初秋の金沢城

金沢城は金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む)。

現在、重要文化財に指定されている石川門は、天明8(1788)年に再建されたもの。

今は完全に埋め立てられていますが、延宝期はしっかりと水がはられていました。
そして、塞き止められお堀となっています。

この百間堀は前田利家入城前に城主、正確には 一向一揆の御山御坊を攻め落とした佐久間盛政がこの百間堀を掘ったとも言われています。
正確なことはまだわからないようです。

石川門は一般的な枡形構造の城門と同様に、一の門(高麗門)、二の門(櫓門)、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門となっています。

最初の門(一の門)を入るといわゆる枡形虎口になっていて、右に90度曲がったところにもうひとつの門(二の門)があります。

一の門から入って正面の壁と、左手の壁にあたる部分です。
明らかに異なる積み方がなされています。

三ノ丸

橋詰門一の門(復元)

橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門です。

高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。

「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、二の門の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門でした。

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。

「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。

二の門をくぐれば二の丸。

二の丸から眺めた菱櫓と五十間櫓。
菱櫓は三層三階の建物で、金沢城一の高さを誇っていた。

本丸との間の空堀に架かる極楽橋と現存の三十間櫓の様子。

案内板によると「 二ノ丸から本丸への通路に架かる橋、金沢城内ではっきりした名称の付いている橋は珍しい。

その名称から金沢御堂時代の遺構であるとの伝承がある」とあります。
金沢御堂は戦国時代、一向一揆の拠点になった場所の1つで、寺院全体が城砦化していたとも云われています。

金沢御堂時代にも空堀のような防衛施設があり念仏を唱えながら橋を渡り極楽浄土を願っていたのかも知れません。

極楽橋の上から兼六園方向を撮影したもの。
右側が本丸方面であり、見事な石垣が積み上がっている。
見事な石垣が積み上がり、かなりの高低差を作り出している。

三十間長屋からはすぐに本丸に至るが、この景色から考えると、本丸まで攻め込むのは容易ではなさそうだ。

三十間長屋

本丸付段に安政5年(1858)に再建された長屋で、金沢城に現存する長屋建築としては唯一のものです。
宝暦の大火(1759)で焼失した後、100年近くたって再建された。

幅3間、長さ26.5間余りの2階建て多聞櫓で、鉛瓦葺の堅牢な構造が特徴的です。

「陸軍の破壊」、明治のやっつけ仕事、粗悪な改修一目瞭然

明治は城「受難」の時代だった。

戊辰(ぼしん)戦争で破壊された東北各藩の城以外にも、無事に残った各地の名城も悪しき旧体制のシンボルとして解体破壊されていった。

文化財として守る意識など皆無だった。

あの姫路城でさえ解体寸前だったが、今に残ったのは解体費用がかかりすぎるため手を出せなかったからだという。
 
陸軍が利用した金沢城は、明治4年の廃藩置県で新政府の兵部省所管となった。
6年には名古屋鎮台分営、8年に歩兵第七連隊となっていくが、兵舎として使える建物以外は次々撤去された。

金沢城公園の本丸と二の丸の間の石垣をくり抜いて造られたトンネル。

明治から昭和の初めにかけて、金沢城は兵部省、のちに陸軍省の所轄となりました。
このトンネルは、旧陸軍の弾薬庫通路として造られたもの。

本丸跡地に、その弾薬庫はあったそうですが、現在は残っていません。

トンネルは煉瓦積みで、荷車などを通すためか、結構大きい。
現地には簡単な説明が書かれた紙がトンネルの前に貼られているだけ。

このトンネル、石垣を崩してレンガを積み、また石垣を積みなおしたのだと思われます。
弾薬庫への往来ということで、直線ルートが欲しかったんでしょう。

鶴の丸休憩所からの眺め。

鶴の丸は三の丸と東の丸の間にある小さな曲輪。

前田利家の夫人、芳春院が白い鶴が舞い下りるのを見て鶴の丸と命名したという言い伝えが残っている。

江戸時代初期には加賀藩二代目藩主・前田利長が休憩用の御殿を建てたそうですが、大坂の役の際には、一向宗徒や百姓・町人をここに人質として収容したそうです。

石川門の内部。

秋です、すすきが風に揺れていました。

かつての「いもり堀」は、金沢城の南西側を囲む外堀で、明治40年(1907)、旧陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は、陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用されました。
 
江戸時代の堀は、幅が広いところで約40m、深さが10m以上あり、水を湛えていました。
斜面は土羽で、比較的緩やかな勾配で造られており、南東端には鯉喉櫓台の石垣がありました。

外周の南端、ここには城内随一の高石垣がある。

この4段の石垣!段々に積み上がっている石垣は美濃岩村城などでも見られるが、ここは一段一段がかなり高いのでとても迫力がある。
しかし石垣麓の説明板に衝撃の事実が。

なんとこの石垣は今の上3段分が繋がった高さ22m以上の高石垣だった。
しかし明治時代に何故か(堀を埋めるためか)削り取り、今の4段構成に改変してしまったとのこと。

壊してしまわず、ちゃんと4段に積みなおしてくれただけでも良かったと思うべきか。

本丸南面の4段高石垣の全景。
石垣の向こうの深い森の奥が本丸。

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喜春城 西日本の抑えとして築城された明石城


城の入り口に立つ中部幾次郎・・

慶応2年に現在の明石市 林に魚の卸や運搬をしていた父兼松の次男として生まれた。

明治37年に明石から下関に移り、日本初のエンジン付きの漁船団を組み大洋漁業(現マルハ)の前身となる林兼商店を創立した人です。

明石中学校(現県立明石高校)設立の経費の半額を寄付したり市水産会長を勤めるなど明石の発展に尽くした・・とあります。

戦後の食糧難を解決するためにGHQと掛け合い、捕鯨の再開になんとかこぎつけましたが、戦後初の捕鯨船団の出航を見送る事無く昭和21年に亡くなりました。

大手虎口を抜けると芝生公園の向こうに2基の立派な櫓が見える。

それぞれの方角を取って「右端・巽櫓(たつみやぐら)」「左端・坤櫓(ひつじさるやぐら)」と呼ばれる。
巽=辰巳=南東、坤=未申=南西。正面が北なので、右側が南東の巽櫓、左側が南西の坤櫓であることが分かる。

よく見ると90度お互いが違う方向を向けて建てられていることも分かる!

両櫓(三重櫓)を結ぶ白壁の長塀は復元。

中央の巨大な石垣は天守台。
本丸に天守台は築かれたが、天守は建てられなかった。

石段下の「三の丸」跡(現・武蔵の庭園)から「二の丸」跡へ通じる石段。

二ノ丸の南下の登り口、緩やかな石段を登る。
この石段の幅(微妙に広くて歩きにくい)は籠(かご)の幅に合わせてあるとのこと。

城址の手前にある日時計。中央部が兜の形をしている。
明石城とはあまり関係なく、明石市内を日本標準時子午線が通ることから設置されている模様。

JR明石駅ホームより見る明石城 

プラットホームからは、本丸の白壁の長塀と左右の坤櫓・巽櫓など、城の中心部がよく把握でき見学スポットの一つ。

これは明石城だけにある蓋で、デザインも明石城。

桜の名所100選の一つなので、綺麗な桜も描かれています。
電気のマンホール。

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夕闇迫る高知城

早めに夕食を終え夕闇迫る高知城に向かう。

やはり、高知城探訪の入口は、城の正門である追手門からであろう。

この門は、慶長年間に創建され、1663年(寛文3)に崩壊したのを翌年に再建したものとのこと。

高知城では珍しいのだが、切石を積んだ石垣の桝形上に、南面して建てられた両脇戸付櫓門で、屋根は入母屋造の本瓦葺となっている。

天守閣と大手門(追手門)がそろって現存している城は珍しく、この城と弘前城、丸亀城の3城しかないが、追手門前から天守閣を望めるのはここしかなく、有名な撮影スポットにもなっている。

山内一豊像

この銅像は桂浜にある坂本龍馬の銅像などを手がけた銅像作家、本山白雲の手によるもので、一豊の祥月命日(しょうつきめいにち)にあたる1996年(平成8年)9月20日に再建除幕された。

銅像の本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32m、重さ3.6トン、台座5.08m、総高9.4mで、騎馬像としては、皇居前の楠木正成像を上回る、国内最大クラスです。

追手門から登城するための階段は、登りにくい。わざとそういう足幅に作られ、攻めるにのぼりにくく、上方から下りるには都合の良い足幅になっているとか。

少し酒の入った体にはこの登りはきつい。

1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名。

1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残した。

それを書いた石碑も銅像の右後方に立っている。

この銅像は、桂浜の坂本龍馬の銅像製作者と同じ本山白雲で、1924年(大正13)に建立されたのだが、戦時中に供出され、戦後、再建されたものとのこと。

像の題字は、再建当時の内閣総理大臣吉田茂の揮毫だ。
自由民権運動の発祥の地と言われる高知県を象徴している銅像だ。

杉の段から見た天守閣東面。

杉の段にある山内一豊の妻像。

二の丸手前の階段付近から見た天守閣北面。

道路には高知城をあしらったプレートが見られる。

マンホールのふたは、市章に「S(Sewerage下水道の意味)」の入ったマークの周りに県の鳥ヤイロチョウ、県の花ヤマモモ、「高知城」のデザインに「T-14」「合流」の文字。

翌朝、ホテルの部屋から天守を望む。

以前訪れた高知城の記事。
南海の名城、高知城

高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。 山の南を流れる鏡 … 続きを読む →

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真夏は夜間撮影が快適


酷暑を避け、夕刻に出陣。
大阪城の大手門、時折ランニングの人に出会うくらいで全く人出なし。

千貫櫓のライトアップも美しい。

多聞櫓とトワイライトブルーのコンビ。

振り返れば下弦の月。

お気に入りのスポット、暗がりで人気もなく、少々気味悪いくらいの静けさ。

南外堀と高石垣、見えるのは六番櫓。
冷風が時折ほほを撫でていく、気持ちのいい夜間撮影でした。

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青葉の季節を迎えた犬山城

犬山城は江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつ。
また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。

黒門跡、現在礎石が一つ残る。

登城道の最後の坂を登りつめたところに岩坂門があった。

本丸門(鉄門)、桜は葉桜になり、みどりがとてもきれいです。

前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。

また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。

江戸時代には尾張藩の付家老の平岩親吉が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。

江戸時代には尾張藩付家老成瀬氏の城として維持され、白石城と同じく大名家の城ではなかった。

城は最近まで個人の所有であった。

現在は財団法人「犬山城白帝文庫」に譲渡されているが、成瀬家の姫(成瀬 淳子氏)が理事長に就任して管理している。

過去の犬山城訪問記

犬山城の紅葉 あいにくの雨でした
犬山城は、現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひ … 続きを読む →

桜咲く白帝城 犬山城
東海の山城、今日は二日目、まず訪問したのは山城でなく平山城の犬山城。 関連記事: … 続きを読む →

木曽川の畔にたたずむ後堅固の城 犬山城
木曽川を背に建つ、国宝犬山城は兵法に言う「後堅固(うしろけんご)の城」です。 標 … 続きを読む →

犬山早朝散策 美しい日の出を求めて・・・・
犬山での宿泊は久し振り、昨夜は雨だったが今日はどうやら晴れらしい。 今朝の目覚め … 続きを読む →

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姫路城ビューポイント探訪

2015年3月27日再公開以来人出の多さを気にしながら訪問の機会をうかがっていたが突然前夜思い立ち訪問。
歩数31000歩、丸一日がかりの探訪でした。

まずピオレ姫路〔piole HIMEJI〕屋上から偵察。

ここはJR姫路駅からも近く、姫路城の南面を非常に高い位置から望める貴重なスポット。
電車の空き時間などちょっとした時間で楽しめるスポットだ。

地上からでは見ることができない姫路城全体の縄張りを、一望することができる。

JR姫路駅前の城見台からの画像。

大手前通りの歩道は黄色いイチョウが落ち葉を散りばめきれい。

イーグレー姫路(屋上5階)、地上からでは見ることができない姫路城全体の縄張りを、一望することができ、距離も近いため望遠レンズがなくても、それなりに撮影することができて便利。

大手前公園から。

城見台公園の鯱の間から。

城見台公園からの画像、大手門から5分もかからずに行ける場所であるにもかかわらず、人の流れからは外れているせいか、あまり観光客が多くいる場所でなく穴場。

動物園横の広場から、この辺りも人はまばら。

「喜斎門跡(きさいもんあと)」は、姫路城の裏口・勝手口という意味合いの搦手口(搦手門)。

現在は石垣しか残っていませんが、日中も人の流れが少なく、落ち着いて写真撮影ができるスポット。

姫路城の東側を大迫力で写真に収めることができます。

ススキと残り柿が晩秋の雰囲気。

喜斎門跡の石垣越しに。

喜斎門跡を入ったところの広場、ここからは石垣の扇の勾配がきれい。

姫路市立美術館のエリアも観光客はほとんどなくゆっくりと撮影できる、ススキと紅葉がいい。

堀も晩秋の佇まい。

シロトピア記念公園・ふるさとの森、逆光で天守の撮影には今一だが、趣のあるきれいな公園だ。

県立歴史博物館の壁面、ガラスでできたキューブ、周辺の風景が映るという仕組みのマジックミラー。

残念なのはライトアップの映り込みを撮り忘れたこと、ま、その内訪問するか。

木々が真っ赤に紅葉してきれいでした。

扇観亭前の庭園、龍水都紅葉がきれいでした、扇観亭は黒川紀章 設計。

寒桜が寒さにふるえている。

この辺りもまだまだ紅葉がきれいだが、天守は逆光。

紅葉が終わり清掃に追われています。

内堀の紅葉とワの櫓。

ワの櫓付近の石垣。

ネコちゃんが堀端を散歩。

こちらはクロネコ、眼光鋭く。

内堀の石垣の様子。

三の丸広場から、芝生は養生中で近寄れません。

三の丸広場からの天守。

ただ今、重要文化財「リの一渡櫓」と「リの二渡櫓」は修理工事中。

約30年とされる漆喰の耐久性を保つために外壁を塗り直しているほか、屋根瓦のふき直しを進めており、最終段階を迎えている。
工事は来年3月までの予定。

入り口前の石垣。

入り口前から天守を。

三国濠(有料エリア:入城料を払った後に行けるエリア) 、入城ゲートを通って、最初の門(菱の門)をくぐるとすぐ右に見える。

濠が鏡になって、逆さのお城が撮れるスポット。

西の丸からの景色は、よく時代劇のロケなどで使われている。

石垣と天守がダイナミックに撮れるスポット。

化粧櫓付近から。

天守屋上から、夕日に海が輝く。

天守台から、ここまで来ると広角でないと無理。

ライトアップの始まり、ブルーの空に白亜の天守が浮かぶ。

ブルーと白のコントラスト。

城見台公園からの夜景。

喜斎門跡からの夜景、堀への映り込みがきれい。

喜斎門跡奥の広場から。

ここまで来ながら、県立歴史博物館のキューブへの映り込みを撮り忘れたのは不覚。
朝10時から夜7時まで歩数31000歩の探訪、疲れました。

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幽斎の正室麝香の里 熊川城跡


熊川城は若狭と近江を結ぶ若狭街道の熊川宿を猊下する山の中腹(標高180m付近)付近に築かれ、尾根が西と北に分かれる小ピークに主曲輪をおき、熊川宿へ延びる東尾根に階段状の曲輪を連郭式に配した山城。

熊川宿のほぼ中央の白石神社の本殿横から九十九折りに急斜面を登る。
斜面につけられた道は獣道に毛が生えた程度で、足場がスリップすると谷底まで落ちる危険極まりない。

なお、細川藤孝(後の幽斎)の妻は熊川城主・沼田氏の娘といわれる。

城主の沼田氏は観応2年(1351)に足利尊氏から瓜生庄下司職を賜り、居館を城の北側の山裾に構えたと伝えられている。

戦国時代には若狭国守護武田家の家臣である松宮家の被官だったようだが、沼田光兼が熊川城を築城した頃から細川氏に近づいていたようで、麝香(光寿院)が細川藤孝の正室となり、跡を継いだ沼田清延(足利義昭の詰衆)の娘「いと」は細川興元の正室になっている。

そのような中、永禄12年(1569)に沼田勘解由が松宮玄蕃助の侵攻を受け敗れると熊川城を追われ、細川忠興を頼り近江(現在の滋賀県)に逃れている。

その後は忠興の客将となり、朝鮮出兵や関ケ原の戦いの際の岐阜城(岐阜県岐阜市)攻略戦などで功を挙げ5千石を有するまでとなり、後裔は細川家の家老を歴任している。

足利義秋(義昭)が若狭に入る時、ここを通り、宿の南西熊川城に一泊している。

また織田信長の越前攻めの時にもここを通り、熊川北西の膳部山城(城主松宮玄蕃允)に一泊している。

信長が敦賀から逃げ帰った「金ヶ崎の退き口」でも、熊川城主沼田氏の手を借り、朽木氏を頼り、朝倉氏の追撃を振り切りかろうじて京に逃れた。

その後、天正12年(1584)には丹羽長秀によって破却されたと考えられている。

天正17年(1589年)に小浜城主浅野長政が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街道)の宿場町として整備した。

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小浜散策


今回の小浜訪問の目的は「ふぐ」、泊ったのは若狭ふぐの宿 下亟、食べきれないほどの量でフグ鍋は翌日の朝食に持越し。

小浜城址、小浜城を作る際に若狭の百姓にだけ多い年貢を取り立てた。

これに抗議し忠勝に処刑された庄屋である松木庄左衛門を祭る神社が福井県三方上中郡若狭町新道にある。

水上勉は随筆の中でこのことに触れ、「めったに国に帰らないのに城だけは作らせた」「百姓の血汗を絞って作った小浜城」と記している(『水の幻想』)。

松木神社の記事はこちら鯖街道の宿場町 熊川宿
若狭ではいつの頃からか小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われており、与謝蕪村( … 続きを読む →


小浜市役所前の忠勝像、酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、武蔵川越藩の第2代藩主、後に若狭小浜藩の初代藩主。

第3代将軍徳川家光から第4代将軍徳川家綱時代の老中・大老。

梅田雲浜は江戸時代末期(幕末)の儒学者。

通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。
雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。

嘉永5年(1852年)に藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。

これが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となった。

辞世の歌
君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり

杉田玄白記念公立小浜病院、病院名は、『解体新書』を著した杉田玄白が小浜藩出身であったことに因んでおり、病院正面には杉田玄白の銅像がある。

杉田玄白は江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩医。私塾天真楼を主催。 父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。

杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系。後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。

医家としては、玄白で3代目にあたる。同時代に活躍し、間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵は同族。

病院には杉田玄白コーナーがある。

外科医であった玄白は、ハイシュテルの外科書を見て西洋の外科のすばらしさを知り、西洋のものを学びたいと思って『ターヘル・アナトミア』に出会い、小塚原で人体解剖を見て、この『ターヘル・アナトミア』に描かれている解剖図の正確さに驚き感動。

それを翻訳しようということで、幕府長崎通訳を通して、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を手に入れた。

そして、前野良沢・中川淳庵とともに翻訳に取りかかり、玄白42歳の1774年(安永3)に世に知られた『解体新書』が発刊された。

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大谷吉継の敦賀城跡

大谷吉継は裏切りが常の戦国の世に、盟友・石田三成との堅い友情に殉じた武将、また晩年はハンセン病を患い、白い布で頭を覆って戦った武将として知られている。

現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはない。

敦賀城伝承地は、北は結城町の赤川、南は三島町の霊山院から稲荷神社、東は水路の残る旧笙の川沿い付近で西小学校・八幡神社・西蓮寺が連なるライン、西は真願寺から敦賀病院を経て霊山院のライン、で囲まれる南北500m、東西300mの範囲という。

現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはないが、以下の遺構などがある。

この画像は永賞寺、大谷吉継の菩提寺。

永賞寺は曹洞宗の寺院。

大谷吉継の供養塔との伝承を持つ慶長14年造立の層塔がある。

吉継生前より菩提寺としており、毎年9月には供養祭も行われています。

敦賀西小学校正門の真横に敦賀城の案内碑があり、慶長年間の国絵図に描かれた三層の天守も刻まれている。

2009年、新校舎建設に伴い、小学校グラウンドの発掘調査を実施したところ、敦賀城の時代に相当する建物遺構が発見された。

八幡神社には、敦賀城主大谷吉継が寄進したという本殿の龍の木彫、石灯籠、石鳥居がある。

大谷吉継が寄進したという龍の木彫。

敦賀城の欄間や礎石、鬼瓦、寄進した石灯篭、茶壷など吉継にまつわるるさまざまな歴史的遺産が残されている。

西蓮寺の西隣には三の丸趾の木柱が建ち、そこから南の稲荷神社付近には三の丸地蔵尊の祠もあり、西蓮寺から稲荷神社の付近が三の丸であったようである。

真願寺には、敦賀城の礎石が残る。本寺は敦賀城域の北西隅に当たるという。

真願寺から東へ延びる赤川は、敦賀城の堀の遺構と言われる。
また伝承範囲の南側と東側にも部分的に水路が残っている。

来迎寺の山門は、城の中門を移築したと伝えられる。
書院には、腰高障子13枚が残る。敦賀城破却時に移されたと伝わる。

敦賀市立博物館が所蔵する「関ケ原合戦図屏風(びょうぶ)」、病のため顔を頭巾で覆った姿で手に槍を握り、家臣と向き合っている場面を紹介している。

吉継は敦賀城を水城として大改修した。1600年(慶長5年)に石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、豊臣家を崩壊させようと画策する徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、再三にわたり「三成に勝機なし」と説得。

しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、敗戦を覚悟して西軍に加担した。
関ヶ原の戦いでは奮戦したが敗北、自刃し、戦後は所領は没収された。

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熊本城震災5か月目の復興状況をレポート

別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」とも言われる熊本城、復興状況を見たいと思いながら5ヶ月目にやっと実現。

行幸橋のたもとの清正公、さぞやびっくりしたことだろう。

まず市役所14階から城の全貌を見る。
天守閣、本丸御殿、数寄屋丸が確認できる。

白いシートも見える。
手前下は田子櫓等の櫓群。

少しズームすると天守閣の瓦が崩落している状況が確認できる。
本丸御殿では白いシートも確認できる。

更にズームすると悲惨な状況が目の当たりに。
鯱も崩落して屋根に落ちている。

西に目をやれば隅石1本で支えている飯田丸五階櫓の倒壊防止の緊急工事の様子が見える。

坪井川に沿って長塀通りを進む。
あの美しい長塀も被害を受けているが白いシートがしてあり状況は確認できない。

続く馬具櫓の石垣は地震ではなく、その後の長雨で崩落、立ち入り禁止区域を広くとっていたことによってけが人が出ずに済んだ。

櫓の壁にヒビが入っているのはわかります。

二の丸広場を通って加藤神社まで歩いてみることにする、宇土櫓の状況が気になっているのです。

戌亥櫓、天守、宇土櫓が遠望できる、塀は崩落している。

先ほどの石垣から繋がる”戌亥櫓”の様子を北西方面から眺める。
粒の小さい石が使用されており、近年に復元されたことがわかる

更に進む、北側の石垣はほぼ完全に崩落している、この辺りは全く手つかずのように見える。

加藤神社に続く通路脇には、崩落防止のフレコンバックが積み上げられていたが、黒い素材のものがチョイスされており、およそ3倍の耐久性が確保されているとのこと。

続く2枚の写真は、加藤神社に進む橋の両脇を撮影したもの。
たもとの左側と右側で、使用されている石の大きさが違うことから、違う時代で復元を繰り返してきたことがわかる

宇土櫓は幸いにしてまだ被害が少ないほうですが、続櫓は完全に倒壊しています。

熊本復興キャンペーンのツアー参加です、ガンバレ熊本!!

以前に訪れた際の熊本城の記事が下記にあります。
秋の九州爽やかウォーキング 熊本城
熊本城は日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上 … 続きを読む →

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熊本城へののアクセス、行き方歩き方

熊本城公式サイト

熊本県熊本市中央区本丸1−1
096-352-5900

熊本市電 花畑町電停より 城内まで約30m、櫨方門まで約400m、頬当御門まで約600m。
熊本市電 熊本城・市役所前電停より 城内および須戸口門まで約200m、不開門まで約400m。
熊本交通センターより 城内まで約300m、櫨方門まで約400m、頬当御門まで約600m。
熊本交通センターより 頬当御門まで熊本都市バス「熊本城周遊バス(しろめぐりん)」で約8分 130円(8:30 – 17:00)
JR熊本駅より 頬当御門まで熊本都市バス「熊本城周遊バス(しろめぐりん)」で約18分 130円(8:30 – 17:00)
熊本市電 杉塘電停より 城内(三の丸公園)まで約150m。