千本釈迦堂


山号は瑞応山(ずいおうざん)。
千本釈迦堂と通称される。
おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。

夫を助けた妻・おかめの内助の功の話が有名なお寺。
境内のおかめさん像の前に、阿亀桜という立派なしだれ桜が咲きます。

地面すれすれまで枝を伸ばし、細やかで可憐な花をいっぱいに咲かせる姿は優雅。

おかめの物語

釈迦堂内の多数の面、人形の一つ。

本堂を造営する際、大工の棟梁であった高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。

それを見た妻のおかめが斗組を用いたらどうかとひと言アドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。

しかしおかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。

高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。
その後、大工の信仰を得るようになり今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。

度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福のおかめ信仰につながっている。

布袋尊は契此(かいし)という実在した僧で、弥勒菩薩の化身とされているらしい。

なぜ布袋尊は弥勒菩薩の化身だと言われているのか。

布袋尊は一旦死んだが、後に生き返ったという伝説が、56億7000万年後にあらわれるとされる弥勒菩薩とイメージが重ねられて、布袋は弥勒菩薩の化身だとされるようになったと、されているようです 。

〈千体地蔵塔〉

本堂の右手、境内の一番奥にあります。
おそらく明治の廃仏毀釈で廃棄されたお地蔵さんを集めたものかな?

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住吉大社のパワースポット 五大力さん


住吉大社の第一本宮のすぐ南に、「五所御前」という場所があります。
ここはなんと、御祭神の住吉大神が降臨した地とされているんです!
まさに聖地です。

それが、神仏習合の影響で、神宮寺の五大力尊信仰と結びつきました。

その「五大力さん」というのは、仏教の中の、五人の明王のことです。

•不動明王(中心)
•大威徳明王(西)
•軍荼利明王(南)
•降三世明王(東)
•金剛夜叉明王(北)

と、不動明王を中心に、守る方角も決まっています。
なので、
•体力
•智力
•財力
•福力
•寿(命)力

と、五つの力が授かるとされているんです。
そして、お守りにすれば心願成就のご神徳があるそうです。

「お守りにすれば」というのがポイントなのですが、垣内の玉砂利から「五」「大」「力」と書かれた3つの小石を探して、それをお守りにするんです。

そしてこの小石は、本殿授与所で専用御守袋を購入(300円)することができます。

そしてこれを御礼参りで返す時は、自分の近所で拾った小石に自分で「五」「大」「力」と書いて、拾ったお守りと一緒に倍返しします。

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京都「禅居庵」は猪の寺


どんよりと曇った冬日、鴨川も静かです、北部は降っているのかも。

京都でもう一つ猪で有名な寺、建仁寺の塔頭「禅居庵」

禅居庵は鎌倉時代後期、元国からの来朝僧、大鑑清拙正澄禅師(だいかんせいせつしょうちょう)を開基として小笠原貞宗が開いた臨済宗建仁寺派の塔頭寺院。

禅師将来の鎮守として、境内に祀られている摩利支天(まりしてん)は開運勝利のご利益により遠近より多く参詣者を集め、「日本三大摩利支天」の一つとして数えられています。

残り2寺は、金沢市の宝泉寺。
そして、東京の上野にある徳大寺です。

禅居庵では鎮守として、ご開山が元の国から将来された摩利支天が秘仏として祀られ七百年近くになります。

摩利支天は仏法を護る善神として禅宗では大切にされており、七頭の猪の上に座しておられるそのお姿から境内には多くの狛亥が祀られています。

古来より開運勝利のご利益、また亥歳生まれの方には守り神として深く信仰されています。

摩利支天は亥年の守り本尊として信仰を集めているだけでなく、開運や勝利に導くともされています。

摩利支天のルーツは古代インドの女神マーリーチで、陽炎が神格化したものなのだとか。

陽炎は捕まえられたり傷つけられたりすることがないので、かつては戦国武将の間に摩利支天信仰が広がっていたそうです。

また、猪づくしの禅居庵で一番のインスタ映えスポットといえば猪の像が置かれたお堂。

ここには像の足元にたくさんのミニ猪像がズラリ並んでいます。
実はこれは陶製の亥みくじで、この中にはおみくじが入っていたのです。

もちろんカワイイ猪ですので持って帰るもよし、こちらで猪の大群に加わるもよし!授与所ではこの亥みくじの他にも箱を振って、数字を引くタイプの開運勝利おみくじもあります。

隣接する建仁寺に抜ける道。
「ゆずりあいの道」と書かれていました。

長い道ではありませんが、風情のある道です。

建仁寺境内ではロウバイが盛りです。

梅もちらほら。

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足腰の守護神 護王神社 別名「 いのしし神社」


今年はいのしし年とあって護王神社が熱い。

和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、藤原百川と路豊永を配祀する。

護王神社は、和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った護王善神社に始まる。
正確な創建の年代は不詳。

和気清麻呂と姉の広虫は、宇佐八幡宮神託事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守った。

孝明天皇はその功績を讃え、嘉永4年(1851年)、和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた。

明治7年(1874年)、護王善神社を護王神社に改称し、別格官幣社に列格した。
明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により京都御苑蛤御門前付近にあった公家の中院家の邸宅跡(現在地)に遷座された。

大正4年(1915年)、大正天皇の即位の際に広虫が合祀された。広虫は孤児救済事業で知られることから子育明神と呼ばれる。

和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から、明治23年(1890年)から狛犬の代わりに「狛猪」が置かれており、「いのしし神社」の俗称もある。

そのため亥年の参拝者は例年よりも増加する傾向がある。

境内には狛猪のほかにも多くの猪に因むものがある。

4月4日は旧暦で清麻呂の命日にあたり、例大祭「護王大祭」が行なわれる。

また、11月1日の「亥子祭」は、平安朝の古儀を再現した優雅な祭りとして知られる。

猪に助けられた清麻呂の足萎えが回復したという古事から、足腰の病気・怪我回復の御利益があるとされている。

境内はいのししのオンパレードだ。

日本一の巨樹 蒲生の大クス
藤原氏北家教通流の分出とされる蒲生(かもう)氏の初代当主舜清(ちかきよ)が保安4 … 続きを読む →

宇佐八幡宮神託事件で大隅へ配流された和気清麻呂が当地を訪れ、手にしていた杖を地に刺したものが根付いたものと伝えられ、神社創祀時には既に神木として祀られていたという。

新緑の神護寺
紅葉で有名な神護寺、新緑もまた格別。 神護寺は、高野山真言宗遺迹(ゆいせき)本山 … 続きを読む →

和気公霊廟がある。

時代祭2015 後編
御苑での撮影をさっさと切り上げ、行列のおさまる平安神宮へ向かう。 曇りがちの天候 … 続きを読む →

和気広虫、平安時代初期に活躍した和気清麻呂の姉で、我が国において孤児院の起源をなした。
唐風を色濃く残す規定外の平服姿です。

日本三大八幡宮の一つ宇佐神宮
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社。 石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡 … 続きを読む →

奈良でも最も美しい尼寺 興福院(こんぶいん)
興福院(こんぶいん)は、奈良県奈良市法蓮町にある浄土宗の尼寺。 山号を法蓮山と称 … 続きを読む →

開基(創立者)は和気清麻呂ともいい、藤原百川ともいう。

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菅原院天満宮神社


親子三代の邸宅で菅原院(すがわらいん)がその前身。左大臣・藤原時平によって大宰府に左遷させられた道真は都に戻ることなく延喜3年(903年)に薨去。その後、京の都には異変が相次いだ。

その菩提を弔うためもあり、菅原院跡地には歓喜寺が創建された。

しかし、長保5年(1003年)に源融の旧邸・六条河原院の跡地に移転していった(歓喜寺は正安元年(1299年)に時宗の善導寺に合併されて六条道場・歓喜光寺となる)。

その後、菅原院の跡地には移転した歓喜寺の殿舎が残されていたが、道真公生誕の地といわれる関わりあいの深いこの地に、新たに社殿を配し、相殿神に父是善、祖父清公を祀るようになった。

境内には『菅公御産湯の井』や『菅公御遺愛の石灯籠』がある。

幽霊屋敷 河原院跡
源氏物語「夕顔の巻」は圧巻である。 源氏は五条辺りに住む夕顔と恋におち、「某の院 … 続きを読む →


梅丸社(境内末社)
菅公御産湯の井

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日本一の巨樹 蒲生の大クス

藤原氏北家教通流の分出とされる蒲生(かもう)氏の初代当主舜清(ちかきよ)が保安4年(1123年)に大隅国へ下向、生母が宇佐八幡宮の宮司家出身であった縁で同宮から勧請して創祀したという。

戦国時代、島津氏との激しい戦いの末に蒲生氏は敗れて島津氏の軍門に下り、弘治3年(1557年)他地に退去させられた。

その後島津義弘により社殿が再建される。
また元和4年(1618年)12月には義弘から鳥居と額が奉建されたともされる。

蒲生の大クス – 推定樹齢1,600年(平成22年現在)の楠の大木で、国の特別天然記念物。昭和63年(1988年)度の環境庁による巨樹・巨木林調査で日本一の巨樹であると認定された。

宇佐八幡宮神託事件で大隅へ配流された和気清麻呂が当地を訪れ、手にしていた杖を地に刺したものが根付いたものと伝えられ、神社創祀時には既に神木として祀られていたという。

幹の下部は凹凸が多く、幹の内部は直径約4.5m(タタミ8畳分)の空洞になっています。
また、樹木の枝張りは東方に約12m、西方に約12m、南方に約10m、北方に約19mにも広がっています。

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神農さん


祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。

神社の入口に金色の虎の像がある。

文政5(1822)年に、日本でコレラが大流行し、道修町薬種商は、疫病除薬として、「虎面殺鬼雄黄円」という丸薬を無料で施した。

このとき、張子の虎をつくり、丸薬とともに神殿で祈願し、張子の虎は、病除祈願のお守りとされている。

この五葉笹(神虎)には、表面に「祈願 家内安全 無病息災」と記された赤い紙札、「薬」の文字印が腹に押された「張子の虎」、少彦名大神御靈と記された布製の神札、花詞(はなことば)の札が付けられている。

医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰を集めている。
また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。

近年ではペットの病気平癒・健康祈願に参拝する人も多い。伊勢講から始まった神社でもあるため、伊勢神宮のお札を求める参拝者で正月は賑わう。


少名彦神社は谷崎潤一郎の『春琴抄』、菊田一夫の『がしんたれ』の舞台となったことで知られ、谷崎潤一郎の文学碑「春琴抄の碑」がある。

「春琴抄」は、谷崎が43歳のときの作品である。(昭和8年・1933年)

船場の商人の娘・春琴と奉公人・佐助。

気が強く、尊大な態度を佐助に振舞う容姿端麗の春琴、子どもができても、頑として否定する春琴・佐助。

ある日、熱湯をあびせられた春琴の部屋にゆく佐助。

自分の目を針で刺し、見えなくなった佐助は、春琴に『佐助、それはほんとか』と言われたとき、佐助は、『この世に生まれて、これほど生きていてよかった』ことはないと思えたのである。

「春琴抄」は 妻 松子夫人への愛を道修町の豪商の娘である盲目の琴三弦の天才 春琴 と使用人であり彼女の弟子であった佐助に託して創作した至高の愛の物語 である。

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蟹満寺


蟹満寺(かにまんじ)は、京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗智山派の寺院。
山号は普門山。

本尊はかつては観音菩薩であったが現在は飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造釈迦如来坐像(国宝)が本尊となっている。

寺の所在地の地名綺田(かばた)は、古くは「カニハタ」「カムハタ」と読まれ、「蟹幡」「加波多」などと表記された。

寺号についてもかつては加波多寺、紙幡寺などと表記されたものが蟹満寺と表記されるようになり、蟹の恩返しの伝説と結びつくようになったもの。

この伝説が『今昔物語集』に収録されていることから、蟹満寺の寺号と蟹の報恩潭との結びつきは平安時代後期以前にさかのぼることがわかる。

本堂は、2010年4月に完成したとても新しいものです。

本堂の梁や瓦、境内の燈籠やお賽銭箱など至る所に蟹さんがいます。

この蟹の紋は、牡丹の花を蟹にアレンジしたの紋なのだとか。

言われると確かに!ボディーが牡丹の花で、目や手足が葉っぱになっています!!

この寺の創建年代や由緒についてはついては不詳であるが、周辺の発掘調査から飛鳥時代後期(7世紀末)の創建と推定されている。

その後、江戸時代の正徳元年(1711年)智積院の僧亮範が入寺し再興された。

今昔物語集等に記載がある蟹の恩返しの伝承で有名である。

銅造釈迦如来坐像(国宝)

像高240.0㎝。本来は鍍金がほどこされていたが、頬のあたりに鍍金の痕跡を残すのみで像表面は黒色を呈する。

右手は胸の辺に上げ第一指と第二指で輪をつくり、左手は掌を上にして膝上に置き、第三指を軽く曲げる(ただし、第三指の半ばから先は木製の後補)。

材質、像高、前述の両手の印相などの図像的特色を含め、奈良・薬師寺金堂薬師三尊の中尊薬師如来像との類似が指摘される(薬師寺像の像高は254.7cm)。

様式的には興福寺仏頭(もと山田寺講堂本尊、685年開眼)と薬師寺像の中間に蟹満寺像を位置付けるのが通例であるが、天平期(8世紀)に入っての作とみなす説もある。

この仏像の注目ポイントは、お釈迦様の手。

仏様を表す際の三十二相のルールのうちの一つ「手足指縵網相(しゅそくし・まんもう・そう)」がはっきりとわかります。

手足指縵網相(しゅそくし・まんもう・そう)とは、指のあいだにある水かきのような膜のこと。
たくさんの人を救えるようにとこのような水かきがあるのだとか。

この水かきは、悟りを開いた如来では第一関節からあり、悟りを開く前の菩薩では第二関節からあるそうです。

上記の蟹の報恩潭は観音霊験説話であり、当寺の山号の普門山も法華経の観世音菩薩普門品に因むものであることから、当寺の本来の本尊は観音菩薩であったとみられる。

現在も寺の入口付近に観音堂があるが、本尊は釈迦如来に変わっている。

本尊の銅造釈迦如来坐像(像高240㎝)は飛鳥時代後期(白鳳期)の作であるが、造像の由緒は不明で、当初から蟹満寺にあったものか、他の寺院から移されたものかについては諸説ある。

市章入りクボタシーアイ製のマンホール。
汚水管ハンドホール蓋

町の木モミジと町の花キク、特産品である筍とお茶をデザイン。
旧町名「やましろ」と入っていますが、中央のマークは新の木津川市のもの。
汚水管マンホール蓋

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秦氏の氏寺 広隆寺


広隆寺は真言宗系単立。
山号を蜂岡山と称する。

蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。

渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。

国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。

毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。

参道正面には本堂にあたる上宮王院太子殿がある。

『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。

一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。

『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。

これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

この奥に桂宮院本堂がある。

桂宮院本堂(国宝)-境内の西側、塀で囲まれた一画にある。

聖徳太子像を祀る堂で、法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。

通常非公開で、4、5、10、11月の日曜、祝日のみ外観が公開される。

じっとしておれないほどの暑さだが、桔梗はしゃきっと咲いている。

詳細は以前の訪問記を参照されたい。

弥勒の微笑が迎える太子ゆかりの寺 広隆寺
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古式床しく 釿始め(ちょうなはじめ) 広隆寺
宮大工の古式床しい釿始めの儀式が番匠保存会により毎年、1月2日に太秦・広隆寺で行 … 続きを読む →

京都太秦ユダヤのパワースポット?大酒神社
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世界遺産 天龍寺


竹林の小径、最近は人力車の通路を竹林の中に設けてある、なかなかのアイデア。
竹の黒いしみが気になる、もしンして落書きを消したものか??!

天龍寺(てんりゅうじ)は、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。
山号は霊亀山(れいぎざん)。

寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。

足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

この庭園は約700年前に天龍寺の開山である夢窓国師が室町時代に作庭してといわれ、今でも当時の面影をとどめています。

嵐山や亀山を借景として取り入れた曹源池庭園は、日本初の史跡・特別名勝指定にも指定され、回遊式庭園としては最古の遺構といわれています。

天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。

その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 – 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 – 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。

「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

中国より伝来した「平和観音」。
観音像の前の涌き水は地下80mのから涌き出る霊泉。
これを喫する者は愛と幸を受けると伝えられることから「愛の泉」と呼ばれる。

その観音様を守るカエル。
この泉の中央には、願いの成就を競うかのようにお皿が置かれて、そこに賽銭を投げ入れるようになってます。

レンゲショウマ(蓮華升麻)

花が蓮に、葉がサラシナショウマ(晒菜升麻)に似ているので、レンゲショウマ(蓮華升麻)の名がつけられた。

花茎の下部に茎葉と根出葉がある。葉は二-四回三出複葉で、小葉は卵形、あらい鋸歯を持つ。

シオカラトンボ(塩辛蜻蛉、Orthetrum albistylum speciosum)

もっともなじみ深いトンボのひとつ。シオカラトンボとは、成熟して水色になったオスにつけられた名前で、茶色いメスは俗にムギワラトンボと呼ばれる。

アメンボ(水黽、水馬、飴坊、飴棒)

足先の毛だけを水面につけて、毛が水を撥く表面張力を利用して水面に浮かぶ。
表面張力は、雌が雄を背に乗せられる程度に強い。

中脚の運動で推進し、後脚で方向を定めて、水面を滑走する。
全て肉食で、水面に獲物や死骸が落ちると、すばやく接近して前脚で捕獲し、針のように尖った口器を突き刺して体液を吸う。

臨済禅師1150年・白隠禅師250年を記念して各種催しが行われた。

このところの酷暑でとても長時間外に立っておれません、汗をふきふきそこそこに拝観を済ませてしまいました。
以前の訪問記がありますよろしければどうぞ嵐山から天龍寺へ 癒しを求めて初夏の散歩路
いいですね~、空いている天龍寺。 新緑のもみじを通して北山~東山を借景にし、澄ん … 続きを読む →

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