古代史と万葉の史跡を訪ねる 高鴨神社


高鴨神社の朱色の鳥居。

高鴨神社境内の宮池と、浮舞台で奉納される雅楽と舞は奈良県景観資産にも登録されています。

その美しい水辺景観は、日本神事の原点を見るようでもあります。

仲秋の名月には雅楽などによる観月演奏会が催され、境内にはより一層雅な雰囲気が醸されます。

拝殿は石段を上った所にある。

高鴨神社(たかかもじんじゃ)は、奈良県御所市の金剛山東山麓にある神社。

式内社(名神大社)。社格は県社。京都の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社と称する。

4月中旬から5月初旬にかけて500種2,200鉢以上の日本サクラソウが咲く。

阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)を主祭神とし、下照比売命・天稚彦命を配祀する。

当地は鴨氏一族の発祥の地であり、その氏神として祀られたものである。

鴨氏はこの丘陵から奈良盆地に出て、葛城川の岸辺に移った一族が鴨都波神社を、東持田に移った一族が葛木御歳神社を祀った。

後に、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった。

「カモ」は「カミ」と同源であり「カモす」という言葉から派生し、「気」が放出している様子を表しています。

当神社の神域は鉱脈の上に重なり、多くの「気」が出ていることでも有名です。

夏場に参詣されますと、涼しく感じられるのはその為です。「気」は身体に大変よく、ぜひ神域を巡られて神様の「気」をお受けになられ、心身共に甦られることをお祈り申し上げます。

~高鴨神社 パンフレットより~

宇賀御魂命を祀る稲荷神社の鳥居。

八幡社、一言主社、猿田彦社、聖社などが木々に囲まれた参道沿いに祀られており、さらに進んで行くと朱色の鳥居が目印のお稲荷さんがありました。

ここのお稲荷さんだけは、右手の石段を少し上がった所に祀られていました。

古代史と万葉の史跡を訪ねる葛城の道の旅も終わりです。

バスの車窓からの大和三山、この日もただ暑く、バスの座席に座り冷気を浴び一息。

帰りに立ち寄った道の駅、暑いけれども、空は澄み渡り気持ちいい一日であった。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

古代史と万葉の史跡を訪ねる 高天寺 橋本院


橋本院の入り口の万葉歌碑 
「 葛城の 髙間の草野(かやの) 早や知りて
     標(しめ)刺さましを 今ぞ悔(くや)しき
 」   巻7-1337 作者未詳

( 葛城の髙間の草野、そこをいち早く見つけて、「ここは俺のものだ」と目印を
  立てておけばよかった。
  いつの間にか他人に刈られてしまったわい。悔しい! )

草野は屋根材の最高級品とされた茅(かや)の群生地のことで、当時このあたりに生い茂っていたようです。

この歌は「草に寄す」に分類されているので、草野は若く美しい女性の譬えとされ、標刺すは我が物にすること。

目を付けていた女性が、知らない間に他人と一緒になった悔しさを詠っています。

葛城古道から見た橋本院、季節ごとの花のきれいな寺としても有名で、アジサイもその一つ。

長い参道にはユリなど季節の花が美しい。

真言宗のお寺で、ご本尊は十一面観世音菩薩像。

ご本尊はお彼岸などのお寺の行事の時や毎月開帳される。

高天寺は奈良時代に元正天皇の勅により行基が開いたとされる。

鑑真和尚も聖武天皇の任命により高天寺の住職になったほど、格式の高い寺院です。

また修験道の祖と崇められる役の行者のこの寺で修行を積んだと伝えられています。

奈良時代には高天原エリア一帯に敷地がひろがる大きな寺院でした。

時代の移り変わりとともに奈良の興福寺に属し、後に弘法大師の真言宗に属しました。

一時は大寺院として勢力を誇った高天寺でしたが、中世に入り南北朝時代になると 高天寺は戦乱で焼き払われ、なんとか一院だけ焼け残りました。

この院がちょうど池の橋の横にあったことから「橋本院」と呼ばれるようになり このことから現在は「高天寺 橋本院」として信仰を集めています。

カメラマンのファンの多い「瞑想の庭」

高天寺・橋本院での見所はなんといっても「瞑想の庭」と呼ばれる庭園。

白雲岳を背景に四季おりおりの草花が 野趣あふれる形で楽しむことができます。
葛城古道を紹介するテレビの収録が数多く行われているお庭です。

奈良盆地の西南、大阪府と奈良県の境に連なる二上、葛城、金剛山の峰々は古くは総称して葛城山(かつらきやま)とよばれていました。

その東側の山裾(奈良県側)を南北に辿る道が葛城古道で、古代豪族葛城氏や鴨氏の本拠地とされています。

葛城氏は天皇家との結びつきが強く、その祖とされる襲津彦(そつひこ)の娘が仁徳天皇の皇后、磐姫、万葉集最古の歌を詠んだといわれる女性です。

「 葛城の 襲津彦真弓(そつびこまゆみ) 新木(あらき)にも
   頼めや君が  我が名 告(の)りけむ
 」
                          巻11-2639 作者未詳

 ( 葛城の襲津彦(そつびこ)の持ち弓、その新しい弓材が強いように
  あなた様は私を強く信じ切って下さった上で、私の名を他人に明かされたのでしょうか)

古代、恋人の名を他人に告げることは禁忌とされていました。

他人の口から人の名が発せられると、その人の魂が抜け出てしまい、お互いの関係が消滅すると考えられていたのです。

この歌の作者は、自分の名を明かした男に、
「 なぜ人に教えたの.
  教えても私の気持ちが心変わりしないと強く信じておられたの。
  それとも、もうお互いの関係は終わっても良いという心づもりなので
  しょうか 」 と問い詰めています。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

古代史と万葉の史跡を訪ねる 高天彦神社


創建は不詳。金剛山東麓に鎮座し、元々は社殿後背の白雲岳(白雲峰、標高694メートル)を神体山に祀った神社とされる。

元々は当地の地主神の「高天彦」を祀ったものと推測される。

社名・神名の「高天(たかま)」は一帯の地名でもあり、神話に見える高天原の伝承地とする説が古くからあるほか、高皇産霊神の神名の転訛が由来とする説、高皇産霊神の別名が「高天彦神」とする説、「高間」すなわち金剛山中腹の平地を意味するとする説がある。

『万葉集』では、「葛城の高間」と詠まれた歌が知られる(巻7 1337番)。

『延喜式』神名帳では宇智郡に高天岸野神社・高天山佐太雄神社が見え、いずれも五條市の金剛山中腹の神社に比定されることから、「高天彦神」を金剛山の神霊そのものとする説もある。

葛城の 高間の草野 早知りて

            標刺さましを 今ぞ悔しき

葛城の高間の草野を早くに知っておればシメを立てたものを、今となっては 悔しい!

参道の老杉>

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

古代史と万葉の史跡を訪ねる 一言主神社


葛城古道界隈は風情のある民家が続く。

綏靖天皇は神武に次ぐ第二代の天皇で、その存在については疑問視されています。

しかしながらこの辺りは葛城襲津彦の子にして第十六代仁徳天皇の皇后である磐之姫の古郷と言われ、古事記には磐之姫が熊野に行っている間に天皇が八田若郎女を宮中に入れ遊び戯れている話を知り、大いに怒って(磐之姫は嫉妬深いことで有名)宮中に帰らず、堀江を遡って山代へ向かい、更に奈良山の手前まで行き次の歌を詠んだとされます。

 「つぎねふや 山城川を 宮のぼり わがのぼれば あおによし 那良を過ぎ をだて 大和を過ぎ わが見がほし国は 葛城高宮 吾家のあたり

いずれにしてもこの地が古代の天皇家と深い関わりがあったのではないでしょうか。

嫉妬にまつわる逸話

古事記下巻仁徳天皇条には「その太后石之日売命、甚(いと)多く嫉妬(ねた)みたまひき。
故、天皇の使はせる妾(みめ)は、宮の中に得臨(えゆ)かず、言立てば、足もあがかに(=地団太踏んで)嫉妬みたまひき」という記述が見られるように、妬み深い人物として知られる。

その様から他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇は宮殿を離れた時か、彼女が宮殿から出かけた時に迎えいれるしかなかったという。

ただ、裏を返せばそれだけ仁徳天皇が多情であったということであろう。

『古事記』には、仁徳は黒日売(くろひめ)という美女を見初めたが、黒日売は石之日売の嫉妬を怖れて国に帰ったという話を伝えている。
『日本書紀』には、仁徳が女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが磐之媛の嫉妬が強くて召し上げられないと嘆く話が出てくる。

天皇が八田皇女(八田若郎女)を宮中に迎えたことへの太后の怒りについては記紀ともに伝えている。

太后が豊楽(とよのあかり。酒宴のこと)の準備のために、料理を盛る木の葉御綱柏(みづなかしわ)を採りに紀伊の国へ行った留守中に、天皇が八田皇女を後宮に納れたことを知り、採取した御綱柏をすべて海に投げ捨て、天皇の元へ戻らなかった。

『古事記』では、独り身を歌った八田皇女の天皇への返歌が添えられており、そのことから、八田が身を引き天皇と石之日売は和解したという研究者の解釈がある。

また、その後起こった女鳥王(八田皇女の妹)とその夫・速総別王の討伐(仁徳に求婚された女鳥王は石之日売の怒りを怖れて速総別王と結婚したが仁徳の怒りを買って二人とも殺害された)ののちの酒宴に再び石之日売が登場し、討伐を実行した武人・山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)の妻が女鳥王の腕輪をつけていることに気付き、「主君の屍から腕輪をはぎ取り、妻に与えるとは無礼だ」と激怒し、山部を死刑に処した、と記している。

『日本書紀』では、天皇の浮気を知った磐之媛は実家の葛城高宮を懐かしみ、近くの筒城(筒木)岡に宮室を造営して以後そこに暮らし、天皇が面会に来ても会うことはなく筒城宮で没したと伝える(『日本書紀』では八田皇女の妹夫婦討伐の話は太后の死後としている)。

研究者の大久間喜一郎は、太后が八田皇女を頑なに認めなかったのは、豪族出身の太后に対し、八田皇女は応神天皇の娘であるため、格上の家柄の女性を宮中に迎えたくなかったからではないかとしている。

また、天皇が即位後に、それまでの妻に代わって位の高い女性を皇后に改めて迎える例は多々あるが、八田皇女が皇后となるのは太后の死後であり、太后の4人の息子のうち3人が連続して天皇に即位したことから見ても太后の権威は大きかったと推測している。

日本最古の歌集とされる万葉集には彼女の愛情の深さを表す歌が四首収められている。なお、ここでいう「君」はもちろん仁徳天皇を指す。

君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ

かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを

ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに

秋の田の 穂の上に霧らむ 朝霞 何処辺の方に わが恋い止まむ

3首目の意味は「豊かな私の黒髪が白くなるまであなたを待ちましょう」という意味であり、この歌を詠んだのが上記と同一人物とは信じられず、後の時代に別の誰かによる創作とも考えられている。


「いちごんさん」の石段をのぼると目の前にはムクロジの大樹があり、本殿前には銀杏の大樹がありす。

樹齢650年といわれるムクロジの大樹。

ムクロジは神社・寺によく植えられる落葉高木。

ムクロジの実は果皮に多量のサポニンを含み、水を泡立てる働きがあるので、洗濯などに広く利用されてきました。
黒い種は羽子板の羽に使われていました

拝殿前にはイチョウの古木(乳銀杏)があり、樹齢1,200年ともいわれ神木とされている。

この一言主神に関しては、『日本書紀』[原 3]『古事記』[原 4]における雄略天皇との対面説話が知られる。

両書によれば、雄略天皇が葛城山中で狩猟をしていた際、天皇と同じ姿の一言主神(一事主神)が現れ、天皇と狩猟を競ったという。

ただし、『古事記』では天皇が大御刀・弓矢・百干の衣服を神に献じて拝礼したとして一言主神の方が優位に記述されている一方、『日本書紀』では天皇が物を献じることはなく一言主神と天皇が対等に近い立場で記述されている。

『古事記』の方が原初的と見られることから、『古事記』の説話は一言主神の奉斎氏族とされる葛城氏が皇室外戚として強い勢力を持った頃の政治情勢を反映したもので、『日本書紀』の説話は葛城氏勢力が衰えて一言主神の地位も低下した頃の情勢を表すと考えられている。

さらに時代が下り、平安時代の『日本霊異記』[原 1]や『今昔物語集』[原 5]では、一言主神は役行者(役優婆塞/役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、さらに役行者の怒りにふれ呪縛された、と記されるまでに神威の低下が見られる。

なお、この使役の時に一言主神は自らの顔の醜さを隠して昼は働かず夜のみ働いたとされるが、その説話を受けて松尾芭蕉は『笈の小文』に歌を残している。

松尾芭蕉 『笈の小文』

やまとの国を行脚して、葛城山のふもとを過るに、よもの花はさかりにて、峯々はかすみわたりたる明ぼののけしき、いとど艶なるに、彼の神のみかたちあししと、人の口さがなく世にいひつたへ侍れば、
 猶(なお)見たし 花に明行(あけゆく) 神の顔

その意は、一言主は顔が醜かったというが、本当は、この花盛の山々の曙にふさわしく、きっと美しかったにちがいない。
そんな神の顔を見たいものだ、ということか。

葛城(かづらき)の 襲津彦(そつひこ)眞弓(まゆみ) 荒木にも たのめや君が わが名告(の)りけむ(万葉集巻11-2456)

この荒木の神をたよりとして、あなたは私の名前を人に明かしてしまったのでしょうか

この並木が、昔はもっと立派で美しい、しかも松並木だったらしい。
どのくらい昔かというと、これは分かっていて、昭和の後半。

奈良と和歌山を結ぶ県道建設のせいで参道が分断され、貧相な姿になってしまったという。
一言主は、どうも時代の巻き添えをくいやすい体質らしい

葛城連合は、古い時代には三輪王朝とタメを張って貫禄勝ちしていたが、やがて婚姻などを通じて大和連立政権に仲間入りして、一定の地位を確保する方向に動く。

実際5世紀頃の葛城氏は、次期大王推戴の豪族会議でも大きな発言権を有し、独自の経済力・軍事力を保っていたようだ。

それが衰退するのは、雄略という荒っぽい大王の登場がきっかけになっている。
王位継承のごたごたに絡んで、先帝の重臣だった葛城円(つぶら)が殺されてしまう。

雄略は、他の王位継承候補者をやたら殺しているが、円はそれに抵抗したのだろうか?

その時に、円の一族郎党が、まだ未開の地であった土佐に追いやられた可能性が考えられる。

土佐には、一言主を祀る都佐(土佐)神社という古社がある。
葛城に残った子孫が、後世の王朝に願い出て、葛城の一言主神社として祀りなおしたと伝えられる。

やがて藤原氏の台頭と律令制の整備によって、古代豪族という存在自体が影響力を失う。
葛城連合の末裔は、歴史の表舞台から消え、過去の事蹟も正史からはほとんど抹消され、神話と伝説の霧の中にかすかな足跡を残すだけになってしまった。

多分そういった経緯を反映して、書かれた時代によって異なる一言主の伝説があるのではないかと思われる。

蜘蛛塚--神武天皇即位前紀に、「高尾張邑(タカオハリムラ・当地の古地名)に土蜘蛛がいた。

その人態は身丈が短くて手足が長かく、侏儒(シュジュ)に似ていた。皇軍は葛の網を作って覆い捕らえ、これを殺した。
そこでこの邑を改めて葛城とした」と伝え、境内には、この土蜘蛛の頭と胴と足を三つに分けて埋められたという塚が三つ伝えられている

柱と島木の接続部分に、一枚の台輪と称する座をはめてあります。

防腐効果を持たせるためと言われていますが、多分にデザイン的なものでしょう。

両部鳥居の中に、台輪を使用しているものを多く見かけます。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

古代史と万葉の史跡を訪ねる 九品寺


真夏のウォーキングは灼熱の太陽にさらされきつい。

空は晴れ渡り大和三山が美しい。

鴨山口神社から葛城山に向かって櫛羅の集落の坂道を登ってくると、道の中に巨石があらわれます。

この巨石は室町時代にこの土地を襲った土石流とともに流れてきたそうで、村の人達がお地蔵様を彫ってお祀りしだしたのだとか。

昔、この辺りには安位寺(あにてら)という大寺院があり、この安位寺と関係のある石仏だとも言われています。

この暑さ、体にはきついのだが、きれいな空に救われる。

九品寺は、奈良県御所市楢原にある浄土宗の寺院。

山号は戒那山(かいなさん)。
本尊は阿弥陀如来。境内や裏山には「千体石仏」と称される多数の石仏がある。

この寺の創建年代等については不詳であるが、奈良時代の僧行基によって創建されたと伝えられる。

中世には御所城主楢原氏の菩提所であった。

永禄年間(1558年 – 1570年)観誉弘誓によって現在の浄土宗に改められた。

境内の裏山から大和三山を望む。

楢原氏は南北朝の戦いのとき、南朝に味方していた楠木正成公のため一族を引き連れて参戦しています。

その戦いに行くとき、一族は身代わりのため石仏を彫って菩提寺だった九品寺に奉納したのが、いまに伝える千体石仏です。

さて、九品寺はサンスクリット語で、その意味は布教でいう上品・中品・下品で、人間の品格をあらわしています。

上品の中にも上中下があって中品や下品にもそれぞれ上中下があります。

全部で九つの品があるので九品と名づけられています。

その九品寺のご本尊は木造阿弥陀如来像で、国の重要文化財に指定されています。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

古代史と万葉の史跡を訪ねる 当麻寺


大津皇子が謀反を起こしたとして死を賜った後に、葬られたという二上山。

当麻寺の門をくぐると広々とした境内、正面に二上山が見えます。

あたりは万葉歌碑の宝庫だ。

當麻寺は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。
法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。

創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)。

宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。

開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。

本堂(曼荼羅堂)(国宝)

金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。

梁行6間のうち、奥の3間を内陣、手前の3間を礼堂とし、内陣は須弥壇上に高さ約5メートルの厨子(国宝)を置き、本尊の当麻曼荼羅を安置する。

金堂(重要文化財)

鎌倉時代の再建。

屋根は元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。

内陣いっぱいに漆喰塗り、亀腹形の仏壇を築き、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などを安置する。

金堂では、四天王のうち、広目天(重文・白鳳時代)と多聞天(重文・鎌倉時代)がご不在。

そして、ご本尊の弥勒仏坐像(国宝・白鳳時代)も堂内での修復がはじまっています。

中将姫像

今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。

後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。

中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。

ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。

その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。

姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。

姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。
當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。

姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。

この話はよほど人気があったようで、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材ともなった。

西塔(国宝)の改修工事が約5か年の大事業で行われております。

仁王門

旧當麻町(たいまちょう)下水管マンホール蓋

二上山と當麻寺の東塔と西塔に旧當麻町の花のボタンが描かれている。
「たいま」「げすい」の表示。 マークは旧當麻町の町章。

「けんねんさん」こと建仁寺

建仁寺は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。
山号を東山(とうざん)。

本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西。
寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。

なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。

建仁寺といえばまずこの絵、風神雷神図(国宝)-俵屋宗達筆。
金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神を描く。

たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせる。
印も落款も無いが、俵屋宗達の代表作として名高い。

小書院側の東のコーナーから見た「潮音庭」
この角度からは、三尊石の北西側に位置する一つが隠れて見えます。

建仁寺本坊には、陶製の十六羅漢像が奉納されています。

明治末期から大正初期にかけて清水、五条地域の陶芸家16人による作品です。

夫々の羅漢さんは、表情や姿も違いますが、夫々の陶芸家が得意とする焼き方や陶質、磁質、釉薬を使って製作していますので、夫々の陶芸の特徴もみることができて圧巻。

差し込む光が柔らかく心和ませる。

豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺。

北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。

茶室の西側には当寺の名物「建仁寺垣」が設けられている。

清涼軒、東陽坊への踏み石、風情を感じる眺めです。

天井には平成14年(2002年)創建800年を記念して「小泉淳作画伯」筆の双龍。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

大雲院特別公開

天正15年(1587年)、正親町天皇の勅命を受けるという形で、貞安(じょうあん)を開山として、織田信長の子信忠の菩提を弔うために、信忠が討たれた二条御所跡(烏丸御池)に創建したのが初めで、大雲院という寺院名は、信忠の法名からつけられた。

正面左側の廻縁に大理石製の釈迦涅槃像が。

まず、正面の入口は総門。
東京から移築されたもので、旧宮家の門と伝えられている。

織田信長と子信忠の墓。

境内墓地には石川五右衛門の墓があり、これは処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁による。

祇園閣 – 1928年(昭和3年)に建築された3階建ての建物で、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部。

屋根は銅板葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったため。

祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太。
1997年(平成9年)12月12日、国の登録有形文化財に登録された。

先端によく見ると鶴がついています。
通常は鳳凰を飾るが、建てた人物の幼名「鶴吉」に因んだもの。


高台寺境内からの大雲院 祇園閣。

日本画の巨匠竹内栖鳳が昭和のはじめに構えた私邸跡のレストランTHE SODOH HIGASHIYAMAからの大雲院 祇園閣

生け花が飾られライトアップされた大雲院 祇園閣。

開山の貞安(ていあん)上人は有名な安土論争で信長の知遇を得、出世の糸口をつかみます。

貞安上人は、『信長公記』に「浄土宗は、墨衣にて、如何にも左道なる仕立、関東の長老、安土田中の貞安長老二人、是も硯・料紙を持ち候て、出らる。」「貞安問ひて云ふ、法花八軸ノ中ニ念仏有ルカ」と記されている僧です。

天正7年5月、安土城下の浄厳院で行われた法華・浄土宗論の当事者の一人となった人。

宗論で勝った貞安は織田信長の知遇を得ます。

「信長公厚く帰依し給ひ、江州八幡に西光寺を建立して、貞安ここに住職す」。

その織田信長・信忠父子が天正10年(1582)の本能寺の変で亡くなります。
そのことを伝え聞いた貞安は京都に上り、正親町天皇の命により信長・信忠の菩提を弔うために、二条烏丸あたりに一宇を建立します。

信忠の法名が大雲院殿三品林仙厳大居士ということから、「大雲院」と号したのが、当寺の起源。
そして、天正18年(1590)秀吉の命により寺町四条下ルの地に移転。

「信長が法華宗を不当に弾圧した」という歴史学上の見解には非常に疑問が残る。

安土宗論(あづちしゅうろん)は、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。

安土問答とも称される。

織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われた。

法華宗は信長の意図的な弾圧により、敗れたとされ、処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。

浄土宗側は、黒染めの衣で、質素ないでたち、霊誉と、安土田中の西光寺の聖誉・貞安(せいよていあん)、正福寺信誉洞庫、知恩院一心院助念の4人が筆記用具を持って登場。

法論の出席者は以下の通り。
浄土宗側 – 霊誉玉念(浄蓮寺)、聖誉定(貞)安(西光寺)、信誉洞庫(正福寺)、助念(知恩院、記録者)
法華宗側 – 日諦(常光院)、日珖(頂妙寺)、日淵(久遠院)、普伝(妙国寺)、久遠院大蔵坊(記録者)
判定者 – 鉄叟景秀(南禅寺、建仁寺)、華渓正稷(南禅寺帰雲院)、仙覚坊(法隆寺)、(因果居士)
名代 – 津田信澄
奉行 – 菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一
目付役 – 矢部家定、森蘭丸

史料の信憑性

日蓮宗側の論拠は主に「安土問答実録(著者・日淵)」「因果居士記録(因果居士から聞き取ったとされる)」だが、この2つの史料には問題がある。

前者には因果居士が登場せず、後者には日淵が登場しないのである。両者を統合しようとする考えとして、「日淵が因果居士のことを書き忘れた。

そして日淵は日雄(因果居士記録に登場)と同一人物である」とする説がある。

しかし「因果居士記録」において、因果居士は宗論に非常に大きく干渉して、浄土宗側を勝利に導いた立役者となっており、その名前を書き忘れるのは甚だ不自然であることや、日淵=日雄を立証する史料が見つかっていないことなどから、少なくともどちらかは虚偽だと思われる。

ちなみに信長は、宗論後も本能寺を始めとした法華宗の寺を宿泊施設として使っており、信長側が不正をしていない傍証になる。

ルイス・フロイスの『日本史』でも、信長公記と全く同じ流れで宗論が進んでおり、やはり「妙」のところで法華宗側が回答に詰まって決着がついている。

宗論の項冒頭にフロイスが書いている通り、彼にとっては法華宗も浄土宗もどちらも「悪魔の教え」として完全否定すべきものであり、また「彼らはなんら哲学的知識を持っていなかったので」などと両者とも蔑視している。

つまりフロイスが浄土宗の勝利のために信長と口裏を合わせる理由は全くないと言え、信憑性は高い。

結論として、「信長が法華宗を不当に弾圧した」という歴史学上の見解には非常に疑問が残る。

信長がこのようなことを主催した動機については、予ねてから法華宗をどう諌めようか想定していたから、という説が有力である。

一応、経済的に豊かであった法華宗寺院及び信者から矢銭を調達するための策略であった、という説もあるが、当時すでに織田家は非常に裕福だったと思われることや、天文法華の乱の被害規模を考えれば、利益とリスクが全く釣り合わない話である。

井沢元彦も「もし信長が法華宗を嵌めたのなら、なぜ素直に詫び証文を書いたのか、また当時の宗教は世俗の権力に徹底的に反抗するのが常であり、特にその傾向が強い法華宗がなぜ大規模な法華一揆を起こさなかったのか」と指摘している。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

堺散策


河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) – 1945年(昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧侶。

仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。
僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。

中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。
日本人として初めてチベットへの入国を果たした。

1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへ。

摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。

およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。

その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。

日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにした。

堺博物館所蔵の河口 慧海画。

現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。

冬日の萬福寺
隠元禅師は中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持だった。 日本からの度重なる … 続きを読む →

河口慧海にチベット行きを決意させたのが、京都・宇治にある萬福寺・塔頭「宝蔵院」の一切経の版木だった。

種子島に伝わった鉄砲の製法を橘屋又三郎などが堺に伝えてから、堺は日本一の鉄砲生産地になりました。

現在、江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一の貴重な建築物で、市の指定有形文化財になっています。

江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、「元禄二年堺大絵図」にも記載されており、わが国の町家建築としても最古の部類に属するとともに、堺を支えた鉄砲の生産現場が残されている建物としても貴重です。

大坂夏の陣の後、新たな町割が行われ現在に続く堺のまちが形成され、堺は鉄砲や包丁、織物などの製造業を中心に発達し商業のまちとしても成熟していきます。

北旅籠町一帯、特に鉄砲鍛冶屋敷周辺は当時の面影を多く残し、切妻造、平入りの建物からなる当屋敷は、江戸初期の鉄砲鍛冶の生活がしのばれます。

紀州街道 市内延長5.4キロメートル

江戸時代に紀州・泉州の交易ルートとして栄えた道。

大道筋の東側には多くの古い町並みが残り、材木町東一丁の商店街には「右住よし 大さか」などの文字が刻まれた道標を見ることができます。

阪堺電気軌道1001形電車
「堺トラム」

阪堺電気軌道1001形電車は、2013年8月25日から営業運転が開始された、阪堺電気軌道が保有する路面電車車両。
車両の愛称は「堺トラム」。

上町線の天王寺駅前から住吉を経て阪堺線の浜寺駅前までの間で毎日定期運行されており、3編成のうちいずれか1編成がその運用に充てられている。

土佐藩士割腹跡の碑

妙国寺境内に建つ慰霊碑。

中央に建つ三基の石碑のうち左側は「土佐藩十一烈士之英霊」碑と右側は「佛国遭難将兵慰霊碑」。
この碑は1916年(大正5年)仏首相クレアマンソーが戦死した仏兵の碑を並び建てることを条件に承諾した。

堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)

王政復古直後の攘夷事件。
1868年(明治1)2月15日,当日堺に入港したフランス軍艦の水兵が上陸し周辺住民に乱暴を働いたため、同地警備の土佐藩兵が襲撃し11名を殺傷した事件。

このころこうした事件が相次いだが、成立したばかりの新政府は外国と事をかまえることの不利を考えて、箕浦猪之吉(隊長)以下20名(うち9名は、フランス艦長の申し出により助命)の土佐藩士に切腹を命ずるなど、フランス側の要求のすべてを認めた。

ウィキペディアより

堺環濠都市は、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた貿易都市。
   
この地点(SKT960)の調査では環濠都市「堺」を象徴する4条の環濠が発掘された。

なかでも環濠1は幅17m、深さ4.5mの二段に掘られた巨大なもので、これまで確認されている環濠の中で最大級のもの。

環濠の北側には掘った土を盛り上げて土塁を造り、環濠都市「堺」の防御性を高めていた。

「黄金の日々」を謳歌した環濠都市「堺」の繁栄を如実に示す環濠といえる。こ

れほどの大規模な環濠も豊臣秀吉の命令で埋め戻されますが、これらの4条の環濠は、今日に続く環濠都市「堺」の出発点と言える記念碑です。

画像の人の大きさから堀の大きさが推定される。

浄 因 寺

錦光山浄因寺は、天文(てんぶん)年間(1532~54)紀伊雑賀(きいさいが)の郷士、名和修理介(なわしゅりのすけ)が本願寺顕如上人(けんにょしょうにん)紀州鷺ノ森(きしゅうさぎのもり)在寺中に功労があり、上人より尊正(そんしょう)の法号を授与されたので天正6年(1578)に、堺桜之町西七堂浜に一寺を開創したのが始まり。
  
和泉の国を守護していた藤堂高虎(とうどうたかとら)が「慶長の役」出陣の際、預かった庶子が後に出家して第7世住職尊順(そんじゅん)となる。 

その後大坂夏の陣(1615)の大火により焼失、現在地に移転。  

当寺ゆかりの人物で、日本演劇界に喜劇王として千以上の脚本を書き、製作・演出・俳優の四役を兼ね、喜劇王いわゆる「五郎劇」を始めた曾我廼家五郎は、幼少のおり浄因寺第15代住職祖父幻中然学(まもなかねんがく)にひきとっられて、生母の実家である当寺に居住していましたので、ここは五郎の住居跡でもあります。

浄得寺

大阪府堺市堺区にある寺院。
700年代、行基により建立。
通称、海船御堂と呼ばれている。

かつて、北旅籠町西に存在した海船の浜付近に位置していたため、海船御堂と呼ばれるようになった。

月蔵寺

大野道犬斎治胤の墓

宇賀徳社と供養塔の間にひと際目を引く南無阿弥陀佛の名号が彫られた大きな五輪塔がある。
豊臣秀吉側近の重臣で大野三兄弟(治長・治房・治胤)と称された内の三男、大野道犬斎治胤の墓である。 

父は大野佐渡守道犬で、内裏の修理造営職を掌り官位は太夫に次ぐ亮であった為に大野修理亮道犬と呼ばれた。

母は浅井長政の三姉妹の一人で、秀吉の側室である浅井茶々(淀君・淀殿)の乳母を勤めた大蔵卿局。

尚、三男の治胤は父道犬の名を採って大野道犬斎治胤と称した為に、一部の歴史文学書の間で父子を混同しているものがある

風間六右衛門の墓

長谷川藤広は着任以来病床にあり、元和三年(1619)十月二十六日に没した為に町割りは風間六右衛門の独断で進められたが、風間奉行はその昔越後・信濃両国を治めて日蓮聖人の弟子日昭上人を外護した篤信者、風間信昭の後裔であった所為か、法華寺院の敷地を他宗に優先して広く配置した。

特に千利休ゆかりの南宗寺はもと宿院町にあった寺域から新たに拡張された堺の南端に振り当てられた為に、当然南宗寺を始め他宗僧俗からの非難が激しく起こり、江戸の寺社奉行は元和四年(1615)八月十四日に風間奉行に急使を送り、八月十五日に出頭するように命じてきた。

到底不可能な江戸到着命令を熟慮した風間奉行は江戸に向かう途中、並松の刑場辺りに至った時に籠の中で自刃してこれに応じた。

享年四十七歳、堺を再建する町割りに際しては町の殷賑を願うのみで他意のなかったことを自らの命を以て上奏したと考えられるが、町割り自体には些かの修正を加えられることもなく、寛永の頃には風間奉行の描いた通りに実現された。

その後約七十年を経て復興がなされた頃、元禄二年(1689)の『元禄堺絵図』を見れば、整然と整備された街並みと、他宗寺院に比して法華寺院の敷地が広大であったことや、柳寺町辺りの道路がこの地図に示された状態で現在も往時の佇まいを残していることがよく分かる。

本願寺堺別院

堺市内最大の木造建築で「北の御坊」とも呼ばれ、現在の本堂は文政8年(1825年)に再建されたもので、明治4年(1871年)の廃藩置県後から10年間堺県庁として使用されていました。

明治維新当初の堺県は旧天領地だけでしたが、明治2~9年に河内県、丹南4県、奈良県などを合併して、近畿でも有数の大きな県になりました。

広大な県域を有し独自の県政を行った堺県でしたが、政府の大阪府域拡大の方針で明治14年(1881年)に県域を府に併合され、その歴史に幕を降ろしました。

堺県の廃止後、境内地と建物は浄土真宗本願寺派へ返還され現在に至っていますが、堺県庁跡として府指定の史跡となっています。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

幻の堺幕府と三好一族を訪ねる

堺では信長に先駆けること、その直前20年に三好長慶による堺幕府がありました。

海船政所跡

所在地: 堺市堺区桜之町西3丁他

海船政所(海船館とも)跡は、南海「七道」駅を降りてすぐ南に歩いていったところに石碑と案内板がありました。

四国阿波の三好長輝は堺と関係の深い細川氏の先鋒として北国の兵を京都で破り、細川澄元を援助し、足利幕府の管領に据え、その後見人として権力の座に就きました。

長輝は京都に近く、阿波に渡るのに都合のよい堺に目をつけ、永正元年(1504)2月、海の見える海船町に館を建てることを計画、京都から堺に来て4月から工事を始めましたが、完成は孫の元長の代になり、大永元年(1521)3月に政所の号をもらいました。

その規模は桜之町3丁付近を中心に東西360歩(約652m)南北これに倍しとあり、錦之町にあった梅黄寺も政所跡といい伝えられていることから相当広い区域であったと想像されます。

建物は、館の中央に高楼を作り、楼上より常に四方を監視し、一旦ことが起きると鐘・太鼓を打ち鳴らし一族郎党に知らせたといいます。

元長歿後、政所は長慶・義興・義継三代相次いで、ここに住み、この政所は摂河泉(摂津、河内、和泉の国)の各支城の本城的な役割も果たしました。
『海船政所跡案内板』より

善長寺 縁起

勝軍山・善長寺は、天文18年(1549年)に三好政勝が、父宗三の菩提所として、宗三戦死の日(6月24日)を以て開基と定め、浄土宗粟生光明寺(京都)の顕空上人を請して開山とし。

三好政長(宗三は法名) 1491~1549
        従四位少将三好善長公・越前守

阿波の大名三好一族の武将、かの三好長慶も一族の一人で共に室町幕府の管領細川晴元の家臣として仕えた。

時あたかも戦国時代、下克上の世、畿内で次第に勢力を伸ばした三好長慶は一族の長老三好政長の存在がうとましく、政長の讒言によって父元長が誅殺された恨みもあり、晴元に政長父子の誅殺を請うたが受け入れられず。

これがため、晴元に叛旗を翻した長慶は晴元・政長と敵対した。

摂津国江口城に籠城した政長は援軍間に合わず、長慶軍の猛攻に会い討ち死にした。

細川晴元は将軍足利義輝を伴って近江に逃避、三好長慶が洛中で天下を手中にする。

三階菱に五つ釘抜

大永7年(1527)2月、丹波の波多野稙道・柳本賢治とそれに呼応した三好元長軍が管領・細川高国軍を桂川原の合戦で打ち破り、室町幕府は機能不全に陥りました。

同年3月、細川晴元と家臣・三好元長は、逃亡した12代将軍・足利義晴の兄・足利義維(よしつな)を擁して、兵8000とともに和泉国堺に上陸。

7月に義維が朝廷から次期将軍に与えられるのが慣例の従五位下・左馬頭に補任されると、晴元と元長は堺の顕本寺を本拠に「室町幕府」に代わる幕府体制を築き、近畿一円にその勢力を伸ばします。

こうした動きに朝廷は、逃亡中の将軍・義晴も無視できず、義維に将軍職を与えることこそなかったものの、実質的には「堺幕府」を認めていました。

このことは当時の公家たちの日記にも「堺公方」「堺大樹」「堺武家」などという表現があります。

この「堺公方府」ですが、三好元長などの阿波国人衆だけでは維持できず、柳本賢治などの山城・摂津国人衆の連合体にならざるを得ませんでした。

のちにこられ連合体が内紛の元となり、「堺公方府」は成立してから僅か5年後の天文元年(1532)細川晴元の要請で集まった10万の一向宗徒によって崩壊してしまいます。

三好元長戦死の碑、開口神社

三好元長は室町幕府管領の細川国高と将軍擁立を巡って死闘を繰り広げた阿波の武将。

その子供に三好氏をもっとも栄えさせた長慶がいる。

元長は堺に堺幕府を開くべく将軍を擁立し、京都の将軍を擁立する細川高国と争った。

一進一退の末、本願寺一向宗の一揆にとどめを刺され、この地で戦死したという。

この開口神社の近くに堺幕府の置かれた顕本寺があった。

顕本寺

大永7年(1527年)に細川晴元と三好元長が阿波から足利義維を迎え堺幕府(堺公方府)を樹立した(義維は堺公方または堺大樹と呼ばれた)。

しかし、享禄4年(1531年)6月に高国を討ち取った(大物崩れ)後の晴元は、翌5年(1532年)6月に袂を分かった元長へ一向一揆を差し向けた。

そのため当寺へ逃れた末に元長が自害に追い込まれると、後ろ盾を失った足利義維は阿波へ逃がされ、堺幕府は滅んだ。

元長の殉難地ということもあり、その後も三好氏一族との結びつきは続き、元長の息子三好長慶、実休らの軍勢が寄宿する免許を得たり、元長の二十五回忌の法要が行われた。

顕本寺にある長慶の墓。

三好氏の菩提寺南宗寺惣門

南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。

弘治3年(1557年)当時、畿内髄一の実力者に上り詰めた河内飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建した。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。

大坂冬の陣において、徳川家康が後藤基次に槍で刺されて落命したという伝説があり、密かに家康をお祀りしたとされている。

2014年7月6日、三好長慶公の座像建立除幕式

「戦国天下人 三好長慶公 1522-1564
文武相備在家菩薩」とある。

晩年の三好長慶は、穏やかな暮らしを望んでいたと言われています。

彼は風流を好み、身のこなしも爽やかで、大言を言う事もなく、唄や茶を好みました。

合戦に行く時も、連歌仲間に 「ちょっと用事を済ませてきます」 と言って出立していき、そして帰ってきた後に、勝ち戦や武功を自慢する事もなかったと言います。

元々、彼が 細川家 と戦ったのは お家再興 のためであり、己の「野望」はなかったようです。

ですが、だからこそ、野心家である 松永久秀 や、権威の回復に燃える 将軍・足利義輝 に付け込まれたのかも知れません・・・

三好長慶 の死によって、近畿には再び権力闘争の嵐が吹き荒れます。

そんな中、それを利用して 将軍・足利 義輝 が三好家の追放と 京都 の奪還を狙いますが・・・

三好家 の重要な家臣団 「三好三人衆」 は、松永久秀 と共にこの将軍 「足利義輝」 を暗殺してしまいます。

彼らは 足利家 の親類を別の将軍として擁立しようとしますが、「将軍殺し」 である彼らへの風当たりは強く、各地で内乱も発生してうまく行きません。

その結果、三好三人衆 と 松永久秀 はケンカ状態となり、ちょうどそこに 織田信長 が 足利義輝 の弟 「足利義昭」 を奉じて京都に進軍して来たため、あっという間に 三好軍 は敗退、京都 や 大阪 も 織田信長 によって支配されてしまいます。

大和の国主である 松永久秀 は独立して 織田家側 に付き、残った四国の領土も、「土佐(高知県)」 の 「長宗我部家」 の侵攻を受け、次々と敗北・降伏していきました。

こうして、戦国初期に最大勢力を誇った 三好家 は、跡形もなく消失する事となります・・・

妙国寺

三好実休は大永7年(1527年)、三好元長の次男として生まれる。

生年には大永6年(1526年)説もある。

兄に三好長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長がいる。

早くに父が戦死したことで、幼少期から政治的に重要な立場となった。

署名に長慶と実休の幼名が記されている「三好千熊丸・千満丸寄進状」の日付は天文元年8月9日(1532年9月8日)であり、これは父の死から数えて49日にあたる。

兄・長慶は細川京兆家の当主・細川晴元に仕えたが、実休は晴元の従兄弟で阿波細川家の当主・細川持隆に仕えた。

四国における影響力を保持する狙いがあったと見られる。天文8年(1539年)には、持隆に付き従い、伊予国における河野氏との合戦[10]に三好勢の責任者として参加した。

天文13年(1544年)、兄に従って京都に入り、天文15年(1546年)までに豊前守を名乗るようになった。

細川晴元と対立する細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らに対抗するため、天文15年秋に阿波の軍勢を渡海させ、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いで大勝した。

その後も兄・長慶の勢力拡大に従って伊予・讃岐・和泉など各地に転戦している。

また、弟の十河一存が和泉岸和田城主となったため、讃岐も事実上支配下に組み込むなど、三好家の四国方面の政治・軍事を担当した。

天文22年(1553年)6月に細川持隆を見性寺で自害に追い込み、その子・細川真之を阿波細川家の当主として擁立した。

この時、持隆派であった久米義広、佐野丹波らが反抗したが、実休はこれも打ち破り(鑓場の戦い)、阿波細川家の実権を完全に掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を三好政権の統制下においた。

実休は、持隆とその一党を、兄・長慶の政権安定の為に排除し、阿波を掌握しようとした。

しかし、実休を憎む者、妬む者、また細川真之に接近する者が少なくなく、その者達との暗闘を実休は強いられ、完全に阿波を掌握することは出来なかった。

天文23年(1554年)から天文24年(1555年)の播磨遠征、永禄元年(1558年)の北白川の戦いでは四国勢を率いて参戦。

永禄3年(1560年)に兄と共に河内守護・畠山高政や安見宗房らと戦い大勝し、彼らを追放した後の河内の守護を任された。

しかし永禄5年(1562年)、紀伊国の根来衆の援助を得た畠山高政の反撃を受け、久米田の戦いで戦死した。享年36。

また、寵愛の小姓や近習らも悉く討ち死にしたという。
跡を子の三好長治が継いだ。

実休が討死した際、長慶は飯盛山城で連歌の会の最中であった。
実休の訃報を聞いた長慶は動ずることなく、「蘆間に混じる薄一むら」(「薄に交わる蘆間のひとむら」とも)という前句に対して、「古沼の浅き潟より野となりて」と返し、参加者達を感嘆させた。

しかし、実際には武野紹鴎に茶道を学び、妙国寺を創建したりと文化への造詣は深く残した功績も大きい。

これは父の三好元長が堺の町衆との間に深い人脈を持っていたことが、実休が茶人達と交流する切っ掛けとなった。

堺の有名人の内、最も実休と親しくしていたのは津田宗達(津田宗及の父)であり、他には、今井宗久、北向道陳、千利休などとも交流し、彼らを自室に招いている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!