野田・福島界隈散策

かつてこの辺りは鹿飢島(餓鬼島)と呼ばれていたが、九州太宰府に左遷させられる菅原道真公が、当地の住民に慰められ、そのさいに福島へと改名した。

野田城跡伝承地 地下鉄千日前線玉川駅前

享録4年(1531)頃、三好元長と細川晴元が対立し、三好方の浦上掃部の軍勢が野田・福島に陣取ったさいに砦を築いたのが城の起源とされています。

元亀元年(1570)に三好三人衆と織田信長が対立すると、打倒信長をめざす石山本願寺が呼応して三好勢と籠城。

石山合戦がはじまって、天正4年(1576)に明智光秀・荒木村重の猛攻で落城しました。

現在、野田城の遺構は全く残っていませんが「城之内」「弓場」という地名が明治はじめまで残されていたことから、玉川付近にあったと推察されています。

極楽寺

真 宗 大 谷派(東 本 願 寺)の 野 田 御 坊 です。天 文 2 年(1533)、本願寺第10世証如上人が布教活動中、六角定頼と法華宗徒に襲撃されました。

この時、野田福島の一向宗門徒の百姓たちが、命がけで証如上人を守って紀州へ逃がしましたが、21人が殉教死しました。

その菩提を敬うため、門徒宗の墓所に建てられたのが極楽寺です。

江戸初期には、大阪・南御堂(難波別院)の掛所となり、その後、野田御坊として今日に至っています。

恵美須神社

社伝によれば永久元年(1113)、当地開発のさいに恵比須神を歓請したのが起源とされます。

神社に保存されている建石には「永久三乙未年三月」と刻まれています。

当時このあたりは「難波八十島」と呼ばれ、漁業が盛んな地域でした。

恵比須神は古来から漁業の神として祀られており、当社も野田福島の漁民の守り神として信仰されていたと考えられます。

円満寺

天文2年(1533)、証如上人を守るために殉教死した21人の門徒宗の菩提のために、久左衛門と申す者が証如上人より教圓という名を授けられて、天文3年(1534年)に一宇の坊舎を建立しました。

これが居原山円満寺のはじまりです。

創建時は摂津国下仲嶋野田村惣道場と称していました。

境内には証如が与えた感謝の文書と供養碑があります。

二十一人討死之碑(玉川コミュニティセンター)

玉川地区には21人討死碑が4基あります。

玉川コミュニティセンター内にある「21人討死之碑」は昭和15年(1940)に西野田青年団が生涯橋のすぐ西側に建てたもの。

下福島中学校のプール建設のため昭和52年(1977)に現在地へ移されました。

大阪市中央卸売市場本場

農水産物などの市場が形成されたのは、豊臣秀吉が大阪城を築城した頃から。

以後、江戸時代を経て発展。

現在の市場は、昭和6年(1931)に開設されたもの。

天神社

福島三天神のひとつで、福島天満宮が上の天神というのに対して、天神社は下の天神といわれています。

昌泰4年(901)に菅原道真が九州・太宰府へ左遷させられたさい、当社に参拝して海路の平穏を祈ったと伝えられています。

当時、この辺りが「鹿飢島(餓鬼島)」と呼ばれていましたが、地元の人たちに非常に親切にもてなされた菅原道真は、好字の「福」をつけて「福島」へと改めさせました。

今はちょうど梅が見頃です。

天神社(下福島天神社)

江戸時代の「摂津名所図会」に記されている福島三天神のの一つ。

あとの二天神は、現福島天満宮の上の天神と、太平洋戦争で焼失した中の天神(福島天満宮に合祀)。

菅原道真公が船で大宰府に流される際、旅の安全を祈願し、この辺りを福島と名付けたとも伝えられている。

福島聖天了徳院

東寺真言宗の仏教寺院。

創建年月は、洪水で記録が失われたため不明。

「浦江の聖天さん」の名で親しまれている。

ご本尊の11面観世音菩薩は、福島の海に沈んでいたのを地元漁師が引き上げ、奉ったと言われている。
また、松尾芭蕉も訪れ「杜若 語るも旅の ひとつ哉」と句を詠んでいるほど、カキツバタの名所でもある。

聖天通商店街・福島聖天通商店街

JR福島駅まで東西600mほどの商店街。

聖天さん(福島聖天了徳院)の参拝道であることから商店街の名が付けられた。

また、易相(占い)の大家・水野南北(1760~1837年)が聖天さんと縁があり、「売れても占い商店街(占い商店街)」の誕生のきっかけとなっている。

多くの占い師がおり、占いの館も常設。
占いを目当てに訪れる人が多い。

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九条島に眠る朝鮮通信使の悲話


現在の松島橋。

明治2年(1869)に松島橋が架橋され、大きな反橋(船を通すため)で有名になり、初代長谷川貞信の『浪花百景』にも描かれましたが、残念なことに明治18年(1885)の淀川大洪水で流出。

現在の橋は昭和5年(1930)に架けられたもの。

豪農・池山新兵衛によって開発された九条島。

大坂市中への海の玄関口として賑わい、松島の竹林寺は朝鮮通信使節の宿坊にもなりました。

一条も二条もないのに何故「九条」。

本格的に開発したのは、江戸初期の幕府役人・香西晳雲らと言われており、交友のあった儒学者・林羅山が「衢壌(くじょう)島」と命名。

「衢」は「ちまた、賑やか」を意味し、「壌」は「土地」に通じ、賑やかな場所になるように願ってつけられたとのこと。

その後、「九条」に変わったのは、諸説あるものの、「衢壌」が難しすぎるので簡単な字になったのが真相らしい。

古代縄文期の「九条」は、なにわの海の底で、上町台地を除いて陸地の面影はなかった。

その後、淀川などが運んだ土砂が堆積して陸地化が進み、なにわ八十島と言われるほど多くの島々が大阪湾に誕生。
その一つが九条島。

対岸は以前取り上げた「トコトコダンダン」

木津川遊歩空間(愛称:トコトコダンダン tocotocodandan)
今日は24節季の一つ「雨水」。 空から降るものが雪から雨に変わり、積もった雪も解 … 続きを読む →


松島橋の碑

かつては寺島と呼ばれ、木津川と尻無川との合流地点であるので、舟大工職人が数多く住んでいた。

明治元年(1868)に町名をつけるさいに、島北端の戎社に推定樹齢300年の「えびす松」があって景勝地として有名であったため、そこから松島と名づけられた。

明治初めには川口に外国人居留地が造られ、松島はその遊興地として開発。

大阪最大の遊所・松島遊郭が開かれ、のちには松島文楽座も出来て殷賑を極めました。

ジオラマで知る「川口居留地」
大阪住まいの今昔館8F、明治から戦後にかけての大阪を代表する住宅地を再現した住ま … 続きを読む →


九条島と朝鮮通信使の碑

朝鮮通信使は徳川将軍が代替わりした時などに朝鮮から日本へやって来た友好親善の使節で、江戸時代には計12回来日しています。

正使と副使の他に書記、通訳、書家、画家、僧侶、医師など、時には500名以上にもなる大集団でした。

異国情緒溢れる通信使が来訪すると、大坂三郷はおろか近隣からも見物者が訪れ、大坂中がお祭騒ぎになったといいます。

彼らは釜山を出港して対馬、瀬戸内海、九条島を通って川口で船を降り、そこから川御座船に乗り換えて淀へ向かい、淀からは陸路で江戸に向かいました。

梅本橋顕彰碑

明治3年(1870)、川口居留地と松島を結ぶために戎島渡が廃止されて梅本橋が架けられました。

橋名は西詰の梅本町からつけられましたが、梅本町の町名の由来は、竹林寺境内にあった「浪速津香之梅」という名樹に因むといいます。

大正4年(1915)には市電(松島~安治川線)が通るほど賑わいましたが、昭和27年(1952)頃、運河埋立工事で撤去されてしまいました。

現在では松島公園の一部となっています。

竹林寺は九条島を開いた豪農・池山新兵衛と幕府役人・香西皙雲によって慶安2年(1649)に建てられたといわれています。

朝鮮通信使の墓

江戸に行かず大坂に残った朝鮮通信使の宿舎としても使用され、明和元年(1764)、11回目の朝鮮通信使の金漢重(キムハンジュン)の墓があります。

金は朝鮮東莱府草梁の人ですが大坂で病に臥せ、同寺で亡くなりました。

本国には愛する妻と2人の子供がいて、望郷の念に駆られて子供に逢いたいと縋る金の姿に、大坂の医者たちも心を痛め、同じ年頃の日本の子供2人を金の枕元へ呼んで、我が子に見立てて看病させたといいます。

また同年の朝鮮通信使では、対馬の通詞・鈴木伝蔵が、御堂御台所で行列奉行の朝鮮人と口論になって打擲され、その恥辱を晴らすために全く関係ない通詞の崔天悰を殺害するという「唐人殺し」が起こりました。

鈴木は逮捕されて処刑されましたが、崔天悰の供養は同寺で行われました。

ちなみに事件は当時の常として面白おかしく脚色され、『世話料理鱸包丁』(『今織蝦夷錦』)『漢人韓文手管始』『世話仕立唐縫針』などの歌舞伎狂言の演目になっています。

九島禅院

江戸時代の大坂名所案内『蘆分船』に「龍渓禅師庵」として小さい草庵の図が掲載され、『九条村絵図』にも「屋舗五歩、興禅庵大隨」と記載されています。

山号は霊亀山で、これは龍渓禅師が弟子に招かれて九島院の開山法要をした際、亀が花を背負って祝福に来たという故事によるもので、境内には「亀の墓」もあります。

寛文10年(1670)8月、九条村が洪水に襲われたとき、弟子たちが禅師に再三、避難を勧めましたが、禅師は沈着冷静に「生死は数なり」と一偈を書いて、座禅を組んでお経を唱え、泰然として入寂したと言い伝えられます。

後世の人々は「九条の人柱」といってその死を悼み、後水尾法皇は龍渓禅師の弟子であったので、以後、毎年8月に水灯施餓鬼を修して禅師の菩提を弔いました。

10年後に幕府が河村瑞賢に命じて九条島を開削して安治川を通しましたが、それには「龍渓禅師の人柱」も動機のひとつになったといわれています。

九島禅院の境内、左手に亀の墓があります。

茨住吉神社

茨住吉神社の茨は、当時この地域に茨が群生していたからという説や、摂津菟原郡(茨郡)の住吉神社から分祀したので元は「うばら」で、それが「いばら」に転訛した・・・といった説がありますが、確かな事は判っていません。

かつて当地には楠があり、その傍に祀られていた小祠でしたが、池山新兵衛の勧請で新田・河川の守護神として祀られました。

楠は戦前、樹齢約700年といわれていましたが、大阪空襲で焼け、しかし御神木として今も大切に保存されて「焼け楠」と呼ばれています。

にぎやかなアーケード商店街を抜けると九条新道。

大阪市電創業の地碑、花園橋停留場があった場所に建つ、かの、松下幸之助氏は、この大阪市電を眺めながら「これからは電気の時代!」と思いついたと、松下電器の社史にも記されています。

明治36年(1903)9月、九条新道の花園橋を起点に築港埠頭までの約5キロメートルに大阪市電が開通。

公営による電気鉄道は日本初の快挙でした。翌年(1904)には、これまた日本初の試みで「2階付電車」が走り、これは路面電車の上に長椅子が並ぶテント屋根付きのデッキを備えたもので、夏は「納涼電車」、冬は「魚釣り電車」と呼ばれて一躍、大阪名物となりました。

この「2階付電車」は市電創業50周年記念のさいに模擬電車が作られ、現在、緑木検車場(住之江区)に保存されています。

その後も大阪市電は拡張し続け、最盛期には総延長約110キロメートルまで路線が拡大、市電としては東京都電に次ぐ規模に達しました。

しかし戦後、中馬馨大阪市長が大阪港の防波堤工事を田中角栄大蔵大臣に陳情したさいに「防波堤工事は国がやるが、代わりに大阪市電廃止を」(角栄は日本列島を高速道路、新幹線で結ぶ列島改造論者だったので)と言われ、結局、大阪市側はそれを承諾。

高速道路主体、自動車偏重の都市計画が進み、大阪市民に愛惜されながらも、昭和44年(1969)に、大阪市電は、その栄光の歴史を終えました。

千代崎橋

明治初期の木津川は、高い帆柱を有した船が数多く往来したため、橋を架けるのにも舟運と陸上交通を両立させる工夫が必須でした。

明治5年(1872)に架橋された初代千代崎橋は、その課題を克服するために、橋板の中央部分が開く構造になっていました。

また、この橋の反りは大きく、端部の最急勾配は18%にもなっていました。

珍橋として浪花名所になりましたが、この橋も明治18年(1885)の淀川大洪水によって流出。

その後、普通の木桁橋が架けられましたが、これは関西の貿易港として神戸がどんどんと隆盛していき、大阪(安治川、木津川、尻無川)が没落していった証明でもありました。

千代崎橋は松島橋、伯楽橋と同様に戦前の都市計画事業によって、現在の橋に架け換えられています。

なお、地盤沈下によって橋が低くなったこともあって、昭和31年(1956)に嵩上げ工事が行われています。

安治川河底トンネル
かつて安治川上流には、マストの高い船の航行に邪魔にならないよ うに、ロクロを利用 … 続きを読む →

大阪歴史博物館
久し振りに同館を訪れたが10年1日のごとく何も変わっておらず、唖然とした。 水都 … 続きを読む →

水都大阪の安治川河口の様子。

天満宮行宮

天神祭のクライマックスである船渡御は、現在は大川上流に遡りますが、明治期から昭和初期までは大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸。

その後、陸路で松島の天満宮行宮(御旅所)を目指しました。その後、松島遊郭で夜通し遊び、翌朝に天満に帰っていったといいます。

しかし、戦後の地盤沈下によって船が橋をくぐれなくなったため、現在のようなコースに改められました。

京セラドーム大阪

平成9年(1997)に大阪ガス工場跡地に完成。東京ドーム、福岡ドームに次ぐ日本3番目のドーム球場です。

プロ野球のオリックス・バファローズの本拠地で、阪神タイガースも主催公式戦の一部を開催しています。

草野球向けの一般貸し出しも可能。

施設命名権(ネーミングライツ)売却で、平成18年(2006)から呼称を京セラドーム大阪としています。

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お帰りノムさん


大阪球場跡地に建つ「なんばパークス」の「南海ホークスメモリアルギャラリー」に、昨年2月11日に84歳で急逝した野村克也さんの愛用品が新たに展示され、14日に記念式典が開かれた。

同チームで活躍した野村克也さんの資料がなかったことから、現役時代一緒にプレーしていた江本孟紀さんが発起人となり、昨年11月からクラウドファンディングでリニューアルの資金を募っていた。

リニューアルでは既存の展示パネルに野村さんを加えるほか、野村さんゆかりの品を展示する予定だったが、支援金が目標額を上回ったことで、外観も併せてリニューアル。

「野村克也 青春のホームベース」「栄光の南海ホークス」「大阪球場ヒストリー」など5つの映像作品も館内放送用として追加されている。

1977年に南海監督を解任された経緯から、2017年12月に亡くなった沙知代夫人が野村さん関連の展示を断っていたが、44年ぶりに「南海・野村」が大阪球場に帰ってきた。

南海ホークス
若い人は「南海ホークス「」と聞いてもピンと来ないかもしれない。 今の「福岡ソフト … 続きを読む →

バットやユニフォームなどの展示がないだけではない。
年表にさえも「野村克也」の文字は一切ない。

先日亡くなられた時も献花台すら用意されなかった。
いろいろと確執があったようだがそれにしても寂しすぎる。

ノムさんが帰ってくる日
9階はなんばパークスの最上階。 パークスガーデンという、緑豊かな空中庭園となって … 続きを読む →

03年の「メモリアルギャラリー」完成後、テレビ番組の収録で訪れた本人は「野村の“の”の字もない」とボヤいたものだが、一転して“野村だらけ”にリニューアル。

ユニホーム、バット、ミット、サインなど南海時代のゆかりの品であふれかえった。

三冠王色紙 1965(昭和40)年 「運鈍根」

家族の協力により、南海でのラストシーズンとなった1977年に着用した背番号「19」のユニホームやバット、キャッチャーミットなどが展示された。

いつも静かなギャラリーだがこの日は熱心なファンが詰めかけ、「杉浦の血染めの4連投」とか「江夏の21球」のエピソードに花が咲いてる。

球団史もノムさんが加わることによりがぜん華やかになった。

1954年、南海にテスト生として入団。
背番号は60。

同期入団には皆川睦雄や宅和本司がいる。

3年目の1956年には背番号が19に変わる。

ハワイでの春季キャンプで一軍メンバーに抜擢されると、そのまま正捕手に定着し、レギュラー1年目で早くもベストナインに選ばれた。

杉浦忠

卒業後は日本ビールか朝日新聞社への入社も考えていたが、1958年に南海ホークスへ入団。

夢にまで見た大阪・御堂筋の優勝パレードで、ファンの歓呼に応える(先頭車左から)杉浦忠投手、中沢不二雄パ・リーグ会長、野村克也捕手ら南海ナイン=1959(昭和34)年10月31日。

1965年には戦後初の三冠王に輝く。

捕手の三冠王はメジャーリーグでも前例がなく、鶴岡は「捕手という重労働の中で、ノムは三冠王をものにした。

それだけに、ほかの選手がやる以上にりっぱなものです。

捕手で三冠をとったのは、もちろん世界で初めてです」と祝辞を述べている。

杉浦忠

下手から浮き上がる速球と横に大きく曲がるカーブで相手打者を手玉に取り、この年は27勝を挙げて新人王を獲得、鶴岡を「これでやっと西鉄を叩くことが出来る」と喜ばせた。

2年目の1959年は38勝4敗(勝率.905)という驚異的な成績で南海のリーグ優勝に貢献し、MVPを獲得、日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では第1戦から4連投し、4連勝の大活躍で南海を初の日本一に導き、シーズンに続いて日本シリーズMVPを獲得した。

大阪球場で迎えた第1戦と第2戦、杉浦は第1戦に先発、第2戦にもリリーフ登板し、2勝を挙げた。

ここで監督の鶴岡は、一気に勝負に出る。

舞台を敵地・後楽園球場に移した第3戦、雨天中止を挟んで迎えた第4戦にも杉浦を先発登板させ、ともに完投勝利を収める。

その第4戦では、指のマメをつぶしながらの「血染めの4連投」を完封で飾り、杉浦擁する南海はついに悲願の「打倒巨人」を成し遂げた。

野村氏と南海の確執

南海の監督兼捕手だった野村氏は1977年のシーズン(2位)残り2試合で解任された。

球団が当時交際中の沙知代夫人(17年死去)の言動を問題視したため。解任理由を不服とする野村氏は大阪府豊中市刀根山の自宅マンションに江夏豊、柏原純一らと籠城。

「鶴岡元老の圧力に吹き飛ばされた」と元監督の鶴岡一人氏(00年死去)を批判し、ロッテに移籍。

球団だけでなく、恩師とも絶縁状態になった。

18年2月の巨人とのOB戦でホークスの総監督を務めるなど、近年雪解けの気配があった。

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木津川遊歩空間(愛称:トコトコダンダン tocotocodandan)

今日は24節季の一つ「雨水」。

空から降るものが雪から雨に変わり、積もった雪も解けて水になるころ、という意味。

農耕の準備を始める目安とされたが、世間では雪花が散り、北風が吹き荒れる寒い日が続いています。

春まではもう少しかかるようです。

トコトコダンダンは、水都大阪再生の取り組みの一環として、水辺の回遊性を向上させるための遊歩道事業のうちの一つとして整備されました。

細い入り口から奥に300mほど広がっています。

地域の方々のくつろぎの場、憩いの場、散歩道、遊び場などとして活用されています。

この日も階段部分でお昼をいただく人、犬と散歩する人たちの姿が見られました。

途中広くオープンスペースになる部分が独特の平面形状になっているが、元々は広場の方向に続く堀と木津川の接続部を埋め立てた箇所にあたる。

第2回 日本建築設計学会賞(大賞候補作品)、グッドデザイン賞2018、土木学会デザイン賞2018年度,2019年度奨励賞を受賞している。

もともとは大阪城築城時に材木の物流拠点として使用された材木浜だったが、1955年以降、数回にわたり防潮堤が築かれ、水辺が遠い状況にあった。

2010年までに耐震補強された護岸を土台とし、その上部に広場と片持ち梁の雛壇状の遊歩道が設置される。

川に面する「だんだん畑」がコンセプト。
『トコトコダンダン』の名前の由来は、こんな風に、広場にたくさん段差があることなのです。

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モダン大阪発祥の地 川口居留地


~木津川橋を渡ってみれば文明開化の音がする~

慶応4年(1868)に架けられた木津川橋を渡った先に川口居留地がありました。

木津川橋は明治9年(1876)に木橋から鉄橋に架け替えられ、馬車道と歩道が区別されました。

明治初めの新風俗は川口から入り、大阪に暮らす人々の生活に多大な影響を与え、変化をもたらしました。

開港時の様子を思い浮かべながら歩いてみたい。

船手会所は元和6年(1620年)に設けられた江戸幕府の役所で、大阪湾から木津川・淀川に出入りする船の管理と、湾内に停泊している船の管理を行う船番所は、川口の会所と、春日出と三軒家にあった。

会所は元治元年(1864年)廃止され、神戸海軍操練所に業務移転した。

旧川口居留地は、1868年から1899年まで現在の大阪府大阪市西区川口1丁目北部・同2丁目北部に設けられていた川口外国人居留地の跡地。

旧大阪居留地、旧大阪川口居留地ともいう。

開市開港直前の大阪では、安治川と木津川の分岐点に位置する川口に船番所や組屋敷を設置していた大坂船手が軍艦奉行の勝海舟の提言によって1864年に廃止され、その跡地を外国人居留地に充てることが予定されていた。

しかし、貿易港としては短命に終わっている。

川口および当時の大阪港である安治川左岸の富島は、安治川河口から約6km上流に位置する河港であるため水深が浅く、大型船舶が入港できなかった。

1872年には外国船の入港が途絶え、川口の外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へ続々と転出した。

川口居留地の廃止

明治27年(1894)7月、第2次伊藤博文内閣の外務大臣・陸奥宗光は、英国と新しい通商航海条約に調印し、安政五箇国条約(1858年調印)の改正に成功しました。

この条約改正により明治32年(1899)7月に日本各地の居留地は廃止されることになりました。

同年7月、居留地議事館裏のグラウンドではお別れパーティが開かれ、居留民らは別れを惜しみました。

居留地議事館では第126回居留地会議が開かれて居留地は大阪府に引き渡され、大阪府は大阪市に居留地を引き継ぎました。

居留地時代の建物は現存しないが、1920年竣工の壮麗な大聖堂である日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会(ウィリアム・ウィルソン設計、大阪府指定文化財)が当時の街の面影を伝えている。

川口には外国人貿易商に代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、孤児院、学校を設立し経営を行った。

1884年には、26区画の内、キリスト教関係の施設が20区画を占め、2年後には10区画が増設されるほどだった。

平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されたのである。

それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、武家屋敷の破却により空地が生じた玉造をはじめ、現在の天王寺区や阿倍野区域に当たる上町台地へ広い敷地を求めて次々と移転して、川口は衰退への道をたどることになる。

カッフェー・キサラキ゛跡

明治末に大阪で最初に開業したカフェで、川口教会の南東側にあり、木津川に面した洋風2階建ての建物であった。

カフェには画家・詩人・演劇人などの芸術家が集まるサロンとして賑わった。

大阪開港の地(川口運上所跡)
大阪電信発祥の地(川口電信局跡)
川口運上所跡と大阪電信発祥の地
西区川口二丁目の9

慶応3年(1876年)この地に大阪税関の前身である「川口運上所」が設置され、外国事務、税関事務を取り扱っていた、今も隣接に大阪税関富島出張所がある。

諸外国の貿易取り締まり、関税徴収を担当する運上所は、幕末から明治初年に各開港場、開市場に設置されました。

大阪の運上所では、慶応4年(1868)4月末から五代友厚らがその任にあたって大阪開港前後の諸問題を解決しました。

また、運上所は川口居留地造成のための地上げ普請請負業者の募集や競売開催などを含む居留地関係の事務も担当しました。

明治3年(1870年)に川口運上所内に川口電信局が設置され、川口運上所から神戸まで電信線が架設開通しました。

これが日本最初の電信線であり大阪電信発祥の地である。

後に明治天皇がこの地に立ち寄られたので「明治天皇聖躅」の石碑が大正14年に建立されている。

富島天主堂跡

明治12年(1879年)頃、フランス副領事の請願にもとずき、ここ富島に本格的な赤レンガ造りゴシック様式の建物で「カトリック礼拝堂」をこの地に建てました。

今はありませんが大阪府庁江の子島庁舎と共に当時は洋風建築の代表的建造物でした。

今は聖マリア教会と聖マリア幼稚園になっています。

またこの辺はかっては外国人雑居地であった、多くの中国人が中華料理店や理髪店を開いていた。

安治川橋之碑

川口居留地設置後、明治6年(1873)に新たに架けられた安治川橋は、中央の二径間が鉄橋で、高いマストの船が航行する際には橋桁が旋回する可動橋であり、「磁石橋」というあだ名が付けられました。

明治18年(1885)の淀川大洪水では、浪華三大橋(難波橋、天神橋、天満橋)など多くの橋が流出し、流木となって安治川橋に引っ掛かりました。

危険を回避するために安治川橋はそのときに爆破され、以後架けられませんでした。

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早咲き種が満開です 大阪城梅園


季節外れの陽気にコロナ自粛もどこへやら蜜を避けて公園で憩う人々。

景色は冬のまま。

枯れ木の目立つ内堀。

大阪城天守閣の東方二の丸で東外堀と内堀の間に位置する曲輪は元は秀吉の家臣で秀頼の後見役であった片桐市正且元の屋敷があったことから市正曲輪と呼ばれている。

大阪の梅の開花は平年で2月10日。
大阪城公園梅林の梅「白加賀」が基準木になっています。

早咲きが見頃を迎え中咲きの品種が咲き始めています。

月影

清白色の中輪花が1月中旬から2月下旬に咲く。
枝も萼も緑色で美しい。

曙枝垂

野梅性 一重。
江戸時代につくられた品種、枝垂れ梅には40品種ほどが知られている。

ローバイは見頃を迎えています。

梅林の間から天守を望む。

毎年1月~3月頃にかけて、早咲きから遅咲きまで100品種を超える、約1270本の梅を楽しめます。

一重野梅

この「一重野梅」という品種、原種に近い素朴さがウリだそう。

「一重」という名前通り、花びらが重なっていないシンプルな花びらが特徴。

花の色は、白または淡い紅色が多いそうだ。

鹿児島紅

紅梅や 見ぬ恋つくる玉すだれ 芭蕉〔其木枯〕

紅梅の中でもとくに紅が濃いものを緋紅性といい、紅千鳥、緋梅、鹿児島紅、五節の舞、緋の句、玉光枝垂などがありますが、あでやかな色合いと芳香の花びらが古くから愛でられ、古典文学にも数多く登場します。

月の桂

青軸性 一重。
花は月影よりやや大きい。 

開花は遅く、清香がある。

当梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付した事で、昭和49年3月に開園となる。

今では100品種を超える梅が見られる。

小鳥も蜜を求めて盛んに飛びまわる。

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冬枯れの長居植物園

寒く厳しい冬にこそ見て感じることが出来る何かを見つけに、暖かい家をちょっと離れて寒空の下の公園へ。

最近、人気がでてきている冬のガーデンの景色です。

枯れた花や実、葉などを残して、その姿を観賞します。

海外ではそのようなガーデンが作られ、日本でも広まっています。

寒々とした景色です、カワウの糞害で木々が枯死しています。

渓流にも寒々とした木立が影を落とす。

「冬枯れ」とは冬に草木の葉が枯れた状態。
寒々とした、もの寂しい冬景色の表現にも使われます。   

重要なのは、「寂しいナ!」と感じること。

スズメは元気にえさを探していますが枯れ葉に隠れてしまいそう。

冬枯れの蓮の残骸の池は静かです。

ラクウショウの呼吸根(気根)

『土中の酸素が不足するため、地上の酸素を吸収しようとする工夫です』

あ~根は「光合成」できないから「呼吸」してるんですね。

で、ラクウショウが湿地に生えると、根が水に浸って酸素が不足する。
だから根の一部を地上に出して呼吸する。

「まつぼっくり」というのは,マツの袋という意味です。

松笠(まつかさ)ともいいます。

ハナミズキの枯れ葉、寂しさを感じます。

この寂しい感覚は、日本の諸文化にみられる「侘び寂び」に代表される美意識にも通じる部分がありそうです。

徒然草19段の後半部分にも冬枯れについての箇所がみつかります。

さて、冬枯(ふゆがれ)のけしきこそ、 秋にはをさをさ劣るまじけれ  (徒然草19段)

可憐だったカツラの葉、今は枯れ葉。

深まる秋 長居植物園
定点観測としている場所、ハナミズキの赤とカツラの黄が目立ちます。 ハナミズキとカ … 続きを読む →


小さなバナナのような果実をたくさんつけています。

なんの木かと思いましたが冬芽からカツラとわかりました。

「冬枯れ」という表現に対して、木々は枯れてはいないのですよね。

次のプロセスの為に、来たるべき春に備えて休み息をひそめている…

枳殻の残り実。

田舎で子供の頃「からすのきんたま」と呼んでいた。

かまきりの卵です、調べてみると各地方で「からすのきんたま」とよばれていたようです。

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春待つ花たち 長居植物園

長く厳しい冬が一段落して、寒い中にも時折春の訪れを感じる頃、新しい季節を待つ気持ちが強まる。

早く春よ来い、来て欲しいと願う気持ちだ。

カンヒザクラ

寒桜、寒緋桜と呼ばれるものは、1-3月の早春に咲き、各々薄桃色と深紅である。

啓翁桜とサンシュユの桃源郷 五條市西吉野町川岸地区
ここは黄色いサンシュユと淡いピンクの啓翁桜(ケイオウザクラ)が主体、両方同時に見 … 続きを読む →

啓翁桜はカンヒザクラとカラミザクラの種間雑種と考えられる栽培品種。

ジュウガツザクラ

名を漢字で書くと「十月桜」、春と秋(10月頃)にも花が咲きます。
秋に咲く花は春より少し小さいようです

一般には、白、薄桃色で八重のものが多いが、色々な品種があるようだ。

須磨離宮公園
1907年(明治40年)に大谷光瑞別邸を宮内省が買収して1908年(明治41年) … 続きを読む →

ジュウガツザクラがさりげなく咲いている。

スイセン

桜満開 足羽川堤防の散策
今日の東海北陸20名城巡りの宿はホテルフジタ 福井 夕食を済ませ桜満開の足羽川堤 … 続きを読む →

昨夜は暗くて気が付かなかったが、土手にはスイセンが咲き、桜とのコラボが素敵です。

フリソデヤナギ

名前は、江戸時代の1657年、明暦の大火(振袖火事)の火元となった本郷丸山町の本妙寺、その境内で発見されたことによります。

クリスマスローズ

クリスマスローズとは?…早春に咲く雪割草や福寿草などと同じキンポウゲ科の植物です。

学名をヘレボルス(Helleborus)といい、欧州では英名のヘレボレス(Hellebores)の名前が一般的です。欧州では12月に咲くヘレボルス・ニゲル(H.niger)をクリスマスローズといい、キリスト教の聖節レント(四旬節)の頃に咲くのでレンテンローズとも呼ばれます。

カワズザクラ

花が大きくピンク色なのが特徴のこの桜はカンヒザクラとオオシマザクラの自然交配と考えられています。

淀川水路に河津桜を訪ねる
淀川水路に河津桜があるというので出かける。 この辺りは平安時代には「与度津」と呼 … 続きを読む →

春呼ぶ 伊良湖菜の花ガーデン
1月中旬から3月下旬にかけて、渥美半島のいたるところで1千万本を超える菜の花が咲 … 続きを読む →

メイン会場の中でも、一番オススメの場所が菜の花畑の真ん中にある“河津桜”。

カワヤナギ

まだ花穂が開いたばかりのカワヤナギ、ビロード状の柔らかい毛が、川べりに残雪がある時期は保温の役割を担う。

万葉集には、「カワヤナギ」を詠んだ歌が三首収録されている。

山の際(ま)に雪は降りつつしかすがにこの川楊(かはやぎ)は萌えにけるかも (作者未詳 巻十 一八四八)

(訳)山あいに雪は降り続いている。
それなのに、この川の楊(やなぎ)は、もう青々と芽を吹き出した。

ソシンローバイ

ソシンロウバイやロウバイの木のそばを通ると甘い香りがする。
冬の冷たい空気のなかで嗅ぐほのかな香りが清々しい。

普段は下を向いていて花を正面から捉えるのは難しい。

下から覗き込むと空が明るすぎて絵にならないし・・・・

紅梅とソシンロウバイの紅色と黄色のコラボレーションはとても色鮮やかで華やいだ雰囲気だ。

マンサク

早春を告げる花木の一つにマンサクがあります。

早春に、他の花(葉)に先駆けてまず咲くから(まんずさく東北訛り)、あるいは、花が沢山付いて豊年満作だから等、諸説あるようです。

ギョリュウバイ

葉の姿がギョリュウ科の樹木「ギョリュウ(御柳)に似ており、梅のような花を咲かせるので「ギョリュウ(御柳梅)」 の名前なのだとか。

写真的には難しい部類に入るかな。

アセビ

池水(いけみず)に、影さへ見えて、咲きにほふ、馬酔木(あしび)の花を、袖(そで)に扱入(こき)れな 作者: 大伴家持

ささやきの小径再び
ささやきの小径、苔むした木の根が素敵です。 一週間たってやっとささやきの小道の雰 … 続きを読む →

まさにアセビのトンネル。
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梅林は花盛り 長居植物園

春告草(はるつげぐさ)、早春、葉に先だって前年枝の葉腋に、1 – 3個の花がつく。

春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど  早春賦

長居植物園では、早咲き・中咲き・遅咲きと開花時期の異なる約30品種の梅の花が咲き継がれます。

緑萼枝垂

天平2年(730年)1月13日、大宰帥・大伴旅人の邸宅(現在の福岡県太宰府市・坂本八幡宮辺りとの説がある。)で開かれた宴会で、いわゆる筑紫歌壇の員により梅花を題材に32首の歌が詠まれた。

この宴会を「梅花の宴」と呼び、これら32首の歌は『万葉集』巻五に収録されている。

これを基に、元号『令和』が制定されている。

文扉

遠の朝廷と防人を訪ねて②
御笠団印出土地 701年の大宝令(たいほうりょう)に定められた軍団(軍隊)の印判 … 続きを読む →

大宰府展示館の中、天平2(730)年正月13日、大宰師大伴旅人の邸で梅花を題とする歌宴が開かれた。
その様子を博多人形で再現されている。

舞扇

「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」菅原道真が大宰府に左遷される時、道真の愛した庭の梅の花に別れを惜しんで詠んだ歌。

後に庭の梅木が道真を追って大宰府に飛んできた、という「飛梅伝説」がある。

緑萼枝垂

遠の朝廷と防人を訪ねて④
太宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。 三天神には諸説 … 続きを読む →

飛梅が一輪寒風にさらされています。

雪月花

北野天満宮界隈
投稿日時: 2019年3月20日
旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。 福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに … 続きを読む →

飛梅伝説の現実的経緯としては、一説に、道真に仕えて大宰府にも同行した味酒保行が株分けの苗木を植えたものとも

鶯宿

月影

八重唐梅

御所紅

浜千鳥

八重寒梅

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江之子島界隈

江之子島は百間堀川・木津川・江戸堀川に挟まれていた島で、東は百間堀川を挟んで京町堀・靱・薩摩堀、南は木津川を挟んで松島、西は木津川を挟んで本田・川口、北は江戸堀川を挟んで江戸堀に隣接していたが、現在は百間堀川と江戸堀川は埋め立てられている。

もとは淀川の河口に形成された難波八十島(なにわのやそしま)のひとつで、名称の由来には「難波江の小島」からの転訛説と、「狗子島」「犬子島」からの転訛説がある。

中国総領事館

正式名は中華人民共和国駐大阪総領事館で、中国と日本・大阪の窓口となっています。

旅券査証の発行や政治経済交流が主ですが、近畿と中国・四国を管轄としています。

川口居留地の貿易では、華商の手を借りることも多く、こうした誼から昭和60年(1985)、豊中市千里から当地に移転しました。

雑喉場(ざこば)魚市場跡

雑喉場市場跡は延宝年間(1673~81)に鷺島の生魚市場の名称を雑喉場と改め、大坂三郷の中央部に所在していた魚市場を移転させて以来、昭和六年(1931)に市営の中央卸売市場に統合されるまで、実に二百五十年以上ものあいだ大阪における魚類取引の中心をなしたところである。

堂島米市場・天満青物市場とならび、近世大坂の三大市場と称され、安永元年(1772)問屋株が免許されると、独 占 的 地 位 が 認 めら れ ました 。

昭 和 6 年(1931) 、大阪市中央卸売市場に吸収合併されました。

雑喉場橋跡

雑喉場市場の百間堀川に架かっていた橋。

昆布佃煮の老舗「神宗(かんそう)」は、かつて雑喉場橋東詰で商いを営んでいました。

神宗・淀屋橋店には当時の雑喉場商人の気質を守りたいと、雑喉場橋の親柱が、今でも保存されています。

天満宮神幸御上陸地碑

天神祭のクライマックス、船渡御は、戦後の地盤沈下によって船が橋をくぐれなくなったため、今大川上流に向いますが、明治期から昭和初期までの渡御コースは、大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸後、陸路、松島の天満宮行宮の御旅所を目指す船渡御、陸渡御列だったようです。

木津川橋碑

慶応4年(1868)に架けられました。

外国人の居留地が建設された川口と、大阪の行政の中心地だった江之子島を結んだ橋は、大阪と海外を結ぶ架け橋にもなりました。

1874年(明治7年)に大阪府庁舎(2代目)が江之子島上之町に、1893年(明治26年)に西区庁舎(3代目)が江之子島東之町に、市制特例廃止後の1899年(明治32年)に大阪市庁舎(初代)が江之子島上之町に置かれ、当時の江之子島は地方行政の中心地となっていた。

なお、大阪市庁舎は1912年(明治45年)に堂島へ、大阪府庁舎は1926年(大正15年)に大手前へ、西区庁舎は1934年(昭和9年)に西長堀へ移転している。

大阪府庁舎跡には1929年(昭和4年)に大阪府工業奨励館(現・大阪府立産業技術総合研究所)が置かれたが、こちらも1996年(平成8年)に和泉市へ移転した。

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