紀伊国一宮 丹生都比売神社


式内社(名神大社)、紀伊国一宮。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。
全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。

「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。

外鳥居

両部鳥居の様式。

両部とは密教の金剛界・胎蔵界のことで神仏習合が盛んだった神社によく見られ、高野山と縁の深い丹生都比売神社の鳥居にもみられます。

輪橋 – 太鼓橋。

鏡池に掛かっている。慶長年間(1596年 – 1615年)に淀殿の寄進で建立。
いろいろな種類の桜が植わっているため、一斉には咲き揃いません。

楼門前の桜が見頃となっており、順次満開を迎えます。

鏡池

水面に輪橋の姿を映す美しい池です。

鏡池には、「不老不死になった八百比丘尼と言う尼僧が池にその姿を映し、年老わない自分を嘆き鏡を投げ入れたと伝わる」と案内板にはあります。

鏡池の〝放生の鯉〟が、訪れる参拝者の心を和ませている。

鏡池は同神社の前にあり、楼門や本殿に向う朱塗りの太鼓橋が架かかっている。

池には赤い鯉、白い鯉、赤と黒、赤と白の斑(まだら)の鯉が放生されている。

鯉の群れは、四季を通して、鏡池を回遊。

年の瀬には、薄氷や雪の下で生息しているが、参拝者が堤に立つと、鯉は頭で薄氷を割り、雪をかき分けて、目鼻口を水面に出す。


禊橋・中鳥居

手前が禊橋で、その奥に中鳥居があります。
外鳥居と同様に両部鳥居になっています。


明日は花盛祭、春の大祭で、ご祭神に花を供え春の訪れを寿ぐ祭りで、当日は季節の花を竹筒に入れ参道に飾ります。

午前の祭典では、本殿の御扉を開け、祝詞を奏上し、子供たちが神前神楽「浦安の舞」を舞います。

午後には、「渡御の儀」を行います。

この「渡御の儀」は、古く鎌倉・室町時代に行われ、神輿行列が和歌山市内の和歌浦にある玉津島神社までご巡幸した「浜降り神事」が起源となっています。

本殿 4棟 – 本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。

楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。

これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。

通常だと極彩色の本殿が拝観できるのだが、明日の花盛祭のためにテントが張られており拝観できず。

空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。

神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。

神社では国宝の銀銅蛭巻太刀拵を始めとする文化財のほか、本殿および楼門などの社殿が国の重要文化財に指定されている。

また境内は国の史跡に指定されている。

これらのうち本殿、楼門および境内は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。

創建の年代は不詳。

『播磨国風土記』逸文には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される。

同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。

その場所は現在の高野町上筒香の東の峰(位置)に比定され、丹生川の水源地にあたる。

また同地は丹生都比売神社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく、高野山への土地譲りに際して遷ったとする説がある。

丹生都比売神社に関しては、弘法大師空海が高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られた、とする伝説が知られる。

高野山と丹生都比売神社の関係を語る最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある。

これによると、弘仁7年(817年)に空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。

元寇の際には、丹生都比売神社は神威を表したとして一躍有名となり、公家・武家から多くの寄進を受けた。

この頃から、紀伊国一宮を称するようになったと見られている。

紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮の位置づけにあったが「一宮」の呼称自体はなく、丹生都比売神社が弘安8年(1285年)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した。

なお、他に一宮を称した神社として伊太祁曽神社(和歌山市)がある。

三社参り 日前神宮・國懸神宮
入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。和歌山市内にある当社と竈山神社 … 続きを読む →

三社参り 竈山神社
日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と伊太祁曽神社(いだきそじん … 続きを読む →

三社参り 伊太祁曽神社
旧称は山東宮。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。 祭神 主祭神 – 五 … 続きを読む →

中世には多くの社領寄進を受けていたが、それらは天正検地において没収された。
近世になり、高野山学侶領から202石余が分与された。

明治維新後、1873年(明治6年)に近代社格制度において県社に列し、1924年(大正13年)に官幣大社に昇格した。

また、明治の神仏分離に伴い高野山から独立したが、今日に至るまで多くの僧侶が丹生都比売神社に参拝しており、神前での読経も行われている。

佐波神社(さわじんじゃ) – 明治時代に上天野地区の諸社を合祀したもの。

卒塔婆群(和歌山県指定文化財)

大峯修験者の碑

連なる石塔が大峯修験者の碑、梵字を刻んだ碑は光明真言板碑です。
山岳信仰と神仏習合時代の様子が垣間見える石碑群です

山の信仰を感じさせる中丿沢神社。
はるか昔にタイムスリップしたような気がしました。

畑の作業道から雑草がおおいかかる小道をかき分けるように5分ほど歩くと、杉木立のなかに小さな祠をみつけました。

祠自体はそれほど古くはないのかもしれませんが、苔むした石積みの基壇が歴史の厚みを感じさせてくれます。

周囲には誰もいなくて、なんだか中世の世界に迷い込んでしまったような、不思議な空気感のある場所でした。

案内板によると、祠の主は丹生明神と狩場明神です。

この二柱の明神さまは、丹生都比売と高野明神と同じで、天野には沢に沿ってこうした祠が3つ伝わっています。

こうした沢筋には鎌倉時代から郷供僧や宮仕と呼ばれる人たちが住み、こうした人たちによって丹生都比売神社が維持されていたとのことです。

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三社参り 日前神宮・國懸神宮

入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。和歌山市内にある当社と竈山神社、伊太祁曽神社に参詣することを「三社参り」と言う。

1つの境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社があり、総称して日前宮(にちぜんぐう)あるいは名草宮とも呼ばれる。

両社とも式内社(名神大)、紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社。
現在は神社本庁に属さない単立神社。

神体の鏡について

神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる。

八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。

日神(天照大神)に対する日前神という名称からも、特別な神であると考えられている。

また、伊勢国が大和国への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれている。

日前神宮

主祭神
日前大神 (ひのくまのおおかみ)
日像鏡(ひがたのかがみ)を神体とする。

相殿神
思兼命(おもいかねのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)

神階について

日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。

神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。

なお、日前大神が天照大神の別名とされることについては諸説がある。

日本で最も歴史のある神社の一つで、神話と関わりが深い。

『日本書紀』に、天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある。

社伝によれば、神武東征の後の神武天皇2年、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命(あめのみちねのみこと)が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。

当初は名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝えられている。

なお、伊太祁??曽神社の社伝では、元々この地に伊太祁??曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁曽神社は現在地に遷座したとしている。

また、日前・國懸両神宮の遷宮前の旧社地には浜宮神社が鎮座している。

國懸神宮

主祭神
國懸大神 (くにかかすのおおかみ)
日矛鏡(ひぼこのかがみ)を神体とする。

相殿神
玉祖命(たまのやのみこと)
明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
鈿女命(うづめのみこと)

天正13年(1585年)に豊臣秀吉に攻め込まれ、社領が没収された。

その際社殿が取り壊され境内が荒廃したが、江戸時代に紀州藩初代藩主徳川頼宣により社殿が再興された。

しかし現在は最盛期の5分の1の広さになっており、社殿や施設などは往時を忍ぶに及ばない。

さらに1919年(大正8年)には国費による改善工事によって境内の建物はすべて一新されており、旧観は大きく変化している。

1926年(大正15年)3月の工事完成をもって現在の左右対称の姿となった。

1871年(明治4年)、近代社格制度において両宮ともに官幣大社に列せられた。

現在は神社本庁などの包括宗教法人に属さない単立神社となっている。

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三社参り 竈山神社

日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と伊太祁曽神社(いだきそじんじゃ)を詣でることを「三社参り」と言い、貴志川線はこの三社の参拝者を運ぶことが目的の一つであった。

大鳥居

祭神の彦五瀬命は神武天皇(初代)の長兄にあたる。

『古事記』『日本書紀』によれば、神武天皇の東征の際に行軍した彦五瀬命は、孔舎衛坂(くさえざか)で長髄彦の軍との戦いで流矢にあたって負傷、その後雄水門(おのみなと、男之水門)で崩御、のち竈山に葬られたという。

この彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定されている。

天正の兵乱で文書が散逸したため竈山神社・墓の由緒は明らかでないが、『紀伊続風土記』では当地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている。

1873年(明治6年)に近代社格制度において村社に列した。

その後、1885年(明治18年)4月22日に官幣中社、1915年(大正4年)11月10日に官幣大社に昇格した。

村社から官幣大社まで昇格したのは、竈山神社が唯一の例である。

1938年(昭和13年)頃、現在の規模の社殿が整えられた。
戦後は神社本庁の別表神社に列している。

主祭神
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
「五瀬命」とも。ウガヤフキアエズとタマヨリビメの間に生まれた長男(第1子)で、神武天皇の長兄。

配祀神
左脇殿:彦五瀬命の兄弟神
稲飯命(いないのみこと) – 『日本書紀』本文では第2子(一書で第3子)。
御毛入沼命(みけいりぬのみこと) – 『日本書紀』本文では第3子(一書で第2子)。
神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇) – 末弟(第4子)。

『古事記』『日本書紀』では、彦五瀬命は「紀国之竈山」または「紀伊国竈山」に葬られたと記載されている。

『延喜式』諸陵寮では「竈山墓」と記載され、紀伊国名草郡にあり、兆域(墓域)は東西1町・南北2町で守戸3烟を付して遠墓としている。

『延喜式』において紀伊国唯一の陵墓である。

その後康和2年(1100年)の解状では、紀伊国等の陵墓は格式に規定されているにも関わらず、国司によって兆域侵犯や陵戸収公が行われていると記している。

竈山墓(かまやまのはか)は、竈山神社の本殿後背にある古墳(位置)。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により彦五瀬命の墓に治定されている。

宮内庁上の形式は円墳。

高さ約9メートルの独立丘上に位置し、墳丘は直径約6メートル、高さ約1メートルで、裾に護石を配する。

上記の記録があるものの、その後竈山墓の所在地は不明となった。

『紀伊続風土記』では寛文9年(1669年)に区域を定めて殺生を禁じたというが、これは神社の区域を定めたものであり、竈山墓の所在自体はなお不明であった。

寛政6年(1794年)に本居宣長とともに竈山神社を参拝した本居大平は、所在不明の旨を「なぐさの浜づと」に記している。

明治9年(1876年)に現在の古墳が「竈山墓」に治定され、明治14年(1881年)に修営された。

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三社参り 伊太祁曽神社


旧称は山東宮。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。

祭神

主祭神 – 五十猛命 (いたけるのみこと)、別名:大屋毘古神。

左脇殿 – 大屋都比賣命 (おおやつひめのみこと。五十猛命の妹神)。

右脇殿 – 都麻津比賣命 (つまつひめのみこと。五十猛命の妹神)。

上の3柱はいずれもスサノオの子であり、木の神として信仰される神である。

二の鳥居もがっしりとした木造り。

日本書紀によると、高天原を追われた素戔嗚尊とその子五十猛神は、共に新羅に降り立つがその地を気に入ることはなく、船で出雲国に移動した。

そして素戔嗚尊は高天原から持ってきていた木の種を五十猛神に渡して日本中にその種を蒔くように命じた。

五十猛神は妹である大屋津姫命・都麻津姫命と共に九州から順番に日本中に種を蒔き始めて国中を青山にし、最後に木の国(紀伊国)に降り立った。

このことから五十猛神は有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)とも呼ばれ、紀伊国に祀られることとなった。

伊太祁曽神社の拝殿は、割拝殿となっています。

割拝殿とは、建物の中央に土間があり、通り抜け可能な拝殿のことです。

威風堂々としたとても立派な割拝殿です。

御神木

昭和37年の落雷で燃え、枯れてしまいましたが、現在も3mほどの高さが残っています。

その後、古幹は割拝殿に保存され、大国主命(おおくにぬしのみこと)を助けた神話にちなみ、「木の俣くぐり」となっています

石垣には地元産の緑泥片岩(りょくでいへんがん:通称・青石)が使われています。

御鎮座の時期については明らかでないが、『続日本紀』の文武天皇大宝2年(702年)の記事が初見になる。

古くは現在の日前宮(日前神宮・國懸神宮)の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を明け渡したと社伝に伝える。

その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座し、和銅6年(713年)に現在地に遷座したと伝えられる。

本居宣長の歌碑。

氣生社

日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と当神社を詣でることを「三社参り」と言い、貴志川線はこの三社の参拝者を運ぶことが目的の一つであった。

貴志川線の開業当初の終点は伊太祁曽駅(当時は山東駅)であった。

御井社には水の神様、彌都波能売神(みずはのめのかみ)・御井神(みいのかみ)をお祀りしています。

ご神水をいただける井戸があり、病気の人には元気を取り戻す霊力があると伝えられています。

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春爛漫 粉河寺の桜


粉河寺参道左手にある「大神社の大クス」、環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/11. 42m、樹高/20m。
和歌山県下で第三位の大木。

大門から南に約1キロメートル続くJR粉河駅前通は門前町として栄えたが、県道の拡幅工事により、かつての面影はなくなってしまっている。

大門(仁王門、重要文化財) – 宝永4年(1707年)建立。
入母屋造、本瓦葺きの楼門。仏師春日作と伝える金剛力士像を安置。

天台宗系の粉河観音宗総本山。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。

西国三十三所第3番札所。本尊は千手千眼観世音菩薩。伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。

粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。

清少納言の『枕草子』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪(中略)石山、粉川、志賀」とあり、『梁塵秘抄』に載せる今様には、「観音験(しるし)を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河(後略)」とある。

西行の『山家集』や、架空の物語である『うつほ物語』『狭衣物語』にも粉河寺への言及があるなど、遅くとも平安時代中期・10世紀には観音霊場として著名であったことがわかる。

平安時代後期には、その頃から始まった西国三十三所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。

中門(重要文化財) – 入母屋造、本瓦葺きの楼門。
左右の間に四天王像を安置する。

棟札によれば明和年間(1764年 – 1772年)から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成。
「風猛山」の扁額は紀州藩第10代藩主徳川治宝の筆。

金剛力士は仏師春日の作と云われ、尊像の用材は桂の巨木。

鎌倉時代には550か坊もの子院を持ち、大勢の僧兵を擁し、寺領は4万石もあって広大な荘園を持ち、根来寺や金剛峯寺と比肩しうる大寺院であった。

戦国時代の天正元年(1573年)には境内南側の猿岡山(現・秋葉山)に猿岡山城を築き、寺の防衛を図ったが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州征伐にあい、根来寺や雑賀衆とともに抵抗したものの全山焼失し、猿岡山城も陥落した。

この時、粉河寺縁起絵巻も焼損している。江戸時代の正徳3年(1713年)にも火災があり、現在の伽藍はほとんどがそれ以降の再建である。

粉河寺庭園

国の名勝。
中門から約3メートルの高さの石段を経て本堂に至る、その両翼に土留め石垣を兼ねた石組の庭である。

緑泥片岩を主とし、琴浦(ことうら)の紫石、龍門石(りゅうもんいし)などの紀州の名石を含む、多数の巨大な岩石が変化に富む手法で堅固に、美しく組まれている。ツツジの刈込みで石の間隙をうずめ、さらにビャクシン・シダレザクラ・ソテツなどの植栽が組み合わされている。

用いられている紀州石は、雑賀崎の青石(緑泥片岩)、琴浦の紫石(紅簾片岩)、竜門山の竜門石(蛇紋岩)と多岐にわたっています。

和歌山県の紀の川市にある粉河寺の本堂の脇に植えられている桜の木。
湯浅の元祖である湯浅宗重の父、藤原宗永が植えたと伝えられています。

すでにかなり世代が代わっているようですが、湯浅のスタートとなる桜です。

本堂(重要文化財)

西国三十三所の寺院の中で最大級の堂

中門の先、一段高くなった敷地に建つ。
享保5年(1720年)建立。

本尊千手観音(秘仏)を安置する二重屋根の正堂(しょうどう)と、礼拝のための一重屋根の礼堂(らいどう)を前後に並べた形式になり、西国札所として多数の参詣者を収容する必要から礼堂部分を広く取っている。

粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏とされ、公開された記録はない。

このため西国三十三所の札所などで見かける粉河寺の本尊の模造像や絵については、それが本物と相違しているか証明できる者はいないとされている。

日本の仏教寺院では、本尊が秘仏である場合、「お前立ち」と称する代わりの像を本尊厨子の手前に安置する場合があるが、粉河寺においては「お前立ち」像も秘仏である。

本尊像は火災を避けるために本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされる。

「お前立ち」像は年に一度、12月31日に僧籍にある関係者が掃除のために開扉するのみで、在家の者が拝観する機会はない。

なお、内陣背面(後戸)に安置された「裏観音」と称する千手観音立像は拝観可能である。

環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/7. 70m、樹高/20m。粉河寺本堂の東側にあります。

傍らに「踞木地」の石碑が立っています。

粉河寺の開祖・大伴孔子古が踞(うずくま)り下を通る鹿を狙った故事によります。

十禅律院 – 元は塔頭の十禅院。

寛政12年(1800年)に独立して天台宗安楽律院派の寺院となっている。

正暦元年(990年)に塔頭として創建された十禅院が、寛政12年(1800年)に紀州藩第10代藩主徳川治宝により 天台宗の寺院に改められて十禅律院として独立した。

粉河寺にある丈六堂に安置されている阿弥陀如来像 。

釈尊は一丈六尺あったっとされておりこの大きさに作られた仏像を丈六という。

「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。

1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。

紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。

これが粉河寺の始まりという。
その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。

童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。
8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。

孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。

2つ目の話は千手観音の霊験説話である。

河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。

そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。

喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。

長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。

長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。

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難波八十島の海老洲の八坂神社


当神社の創建に関しては、境内に現存の天治(1124)大治(1131)と読み得る石燈籠があります。

又、村の旧記に永徳3年(1383)霜月社殿再建と書かれており、足利3代将軍義満の頃で再建とあるから、これより更に以前に祀られた事がうかがえます。

元亀元年(1570)織田信長が石山本願寺攻めで、野田城の三好党を討とうとしたとき、先陣の将荒木村重を遣わして、戦勝を祈り陣馬陣刀を献じたと云われています。

細川家の記録に海老江堤の田の中に陣したと記されています。

「菜の花の はじめや北に 雪の山」 松 瀬 青 々

菜の花畑をとおし、雪をいただいた六甲山を望み詠んだもので、明治40年の作であるが当地はこの頃まで浪速津の中の一農村であり、農耕守護、生産守護、疫病災厄守護の御神徳を以て崇敬篤く地車三基、枕太鼓一基の巡行は今猶夏祭りの神賑として行われています。

淀川改修記念碑(海老江中公園)

淀川流域は豊かな水量で農作物には恵まれましたが、一方で数多くの洪水にあいました。とくに有史 以 来といわれる大 洪水が 明 治 18年(1885)に起こり、さらに同22年(1889)、同29年(1896)にも洪水
が続いて大阪は甚大な被害を受けました。

これを契機に中津川を利用して新淀川を開削する計画が立案され、明治29 年(1896)から淀川大改修を開始、明治43年(1909)にようやく完成しました。

このとき、中津川流域にあった海老江村の北部90町余りが新淀川の河床となりました。

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酒乱が治ると評判のお寺 かしく寺


法清寺(かしく寺)、創建は不明。
1911年(明治44年)に再建された伽藍は戦災をまぬがれ現存している。

境内には江戸時代中期に存在した遊女・かしくの墓所として広く知られている。

かしくは北の新地の遊女で、日常は従順な女性でしたが、ひとたび酒が入ると人が変わって乱れたといいます。

寛延2年(1749)のある日、彼女の兄が諌めたところ逆上し、あやまって兄を傷つけて殺してしまいました。

かしくは死罪を申し渡され、市中を引き回されましたが、その途中「油あげ」を所望し、それで乱れ髪をなでつけて身を整えてから、斬首されたといわれています。

劇作家にして小説家の長谷川幸延さんの手になる「酒の咎 引き受け申しそろ かしく」という石碑。

禁酒、断酒を誓う人たちの願いがしゃもじに込められている。

この事件はすぐに芝居に仕立てられて評判をよびました。
後になってかしくの墓石をかき取り、せんじて飲めば酒乱がなおるという風評がたち、数多くの参詣人で賑わったといわれています。

法清寺では、命日の3月18日に毎年かしく祭りの法要が行われています。

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大阪天満宮


延喜3年(903年)に菅原道真が没した後に天神信仰が広まり始めるが、天暦3年(949年)に道真ゆかりの大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。

そして、それを聞いた村上天皇の勅命によってこの地に天満宮が建立される事となった。
以後、当社は大将軍社を摂社として新たに天満宮が中心の社となる。

表門、天井には東西南北と十二支の名の記載された方角盤が飾られています。

度々火災に見舞われている。

なかでも享保9年(1724年)の享保の大火(妙知焼け)では全焼の憂き目にあっている。

後に復興したものの、今度は天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱による大火でまたも全焼してしまった。
天保14年(1843年)には現在の本殿が再建されて復興を果たしている。

1945年(昭和20年)の大阪大空襲の際には幸運にも被害を免れている。

登竜門

初詣のさいなどは、大勢の人が門をくぐりますが、登竜門というのは、中国の大河・黄河を上流に向かって登っていくと龍門に着き、高く険しい瀧や厳しい早瀬を飛び越えると、鯉が龍になる…という「登龍門の伝説」から来ています。

中国では、龍は王道を歩む王者の象徴で、人徳共に兼備した人のことを指しています。

蛭子門(えびす門) 大阪天満宮には六つの門があり、それぞれに用途と由来がある。

正面西側(南西側)の蛭子門は、もともとこの門を入ってすぐ左手に戎社が祀られていたことから「戎門」と呼ばれており、現在は戎社は移動されたがその名が今に伝えられている。

戦後途絶えていた十日戎が、上方落語協会会長・六代桂文枝の意向もあり2007年(平成19年)に「天満天神えびす祭」として復活する。

天満天神えびす祭では天神祭などで活躍した天神天満花娘が福娘として奉仕する。

大阪ガラス発祥の地の石碑、裏面には「宝暦年間(一七五一)長崎商人播磨屋清兵衛天満天神鳥居前ニ工場ヲ設ケ当時ノ玉屋ヲ開業大阪ガラス商工業ノ始祖トナル」と刻まれています。

この辺りは旭硝子や東洋ガラスの発祥の地でもあり、戦前は多くのガラス工場が建ち並んでいたそうです。

白雉元年(650年)、孝徳天皇が難波長柄豊崎宮を造営した際、その西北に守護神として大将軍社を創建したのがそもそもの始まりである。

延喜元年(901年)に菅原道真が藤原時平によって九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、この地にあった大将軍社に参詣し、旅の安全を祈願している。

本殿裏手にある十二社に祀られている神々、読んでいて、このうちの何人かが非業の死を遂げていることに気がつきました。

右から吉備聖霊・早良親王・藤夫人・伊豫親王、とんで藤原廣嗣・橘逸勢・丈太夫たちが政争に絡んで非業の死を遂げた方々、火雷神・火産霊神は火・雷ということですから道真公を意識した祟り神、埴山比売神・天吉葛神・川菜神は荒ぶる火の神を鎮める力を持つ神様たちということのようです。

すなわち道真公と同様、政争により非業の死を遂げた方々を一緒に祀ってその霊を慰める一方、特に道真公についてはその怒りを鎮める神々三柱を配しているようです。

白米(しらよね)稲荷社 – 祭神:稲荷大神。
伏見稲荷大社の奥院と称される。

付近に七夕池・明星池・夫婦池等が明治年間まで現存していた事は昔「難波碕」の付近に残った沼沢の名残であると思われます。

昭和の初めまで池には「宇賀の社」があり、紅梅紫藤が咲きみだれ付近には歌舞伎を常打としていました。

天満八千代座浪花節の国光席 吉本興業発祥となった天満花月吉川館などの寄席が隣接していた歓楽街でした。

池に架かっている「星合橋」は一名「愛矯橋」とも言われています。

天神橋の橋名飾板が2枚ありました。
裏面に明治21年と記されています。

祖霊社 – 祭神:大阪天満宮神官の神職および氏子・崇敬者の祖霊を祀る。

招魂社は、戦後、上方落語の復興に尽力した六代目笑福亭松鶴ら「四天王」をはじめ、同協会が発足した1957年以降に死去した落語家を祭っている。

天満宮北側の星合池のほとりにあり、落語定席「天満天神繁昌亭」と目と鼻の先という落語家やファンになじみの地に新設された。

川端康成誕生地跡

明治32年(1899)6月14日、川端康成は大阪天満宮の表門からほんの少し東、現在は料亭「相生楼」が建つ場所で生まれた。

その門前に「川端康成生誕の地」の石碑が静かにたたずんでいる。

大阪北区天満、当時の大阪市北区此花町のこの場所で、康成の父・栄吉は開業医として医院を営んでいたが、肺結核を患い、康成が1歳になるかならない内に死去。

母・ゲンの実家近く(現在の東淀川区に)へ転居したが、その母も明治34年(1901)、1月に亡くなった。

幼くして両親とも亡くした康成は翌年、祖父母に引き取られ、現在の茨木市宿久庄、当時の大阪府三島郡豊川村へと移り住む。

住吉大社 枝垂れ桜見納め
早朝に住吉大社を訪れた。 汐掛け道は人通りもまばら、ちょうど側道の植え込みに潅水 … 続きを読む →

川端康成が、戦後に発表した、「しぐれ」「住吉」とともに住吉3部作の一つとして数えられる「反橋」には、「上るよりもおりる方がこはいものです。

私は母に抱かれておりました」と描いており、橋の傍には康成の文学碑が設置されております。

文末にあらすじを掲載しておきます。

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踏歌神事 住吉大社


やっと巣ごもりからの脱出です。

例年は三が日に200万人以上が訪れる大阪市住吉区の住吉大社、今年は1日の参拝客数は約33万人で、約150万人だった前年の2割程度だったという。

例年12月31日~1月5日に200店以上が並ぶ露店を全て取りやめ、立春前の2月2日までの分散参拝を呼びかけている。

例年、太鼓橋は入場制限をするほどの込み具合だか、ことしは楽々参拝。

皆さんも規則正しく左側通行。


天気も穏やかな晴れです。

例年人の波の第一本宮も楽々参拝。

踏歌神事とは古くは朝廷で行なわれていた新年の行事で、住吉大社に伝わる特殊神事の一つ。

土地の精霊を鎮め、厄を祓うために春の初めに大地を踏み、福を招く神に祈る行事です。

昔はアラレバシリと呼ばれていました。

言吹(ごんすい)と袋持(ふくろもち)が声を掛け合い歩み寄り、神前に福の餅を捧げます。

その後、神楽女による白拍子舞(しらびょうしまい)と熊野舞(くまのまい)が奉納されます。最後に福の餅撒きが行われ、福の餅を授かると幸運が得られるといわれています。

平安時代、宮中で行われていた踏歌節会の男踏歌が、今日でも住吉大社、熱田神宮で継承されています。

踏歌は、萬歳や漫才の起源です。

大阪の話芸「しゃべくり漫才」を始めたエンタツ・アチャコの横山エンタツは住吉大社の近所に住んでいました。

梅の若枝を持った蛭子(ひるこ)さんが「ふくろもち」と呼びかけ、小餅を袋に入れた大黒さんが「おおともよ」と応え、互いに歩み寄ります。

その後大黒さんは神前にて「ひ、ふ、み、よごと」と小餅を献じ、最後に「万歳楽」を三声することで納められます。

次いで神楽女によって白拍子・熊野舞が舞われ、神事後には餅撒き行事が行われますが今年は餅撒き行事はなしとのこと。

白拍子は神楽舞の1つであり、風雅な手振りをよく伝える貴重な舞。

元来の白拍子とは、平安後期から鎌倉期に流行した「今様」といわれる歌舞、あるいはそれを舞う女性のことを言いました。

白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い者が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など、貴紳に愛された白拍子も多い。

また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い。

「熊野舞」は、四人舞の形態をとります。

こちらに以前収録した動画「住吉大社踏歌神事熊野舞」があります。

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霧の出雲大神宮


亀岡駅に降り立ったら一面の霧の世界。

晩秋から早春にかけて亀岡盆地名物の深い霧(「霧の都 亀岡」とも言われる所以)が発生しており、この季節に京都市内から保津峡や老ノ坂峠を経て市内へ入ると景色が一変する。

霧の規模は全国的に有名で、最大、正午過ぎまで晴れないことも多い。

衛星写真では亀岡市全体が霧の影響で白く写ることもある。

真ん中のポールは両翼を風になびかせるカモメの姿をイメージした作品で、新設のスタジアムに隣接する広場のシンボルとなっている。

京都府亀岡市にあ式内社(名神大社)、丹波国一宮。
旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。

一面霧の海で神秘的でさえある。

2014年(平成26年)に造られた正面の石碑「丹波國一之宮 出雲大神宮」の揮毫は出雲大社現宮司・千家尊祐の筆。

『徒然草』 第236段「丹波に出雲と云ふ処あり」 聖海上人が参拝した際、獅子・狛犬が後ろ向きに立っていた。

これは他に例を見ないことできっと由緒のあることに違いないと思っていると、実は子供のいたずらだったという話。

教科書で教えられることも多い文である。
なお、現在の獅子・狛犬は、当時とは異なるものである。

亀岡盆地東部に立つ御蔭山(みかげやま。御陰山、御影山、千年山とも)の山麓に鎮座。

古くは御蔭山を神体山として祀る信仰があったとされ、社殿は和銅2年(709年)に創建されたと伝える。

旧称は「出雲神社」。別称として「元出雲」や「千年宮」とも。

「元出雲」の別称は、出雲大社が出雲大神宮からの分霊とする社伝に由来する。

いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば出雲大神宮を指していたとされる。

拝殿は入母屋造、妻入で本殿と同じく檜皮葺を施した舞殿形式の建物であり、明治11(1878)年に官費により造営された。

ここでは4月18日の花鎮祭や、10月21日に斎行される例祭にて、巫女による御神楽「浦安の舞」が奉納されます。

社殿は元明天皇の和銅二(709)年に建立され、現在の本殿は鎌倉時代末期の元徳年間、あるいは貞和元(1345)年に足利尊氏が修造した事が当時の史料から知られています。

祭神の大国主神については、一般には出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされている。

ただし社伝では逆に、出雲大社の方が出雲大神宮より勧請を受けたとし、「元出雲」の通称がある。

社伝では、『丹波国風土記』逸文として「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるとする(ただし、社伝で主張するのみでその逸文も不詳)。

この辺りは禁足地、入山禁止。

磐座内は神域、禁足地となります。

「御蔭の滝」は竜神乃神をお祀りする滝としていにしえより地域の源として崇められている。

上ノ社 祭神:素戔嗚尊、奇稲田姫命

祭神は大国主神の祖先にあたる。

社殿は文化10年(1813年)の造営とされる。
大型の一間社流造で、一間社としては珍しく前室を有する。

これより先へは社務所で受付を済ませ、タスキをもらって入山する。

古来より御蔭山は国常立尊の鎮座する地として禁足地とされた。

現在も立ち入り可能なのは、国常立尊を祀る磐座までの参道のみである。

崇神天皇社 祭神:御真木入日子印恵命(崇神天皇)、祭神は、崇神天皇により再興されたという社伝に由来する。

安土桃山時代に入って明智光秀が丹波統治のため古世地区に丹波亀山城を築き城下町を形成したことによって、亀岡は近代的な発展を遂げる。

明智滅亡後も豊臣・徳川政権下において丹波亀山城には羽柴秀勝(於次、信長四男)、豊臣秀勝(小吉、秀吉の甥)、小早川秀秋、前田玄以・岡部長盛ら信任ある人間が配置されるなど京都の西北の入り口として重要視され続けた。

参拝を終えたころには霧も上がりきれいな青空。

神体とする御蔭山、手前は宮池。

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