ヒンドゥの神々 民博


ヒンドゥーの神々といえば、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。

狭い意味でのヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。

紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。

彼らは前1500年頃ヴェーダを成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。

紀元前5世紀頃に政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。

その結果、バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く(バラモン教もヒンドゥー教に含む考えもある)。

ヒンドゥー教は紀元前5 – 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 – 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。

その後、インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。

シヴァ神とパールヴァティ女神

シヴァはヒンドゥ教の主な神格で、世界の破壊と再生を司る。

妻パールヴァティーは穏やかな姿で現れるが、その変身形ドゥルガーは武器を携え、災いを払う女神とされる。

象頭のガネーシャはシヴァの息子で、福をもたらす神として人気がある

ドゥルガー女神

パールヴァティーの化身の一つで美しい戦いの女神。
虎に騎乗して水牛に化けた悪魔を倒す美しい神像が有名。

ヒンドゥー教の大女神。
シバ神の妻。

パールバティーPārvatī,ウマーUmā,ガウリーGaurī,カーリーなどの別名をもつが,これらは元来別の女神であったと考えられている。

ドゥルガーは〈超え難い女性〉という意味で、悪魔たちを殺す恐ろしい女性戦士とみなされている。

シヴァ神 (ナタラージャ) インド カルナータカ州 

穢れや罪に満ちた世界を消滅させるためのダンスを踊るシヴァ神。

この姿から20世紀に入ってシヴァ神は舞踊の神とも見なされるようになった。

ダーキニー女神(空行母) チベット自治区

荼枳尼天(だきにてん)は、仏教の神(天)。
夜叉の一種とされる。

荼枳尼天の起源であるインドのダーキニーは、裸身で虚空を駆け、人肉を食べる魔女である。

ダーキニーの起源は明らかでないが、ヒンドゥー教もしくはベンガル地方の土着信仰から仏教に導入されたと考えられている。

ヒンドゥー教ではカーリーの眷属とされ、カーリーに付き従って尸林をさまよい、敵を殺し、その血肉を食らう女鬼・夜叉女となっている。

ヤマーンタカ尊 チベット自治区

梵名のヤマーンタカとは『死神ヤマをも降す者』の意味で、降閻魔尊ともよばれる。

またヴァジュラバイラヴァ(vajrabhairava 、金剛怖畏)、ヤマーリ(『死神ヤマの敵』)、マヒシャサンヴァラ (『水牛を押し止める者』)ともいう。

観自在菩薩

観世音菩薩は、本来男性であったと考えられる。

しかしながら、中国では「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多い。

また、例えば地蔵菩薩を観音と同じ大悲闡提の一対として見る場合が多く、地蔵が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る場合が多い

インドでは諸神を招く時、土壇上に円形または方形の魔方陣、マンダラを色砂で描いて秘術を行う。

色砂で土壇上に描くため、古い物は残っていないが、チベット仏教などでは今でも修行の一環として儀式、祭礼を行う時に描かれる。

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今熊野観音寺


鳥居橋

参拝するのに、泉涌寺参道から左に折れて観音寺に入ると、真っ先に目を引くのがこの赤い橋「鳥居橋(とりいばし)」。

観音寺と泉涌寺の間の谷を流れる川を今熊野川といいますが、その川を越えるのが鳥居橋です。

古くからこの地には熊野権現社が鎮まっていたので、橋の名前の由来となったとも言われております。

今熊野観音寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。

総本山泉涌寺の塔頭。
山号は新那智山。
本尊は十一面観世音菩薩

正式な寺号は観音寺である
西国三十三所第15番札所。

空海が唐で真言密教を学んで帰国した翌年にあたる大同2年(807年)、東山から光が出ているのを見つけた空海は、不思議に思って当地にやってきたところ、老人の姿をした熊野権現が現れた。

熊野権現は空海に天照大神御作の一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡してこの地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り、衆生を救済するようにと言った。

山中に建つのは医聖堂

本堂東側の山上にひときわ高くそびえ立つ平安様式の多宝塔です。

医と宗教がともに手をたずさえて、人類がともに明るく健康に暮らせるような社会が築かれますよう、との住職の願いを込めて建立致しました。

この「医聖堂」には医界に貢献された多くの方々が祭祀されています。

平成28年、丹塗りの塗り替えが施され、33年ぶりに鮮やかな朱色が蘇りました。

塔の足元にある石碑には「杉田玄白」、「華岡青洲」、「緒方洪庵」など偉人の名前がズラリ。
医学部を目指す学生の合格祈願の対象にもなっています

空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像をその体内仏として中に納め、熊野権現の言うようにこの地に一宇を建てて奉安した。

これが当寺の始まりであるとされる。

平安時代後期になると、紀伊国熊野の熊野三山に対してこの地を今熊野と称し、白河法皇の時代には今熊野修験の中心地として栄え、寺名も東山観音寺と呼ばれるようになる。

後白河上皇は熱心な熊野三山の信者であったが、紀伊国熊野の地は遠く、気軽には参詣できないために今熊野と呼ばれていた当地一帯に目を付け、永暦元年(1160年)に当地に新たに熊野権現を勧請し、当山の本尊をその本地仏として定めたうえで「新那智山」の山号を授けて東山観音寺を観音寺に改め、山麓に新熊野神社をも造営した。

鳥辺野の南西の地(鳥戸野)は、古くからの貴族の葬地であったが、当寺がその葬地をつかさどっていた。

そのため貴族の葬儀や法要の多くを観音寺は行っている。
後堀河天皇の観音寺陵は、当寺の東南に隣接している。

後白河上皇は持病である頭痛を当山の観音菩薩によって治してもらった。

この出来事以来、一般の人々からも頭痛封じの観音様として尊崇されるようになった。

ぼけ封じ観音

大師堂の前に立たれる観音さまが、「ぼけ封じ観音」。

私たちをとりまく心や身体のぼけを取り除いて下さる観音さまです。

大師堂

当山を開創された弘法大師をお祀りしているお堂です。
東山大師と呼ばれ、大師信仰の方々のお詣りが絶えません。

不動明王、愛染明王、また当山の伽藍を寄進建立された左大臣藤原緒嗣の像もお祀りされています。

五智水

当山を開かれた弘法大師が、熊野権現の御霊示にしたがい、観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぼうと、錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。

大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。

爾来今日に到るまでこんこんと湧き出し、私たちに深き恵みの水をお与え下さっています。

清水焼の窯元「陶葊(とうあん)」の土塀
芸術作品のようなデザインが印象的です。

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御寺別当来迎院


来迎院は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。
山号は明応山。
本尊は阿弥陀如来。

泉涌寺の塔頭。禁裏御菩提所泉涌寺別当、御寺(みてら)別当来迎院とも称する(「御寺」とは泉涌寺のこと)。
泉山七福神巡り第4番(布袋尊)札所。

寺伝によれば、大同元年(806年)に空海(弘法大師)が唐(中国)で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされる。

それから約400年後の建保6年(1218年)、泉涌寺の長老であった月翁智鏡律師が、藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し、泉涌寺の子院となったが、応仁2年(1468年)の応仁の乱の兵火により伽藍が焼失し、荒廃した。

その後、天正2年(1574年)、中興の祖 舜甫明韶が織田信長の援助により再興、慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い、ようやく復興を果たした。

荒神堂に安置されている三宝大荒神像は空海(弘法大師)が唐で感得し、当初は自ら座像を製作したと伝えられる。

伝承によれば、あるとき現在来迎院の建つ山の頂が七日七夜にわたって光を放ち、これにより空海はここを霊地であると考え、来迎院を興したと伝える。

三宝荒神は本来、火の神として台所、かまどを司るとされるが、来迎院の荒神は「胞衣荒神(ゆなこうじん)」とも称され、安産の御利益もあるとされて、皇后宮安産の勅願所として信仰を集め、現在も安産を祈願する参拝客が訪れている。

また、日本でもっとも古い荒神(荒神像)であるとされる。

弘法大師独鈷水

弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」は、縦穴の井戸ではなく、崖の下の部分から横方向に伸びる洞窟のような形状をしており、柄の長い柄杓を用いて汲み上げる。

伝承によれば、霊元天皇の寵愛を受けた女官、小少将局の娘は生まれつき目が不自由であったが、独鈷水で目を洗うと良いというお告げに従ったところ、たちまちにして目が治ったと言われる。

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下において、赤穂藩の大名であった浅野長矩(浅野内匠頭)が吉良義央(吉良上野介)に斬り付ける事件が発生した。

浅野長矩は切腹、赤穂浅野家はお家断絶となった。

浅野の家臣である大石良雄は赤穂を退去した後、外戚にあたる当時の泉涌寺長老、兼、来迎院住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構え、多くの時間を来迎院で過ごしたと伝えられる。

大石良雄は来迎院に書院を興し、また、境内に弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」が湧き出ることから[茶室「含翆軒」(がんすいけん)、「含翆庭」(がんすいてい、池泉回遊式庭園)を設け、ここで茶会を催しながら同士である元赤穂藩の家臣達と討ち入りの密議をおこなったとされる。

また大石は、現在も来迎院本堂に安置される勝軍地蔵像(しょうぐんじぞうぞう)を念持仏として祈願したと伝えられる。

茶室「含翠軒」は、大石良雄が山科の浪宅に住んだ頃に建てられたという。

大石は茶を嗜み、この茶室で同志と密会したという。
「赤穂忠臣談合所」とも呼ばれた。
 
現在の茶室は、近代、1925年に再建されている。軒の扁額「含翠」は、大石筆という。

明治時代になると廃仏毀釈により荒廃したが、大正時代になって修復され、現在に至る。

また、大正時代になり、当時の玄暁住職によって、大石良雄の遺徳を偲び毎月14日に含翆軒にて茶会が催されるようになった。

また、赤穂浪士による討ち入り(赤穂事件)が行われた12月14日には、「大石忌」として茶会が営まれた。

この茶会は現在も「含翆会」(がんすいかい)の名で継続されている。

庭に「伽藍石の蹲踞」「足利時代の八面仏石幢」「足利時代の八面仏石」「安土・桃山時代の聚楽第灯籠」などが配されている。

含翠庭、足利時代の八面仏石幢

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善能寺庭園 (遊仙苑) 重森三玲の作品を鑑賞できる隠れ名園


善能寺(ぜんのうじ)は、京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の寺院。

泉涌寺の塔頭のひとつで、本尊は聖観音。
洛陽三十三所観音霊場第18番札所。

この寺は一説によれば、元は西八条猪熊二階堂町にあった二階観音堂と呼ばれていた寺であったが、弘仁14年(823年)に空海がこの寺に稲荷大明神(荼枳尼天)を祀って寺の名称を善能寺に改めたという。

句碑 

境内に俳人・荻原井泉水(おぎわら-せいせんすい)の句碑「南無観世音 藤はようらく(揺落)空に散る」が立つ。 
手向けの供養句碑という。

石組は重森三玲による。
白砂に立てられた句碑を石組に入れ、四方正面の三尊石組になる。

その後、平城天皇の勅願寺となったこともあるが、天文24年(1555年)に後奈良天皇の命で泉涌寺の塔頭とされ、今熊野観音寺の西北に移された。

明治時代の廃仏毀釈で荒廃し、1887年(明治20年)に現在地に移された。稲荷大明神(荼枳尼天)を日本で最初に祀った寺ともされる。

1972年(昭和47年)には作庭家の重森三玲によって池泉庭園遊仙苑が造られた。

本堂を囲むように作庭された池泉鑑賞式庭園“仙遊苑”を手掛けた昭和47年は『豊国神社 秀石庭』なども手掛けた年。

現在は池に水が貼られていませんが、多数の阿波の青石による石組が見所。

雲紋築山、雲とも飛行機の形を象ったともいわれている。
かつては白砂敷きに苔地の築山となっていたという。

三玲は、「飛行機が幾千万の山海上空を飛翔し、窓外に各地の山岳や平野を俯瞰する景観を全庭に畳んだ」と述べている。

航空機にも見える立石の石橋。

現在の本堂・祥空殿は1971年(昭和46年)のばんだい号墜落事故の遺族の寄進により、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立されたものである。

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御寺泉涌寺


泉涌寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の総本山の寺院。

山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。

本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。
皇室の菩提寺(皇室香華院)として御寺(みてら)と呼ばれている。

大門を通ると下り坂の先に仏殿が見えます。

「下り参道」と呼ばれる珍しい伽藍配置で、じつはこれも盆地の底に本堂を建てるのが修行に適しているとされていたから。

総門を入ると、参道の左右にいくつかの塔頭(山内寺院)がある。

長い参道の先にある大門をくぐると、左手に楊貴妃観音堂があり、正面には伽藍の中心をなす仏殿、舎利殿が建ち、これらの背後に霊明殿、御座所など皇室ゆかりの建築があり、その背後に月輪陵がある。



唐の皇帝玄宗(げんそう)の妃・楊貴妃の等身坐像にかたどったという聖観音像が安置されている楊貴妃観音堂。

1255年(建長7年)、中国に渡った湛海が持ち帰り、泉涌寺に安置したとのだという。

長い間、100年に一度の開帳という秘仏であったが、1956年(昭和31年)から一般公開されている。

楊貴妃観音像には、玄宗が亡き妃の面影を偲ぶため、香木で等身坐像にかたどった聖観音像を造ったという伝承がある。

今日では、女性の様々な願いを叶えてくれるパワースポットとして知られている。

泉涌水屋形

1218年(建保6)月輪大師が造営するにあたり、清泉が涌き泉涌寺と改められた。


霊明殿 – 天智天皇と光仁天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后(南北両朝の天皇も含む)の尊牌(位牌)を安置する。

1882年(明治15年)に焼失し、現在の霊明殿は、1884年(明治17年)に明治天皇の勅命により再建された。
入母屋造り桧皮葺きで、外観は宸殿風の建物である。

1871年(明治4年)に般舟院など京都府内の諸寺院にあった尊牌がここに集められている。

舎利殿と仏殿

勅使門。

御座所 – 仏殿・舎利殿の背後に建つ。

文化15年(1818年)に建立され、現在の建物は、明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を1884年(明治17年)に移築したもので、女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。玉座の間は、天皇・皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋で、平成期(1989年 – 2019年)に入ってからは、即位報告(1990年)、平安建都1200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)、譲位の報告(2019年)などの際に平成の天皇が泉涌寺を訪れ、この部屋を使用している。

今上天皇の即位の報告(2019年)の際にも用いられた。

侍の間

勅使門・車寄せ

平安時代に弘法大師空海が草創したと伝わるが、実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)で、天台、東密、禅、浄土の四宗兼学の道場として再興した。

東山の一峰である月輪山の麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る天皇陵があり、霊明殿には歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)が奉安されている。

後鳥羽上皇や土御門上皇、順徳上皇、後高倉院の他、北条政子や北条泰時も俊芿の下で受戒するなどその勢いは強まり、貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ、仁治3年(1242年)正月には四条天皇の葬儀を行うまでになっている。

こうした関係から後堀河天皇と四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれた。

この頃から皇室との結び付きがより強まっていき、遂には南北朝時代から安土桃山時代までの歴代天皇の葬儀を一手に行うまでになっている。

境内には『枕草子』の作者である清少納言の父・清原元輔の旧居で、清少納言が晩年を過ごしたとされる月輪山荘にほど近い場所として、1974年(昭和49年)に平安博物館館長・角田文衞の発案で百人一首に採られた「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」の歌碑が建立されている。

御座所庭園

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臨済宗大本山 東福寺


東福寺は、京都市東山区にある臨済宗東福寺派の大本山の寺院。
山号は慧日山。

京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。

近代に入って規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院。

紅葉の名所として有名。
「東福寺の伽藍面(がらんづら)」ともいう。

境内の最も南にある「三門」。
現在の門は応永12年(1405)頃に再建されたもので、禅寺の三門としては日本最古にして最大。

国宝に指定されています。

5つの柱と3つの入り口がある「五間三戸(ごけんさんこ)」という造りで、二階建ての構造です。

日露戦争の際には寺域が接収され、ロシア軍捕虜を入れる捕虜収容所となった。

1917年(大正6年)より仏殿と法堂を兼ねた本堂が建てられ、塔頭の万寿寺から釈迦如来像を移して本尊とし、1934年(昭和9年)に完成している。

現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。

東福寺からは歴代多くの名僧を輩出しており、『元亨釈書』の著者である虎関師錬、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆などが著名である。

三門の北に建つのが、東福寺の本堂である「法堂」。

かつては、高さ15メートルもある釈迦如来像が祀られていたそうなのですが、明治の火災で仏殿も仏像も焼失。

現在の建物は昭和9年(1934)に再建。
ご本尊は塔頭寺院から移された、13世紀後期制作と伝わる釈迦如来立像です。

内部には入れませんが、外からのぞくと、ご本尊様とともに、異様な龍の天井画が見えます。

これは、日本画家・堂本印象がわずか16日間で描き上げたという、渾身の作。

東福寺 方丈庭園 八相の庭
方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居であり、後には相見(応接)の間の役割が強くな … 続きを読む →

雪の東福寺通天橋
鳥羽街道から東福寺へ向かう。 平安京造営にあたり、平安京の玄関口である羅城門(羅 … 続きを読む →

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尺八根本道場 明暗寺


明暗寺(みょうあんじ)は、京都市東山区にある普化正宗総本山の寺院。
山号は虚霊山。

本尊は虚竹禅師像。

尺八根本道場。
時代劇でよく虚無僧が「明暗」という文字を掲げた偈箱を着けており、一見宗教的な意味を持っているように見えるが、実際は「私は明暗寺の所属である」という程度の意味である。

お経を唱えるかわりに、尺八を吹くことを修行としました。

これを吹禅(すいぜん)と呼びます(「座禅」の対語)。

山門内に枯山水式庭園の前庭がある。
木立の間の庭面を苔が覆う。

苔地に水盤、石碑、燈籠などが置かれている。

苔は白緑色のアラハシラガゴケで、シラガゴケ科の粗葉白髪苔(あらはしらがごけ)とも呼ばれる。
苔が銀色に輝いて見える。

アラハシラガゴケは日本各地に分布。

園芸ではホソバオキナゴケとともに山苔と呼ばれ、土壌改良材用土として粉砕、乾燥して販売されている。

盆栽などの下草にはホソバオキナゴケが使われていた。

近年入手が難しくなり、その代用として扱われるようにり、山苔というとアラハシラガゴケを意味する事が多い。

本堂。

庭にあった石、人の渋面を思わせ趣がある。

通りは石垣が多くそれぞれ美しい。

これまでは、最も早く石垣が導入されたのは、1563年(永禄6年)に「織田信長」が築城した「小牧山城」と考えられてきましたが、最新の発掘では、小牧山城より3年早く建てられた「飯盛城」:現在の大阪府大東市、及び四条畷市の境に存在したことが分かっています。

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「働く女性の守り本尊」 同聚院


1444年に文渓元作禅師(東福第160世)が、その師、琴江令薫禅師(東福第129世)を開山として創建した臨済宗大本山東福寺の塔頭寺院。

藤原忠平建立の天台宗法性寺の伽藍に藤原道長によって造営された、五大堂の丈六不動明王を本尊としている。

後に五大堂は兵火によって消失したが、唯一火災から逃れたを不動明王を安置するために1280年東福寺開山の聖一国師によって再建された。

同聚院はその五大堂を本堂とする形で建立されているため「五大堂同聚院」とも呼ばれる。

現在の五大堂は1714年(正徳4年)の再興を経たものである。
境内にはモルガンお雪の墓がある。

「働く女性の守り本尊」不動明王

かつてある女御が牛車で法性寺を訪れた際、特に大事な琴の爪を失くしたと言って道長公に所在を求めました。

不動明王の霊験を聞いていた道長公は潜心に黙祷して「もし見つけることが出来たならお堂を建立して報恩し奉ります。」

と請願したところ、三ノ橋(現在の同聚院北西あたり)付近にてこれを得て、大いに歓喜して献上したと伝わります。

そうして建立したのが同聚院の五大堂であり、不動明王は当時の女御・更衣などの身分の高い女官からも絶大な信仰を得たと言われ、特に芸事上達を祈願することも多かったと言われます。

近代においては、祇園の芸妓で胡弓の名手として知られた日本のシンデレラ・モルガンお雪さんの信仰を縁として、全国の女性から「働く女性の守り本尊」としてあつく信仰されています。

同聚院 HPより

日本のシンデレラ「モルガンお雪」

女性が国際社会に進出した明治期、世界に日本女性の存在を知らしめた一人に「モルガンお雪」(加藤ゆき:1881年8月7日~1963年5月18日、81歳没)がいました。

彼女は世界三大財閥であるモルガン一族に嫁ぎ、日本のシンデレラとして日本に限らず世界中の話題を集めた祇園の芸妓でした。

晩年、亡くなった夫を追ってカトリックに改宗しましたが、親族の希望で同聚院に分骨され現在も当山にて供養されています。

悲劇の幼帝安徳帝内裏跡伝説地
それは山陽電鉄のガードをくぐり歩きづらい急な坂道を登りきったところにある。 東西 … 続きを読む →

モルガン灯籠
この一対の灯籠は、モルガンユキ(京都の美妓「雪香」旧姓加藤ユキで、明治37年日露戦争の始まる直前にアメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに熱望され国際結婚をした人)がこの辺りが異人山と呼ばれた頃この東に住んでいた。

近代においてはモルガン財閥に嫁いだ日本のシンデレラ、モルガンお雪がこの不動明王を信仰していたことから、現在では「働く女性の守本尊」として多くの女性から信仰されており、境内にはモルガンお雪の3回忌の際にフランスから贈られた新種の白バラ「ユキサン」が今もなお花を咲かせている。

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わらべ地蔵に癒される 霊源院


いまから約650年ほど遡る室町時代は観応年間(1350年頃)。
後醍醐天皇の皇子である龍泉和尚によって創建されたお寺です。

25もある東福寺塔頭寺院のひとつ。

応永年間(1400年頃)在先希護和尚により現代に続く寺名霊源院と改修され、現在にいたります。

外からも見えている6体のお地蔵さんの表情はにこやかですね。

この笑顔に思わずにっこり。

アングルを変えてもう一枚。

水子供養の寺として知られる。

地蔵菩薩は、手を合わせた者の身代わりとなって地獄の苦しみから救うだけでなく、死者が生まれ変わる六つの世界すべてを巡って救済を行うと考えられています。

壱岐の「はらほげ地蔵」は有名ですね。
満潮になると胸まで浸かるお地蔵さん はらほげ地蔵
六地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)において衆生の苦患を救うという六 … 続きを読む →


静かに微笑んでいたり、穏やかな表情に癒やされます。

三千院のわらべ地蔵は何度撮っても新鮮です。

童地蔵がかわいい三千院
三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788年)、比叡山延暦 … 続きを読む →


愛宕念仏寺にはユニークなお地蔵さんが揃っていますね。

愛宕念仏寺
愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)は京都府京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の仏教寺院 … 続きを読む →


ネコの置物が可愛い。

あまりにかわいいので思わず何枚も撮ってしまいました。
ありがとう。

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小町伝説の残る 退耕庵


退耕庵は、京都市東山区にある臨済宗東福寺派の大本山・東福寺の塔頭。

本尊は千手観音。小野小町ゆかりの寺として知られる。

慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いの際には、東福寺に長州藩の陣が置かれていたことから、当庵はその戦いの殉難者の菩提所となっている。

応仁の乱による戦火で荒廃したが、1599年(慶長4年)、安国寺恵瓊(第十一世)によって再興されている。

豊臣秀吉亡き後、客殿の茶室では、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが関ヶ原の戦いの謀議を行ったという。

関ヶ原の戦では西軍敗北に伴い六条河原で斬首になる。

地蔵堂に安置する高さ約2メートルの地蔵菩薩像は、胎内に小野小町に寄せられた多数の艶書を収めていたことから「玉章(たまずさ)地蔵」の名で知られている。

町堂の前には、小野小町百歳井戸という井戸もあります。

この井戸の水面に年老いた自分の顔を映したのでしょうか。

謎の女小町は各地にゆかりの地と称するものがある。

ライバルを救った小町の慈悲心「草子洗小町」
小町零落説の背景には、あまたの貴公子を虜にした小町に対しての男性諸氏のひがみ根性 … 続きを読む →

はねず踊り 小野小町ゆかりの 隨心院
ちょうどはねず(うすべに色)の梅が咲くころ、小野小町を偲ぶ土地の童唄と踊りが、隨 … 続きを読む →

美醜の魔界を詠んだ謎の女流歌人小野小町
隨心院が所在する小野は小野氏の一族が栄えたところである。 宮中で仁明天皇に仕え歌 … 続きを読む →

深草少将の百夜通いの話はあまりにも有名です。
関寺の牛塔
長安寺の前の名称は関寺。 関寺は、創建年代は不明であるが、逢坂の関の近くにあった … 続きを読む →

埋もれ百体地蔵の奥には、小野小町の供養塔がある。
謡曲の「関寺小町」が晩年の小野小町を歌っている縁で、置かれたのだろう。

小野神社 小野氏発祥の地
滋賀を訪れた折、全国の小野一族の祖を祀るといわれる小野神社を訪れた。 関連記事: … 続きを読む →

境内の一隅に康永4年(1345)の石像宝塔が建つ。
小野小町の供養塔と伝えられている。
小野小町は小野篁の孫にあたる。
六道珍皇寺 冥途通いの井戸
京都における平家の最初の拠点。 清盛の祖父が寺領を借り受け、邸宅を建てたといわれ … 続きを読む →

篁と式部、この二人の墓所は堀川北大路交差点から南へ少し下がって島津製作所の傍らにあります。
京都の紫野(むらさきの)と呼ばれる場所です。

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