秦氏の氏寺 広隆寺


広隆寺は真言宗系単立。
山号を蜂岡山と称する。

蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。

渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。

国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。

毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。

参道正面には本堂にあたる上宮王院太子殿がある。

『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。

一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。

『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。

これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

この奥に桂宮院本堂がある。

桂宮院本堂(国宝)-境内の西側、塀で囲まれた一画にある。

聖徳太子像を祀る堂で、法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。

通常非公開で、4、5、10、11月の日曜、祝日のみ外観が公開される。

じっとしておれないほどの暑さだが、桔梗はしゃきっと咲いている。

詳細は以前の訪問記を参照されたい。

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世界遺産 天龍寺


竹林の小径、最近は人力車の通路を竹林の中に設けてある、なかなかのアイデア。
竹の黒いしみが気になる、もしンして落書きを消したものか??!

天龍寺(てんりゅうじ)は、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。
山号は霊亀山(れいぎざん)。

寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。

足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

この庭園は約700年前に天龍寺の開山である夢窓国師が室町時代に作庭してといわれ、今でも当時の面影をとどめています。

嵐山や亀山を借景として取り入れた曹源池庭園は、日本初の史跡・特別名勝指定にも指定され、回遊式庭園としては最古の遺構といわれています。

天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。

その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 – 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 – 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。

「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

中国より伝来した「平和観音」。
観音像の前の涌き水は地下80mのから涌き出る霊泉。
これを喫する者は愛と幸を受けると伝えられることから「愛の泉」と呼ばれる。

その観音様を守るカエル。
この泉の中央には、願いの成就を競うかのようにお皿が置かれて、そこに賽銭を投げ入れるようになってます。

レンゲショウマ(蓮華升麻)

花が蓮に、葉がサラシナショウマ(晒菜升麻)に似ているので、レンゲショウマ(蓮華升麻)の名がつけられた。

花茎の下部に茎葉と根出葉がある。葉は二-四回三出複葉で、小葉は卵形、あらい鋸歯を持つ。

シオカラトンボ(塩辛蜻蛉、Orthetrum albistylum speciosum)

もっともなじみ深いトンボのひとつ。シオカラトンボとは、成熟して水色になったオスにつけられた名前で、茶色いメスは俗にムギワラトンボと呼ばれる。

アメンボ(水黽、水馬、飴坊、飴棒)

足先の毛だけを水面につけて、毛が水を撥く表面張力を利用して水面に浮かぶ。
表面張力は、雌が雄を背に乗せられる程度に強い。

中脚の運動で推進し、後脚で方向を定めて、水面を滑走する。
全て肉食で、水面に獲物や死骸が落ちると、すばやく接近して前脚で捕獲し、針のように尖った口器を突き刺して体液を吸う。

臨済禅師1150年・白隠禅師250年を記念して各種催しが行われた。

このところの酷暑でとても長時間外に立っておれません、汗をふきふきそこそこに拝観を済ませてしまいました。
以前の訪問記がありますよろしければどうぞ嵐山から天龍寺へ 癒しを求めて初夏の散歩路
いいですね~、空いている天龍寺。 新緑のもみじを通して北山~東山を借景にし、澄ん … 続きを読む →

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萬福寺とお茶


萬福寺の総門は、1661年(寛文元年)の建立(重文)。
中央の屋根が高く、左右の屋根が低い牌楼式(ぱいろう)の中国的な門。

中央の屋根の左右に乗せられているのは想像上の生物・摩伽羅(まから)。

摩伽羅は、ガンジス河の女神の乗り物で、そこに生息しているワニをさす言葉だという。

聖域結界となる入口の門・屋根・仏像等の装飾に使われている。

隠元禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。

日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。

のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に禅寺を創建。

古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山。

萬福寺の三門前の句碑は、江戸時代に尼僧として諸国行脚に明け暮れた俳人・一字庵田上菊舎のもの。

1790年(寛政2年)に萬福寺を訪れて「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」と詠んだ。

三門を出たときに、門前の茶畑から茶摘み唄が聞こえ我に返ったときの句だという。

売茶翁を煎茶の祖として祀る売茶堂の入り口。

萬福寺は、売茶翁ゆかりの寺でもある。

売茶翁、月海元昭(1675~1763)は佐賀出身。黄檗宗の僧侶だが、自ら茶道具を担いで京の大路に簡素な席を設けて煎茶を出したことで知られる。

茶代は随意で、茶を喫しながら禅道や世俗の話をした。

70歳で還俗し、「高遊外」と号して清貧の中、気が向くままに煎茶を売り歩く。

その客には相国寺の僧・大典など高僧や文人が多く、同時代の画家・若冲は売茶翁の生き方に憧れ、肖像画も描いている。

売翁堂の近くに茶具塚もあります。

門前、総門前にみられる「駒蹄影園(こまのあしかげえん)碑」。

鎌倉時代の初め頃、住民が茶の種のまき方がわからず困っていたところ、京都西北部の栂尾・高山寺の明恵上人が馬で畑に乗り入れ、馬のひずめの跡に種を蒔くように教えたといわれています。

これが宇治茶の始まりといわれ、大正15年(1926)に宇治の茶業組合によって建立された。

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黄檗山 萬福寺


萬福寺は、京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。

山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来。

日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、

三門 – 延宝6年(1678年)の建立。
三間三戸二重門。

「三間三戸」は門の正面柱間が3間で、3間すべてが通路になっているものを指す(日本の禅宗寺院の三門は一般的には「五間三戸」である)。

開山堂

1663年(寛文3年)の建立された萬福寺開山・隠元隆琦を祀るお堂。

隠元隆琦は、日本における「煎茶道の祖」ともいわれ、普茶料理、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹(タケノコ)・木魚なども隠元が日本にもらたしたもの。

天王殿 – 寛文8年(1668年)の建立。
一重入母屋造。

本堂の手前にこのような堂を置くのは中国式の伽藍配置で、日本では珍しい。

内部には弥勒菩薩の化身とされる布袋像を安置する。
この像は日本で著名な半跏思惟形の弥勒菩薩像とは全く異なり、太鼓腹の布袋像として表されている。

他に堂内左右に四天王像、布袋像の背後に韋駄天像を安置する。

これらの像は来日していた明の仏師・范道生の作で、いずれも中国風の様式で造られている。

大雄宝殿-寛文8年(1668年)の建立。

入母屋造。2階建てに見えるが一重裳階(もこし)付きである。
本尊釈迦三尊像(脇侍は阿難と迦葉)、十八羅漢像を安置する。

日本の一般的な寺院の「本堂」「仏殿」にあたる建物である。

建物の前には白砂を敷いた「月台」がある。

本尊釈迦三尊像(脇侍は阿難と迦葉)

祖師堂 – 伽藍堂と対称位置に建ち、中国禅宗の祖である達磨の像と歴代住職の位牌を安置する。

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萬福寺 ハスが咲き始めました


三門前の放生池の蓮はまだ咲いていません。

回廊沿いにある中和園の蓮は咲いています。

「山門を出れば日本ぞ茶摘み唄」と歌われるように、ここは中国風のお寺です。

池の周囲をぐるりと回りフジの蔓を額縁に。

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世界遺産 宇治上神社


宇治上神社(うじがみじんじゃ/うじかみじんじゃ)は、式内社で、旧社格は村社。
隣接する宇治神社とは対をなす。

ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。

鳥居から奥の参道、緑いっぱいのトンネル、涼風が吹き渡る。

創建年代などの起源は明らかではない。宇治上神社のすぐ近くには宇治神社があるが(位置)、宇治上神社とは二社一体の存在であった。

宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる。

拝殿前には上賀茂神社などと同じような形で、円錐形のお山(立砂、又は盛砂と言う)が二つ盛られています。
ただし、宇治上神社のお山は上賀茂神社のものと同じ意味ではありません。

上賀茂神社の立砂は、神社の北の方にある神山に見立てた神の依代よりしろですが、こちらは「清め砂」です。

9月1日に行われる八朔祭はっさくさいの時に氏子さんたちによって奉納された、境内のお清めのためのお砂です。

盛られたお砂は1年間盛られ続け、その後はお正月やお祭りの時に境内にまき散らし、境内を清めるのだそうです。

拝殿横の授与所では、自宅用の清め砂も販売されています。

本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられた。
また、1052年創建の平等院との深い関連性が指摘されている。

左殿:菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。応神天皇皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。

中殿:応神天皇 第15代天皇。菟道稚郎子命の父。

右殿:仁徳天皇 第16代天皇。菟道稚郎子命の異母兄。

本殿から見た拝殿。

本殿前に建てられている拝殿は鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれる。切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。

桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。

また境内には「桐原水」と称される湧き水があり、「宇治七名水」のうちでは唯一現存するものになる。

幹周/4. 8m、樹高/27m、樹齢/300年とケヤキの前に立つ宇治市名木100選の立て札にあります。

本殿東のパワースポットは、「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石。

この上に小石を乗せて、落ちなければ願いが叶うと言われており、参拝客が満願成就を願って乗せていった小石が積まれています。

かつて古神道では、磐境信仰(いわさかしんこう)というものがあり、岩を祀っていました。
宇治上神社のこの巨石も、磐境信仰によるものではないかという説もあります。

春日社 祭神:建甕槌命、天児屋根命

社殿は一間社流造で、檜皮葺。
鎌倉時代後期の造営とされ、国の重要文化財に指定されている。

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宇治橋の守り寺 放生院


604年(推古天皇12年)、聖徳太子の発願で創建されたのが始まりと伝えられている。
 
1281年(弘安4年)、西大寺の叡尊によって中興された。

叡尊は1286年(弘安9年)に宇治川の中州に十三重石塔を建立し、橋寺で放生会を行ったという。

そのため、橋寺は放生院とも呼ばれるようになった。

山号は雨宝山。
寺号は常光寺。
通称の「橋寺」の由来は、近くの宇治川に架かる宇治橋をこの寺が管理していたことによる。

寺伝によれば、推古天皇11年(603年)、聖徳太子の命を受けた秦河勝が宇治橋を架けた折、当寺も開創されたという。

ただし、境内にある宇治橋断碑の碑文によれば、宇治橋は元興寺の僧・道登によって大化2年(646年)に架けられたという。

鎌倉時代後期の弘安4年(1281年)、勝宝山西大寺(南都西大寺)の再興などで知られる僧・叡尊によって、当寺も再興された(『感身学生記』)。

文明11年(1479年)兵火に遭い室町幕府の援助などにより復興されたが、江戸時代の寛永8年(1631年)にも火災に遭い、焼失した。

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日本曹洞宗最初の寺院 興正寺


琴坂の入り口に建つ石門(総門)慶安元年(1648)建立。

興聖寺(こうしょうじ)は京都府宇治市にある曹洞宗の寺院。

日本曹洞宗最初の寺院。
道元が興聖宝林寺を建立したことにはじまる。

断絶のあと、慶安元年(1648年)永井尚政によって再興された。
山号は仏徳山(ぶっとくさん)。
本尊は釈迦三尊。

石塔、江戸時代初期作、興聖寺三塔のひとつ。

琴坂

興聖寺の本堂に通じる参道は、紅葉と桜で宇治では有名。

琴坂の参道沿いに流れる湧き水は、本堂脇の貯水槽に一旦貯められた朝日山の山水が流れており、その水の流れがあたかも琴の音色に聞こえ、長い参道が琴の形状に似ていることから、今日まで琴坂と呼ばれるようになった。

秋には見事な紅葉を見せてくれるがこの時期は緑がきれい。

楼上に釈迦三尊像と十六羅漢像を安置する大きな龍宮造りの山門。

興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶した。

その後慶安2年(1649年)、淀城主の永井尚政が万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが今ある興聖寺である。

時を知らせる開梆(魚梆)(かいぱん)、年季が入っています。

誕生仏(お釈迦様が誕生された姿の像)。

平安時代の参議で歌人でもある小野篁(おののたかむら)作という木造の聖観音菩薩立像(平安時代後期)。

三面大黒天、『大黒天』『毘沙門天』『弁財天』の3つの顔を持つ仏様。

参禅道場

毎月第1日曜、第3日曜の9時から坐禅会が行われる。

塔の島十三重塔相輪

塔の島(宇治公園)に、十三重塔が立つ。
鎌倉時代、1286年に、奈良・西大寺の僧・叡尊により立てられた。

宇治橋の架け替えに際しての供養塔だった。
現存最大、最古の石塔とされている。

その後、洪水、地震などにより幾度も倒壊し再建された。
 
江戸時代初期、興聖寺開基・永井尚政が修復する。
十三重塔は、近代、1908年に再建されている。

その際に、使用されなかった旧相輪、九重目の笠石が尚政ゆかりの当寺に移された。

現在は、庭にあり、笠石の上に相輪が立てられている。

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アジサイ見頃の長谷寺


ふつつ門前町はお寺に直接みちびいてくれるが、ここだけはちょっと違う。
一旦与喜天満宮につき当り、そこから左折して山門に至る。
その天満宮のある山を、与喜山、または「大泊瀬」と呼び寺の建っている所を「小泊瀬」という。
初瀬川はその中間を流れているわけだが、門前町を歩いて行くと、先ず正面に与喜山の大泊瀬が仰がれる・・・・・

私の古寺巡礼-講談社文芸文庫-白洲-正子

以前訪れた與喜天満神社の記事奈良のパワースポット 與喜天満神社
長谷寺を訪れたらまず、與喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)へ。 與喜山(国の天然 … 続きを読む →


「中登廊」を登りきったところに、「蔵王堂」がある。
この「蔵王堂」のあたりに、吉野山から虹が架かり、その上を三体の蔵王権現が歩いて長谷寺までやって来たことからこの場所に尊像を祀っている。

蔵王権現は、役行者が吉野・金峯山寺で修行中にお告げを得たという憤怒形の仏。
金峯山寺の蔵王堂に祀られている、弥勒・釈迦・千手観音と同じ三体を祀る。

本堂を出たところ、まさにアジサイ満開。

この日は快晴でアジサイ撮影には好ましくない、できるだけ日陰を狙う。

先月はボタン祭りの最終日に訪れた。ボタン咲くころ
長谷寺は朱鳥元(686)年、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を … 続きを読む →










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雨の一休寺


この時期一休寺の境内は無緑に包まれ清々しい、雨に濡れたモミジがきれいです。

方丈庭園は松花堂昭乗、佐川田壽六、石川丈山の合作によるもので、「三作の庭」といわれる。

元弘年間(1331 – 1334年)に兵火にあって衰退していたのを、康正2年(1456年)に一休宗純が草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。

「朝咲き散る夕 せつなく美し」

沙羅双樹は、朝に咲いて夕方に落花する姿が、世の無常を感じさせる。

「このはし わたるべからず」…“とんちの一休さん”が晩年を過ごした酬恩庵(一休寺)には、有名なとんち話を再現した橋もある。

再建されてしばらくたった文明2(1470)年の春ごろから、盲目の琵琶弾きである森女(しんじょ)という女性が住みはじめた。
一休が大坂・住吉神社で見そめ、連れてきたのである。

森女は30歳代なかば、一休77歳。
「老いらくの恋」というには、あまりにも年が離れすぎている。薪村に住む一休の信奉者も、ちょっとあきれたのではないだろうか。

だが一休は気にしなかった。
森女の手をひき、緑にあふれる甘南備山のふもと周辺をのんびりと散策した。

そして、夜。一休の詩歌集『狂雲集』のなかに、「美人陰有水仙花香」という漢詩がある。

訳すと、「美人の陰は水仙のような甘い香りがする」とでもなる。
「陰」は、もちろん女性器のことである。そのなかの一節--。

楚台(そだい)はまさに望むべく 更に攀(よ)ずべし 半夜の玉床 愁夢(しゅうむ)の顔 花は綻(ほころ)ぶ 一茎(いっけい) 梅樹の下 凌波(りょうは)の仙子 腰間をめぐる

一休は文明13年11月21日(1481年12月12日)、88歳で亡くなるまでをここで過ごし臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。

水上勉は、一休が盲目の森女の膝を枕に、静かに死出の旅に招かれたていったと考えたようだった。

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