大阪府下最大規模 枚岡神社秋郷祭


秋郷祭は五穀豊穣を感謝して、布団太鼓台23台の宮入、地車3基の曳行が行われる。

大阪府下でも最大規模の秋祭り。

20基以上もの「ふとん太鼓」が町中を練り歩く、ふとん太鼓が出る祭りとしては、堺市の百舌鳥八幡宮月見祭と並んで大規模で有名である。

枚岡神社は、明治4年(1871)に官幣大社に列せられた日本最古の神社の1つ。

生駒へ向けて登る途中の駅、近鉄枚岡駅で下車、そのまま階段を上っていく。

本日の式次第。

09:00 稚児受付(予約者のみ)着付け

10:00 秋郷祭

12:30 神幸祭

13:00 神幸行列神輿渡御

14:30 還幸祭

15:30 太鼓台宮入

19:00 太鼓台中担

22:00 太鼓台帰還  

午後7時ごろからの「中担」が祭りのクライマックス、改めて各太鼓台が参道を何度も往復してその勇壮さを披露するもので、祭りの盛り上がりは最高潮に達するという。

今日は「太鼓台宮入」までを見て帰ろうと思う。

本殿では10:00から 秋郷祭が行われている。

12:30からの 神幸祭までしばらくお休み、その間に昼食にする。

神社の上の梅林で弁当をいただきます。

風景100選に選ばれるような梅林でしたが、2016年、ウメ輪紋ウイルスに感染した梅の木が多数確認されたことから、2016年中にすべての梅の木が伐採さた。

かおり風景100選 枚岡梅林
枚岡梅林はかおり風景100選の一つとされるが、ウメ輪紋ウイルスに感染した梅の木が … 続きを読む →


ここで弁当をいただきます、見晴らしは抜群、正面にアベノハルカスが見えています。

貞明皇后(ていめいこうごう〉がご覧になったという碑が建っています。
貞明皇后は第123代天皇・大正天皇の皇后は。

神幸行列神輿渡御の始まりです。

現在、神社で行われているお祭りには、大きく分けて次の2種類があります。
① 神社自体が行う祭
② 氏子の依頼に基づき行われる祭り
毎年10月14日、15日に行われる秋郷祭は、氏子が行うお祭りにあたります。

行列の先頭。総指揮者の氏子総代を先頭に額田地区の御迎え提灯が続きます。

枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3年前と伝えられています。

神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめのたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀とされています。

枚岡神社は、永く神津嶽にお祀りされましたが、孝徳天皇の白雉元年(はくちがんねん)(650年)9月16日に、平岡連らにより山麓の現地へ奉遷されたと伝えられています。

神護景雲(じんごけいうん)2年(768年)に、天児屋根命・比売御神の二神が春日山本宮の峰に影向せられ、春日神社に祀られました。

このことから当社が「元春日(もとかすが)」とよばれる由縁です。

神輿のご帰還です。

枚岡神社は坂の途中にあり、休みながらとはいえ相当きついはずです。

最後の階段を上る前の最終の休憩です、担ぎ手の皆さんに疲労の色が見えます。

最後の階段を一気に登ります。


無事本殿に納まりました。

これから還幸祭が行われます。




いよいよ、太鼓台の宮入です。

枚岡神社の一の鳥居は二の鳥居から800mほど下った鳥居町にある。

建立されたのは220年前の1802年。

14日午後2時「出雲井・鳥居」の太鼓台がその鳥居を潜って参道を進み始めた。

秋郷祭の宮入はこの太鼓台がいつも一番乗りを務める。

神社の鎮座地が出雲井町で、宮元に当たるためだ。

二の鳥居に至る参道は長い上りの坂道が続く。

途中小休止を挟んで午後3時すぎ「がんばれー」の声援に励まされて太鼓台が上ってきた。



枚岡神社の秋郷祭は壮観です。

9団体の大・中・小あわせて23基の太鼓台が境内に宮入します。

見せ場の一つは、サーセーのかけ声で太鼓台を高く持ち上げるところ。

一糸乱れぬ息の合った美しさです。

境内では胴上げが始まっています。

青年団の団長が胴上げされているようです。

次の太鼓台が上がってきました。

「チョーサジャ、チョーサジャ」というかけ声に合わせて、府内最大級とされる布団太鼓台23台が勇ましい姿で次々と宮入りしてきます。。

もう4時前です、そろそろ帰ろうと思っています、9時に到着したので7時間余り頑張ったことになります。

しかし、下から次々と布団太鼓台が上がってくるため中々帰れません。

こういう狭い坂道は布団太鼓台が通り過ぎるのを待たないと帰れません。

やっと駅にたどり着きました。

踏切の向こうにはまだまだ沢山の布団太鼓台が控えています。

日が落ちる頃にはすべての太鼓台が宮入りを完了し、午後7時ごろから「中がき」がスタート。

「中がき」は、改めて各太鼓台が参道を何度も往復してその勇壮さを披露するもので、祭りの盛り上がりは最高潮に達します。

来年はぜひ最後まで見よう。

交通アクセス 近鉄奈良線「枚岡駅」すぐ

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後のひな祭り 湯浅


平安時代末期から南北朝時代にかけては、湯浅荘を根拠地とする湯浅宗重ら湯浅党が、紀伊国(和歌山県)全体に渡って活躍した。

また、湯浅は古来より熊野街道の宿駅として栄えており、紀州藩の有田代官所や明治・大正期の有田郡役所が置かれてからは有田地方の中心地のひとつとしても賑わいを見せるようになった。

青春18切符第4弾は湯浅醤油の地湯浅。

古い町並みも残っており楽しみな散策になりそうです。

翌日から「後のひな祭りで」行く先々で飾りつけに追われる姿が見られた。

「重陽(ちょうよう)の節句」にともなう「後の雛(のちのひな)」という風習をご存知ですか?

後の雛は江戸時代に親しまれた風習ですが、今また “大人の雛祭り”と称され、注目されています。

もっと素敵に秋を彩るために、重陽の節句・後の雛を活かしてみては。

重陽の節句とは、9月9日に行われていた年中行事。

菊を用いて不老長寿を願うことから別名「菊の節句」といいます。

五節句のひとつで、昔は五節句の中で最も盛んに行われていたといわれています。

重陽の節句は時代とともに衰退してしまいましたが、ここ数年、町ぐるみで行事をしたり、メディアなどでとり上げられるようになってきため、名前ぐらいは聞いたことがある方も多いと思います。

今、重陽の節句が復活の兆しをみせているのは、行事の心や風情に魅力があるためでしょう。

重陽の節句とともに注目されているのが「後の雛(のちのひな)」という風習です。

後の雛とは、桃の節句(雛祭り)で飾った雛人形を、半年後の重陽の節句で虫干しを兼ねて再び飾り、健康、長寿、厄除けなどを願う風習で、江戸時代に庶民の間に広がったといわれています。

後の雛は、重陽の日付(最大の陽数9が重なる日)を尊重して9月9日、昔の季節感を活かして旧暦の9月9日(新暦では10月の中ごろにあたります)、月遅れの10月9日などに楽しむことができます。

過去のひな祭りの記事は春のものがほとんどです。

高取土佐町並み「町家の雛めぐり」
2007年から、始まった「町家の雛めぐり」は、今回で11回目。 町あげてのイベン … 続きを読む →

富田林 じないまち 雛めぐり
富田林市には江戸時代のお寺と商家の町並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定 … 続きを読む →


琵琶湖の自然の美しさを表現する創作ひな人形「清湖雛(せいこびな)」を五個荘近江商 … 続きを読む →

淡嶋神社
淡嶋神社は、人形供養で有名な神社。 全国に1000社もある「淡嶋系統」の総本社と … 続きを読む →

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時折り時雨が混じる中、上賀茂神社で桃の節句・雛祭りのこの日、上賀茂神社で桃花祭・ … 続きを読む →

今回も失敗と新しい発見と盛りだくさんの内容でした。
歩行数も24000歩、最後はカフェに転がり込んでしばらく動けませんでした。

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踏歌神事 住吉大社


やっと巣ごもりからの脱出です。

例年は三が日に200万人以上が訪れる大阪市住吉区の住吉大社、今年は1日の参拝客数は約33万人で、約150万人だった前年の2割程度だったという。

例年12月31日~1月5日に200店以上が並ぶ露店を全て取りやめ、立春前の2月2日までの分散参拝を呼びかけている。

例年、太鼓橋は入場制限をするほどの込み具合だか、ことしは楽々参拝。

皆さんも規則正しく左側通行。


天気も穏やかな晴れです。

例年人の波の第一本宮も楽々参拝。

踏歌神事とは古くは朝廷で行なわれていた新年の行事で、住吉大社に伝わる特殊神事の一つ。

土地の精霊を鎮め、厄を祓うために春の初めに大地を踏み、福を招く神に祈る行事です。

昔はアラレバシリと呼ばれていました。

言吹(ごんすい)と袋持(ふくろもち)が声を掛け合い歩み寄り、神前に福の餅を捧げます。

その後、神楽女による白拍子舞(しらびょうしまい)と熊野舞(くまのまい)が奉納されます。最後に福の餅撒きが行われ、福の餅を授かると幸運が得られるといわれています。

平安時代、宮中で行われていた踏歌節会の男踏歌が、今日でも住吉大社、熱田神宮で継承されています。

踏歌は、萬歳や漫才の起源です。

大阪の話芸「しゃべくり漫才」を始めたエンタツ・アチャコの横山エンタツは住吉大社の近所に住んでいました。

梅の若枝を持った蛭子(ひるこ)さんが「ふくろもち」と呼びかけ、小餅を袋に入れた大黒さんが「おおともよ」と応え、互いに歩み寄ります。

その後大黒さんは神前にて「ひ、ふ、み、よごと」と小餅を献じ、最後に「万歳楽」を三声することで納められます。

次いで神楽女によって白拍子・熊野舞が舞われ、神事後には餅撒き行事が行われますが今年は餅撒き行事はなしとのこと。

白拍子は神楽舞の1つであり、風雅な手振りをよく伝える貴重な舞。

元来の白拍子とは、平安後期から鎌倉期に流行した「今様」といわれる歌舞、あるいはそれを舞う女性のことを言いました。

白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い者が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など、貴紳に愛された白拍子も多い。

また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い。

「熊野舞」は、四人舞の形態をとります。

こちらに以前収録した動画「住吉大社踏歌神事熊野舞」があります。

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大阪護国神社 護摩供養


大阪護國神社は大阪府出身ならびに縁故の殉国の英霊10万5000余柱を祀り、拝殿の神鏡は戦前の研磨技術では最大のものという、由緒ある神社。

今日は阿含宗による護摩供養が行われる。

毎年2月の節分に「炎の祭典・阿含の星まつり」を山岳密教、修験道の大柴燈護摩供の伝統的な様式に則り、金胎両部、それも「神仏両界の秘法」によって京都にある本山修法地にて開催することで有名である。

神殿内部では法要当日午前10時30分、山伏一行は拝殿内で大阪護國神社宮司による御神事を賜った後、結界へと入壇。

結界へ向かう一行。

次いで阿含宗彌榮神授雅楽部による御神楽「浦安の舞」の奉納、山伏問答ののち、護國ノ御英霊への献花・献水が祭壇に捧げられ、続いて斧・法弓・宝剣と各作法が営まれた。

ほどなくして『山伏問答』が始まりました。

修験者としての知識をテストするような問答が繰り広げられ、どこの流派の修験者か見極めるために行われたようです。

山伏問答とは、修験者として知るべき知識を聞くもので、山伏の真疑を確認し、答えられたものが護摩道場への入場を許されるというものです。

全員許されて護摩道場への入場を許されたようです。

続いて斧・法弓・宝剣と各作法が営まれる。

破魔矢が東西南北と護摩壇、鬼門の方角へと放たれます。

放たれた破魔矢はいただくと福が来るそうです。

護摩壇に火が放たれ護摩がくべられます。

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2019御結鎮神事 住吉大社

御結鎮神事は御弓始めともいわれ神功皇后の故事(新羅遠征)にちなみ、邪気退散、天下泰平を祈願して行う奉射の神事で、一切の不浄を祓い、福を招くといわれている。
 
年の初めにあたり、農事に禍(わざわい)をもたらす悪霊を退散させることを目的として行われてきた。
奉射は大阪府弓道連盟有志により、執り行われる。

御結鎮神事の行われる神館。

普段は厳しく閉門され、けっして開放されることのない神館は、大正天皇の御即位大礼を記念して建立された玉座を有する歴史的建造物です。

中世貴族が愛した御殿造りと呼ばれる木造建築で、回廊からの石庭の眺めや樹齢一千年以上の大楠の風情など、ゲストを最上のおもてなしで迎えます。

今日は回廊からの撮影です。

江戸時代の<住吉名勝図絵>を紹介します。

石舞台を挟んで、池越えに 東に向かって射た様子が描かれています。

神事を終えた奉仕者の方々が入場。

奉行   幣   日記  

背景に巡らされている幕に御注意下さい。

この幕は鯨幕と呼ばれるもので黒白の斑(まだら)幕です。(ご葬儀で使われる物とは形式が異なります、裾の部分が違います、葬儀で使われるようになったのは昭和に入ってからだそうです。)

この鯨幕は各式の高い神社で最も重要な行事を行う時に用いられます。

御皇室では慶事の時に用いられるそうです。    

いよいよ始まりです。
奉行が「はじめそうらえ」射手が「かしこまってそうろう」とあいさつ。

審判をする人たち、的に当たると白い幣がサッと上がる。

射手は10名で男性は直垂(ひたたれ)、女性は狩衣(かりぎぬ)を来て、頭には立烏帽子、足は浅沓(あさぐつ)をはいて古式ゆかしい装束を身にまとい、古式の所作にもとづいて矢を射る。 

たとえば、弓を射るときにはめる革製の手袋(ゆがけ)は、生涯、ひとつだけで、替わりがないこと。

それが「かけがえのない」という言葉の由来となった。

そのまま弓を引くと袖に引っ掛かりますので「肌脱ぎ」といって左肩を服から出します。
女性の場合は袖をたすきでまとめます。

この弓矢神事の奉射は、的当てを競うものではありません。
    的を射た矢は 「天の邪気を祓い」、
    はずれた矢は 「地の邪気を祓う」と。。。
云われているそうです。

鳥の羽は反りの向きで表裏があり、これを半分に割いて使用し、一本の矢に使う羽は裏表を同じに揃えられるため、矢には二種類できる。

矢が前進したときに時計回りに回転するのが甲矢(はや、早矢・兄矢とも書く)であり、逆が乙矢(おとや、弟矢とも書く)である。
甲矢と乙矢あわせて一対で「一手(ひとて)」といい、射るときは甲矢から射る。

女性の場合は「肌脱ぎ」でなく袖をたすきでまとめます。

射たれた矢のスピードが200~250km/hとのことで飛んでいる時は殆ど見ることが出来ず、的を射て後ろの畳みに突き刺さった音で飛んできたことが分かるといった具合。

一の組が一巡すると、射た矢が回収され、持ち主に返されます。

競技が終わるとまず最初にゆがけを外します。

弓十番ということで、全部で十回されるのでしょうか。
昔は夜通し行い、馬などが景品として与えられたそうですが。

前回の神事の記事、動画もあり、わかりやすくなっています。
邪悪退散・天下泰平を祈願 住吉大社 御結鎮神事
「お弓神事」とも呼ばれている同大社の伝統行事。 弓のつるや、矢の風きりの音などで … 続きを読む →

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2019住吉大社 湯立神事

湯立神事は釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称である。別名を「湯神楽(ゆかぐら)」とも言う。

儀式の1時間以上前からお湯の用意が始まる、用意された窯は四つ。

神主のお祓いからスタート。


まず塩をまく、神社によっては釜の中に入れるところもある。

続いて米を入れる。

最後に酒を注ぐ。

巫女は打掛を脱ぎ、神前への献湯のため木桶に汲み入れる。

いよいよ湯立神事の乱舞の始まり。

巫女が熱湯を撒きあげる度に、熱湯が冷気に晒され湯煙に変わり辺りが厳かな雰囲気になります。

ここでの神事は激しく湯を跳ね上げる。

いずれも撒かれた湯(その飛沫)を浴びると無病息災になるとされる。

また、神社によっては釜湯を飲むと無病息災になるとされているところもあり、ビンなどにつめて持ち帰ることのできるところもある(長野県天龍村池大神社など)。

乱舞が終わると神職が先ほど脱いだ白い打掛を持って現れ巫女にそっと掛ける。

今度は白い小袖(白衣)に緋袴を履いた通常の巫女装束で再びあらわれ、岩戸舞を奉納する。

胸をそらし激しくふる仕草はなにか古事記、日本書紀の記載をほうふつとさせる踊りた゛。
気のせいか乳首が見えているようにも感じる。

『古事記』では次のように記述されている。

「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」

つまり、 アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。

笹の束での乱舞が終わった後は、神楽女が参拝者の頭の上で鈴を鳴らし、湯立神事は終了。

各地の神社の湯立神事。
それぞれ特徴があって面白い。

住吉大社 若宮八幡宮例祭 湯立神事
1月12日、住吉大社で若宮八幡宮例祭 湯立神事が行われた。 穀物の豊穣を祈るため … 続きを読む →

豪快!! 石清水八幡宮で湯立て神事
京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として鬼門(北東)の延暦寺とともに重要 … 続きを読む →

巫女・ソネッタンの御湯立による清め祓いの神事
この記事は誤って消去した記事の再掲です。 春日若宮おん祭御湯立神事(みゆたてしん … 続きを読む →

城南宮で湯立神楽
京都の城南宮で1月20日湯立神楽が行わ … 続きを読む →

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長浜曳山博物館

今から400年あまり前の戦国下克上の時代、当時の長浜城主、豊臣秀吉公に男の子が生まれたと伝わっています。
 
そのことに喜んだ秀吉公からお祝いの砂金を贈られた町民は、山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回しました。
 
これが長浜曳山まつりの始まりです。

滋賀県長浜市で毎年4月に開催される祭で、京都の祇園祭、高山市の高山祭と並んで日本三大山車祭の一つに数えられる。

長浜曳山祭の曳山行事という名称で1979年(昭和54年)2月3日に重要無形民俗文化財に指定された。2
016年11月30日、ユネスコ無形文化遺産に指定された山・鉾・屋台行事の一つ。

祭は4月9日の線香番に始まり、12日までの4日間は若衆による裸参り、13日未明に起し太鼓が町内を囃し廻ると、早朝から長刀山と他の12基の曳山が御幣迎えに社参し、神輿がお旅所へ渡り、午後に若衆が出番山の順番を決める籤取式に臨む。

13日夕方曳山の上で初めて子ども歌舞伎が演ぜられ、一番山は三番叟を舞う。

宵宮14日の登り山は出番山を神社へ曳行した後、子ども歌舞伎の役者が神社から町内へ練り渡る夕渡りがあり、15日朝には神社へ向かう朝渡り、長刀山による太刀渡りがある。

15日の夕方から、出番山が順にお旅所で子ども歌舞伎を奉納する。

曳山博物館では、曳山を持っている「山組」から曳山を預かり公開展示しています。

曳山は4基収蔵し、2基ずつを3ヶ月交替で公開。

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月見のおわら

2014年以来の月見のおわらです。

クラブツーリズム主催の月見のおわら、全国からバス119台、電車での参加4組と盛大に開催。

本来、「おわら風の盆」は胡弓をはじめとする楽器の音色や独特な唄、情緒的な踊りを静かに楽しむ祭りです。

しかし、知名度が上がるにつれて観光客が急増し、大変混雑するようになりました。

そこで旅行会社のクラブツーリズムは、平成10(1998)年に越中八尾町と協力し、観光客の分散化を目的に「月見のおわら」というイベントを企画。

毎年9月1〜3日に行われる「おわら風の盆」を9月下旬の2日間に再現することになりました。

「おわら風の盆」では、11ある町の踊りはそれぞれの町に足を運ばないと見ることはできませんが、「月見のおわら」では土蔵造りや格子戸など昔ながらの町並みが残る諏訪町と上新町ですべての町の踊りをゆっくり鑑賞することができます。

7つのゾーンに区切られた町内をタイムテーブル通りに練り歩くので、観光客はそれぞれの町の踊りを見ることができるのです。

旅行会社が町を貸し切ってこのようなイベントを開くことは珍しく、町の産業に貢献するだけでなく、文化の継承にも寄与しています。

禅寺橋は以前は「甚九郎橋」といわれていました。
橋が無かった江戸から明治のころ、甚九郎という人が渡しをしていたことに由来します。

この橋から望む町並みは、石垣の上に家々が押し合うように軒を連ね、坂の町八尾の特徴的な景観を呈しています。

城壁というか要塞のように聳える八尾の石垣の規模は、威容ともいえるほどに大きく、また積み上げられた玉石の連続模様というか繰り返し模様と坂道とが相まって、美しい町並みを創り上げています。

禅寺橋の欄干には踊り姿のレリーフ。

灯りは編み笠。

夜のおわら踊りは幽玄の世界。

日本の道百選です。

石畳舗装や無電柱化された越中八尾の中心部は、明治時代以降の鉄道や陸上交通の変化に見放されたことも幸いして、おわら風の盆、曳山祭、八尾和紙など、先人の築いた文化を営々と受け継いできた伝統が今も息づき、切妻屋根の出桁造りに千本格子をしつらえた町家と石畳が絶妙な風情を織り成す町並みは、おわら風の盆や曳山祭が映える歴史の香り高い町として輝きを放っています。

おわらに欠かせない役割を担っているのが唄と楽器で奏でる「地方」。

地方は「唄い手」「囃子」「三味線」「太鼓」「胡弓」をいいます。

三味線が出を弾き、胡弓が追います。
太鼓が軽く叩かれ調子を上げると囃子が唄を誘います。

唄は甲高い声で唄い出し息継ぎなしに詞の小節をうねらせ、唄は楽器に応え、楽器は唄に応えます。

女踊りは女性の舞台用として振り付けられた踊りです。


「四季踊り」ともいわれ、画家であり俳人でもあった小杉放庵が八尾の春夏秋冬を詠った「八尾四季」のために振り付けられたのが最初。

その後夏の河原で女性が蛍取りに興じる姿を表した一連の女踊りが完成しました。男踊りと同じく若柳吉三郎の振り付けだけに日舞の艶めきがあります。

「おわら」とは

一説では、江戸時代文化年間頃、芸達者な人々は、七五調の唄を新作し、唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練り廻ったのがいつしか「おわら」と唄うようになったというものや、豊年万作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が唄い始めたからと言う「小原村説」などがあります。

男踊りは、男性の舞台用として振り付けられた踊り。

日本舞踊の若柳吉三郎によって振り付けられ、素直で素朴な直線的力強さの中にしなやかさを持つ魅力的な踊りで農作業の所作を表した踊りです。

二百十日の初秋の風が吹くころ、おわら風の盆の幕開けを迎えます。
毎年9月1日から3日にかけて行われるこのおわら風の盆は、今も昔も多くの人々を魅了します。

涼しげな揃いの浴衣に、編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、実に幻想的であり優美で、山々が赤くもえる夕暮れを過ぎると、家並みに沿って並ぶぼんぼりに淡い灯がともります。

風の盆の由来

二百十日の前後は、台風到来の時節。昔から収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願が行われてきました。

その祭りを「風の盆」というようです。
また、富山の地元では休みのことを「ボン(盆日)」という習わしがあったと言われます。

種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その「盆」に名前の由来があるのではないかとも言われています。

男性の踊り手が着て踊る半天(法被)は農作業着を模している。
これは木綿ではなく絹の羽二重で作られており、各町それぞれ意匠を凝らした模様と背中には各町の紋章が入っている。

前回の訪問記

優雅に月見のおわら
富山にある八尾(やつお)という人口2万人の小さな町で、毎年9月1日~3日の3日間 … 続きを読む →

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日本の祭り

「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すもの。

日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶ。

また、祭祀の際には、神霊に対して供物や行為等、様々なものが奉げられ、儀式が行われる。

ねぷたは、東日本各地、とりわけ青森県内の各地で行われる夏祭りの一種。佞武多とも書く。

全国的に有名なのは、青森ねぶたと弘前ねぷた。

弥五郎どん祭りは、おはら祭り(鹿児島市)、お釈迦まつり(志布志市志布志町)と並び県下三大祭りであり、約900年の伝統がある。

始まりは、 飛鳥時代に隼人族と朝廷軍の戦いにより、隼人族の戦死者が多く慰霊のため放生会だったとされています。

「弥五郎どん」は、調停に抵抗した隼人族の首領、6 代朝廷側の武内宿禰など様々な説があり、未だはっきりしていないようです。

弥五郎どんは三兄弟で、岩川八幡神社の弥五郎どんは次男。長男は都城市山之口町にある的野神社の弥五郎どん、三男は日南市飫肥にある田ノ上八幡神社の弥五郎どんと言われています。

鷺舞の源流は八坂神社の祇園祭にて奉納されたもので、中国の七夕伝説を端緒にするものとされる。

津和野の鷺舞は山口祇園会を経て伝習されたもので、1542年(天文11年)、時の城主、吉見大蔵正頼が大内義興の息女を迎え入れたことで、彼女の疫病除けを祈念して始められた。

その後、戦乱の世に伴って一旦廃絶するものの、1645年(正保元年)に亀井茲政が坂田屋兵左衛門ならびに野村仁左衛門の二人を京都に派遣、鷺舞を直接習得させたことで、津和野では以後四百年に亘る年月の間、一度も廃絶することなく連綿と奉納され続けることになった。

一方の本家、八坂神社では江戸時代中期に絢爛豪華な山鉾や傘鉾巡行に圧されるような形で存在感が薄くなっていき、いつしか廃絶の憂き目にあった。
その後は、戦後になるまで奉納はされなくなっていたが、1956年(昭和31年)、祇園会保存会の一員でもあり、狂言師でもある木村正雄が逆に津和野の鷺舞を習得したことで復活、再び奉納されるようになった。

さねもりおくり【実盛送り】

虫送りの行事。
非業の死を遂げた斎藤実盛が稲の害虫に化したという伝説に基づく。

わらで人形を作り、鉦かね・太鼓をたたき、囃子詞はやしことばを唱えつつ村境や川まで送り捨てる。実盛祭り。

宇和島地方の牛鬼伝説は、牛鬼の伝承の中でも特に知られている。

かつて牛鬼が人や家畜を襲っており、喜多郡河辺村(現・大洲市)の山伏が退治を依頼された。
村で牛鬼と対決した山伏は、ホラガイを吹いて真言を唱えたところ、牛鬼がひるんだので、山伏が眉間を剣で貫き、体をバラバラに斬り裂いた。

牛鬼の血は7日7晩流れ続け、淵となった。これは高知県土佐山、徳島県白木山、香川県根来寺にそれぞれ牛鬼淵の名で、後に伝えられている。

天津司舞(てんづしまい)、または天津司の舞(てんづしのまい)は、山梨県甲府市小瀬町の天津司神社に伝わる、等身大でできた9体の木造人形を用いて田楽舞を演じる、神事芸能、伝統芸能。

中世に起源を持つ傀儡田楽(くぐつでんがく)の一種であると考えられており、地元ではオテヅシさん、デッツクさんと呼ばれる。

田楽舞は日本各地の民俗芸能として一般的であるが、人形で演じる民俗は珍しく、1960年(昭和35年)11月7日、山梨県指定無形文化財に指定され、国により1970年(昭和45年)6月8日に記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択された。

新居浜太鼓祭り(にいはまたいこまつり)は、愛媛県新居浜市を代表する秋祭りであり、徳島の阿波踊り・高知のよさこい祭りと並ぶ四国三大祭りとしても知られている。

また日本三大喧嘩祭りとしても有名。

毎年10月16日から18日(一部地域10月15日から開催)までの3日間、金糸銀糸に彩られた50台以上の絢爛豪華な太鼓台(たいこだい)と呼ばれる山車が練り歩く。

熊本県上益城郡山都町の浜町では、野山の自然素材を豊富に使った巨大な「造り物」が名物の「八朔祭(はっさくまつり)」が、毎年、旧暦8月1日の平均に近い、9月第1土曜日日曜日の2日間にわたって開催されている。

この祭りは江戸時代中期から始まったとされ、田の神に感謝し収穫の目安を立てる日とされ、NHKなど全国ニュースにも毎年取り上げられているほど有名な祭りである。

町の中心街を高さ3〜4m、長さ7〜8mにもおよぶ大造り物(山車 他にお囃子隊が同行)が数十基、引き廻される光景は実に壮観で、内外より多くの観光客や写真家を呼び込んでいる。

祭りに合わせて放水する国の重要文化財、通潤橋(つうじゅんきょう)の姿は見事で、夜には通潤橋の近くで花火も打ち上げられ、日頃は閑散とした山の町が遅くまで大勢の観光客で賑わう。

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静かに夏に別れを告げる嵯峨の送り火・宵弘法 | 大覚寺

毎年8月20日の夜には、大沢の池に数多くの灯籠が浮かび、池にせり出すように作られた祭壇で読経が行われて、池の中央に組み上げられた祭壇に火が灯されます。

早めに大覚寺に到着、準備の様子や大沢池周辺を見て回る。

大覚寺は、弘法大師空海を宗祖とする真言宗大覚寺派の本山。
京都嵯峨野の北端に位置する、広大な敷地を持つお寺。

平家物語に登場する祇王寺は大覚寺の塔頭です。

大沢池から望む五大堂。

参道には早くから火が入り参拝者を待つ。

「宵弘法」が行われるこの日、日が暮れる前に大沢の池にせり出すように作られた祭壇の飾り付けが始まり、灯篭の準備も池に漕ぎ出した船から行われる。

池にはハスの花もまだ咲いている時期です。

舟が静かに漕ぎ出し、沖の祭壇に何か運んでいます。

ただいま5時30分、法要は19時からだが早くも五大堂には人が座っています。

空を赤く染めて陽が沈む。

徐々にせまる日暮れとともに池の中の灯篭の火が輝き始めます。
運が良いと(晴天だと)夕焼けが池面に反射して、色とりどりの灯篭を輝かせます。

祭壇ではローソクに火がともされ、準備は着々と進む。

18時頃から、五社明神の前で護摩焚きも行われています。

お寺の中にある鎮守社は神仏習合時代の名残です。

大覚寺では8月16日の五山の送り火が終わってから、8月20日に法要(宵弘法)が行われます。

灯篭が池に浮かべられ、かがり火がたかれて、16日に帰れなかったおしょらいさんを冥界へ送り届けます。
「嵯峨の送り火」と呼ばれます。

すっかり準備の整った祭壇。

19:00過ぎに僧侶が祭壇に登壇し、般若心境の詠唱が始まります。

全員がおのおの札を取っては 「○○家先祖代々後代~」 と、猛烈な速さで消化していきます。

池の周囲からも見学者がお経を唱和する声が聞こえてきます。厳かな雰囲気に包まれる瞬間です。

法要読経の最中に護摩符を積んだ舟が大沢の池に漕ぎ出して、池の中に組み上げられた祭壇の大きな松明への点火が始まります。
炎はあっという間に燃え盛ります。

燃え上がる炎が、夏の終わりを告げるように池の周りを明るく照らし出します。

パチパチと組み上げられた松明の燃える音も聞こえるほど、近くで見ることができます。

読経の祭壇と燃え盛る松明。

今年の夏もそろそろ終わります。

静かに夏にお別れしました。

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