旧軽井沢カフェ「涼の音(すずのね)」

旧軽井沢の室生犀星記念館に前にある旧松方家別荘を改装して建てられたカフェです。

駐日アメリカ大使のエドウィン・ライシャワー夫人の松方ハル(明治時代の首相松方正義の孫)の所有してたことや作家の森瑶子もここで執筆活動を行って著名人と緑のある別荘です。

2013年7月に国の登録文化財として認定されました。
外観は紅殻塗り・土管煙突で、今となってはとても貴重なものです。

庭にはシジュウカラがエサをついばみに訪れています。
店の人に聞くと数種類の小鳥が訪れるようです。

国の登録文化財にもなっているこの別荘でコーヒーを。
ゆらゆら揺らめくキャンドルの灯や、外の緑の風景を眺めながら、疲れた体を癒します。
とっても静かで穏やかな時間。

玄関先では風鈴を設えた行燈が・・・・涼やかな音色を響かせる。
まさに「涼の音(すずのね)」です。

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旧軽井沢カフェ「涼の音(すずのね)」へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町旧軽井沢972(ハウスNo.1138)
0267316889

JR軽井沢駅から車10分 旧軽井沢ロータリーより徒歩7分

ふるさとは遠きにありて・・・室生犀星旧居を訪ねる

室生犀星はこの別荘を昭和6年に建て、亡くなる昭和36年までの毎夏この地で過ごした。

軽井沢会テニスコートの少し先に室生犀星記念館がある。

昭和6年に犀星が建て別荘を改修したもので、犀星は亡くなる前年の昭和36年まで毎夏をここで過ごし、堀辰雄、立原道造、川端康成、志賀直哉など、多くの作家と交流があった家という。

木戸の門をくぐるとると苔が庭一面に生えた、みごとな庭内をみることが出来る。

1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児として生まれた。

生後まもなく、生家近くの、真言宗寺院雨宝院住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生児として照道の名で戸籍に登録された。

住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この際室生照道を名乗ることになった。

私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。

「お前は妾の子だ」と揶揄された犀星は、

夏の日の匹婦の腹に生まれけり

と50歳を過ぎた後も、を引きずっていたことを示しています。

抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。

この句の通り、文壇に盛名を得た以後も金沢にはほとんど戻らず、代わりに犀川の写真を貼っていたという。

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室生犀星旧居へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町軽井沢884
0267-45-8695 (軽井沢町教育委員会)

JR長野新幹線軽井沢駅から草軽交通旧軽井沢方面行きバスで4分、旧軽井沢下車、徒歩15分

軽井沢のテニスコートのロマンス

ジョン・レノンが、ビートルズ解散後の1970年代中期から、亡くなる1980年まで、毎年のように夏に家族連れで長期間滞在していたことや、避暑地の中にある「軽井沢会テニスコート」が、1958年に皇太子明仁親王(当時)と正田美智子の出会いの場所になったことなども、広く知られている。

また、ビル・ゲイツが軽井沢に別荘を建てることを予定している。

旧軽井沢銀座通りに戻り、チャーチストリート軽井沢から碓氷峠の方向に50mほど進むと、右手に「軽井沢観光会館」があります。

「軽井沢観光会館」の手前を右方向に進む通りが「テニスコート通り」です。

クラブハウスは軽井沢に多くの建築物を残した建築家W.M.ヴォーリズが増築設計したものです。

天皇、皇后両陛下のロマンスの場所としてあまりにも有名。
現在も夏になれば皇室の方々の姿がちらほらと見受けられる。

天皇陛下は、1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会いました。

そして、テニスを通して交際を深めました。

しかし彼女が資産家の令嬢とはいえ皇族・華族出身ではない(新田義重の家臣生田隼人を遠祖とする士分の家系である)ことから、皇室内外から猛反対を受けました。

昭和天皇の侍従長を務めた入り江相政の著作「入江相政日記」には、「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃とともに昭和天皇に訴えたという内容の記述があります。

常盤会(学習院女子部の同窓会)会長松平信子ら旧華族の女性たちの反発も強く、信子に対しては昭和天皇自ら了承を求めてようやく決着したとも言われます。

最終的に1958年(昭和33年)11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決されました。

1959年(昭和34年)1月14日に納采の儀が、同年4月10日に結婚の儀が執り行われました。
明治以降では初の平民出身の皇太子妃であり、また結婚に至る過程が報道されたこともあって市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が興ります。

ちなみに陛下はこの当時。テニスの仲間たちからなんと呼ばれていたかご存知でしょうか?

「チェブ」です。

素焼きのチャブタという昔はブタの入れ物に蚊取り線香を入れて使っていたのですが、陛下はスポーツにも力を入れていたので肌が茶色かったそうです。
そのお姿がチャブタに似ているということで「チャブ」。

2012年冬のごろに「軽井沢にビル・ゲイツさんがが別荘を建てるらしい」という噂が流れました。
それから約3年後の今年2015年の12月についに完成する予定だとか。

気になる場所はというとズバ!軽井沢の別荘エリア長倉千ヶ滝西区付近のようです。
近くには大手IT企業の別荘が複数あるもようです。

しかしそれらをはるかにしのぐ大きさのようで、敷地面積が6,000坪~8,000坪ありその中に延べ605坪の建物が出来ている様です。

そして何といっても総工費80億円とまで言われている建物なだけに注目が集まっていますよね。
建設は業界大手で羽田空港や東京ビッグサイト、さいたまスーパーアリーナ等を建設した大成建設がになっている様です。

別荘は地上1階、地下3階の4階建てでヘリポートや露天風呂に至いたってはなんと8つも設けられるのだとか・・・

このビル・ゲイツの別邸とされる巨大建造物の建設に対しては近隣住民から多くの苦情が出ている様です。

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テニスコートへのアクセス、行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢旧軽井沢1100
0267-42-2680

軽井沢のパワースポット 諏訪神社

創立年代不詳、当軽井沢地区開発の当初、信州一の宮諏訪大社の御分霊を戴き奉斎せられた。
軽井沢郷の鎮守産土の神として、古来より厚く崇拝されている。

諏訪神社は全国に約25,000社あり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。

また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。
諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。

長い参道を進む、ひんやりして涼しい木陰の道です。

軽井沢町天然記念物「諏訪神社社叢」トチノキ巨木。

旧輕ロータリーから間近にあり、散策の手始めに先ず訪れよう。

御本殿は軽井沢宿の最も繁栄した元禄期の再建であって、優れた彫刻が施されている。

明治6年(1873)村社に列せられ、昭和55年(1980)献幣使参向指定神社となり、今日に至る。
この社叢には、13余種の高木が立ち並ぶ。

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諏訪神社への行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢旧軽井沢865(諏訪の森)

上越新幹線長野線軽井沢駅タクシー10分位

星野エリア ハルニレテラス

星野エリアの玄関口には、湯川の清流に寄り添うように自生していた100本を超えるハルニレ(春楡)の木立を生かしながら、9棟のモダンな建物を広いウッドデッキでつないだ「小さな街」が、星野温泉 トンボの湯の温泉街としてあります。

石の教会からハルニレテラスへ移動します、この地区は坂が多く、軽井沢駅から無料シャトルバスで終点まで行き、石の教会、ハルニレテラスへ移動するのが正解だろう。

湯川の清流に寄り添うようにハルニレテラスは展開する。

「軽井沢の日常」をコンセプトにした、15の個性的なショップ、レストランが、別荘ライフを豊かに彩ります。

今日は台風の影響もあり朝から雨です、しかし、多くの人が集まっています。

軽井沢へは7月~9月の3か月間で60%の観光客が訪れるという。

大正10年(1921年)頃になると、北原白秋や島崎藤村など、当時の文壇を代表する文人たちが、この地に逗留し、数々の名作を執筆。

~北原白秋(きたはらはくしゅう)詩碑~1921年(大正10)8月、星野温泉で開かれた自由教育夏季講習会に詩人北原白秋(きたはらはくしゅう)(1885~1942)も講師として参加し、児童自由詩について講話した。

この折、落葉松の林を散策して生まれたといわれる詩「落葉松」。
1921年(大正10)「明星」11月(創刊)号に発表された。

からまつの林を過ぎて。からまつをしみじみと見き。からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
>(第一連)に始まり、第八連まで続く。詩碑は、1969年(昭和44)、軽井沢町により、自然石を使い、星野温泉入口の湯川沿いに建てられた。

世の中よあはれなりけり 常なけどうれしかりけり
山川に山がはの音 からまつにからまつのかぜ
(自筆の8節)

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ハルニレテラスへのアクセス、行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町星野
0267310811

しなの鉄道中軽井沢駅から徒歩約17分、上信越自動車道碓氷軽井沢I.C.から約14Km(約20分) 
JR軽井沢駅から無料シャトルバスあり

石の教会-内村鑑三記念堂

軽井沢の星野エリアにある、ホテルブレストンコートの敷地内にあるのが、「石の教会」

明治・大正期のキリスト教指導者・内村鑑三の顕彰を目的として建てられた教会で、地上は礼拝堂、地下には内村鑑三記念堂となっている。

アプローチも独特の雰囲気を醸す。

正面から眺めた石の教会、大きさの異なる沢山の石板がドミノのよう。

入り口からすでに荘厳な雰囲気。

内部からドミノ上の石板を見上げる。

教会の建物内部への入り口はアーチ状のコンクリートとその間に挟みこまれたガラス、木製の扉で構成されています。

石とガラスの異なるアーチが重なり合う独特のフォルムは、アメリカ人建築家ケンドリック・ケロッグの手によるもの。
石は男性で、ガラスは女性を象徴しているとされる。

礼拝堂はとても神秘的な雰囲気できれいだが撮影は禁止とのこと。

逆に内部から正面外へ出るところ。
木とガラスで作られたぬくもりのある雰囲気です。

地下に降りれば内村鑑三の資料館になっている。

万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。

三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる。

慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。

幼少期より、父から儒学を学ぶ。

もうひとつ、ホテルブレストンコートが主催する、軽井沢高原教会での挙式も、人気がある。

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石の教会へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町長倉(星野)
0267-45-2288

しなの鉄道 中軽井沢駅 徒歩20分

軽井沢の鹿鳴館 三笠ホテル

三笠ホテルという名称は、敷地前方の愛宕山が奈良県の三笠山に似ていることから、有島生馬、里見弴、山本直光によって付けられたという。

中央二階の吹き抜部には、洋風建築の特徴である三角屋根、そしてアーチ型の窓枠で設計されている。

明治37年、三笠山のふもとに土地25万坪を購入した山本直良は、はじめは牧場を営むことを考えていたが、土壌に問題があり断念。

そこで定宿の万平ホテルの主人に知恵を借り、三笠ホテルを造ることを決意、設計を欧米に学んだ岡田時太郎に、監督を、商売敵であるはずの万平ホテルの佐藤万平に頼んだ。

旧三笠ホテルロビー。

実業家山本直良によるホテル開業は1906年(明治39年)5月。
この山本直良という人は、有名な音楽家・山本直純のおじいさんに当たる人です。

建物は1905年(明治38年)に竣工した日本人の設計による純西洋風建築で、また文化人財界人が多く宿泊したことから、「軽井沢の鹿鳴館」とも呼ばれていた。

建築様式はアメリカのスティックスタイル(木骨様式)、扉のデザインはイギリス風、下見板はドイツ風、用材は小瀬のアカマツを現場で製材した。

未改修部分を残す、説明に英国製のカーペットの採用とあり、これがそうなのかな。

夏でも朝晩の肌寒い時は暖炉を使用したという。
前回も触れましたが、軽井沢周辺の標高は1000メートル前後であり、年平均気温は7.8℃で、札幌の平均気温(8.5℃)よりも低いのです。

照明は電灯によるシャンデリア照明でした。

晩さん会に集まった著名人、山本直良夫人、近衛文麿公爵、黒田長和男爵夫人、黒田長和男爵、山本直良、徳川義親侯爵、毛利子爵夫人、有島武郎、里見弴、徳川慶久公夫人、近衛文麿夫人、西尾忠方子爵等の顔が見える。

シャンデリア、最初はアセチレンガスを使用、ほやにガラスの使われていた時代もあった。

驚くべき事は、客室30に対し定員は40人というところ。
この割合には、驚嘆するしかないですが、見学に行けば、もっと驚くこと間違いない。

あの規模で定員40人というのは、現在、日本中のどこを探しても見つからないでしょう。

上部に三笠ホテルのマークの付いたタンス。

有島生馬のデザインだそうです。

ちなみに創設者の山本直良の奥さんは、作家有島武郎の妹でした。

そういううこともあって、三笠ホテルは白樺派のサロンとしても利用されました。
また英国から取り寄せたすべての洋食器には、弟の画家有島生馬が絵付けを行いました。

三笠ホテルのマークの部分をクローズアップ

1906年(明治39年)、営業を開始し、客室は30室、定員は40名、宿泊料は一等が12円、二等が8円、三等が5円。

1925年(大正14年)に経営母体が変わり、(株)三笠ホテルとなり、明治屋に名義変更し、太平洋戦争中は、1944年、休業し、軽井沢が駐日外国人の主要疎開地として指定された事から、外務省の軽井沢出張所が設置された。

戦後は米陸軍第一騎兵師団に接収され、進駐軍の施設になり、1952年、米陸軍第八軍の使用が終了し、その後三笠ハウスの名称で営業を再開し(支配人山名伝兵衛)、1970年(昭和45年)まで営業を続けた。

1972年2月、日本長期信用銀行によって買収され、1974年2月、現在地の南方から70m移転し、1980年3月27日、日本長期信用銀行から軽井沢町に贈与された。

幾何学模様にデザインされたガラス窓は建築当初からのガラスがそのまま今も残されている。

英国製タイルを張った水洗便所。

トイレもかなりゆったりしています。

木造純西洋式のホテルとしては、札幌にある豊平館(1880年)に次ぐ古い建物である。

廊下の突き当たりのサンルーム。

外は相変わらず雨が降り続く、早朝から強い雨で出かけるのをためらっていたが思い切ってタクシーで訪問。
見学を終えるころ路線バスは運休となった。

東寺のガラスは品質が不均衡でものがゆがんで見えます。

テラス出口、新築時には、ここからポーチ屋上に出られたという。

ロッキングチェア、当時の一般市民にとっては珍しいものだっただろう。

ネストテーブル  雷紋、大正から昭和初期製造。

花の形の笠がかわいい。

パイプペンダント(pipe pendant) 筒で吊り下げたランプの意味。 金属の「金」で赤色を出している。

山本直良は、ホテル業以外にも有島家と親交のあった当代の陶芸家宮川香山らを京都から招いて三笠焼を開窯。

また、あけび細工や軽井沢彫りなど地元の工芸品を奨励販売した。

軽井沢の歴史と共に歩んできた軽井沢彫、家具に、手彫りの彫刻を施した華やかで繊細なシルエットが印象的です。

天井の装飾も軽井沢彫かな。

場所が違うのですが、軽井沢駅の壁にも軽井沢彫が、飾られていました。
これは新幹線開業一周年記念の物で、サクラの図案です。

従来からのカウチ(ねいす)を修理復元、上流階級の婦人たちに好んで使われた。

外は激しい降りで路線バスも止まってしまい、とりあえずタクシーを呼びアウトレットへ避難。

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三笠ホテルへのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町軽井沢1339-342
0267-42-7072

北陸新幹線・しなの鉄道 軽井沢駅から草軽交通バス「北軽井沢」方面行きで8分、「三笠」下車、徒歩2分

日本有数のクラシックホテル 万平ホテル

万平ホテルの創業は明治27年、外国人専用ホテルとしてオープン。
当時軽井沢を訪れる避暑客の半数以上が外国人で、別荘もほとんどが外国人所有という時代でした。

アクセスはかなりいい、軽井沢駅から、旧軽銀座に向かって走り、手前を右に折れて進む。
ホテル音羽ノ森を右に見て、まっすぐ行くと、万平ホテルは道の突き当たりにある。

現在、ホテルの正面の建物は一見、スイスの山小屋を思わせますが、実は長野県佐久地方の養蚕農家をイメージしてデザインされたもの。
完成は昭和11年(1936)。

1893年(明治26年)には碓氷峠を越える区間も開通し、東京と直結した。

その後、ショーと一緒に訪れた帝国大学教師ディクソン夫妻が「亀屋旅館」の佐藤万平に洋食を教え、1894年(明治27年)に軽井沢で最初の洋式ホテル「亀屋ホテル」(後の万平ホテル)ができた。

その後、1899年(明治32年)には「軽井沢ホテル」、1906年(明治39年)には「三笠ホテル」も開業して宣教師・知識人・文化人の間で人気を博し、日本三大外国人避暑地の1つに数えられるようになった。

柔らかな木漏れ日がさすロビーの一角。

描かれているのは、旅人、駕籠や飛脚、馬が行き交うかつての追分宿の茶屋と噴煙をたなびかせる浅間山です。

本館1階から2階へ上がる階段の大窓にある「青海波に亀」のステンドグラス。
前身の亀屋旅館にちなんで図案が描かれている。

1972年に当時日本の首相であった田中角栄と、アメリカ・国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーが会談。

以前、使用されていた万平ホテルオリジナルの法被。

ヤマハアップライトピアノ。
かつてダイニングルームで演奏されていた。

ジョン・レノンがつま弾いたこともある。

大正時代のロビーで使われていたロビーソファ。

ジョン・レノン、万平ホテルに彼が初めて宿泊したのは1970年(昭和45年)。
故郷リバプールに似た雰囲気を気に入り、1979年まで、毎年、夏の一時期を過ごしていた。

カフェテラスの名物メニューとして真っ先にその名が挙がるのは、やはりロイヤルミルクティー。

ジョン・レノンが滞在していたころ、当初はメニューになかったロイヤルミルクティーをみずから手ほどきをして作り方を伝え、のちにホテルの定番メニューになったという逸話が残っています。

平成14年まで、ホテルを守ってきた金庫。
前扉の内側には耐火材として砂が入っている。

緩やかな曲線が優美なの猫足のバスタブ。

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万平ホテルの予約はこちらから

万平ホテルへのアクセス、行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢925
電話 0267-42-1234

軽井沢駅よりタクシーにて約5分。
上信越道 碓氷軽井沢ICより約20分。

旧軽井沢・軽井沢銀座散策

軽井沢滞在中何度も訪れた、4日間の記録で、順不同に案内します。
有名施設については別項で紹介予定。

旧軽井沢ロータリーから旧碓氷峠方面へ向かう約500 mの区間(長野県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線)が旧軽井沢のメインストリートになっている。

かつては中山道の軽井沢宿があったところで、軽井沢駅のある新道地区からは北に離れた場所に位置している。

1888年(明治21年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーが別荘を開設して以来、多くの著名人が軽井沢に別荘を設けたことから、別荘族御用達の商店街として発展した。

その後も軽井沢にはペンションブームなどが追い風となって、夏場を中心に多くの観光客で賑わうようになり、手作りジャムや民芸品、タレントショップなど観光客を対象とした店が増えた。

避暑地であることから、かつては夏季のみ営業し、冬場にはシャッターを閉ざす店も多かったが、1997年(平成9年)の北陸新幹線(高崎 – 長野間)先行開通により年間を通して観光客が訪れるようになったこともあり、近年では通年営業する店も増えている。

お馴染み、マリリンモンローの白いドレススカートが地下鉄通気口の風でふわりと・・・・・・・

杜や林の中で巣箱をよく見かける、それにしても鳥に矢印がわかるのかな・・・・

テニスコート(別途掲載予定)を過ぎてなお奥を目指す。

室生犀星の旧居跡(別途掲載予定)を目指す。

通称『旧サロモン別荘』と言われているこの建物、大正時代初めて戸籍ができたときには、既に建物はあったと言う記録は残っており、また、改修工事の時にふすまの内側に張られていた明治30年代の新聞や、床下より明治時代の硬貨なども出てきたことから、明治時代より存在していたものと思われる。

また、ショーハウスによく似た間取りであることからも、旅籠を再利用した別荘である『前期軽井沢バンガロー』の可能性が高いと考えられる。

ライシャワー婦人となった元松方総理大臣の孫娘である松方ハルさんの所有だったものを、カナダの貿易商のサロモン氏が買い取ったことから、近年では『旧サロモン別荘』と呼ばれ、室生犀星記念館と並び、旧軽井沢を代表する建物のひとつでした。

室生犀星の著書の中にも登場する建物で、作家の森瑶子も1970年代に、この別荘で避暑や執筆活動をしていた。

万平ホテル(別途掲載予定)をめざし空に進む。

地域特有の商売があるものですなあ。

旧軽井沢ロータリーに引き返す、この辺り売地と書かれた看板が目立つ。
軽井沢は一般戸数8000戸に対して別荘は15000あるそうな、町の財政も別荘の固定資産税で60%を占めるそうな。

ホテル音羽の森の隣に建つ教会。

軽井沢周辺の標高は1000メートル前後であり、年平均気温は7.8℃で、札幌の平均気温(8.5℃)よりも低い。

神宮寺参道の入り口には『表白山』『神宮寺』の石柱があって鈍色に光る石畳の参道を行くと、境内に高さ15メートルほどの枝垂桜が濃い影を落している。

この寺は昔、旧碓氷峠の熊野神社付近にありましたが、寛文2年(1662)に現在の地に移されたといいます。

つるや旅館は、江戸時代初期に、中山道の宿場町軽井沢宿の休泊茶屋、旅籠鶴屋として開業。

明治に入り、宣教師たちの軽井沢への往来が始まると、つるやは旅館業に転じ、日本風の建物のまま、西洋風な雰囲気を取り入れる。

その後、大正には、多くの文人たちが泊まるようになり、芥川龍之介、室生犀星、堀辰雄らが、暖かな雰囲気の中で執筆を行った。

本館と別館を隔てる中庭は、堀辰雄の小説「美しい村」に登場する場所です。

つるや旅館のあたりも空き地が目立つ。

ショーハウス(別途掲載予定)をめざしさらに奥へ進む。

芭蕉句碑、天保14(1843)年に地元の門下生小林玉蓬が松尾芭蕉の150年忌にあてて建立。

句碑には雪が降り積もった白銀の朝を詠んだ「馬をさへ なかむる雪の あした哉」という句が刻まれています。
ショーハウスの前にあります。

特に芭蕉が訪れた地ということでもないのかな。

矢ケ崎川はこのところの台風の影響で増水している。
ふと帰りのことが気にかかる。

軽井沢銀座の終点からさらに一歩奥へ入ると二手橋があり、橋を渡った矢ケ崎川の川辺に「犀星の文学碑」がある。

犀星は1959年「かげろう日記遺文」で野間文学賞を受賞、これを記念し自らが建立したという。

ショーハウスから引き返す、付近は霧に包まれてきました。

旧軽井沢の町も霧の中。

この通りには写真屋が沢山ある、着飾ってポーズを決めて記念写真を撮るのだろう。

旧輕ロータリーまで帰ってきたが霧はますます深くなる。

街角の電話ボックス、サルビアに囲まれかわいい。

この角っこのそば屋、川上庵という旧輕で一番人気の店だとか、食指が動いたが我慢。

ペンションのある新軽井沢に戻ってきた、霧の中の二人連れ・・・・・・

マンホールの蓋、「浅間山」と「シラカバ」がデザインされている。

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軽井沢満喫の旅

折角の軽井沢探訪の旅も関東地方に災害をもたらした台風の襲来時期と重なり散々な目に合うことになる。
しか、めげず、4日間フルに活動した。

軽井沢駅コンコース、最初に足を踏み入れた場所だが、滞在中何度も行き来した場所でもある。

信州名物の味噌、峠の釜めしなどの販売店が並ぶ。

予想通り?外は雨、深く立ち込めた霧が迎えてくれた。
4日間霧と付き合うことになる。

御世話になったのはウイングスクラブ軽井沢
軽井沢駅から徒歩5分という好立地なのに周辺は静かな別荘地、光が差し込むダイニングでお食事をと言いたいところだが外は雨。

軽井沢周辺の標高は1000メートル前後であり、年平均気温は7.8℃で、札幌の平均気温(8.5℃)よりも低い。
この時期まだアジサイが残っている。

江戸時代には、五街道のひとつ中山道が通る宿場町であり、中山道の難所のひとつとして知られる碓氷峠の西側の宿場町として栄えていた(碓氷峠は、江戸よりの隣の宿場町、坂本宿との間)。

軽井沢付近には軽井沢宿(旧軽井沢)のほか、沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれていた(この3宿をまとめて「浅間三宿」という)。
また、浅間山を望む景勝地としても有名であった。

江戸時代が終わり明治時代に入ると、一旦は宿場町としての機能を失って没落した。
しかしその後、1886年(明治19年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーがたまたま訪問し、高林薫平の居宅を借り受けて7月から8月まで滞在し、故郷のトロントと似ていると感じた。

1888年(明治21年)、ショーは「つるや」(現在のつるや旅館)の主人の佐藤仲右衛門のあっせんによって大塚山に別荘を設け、避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。
別荘第1号は、民家を移転し、改造したものである。

後に移築され、ショーハウス記念館としてショー記念礼拝堂の裏に現存する。

軽井沢駅周辺の宿はこちらで検索できます。

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ウイングスクラブ軽井沢へのアクセス、行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢東139―2

JR長野新幹線「軽井沢駅」から徒歩7分 上信越自動車道「軽井沢I・C」から車で10分