早朝散策 住吉大社


光が清々しい朝の光線です。

この時間帯乗客もまばら。

「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった。

例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている。

本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている(類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>)。

ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある。

元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文[原 1]では、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住むと言ったため、神功皇后が「真住吉住吉国(まさに住み吉き住吉国)」と讃称したことに由来とする地名起源説話を載せている。

一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている。

実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったとみられ、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている。

朝の強い光に美しく浮かび上がる門。

屋根は檜皮葺 (ひわだぶき) でできており、直線的な屋根で切妻造りです。

第三本宮と第四本宮の間を進む、霧がかかり、空も魅力的だ。

第一本宮の南側には五所御前(ごしょごぜん)という玉垣の区画があり、内側には杉の木が生育する。

社伝では、神功皇后が住吉神の奉斎場所を探す際に3羽の鷺が杉の木にとまったので、この地を鎮座地に定めたという。

元々は祭神来臨の神事を行うミアレ所(御阿礼所/御生所)であったとする説もある。

現在は「高天原」とも称され、毎年5月初卯日(住吉大社創建伝承日)の卯之葉神事ではこの五所御前に卯の葉の玉串が捧げられる。

『五』『大』『力』と書かれた石を拾い御守にすると願い事が叶うという信仰があります。

右は若宮八幡宮 祭神:応神天皇、武内宿禰
本宮南側、五所御前の南側において西面して鎮座する。
祭神の応神天皇は神功皇后の子。
1月12日の例祭では湯立神楽が奉納される。

住吉大社 若宮八幡宮例祭 湯立神事
1月12日、住吉大社で若宮八幡宮例祭 湯立神事が行われた。 穀物の豊穣を祈るため … 続きを読む →


第一本宮の南側には石舞台がある。

南門・東西楽所と同様に慶長12年(1607年)の豊臣秀頼の再興による造営。

池に架けられた石造桁橋(幅約11メートル×長さ約12メートル)の上に、一辺約6メートル、高さ約0.5メートルの規模で築かれている。

前面に階段を付し、舞楽を演じる際には上面に木製の高欄が取り付けられる。
「日本三舞台」の1つに数えられるとともに、国の重要文化財に指定されている。

古式床しく 卯之葉神事 住吉大社
住吉っさんがこの地に鎮座したのが、神功皇后摂政11年(211)の卯年の卯月の卯日 … 続きを読む →

5月の青葉に彩られた神池にかかる石舞台で天王寺楽所 雅亮会により舞楽が行われる。

池の水が抜かれている、初めて見た。

静かな場所で小鳥たちの大切な場所のようだ。

初辰まいりの中心的な神社で「はったつさん」と親しまれ、古くより商いを営む方から篤い信仰を受けています。

ここには樹齢千年を超える楠(くすのき)があり、江戸時代、人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げていました。

その後、根元に設けられた祠に神様をお祀りするようになったといわれています。

参拝の際、招福猫を受けて祈願し、これを48ヶ月間(4年間)続けると「始終発達」(しじゅうはったつ=四十八辰)の福が授かるとして日本全国より崇敬を集めています。

招き猫は、左手は人招き、右手は金招きといわれ、奇数月は左手、偶数月は右手を求める慣習があります。

種貸社、楠珺社、浅澤社、大歳社の四社をそれぞれにお参りするのが慣わしとなっています。



住吉大社境内では、かつて神宮寺が営まれていた。

『古今著聞集』では本地仏の高貴徳王菩薩の託宣があったとし、『住吉松葉大記』では天平宝字2年(758年)の創建とし、新羅渡来の薬師如来を本尊としたため「新羅寺」とも称されたとする。

津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていた。

明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸したが、そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、移築され現存している。

なお今に伝わる住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものという。

住吉大社には、国宝建造物である住吉四本殿や重要な文化財建造物の他にも重要文化財指定の住吉大社神代記、舞楽面、太刀を始め、古文書類、舞楽装束等の貴重な宝物類が点在して格納され、保存施設設備も十分ではありませんでした。

これら貴重な文化財を火災、破損、散逸等から守るため、一堂に収納保管し、また一般にも公開する等我々祖先が残した大切な遺産を永く後世に継承するため昭和52年5月住吉大社境内地に住吉文華館を建設した。

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春風や堤長うして家遠し 毛馬村


淀川神社

いい伝えによれば、淀川河口の海賊取り締まりのため配備された武士が、当時有名だった15の神社の神様を守護神としてまつったのが起こりで、名前も十五神社と呼ばれていました。

明治42年(1909)、毛馬村の氏神、八幡大神宮が櫻宮に、友渕村の氏神、十五神社が大宮神社に合祀されましたが、これによって心のよりどころを失った毛馬、友渕、大東3町の人たちの熱心な働きかけで昭和28年(1953)10
月、旧十五神社の神殿と境内をそのまま利用した形で復活。

現在の名で呼ばれるようになりました。

俳人・与謝蕪村は享保元年(1716)、毛馬村に生まれました。若き頃に江戸を出て、芭蕉の足跡をたどって東北を周遊。

その後、京に居を構え、大坂にも何度も立ち寄りますが、なぜか自分の生まれ故郷には一度も帰ろうとしませんでした。

新淀川開削で消えてしまった蕪村のふるさと・毛馬界隈を散策。

毛馬橋、名前に因んで馬の鞍の形をした親柱。

蕪村の生まれた毛馬村は淀川の左岸。

対岸は北長柄村で、両地点を毛馬渡しが結んでいました。

長さ190間(約365m)。
蕪村が門人に送っ手紙の中で「堤ニは往来の客あり」としたのは、この渡し舟に急ぐ人々の姿でした。

この下流には源八渡し、川崎渡しが続きます。

ここに初めて橋が架けられたのは大正3年(1914)。

地元の熱心な運動が実りました。

長さ155m、幅3.6mの木橋で、毛馬橋第1号です。

現在の姿になったのは昭和36年(1961)です。

蕪村公園

平成21年(2009)3月に開園したばかりの蕪村を顕彰する公園(約1ha)です。

「春風馬堤曲」に詠われている毛馬の堤を再現し、淀川原ののびやかな広がりのある風景が表現されています。

園内には、蕪村自筆の13句を刻んだ句碑が並べられています。

松尾芭蕉、小林一茶とともに近世俳諧史を彩った蕪村は、浪漫的、抒情的な俳風を築き、生涯で3000近い句を詠んでいます。

13句はその代表作ともいえ、多くは生まれ故郷、毛馬を詠んだ作品が連ねられています。

蕪村生誕地の石碑

江戸・天明期の俳壇革新者であり、南宋画の開拓者、俳画の創始者といえる与謝蕪村は享保元年(1716)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれました。

20歳のころには江戸にあり、夜半亭宋阿に師事し、俳諧を学びました。

寛保2年(1742)27歳のとき、師の死にあって江戸を去り、下総国結城(茨城県結城市)を拠点にあこがれていた松尾芭の足跡をたどって東北を周遊するなど、俳諧の道と画技を磨きました。

その後、丹後・与謝地方で4年余を過ごし、42歳で京都に居を構え、画業に専念します。
45歳のころ結婚。娘くのの誕生からしばらくして讃岐へと旅立ち、55歳で師を継ぎ、夜半亭二世に推戴されました。

このあたりから、「春風馬堤曲」「澱河歌(でんがか)」「老鶯児(ろうおうじ)」の三部作を刊行した62歳ごろが蕪村の絶頂期といえます。

天明3年(1783)12月、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」の辞世句を残し、68歳でなくなりました。

墓は芭蕉庵のある京都市左京区一乗寺、金福(こんぷく)寺にあります。

花の生涯 たか女終焉の寺 金福寺
船橋聖一の花の生涯で有名なのが詩仙堂近くにある金福寺。 この寺は864年の創建だ … 続きを読む →

蕪村は碑の建立時に我も死して日に辺(ほとり)せむ枯尾花と詠み残していたので望み通り後丘の墓に納骨された。

毛馬洗堰、毛馬閘門

淀川開削を含む淀川改修工事で計画され、明治40年(1907)8月、普段の川の水を流すための「毛馬洗堰」と、水位が違う大川、新淀川間の船舶の通過をスムーズにする「毛馬閘門」とが完成しました。

閘門は沖野忠雄の指導で作られ、両岸はレンガ造り。

水路の前後に鉄製観音開きの制水扉が設置され、両岸からハンドルを回して開け閉めしました。

しかし、その後の大川しゅんせつ工事で水位が大きく下がり、淀川との水位差が広がって役に立たなくなったため、大正7年(1918)、この閘門下流に二つ目の閘門が作られました。

現在使用されている閘門は3代目で、昭和49年(1974)に完成しました。

旧毛馬洗堰と初代閘門は貴重な近代産業遺産として平成20年(2008)6月、国の重要文化財に指定されました。

水の底に消えた蕪村の故郷・毛馬村
江戸・天明期の俳壇革新者であり、南宋画の開拓者、俳画の創始者といえる与謝蕪村は享 … 続きを読む →

2013年10月に訪問、当時は閘門の中まで入れましたが今は入れません、貴重な記録です。

菜の花の散歩道 鶴乃茶屋散策
丸善&ジュンク堂へ本を探しに行った折り、何か春の到来を感じさせるものは … 続きを読む →

アプローズの前には菜の花で埋まった一角があります。
そして蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句碑がありました。

新淀川

かつての淀川は、蕪村の故郷・毛馬村付近で中津川と分岐、南へ大きく湾曲していました。

その豊かな水量で農作物には恵まれたものの、一方でたびたび洪水に見舞われ、有史以来といわれる明治18年(1885)の大洪水、さらに22年、29年の洪水が大きな被害をもたらしました。

18年の洪水の惨禍を目の当たりにした東成郡榎本村放出(現在の大阪市鶴見区)生まれの大橋房太郎(1860~1935)が淀川治水事業に取り組み始め、その努力で明治29年(1896)には河川法が制定されるとともに、淀川改修経費が国会を通過。

オランダ人技師、デ・レーケが計画立案、内務省土木監督署の技師、沖野忠雄の指導のもと、新淀川開削を含む改修工事がスタートしました。

新淀川は毛馬付近から下流を、旧中津川の一部を利用する形で開削、大阪湾に直線的に注ぐようにし、旧川(現在の大川)には必要な水量を流す洗堰
と船舶航行のための閘門を設けるという大規模なもの。完成までに10年余を要しました。その後も改修は続けられ、戦後は洗堰部分に淀川大堰も建設されました。

残念なのは、新淀川工事で、淀川が南へ大きく湾曲する部分の左岸に位置した蕪村の故
郷・毛馬村の大半が水没してしまったことです。

蕪村生誕地の石碑のあたりから見下ろす北側がその地です。

大川(旧淀川)

もともとは淀川の本流でしたが、明治後期の淀川改修工事で毛馬の洗堰、閘門が作られた際、そこから下流の大阪湾に注ぐ旧淀川13.83kmを大川と呼ぶようになりました。

それぞれの時代の大阪の繁栄を担った河川で、現在は、中之島で堂島川、土佐堀川と分かれるなど、区間によってさまざまな通称で呼ばれています。

寝屋川と合流する地点のすぐ先は、江戸時代に京・伏見と大坂を往復した三十石船の大坂側のターミナル、八軒家浜船着場。

熊野御幸記を歩く①八軒屋浜~住吉大社
実は熊野古道大阪編は5月5日に第一回が始まったのですが、どうも歩き通す自信がなく … 続きを読む →

熊野詣は城南宮(鳥羽離宮)を出立、舟で淀川を下り、ここ八軒屋浜に上陸、ここから陸路熊野を目指すことになります。

飛鳥時代には難波津、平安時代には渡辺津と呼ばれた要衝です。

弥次さん喜多さん、森の石松、幕末の志士たちまでが乗ったという三十石船(長さ約15m、幅1.9m、定員28人)は、昼夜、上下便あわせて毎日320便、約9000人が利用したといわれ、大変な賑わいでした。

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鶏足寺の青もみじ


己高庵(ここうあん)で昼食。

鶏足寺に向かう、山藤がきれいです。

沼沢地をしり目に先を急ぐ。

亀山の茶畑

「こだかみ茶」が生まれたのは、今から1200年前。平安時代、僧最澄(伝教大師)が「薬の木の実」として遣唐使で中国へ渡たられ、唐から持ち帰った(805年)茶の実を、比叡山延暦寺で天台宗を開いた麓と、799年に当地己高山(海抜923m)を訪れ、山上にあった僧行基の東光山常楽寺跡を発見し、整備再興に尽くされ、帰国後、天台宗鶏足寺と改め、さらに麓の別院(法華寺・飯福寺・石道寺・高尾寺・安楽寺)の周辺にまかれたのがお茶のはじまりだと言い伝えられる。

鶏足寺は己高山の中心寺院であった観音寺の別院であったもので、伝承によれば天平7年(735年)、行基によって開基。

いったん荒廃したものを延暦18年(799年)最澄が再興したという。

文永6年(1269年)下野国・薬師寺の慈猛が、それまで天台・真言宗、兼帯であったのを真言宗に改宗した。

山麓の古橋地区の与志漏神社(よしろじんじゃ)境内には薬師堂、大日堂のほか、己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)と称する2棟の収蔵庫が建ち、鶏足寺や関連寺院に伝わった仏像などはこれらの収蔵庫にて収蔵・公開されている(指定文化財の仏像の所有者名義は「鶏足寺」となっている)。

「紅葉の名所鶏足寺」として、毎年多くの方が紅葉散策に訪れることで知られています。
ゆるやかな参道の石段、苔むした石垣に二百本のもみじの古木が幽玄な情景を醸し出しています。

秋の紅葉めぐり 鶏足寺(旧飯福寺)
鶏足寺跡とされる寺院跡は己高山の山頂近くにある。 また、山麓の古橋地区から徒歩1 … 続きを読む →

この地古橋は、石田光成の母の出生地という。
関が原で敗れた光成が古橋に逃れてきたが、他の村から養子にきた男に密告され捕まってしまった。

古橋では、永い間よその村からの養子はとらなかったという。
石田三成が関ヶ原の戦いで敗れ落ち延びて隠れた岩窟がその近くにあります。

石道寺界隈
石道寺(しゃくどうじ)は、滋賀県長浜市にある真言宗豊山派の寺院。 山号は己高山。 … 続きを読む →

画像は石道寺。

古橋を「近江のまほろば」と称する由縁

「まほろば」の原語は「マホラ」で、すぐれたよい所」と解されている。

「マホラ」な所、即ちマホラ場であり、これが転化してまほろばと呼ばれるようになったもの。
 
ここ古橋は三方を山に囲まれ、何面に開けた中央部に位置し、古くから大陸文化が伝来し奈良時代には相次いで寺院が創建され、平安期には全盛を極めた己高山鶏足寺、飯福寺、法華寺等の湖北仏教文化圏の中心寺院を容した仏教聖地であり、今も随所にある遺跡で往時を偲ぶことができる。

一方、山野にみる四季の移り変わりの風景もまた素晴らしく、古くから奈良大和を国のまほろばと称しているのにちなんで古橋を「近江のまほろば」と称している。

眼の地蔵菩薩 木之本地蔵院
伝承によれば、天武天皇の時代(7世紀後半)、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩 … 続きを読む →


また、ここには古橋製鉄遺跡が残る。

製鉄炉跡はかたい岩盤をくりぬいて炉の床面(縦50cm・横2m)として作られていたいわゆる箱型炉であった。

年代は、調査時に出土した須恵器片から7世紀前半に作られたと考えられている。

このような形式の製鉄炉は、県下でも数例しか確認されておらず、湖北地方における鉄生産の歴史を語る代表的な遺跡です。(木之本町教育委員)

産業用エンジンメーカー大手のヤンマー創業者山岡孫吉の出生地として知られる。

山岡孫吉は、1888年(明治21年)3月22日滋賀県伊香郡東阿閉村(後の南富永村、現滋賀県長浜市高月町)に生まれた。

尋常高等科卒業後1903年(明治36年)3円60銭を手に持ち奉公に出、1905年(明治38年)大阪瓦斯工事人夫として仕事をしていた時にガスエンジンに出会い、技術を学ぶ。

1906年(明治39年)独立し、1912年(明治45年)中古ガスエンジンブローカー業を開業し、1921年(大正10年)農業用小型石油エンジンメーカーとなり、ヤンマーを商標として用いた。

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賤ヶ岳 雨の登頂


昨日からの雨はいよいよ激しく、雨具を付けての登頂です。

リフトの真下に群生のシャガ(射干)の花は、4月末~5月初旬が見ごろです。

なお、賤ヶ岳の名前の由来についても諸説あるようですが、山中にある説明書きによれば、弘法大師がこの地に立ち寄ったとき地元の女性から「西の方に高い山には賎が住んでます」と言われたことから、この山を「賎ヶ嶽」と呼ぶようになった、とあります。

奥琵琶湖パークウェイ、つづら尾崎が見えています。

約18.8kmのドライブウェイに樹齢20年から25年の桜が約3,000本咲き乱れます。

隠れ里菅浦集落と奥琵琶湖桜並木
琵琶湖の北端は「奥琵琶湖」と呼ばれ、湖岸まで山がせり出しているその地形は、北欧の … 続きを読む →

海上から海津大崎の桜
菅浦の船溜まりから小型船で会場からの桜見物。 今日は折からの低気圧で湖上は時化て … 続きを読む →

海津大崎 琵琶湖随一の桜の名所を行く
桜の満開の時期に合わせ、JR湖西線マキノ駅から海津大崎を経て、JR永原駅までの約12kmの距離を徒歩で巡るという念願の散策を果たす。 … 続きを読む →


安土桃山時代、本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な主導権を握っていた豊臣秀吉と、織田家の旧臣中第一の家柄を誇る柴田勝家との間で権力争いが生じ、ついに武力をもって決着を付けようとしました。

これが俗にいう「賤ヶ岳の合戦」です。
余呉湖を挟んで、両軍は北と南で睨み合っていましたが、天正11(1583)年の4月20日の未明、勝家側が大岩山に奇襲攻撃をかけた時に始まり、秀吉が勝利を手にするまで、わずか2日足らずで終わっています。

辺りは、あまたの屍体で埋め尽くされ、余呉湖が血で紅に染まったといいます。

斬りこみ一番槍の功をたてた、世に名高い秀吉旗下の「賤ヶ岳の七本槍」の活躍はこのときの武勇伝です。

賤ヶ岳の山頂広場には、戦跡碑や、戦没者の碑が立てられており、尾根続きの大岩山頂にも、秀吉側の武将中川清秀の墓があります。

さらに、北麓には広い範囲にわたって、両軍の戦死者の墓や遺跡が点在し、南麓の山梨子(やまなし)集落には、落人伝説が残されています。

余呉湖への径。

余呉湖には湖の琴」という水上勉作の悲しい物語があります。

大正末期、若狭から賤ヶ岳の麓の西山の生糸製造農家へ奉公に来た「さく」と「宇吉」はお互いに惹かれるところがあり、助け合いながら暮らしている。

さくは京都の長唄の師匠「桐屋紋左エ門」に見初められ、京都へ移る。

やがて師匠の子を身ごもったさくは西山へ帰り、心優しい喜太夫夫婦に慰められ、宇吉と一緒にいることの幸せをかみかめる、自分の身体は穢れていると嘆き、お腹が大きくなって隠し切れずに自殺する。

宇吉はさくを余呉湖の深い淵へ沈めることを思いつき、その遺体を入れた箱に自分も入れて余呉湖に身を投げる。

雨脚が一段と激しくなり、つづら尾崎も霧に包まれます。

登ってきたリフトの駅からの径も霞みます。

賤ヶ岳の七本槍の話は譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。

福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」(中傷の意図も否定できない)と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌った(今日の研究では清正の立身は羽柴家の財務・民政における功績の部分が大きく、賤ヶ岳の戦功は異例に属していたとされる)などの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。

無名の戦士が霧の中に佇む。

無名の戦士像に後ろ髪惹かれながら下山した。
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白洲正子に「できることならここに隠居したい」と言わせた「天野の里」を散策


かつらぎ町南部、標高約450mの高野山麓に位置する天野の里。

四季折々の田園風景が広がる高原の盆地は、「にほんの里100選」にも選ばれています。

笠田と書いてと書いて「かせだ」と読む。

ここからコミュニティバスで天野の里へ向かう。

まず山裾にひっそりと佇む貧女の一燈お照の墓を目指す。

高野山奥の院に、千年もの間消えることもなく、光り輝いている「貧女の一燈」といわれるものがあります。

その燈を納めた娘「お照」の墓と伝えられる塚が天野にあります。
 
お照は、槇尾山(まきおさん)のふもと坪井村に捨てられた捨子でした。

16歳の時に養父母と死別し、その菩提を弔うために、自分の髪を売って「貧女の一燈」を献じたもので、長和5年(1016年)の頃でした。

後日、天和2年(1682年)に妙春尼(みょうしゅんに)によりお照の実父母の供養塔が建てられ、貞享5年(1688年)には天野に住む僧浄意(じょうい)によって、女人の苦しみを救うための代受苦(だいじゅく)の行を終えた旨の碑が建てられています。

お照の墓のそばに供養を兼ねて建てられたものと考えられます。

この碑の上10mの所には、お照の実父母の墓と伝えられるものが残されています。

この辺りはまるで山菜の宝庫だ。

春になると桜はもちろん花桃などで天野はピンク色に染まります。

西行が出家し、高野山に暮らして後、康治元年(1142年)、その妻も尼僧となり、この天野の里に庵を建てて移り住んでいます。

西行妻娘宝篋印塔(さいぎょうさいしほうきょういんとう)が残されています。

現存する西行堂は昭和61年の再建です。

解説板より
二基の宝篋印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で、和歌山県の文化財に指定されています。

向かって右より二基は、応安5年(1372)建立され、左二基は文安6年(1449)に建立されました。

後方の数多くの五輪は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。

二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めた後、天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています。

史跡の多い天野の里で時間を多く割くことになる。

コースを外れ、周遊してみるのも良いと思います。

天野は紀ノ川流域から一山隔てた高度450mの高所にありますので、平地より涼しく感じられます。

文学の里歌碑園。

白洲正子は「あんなに美しい田園風景を見たことがない」とか「天の一廓に開けた夢の園」とか「天野に隠居したい」とかそれはもうベタぼめです。

彼女が初めて天野に来たのは昭和40年前後かと思いますが、風景はその当時と大きく変わってはいないかも。
『かくれ里』白洲正子 新潮社

高野山ゆかりの伝説と史跡が残り、古の文化が薫る歴史の里。

随筆家の白洲正子は、著書『かくれ里』の中でこの里についてこう綴っています。

「こんな山の天辺に、田圃があろうとは想像もしなかったが、それはまことに「天野」の名にふさわしい天の一角に開けた広大な野原であった。もしかすると高天原(たかまがはら)も、こういう地形のところをいったのかも知れない」。

また、「ずいぶん方々旅をしたが、こんなに閑でうっとりするような山村を私は知らない」「できることならここに隠居したい。桃源郷とは正にこういう所をいうのだろう」とも。1971年の上梓からは時代が進みましたが、彼女が見て歩いて感じた里は変わりなく残っています。

ゆっくりと彼女の足跡をたどれば、きっと同じ思いを感じるでしょう。

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紀伊国一宮 丹生都比売神社


式内社(名神大社)、紀伊国一宮。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。
全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。

「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。

外鳥居

両部鳥居の様式。

両部とは密教の金剛界・胎蔵界のことで神仏習合が盛んだった神社によく見られ、高野山と縁の深い丹生都比売神社の鳥居にもみられます。

輪橋 – 太鼓橋。

鏡池に掛かっている。慶長年間(1596年 – 1615年)に淀殿の寄進で建立。
いろいろな種類の桜が植わっているため、一斉には咲き揃いません。

楼門前の桜が見頃となっており、順次満開を迎えます。

鏡池

水面に輪橋の姿を映す美しい池です。

鏡池には、「不老不死になった八百比丘尼と言う尼僧が池にその姿を映し、年老わない自分を嘆き鏡を投げ入れたと伝わる」と案内板にはあります。

鏡池の〝放生の鯉〟が、訪れる参拝者の心を和ませている。

鏡池は同神社の前にあり、楼門や本殿に向う朱塗りの太鼓橋が架かかっている。

池には赤い鯉、白い鯉、赤と黒、赤と白の斑(まだら)の鯉が放生されている。

鯉の群れは、四季を通して、鏡池を回遊。

年の瀬には、薄氷や雪の下で生息しているが、参拝者が堤に立つと、鯉は頭で薄氷を割り、雪をかき分けて、目鼻口を水面に出す。


禊橋・中鳥居

手前が禊橋で、その奥に中鳥居があります。
外鳥居と同様に両部鳥居になっています。


明日は花盛祭、春の大祭で、ご祭神に花を供え春の訪れを寿ぐ祭りで、当日は季節の花を竹筒に入れ参道に飾ります。

午前の祭典では、本殿の御扉を開け、祝詞を奏上し、子供たちが神前神楽「浦安の舞」を舞います。

午後には、「渡御の儀」を行います。

この「渡御の儀」は、古く鎌倉・室町時代に行われ、神輿行列が和歌山市内の和歌浦にある玉津島神社までご巡幸した「浜降り神事」が起源となっています。

本殿 4棟 – 本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。

楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。

これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。

通常だと極彩色の本殿が拝観できるのだが、明日の花盛祭のためにテントが張られており拝観できず。

空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。

神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。

神社では国宝の銀銅蛭巻太刀拵を始めとする文化財のほか、本殿および楼門などの社殿が国の重要文化財に指定されている。

また境内は国の史跡に指定されている。

これらのうち本殿、楼門および境内は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。

創建の年代は不詳。

『播磨国風土記』逸文には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される。

同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。

その場所は現在の高野町上筒香の東の峰(位置)に比定され、丹生川の水源地にあたる。

また同地は丹生都比売神社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく、高野山への土地譲りに際して遷ったとする説がある。

丹生都比売神社に関しては、弘法大師空海が高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られた、とする伝説が知られる。

高野山と丹生都比売神社の関係を語る最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある。

これによると、弘仁7年(817年)に空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。

元寇の際には、丹生都比売神社は神威を表したとして一躍有名となり、公家・武家から多くの寄進を受けた。

この頃から、紀伊国一宮を称するようになったと見られている。

紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮の位置づけにあったが「一宮」の呼称自体はなく、丹生都比売神社が弘安8年(1285年)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した。

なお、他に一宮を称した神社として伊太祁曽神社(和歌山市)がある。

三社参り 日前神宮・國懸神宮
入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。和歌山市内にある当社と竈山神社 … 続きを読む →

三社参り 竈山神社
日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と伊太祁曽神社(いだきそじん … 続きを読む →

三社参り 伊太祁曽神社
旧称は山東宮。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。 祭神 主祭神 – 五 … 続きを読む →

中世には多くの社領寄進を受けていたが、それらは天正検地において没収された。
近世になり、高野山学侶領から202石余が分与された。

明治維新後、1873年(明治6年)に近代社格制度において県社に列し、1924年(大正13年)に官幣大社に昇格した。

また、明治の神仏分離に伴い高野山から独立したが、今日に至るまで多くの僧侶が丹生都比売神社に参拝しており、神前での読経も行われている。

佐波神社(さわじんじゃ) – 明治時代に上天野地区の諸社を合祀したもの。

卒塔婆群(和歌山県指定文化財)

大峯修験者の碑

連なる石塔が大峯修験者の碑、梵字を刻んだ碑は光明真言板碑です。
山岳信仰と神仏習合時代の様子が垣間見える石碑群です

山の信仰を感じさせる中丿沢神社。
はるか昔にタイムスリップしたような気がしました。

畑の作業道から雑草がおおいかかる小道をかき分けるように5分ほど歩くと、杉木立のなかに小さな祠をみつけました。

祠自体はそれほど古くはないのかもしれませんが、苔むした石積みの基壇が歴史の厚みを感じさせてくれます。

周囲には誰もいなくて、なんだか中世の世界に迷い込んでしまったような、不思議な空気感のある場所でした。

案内板によると、祠の主は丹生明神と狩場明神です。

この二柱の明神さまは、丹生都比売と高野明神と同じで、天野には沢に沿ってこうした祠が3つ伝わっています。

こうした沢筋には鎌倉時代から郷供僧や宮仕と呼ばれる人たちが住み、こうした人たちによって丹生都比売神社が維持されていたとのことです。

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三社参り 日前神宮・國懸神宮

入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。和歌山市内にある当社と竈山神社、伊太祁曽神社に参詣することを「三社参り」と言う。

1つの境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社があり、総称して日前宮(にちぜんぐう)あるいは名草宮とも呼ばれる。

両社とも式内社(名神大)、紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社。
現在は神社本庁に属さない単立神社。

神体の鏡について

神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる。

八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。

日神(天照大神)に対する日前神という名称からも、特別な神であると考えられている。

また、伊勢国が大和国への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれている。

日前神宮

主祭神
日前大神 (ひのくまのおおかみ)
日像鏡(ひがたのかがみ)を神体とする。

相殿神
思兼命(おもいかねのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)

神階について

日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。

神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。

なお、日前大神が天照大神の別名とされることについては諸説がある。

日本で最も歴史のある神社の一つで、神話と関わりが深い。

『日本書紀』に、天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある。

社伝によれば、神武東征の後の神武天皇2年、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命(あめのみちねのみこと)が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。

当初は名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝えられている。

なお、伊太祁??曽神社の社伝では、元々この地に伊太祁??曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁曽神社は現在地に遷座したとしている。

また、日前・國懸両神宮の遷宮前の旧社地には浜宮神社が鎮座している。

國懸神宮

主祭神
國懸大神 (くにかかすのおおかみ)
日矛鏡(ひぼこのかがみ)を神体とする。

相殿神
玉祖命(たまのやのみこと)
明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
鈿女命(うづめのみこと)

天正13年(1585年)に豊臣秀吉に攻め込まれ、社領が没収された。

その際社殿が取り壊され境内が荒廃したが、江戸時代に紀州藩初代藩主徳川頼宣により社殿が再興された。

しかし現在は最盛期の5分の1の広さになっており、社殿や施設などは往時を忍ぶに及ばない。

さらに1919年(大正8年)には国費による改善工事によって境内の建物はすべて一新されており、旧観は大きく変化している。

1926年(大正15年)3月の工事完成をもって現在の左右対称の姿となった。

1871年(明治4年)、近代社格制度において両宮ともに官幣大社に列せられた。

現在は神社本庁などの包括宗教法人に属さない単立神社となっている。

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三社参り 竈山神社

日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と伊太祁曽神社(いだきそじんじゃ)を詣でることを「三社参り」と言い、貴志川線はこの三社の参拝者を運ぶことが目的の一つであった。

大鳥居

祭神の彦五瀬命は神武天皇(初代)の長兄にあたる。

『古事記』『日本書紀』によれば、神武天皇の東征の際に行軍した彦五瀬命は、孔舎衛坂(くさえざか)で長髄彦の軍との戦いで流矢にあたって負傷、その後雄水門(おのみなと、男之水門)で崩御、のち竈山に葬られたという。

この彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定されている。

天正の兵乱で文書が散逸したため竈山神社・墓の由緒は明らかでないが、『紀伊続風土記』では当地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている。

1873年(明治6年)に近代社格制度において村社に列した。

その後、1885年(明治18年)4月22日に官幣中社、1915年(大正4年)11月10日に官幣大社に昇格した。

村社から官幣大社まで昇格したのは、竈山神社が唯一の例である。

1938年(昭和13年)頃、現在の規模の社殿が整えられた。
戦後は神社本庁の別表神社に列している。

主祭神
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
「五瀬命」とも。ウガヤフキアエズとタマヨリビメの間に生まれた長男(第1子)で、神武天皇の長兄。

配祀神
左脇殿:彦五瀬命の兄弟神
稲飯命(いないのみこと) – 『日本書紀』本文では第2子(一書で第3子)。
御毛入沼命(みけいりぬのみこと) – 『日本書紀』本文では第3子(一書で第2子)。
神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇) – 末弟(第4子)。

『古事記』『日本書紀』では、彦五瀬命は「紀国之竈山」または「紀伊国竈山」に葬られたと記載されている。

『延喜式』諸陵寮では「竈山墓」と記載され、紀伊国名草郡にあり、兆域(墓域)は東西1町・南北2町で守戸3烟を付して遠墓としている。

『延喜式』において紀伊国唯一の陵墓である。

その後康和2年(1100年)の解状では、紀伊国等の陵墓は格式に規定されているにも関わらず、国司によって兆域侵犯や陵戸収公が行われていると記している。

竈山墓(かまやまのはか)は、竈山神社の本殿後背にある古墳(位置)。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により彦五瀬命の墓に治定されている。

宮内庁上の形式は円墳。

高さ約9メートルの独立丘上に位置し、墳丘は直径約6メートル、高さ約1メートルで、裾に護石を配する。

上記の記録があるものの、その後竈山墓の所在地は不明となった。

『紀伊続風土記』では寛文9年(1669年)に区域を定めて殺生を禁じたというが、これは神社の区域を定めたものであり、竈山墓の所在自体はなお不明であった。

寛政6年(1794年)に本居宣長とともに竈山神社を参拝した本居大平は、所在不明の旨を「なぐさの浜づと」に記している。

明治9年(1876年)に現在の古墳が「竈山墓」に治定され、明治14年(1881年)に修営された。

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三社参り 伊太祁曽神社


旧称は山東宮。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。

祭神

主祭神 – 五十猛命 (いたけるのみこと)、別名:大屋毘古神。

左脇殿 – 大屋都比賣命 (おおやつひめのみこと。五十猛命の妹神)。

右脇殿 – 都麻津比賣命 (つまつひめのみこと。五十猛命の妹神)。

上の3柱はいずれもスサノオの子であり、木の神として信仰される神である。

二の鳥居もがっしりとした木造り。

日本書紀によると、高天原を追われた素戔嗚尊とその子五十猛神は、共に新羅に降り立つがその地を気に入ることはなく、船で出雲国に移動した。

そして素戔嗚尊は高天原から持ってきていた木の種を五十猛神に渡して日本中にその種を蒔くように命じた。

五十猛神は妹である大屋津姫命・都麻津姫命と共に九州から順番に日本中に種を蒔き始めて国中を青山にし、最後に木の国(紀伊国)に降り立った。

このことから五十猛神は有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)とも呼ばれ、紀伊国に祀られることとなった。

伊太祁曽神社の拝殿は、割拝殿となっています。

割拝殿とは、建物の中央に土間があり、通り抜け可能な拝殿のことです。

威風堂々としたとても立派な割拝殿です。

御神木

昭和37年の落雷で燃え、枯れてしまいましたが、現在も3mほどの高さが残っています。

その後、古幹は割拝殿に保存され、大国主命(おおくにぬしのみこと)を助けた神話にちなみ、「木の俣くぐり」となっています

石垣には地元産の緑泥片岩(りょくでいへんがん:通称・青石)が使われています。

御鎮座の時期については明らかでないが、『続日本紀』の文武天皇大宝2年(702年)の記事が初見になる。

古くは現在の日前宮(日前神宮・國懸神宮)の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を明け渡したと社伝に伝える。

その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座し、和銅6年(713年)に現在地に遷座したと伝えられる。

本居宣長の歌碑。

氣生社

日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と当神社を詣でることを「三社参り」と言い、貴志川線はこの三社の参拝者を運ぶことが目的の一つであった。

貴志川線の開業当初の終点は伊太祁曽駅(当時は山東駅)であった。

御井社には水の神様、彌都波能売神(みずはのめのかみ)・御井神(みいのかみ)をお祀りしています。

ご神水をいただける井戸があり、病気の人には元気を取り戻す霊力があると伝えられています。

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難波八十島の海老洲の八坂神社


当神社の創建に関しては、境内に現存の天治(1124)大治(1131)と読み得る石燈籠があります。

又、村の旧記に永徳3年(1383)霜月社殿再建と書かれており、足利3代将軍義満の頃で再建とあるから、これより更に以前に祀られた事がうかがえます。

元亀元年(1570)織田信長が石山本願寺攻めで、野田城の三好党を討とうとしたとき、先陣の将荒木村重を遣わして、戦勝を祈り陣馬陣刀を献じたと云われています。

細川家の記録に海老江堤の田の中に陣したと記されています。

「菜の花の はじめや北に 雪の山」 松 瀬 青 々

菜の花畑をとおし、雪をいただいた六甲山を望み詠んだもので、明治40年の作であるが当地はこの頃まで浪速津の中の一農村であり、農耕守護、生産守護、疫病災厄守護の御神徳を以て崇敬篤く地車三基、枕太鼓一基の巡行は今猶夏祭りの神賑として行われています。

淀川改修記念碑(海老江中公園)

淀川流域は豊かな水量で農作物には恵まれましたが、一方で数多くの洪水にあいました。とくに有史 以 来といわれる大 洪水が 明 治 18年(1885)に起こり、さらに同22年(1889)、同29年(1896)にも洪水
が続いて大阪は甚大な被害を受けました。

これを契機に中津川を利用して新淀川を開削する計画が立案され、明治29 年(1896)から淀川大改修を開始、明治43年(1909)にようやく完成しました。

このとき、中津川流域にあった海老江村の北部90町余りが新淀川の河床となりました。

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