嵐山花灯路は今年で終わりというが・・・


浄住寺から嵐山へ帰ってきましたが、打って変わってこちらはモノクロの世界。

この画像を撮ったのは12月14日、花灯路が19日で終わりますが、人出はほとんどありません。


完全にモノクロの世界なので、当然と言えば当然ですが・・・・


法輪寺境内には当然と言えば当然ですが誰もいません。

渡月橋を見渡していますがモノクロの世界が広がるのみ。

花灯路も今年で終わりだという、京都市の財政難や新型コロナウイルス禍による企業協賛金の減少のため、17回目の今季での終了を決めた。

要するに人出はあるが、行事としては黒字にならないということだろう。

最終日に行こうかどうか迷ったが結局行かず。

人気の行事だったが事業として成り立たなければ仕方がない。

何度か出かけたが・・・

嵐山花灯路2016
「長神の杜」として、憩いの公園になっている。 「長神」(ちょうじん)は、このあた … 続きを読む →

来年度以降、嵐矢がどう盛り返すか楽しみにしたい。

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紅葉の穴場 浄住寺


近年まで完全非公開だったが、2015年4月25日、精浄文化研究部主催の企画以来、公開される機会が増加した。

~洛西の黄檗建築と紅葉の参道~

苔寺や鈴虫寺、地蔵院「竹の寺」に程近く、参道石段の紅葉が美しい葉室山浄住寺は、弘仁元年(810)、嵯峨天皇の勅願寺として開創され、公家の葉室家の菩提寺として栄えた古刹。

近年は秋の紅葉シーズン(11月~12月)の一部期間を有料の特別拝観期間とされており、本堂や方丈の内部が解放されます。

上記以外の期間は、山門が開いていれば境内を無料で自由に拝観できます。

長い参道を落ち葉を踏みしめながら進みます、前方にわずかに見えているのが本堂です。

流石に見頃は過ぎていますが参道の散りモミジはきれいです。

このように日光が遮られている分、紅葉は遅れます。

それでもあちこちまだまだ紅葉が見れます。

四方竹は中国が原産とされる竹の一種で、茎の断面が丸みを帯びた四角になる事からその名が付けられたと思われます。

このたけのこは秋から冬にかけて生えてくる季節外れのタケノコで、冬の間は葉を広げず春になって気温が上がると枝を伸ばし葉を茂らせます。

紅い紅葉が目立っています。

地べたに座り込んで作業されています、手元を見ると非常に細かな作業をされていました、思わず大変な作業ですねと声をかけてしまいました。

後ろを振り返ると歩んできた参道、まだ観光客の姿は見えません。

きれいな散りモミジに視線が向いてしまいます。

寺伝によれば、810年(大同5年、弘仁元年)に嵯峨天皇の勅願寺として創建されたといい、円仁(慈覚大師)を開山とする。

当時は常住寺と号した。

1261年(弘長元年)公卿葉室定嗣が中興し、浄住寺と改められた。

中興開山は奈良西大寺の叡尊。葉室家の菩提寺として栄えた。

1333年(正慶2年)4月の六波羅探題軍と千種忠顕率いる後醍醐天皇軍の戦乱により全焼した。

1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)の応仁の乱の兵火で荒廃し、1567年(永禄10年)にも全焼した。

1687年(貞享4年)葉室頼孝の開基、黄檗宗の僧鉄牛道機を中興開山として再興され、黄檗宗の寺院となった。

1689年(元禄2年)葉室孝重による再興という説もある。

1697年(元禄10年)に現在の本堂や寿塔が再建された。

方丈は伊達綱村による寄進で、幼少時の遺館。 明治時代には一時無住となり衰微したが復興された。

2006年(平成18年)に1333年(正慶2年)2月作成の浄住寺境内絵図が、 2007年(平成19年)には1591年(天正19年)8月2日付豊臣秀吉寺領安堵状ほか4点の中世文書が発見された。

2010年(平成22年)開山鉄牛道機遺掲の石碑が境内に建立された。

中世、栂尾等に並び、葉室の茶は評価が高かった。

[2]宇治橋修繕と十三重石塔建立に伴う、宇治茶の振興をすすめた叡尊の影響による。

境内には今でも数多くの茶ノ木が生育している。浄住寺の檀那である葉室家主導のもと、寺院関係者による茶摘みが毎年5月上旬に行われ、瑞芳菴流煎茶道関係者によって度々振る舞われている。

方丈襖絵には八田虎州筆『琴棋書画図』が飾られているが、その中には煎茶を喫する様子も描かれている。

また、方丈を寄進した仙台藩主伊達綱村は、交友関係から煎茶を嗜んでいた[5]。

そもそも、日本に煎茶の文化を持ち込んだのは黄檗禅であり、浄住寺と茶は深い関係にある。

瑞芳菴流煎茶道の第三世・大田和博仙家元は、この浄住寺で修行していたこともあり、そのため毎月瑞芳菴流煎茶道の教室が開かれたり、呈茶を担ったりしている。

参道の脇道には、亀甲竹(きっこうちく)と呼ばれる竹が自生していました。

その名の通り節の模様が亀の甲羅のような形をしている面白い竹で、日本で良く見られる孟宗竹(もうそうちく)の突然変異種なんだそうです。

京都では京銘竹(きょうめいちく)と言う伝統工芸品があり、この亀甲竹を火であぶって磨いたものは特に高級な竹材として珍重されているんだとか。

浄住寺のある洛西は竹の産地です。

時代劇水戸黄門の杖にも使われた亀甲竹、四角い形の四方竹が見られます。

どこか人の顔に似てませんか。

参道の突き当りにある建物が、本堂(ほんどう)です。

江戸時代の1697年の再建で、京都市指定・登録文化財です。

本堂の扁額には大きな「祝國」の文字が見て取れました。

このお寺の黄檗宗としての中興の祖である鉄牛道機(てつぎゅうどうき)の筆なんだとか。

中国ゆかりの禅の教えである黄檗宗らしく、本堂の外観はどことなく中国風の雰囲気を醸し出していました。

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知る人ぞ知る紅葉の穴場 竹の寺 地蔵院


松尾寺から歩いたが西芳寺川を渡るあたりの紅葉はきれいだ、(今回は時期を逸したが)、松尾寺から約17分、松尾山に沿って歩けばいい。

途中で会った猫、メンチ切っているように見えるが。

現地到着と同時にサルの大群の出迎えを受ける。

見上げると沢山のサル、うるさいくらい飛び回っている。

バス停横の日の射す坂道を上がって、しばらくで地蔵院着。

地蔵院は、臨済宗系の単立寺院。

山号は衣笠(藤原)家良に由来する衣笠山。

本尊は地蔵菩薩。周囲を竹林で囲まれていることから竹の寺の通称で知られる。

境内に踏み込むと竹林のきれいさに驚く。

嵐山の竹林とはまた一味違う美しさ。

ちなみにモミジが赤く色づくためには、日の光が不可欠なのですが、こちらのお寺は、あまりの木々の多さにモミジにあまり日光が当たらず、紅葉の時期が遅いだけでなく、濃いオレンジ色のまま散る葉が多いのも特徴。黄色いモミジも乙なものです。

この場所は、もともと衣笠内大臣といわれた歌人の藤原家良が山荘を営んでいたところで、寺は1368年(応安元年)、室町幕府管領を務めた武将の細川頼之が尼僧妙性から土地を買取り、寄進したことにによって創建された。

細川頼之は碧潭周皎(へきたんしゅうこう、宗鏡禅師)に帰依して出家した。

当寺の実質的な開山は碧潭周皎であるが、碧潭は法兄である夢窓疎石を勧請開山としている。

南北朝時代には勅願寺となって寺運も興隆したが、応仁の乱の兵火により伽藍を焼失し寺運も衰えた。

江戸時代までは境内にわずか2つの末寺が残っているだけだったが、1686年(貞享3年)方丈が復興し、寺観が整備された。
江戸期には天龍寺に属した。

もとは臨済宗に属していたが、1968年(昭和43年)に独立して単立寺院となっている。

地蔵堂(本堂)内には、伝教大師の作と言われる本尊・延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像が安置されています。

現在の本堂(地蔵堂)は昭和10年(1935年)の再建です。

なお、一休宗純は6歳で出家するまで母と共にこの寺で過ごしたと伝えられており、2017年には「一休禅師母子像」が境内に建立されている。

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住吉大社で森女と邂逅 溺る一休
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一休さん誕生秘話

南朝と北朝に分かれていた朝廷が、地蔵院開基でもある細川頼之の尽力で、ようやく北朝に統一されて間もない頃。

一休の母は、北朝 後小松天皇の寵愛をうけ身籠りますが、南朝の高官の血筋だったため、帝のお命を狙っていると讒言され御所を去ります。

そして細川頼之の奥方の御縁を頼り、地蔵院に隠れ、明徳5年(1394年)寺領地内の民家でひっそりと御子を出産し育てました。

千菊丸と名付けられた御子は6歳で安国寺に入門。

千菊丸の命を守るためには俗世から離れた僧侶が一番と考えられたのでしょう。

千菊丸が後の一休宗純禅師です。

本堂の南には宗鏡禅師・細川頼之公の墓がある。

地蔵堂のあたりが最もきれいです。

この時期にこの色づき、さすが穴場。

右が地蔵堂。

この辺りの苔と散りモミジがとてもきれいです。

これから方丈へ行きますが道の両側は苔と散りモミジ・・・

地蔵堂から方丈へ続く道、両側の苔がとてもきれいです。

屋根の上の散りモミジ朝日を受けて真っ赤です。



五葉の松が美しい。

今時間は10時、この時間でまだほとんど陽が届いてない状態、これが紅葉を遅らせている最大の理由。

ちなみに帰りに嵐山に寄ったのですが紅葉は終わり、もう冬景色です。

観光客もまばらでした。

十六羅漢の庭

方丈前に「一六羅漢の庭」と呼ばれる平庭式枯山水庭園があります。作庭は地蔵院第二世住職 宗鏡禅師で、開基 細川頼之のお気に入りだったと伝わります。

平庭式とは築山などの起伏のない平らな庭のことで、枯山水は石や砂を用いて水を表現する形式です。

地蔵院の庭は木々が多く、砂ではなく苔で覆われています。

そして、点在する自然石で表現されているのは羅漢さんです。

地蔵院の羅漢様方は修行中で、悟りを開くまであと一息「どうぞ仏になれますように」と石清水八幡宮に願をかけておられる姿だと伝えられています。

そのため、八幡宮の方角(地蔵院から見ると南東)に少しずつお身体を向けていらっしゃるそうです。

薄暗い庭園に紅一点。

苔の上の散りモミジに木の実が混じる。

わずかに届く斜光に輝く苔と散りモミジ。


紅葉を十分堪能し、出口に向かう、観光客がちらほら見えています。

ただ今10時30分、これから浄住寺へ向かいます。

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大仙公園 日本庭園


公園内にある日本庭園は『足立美術館庭園』で知られる中根金作の作庭によるもの。

平橋と反り橋が架かる中島の手前には、蓬莱山を思わせるような巨石を配している。

伝統的な作庭技術を駆使した2.6haの美しい築山林泉廻遊式庭園。花木に囲まれ風情豊かなあずまや青苔亭、映波橋・印月橋、杜若池、飛流瀑など、美しい池、流水やハナショウブ・梅など四季の花で彩られます。

総面積26,000平方メートルの日本庭園。

堺は中世の頃、海外交易の拠点として栄え、さまざまな技術や文化が上陸してきたところ、日本庭園の源流となった庭園技術も、この時に伝わったといわれている。

大仙公園の庭園は、伝統的な日本庭園の作庭技術を駆使しながら、築山林泉廻遊式庭園様式でまとめられており、南側台地の「桃源台」と、南から北へ流れる「石津渓」、北側低地の3つの風景で構成されている。

檜づくりの門をくぐると、中世堺の豪商たちの集会所「納屋衆」を模した休憩所、孫悟空ゆかりの中国花果山の石を刻んだ曲水が楽しめる「流杯亭」、野点や盆栽展を楽しめる「桃源台」などがあり、渓流沿いに歩めば「傘亭」に至る。

堺の文化風土を感じつつ、四季折々の花やみどりの移ろいを楽しめる。

約100本のもみじが紅く色づきます。

見所は映波橋、印月橋付近と石津渓上流あたりです。

ここはドウダンツツジが見事だ、入り口も然り、園内にも至る登呂で見かける。

その朱色が見事だ。

過去の訪問記

錦秋の大仙公園 日本庭園
総面積26,000平方メートルの日本庭園。堺は中世の頃、海外交易の拠点として栄え … 続きを読む →

日本庭園 夏宵 夕涼み演奏会
大仙公園 日本庭園 夏宵 夕涼み演奏会、今年も来ました。 演奏が始まる頃にはちょ … 続きを読む →

伝統的な日本庭園でライトアップ
大仙公園の日本庭園で一日限りの夜間ライトアップがあった。 大仙公園内に市制100 … 続きを読む →

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中自然の森 紅葉が見頃です


中自然の森の予想見頃時期:12月中旬~12月下旬と言われている。

陽が傾きかけたころ合いがいいのでは。

生い茂る樹木、様々な虫など、人工の森とは思えないような自然の生態系が作られ、生き物が宿り、都会のオアシスともなっています。

こちらが中自然の森の入り口、とても人工的で、このようなガラスの扉になっています。



こちらでは梅田スカイビルが日光を遮ります。

それによって、見頃は通常より遅くなり、見頃は驚きのクリスマス前後!

その時期の梅田スカイビルではクリスマスイベントやイルミネーションが毎年開催されていて、ツリーとモミジを1度に堪能するという和洋折衷な紅葉狩りが可能です。

地上40階・地下2階、高さ約173メートルの超高層ビルである。

設計は原広司。京都駅ビルや札幌ドームなどの作品で知られる。

その独特の形状から大阪・梅田のランドマークとなっている。

イギリスの出版社ドーリング・キンダースリーが選ぶ「TOP 20 BUILDINGS AROUND THE WORLD」の一つに、アテネのパルテノン神殿、ローマのコロッセオといった歴史的建造物と共に選出されるなど世界的に有名な建築物で、2017年の空中庭園の入場者150万人のうち外国人は75%を占める約113万人となっている。


森は、暗闇が幻想的な雰囲気を醸し出しています。

森の中は人口の滝が流れ、季節にはホタルも。

池には沈みかけた陽が架けを落とす。

真っ赤なモミジと未来的なデザインのビルというコントラストは、世界でも類を見ないほど個性的な景色だと言えます。

時間とともにハイライトは移り変わり日没まで楽しめます。

スッカリ陽が傾きました。

大階段には夕日を楽しむ人、目の前で繰り広げられるショーを楽しむ人であふれています。



スッカリ辺りが暗くなってきました。

街はこれからイルミネーションに彩られます。

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東寺 紅葉ライトアップ


東寺は、平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。

明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、中でも長者の筆頭である東寺一長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任する慣例だった。

中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。

1934年(昭和9年)に国の史跡に指定、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録された。

なお、東寺の執行は代々に渡って空海の母方の叔父である阿刀大足の子孫が、弘仁14年(823年)から1871年(明治4年)まで務めた。

1934年(昭和9年)3月13日に境内が国の史跡に指定され、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

こちらは、重要文化財の「宝蔵(ほうぞう)」。

東寺の宝物を保存してきた建物で、周りを堀で囲っているのは火事による延焼を防ぐためなのだそうです。

五重塔は東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。

高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。

天長3年(826年)空海による創建に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。

暗闇に浮かびあがる逆さ五重塔と紅葉は、まさに幽玄の世界です。

雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。

初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。

真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。

諸仏は寛永20年(1643年)から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。

初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。

東大時境内のライトアップとともに、金堂と講堂も公開され、講堂では須弥壇北面が特別公開され、「立体曼荼羅」を360度ぐるりと周回することができます。

北にある池は瓢箪池といい、五重塔とともに池泉回遊式庭園の要素になっている。

紅葉ライトアップは毎年紅葉が見ごろを迎える時期に行われています。

紅葉ライトアップでは普段ライトアップされている高さは約54.8メートルの五重塔だけでなく、北側にある瓢箪池(ひょうたんいけ)を中心とした回遊式庭園・東寺庭園などがライトアップされます。

夜間拝観の入り口(受付)は、東門(慶賀門)のみとなります。

ライトアップは大人気なので入場する際長い列に並ぶことあり、晩秋の京都の夜は気温が下がりますので、しっかりと防寒対策をしていきましょう。

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京都植物園 なからぎの森の紅葉


クニフォフィア:クリスマスチアー 旧トリトマと言われていたクニフォフィアです。

クリスマスの時期に咲くので、クリスマスチアーという名前らしいですが、花が少なくなる時期、鮮やかな色合いのお花が咲いており、凄く目立っておりました!明るい色で綺麗です。

『麦わら帽子と少女』のモニュメント、今日は後ろ姿です。

大小四つの池に囲まれた「なからぎの森」は、古くから「流れ木の森」ともいわれ、ここ下鴨の地に残された山城盆地の原植生をうかがい知ることのできる園内唯一の貴重な自然林です。

落葉樹であるエノキやムクノキの古木や、常緑樹であるシロダモ、カゴノキ、シイ、カシ類が混生する森の特徴が見られます。

森の広さは約5,500平方メートルで、ほぼ中央には、上賀茂神社の境外末社である半木神社があります。

また、池の周りにはカエデ類が多く、特に秋の紅葉は園内有数の美しさです。

現在の植物園の敷地は、明治時代までは上賀茂神社の境外末社である半木神社とその鎮守の森(半木の森)を中心とした田園地帯であった。

大正天皇の即位を祝い企画した「大礼記念京都大博覧会」の開催用地として、1913年(大正2年)に京都府によりこの地が購入された。

しかし、議会等の反対、国による博覧会事業と会場アクセスのための電車敷設費の起債不可決定などのため、博覧会は開催されず、植物園が代案として計画されることとなり、1915年(大正4年)に「大典記念植物園」の設置が決定された。

日本初の公立植物園であり、現在の京都府立植物園の前身である。

1917年(大正6年)に建設工事が始まったが、この際、敷地内の半木の森は、古代の山城盆地の植生を残す貴重な自然林としてそのままの形で活用するよう設計され、半木神社も移転することなく園内に存置された。

1923年(大正12年)11月10日、大正天皇大典記念日に開園し、翌年1月1日から入場者制限のため、有料公開が始まった。

その際、名称を「大典記念京都植物園」と正式決定している。

有料公開開始時の入園料は、大人5銭、子ども2銭、温室観覧料は別途で7歳以上10銭だった。

戦後、当初計画された京都御苑の代替地として、占領軍住宅が建設されることとなった。

1946年(昭和21年)10月に全面接収された。
この際、育っていた植物の伐採もあったとされ、25,000本以上あった樹木は6,000本に減ったともされる。

1951年(昭和26年)2月24日には、火災が発生し、昭和御大典の第一朝集所であった昭和記念館が全焼するなど施設の消失もあった。

接収から12年目の1957年(昭和32年)12月12日に返還され、占領軍の住宅の撤去は1958年(昭和33年)12月に完了した。

1961年(昭和36年)4月24日に再開園し、新設のドーム型温室前で竣工開園式が行われた。

1970年(昭和45年)には「日本の森」というエリアを造成している。

皇帝ダリアがきれいです。

珍しく虹が・・・この後、雨が降ったり止んだりの異常気象となる。

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紅葉の慈眼堂


慈眼堂(じげんどう)は、滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。
恵日院の境内にある。

慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力した天海の廟所である。

江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂で、正保3年(1646年)に建立された。

正面三間、側面三間、一重、宝形造、桟瓦葺の建物である。
建物は国の重要文化財に指定されている。

堂内には木造慈眼大師坐像(重要文化財)が祀られていた(現在は延暦寺国宝殿にある)。

堂建立と同時に整備された石燈籠16基(江戸時代初期)

あと慈眼堂の隣には天海僧正が後陽成上皇より京都にある法勝寺の建物を下賜されてこの地に移築建立した寺である滋賀院の門跡があります。

この地は比叡山延暦寺の麓の大津市坂本にありますが、天海僧正は織田信長に焼き尽くされた比叡山延暦寺の復興に尽力しています。

それら含めた生前の功績を評価され天海に対して朝廷より贈られた諡号が慈眼大師で、その天海僧正を祀る廟所だから慈眼堂なんですね。

非常に静かな場所ですが、厳かな雰囲気の場所でした。

慈眼堂の横には、桓武天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、清少納言、紫式部、和泉式部、新田義貞らの供養塔が並んでいる場所もありました。

あくまでも供養塔ですが不思議な組み合わせです。

境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如来坐像のほか、歴代天台座主の墓、桓武天皇の御骨塔などがある。

鵜川四十八体石仏群のうち13体 – 天文22年(1553年)に六角義賢が高島郡(現・高島市)鵜川に亡き母の菩提を弔うために建立した48体の阿弥陀如来坐像のうちの13体。

この13体は江戸時代初期に当地に移されたもの。

>白洲正子が何度も採り上げた鵜川四十八体石仏群
高島市高島の白髭神社付近に「いにしえの道西近江路」の道標があり、上り坂になってい … 続きを読む →

天海の廟所 慈眼堂
慈眼堂(じげんどう)は滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。 慶長12年 … 続きを読む →

黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝ゆかりの 金地院
金地院(こんちいん)は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。 小堀遠州作 … 続きを読む →


暴れん坊将軍 II 「わらべ地蔵の子守唄」では、汐路章演じる地回りが立てこもる寺子屋。

このときはお堂自身も使われている。

同じく II の「疑惑を呼んだ小さな命!」では、「上様の子」を身籠った大奥の中﨟の恋人が隠れるお堂。「吉宗婚約、五郎左は家出!?」では、珍しく上様と相愛になる娘が、加納じいとともに監禁されてしまう飛鳥山の荒れ寺。

いずれも殺陣はお堂前で行われ、灯籠群の間を行き交っての立ち回りとなる。

闇の仕事師たちとお庭番が死闘を繰り広げたこともある。
ツナギのシーンなどには、灯籠の開口部が効果的に使用される。

第三シリーズの「危うし!妖刀に正義ありや」では、山田朝右衛門が刃引きの刀で灯籠を両断する場面もある。

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紅葉の滋賀院門跡


坂本比叡山口駅は京阪電車全駅の中で、一番北に位置しています。

1997(平成9)年の穴太駅~坂本駅間の複線化工事とともに現在の駅舎に生まれ変わりました。

2000(平成12)年に、京阪電車では宇治駅とともに、第1回近畿の駅百選に選ばれました。

坂本一帯は延暦寺や日吉大社の門前町で、中世には京都への中継地として栄えました。

いたるところで「穴太積み」と呼ばれる美しい石垣を見ることができます。

西に10分ほど歩くと、日本一長い坂本ケーブルのケーブル坂本駅があります。

2018年3月17日に「坂本」から現在の駅名になりました。

延暦寺の門前町・坂本には、穴太衆と呼ばれる石工集団がいました。

穴太衆による石垣は、「石の声を聞け」という口伝に象徴されるように、加工しない自然石を巧みに組み合わせる「穴太衆積み」という技法で作られ、戦国時代には城壁にも用いられました。

里坊の町には今も石垣が美しい町の景観を作り出しています。

滋賀院門跡、以前の訪問記。

延暦寺の里坊を代表する滋賀院門跡
坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも … 続きを読む →

京阪電鉄坂本駅の南西すぐの所にあります。
天台宗。

もともと京都の北白川にあった法勝寺(ほうしょうじ)を、江戸時代初期に現在地に移し、のち後水尾(ごみずのお)上皇から滋賀院の号を賜わりました。

江戸時代末まで天台座主(ざす)となった皇族代々の居所であったため高い格式を誇り、滋賀院門跡と呼ばれます。

坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも滋賀院門跡はひときわ背の高い石垣と白壁に囲まれて、延暦寺の本坊らしい堂々とした外構えを見せています。

約2万平方メートルという広大な境内は、内仏殿・宸殿・書院・庫裏(くり)・土蔵などが立ち並ぶ。

書院には、江戸時代初めの狩野派の障壁画(しょうへきが)がたくさん見られ、豪華な雰囲気に溢れています。

また、名庭として知られる庭園は、宸殿の縁側から鑑賞することができます。

滋賀院御殿と呼ばれた長大な建物は1878年(明治11年)火災により焼失し、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建された。

築地塀脇に立つ根本伝教大師像

伝教大師はこの坂本の生まれです。
伝教大師御生誕地 生源寺
奈良時代後期、最澄(さいちょう・767-822)によって開山されたと伝えられる。 … 続きを読む →

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紅葉が見事な西教寺


日吉大社の前を北(右)に曲がりしばらく進むと西側に明智光秀が坂本城から移築したと伝わる西教寺の総門が建ち、総門から勅使門への直線の参道の両側に紅葉の並木が続きます、春には桜が咲き並んでいます。

見どころは総門より勅使門までの約150mの参道で、11月の色づきはじめから12月落葉まで、真っ赤に染まった「もみじ参道通り抜け」として圧巻だ。

比叡山東麓の大津市坂本地区の北方にあり、比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置する。

西教寺は、天台宗総本山の延暦寺、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)に比べ知名度は高いと言えないが、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山として、400か寺以上の末寺を有する。

西教寺は室町時代の文明18年(1486年)、中興の祖とされる僧・真盛が入寺して以降、天台念仏と戒律の道場として栄えるようになったが、それ以前の歴史は必ずしも明らかでない。

草創については、『西教寺縁起』や近世の地誌類には推古天皇26年(618年)、聖徳太子が師である高麗の僧慧慈、慧聡のために建立したとする説もあるが、これは伝説の域を出ないものである。

真盛の弟子にあたる真生が明応4年(1495年)に著した『真盛上人往生伝記』によれば、西教寺は比叡山中興の祖である良源(慈恵大師、元三大師)が建てた草庵に始まり、その弟子で『往生要集』の著者として知られる源信(恵心僧都)が伽藍を整えたという。

良源と源信はいずれも平安時代中期、10世紀に活動した人物である。

西教寺と良源および源信との結び付きについても確証はなく、その後鎌倉時代末頃までの歴史も判然としないが、比叡山と関係の深い一寺院として平安時代中期頃に草創されたものと推定される。

信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。

光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。

光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。

また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。

勅使門横の門の内側はまた見事な紅葉。

そして念仏小僧と羅漢像がお出迎え。

羅漢とは、釈迦の弟子の中で最も位の高い弟子に与えられる称号のようなもの。

この称号を与えられるということはそれだけ名誉のあることなのです。

これ以上学ぶことがない人に与えられる称号とも言われており、「無学位」とも呼ばれることもあったくらい釈迦の弟子の中ではずば抜けた存在でした。

長らく荒廃していましたが、室町時代末期に延暦寺で20年間もの修行を積んだ真盛(1443-93)が入寺して再興しました。 

当時は、混乱した世相を反映して宗教界全体が大きな転機を迎えていたので、真盛は戒律の厳守と称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の励行を唱えました。

以来、西教寺は戒律(かいりつ)・念仏(ねんぶつ)の道場となり、現在に至るまで1日も絶えることなく念仏が唱え続けられています。

幽玄静寂(ゆうげんせいじゃく)な空気が漂う境内には、念仏と鉦(かね)の音が低く響き渡り、独特の雰囲気が漂います。

画像は宗祖真盛上人(1443~1495)御廟。

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