信貴山城址

一昨年足の怪我以来山登りができず「戦国初期の八大名城」のうち信貴山城址のみが未制覇となっていたがやっと念願を果たした。

「戦国初期の八大名城」とは春日山城 |一乗谷城 |七尾城 |小谷城 |井ノ口城(稲葉山城) |要害山城 |観音寺城 |信貴山城 をいう。

100名城築城年代別リスト
戦国時代、日本には3~5万もの城があった。 現在残る天守はわずか12だけ。現存天 … 続きを読む →


開運橋から信貴山城址を望む。

信貴山朝護孫子寺からわずか500m少々、これが何ともならず悔しい思いをしていたが思い切って挑戦。

信貴山城は大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城。

信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀はこの山上に南北880m、東西600mに及ぶ城郭を築いた。

信貴山中腹には、朝護孫子寺がある。
また、付近には、高安山城、南畑ミネンド城、立野城といった支城が存在した。

永禄3年(1560年)11月に、大和国を制圧した松永久秀は、信貴山城を選んで大和支配の拠点とした。

信貴山城を今日にみられるような規模の城郭としたのは久秀である。
久秀が信貴山城を拠点として選んだ理由は、木沢長政の後継者として大和国を支配するという政治的アピールがあったと考えられる。

『和州信貴山古城図』では、空鉢堂が建っている部分を本丸、少し下ったところにある細曲輪が二の丸、ハイキングコースがある部分を三の丸と記載されている。

『探訪日本の城』によると、この本丸跡に4層の天守櫓が建っており、伊丹城(1521年)につぐ日本で2番目に建造された天守で、織田信長の安土城もこの天守を参考にしたのではないかと思われ、松永久秀は築城の才覚も備わっていたと記載されている。

天正5年(1577年)8月、信長に謀反を起こした久秀は信貴山城に籠城した。

信長は松井友閑を信貴山城に派遣して翻意を促したが、久秀の決意は固かった。
やむを得ず、信長は9月29日に信貴山城攻撃のための軍を出撃させた。

10月3日には、織田信忠に率いられた織田方の軍勢が城下を焼き払い、9日には信貴山城に火の手が上がる。
翌日、信忠らが本城を包囲して攻めると、ついに久秀は「天主」を自焼して自ら命を絶った。

これ以後、信貴山城が使われた形跡はなく、この時に廃城になったとされる。

信長が久秀の命と引換えに望んだ天下の名器「平蜘蛛の茶釜」に火薬を仕込み爆死したともいわれている。

その日は、久秀が筒井・三好三人衆との戦いにおいて東大寺大仏殿を焼いたとされる日と一致し、その因果(仏罰)だといわれている。

信貴山山頂からの眺望。
空鉢堂から南側を撮影、後方が金剛山。

松永久秀について

初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。
久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。

また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。
長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。
織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。

天守を中心とした城郭建築の第一人者であり、多聞作りを創始した人物とされている。
城門と櫓を一体化させ防御力を向上させるという発想は、当時は非常に革新的であった。

天守の創始者と言われていたが近年、伊丹城に天守に相当する櫓が存在したことが判明し、否定されている。
また古代の古墳を破壊して築城した事でも有名だが、これは主君である三好長慶に倣ったものともされる。
古墳は高台や水濠を備えていたことから城に改造するには最適な地形であり、また大和国は数多くの古墳が存在する。

多聞山城にいた頃、かつて三好長慶や織田信長などの歴代の権力者を幻術で手玉に取った仙人・果心居士を招き、「自分は戦場でも一度も恐怖を味わった事がない、そなたの術でわしを恐怖させてみよ」と豪語した。

果心居士はこれに応じ、部屋の明かりを消し、人払いをさせた後、自身の姿を一人の女人の幽霊に変えて久秀に近づいたという。
外ではにわかに稲妻が走り、雷雨が落ちると久秀の顔も恐怖のあまり蒼白し、「分かった、もうやめよ」と声をあげた。実は、この女人の幽霊は久秀の妻(故人)であり、幽霊が消えたあとも、久秀の震えは止まらなかったという。

果心居士の幻術-新潮文庫-司馬-遼太郎

『常山紀談』で信長が語った久秀の「三悪事(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)」に対し、信長自身も、主君に当たる織田大和守家の当主であった織田信友を討滅し、将軍であった足利義昭を追放し、比叡山焼き討ちを敢行する等、久秀とまったく同じような所業を成している。

斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されている。
「下剋上の代名詞」、「謀反癖のある人物」などのイメージを一般には抱かれており、小説を始めとした創作物においてもそのような人物として描かれることが多いが、こうした久秀のイメージは、後世に成立した『常山紀談』などを典拠として成立したところが大きい。

しかし実際の久秀は主君・三好長慶の存命中は、目立って謀反を起こしたり専横をしたことは一次史料からは確認できない。
また長慶の嫡男・義興や長慶の弟・十河一存を暗殺し、長慶の弟・安宅冬康を讒訴して殺させ、三好政権を崩壊へと導いたといわれるが、これらの情報も多くは軍記物などを典拠としたもので、信憑性に乏しい。

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大阪城


今日は玉造口からの登城を目指します。

玉造口定番屋敷跡、江戸幕府にとって大阪は江戸に次ぐ最重要の城だった、大坂城には玉造口とほぼ反対側の京橋口の二か所に定番が設けられており役目は城の出入り口での守衛、城内警備が主な仕事だったようです。

南外堀、大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。

石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。

幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。

内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。
櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。

大阪城には四つの出入口があります。
その内の一つが青屋口です。
そこの桝形にある門が青屋門と呼ばれています。

2度焼失しており、明治時代に陸軍が、昭和になり大阪市が再建しています。

青屋門と言う名前は、戦国時代の石山本願寺の青屋町から来てますが、この「青屋」というのは、染物屋のことです。

またの名を「紺屋(こうや)」と呼ばれていました。
染物とは紺色に染めることから来ているのでしょう。

。青屋門から本丸に登城するには、本丸の北側にかかる極楽橋という橋を渡ります。

一説によるとこの橋は、大坂本願寺時代、豊臣期大坂城の時代にも存在しており、現在の大阪城でもその名称が引き継がれています。

秀頼、淀殿ら自刃の地

前年の大坂冬の陣の講和で堀が埋められてしまった大阪城は、野戦での奮戦も虚しく、慶長20年(1615年)5月8日に落城する。

前日の7日に大勢が決し、大阪城内は内応者による放火が始まり、火事場泥棒の如く裏切る浪人も多数現れた。
城主である豊臣秀頼をはじめ、生母の淀殿、恩顧の武将や女房など約30名は難を逃れ、徳川家康の孫である妻の千姫による助命嘆願が聞き届けられるのを待つことになる。

潜んだ場所は、天守閣の北にあたる山里曲輪にある隅矢倉であったと伝えられる。

しかし助命は叶わず、隅矢倉に立て籠もった者は火を放ってことごとく自害して果てたのであった。

ただ全てが灰燼に帰したため、遺体はあったものの誰であるかは分からない状態であったとされる。

秀頼については、吉光の短刀のそばに首のない遺体があり、短刀が秀吉から秀頼に与えられたものであったために、それが本人であると確認されたという。

山里丸石垣の機銃掃射痕

山里口出桝形

隠し曲輪の入り口。
何の表示も無いので、ほとんどの観光客はここを素通りしていきます。

この奥に広場があるとは、誰も気付きません。

姫門を出て西へ行くと南北に長い帯曲輪に出ます。

「隠し曲輪」と呼ばれ、城が攻められた時に兵士を隠しておく曲輪とされています。

隠し曲輪と言われるだけあってここに曲輪があることは分かりづらく、本丸に人があふれている時でも、落ち着いて大阪城を感じることができる場所ともいえます。

「隠し曲輪」の石垣構築工事を担当した伊予大洲藩、丹波園部藩の刻印石が多くみられます。

天守東側を堀に沿って歩く、ミライザ(前の大阪市立博物館。旧第四師団司令部庁舎)の裏手。

前面に何か祭祀の場所のようなものがある。

馬印櫓は3層の櫓であったが、明治維新の折に焼失した。

解説板によると此処にあった櫓には、家康が大坂の陣で用いたという馬印が納められていたということです。

大坂城代は、この馬印を拝するのを例とし幕末に大坂城を訪れた14代将軍家茂もこの櫓で馬印を拝覧したそうです。

右先方は梅園。

今日は違うアングルから天守を。

桜門桝形の巨石 蛸石と振袖石。

桜門

西側から見た空堀

南仕切り門跡・太鼓櫓跡、前方は石山本願寺推定地。

大手口桝形と巨石

独古組み(どっこぐみ)

こちらは大阪城の追手門に使われている継ぎ手を再現したもの。
当時は継いだ状態からは内部構造がどうなっているか不明で、X線による解析で内部構造が分かったそうです。
縦にも横にも動かない、とても難解な組木です。

大手門からの堀。

大手門

生玉神社御旅所跡

南外堀の石垣の高さは大阪城で2番目となっていて、堀の幅も広いので雄大な外堀の景色を楽しめます。

築城技術が全盛で、さらに南外堀は築城の最終段階でつくられたこともあるので 石垣の石組の完成度が非常に高くなっています 

二番櫓、三番櫓、四番櫓、五番櫓、七番櫓は第二次世界大戦の空襲と戊辰戦争の大火により焼失しています。現存しているのは一番櫓と六番櫓のみ。

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彦根城


彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工された。

当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城された。

画像は中堀から二の丸佐和山口多門櫓、天守を望む。

二の丸佐和山口多聞櫓

いろは松から彦根城を訪れる時、最初に出逢う櫓。
左手に見える櫓は明和8年(1771年)に再建されたもの。
現在、重要文化財に指定されています。

佐和山口多聞櫓の上や下に多くのサギや鵜。

多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。

佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。

二季咲桜

内堀沿い、金亀児童公園内にあるこの桜は春(4月〜5月)と冬(11月〜1月)の2回開花する珍しい桜。
昭和47年4月に水戸市より寄贈された。

玄宮園から天守を望む。

琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられた。
4代藩主直興により延宝5年(1677年)に造営。

臨池閣の一部。

楽々園、槻(けやき)御殿は藩主の下屋敷で、玄宮楽々園の名で国の名勝に指定されている。

四代藩主直興が延宝5(1677)年に造営。
大書院、地震の間、雷の間、楽々の間など、工夫を凝らした部屋が残っています。

茶座敷(地震の間)
城主である井伊家は文化9(1812)年、11代藩主の直中(なおなか)が隠居するにあたり、下屋敷の大規模な増改築を行った。
その際、ここに「地震の間(ま)」が設けられた。

200年前前にいわば免震構造のような形になっているのです。

黒門跡。

黒門山道を西の丸目指して登ります。

見事な高石垣です。

今回も逆からの登城です。

彦根城は、明治に解体の危機にみまわれました。
しかし、今も往時の面影が今日によく残っているのは、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、保存するようにと大命を下されたからでした。

一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。

また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。

今朝降った雪が残っています。

近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。

このうち、松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城の天守は国宝です。

現存天守の記事を見る

佐和山城跡を望む。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

多景島

竹生島

国宝彦根城天守は北西に附櫓(つけやぐら)が、さらに長い多聞櫓が連なります。

また、破風は変化の妙に富んでいます。

天守一層目の軒に並ぶ八つの「へ」の字形の切妻破風は、それぞれの大きさと奥行きに変化をもたせ、二層目は、南北を切妻破風、東西を入母屋破風とし、南北にが唐破風が設けられています。

太鼓門櫓の内部。

太鼓門櫓から西の丸三重櫓を望む。

本丸の西側一帯を西の丸と呼び、その西の丸の一番はずれにあるのが三重櫓です。
10m以上にも及ぶ高い石垣の上に築かれています。

三重櫓の東側一帯は桜が植えられ、春にはお花見のスポットとして賑わいます。

本丸への最後の関門である太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。

登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。

太鼓門櫓を過ぎると、正面に天守が現れます。

時報鐘の前に立ち、右に太鼓門を見ながら仰ぐ天守雄姿は格別です。

佐和山城を嫌った直政は琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。

時報鐘、城全体に響くようにと『鐘の丸』より移されたもので、今も定時に鐘がつかれ「日本の音風景百選」に選ばれています。

幕末期12代藩主直亮の時に、より美しい音色にしようと鋳造のさい大量の小判が投入されました。



天秤櫓の上から表門山道を下る人々。

天秤櫓、表門から坂を上がって行くと廊下橋(非常時には落とし橋となる)が見えます。

この橋を中央として左右対称に建てられているのが天秤櫓です。
まるで天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれています。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。

現存例の少ない築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。
向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

私は大手山道を下ります。

梅林、かつて、彦根城の公儀御用米の米蔵があった場所。

例年は、3月中旬から下旬にかけて、紅梅・白梅など約450本が春の訪れを告げます。

大手門橋跡る。

振り返って大手門跡を見る。

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大阪城梅園


大阪城梅園、ただいま六分から7分咲かといったところ。

梅園といえば普通山間部を連想しますが、ここでは京橋の高層ビル群をバックに梅を見るのも何ともいえない風景。

普通には梅の萼は赤い色。
緑萼梅は萼が緑色、梅としては珍種の部類です。

当梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付した事で、昭和49年3月に開園となりました。

現在では97品種1240本を数える規模になっており、品種の豊富さでは関西随一の梅園となっている。

緋の司 (ひのつかさ)、普通咲きの中では比較的早く咲き始めます。

八重咲きの枝垂れ梅『呉服枝垂』、この花は枝垂れ梅の中でも主要品種のひとつとして数えられる、クレハシダレ(ゴフクシダレ)です。

実梅の代表種の一つ。
大阪城 梅林内にも約180本の白加賀が植えられています。

その名前から加賀の国(石川県)の原産みたいに見えますが、神奈川県旧加賀村で発見された品種です。

また、大阪管区気象台が定める大阪府の梅の標本木として、大阪城 梅林内の白加賀が採用されています。

梅の原産地は中国であり、奈良時代以前に、遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされたと言われています。

梅園が一番きれいなのは、2月中旬から3月上旬、これからが本番。

天守閣をバックに、一番のポジションかな。

蝋梅(ろうばい)もちらほらと一緒に咲いています。

天守台からの眺望、こちらもなかなかのポジションです。

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篠山城址


二の丸登り口は、三の丸から二の丸の御殿跡に至る最も重要な動線で、絵図によると延長100mの範囲に北廊下門、表門、中之門、鉄門が配置され、篠山城内の動線の中でも特に厳重に造られていたことが分かります。

東枡形、大書院の北正面の位置にある枡形で、東西11m、南北16mの広場となっています。
調査の結果、動線の敷石と中之門に続く階段跡が発見されました。

鉄門跡、二の丸へ至る最後の門跡で呼び名の通り門扉には鉄板が張られていたと考えられます。

調査の結果、門跡は廃城後の明治時代にやく1.5m埋められていましたが、埋土を取り除いたところで、門跡の敷石と階段跡などの遺構が江戸時代の姿で発見されました。

これによって鉄門は幅約5m、奥行約4.5mの広さがあり、東側の石垣高さ約4m、西側の石垣高さ4.5mとの間に造られており、二の丸へ至る最後の関門にふさわしい、厳重な造りになっていた様子が確認されました。

水筋にあたる城の北、約2キロの田の中に、玉水と称するどんな旱年にも干したことのない水溜まりがありますが、これは城中の水量観測のために掘られたものといわれ、今も老松の陰にふしぎに涸れることなく、城の水の安全を保証しています。


葡萄の間の草花小禽図屏風。江戸時代後期の狩野惟信の作品で、藩主の青山家に伝えられていたもの。

大書院構造模型。大書院を復元するのに先立ち製作されたもので、建物の1/3の範囲が模型化されている。

大書院のような大規模建築は設計図だけでは構造把握が難しいことから、このような模型を作った。
宮大工二人が4か月かけて製作された非常に手のかかったもの。

二の丸は、大書院、小書院(こしょいん)、中奥御殿(なかおくごてん)、奥御殿(おくごてん)、台所(だいどころ)などの建物と築山(つきやま)をもつ庭園があり、儀式、執務を行う場と城主の生活空間の場で篠山城で最も重要な場所であった。
 
これらの御殿群の周囲には三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟とそれをつなぐように多聞櫓(たもんやぐら)と門が配置されていた。
 
現在残っている二の丸御殿間取図(にのまるごてんまどりず)や発掘調査の結果から御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり、増築されたりしていたようである。
 
しかし大書院を除く建物は廃藩後には取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年に焼失し、城郭の建物はすべて無くなってしまっていた。

明治時代に入った1871(明治4)年に篠山城は廃城となりますが、藩主・青山家の旧恩を追慕する人々が青山家の御霊を祀る神社の創建を熱望。

青山家の遠祖・青山忠俊公を御祭神として1882(明治15)年5月に創建されたのが、ここ青山神社です。

篠山城の本丸の場所は築城当初と変わっています。

当初は現在の二の丸が本丸でした。
天守台が造られたことにともなって、ここが本丸になりました。

この埋門、非常時(敵が攻め入った時など)には、土砂などで埋めて塞ぎ、侵入を防ぐことを目的として造られた門です。

埋門を抜け、南内堀沿いを歩いて見学できるルートが整備されているがなぜか今は通行不可となっている。

説明板にもあるとおり、外堀は現存だが内堀について言及されていないのは、内堀は戦後に一度公園化に伴い埋め立てられた(その後 史跡として復元された)経緯があるため。

高石垣で囲まれた本丸と二の丸のすべてに犬走が設置され、その外側には三の丸と水堀が広がっています。

今は駐車場になっている三の丸から内堀と石垣を眺めながら散策。

右奥が埋門、従来はここから南内堀沿いを歩いて見学できるルートが整備されていたが今回、残念ながら通行不可になっていた。

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篠山城址外堀


篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城で、篠山藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。

朝の光の中で先ずきれいな外堀からせめる。

大書院も見えている。
遠景には霧も見える。

ドラマでは歌手の石川さゆりさんがお牧を演じるが、果たして丹波篠山で、はりつけにされるのか。

多くの大河ドラマで時代考証を担当した静岡大学の小和田哲男名誉教授は「光秀が母を人質に出したという伝承は、江戸期に始まった可能性が高い」とみている。

本能寺の変の真相は「怨恨(えんこん)説」「天下取りの野望説」「信長の非道阻止説」「黒幕説」など、さまざまな研究があるが、お牧が絡む怨恨説は「近年あまり取られない」と話す。

明智光秀の生まれた年や出生地がはっきりしないように、お牧の生涯についても確かな記録は残っていない。

1996年の大河ドラマ「秀吉」で女優の野際陽子さん演じる母が木にはりつけられ、やりで突き殺される壮絶なシーンは多くの人の心に残っている。

1609年(慶長14年) – 徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。

これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。

篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成した。

外堀沿いには桜が約1000本、植えられているので、春には多くの花見客でにぎわう。

南馬出、東馬出のように過度な整備は行われておらず、自然のまま最低限の整備(草刈り)が行われているようだ。
馬出の周囲を守る土塁がしっかり残っている。
なお写真はないが、土塁の外側には堀も残っていた。

1873年明治6年) – 城郭の建造物が取り壊され始めた。

二の丸の大書院(おおしょいん)は取り壊しに多くの費用が必要なことや旧藩士の安藤直紀の働きかけで保存されることになり取り壊しから免れた。
城地には役所や学校などが建てられた。

堀に不法投棄される自転車などのゴミや、増える外来種を駆除するために堀の水を抜いて作業するなどして水質を改善する活動が行われている。

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平成最後の城 尼崎城


尼崎城は、大物川と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯に築かれた城で、尼崎城に直接船が横付けできたことから、海に浮かんだような城であったと言われている。

元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し築いた。3重の堀をもち、本丸には2重の付櫓を2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の三重櫓が上げられた。

城主は、築城から廃城まで3氏12代が入れ替わった。

戸田氏の後は、青山氏4代、そして正徳元年(1711年)桜井松平家の松平忠喬(ただたか)が4万6千石で入り、以後桜井松平家の支配が7代と続き幕末を迎えた。
最後の藩主は松平忠興。

ミドリ電化(現在のエディオン)創業者の安保詮(あぼ-あきら)さんが「創業の地に恩返ししたい」と、約10億円の私財を投じて、尼崎城の天守を再建。

もとの場所ではありませんが、現在の尼崎城址公園にその天守が建てられています。

天守から西を望む、寺町の屋根も見える。

桜井神社、旧社格は郷社。
庄下川東岸に位置。

正徳元年(1711年)の転封から幕末まで尼崎藩を治めた桜井松平家(松平氏、明治以降は桜井氏に改姓)の、初代信定から16代忠興までを祀る。

創建は1882年(明治15年)に、旧藩士の有志が歴代藩主の遺徳を偲び、旧尼崎城の西大手橋東詰に建立した。

その後1961年(昭和36年)に国道43号線敷設のため現在地に遷宮したが、本殿及び拝殿は建立当時のものである。

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上野城


藤堂高虎が大規模に改修した時は、大坂城の備えとして西側の防備を固めた。
これは、徳川家康が不利となった場合、この城で籠城する時に備えて、相当数の兵員を収容できるよう、細部の完備や美観を整えるより実戦本意に配慮した。

藤堂高虎は伊賀忍者に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊賀上野城を改修の参考にしたという伝承が残っている。

慶長16年(1611年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張したが、大坂の陣によって、当時高虎が従属する家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。

大坂城の高石垣とともに日本で一、二を競う石垣は1611年(慶長16年)に「打込はぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さを誇り、三方に折廻して、延長368mに及ぶ。

加藤清正公の熊本城の石垣と比べ、石垣が直線的に積み上げられているのが藤堂高虎流。

天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築きました。

菊岡如幻の『伊水温故(いすいうんご)』によれば、城は高丘の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守閣を建て、城下町は古くから開けた北側(現在の小田町)を中心としました。

慶長13年(1608)6月、筒井定次は改易となりましたが天守閣は、寛永10年(1633)頃に倒壊したと推定されます。

石垣の上に登ると、柴小屋や米蔵などの跡地を指す看板が建っていた。

本丸東側に一段高く石垣が組まれた曲輪がある。 
これが筒井時代の本丸で、藤堂時代には城代屋敷があった所だ。  

実際この曲輪に立つと、この城の一番高所で「ここが本当の本丸」といった思いがする。 
筒井時代にはここに三層の天守があり、現在天守台上に石碑が建てられている。

筒井定次の伊賀での石高は5万石とも10万石ともされ、それが事実だとすると事実上の左遷となっています。

筒井順慶の死後、筒井家の力が弱まっていたのと、筒井定次の失政もあったようで、重臣だった島清興(島左近)も1588年2月に、筒井家を離れています。

松倉重政、森好高、布施慶春といった家臣も筒井定次の元を去っています。

しかし、筒井定次は伊賀12万石、伊勢の内で5万石、山城の内に3万石の合計20万石だったとする江戸時代の史料もあり、伊賀での石高に関しては議論が分かれるところです。

昭和34年(1959)神部滿之助氏の篤志寄付により俳聖芭蕉翁を顕彰する事業のひとつとして建てられた。

館内の芭蕉文庫には翁の真蹟をはじめ近世から現代に至る連歌俳諧に関する資料等が数多く保存されています。

芭蕉記念館入り口に立つ杖を持った松尾芭蕉の旅姿。

天井に届くほどの巨大さです。

竹の茂みの中にひっそりと立つ灯篭。

立て札には、「この灯篭は松尾芭蕉の旧主藤堂新七郎家の築山にあったのが当館落成のさい同家十一代の当主藤堂志津氏より寄贈されたものである」とあります。

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桜咲く 出石城址


谷山川に架かる登城橋から登城。

今年の桜の見納めとなった出石城址の桜。

出石城の代名詞の感のある本丸西隅櫓。

稲荷郭の高石垣はすばらしい、この時期緑がきれいです。

東隅櫓。

出石城には天守はなく、櫓が四基上げられていた。
そのうち本丸西隅櫓と東隅櫓が現在復興されている。

感応殿は明治時代に仙石氏の旧臣が建立。

祀り神は幕末に藩主であった仙石氏の祖、仙石秀久公。

1604年(慶長9)、小出吉英により有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けた。

それにともない平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれた。

城主の居館も成り、このとき城下町も整備され、出石の町並みが形成された。

山上の旧有子山城天守は城割は行われなかったが幕府を憚り荒れるに任されたため樹木が生い茂り一見したところ山林となった。
なお、一国一城令により、但馬守護山名氏以来の出石城が但馬国唯一の城郭となっている。

江戸時代は、出石藩の藩庁となり、小出英及が1696年(元禄9)3歳で死去すると小出氏は無嗣改易となった。

代わって松平(藤井)忠周が入城。
1706年(宝永3)忠周が転封となると、仙石政明が入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となった。

江戸末期には仙石騒動がおこっている。

明治時代になり、廃城令で出石城も取り壊されたが、辰鼓楼、堀、石垣などが現存、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備されて、観光地となっている。

2017年(平成29年)4月6日、有子山城とともに続日本100名城(162番)に選定された。

三の丸には、藩主 の居宅と政務の場所を兼ねた対面所と呼ばれる建物や上級武士の屋敷が 構えられ、周囲を内堀で囲まれていた。

辰鼓楼は、明治4年(1871)旧三の丸大手 門脇の櫓台に建設された。

明治14年 に医師、池口忠恕氏が大時計を寄贈してからは、時計台として親しまれ、今では3代目 の時計が時を刻み続けている。

駐車場より本丸西隅櫓を望む。
緑に包まれ美しい姿を見せる。

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勝山城跡 福井


現在の勝山市役所付近が城跡中心部で、市役所と公民館があるあたりが本丸跡であり、市役所前の道路付近に堀が設けられていた。

天守台や石垣が昭和40年まで残っていたが、市民会館建設に伴い撤去され、現在は市民会館敷地に城址の碑が建つのみである。

勝山城は、戦国時代の天正8年(1580年)に柴田勝家の一族である柴田勝安によって築城された。
信長公記では勝山城城主は原長頼と思われる。

江戸時代に入ると、慶長6年(1601年)福井に封じられた結城秀康の支配するところとなるが、寛永元年(1624年)松平直基が3万石をもって封じられると、勝山藩の藩庁が置かれた。

その後、松平直良が入るが、正保元年(1644年)直良が移封されると廃城となり、勝山の地は天領となった時期もあった。

元禄4年(1691年)に小笠原貞信が2万2千石で勝山の地に封じられ、以後明治維新まで小笠原氏8代がこの地を治めた。

宝永5年(1708年)には、城址への築城許可が下り、7代藩主小笠原長貴の代に完成を見た。

文政5年(1822年)に、本丸より出火し、門、高塀、土蔵を残して焼失したが、文政9年(1826年)に再建された。
明治時代に廃城となった後、城の建物は取り壊された。

近くに勝山城博物館と称して城跡がたつがあくまでも博物館で勝山譲渡は関係ない。
天守の高さ日本一を誇る勝山城博物館
勝山城は明治維新後解体され今は跡形もない。 博物館は、地元出身の実業家、相互タク … 続きを読む →

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