城下町ブラっと散策


金魚のふる里 大和郡山

大和郡山の金魚は柳沢吉保の子・吉里が甲斐の国から郡山藩主として国替りしてきた時に持ってきたと伝えられいます 。

下級武士の内職として飼育していた金魚の養殖技術が、徳川の末期から明治の初期にかけて付近の農家に伝えられ、水利の便の地の利を得て日本の主要産地となりました。

郡山金魚資料館

先代の代表嶋田正治が1982年に「1年中いつでも金魚が見ることができる観光施設が全国の何処にもない」と私費で「郡山金魚資料館」を開館。

金魚の原種から高級金魚、その他全国の少数の人たちからなる保存会。

愛好会の人々の努力により絶滅から守り続けられている貴重な品種など約40種類の金魚が展示されている。

松井 佳一(まついよしいち)(1891―1976)

近畿大学に水産学科を新設。

国際学会でも活躍して、第二次世界大戦後の水産業と教育の振興に貢献する。

研究業績は淡水魚や真珠など広範囲にわたるが、なかでも『日本産金魚の遺伝学的研究』(1934)は世界的に有名。

大納言塚

豊臣秀長の墓所。
天正19年(1591)、郡山城内で没した秀長はここに葬られました。

当初、この近くに豊臣秀吉が建てた大光院<だいこういん>という菩提寺があり、墓地を管理し菩提を弔っていました。

しかし、豊臣家が滅んだあと、大光院は京都に移され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託されました。

その後墓地は荒廃しましたが、安永6年(1777)、春岳院の僧、栄隆<えいりゅう>や訓祥<くんしょう>が郡山町中と協力して外回りの土塀をつくり、五輪塔を建立しました。

郡山城主柳澤家の菩提寺で、柳澤吉里が甲府から国替えの際、当地に移築したもので、市指定文化財の山門は旧郡山城城門を移築したものといわれている。

こちらは山門向かって左側の弁天門。

道路沿いに建つ門で、一際目立つ存在です。

郡山城

豊臣政権の中初期には秀吉の異父弟(同父弟説もある)羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。

江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。

平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。

奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。

中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。

17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府によって改修を受けた。

その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里の入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。

背後に天守台が望めるテラス席=大和郡山市城内町の郡山城跡

大和郡山市城内町の郡山城跡で郡山城史跡・柳沢文庫保存会が改修した番屋建築群(毘沙門郭内)にカフェがオープンした。

旧郡山藩主の屋敷の長屋門を移築した歴史のある建物で、有機栽培されたコーヒーや軽食が楽しめる。

今日はこちらでお昼にした。

番屋建築群は木造平屋建ての3棟が連なる。

最後の郡山藩主だった柳沢保申の屋敷の長屋門の一部を明治後期に移築したもので、以後「番屋」と通称されたらしい。

1969(昭和44)年から一時期は吉田泰一郎・元市長の住居としても使われたが、近年は物置になっていた。

大和郡山城は、転用石がふんだんに使われた城として知られます。

「逆さ地蔵」のほか、伝・羅城門の礎石を始め、宝篋印塔や五輪塔、石仏などが石垣にこれでもかと散りばめられています。

転用石は石垣の表面だけで約1000基に及び、お地蔵様も約200基が確認されています。

発掘調査によって、天守の礎石や付櫓の地階などが発見され、幻といわれていた天守の実在も証明されました。

天守台東側の付櫓の構造も判明しています。

ただし、まだ不解明点も多くあるのが郡山城の実情。

秀吉自身の城は残っておらず、家臣の城も類似例が僅少。

郡山城は江戸時代を通じて廃城にならず譜代大名が歴史をつないだ城ですから、全国の秀吉政権の城の解明に一石を投じる重要な手がかりが眠っているかもしれません。

大和郡山といえば、江戸時代から武士の副業として始められた「金魚」の養殖で知られる。

蓋には、青海波模様を背景に、金魚鉢に入った金魚が描かれている。

今日はOB会のハイキング、いつもは終了後喫茶店で反省会やら次回の予定の打ち合わせなどを行うのですが、郡山駅近辺には喫茶店がありません、やむなく西大寺まで帰り、駅中の喫茶店で反省会。

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唐招提寺で鑑真ゆかりの花 瓊花 が見頃


『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたもの。

寺名は当初は「唐律招提」と称した。

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四方から僧たちの集まり住する所を意味した。

鑑真研究者の安藤更生によれば、唐では官寺でない寺を「招提」と称したという。

「唐律招提」とは、「唐の律を学ぶ道場」の意であり、後に官額を賜ってから「唐招提寺」と称するようになった。

鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。

当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。

鑑真の生涯や唐招提寺は井上靖の小説『天平の甍』(1957年)で広く知られるようになった。

688~763年

唐の揚州に生まれ、14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称されました。

天宝元年(742)、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。

その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失うこととなりましたが、天平勝宝5年(753)、6回目にして遂に日本の地を踏まれました。

以後、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごされ、天皇を始めとする多くの人々に授戒をされました。

唐招提寺「御影堂供華園」は、世界遺産「唐招提寺」の境内北側、江戸時代に建てられたかつての興福寺塔頭「一乗院」の宸殿を移築した「御影堂」の西側に広がる庭園。

「供華園」は、鑑真和上の故郷である中国揚州から昭和38年(1963年)に送られた「瓊花(けいか)」と呼ばれる花が咲き誇る空間となっており、毎年大型連休ごろの見頃になると、白く可憐な花をご覧いただけるようになっています。

ちなみに瓊花はスイカズラ科の花であり、ガクアジサイはアジサイ科もしくはユキノシタ科なので根本的に違う植物らしいが、スイカズラ科の花にはガクアジサイのような花を咲かせるものもあるのだそうだ。

瓊花は中国の江蘇省、揚州市が原産。

隋から唐の時代、「瓊花(チウンホア)」は「玉蘂」とも呼ばれ、その芳香のある黄白色の花が愛でられたといいます。

ただ不稔であったために、「聚八仙」という台木に接ぎ木して増やしていたそうですが、やがて元軍の進入とともに絶え、その後は残った台木の「聚八仙」が「瓊花」と呼ばれるようになったといいます。

わが国では、鑑真和上の縁で揚州市・大明寺から贈られたものが奈良県の唐招提寺や飛鳥寺などに植栽されています。

「ムーシュウチュウ(木綉球)」の近縁種で、高さは4メートルほどになり、葉は卵形から楕円形の革質で、縁には細かい鋸歯があります。

4月から5月ごろ、白色の両性花とまわりに8個の真っ白な装飾花を咲かせます。

別名で「ハッセンカ(八仙花)」とも呼ばれます。

醍醐井戸の近くまでやってきました。

仏の教法の、優れて尊い味わいのことを醍醐の法味(だいごのほうみ)と言います。

深遠な仏の教えを濃厚なチーズに例えた言葉ですが、醍醐の法味はそのまま「醍醐味」という言葉にもつながっていきます。

雰囲気のある塀に沿って、歩いていきます。

鑑真の廟所のコケ、折からの水を含んで鮮やかです。

フォーカスシフトを手持ちで試みる。

背景としてSilkypicsでのレタッチがあります、狙い通り「手持ち撮影時の位置ずれを補正する」という機能が使えた。

これは新しい発見だ。

金堂と南東の、松のところに、石の隅鬼が。

金堂の東南隅で隅木を支える「隅鬼」。

年輪年代調査などから金堂創建時の作とみられています。

同形・同時代のものが北西隅、東北隅にも使われていて、修理後元の位置に戻されています。

これらを見ることができるのは、金堂の解体時のみ。

これまで非公開だった薬草園の一般公開を始めたというのでそちらへ向かう。

菖蒲の時期には少し早いようです。

鑑真ゆかりの薬草園、よみがえる 奈良・唐招提寺が一般公開

薬草園ではアブラナ科のホソバタイセイが黄色い花を咲かせ、高さ約3メートルの瓊花が見ごろを迎える。

瓊花は「八仙花」とも呼ばれ、ガクアジサイのように花のまわりに白い装飾花を咲かせている。

奈良市の唐招提寺は22日、これまで非公開だった薬草園の一般公開を始めた。

金堂修理に伴い閉鎖した薬草園の復元作業が、約6割の範囲で終了したため。寺を創建した鑑真和上ゆかりの23種の薬木各1本と、39種約2600株の薬草を栽培。

鑑真の故郷・中国揚州市の名花「瓊花(けいか)」がちょうど、見ごろを迎えている。

瓊花は5月5日まで特別開園中の御影堂供華(くげ)園でも楽しめる。

境内では松の根が露出してはい回るさまが見事。

古木も多く、何やら動物に似たものもあり。

これなどはマンモスに見立ててみた。

境内散策の愉しみは至る所にある、雨の日の一日を楽しんだ。

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唐招提寺


鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

天平の遺風を現在に伝えるこの寺は、伽藍、規模ともに創建時の姿を残している。

金堂

国宝。奈良時代(8世紀後半)建立の寺院金堂としては現存唯一のものである(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、当初から本堂として建てられたものではない)。

鑑真2回目の渡航計画(同年)では、船は揚子江を下ったものの強風で難破する。

第3・4回目の渡航計画(744年)は密告によって頓挫し、船を出すこともかなわなかった。

748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。

陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。

753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。

遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩国に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。

同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は天平勝宝7年(755年)から東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。

大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。
数え年76であった。

鑑真の生涯や唐招提寺は井上靖の小説『天平の甍』(1957年)で広く知られるようになった。

鑑真和上の業績と名声を通じ、1978年(昭和53年)の日中平和友好条約の成立にも寄与し、高い評価を受けている。

金堂近くから「礼堂」「宝蔵・経蔵」周辺に伸びる小道を北に進み、「御影堂」のある道沿いに出て、東側のうっそうとした森に入っていくと、大変趣のある土塀や杉木立、苔むした地面が広がる空間が現れ、そこに伸びる道を更に北に進むと八角形の壁で囲まれ、中心には立派な宝篋印塔の建てられた鑑真和上のお墓(開山御廟・鑑真和上御廟)が現れます。

また墓所への参道沿いの杉木立の生える地面には、秋篠寺を彷彿とさせるほど立派な「苔」が見られ、木漏れ日が苔に差し込む風景は、美しい「庭園」にいるかのような風情を感じさせてくれるなど、「自然豊か」な御廟となっています。

鑑真和上御廟

同時期の高僧の中では唯一、1250年の永きに亘って、参拝する人が途絶えません。現在は御廟前に和上の故郷・揚州から贈られた瓊花が植えられ、初夏にその可憐な花を咲かせます。

鑑真和上の故郷である、江蘇省揚州市の名花で、ガクアジサイに似た白い可憐な花を咲かせる「瓊花(けいか)」の見頃に合わせ、御影堂供華園が特別開園されます。

現在、花を咲かせている瓊花は、鑑真和上遷化1200年の昭和38年(1963)に記念事業の一環として、中国仏教協会から贈られた一株の子です。

日 時:毎年4月中旬~5月上旬 9時~16時
※花の状態によって、期

鑑真和上ゆかりの名花 瓊花(けいか)と緑滴る唐招提寺
鑑真和上の御廟のそばと、御影堂供華園(くげえん)では、和上の故郷、中国揚州から送 … 続きを読む →


平城京の薬師寺にある東塔および本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。

21世紀の現在、東塔は平城京での新築とするのがほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。

11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の流記資財帳に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、足立康、町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。

現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城移転後の天平2年(730年)新築と見る説が通説となっている。

ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、西塔は飛鳥からの移築だったとする説もある。

発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。

このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。

金堂本尊薬師三尊像については、既述の「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(かぎりなきおがみ)が行われた」との記述(『書紀』)を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある一方、主に様式や鋳造技法の面から平城移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。

薬師寺のハス
唐招提寺に続いて薬師寺、今日はハスデーです。 『日本書紀』天武天皇9年680年 … 続きを読む →

この日偶然眞子さまにお会いした。
婚約を発表されたばかりで幸せそうであった。

その後あのような騒動になろうとは想像だにしなかった、お幸せになってほしいと願っている。

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秋篠川から郡山城へ


暖かい日差しを浴びてウォーキングです、尼ヶ辻を出発し、大和郡山城を目指しています。

流域の上流部から中流部にかけて市街化が進んだ地域であり、雨水の流出が増加し、浸水被害の危険性が高まっている。

今、秋篠川は工事中です、流域の何カ所かで工事が行われています。

桜も4分か5分の咲き具合でしょうか、堤防沿いに並木が並んでいます。

近鉄学園前駅からバスで5分ほどの所にある秋篠川沿い(奈良市中山町西)には、東西1.3キロに渡り美しい桜並木が広がっています。

秋篠川は周辺を西から東に向けて流れた後、秋篠寺・西大寺・平城宮跡・唐招提寺・薬師寺近くを南向きに流れ、最終的には大和川に合流する河川ですが、この桜並木はその上流・源流域にあたり、その細い水の流れと立派な桜の木が穏やかな風景を生み出しています。

遠景に薬師寺の塔が見えています。

「平和のシンボル、金魚が泳ぐ城下町」がキャッチフレーズの大和郡山市は、全国金魚すくい選手権大会が開催されている、マンホールにも、「わが町」の文字と共に金魚鉢で気持良さそうに泳ぐ金魚が描かれています。

大和郡山で一番見ごたえのある桜。

黒鉄御門跡から入城です。

桜もきれいに咲きそろっています。

織田信長の時代に、筒井順慶が築城。豊臣秀吉の時代に、豊臣秀長が百万石の居城とし、大幅に拡張された。

江戸時代には郡山藩がおかれ、水野氏、松平氏、本多氏などの統治の後、柳澤氏が入り幕末まで続いた。。

明治維新後、多くの建物は破却されたが、近年、追手門・櫓・天守台などが修復・整備され、城跡に一段と風格を添えている。

「続日本100名城」(財団法人日本城郭協会)に認定されている。

城跡は桜の名所としても有名で、満開の桜のもとで開催される「大和郡山お城まつり」は多くの人々で賑わう。

天守台に多くの人が昇っています。

どうやらコロナで「大和郡山お城まつり」が中止になり、代替行事として武者行進(50名程度)が行われている。

予期せぬ行事に出くわしびっくり。

武将に扮した方々が郡山城跡内を行進、出陣式、撮影会 などが行われました。

極楽橋を渡って天守台で鉄砲隊の演舞が行われ新しい形で充実した内容になりました。

天守台に上がっていた人達は鉄砲隊の演舞を見るべく待っていたのだ。
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高取城 モノクロバージョン


先日「紅葉期の高取城」をアップした。

紅葉期の高取城
大和高取城は奈良県の紅葉の名所。 11月には本丸や二の丸を中心に真っ赤に燃える様 … 続きを読む →


紅葉はモノクロに適さないし、華やかな紅葉はカラーで表現したいのでそうしたのであるが、城址そのものは古い戦乱の歴史を残している。

兵どもの戦いの跡はむしろモノクロで表現したい。

戦国期の高取城の歴史は下記の通りだ。

越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていたようである。

天文元年(1532年)6月の飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)は大和国に侵攻してきた。

対立関係にあった興福寺の僧兵たちは越智氏のいる高取城に庇護を求めてきた。

証如軍は高取城を包囲し、激戦となったようだが、筒井軍に背後を襲われた証如軍は敗走した(天文の錯乱)。

その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は天正8年(1580年)に一旦は廃城となった。

天正11年(1583年)8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され(自害とも)、越智氏は滅亡した。

筒井順慶は、信長が本能寺の変で横死した後、天正12年(1584年)に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。

天正13年(1585年)、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。

高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。

天正17年(1589年)、利久は家臣諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造した。

本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだ。

また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類を見ない広壮な山城が出現した。

家臣団は、山麓の高取市街に城下町を営んだ。

利久は、天正19年(1591年)に没した秀長の後嗣となった秀保に仕えた。

文禄4年(1595年)、秀保が17歳で没した後、利久の子俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。

秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康についた。

慶長5年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であった。

この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた。

俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。

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みたらい渓谷 モノクロバージョン


あの美しかった渓谷をモノクロで表現したら・・・・

あの日の感動を思い出しながらレタッチして見た。

紅葉の景観も素晴らしかったが今度は新緑の頃にもう一度訪れてみたい。

新緑がきらきら輝く春、水しぶきに川サツキが美しい夏がよいという、楽しみだ。

先日の記録。

みたらい渓谷
現在では、ひらがなで[みたらい渓谷]と書かれることが多いが、南北朝時代に後醍醐天 … 続きを読む →


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土佐街道散策


壺阪山駅前、少し早めに来たので付近を少し散策しよう。

少し雨模様の天気、今は陽が射しているが先ほどまでは降っていた。

高取藩2万5千石の城下町として栄えた高取町のメインストリート。

当時は500軒もの商家が軒を連ねたといい、今も低い軒先や連子窓といった古い家並みの随所に、往時の繁栄ぶりを偲ぶことができる。

両脇に水路が流れる街道の石畳には、阪神淡路大震災の復旧工事で出た石が活用され、所々に埋め込まれた薬草タイルを見て歩くのも楽しい。

明治時代に取り壊されてしまった高取城の門を移築したのが高野山真言宗の寺院「子嶋寺(こじまでら)」。

山門は、高取城の二の門を移築したもので、これが唯一現存する高取城の遺構です。

奈良時代以前の創建を伝えるが、草創の時期や経緯については複数の説がある。

現在の子嶋寺は近鉄壺阪山駅近くにあるが、各種史料に「子嶋山寺」と見えるところからも、創建当時は山間部に位置していたと思われる。

平安時代中期には一時衰退し、興福寺の僧・真興(しんごう)によって中興された。

寺号は古くは子嶋寺または子嶋山寺、真興による中興以降は「観覚寺」、近世には「千寿院」と称されたが、近代に入って「子嶋寺」に復称した。

子嶋寺付近の地名を「高取町大字観覚寺」というのは旧寺号に由来する。

『子嶋山観覚寺縁起』(江戸時代中期成立)によると、子嶋寺は平安時代中期頃には一時衰退していたが、永観元年(983年)、興福寺の僧真興が入寺して中興し、子嶋寺の子院として山下に「観覚寺」を建立し、真言宗子嶋流を始めたという。

法相宗を主として八宗兼学の寺であった子嶋寺はこの頃から真言宗の道場として栄えるようになり、「観覚寺」と称されるようになった。

同縁起によると、最盛期の子嶋寺(観覚寺)は21の子院が立ち並び、現在の高取町と明日香村にまたがる広大な境内地をもっていた。

藤原道長の日記『御堂関白記』によれば、寛弘4年(1007年)には道長がこの寺に参詣している。

光永寺

三匹の邪鬼に支えられた石水盤

光永寺人頭石

饗宴の場の装飾として造られたともいわれる石造物で、光永寺の前庭にあります。

斉明女帝の宮を訪れた外国人の顔でしょうか。

花崗岩に彫られた大きな鼻と耳、前に突き出した顎が特徴的です。

吉備姫王墓に置かれている4体の猿石と同じ石造物と考えられています。

斉明女帝は飛鳥で多くの石造物を造っており、その性格はまだ不明ですが、古代人との謎解きをするのもおもしろいかもしれません。

街道に土佐の名が付く由来は、飛鳥時代の初期にまで遡る。

大和朝廷の都造りに駆り出された土佐(高知)の人々が帰郷できず、この地に住み着いたことが起源とされている。

土佐の名は古くから住民に愛着がもたれており、明治22(1889)年に町村が合併した際には「高取」か「土佐」かで村名が争われたほどである。

高取山を正面に望む細長い城下町は、現在の上土佐と下土佐を中心に発展。

寛永7(1640)年に植村氏が藩主となって以後、山城での生活は不便と藩主や家臣の屋敷は街道筋に移された。

ほとんどが平屋の商家と町家は、2階部分を屋根裏程度の空間に留めた「つし2階建て」。

殿様を見下ろさないよう虫籠窓が設けられ、家々の隙間は壁で塗り込めたり、板を張って行列を襲う者が忍ぶことを避けた。

城下町の風情を一層高める石畳は、平成7(1995)年の震災後に行われた復旧工事の際、大量に出土した阪神国道線の敷石。埋め込まれたタイルには9種の薬草が描かれ、薬の町としても賑わった高取の歴史を伝えている。

土佐街道の「信楽寺」には、その物語の主人公である沢市・お里の夫婦の墓所があります。

一般的には、壺阪寺に祀られていると思われがちですので、土佐街道沿いに墓所があるとは、ちょっとした驚きですね。

臼井家はもと高市郡高取町に所在。

代々伊勢屋と号し、酒・醤油の販売を営み、大年寄りや高取藩の公用伝馬の役も勤めていたとされています。

町の木「カエデ」と町の花「ツツジ」が描かれたマンホールです。

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2007年から、始まった「町家の雛めぐり」は、今回で8回目。 100カ所の会場で … 続きを読む →

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「壷阪寺」の奥の院 五百羅漢岩


壷阪寺がある高取町は、古代より飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上にあたる重要な位置であり、古くから周辺の人口集中を支える地域として発展していた場所でした。

「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ、頃は六月中の頃、夏とは言えど片田舎、木立の森もいと涼し…」というお里沢市の物語「壷坂霊元記」を子どもの頃ラジオで聞いたことがありました。

壺阪寺は、西国三十三カ所(西国観音霊場)六番札所で、御詠歌でも出てきます。

背丈20m,重量1200tを誇る世界最大級の観音立像。

石像の岩石はデカン高原カルカラ産で約3億年前のものといわれています。

日本とインドの石工たち延べ8万人が4年7ヶ月の歳月をかけて彫り上げたもので、インド政府と壷阪寺の友情の深さを示すシンボルでもあります。

草創については不明な点が多いが、伝承によれば大宝3年(703年)に元興寺の弁基上人により開かれたとされる。

後に元正天皇の祈願寺となった。

平安時代、京都の清水寺が北法華寺と呼ばれるのに対し当寺は南法華寺と呼ばれ、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた。

承和14年(847年)には長谷寺とともに定額寺に列せられている。

貴族達の参拝も盛んであり、清少納言の『枕草子』には「寺は壺坂、笠置、法輪・・・」と霊験の寺の筆頭に挙げられている。

また、寛弘4年(1007年)左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿泊している。

駐車場から奥へ進むと、現代的なお地蔵さまがずらりと奉納されたエリアが。

五百羅漢はそのさらに先にあります

「壷阪寺」の奥の院となる五百羅漢岩は、16世紀に高取城を本格整備した本多正俊が石工に命じて作らせたと伝わります。

ほとんどお顔が見えない石仏が多く、ひっそり静かな祈りの聖地。

この五百羅漢岩がいつ頃のものかは確かな記録は遺されていないようです。

16世紀末ごろ、豊臣家の重臣・本田利久が高取城を築城した際に、石工たちに命じて掘らせたという説が有力とされているとか。

おそらくは高取城の護りに仏の力を借りる意味があったのでしょう。

その甲斐もあって、高取城は明治維新を過ぎたころまでここにそびえ続けました(1873年に廃城)。

その一方、これを命じた本田氏は嗣子に恵まれず、17世紀中頃には廃絶してしまったとか。戦国の世は厳しいですね。

この五百羅漢岩は、高さ5m×幅3mくらいの岩に掘られていて、とても大きく感じます。

長い間、ずっと風雨にさらされてきて、その時の流れまで感じさせるようです。 

また、その周辺の岩に三尊像・五社大神・来迎如来・施無畏像・護法大黒など、たくさんの磨崖仏が刻まれています。

こうした仏さまは、山中の20ヶ所くらいにも及ぶというのですから、全部で何体あるのか想像もつきません。

五百羅漢周遊道が高取城まで続く。

「五百羅漢」に向かう参道には、目標までの距離を示す「町石」(高さ160センチ、花崗岩製)があり、そこに「香高山二町辰甲五月日」と刻まれています。

この「辰甲」は、石造様式から慶長9年(1604)と考えられています。

また、羅漢岩の前の石灯籠(高さ168、花崗岩製)には、「蓮華院殿慶長12年」と記されており、慶長12年(1607)の製作とわかります。

このため、石仏群も慶長年間の製作が始まったと推定されています。

400年の風雨にさらされた尊顔は、あるものは欠け、あるのもは削られ、目鼻が定かでなくなってもなお、対面する者を慰撫する力を持っています。

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紅葉期の高取城


大和高取城は奈良県の紅葉の名所。

11月には本丸や二の丸を中心に真っ赤に燃える様は圧巻の風景だが、今回はすこし盛りを過ぎている。
画像は壺坂口中門跡。

高取山に築かれた山城で、日本三大山城のひとつ。

南北朝時代に、大和の有力国人である越智氏によって築かれた。

安土桃山時代に、豊臣秀長の家臣である本多氏によって整備・拡充され、山城としては他に類を見ない規模となった。

朝日を浴びて苔むした石垣がキラキラ輝き美しい。

しかし、天守台などの石垣は西向きのため時間帯は午後が良いと言われる。

江戸時代には高取藩が置かれ、本多氏の後には譜代大名である植村氏が入り、幕末まで続いた。

高取城には、建物はほとんど残っていないが、石垣はよく残されており、城の構造を知ることができる。

国の史跡に指定され、『日本100名城』(財団法人日本城郭協会)にも認定されている。

高取城は、元弘2年(1332年)に南朝方の豪族であった越智邦澄(おちくにずみ)が、貝吹山城の支城として築いた山城です。

当初は中世城郭によく見られる掻き揚げ城(かきあげじろ。簡単な堀と土塁がある程度の城)でしたが、後に豊臣秀長の家臣である本多利久らにより本格的な改修が行われ、近世城郭へと生まれ変わりました。

比高(麓から本丸までの高低差)390mは日本一であり、岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城とともに日本三大山城の一つに数えられています。

「石垣は隅を見ろ」とも言われ、石積みの技術は隅石によく現れるのだそうです。

忍び返し(反り)のない、一直線に伸びる隅石。

隅石は算木積(さんぎづみ)と呼ばれる技法で積み上げられ、直方体に加工した石を交互に直角に交わるように積み重ねることで強度が増し崩れにくくなるそうです。

城内の周囲は約30km、郭内(石垣内)の周囲は約20kmと推定され、これは姫路城と同等の規模に相当します。

高取城は、天正8年(1580年)に織田信長の命により一旦廃城となりましたが、信長の死後、筒井順慶により復興されました。

以後、本多利久の時代を経て、寛永17年(1640年)に譜代植村家政が入城してからは、植村家の居城として幕末まで続きました。

明治6年(1873年)に廃城となり、現在では建物は残っていませんが、約10mある高石垣などの遺構は人為的に破壊されることなくほぼ完全な状態をとどめています。

このため、貴重な城郭資料であるとして、昭和28年(1953年)には国史跡に指定されました(指定名称「高取城跡」)。

明治2年(1869年)6月、版籍奉還により兵部省の管轄となり明治6年(1873年)廃城となった。

入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。

明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊したとされる。

画像は二上山と後方は吉野の山々。

その一方で、明治6年(1873年)に建物の払い下げが行われ、7円35銭6厘(100円とも)で落札されるが一部を取り壊したのみで、明治20年(1887年)に黒門の払い下げ、明治24年(1891年)ごろに天守以下の建物全ての取り壊しが行われたともされる。

殆どの建物は失われたが、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、人為的に崩壊することなくほぼ完全な状態をとどめている。

しかし、樹木が生長し根が張り出したり、維持管理や補修が充分でない事から石垣の形が崩れたり崩落の危険がある箇所もある。

この内、二の門は町内にある子嶋寺の山門に、新御殿(藩主下屋敷)の表門は町内の石川医院の表門に、松ノ門は1892年(明治25年)に土佐小学校(町立高取小学校)の校門として移築された。

1944年(昭和19年)、小学校で起きた火災により小学校は全焼、松ノ門は一部損傷し臼井家(伊勢屋・現在の金剛力酒造)が解体保存していたが[1]2004年(平成16年)、児童公園の表門として復元した。

確認されている高取城の現存構造物はこれらのみである。

この他に、下屋敷表門を移築したものではないかと言われている門が残っていたが門は取り壊され石碑のみになっている。

南面石垣は湾曲し、直線の石垣と比べて死角が少なく、敵方を狙いやすくなるそうです。

歴史ロマン漂う城跡ですが、ここは軍事施設でもあるのだと改めて気づかされます。

高取城の特徴として「城郭談話会」では次の4つを挙げている。

標高の高い山城であるが近世の施設がある。

戦国時代以前の山城は山上の要害に築かれているが、近世になるにつれ小高い丘や平地の中心部に居城が移されることが多い。

高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少ない。

火災や風雨、山上の不便さから、再築されることが少なかったからである。

しかし、高取城は3代将軍家光より「一々言上に及ばず」という許可があり、それで江戸時代を通じて各建物の存続と完備ができたとしている。

縄張と虎口の構成

高取城の縄張りは山城であるにもかかわらず、広い敷地をもち、連郭式縄張りと言われている。

高取城は標高が高い場所に築城されているわりには、天守、櫓、門等の多くが建設される余裕があり、平山城と同じような構えをもっている。

また不等辺台形の隅部に三重天守、小天守、二重櫓を配し、周囲に多聞櫓を巡らしている点は、和歌山城と類似する。

この共通性は、羽柴秀長が3か国の太守となり、和歌山城には桑山重晴、抑えの城である高取城には本多利久と、自らの家臣を置いたからと考えられている。

天守と小天守が建てられている

山城に天守がある例は日本国内ではいくつかあったが、小天守まである例はほとんどない。

例えば洲本城には、天守に小天守台はあったが、小天守台に小天守が建てられたかどうかは不明である。

そもそも山城は眺望が優れており、近世の山城には天守すらない例があるが、高取城は「三重天守」以外にも一回り小さな「三重小天守」まである。

築造時期は明確ではないが、本多利久から植村氏が入るまでと推定されている。

櫓の数棟が多く、独特の名称が多い

高取城は櫓の数が多い。

三重櫓は、天守、小天守を含めると6棟あって、二重櫓が7棟あり、白漆喰総塗籠で姫路城に似た外観であったと考えられている。

また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など、独特の櫓名があるのも高取城の特徴であると指摘している。

また、二の門外の大手筋と岡口門の分岐に、猿石と呼ばれる石像がある。明日香村から石材として運ばれたもの。
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洞川温泉街


みたらい渓谷の帰り、洞川温泉街に立ち寄る。

ほたる橋の上から眺める山上川には沈みかけた陽が・・・

温泉そのものの歴史は浅いものの、大峰講の宿場としての歴史は古く、その起源は役小角に従った後鬼の末裔によって起こされたと伝承されている。

大峯山・山上ヶ岳や女人大峯・稲村ヶ岳の登山口で、標高約820m余りの高地の冷涼な山里に位置する。

歴史ある純和風木造建築の旅館、民宿などの宿泊施設が20数軒、土産物店、陀羅尼介丸の製造販売店13軒、その他商店が軒を連ねる[1]。

大峯山は女人禁制の修験の山であり、門前町として夏期には山上ヶ岳の蔵王堂をめざす修験者や参詣者で非常に賑わう。

反面、冬季は厳しい寒さに閉ざされる。

また関西では珍しいスロープカーで入口まで往復できる鍾乳洞(面不動・五代松など)がある。

役行者の高弟「後鬼」の子孫の里とも伝えられる。

全国的に女人禁制の山岳への登山口でよくみられたことであるが、戦前まで旅館街の一部地域は遊廓の機能を有していた。

ごろごろ水の名称は、役行者が大峯山より下山の際にこの地で水を飲み、洞窟の奥より小石が転がるような音がしたところから名付けられた。

龍泉寺、山号は大峯山。

吉野の竹林院、桜本坊、喜蔵院、東南院と共に山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院の1つ。

本尊は弥勒菩薩。
近畿三十六不動尊霊場第31番札所。

洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっている。

洞川地区の中心的寺院として龍王講社を組織し、多くの参詣講を組織しているなど、大峯山山上ヶ岳への登拝の出発点となっている。

伝承によれば、 700年頃、大峰山で修行していた役小角が、この地に泉を発見し、「龍の口」と名づけて、その側に小堂を建て、八大龍王を祀ったのが起源とされる。

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