茶屋町辺り


昔、梅田近辺は田畑だった。
北向地蔵は明治26年に畑からでてきた、畑から出てきたお地蔵さんを北向地蔵として祀っていたが、昭和44年に阪急三番街を建設するときに、移設して祀り現在に至る。

人通りも多く、ちょいとお参りしていく日が跡を絶たない。

茶屋町は、大阪市北区、阪急梅田駅ホームの高架と新御堂筋に挟まれた一帯。

北で豊崎、東で鶴野町、南東の一点で中崎西、南で角田町、西で芝田と隣接する。

2008年(平成20年)末から翌年初頭にかけて発掘調査が行われ、その結果、1世紀ごろはこの辺りは大阪湾の干潟があり、淀川や大和川からの土砂が運ばれ、自然堤防が形成され、5世紀中頃にはこの辺りで人が活動をしていたことがわかっている。

町名は大坂と尼崎・西宮を結ぶ中国街道沿いに「鶴乃茶屋」「車乃茶屋」「萩乃茶屋」と呼ばれた茶屋があったことに由来する。


ビル街に沈む夕日はきれいです。

やがて街も淀川も赤く染めて陽は沈む。

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旧逢坂山隧道


旧逢坂山トンネルは、明治13年6月28日に完成した、日本人技術者だけで始めて造ったトンネルである。
全長664.8m、東海道線大津~京都間の旧線大津(現在の膳所)~大谷間にあって、大正10年7月31日まで使用されていた。

担当技師の國澤能長は、明治4年に見習技師となり、外国人について大阪~神戸間の線路建設に従事。明治11年、京都~大津間の工事で主として逢坂山トンネルを担当した。鉄道記念物に指定されている。

このトンネルは開業から130年以上経過しており、大変古いトンネルである。

確かに廃トンネルには違いはないのだが、路線の廃止後も活躍してきた。
廃止直後は生活通路として使用されてきた。

また、戦時中は住居を失った人が一時的に住みついたりもした。
そして現在トンネル内は京都大学による地震測定の研究が行われているようである。

さらに鉄道記念物として文化財にも指定されており、現在もなお生き続けるトンネルなのである。

扁額に刻まれた碑文は三條実美の揮毫による「楽成頼功」。
「落成」ではなく「楽成」となっているのは落盤に通じる「落」の文字を避けたからだと言われている。

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3箇所の蝉丸神社と蝉丸説話


蝉丸神社下社  滋賀県大津市逢坂1丁目15-5
 祭神---豊玉姫命(或いは、道反大神-チガヘシ)
 合祀---蝉丸

かなり老朽化が進んでいる。

以前の訪問記
琵琶の名手蝉丸
四の宮をすぎると、間もなく逢坂山へかかり、大谷の集落から、滋賀県に入る「関の清水 … 続きを読む →


逢坂の関の清水に影みえて今やひくらん望月の駒 紀貫之

「今やひくらん望月の駒、云々」は、八月十五日夜の日に、ここで信州の牧場から来た馬を、朝廷に引渡す行事があり、
満月にちなんで「望月の駒」と呼ばれた。・・・・・このことを詠んだ歌は多いが、中でも有名なのは紀貫之の作である。

『近江名所図会』という、江戸時代に書かれたガイドブックがある。
「蝉丸の社内にあれども、長明[無名抄]に、その時すでに水かれたるよし見えたれば」とある。
江戸時代以前に、すでに水は枯れていたらしい。

白洲正子の説
四の宮をすぎると、間もなく逢坂山へかかり、大谷の集落から、滋賀県に入る「関の清水」は、蝉丸神社(下社)の中にあるが、これは後に作られたもので、本物は清水町の人家の中にあったという。

『近江山河抄』より

蝉丸神社上社  滋賀県大津市逢坂1丁目
 祭神---猿田彦命
 合祀---蝉丸(逆髪とする説もある)

関蝉丸神社上社は、急斜面にある。。

何故、蝉丸神社が3カ所も。

東海道が通る逢坂峠の関の鎮守・道祖神として創建されたと考えられている。

上社と下社に分かれ、祭神は、上社が猿田彦命に琵琶の名手の蝉丸霊を合祀し、下社は豊玉姫命に蝉丸霊を合祀する。

社伝によれば、弘仁13年(822年)に小野岑守が旅人を守る神である猿田彦命と豊玉姫命を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのに始まるという。

貞観17年(876年)に従五位下を授かった近江国「坂神」がこれに相当する国史見在社と見られている。

平安時代中期の琵琶法師で歌人として知られた蝉丸が逢坂山に住んでいたことから、その死去後に彼も上社と下社に祀られるようになった。

天禄2年(971年)には円融天皇から下された綸旨により、以後歌舞音曲の神としても信仰されるようになった。

蝉丸神社は後から造られたため「分社」となっています。

目の前には、名神高速道路の高架橋が、国道一号線を横断するように架かっている。

近世に道が掘り下げられた事などから、関のあった場所は現在では定かでない。

しかし、逢坂2丁目の長安寺付近にあった関寺と逢坂関を関連付ける記述が更級日記や石山寺縁起に見られる事などから同寺の付近にあったと見られる。

なお、これとは別の滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇には「逢坂山関址」という碑が建てられている。

逢坂は、「合坂」(『日本書紀』)、「相坂」(『万葉集』)、「会坂」とも書かれた。
 
本来の「逢坂」の意味は、「あふさか」であり、「人が坂に出合う」の意という。
また、「二つの坂が出合う」場所として峠も意味した。

古墳時代-弥生時代はこの「人が坂に出会う」だった。

200年頃、14代・仲哀天皇没後、竹内宿禰は、忍熊王(おしくまおう)らの反乱を逢坂で鎮圧した。
この時、両軍勢が出会った坂が逢坂だったという。

その後、平安時代以降は、「人と人が出合う」意味に変わっていく。

この急な階段を上がったところが 蝉丸神社分社(蝉丸神社) 大津市大谷町
 祭神---蝉丸
 合祀---猿田彦命・豊玉姫命

ここはウナギのかねよで有名。
優雅な庭園を眺めながら堪能 日本一のうなぎ 「かねよ」
琵琶湖疏水の散策に出かけ、京都と滋賀の県境・逢坂山に店を構える明治5年創業の老舗 … 続きを読む →

蝉丸説話

小倉百人一首の中でも有名な蝉丸(せみまる)は、平安前期の歌人。
また、盲目でありながら、大変な琵琶の名人であったともいわれている。

しかしそれ以外となると、色々な逸話は残されているものの、その正確な人物像は定かではありません。
なぜなら蝉丸は、その本名を始め、血筋や生没年さえも不詳とされているからです。

諸説としては、第五九代天皇の宇多天皇の皇子である敦実親王に仕えた蔵人見習いであったとか、第六十代天皇の醍醐天皇の第四皇子であったなどというものもあります。
しかし、そのどれもに確実性はなく、推察の域を出ないそうです。

特に、「今昔物語集」の中に収録された蝉丸と源博雅に関する話は有名。
逢坂の関に庵を構えていた蝉丸を、当時、管弦の名人と評判であった源博雅が訪ね、三年がかりにしてやっと、琵琶による秘曲を蝉丸に伝授されたという話です。

また、逢坂の関に庵を構えていたという蝉丸は、逢坂の関の守護明神として祀られており、蝉丸自身が琵琶の名手であったことから、芸能や歌舞伎の祖神としても崇められています。

能楽の『蝉丸』では次のような話となる。

蝉丸は醍醐天皇の第四皇子であったが、生まれつきの盲であったため、逢坂の関に粗末な庵を与えられて捨てられる。

前世の報いのため、来世の幸せのために、従容と運命を受け入れる蝉丸。

そこへ一人の狂女がやってくる。
生まれつき髪の毛が逆立って櫛が通らない異形故に遠ざけられ狂乱した、蝉丸の姉宮である逆髪宮であった。

逆髪は琵琶の音色に惹かれて庵を訪ねると、そこには弟宮の蝉丸があった。
薄幸の姉弟はそこで互いの不運を嘆き、慰め合う。

しかし時が来て、逆髪宮は別れを告げて、いずこともなく去っていってしまう。

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関寺の牛塔


長安寺の前の名称は関寺。

関寺は、創建年代は不明であるが、逢坂の関の近くにあった大寺院である。
平安時代日本三大仏の一つ関寺大仏は特に有名である。

鎌倉時代時宗宗祖一遍上人が遊行し「おどり念仏」を奉納。
慶長の兵火に羅災の後、寺の名称を長安寺と改めた。

昔、長安寺のある一帯は「関寺」と呼ばれ、大寺院があった。

平安時代に復興工事が行なわれた際、資材の運搬に一頭の牛が見事な働きをした。
その牛は仏の化身と噂され、時の権力者である藤原道長まで拝みに来たという。

しかし、工事終了と共に牛は死に、霊牛の供養塔として作られたのが牛塔だという。

「これと匹敵するのは、逢坂山を越えた所にある、関寺の牛塔であろう。

石塔寺との間には、約三百年のへだたりがある。
ここはもはや大陸の残り香はなく、完全に日本のものに化している。

人工から再び自然に近づいたといえようか。
はっきりした形は失ったかわり、漠然とした大きさと、暖かみにあふれ、笠をのせたような印象をうける。

牛塔とか牛塚と呼ばれるのは、横川の恵心僧都が、関寺の再興をはり、工事のために牛を使役していた。

その牛が、迦葉菩薩の化身であるという噂が立ち、前関白道長や、頼通が、拝みに来るという騒ぎだったが、噂にたがわずその牛は、工事の終了とともに死んでしまった。

その供養のために建てたのが、この宝塔であるというが、俗に和泉式部とか、小野小町の塔とも呼ばれている。

「年々に牛に心をかけながらこそ越えね逢坂の関」と、式部が詠んだからで、小町の方は、謡曲の「関町小町」から出た伝説に違いない。

が、牛や美女では不似合いで、よほど名のある高貴な人か、もしかすると、恵心その人の供養塔だったかも知れない。
いずれにしても、こんな美しい石塔が、二つながら近江の地にあることは、良材に富んでいたのはもちろんだが、その裏にある石の信仰と伝統のたまものといえよう。」

白洲 正子のエッセイ 『かくれ里』より


境内には、元亀二年の織田信長の比叡山焼き討ちなどにより、比叡山山麓の坂本付近に埋もれていたものを、昭和三十五年に百体、境内に移し祀った「埋もれ百体地蔵」がある。

埋もれ百体地蔵の奥には、小野小町の供養塔がある。
謡曲の「関寺小町」が晩年の小野小町を歌っている縁で、置かれたのだろう。

小野小町といえば、平安時代の歌人で絶世の美女とされる。
彼女は、晩年を山科(京都市)の随心院のあたりで暮らしたといわれる。

大津から逢坂山を越えれば、山科である。

あらすじを少し紹介すると、僧侶が弟子たちを連れて、近江に住む和歌の上手いおばあさんに歌を教わりに行きます。

おばあさんと話をしているうちに、僧侶はこの人が、実は小野小町なのでは?と気づくという話です。
関寺小町は能の中でも最も難しい曲目だそうです。

小堂(本堂)の前にて。牛塔にちなんで、牛の置物が置かれている。

本堂の右側に建つ庫裏の横から石段が始まり 参道となる。

園城寺の境内に続く山道を登る。
途中には西国三十三カ所めぐりの石仏が処々に立っている。

崩れかけの石積みもある。
山道は落ち葉が積もり、人の訪れを感じさせない。

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陶芸の森


信楽焼はもちろん、世界の陶芸に出会うことができる陶器のテーマパーク。

六古窯の一つ信楽焼の産地として有名な信楽の市街地(標高300m)を見下ろす丘陵(標高350m)に位置する面積40haの都市公園で、自然の地形と森林を生かした公園内には、陶芸専門の美術館、展示館、研修館を分散して設置し、遊歩道を巡らせている。

野外展示場「星の広場」のほか、園内のいたるところに当施設で焼成された陶芸作品が野外展示されている。






「空想の中にいる人」


「駆け抜けるピエロ」

「ゆびさきにかかることがら」

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信楽焼 宗陶苑


宗陶苑は江戸時代に築窯された日本最大規模の登り窯で現在でも信楽焼を作り続けている窯元。

信楽焼展示場のほか、茶陶中心の展示場や茶室も備えています。陶芸教室では手びねりなどの陶芸体験も楽しめます。



狸さんだけではなくて、犬とか、他の動物もたくさんいます。

キスしているようだね。


般若もあります。





登り窯の煙突。

展示場はとてつもなく広く、退屈しません。
寺務所に声をかけると登り窯等ほぼ無制限に撮影可能。

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日本最大規模の登り窯


宗陶苑の登り窯は昔乍らの11室より成る巨大登り窯。
今もなお使い続けている唯一の窯元。

手造りによる製造工程や登り窯での”しごと”等の見学可。

のぼり窯とは山の斜面を利用し、細長い部屋を数室連続し、次第々に室内の容積を大きくし余熱を利用しながら焚き上げていく形状の窯のことを言う。

宗陶苑の登り窯は日本最大級のもので、現在もフル活動している。

全十一室からなり、長さ30m、巾15m、高さ3.5m。
その巨大窯をいまもなお年に数回焼き上げている。

表面に釉薬を使用する場合は製品の均一という点でこの炉窯が優れている。

交通が発達するまでは、消費地に近い、製品の原料となる粘土、燃料、水が豊富な場所が立地に選ばれた 。

かおり風景100選

日本六古窯の一つに数えられる信楽焼は、742年に聖武天皇が紫香楽(現在の信楽町)に遷都された際に瓦が焼かれたのが原点とも言われている。

それを今に伝える「登り窯・穴窯」から立ちのぼる煙のかおりは、その歴史と文化を彷彿とさせる。

町内には、その歴史に触れることのできる県立陶芸の森、信楽伝統産業会館などの施設がある。

焼成温度は一般に最高で1300℃前後に保たれ、約60時間焼くのが普通。

温度管理は職人の勘によって行われるが、かなりの練達を要する。

具体的には一番下の大口と各焼成室に設けられた小口からの投薪を使い分け、焼成段階に分けて微妙に温度調整を施す。

この作業が丸2昼夜続くことになる。水分を飛ばすための予備段階である焙りを終えた後の本焙りでは大口に薪を投入し、ゆっくりと窯の温度を上げていくが、目標とする温度である1300℃に達するには約1日ほどかかる。

この際に、のぞき窓から見ると焼き物は熱せられて透明感のあるオレンジ色ないし白に近い黄色になる。

焼成の際は、周囲に黒煙がもうもうと立ち込め、壮観。

とりわけ穴窯は燃焼ガス(炎)が窯内を直進し、連房式登窯とは違い、窯内で対流が無い為、火のあたり加減と灰のかかり具合によって作者も予期しない模様や色に焼きあがるため、味があり、同じものは決して二つとしてできないといわれている。

登り窯を使って焼かれた陶器独特の有機的かつ微妙な仕上がり具合は「景色」と表現されることもある。
燃料にはマツが主に使われる。

窯全体が煙突の役目をし、次・次の部屋で余熱利用していく事により燃料と時間を節約し、多量に生産できる所に利点がありましたが、現在では炎のなせる不揃い、高等技術を要する上に重労働、回転率の悪さ、小まわりがきかない等、一種品目の大量生産には不向きな為、ほとんど使用されなくなっている。

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鶏足寺


鶏足寺への小径、途中の沼沢地。


亀山の茶畑

己高庵より鶏足寺(旧飯福寺)への道。
ここには北国には珍しくお茶畑が広がるが、平安時代からの伝統があるという

鶏足寺は、山岳信仰の霊地であった己高山(こだかみやま、923m)の山中に所在した。

寺は昭和8年(1933年)に焼失し、その後は事実上廃寺となっているが、伝来した仏像のみ山下の収蔵庫に安置され、地元住民によって管理されている。

旧飯福寺は紅葉の名所として名高く、秋には多くの観光客でにぎわう。

秋の紅葉めぐり 鶏足寺(旧飯福寺)
鶏足寺跡とされる寺院跡は己高山の山頂近くにある。 また、山麓の古橋地区から徒歩1 … 続きを読む →


鶏足寺は己高山の中心寺院であった観音寺の別院であったもので、伝承によれば天平7年(735年)、行基によって開基。

いったん荒廃したものを延暦18年(799年)最澄が再興したという。
文永6年(1269年)下野国・薬師寺の慈猛が、それまで天台・真言宗、兼帯であったのを真言宗に改宗した。

奈良・興福寺に属する寺院を書き上げた『興福寺官務牒疏』という資料(嘉吉元年・1441年)には、己高山の五箇寺として法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺の名があり、観音寺の別院として鶏足寺、飯福寺、円満寺が挙げられている。

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石道寺界隈


石道寺(しゃくどうじ)は、滋賀県長浜市にある真言宗豊山派の寺院。
山号は己高山。 作家井上靖が、小説「星と祭」の中で当寺の観音像の姿を村の若い娘に例えたことで知られる。

主人公である会社社長、架山が、前妻との間にできた17歳の娘を琵琶湖で亡くし、その悲しみの心の変化を描写した小説です。

遺体が見つからないことから、きちんとした形で娘の葬儀すらできないことに悶々としながらも何年も過ぎていくのですが、その間に琵琶湖の十一面観音のことを知ります。

一度、誘われて十一面観音を拝観しに行ったところ感銘を受け、その後も他の十一面観音を訪ねるようになります。

石道寺のよこから鶏足寺(旧飯福寺)に行く石段があります。

旧木之本町の東方にある己高山(こだかみやま、923m)の山頂および西麓一帯には、古代から中世にかけて多くの寺院が建立され、天台系山岳信仰の聖地であった。

石道寺も己高山関連寺院の一つで、もとは現在地よりさらに1kmほど東の山中にあったが、大正3年(1914年)本堂を現在地に改築し、石道観音堂を合併し新石道寺が誕生した。寺は地区住民により管理されている。

與志漏神社

景行天皇の御代 武内宿称勅命により、北陸巡行の折この地にさしかゝり、荒廃殊の外著しく、この原因は大蛇生棲し人畜に危害を及ぼすと聞き、その子波多八代之宿称を招き須佐の男命の神霊を御剣に勧請しこれを討ち給う、これによって難を他郷に避けていた郷人帰農しいたく宿称の徳として、須佐之男命の神霊と併せ祀るに至る。

聖武天皇の御字、行基この地に来錫し、この大神と習合するに己高山に鶏足寺を創建し、当地の傍らに社坊を建立した。

降って桓武天皇の御宇、最澄が鶏足寺の荒廃を再興し「十所権現」と称して鶏足等の鎮守としたが、当社もその内に加えられた。
「世代山戸岩寺」も現存し、天平時代の諸佛を遺し重文となっている。

浅井長政も神田を寄進その奥方お市の方の寄進と伝える屏風一双あり、昭和38年神社境内地に校倉式の収蔵庫を建設して天平佛、鎌倉佛を収蔵した。
明治9年村社に同18年郷社に列し、同42年神饌幣帛料供進神社に指定された。延喜式内社。

滋賀県神社庁

旧岩戸寺の本堂。

後ろには興志漏神社の拝殿と本殿があって、己高閣と世代閣は神社の境内にあるのが分かります。

大きな樹にできた祠に、別の木が生えてきています。
台風で、こちらがわの幹が折れてできた祠だそうです。

山麓の古橋地区の与志漏神社(よしろじんじゃ)境内には薬師堂、大日堂のほか、己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)と称する2棟の収蔵庫が建ち、鶏足寺や関連寺院に伝わった仏像などはこれらの収蔵庫にて収蔵・公開されている(指定文化財の仏像の所有者名義は「鶏足寺」となっている)。

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眼の地蔵菩薩 木之本地蔵院


伝承によれば、天武天皇の時代(7世紀後半)、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりという。

その後、現在の木之本に移転する経緯については2つの異なる伝承がある。

一つの伝承は奈良・薬師寺の僧を開山とするものである。
これによると、天武天皇4年(675年)、地蔵像をより縁深き地に安置するため聖武天皇の勅命を受け、薬師寺の祚蓮上人が北国街道を下った。

休憩のため地蔵像を柳の下に降ろしたところ、そこから動かなくなったため、この地を安置場所と定め、柳本山金光善寺と号して一寺を建立した。

後にこの地は、「柳の本(やなぎのもと)」と言われ、さらに「木之本(きのもと)」と言われるようになったという。

今一つの伝承は、文武天皇が北陸の白山参詣の途上、木之本の地で紫の雲を見て、この地が霊地であると知り、難波の金光寺を木之本に移したとするものである。

以上の草創伝承は各地に多くある霊験譚の域を出ないものであり、どこまで史実を反映したものであるかは定かでない。

境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされている。

眼の地蔵菩薩として信仰を集めている。

木之本地蔵院は、眼の仏さまであり、片目をつむった身代わり蛙たちが住んでいます。

お寺に住む蛙は、多くの人々が眼の病気で困っているのを見て、「すべての人々の大切な眼がお地蔵さまのご加護をいただけますように」と、自らが片方の目をつむることによって身代わりの願をかけたと言い伝えられています。

北国街道

木之本宿には昭和の初めまで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していましたが、現在では埋め立てられ、商家の家並みに昔の情景を残しています。

旧本陣 竹内五左衛門家

京都、江戸、北陸を結ぶ宿場の本陣跡。

藩政時代には、大名などが、絶えず宿泊した宿札や記録が数多く残っている。

また、将軍の息女、溶姫一行が滞在したときは、三千人分の寝具などを、助郷から集めたと記されている。

先々代の当主は、明治二十六年全国で日本薬剤師第一号の免状を取得されている。

軒下柱の馬繋ぎ金具に宿場の面影を残す。(現地案内板)

木之本地蔵院の斜め向かいの、富田八郎家〈富田酒造〉。

天文2年(1533)、当地に移り住み、以来、酒屋を営む傍ら庄屋を務めたと言うお家。

創業470年の歴史を誇る酒蔵。
ここのお酒のラベルは、当家に逗留した北大路魯山人によって書かれたものだという。

また、ここは明治天皇の北陸巡幸の際、岩倉具視が宿泊をしたところだ。

町の花こぶしと、町を流れる3つの清流高時川、杉野川、余呉川をデザインしたマンホール。

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