姫路城 夜景


前項「坂越浦 レトロ散歩」の続編です、27日に強引な撮影を入れてしまって、続編が今です。

坂越では食事処も少ないので姫路まで移動、ついでにお城の夜景をとっておこうかといったところ。

ただ今19時前、桜門前、ほとんど人もいません。

以前、姫路城は何処からの眺望が一番いいかなと、ビューポイントを探して歩いたことがあったが・・・・

姫路城ビューポイント探訪
2015年3月27日再公開以来人出の多さを気にしながら訪問の機会をうかがっていた … 続きを読む →

喜斎門跡からの夜景、堀への映り込みがきれいだった記憶がある。

現在の桜門橋は発掘調査で出土した橋台の遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして築いたもの。

平成19年2月17日に多くの関係者の出席のもと、テープがカットされ渡り初め式が行われた。

渡り初め式には、三世代夫婦、お殿様、お姫様、お城の女王、お城おどり保存会他多くの方も参加。

桜門橋からの眺望。

大手前通りは、JR山陽本線姫路駅から姫路城大手門(桜門)前の姫路城前交差点に至る、全長約840m・幅員50mの道路。

日本の道100選の一つに選ばれている。

姫路城城下町、中曲輪・外曲輪に当たる範囲にある。

多数のブロンズ像などが設置されており、様々なイベントの場、憩いの場として親しまれている。

裸婦像

夏帽子の少女

この辺りからの眺望が一番きれいかな。

眺望デッキ「キャッスルビュー」から多重露光を試みる。

やぁ、疲れました、今日の歩行は23,000歩、帰宅時間は11時30分、かなり無理をしました。

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千姫の小径から 好古園へ


文学館を辞し「千姫の小径」を南へたどり「好古園」へ向かいます。

千姫は、7歳で豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼と政略結婚。

大坂夏の陣で炎上する大坂城から救出され、江戸に帰る途中、桑名城主・本多忠政(ほんだただまさ=徳川四天王・本多忠勝の子、正室は家康の孫・熊姫)の子・本多忠刻(ほんだただとき)と運命的な出会いをします。

桑名の七里渡しの船中でたまたま本多忠刻と同船となり、惹かれ合ったというドラマチックな展開に。

津和野藩主・坂崎直盛(さかざきなおもり)は、千姫輿入れの行列を襲っての強奪を企てますが(千姫事件)、大名の坂崎氏はこれによって断絶。

その後、本多忠政は桑名藩主から、西国の押さえとして姫路藩主となり、元和3年(1613年)、千姫も姫路城に移り住んでいます。

千姫の小径は西部中濠と船場川の間に南北にのびた土の道です。

道にはモミジや桜が植えられ、左右の水と共に心を和ましてくれる散策路となっています。

千姫の小径は、千姫が忠刻とくつろいだ西の丸の化粧櫓(徳川家から輿入れ時に賜った10万石の化粧料で造ったとされる櫓)、侍女たちが待機した長局(ながつぼね)の白壁を見上げるコースとなるのが名の由来です。

姫路城は内堀(現存)、中堀(一部現存)、外堀(埋め立てされている)の3重の堀で守られており、さらに船場川の川筋を鍵形に付替えて、外堀の一部に利用して、防御機能を高めていました。

姫路城と姫路駅の間を横断する国道2号はかつての中堀にあたりますが埋め立てられて国道になっています。

千姫の小径の脇を流れる船場川は外堀としても機能の他、瀬戸内海交通の要衝である飾万津(しかまづ=飾磨津)との舟運も担っていました。

上りは陸から綱で引き、下りは流れに任せて下っています。

好古園(こうこえん)は兵庫県姫路市、姫路城のすぐそばにある平成4年に開園した日本庭園。

発掘調査で確認された姫路城西屋敷の地割りを生かして、趣の異なる9つの庭園で構成されています。
季節により様々な花が咲きますが、特に紅葉の美しさに定評があります。

画像は築地塀(ついじへい)

好古園の影の主役ともいえる築地塀。
各庭を仕切る役目の他、余計なものを隠す背景としても役に立っています。

6年前の晩秋に好古園を訪ねています。
晩秋の好古園
「好古園」は、江戸時代に現在の庭園入口付近に存在した藩校「好古堂」に因むもの。 … 続きを読む →


季節のサルスベリの花がきれいです、門をくぐると「活水軒」(レストラン)今日はこちらのレストランでお昼です、庭を眺めながらの食事です。

活水軒と潮音斎(ちょうおんさい)を結ぶ、総檜造りの渡り廊下。

中央が曲面になっています。

左右に水の流れや池が見え、特に順路向かって左の滝状になっている水の流れが美しい。

渡り廊下を渡ると流れのある庭、秋にはもみじが美しい。

潮音斎

池側に大きく開かれた縁台(観庭台)がある建物。

中秋の名月を眺めるのに最適な方向に向けて開けているそうです。

池の奥にある樹林や雄滝、水の流れが美しい。

池泉回遊式の「御屋敷の庭」や本格的数寄屋建築の茶室・双樹庵のある「茶の庭」など九つの庭園群で構成され江戸の情緒を醸し出すそのたたずまいは時代劇や大河ドラマのロケ地としても使われています。

正式名は姫路城西御屋敷跡庭園好古園。

「好古園」とは、江戸時代に現在の庭園入口付近に存在した藩校「好古堂」に因むもの。

御屋敷の庭

池泉回遊式の、区切られた9つの中で最大の庭。

池に架かる石橋や、池を泳ぐ錦鯉、周囲にある姫山樹林を借景にした日本庭園らしい景色が見所。

松の庭

瀬戸内地方のアカマツ林をイメージした庭園。

散策中にあちこちでお城の廓が見えます。

庭園の面積は、約一万坪、九つの庭を見逃さないように回るのは大変。

世界遺産・姫路城を借景にした本格的な日本庭園は姫路観光にも人気の場所です。

キキョウのブルーがきれいです。

15種類の竹類を植栽した庭園で中央に八角の和傘をイメージした四阿「聞竹亭」を配す。

好古園までのアクセスは

姫路城の西隣に隣接しているので、観光で来られた方は、お城を見学された後などに是非立ち寄っていただきたい。
姫路城からは一度大手門を出て西へ、お堀沿いに歩いてゆくと右手に見えてきます。

【バスの場合】

姫路駅北口から神姫バス乗車【姫路城大手門前 】下車、徒歩約5分
9、10、17、18番乗り場からは〔7、8、9、11、12、13、41、42、43、45、51、52、53〕のバス乗車【聴覚特別支援学校・好古園前】下車すぐ
観光ループバスをご利用の場合、姫路城周りを一周した後、好古園前に停車します。

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大阪城夜景


その後大阪城に移動、大手前の陸橋から天守のが狙えるのではと考えていたが樹木に遮られてアウト。

8時前だが外堀がライトアップされている、お盆期間のサービスかな。

違う雰囲気で撮影できそう。

大手門もライトアップされている。

画面左端のおばちゃんが移動しない、じれてシャッターを切る、猫に餌をやっているようだがこれもありかな。




久し振りの外堀ライトアップ。


絞りf11、シャッタースピード15秒、水面も滑らかでそれなりの雰囲気。

しかし、6番櫓までしかライトアップされていない。

シグマ8-16mmに付け替え、超広角での画像を試す、ちょっと非現実だがこれも面白い。

久し振りの三脚使用で戸惑った場面もあったがそれなりの効果は捨てがたい、これを機に三脚の場面をもう少し増やそう。

楽しんでいるうちに時間を過ごしてしまった、ただいま9時30分、急いで帰ろう。

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大阪城天守閣ライトアップ


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何度か大阪城の夕景をアップしてきたが、いずれも天守のライトアップがないのが気がかりだった。

ホームページでは大阪城天守閣では、大阪市の節電対策に協力するため、夜間ライトアップの点灯時間を変更します・・・・とある。

どうも8時過ぎに変更になったらしい。

玉造口に向かっている。

玉造口の石垣に腰を下ろし点灯を待つことに。

イライラしながら待っているとどうも天守の屋根の上で何か行われているようだ。

クリックしてズームアップして見てほしい。
夜に屋根の上で何か作業をしているのを見るのは初めてだ。

8時11分、どうやらライトアップが始まったようだ。

雁木坂を極楽橋のほうへ急ぐ。

途中、梅園からライトアップの状態を確認。
暗闇の梅園は不気味だ。

青屋門から天守を見る。

大阪城には四つの出入口があります。
その内の一つが青屋口です。
そこの桝形にある門が青屋門と呼ばれています。

極楽橋から天守を望む、久しぶりの雄姿、きれいだ。

タテ構図でも1枚。

秀頼、淀君ら自刃の地。

山里丸の坂道から天守はポピュラーな姿だ。

天守台からの雄姿。

一番美しいと言われる日本庭園からの姿。

こちらもタテ構図で。

ミライザと一緒に。

桜門から見る、やはりライトアップされていると違う。

多聞櫓を出たところ。

大手門を振り返る。

生國魂神社御旅所から大手門を見る。

大阪歴史博物館から天守を望む、もう少し別の場所からの遠景を撮りたかったのだがもう遅いので断念、次の機会に譲る。

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夕景撮影 大阪城 再び


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再び大阪城、今回は西側から攻める。

大手門より天守台を目指す、前回より逆回り。

西の空がきれいです。

ライトアップは節電のため8時以降になる。

大坂城豊臣石垣公開プロジェクトの工事現場。

ライトアップもなく付近はひっそりとしている。

やはり夕景のポイントはどちらから登っても同じ場所。

隠し曲輪から天守を望む。

山里丸からの天守の眺望。

紅い夕陽を見届けて家路へつきます。

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夕景撮影 大阪城


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散歩を兼ねて夜の大阪城の撮影です。

コロナが蔓延気味でうっかり撮影にも行けません、広い大阪城なら大丈夫だろう。

森之宮から大阪城音楽堂の横を抜け南外堀に出ます。

南外堀に沿った「においの森」目の不自由な人々にも公園に親しんでいただけるように、香りの高い花木を集めています。

ジンチョウゲ、クチナシ、キンモクセイなど、四季折々の香りを満喫できます。

夕方は斜光も楽しめます。

南外堀の東端から西の方角、ちょうど生國魂神社お祓い所の方向を見ています。

夕日に照らされた堀の映り込みがきれいです。

NHK、大阪歴史博物館が見えます。

一番櫓です、飛行機雲がきれいです。

玉造口を抜けて内堀に入ります、少し向うに天守も見えます。

天守台の向こうに大阪歴史博物館。

梅林からの天守閣。

今日は雲がきれいです。

極楽橋を見ています。

散策の人たちが三々五々と通り過ぎていきます。

多重露光を楽しむ、空の色も色々と楽しみます。

極楽橋を渡ります。

極楽橋の上から御座船が見えています、太閤秀吉のあらゆる計算を知りたいなら御座船。

鬼門とされる方角を睨みつけ魔除けとされている「人面石」も、この距離であればしっかり確認できます。

山里丸から天守台に登ります。

多くの人たちが夕日と景色を楽しんでいます。

隠し曲輪からの眺めは格別です。

刻々と変わる雲の形と色味を楽しみます。

もともと兵を隠す場所と言われたくらいなので少し分かりにくいのですが、天守閣のすぐ近くにも関わらず、混雑している時期でも比較的に人が少なくゆっくりとできる場所です。

「隠し曲輪」の石垣構築工事を担当した伊予大洲藩、丹波園部藩の刻印石が多くみられます。


一番の撮影スポットも陽が落ちてしまってイマイチです、多重露光で体裁を整えます。

現在の大阪城天守閣と同じ昭和6年(1931)、陸軍第四師団司令部の庁舎として建設された。

鉄筋コンクリート造で、ヨーロッパの城を参考とし、左右対称の重厚な外観をあらわす。

昭和20年の 第二次世界大戦終結時は中部軍司令部の庁舎だった。

連合国軍による接収のあと、昭和23年から警察(大阪市警察局、大阪市警視庁、大阪市警察、大阪府警察)の庁舎として、 昭和35年から平成13年(2001)までは大阪市立博物館として使われた。

桜門から大手門へ至る場所は大石のオンパレード。


桜門から天守を望む。

大阪城天守閣では、大阪市の節電対策に協力するため、夜間ライトアップの点灯時間を変更てしています。

日程:2022年7月1日(金)~9月30日(金)
時間:20時ごろから24時30分まで

大手二番石(左・城内第5位)、大手見付石(中央・城内第4位)、大手三番石(右・城内第8位)

大手門を出ました、現在午後8時前、そろそろ手持ち撮影の限度かな。

ライトアップ時間が変更されていて辺りは暗闇です。

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大阪城散策


天満に所用で出かけたおり大阪城を散策、時計回りに一周した。

今回もD800に50mmf1.8の組み合わせ。

OMM(大阪マーチャンダイズマート)のところにある飛び駆けるマーキュリー像。

像の前にある説明板によれば、これは16世紀イタリアの彫刻家ジャンボローニャ作の「飛び駆けるマーキュリー」(イタリア国立美術館)をもとに昭和47年10月につくられたもので彫像鋳造はフィレンツェのブルノ ベアルジ。

午後の日差しがビルを照らす。

平成元年(1989)ドーンセンター建設に伴い深さ2mの地点で発見された石垣を、地上に移築。

高さは約3.3m、野面積み石垣。
秀吉の晩年、慶長3年(1598)に大坂城防衛のため造られたもので、大坂冬の陣後に家康によって取り壊され埋めらたもの。

総延長約150mの石垣で大手門学院小学校まで伸びていた。
現在、石垣は路上に面しており見学自由。

大阪城 乾櫓

大阪城西の丸(二の丸)の西北に位置し、櫓の西側と北側が西外堀に面している。

昭和20年(1945)8月、第二次大戦時の空襲では爆弾が乾櫓北側の水掘に落ち、石落としが吹き飛ぶなどの被害を受けた。

昭和31年(1956)から始まった解体修理で、乾櫓は本来の姿にと大々的に修理され、現在、見られる姿となった。

西外堀から望む天守閣

京橋口

京街道に架けられた『京橋』に由来する。

京街道に向かう玄関口であるため、とびきりの巨石が多く使われている。

その中でもひときわ目を引くのが城内第2位の巨石として知られる肥後石だが、昭和40年代までは城内第1位とされていた

正面に見えているのが京橋門枡形 京橋口二番石。

横 11.5メートル 縦 3.8メートル 推定重量 81トン 讃岐小豆島 担当大名は 岡山 池田藩。

三の丸地区の「筋金門跡」

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「大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門)」

「守衛所」は現存しているが、当時の屋根は失われており、煉瓦の一部も崩れているなど、痛みが激しい。

現在の「守衛所」は柵で囲われ立ち入り禁止になっている。

「大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡」

三の丸地区の「筋金門跡」(「大阪砲兵工廠正門跡」)付近に「大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡」が遺されている。

この建物は、工廠の「化学分析場(化学実験場)」であった。

建築家の置塩章(砲兵工廠建築部)が設計、大阪橋下組の施工によって大正8年(1919年)に竣工した。

戦後、昭和39年(1964年)~平成10年(1988年)、自衛隊大阪地方連絡部が建物を使用していたが、現在は使用されていない。

建物はネオ・ルネサンス様式で、煉瓦造、地上2階・地下1階である。

北外堀から天守閣を望む。

京橋口を望む。

北外堀の東端、青屋門を望む。

青屋門右の石垣に説明文があります。

青屋口は大阪城二ノ丸の北側に位置する出入口で、青屋門はその桝形の内側に建っています。

創建は徳川幕府の大坂城再築工事が開始された1620年(元和6年)と考えられ、明治維新の大火により被災し、その後、陸軍によって改築されましたが、1945年(昭和20年)の空襲で再び焼失しました。

その為、この青屋門は1969年(昭和44年)に大阪市が残材を用いて再建した門になります。

現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門ですが、江戸時代は櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く伸びていました。

桝形とは敵の侵入を防ぐ四角い区画のことで、青屋口の桝形は二ノ丸の他の各口とは異なり、外側に突き出す出桝形でした。

「青屋」の名前は、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられています。

梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付した事で、昭和49年3月に開園となった。

今では100品種を超える梅が見られる。

厳しい寒さの中、百花に魁て花を開き、清楚に香る梅の花。

そのゆかしい趣は、日本人の感性を優しく包むきわめて日本的な風情であるが、梅の原産地は中国であり、奈良時代以前に、遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされたと言われています。

梅園にはほぼ毎年訪れる。

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梅林は「市正曲輪」という場所にあります。

豊臣時代に秀頼の後見人であった片桐市正(いちのかみ)且元の屋敷のあった場所。

江戸時代には城内警備に当たる大番職を助勢する加番職のための三つの屋敷(加番小屋)が南から順に立ち並んでいた場所でした。

しかし戊申戦争の折りに全て焼失しており残っていません。

内堀から天守台を望む、もう陽も西に傾いている。

徳川期大坂城の桜門の創建は枡形虎口の普請が完成した寛永元年頃といわれているが確証は無いらしい。

明治元年戊辰の役の火災で、虎口内の石垣に焼けた痕跡が残ることから多聞櫓は全焼、この時、桜門は半焼したのではないかと推測されている。

桜門の名称は、豊臣期大坂城二の丸に桜の馬場があり、その門付近の桜並木にちなみ、そう呼ばれたのが始まりだとか。

現桜門の西側に桜門土橋を横矢掛できる曲輪があるが、豊臣期はちょうどそのあたりに桜門があった。


西に傾いた陽が強い影を作る。



千貫櫓、多聞櫓の間から天守閣。

千貫櫓
大手門を北から防御する重要な役割を果たした二層の隅櫓(すみやぐら)。

名称は石山本願寺を攻めた信長軍がこの付近にあった櫓を攻めあぐね、「千貫文を出しても奪いたい」といわれたことに由来するという。

多聞櫓は他の櫓や門などの重要文化財のようにそのまま現存したわけではありません。
1783年に落雷で全焼し、再築されているのが特徴です。

多聞櫓という名前の由来が、戦国武将・松永長秀の多聞城の形式を使った櫓だからというも紹介されています。

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冬の大阪城


南外堀

大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口。

石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。

幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。

内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。


空堀にはススキが茂る、この辺りにはヌートリアが生息している。

ミライザ

大阪城公園の魅力向上施策の一つとして、大阪城天守閣と同じ本丸エリアに位置する歴史的建造物のもと大阪市立博物館(旧陸軍第四師団司令部庁舎)をコンバージョンした複合商業施設。

城内一の撮影スポット、さざ波が立って天守閣がぼやけている。

北東の方向、京橋口の方向を望む。

昭和20年(1945)、陸軍の関連施設が集中していた大阪城は、終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。

これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。

天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。

昭和6年復興の天守閣は天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

大阪城に残る戦災の傷跡 | きままな旅人

天守から山里丸に向かう、この辺りも絶好の撮影スポット、右手が隠し曲輪の入り口。

隠し曲輪は今工事が行われている。

何の表示も無いので、ほとんどの観光客はここを素通りしていきます。

この奥に広場があるとは、誰も気付きません。

山里丸石垣の機銃掃射痕。

石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の傷跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。

昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍需工場があった大阪城も標的となった。

山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数カ所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

大阪城が炎上する中、豊臣秀頼と淀殿はここ山里曲輪にて自刃しました。

本丸の大阪城・天守閣の裏から出てすぐのところになります。

真田幸村の嫡男・真田大助もここ山里丸で殉死しました。

それら殉死した者の「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」が、山里曲輪の石垣の上にあります。
 
淀君並殉死者三十二名忠霊塔

碑文にある殉職者は、大野治長、大野治徳、速水甲斐守時之、速水出来丸、毛利勝永、毛利長門、高橋半三郎、高橋十三郎、津川親行、竹田永翁、堀対馬守、武田左吉、森島長意、伊藤武蔵守、土肥勝三郎、真田大助、萩野道喜入道(氏家行広)、寺尾勝右衛門、和期の局、大蔵卿の局、宮内卿の局、右京大夫局、玉の局、饗庭局です。

山里丸から天守を望む。

江戸時代、極楽橋を渡ってすぐにある石垣の上に、山里門と多聞櫓がありました。

今は石垣だけしかないのを確認できます。

橋は鉄筋コンクリート作りですが、両端は木で造られています。

ここは桜門(本丸に入る正門)の丁度反対側になっています。

豊臣期の大坂城と城下町を描いた貴重な屏風絵「豊臣期大坂図屏風」(オーストリア エッゲンベルク城所蔵)の中に見られる秀吉の「鳳凰丸」をモデルに、大坂の陣から400年を経た平和な大阪で、秀吉が生きていたら、黄金の御座船にするだろうという意を込めて、船全体に純金箔貼りを多用したものです。

冬の西日を受けて枯れ木が輝きます。

空堀が西日を受けて輝く。

重要文化財 大手門
 
城の正面を大手(追手【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。

現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。

正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】との間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。

屋根は本瓦葺【ほんがわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうてついたばり】とする。

開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。

親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継【ねつぎ】がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手【つぎて】は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。

門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている。

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高取城 モノクロバージョン


先日「紅葉期の高取城」をアップした。

紅葉期の高取城
大和高取城は奈良県の紅葉の名所。 11月には本丸や二の丸を中心に真っ赤に燃える様 … 続きを読む →


紅葉はモノクロに適さないし、華やかな紅葉はカラーで表現したいのでそうしたのであるが、城址そのものは古い戦乱の歴史を残している。

兵どもの戦いの跡はむしろモノクロで表現したい。

戦国期の高取城の歴史は下記の通りだ。

越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていたようである。

天文元年(1532年)6月の飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)は大和国に侵攻してきた。

対立関係にあった興福寺の僧兵たちは越智氏のいる高取城に庇護を求めてきた。

証如軍は高取城を包囲し、激戦となったようだが、筒井軍に背後を襲われた証如軍は敗走した(天文の錯乱)。

その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は天正8年(1580年)に一旦は廃城となった。

天正11年(1583年)8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され(自害とも)、越智氏は滅亡した。

筒井順慶は、信長が本能寺の変で横死した後、天正12年(1584年)に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。

天正13年(1585年)、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。

高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。

天正17年(1589年)、利久は家臣諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造した。

本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだ。

また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類を見ない広壮な山城が出現した。

家臣団は、山麓の高取市街に城下町を営んだ。

利久は、天正19年(1591年)に没した秀長の後嗣となった秀保に仕えた。

文禄4年(1595年)、秀保が17歳で没した後、利久の子俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。

秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康についた。

慶長5年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であった。

この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた。

俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。

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紅葉期の高取城


大和高取城は奈良県の紅葉の名所。

11月には本丸や二の丸を中心に真っ赤に燃える様は圧巻の風景だが、今回はすこし盛りを過ぎている。
画像は壺坂口中門跡。

高取山に築かれた山城で、日本三大山城のひとつ。

南北朝時代に、大和の有力国人である越智氏によって築かれた。

安土桃山時代に、豊臣秀長の家臣である本多氏によって整備・拡充され、山城としては他に類を見ない規模となった。

朝日を浴びて苔むした石垣がキラキラ輝き美しい。

しかし、天守台などの石垣は西向きのため時間帯は午後が良いと言われる。

江戸時代には高取藩が置かれ、本多氏の後には譜代大名である植村氏が入り、幕末まで続いた。

高取城には、建物はほとんど残っていないが、石垣はよく残されており、城の構造を知ることができる。

国の史跡に指定され、『日本100名城』(財団法人日本城郭協会)にも認定されている。

高取城は、元弘2年(1332年)に南朝方の豪族であった越智邦澄(おちくにずみ)が、貝吹山城の支城として築いた山城です。

当初は中世城郭によく見られる掻き揚げ城(かきあげじろ。簡単な堀と土塁がある程度の城)でしたが、後に豊臣秀長の家臣である本多利久らにより本格的な改修が行われ、近世城郭へと生まれ変わりました。

比高(麓から本丸までの高低差)390mは日本一であり、岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城とともに日本三大山城の一つに数えられています。

「石垣は隅を見ろ」とも言われ、石積みの技術は隅石によく現れるのだそうです。

忍び返し(反り)のない、一直線に伸びる隅石。

隅石は算木積(さんぎづみ)と呼ばれる技法で積み上げられ、直方体に加工した石を交互に直角に交わるように積み重ねることで強度が増し崩れにくくなるそうです。

城内の周囲は約30km、郭内(石垣内)の周囲は約20kmと推定され、これは姫路城と同等の規模に相当します。

高取城は、天正8年(1580年)に織田信長の命により一旦廃城となりましたが、信長の死後、筒井順慶により復興されました。

以後、本多利久の時代を経て、寛永17年(1640年)に譜代植村家政が入城してからは、植村家の居城として幕末まで続きました。

明治6年(1873年)に廃城となり、現在では建物は残っていませんが、約10mある高石垣などの遺構は人為的に破壊されることなくほぼ完全な状態をとどめています。

このため、貴重な城郭資料であるとして、昭和28年(1953年)には国史跡に指定されました(指定名称「高取城跡」)。

明治2年(1869年)6月、版籍奉還により兵部省の管轄となり明治6年(1873年)廃城となった。

入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。

明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊したとされる。

画像は二上山と後方は吉野の山々。

その一方で、明治6年(1873年)に建物の払い下げが行われ、7円35銭6厘(100円とも)で落札されるが一部を取り壊したのみで、明治20年(1887年)に黒門の払い下げ、明治24年(1891年)ごろに天守以下の建物全ての取り壊しが行われたともされる。

殆どの建物は失われたが、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、人為的に崩壊することなくほぼ完全な状態をとどめている。

しかし、樹木が生長し根が張り出したり、維持管理や補修が充分でない事から石垣の形が崩れたり崩落の危険がある箇所もある。

この内、二の門は町内にある子嶋寺の山門に、新御殿(藩主下屋敷)の表門は町内の石川医院の表門に、松ノ門は1892年(明治25年)に土佐小学校(町立高取小学校)の校門として移築された。

1944年(昭和19年)、小学校で起きた火災により小学校は全焼、松ノ門は一部損傷し臼井家(伊勢屋・現在の金剛力酒造)が解体保存していたが[1]2004年(平成16年)、児童公園の表門として復元した。

確認されている高取城の現存構造物はこれらのみである。

この他に、下屋敷表門を移築したものではないかと言われている門が残っていたが門は取り壊され石碑のみになっている。

南面石垣は湾曲し、直線の石垣と比べて死角が少なく、敵方を狙いやすくなるそうです。

歴史ロマン漂う城跡ですが、ここは軍事施設でもあるのだと改めて気づかされます。

高取城の特徴として「城郭談話会」では次の4つを挙げている。

標高の高い山城であるが近世の施設がある。

戦国時代以前の山城は山上の要害に築かれているが、近世になるにつれ小高い丘や平地の中心部に居城が移されることが多い。

高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少ない。

火災や風雨、山上の不便さから、再築されることが少なかったからである。

しかし、高取城は3代将軍家光より「一々言上に及ばず」という許可があり、それで江戸時代を通じて各建物の存続と完備ができたとしている。

縄張と虎口の構成

高取城の縄張りは山城であるにもかかわらず、広い敷地をもち、連郭式縄張りと言われている。

高取城は標高が高い場所に築城されているわりには、天守、櫓、門等の多くが建設される余裕があり、平山城と同じような構えをもっている。

また不等辺台形の隅部に三重天守、小天守、二重櫓を配し、周囲に多聞櫓を巡らしている点は、和歌山城と類似する。

この共通性は、羽柴秀長が3か国の太守となり、和歌山城には桑山重晴、抑えの城である高取城には本多利久と、自らの家臣を置いたからと考えられている。

天守と小天守が建てられている

山城に天守がある例は日本国内ではいくつかあったが、小天守まである例はほとんどない。

例えば洲本城には、天守に小天守台はあったが、小天守台に小天守が建てられたかどうかは不明である。

そもそも山城は眺望が優れており、近世の山城には天守すらない例があるが、高取城は「三重天守」以外にも一回り小さな「三重小天守」まである。

築造時期は明確ではないが、本多利久から植村氏が入るまでと推定されている。

櫓の数棟が多く、独特の名称が多い

高取城は櫓の数が多い。

三重櫓は、天守、小天守を含めると6棟あって、二重櫓が7棟あり、白漆喰総塗籠で姫路城に似た外観であったと考えられている。

また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など、独特の櫓名があるのも高取城の特徴であると指摘している。

また、二の門外の大手筋と岡口門の分岐に、猿石と呼ばれる石像がある。明日香村から石材として運ばれたもの。
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