中近世の自治都市平野郷を訪ねる


全興寺を中心とする「平野中央通商店街」周辺は、太平洋戦争時に空襲を逃れたこともあり、古い町並みの面影が現在も残っている。

全興寺を後にして平野郷散策へ出る。

戦国時代平野郷は、自衛のため周囲に堀をめぐらし、環濠集落を形つくっていた。

そして、出入口にはそれぞれ門と門番屋敷や地蔵堂を設け警備に当った。
濠の間には、大小十三の木戸口があり、摂河泉各方面へ道路が放射状に延びていました。

ここは流口地蔵

流口は平野環濠の最南端の出入口で、流口木戸門から南下する道は中高野街道です。

中高野街道は喜連・瓜破を通り、嘗て平野川の水源だった狭山池で堺から来る西高野街道と合流する信仰の道です。

蘇民将来と疫病よけ

『釈日本紀』巻7に引用されている『備後国風土記』逸文に、疫隅社(えのくましゃ)の縁起として、次の説話が記されています。

昔、北の海に住んでいた武塔神(むたのかみ)が、南の海神の娘のもとに出かける途中、二人の兄弟に宿を乞いました。

兄の蘇民将来(そみんしょうらい)はとても貧しく、弟は裕福で大きな家に住んでいました。

弟は惜しんで家を貸そうとはしませんでした。

一方、兄は粟の茎で編んだ座布団をすすめ、粟飯と粟酒などを出してもてなしました。

数年が経ち、武塔神は八人の子神を連れてその地を再び訪れました。

そこで、「私は、以前受けた恩に報いようと思う。

あなたの子孫は家にいるか」と尋ねました。

蘇民将来は「私の娘と妻とが家におります」と答えました。

すると武塔神は、「茅の輪をその娘の腰に着けさせよ」と言います。

そのとおり娘の腰に茅の輪を着けさせたところ、その夜に娘一人を除いて、その土地の人々はことごとく殺され滅ぼされてしまいました。

武塔神は、さらに「私の正体は速須佐能雄能神(はやすさのをのかみ)である。

今後、疫病が流行することがあれば、蘇民将来の子孫と言って茅の輪を着けていれば、死を免れるであろう」と言いました。

この説話は、疫病消除の「茅の輪」の由来譚となっていますが、「蘇民将来の子孫」が呪文となり、疫病除けの護符に使用されます。

また、武塔神はスサノオノミコトと名乗っていますが、後には祇園社(八坂神社)の牛頭天王と習合し、その信仰は複雑に展開していきます。

おもろ庵

昭和博物館みたいな古民家カフェ

折角だが本日は定休日。

小林新聞

新聞屋さん博物館

朝日新聞誕生の地、大阪市内で一番古い朝日新聞販売店”小林新聞舗”。 
創業は明治22年。
 
館内には、明治時代の大阪朝日新聞・大阪毎日新聞、日清戦争から現在までの号外、読者サービスでであった明治時代からの双六・画報・優待券などの付録の他に、珍しい新聞販売資料・写真など数千点の所蔵の中から約二百点が展示されている。 

建物はモダンなアーチ型の窓があるノスタルジックな大正風。

店名は「アート」だが雑然としていてアートの感じがしない。

何処の商店街も同じだがやってるのかどうかよくわからない。

樋尻口は竜田越奈良街道や八尾街道に通じる道です。

樋尻門筋の名前は東に平野川から環濠の水を引く樋があったことに由来します。

樋尻口の守護神だった樋尻口地蔵は地雷で首を吹き飛ばされたという伝説があります。

真田幸村が家康を狙い地蔵付近に地雷を仕掛けましたが、家康の身替りになった地蔵の首が全興寺まで飛びました。

平野公園は環濠の一部であつた松山池の跡地につくられました。

公園内には環濠の痕跡がわずかに往時の名残をとどめております。

公園の周囲に環濠に沿って築かれた土塁が残っています。

観光の目印のようですが、説明がなく使い方不明です。

転用石

石垣をつくるため、墓石や民家の礎石だけでなく石仏までかき集めたというのは、領主にとって名誉な話ではない。

敵から没収したものなら自慢にもなるが、ほとんどは領民から取り上げたものである。

すなわち、石材を揃えられなかった事実は資金に窮していたことの証である。

やむを得ないことであるなら、見えない部分である地面や水面の下になる箇所に使用すればよい。

ところが、転用石の多くはわざわざ正面中央部や角の部分など、人目につく部分に使用されている。

城には物理的な強さだけでなく、多くの人の力を結集したという事実にもとづく呪術的な強さが必要というのが戦国時代の考え方であり、領民から集めた石を石垣にしたのはその現れだったとも考えられている。

墓石や石仏には人々の先祖代々の思念や信仰の力が籠もっているため、石垣の素材としては最適という考えが成り立つ。

転用石をよく見える場所に置くのは、領主と領民が一体となったことを誇示するものであり、石を提供した領民へのサービスであったという見方もなされている。

赤留姫神社

「赤留比賣命」は日本神話に登場する神で、新羅から祖国であるとする本邦へ渡来したとされています。

本社社殿の左側(北側)には「住吉社」(写真右側)と「金刀比羅社」(写真左側)が西向きに鎮座。

住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』にも「子神」として「赤留比賣命神」が記され、古くから住吉大社と関係が深かったことが窺えます。

境内入口。西向きに鳥居が建っています。

社地は横(南北方向)に広く縦(東西方向)に狭いため、鳥居をくぐってすぐのところに社殿が建っています。

拝殿後方に建つ本殿は銅板葺・一間社流造で朱塗りが施されたもの。

やや小高いところに建っています。

拝殿前の狛犬。砂岩製で、がっしりとした体格のもの。

神社の前に猫好きのおばちゃんがいてしばらく猫談義。

生活感は感じられないですが、風情のある建物です。

『鍾馗さん』は京都や奈良の町屋によく据えられている飾り瓦です。

中国で鬼を退治したという伝説の英雄で、疫病神を祓い、魔を取り除くと信じられてきました。

昔、ある薬屋が大きな家を建てた際、屋根に大きな鬼面瓦を据えたそうです。

その鬼瓦を見た、向かいの家の娘が、その鬼に常に睨まれているような気がして夜ごとうなされ、ついには病気になって寝込んでしまったのです。

家族は病気を直すために、様々な手をつくしたけれど、一向に良くならないので娘が言う、その鬼瓦を取り外してくれないかと、薬屋に頼んだのですが、薬屋には大金を払って取り付けた鬼瓦なので外す事はできない!と言われてしまうのです。

そこで家族は鬼に勝つものは何か?と考え、中国の伝説にならい鐘馗さんの瓦を特別につくってもらい屋根に置いたそうです。

すると、娘の病はすっかり回復したといいます。
これが屋根のうえに飾るようになった由縁とされているそうです。

立派な板塀のお家。

長寶寺 王舎山長生院

坂上田村麻呂の娘で桓武天皇の妃の春子姫が、延暦二十五年(806)桓武天皇崩御により、弘法大師に帰依し剃髪し慈心大姉となられ、長寶寺を開基されました。

「王舎山」の山号は、後醍醐天皇が、皇居を吉野に移される時に、長寶寺を仮の皇居とされ、その時に賜ったものです。

境内の手水鉢には 水神に祈願するため 瓢箪(ひょうたん)を模した石に柄杓(ひしゃく)で水を掛けるようになっている。

銅鐘は建久三年(1192)の銘を有し、京都東山金光寺の鐘であったことがわかり、鎌倉時代の代表的和鐘の一つに数えられています。 

ともに国の重要文化財に指定され、市立美術館に寄託されています。

広大な寺域に多くの堂宇があったが、元弘の乱(1331年)、建武年間 (南北朝の争い)、元和(大坂夏の陣(1615年))の兵火により、灰燼に帰した。

「平野郷町誌」によれば、現在の本堂・庫裡は、当寺第三十三代・慈源大姉の時、天保年間(1830-1844年)に再建されたと言う。なお、当寺の住職は代々坂上家の女子が補されることになっている。

防火水槽 58 ■ 平野区平野本町3-1-19

平野区ではじめて見つけた防火水槽は、ご覧の通りの本格派。

さすがは戦火に巻き込まれることなく今も風情ある旧平野郷にとてもマッチした物件です。
 
この第58号、昔ながらな格子ある町家の中に、まさに“鎮座”しています。

その材質は重厚感のある石。その上には木のフタ、そして大きな重石。

“イザっ”と言う時にヤワな人では消火作業できんのやないかとは思いますが、構成美としてはじつに落ち着きがあってかっこよくまとまっています。
 
よく見ると、どうやらこの物件の正面には文字が彫り込まれています。
 風情ある平野郷にあまりにぴったりすぎて“出来すぎ”な感もありますが、ほとんどオブジェとして残っているというのもちょっとテーマパークっぽくてええかもしれませんね。ま、“戦争遺産としての防火水槽を探す”というニュアンスからすると…ややはずれているとも思いますけれども。

古風な街並みに場違いなBar。

テントの破れと壁に絡まる蔦、面白い取り合わせ。

蔦だけでもおもしろてオブジェ。

平野郷十三口  田辺道西脇口地蔵

この地蔵堂は田辺道西脇口門の傍らにあったもので、田辺方面へ通じる木戸口であった。

環濠があった頃、地蔵堂は濠を背に東向きに建っていたが、昭和初期、濠を埋め道路を西へ伸長する際、南の道へ移され北向きとなった。   説明板より

南口地蔵とも子安地蔵とも呼ばれ、南下すると堺口から延びる住吉・堺に通じる八尾街道に合流します。

西脇口には昭和55年まで南海平野線が通り平野駅がありました。

現在は線路沿いに細長い公園になっています。

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「平野郷」発祥の地といわれる全興寺


平野本町通商店街の中ほどに入り口があります。

見ているとひっきりなしに近所のおばちゃんが参拝に見える。

飛鳥時代、聖徳太子が当時野原だったこの地域に仏堂を建て、薬師如来像を安置したのが起源とされる。

寺の名前の由来は不明であるが、この一帯が杭全荘と呼ばれた事から、「杭全を興す寺」から全興寺になったという説がある。

薬師堂の建立後、周りに人が住み始め、町を形成していった。

これが後の平野郷となる(「平野」という名前は平安初期、この地の領主だった坂上田村麻呂の子の坂上広野(坂上広野麿)の「ひろの」が転化して「ひらの」になったと言われている。

本堂には樋尻口地蔵堂の地蔵首も祭られている。

大阪夏の陣で、真田信繁(幸村)が地蔵堂に地雷を仕掛け、徳川家康の爆殺を図ったが、地雷が爆発した時、家康はたまたま催して席を外していた為、辛くも難を逃れたという伝説がある(平野の地雷火)。

この地雷により、地蔵の首が約300メートル離れた同寺に飛んだとされる。
地蔵首の開帳は8月23日と24日。

中世には藤原氏の荘園となり、応仁の乱以降は戦乱に巻き込まれないようにと豪商らが環濠を築き上げ、堺と並ぶ環濠都市として栄えた。

大坂冬の陣では徳川秀忠の軍勢が河内路より平野に入り、全興寺の隣にある野堂町会所を本陣にしたと伝えられている。

全興寺では推奨されている参拝順路があります。

まず本堂へお参りし、その後にこちらの地獄堂へ行くのです。

ガラスの涅槃仏

涅槃仏とは、お釈迦さまが横たわりお亡くなりになられたときのお姿。
こちらでは総ガラスの涅槃仏が見られるとのことで、貴重な体験になります。

一願不動尊の雲海では、中央に立っておられるお不動さまの池に鯉が泳ぎ、時折白い水蒸気の雲海がたなびきます。

ほとけのくに

境内の地下には「ほとけのくに」という多数の石仏に囲まれた空間がある。

四国八十八箇所霊場から採取した砂を納めた手すりがある階段を下りた所にあり、床には密教の曼荼羅がデザインされたステンドグラスがあり、そこに座って瞑想をすることが出来る。

中では水琴窟の音が聞こえ、周囲には真言宗の開祖である弘法大師像や四国八十八箇所の札所の本尊など約160体の石仏が置かれている。

参拝者は曼荼羅の上で瞑想したり、石仏を熱心に拝んだり、おのおのの形で祈りを捧げている。

地獄堂

堂の中は薄暗く、閻魔大王や2メートル以上ある鬼の像が置かれており、閻魔大王の前にあるドラを叩くと、大王がしゃべり出し、地獄の様子がビデオで映し出される仕組みとなっている。

その恐ろしさに途中で泣いて逃げ出す子も多いが、最後は閻魔大王が「こんな所に行かぬよう、悪いことをせず、自分の命を大切に」と諭すという。

道標

右 さ山 高野山 すぐ信貴山道

「小さな駄菓子屋さん博物館」と「のぞいてごらん おばあちゃんのお部屋」では、昭和20年~40年代に駄菓子やさんに並んでいたおもちゃや、その駄菓子屋さんのおばあちゃんの部屋をみることが出来る。

旧石器時代から現代まで、人々が営んできた歴史がいっぱい詰まった町、平野の一部をこの後散策します。

かなり失われたものも数多くありますが多くの歴史のつまったこの地区を今後も改めて機会を見つけて巡りたいと思う。

アクセス

JR平野駅より歩いて13分・地下鉄平野駅より歩いて13分                             
電話番号 06-6791-2680
開門時間 朝7時ごろから夕方5時すぎまで

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天保12年創業 角長


湯浅町は、諸説ある日本における醤油発祥地の一つで、その醸造文化が2017年度には文化庁から日本遺産に認定されている。

鎌倉時代、同じ紀伊国(和歌山県)の興国寺の僧であった心地覚心(法燈国師)が、入宋時に学んだ径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型だとされている。

江戸時代、湯浅の醤油造りは紀州藩の庇護を受け発展し、92軒もの醤油屋があった。
しかし、第二次世界大戦後の混乱などにより、1949年には23軒にまで減少。

その後も大手との競争激化などによりさらに減ったが、今日でも角長や湯浅醤油など5軒が醤油造りを続けている。

日本が世界に誇る調味料(SOY SAUSE)のルーツは湯浅だった。

嘗味噌の中に、瓜・茄子などの野菜から塩の浸透圧によって水分が出てくる。

この水は当時の野菜の生産が6月~8月であったため、黴の発生や腐敗の元にもなり、捨てるだけであったのだが、昔ある時、その汁を利用してみると、これがなかなか美味しい。

そこで、初めからその汁を利用するつもりで造れば「新しい醤」つまり調味料が誕生すると考えたのが今様醤油の始まりだと言われている。

また、湯浅の水が醤油作りに適した水であった事も湯浅醤油発展の一因となっている。

紀勢本線 湯浅駅から北西に700m。山田川沿いの“北町通り”には昔ながらの醤油蔵が立ち並び、その中心部に老舗の醤油メーカー“角長”がある。

湯浅の地は熊野路の入口にあたり港も発達し、また良質の水にも恵まれたため、興国寺の醤油はこの地に定着し、自家用以外に商品として製造された。

16世紀中ごろには大坂などに出荷され、江戸時代には 紀州藩の特別な保護もあって、90軒を超える醸造家が現れ“湯浅醤油”の名声は不動のものとなった。

大仙掘に面する醸造場には「角長・醤油発祥地」の袖看板がでている。

また醸造場の南に並ぶ“角長醤油職人蔵”と“角長醤油資料館”には それぞれ「醤油の発祥」「湯浅醤油の起源」という説明板が掲示されている。

その後 醤油醸造の技術は、野田(千葉県)・銚子(千葉県)や小豆島(兵庫県)などに伝わり、やがて大手メーカーによる大量生産の技術が開発されると、伝統的な手作り醤油の湯浅醤油はシェアを大きく奪われて衰退し、現在は醸造家の数は非常に少なくなっている

。伝統的な製法で醸造しているのは “角長”一軒のみであるという。

上方しょうゆの発達

室町時代後期以降、近畿地方にしょうゆの産地が形成されます。

堺、湯浅、龍野などの産地は、江戸時代中期にしょうゆの量産化がすすみ、製法が進化して品質も向上します。

その後、江戸時代に上方で書かれたとされる『万金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』によると、しょうゆの原料に、炒って挽き割った小麦と、よく煮た大豆をかき混ぜ、「麹蓋」に入れて麹をつくると記されており、現在のしょうゆづくりとの共通点が見いだせます。

また、大坂を舞台にした世話浄瑠璃『曾根崎心中』の主人公徳兵衛は醤油屋の手代であったことからも、この頃の上方の町人にとって、しょうゆは身近な存在だったと想像されます。

江戸時代初期~しょうゆ、東へ

1603(慶長8)年、幕府が江戸に開かれると、経済、文化も江戸を中心に発展するようになります。

江戸初期には都市建設がすすむ中で、生活用品の多くは上方のものが使われていました。

しょうゆも例外ではなく、上方から大量のしょうゆが江戸に送られていた記録が残っています。
いわゆる「下り(くだり)醤油」です。

江戸時代中期~関東における生産の発展

江戸の町が整備されるとともに関東でさまざまな産業が興り、上方からの輸送に依存しないようになっていきます。

関東におけるしょうゆ生産の中心として発展したのが、下総国の野田と銚子でした。

しょうゆづくりに適した気候、江戸川・利根川を利用した水運、また周辺に原料となる大豆・小麦を産する平野がひらけていたことで、しょうゆの一大産地となっていきます。

いやぁ、角長の話から曽根崎心中が出てくるとは思いませんでした。

この世の名残夜も名残・・・ お初天神
「誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。 取伝へ貴賤群集の回向の種。 未来成仏 … 続きを読む →

この世の名残、夜も名残 北新地蜆川跡を辿れば
阪神・福島駅~梅田橋跡~浄祐寺~大阪堂島市役所跡~出入橋~桜橋跡碑~堂島薬師堂~ … 続きを読む →


この春、龍野を訪れました、ここも醤油の産地です、醤油のことに少し触れています。

童謡「赤とんぼ」のふるさと 龍野
『播磨国風土記』によれば、龍野の由来は「『野見宿禰がこの地で没し、出雲から多くの … 続きを読む →

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熊野詣の宿泊所でもあった深専寺


玉光山深専寺(じんせんじ)は湯浅にある西山浄土宗の仏教寺院。

開基(創立者)は明秀上人と伝える。

本堂大棟には1m80cmの鯱像がある。

大地震津波心得之記碑

嘉永七年六月十四日夜八ツ時下り大地震ゆり出し翌十五日まで三十一二度ゆりそれより小地震日としてゆらざることなし

廿五日頃漸ゆりやミ人心おだやかになりしニ同年十一月四日晴天四ツ時大地震凡半時ばかり瓦落柱ねぢれたる家も多し 

川口よた来たることおびたゞしかりとも其日もことなく暮て翌五日昼七ツ時きのふよりつよき地震にて未申のかた海鳴こと三四度見るうち海のおもて山のごとくもりあがり津波といふやうな高波うちあげ北川南川原へ大木大石をさかまき家蔵船みぢんニ砕き高波おし来たる勢ひすさまじくおそろし 

なんといはんかたなし 

これより先地震をのがれんため濱へ逃あるひハ舟にのり又ハ北川南川筋へ逃たる人のあやうきめにあひ溺死の人もすくなからず 

すでに百五十年前宝永四年乃地震にも濱邊へにげて津波に死せし人のあまた有しとなん聞つたふ人もまれまれになり行ものなれハこの碑を建置ものそかし 

又昔よりつたへいふ井戸の水のへり 

あるひハ津波有へき印なりといへれどこの折には井の水乃へりもにごりもせざりし 

さすれハ井水の増減によらず 

この後萬一大地震ゆることあらハ火用心をいたし津波もよせ来へしと心えかならず濱邊川筋へ逃ゆかず深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべし

恵空一菴書

奈良時代には行基の開祖による海雲院という寺院として創建されたとされる。

平安時代末期に盛んになった熊野三山への信仰により、熊野街道の通る湯浅が交通の要害として発展していた。

南北朝時代、1462年(寛正3年)または1431年(永享3年)頃に、荒廃していた海雲院を、赤松則村の曾孫である明秀上人が、浄土宗西山派の教えを持って「深専寺」と改称し再興した。

再興年代については諸説あり、紀伊名所図会や紀伊続風土記には宝徳年間(1449年 ~ 1451年)とされている。

承応年間(1652年 ~ 1654年)の「湯浅の大火」によって深専寺は全焼し、寛文3年(1663年)より浄財公募による再建の際、紀州藩徳川頼宣より財政支援を受けた。

平成10年(1998年)、本堂が和歌山県指定有形文化財に指定された。

山門を入ると、右手に芭蕉の句碑があった。

春の夜はさくらに明けてしまひけり

出典は『翁草』(里圃編)。

何時どこで詠まれた句か、不明。

『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄四未とし」とする。

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一攫千金ミカン船~紀伊国屋文左衛門


青春18切符第4弾、これから湯浅まで行きます。

近いと思って侮ってはいけません、JRもしっかりしています。
和歌山までは快速がバンバン走っています。

しかし、和歌山以南は特急がメインで、普通列車は1時間に1本。

和歌山で1時間待ちです。
接続をちゃんと確認すること。

やっとのことで湯浅到着、なんとここは無人駅。
JRも人員削減には色々と知恵を絞っていますね、車内検札なんか見たこともないでしょう。

ところがあるんです、何かあったんだろうと思うけど、先日の尾道からの帰り、いきなり車内検札が始まりました、学生数名が慌てていたようですが、金をとられてました。
見るところはちゃんと見ているんだね。

湯浅駅前に”文平の像”というのがあります、若き日の紀伊国屋文左衛門の姿です。

江戸時代前期の豪商、紀伊国屋文左衛門(紀文)は、寛文9(1669)年の頃、湯浅町別所で生まれたと推定されており、幼名を文平と呼ばれました。

紀州で商人として修行を積み、江戸に出ると独創的な商才を発揮、紀州みかんの輸送や木材商として巨万の材を築きました。

その後、数多くの伝説を残して資産を整理、晩年は風流の道に入り悠々自適の生活を送りました。

この像は荒海にみかん船をこぎ出そうとする文平の勇姿を表現しています。

沖の暗いのに白帆が見える
あれは紀の国 みかん船

(説明石碑より)

早咲き桜の名所は春爛漫 紀三井寺
金剛宝寺護国院(紀三井寺)は名草山の中腹、和歌の浦の絶景を望む景勝地に建っており … 続きを読む →


楼門からの231段の急な石段は結縁坂と呼ばれています。

豪商紀ノ国屋文左衛門は若いころ貧しいが孝心篤い青年でした。
ある日母を背負って紀三井寺の表坂を上り観音様にお参りしましたが草履の鼻緒が切れてしまいました。

困っていた文左衛門の鼻緒をすげ替えてくれたのは和歌浦湾にある玉津神社の宮司の娘おかよさんでした。

これがきっかけで二人に恋が芽生え結ばれました。
その後文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立てミカンと材木を江戸へ送って大儲けしたのです。

紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂はそれ以来結縁坂と呼ばれるようになったそうです。

一攫千金ミカン船という話はどうも偽臭いという説があります。
紀伊国屋文左衛門の実像
幕末に為永春水が紀伊国屋文左衛門という実在の人物をモデルにして書いた長編小説『黄金水大尽盃』は12年間にわたり28編も続き、非常に多くの人に読まれました。
その結果、史実と小説がゴチャまぜになり、紀文の実像はわからなくなりました。
明治18年(1885)にでた『大日本人名辞書』に小説が紀文の逸話としてそっくり載せられ、これ以降の人物説明は逸話に沿って書かれているものがほとんどです。

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ヒンドゥの神々 民博


ヒンドゥーの神々といえば、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。

狭い意味でのヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。

紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。

彼らは前1500年頃ヴェーダを成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。

紀元前5世紀頃に政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。

その結果、バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く(バラモン教もヒンドゥー教に含む考えもある)。

ヒンドゥー教は紀元前5 – 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 – 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。

その後、インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。

シヴァ神とパールヴァティ女神

シヴァはヒンドゥ教の主な神格で、世界の破壊と再生を司る。

妻パールヴァティーは穏やかな姿で現れるが、その変身形ドゥルガーは武器を携え、災いを払う女神とされる。

象頭のガネーシャはシヴァの息子で、福をもたらす神として人気がある

ドゥルガー女神

パールヴァティーの化身の一つで美しい戦いの女神。
虎に騎乗して水牛に化けた悪魔を倒す美しい神像が有名。

ヒンドゥー教の大女神。
シバ神の妻。

パールバティーPārvatī,ウマーUmā,ガウリーGaurī,カーリーなどの別名をもつが,これらは元来別の女神であったと考えられている。

ドゥルガーは〈超え難い女性〉という意味で、悪魔たちを殺す恐ろしい女性戦士とみなされている。

シヴァ神 (ナタラージャ) インド カルナータカ州 

穢れや罪に満ちた世界を消滅させるためのダンスを踊るシヴァ神。

この姿から20世紀に入ってシヴァ神は舞踊の神とも見なされるようになった。

ダーキニー女神(空行母) チベット自治区

荼枳尼天(だきにてん)は、仏教の神(天)。
夜叉の一種とされる。

荼枳尼天の起源であるインドのダーキニーは、裸身で虚空を駆け、人肉を食べる魔女である。

ダーキニーの起源は明らかでないが、ヒンドゥー教もしくはベンガル地方の土着信仰から仏教に導入されたと考えられている。

ヒンドゥー教ではカーリーの眷属とされ、カーリーに付き従って尸林をさまよい、敵を殺し、その血肉を食らう女鬼・夜叉女となっている。

ヤマーンタカ尊 チベット自治区

梵名のヤマーンタカとは『死神ヤマをも降す者』の意味で、降閻魔尊ともよばれる。

またヴァジュラバイラヴァ(vajrabhairava 、金剛怖畏)、ヤマーリ(『死神ヤマの敵』)、マヒシャサンヴァラ (『水牛を押し止める者』)ともいう。

観自在菩薩

観世音菩薩は、本来男性であったと考えられる。

しかしながら、中国では「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多い。

また、例えば地蔵菩薩を観音と同じ大悲闡提の一対として見る場合が多く、地蔵が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る場合が多い

インドでは諸神を招く時、土壇上に円形または方形の魔方陣、マンダラを色砂で描いて秘術を行う。

色砂で土壇上に描くため、古い物は残っていないが、チベット仏教などでは今でも修行の一環として儀式、祭礼を行う時に描かれる。

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今熊野観音寺


鳥居橋

参拝するのに、泉涌寺参道から左に折れて観音寺に入ると、真っ先に目を引くのがこの赤い橋「鳥居橋(とりいばし)」。

観音寺と泉涌寺の間の谷を流れる川を今熊野川といいますが、その川を越えるのが鳥居橋です。

古くからこの地には熊野権現社が鎮まっていたので、橋の名前の由来となったとも言われております。

今熊野観音寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。

総本山泉涌寺の塔頭。
山号は新那智山。
本尊は十一面観世音菩薩

正式な寺号は観音寺である
西国三十三所第15番札所。

空海が唐で真言密教を学んで帰国した翌年にあたる大同2年(807年)、東山から光が出ているのを見つけた空海は、不思議に思って当地にやってきたところ、老人の姿をした熊野権現が現れた。

熊野権現は空海に天照大神御作の一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡してこの地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り、衆生を救済するようにと言った。

山中に建つのは医聖堂

本堂東側の山上にひときわ高くそびえ立つ平安様式の多宝塔です。

医と宗教がともに手をたずさえて、人類がともに明るく健康に暮らせるような社会が築かれますよう、との住職の願いを込めて建立致しました。

この「医聖堂」には医界に貢献された多くの方々が祭祀されています。

平成28年、丹塗りの塗り替えが施され、33年ぶりに鮮やかな朱色が蘇りました。

塔の足元にある石碑には「杉田玄白」、「華岡青洲」、「緒方洪庵」など偉人の名前がズラリ。
医学部を目指す学生の合格祈願の対象にもなっています

空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像をその体内仏として中に納め、熊野権現の言うようにこの地に一宇を建てて奉安した。

これが当寺の始まりであるとされる。

平安時代後期になると、紀伊国熊野の熊野三山に対してこの地を今熊野と称し、白河法皇の時代には今熊野修験の中心地として栄え、寺名も東山観音寺と呼ばれるようになる。

後白河上皇は熱心な熊野三山の信者であったが、紀伊国熊野の地は遠く、気軽には参詣できないために今熊野と呼ばれていた当地一帯に目を付け、永暦元年(1160年)に当地に新たに熊野権現を勧請し、当山の本尊をその本地仏として定めたうえで「新那智山」の山号を授けて東山観音寺を観音寺に改め、山麓に新熊野神社をも造営した。

鳥辺野の南西の地(鳥戸野)は、古くからの貴族の葬地であったが、当寺がその葬地をつかさどっていた。

そのため貴族の葬儀や法要の多くを観音寺は行っている。
後堀河天皇の観音寺陵は、当寺の東南に隣接している。

後白河上皇は持病である頭痛を当山の観音菩薩によって治してもらった。

この出来事以来、一般の人々からも頭痛封じの観音様として尊崇されるようになった。

ぼけ封じ観音

大師堂の前に立たれる観音さまが、「ぼけ封じ観音」。

私たちをとりまく心や身体のぼけを取り除いて下さる観音さまです。

大師堂

当山を開創された弘法大師をお祀りしているお堂です。
東山大師と呼ばれ、大師信仰の方々のお詣りが絶えません。

不動明王、愛染明王、また当山の伽藍を寄進建立された左大臣藤原緒嗣の像もお祀りされています。

五智水

当山を開かれた弘法大師が、熊野権現の御霊示にしたがい、観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぼうと、錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。

大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。

爾来今日に到るまでこんこんと湧き出し、私たちに深き恵みの水をお与え下さっています。

清水焼の窯元「陶葊(とうあん)」の土塀
芸術作品のようなデザインが印象的です。

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御寺別当来迎院


来迎院は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。
山号は明応山。
本尊は阿弥陀如来。

泉涌寺の塔頭。禁裏御菩提所泉涌寺別当、御寺(みてら)別当来迎院とも称する(「御寺」とは泉涌寺のこと)。
泉山七福神巡り第4番(布袋尊)札所。

寺伝によれば、大同元年(806年)に空海(弘法大師)が唐(中国)で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされる。

それから約400年後の建保6年(1218年)、泉涌寺の長老であった月翁智鏡律師が、藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し、泉涌寺の子院となったが、応仁2年(1468年)の応仁の乱の兵火により伽藍が焼失し、荒廃した。

その後、天正2年(1574年)、中興の祖 舜甫明韶が織田信長の援助により再興、慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い、ようやく復興を果たした。

荒神堂に安置されている三宝大荒神像は空海(弘法大師)が唐で感得し、当初は自ら座像を製作したと伝えられる。

伝承によれば、あるとき現在来迎院の建つ山の頂が七日七夜にわたって光を放ち、これにより空海はここを霊地であると考え、来迎院を興したと伝える。

三宝荒神は本来、火の神として台所、かまどを司るとされるが、来迎院の荒神は「胞衣荒神(ゆなこうじん)」とも称され、安産の御利益もあるとされて、皇后宮安産の勅願所として信仰を集め、現在も安産を祈願する参拝客が訪れている。

また、日本でもっとも古い荒神(荒神像)であるとされる。

弘法大師独鈷水

弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」は、縦穴の井戸ではなく、崖の下の部分から横方向に伸びる洞窟のような形状をしており、柄の長い柄杓を用いて汲み上げる。

伝承によれば、霊元天皇の寵愛を受けた女官、小少将局の娘は生まれつき目が不自由であったが、独鈷水で目を洗うと良いというお告げに従ったところ、たちまちにして目が治ったと言われる。

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下において、赤穂藩の大名であった浅野長矩(浅野内匠頭)が吉良義央(吉良上野介)に斬り付ける事件が発生した。

浅野長矩は切腹、赤穂浅野家はお家断絶となった。

浅野の家臣である大石良雄は赤穂を退去した後、外戚にあたる当時の泉涌寺長老、兼、来迎院住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構え、多くの時間を来迎院で過ごしたと伝えられる。

大石良雄は来迎院に書院を興し、また、境内に弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」が湧き出ることから[茶室「含翆軒」(がんすいけん)、「含翆庭」(がんすいてい、池泉回遊式庭園)を設け、ここで茶会を催しながら同士である元赤穂藩の家臣達と討ち入りの密議をおこなったとされる。

また大石は、現在も来迎院本堂に安置される勝軍地蔵像(しょうぐんじぞうぞう)を念持仏として祈願したと伝えられる。

茶室「含翠軒」は、大石良雄が山科の浪宅に住んだ頃に建てられたという。

大石は茶を嗜み、この茶室で同志と密会したという。
「赤穂忠臣談合所」とも呼ばれた。
 
現在の茶室は、近代、1925年に再建されている。軒の扁額「含翠」は、大石筆という。

明治時代になると廃仏毀釈により荒廃したが、大正時代になって修復され、現在に至る。

また、大正時代になり、当時の玄暁住職によって、大石良雄の遺徳を偲び毎月14日に含翆軒にて茶会が催されるようになった。

また、赤穂浪士による討ち入り(赤穂事件)が行われた12月14日には、「大石忌」として茶会が営まれた。

この茶会は現在も「含翆会」(がんすいかい)の名で継続されている。

庭に「伽藍石の蹲踞」「足利時代の八面仏石幢」「足利時代の八面仏石」「安土・桃山時代の聚楽第灯籠」などが配されている。

含翠庭、足利時代の八面仏石幢

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善能寺庭園 (遊仙苑) 重森三玲の作品を鑑賞できる隠れ名園


善能寺(ぜんのうじ)は、京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の寺院。

泉涌寺の塔頭のひとつで、本尊は聖観音。
洛陽三十三所観音霊場第18番札所。

この寺は一説によれば、元は西八条猪熊二階堂町にあった二階観音堂と呼ばれていた寺であったが、弘仁14年(823年)に空海がこの寺に稲荷大明神(荼枳尼天)を祀って寺の名称を善能寺に改めたという。

句碑 

境内に俳人・荻原井泉水(おぎわら-せいせんすい)の句碑「南無観世音 藤はようらく(揺落)空に散る」が立つ。 
手向けの供養句碑という。

石組は重森三玲による。
白砂に立てられた句碑を石組に入れ、四方正面の三尊石組になる。

その後、平城天皇の勅願寺となったこともあるが、天文24年(1555年)に後奈良天皇の命で泉涌寺の塔頭とされ、今熊野観音寺の西北に移された。

明治時代の廃仏毀釈で荒廃し、1887年(明治20年)に現在地に移された。稲荷大明神(荼枳尼天)を日本で最初に祀った寺ともされる。

1972年(昭和47年)には作庭家の重森三玲によって池泉庭園遊仙苑が造られた。

本堂を囲むように作庭された池泉鑑賞式庭園“仙遊苑”を手掛けた昭和47年は『豊国神社 秀石庭』なども手掛けた年。

現在は池に水が貼られていませんが、多数の阿波の青石による石組が見所。

雲紋築山、雲とも飛行機の形を象ったともいわれている。
かつては白砂敷きに苔地の築山となっていたという。

三玲は、「飛行機が幾千万の山海上空を飛翔し、窓外に各地の山岳や平野を俯瞰する景観を全庭に畳んだ」と述べている。

航空機にも見える立石の石橋。

現在の本堂・祥空殿は1971年(昭和46年)のばんだい号墜落事故の遺族の寄進により、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立されたものである。

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御寺泉涌寺


泉涌寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の総本山の寺院。

山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。

本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。
皇室の菩提寺(皇室香華院)として御寺(みてら)と呼ばれている。

大門を通ると下り坂の先に仏殿が見えます。

「下り参道」と呼ばれる珍しい伽藍配置で、じつはこれも盆地の底に本堂を建てるのが修行に適しているとされていたから。

総門を入ると、参道の左右にいくつかの塔頭(山内寺院)がある。

長い参道の先にある大門をくぐると、左手に楊貴妃観音堂があり、正面には伽藍の中心をなす仏殿、舎利殿が建ち、これらの背後に霊明殿、御座所など皇室ゆかりの建築があり、その背後に月輪陵がある。



唐の皇帝玄宗(げんそう)の妃・楊貴妃の等身坐像にかたどったという聖観音像が安置されている楊貴妃観音堂。

1255年(建長7年)、中国に渡った湛海が持ち帰り、泉涌寺に安置したとのだという。

長い間、100年に一度の開帳という秘仏であったが、1956年(昭和31年)から一般公開されている。

楊貴妃観音像には、玄宗が亡き妃の面影を偲ぶため、香木で等身坐像にかたどった聖観音像を造ったという伝承がある。

今日では、女性の様々な願いを叶えてくれるパワースポットとして知られている。

泉涌水屋形

1218年(建保6)月輪大師が造営するにあたり、清泉が涌き泉涌寺と改められた。


霊明殿 – 天智天皇と光仁天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后(南北両朝の天皇も含む)の尊牌(位牌)を安置する。

1882年(明治15年)に焼失し、現在の霊明殿は、1884年(明治17年)に明治天皇の勅命により再建された。
入母屋造り桧皮葺きで、外観は宸殿風の建物である。

1871年(明治4年)に般舟院など京都府内の諸寺院にあった尊牌がここに集められている。

舎利殿と仏殿

勅使門。

御座所 – 仏殿・舎利殿の背後に建つ。

文化15年(1818年)に建立され、現在の建物は、明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を1884年(明治17年)に移築したもので、女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。玉座の間は、天皇・皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋で、平成期(1989年 – 2019年)に入ってからは、即位報告(1990年)、平安建都1200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)、譲位の報告(2019年)などの際に平成の天皇が泉涌寺を訪れ、この部屋を使用している。

今上天皇の即位の報告(2019年)の際にも用いられた。

侍の間

勅使門・車寄せ

平安時代に弘法大師空海が草創したと伝わるが、実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)で、天台、東密、禅、浄土の四宗兼学の道場として再興した。

東山の一峰である月輪山の麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る天皇陵があり、霊明殿には歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)が奉安されている。

後鳥羽上皇や土御門上皇、順徳上皇、後高倉院の他、北条政子や北条泰時も俊芿の下で受戒するなどその勢いは強まり、貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ、仁治3年(1242年)正月には四条天皇の葬儀を行うまでになっている。

こうした関係から後堀河天皇と四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれた。

この頃から皇室との結び付きがより強まっていき、遂には南北朝時代から安土桃山時代までの歴代天皇の葬儀を一手に行うまでになっている。

境内には『枕草子』の作者である清少納言の父・清原元輔の旧居で、清少納言が晩年を過ごしたとされる月輪山荘にほど近い場所として、1974年(昭和49年)に平安博物館館長・角田文衞の発案で百人一首に採られた「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」の歌碑が建立されている。

御座所庭園

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