法金剛院 早朝拝観


今年も早朝を狙って出かけたのですがJR神戸線で線路内に人が立ちいったということで大幅な遅れ。

予定より30分以上遅れてしまった。

7時30分の拝観開始だが撮影に入ったのは8時過ぎ。

おまけに出かけるときカメラのチェックを怠り、セットされていたレンズは24-70、全くドジなことだ。

救われたのは105mmマクロを持参していたこと。

お寺の建物などを借景にと考えていたのだが・・・・

開花するのは早朝で、特に見頃は午前7時〜9時頃、そして10時前には再び花は蕾に戻っていってしまい、お昼には花が閉じてしまう。

皆さんとジナ話は色々とあるようで藤原京にハスの撮影に行った人の話。

畝傍山を借景にというのはいいが、夕日を絡めての撮影を考えていたようだ。

しかし、この時期、日の入りは7時過ぎ、とてもではないが炎天下でそれまで待てない、バスの時間も気になる・・・・

とんだ「トラたぬ」をやらかしてしまったと笑っていた。

花托の撮影やら

ハスの葉のロータス効果やら結構楽しんだ。
結局10時ごろには人がほとんどいなくなっ。

寺は待賢門院(1101年 – 1145年)により再興され、名称を法金剛院と改めている。

待賢門院は藤原氏の出身で、鳥羽天皇の中宮であり、崇徳天皇、後白河天皇の母。

青女の滝(せいじょのたき、国指定特別名勝)は日本最古の人工の滝とされる。
待賢門院の発願により林賢と静意の作と伝わる。

待賢門院(藤原璋子)の墓が、寺院の北にある墓地にあるが、明治以降は寺から切り離されて宮内省(現・宮内庁)の管理する「鳥羽天皇皇后璋子 花園西陵」となり、陵への現在の参道は寺院とは丘の反対側の北側からとなっている。

ところで待賢門院にふられた西行の話は有名。
障子が出家して待賢門院となる頃には、かつての義清も出家し、西行となっていました。
お互いに出家した後も、2人の交流は続いてた様で、待賢門院の従者である堀川局と西行が交わした和歌が残っています。

尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし

花と散りにし 君が行方を   西行

(尋ねても風の便りにも聞くことができない、

 花のように散ってしまった待賢門院の行方は)

吹く風の 行方知らする ものならば

風と散るにも 遅れざらまし   堀川局

(吹く風が行方を知らせてくれるのならば、

 遅れずに後をついていくのに)

西行ゆかりの寺 花の寺勝持
大原野神社から2~3分山道を進むと勝持寺への参道に合流します。 合流する手前に橋 … 続きを読む →

祇園女御供養塔~芭蕉堂~西行庵~石塀小路
清盛ゆかりの地を訪ねようと八坂神社、六波羅蜜寺、六道珍皇寺、円山公園一帯を散策し … 続きを読む →

江口の君堂 西行と江口の君を偲ぶ
往来する貴族たち相手の遊女の里としても知られ、『遊女記』に「天下第一之楽地也」と … 続きを読む →

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

長弓寺 趣ある古刹で楽しむあじさい


長弓寺(ちょうきゅうじ)は、奈良県生駒市にある真言律宗の寺院。

山号は真弓山。
本尊は十一面観音。

開山は行基と伝える。
国宝の本堂は鎌倉時代の密教仏堂の代表作として知られる。

長弓寺の創建についてはいくつかの説があり、定説を見ない。

『長弓寺縁起』によると神亀5年(728年)、鳥見郷の豪族である小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)が聖武天皇に随行して狩りに出た。

同行していた長弓の息子・長麻呂が不思議な鳥が飛び立つのを見て矢を放ったところ矢は誤って長弓に当たってしまい、長弓は亡くなってしまった。

不運な長弓父子を哀れんだ聖武天皇は僧・行基に命じて一寺を建立させた。

行基は十一面観音像を安置してこれを本尊としたという。

十一面観音像の頭頂には仏面が乗っているが、これは聖武天皇の弓を刻んだものだという。

なお「鳥見(登美)」は長弓寺の位置する生駒山東麓を指す古い地名で、神武天皇東征神話にも登場する。
現在の奈良市西部から生駒市にあたる。

室町時代の応仁の乱の際には西軍の山名宗全方の落人が乱入して重宝を破壊し、戦国時代には織田信長によって寺領が没収されている。

盛時には塔頭が20院あったとされるが、明治時代の廃仏毀釈の影響により、現在は4坊が残るのみである。

境内奥に国宝の本堂が建ち右側(東)には伊弉諾神社、薬師院、左側(西)には円生院、法華院、南には宝光院地蔵堂がある。

長弓寺本寺には住職がなく、薬師院、円生院、法華院の3つの塔頭が輪番制で本堂を護持している。

この3つの塔頭は宿坊を営業し、精進料理を提供している。

アクセス

近鉄白庭台駅より徒歩13分
近鉄富雄駅より奈良交通バス(高山方面行き)「生駒上町」下車、徒歩10分(本数は少ない)
近鉄学園前駅もしくは近鉄学研北生駒駅より奈良交通バス「真弓四丁目」下車、徒歩15分

奈良でも有数のあじさいの名所として知られるこの長弓寺に、雨の合間に訪れました。

帰途、自然流菓子処「川端風太郎」に立ち寄った。

川端風太朗というのは屋号で、社長の名前ではない。

作家の山田風太郎さんの生き方に憧れてつけさせていただいた。

山田風太郎さんの奥様や娘さんにご来店いただいたこともあり店内にはその時いただいた山田風太郎さんの作品もありますのでどうぞご覧ください。

こちらは喫茶コーナー。

コーヒー、紅茶、ジュースと一緒にケーキなどをどうぞ。

春~秋ごろにかけて葡萄の実が実っておりますので、その季節には天井の葡萄を見ながらの木漏れ日の中のティータイムをお楽しみ。

素材にこだわるのが特徴のお店で、牛乳は岩手県産のノンホモ低温殺菌牛乳、小麦粉は国産、バターも国産の発酵バター、卵はヨード卵、果物は可能な限り有機栽培のものを使っています。

果物は季節の旬のものを使うようにしていますので、たとえば夏にはイチゴではなく桃や葡萄を使うようになったりと、無理に季節はずれの果物を使うより、旬の果物を楽しんでもらうようにしています。

味は全体的に甘さ控えめで、素材の風味を生かすように作っています。

ケーキだけでなく、焼き菓子も当店で製造しておりますので安心してお召し上がりいただけます。

自然流菓子処 川端風太朗 ホットペッパーで求めることができる。

龍の登るような雲を見た、これは吉兆か。

<バス、電車>
近鉄けいはんな線「白庭台」駅から徒歩10分
または近鉄けいはんな線「学研北生駒駅」から徒歩15分

近鉄富雄駅から高山方面行きバスに乗り「真弓橋(まゆみばし)」停留所下車。

富雄方面行きバスの場合は「蛇喰(じゃはみ)」停留所下車。

 <車>
近鉄富雄駅から富雄川沿いを高山方面へ8分。

富雄川沿いに高山の方へ向かって行けば、富雄川をはさんだ向かい側に見えてきます。

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

リベンジ久安寺


今日は倶楽部の撮影会。

メンバーを誘って長久寺へ、前回のリベンジを狙います。

池田駅では積み残しが出るくらいの混雑です。

具足池(ぐそくいけ)の周りは黒山の人だかりです。

最盛期には四十九もの子院があったが、現在は本坊となっている小坂院だけが残っている。

お寺の看板犬・ちょび助が人気の的、愛らしい表情がたまりません。

楼門の付近が特に見どころで、楼門から受付の付近までの道には色とりどりの花が咲く。

混雑を避け楼門の外から・・・

楼門 – 室町中期建立。

指定年月日:1903年(明治3)4月15日。

現・文化財保護法で1950年(昭和25年)8月29日指定。


本堂横の回廊から三十所堂へ向かいます。
新緑の季節は両側のまばゆい緑が目に飛び込んできます。

寺伝によれば、神亀2年(725年)に聖武天皇の勅願を受け行基が開創し、天長年間(824年 – 834年)の頃に空海(弘法大師)が真言密教の道場として中興した安養院が前身と伝わる。

安土桃山時代の頃、豊臣秀吉が参拝の際、月見茶会を開いたといわれ、江戸時代中期に歌人の平間長雅が移り住み、観音信仰の聖地として広く庶民に知れ渡った。

御影堂(遍照殿) – 弘法大師留錫の際の草庵跡地で、弘法大師像と聖武天皇などゆかりの天皇の位牌を祀る。

宝形作りで明治末年に現霊園から移築されたもの。
摂津国八十八箇所第67番札所。



バン字池、リフレクションがきれい。



朱雀池、自然にできたこの池が寺の起源。

間もなくハスが咲くが今は水草がきれいです。

羽化したての蜻蛉を見つけた。

6.4mの仏塔内の釈迦大涅槃像



一番北にある舎利殿は一番新しいものだそうですが、この仏塔がこのお寺のシンボルモニュメントになるのにはそう時間がかかることはないでしょう。

五輪塔が参道左右に。

もともとはモミジの穴場で有名
超穴場!久安寺の紅葉
楼門 14世紀、室町時代の建立。 奈良時代の開基、優雅第一と賞される楼門は「軒反 … 続きを読む →

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

在原業平隠棲の十輪寺


善峯寺よりの帰りバスで一駅の小塩で降り、業平をしのんだ。
バスは満車であったが誰一人降りる人は無かった。

十輪寺は、大原野の一角に文徳天皇が女御である染殿皇后(藤原明子)に世継が誕生するよう祈願して、嘉祥3年(850年)に伝教大師作の延命地蔵を安置して祀ったのが始まりだとされる。

祈願後、無事に惟仁親王(清和天皇)が誕生したことから勅願所とされた。

その後、寺伝では平安時代初期の歌人で六歌仙のひとりである在原業平が、晩年この寺に隠棲したとされ、境内の裏山には業平が塩焼きの風情を楽しんだとされる塩竈(しおがま)の旧跡がある。

また、それが十輪寺周辺の地名が「小塩(おしお)」となった由来であるともいう。

樹齢800年の大樟樹と「なりひらもみじ」が素晴らしい。

大樟樹は、十輪寺のご神木で、地蔵菩薩の神力で一夜にして大樟樹にしたという伝説がある。

庭園「三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)」 – 寛永3年(1750年)に、右大臣花山院常雅が本堂再建時に作庭したもの。

作庭時期は江戸時代であり、当時は武士が権力を持ち公家は財力に乏しかったことから豪華な庭園を造ることは叶わなかった。

しかし花山院家の公家たちは、小さな空間でも見方を変えることで様々に楽しもうとこの庭を考案したといわれる。

高廊下、茶室、業平御殿の三か所で場所を変えて見ると、見る人に様々な思いを感じさせる癒しの庭である。

それぞれの場所から「立って見る」「座って見る」「寝て見る」と3通りの見方で趣の違いを楽しめることから、その名も三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)と呼ばれる。

「普感」とは仏の遍万している大宇宙を感じることを意味する。

中庭には樹齢約200年の枝垂れ桜、通称「なりひら桜」がらんまんとさきほこる。

画像はポスターを拝借。

鐘楼(京都府指定有形文化財) – 寛文6年(1666年)再建。

不迷梵鐘(まよわずのかね)と呼ばれ、自分で決心がつかず迷っている時にこの鐘を撞くと、決心がつく不思議な鐘とされている。

在原業平供養塔 – 宝篋印塔が境内裏山にあり、「在原業平卿の墓」の石碑が建つ。

恋と歌に生きた業平が50歳を過ぎてこの十輪寺に隠棲したといわれ、境内奥にある「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」は業平のお墓と伝えられています。

本堂の屋根は鳳輦(ほうれん)型と言うおみこしの型をした珍しい建物。

墓から少し奥へ進むと業平が、塩焼きの風情を楽しんでいたという旧跡がある。

塩竃 – 在原業平が、難波(現・大阪湾)の海水を運んで塩焼きの風情を楽しんでいたという旧跡。

在原業平の思い人である二条后(藤原高子)が大原野神社に参詣した折に、塩竃で紫の煙を立ち上げ思いを託したと伝わる。

謡曲「かきつばた」には業平が歌舞の神とされていることから、中世以降に業平信仰が生じ、塩竃を清めて煙を上げ、その煙に当たり良縁成就、芸事上達、ぼけ封じ、中風除け等々を願うようになったという。

毎年11月23日に、「塩竃清めの祭」が行われている。

画像はポスターを拝借。

業平伝説とはどのようなものか。

時代は、藤原北家が、実質的権力を掌握しつつある時代である。
藤原高子(842~910)は、藤原北家の娘として、将来は天皇の后となり、次期天皇を生むことが期待されていた女子で、「花や蝶や」とそれはそれは大切に育てられた。

実際、藤原高子では、8歳年下の清和天皇(第56代、850~881、在位858~876)の女御のひとりとなる。
そして、藤原高子と清和天皇の子が、陽成天皇(第57代、869~949、在位876~884)である。

そんな予備知識を踏まえて、藤原高子の色恋スキャンダルの一生を。

859年、清和天皇即位後の最初の大嘗祭において、藤原高子は五節の舞姫をつとめた。

五節の舞は、大嘗祭や新嘗祭に行われ、4~5人の舞姫が踊る。
当時の最大級のエンターテインメントで、見物人がドッと押し寄せる。

このとき、高子は18歳、清和天皇は10歳である。高子は、まだ入内していない、未婚の18歳である。
高子の美貌は抜群であった。

藤原北家のトップは藤原良房(804~872)で、清和天皇の成長を待って、高子を入内(→出産)させようと計画していた。

10歳の少年でも、少しは色気もあるだろう、8歳年上であっても絶世の美女の舞を見せつければ、少年でも関心を持つだろう。
少年が男に成長したら、すぐさま入内、すぐさま出産……そんな絵を描いていた。

しかしながら、藤原高子の五節の舞を見ていたのは、清和天皇だけではない。
大勢の見物客のなかに、在原業平(825~880)がいた。

言うまでもなく、日本史上最高のプレイボーイである。
このとき、業平は35歳である。

そして、在原業平と藤原高子の恋愛ドラマがスタートする。

男は女を、あの手この手で口説き落とす。
藤原北家にしてみれば、「清和天皇の女御予定者」を傷者にされては困る。

女は18歳にして初めて恋の甘美な蜜を知ってしまった。
許されぬ恋ゆえの駆け落ち。

しかし、駆け落ちは一夜だけで追手に追いつかれ、引き裂かれてしまう。

藤原北家は、女を蔵に押し込め、男から防衛する。

男は、蔵に向かって、笛を吹く。
結局、男は京都から追放される。

秋の紅葉めぐり 小塩山十輪寺 なりひら寺
十輪寺は、嘉祥3年(850)に創建され、平安時代の歌人で、「伊勢物語」の主人公在 … 続きを読む →

在原業平ゆかりの古刹 不退寺
投稿日時: 2017年3月2仁明天皇の勅願を受け、平城天皇萱御所跡に在原業平が開基したと伝わる。 その由緒か … 続きを読む →

在原業平の子孫が築いたと言われる箕輪城
日本100名城の一つ。 箕輪城は榛名山からのびる低い尾根の末端部を巧みに利用して … 続きを読む →

アクセス
JR東海道本線で、京都駅より約7分、「向日町駅」で降り、阪急バス66系統で約30分、「小塩」バス停下車すぐ。
バスの本数が少なく注意が必要。

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

山城 善峰寺 アジサイ紀行


アクセスJR向日町~阪急東向日~向日市役所前~右京の里~灰方~小塩~善峯寺 (JR阪急各駅より所要 約30分 片道370円)

ここから山岳登山開始。

観音堂へ着くとアジサイの生け花がお迎え。

ここからは比叡山が一望。

寺号の由来
「善峯寺(善峰寺)」という寺院は全国でも1つしかないと言われています。
寺号の由来はいくつか伝えられています。

後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜されました。

干ばつの時、源算上人の祈りで、龍王が雨を西山の峰より降らした奇瑞によって、後冷泉天皇より「良峯」の勅額を賜りました。

後鳥羽天皇より、慈鎮和尚ご住山の時に「善峯寺」の勅額宸筆を賜りました。

「本名は阿知坂なりしを改めて善峯山と名附らる諸善奉行の教を流布せんためなり」とあります。

※尚、寺号「峯」の字は歴史上「峰」「峯」ともに使われており、

現在当山では便宜上「峯」に統一しています。

山城善峰寺

南北朝の争乱や応仁・文明の乱でもこの地に戦が行われているように、軍事的な要衝の地にあった山岳寺院は城郭として利用されたと考えられる。

江戸時代の再興であるが、山門から本堂への石段と石垣や釈迦堂付近は、お城好きにはお寺がお城に見えて仕方がない光景がそこにあった。

善峰寺は、長元3年に源算によって創建されたとされている。

建久3年には官寺に列せられ、後に後嵯峨天皇の勅願所となった。

承久の乱の際には後鳥羽天皇の皇子道覚法親王が善峰寺へ避難しており、その後も法親王が住持を歴任している。

南北朝時代の文和2年、南朝方の山名時氏と北朝方の高師詮が善峰寺で戦い寺は焼失した。

その後、室町時代は足利幕府の庇護を受けたが、応仁・文明の乱で焼失して衰退し、江戸時代の元禄4年に徳川綱吉の生母桂昌院によって再興された。

桂昌院(1627~1705)は徳川家光の側室で、名は光子。
五代将軍綱吉の生母。

諸書によれば「京都堀川通西藪屋町」の八百屋仁左右衛門の子で、父の没後、母鍋田氏は二条家家司本庄太郎兵衛に嫁した。

寛永16年(1639年)に部屋子として家光の側室・お万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で、局の指導を受けるようになる[2]。

長じて将軍付き御中臈となり、家光に見初められて側室となり、正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。

慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。

4代将軍・家綱の死後、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。

貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜る。

宝永2年(1705年)6月に79歳で没。

『薬師如来献詠』桂昌院筆
元禄11年(1698)に薬師如来に歌を献じます。

たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏

「たらちを」とは実父のことで、将軍の生母となってからも父の薬師信仰を忘れずにお過ごしになりました。

山城を思わせる遺構が随所に見られます。

途中には打たせ滝である青蓮の滝がありましたが水が流れていません。

本殿を中心に、ぐるりと山を登って参拝を楽しめる善峯寺。

階段が多いにも関わらず、ご年配の方が沢山元気に参拝しておられました。

善峯寺参拝は今回で3回目です。

京都 西山 善峯寺
山号は西山。西国三十三所第20番札所。善峰観音宗(天台宗系単立)。 桜や紅葉の名 … 続きを読む →

秋の紅葉めぐり 西山 善峰寺
善峯寺(よしみねでら)は、京都府京都市西京区にある寺院。山号は西山。 西国三十三 … 続きを読む →

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

楊谷寺のアジサイ 今年はアンブレラスカイが人気


楊谷寺は、京都府長岡京市浄土谷にある西山浄土宗の寺院。
山号は立願山。

本尊は十一面千手千眼観音菩薩。
通称柳谷観音(やなぎだにかんのん、楊・柳ともにヤナギの意)。

楊谷寺、善峯寺、光明寺の3つの寺院は「西山三山」と呼ばれる。

今年はアンブレラスカイが登場。

花手水が随所にありますが門前の花手水は規模も大きく長蛇の列。

新西国三十三箇所第17番札所。
独鈷水(おこうずい)の寺として、また近年は紫陽花の寺としても知られている。
縁日は毎月17日。

寺伝では清水寺の開祖延鎮が大同元年(806年)に開山したとされ、延鎮が夢告によりこの地で十一面千手千眼観音菩薩像を感得し、堂を建て安置したのが始まりとされる。

その後延鎮が清水寺に帰った後に空海が度々、ここで修行をしたとされる。

伝承によれば、弘仁2年(811年)、楊谷寺を参詣した空海は、堂の傍らの湧き水で、眼のつぶれた小猿を抱いてその眼を懸命に洗っている親猿を見かけると、小猿のために17日間の祈祷を行った。

すると満願の日に小猿の眼が見事に開いた。

それ以来、空海はその湧き水を眼病に効く独鈷水として広めたという。

独鈷水は、江戸時代に眼の悪かった霊元天皇がそれで眼病を治癒したのをきっかけとして、以後歴代の天皇へ献上されるようになり、明治時代となって皇居が東京に移るまで献上は続けられた。

東山天皇の皇妃新崇賢門院が当山の本尊に祈祷したことにより、後の中御門天皇が誕生した。

その返礼として、中御門天皇が当山本尊を模し、勅刻したとされる観音像が奥之院の本尊として祀られている。

寺名の柳谷観音楊谷寺も、ヤナギの開創伝説にちなんだものです。

ところで、寺名に使われている「柳」と「楊」は、いずれも訓読みすると「やなぎ」です。

いずれもヤナギ属の樹木を指しますが、しだれやなぎのように枝が垂れ下がる種類を「柳」、ねこやなぎのように枝が上に伸びる種類を「楊」と書きます。

柳谷観音楊谷寺があじさいの名所として知られるようになったのは、近年のことです。

1887年に刊行された「京都名所案内図会」では、楊谷観音の絵図にあじさいの姿は全く描かれていません。

かわりに、本堂の前に大きな蘇鉄の姿が見えます。

このころの他の京都ガイドでも柳谷観音楊谷寺の絵図には蘇鉄が描かれており、あじさいよりむしろ蘇鉄の名所だったのかもしれません。

蘇鉄は冬季にこも巻きをするように寒さに弱い植物です。
山間部の柳谷観音楊谷寺で育てるのは大変だったでしょう。

2023年の柳谷観音楊谷寺のインスタ映えする大注目イベントはアンブレラスカイです。

アンブレラスカイとは、空にいろんな色や模様の傘を並べるイベントです。

もともとはポルトガルのイベントですが、近年はインスタ映えするイベントとして日本でも梅雨シーズンを中心に各地で行われるようになっています。

2023年の柳谷観音楊谷寺では、フェリシモとの共催で「紫陽花の傘」によるアンブレラスカイが行われています。

あじさいの階段

2022年からは、柳谷観音楊谷寺に新たにインスタ映えするあじさいの階段が登場しました。

本堂奥にある眼力稲荷社の脇の階段に、ポットのあじさいが並べられます。

楊谷寺ではお寺の補修にクラウドファンディングを行っています。

資金集めのためには集客が必要で、さまざまのアイデアが出されています。

楊谷寺へのアクセスは公共交通機関はなく徒歩での参拝となります。

阪急長岡天神駅から約1時間の行程です。

タクシー利用の場合。

阪急「西山天王山」より約10分
阪急「長岡天神」より約15分
JR「長岡京」より約15分

もう一つ毎月17日の縁日のみシャトルバスがセ運行されます。

阪急「西山天王山」、JR「長岡京」より運行  志納金として300円を支払う。

25人乗りの小型バスによる運行で効率は悪い、満員になると出発するのでバスが帰ってくるまで待つことになります。

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

洛西の名刹 正法寺


天平勝宝5年(753)奈良唐招提寺に住持された鑑真和上が中国の唐より渡来されました。

その鑑真和上とともに渡来された高弟、智威大徳が隠棲された地として、正法寺は天平勝宝6年(754)に開山され、当時は春日禅房と称されていました。

その後、伝教大師最澄が長岡京の守護寺院である「大原寺」を建立した際、春日禅房も大原寺の塔頭寺院の一つとして組み入れられました。

その後応仁の乱により焼失したものの、江戸時代に再建され正法寺と改められました。

中でも江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院が大原野の出身で深く帰依された。
そのため徳川家の祈願所として徳川家からの文書等も残ります。

庭園「鳥獣の石庭」

本堂前に広がる石庭は最近の作で「鳥獣の石庭」とよばれ、動物の形をした石が配され、枯山水などといった形式にとらわれないつくりとなっている。

境内や庭園には、合計200トンを超える多数の巨石が配置されており、通称’石の寺‘とも呼ばれています。

大手水鉢

江戸時代に日本最大の財閥を形成した旧大坂商人「鴻池家」伝来といわれる手水鉢

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

西行ゆかりの寺 花の寺勝持寺


大原野神社から2~3分山道を進むと勝持寺への参道に合流します。
合流する手前に橋が架かり鳥居が建っています。

『勝持寺は、小塩山の東麓、標高130~170mに位置し、寺伝では役小角の開創といわれる山林寺院です。

京都第2外環状道路の新設工事に先立って、平成22年(2010)から平成24年(2012)にかけて、勝持寺の旧境内にあった子院跡と推定される場所で発掘調査が実施されました。

調査では、建物・井戸・石垣や石塁などが見つかり、当該地において鎌倉時代から室町時代の複数の子院跡の存在が確認されました。
この奥に石塁の一部を移築して保存しております。

勝持寺は京都の西南郊外の大原野に位置する。

勝持寺は古くから桜の名所として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。

寺伝では天武天皇8年(679年)に天武天皇の勅によって役小角が創建したと伝えられる。

その後延暦3年(784年)に大原野神社が創建されると、勝持寺は大原野神社の別当寺とされ、延暦10年(791年)に桓武天皇の勅により最澄が再興して小塩山大原寺と称したという。

保延6年(1140年)10月、佐藤義清が当寺で出家し、西行となっている。
>
勝持寺は古くから桜の名所として知られ、西行ゆかりの寺として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。

平安時代の仁寿年間(851~854)に仏陀上人が伽藍を復興したと伝えられています。

堂中には薬師如来像・金剛力士像・日光菩薩像・月光菩薩像・十二神将像・西行法師像といった重文がずらり。

室町時代には、足利尊氏の帰依などにより寺運は隆盛し、現在の勝持寺の周辺には多くの子院(本寺に付属する小寺院)が存在したといわれています。

不動堂へ上がる石段の下、小さな池の奥に鏡石が在ります。

鏡石は、西行が勝持寺で出家し、この石を鏡の代わりに使って頭を剃ったと伝わります。

瀬和井の泉 – 西行が髪を剃った後にこの泉で自らの出家した姿を見たという。

不動堂前の石段を下って、右側に進むと小さな池の中に石の観音像が祀られています。

この観音像は魚籃観音(ぎょらんかんのん)で、魚籃とは魚を入れる籠のことで、組み合わせた手に籠を持っています。

三十三観音の一尊である馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体とされています。

中国・唐の時代、魚を扱う美女が、観音経・金剛経・法華経を暗誦する者を探しだし、結婚しましたが、まもなく亡くなりました。

この女性は、法華経を広めるために現れた観音とされ、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになりました。

鳥羽上皇に仕えていた北面の武士佐藤兵衛義清が、保元6年(1140)当寺に於いて出家し、西行と名を改めして庵を結び、一株の桜を植えて吟愛していた。

世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになった。

鐘楼堂
西行桜 – この桜の横に西行の庵があったという。
現在の桜は3代目である。

西行と桜の老精とのやり取りを描いた、室町時代の世阿弥作・謡曲「西行桜」の舞台となったところだと云われています。

「花見んと むれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがにはありける」西行法師

鐘楼堂の脇の石段を下りると、小川(三春川)があり石橋が架かっています。

「仁王門」は、応仁の兵火を免れた仁寿の旧構を残す勝持寺最古の建造物になっている。

戦国の争乱をも睨み続けてきた仁王さん。
痛々しく傷ついても、なお迫力満点の風貌。

祇園女御供養塔~芭蕉堂~西行庵~石塀小路
清盛ゆかりの地を訪ねようと八坂神社、六波羅蜜寺、六道珍皇寺、円山公園一帯を散策し … 続きを読む →

江口の君堂 西行と江口の君を偲ぶ
往来する貴族たち相手の遊女の里としても知られ、『遊女記』に「天下第一之楽地也」と … 続きを読む →


法金剛院のハス
この寺の起こりは平安時代の初めに右大臣清原夏野(なつの)が山荘を寺に改めたこと。 … 続きを読む →

吉野奥千本は雨でした
南東北の名城を掲載中ですが、吉野の記事を挟みます。 かつては高城山から金峯神社に … 続きを読む →

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

アジサイには早すぎた 久安寺


OB会の撮影会で久安寺を訪れたがアジサイには少し早すぎでした。
画像は御影堂、宗祖弘法大師空海を祀る。

撮り足りなさを覚え二日続けて参拝。

本堂

久安寺本尊千手観音のおわします観音堂。

摂津国三十三所霊場第 19番札所。

開運の鐘。

まず、鐘を4回ついてから、お経を唱えます。

それからお願い事をする。

先駆けにカシワバアジサイが境内のあちこちに咲いています。

薬師堂の脇の池でカエルを見つけた。

水面は光を受けてきれいです、多くのカエルを見かけたのだが人の姿を見て驚いて水に潜ってしまいます。

静かな環境でないと観察できない。


バン字池にはたくさんの鯉がいます、人が近づくとえさを求めて寄ってきます。



葉っぱが年中赤いモミジの品種で最も有名なものは「ノムラモミジ」。

ノムラは漢字で「濃紫(のうむら)」と表記するので、ノムラモミジは濃い赤紫色のモミジという意味になります。

ヤマボウシが咲いていました。

ヤマボウシは上向きに咲くので咲いていても気付かない事が多い。

「山法師」の名前は、中央の丸い花穂を坊主頭に、4枚の白い花びらを白い頭巾に見立て、比叡山延暦寺の「山法師」になぞらえた。

弥勒山森林浴巡拝コース

四国八十八か所のお砂踏み巡拝霊場です。

境内山内一周1080メートル(約1時間)の山歩きが楽しめます。

御影堂右側わたりろうか下をくぐってお進む。


三十三所堂

西国観音霊場を祀る。
33メートルの須弥壇に、自宅仏壇をもたない人の先祖霊、遺骨をお預かりお参りできる慰霊壇を設けています。

朱雀池に咲く「ハス」

逆さまに映るリフレクションがきれいです。

日傘の女性のリフレクションを撮ろうと待ち構えるのだが、なかなかまともな画像が撮れません。

涅槃仏の壁面にさす光

裏側に光源があります。


一面に咲くアジサイが美しいのですが、時期が早すぎます、頃合いを見てもう一度訪れようと思っています。

紅葉がまた素晴らしい。

超穴場!久安寺の紅葉
楼門 14世紀、室町時代の建立。 奈良時代の開基、優雅第一と賞される楼門は「軒反 … 続きを読む →

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

玉津島神社界隈


玉津島神社

稚日女尊、息長足姫尊、衣通姫尊、明光浦霊をお祀りしています。

古来より風光明媚な和歌の浦、玉津島神社は山部赤人が歌に詠んで以来、万葉集をはじめとして、多くの歌に登場します。

1917年(大正6年)、鹽竈神社は玉津島神社(玉津嶋神社)の祓所から神社になった。

海産物、安産の神として信仰されてきた神社で、神体の塩槌翁尊は輿の窟という岩穴に鎮座する。

近くには家庭円満の守り神として多くの人の信仰を集めてきた樹齢数百年の大木「和合の松」があったが、2012年(平成24年)6月に倒壊した。

和歌の浦のシンボルでもあった姿を復活させようと、通常難しいとされる挿し木によるクローン苗を使って、2018年4月に元の場所に植樹された。

不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道」に架橋したもの。

橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されている。
勾欄部分は雲を文様化したものが見られる。

江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れている。

近年までは不老橋を渡ったところに「不老館」という和風建築の建物があったが、解体され、現在は和歌の浦アート・キューブになっている。

妹背山は玉津島神社のすぐ横にある、旧和歌浦湾の内海に浮かぶ周囲250mほどの小島。

その西側には県内最古の石橋、砂岩製高欄つきの「三断橋」が架けられていて、妹背山に渡ることができます。

妹背山・三断橋

玉津島神社から妹背山に繋がる県内最古の石橋。中国の杭州西湖の六橋を模したとされ、小アーチ型橋を3カ所繋げている。
徳川頼宜により架橋される。

雑賀城(さいかじょう)は、戦国時代に現在の和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目付近に存在した日本の城(丘城)。
妙見山城とも呼ばれた。

いつの頃まで存在したのかは不明であるが、遅くとも秀吉が紀州征伐をする1585年(天正13年)には廃城となっていたであろうと推察される(この年から和歌山城築城が開始される)。

対岸には紀三井寺が見えている。

和歌山市の一部に当たる雑賀地方は、十ヶ郷、雑賀庄、中郷、宮郷、南郷の5ヶ郷からなる。

鈴木氏、土橋氏、島村氏、栗村氏、松江氏、宮本氏らが族党をつくり雑賀衆となった。
鈴木重秀(雑賀孫市)は、雑賀衆を代表する者であった。

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ