伊勢湾フェリー


伊勢湾フェリーは、三重県鳥羽市に本社を置く海運会社。
鳥羽と愛知県の伊良湖(田原市)を結ぶ定期航路(フェリー)を運航している。

3隻のカーフェリーで運航を行っていて、かつて常滑(師崎)航路を運航していた際は、更に3隻(三河丸・渥美丸・志摩丸)が在籍していた。

鳥羽港、江戸時代には鳥羽藩の藩庁が置かれ、城下町として発展する。

また上方と江戸を結ぶ菱垣廻船や樽廻船が遠州灘を往来する際は必ず鳥羽港に寄港することとなった。
港には廻船問屋や30余軒の船宿が立ち並び、大いに賑わった。

答志島、古くは『万葉集』にて、持統天皇の伊勢行幸にあたって都に残った柿本人麻呂により、 釧着く答志(手節)の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(巻一・41)とよまれた地である。

伊良湖水道は潮流が速くフェリーの波しぶきも相当なものだ。

風も強くデッキに立っていてもよろけるほどだ。

乗船中には答志島、菅島、そして神島といった伊勢の島々を眺めながら、優雅な約1時間を過ごす事ができます。

沖は遠州灘で大型船がひっきりなしに行き来している。

伊良湖岬灯台、渥美半島の先端に建つ白亜の灯台。

円筒形で太さは4.5メートル、灯高15メートル、明暗白光3秒間隔、光達距離12.5マイル。

渥美半島沖にある伊良湖水道は潮流が速く、暗礁が沖まで続いている航海の難所であったため、当時の逓信省灯台局により建設され、1929年(昭和4年)11月20日に初点灯した。

半島先端の伊良湖岬は志摩半島(三重県)と向かい合い、両半島の間にある伊良湖水道の北側が伊勢湾、南側が遠州灘である。

沖に神島が見える。
古くは、歌島(かじま)、亀島、甕島などと呼ばれた。神島の名が示すように、神の支配する島と信じられていた。

後に八大龍王を祭神として八代神社(やつしろじんじゃ)が設けられた。
神社には、古墳時代から室町時代にわたる総数百余点の神宝が秘蔵されている。

各種の鏡(唐式鏡、和鏡)や陶磁器などである。

三島由紀夫は小説『潮騒』で船から見る神島を「あいまいな、神秘な兜のような形」と表現した。

鳥羽藩の流刑地であったため、志摩八丈と呼ばれたこともあった。

小説潮騒の舞台であり、5回行われた映画化ではロケ地となった。同作品中では歌島(うたじま)とされている。

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伊良湖散策


菜の花祭り会場から港まで約5㎞の散策です。

片浜13里の砂浜、東を望む。
静岡県浜松市の浜名湖と外海の境目である今切れ口までの約52km(十三里)に亘って続く砂浜。

進行方向の西を望む。

高さ10メートルから30メートルの海食崖が大部分を占め、常に波による侵食を受けており、1956年の調査では1897年測量時の海岸線よりも60m後退していた。

このためテトラポッドなどの波消しブロックが多数設置されているが、アカウミガメの産卵地でもあるため、環境に配慮し一部で撤去する取り組みもある。

日出の石門

本島はかつて海底に堆積して出来たチャートと呼ばれる岩でできており、それがその後の地殻変動などによって海面上に姿を現し、さらに海の波による浸食によって洞窟ができて現在の形になったと考えられている。

洞窟は岩を貫通しており門のようになっていることから「石門」の名がある。
島には門が2つあってそれぞれ「沖の石門」「岸の石門」と命名されている。

時期と門を見る場所を選べば、門の向こう側に日の出を望むことができる。

ここからは約100段の石段を渥美サイクリングロードまで登らねばならない。

枯れたツタがきれいです。

登りきったところに島崎藤村の椰子の実の碑がある。

島崎藤村が明治時代に執筆した詩。
のち、昭和時代に曲が付けられた。

この詩は1898年(明治31年)の夏、1ヶ月半ほど伊良湖岬に滞在した柳田國男が浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語り、藤村がその話を元に創作したもの。 

高台から恋路ヶ浜を望む。

渥美半島の先端、伊良湖岬から付近にある日出の石門までの、約1kmの砂浜。

下を見下ろすと荒磯に海鳥が群がっている。

がけ側は潮風でやられた樹木が・・・・

恋路ヶ浜と神島を望む。

神島は三島由紀夫の『潮騒』で有名。

観光スポットとして近年「恋路ヶ浜」などと命名されたものではなく、その名の歴史は古く江戸時代の1808年(文化5年)には和歌に『春さめにぬれてひろはんいらご崎 恋路ヶ浦の恋わすれ貝』などと歌われており、伝説では、その昔、高貴な身分の男女が許されぬ恋がゆえに都を追放されこの地に暮らした事にちなむという。

見下ろすと風でできた砂の芸術が。

どちらも印象的だ。

振り返ると菜の花と恋路ヶ浜の向こうに伊良湖ビューホテル。

標高約100メートルの三方を海に面した高台にあり、遠州灘と伊勢湾・三河湾、神島などの三重県鳥羽市の島々を一望できる。

眺望の点で優れているため、屋上に放送局用のライブカメラが設置されており、東海地方のニュースでこの屋上からの映像が放映されている。

港では猫たちが寒風の中体を寄せ合っています。

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春呼ぶ 伊良湖菜の花ガーデン


1月中旬から3月下旬にかけて、渥美半島のいたるところで1千万本を超える菜の花が咲き誇り、いたるところで黄色い絨毯を敷きつめたような菜の花畑が現れます。

その期間、「伊良湖菜の花ガーデン」をメイン会場に、渥美半島一帯で「渥美半島菜の花まつり」が開催されます。

巨大な菜の花畑の迷路や菜の花刈りを楽しめたり、一帯の飲食店ではそれぞれに趣向をこらした菜の花を提供するなど、渥美半島全体が春の訪れを喜ぶワクワク感に満たされます。

菜の花は、早咲き・中咲き・遅咲きと分かれて植えられていて、開花期には切れ目なく菜の花を楽しむことができます。

幸せを呼ぶ菜の花ポストも登場。

ポーズをとったり楽しんでいます。

メイン会場の伊良湖菜の花ガーデンへは港から無料シャトルバスが運行。

片道約5㎞あり、雪か帰りのどちらかを散策に充てることも可能。

歩くルートはほとんどアスファルト道、途中1カ所だけ急な階段があるがあとは平たん路。

メイン会場の中でも、一番オススメの場所が菜の花畑の真ん中にある“河津桜”。

2月下旬〜3月初旬になると桜が開花し、菜の花の黄色と桜のピンク色のコラボレーションが楽しめます。

5本中3本は災害で枯れてしまったとか、残念。

小さな白い花が彩を添えています。

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岩戸山観世音寺風天洞


そこは豊田市大藏町岩戸山。足助・香嵐渓に向かう途中にあります。

県道沿いに立ち並ぶ異界へのゲートの向こうには、天空へと伸びる細道。

導かれるように足は一歩また一歩奥へと

十二支の動物の頭を持つ守り本尊が入り口に並んでいます。


1178年(治承2年)に建立された当地方における最古の寺院であり、当地の領主、原田家一門の菩提寺です。

聖徳太子御自らの彫刻によると言い伝えられし「聖観世音菩薩像」を安置しています。

その昔、洞窟の整備をしていた職人たちが洞窟から出てくる姿が、風天神様に見えたことから風天神様の住まう洞「風天洞」と名付けられ、呼ばれるようになりました。

境内に1000体以上の様々な像が並び、”仏像のデパート”と呼ばれる珍スポット。

名物の「風天洞」と呼ばれる洞窟は全長500メートルもあり、その中にも300体以上の像がズラリ。

また、途中にある「銭洗いの水」でお金を洗うと1万倍にもなるといわれている。

ラストの風天神という仏面が円柱に貼り付けられたオブジェは圧巻です。


中でも、石窟の天井に描かれた寝拝み楊柳観音は、台座に寝て拝むという世にも珍しい拝み方をするトルツメ観音として有名。


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上野城


藤堂高虎が大規模に改修した時は、大坂城の備えとして西側の防備を固めた。
これは、徳川家康が不利となった場合、この城で籠城する時に備えて、相当数の兵員を収容できるよう、細部の完備や美観を整えるより実戦本意に配慮した。

藤堂高虎は伊賀忍者に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊賀上野城を改修の参考にしたという伝承が残っている。

慶長16年(1611年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張したが、大坂の陣によって、当時高虎が従属する家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。

大坂城の高石垣とともに日本で一、二を競う石垣は1611年(慶長16年)に「打込はぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さを誇り、三方に折廻して、延長368mに及ぶ。

加藤清正公の熊本城の石垣と比べ、石垣が直線的に積み上げられているのが藤堂高虎流。

天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築きました。

菊岡如幻の『伊水温故(いすいうんご)』によれば、城は高丘の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守閣を建て、城下町は古くから開けた北側(現在の小田町)を中心としました。

慶長13年(1608)6月、筒井定次は改易となりましたが天守閣は、寛永10年(1633)頃に倒壊したと推定されます。

石垣の上に登ると、柴小屋や米蔵などの跡地を指す看板が建っていた。

本丸東側に一段高く石垣が組まれた曲輪がある。 
これが筒井時代の本丸で、藤堂時代には城代屋敷があった所だ。  

実際この曲輪に立つと、この城の一番高所で「ここが本当の本丸」といった思いがする。 
筒井時代にはここに三層の天守があり、現在天守台上に石碑が建てられている。

筒井定次の伊賀での石高は5万石とも10万石ともされ、それが事実だとすると事実上の左遷となっています。

筒井順慶の死後、筒井家の力が弱まっていたのと、筒井定次の失政もあったようで、重臣だった島清興(島左近)も1588年2月に、筒井家を離れています。

松倉重政、森好高、布施慶春といった家臣も筒井定次の元を去っています。

しかし、筒井定次は伊賀12万石、伊勢の内で5万石、山城の内に3万石の合計20万石だったとする江戸時代の史料もあり、伊賀での石高に関しては議論が分かれるところです。

昭和34年(1959)神部滿之助氏の篤志寄付により俳聖芭蕉翁を顕彰する事業のひとつとして建てられた。

館内の芭蕉文庫には翁の真蹟をはじめ近世から現代に至る連歌俳諧に関する資料等が数多く保存されています。

芭蕉記念館入り口に立つ杖を持った松尾芭蕉の旅姿。

天井に届くほどの巨大さです。

竹の茂みの中にひっそりと立つ灯篭。

立て札には、「この灯篭は松尾芭蕉の旧主藤堂新七郎家の築山にあったのが当館落成のさい同家十一代の当主藤堂志津氏より寄贈されたものである」とあります。

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伊賀流忍者博物館


1964年 – 上野市(現伊賀市)高山にあった民家を移築し、忍術研究家である奥瀬平七郎が忍者屋敷として開設。

領主に仕えずに戦毎に雇われる傭兵のような存在。伊賀衆・甲賀衆のような土豪集団もあれば、乱波・透破のようなただのごろつき集団もある。

戦には足軽として参加し、夜討ち朝駆けといった奇襲撹乱を得意とした。

伊賀・甲賀においては荘園時代から悪党がはびこり、それが後世に忍者と呼ばれる伊賀衆甲賀衆になる。

戦前は「忍術使い」といった呼称が一般的だったが、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して、「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼称が一般化した。

江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、“スッパ抜き”という報道における俗語の語源)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」)「透破(すっぱ、とっぱ)」「突破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」「細作(さいさく)」などがある。

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やきもの散歩道の素敵なオブジェたち


常滑を知るためのコースは、2通り設定されています。

Aコースは、やきもの散歩道の名所をぐるっとまわる1.6キロメートルの道のり。
Bコースは4キロメートルで、車やバスを使って常滑市全体の観光スポットをまわるのにおすすめ。

そして散歩道には素敵なオブジェたちが沢山。

立ち寄りグルメもハズせない、ギャラリーカフェでゆったり過ごしたい・・・



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やきもの散歩道で出会える猫たち

やきもの散歩道には、猫をモチーフにしたオブジェや置物がたくさん。
古風でシブめな招き猫からスタイリッシュな猫まで、今回の旅で出会った猫たちをご紹介します!






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常滑 やきもの散歩道 旧窯を使用した展示


他の店でも見られる旧窯を使用した展示スペース。
入り口にはいきなり般若。

いやがおうでも目があってしまう奥の翁面から目をそらすのが大変。

中に入ってみる。手前には売り物が多く展示されているが、往々にして高価。

高温で焼かれた壁面の色、得もいえぬ風情。

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常滑 やきもの散歩道 煙突のある風景


昭和初期の常滑の町には何十本もの煙突が林立し黒い煙がもくもくと立ち上がり活気に満ちていた。

その頃の主力製品は土管で、常滑港から出荷された。
それが今では窯はガス釜となり、陶器製の土管は使われなくなり、無用の煙突の数はどんどん減り続けた。

また、市名の由来はその土壌にあると言われており、「常」は「床」、「滑」は「滑らか」という意味で、床とはつまり地盤のこと。

古くからこの地は粘土層の露出が多く、その性質が滑らかなため「とこなめ」と呼び、そうした習俗が地名として定着していったと考えられている。

市の中心部には、レンガ煙突が点在するなど、窯業で栄えた古くからの町並みがそのまま残っている。

この地域はやきもの散歩道として整備されており、登り窯や黒板塀、「土管坂」などの情緒ある風景が見られ、前衛作家などのギャラリーも多く存在する。