踏歌神事 住吉大社


やっと巣ごもりからの脱出です。

例年は三が日に200万人以上が訪れる大阪市住吉区の住吉大社、今年は1日の参拝客数は約33万人で、約150万人だった前年の2割程度だったという。

例年12月31日~1月5日に200店以上が並ぶ露店を全て取りやめ、立春前の2月2日までの分散参拝を呼びかけている。

例年、太鼓橋は入場制限をするほどの込み具合だか、ことしは楽々参拝。

皆さんも規則正しく左側通行。


天気も穏やかな晴れです。

例年人の波の第一本宮も楽々参拝。

踏歌神事とは古くは朝廷で行なわれていた新年の行事で、住吉大社に伝わる特殊神事の一つ。

土地の精霊を鎮め、厄を祓うために春の初めに大地を踏み、福を招く神に祈る行事です。

昔はアラレバシリと呼ばれていました。

言吹(ごんすい)と袋持(ふくろもち)が声を掛け合い歩み寄り、神前に福の餅を捧げます。

その後、神楽女による白拍子舞(しらびょうしまい)と熊野舞(くまのまい)が奉納されます。最後に福の餅撒きが行われ、福の餅を授かると幸運が得られるといわれています。

平安時代、宮中で行われていた踏歌節会の男踏歌が、今日でも住吉大社、熱田神宮で継承されています。

踏歌は、萬歳や漫才の起源です。

大阪の話芸「しゃべくり漫才」を始めたエンタツ・アチャコの横山エンタツは住吉大社の近所に住んでいました。

梅の若枝を持った蛭子(ひるこ)さんが「ふくろもち」と呼びかけ、小餅を袋に入れた大黒さんが「おおともよ」と応え、互いに歩み寄ります。

その後大黒さんは神前にて「ひ、ふ、み、よごと」と小餅を献じ、最後に「万歳楽」を三声することで納められます。

次いで神楽女によって白拍子・熊野舞が舞われ、神事後には餅撒き行事が行われますが今年は餅撒き行事はなしとのこと。

白拍子は神楽舞の1つであり、風雅な手振りをよく伝える貴重な舞。

元来の白拍子とは、平安後期から鎌倉期に流行した「今様」といわれる歌舞、あるいはそれを舞う女性のことを言いました。

白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い者が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など、貴紳に愛された白拍子も多い。

また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い。

「熊野舞」は、四人舞の形態をとります。

こちらに以前収録した動画「住吉大社踏歌神事熊野舞」があります。

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霧の出雲大神宮


亀岡駅に降り立ったら一面の霧の世界。

晩秋から早春にかけて亀岡盆地名物の深い霧(「霧の都 亀岡」とも言われる所以)が発生しており、この季節に京都市内から保津峡や老ノ坂峠を経て市内へ入ると景色が一変する。

霧の規模は全国的に有名で、最大、正午過ぎまで晴れないことも多い。

衛星写真では亀岡市全体が霧の影響で白く写ることもある。

真ん中のポールは両翼を風になびかせるカモメの姿をイメージした作品で、新設のスタジアムに隣接する広場のシンボルとなっている。

京都府亀岡市にあ式内社(名神大社)、丹波国一宮。
旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。

一面霧の海で神秘的でさえある。

2014年(平成26年)に造られた正面の石碑「丹波國一之宮 出雲大神宮」の揮毫は出雲大社現宮司・千家尊祐の筆。

『徒然草』 第236段「丹波に出雲と云ふ処あり」 聖海上人が参拝した際、獅子・狛犬が後ろ向きに立っていた。

これは他に例を見ないことできっと由緒のあることに違いないと思っていると、実は子供のいたずらだったという話。

教科書で教えられることも多い文である。
なお、現在の獅子・狛犬は、当時とは異なるものである。

亀岡盆地東部に立つ御蔭山(みかげやま。御陰山、御影山、千年山とも)の山麓に鎮座。

古くは御蔭山を神体山として祀る信仰があったとされ、社殿は和銅2年(709年)に創建されたと伝える。

旧称は「出雲神社」。別称として「元出雲」や「千年宮」とも。

「元出雲」の別称は、出雲大社が出雲大神宮からの分霊とする社伝に由来する。

いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば出雲大神宮を指していたとされる。

拝殿は入母屋造、妻入で本殿と同じく檜皮葺を施した舞殿形式の建物であり、明治11(1878)年に官費により造営された。

ここでは4月18日の花鎮祭や、10月21日に斎行される例祭にて、巫女による御神楽「浦安の舞」が奉納されます。

社殿は元明天皇の和銅二(709)年に建立され、現在の本殿は鎌倉時代末期の元徳年間、あるいは貞和元(1345)年に足利尊氏が修造した事が当時の史料から知られています。

祭神の大国主神については、一般には出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされている。

ただし社伝では逆に、出雲大社の方が出雲大神宮より勧請を受けたとし、「元出雲」の通称がある。

社伝では、『丹波国風土記』逸文として「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるとする(ただし、社伝で主張するのみでその逸文も不詳)。

この辺りは禁足地、入山禁止。

磐座内は神域、禁足地となります。

「御蔭の滝」は竜神乃神をお祀りする滝としていにしえより地域の源として崇められている。

上ノ社 祭神:素戔嗚尊、奇稲田姫命

祭神は大国主神の祖先にあたる。

社殿は文化10年(1813年)の造営とされる。
大型の一間社流造で、一間社としては珍しく前室を有する。

これより先へは社務所で受付を済ませ、タスキをもらって入山する。

古来より御蔭山は国常立尊の鎮座する地として禁足地とされた。

現在も立ち入り可能なのは、国常立尊を祀る磐座までの参道のみである。

崇神天皇社 祭神:御真木入日子印恵命(崇神天皇)、祭神は、崇神天皇により再興されたという社伝に由来する。

安土桃山時代に入って明智光秀が丹波統治のため古世地区に丹波亀山城を築き城下町を形成したことによって、亀岡は近代的な発展を遂げる。

明智滅亡後も豊臣・徳川政権下において丹波亀山城には羽柴秀勝(於次、信長四男)、豊臣秀勝(小吉、秀吉の甥)、小早川秀秋、前田玄以・岡部長盛ら信任ある人間が配置されるなど京都の西北の入り口として重要視され続けた。

参拝を終えたころには霧も上がりきれいな青空。

神体とする御蔭山、手前は宮池。

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大阪護国神社 護摩供養


大阪護國神社は大阪府出身ならびに縁故の殉国の英霊10万5000余柱を祀り、拝殿の神鏡は戦前の研磨技術では最大のものという、由緒ある神社。

今日は阿含宗による護摩供養が行われる。

毎年2月の節分に「炎の祭典・阿含の星まつり」を山岳密教、修験道の大柴燈護摩供の伝統的な様式に則り、金胎両部、それも「神仏両界の秘法」によって京都にある本山修法地にて開催することで有名である。

神殿内部では法要当日午前10時30分、山伏一行は拝殿内で大阪護國神社宮司による御神事を賜った後、結界へと入壇。

結界へ向かう一行。

次いで阿含宗彌榮神授雅楽部による御神楽「浦安の舞」の奉納、山伏問答ののち、護國ノ御英霊への献花・献水が祭壇に捧げられ、続いて斧・法弓・宝剣と各作法が営まれた。

ほどなくして『山伏問答』が始まりました。

修験者としての知識をテストするような問答が繰り広げられ、どこの流派の修験者か見極めるために行われたようです。

山伏問答とは、修験者として知るべき知識を聞くもので、山伏の真疑を確認し、答えられたものが護摩道場への入場を許されるというものです。

全員許されて護摩道場への入場を許されたようです。

続いて斧・法弓・宝剣と各作法が営まれる。

破魔矢が東西南北と護摩壇、鬼門の方角へと放たれます。

放たれた破魔矢はいただくと福が来るそうです。

護摩壇に火が放たれ護摩がくべられます。

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吸湖山青岸寺


青岸寺は、滋賀県米原市の太尾山西麓にある曹洞宗の仏教寺院。

山号は吸湖山、近江湖北二十七名刹第27番札所、近江七福神(福禄寿)。

境内にある築山林泉式枯山水庭園「青岸寺庭園」で知られる。

創建は室町時代初期で、開基はバサラ大名で有名な佐々木道誉。

本尊は佐々木六角氏頼が造立した「お腹籠観音」の名で知られる聖観音立像を胎内仏とする秘仏聖観音坐像。

本堂裏の 築山林泉式枯山水庭園日本庭園は国の名勝に指定されている。

山門を入るとシダ植物の一つである“岩苔”とも呼ばれるイワヒバ(岩檜葉)が、苔状になって参道の左右に繁茂しています。

大きな枝振りの百日紅の後方にあるのが「青岸寺」の本堂です。

江戸時代前期の枯山水庭園。

三世住持の興欣により書かれた『築園記』によると、延宝6年(1678年)、興欣の依頼で、玄宮園・楽々園築造に関わった井伊家家臣の香取氏が作庭したとされる。

座視式を基本とする庭園であるが、面積2,717平方メートルと広大であるため回遊式も兼ねる。

平成30年(2018年)から庭園を眺められるカフェを住職自らが経営している。

通常、海を表現するのに白砂が使われるが、青岸寺では杉苔が用いられている。

庭園北西部には、桃山時代風の切石による反り橋が架けられている。

まるで渓谷のような景観を作り出し、杉苔と合わさって大変美しい。

画面上部には座敷がみえる。

大雨により苔庭が雨水で埋まり池泉庭園になるとのこと。
年に数回だけの奇跡の景観であるが、この目でみたいものだ。

庭園内にある織部灯篭(キリシタン灯篭)。

武将で茶人の古田織部正重然がキリシタン全盛時に信者や茶人の好みに合うように創案したと言われ、和洋折衷の寄せ灯篭です。

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近江孤篷庵


どの駅からも遠く公共交通機関では辿り着けないことが判明……

行きにくいとなると行きたい気持ちがつのり、探すうちツアーがあることを見つけた、残2席に滑り込みセーフ、ラッキーだった。

孤篷庵の参道は長い、途中の素盞烏命神社のイチョウがきれいでした。

小室(こむろ)城主で、千利休、古田織部とともに日本三大茶人としても名高い小堀遠州(こぼりえんしゅう)(1579-1647)の菩提を弔うために、2代目城主宗慶(そうけい)(正之)が、江戸時代前期、京都大徳寺(だいとくじ)から僧円恵(そうえんけい)を招いて開山した臨済宗大徳寺派の寺。。

遠州が京都大徳寺に建立した孤篷庵にちなんで、近江孤篷庵としました

小堀家の菩提寺でしたが、江戸時代後期、伏見奉行を勤めていた6代目藩主政方(まさみち)の時に、小堀家改易とともに衰え、明治維新後無住のままに荒廃していました。

やっと山門が見えてきました。

昭和40年(1965)小堀定泰(こぼりじょうたい)が再建し、「遠州好み」の庭も同時に補修整備されました。

庭園は、本堂南にある簡素な石組の枯山水と、東に面した池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園があり、県の名勝に指定されています。

近江孤篷庵は1700年代に一度移転しており、現在の庭園はその際に作られたと推定されているとのこと。

一面に苔の広がる枯山水庭園と、琵琶湖をイメージしたという池を中心とした池泉鑑賞式庭園。

自然の地形を活かした趣(おもむき)のある設計で、近江八景を模したといわれます。

池の後方の築山には、自然の土手をそのまま取り込んでいて、扇を広げたような逆二等辺三角形の壁になっていて、その要にある奥まったところに井戸があり、当時は山から集まってくるおいしい水を沸かして喫茶を楽しんでいたようです。

中央の老木常緑樹「バイタラヨウジュ」は、はがきの元木で、冬には赤い実を付けて庭を彩ります。

軒先に吊るされているのは鉄製の灯篭だろうか、涼やかな意匠が風流を誘う。

孤蓬とは遠州の号であり、遠州亡き後にその子である正之が遠州の菩提供養と小堀家家臣の修繕道場として建立した。



庭園の東側は直接外科医とつながったような形になっていたそうですが、今では木が茂る。

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元愛宕 愛宕神社


京都府亀岡市千歳町国分にある神社。
旧称は「阿多古神社」。
式内社で、旧社格は村社>

愛宕灯篭

亀岡市内には愛宕灯篭がいくつかあり、石灯篭内部にある燭台は町内を回覧板のように各家に回っていく。

この燭台は手提げ式の灯篭になっており、各家は回ってきた燭台に火を灯して次の家に回す。

社伝では愛宕山の愛宕神社(京都府京都市)は当社からの勧請とし、そのため「元愛宕」や「愛宕の本宮」とも称される。

愛宕山の愛宕神社同様に「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参詣すると一生火災に遭わないとして信仰される。

つまり亀岡の愛宕神社が最初にあって、そこから京都市に勧請されたと言われているのです。

元祖が亀岡で、京都市のは分社ということです。

亀岡の方が創建年代が500年ごろ。

対して京都市の方が大宝年間(701~704)。亀岡のほうが二百年近くも早く作られています。

しかし、京都市のほうが人口も多いので、いつの間にか京都市側のほうが有名になってしまったわけです。

社伝によると創祀は神代で、山を神籬として祀られたという。

その後、継体天皇元年(507年?)に社殿が創建されたと伝える。

当社付近には丹波国分寺が位置するが、その衰退で僧侶が当社に奉仕したこともあり、神仏習合によって仏像が立てられ「愛宕権現」と称されたという。

現在、その仏像は当社西にある養仙寺に移されている。

また社伝では、当社の分霊が京都鷹ヶ峰に祀られた後、和気清麻呂により嵯峨山に遷され、これが現在の愛宕山の愛宕神社になるとしている。

そのため「元愛宕」「愛宕の本宮」とも称されるほか、社殿には当社が全国の愛宕神社の総本山であると記載してあり、鳥居脇の社号標にも「本宮 愛宕神社」と記している。

社務所の前には「亀岡の名木 大スギ」があり、境内の中央には「亀岡の名木 イヌマキ」。

当社の森にはムササビが住んでいるらしいのだが、参拝時には見かけなかった。

牛松山へ向かう道。

明智越に至り、 明智光秀が織田信長を奇襲攻撃するために、亀岡から京都へ抜けるために利用した山道である。

山道付近は紅葉の真っ盛り。


「和らぎの道」に至る。
桜の名所として有名です。

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宮本武蔵作庭園の残る 雲晴寺


1639年 (寛永16年)、明石藩主大久保忠職とその姉桃源院(東丸様、元安房館山藩主里見忠義正室)は、不遇の死を遂げた忠義の菩提を弔う為、ここにあった寺院の伽藍を整備し寺領を増やして供養を行い、里見忠義の法名「雲晴院殿心窓賢涼大居士」からとって雲晴寺と名が改められた。

本堂裏には戦前まで宮本武蔵作と伝えられる庭があったが、1945年(昭和20年)7月の大空襲によって雲晴寺は山門を残して全焼し、庭も戦後復興の過程で埋められた。

2003年(平成15年)、本堂建設に伴う発掘調査により庭園の一部が見つかり復元。

その後武蔵の孫弟子にあたる柴任三左衛門夫妻の墓石が発見され、武蔵ゆかりの寺院の裏付けが濃くなった。

軒を支える邪鬼

山門を入ってすぐ左手に、台座の上に立つ地蔵菩薩像があります。

花崗岩製で、高さ約1.5mの舟形光背面に浮彫りされ、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。

これは江戸時代前期のもので、地蔵菩薩像として非常に貴重なものであります。

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秋の円教寺


書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる。

もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。

山号の由来はこの「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する。

湯屋橋: 湯屋橋摩耶殿の前面にある石橋で橋脚や、床版、欄干などが石造、宝珠が銅製となっている。

元和6年(1620)、姫路藩主となった本多忠政は円教寺に帰依し、大破していた湯屋橋を修築しています。

湯屋橋には「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」の銘が刻まれています。

護法石(弁慶のお手玉石) – 摩尼殿の手前にある直径約1 mの2つの石で、不動明王の化身である乙天(おつてん)と毘沙門天の化身である若天(わかてん)の2童子が降り立ったと伝えられる。

また、弁慶がお手玉にしたともいわれる。

武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされており、机などゆかりの品も伝えられ公開されている。
ただし史実である確証はない。

小さなお地蔵が沢山並んでいてかわいい。

突然視界に現れ、圧倒される摩尼殿。

円教寺は、本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。
西国三十三所第27番。

現住職は第140世。
宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。

西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。

京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。

秋空に映える摩尼殿。

摩尼殿から見下ろす、葉月茶屋は山内唯一の食堂。

樹間のうっそうとした道を三つの堂へ向かう。

左より常行堂・食堂・大講堂。

この大講堂・食堂・常行堂がコの字型に並び、三つのお堂を総称して「三之堂(みつのどう)」。

見事に掃き清められた、コの字の真中に当たる空間部分は大きな伽藍3つに囲まれ、何か世界が違うような…不思議な静寂を生み出しています。

そしてそのシーンのロケ地がこの圓教寺の常行堂。最初、圓教寺はロケ地の予定になかったそうですが、姫路城を視察に来たスタッフが時間が余ったためこの圓教寺を訪れ、エドワード・ズウィック監督が一目ぼれしてここでの撮影を決めたそうです。

護法堂

開山堂(重要文化財) – 宝形造(方形造)、本瓦葺、桁行5間、梁間6間。

開山の性空を祀る。寺記によれば、性空が没した寛弘4年(1007年)、性空の高弟・延照が創建したとするが、現在の堂は江戸時代初期、寛文11年(1671年)に再建されたものである。

軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名。

奥の院から摩尼殿へ向かう、樹齢700年の大杉などもあり、深い樹林を進む。

ロープウエイ三条駅へ向かう。

山上駅から仁王門へ至る参道は「西国巡礼の道」と称され、左右に、西国三十三所の各札所本尊を表した銅像が設置されている(1989年完成)。仁王門を通り、寿量院、圓教寺会館、十妙院を過ぎると、参道は「権現坂」と称する下りの階段になり、下りきったところが摩尼殿の縁下である。

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「真田丸」が置かれた三光神社


反正天皇の時代の創建と伝えられる。

創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える。

社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の西にある円珠庵(鎌八幡)の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。

かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。

拝殿

鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。

かつては大坂城の出丸である「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。

境内には大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)に描かれた真田信繁を元にした像がある。

千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁が造ったものではなく、真田丸を攻めた前田利常軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。

大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれる。

真田幸村雌伏の地九度山
真田幸村雌伏の地九度山を訪ねた。 講談本の人気とこの時期のドラマの影響で盛り上が … 続きを読む →

真田幸村雌伏の地九度山を訪ねた。
講談本の人気とこの時期のドラマの影響で盛り上がっているが、実態としては生活感の一部も感じられるものはない。

大阪は「陸軍発祥の地」と呼ばれるが、1869年(明治2年)明治新政府の兵部大輔となった大村益次郎が、陸軍の中央機関を大阪に置く方針を示し、大坂城と周辺に諸機関を創設したためである。

その一環で明治4年(1881年)1月に太政官弁官から兵部省に「大阪府下真田山ノ内ヲ兵隊の埋葬地トナス」(太政類典)と初の国立墓地の設置も認められた。

真田山陸軍墓地は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町にある大日本帝国陸軍の墓地。

日本で最初[1]かつ最大の陸軍墓地で、太平洋戦争終戦当時の規模を保つ点でも歴史的な価値がある(大阪市史編纂所)。

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常寂光寺・青もみじと苔の撮影スポット


常寂光寺は京都市の嵯峨野にある日蓮宗の仏教寺院。

山号は小倉山。
旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)。

山門

太い角材を格子に組んで造られた山門は、江戸後期に作り変えられたもので、江戸中期出版の「都名所図会」には、袖に土塀をめぐらした薬医門が図示されています。

閉門しても墨色に塗られた角柱の格子の間から参道が見える開放的な山門です。

「常寂光寺」はそのまま読むと常に寂しく光ってるお寺。
あまりいい名前とは思えないのですが、その由来は「常寂光土」という仏教用語から。

常寂光土とは「天台宗で言われる四土(しど)で一番最高の世界。
真理そのものが具現化されている世界」という意味だそう。

少し噛み砕いた説明をすると「仏様の住む世界は四つあって、その中でも一番の理想郷」という風になります。

ハスのきれいな季節です。

平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として当山を開いた。

歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。

百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、境内の庭園には200余本のカエデが植えられており、秋は全山紅葉に包まれる。

その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。

石段横の斜面に広がる苔が美しい。

足腰の病を癒やすとされ、信徒が奉納したわらじが壁に掛けられている。

仁王門

南北朝時代の貞和年間に本圀寺の南門として建立、元和2年(1616年)に現在地に移築、藁葺き 仁王像 – 福井県小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移された。

寺伝に運慶作というが実際の作者は不明。

もう一度。上から仁王門を見下ろします。

境内からは嵯峨野を一望できる。

嵯峨野は竹の美しいところでもあります。

ミドリが心に沁みわたる世界です。

鐘楼 – 寛永18年(1642年)建立。

梵鐘は第二次世界大戦中の金属供出により失われたため、昭和48年(1973年)に京都工芸繊維大学教授青木一郎の音響設計により鋳造されたもの。

仁王門正面の石段を登らず、門を右にすすむと、末吉坂があります。
石段横の斜面に広がる苔が美しい。

ここがまさに撮影スポットだ。

1930年代に端を発した第二次世界大戦には、2百万にのぼる若者が戦場で生命を失いました。

その陰にあって、それらの若者たちと結ばれるはずであった多くの女性が、独身のまま自立の道を生きることになりました。

その数は50万余ともいわれます。

女性のひとりだちには困難の多い当時の社会にあって、これらの女性たちは懸命に生きてきました。
 
今、ここに、ひとり生きた女の〃あかし〃を記し、戦争を二度と繰り返してはならない戒めとして後世に伝えたいと切に希います。

さらに、この碑が今後ひとり生きる女性たちへの語りかけの場ともなることを期待します。
 
この碑は、独身女性の連帯の組織である独身婦人連盟の会員が中心となって、常寂光寺の支援のもとに建立しました。

             碑文揮毫  参議院議員  市川房枝

もう一度末吉坂を振り返ります。

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