光と影~レンブラント光線


昨日の日暮れ薄明光線が見られた。

「薄明光線」のほか、別名が多数ある。
気象現象としては「薄明光線」、その他業種や地域環境によって様々な呼び名がある。

光芒とも呼ぶ。

天使の梯子(てんしのはしご、angel’s ladder)
天使の階段(angel’s stairs, angel’s stairway)
ゴッドレイ(God Ray)
ヤコブの梯子(Jacob’s ladder)
レンブラント光線

17世紀のオランダの画家、レンブラントが宗教的神々しさ、荘厳さを出すために好んでこの光線を描いたので、「レンブラント光線」とも呼ばれる。

晩年の開高健は、しばしばテレビなどで好んで「レンブラント光線」という言葉を口にした。

宮沢賢治はこの現象を「光のパイプオルガン」と表現している。

かつて見た日本各地の浅日夕日
旅行の途次好んで朝日夕日を撮った。

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安藤忠雄の世界 なにわ橋駅


2009年(平成21年)10月1日 – グッドデザイン賞と「メセナアワード2009 文化庁長官賞」を受賞。

駅出入口は、中之島公園内に位置するため、中之島線の他の新駅とは違った構造となっており、建築家の安藤忠雄が設計している。

改札口付近は高い天井が特徴。
また、壁面は不燃性木材とガラスで構成され、これは中之島線の各駅に共通する。

ホームの壁面は駅の上に建つ重要文化財・大阪市中央公会堂をイメージしたレンガ調となっており、中之島の「過去」を表現している。

空調用の熱源として土佐堀川の水をくみ上げ熱交換して川に戻す方法がとられ、太陽光を光ファイバーや光ダクトでコンコースへ導くなど省エネを図っている。

「水に浮かぶ島」のように、階段を上り下りすると水中から浮上したり、水中に潜水したりする感覚を覚える印象的な出入口です。

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安藤忠雄の世界 こども本の森


こども本の森 中之島は中之島公園内の大阪市立東洋陶磁美術館や中央公会堂に隣接。延床面積は約800平方メートルで、1階から3階までの3フロアで構成している。

新型コロナウイルスの感染症の拡大防止のため、開館時期は未定としている。


中央シートをかぶっているのは「青春のシンボル」として安藤忠雄さんがデザインしたオブジェ「青いりんご」で、兵庫県立美術館にあるものと同じだそうです。

安藤さんは、近代米国の詩人サミュエル・ウルマンが70代で作った「青春の詩」からオブジェを着想。

詩は「青春とは人生のある期間ではない。
心のありようなのだ」「希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる」などとつづられ、安藤さんは「目指すは甘く実った赤リンゴではない。

未熟で酸っぱくとも明日への希望へ満ち溢れた青りんごの精神」との言葉を寄せている。

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住吉大社


外出規制は解除されたけど、住吉大社は5月31日まで閉鎖中。

住吉大社の手水舎の水口は神使の兎像、次のような説明が付けられている。

「(住吉大社と兎) 兎(卯)は当社の御鎮座(創建)が神功皇后摂政十一年(211)辛卯(かのとう)年の卯月の卯日である御縁により奉納されたものです」

水面の照り返しを映しきれいです。

厩舎の軒先、朝の光が降り注ぐ。

角鳥居の脇に早咲きのアジサイが咲いていた。

境内のあちこちに卯の花が咲いています。
「住吉大社」は卯の年・卯の月・卯の日に鎮座したとされる。

今年は卯花苑の公開は中止された。

卯の花の咲く頃
住吉大社卯の花苑が公開中。 住吉大社にとって卯の花は特別、鎮座日が、神功皇后摂政 … 続きを読む →

住吉大社にとって卯の花は特別、鎮座日が、神功皇后摂政11年の卯年の卯月の卯日と伝えられている、「卯の葉神事」にはかかせない花となっている。

古式床しく 卯之葉神事 住吉大社
住吉っさんがこの地に鎮座したのが、神功皇后摂政11年(211)の卯年の卯月の卯日 … 続きを読む →

卯之葉神事は13時から第一本宮と五所御前で卯の葉を使った玉串を捧げての祭典が行われた後、14時からは石舞台にて舞楽が奉納されます。

住吉公園の心字池の桜の葉、池の水面を映してきれいです。

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緑の散策 慶沢園~茶臼山


緑が爽やか、慶沢園は今日から再開園。

池越しに美術館を望む。

緑がとても鮮やかです。

透かした葉っぱもきれいです。

元は住友家の茶臼山本邸庭園として、1918年(大正7年)に完成。

1908年(明治41年)に木津聿斎の設計、小川治兵衛の作庭により造園が開始されて以来、完成までに10年を費やしている。

大小3つの島が浮かぶ池の周囲の林間を回遊し鑑賞する様式(林泉回遊式)で、全国から名石・名木を集めた広大な庭園となっている。

命名は伏見宮貞愛親王。

池越しにハルカスを望む。

カモが仲良く遊ぶ。

今回通天閣は新型コロナ「大阪モデル」到達レベルをライトアップ色で周知。

天王寺公園の北東部に立つ茶臼山は、大坂冬の陣では一帯が徳川家康の本陣となり、大坂夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」の舞台となったことでよく知られています。

茶臼山から通天閣を望む。

茶臼山の樹間からハルカスを望む。

2020年現在、日本で最も高いビルであり、日本初のスーパートール(高層ビル・都市居住協議会の基準による300m以上の超高層建築物)でもある。

茶臼山には、5世紀ごろの前方後円形古墳という説と、和気清麻呂(わけのきよまろ)が上町台地を横断する堀川を掘った名残が河底池であり、その際、掘り出した土を積み上げたものが茶臼山だという説があります。

通称を含め全国に200以上あるという。
かつて戦で縁起を担ぐ武将に好まれ陣が張られた場所が多い。

大阪市立美術館(本館)は閉館知友、5/26(火)より再開とか。

旧黒田藩(福岡藩)蔵屋敷の表門は、江戸時代中期の蔵屋敷の遺構をもつ数少ないもののひとつで、現在の中之島三井ビル付近にあった。

昭和8年(1933)、同ビル建設に際し三井社から大阪市に寄贈、現在は天王寺公園内、大阪市立美術館南側に保存されている(大阪府有形文化財)

天王寺動物園は休園中。

テンシバては家族で憩う人たちが見られます。
OSAKAをかたどったモニュメントは関西初。

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播磨塚と小町塚

小町塚・播磨塚、両塚は、もともと別個のもので、現在地(阿倍野区王子町4丁目)に近い畑の中にありましたが、1929(昭和4年)、道路建設に伴いこの地に移りました。

播磨塚は南北朝時代、播磨の武将赤 松氏が、住吉の合戦で戦死した将兵 の遺骨を納めて塚を築き、冥福を祈 ったと伝えられている。

小町塚は小 野小町の塚であると伝えられるが不 明。謡曲「卒都婆小町」に因んだもの とも考えられる。

「小町塚」は、古書「芦分船」には、小野小町の塚であると説明しているが、小野小町がこの地で死んだという記録はなく、小野小町の美貌や才能にあやかりたいとの念願から、信仰などの目的のため造られたものと思われます。(説明看板などより)

能「卒都婆小町」

高野山の僧が供をつれて阿倍野の松原に来かかると、朽木に腰かけて休んでいる乞食の老婆がいた。

見れば朽木と見えたは尊い卒都婆。

僧たちがとがめると老婆は一歩もひかず応酬。
宗教問答となり老婆が勝利を収める。

老婆は小野小町の成れの果てであった。
突然、小町に深草少将の霊が憑き、彼女は狂乱状態になって いく・・・・・

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はねず踊り 小野小町ゆかりの 隨心院
ちょうどはねず(うすべに色)の梅が咲くころ、小野小町を偲ぶ土地の童唄と踊りが、隨 … 続きを読む →

普通のお話では少将は百夜を前に死んでしまうのが、はねず踊りでは99日目の雪の日に少将が代役を立てたのを小町は知ってしまい,愛想を尽かして小野の里の子供達と楽しく余生を過ごすという話になっている。
悲しいお話が楽しい話に変わっていて,踊りもかわいい。

小野小町ゆかりの寺 退耕庵
貞和2年(1346年)に東福寺第43世・性海霊見(しょうかいれいけん)によって創 … 続きを読む →

伝説では多くの男心を苦しめた小町が、己の罪業を償うためこの地蔵菩薩像を作ったとされ、良縁を結び悪縁を絶つといわれ信仰を集めています。

関寺の牛塔
長安寺の前の名称は関寺。 関寺は、創建年代は不明であるが、逢坂の関の近くにあった … 続きを読む →

その供養のために建てたのが、この宝塔であるというが、俗に和泉式部とか、小野小町の塔とも呼ばれている。
「年々に牛に心をかけながらこそ越えね逢坂の関」と、式部が詠んだからで、小町の方は、謡曲の「関町小町」から出た伝説に違いない。

ライバルを救った小町の慈悲心「草子洗小町」
小町零落説の背景には、あまたの貴公子を虜にした小町に対しての男性諸氏のひがみ根性 … 続きを読む →

神や仏と謳われた小町の功徳は、謡曲「草子洗小町」に描かれている。
「小町と歌合せで勝てないと思った『六歌仙』大友黒主は前日に歌を盗み聞きする。

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松虫塚


昔、このあたりは見渡す限りの原野で、秋には虫の声が満ち、特に松虫 (今の鈴虫)の澄んだ音色が美しく、名所として知られていました。

古書『芦分船』によると、後鳥羽上皇(1180~1239)が寵愛した白拍子の松虫、鈴虫姉妹が隠れ住んだといった伝説などが残されています。

後鳥羽上皇に仕えた松虫、鈴虫の二人の官女が法然の念仏に発心し、これを聞いて激怒した上皇によって法然が流罪になった後、都を追われた松虫がこの地 に庵を結び隠棲したという。

二人の親友が月の光さわやかな夜麗しい松虫の音をめでながら道遙するうち虫の音に聞きほれた一人が草むらに分け入ったまま草のしとねに伏して死んでいたので残った友が泣く泣くここに埋葬したという。
  
「古今集」松虫の音に友を偲び

秋の野に人まつ虫の声すなりわれかとゆきていざとむらわん

能「松虫」

津の国阿倍野で酒を売る市人の下に、毎日のように友達と連 れ立って来て、酒宴をして帰る男がいた。

今日もその男たちが やって来たので、酒売りは訳を尋ねる。

昔、この阿倍野の原を連れ立って歩いている二人の若者があり、その一人が松虫の音に魅せられて草むらの中に分け入ったまま帰って来ない。

もう一人が探しに行くと草の上で死んでいた。

死ぬ時はいっしょにと思っていた男は、泣く泣く友の死骸を土中に埋め、松虫の音に友を偲んでいるのだと男は話し、自分こそその亡霊であると明かして立ち去る。

酒売りが回向をすると亡霊が現れ、 回向を感謝し虫の音に興じて舞うが、暁とともに姿を消す。

松虫塚には古来数々の伝説がありますが、この地が松虫(今日の鈴虫)の名所であったところから、松虫の音にまつわる風流優雅な言い伝えが多く、七不思議の神木とともに尊崇されてきました。
 
昔は琴謡曲や舞楽などを修める人々の参詣で賑わったと伝えられていますが、近年は芸能全般、技術関係などすべての習いごとの習得を願う方たちから崇敬されています。

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兼好法師隠棲庵跡と伝わる天下茶屋 の聖天さん


天慶2年(939年)光道和尚により開基。当時は、現在地より東に500mのところにあった般若山阿部寺の一坊であったが、元禄時代(1688年-1703年)に義道見明和尚が寺を移転し、海照山正圓寺と改めた。

ご本尊は商売の神さま・大聖歓喜天(胎内仏の歓喜天は慈覚大師の作)で、日本最大の木彫りの聖天さんとして知られていま す。

本堂の東に武野紹鴎が建てた茶室がありましたが、惜しくも大正年間の風害で倒壊しました。

紹鴎が大切にしていた手水鉢は現在も残っています。

別名紹鴎森天満宮 天神の森天満宮
室町末期の茶匠・武野紹鴎が当地の森林に湧く泉水を愛し、歳月を送った所です。 北野 … 続きを読む →

また聖 天山は標高14メートルの低山で、正圓寺境内に山頂があり、聖天山古墳と呼ばれる古墳であることも判明しています。

本尊は木彫の大聖歓喜双身天王で、これは日本最大である。

また、1989年から2002年までは、大相撲春場所開催のさい鳴戸部屋(現在の田子の浦部屋)の相撲部屋の宿舎となっていた。

一願不動明王

元来は、あらゆる災難を信心する人に変わって引き受けて、悪病や厄鬼を取り押さえ、宿願を成就させてくれる仏さんですが、一願とあるとおり、願いごとをひとつ叶えてくれる仏さんとして、大変人気があります。

境内には鎮守の神を祭る奥之院と呼ばれる場所があり、鎮守堂(荼枳尼天)、寄松塚(八本松竜王)、石切社分祠、浪切不動明王、弁才天祠などが祭られている。

仏足
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釈迦の足の裏の形を表面に刻んだ石。
インドの初期仏教では仏がそこにいることを示すしるしとして用いたが、のち礼拝の対象とされ、千輻輪 (せんぷくりん) などの図が刻まれる。

千幅輪は、中央の大きな車輪ですが、これは仏法が世界中に広まる印であり、正しい法が悪を砕き永遠に流れ続けることを表します。

日本では奈良の薬師寺にあるものが最古で、天平勝宝5年(753)の銘がある。

吉田兼好は、鎌倉末期から南北朝時代にかけての歌人であり、後宇多天皇に仕える北面の武士であった。
 
1324年(正中元年)比叡山で剃髪し、京都吉田山に隠れ住み、後には南北朝の戦乱を避け、彼の弟子の命婦丸(文献によっては命松丸)の里であった阿倍野丸山(現在の大阪市阿倍野区丸山通り付近)に移り住み、自ら藁を打ち、ムシロを織って、清貧自適な暮らしを営んでいたと言われている。

阿倍野を訪れたのは、南北朝の戦いで21歳の若さで戦死した北畠顕家(1318~1338)の霊を慰 めるためといわれています。

顕家の父である北畠親房(1293~1354)の『神皇正統記』(南朝の正統性を述べた歴史書)にも関わっています。

「風林火山」の花将軍、北畠顕家ゆかりの地をたずねる
日本に2つの王朝が存在して、それぞれが正当性を主張して戦乱に明け暮れた南北朝時代 … 続きを読む →

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陰陽師 安倍晴明のふるさと安倍晴明神社


安倍晴明神社は、近年ブームの陰陽師・安倍晴明を祀る晴明生誕の伝承地です。

安倍晴明は阿倍野の豪族だった父・安倍保名(あべのやすな)と葛の葉と名乗る白狐の間に生まれた伝説があります。

葛の葉(くずのは)は、伝説上のキツネの名前。

葛の葉狐(くずのはぎつね)、信太妻、信田妻(しのだづま)とも。

また葛の葉を主人公とする人形浄瑠璃および歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』(あしやどうまん おおうち かがみ)も通称「葛の葉」として知られる。

稲荷大明神(宇迦之御魂神 )の第一の神使であり、 安倍晴明の母とされる。

安倍晴明の出身地については、大きく分けて3つの説があります。
一、 大阪説
二、 讃岐説
三、 茨城説
この中で最も有力なのは、一、大阪説です。

『葛乃葉(くずのは)伝説』によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされています。

むかし、阿倍野村の安倍保名(あべのやすな)が信太山の信田明神に参詣に行きました。 

神社の境内で休憩しているとき、狩人に追われた一匹の白狐が保名の足元に隠れました。  

狩に来ていたのは、騎馬の武士とその家来たちで、白狐をかばう保名は彼らと争いますが、多勢に無勢で保名は傷を負ってしまいます。

争いの最中に白狐は姿を消しますが、従者とはぐれた保名は帰途、美しい村娘の葛の葉(くずのは)に出会い、手厚く介抱されました。 

阿倍野村に帰った保名は受けた傷がともで病の床についてしまいました。 
と、ある日忘れかけていた葛の葉が看病に現れました。

実は葛の葉は人間に姿を変えた白狐ですが、保名と葛の葉は愛情が通じ合い、結婚して子供の「安倍童子」が誕生しました。

幸せな月日が流れ、ある晴れた秋の昼下がり、童子を寝かしつけていた葛の葉は、うつらうつらまどろんでいるうち、つい気がゆるんだのか、狐の身体の一部を表してしまいました。

子供が自分の姿を見て、おびえて泣いていたのを知った葛の葉は、自分の正体が露見するのをおそれ、泣く泣く分かれる決心をします。

葛の葉がいよいよ家を出るとき、縁側の障子に:

「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」

の一首を書き残しました。

社伝によると、安倍晴明神社は、晴明没後2年の寛弘4年(1007)の創設とされています。

境内には、江戸の文政年間に建設された晴明誕生の地を示す碑や、産湯の跡などがあり隆盛を極めましたが、幕末に衰退へ。

大正10年(1921)、50m南にある阿倍王子神社の末社として復興、大正14年(1925)には現在の社殿が建てられたといわれています。

能「鉄輪」

夫に捨てられた女が貴船明神に丑の刻詣をし、生霊となって恨みを果たせるという神託を受け、鉄輪を頭にいただき夫のもとへ向かう。

一方、 夢見の悪い夫は陰陽師・安倍晴明に祈祷を頼み、呪詛を励ます鬼人の力と陰陽道の調伏修法の力の戦いが繰り広げられる。

嫉妬、呪詛、復讐、凄 まじい女の情念が描かれる。

丑の刻参りと鉄輪の井
堺町筋を北に上がり、万寿寺通りを超え、松原通に出る手前の左側に不思議な路地ある。 … 続きを読む →


住吉名勝図会。

安倍晴明関連ブログ

陰陽師・安倍晴明の神秘は不滅
もともとは、修験道の祖とされる役小角(えんのおずの)などを生んだ賀茂氏が取り仕切 … 続きを読む →

清明は十二体の式神(識神)と呼ばれる鬼神を巧みにあやつって占いに活用したとされる。
その姿は奇怪で、鳥や獣などに姿を変えた。
清明の妻が式神たちの怖ろしい顔におびえるので、通常は石櫃(いしびつ)に入れて戻橋の下に封じ込めていたという。

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熊野九十 九王子の第二王子社 阿倍王子神社 


“あべの”の地名の由来となった安倍一族の氏神社で、一説には仁 徳天皇のご創建と伝えられています。

平安時代の初期、天長3年(826)弘法大師空海が、淳和天皇の勅命で当社に参り、疫難退散の祈祷を修して功なり、疫病を治癒する寺という意味の「痾免寺」(通阿倍)の勅額を朝廷より賜ったとされています。

また当社は藤原定家の日記 『名月記』の「後鳥羽院熊野御幸記」では窪津王子、坂口王子、コウト王子の次に、阿倍野王子と見え本来は第四番目の王子社でしたが中世の戦乱で途中の王子社が無くなり江戸時代から第二王子と呼ばれております。

『阿倍王子神社』の境内はそんなに広くはないのですが、両脇に樹齢500年の大きなご神木が4本あります。

境内には熊野神の神遣いである八咫烏(やたがらす)の 銅像が祀られており、願い事をすれば熊野三山まで届けてくださ るそうです。

天王寺蕪

大阪府大阪市天王寺付近が発祥地だといわれている(名のもと)。

「和漢三才図会」や「摂津名所図会大成」などにも収録されており、徳川時代から明治末期までが栽培の全盛だったが、耐病性の問題から大正末にはほとんど尖りカブに置き換わったとされる。

日本のカブは、西日本主流のアジア系(var. glabra)と、東日本の山間地に多く耐寒性に優れたヨーロッパ系(var. rapa)に大別されるが、天王寺蕪はアジア系であり、野沢菜はヨーロッパ系の特徴が強い。

現在野沢菜は、カブに由来する別の変種(var. hakabura:葉蕪)と考えられ、伝統野菜の漬け菜(稲扱菜、羽広菜、鳴沢菜、長禅寺菜)や紫蕪(諏訪紅蕪、細島蕪)は、いずれも近縁とみられる。

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