桜咲く 出石城址


谷山川に架かる登城橋から登城。

今年の桜の見納めとなった出石城址の桜。

出石城の代名詞の感のある本丸西隅櫓。

稲荷郭の高石垣はすばらしい、この時期緑がきれいです。

東隅櫓。

出石城には天守はなく、櫓が四基上げられていた。
そのうち本丸西隅櫓と東隅櫓が現在復興されている。

感応殿は明治時代に仙石氏の旧臣が建立。

祀り神は幕末に藩主であった仙石氏の祖、仙石秀久公。

1604年(慶長9)、小出吉英により有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けた。

それにともない平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれた。

城主の居館も成り、このとき城下町も整備され、出石の町並みが形成された。

山上の旧有子山城天守は城割は行われなかったが幕府を憚り荒れるに任されたため樹木が生い茂り一見したところ山林となった。
なお、一国一城令により、但馬守護山名氏以来の出石城が但馬国唯一の城郭となっている。

江戸時代は、出石藩の藩庁となり、小出英及が1696年(元禄9)3歳で死去すると小出氏は無嗣改易となった。

代わって松平(藤井)忠周が入城。
1706年(宝永3)忠周が転封となると、仙石政明が入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となった。

江戸末期には仙石騒動がおこっている。

明治時代になり、廃城令で出石城も取り壊されたが、辰鼓楼、堀、石垣などが現存、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備されて、観光地となっている。

2017年(平成29年)4月6日、有子山城とともに続日本100名城(162番)に選定された。

三の丸には、藩主 の居宅と政務の場所を兼ねた対面所と呼ばれる建物や上級武士の屋敷が 構えられ、周囲を内堀で囲まれていた。

辰鼓楼は、明治4年(1871)旧三の丸大手 門脇の櫓台に建設された。

明治14年 に医師、池口忠恕氏が大時計を寄贈してからは、時計台として親しまれ、今では3代目 の時計が時を刻み続けている。

駐車場より本丸西隅櫓を望む。
緑に包まれ美しい姿を見せる。

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勝山城跡 福井


現在の勝山市役所付近が城跡中心部で、市役所と公民館があるあたりが本丸跡であり、市役所前の道路付近に堀が設けられていた。

天守台や石垣が昭和40年まで残っていたが、市民会館建設に伴い撤去され、現在は市民会館敷地に城址の碑が建つのみである。

勝山城は、戦国時代の天正8年(1580年)に柴田勝家の一族である柴田勝安によって築城された。
信長公記では勝山城城主は原長頼と思われる。

江戸時代に入ると、慶長6年(1601年)福井に封じられた結城秀康の支配するところとなるが、寛永元年(1624年)松平直基が3万石をもって封じられると、勝山藩の藩庁が置かれた。

その後、松平直良が入るが、正保元年(1644年)直良が移封されると廃城となり、勝山の地は天領となった時期もあった。

元禄4年(1691年)に小笠原貞信が2万2千石で勝山の地に封じられ、以後明治維新まで小笠原氏8代がこの地を治めた。

宝永5年(1708年)には、城址への築城許可が下り、7代藩主小笠原長貴の代に完成を見た。

文政5年(1822年)に、本丸より出火し、門、高塀、土蔵を残して焼失したが、文政9年(1826年)に再建された。
明治時代に廃城となった後、城の建物は取り壊された。

近くに勝山城博物館と称して城跡がたつがあくまでも博物館で勝山譲渡は関係ない。
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福井城


復元なった山里口御門と櫓門・廊下橋。

廊下橋。藩主は西三の丸御座所に居住し、そこから本丸内の藩政所へ通うための専用の橋が廊下橋であった。

桜はすでに盛りを過ぎている。

改装なった福の井。

「福の井」は慶長6年(1601)の北ノ庄城(後の福井城)築城当時からあった井戸と考えられている。

安永4年(1775)の「御城下絵図」の天守台には「福井」と記された井戸が描かれている。

この頃には一般に「福の井」と呼ばれ、福井城の特別な井戸となっていたことがうかがえる。
 
昭和23年(1948)の福井地震では、本丸の石垣がいたる所で崩れた。

「福の井」が崩壊することはありませんでしたが、井戸の形が大きく歪んだことから、震災後に井戸枠が大きく作り変えられた。

雁木(がんぎ)、本丸大手門脇、石塁の城内側を石の階段としている。
防備上で重要な所に設ける。

今日の泊はじゃらん 福井マンテンホテル

駅近で新しくきれいなホテルです。

久しぶりの福井、美酒に酔いしれる。

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天下の名城の花見


友人の展示会を見に行ったついでに大阪城公園に立ち寄ってみた。

今年は開花が早くすでに満開。

西の丸庭園でのんびりとお花見。

花はいいが人の多さにうんざり。

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琵琶湖に浮かぶ水城 大溝城


大溝城は新庄城(旧新旭町)にいた織田信澄(のぶすみ)が、天正6年に築城したもので、高島郡内の商家や寺院などを移して城下町を造りました。

本丸の南東の乙女ヶ池は琵琶湖の内湖で、古地図によると、大溝城はこの内湖を巧みに利用した水城であり、「鴻溝(こうこう)城」とも呼ばれました。

江戸時代に分部光信(わけべみつのぶ)が大溝藩主になると、この地を陣屋として12代光謙(みつのり)の明治維新までその統治が続きました。

現在、遺構はあまり残っておらず、わずかに本丸天守台の石垣が残るだけだ。 
この天守台は、野面積みの石垣だが、一つ一つの石の大きさに驚かされる。

けっこう崩れてしまってますが、大きな石がたくさん使われています。
この石は沖の島から筏に乗せて運ばせたと伝えられています。

天正10年、本能寺の変によって、信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、明智方と見られて大坂で落命する。

信澄の死後、大溝城には丹羽長秀、加藤光泰、生駒正親、京極高次が入れ替わり入城する。

元和5年、京極氏に替わり分部光信が、伊勢上野より2万石で入封する。 
この時、元和一国一城令の対象となり、三の丸を残して破却された。 

分部氏は、 残された三の丸に陣屋を構え、明治まで代々この地を治めた。

大溝藩は学問への関心が高く、藩校である脩身堂が開講されました。
日本陽明学の祖とされる中江藤樹は、大溝藩領内の出身で、村民の教育善導に大きな影響を及ぼしました。

大溝城とお初

大溝城は、織田信長が安土に壮大な城を築いていた頃、甥の信澄に築城させた城で、琵琶湖とその内湖を巧みに取り込んだ水城です。
設計は明智光秀と伝えられています。

浅井三姉妹お初は、京極高次の正室としてこの大溝城で新婚生活を送り、水清く縁豊かな高島、ことに雪深い冬の風物を、厳しい中にも心豊かな郷土として楽しんだ事でしょう。
 
姉妹には数奇な運命を送った姉お茶々(淀殿・豊臣秀吉側室)妹お江(崇源院・徳川秀忠継室)がいます。

お初は名門京極家の正室として生涯を全うしましたが、大坂冬の陣では妹の側にいて家康の側室阿茶の局と共に徳川豊臣の和睦に尽力するなど優れた能力を発揮しました。
 
室町幕府の四職に列した名門京極家の女あるじとして一族の繁栄と家名の維持に努めた戦国時代には稀な才女であったとも言えます。
戦国一の美女と謳われた母お市の方の美貌と知性を受け継いだ初はまた非常な美声の持ち主であったと伝えられています。
 
高次の死後、常高院となり生涯高次の菩提を弔ったあと京極家の江戸屋敷で天寿を全うしました。(享年六十六歳)

常高院(お初)は「もし、将来国替えがあっても常高寺だけはこの若狭の地に、留めおいて下さい」と遺言に残している。

お初さんの眠る 小浜 常高寺
常高院(お初)は「もし、将来国替えがあっても常高寺だけはこの若狭の地に、留めおい … 続きを読む →

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雪に埋もれた長浜城


寒波襲来で長浜地域は大雪、長浜城も雪に埋もれており簡単には近づけない。

直之は降り続いておりこの画像は晴れ間のちょっとした隙間に撮ったもの。
雪つりもこれくらいの積雪になると威力を発揮する。

長浜城の天守閣は、琵琶湖の方から撮影するには朝から晩までいい光に恵まれる。
逆に言うと、天守閣の入口側からだと早朝に限る。

湖岸はすぐそこに見えいるのだがふみ後はほとんどなく、ラッセルしながらの行軍。

やっとの思いで湖岸にたどり着く。
ここからの天守の眺めもなかなかのもの。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されている。

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秀吉と長浜

織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。

小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。

天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。

翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
 
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。

長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしました。

その帰途に喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄り茶を所望しました。
対応した寺の小姓は、まずぬるめの茶を一杯に入れた大ぶりの茶碗を出しました。

喉が乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干しもう一杯所望しました。
次に小姓は、やや小ぶりの茶碗に、やや熱めの茶を出しました。

秀吉がもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの茶碗に熱い茶を入れて出しました。
小姓の気心配りに感心した秀吉は、その小姓を城に連れ帰り家来としました。
この小姓が後に五奉行の一人となった石田三成と伝えます。

戦国時代の頃の話。織田信長は美濃の斎藤攻めで、堅城の稲葉山城の攻略が難航していました。

そのとき、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、城の背後からの奇襲を織田信長に進言。実行隊長となります。
木下藤吉郎は稲葉山城の侵入に成功。稲葉山城に火を放ちます。

そして、信長本隊に送った合図が 槍の先に付けた瓢箪だったという話です。
そして木下藤吉郎の活躍もあり、稲葉山城は落城。(1567年)

功あった木下藤吉郎に、織田信長が 瓢箪を馬印にすることを許可しました。
これが木下藤吉郎改め、豊臣秀吉の馬印が瓢箪となり、高々と掲げられるようになりました。

そして、快進撃の止まらぬ秀吉は 戦に勝つ度に馬印の瓢箪を増やしていきました。
その結果、秀吉の馬印のことを、千成瓢箪と言います。

「市章」を中央に、長浜城主であった「豊臣秀吉」の 馬印である「千成瓢箪」をデザインしたマンホール蓋。

「市章」は、「千成瓢箪」を長浜祭の曳山の数「12」を 周囲に配置し、中央に長浜の「長」を図案化したものです。

秀吉が活躍した稲葉山城の攻略、この時の功で千成瓢箪を馬印に・・・・
戦国武将の野望を物語る 岐阜城
今年3月に訪問した時の記事戦国の攻防を伝える美濃の名城 岐阜城がこちらにあります … 続きを読む →


千成瓢箪のデザインの角型マンホール蓋。

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初秋の金沢城

金沢城は金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む)。

現在、重要文化財に指定されている石川門は、天明8(1788)年に再建されたもの。

今は完全に埋め立てられていますが、延宝期はしっかりと水がはられていました。
そして、塞き止められお堀となっています。

この百間堀は前田利家入城前に城主、正確には 一向一揆の御山御坊を攻め落とした佐久間盛政がこの百間堀を掘ったとも言われています。
正確なことはまだわからないようです。

石川門は一般的な枡形構造の城門と同様に、一の門(高麗門)、二の門(櫓門)、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門となっています。

最初の門(一の門)を入るといわゆる枡形虎口になっていて、右に90度曲がったところにもうひとつの門(二の門)があります。

一の門から入って正面の壁と、左手の壁にあたる部分です。
明らかに異なる積み方がなされています。

三ノ丸

橋詰門一の門(復元)

橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門です。

高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。

「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、二の門の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門でした。

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。

「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。

二の門をくぐれば二の丸。

二の丸から眺めた菱櫓と五十間櫓。
菱櫓は三層三階の建物で、金沢城一の高さを誇っていた。

本丸との間の空堀に架かる極楽橋と現存の三十間櫓の様子。

案内板によると「 二ノ丸から本丸への通路に架かる橋、金沢城内ではっきりした名称の付いている橋は珍しい。

その名称から金沢御堂時代の遺構であるとの伝承がある」とあります。
金沢御堂は戦国時代、一向一揆の拠点になった場所の1つで、寺院全体が城砦化していたとも云われています。

金沢御堂時代にも空堀のような防衛施設があり念仏を唱えながら橋を渡り極楽浄土を願っていたのかも知れません。

極楽橋の上から兼六園方向を撮影したもの。
右側が本丸方面であり、見事な石垣が積み上がっている。
見事な石垣が積み上がり、かなりの高低差を作り出している。

三十間長屋からはすぐに本丸に至るが、この景色から考えると、本丸まで攻め込むのは容易ではなさそうだ。

三十間長屋

本丸付段に安政5年(1858)に再建された長屋で、金沢城に現存する長屋建築としては唯一のものです。
宝暦の大火(1759)で焼失した後、100年近くたって再建された。

幅3間、長さ26.5間余りの2階建て多聞櫓で、鉛瓦葺の堅牢な構造が特徴的です。

「陸軍の破壊」、明治のやっつけ仕事、粗悪な改修一目瞭然

明治は城「受難」の時代だった。

戊辰(ぼしん)戦争で破壊された東北各藩の城以外にも、無事に残った各地の名城も悪しき旧体制のシンボルとして解体破壊されていった。

文化財として守る意識など皆無だった。

あの姫路城でさえ解体寸前だったが、今に残ったのは解体費用がかかりすぎるため手を出せなかったからだという。
 
陸軍が利用した金沢城は、明治4年の廃藩置県で新政府の兵部省所管となった。
6年には名古屋鎮台分営、8年に歩兵第七連隊となっていくが、兵舎として使える建物以外は次々撤去された。

金沢城公園の本丸と二の丸の間の石垣をくり抜いて造られたトンネル。

明治から昭和の初めにかけて、金沢城は兵部省、のちに陸軍省の所轄となりました。
このトンネルは、旧陸軍の弾薬庫通路として造られたもの。

本丸跡地に、その弾薬庫はあったそうですが、現在は残っていません。

トンネルは煉瓦積みで、荷車などを通すためか、結構大きい。
現地には簡単な説明が書かれた紙がトンネルの前に貼られているだけ。

このトンネル、石垣を崩してレンガを積み、また石垣を積みなおしたのだと思われます。
弾薬庫への往来ということで、直線ルートが欲しかったんでしょう。

鶴の丸休憩所からの眺め。

鶴の丸は三の丸と東の丸の間にある小さな曲輪。

前田利家の夫人、芳春院が白い鶴が舞い下りるのを見て鶴の丸と命名したという言い伝えが残っている。

江戸時代初期には加賀藩二代目藩主・前田利長が休憩用の御殿を建てたそうですが、大坂の役の際には、一向宗徒や百姓・町人をここに人質として収容したそうです。

石川門の内部。

秋です、すすきが風に揺れていました。

かつての「いもり堀」は、金沢城の南西側を囲む外堀で、明治40年(1907)、旧陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は、陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用されました。
 
江戸時代の堀は、幅が広いところで約40m、深さが10m以上あり、水を湛えていました。
斜面は土羽で、比較的緩やかな勾配で造られており、南東端には鯉喉櫓台の石垣がありました。

外周の南端、ここには城内随一の高石垣がある。

この4段の石垣!段々に積み上がっている石垣は美濃岩村城などでも見られるが、ここは一段一段がかなり高いのでとても迫力がある。
しかし石垣麓の説明板に衝撃の事実が。

なんとこの石垣は今の上3段分が繋がった高さ22m以上の高石垣だった。
しかし明治時代に何故か(堀を埋めるためか)削り取り、今の4段構成に改変してしまったとのこと。

壊してしまわず、ちゃんと4段に積みなおしてくれただけでも良かったと思うべきか。

本丸南面の4段高石垣の全景。
石垣の向こうの深い森の奥が本丸。

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喜春城 西日本の抑えとして築城された明石城


城の入り口に立つ中部幾次郎・・

慶応2年に現在の明石市 林に魚の卸や運搬をしていた父兼松の次男として生まれた。

明治37年に明石から下関に移り、日本初のエンジン付きの漁船団を組み大洋漁業(現マルハ)の前身となる林兼商店を創立した人です。

明石中学校(現県立明石高校)設立の経費の半額を寄付したり市水産会長を勤めるなど明石の発展に尽くした・・とあります。

戦後の食糧難を解決するためにGHQと掛け合い、捕鯨の再開になんとかこぎつけましたが、戦後初の捕鯨船団の出航を見送る事無く昭和21年に亡くなりました。

大手虎口を抜けると芝生公園の向こうに2基の立派な櫓が見える。

それぞれの方角を取って「右端・巽櫓(たつみやぐら)」「左端・坤櫓(ひつじさるやぐら)」と呼ばれる。
巽=辰巳=南東、坤=未申=南西。正面が北なので、右側が南東の巽櫓、左側が南西の坤櫓であることが分かる。

よく見ると90度お互いが違う方向を向けて建てられていることも分かる!

両櫓(三重櫓)を結ぶ白壁の長塀は復元。

中央の巨大な石垣は天守台。
本丸に天守台は築かれたが、天守は建てられなかった。

石段下の「三の丸」跡(現・武蔵の庭園)から「二の丸」跡へ通じる石段。

二ノ丸の南下の登り口、緩やかな石段を登る。
この石段の幅(微妙に広くて歩きにくい)は籠(かご)の幅に合わせてあるとのこと。

城址の手前にある日時計。中央部が兜の形をしている。
明石城とはあまり関係なく、明石市内を日本標準時子午線が通ることから設置されている模様。

JR明石駅ホームより見る明石城 

プラットホームからは、本丸の白壁の長塀と左右の坤櫓・巽櫓など、城の中心部がよく把握でき見学スポットの一つ。

これは明石城だけにある蓋で、デザインも明石城。

桜の名所100選の一つなので、綺麗な桜も描かれています。
電気のマンホール。

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子午線の町 明石城
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夕闇迫る高知城

早めに夕食を終え夕闇迫る高知城に向かう。

やはり、高知城探訪の入口は、城の正門である追手門からであろう。

この門は、慶長年間に創建され、1663年(寛文3)に崩壊したのを翌年に再建したものとのこと。

高知城では珍しいのだが、切石を積んだ石垣の桝形上に、南面して建てられた両脇戸付櫓門で、屋根は入母屋造の本瓦葺となっている。

天守閣と大手門(追手門)がそろって現存している城は珍しく、この城と弘前城、丸亀城の3城しかないが、追手門前から天守閣を望めるのはここしかなく、有名な撮影スポットにもなっている。

山内一豊像

この銅像は桂浜にある坂本龍馬の銅像などを手がけた銅像作家、本山白雲の手によるもので、一豊の祥月命日(しょうつきめいにち)にあたる1996年(平成8年)9月20日に再建除幕された。

銅像の本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32m、重さ3.6トン、台座5.08m、総高9.4mで、騎馬像としては、皇居前の楠木正成像を上回る、国内最大クラスです。

追手門から登城するための階段は、登りにくい。わざとそういう足幅に作られ、攻めるにのぼりにくく、上方から下りるには都合の良い足幅になっているとか。

少し酒の入った体にはこの登りはきつい。

1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名。

1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残した。

それを書いた石碑も銅像の右後方に立っている。

この銅像は、桂浜の坂本龍馬の銅像製作者と同じ本山白雲で、1924年(大正13)に建立されたのだが、戦時中に供出され、戦後、再建されたものとのこと。

像の題字は、再建当時の内閣総理大臣吉田茂の揮毫だ。
自由民権運動の発祥の地と言われる高知県を象徴している銅像だ。

杉の段から見た天守閣東面。

杉の段にある山内一豊の妻像。

二の丸手前の階段付近から見た天守閣北面。

道路には高知城をあしらったプレートが見られる。

マンホールのふたは、市章に「S(Sewerage下水道の意味)」の入ったマークの周りに県の鳥ヤイロチョウ、県の花ヤマモモ、「高知城」のデザインに「T-14」「合流」の文字。

翌朝、ホテルの部屋から天守を望む。

以前訪れた高知城の記事。
南海の名城、高知城

高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。 山の南を流れる鏡 … 続きを読む →

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