秋冬春が同時進行中 真冬の長居植物園

今年の紅葉は散々だったが異常気象の影響はまだ尾を引いている。
秋冬春が同時進行中の真冬の長居植物園を散策した。

クヌギは赤い紅葉を残し、風に落ち葉が舞っている、寒々とした景色です。

枯野原の中でひときわ目を引くのがセンダンの実。

万葉植物名:楝(あふち)

楝(あふち)は、センダン科センダン属の落葉高木の栴檀(せんだん)の古名。
5~6月頃に薄紫色の花を咲かせ、秋に実がなる。

ちなみに、「栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より香(かんば)し」の栴檀(せんだん)は白檀(びゃくだん)の別名で、楝(あふち)とは別物です。

妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに  巻5-798

「木のさまにくげなれど楝の花いとをかし。かれがれにさまことに咲きて、かならず五月五日にあふもをかし。」

清少納言はあふちの花をいとをかしと表現しているから、趣のあるとか美しいと言っているのだろう。

枯れ野の中でパンパスグラスはひときわ目立つ。

座る人もいないベンチには枯葉が。

万葉の道、ヤマブキが黄色く紅葉しています。

『万葉集』 (巻二 十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌) 
山吹の立ちよそひたる山清水汲みにゆかめど道の知らなく

かはづ鳴く神奈備川に影見えて今か咲くらむ山吹の花 『万葉集』 (巻八 厚見王の歌)

ミツマタはまだ花芽が固い。

万葉植物名:さきくさ

春さればまづさきくさの幸くあらば 後にも逢はむな恋ひそ吾妹  柿本人麻呂 巻十 1895

はるになればまずさきくさのその名のように幸せであったならば、またいつか逢うことができるでしょう、愛しい人よ。

竹林に木漏れ日。

御園生(みそのふ)の、竹の林に、鴬(うぐひす)は、しば鳴きにしを、雪は降りつつ 大伴宿禰家持

この御園(みその:お庭)の竹の林で鴬がしきりに鳴いていましたが、今は雪が降っています。(この降る雪に、鴬も鳴くことができないのでしょうね)

ジュウガツザクラが咲き誇る。

毎年、年に二度開花する。
エドヒガンの系列でコヒガンの雑種とされている。

シキザクラ、コブクザクラ等も年に2回開花する。
また、フユザクラは冬に咲くが、別種。

バラ園にやって来ました、バラの花が寒さに震えているよう。

ブルー・バユーは数々の歴史的名花を作出し、フランスのメイアン家と並んで20世紀のバラ育種をリードしてきたコルデス家作出のフロリバンダローズ。

フロリバンダローズの中では、紫系(青バラ)は希少な存在。

モクレンの花芽はまだ固い。

つばき園ではヤブツバキが咲いています。

花期は冬から春にかけてにまたがり、早咲きのものは冬さなかに咲く。

ユリオプスデージ、南アフリカ原産の常緑低木。

比較的、寒さに強いく長い間咲き続ける、花の少ない冬には貴重な花です。

コリウスの彼は。
和名は金襴紫蘇(きんらんじそ)、錦紫蘇(にしきじそ)。

コリウスの花は

『善良な家風』『健康』『かなわぬ恋』『恋の望み』『絶望の恋』

1年中きれいな葉っぱをつけることから「健康」という花言葉がつけられた。

園内のあちこちにスイセンが咲いている。

多年草で、冬から春にかけて白や黄の花を咲かせるものが多い。

スイセン全般の花言葉 「うぬぼれ」「自己愛」

花言葉の「うぬぼれ」「自己愛」は、水鏡に映った自分の姿に恋をしてスイセンになってしまった美少年ナルキッソスの伝説に由来する。

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長居植物園へのアクセス、行き方歩き方

住所:大阪市東住吉区長居公園1-23
TEL:06-6696-7117 FAX:06-6696-7405

地下鉄御堂筋線「長居駅」より徒歩10分

マイントピア別子 端出場(はでば)ゾーン

愛媛県新居浜市の別子銅山は、住友財閥の基礎を作ったことで知られ日本三大銅山(あと2つは足尾銅山と日立銅山)と呼ばれるほどの規模を誇りましたが、昭和48年に閉山となりました。

最後の採鉱本部が置かれていた端出場(はでば)地区を開発した端出場ゾーンの紹介です。

1991年(平成3年)に作られた端出場大橋、県道に沿った芦谷川の川向こうに建設されたテーマパーク「マイントピア別子」へのアクセス用として作られた橋。

紅葉もかなり進んでいます。

マイントピア別子の本館は当時の建物を意識した、赤煉瓦が基調のデザイン。
内部には食堂や土産屋、銅山の展示コーナーがあり、一番上の4階が温泉になっている。

出発は、本館2Fの「端出場駅」から、鉱山鉄道「別子1号」に乗車。
「マイントピア別子」の端出場駅と観光坑道に近い打除駅を結ぶトロッコ列車。発車するとすぐにトンネルに入る。

今、冬桜が花盛り、花期は春と秋に2回(たまに4回)。

春は他の桜と同様に7~10日間咲いており、秋は、11月中旬から2月初旬までで、花の咲いている期間が長いのが特徴(別名四季桜又は十月桜)である。

終点の打除駅を降りると、歩いて橋を渡り、端出場坑道へ、観光坑道は、別子銅山の旧火薬庫を利用した坑道で、江戸時代の様子を再現した「江戸ゾーン」、別子銅山の近代史を学べる「近代ゾーン」のほか、地下1,000mの疑似体験ができる。

橋の途中の橋の上から渓流を望む、伊予青石が基岩になっている。

長さ333mの観光坑道は、旧火薬庫を利用して作られた。
江戸時代から近代までの別子銅山が楽しめる。

歓喜抗は、1691年に開かれた別子銅山最初の坑道。
人々がこの将来有望な坑道の前で、前途を祝して、抱き合って歓喜したことから名付けられたという。

負夫(おいふ)と掘子(ほりこ)、背に葛で編んだ篭を背負った運搬夫(負夫)と採鉱夫(掘子)は、サザエの貝殻で作った「明かり取り」を手にして坑内に入った。

掘場(つぼ)、採鉱は主に槌(つち)と鑿(のみ)を使って、手作業で行われた。

湧水の引揚げ、鉱石を採ると石の目を伝わって水が溜まり、採鉱が難しくなる。

そこで、湧水を昼も夜も坑外へくみ出す作業が行われた。

体験用の装置があるがかなり重い。

坑口と風呂場、別子銅山では、歓喜坑を出るとすぐに共同浴場があり、便利に作られていた。

砕女小屋(かなめごや)、運び出された鉱石は、男が大割した後、砕女(かなめ)と呼ばれる女性たちによって、金槌(かなづち)で3㎝角位くらいの大きさに砕かれ、色の濃淡によって選別される。

仲持、元禄4年(1691年)の別子銅山の開坑以来明治13年に牛車道が開設されるまで、奥深い銅山で精錬した粗銅や山中での生活物資(男性は45キロ、女性は30キロ)を背負って、険しい山道を運搬した人達。

粗銅改め(あらどうあらため)、山で作られた粗銅は、山役人の立会いのもとに、重量が測られた。

当時、銅山税として、生産量の13%が幕府に納められた。

この動く巨大ジオラマは、別子銅山(旧別子・東平・端出場)の明治から昭和の模様を一か所に集約したもの。

散り紅葉の中を端出場駅からの鉱山鉄道「別子1号」が到着。

明治26年に開通した別子鉱山鉄道の蒸気機関車「別子1号」を一回り小さくして復元。

端出場記念館から観光坑道までの約400mの距離を時速10kmのスピードでのんびりと走って行きます。

途中には鉄道開通時に建設された当時のままの「端出場随道・端出場鉄橋」を通過します。

この鉄橋は明治26年(1893)に架設されたものでドイツのハ一コート社のピントラス橋で、溶接などせずピンのみで留められた非常に珍しい橋として現存しています。

散り紅葉に後ろ髪曳かれながらマイントピア別子を後にした。

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マイントピア別子 端出場(はでば)ゾーンへのアクセス、行き方歩き方

新居浜市立川町707-3
0897-43-1801
JR新居浜駅からせとうちバスもしくは新居浜市運営のコミュニティバスに乗車。約15分。

須磨離宮公園

1907年(明治40年)に大谷光瑞別邸を宮内省が買収して1908年(明治41年)に起工し1914年(大正3年)に完成した旧武庫離宮(須磨離宮)。

カスケード、キャナル、大噴水と続く幾何学式庭園。

当時建設された離宮御殿など建造物群の大半は1945年(昭和20年)に戦災で消失。

庭園は可能な限り竣工時の状態に復元整備され今上天皇(当時皇太子)御成婚記念として、1967年(昭和42年)に須磨離宮公園として神戸市に下賜された。

テラスの前面の噴水。

角度を変えてカスケードと奥に続くテラス。
カスケード (英語 cascade) の原義は、連なった小さな滝。

キャナルの周囲は王侯貴族のバラ園、丁度見ごろを迎えている。
旧離宮であった歴史にちなみ、日本の皇室や王侯貴族、芸術家などの名を冠した品種を集めたバラ園。

天高く噴き上がるダイナミックな大噴水からキャナル、テラスを見渡す。

メインフォールの前にはポセイドンの像。

この像は、ギリシアと日本の友好を記念して、日本万国博覧会を機会にギリシア政府から神戸市に寄贈されたものです。

ポセイドンは、ギリシア神話では海の大神とされています。

原像は、1926年および1928年に海底から発見されたもので、数少ない青銅大彫刻の貴重な遺品としてギリシア彫刻の本質を知るための重要な資料とされています。
作者は不詳ですが、紀元前5世紀中頃の作品と考えられています。
      昭和45年5月31日      神戸市長(現地案内板より)

本園(面積58ヘクタール)は月見山とよばれる景観地に位置しており、遠くに須磨浦を見渡せる。

きれいな幾何学模様が見えたのでズームして見る。

約1,000年前の平安貴族、源氏物語の主人公、光源氏のモデルといわれている 在原行平(在原業平の兄)が月見をしたと伝えられている月見の名所。

展望がすばらしく、大阪湾を一望でき、和歌山の友ヶ島や淡路島まで見ることができます。

上を見上げるとそろそろ紅葉を思わせる景色が広がる。

池にはリズミカルな小噴水が。

きれいなお椀型の噴水。

「ロシナンテは転倒した」というドンキホーテ像、ロシナンテはドンキホーテの愛馬の名前で、愛嬌がある。

ジュウガツザクラがさりげなく咲いている。

ジュウガツザクラ(十月桜、学名:Cerasus subhirtella (Miq.) S.Y. Sokolov, 1954 ‘Jūgatsuzakura’、Synonym:Prunus subhirtella Miq. var. autumnalis Makino)は、花が4月上旬頃と10月頃の年2回開花する。

花は十数枚で、花弁の縁が薄く紅色になる。
また萼筒が紅色でつぼ型である。

春は開花期に新芽も見られる。また、春のほうが花は大きい。樹高は5m程。

カマキリがきわどいところにいます、すぐそばにはクモの巣があり、へたをすれば雲の餌食に・・・・・

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須磨離宮公園へのアクセス、行き方歩き方

兵庫県神戸市須磨区東須磨1-1
078-732-6688

JR神戸線「須磨駅」から75系統「妙法寺駅行」の市バス「離宮公園前」すぐ、またはJR神戸線「須磨海浜公園駅」から徒歩20分

妙蓮寺のお会式桜は恋愛成就の桜

この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2012年4月2日訪問時のものです。

桜の開花は遅れに遅れています。
そこで、日蓮大聖人入滅の日である10月13日の前後から咲き始め、4月8日のお釈迦様の聖誕日ごろ満開となる珍しい桜、御会式桜を見に行く。

冬季の「妙蓮寺椿」、晩夏から秋季の「芙蓉」など、花の寺としても有名。
境内は無料、拝観料を払ってお庭を拝見となると庭に自由に入ってよし、三脚の規制もなしとアマチュアカメラマンにとっては至れり尽くせり。

妙蓮寺は1294年、日像上人が京都に創建した本門法華宗の大本山である。
一時衰退したが、応永年間(1394~1428)に日慶が再興、妙蓮寺と号した。

現在地には天正15年に移転する、山号の卯は、柳の字を二つに分けたもの。
山号は卯木山。本門法華宗の大本山。
塔頭が八院ある(恵光院、玉龍院、本光院、円常院、堅樹院、慈詮院、本妙院、常住院)。

御会式桜(おえしきざくら)
桜の散った花びらを拾って持ち帰ると恋愛が成就するそうです。
しかし枝を手折ったりすると恋は実らないので気をつけてください。

お会式(おえしき)とは日蓮聖人のご命日である10月13日を中心に行われる法要のことで、御命講、御影講ともいいます。
御会式桜は、日蓮大聖人入滅の日である10月13日の前後から咲き始め、4月8日のお釈迦様の聖誕日ごろ満開となる珍しい桜です。

御会式桜(おえしきざくら)の仲間
有名なのは、実光院の不断桜、妙蓮寺の御会式桜、平野神社などの十月桜。
また、植物園には子福桜という秋咲きの桜がある。

(御会式桜は種類としては、十月桜だが、日蓮聖人の亡くなられた10月13日(御会式)頃に咲き始め、お釈迦様の誕生日である4月8日(花祭り)頃に満開となるので、日蓮宗系のお寺によく植えられ、「御会式桜」と呼ばれている。)

実光院では、満開の桜と色づいた紅葉という、他では見られない景色を見ることができます。

①冬桜  豆桜と大島桜の雑種   白色一重
②四季桜 豆桜と江戸彼岸の雑種  淡紅白色一重
③十月桜 豆桜と江戸彼岸の雑種  淡紅白色八重
④不断桜 山桜系の雑種      白色八重    
⑤子福桜 唐実桜と彼岸桜の雑種  淡紅色八重

袴腰型の鐘楼
この鐘楼だけが、天明の大火から生き残った建物になる。

赤穂浪士遺髪墓
赤穂藩の家臣 大石内蔵助(良雄)ら47名が討ち入り後、切腹した46名の遺髪を、
同士 寺坂吉右衛門が、赤穂城下への帰路の途中に、伏見の片岡源五右衛門の姉宅に立ち寄り託した。

1704年(皇紀2364)元禄17年2月主君の三回忌にあたり、彼女により、お墓が建立され納められる。
2002年(皇紀2662)平成14年2月に再建される。

遺髪墓の表側(全て戒名。院号は「忠誠院」)
最初どこにあるかわからなかったのでお墓番さんに聞きやっとわかった。
古くなり表面も割れてきたりしたので平成14年2月に再建したとのことで真っ新でしたので分かりにくかった。

遺髪墓の裏側(最上段中央に「大石内蔵助良雄」の名)

本堂が工事中のため塔頭の並ぶ路地を通り社務所へ向かう。

観光寺院ではないので感じのいい事務員さんが電話の子機を持って幸野楳渓の「四季の襖絵」の襖絵の説明をしてくれました(襖絵は写真撮影禁止の為ありません)

また、彼女の四季の草花の説明は仔細を極め聞いていて気持ちのいいものだった。
四季折々に訪れていい写真を撮りたいなと思った。

寺紋の三つ楓

寒咲菖蒲(かんざきあやめ)
楚々とした可憐な姿は、見る人の心を和ませてくれる。
地中海の原産。
寒菖蒲(かんあやめ)ともいう。

白のもくれんが咲いている、紫のもくれんはもう少しのようだ。

花頭窓より庭を望む。

十六羅漢石庭
白砂に十六羅漢を表す置石、釈迦三尊石を表す獅子・象を形どった石が置かれている。
江戸時代初期の枯山水庭園。

青石は伏見城の名石であったといわれ、「臥牛石(がぎゅうせき)」と称し、豊臣秀吉の寄進といわれる。
確かに、こちらから見ると涅槃の姿に見える。

この庭園には、十六羅漢石庭という名前が付いていますが、この釈迦様をのぞくと15個しか石がありません。残りの一つは拝観者(自分)自身が羅漢なのだそうだ。

座敷より庭を望む。

庫裏の前の桜の開花は遅く、御室桜し同じ時期という。

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妙蓮寺へのアクセス、行き方歩き方

妙蓮寺公式ホームページ

住所:上京区寺ノ内通堀川西入ル
拝観:境内自由、方丈・庭500円、
    収蔵庫+300円
時間:10時~16時
電話:075-451-3527
休日:毎週水曜日、年末年始

地下鉄 烏丸線 鞍馬口駅 徒歩約10分
市バス 堀川寺ノ内 徒歩約3分

弥生時代の大規模環濠集落跡 吉野ヶ里遺跡

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に、およそ50ヘクタールにわたって遺構が残る、弥生時代の大規模な環濠集落跡。

報道がなされた当初は邪馬台国に関係する遺跡ではないかとも見方もあり、一部で九州王朝説も取り上げられた。

今回の旅は名門大洋フェリー2便、「フェリーふくおか2」、7時過ぎ、国東半島沖で夜明けを迎えた。

東口メインゲートを入るとまずここで12分間のビデオの時間を見た後、田出川に架かる天の浮橋を渡って園内に入ります。

物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるもので、2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(88番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

ゲートの前では冬桜が可憐な姿を見せていた。

吉野ヶ里集落の、当時の東の正門と考えられている場所です。
外壕を埋め立てて土橋を造り、その内側には大きな門を備えていたようです。
また、門の両側一帯には、敵の侵入を防ぐための特別な仕掛け(逆茂木)があったと考えられており、この場所の重要性がよく分かります。

吉野ヶ里歴史公園では大切な遺跡を守るため、遺構面の上に30cm以上の保存盛土をし、さらに整備に必要な盛土をその上に行っています。
こうして大切な遺構を壊さずに、当時あった場所の真上に復元することができるのです。

弥生人(?)がお話を・・・
園内に入るとボランティアガイドが説明してくれます。

まず、物見やぐらから全体を俯瞰してみる。
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐら跡。
内壕の内側で発見されました。

吉野ヶ里遺跡は、周囲に小さな集落がいくつもあって、それらを統括していた中核集落と考えられています。
物見やぐらは外からの侵略者を監視する見張り台だったようです。
復元された物見やぐらは床高6.5m、高さは12m。
佐賀平野を遠くまで見渡せます。

今いる場所、南内郭 ~王たちの住まい~
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落を始め、周りのムラムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。

南のムラ
弥生時代の吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいた地域と考えられています。

倉と市
海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、盛大な市が開かれたり、市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まった、吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。

支配者層(「大人(たいじん)」)の妻の家

各エリアの入り口の上部の木製の鳥
弥生時代、鳥は稲などの穀物の霊を運んできたり、悪霊から守ってくれるシンボル(神の使い)とされていたようです。
北内郭 ~神への祈り~

吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって、最も重要な場所であったと考えられています。
田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と考えられています。

鍵形に折れ曲がった入口
真っ直ぐ入ってこられないように鍵形に折れ曲がった構造をしています。
こうした造りは古代中国の城郭都市に多く見られ、吉野ヶ里が大きな影響を受けていることを示しています

主祭殿
吉野ヶ里のクニ全体の重要な事柄を決める会議を行ったり、祖先の霊への祈りや祀りを行ったりした、中心的な建物と考えられています。

最上階に最高司祭者(巫女)が祖霊と交信。
頭に蔓を巻き、手に小笹を持ち、琴の音に合わせて神がかり、剣と鏡、玉で交信の祭具とするという考えのもとに復元されています。
この結果は従者によって2階で会議を行っている王やリーダーたちに伝えられます。

主祭殿2階
吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りが開かれており、吉野ヶ里の王やリーダーたち、さらには周辺のムラムラの長が集まっています。

竪穴住居(従者の住まい)
北内郭で唯一の竪穴住居です。これは最高司祭者の最も身近に仕え、その世話に当たる従者の住居であったと推定しています。

床を掘り下げた半地下式の建物です。
外見は、屋根を伏せたように見えます。

斎堂
東祭殿と主祭殿の間にある高床の建物。
主祭殿の祀りの前に身を清めたり、祀りの道具を保管する場所として使われていたと考えられています。

北の墳丘墓の南面には土饅頭の下に甕棺墓(少し盛り上がっている)が列をなし、雲仙岳にラインを合わせるように配置されています

甕棺墓列の内部の様子。

北墳丘墓 ~神が宿る~
吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。
このお墓は、人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。

中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました。

このお墓は、弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として、人々から大切にされていたようです。
手前のポールは立柱と言って祖先の霊が宿る柱と考えられており、シンボル的な役割を果たしていた。
その方向は雲仙岳に向かっているとのことです。

北墳丘墓の発掘当時の写真。

甕棺への埋葬の仕方を示したパネル。

北墳丘墓内部の様子。
これらの甕棺は本物です。

甕棺にはこのように葬られていた。

東祭殿
夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にある高床の建物です。
太陽の動きを知るための建物で、ここでは季節ごとの祀りが行われていたと考えられています

展示室内部、首から上が無い遺体。

成人用甕棺と小児用甕棺。

ムラの長の一家。
1つの竪穴式住居は2,3人だけで使っていたようです。
このように背振山を背景に有明海に望む、台地に弥生時代中期頃に集落を形成してから弥生時代終末期まで存続した吉野ヶ里集落を主導していた人々は忽然とその姿が見えなくなるようです。

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吉野ヶ里遺跡へのアクセス、行き方歩き方

吉野ヶ里遺跡公式サイト

問い合わせ先 (財)公園緑地管理財団 吉野ケ里公園管理センター TEL 0952-55-9333
JR長崎本線吉野ヶ里公園駅または神埼駅から、徒歩15分
JR長崎本線吉野ヶ里公園駅または神埼駅から、タクシー利用で5分