淡嶋神社


淡嶋神社は、人形供養で有名な神社。
全国に1000社もある「淡嶋系統」の総本社となっています。

全国で行われているひな流しの原型は、加太の淡嶋神社だと言われています。

三月三日は、朝から神社のなかは人々の熱気でむせかえります。

それぞれの思いや願いと共に、関西はもとより日本全国から境内に女性たちが集まってきます。

そして、日が高くのぼった正午、ひな流しの神事がおごそかに始まります。
当日は境内はもちろん港までの狭い道も人で埋め尽くされます。

雛祭りの起源は、中国から伝わった厄払いの儀式とされていますが、淡島神社では全国から奉納された雛人形や形代を海に流し供養を行っています。

午後から神事が行われ、3艘の船に乗せられた人形達が海に流されます。
なお、流された人形はその後回収されお焚き上げがなされ供養されます。

針供養の神社としても有名で、同神社境内には針塚が建てられており毎年2月ごろに全国から集められた針を供養する。

近年では縫い物をする機会が少なくなっていることから、供養に奉納される針の数も減っているという。

淡嶋神社で針供養
流し雛で有名な加太の淡嶋神社で8日、針供養が行われた。 この日は朝から多くの女性 … 続きを読む →

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節分祭 あびこ観音


通称あびこ観音。
山門付近の石柱は吾彦観音寺の表記となっている。
あびこの名は、この地の豪族、依網吾彦(よさみのあびこ)に由来するといわれる。

百済と交易をしていた依網吾彦の一族が百済の聖明王から一寸八分の観音像を贈られ、欽明天皇7年(546年)にこの地の人々がその像を祀る堂を立てた。

そして、推古天皇14年(607年)に聖徳太子がその観音像を祀る観音寺を建立したとされる。

1615年(元和元年)大阪夏の陣の折、真田幸村に追われた徳川家康はこの寺に逃げ込み、本堂の須弥壇に隠れ、難を逃れたとのことで、その後家康の寄進により、再建した。江戸時代には、徳川家の帰依もあり、境内に36の支院があったといわれ隆盛をきわめた。

巨樹の楠、幹周/4. 8m、樹高/19. 5m、樹齢/約700年。

池には見事なコイが泳ぐ。

本堂の周りには、本堂を囲むように33体の観音像が並んでいます。

節分のときには線香の量が多すぎて炎があがっている。

線香と護摩祈祷の煙が境内に立ち込める。

1月・2月に行われる護摩祈祷がよく知られている。
修験道形式の天蓋護摩(てんがいごま)で、奉書などで作られた紙製の天蓋を護摩炉の上に吊す。

天蓋は護摩炉の炎が近くに至っても燃えないという。

1月・2月に護摩堂で行われる護摩祈祷は、申し込み者の御祈祷への立ち会いは可能。

御祈祷の後、御祈祷を受けた御札を手渡される。

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甲山神呪寺八十八ヶ所巡り


武庫山神呪寺は平安時代初めに弘法大師空海が開山したといわれていますがミニ八十八箇所が作られたのは江戸時代の寛政10(1798)年になってから。

信心からでなくても、全行程2.5kmほどの散策コースもおすすめ。

88カ所たった2キロ 200年続く「時短」お遍路。


洞窟状の仏像も。

第60番 大日如来坐像。


西宮市街が見渡せる場所も。

甲山、神呪寺を望む。

1200万年前に噴火したとされる。
岩質は輝石安山岩からなり、隣接した花崗岩(いわゆる御影石)からなる六甲山とは全く形成過程が異なる。

1200万年前の活動期には大きく広がる山体を持っていた。

約200万年間の活動が終息した後、侵食によりわずかに火口付近の火道周囲のみが塊状に残るに至ったことが確認されている。


大岩がごろごろ転がる遍路道。

全行程2.5km、楽しいお遍路。

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甲山大師 神呪寺


神呪寺(かんのうじ、神咒寺)は兵庫県西宮市甲山山麓にある真言宗御室派別格本山の寺院。
通称甲山大師(かぶとやまだいし)と呼ばれる。
新西国三十三箇所第21番札所。

画像は仁王門、江戸時代(1804年)建立、三間一戸八脚門(中央高屋根四脚門)

寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。

神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺の如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。
家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。
融通さん、融通観音とも称されている。

なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。

神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。

一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。

この「多宝塔」は天長8年(831年)に神呪寺が開創されてから1150年目にあたる昭和55年に国家安泰、十方施主、万徳円満を祈願し、神呪寺の無窮の興隆を念願して建立されたといわれている。

1200万年前に噴火したとされる。岩質は輝石安山岩からなり、隣接した花崗岩(いわゆる御影石)からなる六甲山とは全く形成過程が異なる。

1200万年前の活動期には大きく広がる山体を持っていた。約200万年間の活動が終息した後、侵食によりわずかに火口付近の火道周囲のみが塊状に残るに至ったことが確認されている。

神功皇后が平和を祈願して兜等を埋めたという伝説があり、またその山の形がかぶとに似ているところから、甲山と名付けられたこの山の中腹に、神呪寺がある。
ただ一般には神呪寺というより、甲山大師の名で親しまれている。

天長7年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。

この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。
同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。

如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。

この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。

鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。
境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。

境内から西宮市街を望む。

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額縁庭園 宝泉院


山号は魚山、本尊を阿弥陀如来とし、実光院とともに大原寺勝林院の僧坊の一つ。

天台宗の三門跡寺院の1つである三千院の参道奥にある。

晩秋に訪れた、山門を入るとカリンの実が冬の寒さに震えている。

書院の柱や鴨居を額に見立てて鑑賞する額縁庭園、樹齢約700年の「五葉の松」は京都市天然記念物であり、三上山(近江富士)を象ったとされている。

高浜虚子はこの松を「大原や 無住の寺の 五葉の松」と詠んだ。
「立ち去りがたい」庭だ。

竹林の庭園がじつに清々しい。



2005年(平成17年)3月には枯山水庭園の宝楽園が完成した。

庭園作家の園冶(えんや)が造園し、山形県や長野県などから約300トンの石を運んでいる。

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大原魚山 来迎院 仏教音楽伝承の修行道場


三千院の朱塗りの小さな朱雀門のそばを抜けて来迎路を目指します。

声明中興の祖である聖応大師良忍上人が建立して、天台声明の根本道場とされてより現在に至る。

なお、聖応大師は後に融通念仏宗を興され、鎌倉時代初期には多くの僧が集まり、成時には四十九院の寺坊があったと言われる。

『融通念仏』とは分かりやすく言うと「1人はみんなの為に、みんなは1人の為に念仏を唱えましょう。」

という考えで自分の唱えた念仏の功徳は、多くの人に融通し他人の唱える念仏も、自分の功徳に融通するというものです。

勝手神社の山門。

勝手明神が祀られていて、三千院、来迎院、勝林院の守護神として崇敬されています。

延暦寺に至る。

山門を抜けると小さな石の階段が見える。

階段下、差し込む冬日がきれいでした。

鐘楼の「梵鐘」(京都市指定重要文化財)は、室町時代、「永享七年(1435年)藤原国次作」の銘がある。
大原郷来迎院鐘と刻まれている。

鎮守堂 獅子飛石 地蔵堂

地蔵堂

本堂を上から。

平安時代前期に慈覚大師円仁が天台声明の道場として創建したのに始まると伝えられる。

本堂

天仁2年(1109年)融通念仏の祖とされる聖応太師良忍がこの寺に入寺して再興した。

それにより勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院を以て付近一帯は「魚山大原寺」と総称されるようになった。
以来、大原で伝承されてきた声明は「天台声明」や「魚山声明」と呼ばれる。

本堂に、鳥羽上皇による5体の仏像が安置されている。

中尊の「薬師如来坐像」(59.4㎝)(重文)は、平安時代後期作であり、創建当初からの本尊という。
また、近世になり遷されたともいう。木造、寄木造、漆箔。
 
右脇侍の「阿弥陀如来坐像」(59.4㎝)(重文)は、平安時代後期作。来迎印を結ぶ。木造、寄木造、漆箔。
 
左脇侍に「釈迦如来坐像」(58.8㎝)(重文)を安置する。平安時代後期作。定朝様式、納衣を偏袒右肩につけ、結跏趺坐する。木造、寄木造、漆箔。
 
脇侍は平安時代の「不動明王立像」(95㎝)、平安時代の「多聞天立像」(97.3㎝)が安置されている。

聖応大師良忍上人の御廟に至る。

近くにある塔頭の浄蓮華院(非公開、宿坊)

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下鴨神社


山城国一宮であり、葵祭でも知られる下鴨神社。
境内に広がる糺の森とともに京都でもかなり紅葉が遅いスポットです。

イチョウからモミジまで見頃が長いのが特徴。

下鴨神社の境内にある糺の森。約12万平方メートルの森にケヤキ、ムク、エノキなどさまざまな木が、色とりどりの紅葉が秋のシンフォニーを奏でているかのよう。

ただ森の中に屋台がづらりと並びひどく景観を損ねているのはみっともない。

河合神社、下鴨神社の摂社で糺の森の中にあります。

方丈記で有名な鴨長明は河合神社の禰宜の一族として生まれました。

禰宜になる希望がかなわず出家し、各地を転々としました。鴨長明が住んでいたという方丈が境内に再現されています。

今では美人祈願の神社として非常に人気があり、鏡絵馬が有名です。

樹齢数百年もの樹木が600本以上自生している。見渡す限りの紅葉トンネルは見事。

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馬の寺 石馬寺


石馬寺は、滋賀県東近江市五個荘石馬寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。

山号は御都繖山(ぎょとさんざん)。
本尊は十一面千手観世音菩薩。

自然石に刻された寺号碑が建っています。
この地には聖徳太子が建立された大門が建ってたそうです。

伝承によれば、今からおよそ1400年前に霊地を探していた聖徳太子が当地を訪れ、繖山(きぬがさやま)の山麓の松の木に馬をつなぎ山上に登った。

山の霊異に深く感動して戻ってくると、馬は石と化して池に沈んでいた。

これを瑞相と捉えた太子は、山を御都繖山と名付け、この地に寺院を建立し、石馬寺と号したという。

聖徳太子筆と伝承する「石馬寺」の木額や太子馬上像等を所蔵する。
登山口付近には、石馬が背中を見せている蓮池がある。

乱れ石積みのかんのん坂

山門跡から本堂へは、苔むした自然石の乱れ石積みの階段が続く。

この石段はかんのん坂と呼ばれ、百段ほど上ると途中で二つに分れ、左は山上の神社へ右へとれば寺へ達する。

古くより僧や行者をはじめ、多くの人々が信仰を求めて歩いた跡が偲ばれる。

上り出してすぐ左に僧坊跡。
未整理の石仏がごろごろころがっています。

しばらく石段を上ると左右に道があり、右手に曲がると石馬寺、左手に曲がると六所神社、直進すると雨宮瀧神社へ続く道のようです。

右手の案内板に「亡者の辻」とあります。

この辺りは霊がさまよう辻ということなのでしょうか?

直進すると雨宮瀧神社へ続く、特に何もないそうだ。

右に曲がり石馬寺へ向かう。

参道には五輪塔を中心に石仏が並んでいます。

永禄11年(1568年)、織田信長の兵火を受け、伽藍や院坊等が焼失する。

その後、寺領及び山林を没収され、山主や僧徒は退散を命じられた。
慶長8年(1603年)徳川家康により石馬寺が復興。

寛永11年(1634年)、徳川家光の上洛にあたり、旧神崎郡伊庭村に造営された御茶屋御殿の伊庭御殿を移して大方丈とした(旧本堂)。

正保元年(1644年)11月、奥州松島の雲居希膺(うんごきよう)を中興祖として招き、臨済宗妙心寺派の寺院となる。

頂上が見えてきました。
石段は約300段。

本堂。

本堂脇に不動明王石像。
ユニークです。

本堂から鐘楼を見る。

太子駒繋ぎの松。

さりげなく壁面に聖徳太子筆と伝わる、石馬寺と書かれた扁額。

『かくれ里』白洲正子 新潮社

繖山の裾を東へ向かっていくと、近江商人発祥の地である東近江市の五個荘に出る。
白洲さんは、まちはずれの石馬寺(いしばじ)を拝した。

「苔むした自然石の石段がつづく。(中略)下から見あげる茅葺きの本堂は美しい」(同)と描写し、お堂の中へ。

「私の興味をひいたのは、水牛に乗った大威徳明王であった。
等身大一木作りの、のびのびとした彫刻で、ことに水牛がすばらしい。

頭をちょっと左にかたむけ、恭順を示しながら、一朝事であれば飛び出しそうな気配である」。

岩戸山観世音寺風天洞


そこは豊田市大藏町岩戸山。足助・香嵐渓に向かう途中にあります。

県道沿いに立ち並ぶ異界へのゲートの向こうには、天空へと伸びる細道。

導かれるように足は一歩また一歩奥へと

十二支の動物の頭を持つ守り本尊が入り口に並んでいます。


1178年(治承2年)に建立された当地方における最古の寺院であり、当地の領主、原田家一門の菩提寺です。

聖徳太子御自らの彫刻によると言い伝えられし「聖観世音菩薩像」を安置しています。

その昔、洞窟の整備をしていた職人たちが洞窟から出てくる姿が、風天神様に見えたことから風天神様の住まう洞「風天洞」と名付けられ、呼ばれるようになりました。

境内に1000体以上の様々な像が並び、”仏像のデパート”と呼ばれる珍スポット。

名物の「風天洞」と呼ばれる洞窟は全長500メートルもあり、その中にも300体以上の像がズラリ。

また、途中にある「銭洗いの水」でお金を洗うと1万倍にもなるといわれている。

ラストの風天神という仏面が円柱に貼り付けられたオブジェは圧巻です。


中でも、石窟の天井に描かれた寝拝み楊柳観音は、台座に寝て拝むという世にも珍しい拝み方をするトルツメ観音として有名。


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天王寺7坂めぐり ⑦真言坂


生國神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏廃仏毀釈まで神社周辺で栄えていた。

うち、神社の北側には医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼陀羅院の六坊があった。

すべて真言宗であったので、この坂は真言坂と呼ばれた。

天王寺七坂の一番北にあるのが真言坂。

真言坂はかつて真言宗の寺が六坊並んでいた為、その名が付いた。
生國魂神社の周りは、江戸時代から大阪で最も人が集まる場所の一つで、往来客を見込んだ店が次々にオープン。

更に遊女がいる泊茶屋も次々にオープン。
この近隣にラブホテルが多いのは、泊茶屋の伝統がラブホテル街に受け継がれている為。

初代 米沢 彦八(よねざわ ひこはち、生没年不詳)は、江戸時代(元禄から正徳)中期の上方の落語家。
一部書籍では1714年7月14日(正徳4年6月3日)に興行先の名古屋で死去したとされている。

本名は不明。豊笑堂と号す。

大道に床几を据えるだけの文字通りの辻咄から生玉神社(いくたまじんじゃ、現在の生國魂神社)境内の小屋に、大道芸人が技を競いあい大いに賑っていた。

そのなかで彦八は人の足を止めて注目させるため、「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出して興行している

松尾芭蕉句碑。

1694年(元禄7年)9月9日(重陽の節句の祭礼日)に奈良から難波に入り、ここ生玉で『菊に出でて奈良と難波は 宵月夜』の句を詠んだとされる。

ここの句碑は石に直接文字が刻まれておらず、タイルが組め込まれている。
2000年(平成12年)建立。

地下鉄谷町9丁目駅のすぐ南西側にある生國魂神社は幼い頃のオダサクにとって大切な遊び場だった。

この神社は『木の都』『放浪』『雨』などオダサクの作品にもしばしば登場する。
バイオリニスト辻久子をモデルにした『道なき道』や6年前に見つかった未発表の『続夫婦善哉』にも。

『木の都』には「幼時の記憶は不思議にも木と結びついている。
それは、生國魂神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり……」と書いた。

行き暮れてここが思案の善哉かな
大黒橋から道頓堀川を眺める。 太左衛門橋 橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開い … 続きを読む →


生玉神社といえば井原西鶴。

浮世草紙(小説、好色一代男とか)を書く前は俳諧師(俳句読み)だったらしく、なかでも夜を徹して数多くの俳句を創作する「矢数俳諧」の先駆者として有名で、この生玉神社でも1680年に一晩で四千句を読み上げたとのこと。

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