千本釈迦堂


山号は瑞応山(ずいおうざん)。
千本釈迦堂と通称される。
おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。

夫を助けた妻・おかめの内助の功の話が有名なお寺。
境内のおかめさん像の前に、阿亀桜という立派なしだれ桜が咲きます。

地面すれすれまで枝を伸ばし、細やかで可憐な花をいっぱいに咲かせる姿は優雅。

おかめの物語

釈迦堂内の多数の面、人形の一つ。

本堂を造営する際、大工の棟梁であった高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。

それを見た妻のおかめが斗組を用いたらどうかとひと言アドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。

しかしおかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。

高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。
その後、大工の信仰を得るようになり今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。

度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福のおかめ信仰につながっている。

布袋尊は契此(かいし)という実在した僧で、弥勒菩薩の化身とされているらしい。

なぜ布袋尊は弥勒菩薩の化身だと言われているのか。

布袋尊は一旦死んだが、後に生き返ったという伝説が、56億7000万年後にあらわれるとされる弥勒菩薩とイメージが重ねられて、布袋は弥勒菩薩の化身だとされるようになったと、されているようです 。

〈千体地蔵塔〉

本堂の右手、境内の一番奥にあります。
おそらく明治の廃仏毀釈で廃棄されたお地蔵さんを集めたものかな?

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上七軒


五花街とよばれ、上七軒・祇園甲部・祇園東・先斗町・宮川町とともに現在京都に5つある花街のうちもっとも歴史ある花街である上七軒。

室町時代に北野天満宮の再建の際に残った資材を使って7軒の茶店を建てた。

これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極める。

上七軒は戦前まではお茶屋50軒、芸妓、舞妓あわせて60名で娼妓も3名いたが第二次世界大戦でお茶屋の大半が転廃業し、1945年ごろに再開。

そのころはお茶屋35軒、芸妓50名ぐらい(舞妓は襟替え等で含まれていない)いたが西陣織産業の衰退により減少し、芸妓数も20名以下に落ち込んで、歌舞会所属の舞踊学校で習っている優秀な生徒に対し組合が北野をどりへの出演を要請していた時期もあった。

2013年2月、上七軒通電線地中化工事が完成、常夜灯を設置した石畳風舗装の道路に生まれ変わった。

京都は路地の多い街だが上七軒も例にたがわず路地が多い。

黒塀をバックに梅が・・・

鍾馗さんは祇園、上七軒、宮川町といった花街にたくさんいます。

京都市内の民家(京町家)など近畿 – 中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10 – 20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。

これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる。

鍾馗の縁起については諸説あるが、もともとは中国の唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布している。

ある時、唐の6代皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり床に伏せた。
玄宗は高熱のなかで夢を見る。

宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。
玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。

武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。

だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。
夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。

感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった。

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西陣散策


高級絹織物の西陣織発祥の地であり、織物産業が集中する地域である。

おおむねの範囲は、西限が七本松通、南限が一条通、東限が小川通、北限が上京区・北区の区境。

「西陣」の名は、応仁の乱(1467年-1477年)の際に西軍総大将である山名宗全らが堀川よりも西のこの土地に陣を構えたことに由来する。

応仁の乱後には各地に離散していた織物職人が京都に戻り、西陣と呼ばれるようになったこの地で織物作りを再開した。

このようなゲストハウスもある。

公園の片隅に転がっている染釜。

京都で染色といえば、糸から染める先染めとよばれる工程と友禅などのように白生地に織ったものを染める後染めの二種にわかれる。

西陣織の特色は先染めで糸染屋は、織屋から渡された撚り糸を精練し、色見本にあわせながら染めあげてゆく。

熱湯に染料をとかし、かせ糸を竹棒にかけて、手釣を使いながら除々に染めあげてゆく手染と、大きな蒸気釜で一度にたくさん染める機械染色があり、いづれも西陣織の生命といわれる色をつくりだす重要な部分である。

1989年(平成元年)にオープンした「織成館」は、「西陣織屋建」を活かしたミュージアムとして開設された。

この建物は1936年(昭和11年)に西陣の帯地製造業「渡文」の初代当主・渡邉文七氏の「店兼住まい」として建てられたもの。

水屋(炊事場/おくどさん=竈(かまど)など)を取り除き、1階と2階の一部も改装したが、梁や柱、狭い間口に奥行きの長い棟、明かり取りの天窓など、西陣の伝統的な家屋「織屋建(おりやだち)の特長をそのまま残しています。

鍾馗さんは祇園、上七軒、宮川町といった花街にたくさんいます。

長艸繍巧房 貴了庵

京都の伝統工芸「京繍(きょうぬい)」の作家である長艸敏明、純恵の作品を展示。

「紫織庵」は元々「京のじゅばん&町家の美術館」として平成11年4月から20年まで、公開されている大正初期の京都市指定有形文化財の町家でした。

しかし「紫織庵」は8月27日を持って閉館して、平成30年10月1日から「ギャラリー 紫織庵」として西陣の織工場跡を再利用した新ギャラリーをオープンした。

ととや

女将さん手作りのちりめん山椒のお店。

雨宝院の南門越しに眺める瓦土塀と、真っ赤な提灯のコントラストが美しく、京都らしい和の雰囲気が感じられる、知る人ぞ知る、ひそかに人気の撮影スポット。

本隆寺の境内の周りは、瓦土塀が続く細い路地となっており、情緒たっぷり。

土塀(どべい)は、粘土質の土や泥に、石灰とフノリに加え、菜種油、水、藁などの天然素材で作られた伝統的な塀ですが、ここ大徳寺を始め、いくつかの寺に「瓦土塀」と呼ばれる、廃材を利用し、瓦を何層にも積み重ねた土塀があります。

瓦土塀は「瓦積み式土塀 」 の略で、文字通り、瓦が何層にも積み重なっている土塀で、瓦を挟み込む理由は耐久性もさることながら、意匠性(デザイン性)を得る為と思われます。

こちら大徳寺の瓦土塀、斬新なデザインで洒落ています。

大徳寺塔頭 興臨院 特別公開
臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭、通常非公開ですが、春と秋に特別公開されています … 続きを読む →


今日のお昼は鳥岩楼(とりいわろう)、超人気で行列のできる店、昼は親子丼のみ。

鳥を専門に扱っていた初代が祇園で創業。
鳥のあらを有効に使いたいと始めた鳥料理の店は、やがて水だきのおいしさで知られるように。

昭和20年に西陣に移転、庭を囲む町家の座敷は鍋料理にふさわしいしっとりした風情を漂わせる。
井戸水を使って新鮮なあらを6~7時間煮込んで作ったスープと、ゆっくりと下ゆでした鳥。

それを包金製の鍋でゆっくりと炊けば、生姜のきいたスープの香りが立ち上り食欲をくすぐる。

野菜に加えて、湯葉や粟麩など京の食材も鍋の具に。

鍋が一番の自慢だが、新鮮な鳥を気軽に味わい人には、昼のみの名代親子丼もある。

遊墨漫画家、南久美子さんの「遊墨画工房」。

江戸期の職人長屋を今に残す「三上家」の路地。

図子の中央あたりから北に15メートルほど伸びる三上家路地で、突きあたりが三上家。
 
三上家は紋屋町に現存するただ1軒の紋屋だそうです。

かつて天皇の衣装をつくった御寮織物司。

三上家17代当主が大家さん。

昔はこの長屋に職人達を住まわせていましたが、今は職人に代わって、写真家、陶芸家など芸術家達の工房やはちみつ専門店が店子(たなこ)として入っています。

以前、テレビドラマ「赤かぶ検事奮戦記(中村梅雀)」で路地と、一軒のお宅が登場していました!

長屋の一角に蜂蜜専門店があります。

店内には、オーソドックスなものから希少なものまで約40種類のはちみつがズラリ。
試食をしながら商品を選べます。

三上家路地のように「路地」と呼ばれる細い道路は、京都の市内に約1万3000本もあるといわれています。

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小雨の石塀小路


ねねの道とその1本西の下河原通を東西につなぐ、石畳と石塀が美しい小路。

京都らしい風情漂う石塀小路。
路に敷き詰められた石畳の一部は京都市電の敷石を移設したそうです。

雨の日の石塀小路はことに風情がある。

昼間の「石塀小路」も非常に風情はありますが、「石塀小路」の良さがさらに出る時間帯としては、夕刻以降!日没も深まると各料亭や旅館の表玄関に明かりが灯り、薄暗い木塀の辻子がさらに情緒あふれる空間と化します。

春の夜に輝く花と灯りの路を歩く 京都・東山花灯路2013
いつもと違う京都を見つけに東山へ、東京・大阪・神戸のイルミネーションの豪華さの対極にある京文化なのかな。 … 続きを読む →


石塀小路の土地は、当初は圓徳院のの所有地でしたが、明治時代になって税金を納める必要が出てきたため、圓徳院庭園の一部を取り崩して、通り抜けの道を造りました。

路は曲がりくねって、袋小路のように思えますが、高台寺通り(ねねの道)へと通り抜けることが出来ます。(逆方向の散策もOK)

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ちん電あびこ道商店街


阪堺線 あびこ道から府道30号線をつなぐ商店街。

「我孫子」から随分と離れたこの場所がなぜ・・・・

理由は簡単、ここが紀州街道から我孫子観音へ向かう参詣道だったから。

安立商店街を出た所から阪堺線を渡り、あびこ道商店街を抜け遠里小野から山之内を通って我孫子観音まで街道があった。

「我孫子の観音様」に続く道だから「我孫子道」と言う訳。

阪堺電車のお膝元である「あびこ道商店街」に大阪市の意向もあり愛称が付けられた。

その名も「ちん電あびこ道商店街」。

すぐ近くに、より規模の大きい商店街の「安立商店街」があるし・・・・

あびこ道商店街を抜けると清水丘商店街。

この商店街には「サンサンロード清水丘」という愛称が付いている。

商店街の一角に出世地蔵尊。

ちなみに「あびこ」という地名は、地下鉄御堂筋線あびこ駅、JR阪和線我孫子町駅、南海高野線我孫子前駅などの駅名になってもなっています。

また、大阪府道28号大阪高石線の一部 (阿倍野区・東住吉区・住吉区) には「あびこ筋」という名前が付けられています。

この町名 (地名) の由来は、依羅吾彦 (よさみあびこ) が居住していたからといわれています。

依羅氏は百済 (くだら) 系渡来人の氏族で、住吉区庭井あたりに移住しその地を大依羅 (おおよさみ) 郷としました。

庭井には大依羅神社があり、依羅吾彦はこの神社の祭人の子孫にあたります。
「吾=ア」は「我=朝鮮語のア」から出たもので、「孫子=孫の子」は「隔子=彦」となり、その結果「吾彦=我孫子」となっていったといいます。

また、「あびこ」とは「網曳子=網を曳く人=漁師」からできたという説もあります。

これは、太古の昔、住吉の付近は海に面していて漁を営んでいたからです。
「依羅我孫子 (よさみあびこ)」とは「よさみ=寄網」「あびこ=網曳」という説もあります。

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九条下町ぶらりウォーク


キララ九条商店街

明治25年(1892)頃から続く、約600メートル、約200店舗の商 店街。

元は九条新道と呼ばれる大通りでしたが、戦前は芝居小 屋、寄席小屋、映画館が10軒余りもあって、近くには松島遊郭など もあったので大いに賑わい、「西の心斎橋」とまで称された。

今もあちこちに芝居の看板が・・・

下町市場の看板のかかる路地、こちらも面白そう。

九條東小学校の石碑「暴風水害記念誌」

この学校(西成郡九条村)は明治8(1875)に設置され、戦後、学制改革により大阪市立九条東小学校と改称(昭和22年・1947)後、140年以上のときを経てきた。

昭和9(1934年)には室戸台風により、九条東小学校は校舎は被災し、校舎の壁には、兒童らを抱き抱えた先生の姿と台風の模様を記した銅板がはられている。

説明版によると、室戸岬(高知県)より風速60mの突風台風は、3mほどの高潮と伴い、午前8時に大阪市を襲い、これまでにない惨禍をもたらしたという。

市内の家屋、工場、店舗は倒壊・流失、公営物の損害等があり、死者990名、重軽症者16908名にのぼる。
なかでも小学校の被害は甚だしく、校舎の全壊28、半壊71、大波77、それに殉職教員7名、惨死児童269名に及んだ。

九條一帯は大きな難は免れるも、屋根瓦は木の葉のごとく飛び散り、濁流が押し寄せ、全戸床上浸水した。

交通・通信・電燈は途絶し、各学校に殺到し、避難者は100名に達し、前代未聞の大災に遭たが、西区はひとり死傷者も出ずに復興の途についた。

これは、区内の関係者各位の応急の措置によるもので、『禍を転じて福と為し』で、今や新興の気概をもち、第一、第二、第五各小学校の復興も目前にあると記されている。

九條教育会は、各種団体と協議し、事蹟を碑に刻みこれからの戒めの備えとするために記す、昭和13(1928)年3月の刻印がある。

ナインモール九条商店街

約300メートル、約100店舗の商店街。

大阪ドーム型 のシュークリームを売る店があるなど、近鉄バファローズ が大阪ドームを本拠地としてから商店街全体でバファロー ズを応援しており、別名「バファロード」という。

ここも元は九条新道でした。

近くには大阪のミニシアターとし て「第七藝術劇場」(淀川区)と双璧をなす「シネ・ヌーヴ ォ」があり、大阪の通好みな映画ファンの期待に応えています。

大阪市電創業の地碑

明治36年(1903)、九条新道の花園橋を起点に築港埠頭まで の約5キロメートルに大阪市電が開通。

公営による電気鉄道は 日本初の快挙でした。

翌年(1904)には、これまた日本初の試 みで「2階付電車」が走り、これは路面電車の上に長椅子が並ぶ テント屋根付きのデッキを備えたもので、夏は「納涼電車」、冬 は「魚釣り電車」と呼ばれて一躍、大阪名物となりました。

この 「2階付電車」は市電創業50周年記念のさいに模擬電車が作ら れ、現在、緑木検車場(住之江区)に保存されています。

その後 も大阪市電は拡張し続け、最盛期には総延長約110キロメート ルまで路線が拡大、市電としては東京都電に次ぐ規模に達しま した。

大阪市民に愛された市電でしたが、戦後は高速道路主体、 自動車偏重の都市計画が進む中、昭和44年(1969)にその栄 光の歴史を終えました。

ちなみに大阪市電2601形電車は現在 でも広島電鉄(900形電車)として現役で活躍中。

天満宮行宮が松島の地に移るまでは、戎島と呼ばれていた川口の現・本田小学校あたりにありました。

天神祭の舟渡御が木 津川まで来ていた頃の様子が錦絵に残されていますが、これ は戎島時代の天満宮行宮です。

京町堀川下流の地に天満宮の 御旅所が定められたのは1640年代後半頃とされ、それまで 鉾流神事にて御旅所を決めていたのがこれを機に御旅所は常設されることとなりました。(以後、鉾流神事は約300年中止さ れました。)

常設から約30年後に御旅所は戎島に移転されました。

それから約200年後、明治時代に入り、外国人居留地が川 口にできたことから御旅所は移転を余儀なくされ、明治4年 (1871)に松島の現在地へ移転。

戦前は松島からお 迎え船が盛大に出ていましたが、地下水汲み上げによる地盤 沈下で橋が下がり、舟の航行ができなくなって戦後は中止された。

京セラドーム大阪

平成9年(1997)に大阪ガス工場跡地に完成。
東京ドーム、福 岡ドームに次ぐ日本3番目のドーム球場です。

プロ野球のオリ ックス・バファローズの本拠地で、阪神タイガースも主催公式 戦の一部を開催している。

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安治川河底トンネル

かつて安治川上流には、マストの高い船の航行に邪魔にならないよ うに、ロクロを利用して旋回させる可動橋の安治川橋(俗に磁石橋) が架かっていました。

しかし、明治18年(1885)の淀川大洪水によっ て安治川橋に多くの橋の残骸が絡まって危険と判断されて爆破され ました。

その後も大阪中央卸売市場などへの大型船の航行が多いの で橋は架けられず、河底にトンネルが掘られ、昭和19年(1944)に 完成しました。

交差点を曲がるとT字路正面に建物が、これが 安治川隧道入口です。

地下通路、幅の狭い地下鉄連絡通路という感じの通路。

トンネルとなると暗いイメージが浮かんできますが、全長約80mで幅は2.4メートル、川底なので夏涼しく冬暖かく、地上とは違って過ごしやすいのもいい所。

南側のエレベーターに到着、右側が階段になります。

南側から見たエレベータ内の様子。

南側から対岸の北側建物の裏を撮影、裏はこんな造りになっています。
右は阪神なんば線。

完成当時は、車両も通行できました「安治川隧道」。1963年(昭38年)に国道43号線に安治川大橋が開通したことにより、人と自転車専用のトンネルとなりました。

出入口の建物には、外からみると3基のエレベーターの入口があります。

そのうち2基が自動車専用エレベーター、1977年まで使用さていた自動車用エレベータ入口。
完全に閉じられています。

巨大な表示灯が目立ちます。その上の看板も表面が剥がれ黒くなり判読困難です。

自動車が通行していた頃のトンネル内部。
建設コンサルタンツ協会のホームページより借用。

安治川隧道により廃止された「源兵衛渡船」の名は最寄りの交差点名で残っています。

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千歳の渡しで大正内港へ


2003年に完成した千歳橋は2代目である。
大正時代から昭和時代にかけて、初代の千歳橋が架けられていた。

初代千歳橋は1922年に架けられ、鶴町と対岸の新千歳町を結んでいた。

しかし大正内港の建設工事のため、初代千歳橋は1957年に撤去された。
なお、当時対岸だった新千歳町は、町の大半が内港の中に沈んでいる。

初代千歳橋撤去の代替として千歳渡船場が開設され、歩行者や自転車の移動に供されている。

2003年に開通した千歳橋は海面からの高さが28メートルあり、歩行者や自転車の利用には不便なことから、渡船は橋開通後も存続されている。

この渡しは大阪港復興事業の一つとして大正区の内港化工事を行った際、既設の千歳橋が撤去され、その代わりの施設として設けられた。

昭和30年7月にそれまでの民営から港湾局の所管とし(同32年6月直営化)、同39年建設局に移管された。

大正区鶴町三丁目と同区北恩加島二丁目(岸壁間371メートル)間を運航している。

平成29年度現在1日平均約578人が利用している。

水辺に囲まれた大正区は、大正初期まで三軒家と難波島を除く大部分がのどかな農村地帯で交通機関の発達は遅く、井路を行き来する小船と木津川や尻無川の「渡し」が、重要な交通機関でした。

その後、各地での橋の完成に伴い、市民の足である「渡し」から自動車やバスへと移っていきましたが、今も変ることなく区民の大切な足として活躍しており、また大正区の風物詩となっています。

大正内港

大正期に入って、大阪築港工事の一環として川幅が拡張され岩崎運河、大正運河、千歳運河の掘削や埋立地造成が進んだため造船、ガス、金属、機械の工場が河岸に進出し、臨海工業地区となった。

1952年に上流は埋め立てられ、岩崎運河のみで木津川と連絡することとなったが、下流左岸の大正内港は、国内貿易埠頭と鉄鋼埠頭を設置する大阪港の物流基地である。

1940年代前半まで、大正区の土地の大半は海抜0メートル以下にあった為、昭和9年(1934年)9月21日には室戸台風が襲来し、大正区のほとんどの土地が冠水、当区は死者119人(行方不明者を含む)、被災者123,000人、建物の浸水等被害22,535戸にも及ぶ甚大な被害を受けた[1]。

また当時は、付近に貯木場が集中していたので、貯木場から流されてくる丸太により、道路が塞がれ、建物が壊されるなど、多くの被害を受けた。

その後も、昭和20年(1945年)の大阪大空襲により区の大半を焼失し、昭和25年(1950年)のジェーン台風による被害(大正区の83%が約1.9メートルの高さまで浸水、被災者は区民の96%に当たる57,000人で、行方不明者を含めて死者は13人、建物被害は10,654戸。)など、大正区民はたびたび起こる高潮や戦災に悩まされていた。

そのため、大阪港復興計画の一部として、大阪港に注ぐ河川の拡幅や大正内港化が昭和22年(1947年)に決定された。

掘り起こした土砂で大正区を全面的に盛り土し、区画整理する工事が同年に開始され、昭和50年(1975年)には完了した。

この工事の際に、大正運河に連絡していた貯木場や材木市場は閉鎖され、住之江区平林に移された。
この頃、港区では同じくして弁天埠頭が完成した。

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船町の渡しで鶴町へ


船町渡船場は、大正区鶴町1丁目と同区船町1丁目を結ぶ(岸壁間75メートル)。

平成29年度現在、1日平均約196人が利用している。
昭和20年代後半から30年代にかけて、川幅が狭いことを利用して対岸まで船を連ね、その上に板を敷いて人や自転車が通行していた。

対岸の鶴町、距離が短いため、他の渡船がS字に航行し対岸に向うのに対しU字に航行する。

そのため、乗客は左舷から乗り込み左舷から降りることになる。

船町の渡しのある木津川運河は大阪市大正区と住之江区の境界を成す下流の木津川から分かれ、大正区南恩加島・鶴町と工場地帯の船町間を西へ流れる。

その途中、北から大正内港が合流し、大阪港に流れる

大正区内には鉄道がほとんど整備されておらず、鉄道駅は大正駅が北端に所在するのみである。

区内の公共交通はおおむね大阪シティバスが担っている。

南部の鶴町地区(鶴町四丁目停留所)と大正駅(大正橋停留所)との間は早朝から深夜まで比較的運行頻度が高く、昼間でもあまり待たずに乗れる程度の本数を確保している。

大阪市内には8ヶ 所の渡船場があり、 そのうちの7か所 が大正区にある。

渡し船は江戸時 代から始まってい ますが、いまも大切 な役割をはたして います。

※渡船場は その他に千歳・甚兵 衛・船町・千本松・木 津川とあります。 (利用者数:1日約 5800人)。

鶴町地域は、市の築港計画(明治 30 年~昭和 3 年)による埋め立て によって造成され、大正 8 年 3 月、「鶴町」「鶴浜通」「福町」と いう新しい町として誕生した。

鶴町の町名は聖武天皇の「難波宮 なにわみや」の近くの光景を「田辺福麻呂( た な べ さ き ま ろ)」が詠んだ「潮干れば葦辺に騒ぐ白鶴(百鶴とも)の妻よぶ声は宮もとどろに」(万葉集巻 6 -1064)から「鶴」を、また福町は、この詠者の「福」からとられたもの。

神明神社は内平野町の神明宮の遷座したもの。

内平野町へは元和二年(1616)に、山城洛西の西院から勧請された。

『摂津志』には熊野王子社の第一王子である窪津王子祠とされているが、その場合には神明社勧請以前に祠が残っていたと言うこと。

鶴町へは、大正十三年(1924)八月に遷座した。
埋め立て地にも鎮守は必要だからだろう。

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東洋のマンチェスター 船町工場群


明治16年(1883)、三軒家に大阪紡績会社(現・東洋紡績)が設立されると、大正区は日本一の紡績工業都市となり、大阪は「東洋のマンチェスター」とも呼ばれた。

近代化の波は船町・鶴町にも押し寄せ、日本初の公共飛行場や造船所、自動車工場などが設立。
阪神重工業地帯の一翼を担った。


大正12年に初期の民間飛行場である木津川尻飛行場が開設された場所です。

木津川尻飛行場は水上機から陸上機に変わる時代の飛行場で、昭和4年にはスチュワーデスの元祖であるエアガール1号が誕生しています。

高松行の飛行機でエアガールは着物を着ており、運賃は40円でした。

昭和14年には発着数がキャパを超え大阪伊丹飛行場へ移転され当飛行場は閉鎖されました。

中山製鋼所転炉工場は解体されてしまい島一つ迫力に欠けるのはやむを得ないところ。

中山製鋼所船町工場は昭和初期に操業を開始した歴史ある工場で官営八幡製鐵所(現新日鐵住金)、日本鋼管(現JFEスチール)に続く日本三番目の高炉(2002年に休止)を有していました。

敷地面積は全体で約45万m2。
そのうち転炉工場は6万m2を占めていました。

ちなみに船町工場は映画「ブラック・レイン」(1989年アメリカ 監督:リドリー・スコット)とともに語られることが多いですが「ロケ地」と呼ぶのはちょっと過大評価かも。

映画序盤、船町工場を中心とした木津川沿いの工場群が空から映しだされます。

極東アジアの混沌都市をイメージさせる効果的な映像ですが時間にしたらわずか数秒。

しかも夕日をバックにしたシルエットなので意識して見ないと大阪人でもまず気が付かないと思います。

ずどーんと長いパイプが圧巻。このまっすぐな道が木津川飛行場滑走路の跡か。



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