京都芸術センター


京都芸術センターは、京都市の中心部にある芸術振興の拠点施設。

明治に京都の町衆たちの力でできた明倫小学校が廃校になったあと、その跡地と校舎を利用して、アートスペースをつくったもの。

京都市における芸術の総合的な振興を目指し、平成12 年に開館いたした。

ギャラリー、公演会場、制作室などを併設する複合文化施設。

展覧会や公演以外にも、図書室、情報コーナー、談話室、カフェなどご利用できる施設がある。

戦前の番組小学校の特徴をそのまま残しており、自由な芸術活動を行えるよう配慮しつつ、外観や大広間、講堂や教室、廊下など、既存の施設をできる限り生かした改修がされている。

平成20年には登録有形文化財として登録。
特に、学校の中に和室がある点は非常にユニーク。

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瓢箪山稲荷神社


創建は天正11年(1584年)。
豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。

現在の本殿は、慶応2年(1866年)に建てられたものである。

瓢箪山稲荷神社という社名の由来は、稲荷神の祀られている古墳が瓢箪の形をしているからです。

円墳を横に二つ連ねた「双円墳」と呼ばれるタイプの古墳だそうです。

たしかに、瓢箪のようなかたちです。

全長は五〇メートル、高さ四メートルで、六世紀の前半の造営。横穴式の石室があり、かつては狐が住んでいたとも伝えられています。

本殿、拝殿は瓢箪形の古墳のすぐそばにあり、拝殿に立つと、古墳そのものを拝むことになります。

まるで、古墳がご神体のようです。

日本三稲荷(諸説あり)の一つであり、辻占総本社である。
祭神は若宇迦乃賣命(保食神)ほか。

江戸時代から近くの東高野街道において辻占いの風習があったが、明治時代初めごろに宮司が「辻占」を創始し、「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」として日本全国に知られるようになった。

同神社の由緒などをまとめた「瓢たん山栞」には、豊臣秀吉との関わりをこう記しています。

「その昔、天正十一年二月、秀吉公が大坂築城に当たり、『巽の方三里の外に稲荷大神を勧請し家宝を納めて鎮護神とする』といふ古式に則り、侍臣片桐且元をして鬼塚、大塚の古墳に金瓢を埋めて瓢型の聖地を整へ、伏見稲荷よりふくべ稲荷を勧請し、(中略)瓢箪山稲荷と号して尊崇殊に厚かりし(後略)」

この地域は山畑古墳群と呼ばれる古墳の一大集積地。

大坂城築城のとき、秀吉がこのあたりの古墳から、石垣用の石を運び出させたことを示す古文書がのこっています。





眷属は白狐で、ここにも飛狐が祀られていた。

白狐に乗った荼枳尼天(ダーキニー)。

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ヒンドゥー教、チベット仏教などが稲荷と習合し現在の形となった。

荼枳尼天が乗る 狐は「野干」と呼ばれ元はジャッカルのことのようだ。

古民家を訪ねて 室生村の民家 旧松井家住宅(県指定文化財)


宇陀郡室生村上笠間にあった農家。
当家の口伝によれば、その昔、代官を務めた子孫と伝えている。

この主屋の建築年代は、文政13年3月(1830年)記の祈祷札(解体中に発見)や、間取り、構造などから見ても、この文政13年の祈祷札から降らない頃に建てられたものと認められる。

間仕切り箇所には突き止め溝を多用するほか、居室裏側の床が、簀の子床となるところなど、東部山間の民家の変遷をよく示している。

主屋は桁行11.2メートル、梁間8.6メートル、入母屋造、茅葺で、文政13年(1830)の年記のある銘札が見つかっており、江戸時代後期に建てられたものであることが判明しています。

間取りは右半が土間、左半が床上部となり、土間の正面に「まや」、その背後に釜屋を設け、「まや」の右手に風呂場をつくります。

床上部は「くちのま」、「おくのま」、「なかのま」、「なんど」にわかれます。

床上部は桁行に喰い違う四間取りで、前座敷型三間取りの発展形式と考えられています。
この地方の民家の変遷をうかがい知る貴重な事例です

当家の所在した室生村上笠間の集落は、奈良県の東部に位置する山間であるが、往時には伊勢街道が集落内を横断し、笠間峠を越えるとそこは名張藩藤堂家領であった。

現在でも地理的には県内の主要都市よりも三重県名張市が近い。

室生村の民家については、昭和41年度に行われた民家緊急調査においては地理的条件から平面構成に三重県側の影響があるのではないかと期待されたが、結果としては大きな相違はなかったようである。

奥の間に床を備えてはいるものの特に格式高い造作はなされておらず、全体的には標準的な農家建築の典型と云える。

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古民家を訪ねて 都祁村の民家 旧八重川家住宅(指定文化財)


昨日紹介の「旧岩本家住宅」に隣接して建って居ます。

当住宅は山辺郡都祁村大字針に所在していた。代々農業を営んだ家であると伝える。

裏庭にはアジサイが咲いています。

裏に回ってみると農家らしいたたずまいを見せる。

建築年代を示す史料はありませんが、建物の形式手法からみて19世紀前半頃の建築と思われます。

移築前の間取りは、正面に向かって左半分が居室、右半分が土間でした。居室は三室で、表側に半間の縁がつき、表「ざしき」8畳は床、押入をしつらえ、裏の二室は土間側に、「なかま」8畳室、「なんど」3畳、押入付きで妻側へ半間張り出していました。

土間は表の右隅に「はたべや」4畳半、この妻側に風呂、便所を設け、はたべや裏側は釜屋で、その裏側は流し台、妻側に戸棚が付き、居室境は表より上り縁、「ひろしき」を付設し、奥に戸棚を設けていました。

復原にあたって、部材痕跡等によって、建築当時の間取り、外観に戻しています。
居室は二室、「なかま」は6畳となって、この表側に半間の縁がつきました。

また「はたべや」を撤去して「まや」とし、上り縁を撤去して土間を現しました。

外観については、棟飾り部分の桟瓦小屋をカラストビ形式の棟飾りとし、両側及び背面の庇を撤去して、四面葺き下ろし形式となりました。

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祇園祭鉾建て・山建て始まる


いよいよ暑い夏の始まりです。
祇園祭2019鉾建て・山建てが7月10日から始まってます。

7月10日7時、四条通から「くじ取らず」1番の長刀鉾、5番の函谷鉾、8時から月鉾、室町通の鶏鉾と四条室町を中心に始まり、交通の加減で菊水鉾は15時30分から組み、11日には「くじ取らず」1番の長刀鉾、5番の函谷鉾、そして月鉾、室町通の鶏鉾、菊水鉾と倒して「縄がらみ」で組み上げた鉾が重機を使用したり、見処たっぷりに建ち上がります。

祇園祭の主役ともいえる、[山]や[鉾]を組み立てます。山鉾は、木造の部材の組み合わせと縄で絞めることで出来ています、釘を一本も打ち付けることはありません。

縄のくくりは職人技です。

釘を使わない組み立て「縄がらみ」、巡行時の衝撃と歪みを吸収する役目があります。

巨大な鉾の組み立てには、釘を使わず木と縄だけで形をつくっていきます。

これを「縄がらみ」といい、古くから伝わる祇園祭ならではの技法です。

縄がらみは、どの部分を固定するかも細かく決められており、外側から内側から交互に通すなど縄をかけていく順番も複雑です。

間違うことは許されないので工事現場でも緊張感が漂い、2名ないし3名1組で確認しながら、時にはずれないように縄や木を木槌でたたきながら慎重に行っています。

編まれた縄の上からさらにバネのように絡めながら横方向に編むことで、ほどけないように固く結ばれ、衝撃を吸収するクッションのような作用をする工夫になっています。

鉾の櫓をつくる作業は専門の職人が手がけますが、設計図はなく、練習するわけでもありません。
しかしその手際の良さはお見事。

鉾の中心をつらぬき、長さが20メートル前後ある真木は、そのままでは取り付けられないので、一旦鉾を横に倒して取り付けられます。

横に倒すために、地中に差し込まれ固定された杭と回転軸になる丸太、そして鉾の3つを縄で固く結び、水で濡らして滑りを良くします。

太めの縄で引っ張りゆっくりと横に倒すと、数10人で長い真木が運ばれ鉾に差し込まれます。

真木の差し込まれた反対側の先には、それぞれの鉾にとってのシンボルである鉾頭が取り付けられます。

長刀鉾では厳重にとりつけられた鉾頭の鞘袋がとりはずされて、キラリと銀色に光り輝く長刀があらわになり歓声が沸きます。

その後再びロープを引っ張り、見る見るうちに真木が立ち上がって、わずか5分ほどで真上を向きます。長刀が天を指したとき、鉾建てにおいて一番の歓声があがります。

鉾を支え、巡行のために欠かせない車輪の重量は、なんと1個につき約1トン。

長刀鉾であれば人が乗っていないときの重さが約7トンといわれているので、4つの車輪だけで半分以上占めていることになります。

車輪の取り付けはテコの原理を用い、20人近い大人数で鉾を持ち上げてはめていきます。

車輪は町会所の奥から1個ずつ転がしてきますが、近くには見物客もいるため4~5人体制で慎重に運びます。

力仕事ばかりではありません。

鉾建て・山建てに並行するように粽づくりがおこなわれています。

なぜ祇園祭で厄除けの粽が売られるかというと、八坂神社の祭神、スサノオノミコトが旅先で宿に困ったときに、貧しいながらも手厚くもてなしてくれた蘇民将来(ソミンショウライ)に感謝し、その子孫にわたって災厄から守ることを約束し、その目印として茅(ち)を巻いて輪にしたもの身につけるように言ったという故事によります。

この話にあやかり、蘇民将来の子孫である目印として、茅を巻いた「茅巻き」=「粽」を玄関先に飾って厄除けとするようになったのです。

粽に「蘇民将来之子孫也」あるいは「蘇民将来子孫者也」と書かれた紙がついているのは、この家は蘇民将来の子孫の家だと示しているわけです。

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後藤象二郎寓居跡


ホテルリソル京都 河原町三条の敷地内は土佐藩士であり、後に明治新政府でも活躍した後藤象二郎(1838~1897)が京都に滞在中、常宿とした醤油商「壷屋」があった場所。

この地は土佐藩出入りの醤油商で、今中弥兵衛を当主とする「壷屋」のあった場所。

土佐藩邸に近いこともあり、この「壷屋」に藩重役であった後藤象二郎が幕末の京都滞在の折に寄寓していました。

象二郎が当時、この「壷屋」に寄寓していたことは、伝承によるほか、いくつかの文献で確認できます。龍馬の寄寓していた材木商「酢屋」の当主であった中川喜兵衛や、書店「菊屋」の峯吉からの聞き取り調査では、当時の象二郎の居所は「河原町三条下ル東入醤油商壷屋」と記録されています。

ホテルの入り口は狭い路地となっており、まっすぐ進んだ突き当りには醤油の樽が積まれています。

ホテルリソル京都 河原町三条の「後藤象二郎寓居跡ギャラリー」、当時の周辺街並みの復元ジオラマ。

高瀬川を挟んでこちら側が坂本龍馬の常宿「酢屋」、向こう側が後藤象二郎の常宿「壷屋」、間に彦根藩邸がありました。

後藤象二郎寓居之跡の石碑がある河原町通には、坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡の石碑もあります。

また、河原町通の1本東の木屋町通には、土佐藩邸跡もあります。

酢屋は今も残る、滞在していた2階の部屋の格子から向いの舟入に向けてピストルの試し撃ちをしたというエピソードも伝えられています。

慶応3年(1867年)、龍馬の提案とされる船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。

土佐藩の在京幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らの賛同を得て、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと会談し薩土盟約を締結した。

しかし、イカルス号事件の処理で土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉を命じられるなど時間を消耗したため、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。

薩摩との提携解消後も大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。

10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。

これらの功により、後藤は中老格700石に加増され、役料800石を合わせて計1,500石に栄進する。

慶応4年(1868年)、天皇謁見に向かうパークス一行の護衛を勤め、パークス暗殺を計画して斬り込んできた浪士と抜刀して斬り合い、そのうち一人の朱雀操を討ち取る。この事件の功により、中井弘と共にイギリスのヴィクトリア女王から恩賜の刀を贈られている。

象二郎が英国女王から贈られた宝剣の復元展示されている。

明治維新の功により賞典禄1,000石を賜る。

幕末の土佐藩士。明治維新後は政治家・実業家として活躍。
前藩主・山内容堂に登用され、若くして藩の重職に就く。

坂本龍馬が示唆したとされる大政奉還策を容堂に提言し、容堂に連署して「大政奉還建白書」を幕府に提出。徳川慶喜の大政奉還に大きな役割を果たした人物である。

維新後に懇意にしていた福沢諭吉は、時事新報に「後藤伯」と題する社説を掲載し、政府の現状を変え、諸悪をはらい清める「非常大胆の豪傑・満天下唯一の人物」は後藤伯だけであると、幕末から維新に至るまでの功績を絶賛した。

後藤象二郎は義叔父である吉田東洋(とうよう)の塾で学び、安政5年(1858)には東洋の推挙で幡多(はた)郡の奉行職に就いた。

文久2年(1862)東洋が暗殺され、武市(たけち)瑞山(ずいざん)(半平(はんぺい)太(た))らの土佐勤王党の力が大きくなると、政治の一線から身を引き、江戸で西洋の学問を始め航海術を学んでいる。

元治(げんじ)元年(1864)以降,再び藩政に返り咲き、土佐勤王党の弾圧をはじめ、武市を切腹に追いやり、前藩主の山内容堂の信任を得るところとなる。

慶応(けいおう)2年(1866)には参政職に、翌3年には家老職に就き、土佐藩の若き重臣となる。

坂本龍馬の船中八(せんちゅうはっ)策(さく)の考えに強く感銘を受け、山内容堂を通じて将軍 徳川慶喜に大政奉還の必要性を説いた。

明治維新後、新政府では盟友である板垣退助らと共に自由民権運動にも力を注ぐ一方、逓信(ていしん)大臣(郵便や通信を管轄する)や農商務大臣など政府の重職にも就いている。 

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安藤忠雄の世界 TIME’S


建物は京阪・地下鉄三条駅より三条大橋を渡り、少し歩いた先にかかる三条小橋西詰に建っています.

昭和初期の三条小橋碑(三条通り角)

江戸時代より木屋町~河原町間の三条通は現在より道幅が狭く、現在の河原町以西の道幅と同じでした。

又、小橋右側(北側)の旅館『吉岡家』は、江戸時代から続く旅館です。

幕末に「新撰組」の基礎である「浪士組」を結成し、その後新撰組と袂を分け、江戸の警護をして有名な庄内藩士『清河八郎』が安政二年に書いた紀行文「西遊草」のなかで、三条河原かたわらの「吉岡や」に泊まったと記してあります。

また、左側の有名なアールデコ風の出窓がある旅館も江戸時代から続く「大津屋」(現在は、有名な建築家・安藤忠雄によるタイムズビル)で、池田屋騒動の「池田屋」は、まだ、この当時までは、建物は残っていました。

又、「京城勝覧」(儒学者・貝原益軒著1630~1714)のなかに「三条小橋高瀬側にわたせり。 此下より舟にのり伏見にゆく。 此邊(このへん)より大橋の際まで旅篭屋多し」。と当時の三条小橋周辺を紹介しています。
(案内板より)

中規模の商業建築の集中的に手掛けた80年代(1984年)の作品ですが、7年後に増築されており、作品集では「TIME’S I・II」と表記するものが多い。

フロア床を打ち放しの横帯で、それ以外を馬目地のコンクリートブロックで仕上げるやり方は「B-LOCK北山」でも見られましたが、時期としてはこちらが先です。

さてこちらは三条通と同じレベルとなる2階フロア、最初は開けた通路ですが途中から路地並みにグッと狭くなり、建物中央部には2階をガラス壁で囲まれた中庭が出現します。

京町屋の『オク』を連想させますが商業的にはマッチせず、周囲のテナントは全て空という寂しいものに。

設計当初は川を自邸の庭まで引いて再度流すという古い京都の邸宅から発想を得て、建物中央に高瀬川の水を引き込もうとしていたようですが、行政に猛反対されたそうな。





そして更に奥へと進むと、細い通路の向こうに出口を発見、こちらは坂本龍馬の隠れ家が通り沿いにあることから名付けられた『龍馬通』への出入口。

池田屋騒動でなじみの池田屋。

頃は幕末。材木商「酢屋」の6代目酢屋嘉兵衛は坂本龍馬の活動に理解を示し、幕府及び倒幕急進派の双方から命を狙われていた龍馬をかくまっていました。

店では龍馬は「才谷さん」と変名で呼ばれ、滞在していた2階の部屋の格子から向いの舟入に向けてピストルの試し撃ちをしたというエピソードも伝えられています。

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2019祇園祭は始まっています


京都駅ビルで祭の魅力を紹介するパネルやミニチュアの鉾の展示が行われています。

各山鉾の粽や手ぬぐい、扇子なども展示されます。

7月10日7時、四条通から「くじ取らず」1番の長刀鉾、5番の函谷鉾、8時から月鉾、室町通の鶏鉾と四条室町を中心に始まり、交通の加減で菊水鉾は15時30分から組み、11日には「くじ取らず」1番の長刀鉾、5番の函谷鉾、そして月鉾、室町通の鶏鉾、菊水鉾と倒して「縄がらみ」で組み上げた鉾が重機を使用したり、見処たっぷりに建ち上がります。

古くは平安時代に疫病・災厄の除去を祈った祇園御霊会を始まりとする、八坂神社の祭礼です。

1ヶ月にわたり様々な神事・行事が行われます。

岐阜の高山祭、埼玉の秩父夜祭とともに日本三大曳山祭りのひとつでもあります。

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古民家を訪ねて 室生村の民家 旧岩本家住宅(重要文化財)


宇陀郡室生村黒岩に所在していた。農業・林業を営み、庄屋年寄を務めたと伝えられている。

建築年代については、構造手法上から19世紀前半でも末頃の建築とみられる。

黒岩は室生寺から東南方へ約5キロへだたり、胎ノ川の支流、黒岩川の中程で、谷間の南斜面を利用した村落。

土間上の奥行に太い梁を半間毎に架け渡すなど、この地方の特色をよく示している。

岩本家は旧宇陀郡室生村大字黒岩に所在していた農家で、庄屋を勤めていた と伝えられています。

桁行14メートル、梁間11メートル、入母屋造、茅葺の大型の農家で、素朴な外観を呈しています。

間取りは向かって左半分を土間とし、正面側に馬屋、背面側にかまやを配しています。
右半は居室6間取りとしています。

表側をせがい造り、土間上を太い梁を半間ごとに架けるなど、この地方の特 色をよく示しています。

差物、梁組など木柄<きがら>の太い建物であり、19世紀前半の建築と考えられています。

大きい茅葺き葺き下ろし入母屋造屋根は間口約七間、奥行き五間半、いかにも素朴な山間集落の民家をよく残している。

正面から見ると、いかにも古い絵本に描かれて居そうな茅葺き屋根、その構造様式から江戸末期の嘉永頃(1850年頃)の建築だと言われて居ます。

内部にも改造はほとんどなく、西北馬屋を配し奥にかまど・流し・唐臼を備え当初の状態が良く保存されて居る。

室生村は奈良県東部の山深い寒村ながら平安時代初期建立の国宝にも指定される五重塔を持つ室生寺があることで全国的にその名が知られる。

当家の所在していた黒岩集落は、室生寺から更に奥まった場所にあり、当家は農業と林業を営む傍ら藩政期には庄屋職を務めたとのことである。

宇陀地方の民家の特徴として茅葺の屋根は庇を設けず葺き下ろされているため、大屋根がどっしりと落ち着いた風情を醸している。

更に当家の場合は桁行7間、梁間5間半と一般の民家と比較して特に大きな平面を持つため、屋根の巨大さは印象的である。

また、西面する主屋の表側を船枻造とし、縁側上部の庇小壁には桃型の明り窓が設けられるなど上層農家としての造作が随所に散りばめられ建物全体を上品なものにしてくれている。

内部の造作もすっきりしており、素晴らしい民家建築である。



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古民家を訪ねて 香芝市の民家 旧赤土家離座敷


香芝市狐井の赤土家に在った。当家は系図によると、楠木氏を祖とする農家で、庄屋を務めたと伝えられている。

この建物は見たところ小規模ながら、均整のよくとれた姿を表している。

内部は8畳1室で、本床を備えた構成にはすばらしいものがあります。

なお、8畳1室と本床部分は18世紀初期以前の建築とみられますが、屋根や庇は、後世に整えられたようです。

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