青葉の季節を迎えた犬山城

犬山城は江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつ。
また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。

黒門跡、現在礎石が一つ残る。

登城道の最後の坂を登りつめたところに岩坂門があった。

本丸門(鉄門)、桜は葉桜になり、みどりがとてもきれいです。

前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。

また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。

江戸時代には尾張藩の付家老の平岩親吉が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。

江戸時代には尾張藩付家老成瀬氏の城として維持され、白石城と同じく大名家の城ではなかった。

城は最近まで個人の所有であった。

現在は財団法人「犬山城白帝文庫」に譲渡されているが、成瀬家の姫(成瀬 淳子氏)が理事長に就任して管理している。

過去の犬山城訪問記

犬山城の紅葉 あいにくの雨でした
犬山城は、現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひ … 続きを読む →

桜咲く白帝城 犬山城
東海の山城、今日は二日目、まず訪問したのは山城でなく平山城の犬山城。 関連記事: … 続きを読む →

木曽川の畔にたたずむ後堅固の城 犬山城
木曽川を背に建つ、国宝犬山城は兵法に言う「後堅固(うしろけんご)の城」です。 標 … 続きを読む →

犬山早朝散策 美しい日の出を求めて・・・・
犬山での宿泊は久し振り、昨夜は雨だったが今日はどうやら晴れらしい。 今朝の目覚め … 続きを読む →

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姫路城ビューポイント探訪

2015年3月27日再公開以来人出の多さを気にしながら訪問の機会をうかがっていたが突然前夜思い立ち訪問。
歩数31000歩、丸一日がかりの探訪でした。

まずピオレ姫路〔piole HIMEJI〕屋上から偵察。

ここはJR姫路駅からも近く、姫路城の南面を非常に高い位置から望める貴重なスポット。
電車の空き時間などちょっとした時間で楽しめるスポットだ。

地上からでは見ることができない姫路城全体の縄張りを、一望することができる。

JR姫路駅前の城見台からの画像。

大手前通りの歩道は黄色いイチョウが落ち葉を散りばめきれい。

イーグレー姫路(屋上5階)、地上からでは見ることができない姫路城全体の縄張りを、一望することができ、距離も近いため望遠レンズがなくても、それなりに撮影することができて便利。

大手前公園から。

城見台公園の鯱の間から。

城見台公園からの画像、大手門から5分もかからずに行ける場所であるにもかかわらず、人の流れからは外れているせいか、あまり観光客が多くいる場所でなく穴場。

動物園横の広場から、この辺りも人はまばら。

「喜斎門跡(きさいもんあと)」は、姫路城の裏口・勝手口という意味合いの搦手口(搦手門)。

現在は石垣しか残っていませんが、日中も人の流れが少なく、落ち着いて写真撮影ができるスポット。

姫路城の東側を大迫力で写真に収めることができます。

ススキと残り柿が晩秋の雰囲気。

喜斎門跡の石垣越しに。

喜斎門跡を入ったところの広場、ここからは石垣の扇の勾配がきれい。

姫路市立美術館のエリアも観光客はほとんどなくゆっくりと撮影できる、ススキと紅葉がいい。

堀も晩秋の佇まい。

シロトピア記念公園・ふるさとの森、逆光で天守の撮影には今一だが、趣のあるきれいな公園だ。

県立歴史博物館の壁面、ガラスでできたキューブ、周辺の風景が映るという仕組みのマジックミラー。

残念なのはライトアップの映り込みを撮り忘れたこと、ま、その内訪問するか。

木々が真っ赤に紅葉してきれいでした。

扇観亭前の庭園、龍水都紅葉がきれいでした、扇観亭は黒川紀章 設計。

寒桜が寒さにふるえている。

この辺りもまだまだ紅葉がきれいだが、天守は逆光。

紅葉が終わり清掃に追われています。

内堀の紅葉とワの櫓。

ワの櫓付近の石垣。

ネコちゃんが堀端を散歩。

こちらはクロネコ、眼光鋭く。

内堀の石垣の様子。

三の丸広場から、芝生は養生中で近寄れません。

三の丸広場からの天守。

ただ今、重要文化財「リの一渡櫓」と「リの二渡櫓」は修理工事中。

約30年とされる漆喰の耐久性を保つために外壁を塗り直しているほか、屋根瓦のふき直しを進めており、最終段階を迎えている。
工事は来年3月までの予定。

入り口前の石垣。

入り口前から天守を。

三国濠(有料エリア:入城料を払った後に行けるエリア) 、入城ゲートを通って、最初の門(菱の門)をくぐるとすぐ右に見える。

濠が鏡になって、逆さのお城が撮れるスポット。

西の丸からの景色は、よく時代劇のロケなどで使われている。

石垣と天守がダイナミックに撮れるスポット。

化粧櫓付近から。

天守屋上から、夕日に海が輝く。

天守台から、ここまで来ると広角でないと無理。

ライトアップの始まり、ブルーの空に白亜の天守が浮かぶ。

ブルーと白のコントラスト。

城見台公園からの夜景。

喜斎門跡からの夜景、堀への映り込みがきれい。

喜斎門跡奥の広場から。

ここまで来ながら、県立歴史博物館のキューブへの映り込みを撮り忘れたのは不覚。
朝10時から夜7時まで歩数31000歩の探訪、疲れました。

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幽斎の正室麝香の里 熊川城跡


熊川城は若狭と近江を結ぶ若狭街道の熊川宿を猊下する山の中腹(標高180m付近)付近に築かれ、尾根が西と北に分かれる小ピークに主曲輪をおき、熊川宿へ延びる東尾根に階段状の曲輪を連郭式に配した山城。

熊川宿のほぼ中央の白石神社の本殿横から九十九折りに急斜面を登る。
斜面につけられた道は獣道に毛が生えた程度で、足場がスリップすると谷底まで落ちる危険極まりない。

なお、細川藤孝(後の幽斎)の妻は熊川城主・沼田氏の娘といわれる。

城主の沼田氏は観応2年(1351)に足利尊氏から瓜生庄下司職を賜り、居館を城の北側の山裾に構えたと伝えられている。

戦国時代には若狭国守護武田家の家臣である松宮家の被官だったようだが、沼田光兼が熊川城を築城した頃から細川氏に近づいていたようで、麝香(光寿院)が細川藤孝の正室となり、跡を継いだ沼田清延(足利義昭の詰衆)の娘「いと」は細川興元の正室になっている。

そのような中、永禄12年(1569)に沼田勘解由が松宮玄蕃助の侵攻を受け敗れると熊川城を追われ、細川忠興を頼り近江(現在の滋賀県)に逃れている。

その後は忠興の客将となり、朝鮮出兵や関ケ原の戦いの際の岐阜城(岐阜県岐阜市)攻略戦などで功を挙げ5千石を有するまでとなり、後裔は細川家の家老を歴任している。

足利義秋(義昭)が若狭に入る時、ここを通り、宿の南西熊川城に一泊している。

また織田信長の越前攻めの時にもここを通り、熊川北西の膳部山城(城主松宮玄蕃允)に一泊している。

信長が敦賀から逃げ帰った「金ヶ崎の退き口」でも、熊川城主沼田氏の手を借り、朽木氏を頼り、朝倉氏の追撃を振り切りかろうじて京に逃れた。

その後、天正12年(1584)には丹羽長秀によって破却されたと考えられている。

天正17年(1589年)に小浜城主浅野長政が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街道)の宿場町として整備した。

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小浜散策


今回の小浜訪問の目的は「ふぐ」、泊ったのは若狭ふぐの宿 下亟、食べきれないほどの量でフグ鍋は翌日の朝食に持越し。

小浜城址、小浜城を作る際に若狭の百姓にだけ多い年貢を取り立てた。

これに抗議し忠勝に処刑された庄屋である松木庄左衛門を祭る神社が福井県三方上中郡若狭町新道にある。

水上勉は随筆の中でこのことに触れ、「めったに国に帰らないのに城だけは作らせた」「百姓の血汗を絞って作った小浜城」と記している(『水の幻想』)。

松木神社の記事はこちら鯖街道の宿場町 熊川宿
若狭ではいつの頃からか小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われており、与謝蕪村( … 続きを読む →


小浜市役所前の忠勝像、酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、武蔵川越藩の第2代藩主、後に若狭小浜藩の初代藩主。

第3代将軍徳川家光から第4代将軍徳川家綱時代の老中・大老。

梅田雲浜は江戸時代末期(幕末)の儒学者。

通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。
雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。

嘉永5年(1852年)に藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。

これが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となった。

辞世の歌
君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり

杉田玄白記念公立小浜病院、病院名は、『解体新書』を著した杉田玄白が小浜藩出身であったことに因んでおり、病院正面には杉田玄白の銅像がある。

杉田玄白は江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩医。私塾天真楼を主催。 父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。

杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系。後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。

医家としては、玄白で3代目にあたる。同時代に活躍し、間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵は同族。

病院には杉田玄白コーナーがある。

外科医であった玄白は、ハイシュテルの外科書を見て西洋の外科のすばらしさを知り、西洋のものを学びたいと思って『ターヘル・アナトミア』に出会い、小塚原で人体解剖を見て、この『ターヘル・アナトミア』に描かれている解剖図の正確さに驚き感動。

それを翻訳しようということで、幕府長崎通訳を通して、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を手に入れた。

そして、前野良沢・中川淳庵とともに翻訳に取りかかり、玄白42歳の1774年(安永3)に世に知られた『解体新書』が発刊された。

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大谷吉継の敦賀城跡

大谷吉継は裏切りが常の戦国の世に、盟友・石田三成との堅い友情に殉じた武将、また晩年はハンセン病を患い、白い布で頭を覆って戦った武将として知られている。

現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはない。

敦賀城伝承地は、北は結城町の赤川、南は三島町の霊山院から稲荷神社、東は水路の残る旧笙の川沿い付近で西小学校・八幡神社・西蓮寺が連なるライン、西は真願寺から敦賀病院を経て霊山院のライン、で囲まれる南北500m、東西300mの範囲という。

現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはないが、以下の遺構などがある。

この画像は永賞寺、大谷吉継の菩提寺。

永賞寺は曹洞宗の寺院。

大谷吉継の供養塔との伝承を持つ慶長14年造立の層塔がある。

吉継生前より菩提寺としており、毎年9月には供養祭も行われています。

敦賀西小学校正門の真横に敦賀城の案内碑があり、慶長年間の国絵図に描かれた三層の天守も刻まれている。

2009年、新校舎建設に伴い、小学校グラウンドの発掘調査を実施したところ、敦賀城の時代に相当する建物遺構が発見された。

八幡神社には、敦賀城主大谷吉継が寄進したという本殿の龍の木彫、石灯籠、石鳥居がある。

大谷吉継が寄進したという龍の木彫。

敦賀城の欄間や礎石、鬼瓦、寄進した石灯篭、茶壷など吉継にまつわるるさまざまな歴史的遺産が残されている。

西蓮寺の西隣には三の丸趾の木柱が建ち、そこから南の稲荷神社付近には三の丸地蔵尊の祠もあり、西蓮寺から稲荷神社の付近が三の丸であったようである。

真願寺には、敦賀城の礎石が残る。本寺は敦賀城域の北西隅に当たるという。

真願寺から東へ延びる赤川は、敦賀城の堀の遺構と言われる。
また伝承範囲の南側と東側にも部分的に水路が残っている。

来迎寺の山門は、城の中門を移築したと伝えられる。
書院には、腰高障子13枚が残る。敦賀城破却時に移されたと伝わる。

敦賀市立博物館が所蔵する「関ケ原合戦図屏風(びょうぶ)」、病のため顔を頭巾で覆った姿で手に槍を握り、家臣と向き合っている場面を紹介している。

吉継は敦賀城を水城として大改修した。1600年(慶長5年)に石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、豊臣家を崩壊させようと画策する徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、再三にわたり「三成に勝機なし」と説得。

しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、敗戦を覚悟して西軍に加担した。
関ヶ原の戦いでは奮戦したが敗北、自刃し、戦後は所領は没収された。

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熊本城震災5か月目の復興状況をレポート

別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」とも言われる熊本城、復興状況を見たいと思いながら5ヶ月目にやっと実現。

行幸橋のたもとの清正公、さぞやびっくりしたことだろう。

まず市役所14階から城の全貌を見る。
天守閣、本丸御殿、数寄屋丸が確認できる。

白いシートも見える。
手前下は田子櫓等の櫓群。

少しズームすると天守閣の瓦が崩落している状況が確認できる。
本丸御殿では白いシートも確認できる。

更にズームすると悲惨な状況が目の当たりに。
鯱も崩落して屋根に落ちている。

西に目をやれば隅石1本で支えている飯田丸五階櫓の倒壊防止の緊急工事の様子が見える。

坪井川に沿って長塀通りを進む。
あの美しい長塀も被害を受けているが白いシートがしてあり状況は確認できない。

続く馬具櫓の石垣は地震ではなく、その後の長雨で崩落、立ち入り禁止区域を広くとっていたことによってけが人が出ずに済んだ。

櫓の壁にヒビが入っているのはわかります。

二の丸広場を通って加藤神社まで歩いてみることにする、宇土櫓の状況が気になっているのです。

戌亥櫓、天守、宇土櫓が遠望できる、塀は崩落している。

先ほどの石垣から繋がる”戌亥櫓”の様子を北西方面から眺める。
粒の小さい石が使用されており、近年に復元されたことがわかる

更に進む、北側の石垣はほぼ完全に崩落している、この辺りは全く手つかずのように見える。

加藤神社に続く通路脇には、崩落防止のフレコンバックが積み上げられていたが、黒い素材のものがチョイスされており、およそ3倍の耐久性が確保されているとのこと。

続く2枚の写真は、加藤神社に進む橋の両脇を撮影したもの。
たもとの左側と右側で、使用されている石の大きさが違うことから、違う時代で復元を繰り返してきたことがわかる

宇土櫓は幸いにしてまだ被害が少ないほうですが、続櫓は完全に倒壊しています。

熊本復興キャンペーンのツアー参加です、ガンバレ熊本!!

以前に訪れた際の熊本城の記事が下記にあります。
秋の九州爽やかウォーキング 熊本城
熊本城は日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上 … 続きを読む →

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熊本城へののアクセス、行き方歩き方

熊本城公式サイト

熊本県熊本市中央区本丸1−1
096-352-5900

熊本市電 花畑町電停より 城内まで約30m、櫨方門まで約400m、頬当御門まで約600m。
熊本市電 熊本城・市役所前電停より 城内および須戸口門まで約200m、不開門まで約400m。
熊本交通センターより 城内まで約300m、櫨方門まで約400m、頬当御門まで約600m。
熊本交通センターより 頬当御門まで熊本都市バス「熊本城周遊バス(しろめぐりん)」で約8分 130円(8:30 – 17:00)
JR熊本駅より 頬当御門まで熊本都市バス「熊本城周遊バス(しろめぐりん)」で約18分 130円(8:30 – 17:00)
熊本市電 杉塘電停より 城内(三の丸公園)まで約150m。

乱世を生きた戦国武将最後の地を巡る 若江の戦い

八尾・若江の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の陣(大坂の役)のうち、1615年(慶長20年)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ。

東大阪市岩田町3丁目 飯島三郎右衛門の墓

飯島三郎右衛門は、市内高井田村の生まれで、幼少の頃より弓道が得意で成人して、戦国武将織田信長に仕えた。

信長の死後、豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は、その子秀頼に仕えた>

元和元年(1615)年五月「大坂夏の陣」の若江、八尾付近の戦いで、木村長門守重成に属して徳川軍と戦い、相手方の武将山口伊豆守重信に槍で突かれ、この地で戦死。

重成、重信ともに戦死するという壮烈な戦いであったといいます。

また、三郎右衛門の戦死のこの地は沼地で大小の用水の集合地であり、若江村と岩田村を結ぶ「雁戸樋橋(かりんとばし)」という細い橋がありましたが、今も道路の下には昔と変わる事無く、楠根川にそそぐ水が流れています。

南北朝時代以来の歴史を残す若江城跡、現在の東大阪市立若江小学校の近くに石碑が建つ。

畠山基国は実力派の重臣遊佐長護と共に守護所を定める時点で河内に下向し、防衛に適してなお河内の政治を統括し、周辺の経済活動の中心としての将来性、周辺事態に対しての軍事行動が容易であるなど観点から、若江鏡神社が祀る大伊迦槌火明大神を城の守り神とし、神社に射す朝日を遮らぬようにその西側に城の中心を定めた。

長護は近隣の村落に檄をとばして農夫を集め、築城を開始した。

1382年、後に室町幕府の管領となる畠山基国によって築かれた若江城は、以後、河内国の要衝としてたびたび兵乱の舞台となった。

1573年、織田信長によって京を追放された室町幕府第15代将軍・足利義昭が羽柴秀吉の警固を受けて当地に入城したことでも知られる。

お城自体は1583年に破却されるが、大坂夏の陣に際して、東西両軍が当地で激しい攻防を繰り広げた背景に、かつての若江城が背負っていた地政学的な重要性があったことは充分に考えられます。

若江という名称の由来は河内国若江郡に由来する。

若江郡の若江は神功皇后の4年6月に大旱魃があり、この地域の農作物が大被害を受ける可能性が高まった際に、大般若経を唱和し雨乞いの祈願をしたところ、14日目に雨乞いは叶わなかったもののこの地に清水が滾々と湧き出し農作物が大被害を受ける危機から救われた。

このことから、大般若経の「若」と清水の源という意味の「江」をとり、若江郡と称せられたという。

また、一説に、古代の新開池は河内湖というほど大きく、その入り江のひとつが「若江」という名であったともいう。

東大阪市若江南2ー3-7の蓮城寺にある木村重成陣所跡。

蓮城寺・位牌堂にまつられている重成の肖像。

母親が豊臣秀頼の乳母であったことから、重成は幼少時より秀頼の小姓として仕えていたとされる。

夏の陣にさきがけておこなわれた冬の陣では今福砦の戦いで活躍し、その武勇を全国にとどろかせています。

当時、重成の本陣が置かれていた地には、現在、蓮城寺が建っており、その境内には重成の肖像画を安置した位牌堂も存在する。


蓮城寺の北東約150mには木村重成の像が建てられ、その後方には「木村長門守夫人負烈碑」なるものが建てられている。

木村重成と妻の青柳は、大坂夏の陣より少し前に結婚をしたが、戦国期の武将としては珍しい恋愛結婚だったという。

重成没後、残された青柳は尼になり、重成の一周忌を終えると自害してしまったといわれるが、夫人・青柳を偲んでのものでしょう。

木村重成に由来する地名として東大阪市若江南町1丁目には『若江木村通』という交差点がある。

木村勢と戦い、戦死した東軍の武将・山口重信の墓。

重成の墓と恩智川を挟んだ対岸には、山口重信の墓も残されています。

重信は井伊勢に参加していた東軍の武将。重信は旧領の回復を願って東軍に参戦していましたが、若江の戦いで戦死。

しかし、その死によって、重信の宿願は後にかなえられた。
重信のお墓は、1647年、重信の三十三回忌に際して建てられた。

若江名勝図会に描かれた木村、山口両武将の墓。

両軍の武将の墓が恩智川を挟んだ両岸に残されている点は当時の合戦の様子を伝えたものでもあり、東西両軍が激しい戦いを繰り広げた若江の戦いを象徴する構図であるといえるでしょう。

木村公園(八尾市幸町6-2)には木村重成の墓があります。

大坂夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、 昭和四二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。

豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。

幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。

河内方面隊は藤堂高虎、井伊直孝を先鋒とし本多忠朝、前田利常、松平忠直など総勢55,000の兵で構成されており、立石街道から道明寺へ向かっていた。

そのあとに徳川家康、秀忠ら本営が続いた。

5月2日、豊臣軍では、河内口から来る幕府軍に対し、大坂城東方、大部隊の機動には適さない低湿地帯で迎撃することにし、木村重成の兵6,000が大坂城を出発した。

長宗我部盛親、増田盛次の兵5,300もそのころに出発したと思われる。

5月5日朝、木村重成は今福方面を視察し、こちらに幕府軍が来襲する可能性は低いと見た。
そこで徳川家康・秀忠本営に側面から迫るべく、若江に兵を進めることにした。

5月6日、木村重成は午前0時頃には出発したいと考えていたが、兵の集結が遅れ、午前2時頃にようやく出発できた。
途中道を間違え沼地で立ち往生するなど、木村自身や兵の練度に問題があり、進軍は順調にはいかなかった。

午前1時、井伊直孝は部隊に命令して食事させ、進軍の命を待たせた。

午前4時頃、藤堂勢の右先鋒藤堂良勝が若江に向かう豊臣軍を発見した。

幕府軍は勝手な戦闘は慎むよう命令されていたが、藤堂高虎は良勝の「豊臣軍は、家康・秀忠の本営への攻撃を企図しているのではないか、ただちに攻撃するべきだ」という進言をうけ開戦を決断、各隊に進撃を命じた。

午前5時頃、木村勢は若江に着陣、先鋒を3手に分け、敵に備えた。

その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけた。

藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死した。
木村は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃しようともくろんだ。

午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。
井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。

木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。

堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。
川手はさらに突進したが戦死した。

そこに庵原も加わり激戦となった。
木村重成は自身も槍を取って勇戦したが戦死した。

山口弘定、内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅した。

五月雨や啼いて今夜は不如帰

重成辞世の句

美女堂遺愛石碑。

いまの若江北町に美女堂氏という旧家があった。

その祖は、摂津国多田庄(現在の兵庫県川西市多田)の出身であり、摂津源氏として知られる源満仲の四男で、名を美女堂丸といい、故あって河内国若江に住した。

その子孫相承けて近世に及んだが、明治時代に大阪に移った。
若江には美女堂川・美女堂田の呼称をのこし、この美女堂氏が栄えたころを物語っている。

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若狭武田氏の拠点 後瀬山城

後瀬山城はJR小浜駅の南西に聳える標高168m程の山に築かれている。
現在主郭には愛宕神社が祀られており、北東麓から整備された参道が続いている。

参道を登り始めると、最初はかなり急な石段が続いていく。

大永2年(1522年)若狭国守護・武田元光(発心寺殿)によって築城された。

のち、三代にわたり守護大名・若狭武田氏の拠点(若狭守護所)として栄えた。

若狭に続き丹後の守護も手に入れた武田家の隆盛をみた皇族や公家の一部は京都の戦乱を避け小浜に下向している。

城主は元光・信豊・義統、そして京極龍子が嫁いだ元明と続くが、龍子が嫁いだ頃には、守護武田氏の武威は衰え、隣国朝倉氏の支援なくしては何事も立ち行かなくなっていたのが実情である。

繰り返される被官人の反乱を抑えるには朝倉氏の武力に頼るしかなかったのである。
 
しかし、永禄11年朝倉氏は混乱する若狭に進攻すると、龍子の夫である守護元明を保護を名目に越前へ拉致する。龍子にとってもつらい日々であった。

主郭への石段。

関ヶ原の戦いの論功行賞により若狭一国を与えられた京極高次が入る。

高次は、町作りのため新たに小浜城の築城に取り係ったが高次および京極忠高の京極家藩主時代には完成せず、後瀬山城が近世に入っても依然若狭支配の居城であった。

主郭に建つ愛宕神社。

右は主郭の石段横の石垣跡。

少し下がったところから主郭部を見上げる。

主郭から北西に伸びる尾根は少し降った標高130m程の所から階段状の曲輪群があり、その先の尾根に堀切で遮断した先端野曲輪群がある。

この堀切に面した曲輪は西から南に掛けて土塁が巡り、西側面には畝状竪堀群が残る。
東山腹には長大な竪堀が数本あり、見所の一つである。

登城口の愛宕神社の鳥居。

かにかくに 人はいうとも若狭路の 後瀬の山の 後も逢わん君」(坂上大嬢 万葉集)
とうたわれているように、後瀬山という言葉には「後の逢う瀬」というロマンティックな意味もあるようだ。

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後瀬山城へのアクセス、行きかた歩き方

JR小浜線小浜駅~徒歩300m(登り口)

京極高次の居城 小浜城

関ヶ原の戦いの戦功により、小浜に近江大津6万石を領し大津城主であった京極高次が若狭一国を与えられ若狭小浜8万5,000石で入る。

先ず、天守閣跡に上る。

天守台跡を望む。
ご覧の通りすぐ近くまで民家が迫り石垣の撮影が極めて困難だ。

状況は分かっていたので秘密兵器を持参、超広角8㎜レンズ、お蔭で至近距離からの撮影も無理なくこなせた。

小天守跡。

江戸時代初期に、京極氏によって後瀬山城にかえて、海と河川を取り込んで築かれた海城である。

1601年、京極高次の代に着工され、京極氏2代にわたって普請工事が行われたが、完成を見ずして京極氏は出雲国松江に加増転封された。

西櫓跡。

替わって入封した酒井氏が二条城の様式を取り入れるなど、大幅に城の縄張を変更し、本丸天守を造営。
その8年後の1642年に小浜城は竣工した。

以降、若狭酒井氏の居城として明治を迎えた。

一旦 本丸内の西側へ戻る。
絵図によると当時はなかった通路のようだが、石垣の一部が切られておりそこから外へ出られるようなので、出てみる。

左側は小天守、右側は西櫓。

明治時代に大阪鎮台の第一分営が置かれたが、失火によって大部分の建物を焼失し残存していた天守も撤去されている。

本丸石垣を望む。
この場所からのこの画角は超広角でないと無理。

北川の河川拡張などにより現在は本丸以外は河川や住宅街となり、城の遺構としては本丸部分の外周石垣を残すのみである。

完全に民家にブロックされているが超広角レンズで難なくクリア、ひずみもそう気にならない。

1875年(明治8年)に本丸跡に藩祖である酒井忠勝を祀る小浜神社が建立された。

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小浜城へのアクセス、行きかた歩き方

福井県小浜市城内1-7-55
0770-52-1920

JR小浜線、小浜駅下車、徒歩15分

金石城

金石城(かねいしじょう)は、市街を挟んで北東隣の桟原城(さじきばらじょう)とあわせて厳原城(いずはらじょう)ともいう。

享禄元年(1528年)に、宗将盛がこの地に築いた金石屋形(かねいしのやかた)を始めとする。

城内の一角には1988年(昭和63年)に台風によって倒壊した桟原城大手門(通称、高麗門)が移築復元されている。

金石城は、文禄・慶長の役の際に築かれた清水山城の麓に位置する平城で、宗氏の居城だった。

金石屋形を、朝鮮通信使を迎えるために、近世城郭に改築したといわれ、石垣や堀切が廻らされたが、天守は築かれず1669年(寛文9年)に宗義真によって造られた大手口の櫓門を天守の代用としていた。

今も堅牢に遣る城壁の一部は、対州流の石垣の特色をよく示しており、石工技術に固有の伝統があったものとみられている。

平成2年、櫓門が記録に基づき復元され、景観が往時をしのばせている。

今運動公園の地に残る城壁、城門の跡、庭園の池などは、さすがに往年の偉容を偲ばせます。

大手の櫓門は大正8年(1919)まで残っていましたが、京都かどこかの寺院に売却されたといいます。
現在のものは平成2年に再建されたもの。

清水山城、豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際して本陣の名護屋城から朝鮮への経由地となる壱岐と対馬に兵站基地となる城を築くことを命じ、厳原の西にある清水山上に毛利高政によって築城されたと伝えられている。

現在は一部の石垣のみが残されており、山麓の厳原市街地からも見ることができる。

李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑

1931(昭和6)年、新婚の宗武志公と徳恵姫はそろって対馬を訪れ、島民の盛んな歓迎を受けた。
徳恵姫は朝鮮王朝第二十六代高宗の王女(翁主)。

この碑は結婚を祝って当時対馬に住む韓国(朝鮮)の人々によって建てられた。
また清水山城には対馬の人々による慶祝のツツジ植栽の記念碑が遺されている。

その結婚は25年にわたり、多くの困難にもかかわらず、一女正恵姫と共に信頼と愛情の絆で結ばれていた。
しかし両民族の関係はまことに難しく、時代の激流の中で1955年やむなく離別に至り、武志公は1985年、徳恵翁主は故国において1989年、逝去された。

ここに歴史に埋もれていた碑を再建し、お二人の苦難の歴史を想い起こしつつ、双方の真の和解と永遠の平和を希うものである。(案内板より)

日韓併合後の1912年、日本の王公族・徳寿宮李太王となっていた高宗と側室・梁氏との間に生まれた。
1925年に12歳で渡日し東京の学習院に留学、1930年に旧対馬藩主・宗家の当主である伯爵宗武志(そう たけゆき)へ嫁いだ。

朝鮮人である徳恵と武志との結婚には、宗家側に反発が少なからずあったというが、このころ宗家は経済的に困窮しており、徳恵の実家である李王家からの支援を期待できるこの縁談は悪い話ではなかった。

そういう事情はありながらも、武志は妻となった徳恵を深く愛し、2人の仲は睦まじく、2年後の1932年8月14日に長女正恵(まさえ)が生まれた。

しかし、徳恵は精神・知能双方に先天性疾患ならびに障害を抱えており、その病状は少女期から新婚時代には小康状態にあったが、正恵出産から数年後に再発した。

武志の献身的な介護の甲斐なく症状は悪化の一途を辿り、1955年に徳恵の実家・李家から宗家に対する離縁要求により、武志の反対も空しく徳恵は夫との離婚を余儀なくされ、母方の姓を名乗って梁徳恵となった。

1962年に療養のため韓国に移り住み、このときに韓国の国籍を取得している。。

帰国後は異母兄李垠の妃だった李方子とともに昌徳宮内楽善斎に住み、1989年4月21日同所にて死去。長らく病に伏していたと言う。

城内で発掘調査された庭園は国の名勝に指定されている。

庭園は17世紀末に造られ、平成に入り復元された。

庭園のすぐ奥には搦手門があった。写真はその搦手門の石垣。

日本国内に分布するネコ類は、イエネコを除けば、対馬のツシマヤマネコと、西表島のイリオモテヤマネコの2種のヤマネコのみである(化石種であれば、おそらくイリオモテヤマネコに近いヤマネコ類、ベンガルヤマネコ、オオヤマネコ、ヒョウ、ライオンまたはトラなどは本州でも産出してい)。

1965年の劇的な発見と報道(毎日新聞、1965年4月15日)により全国的に知られるようになったイリオモテヤマネコと比べると知名度は劣るが、本種も同様に絶滅が危惧される希少動物である。

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金石城へのアクセス、行き方歩き方

長崎県対馬市厳原町今屋敷670-1
0920-52-1566 (対馬観光物産協会)

対馬やまねこ空港から厳原停留所までバスで30分。船便利用なら厳原港から徒歩15分。