アジサイ見頃の長谷寺


ふつつ門前町はお寺に直接みちびいてくれるが、ここだけはちょっと違う。
一旦与喜天満宮につき当り、そこから左折して山門に至る。
その天満宮のある山を、与喜山、または「大泊瀬」と呼び寺の建っている所を「小泊瀬」という。
初瀬川はその中間を流れているわけだが、門前町を歩いて行くと、先ず正面に与喜山の大泊瀬が仰がれる・・・・・

私の古寺巡礼-講談社文芸文庫-白洲-正子

以前訪れた與喜天満神社の記事奈良のパワースポット 與喜天満神社
長谷寺を訪れたらまず、與喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)へ。 與喜山(国の天然 … 続きを読む →


「中登廊」を登りきったところに、「蔵王堂」がある。
この「蔵王堂」のあたりに、吉野山から虹が架かり、その上を三体の蔵王権現が歩いて長谷寺までやって来たことからこの場所に尊像を祀っている。

蔵王権現は、役行者が吉野・金峯山寺で修行中にお告げを得たという憤怒形の仏。
金峯山寺の蔵王堂に祀られている、弥勒・釈迦・千手観音と同じ三体を祀る。

本堂を出たところ、まさにアジサイ満開。

この日は快晴でアジサイ撮影には好ましくない、できるだけ日陰を狙う。

先月はボタン祭りの最終日に訪れた。ボタン咲くころ
長谷寺は朱鳥元(686)年、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を … 続きを読む →










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雨の一休寺


この時期一休寺の境内は無緑に包まれ清々しい、雨に濡れたモミジがきれいです。

方丈庭園は松花堂昭乗、佐川田壽六、石川丈山の合作によるもので、「三作の庭」といわれる。

元弘年間(1331 – 1334年)に兵火にあって衰退していたのを、康正2年(1456年)に一休宗純が草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。

「朝咲き散る夕 せつなく美し」

沙羅双樹は、朝に咲いて夕方に落花する姿が、世の無常を感じさせる。

「このはし わたるべからず」…“とんちの一休さん”が晩年を過ごした酬恩庵(一休寺)には、有名なとんち話を再現した橋もある。

再建されてしばらくたった文明2(1470)年の春ごろから、盲目の琵琶弾きである森女(しんじょ)という女性が住みはじめた。
一休が大坂・住吉神社で見そめ、連れてきたのである。

森女は30歳代なかば、一休77歳。
「老いらくの恋」というには、あまりにも年が離れすぎている。薪村に住む一休の信奉者も、ちょっとあきれたのではないだろうか。

だが一休は気にしなかった。
森女の手をひき、緑にあふれる甘南備山のふもと周辺をのんびりと散策した。

そして、夜。一休の詩歌集『狂雲集』のなかに、「美人陰有水仙花香」という漢詩がある。

訳すと、「美人の陰は水仙のような甘い香りがする」とでもなる。
「陰」は、もちろん女性器のことである。そのなかの一節--。

楚台(そだい)はまさに望むべく 更に攀(よ)ずべし 半夜の玉床 愁夢(しゅうむ)の顔 花は綻(ほころ)ぶ 一茎(いっけい) 梅樹の下 凌波(りょうは)の仙子 腰間をめぐる

一休は文明13年11月21日(1481年12月12日)、88歳で亡くなるまでをここで過ごし臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。

水上勉は、一休が盲目の森女の膝を枕に、静かに死出の旅に招かれたていったと考えたようだった。

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羅漢とアジサイの寺 正俊寺


境内には立派な涅槃像もある。

久貝因幡守正俊を弔い、息子である正世が建立した久貝家菩提寺。
父の名より長尾山正俊寺と命名された、曹洞宗の寺院。

境内には羅漢さんの像があり、そばには約1万5000枝のあじさいが植えられている。

訪れる人の少ない静かなお寺です。

アジサイ園には約1万5000枝の字祭が植えられており、ほぼ貸切状態での撮影だ。

入り口は無人ですが、環境保存協力金という形で100円を支払います。

今日は小雨模様の蒸し暑い日ですが木陰は少しヒンヤリとして心地いい。

羅漢はユニークな顔をしており思わず微笑みたくなる。


かわいい童の地蔵もあります。

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雨の季節に宝泉院を訪問


この時期大原一帯ではユキノシタが花盛り、宝泉院へ向かう途中、律川の両岸にユキノシタの群生を見る。

2005年(平成17年)3月には枯山水庭園の宝楽園が完成、山形県や長野県などから約300トンの石を運んでいる。
この時期、苔がきれいです。

玄関の左側には江戸時代中期に作られた鶴亀庭園があり、池と蓬莱山を象った亀石が配置されている。

こちらのつくばいにはユキノシタがあしらわれていた。

この「宝泉院」は、山崎豊子さんの小説「不毛地帯」にも登場しています。

・・・薄暗い広間からまるで舞台を見るように、柱と框で大きな額縁のように明確に区切られている広縁の向こうに広がる孟宗竹の竹藪を無言で見詰めていた。
・・・やがて霞のような夕靄が流れ、金色に輝いた竹の葉は紫色に変り、薄墨色の夕闇の中に溶け込むように昏れなずんで行った。

山崎豊子 著 「不毛地帯」より

盤桓園は「立ち去りがたい」という意味を持ち、書院の柱や鴨居を額に見立てて鑑賞することから、「額縁庭園」という名でも親しまれている。

樹齢約700年の「五葉の松」は京都市天然記念物であり、三上山(近江富士)を象ったとされている。

高浜虚子はこの松を「大原や 無住の寺の 五葉の松」と詠んだ。

拝観客は、盤桓園・五葉の松の見える座敷に通され、境内入口で渡されたお抹茶券と交換に一服の抹茶と茶菓子を供される。

署員の縁側に座り、盤桓園の竹林を通して雨模様の大原の景色を楽しむ。

宝泉院へは何度も訪れているが雨の季節は初めて、しかし、やはり紅葉が一番素晴らしい。

紅葉の真っ盛りに宝泉院を訪れる
大原は春夏秋冬、何度も訪れているが、紅葉に惹かれまたまた来てしまった。 漬物屋の … 続きを読む →

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三千院 アジサイが見頃です


三千院へ向かう大原女の小径界隈はユキノシタの花が満開でとてもきれいです。

美と智恵と音楽の神として知られる弁財天さん京の七福神としても有名です。

今日は雨に濡れてしっとり。

あじさい苑では、6月中旬のコアジサイに始まり、ヤマアジサイや珍種のホシアジサイなど、7月中旬まで1,000株以上が咲き誇ります。

三千院のあじさいは6月上旬から7月中旬にかけて見頃を迎えますが、品種によって開花時期が若干異なります。

最初に見頃を迎えるのは小あじさい、次に星あじさい、最後に最も数の多い山あじさいという順番です。

1箇月間いつ訪れても、いずれかの品種は見頃を迎えており、見る者を楽しませてくれます。

可憐なあじさいと新緑の青もみじを見たい方は6月上旬~中旬に、迫力ある山あじさいを見たい方は6月下旬~7月中旬に訪れると良いでしょう。

あじさいは雨の日ほど、活き活きと色づいて見えるもの、この梅雨の季節はおあつらえ向き。

おさな六地蔵 気持ちの安らぎを覚えます。

また、この時期苔が美しい季節です。

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豊臣秀吉寄進と伝わる日吉三橋

白洲正子 近江の旅|古代から継がれる石の文化と木地師の伝説

正子の旅は近江各所に及んでいるが、その旅は「石」と「木」と対話し、日本の美を再確認することではなかっただろうか。
そうして、石の文化を訪ねた先が、比叡山の麓にある日吉大社だった。

比叡山は最澄の開山で知られるが、日吉大社の縁起はそれよりもずっと古い。
大社に向かう長い坂道の参道を上っていくと、美しい姿の山が正面に見える。八王子山、または比叡山に対して小比叡[おびえ]とも呼ばれる。日吉大社の日吉は、「ひえ」と読むのが正しいようだ。

山上には古代より神が降臨するといわれ、信仰を集める巨岩「磐座[いわくら]」が鎮座する。
『古事記』には、大山咋神[おおやまくいのかみ]と鴨玉依姫[かもたまよりびめ]をまつると記され、日吉大社の境内全体が古代信仰の霊地とされ、周囲には古墳も多い。

最澄はこの神体山の麓で生まれ、小さい頃より古代信仰に触れたことが、天台密教を開く助けになったといわれている。
日吉大社境内の岩や巨樹にはしめ縄が飾られ、石と木それ自体が今も信仰の対象である。

その境内に、見事な石橋が架かっている。奉納したのは豊臣秀吉だ。構築はおそらく穴太衆[あのうしゅう]の手によるものだろう。
麓にある穴太地区はその石工集団の故郷で、戦国時代の築城に大きな役割を果たした。

正子は、穴太衆の優れた石造技術は、巨石を加工し墳墓を築いた古代から受け継がれたものではないかと推理する。

白洲 正子のエッセイ 「かくれ里」

白洲 正子のエッセイ 『近江山河抄』

三本の石橋の中で一番上流に架かる橋は『大宮橋』

大宮橋は、西本宮へ真っ直ぐ向かう参道に架かる橋で、花崗岩製の石造反橋ですが、木造橋の形式をそのまま用いた珍しい橋。

橋の両側に格座間を彫り抜いた高欄をつけるなど、日吉三橋の中で最も手が込んでいる豪壮雄大な石橋となっている。

重要文化財 建造物
日吉大社日吉三橋 大宮橋 一基
(大津市坂本五丁目)

大宮橋は、西本宮(大宮)へ向かう参道の大宮川にかかる花崗岩[かこうがん]製の石造反橋[そりはし]ですが、木造橋の形式をそのまま用いています。

幅五・〇メートル、長一三・九メートルで、川の中に十二本の円柱の橋脚をたて、貫[ぬき]でつなぎ、その上に三列の桁[けた]をおき、桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡しています。

両側に格座間[こうざま]を彫り抜いた高欄[こうらん]をつけるなど、日吉三橋のうちでも最も手が込んでおり、豪壮雄大な構造の、代表的な石造桁橋。

天正年間(1573~1592)豊臣秀吉が寄進したと伝えられていますが、木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文九年(1669)のこと。

大正六年(1917)八月、日吉三橋の一つとして国の指定文化財となりました。 (現地説明板)

下流から見上げると高欄下部は苔むして風格がある。

日吉三橋の真ん中に架かる橋は『走井橋』。

走井橋は日吉三橋の中で最も簡素な構造の橋ですが、橋の傍らにある走井という清めの泉があり、そこでお祓いをするための重要な橋で、比叡山回峯行などでは必ずこの橋を渡るといいます。

重要文化財 建造物 日吉大社日吉三橋 走井橋 一基
(大津市坂本五丁目)

走井橋は、大宮橋のすぐ下流にかかるお祓いをするための石造反橋[そりばし]。

日吉三橋の中で最も簡素な構造で、幅四・六メートル、長十三・八メートルを測ります。
川の中に方柱の橋脚をたてますが、その数も六本と少なく、また桁も省かれ、橋脚の頭に継ぎ材をおいて、橋板をかけています。

橋板に反りをつけることで、軽快な感じをよく出しています。
走井橋の名は、橋の傍らに走井という清めの泉があることに由来します。(現地説明板)

上流の大宮橋と比べますと橋脚も少なく、また桁も省かれた簡素な構造の石橋ですが、板橋に反りをつけることで軽快な感じになっています。

走井橋を渡ったところの大杉の根元に鎮座するのは走井祓殿社。

御祭神は瀬織津比咩・速開都比咩・気吹戸主・速佐須良比咩

御祭神の四柱は大祓祝詞に登場する神様で、天下四方の罪穢れを水によって祓い清めて消滅してくれます。

日吉三橋で最も下流に架かる橋が『二宮橋』。

二宮橋は東本宮(二宮)へと続く参道に掛けられていることから「二宮」という名前がつけられています。

二宮橋も走井橋と同じような簡素な構造の橋となっていますが、こちらの橋は桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡し、両側に高欄をつけ、大きさも大宮橋とほぼ同じ幅となっています。

二宮橋は天正年間に豊臣秀吉により寄進されたと伝えられている木橋を、後に石橋に架け替えられたもので石橋としては日本では最大、最古とされています。

重要文化財 建造物 日吉大社日吉三橋 二宮橋 一基
(大津市坂本五丁目)

二宮橋は東本宮(二宮)へ向かう参道の、大宮側に架かる花崗岩製の反橋ですが、木像橋の形式によって作られたものです。

川の中に12本の円柱の橋脚を立て、その上に三列の桁を置き、桁上に継ぎ材を並べ橋板を渡し、両側に高覧をつけています。

上流に架かる大宮橋とほぼ同規模で、幅5.0メートル、長さ13.9メートルを測りますが、構造はより簡単で、橋脚の貫もなく、高欄も板石と擬宝珠付親柱で構成されています。(現地説明板)

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天海の廟所 慈眼堂


慈眼堂(じげんどう)は滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。

慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の復興に尽力した天海の廟所。

江戸時代初期の禅宗様を基本とする建物で、堂内には木造慈眼大師坐像(国の重要文化財)を祀る。

境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏のうちの13体の阿弥陀如来座像のほか、 歴代天台座主の墓、桓武天皇の御骨塔などがある。

穴太積の前に並ぶ13体の阿弥陀仏石仏の前には歴史上の各界著名人の供養塔が立ち並ぶ。

天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏のうちの13体の石仏(安土桃山時代)

白洲正子が何度も採り上げた鵜川四十八体石仏群
高島市高島の白髭神社付近に「いにしえの道西近江路」の道標があり、上り坂になってい … 続きを読む →

白洲正子 『近江山河抄』

穴太の石垣と紅葉の散策
日吉大社は滋賀県屈指の紅葉名所として知られており、境内に3000本ものモミジが燃 … 続きを読む →

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延暦寺の里坊を代表する滋賀院門跡


坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも滋賀院門跡はひときわ背の高い石垣と白壁に囲まれて、延暦寺の本坊らしい堂々とした外構えを見せています。

1615年(元和元年)江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」とも称された天台宗の僧天海が、後陽成天皇から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した寺。

滋賀院の名は1655年(明暦元年)後水尾天皇から下賜されたもの。

滋賀院御殿と呼ばれた長大な建物は1878年(明治11年)火災により焼失し、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建された。

芭蕉句碑

叡慮にて賑ふ民や庭竈

「庭竈」とは、正月三が日間、土間に新しい囲炉裏を切って薪を焚き、囲りに主人家族、奉公人らが集まって大服茶、酒、焼餅などを飲食して団欒する民間行事。

正面の勅使門(御成門)は門跡寺院の風格がある。

二階の東側の障子を開けると琵琶湖が見え、その向こうに遠く近江富士(三上山)がくっきりと浮かぶ景色は良い眺めで、いかにも天台宗の偉い地位に就いた人の隠居所という感じ。

滋賀院庭園 – 伝小堀遠州作

縁側の下はすぐに池になっており、池の中央には5mもある実に立派な石橋が架けられている。

石橋を渡ると滝口があり、権現川の水を取り入れた清流が、音を立てて勢いよく流れ落ちる。

「羅漢の間」の奥には「座主接見の間」があり、天台座主の公式儀式や接見は全てこの間で行われた。
一段と高い上段の間があり、厳かな雰囲気が漂う。

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橿原神宮


神橋と二の鳥居

記紀において初代天皇とされている神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。

南神門

1940年(昭和15年)には昭和天皇が同神社に行幸し、秋には日本各地で紀元2600年奉祝式典が挙行された。

この年の参拝者は約1000万人に達したという。
現在でも皇族の参拝がある。

今上天皇・皇后は神武天皇崩御2600年の式典(2016年)に親拝し、2018年には銅鏡を神宮へ贈った。

近代の創建ではあるものの、奈良県内では春日大社と並んで初詣の参拝者数が多い神社である。

他にも、勅使参向のもと紀元祭が行われる2月11日(建国記念の日)や、神武天皇祭が行われる4月3日および奉祝行事「春の神武祭」の開催期間にも多くの参拝者が訪れる。

外拝殿

内拝殿

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久米寺


山号は霊禅山(れいぜんさん)、真言宗御室派仁和寺別院。

久米仙人による開基伝承は『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などのほか、『今昔物語集』巻十二本朝仏法部にも収録され、『徒然草』にも言及されている著名な話。

それによると、吉野・龍門寺の久米仙人は仙術で空を飛べるようになったが、ある日空を飛んでいる時、川で洗濯をしている女のふくらはぎに見とれて法力を失い、地上に落ちてしまった。

久米仙人はその女とめでたく結婚。
その後は普通の俗人として暮らしていた。

その後、時の天皇が遷都を行うことになり、俗人に戻った久米仙人は遷都のための工事に携わる労働者として雇われ、材木を運んだりしていた。

ある日仕事仲間から「お前も仙人なら、仙術を使って材木など一気に運んでしまったらどうだ」とからかわれた。

一念発起した久米仙人は7日7晩祈り続けた後、仙力を回復。

久米仙人の仙術で、山にあった材木が次々と空へ飛び上がり、新都へと飛んで行った。

これを喜んだ天皇は久米仙人に免田30町を与え、これによって建てたのが久米寺であるという話。

山門を入ると真正面に、かつての塔が建っていた礎石群が姿を現す。

この場所に五重塔が建っていたのか、はたまた巨大な多宝塔が建っていたのか、その謎は深まるばかり。

現在の多宝塔周辺の礎石群や、出土した瓦などから推察すると、7世紀後半には既に久米寺は存在していたと言われる。

かつては金堂、観音堂、御影堂、多宝塔などの伽藍が建ち並ぶ大寺院であったことがうかがえる。

久米寺に鯰(なまず)の奉納額がみられ、古く、久米氏族が鯰をトーテムにしていたといわれる。

異彩を放つ黄金の大日如来像。

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