大雲院特別公開

天正15年(1587年)、正親町天皇の勅命を受けるという形で、貞安(じょうあん)を開山として、織田信長の子信忠の菩提を弔うために、信忠が討たれた二条御所跡(烏丸御池)に創建したのが初めで、大雲院という寺院名は、信忠の法名からつけられた。

正面左側の廻縁に大理石製の釈迦涅槃像が。

まず、正面の入口は総門。
東京から移築されたもので、旧宮家の門と伝えられている。

織田信長と子信忠の墓。

境内墓地には石川五右衛門の墓があり、これは処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁による。

祇園閣 – 1928年(昭和3年)に建築された3階建ての建物で、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部。

屋根は銅板葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったため。

祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太。
1997年(平成9年)12月12日、国の登録有形文化財に登録された。

先端によく見ると鶴がついています。
通常は鳳凰を飾るが、建てた人物の幼名「鶴吉」に因んだもの。


高台寺境内からの大雲院 祇園閣。

日本画の巨匠竹内栖鳳が昭和のはじめに構えた私邸跡のレストランTHE SODOH HIGASHIYAMAからの大雲院 祇園閣

生け花が飾られライトアップされた大雲院 祇園閣。

開山の貞安(ていあん)上人は有名な安土論争で信長の知遇を得、出世の糸口をつかみます。

貞安上人は、『信長公記』に「浄土宗は、墨衣にて、如何にも左道なる仕立、関東の長老、安土田中の貞安長老二人、是も硯・料紙を持ち候て、出らる。」「貞安問ひて云ふ、法花八軸ノ中ニ念仏有ルカ」と記されている僧です。

天正7年5月、安土城下の浄厳院で行われた法華・浄土宗論の当事者の一人となった人。

宗論で勝った貞安は織田信長の知遇を得ます。

「信長公厚く帰依し給ひ、江州八幡に西光寺を建立して、貞安ここに住職す」。

その織田信長・信忠父子が天正10年(1582)の本能寺の変で亡くなります。
そのことを伝え聞いた貞安は京都に上り、正親町天皇の命により信長・信忠の菩提を弔うために、二条烏丸あたりに一宇を建立します。

信忠の法名が大雲院殿三品林仙厳大居士ということから、「大雲院」と号したのが、当寺の起源。
そして、天正18年(1590)秀吉の命により寺町四条下ルの地に移転。

「信長が法華宗を不当に弾圧した」という歴史学上の見解には非常に疑問が残る。

安土宗論(あづちしゅうろん)は、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。

安土問答とも称される。

織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われた。

法華宗は信長の意図的な弾圧により、敗れたとされ、処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。

浄土宗側は、黒染めの衣で、質素ないでたち、霊誉と、安土田中の西光寺の聖誉・貞安(せいよていあん)、正福寺信誉洞庫、知恩院一心院助念の4人が筆記用具を持って登場。

法論の出席者は以下の通り。
浄土宗側 – 霊誉玉念(浄蓮寺)、聖誉定(貞)安(西光寺)、信誉洞庫(正福寺)、助念(知恩院、記録者)
法華宗側 – 日諦(常光院)、日珖(頂妙寺)、日淵(久遠院)、普伝(妙国寺)、久遠院大蔵坊(記録者)
判定者 – 鉄叟景秀(南禅寺、建仁寺)、華渓正稷(南禅寺帰雲院)、仙覚坊(法隆寺)、(因果居士)
名代 – 津田信澄
奉行 – 菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一
目付役 – 矢部家定、森蘭丸

史料の信憑性

日蓮宗側の論拠は主に「安土問答実録(著者・日淵)」「因果居士記録(因果居士から聞き取ったとされる)」だが、この2つの史料には問題がある。

前者には因果居士が登場せず、後者には日淵が登場しないのである。両者を統合しようとする考えとして、「日淵が因果居士のことを書き忘れた。

そして日淵は日雄(因果居士記録に登場)と同一人物である」とする説がある。

しかし「因果居士記録」において、因果居士は宗論に非常に大きく干渉して、浄土宗側を勝利に導いた立役者となっており、その名前を書き忘れるのは甚だ不自然であることや、日淵=日雄を立証する史料が見つかっていないことなどから、少なくともどちらかは虚偽だと思われる。

ちなみに信長は、宗論後も本能寺を始めとした法華宗の寺を宿泊施設として使っており、信長側が不正をしていない傍証になる。

ルイス・フロイスの『日本史』でも、信長公記と全く同じ流れで宗論が進んでおり、やはり「妙」のところで法華宗側が回答に詰まって決着がついている。

宗論の項冒頭にフロイスが書いている通り、彼にとっては法華宗も浄土宗もどちらも「悪魔の教え」として完全否定すべきものであり、また「彼らはなんら哲学的知識を持っていなかったので」などと両者とも蔑視している。

つまりフロイスが浄土宗の勝利のために信長と口裏を合わせる理由は全くないと言え、信憑性は高い。

結論として、「信長が法華宗を不当に弾圧した」という歴史学上の見解には非常に疑問が残る。

信長がこのようなことを主催した動機については、予ねてから法華宗をどう諌めようか想定していたから、という説が有力である。

一応、経済的に豊かであった法華宗寺院及び信者から矢銭を調達するための策略であった、という説もあるが、当時すでに織田家は非常に裕福だったと思われることや、天文法華の乱の被害規模を考えれば、利益とリスクが全く釣り合わない話である。

井沢元彦も「もし信長が法華宗を嵌めたのなら、なぜ素直に詫び証文を書いたのか、また当時の宗教は世俗の権力に徹底的に反抗するのが常であり、特にその傾向が強い法華宗がなぜ大規模な法華一揆を起こさなかったのか」と指摘している。

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堺散策


河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) – 1945年(昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧侶。

仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。
僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。

中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。
日本人として初めてチベットへの入国を果たした。

1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへ。

摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。

およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。

その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。

日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにした。

堺博物館所蔵の河口 慧海画。

現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。

冬日の萬福寺
隠元禅師は中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持だった。 日本からの度重なる … 続きを読む →

河口慧海にチベット行きを決意させたのが、京都・宇治にある萬福寺・塔頭「宝蔵院」の一切経の版木だった。

種子島に伝わった鉄砲の製法を橘屋又三郎などが堺に伝えてから、堺は日本一の鉄砲生産地になりました。

現在、江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一の貴重な建築物で、市の指定有形文化財になっています。

江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、「元禄二年堺大絵図」にも記載されており、わが国の町家建築としても最古の部類に属するとともに、堺を支えた鉄砲の生産現場が残されている建物としても貴重です。

大坂夏の陣の後、新たな町割が行われ現在に続く堺のまちが形成され、堺は鉄砲や包丁、織物などの製造業を中心に発達し商業のまちとしても成熟していきます。

北旅籠町一帯、特に鉄砲鍛冶屋敷周辺は当時の面影を多く残し、切妻造、平入りの建物からなる当屋敷は、江戸初期の鉄砲鍛冶の生活がしのばれます。

紀州街道 市内延長5.4キロメートル

江戸時代に紀州・泉州の交易ルートとして栄えた道。

大道筋の東側には多くの古い町並みが残り、材木町東一丁の商店街には「右住よし 大さか」などの文字が刻まれた道標を見ることができます。

阪堺電気軌道1001形電車
「堺トラム」

阪堺電気軌道1001形電車は、2013年8月25日から営業運転が開始された、阪堺電気軌道が保有する路面電車車両。
車両の愛称は「堺トラム」。

上町線の天王寺駅前から住吉を経て阪堺線の浜寺駅前までの間で毎日定期運行されており、3編成のうちいずれか1編成がその運用に充てられている。

土佐藩士割腹跡の碑

妙国寺境内に建つ慰霊碑。

中央に建つ三基の石碑のうち左側は「土佐藩十一烈士之英霊」碑と右側は「佛国遭難将兵慰霊碑」。
この碑は1916年(大正5年)仏首相クレアマンソーが戦死した仏兵の碑を並び建てることを条件に承諾した。

堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)

王政復古直後の攘夷事件。
1868年(明治1)2月15日,当日堺に入港したフランス軍艦の水兵が上陸し周辺住民に乱暴を働いたため、同地警備の土佐藩兵が襲撃し11名を殺傷した事件。

このころこうした事件が相次いだが、成立したばかりの新政府は外国と事をかまえることの不利を考えて、箕浦猪之吉(隊長)以下20名(うち9名は、フランス艦長の申し出により助命)の土佐藩士に切腹を命ずるなど、フランス側の要求のすべてを認めた。

ウィキペディアより

堺環濠都市は、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた貿易都市。
   
この地点(SKT960)の調査では環濠都市「堺」を象徴する4条の環濠が発掘された。

なかでも環濠1は幅17m、深さ4.5mの二段に掘られた巨大なもので、これまで確認されている環濠の中で最大級のもの。

環濠の北側には掘った土を盛り上げて土塁を造り、環濠都市「堺」の防御性を高めていた。

「黄金の日々」を謳歌した環濠都市「堺」の繁栄を如実に示す環濠といえる。こ

れほどの大規模な環濠も豊臣秀吉の命令で埋め戻されますが、これらの4条の環濠は、今日に続く環濠都市「堺」の出発点と言える記念碑です。

画像の人の大きさから堀の大きさが推定される。

浄 因 寺

錦光山浄因寺は、天文(てんぶん)年間(1532~54)紀伊雑賀(きいさいが)の郷士、名和修理介(なわしゅりのすけ)が本願寺顕如上人(けんにょしょうにん)紀州鷺ノ森(きしゅうさぎのもり)在寺中に功労があり、上人より尊正(そんしょう)の法号を授与されたので天正6年(1578)に、堺桜之町西七堂浜に一寺を開創したのが始まり。
  
和泉の国を守護していた藤堂高虎(とうどうたかとら)が「慶長の役」出陣の際、預かった庶子が後に出家して第7世住職尊順(そんじゅん)となる。 

その後大坂夏の陣(1615)の大火により焼失、現在地に移転。  

当寺ゆかりの人物で、日本演劇界に喜劇王として千以上の脚本を書き、製作・演出・俳優の四役を兼ね、喜劇王いわゆる「五郎劇」を始めた曾我廼家五郎は、幼少のおり浄因寺第15代住職祖父幻中然学(まもなかねんがく)にひきとっられて、生母の実家である当寺に居住していましたので、ここは五郎の住居跡でもあります。

浄得寺

大阪府堺市堺区にある寺院。
700年代、行基により建立。
通称、海船御堂と呼ばれている。

かつて、北旅籠町西に存在した海船の浜付近に位置していたため、海船御堂と呼ばれるようになった。

月蔵寺

大野道犬斎治胤の墓

宇賀徳社と供養塔の間にひと際目を引く南無阿弥陀佛の名号が彫られた大きな五輪塔がある。
豊臣秀吉側近の重臣で大野三兄弟(治長・治房・治胤)と称された内の三男、大野道犬斎治胤の墓である。 

父は大野佐渡守道犬で、内裏の修理造営職を掌り官位は太夫に次ぐ亮であった為に大野修理亮道犬と呼ばれた。

母は浅井長政の三姉妹の一人で、秀吉の側室である浅井茶々(淀君・淀殿)の乳母を勤めた大蔵卿局。

尚、三男の治胤は父道犬の名を採って大野道犬斎治胤と称した為に、一部の歴史文学書の間で父子を混同しているものがある

風間六右衛門の墓

長谷川藤広は着任以来病床にあり、元和三年(1619)十月二十六日に没した為に町割りは風間六右衛門の独断で進められたが、風間奉行はその昔越後・信濃両国を治めて日蓮聖人の弟子日昭上人を外護した篤信者、風間信昭の後裔であった所為か、法華寺院の敷地を他宗に優先して広く配置した。

特に千利休ゆかりの南宗寺はもと宿院町にあった寺域から新たに拡張された堺の南端に振り当てられた為に、当然南宗寺を始め他宗僧俗からの非難が激しく起こり、江戸の寺社奉行は元和四年(1615)八月十四日に風間奉行に急使を送り、八月十五日に出頭するように命じてきた。

到底不可能な江戸到着命令を熟慮した風間奉行は江戸に向かう途中、並松の刑場辺りに至った時に籠の中で自刃してこれに応じた。

享年四十七歳、堺を再建する町割りに際しては町の殷賑を願うのみで他意のなかったことを自らの命を以て上奏したと考えられるが、町割り自体には些かの修正を加えられることもなく、寛永の頃には風間奉行の描いた通りに実現された。

その後約七十年を経て復興がなされた頃、元禄二年(1689)の『元禄堺絵図』を見れば、整然と整備された街並みと、他宗寺院に比して法華寺院の敷地が広大であったことや、柳寺町辺りの道路がこの地図に示された状態で現在も往時の佇まいを残していることがよく分かる。

本願寺堺別院

堺市内最大の木造建築で「北の御坊」とも呼ばれ、現在の本堂は文政8年(1825年)に再建されたもので、明治4年(1871年)の廃藩置県後から10年間堺県庁として使用されていました。

明治維新当初の堺県は旧天領地だけでしたが、明治2~9年に河内県、丹南4県、奈良県などを合併して、近畿でも有数の大きな県になりました。

広大な県域を有し独自の県政を行った堺県でしたが、政府の大阪府域拡大の方針で明治14年(1881年)に県域を府に併合され、その歴史に幕を降ろしました。

堺県の廃止後、境内地と建物は浄土真宗本願寺派へ返還され現在に至っていますが、堺県庁跡として府指定の史跡となっています。

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幻の堺幕府と三好一族を訪ねる

堺では信長に先駆けること、その直前20年に三好長慶による堺幕府がありました。

海船政所跡

所在地: 堺市堺区桜之町西3丁他

海船政所(海船館とも)跡は、南海「七道」駅を降りてすぐ南に歩いていったところに石碑と案内板がありました。

四国阿波の三好長輝は堺と関係の深い細川氏の先鋒として北国の兵を京都で破り、細川澄元を援助し、足利幕府の管領に据え、その後見人として権力の座に就きました。

長輝は京都に近く、阿波に渡るのに都合のよい堺に目をつけ、永正元年(1504)2月、海の見える海船町に館を建てることを計画、京都から堺に来て4月から工事を始めましたが、完成は孫の元長の代になり、大永元年(1521)3月に政所の号をもらいました。

その規模は桜之町3丁付近を中心に東西360歩(約652m)南北これに倍しとあり、錦之町にあった梅黄寺も政所跡といい伝えられていることから相当広い区域であったと想像されます。

建物は、館の中央に高楼を作り、楼上より常に四方を監視し、一旦ことが起きると鐘・太鼓を打ち鳴らし一族郎党に知らせたといいます。

元長歿後、政所は長慶・義興・義継三代相次いで、ここに住み、この政所は摂河泉(摂津、河内、和泉の国)の各支城の本城的な役割も果たしました。
『海船政所跡案内板』より

善長寺 縁起

勝軍山・善長寺は、天文18年(1549年)に三好政勝が、父宗三の菩提所として、宗三戦死の日(6月24日)を以て開基と定め、浄土宗粟生光明寺(京都)の顕空上人を請して開山とし。

三好政長(宗三は法名) 1491~1549
        従四位少将三好善長公・越前守

阿波の大名三好一族の武将、かの三好長慶も一族の一人で共に室町幕府の管領細川晴元の家臣として仕えた。

時あたかも戦国時代、下克上の世、畿内で次第に勢力を伸ばした三好長慶は一族の長老三好政長の存在がうとましく、政長の讒言によって父元長が誅殺された恨みもあり、晴元に政長父子の誅殺を請うたが受け入れられず。

これがため、晴元に叛旗を翻した長慶は晴元・政長と敵対した。

摂津国江口城に籠城した政長は援軍間に合わず、長慶軍の猛攻に会い討ち死にした。

細川晴元は将軍足利義輝を伴って近江に逃避、三好長慶が洛中で天下を手中にする。

三階菱に五つ釘抜

大永7年(1527)2月、丹波の波多野稙道・柳本賢治とそれに呼応した三好元長軍が管領・細川高国軍を桂川原の合戦で打ち破り、室町幕府は機能不全に陥りました。

同年3月、細川晴元と家臣・三好元長は、逃亡した12代将軍・足利義晴の兄・足利義維(よしつな)を擁して、兵8000とともに和泉国堺に上陸。

7月に義維が朝廷から次期将軍に与えられるのが慣例の従五位下・左馬頭に補任されると、晴元と元長は堺の顕本寺を本拠に「室町幕府」に代わる幕府体制を築き、近畿一円にその勢力を伸ばします。

こうした動きに朝廷は、逃亡中の将軍・義晴も無視できず、義維に将軍職を与えることこそなかったものの、実質的には「堺幕府」を認めていました。

このことは当時の公家たちの日記にも「堺公方」「堺大樹」「堺武家」などという表現があります。

この「堺公方府」ですが、三好元長などの阿波国人衆だけでは維持できず、柳本賢治などの山城・摂津国人衆の連合体にならざるを得ませんでした。

のちにこられ連合体が内紛の元となり、「堺公方府」は成立してから僅か5年後の天文元年(1532)細川晴元の要請で集まった10万の一向宗徒によって崩壊してしまいます。

三好元長戦死の碑、開口神社

三好元長は室町幕府管領の細川国高と将軍擁立を巡って死闘を繰り広げた阿波の武将。

その子供に三好氏をもっとも栄えさせた長慶がいる。

元長は堺に堺幕府を開くべく将軍を擁立し、京都の将軍を擁立する細川高国と争った。

一進一退の末、本願寺一向宗の一揆にとどめを刺され、この地で戦死したという。

この開口神社の近くに堺幕府の置かれた顕本寺があった。

顕本寺

大永7年(1527年)に細川晴元と三好元長が阿波から足利義維を迎え堺幕府(堺公方府)を樹立した(義維は堺公方または堺大樹と呼ばれた)。

しかし、享禄4年(1531年)6月に高国を討ち取った(大物崩れ)後の晴元は、翌5年(1532年)6月に袂を分かった元長へ一向一揆を差し向けた。

そのため当寺へ逃れた末に元長が自害に追い込まれると、後ろ盾を失った足利義維は阿波へ逃がされ、堺幕府は滅んだ。

元長の殉難地ということもあり、その後も三好氏一族との結びつきは続き、元長の息子三好長慶、実休らの軍勢が寄宿する免許を得たり、元長の二十五回忌の法要が行われた。

顕本寺にある長慶の墓。

三好氏の菩提寺南宗寺惣門

南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。

弘治3年(1557年)当時、畿内髄一の実力者に上り詰めた河内飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建した。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。

大坂冬の陣において、徳川家康が後藤基次に槍で刺されて落命したという伝説があり、密かに家康をお祀りしたとされている。

2014年7月6日、三好長慶公の座像建立除幕式

「戦国天下人 三好長慶公 1522-1564
文武相備在家菩薩」とある。

晩年の三好長慶は、穏やかな暮らしを望んでいたと言われています。

彼は風流を好み、身のこなしも爽やかで、大言を言う事もなく、唄や茶を好みました。

合戦に行く時も、連歌仲間に 「ちょっと用事を済ませてきます」 と言って出立していき、そして帰ってきた後に、勝ち戦や武功を自慢する事もなかったと言います。

元々、彼が 細川家 と戦ったのは お家再興 のためであり、己の「野望」はなかったようです。

ですが、だからこそ、野心家である 松永久秀 や、権威の回復に燃える 将軍・足利義輝 に付け込まれたのかも知れません・・・

三好長慶 の死によって、近畿には再び権力闘争の嵐が吹き荒れます。

そんな中、それを利用して 将軍・足利 義輝 が三好家の追放と 京都 の奪還を狙いますが・・・

三好家 の重要な家臣団 「三好三人衆」 は、松永久秀 と共にこの将軍 「足利義輝」 を暗殺してしまいます。

彼らは 足利家 の親類を別の将軍として擁立しようとしますが、「将軍殺し」 である彼らへの風当たりは強く、各地で内乱も発生してうまく行きません。

その結果、三好三人衆 と 松永久秀 はケンカ状態となり、ちょうどそこに 織田信長 が 足利義輝 の弟 「足利義昭」 を奉じて京都に進軍して来たため、あっという間に 三好軍 は敗退、京都 や 大阪 も 織田信長 によって支配されてしまいます。

大和の国主である 松永久秀 は独立して 織田家側 に付き、残った四国の領土も、「土佐(高知県)」 の 「長宗我部家」 の侵攻を受け、次々と敗北・降伏していきました。

こうして、戦国初期に最大勢力を誇った 三好家 は、跡形もなく消失する事となります・・・

妙国寺

三好実休は大永7年(1527年)、三好元長の次男として生まれる。

生年には大永6年(1526年)説もある。

兄に三好長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長がいる。

早くに父が戦死したことで、幼少期から政治的に重要な立場となった。

署名に長慶と実休の幼名が記されている「三好千熊丸・千満丸寄進状」の日付は天文元年8月9日(1532年9月8日)であり、これは父の死から数えて49日にあたる。

兄・長慶は細川京兆家の当主・細川晴元に仕えたが、実休は晴元の従兄弟で阿波細川家の当主・細川持隆に仕えた。

四国における影響力を保持する狙いがあったと見られる。天文8年(1539年)には、持隆に付き従い、伊予国における河野氏との合戦[10]に三好勢の責任者として参加した。

天文13年(1544年)、兄に従って京都に入り、天文15年(1546年)までに豊前守を名乗るようになった。

細川晴元と対立する細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らに対抗するため、天文15年秋に阿波の軍勢を渡海させ、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いで大勝した。

その後も兄・長慶の勢力拡大に従って伊予・讃岐・和泉など各地に転戦している。

また、弟の十河一存が和泉岸和田城主となったため、讃岐も事実上支配下に組み込むなど、三好家の四国方面の政治・軍事を担当した。

天文22年(1553年)6月に細川持隆を見性寺で自害に追い込み、その子・細川真之を阿波細川家の当主として擁立した。

この時、持隆派であった久米義広、佐野丹波らが反抗したが、実休はこれも打ち破り(鑓場の戦い)、阿波細川家の実権を完全に掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を三好政権の統制下においた。

実休は、持隆とその一党を、兄・長慶の政権安定の為に排除し、阿波を掌握しようとした。

しかし、実休を憎む者、妬む者、また細川真之に接近する者が少なくなく、その者達との暗闘を実休は強いられ、完全に阿波を掌握することは出来なかった。

天文23年(1554年)から天文24年(1555年)の播磨遠征、永禄元年(1558年)の北白川の戦いでは四国勢を率いて参戦。

永禄3年(1560年)に兄と共に河内守護・畠山高政や安見宗房らと戦い大勝し、彼らを追放した後の河内の守護を任された。

しかし永禄5年(1562年)、紀伊国の根来衆の援助を得た畠山高政の反撃を受け、久米田の戦いで戦死した。享年36。

また、寵愛の小姓や近習らも悉く討ち死にしたという。
跡を子の三好長治が継いだ。

実休が討死した際、長慶は飯盛山城で連歌の会の最中であった。
実休の訃報を聞いた長慶は動ずることなく、「蘆間に混じる薄一むら」(「薄に交わる蘆間のひとむら」とも)という前句に対して、「古沼の浅き潟より野となりて」と返し、参加者達を感嘆させた。

しかし、実際には武野紹鴎に茶道を学び、妙国寺を創建したりと文化への造詣は深く残した功績も大きい。

これは父の三好元長が堺の町衆との間に深い人脈を持っていたことが、実休が茶人達と交流する切っ掛けとなった。

堺の有名人の内、最も実休と親しくしていたのは津田宗達(津田宗及の父)であり、他には、今井宗久、北向道陳、千利休などとも交流し、彼らを自室に招いている。

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真夏の霊山寺

バラの開花期も終わり静けさを取り戻した霊山寺、真夏の散策です。

仙人亭の前は蓮の花が今を盛りと咲く。

バックにこんなかわいい像がいるんです。
でも、今日は仙人亭はお休みなのです、だから弁当持参です。

開基の行基さんいつもにこやか。

木漏れ日が優しい。

木漏れ日の中に噴水の波の輪がキラキラ。

放生池のほとりに咲き残りのアジサイ。

池から湯屋川に流れ込みます。

湯屋川も緑のトンネルでとてもいい雰囲気。

タテ構図でもう少し木々を入れてみる、こちらのほうが雰囲気あるかな。

本山寺務所への階段。

本堂への階段、この日も、最後の力を振り絞って大勢の信者が昇っていきました。

三重塔へ向かう。

緑のトンネル、木漏れ日の中を進む。

振り返ってもう一度雰囲気を確かめる。

三重塔。

千体不動滝、どこか霊気が漂う。
滝の両側に小さな仏像が無数に。

滝の落ち込みは竜。
竜の周りも無数の小さな仏。

千体仏をズームアップ、小さな像に細かな細工、落ち葉の大きさで千体仏の大きさを推測してください。

何度か訪れていますが、今まで見落としていました。もったいない。

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驟雨


霊山寺での撮影会、ちょうど右側のお堂のひさしの下でお弁当を広げていた。

いきなりポツリ、ポツリ。

そのうちバケツをひっくり返したような降り。

いわゆる驟雨ってやつですね、驟雨(しゅうう, 英: rain showers)は、対流性の雲から降る雨のこと。

英語のrain showersってそのものずばりだね。

対流性の雲とは、積雲や積乱雲のこと。

これらの雲は、大気が不安定な時に上昇気流により垂直方向にもくもくと発達する一方、水平方向への広がりが小さい。

そのため、一つの雲が通過する際に降る雨は、平均で十分程度、長くても数十分であり、すぐ止んでしまうのがふつう。

しかし、後で聞くと結構あちこちで大暴れしたようだ。

終わりかけたアジサイも激しく雨に打たれる。

シャッタースピード1/320

当日の夕刊に雨粒の形についての寸評が掲載されていた。

雨粒は降り注いでいるとき、どんな形をしているのだろう。

肩にふわりと止まる雪や地面を打つ霰に比べれば、ひと粒ひと粒の像が浮かんでこない。

実際は扁平な饅頭のような形であるらしい。

教育学者、左巻健男氏の「水の常識ウソホント77」(平凡社新書)に教わった。

空気の抵抗で横につぶれるためという。

イラストで見かける「涙」形が、はなはだ間違いであることがよく分かった。

水というものは人の体に入り、心のひだを通って初めて涙の形になるのかもしれない。

1/10秒になるとつながってしまう。

叩きつけるような雨ってこういうのを言うんだね。

約30分間の雨でした。
蓮もみずみずしく新鮮に見える。

ムクゲもすっかり雨に濡れた。

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勧修寺の半夏生

『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。

胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。

山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。

勧修寺には、見所がたくさんあります。これはさざれ石。

藤原高藤と宮道列子に関する説話

『今昔物語集』巻22「高藤内大臣語 第七」には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。
藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。

ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。

勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。

翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。

その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。

それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。
列子には娘がいた。

6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。
この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。

半夏生の頃(毎年7月2日頃)に花を咲かせることから半夏生(ハンゲショウ)とよばれています。

また、葉の一部分を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説もあります。
見頃は6月下旬から7月上旬。

庭は勧修寺氷池園という池泉庭園である。

中心を占める池は氷室の池といい蓮で知られており、平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。

この「氷室池」は、山科区内でも有数の水面らしく、年によっては冬にかなりの数のガンカモ類などが羽を休めます。

トンボが忙しく飛び回る。

シノブが涼し気に・・・・

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若狭の古刹・名刹 若狭姫神社

若狭姫神社は、本殿は享和2年(1802)造営の正面3間、側面3間、向拝1間の流造桧皮葺の建物。

本殿を囲む瑞垣(透塀)の内部には千年杉で有名な神樹が聳(そび)え、千古の神域を一層森厳にしています。

神門(中門)は、享和3年(1803)の造営、随神門は寛保3年(1743)の造営で、ほぼ上社と同じつくりとなっています。

入口には木造の鳥居、真っ直ぐに続く参道の先には入母屋屋根の門が建っている。

小浜市を代表する神社・若狭姫神社の千年杉。幹周/6.0m、樹高/30m、樹齢/約500年。
  
本殿、随神門は流造桧皮葺でいずれも県の重文に指定。

若狭姫神社(下社)は安産・育児に霊験があるとされており、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などが存在。

現在ほとんどの祭事は下社・若狭姫神社で行われており、神職も下社にのみ常駐。

本殿の周囲には玉垣が巡らされ、正面に神門が置かれている。

正面の間口三間の流造で、向拝部分には前室が設けられている。

若狭彦神社の本殿には千木と鰹木が置かれているが、こちらの本殿の屋根には千木も鰹木も無い。

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若狭の古刹・名刹 若狭彦神社

若狭彦神社は、福井県小浜市にある神社。式内社(名神大社)、若狭国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

上社・下社の2社からなり、上社(小浜市龍前)を「若狭彦神社」、下社(小浜市遠敷)を「若狭姫神社(わかさひめじんじゃ)」という。
別称として郡名から「遠敷明神」とも呼ばれる。

一の鳥居。

社伝では、二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったという。
和銅7年(714年)9月10日に両神が示現した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。

翌霊亀元年(715年)9月10日に現在地に遷座した。
白石の前鎮座地には、若狭彦神社境外社の白石神社がある。

下社・若狭姫神社は、養老5年(721年)2月10日に上社より分祀して創建された。

二の鳥居。

若狭彦神社(上社)の祭神である山幸彦「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)」は兄、海幸彦の道具で釣りをしている時、誤って針を無くしました。

針の行方を聞くため海神のいる竜宮城へ行った山幸彦は若狭姫神社(下社)の祭神である豊玉姫と出会い、そのまま結婚してしまいました。

楼門(随神門)。

何年か経ち、やはり海幸彦の針が気になってしようがない山幸彦が海神に相談したところ。
のどにその針が刺さった鯛が見つかり、無事針が見つかりました。

竜宮城から戻り、海幸彦に針を返した山幸彦は豊玉姫と幸せに暮らしたそうです。

神門。

神紋は「宝珠に波」。
これは彦火火出見尊(山幸彦)が龍宮で手に入れた潮を自在に操る潮盈珠・潮乾珠に因む。

若狭彦神社は畳・敷物業の神ともされ、現在はインテリア関係者の信仰も集める。

現在はほとんどの祭事は下社・若狭姫神社で行われており、神職も下社にのみ常駐している。

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若狭の古刹・名刹 神宮寺

毎年3月2日、奈良東大寺二月堂に香水を送る「お水送り」神事を行っています。
若狭では、お水送りが終わると春が訪れるといわれています。

山門からは長い参道が続きます。

山号霊応山。天台宗。
 
若狭一の宮の神願寺として成立、縁起によれば元正天皇の勅命により和銅7年(714)に泰澄大師の弟子沙門滑元の創建したといわれています。

鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名、七堂伽藍二十五坊を誇りましたが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微しました

本堂は、室町時代末期、天文22年(1553)越前守護朝倉義景が再建。

大きさは間口14.34m、奥行き16.60m。

建築様式は、和様を主体にしたなかに、木鼻に天竺様繰形、唐用束梁などの大陸の技法が用いられており、妻飾も軒隅の反転とともに華麗な姿を表しています。

日本に仏教が伝来した飛鳥時代には、神道と仏教は未統合であったが、平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから日本の神々を護法善神とする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏(本地)の仮の姿である神(権現あるいは垂迹)を祀る神社が営まれるようになった。

鎌倉時代、室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主に保護され、祈祷寺として栄えた。

しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈でほとんどの寺院が神社に転向、あるいは消滅するなどし、急速に数を減らした。

また、福岡県の梅岳寺のように、領主によって明治以前に改名された寺院もある。

現在は、残存した寺院の住職の努力で再興されている。

神宮寺(じんぐうじ)とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。

別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺ともいう。

別当寺は、神社の管理権を掌握する場合の呼称と考えられる。
宮寺は、神宮寺を意味するほかに、石清水八幡宮寺や鶴岡八幡宮寺のように、神祇の祭祀を目的とし、境内には神社のほか仏教施設や山内寺院が立ち並び、運営は仏教僧・寺院主体が行った、神仏習合の社寺複合施設または組織をいうこともある

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若狭の古刹・名刹 萬徳寺

萬徳寺は福井県小浜市にある高野山真言宗の寺院。
山号は延宝山、本尊は阿弥陀如来。天然記念物の大山モミジを借景とする名勝枯山水庭園で知られる。

名勝(国指定) 庭園(1952年3月25日指定)

延宝5年(1677年)に小浜藩主酒井氏の命により築造された面積約1500平方メートルの蓬莱式枯山水庭園。

山麓の斜面地を利用して斜面中段中央に高さ3mの真言密教における本尊石を配し、天然記念物である大山モミジを借景としている。

書院と庭園の間は白砂の広場で仕切られている。

中央は3mの本尊石

当山の前身は極楽寺といい、文永2年(1265年)の若狭惣田数帳に存在が記されている古刹。

室町時代は応安年間(1368年-1374年)に、安芸国円明寺の覚応法印が、極楽寺を天台宗から真言宗に改宗し、寺号も正照院と改めた。

戦国時代には若狭国を領した武田氏が当山を祈願所と定め、さらに天文13年(1544年)に領主武田信豊により若狭国唯一の駆込寺として公許されるなど隆盛したが、元亀年間に兵火を受けて衰退した。

その後、安土桃山時代は慶長7年(1602年)に寺号は萬徳寺と改められ、江戸時代は延宝5年(1677年)に小浜藩主酒井氏の命により音無川の岸から現在の山麓に寺地を移された。

門前にノーゼンカズラがあでやかに咲きほこていた。
少し赤みのかかった花。

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