秋の四天王寺


レタッチで赤外線を選ぶと、赤外線写真用の白黒ネガフィルムのようなトーンに仕上げることができます。

赤外線写真では、空や水面は黒く写ります。

通常、空が青く見えるのは、太陽光が大気で散乱を繰り返しそれがあらゆる方向から地上に届くためです。

赤外線写真では青い光が遮断されるために「黒く(暗く)」写ります。

水面が暗く写るのは、赤外線が水に吸収されるためです。

通常のモノクロ写真では植物の葉は黒く写りますが、赤外線写真では植物は白く写ります。

これを「スノー効果」と言います。

この現象は植物の葉が赤外線を強く反射するために起こります。

赤外線写真の一番の特徴と言えます。

四天王寺は、天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。

山号は荒陵山(あらはかさん)。
本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。

聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。

当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。

また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。

蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現:大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。

聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。

その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。

その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。

寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

明治33年(1900年)に大阪・四天王寺にて創業した総本家釣鐘屋。

「世界一」とうたわれた四天王寺の大梵鐘をモチーフに生まれた釣鐘まんじゅうは、当店発祥の大阪名物。

創業時からの変わらぬ味を今に伝えています。
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秋真っ盛り 四天王寺本坊庭園


「釈迦の滝」

昨年は6月に訪問、今日はクラブの人を連れての訪問。

四天王寺の喧騒とは打って変わって静かな本坊庭園。

長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(2003年)8月より通年の公開が行われるようになった。

「極楽の池」の畔に建つルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」は第五回内国勧業博覧会(明治36年・1903年開催)で出品された現存唯一のパビリオンで、後年移建されたもの。

小奏楽堂というからには中で何かの演奏が行われたのでしょうか。
中には入ることができない。

大池には阿弥陀三尊石が組まれている。

阿弥陀如来を中尊とした三尊石は迫力あるものである。
江戸時代以降は丸みを帯びた石が使われることが多く、こちらの庭園が江戸初期に造園されたこととも一致する。

自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」および2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」を配し白砂の廻遊路を「白道」という広さ1万m2の池泉廻遊式庭園である「極楽浄土の庭」と、幾度の戦災を免れて現在に至る湯屋方丈(江戸時代初期建立、国の重要文化財)、そしてその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」からなる。

造園の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたものである。このときに「二河白道」の喩話に基づいた作庭がなされた。


四天王寺 極楽浄土の庭の由来

四天王寺は日本書紀によれば、推古天皇(飛鳥時代)に創設。飛鳥寺(奈良県明日香村)と並び、本格的な仏教寺院としては日本最古である。

極楽浄土の庭は江戸初期とされ、現在の庭は明治初期に火災による焼失から復興されたものである。

極楽浄土の庭は、中国の説話「二河白道(にがびゃくどう)」に基づく。

二河白道とは浄土教における極楽往生を願う信心で、「二河」とは「火の河:怒り」と「水の河:欲の深さ」を表し、その間にある「白道」を進めば、極楽浄土に達し往生できるというもの。

紅葉がきれいです、超広角レンズでいたずらして見た。

ここで望遠ズームに取り換え、これが通常の画像です。

サキシマフヨウの実

和名は先島諸島に由来し、主に鹿児島県西部の島から琉球にかけて分布するとされてきた。
2014年の研究では台湾にも分布することが報告されている。

池に浮かぶ落ち葉

陽を透かしてハイキーで。

元和9(1623)年、徳川秀忠による再建

前には、補陀落の庭が広がる

方丈前庭にある「補陀落の庭(ふだらくのにわ)」。

三尊石の阿弥陀如来の左脇侍は観音菩薩であり、その観音菩薩が住む霊場の伝説上の山が「補陀落」である。

本坊、ガラスに移り込んだ庭園の紅葉がきれいです。






冠木門は通りれぬけできない。

その向こうには、先程とはちょうど反対側から見る唐門が見える。
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久宝寺 寺内町


久宝寺という地名は知っているし、過去何度も車でとおったことはあるが歩くのは初めてだ。

久宝寺は緑地のイメージが強く、寺内町が残っていることは全く知らなかった、お恥ずかしい。

倶楽部の撮影会での訪問。

久宝寺の地名のはじまり

この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。

なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれています。

社名は「コマ」と読み、昔、この地は「許麻荘」といわれ(南西に跡碑がある)、高麗からの渡来民族が多く住んでいました。

式内社で、もと牛頭天王、渋川六座の1です。

境内の手洗いの屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。

この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代焼失し、その後観音院のみ復興、明治初年廃寺となりました。

本尊十一面観音は現在は念佛寺にあります。

河内木綿

江戸時代から明治時代にかけて、河内地方で広く栽培されていた綿から手紡ぎ、手織りされた綿布は、山根木綿(高安山麓)、久宝寺木綿、三宅木綿(松原市)などの名で知られていました。
これらを総称して「河内木綿」といいます。

河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたようですが、その生産が飛躍的に伸びたのは、1704年の大和川付け替え以後のことです。

旧川床を利用した畑は、砂地で水はけがよく、綿栽培に最適だったためです。当時の綿は繊維が短く、従って糸が太いため、織りあげた布地も厚くて耐久性にすぐれていました。庶民の普段着のほか、のれん、のぼり、蒲団地、酒袋などに利用され、全国各地で愛用されました。

しかし、明治に入り、機械化による安価な紡績糸や化学染料が出回り始め、輸入綿の関税が撤廃されると次第に姿を消していきました。

長い間忘れ去られ、まぼろしとまでいわれた河内木綿ですが、近年、河内木綿を愛する多くの人々の手によってその技術が復元・継承されています。

2003年、ロシア国立エルミタージュ美術館で「河内木綿特別展」が開催されました。

NPO法人河内木綿藍染保存会が中心となって復元した作品や、八尾市の旧家に残されていた資料などが展示され、訪れた多くの人々を魅了しました。

河内木綿は、郷土の誇る伝統工芸として新たな脚光をあびているのです。



江戸時代からの古い町家も数多く残っていて、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を長く残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めて来ました。

消防団屯所の火の見櫓は遠くからでも見え寺内町のシンボルです。

表町通(八尾街道)と大水路との辻にあり、辻には金刀比羅宮の柱石が置かれています。

札之辻地蔵尊は室町時代末期の石仏です。

寺井戸跡

花崗岩角形の井げたの上部は、甚だしく摩耗している。
後側に“天保十四年癸卯閏九月造之”とある。

内側はまるい井戸側で、溜井戸である。
久宝寺御坊が、顕証寺新田の旧大和川底に元井戸を構え、竹樋を埋めて、ここに引水し、村民の飲用水をまかなった。

村では水代として1軒あたり年1升宛の米を御坊に納めた。
古くは屋形をくみ、夜には鍵がかけられていた。

大正12年簡易水道が設けられるまで、村内唯一の上水であった



越前分光堂

久宝寺寺内町で産声をあげたのが100余年前。
なんと店の奥には歴史ある看板が!

古くは文具店を営んでおりましたが、現在に いたるまで教科書の取扱いをしている。

室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されていて、歴史的価値が注目されています。

久宝寺寺内町の成立

蓮如上人が手がけた久宝寺のまちづくりは、蓮淳に至って完成されました。

寺内町の成立は天文10年(1541)12月15日で、天文日記に「久宝寺、西証寺之制札認来候」と書かれていて、その内容は不明ですが、寺内町としての特権を得ています。

以後、町は人家も増え経済活動が活発となり、当時の代表的な自治組織として繁栄しました。

久宝寺寺内町を守った土居と濠

享保10年(1725)、顕証寺は南側に拡張されました。

現在ただ一ヶ所、顕証寺南辺に残る土居跡は、この時の工事で新しくつくられたもので、久宝寺の貴重な歴史的遺産です。

濠は、久宝寺小学校の西裏地にその名残りがみられます。

久宝寺寺内町の終焉

石山合戦で、大坂をはじめいくつかの寺内町は焼失し消滅しました。

焼失を免れた所もその後の大名による検地で、寺内町として認められていた特権がなくなり、農村部に成立した商工業集落と言われる在郷の町に変容していきまた。

久宝寺寺内町の支配権を返上

久宝寺寺内町は慶長17年(1612)検地を受け支配権を返上し、寺内町としての特権をなくしました。

一般的に、寺内町が存在していた期間は100年余に過ぎなかったと言われていますが、久宝寺の場合は70年余でした。

近世の久宝寺

久宝寺は旧大和川や八尾街道の傍にあったことから、水陸の交通の要衡として栄え、また久宝寺木綿の生産地として木綿商人が活躍する農村部における商業地でもありました。

とくに宝永元年(1704)の大和川付替えによって新しく開発され顕証寺新田、三津新田では綿つくりやその肥料となる菜種つくりが盛んになりました。

旧大和川である久宝寺川(長瀬川)の常水が減少し、船の運行に支障を来たすことが多くなり、次第に商業活動は下降して地域の中心は八尾に移っていきました。



高田家は、江戸時代には油屋と号し、久宝寺村の庄屋を務めてきたため、村に関する貴重な文書等が多数伝わっています。 

顕証寺(けんしょうじ)に通じる東西の通りに面する主屋(おもや)は、屋敷構えを出格子(でこうし)と虫籠窓(むしごまど)で整え、瓦葺きの米蔵は屋敷の東側に建てられています。

本住宅の周囲は碁盤目状の町割りがみられ、寺内町の歴史的な景観を残す貴重な建物であることから、平成20年3月に主屋と米蔵が国登録有形文化財となりました。






初めて久宝寺の街を歩きました。

商業活動は八尾に移ったとはいえ街には古い文化財も多く残り、魅力ある街です。

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河内国一之宮 太古の聖域 枚岡神社


枚岡神社は今から2681年前に建てられた古社だと伝えられている。

おまつりされている神様は「天児屋根命」。
初めて神事を執り行った”まつりごとの神様”だ。

天岩戸開きという有名な神話の中でアメノコヤネノミコトは、岩の中にお隠れになった天照大御神をお出しするため、祝詞を奏上し、注連縄を張るなどの祭祀をおこなった。

枚岡神社はそんな神事を司る神様、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を主祭神としておまつりする他、妃神の比売御神(ヒメミカミ)、経津主命(フツヌシノミコト)、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)をおまつりしている。

天児屋根命の任務とは

天岩戸開きで活躍された天児屋根命は、その後時代が下って天孫ニニギノミコトが天上の世界から地上に降臨された時、一緒に降臨された。
その際アマテラスオオミカミから「天孫輔弼(てんそんほひつ)」という言葉を授けられたのだ。

天孫輔弼(てんそんほひつ)・・・天孫は天皇陛下のこと。
輔弼は”よくお助けしなさい”という意味。

つまりアメノコヤネノミコトは「天皇をよくお助けする」という任務をもって地上に降臨されたのだ。

国土平定を祈願したのが始まり

枚岡神社の創始は皇紀前3年(紀元前657年)、つまり初代神武天皇が天皇に即位される3年前にできた神社だ。

国土統一を目指し九州日向国から東征してきた神武天皇は、ちょうど現在の枚岡神社の背後にある生駒山を越えて大和国に入ろうと試みた。

しかし長髄彦(ナガスネヒコ)という豪族に阻まれ戦争が起きてしまう。

ナガスネヒコは、ニニギノミコトよりも早く天孫降臨したと伝わるニギハヤヒノミコトの親戚。

ニギハヤヒノミコトは枚岡神社のすぐ近くに鎮座する石切劔箭神社の御祭神だ。

枚岡神社は坂の多い神社だ、名横綱大鵬幸喜の言葉が張り出されていた。
まさにその通りだ、ここで大鵬の言葉を見るとは思わなかった。

奈良の春日大社に祭神二柱を分祀したことから「元春日」とも呼ばれる枚岡神社。
 
祭神の一柱である武甕槌命は、神鹿に乗って旅立たれたことから、枚岡神社では鹿が神使いとされています。

境内には、なで鹿(神鹿)と呼ばれる狛鹿が安置されており、健康と家族の平安、子供の幸せ、旅行安全などを祈願して撫でるとご利益がいただけるといわれています。

青銅製神鹿の手水所です。
ここで手と口を清めます。

その後、すぐ傍の御祓川(夏見川)に架かる行き合い橋を渡って身を清めます。

橋の手前両側には、石製の神鹿が、左側にはヤマモモの木があり参詣者を迎えています。
モモには邪気を祓う力があるといいつたえられ、記紀の神話にも記されています。

鹿は神の使いであり、神聖さが穢されないよう見張っているかのようです。

境内に小川が流れている神社が多くあります。

水の霊性により、境内が清浄に保たれ、かつ参拝者の罪や穢れが祓清められると考えられているからです。

枚岡神社の夏見川は別名「御祓川」おはらいがわと呼ばれています。

この川を渡ることで、参拝者は罪穢れが祓われ、清浄な心と身体で参拝することができます。

摂社 若宮神社

ご本社の御子神様をお祀りしており水神ともいわれています。

社の後方にはご神水が湧き出る「出雲井」があり、参道からご神水をお受けいただけます。

拝殿右手を奥に進んで行くと、巽参道があります。

右手は「宝基の森」と言われ古くより称えられる神がいる森で、神聖な場所となっています。

霊泉の白水井

若宮社を過ぎると左手に白水井があります。

現在、白水井を汲むことはできませんが、元々は白い水が湧き出ていて「眼病効果」「お乳が飲むと出るようになった」などという言い伝えがある霊泉です。

通奥に見えるのが「天神地祇社」。

通路奥の小高いところに「天神地祇社」が西向きに鎮座。

本社の境内社や当地周辺の神社をここに合祀しています。

平成・令和の大造営以前は若宮社以外の全ての境内社をここに合祀していました。

大造営で一新され、春日造風の覆屋の中に妻入切妻造の社殿が納められています。



拝殿前参拝所を右奥方向にすすみます。

南北に御本殿前斎庭と梅林を結ぶ参道が巽参道です。

この参道を境にして、東側は「宝基の森」と古くより称えられる神のいます森があり、ここは人が神と出会い、心をうつし祈りを捧げる神聖な場所です。

天神地祇社のさらに南側、枚岡梅林へと出るところに「楠正行公縁の井戸」があります。

このように当社は多くの井戸があり、生駒山から湧き出る水を神聖視していることが窺えます。

境内にある滝行場。生駒山の麓や山腹に鎮座する寺社ではよく見かけるものです。

恐らく生駒山を拠点に活動した修験道と結びついたものと思われます。

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北極星が見守る古刹!能勢妙見さん


能勢妙見山は、大阪府豊能郡能勢町にある日蓮宗の寺院。

山号は無漏山。
本尊は妙見菩薩。
妙見山の山頂付近にあり、北極星信仰の聖地として知られる。

能勢妙見堂、また神仏習合時代の名残で境内入口に鳥居があることなどから、能勢妙見宮との通称もある。

正式には無漏山眞如寺 境外仏堂 能勢妙見山と言い、能勢町地黄にある真如寺の境外仏堂である。

信徒会館 星嶺

山頂付近には「星嶺」(せいれい)という、当山の寺紋(能勢氏の家紋である切竹矢筈十字)をかたどった信徒会館が1998年(平成10年)4月に建てられており、2階の礼拝堂は床が全てガラス張りという仏教の礼拝堂とは思えない構造となっている。

中には以前は寺院の売店があり、この売店は簡易郵便局も受託していた。

能勢妙見宮の簡易郵便局受託解除により郵政民営化直前の2007年(平成19年)5月2日限りで一時閉鎖扱いとなった。

その後2009年(平成21年)6月29日に、境内の北側にある特定郵便局であった元・妙見山郵便局の局舎にて委託者を変更して再開した。

売店があった頃はいつでも自由に内部に入ることができ、無料休憩所もあったが、現在では礼拝の時以外は立ち入れなくなっており、売店は寺務所の左手の廃業した旅館に移っている。

天正9年(1581年)に明智光秀に攻められた能勢頼次が本拠地の丸山城から当山に移り、山頂の大空寺の跡地に為楽山城を築いて光秀軍と戦うが、やがて光秀に降伏した。

しかし、本能寺の変で織田信長が光秀に殺されると、そのまま光秀の下にとどまっていた頼次は羽柴秀吉の攻撃を受け、丸山城は落城した。

頼次は為楽山城から脱出して備前国に逃亡したため能勢の領地を失ってしまった。

その後、頼次は徳川家康の家臣となり 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで活躍したことにより、再び能勢の地を領地として宛がわれ、頼次は能勢氏を江戸幕府の旗本として再興させた。

頼次は日蓮宗の日乾(後の日蓮宗総本山である身延山久遠寺21世)に帰依し、日乾を新たに頼次自ら開基として開いた真如寺の開山とした。

慶長8年(1603年)には日乾の手によって新たな妙見菩薩像が彫られるが、これを行基ゆかりの大空寺の趾であり、またかつての自城であった為楽山城の跡地に慶長10年(1605年)に建立した本殿(開運殿)に祀ることとした。

こうして山の名も妙見山と呼ばれるようになった。
これが現在の能勢妙見山である。

山頂までは多くの旧参詣道(ハイキング道)がある。その多くが山麓から1時間以上かかるが、自家用車で訪れる場合の最も手軽なルートは本瀧寺から登るルートとされる。

「日本一の里山」

里山とは、人が生活の燃料(炭・薪)などに使うため、定期的に伐採・利用される山(二次林)のことをいいます。

里山林では、十数年の周期で伐採・萌芽再生(切り株から新しい芽を出して樹木を再生)を繰り返します。

そのため、里山林全体はモザイク状(パッチワーク状)の景観となります。

炭や薪を利用しなくなった現在では国内の里山林は放置され、その独特の景観も見られなくなりました。

本当の意味での里山はほとんどの地域で絶滅しましたが、当地域の里山は千利休や豊臣秀吉などが用いたとの伝承もある菊炭(一庫炭の通称で、別名池田炭とも呼ばれる)を今もなお生産しており、里山景観が維持されている貴重な地域で「日本一の里」と言われている。

アクセス
妙見口駅下車、奥田橋・今西行き阪急バスでケーブル前下車または徒歩約20分で、「妙見の森ケーブルのりば」からケーブル、徒歩でふれあい広場へ

正月三が日

初日の出や初詣などで、大晦日から三が日にかけて例年非常に多くの人が訪れる。

そのため通常と異なる交通規制やこの時期のみ利用できる公共交通機関があるので事前に調べておくことが勧められる。

周辺のJR、阪急電鉄、能勢電鉄、妙見の森ケーブル、妙見の森リフトは終日運行している。(大晦日~元旦)

また、能勢電鉄妙見口駅から妙見の森ケーブル黒川駅までは通常徒歩かタクシーのみだが、この時期のみ阪急バスが運行している。

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超広角は本当に難しい


最近、シグマ 8-16mm F4.5-5.6 DC HSMにはまってしまった感がある。

最近、超広角は静かなブームになっている、自分はブームに乗っかってレンズを買った訳ではなく6年前に買ったものが今頃脚光を浴びているという構図だ。

近くの護国神社で試し撮りをして楽しんでいる。

失敗を重ねながら超広角をものにしたいと頑張っているのだが、失敗画像の山です。

こういう単純な正面からの画像は何ということはないのだが。

こういう斜め方向からの画像は注意が必要、本殿を大きく映したいからと近寄ると、国旗掲揚のポールがパースが強調され大きく歪んで写真にならない。

超広角レンズの特徴としてレンズの中心から外れた四隅付近ではパースによる歪みが発生し、垂直のものが斜めになって写る傾向があります。

上と、この写真は後日、取り直したもの、どうしてもメインとなる被写体に寄ってしまうが注意が必要。
寄る場合はポールをどう表現するか考える必要がある。

特攻隊員の像と本殿を絡めた写真、立ち位置が非常に難しくなる。
特攻隊員に寄って特攻隊員を強調した写真は逆に迫力のある写真になるが難しい。

皇国の母の像と本殿を絡めた画像も同じく立ち位置が難しい、この画像もすでに歪んでずんぐりした母になっている。

この画像も手すりにパースがかかると迫力のある写真になる。

ただ今までお見せした画像は普通の画像に見せようと努力したもの、今までに幾枚もの失敗を重ねている。

この画像は超広角の特徴を生かした画像。
脇役の小さな馬の像が主役になっています。

この画像も苦労したもの、大鵬、柏戸といった懐かしい名前が刻まれているので残そうとあれこれ失敗を重ねた。

この画像は護国神社の西側を写したもの、消失点が正面にあり、一点透視の構図になり、遠近感のある画像になっている。

透視図法の消失点に向かって収束する線(リーディングライン)は、無意識のうちに見る人の視線を誘導するので、構図を決める上で重要な要素になる。

消失点付近に主題を配置することで、自然に主題へと視線が集まりやすくなる。

このような画像が一番難しい、照明塔にパースが掛かってしまっている。
レタッチソフトでパースを取ろうとしたが全く写真なならない。

こういう画像の評価は自分でするしかないだろう。、

住之江公園交差点の陸橋からの画像、左が護国神社、正面に消失点があり、遠近感のある画像になっている。

遠近感を出す図法に一点透視図法、二点透視図法、三点透視図法があり、これらを理解していると写真撮影で非常に役立ち、構図を取るのが上達する。

この画像は超広角の特徴を生かそうと住之江公園にある巨木に近づいて撮ったもの。
超広角の特徴を生かしたもの。

被写体に近づいて大きく写すと奥行感が生まれパースが強調される。

最近流行のミラーレスカメラは広角レンズの設計がしやすいようで、各社魅力的な超広角レンズがラインナップされています。

特に売れ筋のフルサイズミラーレス用レンズは各社気合いが入ったレンズが多数出ております。

ソニーもこの焦点距離に何本も製品を投入して攻勢をかけているが40万を超えるような価格、高くて手が出ない。

AFスピードなどを求めないならサードパーティー製レンズを選択するというのもアリだね。

また、最近はiPhoneやPixelなどハイエンド系のスマホにも超広角レンズが搭載されて広角がより身近になってきました。

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中近世の自治都市平野郷を訪ねる


全興寺を中心とする「平野中央通商店街」周辺は、太平洋戦争時に空襲を逃れたこともあり、古い町並みの面影が現在も残っている。

全興寺を後にして平野郷散策へ出る。

戦国時代平野郷は、自衛のため周囲に堀をめぐらし、環濠集落を形つくっていた。

そして、出入口にはそれぞれ門と門番屋敷や地蔵堂を設け警備に当った。
濠の間には、大小十三の木戸口があり、摂河泉各方面へ道路が放射状に延びていました。

ここは流口地蔵

流口は平野環濠の最南端の出入口で、流口木戸門から南下する道は中高野街道です。

中高野街道は喜連・瓜破を通り、嘗て平野川の水源だった狭山池で堺から来る西高野街道と合流する信仰の道です。

蘇民将来と疫病よけ

『釈日本紀』巻7に引用されている『備後国風土記』逸文に、疫隅社(えのくましゃ)の縁起として、次の説話が記されています。

昔、北の海に住んでいた武塔神(むたのかみ)が、南の海神の娘のもとに出かける途中、二人の兄弟に宿を乞いました。

兄の蘇民将来(そみんしょうらい)はとても貧しく、弟は裕福で大きな家に住んでいました。

弟は惜しんで家を貸そうとはしませんでした。

一方、兄は粟の茎で編んだ座布団をすすめ、粟飯と粟酒などを出してもてなしました。

数年が経ち、武塔神は八人の子神を連れてその地を再び訪れました。

そこで、「私は、以前受けた恩に報いようと思う。

あなたの子孫は家にいるか」と尋ねました。

蘇民将来は「私の娘と妻とが家におります」と答えました。

すると武塔神は、「茅の輪をその娘の腰に着けさせよ」と言います。

そのとおり娘の腰に茅の輪を着けさせたところ、その夜に娘一人を除いて、その土地の人々はことごとく殺され滅ぼされてしまいました。

武塔神は、さらに「私の正体は速須佐能雄能神(はやすさのをのかみ)である。

今後、疫病が流行することがあれば、蘇民将来の子孫と言って茅の輪を着けていれば、死を免れるであろう」と言いました。

この説話は、疫病消除の「茅の輪」の由来譚となっていますが、「蘇民将来の子孫」が呪文となり、疫病除けの護符に使用されます。

また、武塔神はスサノオノミコトと名乗っていますが、後には祇園社(八坂神社)の牛頭天王と習合し、その信仰は複雑に展開していきます。

おもろ庵

昭和博物館みたいな古民家カフェ

折角だが本日は定休日。

小林新聞

新聞屋さん博物館

朝日新聞誕生の地、大阪市内で一番古い朝日新聞販売店”小林新聞舗”。 
創業は明治22年。
 
館内には、明治時代の大阪朝日新聞・大阪毎日新聞、日清戦争から現在までの号外、読者サービスでであった明治時代からの双六・画報・優待券などの付録の他に、珍しい新聞販売資料・写真など数千点の所蔵の中から約二百点が展示されている。 

建物はモダンなアーチ型の窓があるノスタルジックな大正風。

店名は「アート」だが雑然としていてアートの感じがしない。

何処の商店街も同じだがやってるのかどうかよくわからない。

樋尻口は竜田越奈良街道や八尾街道に通じる道です。

樋尻門筋の名前は東に平野川から環濠の水を引く樋があったことに由来します。

樋尻口の守護神だった樋尻口地蔵は地雷で首を吹き飛ばされたという伝説があります。

真田幸村が家康を狙い地蔵付近に地雷を仕掛けましたが、家康の身替りになった地蔵の首が全興寺まで飛びました。

平野公園は環濠の一部であつた松山池の跡地につくられました。

公園内には環濠の痕跡がわずかに往時の名残をとどめております。

公園の周囲に環濠に沿って築かれた土塁が残っています。

観光の目印のようですが、説明がなく使い方不明です。

転用石

石垣をつくるため、墓石や民家の礎石だけでなく石仏までかき集めたというのは、領主にとって名誉な話ではない。

敵から没収したものなら自慢にもなるが、ほとんどは領民から取り上げたものである。

すなわち、石材を揃えられなかった事実は資金に窮していたことの証である。

やむを得ないことであるなら、見えない部分である地面や水面の下になる箇所に使用すればよい。

ところが、転用石の多くはわざわざ正面中央部や角の部分など、人目につく部分に使用されている。

城には物理的な強さだけでなく、多くの人の力を結集したという事実にもとづく呪術的な強さが必要というのが戦国時代の考え方であり、領民から集めた石を石垣にしたのはその現れだったとも考えられている。

墓石や石仏には人々の先祖代々の思念や信仰の力が籠もっているため、石垣の素材としては最適という考えが成り立つ。

転用石をよく見える場所に置くのは、領主と領民が一体となったことを誇示するものであり、石を提供した領民へのサービスであったという見方もなされている。

赤留姫神社

「赤留比賣命」は日本神話に登場する神で、新羅から祖国であるとする本邦へ渡来したとされています。

本社社殿の左側(北側)には「住吉社」(写真右側)と「金刀比羅社」(写真左側)が西向きに鎮座。

住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』にも「子神」として「赤留比賣命神」が記され、古くから住吉大社と関係が深かったことが窺えます。

境内入口。西向きに鳥居が建っています。

社地は横(南北方向)に広く縦(東西方向)に狭いため、鳥居をくぐってすぐのところに社殿が建っています。

拝殿後方に建つ本殿は銅板葺・一間社流造で朱塗りが施されたもの。

やや小高いところに建っています。

拝殿前の狛犬。砂岩製で、がっしりとした体格のもの。

神社の前に猫好きのおばちゃんがいてしばらく猫談義。

生活感は感じられないですが、風情のある建物です。

『鍾馗さん』は京都や奈良の町屋によく据えられている飾り瓦です。

中国で鬼を退治したという伝説の英雄で、疫病神を祓い、魔を取り除くと信じられてきました。

昔、ある薬屋が大きな家を建てた際、屋根に大きな鬼面瓦を据えたそうです。

その鬼瓦を見た、向かいの家の娘が、その鬼に常に睨まれているような気がして夜ごとうなされ、ついには病気になって寝込んでしまったのです。

家族は病気を直すために、様々な手をつくしたけれど、一向に良くならないので娘が言う、その鬼瓦を取り外してくれないかと、薬屋に頼んだのですが、薬屋には大金を払って取り付けた鬼瓦なので外す事はできない!と言われてしまうのです。

そこで家族は鬼に勝つものは何か?と考え、中国の伝説にならい鐘馗さんの瓦を特別につくってもらい屋根に置いたそうです。

すると、娘の病はすっかり回復したといいます。
これが屋根のうえに飾るようになった由縁とされているそうです。

立派な板塀のお家。

長寶寺 王舎山長生院

坂上田村麻呂の娘で桓武天皇の妃の春子姫が、延暦二十五年(806)桓武天皇崩御により、弘法大師に帰依し剃髪し慈心大姉となられ、長寶寺を開基されました。

「王舎山」の山号は、後醍醐天皇が、皇居を吉野に移される時に、長寶寺を仮の皇居とされ、その時に賜ったものです。

境内の手水鉢には 水神に祈願するため 瓢箪(ひょうたん)を模した石に柄杓(ひしゃく)で水を掛けるようになっている。

銅鐘は建久三年(1192)の銘を有し、京都東山金光寺の鐘であったことがわかり、鎌倉時代の代表的和鐘の一つに数えられています。 

ともに国の重要文化財に指定され、市立美術館に寄託されています。

広大な寺域に多くの堂宇があったが、元弘の乱(1331年)、建武年間 (南北朝の争い)、元和(大坂夏の陣(1615年))の兵火により、灰燼に帰した。

「平野郷町誌」によれば、現在の本堂・庫裡は、当寺第三十三代・慈源大姉の時、天保年間(1830-1844年)に再建されたと言う。なお、当寺の住職は代々坂上家の女子が補されることになっている。

防火水槽 58 ■ 平野区平野本町3-1-19

平野区ではじめて見つけた防火水槽は、ご覧の通りの本格派。

さすがは戦火に巻き込まれることなく今も風情ある旧平野郷にとてもマッチした物件です。
 
この第58号、昔ながらな格子ある町家の中に、まさに“鎮座”しています。

その材質は重厚感のある石。その上には木のフタ、そして大きな重石。

“イザっ”と言う時にヤワな人では消火作業できんのやないかとは思いますが、構成美としてはじつに落ち着きがあってかっこよくまとまっています。
 
よく見ると、どうやらこの物件の正面には文字が彫り込まれています。
 風情ある平野郷にあまりにぴったりすぎて“出来すぎ”な感もありますが、ほとんどオブジェとして残っているというのもちょっとテーマパークっぽくてええかもしれませんね。ま、“戦争遺産としての防火水槽を探す”というニュアンスからすると…ややはずれているとも思いますけれども。

古風な街並みに場違いなBar。

テントの破れと壁に絡まる蔦、面白い取り合わせ。

蔦だけでもおもしろてオブジェ。

平野郷十三口  田辺道西脇口地蔵

この地蔵堂は田辺道西脇口門の傍らにあったもので、田辺方面へ通じる木戸口であった。

環濠があった頃、地蔵堂は濠を背に東向きに建っていたが、昭和初期、濠を埋め道路を西へ伸長する際、南の道へ移され北向きとなった。   説明板より

南口地蔵とも子安地蔵とも呼ばれ、南下すると堺口から延びる住吉・堺に通じる八尾街道に合流します。

西脇口には昭和55年まで南海平野線が通り平野駅がありました。

現在は線路沿いに細長い公園になっています。

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「平野郷」発祥の地といわれる全興寺


平野本町通商店街の中ほどに入り口があります。

見ているとひっきりなしに近所のおばちゃんが参拝に見える。

飛鳥時代、聖徳太子が当時野原だったこの地域に仏堂を建て、薬師如来像を安置したのが起源とされる。

寺の名前の由来は不明であるが、この一帯が杭全荘と呼ばれた事から、「杭全を興す寺」から全興寺になったという説がある。

薬師堂の建立後、周りに人が住み始め、町を形成していった。

これが後の平野郷となる(「平野」という名前は平安初期、この地の領主だった坂上田村麻呂の子の坂上広野(坂上広野麿)の「ひろの」が転化して「ひらの」になったと言われている。

本堂には樋尻口地蔵堂の地蔵首も祭られている。

大阪夏の陣で、真田信繁(幸村)が地蔵堂に地雷を仕掛け、徳川家康の爆殺を図ったが、地雷が爆発した時、家康はたまたま催して席を外していた為、辛くも難を逃れたという伝説がある(平野の地雷火)。

この地雷により、地蔵の首が約300メートル離れた同寺に飛んだとされる。
地蔵首の開帳は8月23日と24日。

中世には藤原氏の荘園となり、応仁の乱以降は戦乱に巻き込まれないようにと豪商らが環濠を築き上げ、堺と並ぶ環濠都市として栄えた。

大坂冬の陣では徳川秀忠の軍勢が河内路より平野に入り、全興寺の隣にある野堂町会所を本陣にしたと伝えられている。

全興寺では推奨されている参拝順路があります。

まず本堂へお参りし、その後にこちらの地獄堂へ行くのです。

ガラスの涅槃仏

涅槃仏とは、お釈迦さまが横たわりお亡くなりになられたときのお姿。
こちらでは総ガラスの涅槃仏が見られるとのことで、貴重な体験になります。

一願不動尊の雲海では、中央に立っておられるお不動さまの池に鯉が泳ぎ、時折白い水蒸気の雲海がたなびきます。

ほとけのくに

境内の地下には「ほとけのくに」という多数の石仏に囲まれた空間がある。

四国八十八箇所霊場から採取した砂を納めた手すりがある階段を下りた所にあり、床には密教の曼荼羅がデザインされたステンドグラスがあり、そこに座って瞑想をすることが出来る。

中では水琴窟の音が聞こえ、周囲には真言宗の開祖である弘法大師像や四国八十八箇所の札所の本尊など約160体の石仏が置かれている。

参拝者は曼荼羅の上で瞑想したり、石仏を熱心に拝んだり、おのおのの形で祈りを捧げている。

地獄堂

堂の中は薄暗く、閻魔大王や2メートル以上ある鬼の像が置かれており、閻魔大王の前にあるドラを叩くと、大王がしゃべり出し、地獄の様子がビデオで映し出される仕組みとなっている。

その恐ろしさに途中で泣いて逃げ出す子も多いが、最後は閻魔大王が「こんな所に行かぬよう、悪いことをせず、自分の命を大切に」と諭すという。

道標

右 さ山 高野山 すぐ信貴山道

「小さな駄菓子屋さん博物館」と「のぞいてごらん おばあちゃんのお部屋」では、昭和20年~40年代に駄菓子やさんに並んでいたおもちゃや、その駄菓子屋さんのおばあちゃんの部屋をみることが出来る。

旧石器時代から現代まで、人々が営んできた歴史がいっぱい詰まった町、平野の一部をこの後散策します。

かなり失われたものも数多くありますが多くの歴史のつまったこの地区を今後も改めて機会を見つけて巡りたいと思う。

アクセス

JR平野駅より歩いて13分・地下鉄平野駅より歩いて13分                             
電話番号 06-6791-2680
開門時間 朝7時ごろから夕方5時すぎまで

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熊野詣の宿泊所でもあった深専寺


玉光山深専寺(じんせんじ)は湯浅にある西山浄土宗の仏教寺院。

開基(創立者)は明秀上人と伝える。

本堂大棟には1m80cmの鯱像がある。

大地震津波心得之記碑

嘉永七年六月十四日夜八ツ時下り大地震ゆり出し翌十五日まで三十一二度ゆりそれより小地震日としてゆらざることなし

廿五日頃漸ゆりやミ人心おだやかになりしニ同年十一月四日晴天四ツ時大地震凡半時ばかり瓦落柱ねぢれたる家も多し 

川口よた来たることおびたゞしかりとも其日もことなく暮て翌五日昼七ツ時きのふよりつよき地震にて未申のかた海鳴こと三四度見るうち海のおもて山のごとくもりあがり津波といふやうな高波うちあげ北川南川原へ大木大石をさかまき家蔵船みぢんニ砕き高波おし来たる勢ひすさまじくおそろし 

なんといはんかたなし 

これより先地震をのがれんため濱へ逃あるひハ舟にのり又ハ北川南川筋へ逃たる人のあやうきめにあひ溺死の人もすくなからず 

すでに百五十年前宝永四年乃地震にも濱邊へにげて津波に死せし人のあまた有しとなん聞つたふ人もまれまれになり行ものなれハこの碑を建置ものそかし 

又昔よりつたへいふ井戸の水のへり 

あるひハ津波有へき印なりといへれどこの折には井の水乃へりもにごりもせざりし 

さすれハ井水の増減によらず 

この後萬一大地震ゆることあらハ火用心をいたし津波もよせ来へしと心えかならず濱邊川筋へ逃ゆかず深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべし

恵空一菴書

奈良時代には行基の開祖による海雲院という寺院として創建されたとされる。

平安時代末期に盛んになった熊野三山への信仰により、熊野街道の通る湯浅が交通の要害として発展していた。

南北朝時代、1462年(寛正3年)または1431年(永享3年)頃に、荒廃していた海雲院を、赤松則村の曾孫である明秀上人が、浄土宗西山派の教えを持って「深専寺」と改称し再興した。

再興年代については諸説あり、紀伊名所図会や紀伊続風土記には宝徳年間(1449年 ~ 1451年)とされている。

承応年間(1652年 ~ 1654年)の「湯浅の大火」によって深専寺は全焼し、寛文3年(1663年)より浄財公募による再建の際、紀州藩徳川頼宣より財政支援を受けた。

平成10年(1998年)、本堂が和歌山県指定有形文化財に指定された。

山門を入ると、右手に芭蕉の句碑があった。

春の夜はさくらに明けてしまひけり

出典は『翁草』(里圃編)。

何時どこで詠まれた句か、不明。

『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄四未とし」とする。

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「孝養の寺」 耕三寺


目指す寺、耕三寺は瀬戸田港から徒歩10分。

山号は潮声山(潮聲山)。

1936年(昭和11年)から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれる。

このうち、山門・本堂をはじめ15の建造物が国の登録有形文化財として登録されている。

山門

京都御所紫宸殿の門を模したもの。

御所の門は素木造であるのに対し、こちらは鉄鋼13トンを用いた極彩色の門である。
登録有形文化財。

五重塔

鼓楼・鐘楼から階段を上がって一段高くなった敷地に建つ。

室生寺五重塔を模したもので、心柱は鉄鋼製。第二次大戦後の起工で、1955年に完成した。

孝養門

五重塔からさらに階段を上がった敷地に建つ。

10年をかけて1963年に完成した。

日光東照宮陽明門を模したものであるが、陽明門よりも色鮮やかで、「母親を綺麗に着飾らせたいという気持ちで作られた」とも言われる。

五重塔と孝養門は第二次大戦後の建築であるため、登録有形文化財の登録対象外となっている。

陽明門を模した孝養門から「西の日光」と呼ばれるようになり、瀬戸内海の観光地の一つとなった。

平成期に入ってからは、建築物の特殊性が評価され、15棟が登録有形文化財として登録された。

本堂

平等院鳳凰堂を模したもの。

1940年完成。
中堂には本尊阿弥陀如来像を安置。

西翼楼には塑造の不空羂索観音像(第二次大戦後の制作)、東翼楼には奈良・興福寺から移された釈迦如来坐像(重要文化財、平安時代)を安置する。登録有形文化財。

救世観音大尊像

本堂左後方に立つ。コンクリート・漆喰併用の彫像で総高15mで、法隆寺夢殿の御本尊・秘仏救世観音が手本である。
1967年完成。

耕三寺は、広島県尾道市(生口島)に所在する浄土真宗本願寺派の仏教寺院。

耕三寺の開山は、大正・昭和期に大阪で活躍した実業家の金本耕三のちの耕三寺耕三。

1927年(昭和2年)故郷瀬戸田に住む母のために邸宅「潮聲閣」を建て始めた(耕三寺内に現存)。

母が1934年(昭和9年)に没すると、翌1935年(昭和10年)、金本は母の菩提を弔うため出家して僧侶となり名を福松から「耕三」に改め、同年から母への感謝の意を込めて、潮聲閣周辺にて耕三寺の建立を開始した。

金本はかねてより、瀬戸田の地に誇りうる文化財のないことを残念に思っており、境内を日本各地の著名な歴史的建造物を模した堂宇で埋める構想を立てた。

以来、30余年をかけて、日光東照宮陽明門を模した孝養門、平等院鳳凰堂を模した本堂などをはじめとした伽藍が完成した。

なお金本は1956年(昭和31年)以降、自らを「耕三寺耕三」と名乗るようになった。

耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年(明治24年)12月2日 – 1970年(昭和45年)10月25日)は、福岡県鞍手郡直方町(現直方市)出身の和上。

耕三寺建立者。
旧広島県豊田郡瀬戸田町名誉町民、現尾道市名誉市民。
出身を瀬戸田町とする資料もある。

金本 福松として出生、溶接工から実業家・発明家となり、1935年得度し金本 耕三、1956年耕三寺に改名した。

1908年(明治41年)16歳の時に酸素アセチレン溶接を学びに、大阪桜島(此花区)でフランス人が経営していた日本オキシゼーヌ・アセチレーヌ會社に入社する。

一度は受け入れを拒否されたが福松の熱意が通じ雑役として採用され、のちに影で行っていた努力が評価され正式な溶接工として昇格、フランス人技師のロワイエとセギーの下で学んだ。

酸素溶接がヨーロッパで一般化したのは入社の3年前である1905年ぐらいからであり、後に出版される『全溶連史』(1979年全国高圧ガス溶材組合連合会刊)では福松を「我が国最初の溶接工」と紹介していることから、日本の溶接工の草分け的な存在であったことがわかる。

母ヤツの実家である生口島瀬戸田町との関係は、大阪で成功したこの頃から始まる。

1927年(昭和2年)まず母の別荘として潮聲閣を建て始め、1929年(昭和4年)には島の塩田を買収している。

1934年(昭和9年)、母ヤツ死去。
以降仏教に帰依するようになり、母の菩提寺を瀬戸田に建立しようと動き出す。

1935年(昭和10年)浄土真宗本願寺派で得度、法名「耕三」を受ける。

1938年(昭和13年)山梨県東山梨郡菱山村(甲州市勝沼町菱山)の得祐寺住職に就任、翌1939年(昭和14年)得祐寺を瀬戸田に移転することを許可され、1940年(昭和15年)径大鋼管社長を辞任、1943年(昭和17年)寺号を「耕三寺」に変更することを許可される。

耕三寺の建立は、瀬戸田町からは郷土の発展と失業者対策として期待されたこともあり、様々な様式を取り入れた壮大な寺院が出来上がっていき、附属博物館などとともに晩年まで建立は続いた。

また、瀬戸田病院の新設や瀬戸田学園理事長となり新校舎を新築している。
これが現在は尾道市立市民病院附属瀬戸田診療所、広島県立瀬戸田高等学校として存続している。

1953年(昭和28年)、瀬戸田町名誉町民に顕彰。
1970年(昭和45年)、耕三寺孝庵にて死去。
享年78。

アクセス
[船] 三原港または尾道港から瀬戸田行きの連絡船を利用。瀬戸田港からは徒歩15分。
[自家用車] しまなみ海道 生口島北ICから20分程度。

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