河内国一之宮 枚岡神社


枚岡神社の創始は皇紀前3年(紀元前657年)、つまり初代神武天皇が天皇に即位される3年前にできた神社。

国土統一を目指し九州日向国から東征してきた神武天皇は、ちょうど現在の枚岡神社の背後にある生駒山を越えて大和国に入ろうと試みた。

しかし長髄彦という豪族に阻まれ戦争が起きてしまう。

ナガスネヒコは、ニニギノミコトよりも早く天孫降臨したと伝わるニギハヤヒノミコトの親戚。

ニギハヤヒノミコトは枚岡神社のすぐ近くに鎮座する石切劔箭神社の御祭神だ。

社伝(『元要記』等)では、神武天皇即位前3年、神武東征に際して天種子命が勅命によって天児屋根命・比売神の2神を東方山上の神津嶽(かみつだけ)に奉斎したことに始まるとする。

その後、白雉元年(650年)に平岡連(平岡氏)らが神津嶽から現在地に奉遷したという。

上記伝承に見える天種子命は、『日本書紀』神武天皇即位前紀において筑紫の菟狭国造の祖の菟狭津媛と結婚したと見える人物で、神武天皇の侍臣であり中臣氏の遠祖とされる。

創建伝承の史実性は詳らかでないが、歴史考証上でも神津嶽における山岳信仰が創祀とされる。

そしてその祭祀には当地の古代氏族である平岡氏があたったが、平岡氏と中臣氏が同族関係を結んだことで、祭神が中臣氏祖の天児屋根命になったとする説がある。

なお、『和名抄』に見える地名のうちでは当地は河内国河内郡の豊浦郷に比定されるが、隣郡の河内国讃良郡には枚岡郷(異本は牧岡郷)があり、同地を枚岡神社の始源地とする説がある。

平安時代末期からは河内国の一宮として崇敬を受けたとされる。

ただし、一宮格を示す史料としては永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」に当社・恩智社・弓削社(弓削神社)を列記することが挙げられるが、一宮と明記する枚岡神社関係文書は中世期には無く、『大日本国一宮記』・『類聚既験抄』に記載が見えるのみになる。

天正7年(1579年)には織田信長の兵火で本殿や摂・末社17社を焼失[6][7]。

その後、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって再建された。

明暦2年(1656年)の絵図には秀頼の再建当時という境内・堂塔の様子が描かれている。

それから下り、江戸時代の文政9年(1826年)に現本殿が造営されている。

また、神宮寺としては神護寺・元古庵・平岡寺・法蓮庵・来迎寺・真堂寺の6寺があった。

神護寺と平岡寺は創建が中世まで遡るとされる。
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