました。
後世の歴史家の間では、初代藩主の前田利家よりも、おまつの方を高く評価する声が目立ちます。

この像の利家も「槍の又左」にふさわしく長い槍を持ち、背中に母衣(ほろ)をつけています。

母衣「ほろ」について

流れ矢を防ぐために、鎧(よろい)の背にかけた布のことを言います。

その後時代の推移により風にふくらんだ形を示すために、竹串、鯨の骨類、ひげ等を骨組みに入れるようになり、これを母衣と呼びました。

戦国時代(西暦一五六〇年頃)に騎馬武者は、これを背に戦場を駆け巡り連絡の役をつとめました。このような騎馬武者を母衣衆と呼びました。

織田軍団の母衣衆は、佐々成政を筆頭とした十人の黒母衣衆と、前田利家を筆頭に九人の赤母衣衆とで合計十九人でした。

そして、戦闘となれば、諸隊のガイド的役割もあり、敵にとって目に付きやすく、大変危険でもありました。

神苑

尾山神社が建設される前に、この地にあった金沢城金谷御殿の庭に手を加えて今に至る。

別名は楽器の庭。琴をモチーフにした琴橋や琵琶をイメージした琵琶島など、おもに日本の雅楽で使われる楽器や楽器を演奏するための衣装などをモチーフにした橋や島から成り立つ。 

東神門

もともとは、金沢城二の丸御殿で利用されていた。
二の丸御殿はたびたび火事にあっているが、その際この門は一度も燃えなかった。

その理由としては、立派な龍の彫刻が施されており、この龍が水を吹いて火災を免れたという伝説がある。(作者名は不明)

その後、金沢城は廃城となり金沢城跡が陸軍の拠点となると、訓練などに支障が出るとして卯辰山の寺院に移動された。(なお、この後にも陸軍が二の丸御殿で火事を起こしている) 卯辰山の寺院がなくなると、尾山神社に移され、現在は裏門として利用されている。

社殿の隣脇になんと、カエルを発見、しかも金のカエルです。

神苑にひかれた導水管。
3代藩主利常の頃犀川上流から金沢城に導水した辰已用水が完成しその一部を分岐し金谷御殿(今の尾山神社)にも通水した。昭和の道路工事で当時の水道管が発見された。

前回の訪問記

前田家十七代の藩主と正室をお祀りする尾山神社
社伝によると、 前田利家公の沒後、その霊を神として奉祀しようとしたが、当時はばか … 続きを読む →

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初秋の金沢城

金沢城は金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む)。

現在、重要文化財に指定されている石川門は、天明8(1788)年に再建されたもの。

今は完全に埋め立てられていますが、延宝期はしっかりと水がはられていました。
そして、塞き止められお堀となっています。

この百間堀は前田利家入城前に城主、正確には 一向一揆の御山御坊を攻め落とした佐久間盛政がこの百間堀を掘ったとも言われています。
正確なことはまだわからないようです。

石川門は一般的な枡形構造の城門と同様に、一の門(高麗門)、二の門(櫓門)、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門となっています。

最初の門(一の門)を入るといわゆる枡形虎口になっていて、右に90度曲がったところにもうひとつの門(二の門)があります。

一の門から入って正面の壁と、左手の壁にあたる部分です。
明らかに異なる積み方がなされています。

三ノ丸

橋詰門一の門(復元)

橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門です。

高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。

「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、二の門の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門でした。

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。

「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。

二の門をくぐれば二の丸。

二の丸から眺めた菱櫓と五十間櫓。
菱櫓は三層三階の建物で、金沢城一の高さを誇っていた。

本丸との間の空堀に架かる極楽橋と現存の三十間櫓の様子。

案内板によると「 二ノ丸から本丸への通路に架かる橋、金沢城内ではっきりした名称の付いている橋は珍しい。

その名称から金沢御堂時代の遺構であるとの伝承がある」とあります。
金沢御堂は戦国時代、一向一揆の拠点になった場所の1つで、寺院全体が城砦化していたとも云われています。

金沢御堂時代にも空堀のような防衛施設があり念仏を唱えながら橋を渡り極楽浄土を願っていたのかも知れません。

極楽橋の上から兼六園方向を撮影したもの。
右側が本丸方面であり、見事な石垣が積み上がっている。
見事な石垣が積み上がり、かなりの高低差を作り出している。

三十間長屋からはすぐに本丸に至るが、この景色から考えると、本丸まで攻め込むのは容易ではなさそうだ。

三十間長屋

本丸付段に安政5年(1858)に再建された長屋で、金沢城に現存する長屋建築としては唯一のものです。
宝暦の大火(1759)で焼失した後、100年近くたって再建された。

幅3間、長さ26.5間余りの2階建て多聞櫓で、鉛瓦葺の堅牢な構造が特徴的です。

「陸軍の破壊」、明治のやっつけ仕事、粗悪な改修一目瞭然

明治は城「受難」の時代だった。

戊辰(ぼしん)戦争で破壊された東北各藩の城以外にも、無事に残った各地の名城も悪しき旧体制のシンボルとして解体破壊されていった。

文化財として守る意識など皆無だった。

あの姫路城でさえ解体寸前だったが、今に残ったのは解体費用がかかりすぎるため手を出せなかったからだという。
 
陸軍が利用した金沢城は、明治4年の廃藩置県で新政府の兵部省所管となった。
6年には名古屋鎮台分営、8年に歩兵第七連隊となっていくが、兵舎として使える建物以外は次々撤去された。

金沢城公園の本丸と二の丸の間の石垣をくり抜いて造られたトンネル。

明治から昭和の初めにかけて、金沢城は兵部省、のちに陸軍省の所轄となりました。
このトンネルは、旧陸軍の弾薬庫通路として造られたもの。

本丸跡地に、その弾薬庫はあったそうですが、現在は残っていません。

トンネルは煉瓦積みで、荷車などを通すためか、結構大きい。
現地には簡単な説明が書かれた紙がトンネルの前に貼られているだけ。

このトンネル、石垣を崩してレンガを積み、また石垣を積みなおしたのだと思われます。
弾薬庫への往来ということで、直線ルートが欲しかったんでしょう。

鶴の丸休憩所からの眺め。

鶴の丸は三の丸と東の丸の間にある小さな曲輪。

前田利家の夫人、芳春院が白い鶴が舞い下りるのを見て鶴の丸と命名したという言い伝えが残っている。

江戸時代初期には加賀藩二代目藩主・前田利長が休憩用の御殿を建てたそうですが、大坂の役の際には、一向宗徒や百姓・町人をここに人質として収容したそうです。

石川門の内部。

秋です、すすきが風に揺れていました。

かつての「いもり堀」は、金沢城の南西側を囲む外堀で、明治40年(1907)、旧陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は、陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用されました。
 
江戸時代の堀は、幅が広いところで約40m、深さが10m以上あり、水を湛えていました。
斜面は土羽で、比較的緩やかな勾配で造られており、南東端には鯉喉櫓台の石垣がありました。

外周の南端、ここには城内随一の高石垣がある。

この4段の石垣!段々に積み上がっている石垣は美濃岩村城などでも見られるが、ここは一段一段がかなり高いのでとても迫力がある。
しかし石垣麓の説明板に衝撃の事実が。

なんとこの石垣は今の上3段分が繋がった高さ22m以上の高石垣だった。
しかし明治時代に何故か(堀を埋めるためか)削り取り、今の4段構成に改変してしまったとのこと。

壊してしまわず、ちゃんと4段に積みなおしてくれただけでも良かったと思うべきか。

本丸南面の4段高石垣の全景。
石垣の向こうの深い森の奥が本丸。

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秋の気配 兼六園

兼六園は小立野台地の西北端近くにあり、金沢城跡とは百間堀をへだてて相対している。
江戸時代の代表的な回遊池泉式庭園で日本三名園の一つ。

穏やかな初秋の光を浴びて秋の始まりを感じさせる園内を散策。

「兼六園」の名前の由来

奥州白河藩主松平定信公が、12代藩主前田斉広(なりなが)の依頼により命名。
中国の古典『洛陽名園記』の中の「湖園」の章から採り、

宏大(こうだい)、幽邃(ゆうすい)、人力(じんりょく)、蒼古(そうこ)、水泉(すいせん)、眺望(ちょうぼう)
の「六勝」を兼ね備えていると言う意味で命名された。

長らく殿様の私庭として非公開だったが、1871年(明治4年)から日時を限っての公開が開始。

同年に園内の山崎山の下に異人館が建てられ、噴水前には理化学校が開設された。
1872年(明治5年)には異人館は成巽閣とともに国内初の博物館である金沢勧業博物館となった。

同館は1909年(明治42年)に廃止されるが、その間1879年(明治12年)に図書館、1887年(明治20年)に金沢工業学校(後の石川県立工業高等学校)が附属されるなど、大規模なものに拡張された。

徽軫灯籠と霞ヶ池(かすみがいけ)

霞ヶ池は兼六園で最も大きな池。
周辺に徽軫灯籠、虹橋、唐崎松、蓬莱島、栄螺山、内橋亭などの名勝、銘石が配されている。

徽軫灯籠(ことじとうろう)

霞ヶ池の北岸に位置する灯籠で、兼六園を代表する景観となっている。
脚が二股になっており、琴糸を支える琴柱に似ていることから名付けられた。

無料で24時間解放されたときの深夜、何者かによって灯籠が破壊される事態が発生し、当時のものは別のところに保管され、現在の灯籠は新造されたものである。

唐崎松(からさきまつ)と秋を感じさせるすすき。

唐崎松は前田斉泰が琵琶湖の唐崎松から育てた兼六園内でも有名な樹木。
雪の重みによる枝折れを防ぐ為の雪つりは冬の風物詩。

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