住吉大社


外出規制は解除されたけど、住吉大社は5月31日まで閉鎖中。

住吉大社の手水舎の水口は神使の兎像、次のような説明が付けられている。

「(住吉大社と兎) 兎(卯)は当社の御鎮座(創建)が神功皇后摂政十一年(211)辛卯(かのとう)年の卯月の卯日である御縁により奉納されたものです」

水面の照り返しを映しきれいです。

厩舎の軒先、朝の光が降り注ぐ。

角鳥居の脇に早咲きのアジサイが咲いていた。

境内のあちこちに卯の花が咲いています。
「住吉大社」は卯の年・卯の月・卯の日に鎮座したとされる。

今年は卯花苑の公開は中止された。

卯の花の咲く頃
住吉大社卯の花苑が公開中。 住吉大社にとって卯の花は特別、鎮座日が、神功皇后摂政 … 続きを読む →

住吉大社にとって卯の花は特別、鎮座日が、神功皇后摂政11年の卯年の卯月の卯日と伝えられている、「卯の葉神事」にはかかせない花となっている。

古式床しく 卯之葉神事 住吉大社
住吉っさんがこの地に鎮座したのが、神功皇后摂政11年(211)の卯年の卯月の卯日 … 続きを読む →

卯之葉神事は13時から第一本宮と五所御前で卯の葉を使った玉串を捧げての祭典が行われた後、14時からは石舞台にて舞楽が奉納されます。

住吉公園の心字池の桜の葉、池の水面を映してきれいです。

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兼好法師隠棲庵跡と伝わる天下茶屋 の聖天さん


天慶2年(939年)光道和尚により開基。当時は、現在地より東に500mのところにあった般若山阿部寺の一坊であったが、元禄時代(1688年-1703年)に義道見明和尚が寺を移転し、海照山正圓寺と改めた。

ご本尊は商売の神さま・大聖歓喜天(胎内仏の歓喜天は慈覚大師の作)で、日本最大の木彫りの聖天さんとして知られていま す。

本堂の東に武野紹鴎が建てた茶室がありましたが、惜しくも大正年間の風害で倒壊しました。

紹鴎が大切にしていた手水鉢は現在も残っています。

別名紹鴎森天満宮 天神の森天満宮
室町末期の茶匠・武野紹鴎が当地の森林に湧く泉水を愛し、歳月を送った所です。 北野 … 続きを読む →

また聖 天山は標高14メートルの低山で、正圓寺境内に山頂があり、聖天山古墳と呼ばれる古墳であることも判明しています。

本尊は木彫の大聖歓喜双身天王で、これは日本最大である。

また、1989年から2002年までは、大相撲春場所開催のさい鳴戸部屋(現在の田子の浦部屋)の相撲部屋の宿舎となっていた。

一願不動明王

元来は、あらゆる災難を信心する人に変わって引き受けて、悪病や厄鬼を取り押さえ、宿願を成就させてくれる仏さんですが、一願とあるとおり、願いごとをひとつ叶えてくれる仏さんとして、大変人気があります。

境内には鎮守の神を祭る奥之院と呼ばれる場所があり、鎮守堂(荼枳尼天)、寄松塚(八本松竜王)、石切社分祠、浪切不動明王、弁才天祠などが祭られている。

仏足
.
釈迦の足の裏の形を表面に刻んだ石。
インドの初期仏教では仏がそこにいることを示すしるしとして用いたが、のち礼拝の対象とされ、千輻輪 (せんぷくりん) などの図が刻まれる。

千幅輪は、中央の大きな車輪ですが、これは仏法が世界中に広まる印であり、正しい法が悪を砕き永遠に流れ続けることを表します。

日本では奈良の薬師寺にあるものが最古で、天平勝宝5年(753)の銘がある。

吉田兼好は、鎌倉末期から南北朝時代にかけての歌人であり、後宇多天皇に仕える北面の武士であった。
 
1324年(正中元年)比叡山で剃髪し、京都吉田山に隠れ住み、後には南北朝の戦乱を避け、彼の弟子の命婦丸(文献によっては命松丸)の里であった阿倍野丸山(現在の大阪市阿倍野区丸山通り付近)に移り住み、自ら藁を打ち、ムシロを織って、清貧自適な暮らしを営んでいたと言われている。

阿倍野を訪れたのは、南北朝の戦いで21歳の若さで戦死した北畠顕家(1318~1338)の霊を慰 めるためといわれています。

顕家の父である北畠親房(1293~1354)の『神皇正統記』(南朝の正統性を述べた歴史書)にも関わっています。

「風林火山」の花将軍、北畠顕家ゆかりの地をたずねる
日本に2つの王朝が存在して、それぞれが正当性を主張して戦乱に明け暮れた南北朝時代 … 続きを読む →

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陰陽師 安倍晴明のふるさと安倍晴明神社


安倍晴明神社は、近年ブームの陰陽師・安倍晴明を祀る晴明生誕の伝承地です。

安倍晴明は阿倍野の豪族だった父・安倍保名(あべのやすな)と葛の葉と名乗る白狐の間に生まれた伝説があります。

葛の葉(くずのは)は、伝説上のキツネの名前。

葛の葉狐(くずのはぎつね)、信太妻、信田妻(しのだづま)とも。

また葛の葉を主人公とする人形浄瑠璃および歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』(あしやどうまん おおうち かがみ)も通称「葛の葉」として知られる。

稲荷大明神(宇迦之御魂神 )の第一の神使であり、 安倍晴明の母とされる。

安倍晴明の出身地については、大きく分けて3つの説があります。
一、 大阪説
二、 讃岐説
三、 茨城説
この中で最も有力なのは、一、大阪説です。

『葛乃葉(くずのは)伝説』によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされています。

むかし、阿倍野村の安倍保名(あべのやすな)が信太山の信田明神に参詣に行きました。 

神社の境内で休憩しているとき、狩人に追われた一匹の白狐が保名の足元に隠れました。  

狩に来ていたのは、騎馬の武士とその家来たちで、白狐をかばう保名は彼らと争いますが、多勢に無勢で保名は傷を負ってしまいます。

争いの最中に白狐は姿を消しますが、従者とはぐれた保名は帰途、美しい村娘の葛の葉(くずのは)に出会い、手厚く介抱されました。 

阿倍野村に帰った保名は受けた傷がともで病の床についてしまいました。 
と、ある日忘れかけていた葛の葉が看病に現れました。

実は葛の葉は人間に姿を変えた白狐ですが、保名と葛の葉は愛情が通じ合い、結婚して子供の「安倍童子」が誕生しました。

幸せな月日が流れ、ある晴れた秋の昼下がり、童子を寝かしつけていた葛の葉は、うつらうつらまどろんでいるうち、つい気がゆるんだのか、狐の身体の一部を表してしまいました。

子供が自分の姿を見て、おびえて泣いていたのを知った葛の葉は、自分の正体が露見するのをおそれ、泣く泣く分かれる決心をします。

葛の葉がいよいよ家を出るとき、縁側の障子に:

「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」

の一首を書き残しました。

社伝によると、安倍晴明神社は、晴明没後2年の寛弘4年(1007)の創設とされています。

境内には、江戸の文政年間に建設された晴明誕生の地を示す碑や、産湯の跡などがあり隆盛を極めましたが、幕末に衰退へ。

大正10年(1921)、50m南にある阿倍王子神社の末社として復興、大正14年(1925)には現在の社殿が建てられたといわれています。

能「鉄輪」

夫に捨てられた女が貴船明神に丑の刻詣をし、生霊となって恨みを果たせるという神託を受け、鉄輪を頭にいただき夫のもとへ向かう。

一方、 夢見の悪い夫は陰陽師・安倍晴明に祈祷を頼み、呪詛を励ます鬼人の力と陰陽道の調伏修法の力の戦いが繰り広げられる。

嫉妬、呪詛、復讐、凄 まじい女の情念が描かれる。

丑の刻参りと鉄輪の井
堺町筋を北に上がり、万寿寺通りを超え、松原通に出る手前の左側に不思議な路地ある。 … 続きを読む →


住吉名勝図会。

安倍晴明関連ブログ

陰陽師・安倍晴明の神秘は不滅
もともとは、修験道の祖とされる役小角(えんのおずの)などを生んだ賀茂氏が取り仕切 … 続きを読む →

清明は十二体の式神(識神)と呼ばれる鬼神を巧みにあやつって占いに活用したとされる。
その姿は奇怪で、鳥や獣などに姿を変えた。
清明の妻が式神たちの怖ろしい顔におびえるので、通常は石櫃(いしびつ)に入れて戻橋の下に封じ込めていたという。

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熊野九十 九王子の第二王子社 阿倍王子神社 


“あべの”の地名の由来となった安倍一族の氏神社で、一説には仁 徳天皇のご創建と伝えられています。

平安時代の初期、天長3年(826)弘法大師空海が、淳和天皇の勅命で当社に参り、疫難退散の祈祷を修して功なり、疫病を治癒する寺という意味の「痾免寺」(通阿倍)の勅額を朝廷より賜ったとされています。

また当社は藤原定家の日記 『名月記』の「後鳥羽院熊野御幸記」では窪津王子、坂口王子、コウト王子の次に、阿倍野王子と見え本来は第四番目の王子社でしたが中世の戦乱で途中の王子社が無くなり江戸時代から第二王子と呼ばれております。

『阿倍王子神社』の境内はそんなに広くはないのですが、両脇に樹齢500年の大きなご神木が4本あります。

境内には熊野神の神遣いである八咫烏(やたがらす)の 銅像が祀られており、願い事をすれば熊野三山まで届けてくださ るそうです。

天王寺蕪

大阪府大阪市天王寺付近が発祥地だといわれている(名のもと)。

「和漢三才図会」や「摂津名所図会大成」などにも収録されており、徳川時代から明治末期までが栽培の全盛だったが、耐病性の問題から大正末にはほとんど尖りカブに置き換わったとされる。

日本のカブは、西日本主流のアジア系(var. glabra)と、東日本の山間地に多く耐寒性に優れたヨーロッパ系(var. rapa)に大別されるが、天王寺蕪はアジア系であり、野沢菜はヨーロッパ系の特徴が強い。

現在野沢菜は、カブに由来する別の変種(var. hakabura:葉蕪)と考えられ、伝統野菜の漬け菜(稲扱菜、羽広菜、鳴沢菜、長禅寺菜)や紫蕪(諏訪紅蕪、細島蕪)は、いずれも近縁とみられる。

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神の使いであるカラス立ち会いのもと、お互いの約束事を神前で誓い合うわけで、もし、この誓いを破ったら、その報いとして、当人は血反吐を吐いて死に無間地獄に堕ちること確実とされ、そのとき、遠い熊野では神と人の間を取りもったカラスが3羽死ぬと信じられていたという。

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別名紹鴎森天満宮 天神の森天満宮


室町末期の茶匠・武野紹鴎が当地の森林に湧く泉水を愛し、歳月を送った所です。

北野天満宮の分霊を勧請して菅原道真公を祀っています。

境内には樹齢650年以上とい うクスノキの大樹があって、室町末期の茶 人・武野紹鴎が茶屋をつくり、風月を友に 静かに暮らしたので「紹鴎(じょうおう)の 森」とも呼ばれました。

天神ノ森天満宮の参道の「天下茶屋の仇討供養塔」。
別名「天下茶屋天満宮」と呼ばれています。

慶長14年(1609)天下茶屋で起こった仇討ち事件。

宇喜田秀家の家臣林重次郎・源三郎兄弟が父のかたき当麻三郎右衛門を追い求め、重次郎は返り討ちとなったが、源三郎が忠僕鵤幸右衛門とともに討ち果たしました。

この事件は歌舞伎に取り上げられ『敵討天下茶屋聚(かたきうちてんがちゃやむら)』というタイトルで天明元年(1781)大坂で初演、文化13年(1816)江戸で初演されています。

その間の文化11、12年にこの塔が建立されたのですから、これは、江戸初演の宣伝と観光需要を当て込んでの作り話だろという落ちになりそうだ。

子安石。「孕(はらみ)石」、「産(うみ)石」、「誕生石」とも言われ、古来より産婦保護・安産に霊験あらたかと信仰を 集める。

太閤さんも淀君が懐妊、住吉大社参拝の途中、安産祈願したと伝 えられています。

伊勢神宮の遙拝所と思われる。

境内に祀られている祠。

「白龍大明神」、「白髭龍王大神」、「白雪龍神」。

いずれも龍神が祀られており、水と何らかの関連があるらしい。

天満宮といえば牛はつきもの、年代物の像で貫禄がある。

門前は紀州街道が通る。

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幻の古代豪族・依羅吾彦の地を訪ねる


正式には『吾彦山大聖観音寺』と呼ばれる日本最古の観世音菩薩のお寺です。

大阪市住吉区にある日本最古の観音菩薩の寺院。
観音宗総本山。
通称あびこ観音。

石柱の表記は吾彦大悲観世音となっている。

西門付近の石柱は吾彦観音寺の表記となっている。

地域にある施設等の名称は、しばしば「あびこ」とひらがな書きされる。

ただし大阪市高速電気軌道あびこ駅については、旅客案内の上ではひらがなの「あびこ」表記だが、正式名称は漢字の「我孫子」である。

我孫子の地名、および一帯の旧地名・依羅(よさみ)は、古代にこの地に居住していた豪族、依羅吾彦(よさみのあびこ)に由来するといわれる。

異説としては、依羅は「寄網(よせあみ)」、吾彦は「網曳子(あみひこ)」が変化したものだともいわれ、一帯は古代には大阪湾に面した環境で、人々は当時漁業や狩猟の生活をおこなっていたことがうかがわれる。

南門から見たクスの大樹。

幹周/4. 8m、樹高/19. 5m、樹齢/約700年。

百済と交易をしていた依網吾彦の一族が百済の聖明王から一寸八分の観音像を贈られ、欽明天皇7年(546年)にこの地の人々がその像を祀る堂を立てた。

そして、推古天皇14年(607年)に聖徳太子がその観音像を祀る観音寺を建立したとされる。

1615年の大阪夏の陣の折、真田幸村に追われた徳川家康公がこの寺に逃げ込み、本堂の須弥壇に隠れて難を逃れたという話があります。

その後、家康公の寄進により再建され、江戸時代には徳川家の帰依もあり最盛期を迎え、境内に36の支院があったといわれます。

1881年(明治14年)、火災に遭い、多くの寺宝と共に焼失したが、1890年(明治23年)に再建し、復興を果たした。

1947年(昭和22年)5月18日、真言宗山階派より独立し、観音宗を設立した。

1月・2月に行われる護摩祈祷がよく知られている。

修験道形式の天蓋護摩(てんがいごま)で、奉書などで作られた紙製の天蓋を護摩炉の上に吊す。
天蓋は護摩炉の炎が近くに至っても燃えないという。

節分祭 あびこ観音
通称あびこ観音。 山門付近の石柱は吾彦観音寺の表記となっている。 あびこの名は、 … 続きを読む →

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止止呂支比売命神社


若松神社が地元の愛称です。

ご祭神は、素盞鳴尊・稲田姫命を祀りま す。
式内社ですが創建年代は不明です。

神功皇后の創設とも言われ、住 吉大社の摂社(奥の院)でしたが、明治4年(1871)、独立分離して村 社となりました。

若松神社の名は承久3年(1221)、後鳥羽上皇が行幸 したさい、津守経国が境内の松林の中に行宮を造り、若松御所と名付 けた事によります。

境内に「御鳥羽天皇行宮跡」が建立されています。

目的は住吉の豪族津守一族をはじめ、大和、河内の兵隊を集めるためである。承久の乱の始まり。

承久の乱:

鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。

武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いである。

北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。

社名のトドロキとは当時の境内にあった橋の名前から由来していると考えられる。

また、稲田姫を『止止呂支比売』(トドロキヒメ)と呼んだことから由来する説や境内に流れていた小川がせせらぐ音、『轟く』(トドロキ)から転訛したことが由来とする説もある。

本殿側面。

本殿正面。


願いの御神水

境内から湧き出る水を溜め神札へ願いを書いて神様に届けていただける場所が設けられています。


明治40年(1907)、霰松原の「霰松原荒神神社」(天水分豊浦命社)、明治42年(1909) に遠里小野の「農神社」が遷座、合祀されています。

霰松原
古代、住吉のあたりは海岸に沿って美しい松林が連なり、あられ(霰)が吹きつけるよう … 続きを読む →


「天水分豊浦命社」社号標石

黒長社:黒長大神を祀る

古来より存在している、当社の「神木」と「神木に棲む蛇」への信仰に基づく神社とされる。

願望成就の霊験が得られるとされている。

遥拝所。

境内社:稲荷社。

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宝泉寺 十三仏


住吉大社の近くに建つ宝泉寺は、982年往生要集を著した恵心僧都(源信)が念仏坊という草庵を開いたのが起源と伝えられているが、1571年宝泉和尚が宝泉寺として再興したのが実質上の開創といわれている。

十三仏は 元亀年間(1570~73)に、旧住吉村字石本(神ノ木駅付近)にあった巨石を刻んだもので、釈 迦如来以外の十二仏は「干支の守り本尊」として信仰されています。

十三仏を彫り出す例としては、板碑に刻む例が多く、南北朝時代から始まったといわれている。

宝泉寺の十三仏石仏は、16世紀後半~17世紀初期に彫られたと推定されている。

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聖徳太子建立と伝わる 一運寺


推古21年(613)に聖徳太子が建立して最澄、空海、法然などもご説法なさったという 住吉きっての名刹。

山門の石碑には。
『(右側)日本諸宗祖師御旧跡、
 (中央)仏法最初聖徳太子御建立之地、
 (左側)元祖圓光大師御旧跡』の文字が刻まれている。

(仏法の法の字は石碑ではサンズイ偏に大の下にムの字が書かれている)
この碑文にあるように、伝教大師、慈覚大師、弘法大師、圓光大師(法然上人)等が住吉大社に参籠の際、当寺に立ち寄っている。

聖徳太子がある夜、夢をご覧になった際、西方の地より天に昇る光を見て、燐然とする白光に驚かれ、尋ねられると「住吉の地こそ実に過去七佛転法輪の処」と声があって目覚められました。

そこで、ここ住吉の地に七堂伽藍を建立したのが一運寺の始まりと伝えられており、遠く聖徳太子の故郷、飛鳥へつながる小さな径という意味を込めて名付けられました。
と書かれている。

寺ではちぅうど屋根の吹き替えの真っ最中でした。

こまもり地蔵。

境内には、赤穂浪士である大石義雄・主税父子、寺坂吉右衛門の墓があることで有名です。

むかし住吉に龍海寺という寺があり、赤穂四十七士の墓がありました。

天野屋利兵衛の菩提寺で、義士の墓を建てていましたが、明治維新の初め廃寺となり、墓石は持ちさられました。

一運寺の当時の住職が、危く残された三つの墓を一運寺に移し、以後懇ろに供養されています。

利兵衛は討入り用の槍を堺の職人に製作依頼しましたが、職人たちは突然の 臨時収入に喜んで住吉の料亭・三文字屋で豪遊しました。

このとき隣座敷に町奉行がい て「なぜ槍などを作るのか?」と怪しまれ、利兵衛は捕縛、拷問されます。

しかし義理堅 い利兵衛は「天野屋利兵衛は男でござる!」と啖呵を斬って吉良邸討ち入りが終わるま で決して口を割りませんでした。

ちなみに捕物劇の舞台となった三文字屋は、現在では 奇しくも住吉警察署となっている。

赤穂事件を題材にした「忠臣蔵」の物語において、赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援をした「義商」として知られているが、実在の天野屋利兵衛は赤穂藩や浪士と関係の無い人物であるという説もある。

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生根神社


住吉大社より古くから当地に鎮座していたという伝 承がある。

ご祭神は少彦名命で、現在の本殿(大 阪府指定重要文化財)は淀殿の寄進で造営されまた。

唐破風付き入母屋造りの拝殿。

総木曽檜材にて桃山時代の建築様式を取り入れた造りとなっている。

住吉大社元摂社である。
通称は「奥の天神」・「奥天神」。

「奥の天神」と称される所以は、住吉大社から見て大海神社の奥(北側)に鎮座すること、また文明十四年(1482年)に境内に天満宮を勧請したことで天神と呼ばれるようになったことによるとされている。

また御祭神の少彦名命を天津神として「沖の天津神」から出たという説もあるようです。

御神木・モチの木。

推定樹齢500年で、大阪市の保存樹に指定されています。

境内社の天満宮の菅公木製御神像は、文明14年 (1482)、天台法主・融円律師作で国宝級の価値を有 している。

菅公像は時代を経るにつれて怒顔から 笑顔に変わる傾向がありますが、木製御神像は無表情で過渡期にあることがわかります。

本殿東側 にある神明穴立石は少彦名命ゆかりの海浜の石を運 んで「何首鳥」(漢方薬、強精剤の名前)と刻んで崇め たもので、和歌浦より一夜で住吉浜までやってきた …という伝説もある。

穴の位置は東西を向いて 伊勢神宮を遥拝するように立てられている。

参照:
万葉集と古代史の謎 和歌浦逍遥
神亀元年(724年)2月に即位した23歳の聖武天皇は、同年10月に和歌の浦に行幸 … 続きを読む →

玉津島は古くは「玉出島」とも称されたが、大阪市西成区玉出には生根神社が鎮座しており、そこは元々、一帯は住吉大社の神領であったことから、何かしらの関係性を期待できるところもあるといった記述を散見する。

境内角に住吉区東粉浜と帝塚山東の町名表示が掛かり、その境界に「旧東成郡西成郡境界」の碑が建っている。

ここは住吉郡では?奈良時代から続く歴史ある「住吉郡」が消えさった時期があったのです。
明治29年(1896)に東成郡となりました。

「住吉」が「住吉区」として復活するのは、大正14年(1925)のことです。

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