秋の円教寺


書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる。

もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。

山号の由来はこの「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する。

湯屋橋: 湯屋橋摩耶殿の前面にある石橋で橋脚や、床版、欄干などが石造、宝珠が銅製となっている。

元和6年(1620)、姫路藩主となった本多忠政は円教寺に帰依し、大破していた湯屋橋を修築しています。

湯屋橋には「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」の銘が刻まれています。

護法石(弁慶のお手玉石) – 摩尼殿の手前にある直径約1 mの2つの石で、不動明王の化身である乙天(おつてん)と毘沙門天の化身である若天(わかてん)の2童子が降り立ったと伝えられる。

また、弁慶がお手玉にしたともいわれる。

武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされており、机などゆかりの品も伝えられ公開されている。
ただし史実である確証はない。

小さなお地蔵が沢山並んでいてかわいい。

突然視界に現れ、圧倒される摩尼殿。

円教寺は、本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。
西国三十三所第27番。

現住職は第140世。
宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。

西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。

京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。

秋空に映える摩尼殿。

摩尼殿から見下ろす、葉月茶屋は山内唯一の食堂。

樹間のうっそうとした道を三つの堂へ向かう。

左より常行堂・食堂・大講堂。

この大講堂・食堂・常行堂がコの字型に並び、三つのお堂を総称して「三之堂(みつのどう)」。

見事に掃き清められた、コの字の真中に当たる空間部分は大きな伽藍3つに囲まれ、何か世界が違うような…不思議な静寂を生み出しています。

そしてそのシーンのロケ地がこの圓教寺の常行堂。最初、圓教寺はロケ地の予定になかったそうですが、姫路城を視察に来たスタッフが時間が余ったためこの圓教寺を訪れ、エドワード・ズウィック監督が一目ぼれしてここでの撮影を決めたそうです。

護法堂

開山堂(重要文化財) – 宝形造(方形造)、本瓦葺、桁行5間、梁間6間。

開山の性空を祀る。寺記によれば、性空が没した寛弘4年(1007年)、性空の高弟・延照が創建したとするが、現在の堂は江戸時代初期、寛文11年(1671年)に再建されたものである。

軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名。

奥の院から摩尼殿へ向かう、樹齢700年の大杉などもあり、深い樹林を進む。

ロープウエイ三条駅へ向かう。

山上駅から仁王門へ至る参道は「西国巡礼の道」と称され、左右に、西国三十三所の各札所本尊を表した銅像が設置されている(1989年完成)。仁王門を通り、寿量院、圓教寺会館、十妙院を過ぎると、参道は「権現坂」と称する下りの階段になり、下りきったところが摩尼殿の縁下である。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

「真田丸」が置かれた三光神社


反正天皇の時代の創建と伝えられる。

創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える。

社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の西にある円珠庵(鎌八幡)の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。

かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。

拝殿

鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。

かつては大坂城の出丸である「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。

境内には大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)に描かれた真田信繁を元にした像がある。

千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁が造ったものではなく、真田丸を攻めた前田利常軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。

大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれる。

真田幸村雌伏の地九度山
真田幸村雌伏の地九度山を訪ねた。 講談本の人気とこの時期のドラマの影響で盛り上が … 続きを読む →

真田幸村雌伏の地九度山を訪ねた。
講談本の人気とこの時期のドラマの影響で盛り上がっているが、実態としては生活感の一部も感じられるものはない。

大阪は「陸軍発祥の地」と呼ばれるが、1869年(明治2年)明治新政府の兵部大輔となった大村益次郎が、陸軍の中央機関を大阪に置く方針を示し、大坂城と周辺に諸機関を創設したためである。

その一環で明治4年(1881年)1月に太政官弁官から兵部省に「大阪府下真田山ノ内ヲ兵隊の埋葬地トナス」(太政類典)と初の国立墓地の設置も認められた。

真田山陸軍墓地は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町にある大日本帝国陸軍の墓地。

日本で最初[1]かつ最大の陸軍墓地で、太平洋戦争終戦当時の規模を保つ点でも歴史的な価値がある(大阪市史編纂所)。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

大坂城の三の丸に位置する玉造稲荷神社


社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に天皇によって創建され、当時は比売社と称していた。

蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地、玉作岡に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。

古代、付近一帯は「玉作岡」と呼ばれ、勾玉などをつくる玉作部が居住しており、それが現在の玉造の名の起こりとなった。

社地は元々は急崖に面していたため、少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、東横堀川の浚渫で出た土砂を町人らが運び込む「砂持」が行われた。

豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。
江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。

豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。

戦国時代の天正4年(1576年)の戦火で荒廃してしまっていたが、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿や高殿(舞台)が再建された。

しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で社殿は再び焼失した。

画像は秀頼像。

大阪城内にある玉造稲荷神社は、「大坂の陣」の最終決戦(夏の陣)で戦場となり、焼き払われたため、当時の建物は残っていません。

唯一、秀頼が奉納した鳥居(1603年に制作)があるのですが、阪神・淡路大震災で倒壊。
神社の敷地の隅に、鳥居の上部が移設されています。

胞衣塚大明神 – 祭神:豊臣秀頼の胞衣。

当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、その後は豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていた。

1945年(昭和20年)、戦災により焼失し、寺山町(現 上町一丁目)、東阪町(現 玉造一丁目)に遷座していた。

1983年(昭和58年)、大坂築城400年を記念して元の鎮座地に遷座された。
子供の夜泣きに霊験ありとされる。

千利休(せんのりきゅう)も愛用した名水
 
豊臣時代の茶人・千利休は玉造・祢宜町(ねぎまち)に屋敷を構えた。

神社の南西である。この一帯は玉造清水と呼ばれる良質の水が得られ、利休が茶の湯に愛用した。
清水谷の地名は今も天王寺区に残っている。

当神社でも利休が生駒山を眺め茶会を催したと伝わり、利休ゆかりの地・玉造として、昭和52年(一九七七)に大阪青年会議所の音頭で「千利休居士顕彰碑」が建立された。

玉造に屋敷を構えた武家・町人

前田利家・前田幸長・宇喜多秀家・島津家久・鍋島勝茂・明石守重・・・(岡山町)
細川忠興・・・(越中町)、浅野長政・小出吉英・古田重然(織部)・千利休・・・(玉造町)
増田長盛・・・(仁右衛門町)、浅野幸長・浅野長晟・・・(紀伊国町)
前波半入(または青木半入)・・・(半入町)、小出吉親・・・(元伊勢町)
曽呂利新左衛門・・・(八尾町)

「近松門左衛門」の文学碑

仰向く顔に当る日を
神かざしの玉造
稲荷の宮居ここもまた
伊勢の内外の内平野町
「ひじりめん卯月の紅葉」より

あつき日に貫く汗の玉造
稲荷の宮に迷ふとの
闇は理(ことわり)御仏も
衆生のための親なれば
「曽根崎心中」より

小野小町歌碑

古代、上町台地の東側は海水の浸入する江湾地帯であった。
生駒金剛連山を見渡す景勝の地であり、平安時代に至っては大和川が流れ、その玉造江を小町が通った際詠んだ歌である。

湊入りの玉つくり江に こぐ舟の音こそたてね 君を恋ふれど  「新勅撰集」より

関連記事

清涼寺
嵯峨釈迦堂の通称で知られる浄土宗知恩院派の古刹。光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇 … 続きを読む →

1980年(昭和55年)に行われた大坂城三の丸跡の学術調査で、発掘現場から豊臣秀吉の三男の豊臣秀頼公のものと思われる頭蓋骨が出土しました。

大阪城
今日は玉造口からの登城を目指します。 玉造口定番屋敷跡、江戸幕府にとって大阪は江 … 続きを読む →

秀頼、淀殿ら自刃の地

前年の大坂冬の陣の講和で堀が埋められてしまった大阪城は、野戦での奮戦も虚しく、慶長20年(1615年)5月8日に落城する。

淀殿ゆかりの 淀古城跡
淀古城は、徳川幕府が築城した淀城の東北、500m程のところにあります。 江戸時代 … 続きを読む →

「史跡淀古城跡 戊辰の役砲弾貫通跡」の石標、「此所は戦国時代の始細川管領家が築城し薬師堂 淀古城址 与一岩成左通淀君の居城となった淀古城の址である 

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

細川ガラシャ終焉の地


明治27年(1894)に「聖アグネス聖堂」として建てられたが、空襲で焼失。

昭和38年(1963)に「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」に生まれ変わった。

敷地が細川大名家の屋敷跡であったことから、大聖堂前広場には細川ガラシャとキリシタン大名・高山右近の石像がある。

教会の内部はきれいなステンドグラス。

壁面には、故堂本印象氏による画「最後の日のガラシャ夫人」が掲げられている。

細川忠興と結婚後、高山右近からカトリックの教えについて聞かされ心魅かれ、イエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸で密かに洗礼を受けます。

洗礼名はガラシャ。

関ヶ原の戦の直前、夫・忠興が徳川方につき上杉討伐のため不在となった隙に、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶します。

その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲まれると、ガラシャは家老の小笠原秀清に槍で部屋の外から胸を貫かせて死にました(キリスト教では自殺は大罪なので)。

38歳で死を選択した彼女の辞世の句は胸に響きます。

散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ

ここは、細川越中守の屋敷跡と伝えられている場所で、屋敷の台所があったとされるところに「越中井 細川忠興婦人秀林院 殉節之遺址」という石標が立っています。

青刻昆布は、昆布の加工品の原点ともいわれるものだそうです。

“刻み昆布”とは、原料の昆布を煮てから細かく糸状に刻み、乾燥した食品。野菜と煮たり、煮物の具にする。

大阪で昆布の加工品が盛んに製造されるようになったのは、享保年間(1720年前後)から,北前船が北海道へ米や酒を売りに行き,戻り船に大量の昆布などを買い付けてきたため、その良質の昆布を加工する産業が発達したためとされる。

関連記事

悲運の武将 明智光秀終焉の地
地下鉄東西線醍醐駅から、徒歩で15分程でしょうか。 枯れ寂びた藪の中、明智薮”が … 続きを読む →

明智光秀終焉の地と伝わる京都・小栗栖の「明智藪」

明智光秀が再興に尽くした 西教寺
光秀は、本能寺の変で主君織田信長を討ち、非道な逆賊のイメージが強い。 だが、領地 … 続きを読む →

小説「細川ガラシャ夫人」は女流作家三浦綾子が昭和48年1月から2年5ケ月に亘って執筆。

初めての歴史小説。

この小説の中に「鉦の音」「縁」の中に光秀が坂本城主になってから、西教寺の不断念仏の鉦の鳴る本堂へ、妻煕子、末娘玉子(細川ガラシャ夫人)、左馬助光春(家臣)、郎党を連れての参詣の様子が描かれている。

楓の庭に深紅に染まった散紅葉が美しい高桐院
大徳寺・塔頭である高桐院は知る人ぞ知る紅葉名所。 紅葉に包まれる参道や本堂から見 … 続きを読む →

本堂庭園には忠興とガラシャ夫人の墓塔となっている春日灯籠がある。
この燈籠は忠興が生前こよなく愛し,自ら墓標に指定したといわれる。

また、細川家墓地から藪を挟んだ裏手には非公開の墓地があり、忠興とガラシャの嫡男で追放された細川忠隆こと長岡休無や、出雲阿国、名古屋山三郎、森鴎外の著作「興津弥五右衛門の遺書」で有名な興津弥五右衛門などの墓がある。

ガラシャゆかりの勝竜寺城
勝竜寺城は細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城として有名。 天正6年(1578年)8 … 続きを読む →

16歳で嫁いできた玉が丹後宮津にに移るまでの三年間を過ごした短い幸せの時間だった。
玉20歳の天正10年(1682)父光秀が主君信長を倒した「本能寺の変」で、丹後三戸野(みとの)に幽閉される。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

太陽公園 城のエリア


「城のエリア」は2009年(平成21年)4月19日にオープン。

2006年(平成18年)から建造され始めたこの城はドイツ南部にある有名なノイシュヴァンシュタイン城と非常に良く似ている。

世界で一番美しいと謳われる、ドイツにあるノイシュバンシュタイン城を3分の2スケールで再現。

なお、白鳥城へのアクセスは専用のモノレール(嘉穂製作所製のスロープカー)を利用するか徒歩で山を登ることになる。

モノレール始発駅になる山麓にはレストラン、土産物店などを備えたウェルカムハウス「スワン」が在る。

お城の中はトリックアートが展示のメインになっている。

少し怪奇な雰囲気。

お城の壁面にはかわいい少女像。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

太陽公園 石のエリア


パリのシャンゼリゼ通りにある「エトワール凱旋門」、奥には巨石群が並ぶ。

公園は社会福祉法人愛光社会福祉事業協会(太陽福祉グループ)によって運営され、また同施設は障害者の雇用の場にもなっており、入場料等の収入は障害者への給与等に充てられている。

園内には三光園、愛光園などの福祉施設が併設されている。

有名なイースター島のモアイ像、なにか違和感を感じますが、目を見開いているからだと気付くまでに少し時間がかかります

アステカのチャクモール。

ベルギーの首都ブリュッセル市街中心部、グランブスのブリュッセル市庁舎にある、放尿する少年のブロンズ像。

世界各地に小便小僧はあるが、これが本家と言われる。

本場中国の兵馬俑博物館において作成した兵馬俑のレプリカを、なんと1,000体展示!

発掘当初の情景、上土を2メートルほど取り除くと、ゴザを敷き詰めた痕跡と丸太が現れ、丸太を取り除くと胸から腰まで土に埋まって壊れた兵馬俑が出現。

当初、兵馬俑は全て美しい極彩色で仕上げられていましたが、発掘され空気に触れると数分または数時間で色が薄れてしまいました。

鶏足寺、木の葉が色づき始めています。

おびただしい数の五百羅漢。

今日は紫禁城の庭で弁当にしました、涼しい風が吹き渡り心地よい。

双頭寺、境内から見上げると青空に突き出た二つの塔が見えます。

万里の長城の入り口。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

長浜城


1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。

秀吉の天守台南側には新たに犬山城と丸岡城の天守をモデルとした三層の模擬天守が建てられ、中は資料館となっている。

雪に埋もれた長浜城
寒波襲来で長浜地域は大雪、長浜城も雪に埋もれており簡単には近づけない。 尚雪は降 … 続きを読む →


小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。

その後宝厳寺に対しては秀吉の遺命として大阪城の唐門などが移築されている。

天守よりの眺望、正面の小さな島が沖島、その左が安土。

右端の奥に小さく見えるのが竹生島。

以前の訪問竹生島
竹生島は葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大き … 続きを読む →


城の一部が文政近江地震で水没琵琶湖に水没し、長浜城遺跡となっている(琵琶湖湖底遺跡)。

長浜城の井戸とされてる「太閤井」と呼ばれる井戸が湖岸にあり石碑が立てれているが、琵琶湖の水位が高いと湖面に石碑だけが顔をのぞかせている。

天正3・4年頃完成し入城。

湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。

城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。

そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。
秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。

厳冬の琵琶湖岸
ラッセルをこなしやっと湖岸にたどり着く。 まだ降雪は続いている。 この時期湖岸を … 続きを読む →

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

奈良散策


吉城園を後にして二月堂へ向かう。

この辺りは巨木の古びた切り株が多い、歴史を感じさせる語り部だ

ノムラモミジの赤が青空に映える。

大仏池、いつもなら多くの鹿がたむろしているのだが今年はやはりおかしい。

木立越しに大仏殿の鴟尾を望む。

二月堂の裏参道を下ってくると大仏殿に面した北池に至る。

司馬遼太郎もお気に入りという二月堂裏参道

写真のように、古瓦を挟んだ質素な土塀というのが何とも風情があります。

あの司馬遼太郎氏もこの界隈を愛し、紀行文を残しています。

今日は二月堂北の無料休憩所でお弁当にした。

お水取りの松明を描いた絵が飾られていた。

東大寺修二会(お水取り)上堂の松明を見る
修二会のシンボルのような行事、二月堂の舞台で火のついた松明を振り回す「お松明」。 … 続きを読む →

春先取り 火と水が織りなす荘厳の世界 お水送り
天平勝宝 4年(752)インドの渡来僧・実忠が二月堂の建立の時、修二会を催して全 … 続きを読む →

遠敷川に松明の火を映して、三千人ほどの長い行列が続く、荘厳な雰囲気。


二月堂の舞台からの眺望、生駒が小さく見えます。

絶景かな東大寺二月堂から望む悠久の夜景
二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火に … 続きを読む →

遠くで雨が降っているような感じです。

すこしズームしてみます、見事に雲から水の柱が落ちているような風景です。

大きな香炉を…餓鬼達が、下で 必死に 支えております。

東大寺の鎮守手向山八幡宮~奈良
手向山(たむけやま)八幡宮は東大寺八幡宮ともいい、奈良時代聖武天皇が大仏の造営を … 続きを読む →

創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の際に東大寺から独立した。

かつての東照宮が納められている空間である「神楽所」の建物本体は、神門などの周辺の建物と比較するとひときわ古めかしい風情を漂わせており、半ば「手つかず」の雰囲気とも言えるような状況になっています。

夕方になると薄暗くなった空間にわずかな西日が差し込む風景が驚くほど美しく感じられ、数百年前の空間に降り立ったような気分にさせてくれます。


春日大社の砂ずりの藤の参道、幾多の善男善女が行きかい、通路も古色を帯びる。

奈良公園の夕焼け
冬の空、鉛色の雲がかかる。 荒池からの興福寺五重塔。 落ちようとする陽と鉛色の空 … 続きを読む →

飛火野の夕焼けの始まり、皆それぞれに夕景を楽しむ。

ならまちでコーヒータイム、明り取りの天窓から差し込む光がきれいだった。

興福寺五重塔のよき撮影ポイント – 猿沢池。

興福寺の西にあまり知られていない三重塔がある。

しかし、その知名度の低さというのは、裏返せば三重塔が貴重な「穴場スポット」であるということにもつながります。

奈良時代に建立された興福寺の多くのお堂が完全に焼け落ちてしまった治承4年(1180年)の平重衡による「南都焼討」の被害を受けた後、この三重塔は迅速に再建され、その後は災害や戦災、また廃仏毀釈のうねりなどを乗り越え、現在までほぼ再建時の姿のままで残される貴重な存在となっています。

その他のお堂が再建が遅れたり、また再度荒廃したりして失われることも多かった中で、この三重塔の存在が、現在の興福寺の建築物の中では「北円堂」と並ぶ最古の建築物となっているのです。

興福寺 五重塔夕景
鶴福院町から望む五重塔は「ならまち八景」のひとつ。 既に陽は西へ傾いている、パン … 続きを読む →

三重塔、こちらも国宝なのだが見逃されがちではないだろうか、南円堂から見ているときは空も真っ赤だったが遅かりし。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

吉城園


鹿の居場所、どうもいつもとは違っているような感じがする。

コロナの影響で人出が減り、鹿の出没する場所も変わってきたのではないか。

吉城園があるのは奈良県庁の東部、歴史ある奈良のお屋敷町といった土塀や白壁が多く残る一角。

県庁の東北側にある登大路町という交差点から東へ入った地点に入り口があります。

池の庭 – 江戸時代からの自然の地形、起伏、曲線を巧みに利用し、西に建つ旧正法院家住宅と一体となるよう造られている。

蹲かな、それにしても大きい。

吉城園は、「興福寺古絵図」によると同寺の子院の摩尼珠院があったところとされています。

明治に民間の所有となり大正8年(1919年)に現在の建物と庭園が作られました。

企業の迎賓施設の時代を経て、昭和の終わりから奈良県が所有し庭園を公開しています。

苔の庭 – 全面が杉苔に覆われた庭園で、茅葺屋根の離れ茶室と一体となり閑静なたたずまいを見せている。

地下に飛火野と同系の地下水脈が流れていると言われ、杉苔の生育に適した土地となっている。

切妻屋根が三つ(二つの向こうにもう一つ見えます)並んだ珍しい茶室です。

斑入りツワブキ。

斑入りや八重咲き、丁字咲き(花芯が発達してアネモネ咲きになる品種)などの園芸品種が栽培されてきました。

「離れ茶室」の南側にある石灯籠と手水鉢。

鉄鉢型の手水鉢は苔で覆われ趣がある。

竹で造られた水を流す樋は筧と呼ぶ。

手水鉢の右手にある石は湯桶石(手を清めるために一時的に茶室で使う湯桶を置く石)、手水鉢の左手にある石は手燭石(夜の茶会で使う手燭という明かりを一時的に置く石)がある。

手水鉢とこれらの石をあわせて蹲踞と呼ぶ。



礎石のようなものも使われています。

日本庭園の魅力は「苔」と「砂利」と思っている。
曲線美のグリーンとシルバーが見事に調和。


茶室の東側は杉苔でおおわれたお庭です。

離れ茶室内杉戸絵、羅俘山の扁額。



観光客の数もそれほど多くないため静かな写真撮影などには適した空間にもなっています。

秋には「苔の庭」の周囲のモミジが色付き、美しいコントラストも楽しめます。

観光客で溢れる東大寺や奈良公園と違い静寂な世界。

2022年に高級ホテルの開業が予定されており、さらに整備される可能性もあり今後の変化が愉しみな庭園でもある。
(当初2019年開業であったが、2022年に延期されました。)

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

長浜鉄道スクエア


1882年(明治15年)に北陸線の始発駅として建設された初代の長浜駅。
現存する駅舎としては日本最古のもので、第1回の鉄道記念物に指定されています。

写真右は「旧長浜駅29号分岐ポイント」、1882年(明治15年)の長浜駅開業から約80年間使われた、現存する日本最古のポイントです。

旧北陸本線の柳ケ瀬トンネル東口(滋賀県長浜市余呉町)にあった、初代内閣総理大臣・伊藤博文による『萬世永頼(ばんせいえいらい)』と書かれた石額。

この鉄道が世のために働いてくれることをいつまでも長く頼りにするという意味で、明治の有名人たちの鉄道にかける期待と情熱が伝わってくる思いがする。

日本初の鉄道開通は、よく知られているように東京(新橋)―横浜間で、それからわずか10年後の1882年(明治15年)に、長浜―敦賀間が開業します。

長浜―敦賀間と大津―京都間に鉄道が開通すると、その間を結ぶ鉄道が敷設されるまで、長浜―大津間を船で結ぶ湖上交通「鉄道連絡船」が就航しました。

1989年(明治22年)に長浜―大津間が鉄道で結ばれるまで、わずか7年あまりの活躍でしたが、雄大な琵琶湖の景色を楽しむことのできる船旅でした。

写真は、当時の一等二等待合室の様子。

英国人技師が設計した洋風2階建ての、文明開化を象徴する近代遺産で、施設内は駅長室や待合室など当時の面影をそのまま残しています。

長浜鉄道スクエアの「北陸線電化記念館」には、ED70形交流電気機関車とD51形蒸気機関車の2台が並んで展示されています。

このうちED70形交流電気機関車は、日本で最初の営業用60ヘルツの交流電気機関車で、交流の電気機関車であることを表す赤色に塗られ、合計で19両製造されました。

ED70形交流電気機関車の隣に展示されているD51形蒸気機関車は“デゴイチ”の愛称で親しまれ、同形式の機関車では日本最多の1115両も製造されました。

このD51形蒸気機関車 793号機は1942年(昭和17年)に製造され、東北・東海道・中央・北陸の各線で27年あまり活躍したのち、1970年(昭和45年)に引退しました。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!