犬鳴山


犬鳴山(いぬなきさん)は、大阪府泉佐野市大木犬鳴の犬鳴川渓谷を中心として、そこへ流れ込む燈明ヶ岳(標高558m、西ノ燈明ヶ岳ともいう)等の山域全体の総称。

「犬鳴山」という名称の山があるわけではない。

七宝瀧寺参道としての犬鳴川を持ち、決して高い山域ではないにも関わらず、渓流沿いの山岳景観は「大阪府 緑の百選」にも選ばれ、地元民に深く愛されている。

関西国際空港が開港してからは、空港からもっとも近い温泉「犬鳴山温泉」がある場所として名前が広がった。

画像は2の橋。

山中には、七飛瀑(両界の滝、塔の滝、弁天の滝、布引の滝、古津喜の滝、千寿の滝、行者の滝)をはじめ大小48の滝がある。

このうち行者の滝は滝に打たれる修験場として知られている。
一般の一日体験も可能であり、女性でも参加できる。(有料、要予約)

画像は大黒天。

大阪府で最も高いノッポ杉、樹高38m。

なお「犬鳴山」の読み方についてであるが、地元では通常(いぬなきさん)と呼ぶ。

これは次節で述べているように、「犬鳴」が寺院の山号に由来しているためである。

そのため地元で「いぬなきさんに行く」と言えば、犬鳴川渓流沿いの参道を遡って七宝瀧寺へ行くことを指すのであって、決して山歩きに行こうと言っているわけではない。

これに対し、参道渓流入り口の温泉郷では(いぬなきやま)と読ませて「犬鳴山温泉」と称している。

犬鳴山という名前は、七宝瀧寺の山号である「いぬなきさん」に由来したものである。

両界の滝。

犬鳴大明神の由緒

古記にに依れば白鳳齊明天皇の御字、役小角が当山奥の滝(行者の滝)にて本尊倶利迦羅大龍無動明王をご感得になられたその少し前、同じく口の瀧(両界の滝)にてご修行の折、火の神が御誕生されました。

滝よりお生まれになったので瀧宮大明神と号し麓の大木の里に鎮祭しました。

平安初期、延直式で式内郷社に列され、火走神社として爾来高く尊崇されています。

今、そのご分霊を神意により犬鳴大明神と号し此処生誕地に改め勧請し奉る。

近世初頭の「口上覚」によると、毎年5月に高野山から葛城巡行する先達たちは、犬鳴山に7日間留まり柴焼護摩を修したといい、「葛城山中で七日間も逗留するのはここだけだ」と述べられており、いかにこの山の地位が高かったかをうかがわせるものとなっている。

南北朝期に六坊が創建され、室町期には二十坊の坊舎を有し、本堂の修復も行われて隆盛を迎えた。

しかし豊臣秀吉の根来攻めによって本堂以外の堂舎を焼き払われ、田畑山林も没収され、一時は廃絶同然となった。

のち岸和田城主より寺領五石の寄進を受け、ほぼ今日見られるまでに復興したものである。

修験道は、山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰。

仏教に取り入れられた日本独特の宗教でもある。
修験宗ともいう。

修験道の実践者を修験者または山伏という。

修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教などの要素も加味されて確立した。

日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。

この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る 修行して その徳を驗(あら)わす」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ。

修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語とされる。

画像は瑞龍門(行者迎えの門)

修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られる。

表現形態として、権現(神仏が仮の姿で現れた神)などの神格や王子(参詣途上で儀礼を行う場所)がある。

修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。

役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。

修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになった。

その信仰の源は、すでに8世紀からみられた仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の動きの中に求められる。

神仏習合は徐々に広まり、神社の境内に神宮寺が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社がそれぞれ建てられ、神職、あるいは僧職が神前で読経を行うなどした。

そして、それらの神仏習合の動きと、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道という独自の信仰が成立していった。

このように、修験道は、密教との関わりが深かったため、修験道法度弐を定めることで仏教の一派と見なして統制した。

修験道は、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。

江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないこととし、両派に分けて競合させた。

ただ本山派は天台宗寺門派の園城寺末の聖護院を本山とし、当山派は真言宗総本山醍醐寺塔頭の三宝院を本山とするように、いずれも仏教教団の傘下で活動した。

宇多天皇の御代、紀州の猟師がこの山域で狩りをしていた際、突然連れていた犬が激しく鳴きだし、結果猟師が射ようとしていた鹿が逃げてしまった。

怒った猟師は犬の首をはねたのだが、その首はそれでも飛び跳ね、今まさに猟師に襲いかかろうと狙っていた大蛇に噛み付いた。

犬は、主人が大蛇に狙われていることを知って鳴いていたのであった。

愛犬に救われたと気付いた猟師は、これを悔いて七宝滝寺の僧となって愛犬を供養した。

このことを聞いた天皇はいたく感動し、七宝滝寺に『以後「いぬなきさん」と改めよ』と勅号を賜ったと伝えられている。

明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。

里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。

また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。

御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。

犬鳴山七宝瀧寺は、院号を「白雲院」と呼ばれていますが、これには乙女の哀しい物語があります。

その昔、淡路の小聖という修験者がいて、しばしば御所へ出入りしているうちに、官女の志津女という美人に想われる身となりました。

小聖は修行の妨げになるからと志津女を振り切って、犬鳴山中に逃れてきました。

志津女は小聖をあきらめきれず、あとを追って諸国を探し求め、遂に泉州犬鳴山に小聖が修行しているのを風のたよりに聞き、かの僧に一目会うべく犬鳴山まで来ました。

しかし、険しい渓谷の山路と、飢えと寒さ、そして俄かにたちこめてきた白雲によって道を見失い、ついに路傍に悶死しました。

村人は志津女の亡骸をねんごろに葬りました。

こうしたことがあってから、犬鳴山に白雲が立ちこめる日は必ず雨が降るので、村人は「志津の涙雨」だと言い、また、倒れていた付近の山肌から流れしみ出した清水を「志津の涙水」と呼ぶようになりました。

志津女の墓は、本堂下手100mの付近、参道の傍らにあり、その側からは今も涙水のように、清水が流れ落ちています。

書院はこの時から、「白雲院」と呼ばれるようになったと伝えられています。

また、一心を込めた願い事がある場合、この水を持ち帰り毎日飲用すると必ずや願い事が成就するといわれています。

付近にはお志津地蔵尊の御堂が建立され、一願成就のお地蔵さまとして信仰を集めています。

行者の滝。

橋の上まで進んで滝のクローズアップを撮ろうとしたのですが、バッテリー切れでアウト。

Z6は電池の消耗が激しい、予備の電池の傾向が必要になる。

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大阪城 早朝散策


朝の六時過ぎです、森之宮はまだ清々しい空気に包まれています。

内堀の石垣が朝日を受けてきれいです。

極楽橋からの天守閣。

早朝の極楽橋、時折ランニングをする人が通り過ぎていきます。

御座舟は運航休止中、ロードトレインは運行していました。

豊臣期の大坂城と城下町を描いた貴重な屏風絵「豊臣期大坂図屏風」(オーストリア エッゲンベルク城所蔵)の中に見られる秀吉の「鳳凰丸」をモデルに、大坂の陣から400年を経た平和な大阪で、秀吉が生きていたら、黄金の御座船にするだろうという意を込めて、船全体に純金箔貼りを多用したもの。

大坂城の極楽橋

1596年、城の北部(京都側)の内堀に架けられた。

長さ約40メートルで、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録によると、鍍金(めっき)を施した屋根や太陽を浴びると輝きを放つ小櫓(やぐら)などがある豪華な橋だったという。

大坂城を題材にした屏風にも描かれている。

橋の移築は、京都・醍醐寺の三宝院門跡、義演(ぎえん)の「義演准后(じゅごう)日記」に、秀吉死後の1600年、秀吉をまつる京都の豊国廟(びょう)に移されたとの記述があり、豊国廟の社僧が書いた「舜旧記(しゅんきゅうき)」には02年、廟から竹生島に寄進されたと記されている。

竹生島
竹生島は葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大き … 続きを読む →

琵琶湖に浮かぶ竹生島(滋賀県)の宝厳寺観音堂唐門が、豊臣大坂城の極楽橋の遺構(淀殿寄進)と伝わっている。

舟廊下と呼ばれているのは、これが秀吉の御座舟を利用して造られたことに由来するといわれる。

屋根に見られる緑色は銅瓦の緑青によるもの。
大阪城の青みがかった屋根、銅ぶき屋根その1。

大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に再築された日本の城。

別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。
「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。

ちょうどお参りの人が出てきたところ、朝日に長く影を引く。

豊国神社の青みがかった屋根、銅ぶき屋根その2。

大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、その落城後に徳川氏が修築した城とで縄張や構造が変更されている。

現在地表から見ることができる縄張はすべて、江戸時代のものである。

ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないといわれている。

修道館の青みがかった屋根、銅ぶき屋根その3。

南外堀、堀の姿が美しい場所だ、六番櫓を水面に映し朝日に輝いている。

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秋 大阪城


大阪城公園も紅葉真っ盛りだ。

森の宮から散策を始める、まず外周約1kmを誇る「イチョウ並木」。

玉造口を目指す、この辺りもイチョウの紅葉がきれいだ。

長い階段、人通りは少ない。

林に差し込む光線がきれいだ。

桜がきれいに紅葉している。

雁木坂

大阪城の本丸を取り囲む二の丸は北が低く、内堀の東にあたるこの通路は南から北にかけて急な下り坂となっている。

空堀を西日が照らす。

内堀の石垣の紅葉。

重森三玲作の秀石庭、見学には事前予約が必要だが塀が低いので撮影は可能だ。

昔、男の背中という歌が流行ったこともあったっけ。

日本庭園、大阪城が一番きれいな場所だ。

本丸 隠し曲輪 にある リュウキュウハゼ 、きれいです。

ところがこのおばさん、いろいろとポーズをとりながら中々どけない、こちらもしまいに根負け。

空堀でおじさんが呼んでいるので行ってみると、なんとヌートリア、こんなところにもいるのか。

近くにはススキが群生していてきれい。

見上げれば空には秋の雲。

こちらも見事なスジ雲。

南外堀ではカモが見事な編隊飛行。

堀の上は見事な紅葉のトンネル。

一歩林へ踏み込むと色づいた落ち葉の絨毯。

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紅葉の小谷城址


小谷城址は6年ぶりの訪問だ、画像は『江 姫たちの戦国』の放映を記念して建てられた記念碑。

中腹(番所跡)までの約4キロをシャトルバスで送迎してくれる。

紅葉真っ盛り。

前回の訪問時は小雨の中の登城だった。
小谷山上に築かれた近江の名城 小谷城
今回は小雨をついての登頂敢行だ。 右側の尾根筋を六防迄登り、清水谷を小谷城戦国歴 … 続きを読む →


当時より足の衰えを感じる。

天正元年(1572年)再び小谷城に侵攻した信長は虎御前山に築城し、小谷城が落城するまでの間、最前線の砦として利用された。

手前の北國脇往還は信長が、秀吉が長政が義景が駆け抜け、死闘を繰り返した道だ

御馬屋跡。

戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した。

その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となった。

現在は土塁・曲輪などのほか、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っている。

国の史跡に指定されている。

首据石(くびすえいし)
馬洗池から少し登ったところにある。

天文2年(1533)初代亮政は六角氏との合戦の際家臣今井左衛門尉秀信が敵方に内通していたことを知り、見せしめのため秀信の首をここにさらしたことで有名な石。

黒鉄門跡。

桜の馬場跡の紅葉もきれいです。

桜の馬場跡。

大広間址

この城跡で最も大きい平地、家臣達を集めての会議などを行ったところ。

このすぐ後ろの一段高くなったところに城主がいた本丸址がある。

本丸跡、兵どもの戦いはどこへやら、美しい紅葉が・・・・・

織田、浅井の死闘

天下取りへの転換点 金ヶ崎城
南北朝、戦国期を通じ常に天下取りへの転換点となった金ヶ崎城址への訪問記。 金ヶ崎 … 続きを読む →

朝倉義景討伐を企てた織田信長が越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏裏切りの報が…。

朽木に信長遁走の跡を訪ねる
興聖寺はもともと現在の位置とは安曇川を挟んで反対側の上柏村指月谷にあったが、江戸 … 続きを読む →

興聖寺脇の渓流沿いの小径、朽木氏の闘争のための経路という。
信長もこの経路で脱出したようだ。

姉川の戦い
「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅 … 続きを読む →

午前6時頃に戦闘が始まる。
浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長公記)」という激戦になったが、織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。

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秋の福知山城


秋の一日福知山城を訪れた。
ドラマ「麒麟が来る」の宣伝一色。

現在のような縄張りは明智光秀がおこなった。

畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。

丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。

1973年(昭和48年)には東京工業大学の藤岡通夫によって基本設計図が描かれ1982年(昭和57年)には塩見精太郎市長が天守再建の意向を示し、1983年(昭和58年)には調査費が計上される。

2020年(令和2年)、福知山城天守の写真が発見された。

写真は不鮮明ながら全容を確認することができ、ほぼ正しい姿で再建されていることが裏付けられた。

本丸、天守の東側に「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸が残っている。

この井戸は城主であった朽木稙昌の父朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだもの。

井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。高所に関わらず水深37mもあり、現在も満々と水をたたえている。

伝承ではこの井戸に抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがある。

福知山城の本丸には朝暉神社(あさひじんじゃ)がある。

1669年(寛文9年)6月に入部した、福知山初代藩主である朽木稙昌(くつきたねまさ)が父・稙綱(たねつな)を藩祖として城中に祀ったことにはじまり、11代藩主・綱條(つなえだ)のときに一社を建立して朝暉神社と号しました。

朽木に信長遁走の跡を訪ねる
投稿日時: 2017年12月1日
興聖寺はもともと現在の位置とは安曇川を挟んで反対側の上柏村指月谷にあったが、江 … 続きを読む →

興聖寺脇の渓流沿いの小径、朽木氏の闘争のための経路という。
信長もこの経路で脱出したようだ。

街中にこのようなイラストが氾濫するが、イメージと全く合わず違和感を感じる。

天守から北方向の眺望。

正面の一番奥が大江山。

秋の深まりを感じる城内、ハナミズキの赤がきれいだった。

福知山城下は由良川(ゆらがわ)と土師川(はぜがわ)が合流する地点で、たびたび氾濫を起こしていた。

天正八年(1580)明智光秀は城下町を築くため、現在の福知山駅付近まで蛇行していたと推定される由良川に堤防を築いて北向きに固定し、堤防の前面には衝撃を和らげるための藪を設けたと伝わっています。

かつて蛇ヶ端(じゃがはな)御藪と呼ばれたその藪は、今では「明智藪(光秀堤)」として親しまれています。

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明智光秀が再興に尽くした 西教寺
光秀は、本能寺の変で主君織田信長を討ち、非道な逆賊のイメージが強い。 だが、領地 … 続きを読む →

光秀は、本能寺の変で主君織田信長を討ち、非道な逆賊のイメージが強い。
だが、領地の近江坂本周辺では、善政を敷き、教養に秀でた名君として、今も住民らに慕われている。

祇園白川に 明智首塚
1582年(天正10年)、天正天王山の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、坂本城を … 続きを読む →

光秀の首塚は、もとはこの場所にあったのではありません。『京都坊目誌』によると、光秀の首は、粟田の刑場にさらされた後、そのすぐ近くの西小物座町の人家のうしろに、他の数千の首と一緒に埋められ塚が築かれました。

悲運の武将 明智光秀終焉の地
地下鉄東西線醍醐駅から、徒歩で15分程でしょうか。 枯れ寂びた藪の中、明智薮”が … 続きを読む →

この明智藪は、今日に至るまで、戦国武将明智光秀の終焉の地として傳えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている。

細川ガラシャ終焉の地
明治27年(1894)に「聖アグネス聖堂」として建てられたが、空襲で焼失。 昭和 … 続きを読む →

38歳で死を選択した彼女の辞世の句は胸に響きます。

散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ

天下分け目の天王山 山崎の戦い
山崎は京都への圧力と、防備、外圧を防ぐ両面を持った地で、古来より何度か戦場となっ … 続きを読む →

翌日羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となり、光秀は逃亡、討死する結果となった。

歴史とドラマの城 勝竜寺城
勝竜寺城は京都盆地の西南部、小畑川と犬川の合流地点に位置し、西国街道と久我畷が交 … 続きを読む →

羽柴秀吉の中国大返しによって山崎の合戦に敗北した光秀は一旦この城に逃れるも、もち直す事は不可能であり本拠坂本城に向けて脱出した。

その際に光秀が逃亡した時に使用したという門址跡。

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長浜城


1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。

秀吉の天守台南側には新たに犬山城と丸岡城の天守をモデルとした三層の模擬天守が建てられ、中は資料館となっている。

雪に埋もれた長浜城
寒波襲来で長浜地域は大雪、長浜城も雪に埋もれており簡単には近づけない。 尚雪は降 … 続きを読む →


小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。

その後宝厳寺に対しては秀吉の遺命として大阪城の唐門などが移築されている。

天守よりの眺望、正面の小さな島が沖島、その左が安土。

右端の奥に小さく見えるのが竹生島。

以前の訪問竹生島
竹生島は葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大き … 続きを読む →


城の一部が文政近江地震で水没琵琶湖に水没し、長浜城遺跡となっている(琵琶湖湖底遺跡)。

長浜城の井戸とされてる「太閤井」と呼ばれる井戸が湖岸にあり石碑が立てれているが、琵琶湖の水位が高いと湖面に石碑だけが顔をのぞかせている。

天正3・4年頃完成し入城。

湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。

城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。

そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。
秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。

厳冬の琵琶湖岸
ラッセルをこなしやっと湖岸にたどり着く。 まだ降雪は続いている。 この時期湖岸を … 続きを読む →

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信貴山城址

一昨年足の怪我以来山登りができず「戦国初期の八大名城」のうち信貴山城址のみが未制覇となっていたがやっと念願を果たした。

「戦国初期の八大名城」とは春日山城 |一乗谷城 |七尾城 |小谷城 |井ノ口城(稲葉山城) |要害山城 |観音寺城 |信貴山城 をいう。

100名城築城年代別リスト
戦国時代、日本には3~5万もの城があった。 現在残る天守はわずか12だけ。現存天 … 続きを読む →


開運橋から信貴山城址を望む。

信貴山朝護孫子寺からわずか500m少々、これが何ともならず悔しい思いをしていたが思い切って挑戦。

信貴山城は大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城。

信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀はこの山上に南北880m、東西600mに及ぶ城郭を築いた。

信貴山中腹には、朝護孫子寺がある。
また、付近には、高安山城、南畑ミネンド城、立野城といった支城が存在した。

永禄3年(1560年)11月に、大和国を制圧した松永久秀は、信貴山城を選んで大和支配の拠点とした。

信貴山城を今日にみられるような規模の城郭としたのは久秀である。
久秀が信貴山城を拠点として選んだ理由は、木沢長政の後継者として大和国を支配するという政治的アピールがあったと考えられる。

『和州信貴山古城図』では、空鉢堂が建っている部分を本丸、少し下ったところにある細曲輪が二の丸、ハイキングコースがある部分を三の丸と記載されている。

『探訪日本の城』によると、この本丸跡に4層の天守櫓が建っており、伊丹城(1521年)につぐ日本で2番目に建造された天守で、織田信長の安土城もこの天守を参考にしたのではないかと思われ、松永久秀は築城の才覚も備わっていたと記載されている。

天正5年(1577年)8月、信長に謀反を起こした久秀は信貴山城に籠城した。

信長は松井友閑を信貴山城に派遣して翻意を促したが、久秀の決意は固かった。
やむを得ず、信長は9月29日に信貴山城攻撃のための軍を出撃させた。

10月3日には、織田信忠に率いられた織田方の軍勢が城下を焼き払い、9日には信貴山城に火の手が上がる。
翌日、信忠らが本城を包囲して攻めると、ついに久秀は「天主」を自焼して自ら命を絶った。

これ以後、信貴山城が使われた形跡はなく、この時に廃城になったとされる。

信長が久秀の命と引換えに望んだ天下の名器「平蜘蛛の茶釜」に火薬を仕込み爆死したともいわれている。

その日は、久秀が筒井・三好三人衆との戦いにおいて東大寺大仏殿を焼いたとされる日と一致し、その因果(仏罰)だといわれている。

信貴山山頂からの眺望。
空鉢堂から南側を撮影、後方が金剛山。

松永久秀について

初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。
久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。

また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。
長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。
織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。

天守を中心とした城郭建築の第一人者であり、多聞作りを創始した人物とされている。
城門と櫓を一体化させ防御力を向上させるという発想は、当時は非常に革新的であった。

天守の創始者と言われていたが近年、伊丹城に天守に相当する櫓が存在したことが判明し、否定されている。
また古代の古墳を破壊して築城した事でも有名だが、これは主君である三好長慶に倣ったものともされる。
古墳は高台や水濠を備えていたことから城に改造するには最適な地形であり、また大和国は数多くの古墳が存在する。

多聞山城にいた頃、かつて三好長慶や織田信長などの歴代の権力者を幻術で手玉に取った仙人・果心居士を招き、「自分は戦場でも一度も恐怖を味わった事がない、そなたの術でわしを恐怖させてみよ」と豪語した。

果心居士はこれに応じ、部屋の明かりを消し、人払いをさせた後、自身の姿を一人の女人の幽霊に変えて久秀に近づいたという。
外ではにわかに稲妻が走り、雷雨が落ちると久秀の顔も恐怖のあまり蒼白し、「分かった、もうやめよ」と声をあげた。実は、この女人の幽霊は久秀の妻(故人)であり、幽霊が消えたあとも、久秀の震えは止まらなかったという。

果心居士の幻術-新潮文庫-司馬-遼太郎

『常山紀談』で信長が語った久秀の「三悪事(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)」に対し、信長自身も、主君に当たる織田大和守家の当主であった織田信友を討滅し、将軍であった足利義昭を追放し、比叡山焼き討ちを敢行する等、久秀とまったく同じような所業を成している。

斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されている。
「下剋上の代名詞」、「謀反癖のある人物」などのイメージを一般には抱かれており、小説を始めとした創作物においてもそのような人物として描かれることが多いが、こうした久秀のイメージは、後世に成立した『常山紀談』などを典拠として成立したところが大きい。

しかし実際の久秀は主君・三好長慶の存命中は、目立って謀反を起こしたり専横をしたことは一次史料からは確認できない。
また長慶の嫡男・義興や長慶の弟・十河一存を暗殺し、長慶の弟・安宅冬康を讒訴して殺させ、三好政権を崩壊へと導いたといわれるが、これらの情報も多くは軍記物などを典拠としたもので、信憑性に乏しい。

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大阪城


今日は玉造口からの登城を目指します。

玉造口定番屋敷跡、江戸幕府にとって大阪は江戸に次ぐ最重要の城だった、大坂城には玉造口とほぼ反対側の京橋口の二か所に定番が設けられており役目は城の出入り口での守衛、城内警備が主な仕事だったようです。

南外堀、大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。

石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。

幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。

内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。
櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。

大阪城には四つの出入口があります。
その内の一つが青屋口です。
そこの桝形にある門が青屋門と呼ばれています。

2度焼失しており、明治時代に陸軍が、昭和になり大阪市が再建しています。

青屋門と言う名前は、戦国時代の石山本願寺の青屋町から来てますが、この「青屋」というのは、染物屋のことです。

またの名を「紺屋(こうや)」と呼ばれていました。
染物とは紺色に染めることから来ているのでしょう。

。青屋門から本丸に登城するには、本丸の北側にかかる極楽橋という橋を渡ります。

一説によるとこの橋は、大坂本願寺時代、豊臣期大坂城の時代にも存在しており、現在の大阪城でもその名称が引き継がれています。

秀頼、淀殿ら自刃の地

前年の大坂冬の陣の講和で堀が埋められてしまった大阪城は、野戦での奮戦も虚しく、慶長20年(1615年)5月8日に落城する。

前日の7日に大勢が決し、大阪城内は内応者による放火が始まり、火事場泥棒の如く裏切る浪人も多数現れた。
城主である豊臣秀頼をはじめ、生母の淀殿、恩顧の武将や女房など約30名は難を逃れ、徳川家康の孫である妻の千姫による助命嘆願が聞き届けられるのを待つことになる。

潜んだ場所は、天守閣の北にあたる山里曲輪にある隅矢倉であったと伝えられる。

しかし助命は叶わず、隅矢倉に立て籠もった者は火を放ってことごとく自害して果てたのであった。

ただ全てが灰燼に帰したため、遺体はあったものの誰であるかは分からない状態であったとされる。

秀頼については、吉光の短刀のそばに首のない遺体があり、短刀が秀吉から秀頼に与えられたものであったために、それが本人であると確認されたという。

山里丸石垣の機銃掃射痕

山里口出桝形

隠し曲輪の入り口。
何の表示も無いので、ほとんどの観光客はここを素通りしていきます。

この奥に広場があるとは、誰も気付きません。

姫門を出て西へ行くと南北に長い帯曲輪に出ます。

「隠し曲輪」と呼ばれ、城が攻められた時に兵士を隠しておく曲輪とされています。

隠し曲輪と言われるだけあってここに曲輪があることは分かりづらく、本丸に人があふれている時でも、落ち着いて大阪城を感じることができる場所ともいえます。

「隠し曲輪」の石垣構築工事を担当した伊予大洲藩、丹波園部藩の刻印石が多くみられます。

天守東側を堀に沿って歩く、ミライザ(前の大阪市立博物館。旧第四師団司令部庁舎)の裏手。

前面に何か祭祀の場所のようなものがある。

馬印櫓は3層の櫓であったが、明治維新の折に焼失した。

解説板によると此処にあった櫓には、家康が大坂の陣で用いたという馬印が納められていたということです。

大坂城代は、この馬印を拝するのを例とし幕末に大坂城を訪れた14代将軍家茂もこの櫓で馬印を拝覧したそうです。

右先方は梅園。

今日は違うアングルから天守を。

桜門桝形の巨石 蛸石と振袖石。

桜門

西側から見た空堀

南仕切り門跡・太鼓櫓跡、前方は石山本願寺推定地。

大手口桝形と巨石

独古組み(どっこぐみ)

こちらは大阪城の追手門に使われている継ぎ手を再現したもの。
当時は継いだ状態からは内部構造がどうなっているか不明で、X線による解析で内部構造が分かったそうです。
縦にも横にも動かない、とても難解な組木です。

大手門からの堀。

大手門

生玉神社御旅所跡

南外堀の石垣の高さは大阪城で2番目となっていて、堀の幅も広いので雄大な外堀の景色を楽しめます。

築城技術が全盛で、さらに南外堀は築城の最終段階でつくられたこともあるので 石垣の石組の完成度が非常に高くなっています 

二番櫓、三番櫓、四番櫓、五番櫓、七番櫓は第二次世界大戦の空襲と戊辰戦争の大火により焼失しています。現存しているのは一番櫓と六番櫓のみ。

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彦根城


彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工された。

当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城された。

画像は中堀から二の丸佐和山口多門櫓、天守を望む。

二の丸佐和山口多聞櫓

いろは松から彦根城を訪れる時、最初に出逢う櫓。
左手に見える櫓は明和8年(1771年)に再建されたもの。
現在、重要文化財に指定されています。

佐和山口多聞櫓の上や下に多くのサギや鵜。

多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。

佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。

二季咲桜

内堀沿い、金亀児童公園内にあるこの桜は春(4月〜5月)と冬(11月〜1月)の2回開花する珍しい桜。
昭和47年4月に水戸市より寄贈された。

玄宮園から天守を望む。

琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられた。
4代藩主直興により延宝5年(1677年)に造営。

臨池閣の一部。

楽々園、槻(けやき)御殿は藩主の下屋敷で、玄宮楽々園の名で国の名勝に指定されている。

四代藩主直興が延宝5(1677)年に造営。
大書院、地震の間、雷の間、楽々の間など、工夫を凝らした部屋が残っています。

茶座敷(地震の間)
城主である井伊家は文化9(1812)年、11代藩主の直中(なおなか)が隠居するにあたり、下屋敷の大規模な増改築を行った。
その際、ここに「地震の間(ま)」が設けられた。

200年前前にいわば免震構造のような形になっているのです。

黒門跡。

黒門山道を西の丸目指して登ります。

見事な高石垣です。

今回も逆からの登城です。

彦根城は、明治に解体の危機にみまわれました。
しかし、今も往時の面影が今日によく残っているのは、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、保存するようにと大命を下されたからでした。

一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。

また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。

今朝降った雪が残っています。

近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。

このうち、松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城の天守は国宝です。

現存天守の記事を見る

佐和山城跡を望む。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

多景島

竹生島

国宝彦根城天守は北西に附櫓(つけやぐら)が、さらに長い多聞櫓が連なります。

また、破風は変化の妙に富んでいます。

天守一層目の軒に並ぶ八つの「へ」の字形の切妻破風は、それぞれの大きさと奥行きに変化をもたせ、二層目は、南北を切妻破風、東西を入母屋破風とし、南北にが唐破風が設けられています。

太鼓門櫓の内部。

太鼓門櫓から西の丸三重櫓を望む。

本丸の西側一帯を西の丸と呼び、その西の丸の一番はずれにあるのが三重櫓です。
10m以上にも及ぶ高い石垣の上に築かれています。

三重櫓の東側一帯は桜が植えられ、春にはお花見のスポットとして賑わいます。

本丸への最後の関門である太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。

登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。

太鼓門櫓を過ぎると、正面に天守が現れます。

時報鐘の前に立ち、右に太鼓門を見ながら仰ぐ天守雄姿は格別です。

佐和山城を嫌った直政は琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。

時報鐘、城全体に響くようにと『鐘の丸』より移されたもので、今も定時に鐘がつかれ「日本の音風景百選」に選ばれています。

幕末期12代藩主直亮の時に、より美しい音色にしようと鋳造のさい大量の小判が投入されました。



天秤櫓の上から表門山道を下る人々。

天秤櫓、表門から坂を上がって行くと廊下橋(非常時には落とし橋となる)が見えます。

この橋を中央として左右対称に建てられているのが天秤櫓です。
まるで天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれています。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。

現存例の少ない築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。
向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

私は大手山道を下ります。

梅林、かつて、彦根城の公儀御用米の米蔵があった場所。

例年は、3月中旬から下旬にかけて、紅梅・白梅など約450本が春の訪れを告げます。

大手門橋跡る。

振り返って大手門跡を見る。

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大阪城梅園


大阪城梅園、ただいま六分から7分咲かといったところ。

梅園といえば普通山間部を連想しますが、ここでは京橋の高層ビル群をバックに梅を見るのも何ともいえない風景。

普通には梅の萼は赤い色。
緑萼梅は萼が緑色、梅としては珍種の部類です。

当梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付した事で、昭和49年3月に開園となりました。

現在では97品種1240本を数える規模になっており、品種の豊富さでは関西随一の梅園となっている。

緋の司 (ひのつかさ)、普通咲きの中では比較的早く咲き始めます。

八重咲きの枝垂れ梅『呉服枝垂』、この花は枝垂れ梅の中でも主要品種のひとつとして数えられる、クレハシダレ(ゴフクシダレ)です。

実梅の代表種の一つ。
大阪城 梅林内にも約180本の白加賀が植えられています。

その名前から加賀の国(石川県)の原産みたいに見えますが、神奈川県旧加賀村で発見された品種です。

また、大阪管区気象台が定める大阪府の梅の標本木として、大阪城 梅林内の白加賀が採用されています。

梅の原産地は中国であり、奈良時代以前に、遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされたと言われています。

梅園が一番きれいなのは、2月中旬から3月上旬、これからが本番。

天守閣をバックに、一番のポジションかな。

蝋梅(ろうばい)もちらほらと一緒に咲いています。

天守台からの眺望、こちらもなかなかのポジションです。

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