旧嵯峨御所大覚寺門跡


嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。

臥龍の松

地を這うように松が生い茂っており、非常に美しい。

嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する持仏堂の五覚院を建て、修法を行ったのがそもそもの起源とされる。

画像は表門天井

江戸時代初期 木造切妻造本瓦葺

その後、嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。

嵯峨天皇には孫にあたる淳和天皇の皇子の恒寂(ごうじゃく)入道親王を開山(初代住職)とした。

北山杉が壁に影を落とす。

応仁2年(1468年)、応仁の乱によりほとんどの堂宇が焼失する。

天文3年(1534年)からは東山にある安井門跡蓮華光院の門跡を兼帯するようになった。

天文5年(1536年)、木沢長政により放火されて堂舎が炎上している。

天正17年(1589年)に空性が門跡になってから復興にとりかかり、寛永年間(1624年 – 1644年)にはほぼ寺観が整えられた。

「女ひとり」という歌があった、永六輔作詞、いずみたく作曲、デューク・エイセスが歌ったご当地ソング。

「にほんのうた」シリーズの一曲で、京都府を舞台とした楽曲。

1965年に制作され、ヒットした。福岡県を舞台とした「ぼた山」との両A面シングル(東芝レコード TP-1117)として発売された。

歌詞には、京都の三千院、高山寺、大覚寺の三つの寺院が登場する。

村雨の廊下

宸殿と心経前殿を結ぶ回廊は、縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光(いなびかり)にたとえ「村雨の廊下」と呼ばれる。

高貴な人が通られる際の防犯の意味で、天井は刀や槍を振り上げられないように低く造られている。

床は鴬(うぐいす)張りとなっている。

嵯峨菊は、嵯峨天皇がその気品ある姿と香りを好まれ、この独特の古代菊を、永年にわたり王朝の感覚を持って育成し、一つの型に仕立て上げられた風情と、格調をかねそなえた菊が大覚寺「門外不出」の嵯峨菊。

この菊の仕立ては一鉢に三本仕立てとし、長さは約二メートルに育成。

これは殿上から鑑賞されるために高く育てているのです。

嵯峨菊は、嵯峨天皇がその気品ある姿と香りを好まれ、この独特の古代菊を、永年にわたり王朝の感覚を持って育成し、一つの型に仕立て上げられた風情と、格調をかねそなえた菊が大覚寺「門外不出」の嵯峨菊です。

以前の映像大覚寺の嵯峨菊展2016

毎年大覚寺の境内にて11月1日~11月30日の1ヶ月間開催され、大覚寺で栽培され … 続きを読む →

今年も展示が予定されている。

日 程:令和3年11月1日(月)~11月30日(火)

時 間:9時~17時(16時30分受付終了)

勅使門

江戸時代・嘉永年間の再建で門は四脚門とし、屋根は切妻造り、正面および背面に軒唐破風を付け全体は素木造りだが唐破風の部分のみ漆を塗り、金鍍金の飾り装飾を施している大きな菊の御紋をいただいたすばらしい門。

伝統的な建築を表現するにはやはり色が邪魔になる。

モノクロで仕上げてみた。

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湖底に沈んだ古代の港町 – 阿曽津千軒


琵琶湖湖底遺跡は、滋賀県の琵琶湖に100以上確認されている集落などの湖底遺跡の総称。

縄文時代から江戸時代まで様々な要因で水没し、水中にあるため解明が進んでいない。

これから片道約40分の山越の径、湖底に沈んだという阿曾津千軒跡を訪れる。

津波の発生時期は992(正歴3)年又は1185(文治元)年とも云われているがはっきりしない。
いずれにしても1000年近く前のことである。

阿曾津の港は海津、塩津と並んで栄えた港町であったが、地震で全村が琵琶湖に沈んだ。

古墳らしき場所を見ながらひたすら下っていくと、「海老越し」とよばれる尾根越えの道に差し掛かりました。

阿曾津千軒跡周辺 琵琶湖に向かって傾斜のある平地が広がっている。

全域に小石が散乱している。

奥山の地蔵尊。

やがて湖岸に出た。

これから片道約10分の有漏神社往復する。

前方に見える山道を登る。

山道を登ると木之本町山梨子の「有漏神社」がある。

阿曾津は全滅する前から堅田漁師とつながりがあったようだ。

有漏神社が航行の安全祈願などに御利益が有るということで、遠く大津湊の崇敬を集めていた。

半島と半島の中間に見えるのが竹生島。

昔むかし琵琶湖のほとりには、たいへん栄えた阿曽津村という大きな集落がありました。

そこには大金持ちの老婆が住んでおり、お金を村人たちに貸し付けていたそうです。

たまたま居合わせた堅田の漁師に助けられますが、介抱も虚しく老婆は息絶えてしまいます。

老婆の祟りなのか、間もなく阿曽津村は大津波に襲われてしまいました。

海岸で小鹿のものと思われる頭蓋骨を発見。

台風で倒された木の根。

対岸は時の流れが止まったかのような知る人ぞ知る「月出」と言う集落です。

国道303号線から奥琵琶湖パークウェイに入り、すぐ左の細い道を湖岸沿いに2キロほど行ったところに、ひっそりと小さな漁港と集落があります。

葛籠尾崎湖底遺の土器は一般の遺跡とは異なり、湖底の土中に埋没せず露出しています。

このような遺跡は他に例がなくその成因は謎に包まれています。

葛籠尾崎湖底遺跡資料館

琵琶湖の水深10~70mの湖底から発見された縄文・弥生時代の土器を展示しています。

数千年、数百年の時を経て現代に伝わる古代ロマンを感じることができます。

大正13年(1924)末、湖水を挟んで葛籠尾崎の東方に位置する尾上(おのえ:現長浜市湖北町)の老漁師喜助が?(イサザ)漁をしていたところ、底引き網に数個の土器が引っ掛かりました。

その後も、縄文土器や弥生土器・土師器・須恵器などの土器や石器などの遺物が次々と引き揚げられ、湖底遺跡の存在が明らかになりました。

これらの遺物を収蔵・展示しているのが、尾上公民館内にある葛籠尾崎湖底遺跡資料館です。

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西野隧道


阿曾津千軒を訪ねる旅、先ず西野隧道へ向かいます。
左手に竹生島を眺めながら快適な旅です。

「魞漁(えりりょう)」による仕掛けが見えています。

魞漁は障害物にぶつかるとそれに沿って泳ぐ魚の習性を利用し、湖岸から沖に向かって矢印型に網を設置。「つぼ」と呼ばれる行き止まりに誘導して捕まえます。

冬の琵琶湖の風物詩です。

西野水道は、西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mの排水用の岩穴です。

今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業です。

能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけてノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴です。

2代目 現在は琵琶湖側への連絡通路として使用されている。全長245m。

初代 西野恵荘が掘削した放水路。全長220m。滋賀県指定文化財(史跡)。

かつて余呉川は大雨の度に氾濫を起こし、流域の集落に大きな被害をもたらし続けていた。

特に、現在の長浜市高月町西野周辺はその集落の高低差ゆえ、氾濫の度に集落は浸水・飢饉に悩まされた。

その集落で育った僧の西野恵荘が、これを打開するには琵琶湖に放水路を作らなければならないと考え、1840年(天保11年)7月29日に掘削しはじめた。

工事は岩盤の固さ、資金、落石事故などが原因で難工事であったが、1845年(弘化2年)9月1日に完成した。

充満寺11代住職西野恵荘は、この洪水を何とかしようと西の山をくり抜いて、びわ湖へ排水を流す事を考えていました。

そこで恵荘と住民は彦根藩から「ずいどう(トンネル)」を掘る許可をもらい、1840年(天保11年)より工事をはじめました。

5年後の1845年(弘化2年)にずいどうが完成し、「西野水道(にしのすいどう)」と名付けました。

西野の人たちが、自ら生活を守ろうと行った工事は、江戸時代の民衆活動を伝える興味ある話とされています。

西野恵荘は、こうした工事を考え西野の人たちをまとめた人でした。

西野恵荘は71歳でなくなりますが、このとき彦根藩の井伊直弼は彼の功績をたたえ、 “上人”(※)の称号を送ったと言うことです。

湖北水鳥センターでしばしのお買い物タイム。

湿地のヨシ、琵琶湖とそれに連なる内湖の岸辺には、古代からヨシが大きな群落をつくり、現在でも180haを超えるヨシ帯が残され、わが国有数のヨシ産業が営まれている地域です。

ヨシは昔から葭簀(よしず)や葭戸、衝立(ついたて)などの加工品から葭葺き屋根などの生活用品、葭巻漁やタツベ漁など伝統漁の道具、家畜の餌や燃料など、さまざまな形で活用されてきました。

織田信長が安土城を築いた時代には、ヨシで年貢を納めた記録があるなど、ヨシは使い道のある有用な植物でした。

また、この地に生えるヨシの品質が優れていたこと、商人町である近江八幡に近接していたこと、水運で京・大阪に近くお茶などの文化と結びついていたことなどが影響し、ヨシ製品の製造販売が栄えたようです。

この地域の人々とヨシとは、暮らしと産業の両面によって、自然に共生を遂げてきたことが伝わります。

湖北水鳥センターの北側には尾上港や尾上温泉があります、今度ゆっくり訪れたいと思う。

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昭和レトロ


地下1階に広がるのは、昔懐かしいレトロな街並みを再現したレストラン街「滝見小路」。

梅田スカイビルのスタイリッシュさ・ダイナミックさからは想像つかない空間です。

ビクターのロゴマークになったニッパー君にも注目したいところ。

ニッパー君は1884年にイギリスで生まれたフォックス・テリア系の雑種。

やんちゃでよく人の足を噛もうとするのでニッパー(挟む)と言う名前がつけられました。

ダイハツ『ミゼットMP5型』も展示されています。

石畳の路地に暖簾や格子戸、お稲荷さんを眺めながら歩くと、当時にタイムスリップしたような感覚に浸れる。

大阪グルメを代表する串かつやお好み焼きに加え、洋食屋居酒屋など様々なお店が22件も軒を連ねる人気の飲食街。

法善寺に本店を構えるカツ丼専門店「喝鈍」。

超有名店の味を、昭和レトロな独特の街並みの情緒漂う空間の中で食すことができます。

瀧見小路で昭和レトロを満喫した後はそのまま外に出て「中自然の森」を散策。

人工ですが瀧もあり、逆流する様子を見ることができます。

都心とは思えないほど自然に囲まれており、リフレッシュにはもってこい!

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76年目の夏


昨日は76回目の終戦記念日。

護国神社には多くの人々が参拝しています。

一昨日からの大雨も今朝(15日)には一応闇、式典の行われる頃には晴れ間も見られた。

今年は終戦 [第二次世界大戦終結] から 76年 にあたります。

8月15日の「玉音放送」は、76年0か月と-1日前、76年0か月と0日目です。

9月2日の「降伏文書調印」は、76年-1か月と12日前、76年-1か月と13日目です。

・第二次世界大戦終結・終戦は、昭和20年(1945年)です。

終戦の日(しゅうせんのひ)は、日本における第二次世界大戦の終結(終戦)の日の呼称。

日本では一般に終戦記念日は8月15日と認識されているが、アメリカ合衆国など多くの国々では第二次世界大戦は1945年9月に終結したと認識されている(国によって1945年9月2日とする国(アメリカ合衆国など)と9月3日とする国(中華人民共和国など)がある)。

日本において第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結したとされる日については諸説あり、主なものは以下のとおりである。

1945年(昭和20年)8月15日:正午からラジオで放送された玉音放送により、前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された日。

帝国政府が軍に武装放棄と連合軍への投降命令を発し、連合国もそれを受け戦闘を止めた。

1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。

1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日。

4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれている。

連合国軍の占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの新聞紙上[要追加記述]では、9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と呼んでいた。

1963年5月14日の閣議決定(第2次池田第2次改造内閣)により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。

1982年4月13日、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された(鈴木善幸改造内閣)。

現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われており、お盆は月遅れのお盆と一致することから、「お盆=8月15日」となっている。

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大阪の豪商 鴻池善右衛門宗利によって開墾された 鴻池新田


鴻池新田会所は、江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理・運営をおこなった施設です。

江戸時代中期以来の古建築群と庭園、鴻池家から寄贈された民具類を現代に伝えています。

表長屋門

近代的な市街化が進んだ東大阪市周辺に残る数少ない歴史的建造物群のひとつです。

10,662m2の 会所敷地は国の史跡で、本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵と江戸時代の本屋座敷の棟札、米蔵の御札は重要文化財です。

江戸時代中期に、大阪の豪商・鴻池家三代目、。

当初の入植者は8軒ほどで、二回目に10数軒が入植。2010年時点で13代目位の人々が住んでいる。

主な入植者居住場所は鴻池本町(会所の北東エリア)となっており、最も古い地域となる。

朝日社境内の絵馬堂には明治・大正時代の浄瑠璃番付や相撲番付が掲げられていて、いずれも村人が勧進元になって興行が行われていたようです。

鴻池家の先祖は山陰の戦国大名尼子氏の家臣、山中鹿之助幸盛 ( 遠祖 ) であると言われています。

鹿之助の長男新六幸元 ( 始祖 ) は戦難を逃れるため、摂津国長尾村鴻池 ( 現伊丹市 )
で大叔父の山中喜六信直 ( 太祖 ) に育てられました。

のちに屋号となる「鴻池」はこの地に由来するものです。

新六はこの地で商才を発揮し、慶長年間 (1596 ~ 1615) には造酒屋で成功を収めています。

また、元和 5 年 (1619) には大阪内久宝寺町にも店を構えました。

さらに寛永 2 年 (1625) には海運業を始めて、江戸・大坂間の物資輸送をつとめたほか、大名蔵屋敷の蔵物 ( 年貢米 ) を担保に金を貸し付ける大名貸しも始めています。

また、宝永 2 年 (1705) からは鴻池新田での農業経営に参画し、のちに海運業・酒造業を廃止しました。

宗利は事業を安定させるために家訓や店則を定め、代々、両替商や大名貸しをはじめとする金融業と新田経営に専念させ、幕末ごろには、「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋にあり」というように形容されるほど鴻池家は財をなしました。

旧鴻池新田会所 本屋

北面突出部 桁行3.0m、梁間11.8m、北面下屋附属、入… 河内平野を流れる大和川の付け替え後、町人請負として開発された鴻池新田の会所で、宝永年間に開設された。 周囲に堀を回した敷地の中央に本屋が建ち、その北に屋敷蔵、西方に文書蔵・米蔵・道具蔵が並ぶ。

本屋土間

河内平野を流れる大和川の付け替え後、町人請負として開発された鴻池新田の会所で、宝永年間に開設された。

周囲に堀を回した敷地の中央に本屋が建ち、その北に屋敷蔵、西方に文書蔵・米蔵・道具蔵が並ぶ。本屋は大規模で、土間には豪壮な梁組を見せるが、床上部は質素であり、また、屋根は破風を多用して城郭風の趣もみせるなど、会所の建築としての特色をよく示している。

四棟の蔵は屋敷構えの一環として重要であり、米蔵が特に大規模なのも特色の一つである。

本屋内部 勘定場と座敷

宝永元年(1704年)に大和川付け替え工事が行なわれ、旧河川・水位が減少した湖沼に広大な敷地が生じた。

そのうちの新開池という大きな池のあった辺り(現在の東大阪市北部の鴻池町周辺)二百町歩あまりの開発権利を、大和屋六兵衛・庄屋長兵衛 両名が落札した。

それを 鴻池善右衛門が譲り受け、新田開発をおこなった。

新田開墾のため伊勢や枚方などあちこちから農民を入植させた。

村高は「天保郷帳」・「旧高旧領」共に1706石余。

宝永2年(1705年)に工事が開始され、大和川付け替え工事でできた新田の中でも最大の開発面積(約119ヘクタール)となった。

本屋の広壮な土間と高い梁、開放的で簡素な座敷、中庭に面して建ち並ぶ蔵、米つき場など、民家建築とは異なり、新田経営のなかで生み出された飾りの少ない大きな造作が特徴です。

鴻池、三島、新庄あたりは米農家が多く台所が土間の家がいくつか平成近くまで現存していた。

村の人達は互いに 「鴻池の⚪︎⚪︎」「三島の⚪︎⚪︎」と村の名前をつけて呼び合い 互いに婚姻をするなど結びつきが強かった 鴻池本町はとくに水路が多く 各々の所有する舟が家の軒先につってあり、それで米を会所まで運んでいた。

その痕跡は重要文化財の会所の内側に船着場が残されており 残念ながら1970年代重要文化財に指定される改築時、無粋な壁を作られ外からは見えず半分埋れた形となっている。

昭和時代後期以降の宅地開発によって、耕作地は住宅地へと変貌していった。

鴻池新田会所庭園

鴻池新田の管理事務所として、宝永4年(1707年)に完成した。当時の建築物や濠がほぼそのまま現存しており、貴重な文化遺産であるため、敷地は1976年(昭和51年)に日本国の史跡に指定され、また本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵の5棟が1980年(昭和55年)に日本国の重要文化財に指定された。

現在は東大阪市が所有・管理している。

かつて東に遠望できた生駒山を借景とした庭園は、弁天池を設け、植木の種類や刈り方を変えたり、庭石や石燈籠を配して、庭を巡って変化を楽しむように造られています。

江戸時代末のいわゆる池泉鑑賞式の平庭です。

常緑樹が多く、カヤ、クスノキの巨樹がみられ、「大阪みどりの百選」のひとつです。

会所は、新田とともに竣工し、240年あまりにわたって使われました。

会所では、鴻池家から派遣された支配人の管理下で、小作農民からの小作料、肥料代の徴収、幕府への年貢上納、耕地、家屋の管理・補修、宗門改帳の作成・整理、老人への米の配給、幕府や鴻池家からの指示伝達、新田内での争いの裁定をおこないました。

新田では、小作農民がおもに米と綿を栽培しました。

江戸時代には、綿とその製品はこの地方の主要な産物でした。

生駒山を借景にした回遊式庭園や、本屋/米蔵(国の重要文化財)など当時の様子を思わせる家屋は、時代劇のロケに使われたこともあり、現在でもときおり特別展示や講演会などが催されている。

10,662m2の 会所敷地には、本屋、蔵のほか、長屋門、居宅、朝日社などの伝統的な建物群と庭園が残されています。

敷地は1976年に国の史跡に指定され、1980年には本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵と本屋座敷の宝暦9年(1759)棟札、米蔵の享和2年(1802)御札が重要文化財になりました。

米蔵

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滋賀のラピュタ!土倉鉱山跡


滋賀県長浜市木ノ本町に国道303号線が通っており途中、金居原(かねいばら)と呼ばれる集落がある。

少し東に移動するとすぐに岐阜県揖斐川町の県境を跨ぐことになる。

国道303号に入り八草峠を目指していると、右手に「土倉鉱山跡」の看板が目に入る。

頭上に見える橋は現国道303号線の橋梁だ。

かつて国道303号線は八草峠と呼ばれる峠を延々走り続けなければならず、狭隘、軟弱な道路を使って岐阜県と滋賀県を行き来するのはくたびれるの一言に尽きたはずである。

現国道303号線であるバイパスが完成し、八草トンネルが開通してからというもの、その利便性は飛躍的に上昇し、八草峠を通過するのに3分とかからない。

鉱山は杉野川上流で明治末期に採掘が始まった。

昭和30年代には人口が千人を数え、住宅や商店、映画館が並んだ。
しかし、海外から安価な銅が輸入され、採算が合わなくなり閉山した。

近年は散策ツアーが行われる。

閉山から半世紀を経た産業遺産と豊かな自然が、新たな地域資源として価値を見直されている。

往時はトロッコが出入りした坑道の入り口。

朽ちた人工物の隙間から木々が生える。

その姿が人気アニメ映画「天空の城ラピュタ」の舞台を思わせると、インターネット上では「滋賀のラピュタ」とも呼ばれる。

土倉鉱山は土蔵岳と呼ばれる標高1003mほどの山麓に坑道が掘られ、1907年(明治40年)に奥土倉という、現在の鉱山跡よりも若干北にある場所で鉱山が開かれた。

だがその後、度重なる豪雨被害や土砂災害などにより、拠点を南側の出口土倉に移した。

これが現在土倉鉱山跡と一般的に呼ばれている場所である。

1965年(昭和40年)に閉山し、現在では出口土倉に選鉱所跡と坑口が残されている。

採掘した岩石は建物の一番上に運ばれ、薬液の入った沈殿分離槽に入れられた。

浮かんだ銅鉱石を取り出した上で、残りを下段の槽へ運ぶということを繰り返し、残った石は建物の外へ捨てたという。

現在、あらわになっている柱のような構造物は土台で、「その上に木造の建物があった」。

集めた銅鉱石は、空中に張ったワイヤを使い、ロープウエーのようにカゴで運搬した。

「そこらの山頂に鉄塔が建っていて、(約12キロ離れた)木ノ本駅まで運んでいた」という。

「若い人? 来ますよ、なんともいえない衣装をつけて。土日は多くて20~30人くらいかな」。

選鉱場の前を通る国道303号付近には事務所や独身寮があった。

付近では積雪が4メートルに達することもあったため、山麓の小学校まで通えない子供たちのために冬季限定の「分教場」も。

麓には診療所や鉱山会社の幹部が住む一戸建ての社宅があったという。

なお、奥へと歩を進める。

伊吹山地の横山岳と土蔵岳のはざまに位置する杉野川源流部の森にはトチノキやサワグルミの巨木が並ぶほか、さまざまな草も生え、豊かな植生をとどめる。

現在は鉄柵で封鎖されている坑道への入り口。

かつてトロッコが走ったレールが見える。

坑道入口を封印する鉄格子は真ん中が鍵付きの扉となっていて、鉱山関係者が点検をする際に使用すると思われる。

中は水があふれ、右端からは鉱水が勢い良く流れ出して暗渠を通し杉野川へ注がれていた。

かつて愛媛県新居浜市の別子銅山跡を訪問したことがある。
土倉鉱山跡よも遥かに大規模で観光地として再開発され、「東洋のマチュピチュ」とよばれ、多くの観光客を集めている。

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いかごの里で糸取り見学


竹生島、葛籠尾崎を左手に見ながらバスは北國街道を北上する。
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西野水道(にしのすいどう)

滋賀県指定文化財。

西野水道(にしのずいどう)は、西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mの排水用の岩穴です。

今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業です。

能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけてノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴です。

清水(しょうず)

大音・西山地区で糸取りが今も続けられている理由の一つに”水“があるとされる。

糸や織りに関する諸作業には多くの良質な水が必要で、水の良し悪しが大いに影響する。

この地区は、賎ケ岳に続く背後の峰々を水源とする湧水が豊富である。

大音も西山も昔からこの湧井戸の水を竹樋によって作業場へ誘導し使ってきた。

湧水は鉄分を含まないため、白く仕上がるとされる。
水で色の出方が違うとされてきた。

これら地区には“清水”と呼ばれる池が多く点在し利用されてきたが、昨今の道路工事などで湧出が止まり今では数カ所残すのみとなった。

大音軍治

「旧家・大音軍治」宅があります。

ここは大音唯一の武家屋敷であり、祖先は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉軍の武将として仕え果敢な活躍をしたと伝えられています。

江戸時代には柳ケ瀬の関所の奉行を務めた、とあります。

三味線・琴糸の生産地である木之本町大音地区では古くから生糸生産の技術が伝わりました。

近世以降では大規模な工場も設立され、昭和初期には最盛期を迎えました。

近年では衰退してしまいましたが、毎年梅雨の時期になると工房では生糸の生産が行われます。

資料館では糸とりの技術の紹介や道具の展示をしています。

賤ヶ岳 雨の登頂
昨日からの雨はいよいよ激しく、雨具を付けての登頂です。 リフトの真下に群生のシャ … 続きを読む →

余呉湖への径。

余呉湖には湖の琴」という水上勉作の悲しい物語があります。

糸取りは江戸時代から受け継がれてきた。

糸は高品質で知られ、国の選定保存技術でもある。

戦前は七十軒ほどの工房があり、「琴糸の里」として水上勉の小説「湖の琴」(一九六六年)の舞台にもなった。
 
しかし安価なナイロン糸が普及したほか、梅雨時だけの仕事のため、サラリーマン化で担い手の確保が難しくなり衰退していった。

現在、糸取り職人は七人でほとんどが六十代。後継者育成が長年の課題だ。

糸取りは、藁(わら)の箒(ほうき)を繭(まゆ)を下から上へとさすって糸口を辿ります。

その糸の端を25本ぐらいの合わせ、糸によりをかけて生糸にし、後方の”こわく”で巻き取ります。

85度くらいの熱湯が入った釜の中で作業するから、湯気でびっしょりとなるとの事でした。

釜のお湯は昔は炭やガスで一定の温度に保っていましたが、IHクッキングヒーターで沸かしています。

でも、木枠の回転には電力を使わず、昔ながらの足踏みミシンのように足で回転させていました。

その方がいつでも回転速度の調整や停止がしやすいように感じられました。

この生糸を一定の太さに保つように時々糸を足さなければなりません。

この糸を足す作業は熟練を要し、一本の糸を両手で引っ張って、メガネの所に近づけて切って絡ませる。

この作業は一瞬の出来事ですから、眼を凝らして観ていないとわからない。

“糸取りの実演”を訪問された時はぜひこの”匠の技”を肌で感じて観て欲しいと思います。

残念ながら早すぎてお写真では撮れませんでした。

皆さん、蚕一匹の呼び方はご存知ですか?

なんと牛や馬のように1頭、2頭と数えるのだそうです。

大音の糸取りの歴史は古く、平安時代の昌泰二年(899年)、伊香厚行が、伊香具神社境内にある湧水で繭を煮て生糸を作り、都で大変な評判になったと文献に伝えられています。

遅かりし八重桜のトンネル 伊香具神社
伊香具神社(いかぐじんじゃ)は、滋賀県長浜市木之本町大音にある神社。 式内社(名 … 続きを読む →


4代目の佃三恵子さん。

琵琶湖湖北地方の大音(おおと)は、昔から養蚕業や製糸業が盛んでしたが、戦後、化学繊維の普及により衰退し、佃三恵子さんの工房がだけが残りました。

実演等で伝統技術の伝承活動が認められ、2018年秋の褒章に黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を受賞しました。

糸取りは、「だるま」と呼ばれる糸取り機で行います。

まず、85度くらいの熱湯が入った釜の中に、水に浸しておいた繭を入れ、稲で作ったお手製の糸箒で、糸口を辿ります。

(事件の糸口をたどる、という慣用句はここから生まれたのでしょうか。)

そこから、約20個分の繭から手繰り寄せた糸を「メガネ」と呼ばれる小さな穴に入れます。

そして上の方の「小車」と呼ばれる滑車までの間に、一本の太い糸になるように腕で摩って糸によりをかけます。

一本の糸に変わると、後方の「こわく」と呼ばれる道具に糸が巻き取られていきます。

その間、糸を出し切った繭を釜から取り除いていきます。

この作業を繰り返し、繰り返し、生糸がつくられていきます。

今は、釜のお湯はIHクッキングヒーターで沸かしていますが、昔は炭、そのあとはガス。

巻き取られた糸は、木ノ本駅側にある「丸三ハシモト株式会社」で邦楽器用の糸に加工されます。

丸三ハシモトさんでは、加工の見学もさせていただけるそうです。

繭一個の糸の長さは、1200~1400m 生糸一本に繭15~16個必要、琴糸一本に繭250個要すとされる。

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ヤマトタケルの西征 建部大社


瀬田の唐橋の東約500m。

この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。

祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)。

日本武尊が船団を従えて海路をたどったという故事に基づいて行われる建部大社の夏祭り「船幸祭」では、神輿を乗せた船団が瀬田川を行き交い、唐橋に近付くころになると夜空に花火が打ち上げられる。

滋賀県大津市神領にある神社。
式内社(名神大社)、近江国一宮。

旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「建部神社」。

2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。

社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅によって、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現在の東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる。

建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられている。

のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座したという。

遷座後、元の千草嶽の麓には神護景雲2年(768年)に聖真大明神と建部大明神が設けられたとされ、現在は建部神社が建てられている。

源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となった。

征西を命じる

天皇の命令で、皇子の小碓尊が熊襲征伐のため派遣されることになりました。

この時小碓尊(兄に代わり天皇の後継者となっていたので「尊」をつけています)はまだ16歳でした。

各地の敵を従えながらやがて相模国(現在の神奈川県)に辿り着いたときのことです。

この地の国造(くにのみやつこ:地方を治める官職の一種)は、言葉巧みにヤマトタケルノミコトを野に誘い出し、火を放ち殺そうと企みます。

騙されたことを知り、進退きわまったヤマトタケルノミコトは火打石を取り出します。

そして草薙剣を抜き辺り一帯の草を薙ぎ払い、火打石で向かい火を放ちます。

炎は逆方向に燃え広がり、ヤマトタケルノミコトは無事に生還。

国造らをすべて斬り滅ぼし、さらに火を放ちました。
この出来事が、草薙剣と言う名の由来になったと言われています。

オトタチバナヒメの入水

ヤマトタケルの一行は走水(はしりみず=現在の浦賀水道)に赴いたとき、海が荒れ、動くことができなくなった。

同行してきた后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海神の怒りを鎮めようと自ら入水。

これによりヤマトタケル一行は難を逃れたのだった。

ヤマトタケルと伊吹山の神

「日本武尊が東征から都(当時は大和の国)に帰る途中、伊吹山の魔物(豪族)を征伐するために伊吹山に来てみると、伊吹山を幾重にも大蛇が取り巻いていた。

そこで日本武尊は大蛇を跨いで通り抜けようとした時、毒気に当たって高熱を出して倒れてしまった」とあります。

毒気とは伊吹山に生息するトリカブトだと考えられています。

雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →

【伝説】日本武尊(やまとたける)が東の国征伐から帰る途中、伊吹山に荒神がいることを聞き・・・・・・

ヤマトタケルと白鳥伝説

大和朝廷全国統一のために命令を受け西方と東方に遠征、勝利を収めたが、帰途に伊勢の能褒野で没した。

ヤマトタケルは白鳥に姿を変え、大和に向かって飛び立った。

琴弾原(奈良県御所市付近)に降り立ったあと再び飛び立ち、河内の旧市邑(羽曳野市古市付近)に舞い降りた。

神門

明治2年(1869)膳所城城門の一つを移して神門とするが、昭和9年(1934)の台風で倒壊。
その後再建された。

拝殿


伊勢神宮遙拝所


近年人気なのは瀬田シジミ型の絵馬。

貝殻の内側に願いを書き、閉じて奉納するため願い事が他人に見られません。

絵馬を奉納する絵馬所は夜になると照明と相まって金色に輝きます。

なお、夜に参拝できるのは正月や船幸祭などの限られた日のみです。(通常17時閉門)

菊花石(きっかせき)は、菊の模様が浮き出た不思議な石です。

本殿の裏にあり、自然に菊の模様が浮き出たという珍しい石です。

特別天然記念物に指定されていて、病気平癒や長寿のご利益をいただけるそうです。

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日の出 住吉大社


光が心地よい朝の住吉大社。

梅雨も一休み、青空が広がっています。

第三本宮と第四本宮の間にさす光が好きです。

今6時20分、空に気持ちよさそうな雲が浮かんでいます。

奥に進んでみます。

光が射し込み厳かな雰囲気が広がります。

御文庫(おぶんこ)施主は大坂を中心にして、京や江戸の書籍商たちだった。

奉納された書物は膨大な数に上ると言われています。

侍者社(おもとしゃ)

初代神主田裳見宿禰を顕彰して、住吉大神の最も御傍にて祀ることから、侍者(おもと)と称したのではないかとされています。

近年では「神と人」を結ぶ、仲執り持ちの役目を担ったことから、縁結びの神として篤く信仰されています。


楠君社に来ました、光が強烈です。

初辰まいりの中心的な神社で「はったつさん」と親しまれ、古くより商いを営む方から篤い信仰を受けています。

五所御前、多くのインバウンドであふれていましたが今はひっそりとしています。

この『五所御前』は約1800年前に住吉大神鎮座の際、最初にお祀りされた場所と伝えられる神聖な場所です。

体力・智力・財力・福力・寿力が授かるといわれており、御守にして持つと心願成就という。

参拝者が水をジャバジャバかけていきました、水に濡れるといい感じです。


丹後局は傍らの大石を抱いて男児を出産しました、後の島津氏初代・島津三郎忠久公である。

正面から見たところ、薩摩藩士の燈籠が並び島津家代々の信仰と藩士の忠義を遺す石燈籠です。

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