滋賀のラピュタ!土倉鉱山跡


滋賀県長浜市木ノ本町に国道303号線が通っており途中、金居原(かねいばら)と呼ばれる集落がある。

少し東に移動するとすぐに岐阜県揖斐川町の県境を跨ぐことになる。

国道303号に入り八草峠を目指していると、右手に「土倉鉱山跡」の看板が目に入る。

頭上に見える橋は現国道303号線の橋梁だ。

かつて国道303号線は八草峠と呼ばれる峠を延々走り続けなければならず、狭隘、軟弱な道路を使って岐阜県と滋賀県を行き来するのはくたびれるの一言に尽きたはずである。

現国道303号線であるバイパスが完成し、八草トンネルが開通してからというもの、その利便性は飛躍的に上昇し、八草峠を通過するのに3分とかからない。

鉱山は杉野川上流で明治末期に採掘が始まった。

昭和30年代には人口が千人を数え、住宅や商店、映画館が並んだ。
しかし、海外から安価な銅が輸入され、採算が合わなくなり閉山した。

近年は散策ツアーが行われる。

閉山から半世紀を経た産業遺産と豊かな自然が、新たな地域資源として価値を見直されている。

往時はトロッコが出入りした坑道の入り口。

朽ちた人工物の隙間から木々が生える。

その姿が人気アニメ映画「天空の城ラピュタ」の舞台を思わせると、インターネット上では「滋賀のラピュタ」とも呼ばれる。

土倉鉱山は土蔵岳と呼ばれる標高1003mほどの山麓に坑道が掘られ、1907年(明治40年)に奥土倉という、現在の鉱山跡よりも若干北にある場所で鉱山が開かれた。

だがその後、度重なる豪雨被害や土砂災害などにより、拠点を南側の出口土倉に移した。

これが現在土倉鉱山跡と一般的に呼ばれている場所である。

1965年(昭和40年)に閉山し、現在では出口土倉に選鉱所跡と坑口が残されている。

採掘した岩石は建物の一番上に運ばれ、薬液の入った沈殿分離槽に入れられた。

浮かんだ銅鉱石を取り出した上で、残りを下段の槽へ運ぶということを繰り返し、残った石は建物の外へ捨てたという。

現在、あらわになっている柱のような構造物は土台で、「その上に木造の建物があった」。

集めた銅鉱石は、空中に張ったワイヤを使い、ロープウエーのようにカゴで運搬した。

「そこらの山頂に鉄塔が建っていて、(約12キロ離れた)木ノ本駅まで運んでいた」という。

「若い人? 来ますよ、なんともいえない衣装をつけて。土日は多くて20~30人くらいかな」。

選鉱場の前を通る国道303号付近には事務所や独身寮があった。

付近では積雪が4メートルに達することもあったため、山麓の小学校まで通えない子供たちのために冬季限定の「分教場」も。

麓には診療所や鉱山会社の幹部が住む一戸建ての社宅があったという。

なお、奥へと歩を進める。

伊吹山地の横山岳と土蔵岳のはざまに位置する杉野川源流部の森にはトチノキやサワグルミの巨木が並ぶほか、さまざまな草も生え、豊かな植生をとどめる。

現在は鉄柵で封鎖されている坑道への入り口。

かつてトロッコが走ったレールが見える。

坑道入口を封印する鉄格子は真ん中が鍵付きの扉となっていて、鉱山関係者が点検をする際に使用すると思われる。

中は水があふれ、右端からは鉱水が勢い良く流れ出して暗渠を通し杉野川へ注がれていた。

かつて愛媛県新居浜市の別子銅山跡を訪問したことがある。
土倉鉱山跡よも遥かに大規模で観光地として再開発され、「東洋のマチュピチュ」とよばれ、多くの観光客を集めている。

東洋のマチュピチュ 別子銅山 東平ゾーン
標高750mの山中にある東平(とうなる)は、大正5年から昭和5年までの間、別子鉱 … 続きを読む →

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いかごの里で糸取り見学


竹生島、葛籠尾崎を左手に見ながらバスは北國街道を北上する。
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隠れ里菅浦集落と奥琵琶湖桜並木
琵琶湖の北端は「奥琵琶湖」と呼ばれ、湖岸まで山がせり出しているその地形は、北欧の … 続きを読む →


西野水道(にしのすいどう)

滋賀県指定文化財。

西野水道(にしのずいどう)は、西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mの排水用の岩穴です。

今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業です。

能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけてノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴です。

清水(しょうず)

大音・西山地区で糸取りが今も続けられている理由の一つに”水“があるとされる。

糸や織りに関する諸作業には多くの良質な水が必要で、水の良し悪しが大いに影響する。

この地区は、賎ケ岳に続く背後の峰々を水源とする湧水が豊富である。

大音も西山も昔からこの湧井戸の水を竹樋によって作業場へ誘導し使ってきた。

湧水は鉄分を含まないため、白く仕上がるとされる。
水で色の出方が違うとされてきた。

これら地区には“清水”と呼ばれる池が多く点在し利用されてきたが、昨今の道路工事などで湧出が止まり今では数カ所残すのみとなった。

大音軍治

「旧家・大音軍治」宅があります。

ここは大音唯一の武家屋敷であり、祖先は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉軍の武将として仕え果敢な活躍をしたと伝えられています。

江戸時代には柳ケ瀬の関所の奉行を務めた、とあります。

三味線・琴糸の生産地である木之本町大音地区では古くから生糸生産の技術が伝わりました。

近世以降では大規模な工場も設立され、昭和初期には最盛期を迎えました。

近年では衰退してしまいましたが、毎年梅雨の時期になると工房では生糸の生産が行われます。

資料館では糸とりの技術の紹介や道具の展示をしています。

賤ヶ岳 雨の登頂
昨日からの雨はいよいよ激しく、雨具を付けての登頂です。 リフトの真下に群生のシャ … 続きを読む →

余呉湖への径。

余呉湖には湖の琴」という水上勉作の悲しい物語があります。

糸取りは江戸時代から受け継がれてきた。

糸は高品質で知られ、国の選定保存技術でもある。

戦前は七十軒ほどの工房があり、「琴糸の里」として水上勉の小説「湖の琴」(一九六六年)の舞台にもなった。
 
しかし安価なナイロン糸が普及したほか、梅雨時だけの仕事のため、サラリーマン化で担い手の確保が難しくなり衰退していった。

現在、糸取り職人は七人でほとんどが六十代。後継者育成が長年の課題だ。

糸取りは、藁(わら)の箒(ほうき)を繭(まゆ)を下から上へとさすって糸口を辿ります。

その糸の端を25本ぐらいの合わせ、糸によりをかけて生糸にし、後方の”こわく”で巻き取ります。

85度くらいの熱湯が入った釜の中で作業するから、湯気でびっしょりとなるとの事でした。

釜のお湯は昔は炭やガスで一定の温度に保っていましたが、IHクッキングヒーターで沸かしています。

でも、木枠の回転には電力を使わず、昔ながらの足踏みミシンのように足で回転させていました。

その方がいつでも回転速度の調整や停止がしやすいように感じられました。

この生糸を一定の太さに保つように時々糸を足さなければなりません。

この糸を足す作業は熟練を要し、一本の糸を両手で引っ張って、メガネの所に近づけて切って絡ませる。

この作業は一瞬の出来事ですから、眼を凝らして観ていないとわからない。

“糸取りの実演”を訪問された時はぜひこの”匠の技”を肌で感じて観て欲しいと思います。

残念ながら早すぎてお写真では撮れませんでした。

皆さん、蚕一匹の呼び方はご存知ですか?

なんと牛や馬のように1頭、2頭と数えるのだそうです。

大音の糸取りの歴史は古く、平安時代の昌泰二年(899年)、伊香厚行が、伊香具神社境内にある湧水で繭を煮て生糸を作り、都で大変な評判になったと文献に伝えられています。

遅かりし八重桜のトンネル 伊香具神社
伊香具神社(いかぐじんじゃ)は、滋賀県長浜市木之本町大音にある神社。 式内社(名 … 続きを読む →


4代目の佃三恵子さん。

琵琶湖湖北地方の大音(おおと)は、昔から養蚕業や製糸業が盛んでしたが、戦後、化学繊維の普及により衰退し、佃三恵子さんの工房がだけが残りました。

実演等で伝統技術の伝承活動が認められ、2018年秋の褒章に黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を受賞しました。

糸取りは、「だるま」と呼ばれる糸取り機で行います。

まず、85度くらいの熱湯が入った釜の中に、水に浸しておいた繭を入れ、稲で作ったお手製の糸箒で、糸口を辿ります。

(事件の糸口をたどる、という慣用句はここから生まれたのでしょうか。)

そこから、約20個分の繭から手繰り寄せた糸を「メガネ」と呼ばれる小さな穴に入れます。

そして上の方の「小車」と呼ばれる滑車までの間に、一本の太い糸になるように腕で摩って糸によりをかけます。

一本の糸に変わると、後方の「こわく」と呼ばれる道具に糸が巻き取られていきます。

その間、糸を出し切った繭を釜から取り除いていきます。

この作業を繰り返し、繰り返し、生糸がつくられていきます。

今は、釜のお湯はIHクッキングヒーターで沸かしていますが、昔は炭、そのあとはガス。

巻き取られた糸は、木ノ本駅側にある「丸三ハシモト株式会社」で邦楽器用の糸に加工されます。

丸三ハシモトさんでは、加工の見学もさせていただけるそうです。

繭一個の糸の長さは、1200~1400m 生糸一本に繭15~16個必要、琴糸一本に繭250個要すとされる。

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ヤマトタケルの西征 建部大社


瀬田の唐橋の東約500m。

この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。

祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)。

日本武尊が船団を従えて海路をたどったという故事に基づいて行われる建部大社の夏祭り「船幸祭」では、神輿を乗せた船団が瀬田川を行き交い、唐橋に近付くころになると夜空に花火が打ち上げられる。

滋賀県大津市神領にある神社。
式内社(名神大社)、近江国一宮。

旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「建部神社」。

2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。

社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅によって、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現在の東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる。

建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられている。

のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座したという。

遷座後、元の千草嶽の麓には神護景雲2年(768年)に聖真大明神と建部大明神が設けられたとされ、現在は建部神社が建てられている。

源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となった。

征西を命じる

天皇の命令で、皇子の小碓尊が熊襲征伐のため派遣されることになりました。

この時小碓尊(兄に代わり天皇の後継者となっていたので「尊」をつけています)はまだ16歳でした。

各地の敵を従えながらやがて相模国(現在の神奈川県)に辿り着いたときのことです。

この地の国造(くにのみやつこ:地方を治める官職の一種)は、言葉巧みにヤマトタケルノミコトを野に誘い出し、火を放ち殺そうと企みます。

騙されたことを知り、進退きわまったヤマトタケルノミコトは火打石を取り出します。

そして草薙剣を抜き辺り一帯の草を薙ぎ払い、火打石で向かい火を放ちます。

炎は逆方向に燃え広がり、ヤマトタケルノミコトは無事に生還。

国造らをすべて斬り滅ぼし、さらに火を放ちました。
この出来事が、草薙剣と言う名の由来になったと言われています。

オトタチバナヒメの入水

ヤマトタケルの一行は走水(はしりみず=現在の浦賀水道)に赴いたとき、海が荒れ、動くことができなくなった。

同行してきた后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海神の怒りを鎮めようと自ら入水。

これによりヤマトタケル一行は難を逃れたのだった。

ヤマトタケルと伊吹山の神

「日本武尊が東征から都(当時は大和の国)に帰る途中、伊吹山の魔物(豪族)を征伐するために伊吹山に来てみると、伊吹山を幾重にも大蛇が取り巻いていた。

そこで日本武尊は大蛇を跨いで通り抜けようとした時、毒気に当たって高熱を出して倒れてしまった」とあります。

毒気とは伊吹山に生息するトリカブトだと考えられています。

雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →

【伝説】日本武尊(やまとたける)が東の国征伐から帰る途中、伊吹山に荒神がいることを聞き・・・・・・

ヤマトタケルと白鳥伝説

大和朝廷全国統一のために命令を受け西方と東方に遠征、勝利を収めたが、帰途に伊勢の能褒野で没した。

ヤマトタケルは白鳥に姿を変え、大和に向かって飛び立った。

琴弾原(奈良県御所市付近)に降り立ったあと再び飛び立ち、河内の旧市邑(羽曳野市古市付近)に舞い降りた。

神門

明治2年(1869)膳所城城門の一つを移して神門とするが、昭和9年(1934)の台風で倒壊。
その後再建された。

拝殿


伊勢神宮遙拝所


近年人気なのは瀬田シジミ型の絵馬。

貝殻の内側に願いを書き、閉じて奉納するため願い事が他人に見られません。

絵馬を奉納する絵馬所は夜になると照明と相まって金色に輝きます。

なお、夜に参拝できるのは正月や船幸祭などの限られた日のみです。(通常17時閉門)

菊花石(きっかせき)は、菊の模様が浮き出た不思議な石です。

本殿の裏にあり、自然に菊の模様が浮き出たという珍しい石です。

特別天然記念物に指定されていて、病気平癒や長寿のご利益をいただけるそうです。

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日の出 住吉大社


光が心地よい朝の住吉大社。

梅雨も一休み、青空が広がっています。

第三本宮と第四本宮の間にさす光が好きです。

今6時20分、空に気持ちよさそうな雲が浮かんでいます。

奥に進んでみます。

光が射し込み厳かな雰囲気が広がります。

御文庫(おぶんこ)施主は大坂を中心にして、京や江戸の書籍商たちだった。

奉納された書物は膨大な数に上ると言われています。

侍者社(おもとしゃ)

初代神主田裳見宿禰を顕彰して、住吉大神の最も御傍にて祀ることから、侍者(おもと)と称したのではないかとされています。

近年では「神と人」を結ぶ、仲執り持ちの役目を担ったことから、縁結びの神として篤く信仰されています。


楠君社に来ました、光が強烈です。

初辰まいりの中心的な神社で「はったつさん」と親しまれ、古くより商いを営む方から篤い信仰を受けています。

五所御前、多くのインバウンドであふれていましたが今はひっそりとしています。

この『五所御前』は約1800年前に住吉大神鎮座の際、最初にお祀りされた場所と伝えられる神聖な場所です。

体力・智力・財力・福力・寿力が授かるといわれており、御守にして持つと心願成就という。

参拝者が水をジャバジャバかけていきました、水に濡れるといい感じです。


丹後局は傍らの大石を抱いて男児を出産しました、後の島津氏初代・島津三郎忠久公である。

正面から見たところ、薩摩藩士の燈籠が並び島津家代々の信仰と藩士の忠義を遺す石燈籠です。

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消えた花街の記憶をたどって


細井川に架かる何の変哲もない橋だが・・・・

季刊誌「大阪春秋」平成23年春号 すみよし ~住吉大社1800年の「住吉大社に花を添えた住吉新地 消えた花街の記憶をたどって」という記事によるといわくがありそうだ。

江川橋

新町の粋人・江川兵次郎さんにに尋ねますと、「いやー、実はこの橋は私のおじいちゃんが架けた橋なんです。

新町で瓢箪家という雀鮓をやってたんですが、実は住吉新地にコレがおりまして・・・・」にこっと笑って、左の小指をつっと差し出して、「好きな芸妓にはよ会いたい云うて架けましたんや」。

聞けば、かみさんの目を盗んで店を抜けだし南海電車で住吉公園まで、細井川に橋が無く、公園を通って高燈籠のほうから国道16号線(現在の国道26号線)の大正橋を回って行くのが「もうたまらん!」と、自分で金を出して木橋をかけたのが「江川橋」。

言われて同じ道を歩いてみたのですが、たった3分の違い。

兵次郎さんによると、「たかが」と「されど」の違い、それは「粋」と「無粋」の分かれ目でした。

萬目地蔵さん

国道26号線、住吉公園を南に行くとすぐ陸橋があり、その東詰めに立派な石碑とまだ新しい祠があります。

「浜口萬目地蔵尊の碑」です。

「真志目(まじめ)なら願いも叶ふ 地蔵尊」と大書され、「大阪新町雀鮓本家 江川瓢雀」、その左に、「同加代」、と有ります。

もうお分かりのように、全てが「粋」で通されているのには訳があります。

そうこの碑も実は、粋人の祖父・江川兵蔵四が建てたもので、実は江川橋の袂に有ったものを移築、平成12年、地蔵盆供養としてお化粧直ししたものなんです。

その意味とは、

一 萬目地蔵とは、本来住吉浦の波間から出現したありがたい地蔵菩薩なんですが、真面目なら願いも叶うと小さな「志」の字を加えています。

二 瓢雀とは、瓢箪家の雀鮓の略で、兵蔵氏の号ですが、その左の加代とは? かみさんの名はツチのはずですが・・・・

半世紀にわたり、府内全域の歴史や文化、産業を特集してきた季刊誌「大阪春秋」が4月の182号をもって休刊するという。

貴重な雑誌でしたが残念。

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高井田~鴻池新田 初夏を感じてぶらり


前回、高井田から長瀬川を南に歩いたので今回は北に歩きます。

新開池伝説の西堤から高井田村へ、古の長栄寺へ
長瀬川は旧大和川分流のなかでも本流となる大きな川。 流域の小高い土地に開けた高井 … 続きを読む →

長瀬川、大阪府柏原市上市で大和川から分かれ柏原市内を北流。

八尾市に入ってすぐの八尾市二俣で玉串川が右方向に分かれ、長瀬川は向きをやや北西に変えて八尾市内を流れる。

JR西日本大和路線八尾駅付近からは流路の屈曲がやや激しくなる。

東大阪市に入ると多少の屈曲はあるもののおおむね北流し、国道308号をくぐる辺りから向きを北西に変え、大阪市に入ってすぐの城東区諏訪で第二寝屋川と合流する。

ただ今、6時過ぎ、差し込む朝日は強烈です。

放出駅 – 久宝寺駅の南区間が2008年3月15日に「おおさか東線」として部分開業しており、残る新大阪駅 – 放出駅の北区間が2019年3月16日に開業した。

淀川橋梁に併設された赤川仮橋では2013年10月31日に閉鎖されるまでの間、貨物列車を間近に見ることができた。

ありがとう赤川鉄橋
昭和4年から85年間、地域住民から長らく愛されてきた「赤川仮橋」が10月31日2 … 続きを読む →


川俣スカイランド(川俣水みらいセンター)
川俣下水処理場の屋上にある公園。

東大阪市の「川俣水みらいセンター」の屋上を利用した公園です。

屋上というと狭いイメージがあるかもしれませんが、ここには、野球も出来る多目的グラウンドをはじめ、芝生広場や水辺の広場、幼児広場など広大な敷地が広がっています。

川俣スカイランド過ぎると第2寝屋川に突き当たる、ここから川沿いに北上。

第2寝屋川

平成12年ごろから始まった再開発計画により、分譲マンションが立ち並ぶ一方で、商店街を抜けるとノスタルジックな雰囲気が漂う放出駅前の町並み。

おおさか東線の接続駅でもあるこの駅と高井田中央駅間にある車両基地では、計20名の社員で昼夜、車両のメンテナンスを行っている。

江戸時代中期~後期にかけ、同市の稲田地区で盛んに栽培されていた「稲田桃」。

稲田桃は日本古来の野生種で、実が小さく先がとがっているのが特徴。

お盆の供え物として大阪市内や京都へ出荷され重宝されていた。

当時は同地域の約7割が桃林だったといわれ、江戸時代の「河内名所図会」には、川に舟を浮かべて花見を楽しむ様子が描かれているという。

江戸時代後期ごろからは河内木綿の栽培が盛んになって桃の栽培は減り、1885(明治18)年の大洪水で大半が枯死した。

司馬遼太郎記念館でも庭に植えてあり季節にはタイミングが良ければいただくことができる。

放出の近くの踏切、左が学研都市線、右がおおさか東線。

長瀬川はこの先で第2寝屋川と合流。

阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)は、大阪市鶴見区にある神社。

延喜式神名帳に記されている式内社で、旧社格は、郷社。

江戸時代の頃は八剣神社と称されていたが、延喜式式内社の比定を行った並河誠所により、当社が延喜式における阿遅速雄神社にあたるとして、「阿遅速雄社社号標石」をおいた。

それ以降、阿遅速雄神社と呼ばれるようになった。

起源は、668年(天智天皇7年)に発生した草薙剣盗難事件の際、新羅の僧・道行が草薙剣を持って船で新羅に逃げ帰る時、突然の嵐に巻き込まれ、これを神罰と恐れをなして、途中の河口に放り投げられ、その後、草薙剣は里人により拾われ、この神社に一時納められたのが創始と伝わる。

そして、草薙剣は無事に熱田神宮に返還されたと伝わる。

明治時代に浪速鉄道(現:片町線)建設の折に現在地に遷座した。

大クスノキ

樹齢1000年と伝わるクスノキで樹高16メートル、幹周り6メートルの巨木。

大正時代に落雷に遭い主幹が枯れてしまったが、樹木医の治療により支幹は健在である。

昭和45年(1963年)2月20日、「阿遅速雄神社のクス」の名称で大阪府により天然記念物に指定された。

昔、鴻池新田会所へ舟で米を運んだ「鴻池井路」という水路は、今ではせせらぎのある遊歩道「鴻池四季彩々とおり」へと生まれ変わり、全長約3kmのウォーキングコースとして、地域の方には親しまれています。

井路とは水路、灌漑用水路のこと。

遊歩道には夏の花アガパンサスが咲いてた。

江戸時代中期に、大阪の豪商・鴻池家三代目、鴻池善右衛門宗利によって開墾された。

当初の入植者は8軒ほどで、二回目に10数軒が入植。
2010年時点で13代目位の人々が住んでいる。

主な入植者居住場所は鴻池本町(会所の北東エリア)となっており、最も古い地域となる。

宝永元年(1704年)に大和川付け替え工事が行なわれ、旧河川・水位が減少した湖沼に広大な敷地が生じた。

そのうちの新開池という大きな池のあった辺り(現在の東大阪市北部の鴻池町周辺)二百町歩あまりの開発権利を、大和屋六兵衛・庄屋長兵衛 両名が落札した。

それを 鴻池善右衛門が譲り受け、新田開発をおこなった。

新田開墾のため伊勢や枚方などあちこちから農民を入植させた。

村高は「天保郷帳」・「旧高旧領」共に1706石余。宝永2年(1705年)に工事が開始され、大和川付け替え工事でできた新田の中でも最大の開発面積(約119ヘクタール)となった。

コロナ過で今は休園中です。

鴻池、三島、新庄あたりは米農家が多く台所が土間の家がいくつか平成近くまで現存していた。

村の人達は互いに 「鴻池の〇〇」「三島の〇〇」と村の名前をつけて呼び合い 互いに婚姻をするなど結びつきが強かった。

鴻池本町はとくに水路が多く 各々の所有する舟が家の軒先につってあり、それで米を会所まで運んでいた。

その痕跡は重要文化財の会所の内側に船着場が残されており 残念ながら1970年代重要文化財に指定される改築時、無粋な壁を作られ外からは見えず半分埋れた形となっている。

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新開池伝説の西堤から高井田村へ、古の長栄寺へ


長瀬川は旧大和川分流のなかでも本流となる大きな川。

流域の小高い土地に開けた高井田の集落。
いまは大和川付け替え後、長瀬川は灌漑水路となって高井田村を潤しました。

また、暗越奈良街道が横切り、古代から東西往来の要所でもありました。

昭和43年(1968年)、第二寝屋川ができるまでは、この周辺には楠根川が流れていた。

新開池伝説

西堤神社

西堤の地名は楠根川の西の堤ではなくて、現在の大東市に内介淵(ないすけがふち)という池があり、その西堤に住んでいた人たちがこの地に移転したことで命名された。


境内社に、水神社がある。
「鱗殿(うろこ殿)」とも呼ばれ、内介淵で大蛇を退治した時にはがされた大蛇の鱗が祀られているという。

日照りの時、この鱗殿をお参りすると、雨が降ったと伝えられている。
鳥居をくぐってすぐ右側(北側)にあり、祠の周囲の堀には昔は亀が住んでいたという。

江戸時代前期の貞享2年(1685年) に刊行された井原西鶴『西鶴諸国はなし』にも、内介に関する逸話が記載されている。

他に、天満宮(菅原道真公)がある。
脇には素朴な牛の彫像が安置されている。
その後ろに、御神木のクスノキがある。

幹周5.5メートル、樹高は約25メートル、樹齢は推定400年。
市の保存樹木で、「施無畏(せむい) 八大龍王」を祀る。

「楠さん」として親しまれる御神木で、「おかかえ石」やお百度石も安置されている。



古代から大和川の本流としてその水運は利用されてきた。
当時は長瀬川という名称ではなく、大和川であった。

中世以降は大和川の支流である平野川とともに大阪と奈良を最短距離で結ぶ水路としての利用も活発で、流域には八尾・久宝寺(ともに八尾市内)といった集落が発達した。

このため、中世には大和川は一部地域では久宝寺川とも呼ばれていた。

しかし大和川は非常な暴れ川でもあった。

大和川は流域面積のうち保水能力に富んだ山地の占める割合が大きく、降った雨が蓄積されるのだが、梅雨や台風の際には保水能力を超えることもあり、また、奈良盆地から大阪平野(河内平野)に注ぎだす柏原口が狭く漏斗の役割を果たし、紀州山地や奈良盆地で蓄えられた多量の水を吐き出すために、急流となり、大和川の通常の流れである蛇行しながら北上する河道を通る際に溢れ出し水害となるのである。

また河川の勾配が大阪平野に入ると緩いために流送土砂が堆積して天井川となり、洪水の被害をさらに甚大なものとしていた。

1703年10月に幕府は大和川水路修治の令を発して1704年2月に付替工事が始まった。

3年計画の工事は、作業に協力した近隣の庄屋の指揮のもと動員された多くの百姓らと、財政的に支援した大阪の多くの商人の働きによってわずか8ヶ月足らずで完成し、同年10月13日に付替地点の古い堤防を切り崩して水の流れる方向を変えた。

その結果、大和川は大阪平野を西流して大阪市と堺市の境で大阪湾に注ぐようになった。

次第に埋め立てられていった旧河道には新田が開発されたが、元々が川底であることから砂地であり稲作には不向きであった。

このため砂地での栽培に適した桃の栽培、木綿の栽培や綿業が盛んになり、河内木綿と呼ばれるまでになった。

また綿業の副産物として綿種油の生産も盛んになり、現在も長瀬川沿いには油脂関連の企業が立地している。

宝永元年(1704年)柏原市安堂付近から大阪湾に流れ込む新川が掘削されると、水量が激減した旧川筋では、川床を埋め立てた新田が多数開発されました。

新喜多新田もその一つで、開発を請け負ったのは、鴻池家の一統で有力な両替商であった鴻池新七とされていますが、また鴻池新十郎・鴻池喜七・今木屋多兵衛の三名がたずさわり、その名の一字づつをとって『新喜多』と名付けたとも言われています。

新田は、川を埋め立てた土地だけに区域は南北に細長く、現在のJR学研都市線放出駅の手前まで続いています。

暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)

大阪から奈良へ通じる旧街道として、4~500年前に開けた街道です。

暗峠越奈良街道は、大阪高麗橋を起点として西から東へと通じ、生駒山地を暗峠で越える最短ルートの街道です。

江戸時代には旅客・貨物の重要な交通路として利用され、特に伊勢参りの旅人により大いに賑わいました。

西岸地蔵

大坂と奈良とを結ぶ暗越奈良街道(くらごえならかいどう)筋の長瀬川西岸に位置することから、その名が付いたとみられます。

以前は新喜多地蔵と呼ばれていましたが、昭和五十五年地蔵堂改修の際、建築材に「西岸地蔵」の墨書が発見され、もとはこの名で呼ばれていたことがわかりました。

堂内には一辺 43cm ・高さ 27cm の花崗岩の台石をを置き、その上に直径 34cm ・高さ 20cm の蓮華座と高さ 94cm の地蔵菩薩立像とが安置されています。

蓮華座と地蔵菩薩立像は砂岩製で同じ石から掘り出されたもののようです。

このうち蓮華座の周囲の蓮弁表面にだけ風化の痕が残ることからかつては蓮華座だけが外気にさらされていたと考えられます。

また、台石の全面中央に太字で「法界(ほっかい又はほうかい)の二文字、その右側に寛延二年(1749)、左に十月吉と刻んでいます。

このことから、この地蔵菩薩立像は大和川付替えから四十五年後の寛延二年十月に建立されたことが知られます。

暗越奈良街道沿い、旧大和川(長瀬川)の堤防だったところと交わった場所にあります。

大和川付け替え後に設置されたもので、当時川幅が推測できます。

高井田地蔵尊(清水地蔵)

立派なお堂と解説板付きなのですが、それだけで街中地蔵よりも格上、史跡地蔵だとか思ってしまいます。

中のお地蔵さんは、光背に梵字9文字が刻まれているのが特徴です。

『渡シ地蔵と旧高井田村の石仏

堂前の線香立の石柱に「渡シ地蔵」と刻まれている地蔵石仏は、高さ 95cm・幅 30cm の舟形光背に高さ 70cm の地蔵菩薩立像をまつっています。

年号などは確認できませんが、江戸時代初期の作と推定されています。

この場所は旧大和川の本流である長瀬川の西堤にあたり、大和川付替え以前は川幅が 200m ちかくもあって、舟の渡し場になっていたようです。

付け替え後は川床が埋め立てられ、新喜多新田となりました。

渡シ地蔵の南 150m にある喜楽地蔵堂内には、高さ 68cm・幅 30cm の舟形光背に両手で宝珠もつ高さ 46cm の地蔵菩薩立像が半肉彫されています。

像の左に宝暦九年(1759)の銘が刻まれています。

長栄寺は、聖徳太子の開創と伝えられ、本尊の十一面観世音-重要文化財-も太子が自ら刻んだものといわれ、府の文化財に指定されています。

本堂は火災で焼失し、文政8年(1825年)に再建されました。

境内の奥には、慈雲尊者が修禅研学をしたという双龍庵禅那台が端正な姿で残っています。

後年荒れてしまった当寺を延享元年(一七四四)二十七歳の慈雲尊者が中興。

ここで弟子たちと修行し、正法律(真言律)の復興を唱え、その道場としました。

享保三年(一七一八)大坂中之島の高松藩蔵屋敷で生まれた慈雲は、大阪南田辺の名刹真言宗法楽寺で得度。
のち、二十七歳でこの長栄寺へ来たということです。

以後高貴寺とともに正法律の一派として幕府に認可され、広められることになります。

慈雲は宗派にとらわれず、それまで漢訳仏典でこと足れりとしてきた日本の仏教界を批判しました。

梵学(サンスクリット学)をもきわめた彼はその後有馬、長尾の滝、京都、河内高貴寺などに転住しますが、この寺へはよく立ち寄り、大阪における説法は常に長栄寺でおこなわれました。

高貴寺に石上露子を訪ねる
開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。河内高貴寺縁起によると、役行 … 続きを読む →

慈雲尊者霊廟。京都阿弥陀寺で亡くなった尊者の遺体は、郡山城を経由して運ばれ、ここ高貴寺の奥の院に埋葬された




鴨高田神社

一説には、鴨高田の神は「迦毛大御神」すなわち鴨氏の祖神・阿遅鉏高日子根神であり、古くから高井田の里に鎮座していたとも。

中世には、石清水八幡領となったため「八幡宮」と呼ばれていたようだ。
おそらくはこの時に「神功皇后」「応神天皇」が勧請されたのだろう。

また、社頭の説明には、醍醐天皇・延喜18年(918)、大洪水に見舞われ五穀が稔らず困窮したとき、諸民が当社に祈願したところ霊験があり、百姓がおおいに喜んだ。

後桃園天皇の安永年間(1772?80)、悪疫が流行したとき、時の神職・久左衛門が1月9日から10日間、断食して悪疫祓除を祈願し、全村その厄をまぬがれた。

という逸話が掲載されている。

牛頭天王=速須佐之男命が祀られてたのは、悪疫祓除の祈願の頃だろうか。

社伝によると、白鳳2年(673年)に古代豪族の鴨氏がその開祖である大鴨積命を祀ったのが始まりだという。

ちなみに、京都の上賀茂神社の創建が白鳳6年であるから、それよりも4年早く創建されていることになる。

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四天王寺 本坊庭園にある八角亭

四天王寺本坊庭園、別名:極楽浄土の庭には明治3 6 年(1 9 0 3 )大阪で開催された博覧会、第5回内国勧業博覧会の小奏楽堂として建築されたライトブルーの小さな洋風東屋が建っています。

博覧会の建物はこの「八角亭」を除いて一切残っていません。

長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(2003年)8月より通年の公開が行われるようになった。

庭園入口にあるのが国重要文化財「五智光院」、文治3年(1187)後白河法皇により建立されたもので、現在のお堂は元和9年(1623)徳川秀忠により再建されたものです。

再建当時は西大門の南側にあったものが、明治34年現在地に移されました。

創建当初より後白河法皇の灌頂堂(頭頂に濯ぎ、仏の知恵をいただき仏と血縁するための儀式)として建てられましたので、現在でも信徒・四天王寺学園学生達の灌頂を行う道場になっているようです。

ここから先が「極楽浄土の庭」。

湯屋方丈・・・重要文化財

五智光院と同じく元和9年(1613)徳川秀忠により再建されました。

徳川家康の参謀として暗躍した、天海大僧正(慈眼大師)が四天王寺執務の際、在住したのがこの方丈で、湯屋とはお風呂のことです。

再建当初は六時堂の裏にありましたが、明治33年改修の際現在の場所に移されました。

入口を入ると、衆生の貪り(むさぼり)や執着を表す「水の河」と、瞋り(いかり)や憎しみを表す「火の河」があり、その間に衆生の善心と信仰心を表す「白道」が続き、蓮池「極楽の池」に行き着きます。

「極楽浄土の庭」には自然の湧き水を利用した2つの小川と2つの池、それに2つの滝があります。

写真は釈迦の滝。

極楽浄土の庭は「二河白道(にがびゃくどう)」の説話の世界観をあらわしており、2つの水路、火の河(怒り)と水の河(貪り)の間には極楽(極楽の池)へと続く細い白道が。

この極楽浄土の庭の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に火災による焼失から昭和初期に復興されたもの。

その際二河白道の説話に基づいた作庭がされました。

参詣者は説話の通り、二河に落ちないように参道の白道を進み、極楽の池を目指すと、池に鎮座する阿弥陀三尊石の出迎えを受けることになります。

荒陵稲荷大明神

かつては同様の社が数か所にお祀りされていましたが、廃仏毀釈や空襲により焼失し、唯一残存する社だそうです。

四天王寺の北東、鬼門を鎮守されています。

極楽の池内には灯籠や阿弥陀三尊石も。

経営の神様とも呼ばれた松下幸之助によって寄進された「和松庵」が見えます。
和松庵では極楽の池などを眺めながら、お抹茶(お菓子付き400円)をいただくことができます。

遠景にはハルカスも見えます。

今から100年前の明治36(1903)年に、通天閣付近で第5回内国勧業博覧会が開催された。

その時に出品されたのが、このルネッサンス風の八角洋風木造建築である。

後に四天王寺・本坊庭園に移設されたこの建物の特徴は、軒のバージ・ボードと呼ばれる装飾と、窓の色ガラスにある。

3色の色ガラスをはめた窓が魅力的です。

ドアは施錠してあり中には入れません、レンズをガラスに押し当てて撮影。

屋根の和瓦とモールディングの廻り縁のアンサンブルが不思議とマッチしていて独特の雰囲気を醸し出しています。

ところで、第五回内国勧業博覧会は大阪の天王寺会場をメインに開催されましたが、日本国内だけでなく、海外諸国の出展品も並んだ、日本で初めての万国博覧会だったわけで、この会場跡地再開発でできたのが新世界なんですね…。
 
八角亭は小奏楽堂だったらしいのですが、どんなふうに演奏が行われたのかはちょっとわかりません・・・

内国勧業博覧会、第一回は上野だったようですね。

第五回は、天王寺と堺会場もあり、盛大に開催されましたが、これが最後となりました。

天王寺会場は、「天王寺公園」となり、その後「新世界」が誕生し、通天閣、ルナパークができました。

堺会場は大浜公園となっています。

この庭園は明治初期のもので二河白道のたとえ話を基に造園されました。

庭を歩くだけで仏教の教えと極楽浄土に至る道を体験できるようになっているので、四天王寺訪問の際には是非とも訪れてください。

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朝の街 住吉大社


朝の清々しい光の中、若い神職が拭き掃除をしている。

この時間帯人のまばらな境内は静寂が支配している。

五所御前は、住吉大神が降臨した聖地。

神功皇后は、この地の杉の木に白サギが3羽とまるのを見て、住吉大神を祀ることにしたのだという。
 
5月初卯の日には、卯之葉神事が執り行われる。

玉垣内の敷かれた砂利の中から「五」・「大」・「力」と書かれた石を見つけてお守りにすると心願成就の御利益が得られるという。 

古式床しく 卯之葉神事 住吉大社
住吉っさんがこの地に鎮座したのが、神功皇后摂政11年(211)の卯年の卯月の卯日 … 続きを読む →



住吉大社の一寸法師伝説 | きままな旅人

一寸法師の話は室町時代に作られた「御伽草子(おとぎそうし)」の中にあるが、二人が願をかけた神社が大阪の住吉大社なのです。 話の最後は「住吉大社に誓いをたてれば、将来、必ず栄える」という内容の言葉で結ばれている。 住吉大社の …

現在、大海神社は住吉大社の「摂社」とされているが、もともとは「大海神社」の方が先に鎮座していたという。

というのも、住吉大社の祭主「津守氏」の氏神だからである。

『玉葉』承安4年(1174)12月6日条によれば、大海神社神殿は天仁・長承・仁平・承安とおよそ20年ごとに改築が行われたことが記されています。

本殿の神額、住吉鳥居の向こうに扉絵、扉絵は金箔張りで松と住之江を千石船が走る様子が描かれています。

海幸山幸の神話は、誰もが一度は聞いたことのある物語です。

「兄の海幸彦は海で漁をし、弟の山幸彦は山で狩猟をして暮らしていました。

ある日、兄弟は釣り針と弓矢を交換して海幸は山へ、山幸は海へ出かけましたが、弟は魚に釣り針をとられてしまい、代わりのものを作って返しましたが、兄は許してくれません。

途方にくれ山幸が海辺にたたずんでいると塩椎(しおつち)神が現れ、山幸を小船に乗せ海神(わたつみのかみ)の宮殿に行かせました。

そこで海神の娘豊玉毘売と出会い結ばれました。

幸せな3年間の生活が過ぎたころ、山幸彦はふと釣り針のことを思い出し、海神の助けを得て鯛の喉から釣り針を見つけ出し、ワニの背に乗って地上に帰りました。

そして海神に授けられた潮を操る霊力を持つ塩満(しおみつ)珠と塩乾(しおふる)珠の呪力によって兄を屈服させました。

異界に出かけてその世界の神の娘を妻とし、異界の呪物を手に入れて地上に戻り、兄を服属させるという展開は、九州南部に勢力を張り長く王権に従わなかった隼人(はやと)を海幸彦とし、それをヤマト朝廷側の山幸彦(=ホホデミノミコト)が屈服させる。

すなわちヤマト朝廷が隼人族を支配することの起源神話となっています。

『古事記』の神話はここで終わり、ホホデミノミコト(山幸彦)の孫、初代天皇の神武天皇が即位し、物語は神々の時代から人の時代へと移り、天皇家の歴史物語が始まります。

生根神社、祭神について『摂津名所図会』や『住吉名勝図会』では少彦名命とする一方、『神名帳考証』では活津彦根命とする説を挙げる。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では摂津国住吉郡に「生根神社大月次新嘗」として、式内大社に列するとともに、朝廷の月次祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている。

文明14年(1482年)には境内に天満宮が祀られ、この天満宮が信仰を集めたため生根神社自体も「奥の天神」と通称されるようになっていた(「奥」は、住吉大社から見て大海神社のさらに奥に鎮座したことによる)。

慶長年間(1596年-1615年)頃には、現在の本殿が造営された。

江戸時代は住吉大社の摂社として推移しており、『住吉松葉大記』には摂末部に「奥天神社」として、住吉神宮寺の社僧が奉仕する旨とともに記されている。

明治維新後、明治5年(1872年)に住吉大社から分離独立のうえ、近代社格制度において郷社に列した。

また明治40-44年(1907-1911年)には近隣の塞神社2社(いずれも旧無格社)・竜王神社(旧無格社)・種貸神社(旧村社)が境内に移されている。

大阪市西成区に同名の生根神社がある。

創建時期は不詳であるが、一帯は住吉大社の神領であったことから、住吉大社摂社であった生根神社(奥の天神。現在は住吉大社から独立)から、少彦名神の分霊を勧請して玉出の産土神としたのに始まると伝えられている。

また、それ以前から蛭児命を祀っていたとの伝承もある。

当神社のある玉出の古名を勝間(こつま)村と言い、当地の名産であった小ぶりで、色の濃い、味わい深いかぼちゃを記念した塚。

江戸時代の大坂では天王寺蕪と並んで有名ななにわ野菜であった。

勝間商人によって、勝間街道を使って大坂まで行商された。中風除け、風邪除けとして冬至にはよく食べられたという。

当神社でも冬至に「こつまなんきん祭」として、蒸しかぼちゃを参拝者に振舞う「こつま南瓜蒸し」神事が行われる。

蒸しかぼちゃを食べ、中風除け・ボケ払い・無病息災を祈願する。
当日はなにわの伝統野菜から作った飴や、こつま南瓜が原料の焼酎も販売される。

石大鳥居再建の記 

石碑、元は慶応年間に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として建立した東大鳥居であったが、解体撤去され現在の地に住吉名所保存会によって再建された。

住吉大社の東の慈恩寺に、見事な桜の大樹が十数本ありました。

後醍醐天皇が住吉大社に行幸の折、慈恩寺の桜があまりにも見事であったので車を引き返らせたことから、慈恩寺の桜を『後醍醐天皇車返しの桜』と呼ぶようになりました。

この桜の花を偲んで、大阪市の『未来樹』に指定して戴き、住吉武道館前に植樹した。

浅澤社(初辰まいり巡拝社)

美容・芸能の神様

住吉の弁天さまともいわれ、芸能・美容の守護神として崇敬をあつめています。

特に女性の方からの信仰が篤く、住吉参詣の時にはここを訪れる慣わしがあります。

鎮座地は、古来「浅澤沼」があり、カキツバタの名所として万葉集にも詠まれています。

祭神
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)

浅沢神社の案内板によると、昔、ここらに清水が湧き、浅沢の池があり、そこに咲くカキツバタが有名になり、歌に詠まれていた。

昭和になり、池が涸れ、カキツバタに代えて花菖蒲が移植されたとのこと。

平成になり、近くの細江川の改修工事に合わせ、水脈を確保し、新たにカキツバタを植えたとのこと(財団法人住吉名勝保存会)。

大歳社(初辰まいり巡拝社)

収穫・集金の神様 大歳社

初辰まいりにて最後にお参りする神社で収穫の神様をお祀りする大変歴史のある古社です。

祭神
大歳神 (おおとしのかみ)

もとは五穀収穫の神として信仰されてきましたが、いつの頃からか集金のご利益にも霊験あらたかな神として広く信仰されるようになりました。

また、大歳社境内に鎮座する、おいとしぼし社の「おもかる石」は願いを占う石として知られ、行列ができるほどの賑わいを見せています。

御田植神事は、神功皇后が211年住吉大社の鎮座に際して御供田に田植えをさせられたのに始まる歴史あるもので、明治維新の際に御田が民間に払い下げられ、御田植神事も廃絶しそうになったそうです。

その際に、大阪新町廓が御田を買い上げ住吉大社に寄進、それを機に新町廓の芸妓が、田植えを行う植女を奉仕するようになったそうです。
夕霧太夫の面影をもとめて新町を歩く
四ツ橋駅~西六平和塔~新町橋~新町通(瓢箪町)~新町北公園~新町九軒桜堤跡の碑~ … 続きを読む →

そんな新町廓も現在はなくなり、今は財団法人上方文化芸能協会が引き継いでいるそうです。

住吉大社お田植え神事2013
社伝によれば、千七百六十余年の昔、神功皇后が大社を御鎮祭の後、長門国から植女を召 … 続きを読む →

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早朝 住吉大社


夜明けの住吉公園。
この橋は、大正初期の大改修(大正7年~8年)に造られ、唯一当時のまま残されている石橋。
心字池の景観上重要な石橋。

住の江は摂津の国の歌枕で今の大阪府の住吉大社の付近の海の入り江であった 住吉の津などとも呼ばれた

住の江の 岸に寄る波 よるさへや  夢の通い路 人目よくらむ   
古今和歌集 藤原敏行

我見ても 久しくなりぬ 住吉の 岸の姫松 いく代へぬらむ              
古今和歌集 詠み人知れず

住之江の 松のねたくや よる浪の よるとはなげく 夢をだに見て           
藤原定家

まつかげや 岸による浪 よるばかり しばしぞ涼む 住吉の濱             
藤原定家

松と海岸が広がる美しい景色のことを「住吉模様」と呼びます。
実は住吉公園のあたりはかつて海岸線があり、松が植わった風光明媚な土地だったのです

住吉大社の松は歌枕の「住吉の松」として古来著名であったが、江戸時代の天明期に枯れ始めたことを惜しんだ俳人たちが「松苗勧進」を行って献木を斡旋し、併せて俳句の献詠を募り「松苗集」として住吉御文庫に奉納した、ことに因むそうです。

この神事は緑化運動の先駆けともされています。

松苗神事は境内に松の苗を植樹し、献詠俳句の秀作を披露する神事です。

平安時代から伝承される、白拍子舞と熊野舞が奉納されます。

住吉大社 松苗神事2013
境内に松の苗を植樹し、俳句を披露する神事。 平安時代から住吉大社に伝承されている … 続きを読む →


住吉大社前に広がる住吉(すみのえ)の津は、古くから外交や交易の港として栄えましたが、江戸時代の半ばより大和川の付替えなどがあり、大量の土砂が流入して堆積し、その後、埋立開発が急速に進み、海岸線は西に遠ざかってしまいました。

住吉公園は住吉大社の旧境内で、公園を東西に走る「潮掛け道」は大社の表参道でした。

汐掛道の記

ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所で、社前から松原が続き、すぐに出見(いでみ)の浜に出る名勝の地であった。

松原を東西に貫く道は大社の参道で、浜で浄めた神輿が通るため、「汐掛道」と称され、沿道の燈籠は代々住友家当主の寄進になり、遠近の参詣や行楽の人々で賑わった。 古くから白砂青松の歌枕の地として知られ、近世には多くの文人・俳人がここを往来し、大阪文芸の拠点の一つとなっていた。 

財団法人 住吉名勝保存会

霰松原
古代、住吉のあたりは海岸に沿って美しい松林が連なり、あられ(霰)が吹きつけるよう … 続きを読む →

古代、住吉のあたりは海岸に沿って美しい松林が連なり、あられ(霰)が吹きつけるように風が吹いていたので「霰松原」と呼ばれていた。

松が粗くまばら(疎)に生える松原として「あらら松原」の語があり、それが転じたとの説もあるようです。

日本庭園部分です。
公園の中の源流部分。石材が豊富に使われています。

源氏物語の碑

真住吉(ますみよ)し 住吉の国」は 万葉の昔から数多くの和歌や文学作品にその名をとどめている

源氏物語 澪標(みおつくし)に描かれた 明石上(あかしのうえ)の悲しい恋もこの地が舞台である。 
船で訪れた明石上はなつかしい 光(ひかる)源氏の華やかな住吉詣に出合ったが 再会することなくそのまま帰る。

中世の住吉は王朝貴族の住吉詣が多く平安のみやびにつつまれていたこの碑はかかる王朝をしのび 歴史を振り返り 郷土を愛するためのよすがである。

昭和五十七年四月吉日
財団法人住吉名勝保存会 建之

住吉公園駅は大正2年に開業。

南海電鉄の住吉大社駅に隣接している。
阪堺電軌によると、最盛期の昭和30年代には最短1分間隔で列車が発着。

1日に約200本の電車が運行されていたが、利用客が年々減少していた。

↑2016年1月に廃駅となった住吉公園駅。
駅表示が戦前のままというレトロな駅だった。

前の灯篭は住吉灯篭

住友灯籠とは住吉大社の参道にある石灯籠の事です。

江戸時代から明治の初めにかけて、この地域は、四国の別子銅山から海路運ばれてきた、銅の精錬所があり、銅貿易の中心地でした、その中核が住友家でした、住友家が海路の安全と、家業の繁栄を願い、住吉大社の参道に石灯籠を寄進したのが住友灯籠です。

住吉社は律令制下でも遣唐使との関わりが深く、『延喜式』祝詞[原 7]では遣唐使の奉幣時の祝詞に「住吉尓辞竟奉留皇神」と見えるほか、『万葉集』天平5年(733年)の入唐使への贈には遣唐使船を守る神として「住吉の我が大御神」と詠まれている。

また、円仁は『入唐求法巡礼行記』において遣唐使船の船中で住吉大神を祀ったと記すほか、『日本後紀』では大同元年(806年)に遣唐使の祈りをもって住吉大神に叙位のことがあったと見え、『日本三代実録』では渡唐する遣唐使が住吉神社に神宝を奉ったと見える。

また、神職の津守氏からも遣唐使になった者があった。

後世もこのような航海守護神としての信仰は継続し、江戸時代には廻船問屋から600基以上の石燈籠が奉納されている。

一の鳥居と反橋

正面神池に架けられた神橋は「反橋」と称し、住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれております。

長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5mで、最大傾斜は約48度になります。

この橋を渡るだけで「おはらい」になるとの信仰もあり、多くの参詣者がこの橋を渡り本殿にお参りします。

現在の石造橋脚は、慶長年間に淀君(太閤秀吉の妻)が豊臣秀頼公の成長祈願の為に奉納したと伝えられております。

かつての「反橋」は足掛け穴があいているだけで、とても危なかったそうです。

川端康成は作品『反橋』(昭和23年)において、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです、私は母に抱かれておりました」と記しています。

架橋当時は住吉大社付近に海岸線があり、本殿と対岸の入り江を結ぶ目的で架橋された橋だとされている。

現在は池の上に橋が架かっている形になっているが、この池は当時の入り江の名残だとされている。

橋の基礎部分については創建当初のものをそのまま使用していると考えられている。

その一方で、木製の橋桁や欄干は老朽化に伴って何度もかけ直され、直近の掛け替えは2009年におこなわれた。

島津忠久には以下のような誕生伝説が伝えられている。

丹後局が頼朝の寵愛(ちょうあい)を受けて子供を身ごもるも、これを知った頼朝の正室北条政子に妬まれたため鎌倉を逃れた。

摂津国(現、大阪府)住吉大社までたどり着き、雨の降る夜に狐火に照らされて忠久を産んだ。

現在、住吉大社の境内には忠久誕生石が存在し、島津家における稲荷信仰や雨を瑞兆とする慣わしはこの故事に由来するものである。

その後、元旦参拝のため住吉大社を訪れた摂政(せっしょう)近衛基通(このえもとみち)に救われ、丹後局はその家来の惟宗広言(ひろこと)のもとに嫁ぐことになった。

このため忠久も惟宗を名乗ることになった。

頼朝は誕生の知らせを受け「三郎」の名を与える。

元暦2(1185)年に頼朝と初めて対面し、頼朝の家臣畠山重忠(しげただ)の一字を得て「忠久」と名乗る事になったという。
 
この伝説を背景として、八景釜や血吸が島津家に代々伝えられてきた。
また、十字紋も頼朝から授かったものという説もある。


住吉大社角鳥居

本宮域の幸寿門前に立つ。
石造で、柱に大面取の角柱を用いるが、貫を通し、反りのある島木・笠木を重ねるなど明神鳥居の形式とする。

重心の低いどっしりとした造形で境内の他の鳥居と一線を画する。
同社を代表する鳥居として古くから参拝者に親しまれている。

昭和天皇御製。

いくさのあといたましかりし町々を
わが訪ふたびに立ちなほりゆく

台座には「在位六十年記念奉祀記念」と彫られています。


「升買て 分別かはる 月見かな」と刻まれた、俳人・松尾芭蕉の句碑。

芭蕉は元禄7年(1694)9月、大坂で派閥争いをしていた2人の門人を仲裁するために故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。

13日に、住吉大社の宝の市神事へ参拝し、参道で売られた升を買った。

折から体調が悪かった芭蕉はその夜、招かれていた月見の句会には出席せず宿へ帰った。

その翌日の句席で「升買て……」と詠み、「自分もついつい一合升を買ってしまった。

すると気分が変わって月見より宿に帰って早く寝た方が良いような気がした」と、洒落っ気を利かして、前日の非礼を詫びたという。

その後、芭蕉は発熱下痢を伴い、大坂の花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日夕方、51歳の生涯を閉じた。

この宝の市を詠んだ句は、住吉公園東入り口に、明治元年(1864)芭蕉170回忌に大阪の俳句結社・浪花月花社が建てたもの。

高燈篭は古くから住吉の名所として広く知られ、日本最古の灯台といわれています。

江戸時代の浮世絵にも描かれている高灯篭は、鎌倉時代の創建で現在見られるのは復元されたもの。 夜は灯台として、昼は展望台として使われたそうです。

高燈籠復元の記

昔このあたりが美しい白砂青松の海浜であったころ 海上守護の神住吉の御社にいつの頃にか献燈のため建てられた高燈篭は数ある燈篭の中で最高最大のものであり その光は海路を遥かに照らし船人の目当てとなって燈台の役割を果たし 長峡の浦の景観を添えていた。

寛永年年間の摂津名所図会に「高燈篭出見の浜にあり 夜行の船の極とす 闇夜に方向失ふ時◆中略◆この燈篭の灯殊に煌々と光鮮也とぞ」と見えるが 往時の面影が偲ばれる。

旧高燈篭はここより二百メートル西にあって明治の末年迄度々大修理が行われた戦後台風のため木造の上部は解体され更に昭和四十七年道路拡張のため基壇石積も全部撤去されたが住吉の名勝として永く府民に親しまれた。

この文化遺産を後世に伝えるため 住吉名勝保存会を結成しその復元再建を計り 財団法人日本船舶振興会 その他地元会社有志の寄附を仰ぎ大阪府市の援助を得てこのゆかり深き住吉公園の地に建設されたのである。

昭和四十九年十月吉日  財団法人 住吉名勝保存会

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