春驟雨の中の散策 明治村

明治村は非常に大規模であり、その敷地面積は日本のテーマパークでは、同じ名鉄インプレスが経営するリトルワールドに継ぐ、第3位を誇る。

前回の訪問時に半分回ったので今回は残りの半分を・・・しかし、あいにくの殴りつけるような驟雨の中の散策になってしまった。

前回の訪問記
レトロ感がとてもいい 博物館明治村
1965年(昭和40年)3月18日、名鉄が用地の寄付をはじめ財政面で全面的に援助 … 続きを読む →


三重県庁舎
1879年(明治12年)の建築。設計は清水義八。
「旧三重県庁舎」として、1968年(昭和43年)4月25日に重要文化財指定。

ご覧の通り桜は散ってしまっている、みどりの中にミツバツツジが存在感を示す。

聖ヨハネ教会堂
宣教師でもあるアメリカ人建築家ガーディナーの建築。

日本聖公会京都五条教会として1907年(明治40年)に建てられた。
木造煉瓦造二階建て銅板葺。1964年(昭和39年)に移築。細部はゴシック風。

「旧日本聖公会京都聖約翰教会堂」として、1965年(昭和40年)5月29日に重要文化財指定。

学習院長官舎

この学習院長官舎は、学習院が四谷から現在の目白に移された際、他の校舎とともにその構内に建設されたものであるが、当時の学習院長は陸軍大将乃木希典で、第十代目にあたる。

フランス人建築家レスカスによるものとされる、西郷従道の邸宅の接客用の洋館。

明治10年代に建設。 木造二階建て銅板葺。1964年(昭和39年)に西郷山から移築。
内部で展示されている調度品の多くは鹿鳴館や赤坂離宮で使用されたもの。

二階のベランダは雨水を流すため若干の傾斜をつけるなどの細やかな工夫が随所に見られる。

明治村移築前は国鉄スワローズの選手宿舎として使われ畳を敷いていたとされ、移築にあたっては名鉄が保存していた国鉄キハ6400形蒸気動車の所有権を国鉄に返却し等価交換してもらう形をとった。

「旧西郷従道住宅」として、1965年(昭和40年)5月29日に重要文化財指定。

森鴎外・夏目漱石住宅

明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものであるが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借家、一年余りを過ごした。

又、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。

札幌電話交換局

防火の観点から札幌軟石を用いた石造で建てられた。
一階はアーチ窓、二階は楣窓を採用している。

二階窓下には花紋が連続している。1898年(明治31年)建設。1965年(昭和40年)移築。

「旧札幌電話交換局舎」として、1968年(昭和43年)4月25日に重要文化財指定。

宗教大学車寄

この建物は、現在明治村3丁目の岬の広場に「あずまや」の如く建てられているが、本来は明治41年(1908)東京郊外の巣鴨に新築された私立宗教大学本館の車寄であったもの。

台場鼻潮流信号機

関門海峡は、潮流が急で海峡幅が狭く、特に明治後半には交通量も増加し、衝突座礁する船舶が少なくなかった。
 
この潮流信号機は、明治42年(1909)8月、竹ノ子島の台場鼻通行潮流信号所の設置され、航行する船舶の安全を図るため潮流の方向、緩急を70年間も知らせ続けその役割を果たしてきた。

村内風景

左が宗教大学車寄、右が神戸山手西洋人住居、旧所在地 神戸市生田区山本通
建設年代 明治20年(1887)代

それぞれ木造総二階建の主屋と付属屋からなる住宅であるが、建物の沿革は余り明確にはなっていない。
明治20年代(1887~1896)に建てられたものと推定され、当初は外国人のものであったと思われるが、同29年(1896)には日本人増田周助の所有であったとの記録がある。

六郷川鉄橋

旧所在地 東京都蒲田・神奈川県川崎間の六郷川(多摩川下流)
建設年代 明治10年(1877)

明治5年、日本に初めて鉄道が開業された時、新橋横浜間に造られた大小22の橋は全て木橋であった。

イギリスから鉄材を輸入して組み立てていたのでは、間に合わないという理由であった。
開通の後、複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められ、明治10年11月、日本最初の複線用鉄橋として、この橋が完成した。

開通式は、時の工部卿伊藤博文も出席して、盛大に行われたと伝えられている。

停車している機関車は尾西鉄道蒸気機関車1号、尾西鉄道が開業するにあたり、アメリカのブルックス社から購入した機関車。

形式は2B1とよばれる前輪2軸、動輪2軸、従輪1軸のタンク式。
尾西鉄道は明治29年に会社設立、明治31年には弥富―津島間が、同33年には弥富―新一宮間が開業した。

後ろの建物はハワイ移民集会所、ハワイ島の町ヒロのワイルック川のほとりに、日本人牧師岡部次郎氏によって日本人のために建てられた教会であった。

その後教会の役目を終えると、周辺の日本人の集会所となり、さらにヒロの英字新聞社の倉庫として使われるに至った。

その頃は屋根を取りはらわれ、二階が増築されて、姿がかなり変わっていた。  

移築当初、原形をとどめていた一階部分だけを復原したが、その後の調べで古写真が発見されたため、屋根を創建時の姿にもどし、建物周囲の柵や入口の橋などを補った。

京都市電「七条駅」付近。

明治時代、日本で初めての鉄道が開通しました。

明治村では、当時使われていた”本物”の蒸気機関車が運行されています。
さらに、日本で初めて開通した市内電車、「京都市電」も毎日運行。
いずれも、この時代の車両に乗車できることは国内のみならず、世界的にも極めて稀です。

この時期は何かと雨の多い季節です、図らずも今回は驟雨の中の散策となってしまった。

万葉集巻十七には、越の国に派遣されていた大伴池主が上司である越中守大伴家持とやりとりした長歌の中にこんなくだりがある。

「をとめらが春菜摘ますと くれなゐの赤裳の裾の 春雨ににほひひづちて……」。

遠く越の国にいて、遙か平城京に思いを馳せる。
春雨けぶる中を、恋しい人が摘草に出ているさまを思い遣る歌である。

「赤い裳裾が春雨に濡れて一層あでやかな色になっているではないか。ああもう、思い浮かべるだけで切なくなりますなあ」と、池主さんは完全にホームシックのようである。

このように万葉の昔から現代に到るまで、春雨には独特の情趣があるとされてきた。

驟雨は夕立のようなものであるが、春は春で夕立とはまた違ったイメージが、人々の心に映ったのではないだろうか。

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青葉の季節を迎えた犬山城

犬山城は江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつ。
また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。

黒門跡、現在礎石が一つ残る。

登城道の最後の坂を登りつめたところに岩坂門があった。

本丸門(鉄門)、桜は葉桜になり、みどりがとてもきれいです。

前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。

また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。

江戸時代には尾張藩の付家老の平岩親吉が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。

江戸時代には尾張藩付家老成瀬氏の城として維持され、白石城と同じく大名家の城ではなかった。

城は最近まで個人の所有であった。

現在は財団法人「犬山城白帝文庫」に譲渡されているが、成瀬家の姫(成瀬 淳子氏)が理事長に就任して管理している。

過去の犬山城訪問記

犬山城の紅葉 あいにくの雨でした
犬山城は、現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひ … 続きを読む →

桜咲く白帝城 犬山城
東海の山城、今日は二日目、まず訪問したのは山城でなく平山城の犬山城。 関連記事: … 続きを読む →

木曽川の畔にたたずむ後堅固の城 犬山城
木曽川を背に建つ、国宝犬山城は兵法に言う「後堅固(うしろけんご)の城」です。 標 … 続きを読む →

犬山早朝散策 美しい日の出を求めて・・・・
犬山での宿泊は久し振り、昨夜は雨だったが今日はどうやら晴れらしい。 今朝の目覚め … 続きを読む →

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伊勢本街道 飼坂峠あたり


仏隆寺、三多気、屏風岩と回るもどこもまだつぼみ。
今年は桜を見るのに苦労する。

この辺りはよく咲いており、暫し休憩。

この先、「首切り地蔵」という物騒な名前の地蔵があるという。

腰切地蔵、首切り地蔵と、飼坂峠には山賊が首を切ったり、腰を切ったりした逸話が残っており、そのような犠牲者を供養するため祀ったという。

筆のタッチで描いてみる。

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地中海村 カスティーリャの街


マドリードの南に広がるスペイン中部に位置するカスティーリャ地方。
乾いた大地がどこまでも続く高原をイメージ化したゾーン。

建築様式はトレード・ラマンチャ地方を参考にしています。
素朴な石積みの窓を持つ建築など、全体に山岳的な雰囲気を描いています。

カスティーリャの街は、トレドやラマンチャ地方の建築様式で表現され、素朴な石積みの窓や外壁が特徴。
山岳地帯をイメージさせる落ち着いた趣のある街並みです。







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志摩地中海村への行き方歩き方

志摩地中海村公式サイト

三重県志摩市浜島町迫子2619番地1
0599-52-1226

公共交通利用の場合、近鉄志摩線鵜方駅よりタクシーで約15分。

最寄りのバス停からは徒歩で30分かかるため、公式サイトでは路線バスの利用を推奨していない。

予約すれば、宿泊者は同駅から定時運行の無料送迎バスを利用でき、非宿泊者も当日空席があれば事前連絡の上で利用できる。

地中海村 サルジニアの街


イタリア本島西側に浮かぶ地中海の島。

サルジニアゾーンの建物は土壁が屋内・屋外を問わず自由な曲線を描いています。


ビーチの美しさで世界中のセレブたちを魅了する、人気のリゾート地です。





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志摩地中海村への行き方歩き方

志摩地中海村公式サイト

三重県志摩市浜島町迫子2619番地1
0599-52-1226

公共交通利用の場合、近鉄志摩線鵜方駅よりタクシーで約15分。

最寄りのバス停からは徒歩で30分かかるため、公式サイトでは路線バスの利用を推奨していない。

予約すれば、宿泊者は同駅から定時運行の無料送迎バスを利用でき、非宿泊者も当日空席があれば事前連絡の上で利用できる。

地中海村 アンダルシアの街


建築様式は、ロンダ・カサレスの街並みを参考にしています。
明るい華やいだ海辺の都市の雰囲気を描いています。

真っ青な空とまばゆい太陽。オレンジ色の屋根と真っ白な壁がキラキラと輝いています。

明るく華やかな雰囲気は、まさに情熱の国スペイン。赤いバラを口にくわえ、カスタネットを片手に掲げた女性が、タンタンと足を鳴らして現れそうですよ。

漁師の酒場。






テラコッタの壁が目を引く地中海レストラン「RIAS(リアス)」
レストランへ続く小道からの見晴らしがまた、すばらしい!

クルーズ桟橋と、前方に伊勢志摩サミットの会場となった志摩観光ホテルが見える。

手前は宿泊者専用プール。



桟橋の右は青海苔の筏、英虞湾で最も採れるものは青海苔であり、地元では「アオサ」とも呼ばれ年間を通して採れる。

レストランの裏手はウッドデッキ、今日のお昼はパエリアのフルコース。

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志摩地中海村への行き方歩き方

志摩地中海村公式サイト

三重県志摩市浜島町迫子2619番地1
0599-52-1226

公共交通利用の場合、近鉄志摩線鵜方駅よりタクシーで約15分。

最寄りのバス停からは徒歩で30分かかるため、公式サイトでは路線バスの利用を推奨していない。

予約すれば、宿泊者は同駅から定時運行の無料送迎バスを利用でき、非宿泊者も当日空席があれば事前連絡の上で利用できる。

外宮逍遥


北御門(きたみかど)口(裏参道)は火除橋の手前に手水舎がある。

明治以前はこちらが正面入り口でしたが、伊勢市駅が出来、現在では裏参道になっている。

手水舎で手を洗い口をすすぎ身も心も清めて、表参道を進むと正面に第一鳥居がある。

第一鳥居をすぎるとすぐ左側には祓所(はらえど)があり、ここでは奉幣祭のときにお祓いの行事が行われる。

参道は右に曲がって続くが右手奥には斎館がある。

斎館、祭典のときには、祭主、大宮司、少宮司をはじめ全神職が前夜または前前夜から参籠(さんろう・心身を清めるためのおこもり)する。

斎館の建物に続いて行在所(あんざいしょ・天皇陛下ご参拝のときのご用にあてられる)がある。

正宮、内宮の鎮座より約500年後の雄略天皇の時に、天照大御神の食事をつかさどる御饌都神(みけつかみ)として、丹波の国(今の京都府北部)から伊勢の国に迎えられたと伝えられている。

一番外の御垣を板垣といい、その板垣御門の中に入ると、純白の絹の御幌(みとばり)がたれている外玉垣南御門があり、一般にはこの前でお参りする。

正式な参拝の仕方は、二拝、二拍手、一拝。
お参りがすんだら外玉垣御門の左方に寄ると、三重の垣の奥にひときわ高く、千木、鰹木の金具が光輝く正殿の屋根が望める。

萱葺きの屋根の両端には外削(そとそぎ・先端を垂直に切る)の千木がそびえ立ち、棟には九本の鰹木が並んでいる。

唯一神明造といい、檜の素木(しらき)造で、柱を直接、地中に埋めて建てる掘立式という純日本風の建築様式。

正殿の前方の両側には、皇室からのお供えを納める東宝殿・西宝殿があり、この三つの建物が四重の垣―――内から外へ瑞垣、内玉垣、外玉垣、板垣で囲まれている。

外玉垣の中を中重(なかのえ)といい、中央に中重鳥居が立っている。
東側の萱葺の建物は四丈殿といって、雨の時、ここで中重の行事が行われる。

中の御池に映る正宮。

この御池は昔、宮川の支流で外宮正宮前を流れていたのが、いつしか地震などで埋まって細長い池となったもの。

この横に、注連縄を張った中に丸石3個を並べた石積みがある。
俗に「三つ石」と呼ぶ川原祓所(かわらのはらいしょ)で、式年遷宮の時にだけお祓いの儀式が行われる場所。

亀石〈かめいし〉、多賀宮に進む参道の途中、中の御池にかけられている1枚の大石の橋がある。
亀に似ているところから亀石と呼んでいる。

土宮、外宮の土地の守り神で大土御祖神(おおつちみおやのかみ)が御祭神である。
多賀宮への参道の右側にある。

風宮、土宮の東には、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)の風神をおまつりする風宮がある。

元寇時に神風を吹かしたと伝えられる。
内宮にも同じ御祭神の風日祈宮がある。

多賀宮は小高い檜尾山上にあり、約100段の石段を上るとようやくたどり着ける。

多賀宮、豊受大御神の荒御魂をおまつりしている、外宮第一の別宮。
高い所におまつりするから昔は、高宮とも書かれていた。

伊勢神宮外宮の鳥居を入ったすぐの左側のまがたま池畔に、「せんぐう館」がつくられた。

20年に一度繰り返してきた式年遷宮の工事に使われた道具、神事や装束、神宝などの一部を展示する施設である。

これらはいままで公開されていなかったのだが、来年の式年遷宮を記念して公開することになった。

勾玉池は、明治22年9月に造られ、勾玉の形をしている。
北側の池畔には舞楽の舞台が常設されていて、神宮観月会が仲秋の名月の宵に行われる。

また、参拝者休憩所もあり、6月頃は花菖蒲が美しく湖畔を彩る。
表参道の火除橋を進むとすぐ左側にあります。

独り言・・・・・

梅原猛氏は著書「海人と天皇」の中で、持統天皇の不思議な行動の一つとして、「伊勢御幸」のことを取り上げられている。

① 外宮に祭られている「豊受大神」が伊勢の本来の産土である。

② 「内宮」は「外宮」と違って、初めから天皇家の祖神を祀るために、持統天皇と中臣氏によって作られた神社であって、持統天皇はこの時内宮の社殿建築のために出かけたのである。

③ 天皇家の皇祖神としての天照大神という女神を自分と重ね合わせたのかも知れない。

内宮の荒祭宮の境内では5~6世紀頃の遺物が出土し、「荒祭宮祭祀遺跡」と呼ばれる遺跡がある。

一方、外宮では9世紀初頭の遺物が最古の例であることから、内宮の立地する場所が古くからの祭祀の場だったことは確実とされる。

壬申の乱(672年)の混乱が鎮まり、律令国家を目指していた時期に、中華王朝の皇帝が奉祭する祖霊廟と様式が異なるが、日本国の天皇家の祖霊廟としての風格を備えた神宮創建(あるいは大改造)に着手し、690年頃に伊勢神宮の内宮、698年頃に外宮が完成したものと思われるが起源に関する史料がない。

伊勢神宮の成立について確かなのは、現在地での成立が文武天皇の698年であること。

彼は律令体制を築いた天武・持統両実力天皇の孫。
伊勢神宮は『日本書紀』と同様に、日本国の体制固めのための歴史や祭祀整備の一環であるが、天武天皇は完成を待たずに死去。

三輪山の祭主である大神(おおみわ)氏が、持統天皇の伊勢行幸(690年)に強硬に反対したとされるが、大王家(天皇家)の氏神を御神体の三輪山から抜き取って、伊勢に遷された大神氏としては当然の反応だといえる。

不思議なのは、女帝の持統天皇以降、明治天皇まで行幸がなかったこと。

熊野行幸は1090年の白河上皇からと言われるが、白河上皇は9回の熊野行幸を行った。
その後、後白河上皇も33回の熊野行幸を行っている。

なぜ伊勢神宮行幸がなかったのだろう。

それは天武天皇の期待とは裏腹に、天皇家の祖神を祀る神宮とはされず、あくまでも天武天皇の私的な祭祀霊場とされたのではないだろうか。
伊勢神宮の起源を知れば理解できます。

壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)が、吉野から逃れ伊勢に入った時、国司初め多くの国人の助けを受け、これが勝利の元になった。

のちの柿本人麿呂の歌の中に
行く鳥の  争うはしに  渡会の斎宮ゆ
神風に  伊吹きまどはし

伊勢の神風で大海人皇子の勝利が決まったとの意。

天武天皇はお礼に国人の信仰厚い渡会(今の三重県明和辺り)の狭く簡素な斎宮を、五十鈴川のほとりに立派な社殿を建立し移すこととした。

生存中は完成せず、持統四年に完成し、伊勢皇大神宮の第一回遷宮を行った

天武天皇の私的皇祖祭祀場と見られたようだ。

持統六年の伊勢神宮御親拝にあたり、強い反対があった。

それ以降明治まで約千年間天皇の伊勢御親拝は行われなかった。

道鏡の事件で、御神託を仰いだのは、宇佐神宮、後白河法皇は33回も熊野神社詣を行ったのに、伊勢詣はない。

公式には天皇は絶えず継承されているが、事実は持統天皇が新しい皇祖となり、子、孫に新しい王朝として天皇となる、という事だったのでしょう。

事実、天皇の菩提寺である泉涌寺には、天武から称徳までの位牌が無い。

光仁、桓武は天智天皇から皇位継承権を受け継いだ現天皇家の先祖だが、天武から称徳は天皇家に列なる者では無い、とされている。

それゆえ、持統天皇はアマテラスという皇祖神を作り出し、自分の子孫に天皇となる正当性を持たせたかったのでしょう。

ところでこの新嘗祭の前夜、つまり今日11月22日の夜に、宮中で不思議な祭祀が行われることをご存知でしょうか?

今年に限らず毎年行われてきた宮中祭祀で、古代からほとんど形を変えずに継承されてきたとされ、神秘のベールに包まれています。

宮内庁のHPでも一言も存在について触れられていないその宮中祭祀とは・・・
「鎮魂祭」(みたましずめのまつり)。

鎮魂という言葉から亡くなった人々の慰霊の祭祀かと思われるでしょうが、この場合の鎮魂祭は意味合いが全く異なります。

簡単に言うと、「再生・復活の儀式」です。

神道では「魂は不安定で、時には遊離してしまう」と考えられています。

そのため、まず遊離しようとする天皇の魂を体に鎮めて安定させ、その後で外から「魂を振る」ことで再び力を甦らせる・・・この目的で行われるのが「鎮魂祭」です。

このような「再生・復活」の宮中祭祀を新嘗祭の前夜に行うことで、最も力を持った状態で最重要の宮中祭祀に臨むというわけです。

これがはるか古代からずっと続けられてきました。
現代人の感覚では不思議に思うかも知れません。
非科学的と言えばそれまででしょう。

しかし、古代の人々にとっては決して怪しげなものではなく、むしろ真実といってもよいものでした。

現に最近の歴史教科書では、古代の人々は霊的な現象に悩まされることが多く非常に恐れていた、という解説が多く見られます。

桓武天皇による平安京遷都も「怨霊に悩まされたため」とはっきりと書かれています。

古代史の理解には、こうした当時の人々の考え方が必要です。
そしてこの「鎮魂祭」が、宮中だけでなく奈良県天理市の「石上神宮」(いそのかみじんぐう)でも行われます。

宮中祭祀が別の場所で行われているというと、天皇家の真似をしていると思われるでしょう。
しかし、実際は逆。

石上神宮に伝わっているのが本家で、それが宮中祭祀に取り入れられたのです。

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外宮へのアクセス、行き交歩き方

伊勢神宮公式サイト

内宮 <近鉄>宇治山田駅からバス15分
外宮 <JR・近鉄>伊勢市駅から徒歩5分(600m)

芸術の秋 ルーブル彫刻美術館でパリを満喫

寶珠山大観音寺の境内にある。B級スポット扱いされることがあるが、ルーブル美術館から公式に許可を得て運営している。

まずセンターフォーカスで柔らかく。

館内の作品はルーブル美術館にある、彫刻作品約1300点を本物から直接型をとり作成したレプリカを展示している。

建物は黒川紀章が設計したもので、1987年(昭和62年)に開館した。

水晶玉を通して作品を見る、これも中々面白い。

ズームアップ回転。

光と影の魅力。

ナポレオンのデスマスク。



千手観音像。、これはルーブル彫刻美術館オリジナル。



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ルーブル彫刻美術館へのアクセス、行き方歩き方

ルーブル彫刻美術館公式サイト

三重県津市白山町佐田1957
059-262-1111

近鉄大阪線「榊原温泉口駅」より徒歩約5分。

和紙とうだつのあがるまち美濃のおひなさま

1300年の伝統に生きる美濃和紙。

美濃和紙の起源は明らかではありませんが、奈良町時代、仏教の普及により、写経が盛んになりました。

その写経用の紙に美濃紙も使われたようです。
正倉院文書の中に美濃経紙が記されています。

あかりに彩られた美濃の町。

美濃和紙あかりアート館(みのわしあかりアートかん)、岐阜県美濃市にある「美濃和紙」と「あかり」をテーマにした美術館。

作品「にじをたべたひつじ」

作品「天使の集い」

毎日新聞社「手漉和紙大鑑」によると、大宝2年(702年)「美濃、筑前、豊前3国の戸籍簿断簡(正倉院文書中に現存)であり、いずれもそれぞれの国府で、所属の製紙工に漉かせたものである。」とあります。

これらのことから少なくとも美濃和紙は、1300年以上の歴史を有するものと考えられます。

平安時代に製紙業がいっそう発達し、美濃は紙の原料である楮(こうぞ)を600斥(約360kg)の年貢を差し出しています。

この量他の産地を大きく引き離した量です。

美濃和紙は江戸時代にも受け継がれ、明治時代は製紙業が激増しました。

その後、濃尾地震や不況、太平洋戦争による物資、労働力不足等が美濃和紙生産に大きく影響しました。

江戸時代、日本の中心地として発展してきた和の伝統と自然が共栄する美濃市。
領主・金森長近が築き上げた紙の一大産地として、今もその面影を色濃く残しています。

江戸の豪商たちが、富と粋を競った「うだつ」

“うだつ(卯建・宇建)”とは、屋根の両端にある防火壁のことです。

江戸時代、類焼を防ぐ工夫として、切妻平入りの町屋の両端の妻を一段高くした“うだつ”が設けられました。

しかしこの“うだつ”は、一丁前の店を構えなければ上げられません。

豪商たちは、“うだつ”を上げることはもとより、富と粋の象徴としてその意匠も競い合ったといいます。

そんな“うだつ”のある家も年々減り、今最も多く残っているのは美濃市常盤町・相生町・本住町・泉町です。
中には、国の重要文化財として指定されている家もあります。

旧今井家・美濃史料館(市指定文化財)

最も古い形式を残しているうだつ軒飾りです。鬼瓦が小さく、破風瓦の下に縣魚がないほか、破風瓦が左右それぞれ二枚ずつで構成されているのも他のうだつ飾りには見られない特徴です。

帳場、玄関を入ると帳場があります。紙問屋を営んでいた昔、商いに使われていました。
帳机・帳箪笥・小間よせ・接客用火鉢などが往時を偲ばせます。

明かり取り、天井から空へ向けて切り取られた明かり取りは、明治時代の改築によって取り付けられたものです。
天井からの高さは約3メートルあります。

小坂家(国指定重要文化財)

屋根全面に「起り(むくり)」をもつ美しい景観が特徴の、安永(1772年~81年)初期に建てられた造り酒屋です。

明治・大正・昭和とのさまざまな時代のおひな様はもちろん、美濃市の伝統産業である「美濃和紙」を衣装や小物に使った「上有知雛(こうずちびな)」

一目見ただけでは和紙と分からないほど精巧に作られています。

うだつが上がると言う、あの「うだつ」と、周囲に美濃紙で作った美濃祭りの「花みこし」のデザイン。

亀甲型の「の」が三つあるのは、美濃市の市章。受け枠に溝があるタイプ。
汚水管マンホール蓋

市章入りで中がコンクリート仕様。
汚水管マンホールの蓋

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美濃へのアクセス、行き方歩き方

岐阜県美濃市加治屋町1959-1
0575-35-3660 (美濃市観光協会)

長良川鉄道「美濃市駅」から徒歩約15分
岐阜バス「美濃」から徒歩約14分
岐阜バス「美濃市役所前」から徒歩約1分
東海北陸自動車道高速バス「高速美濃」から徒歩約30分

上有知(こうずち)湊(川湊灯台)

上有知というのは、しばらくこの地を代表する地名でしたが明治44年(1911)に、美濃和紙にちなんで、「上有知町」から「美濃町」と改名しました。

鑿の跡もありそうな古いタイプのトンネルを抜けます。

トンネルの上は小倉公園。

金森長近が徳川家康より美濃の地を拝領した時、小倉山城を築城しました。

小倉山は標高159mの小さな山で、現在、小倉公園として市民や観光客に親しまれています。
春には約1,000本もの桜が咲き誇り、さくらまつりで賑わう人気のスポットです。

金森長近は、長良川畔に物資輸送の玄関口として「上有知湊」を開き経済の発展を目指した。

江戸時代から明治末期まで流通、交通の中心として栄えた。
船着場までの石段、舟の安全のために奉祀された住吉神社、石灯籠などが昔の名残をとどめています。

番船40艘。美濃和紙、荏胡麻、生糸、酒ほかの輸送基地として、上流から運ばれる木材運搬の中継基地として、水運物流の要所として栄える。
美濃国四大川湊のひとつ。

灯台の側に頼山陽・村瀬藤城 別れの詩碑がある。

山陽と藤城の出会いは、『藤城遺稿』によれば、文花8年(1811)、藤城18歳のときに大坂に出て、混沌詩社に加わった。
そこには篠崎山陽、小竹親子もいて、京に出て間もない山陽が訪れ、初対面になったという。

その2年半後の文化10年10月、山陽は美濃赤坂のある江馬家を訪ねた後、長良川を舟で北上し、上有知の湊から上陸。藤城と再会した。

この時、山陽は17歳の後藤松陰を伴っていた。
二人は藤城の屋敷に逗留。また藤城の案内で斎藤招桂という人の別荘を訪れるなど、美濃滞在を楽しんだ。

詩碑には山陽が上有知を去る際の師弟心情が刻まれている。

頼山陽 
解纜離舟帯酔乗 急難忽過石千層 
厓頭送我人如豆 挙笠招招呼互応
 
村瀬藤城 
津頭帳別暁風寒 柔櫓声残岸樹間 
逢窓依約藤城雪 送到藍渓第一湾 

頼山陽
解纜して舟離れるに酔ひを帯びて乗る。 急難忽ち過ぐ石千層。 
厓頭我を送る 人、豆の如し。 笠を挙げて招招と呼び互ひに応ふ。

村瀬藤城 
津頭に悵別するに暁風寒し。 柔かき櫓声残す岸樹の間。 
篷窓、依約(隠微)たり藤城(藤城山)の雪。 送り到る藍渓(長良川)の第一湾。

曽代用水(そだいようすい)、岐阜県美濃市曽代の長良川左岸から取水している。

曽代地区を縦断し、小倉山と長良川の間を流れ、美濃市役所の西側を通り、国道156号に沿って南下する。

松森地区を通過し、東海北陸自動車道美濃ICの東を流れ、関市に入る。

川端地蔵、昭和二十七年に清泰寺の住職が長良川の水難事故防止のために作った。

前野渡船場跡、上有知湊の近くで商店や茶店・船頭屋敷が軒を並べ江戸期から大正期まで上有知の盛り場の一つだったとか。
(看板より)

美濃橋(みのばし)は、岐阜県美濃市の長良川にかかる人・自転車専用の吊り橋。

1915年(大正4年)8月起工、1916年(大正5年)8月完成の吊橋。

現存する最古の近代吊橋であり、2001年(平成13年)に土木学会選奨土木遺産を受賞し、2003年(平成15年)に国の重要文化財に指定された。

吊橋を支える主塔は鉄筋コンクリート製。床板は木製であり、鋼材でできた補剛トラスがあるのが特徴。

橋のある場所は上有知湊のやや上流にあり、牧谷街道の前野渡し(渡し舟)により行き来が行われていたが、交通量が多くなりこの橋が架橋された。 (Wikipediaより)

美濃橋上流の奇岩、木曽川の太田橋上流から犬山までの約13kmは、豊かな緑と奇岩怪石に恵まれており、 その風景がヨーロッパのライン川と似ていることから「日本ライン」と呼ばれています。

美濃橋下流を眺める、前野渡船場跡、上有知湊などが確認される。

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上有知湊へのアクセス、行き方歩き方

岐阜県美濃市湊町

長良川鉄道「梅山駅」から徒歩約15分。
岐阜バス岐阜美濃線「小倉公園前」下車、徒歩8分。
東海北陸自動車道美濃ICから、国道156号経由で約7分。