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木村康雄 大阪在住 写真家

都心のオアシス 新梅田シティ


大阪市営地下鉄の梅田駅と西梅田駅を結ぶ東西地下道(都市計画道路大阪駅前1号線、延長約220m)を現在の幅約8mから約15mに広げる拡幅整備が行われています。

今日は久方ぶりに新梅田シティへ行ってみたいと思っています。

街ゆく人は夏の装い。

今月の撮影テーマの撮影も気にかけています。

今月のテーは「暑い日」

朝や夕方に太陽を撮るのは慣れていますが、日中の太陽は苦手です。

大阪ステーションシティから「うめきた2期地区開発事業 建設工事の状況」を見る。

新梅田シティへのルートがわかりやすく見えている。

三菱地所を代表企業とするうめきた2期開発事業者JV9社(事業者JV)は、2020年12月21日付けのニュースリリースで、「(仮称)うめきた2期地区開発事業」の工事に着手したと発表しました!2024年夏頃に先行まちびらき(一部民間住宅および一部都市公園)、2027年度に地区全体開業を予定している。

「(仮称)うめきた2期地区開発事業」の全面積は91,150㎡ですが、そのうち2つの都市公園は約45,000㎡と約半分の面積を占めます。
今から楽しみです。

今年も新梅田シティ・梅田スカイビルに東北三大祭りのひとつ「仙台七夕」から、美しい笹飾りが届きました。

ここから向こうが森だ。

中自然の森、雰囲気の良い森の中。
小さな森と小川や滝からできています。

あたかも鎮守の森であるかのようにこんもりと繁った中自然の森は、直径70mという広さに約50種2,100本の樹木が育ち、その中には滝・せせらぎ川の流れ・池へと変化する水辺が造られています。

樹木の間を流れるせせらぎでは6月にはホタルが舞うなど水辺の生物が生息し、豊かな自然の営みが満ちあふれています。

森の雰囲気バリバリの場所、なんだか癒されます。

敷地内には、南側に「中自然の森」、北側に「花野」という、緑あふれる場所も。

特に、「花野」の中にある「新・里山」は、雑木林や棚田、畑などがつくられており、都会にいながらにして野鳥や昆虫が訪れる里山の自然を感じることができるのです。

未来的な眺望や昭和の香り、そして里山の自然と、梅田スカイビルには時間・空間を超えた楽しみがいろいろです。

お腹が空いたら、ビルの地下に行きましょう。

ここには昭和初期の街並みを再現した食堂街「滝見小路」があり、串かつやお好み焼きなど大阪ならではのさまざまな味が楽しめます。

また、タバコ屋、交番、井戸や懐かしい円柱型のポストなど、昭和の香りを感じながら散策することもできるようになっています。

クリスマスイブ 梅北中自然の森
今年もクリスマスイブに梅北中自然の森にやってきた。 グランフロントの広場はしずか … 続きを読む →

大阪で一番最後まで紅葉が楽しめる 梅北中自然の森
訪れたのは12月20日、よそでは殆ど紅葉は終了していますがここ中自然の森はまだご … 続きを読む →


大阪の名所のひとつである梅田スカイビルの魅力は、なんといっても40階にある空中庭園展望台。

「夕日100選」や「夜景100選」にも選ばれているほどの景色が堪能できちゃいます。

梅田スカイビル 空中庭園
「希望の壁」は、高さ9m、長さ78mに及ぶ巨大な緑の壁。 建築家・安藤忠雄氏が「 … 続きを読む →


また、屋上には360度を見渡せる回廊「スカイ・ウォーク」があり、地上約170mの風と光、空を体全体で思いっきり味わえます。

さらに、この「スカイ・ウォーク」は、夜になると足元が光の道に変貌。夜景とともに、幻想的な空間と時間を過ごすことができるのです。

新梅田シティの彫刻作品群

34体の彫刻が新梅田シティの屋外の色々な場所に置かれています。

古代から現代までの生き物や野仏などをモチーフにした一連の作品は新梅田シティの風景という劇場に組み込まれた小道具のようなもの。

ひとつひとつに眼をとめて、ぜひ観客のひとりのように、自分だけのストーリーを楽しんでください。

ちなみにこの池はさっきの地図上の7番。

「里の奥池」という名称です。
ふと足元を見ると小さな黒い立て札があった。
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初夏の伊吹山


伊吹山は、滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰(最高峰)標高1,377 mの山である。

花の名山として知られている伊吹山が、今、大変な危機に襲われている。

伊吹山は、毎年夏から初秋にかけて、山頂付近がシモツケのピンク色、サラシナショウマの白色、コイブキアザミの紅紫色など様々な色に染まるはずである。

しかし最近の伊吹山では、全くそれらのすばらしい光景が見られなくなってしまい、ただ緑色のササや低木、ザラザラした葉っぱの植物だけの緑と茶色と白い石の世界になってしまった。

このような事態に陥ってしまったのには、もちろん訳がある。

その理由はただひとつ、野生のニホンジカによる食害である。

ニホンジカによる食害は、無慈悲で凄まじく、圧倒的である。

数年前までの伊吹山の写真と、現在の写真を比べると、いかに変化しているかがわかるだろう。

8年前の訪問時の写真と見比べてみてほしい。雲上の楽園「伊吹山」

滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →

山上駐車場から来た道を振り返る。

ここで昼食、ロザンベリー多和田特性の弁当ハマベンだ。

1689年(元禄2年)秋に松尾芭蕉により「そのままよ 月もたのまし 伊吹山」の俳句が詠まれている。

元禄2年(1689年)、奥の細道紀行を終えて結びの地・大垣に入った松尾芭蕉が、2週間の逗留中に読んだ句です。

(秀峰・伊吹山は、月で風情を付け加えなくても、充分にすばらしい存在だよ。)といった意味でしょうか。

この場所に来て詠んだものではないにしても、芭蕉翁は大垣から伊吹山の姿を眺めただけで賛辞を述べたのです。

章末に芭蕉の行動記の一部を記す。

西側の山肌に沿うように造られた西登山道の入り口、足元に小石が敷かれ歩きやすく整備されているので、山からの景色や高山植物を見ながら登るにはベストの道です。

『日本書紀』では「五十葺山」と記され、『古事記』では「伊服阜能山」と記述される。

また、「膽吹山」のほか、「伊服阜山」、「伊夫阜山」とも記される。
かつて修験道においては「大乗峰」と呼ばれていた。

他に、伊福貴、異吹、伊布貴、伊夫伎などの表記が為された。

冒頭にも記したが伊吹山は今大変な危機にあっている、宝物を探すように高山植物を探しながら頂上を目指す。

古くから神が宿る山として信仰の対象であった。

室町時代後期には織田信長により、山上に野草園が造られたとされている。

明治以降に近代登山の対象となった。

大正には中山再次郎により、関西におけるスキーの山として注目されるようになった。

1964年(昭和39年)に深田久弥により日本百名山に選定されると、百名山ブームもあり全国的に登山対象の山として知名度も高まった。

1965年(昭和40年)に伊吹山ドライブウェイが開通すると、9合目まで容易に上がれるようになり山頂部は観光地化した。

伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、『古事記』では「牛のような大きな白猪」、『日本書紀』では「大蛇」とされていた。

『古事記』にはヤマトタケルがこの伊吹大明神と戦って敗れる物語がある。

伊吹山の神に苦しめられて敗れたヤマトタケルは病に冒されて山を下り、居醒の泉(米原市醒井の平成の名水百選の1つに選定されている「居醒の清水」)で少し回復したものの、のちに悪化して亡くなったとする伝説が伝えられている。

山頂部にはその日本武尊の石像と、伊吹山の神の白猪の像が設置されている。

表登山道の三合目西側の「高屋」と呼ばれる場所はヤマトタケルが山の神に出会った場所とされていて、大正時代に石の祠が建立されその中に木造の日本武尊が祀られた。

673年 – 天武天皇により麓に三関のひとつである不破関が置かれる。

日本武尊の石像がある山頂に到着。

ヤマトタケルの西征 建部大社
瀬田の唐橋の東約500m。 この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全 … 続きを読む →

梅雨期の醒ヶ井宿
醒井宿は、近江国坂田郡にあった中山道(中山道六十九次)61番目の宿場であり、現在 … 続きを読む →

『古事記』『日本書紀』に、ヤマトタケルノミコトが東国征伐の帰りに、伊吹山の神が白い猪の姿であらわれた。

伊吹山には、様々な神道・仏教・修験道的施設があるが、その中でも中心的な施設が弥勒堂。

小さな石の祠には弥勒菩薩が安置され、ここが伊吹山登拝の目的地となってきた。

かつては石仏や石塔などが多く奉られ、麓の上野地区の人々は雨乞いの儀式として「千束焚」、「雷踊り」を行ってきたと、現地の説明版にはある。

また弥勒堂はもう一つあり、南弥勒堂と言う。

こちらは比較的新しく、明治45年に作られ、麓関ヶ原の石清によって製作された弥勒仏が安置されている。

その時、同時に設置されたのがトップ画像の山頂広間に置かれたヤマトタケルの石像だ。

一等三角点が置かれている山頂部は滋賀県米原市に属し、滋賀県最高峰の山であり、山域は琵琶湖国定公園に指定されている。

イヌワシで有名な伊吹山は、ドライブウエィーを殆ど登り切ったところにイヌワシの撮影スポットがあるため、伊吹山の麓まで着いても30分くらい掛かりますが、結構カーブが厳しい観光道路となっており、約1500mの頂上に展望台やレストランがあり一般の観光客が登ってきます、聞いた話では伊吹山に来る全体の20%くらいがイヌワシハンター(イヌワシ好きのバーダー)のようです。

イヌワシハンター達は、カードレールの外側に入り断崖絶壁の足場の悪いところスレスレに三脚を立てて切り立っている崖の下を飛ぶイヌワシを上から撮るという理想的な撮影が出来るが、足が竦んでしまい尻込みを感じ崖の下が見えるところまではなかなか行けない(崖から1m位離れる)が、崖スレスレに飛ぶことがあるそうで飛んでも何も見えないことがあると地元の人達が教えてくれた。

日本七高山霊場の一つに選ばれる伊吹山寺覚心堂。

山頂でゆっくりした後、中央登山で約20分で駐車場に到着できる最短コース。

山肌を正面にして登るので、やや急こう配の階段が頂上付近まで続きます。

先に頂上へ到着してからゆっくり景色を楽しみたい場合は、中央登山道からのスタートもおすすめ。

伊吹山は約3億年前に噴火した海底火山であったとされており、ウミユリやフズリナの化石が発見されたことから、地層には約2億5千年前の古生代に海底に堆積した層が含まれていると考えられている。

その時期にサンゴ礁が形成されたことで石灰質の地層が堆積した。中腹より上部は、古生代二畳紀に形成された石灰岩が広く分布している。

山頂部では、カレンフェルトや巨大な石灰露岩などのカルスト地形が見られる。

化石が多く含まれ、フズリナやウミユリの化石がよく見られる。

石灰岩には塊状の亀裂が多く、水透しが良く表土は乾燥し易い。

現在は良質の石灰岩が採掘される山として知られている。

伊吹山の石灰岩は、古くは漆塗りの原材料に用いる消石灰として1661年ごろには開発されていたが、近代はコンクリート・セメント需要の急増により大量に採掘されてきた。

1949年に近江鉱業が伊吹山に弥高採鉱場を開き、1951年に住友大阪セメント伊吹工場が開発工事に着手するなど、大規模に採掘が進められ、南西の稜線は山容が変貌するまでに大きく削り取られた。

1971年からは住友大阪セメント伊吹工場によって南西斜面の緑化活動が始められ、2003年に同社が滋賀鉱産株式会社に事業を引き継いだ現在も続けられている。

鉱山としては現在も近江鉱業および滋賀鉱産が稼行している。

芭蕉の行動記

全国最強の軍団と奥の細道の終点 大垣城

織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移った後、1583年(天正11年)に池田恒興が城 … 続きを読む →

奥の細道の旅を終えた松尾芭蕉が桑名行きの舟に乗った船町の川湊が国の名勝に指定された。

義仲寺 行く春を おうみの人と おしみける

俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南の人々を愛し、たびたび滞在した。 大坂で亡くなった芭蕉 … 続きを読む →

藤原三代栄華の跡 中尊寺

中尊寺は天台宗の東北大本山。 創建は嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁によって開山 … 続きを読む →
金色堂の脇に建つ芭蕉の「五月雨の降のこしてや光堂(あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。

まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか)」の句碑。

日本の霊場 山寺(立石寺)

立石寺(りっしゃくじ)は、山寺(やまでら)の通称で知られ、古来、悪縁切り寺として … 続きを読む →
根本中堂の正面左側の石垣の上に、嘉永6年(1853年)に建立された松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句碑がある。

日本三景 松島

今回は仙台を中心に東北の五名城を巡ります。 まず、最初に訪れたのは松島。 仙台空 … 続きを読む →
芭蕉もやって来た日本三景の一つ松島。

松尾芭蕉は、松島を始めとして仙台藩の城や要害、関所などの主要軍事施設を回っていることから、隠密説がある。

花の生涯 たか女終焉の寺 金福寺

船橋聖一の花の生涯で有名なのが詩仙堂近くにある金福寺。 この寺は864年の創建だ … 続きを読む →

庭園の東側に立つ茅葺き屋根の庵、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっている。

元禄時代に鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ばれるようになったが、後に形がないほど荒廃したために、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776年(安永5年)再興された。

北御堂と南御堂

東側の御堂筋は、北御堂と南御堂(真宗大谷派 難波別院)を繋ぐ道であることに由来す … 続きを読む →

俳聖松尾芭蕉は 南御堂の門前にあった花屋仁右衛門( はなやにえもん)の離れ座敷で元禄七年(1694年)10月12日 午後4時頃、去来、基角など10名も門人に見守られ51歳で亡くなった。

南北朝、戦国争乱の城と恋物語 金ヶ崎城址
金ヶ崎城は敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜86メートルの小高い丘(金ヶ崎山) … 続きを読む →

芭蕉翁鐘塚
1690年8月江戸時代の俳人 松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた。
芭蕉は敦賀での仲秋の名月を楽しみにしており、いくつかの月の句を詠んでいる。
月清し遊行のもてる砂の上     名月や北国日和定なき

早朝 住吉大社
夜明けの住吉公園。 この橋は、大正初期の大改修(大正7年~8年)に造られ、唯一当 … 続きを読む →

「升買て 分別かはる 月見かな」と刻まれた、俳人・松尾芭蕉の句碑。

芭蕉は元禄7年(1694)9月、大坂で派閥争いをしていた2人の門人を仲裁するために故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。

13日に、住吉大社の宝の市神事へ参拝し、参道で売られた升を買った。

折から体調が悪かった芭蕉はその夜、招かれていた月見の句会には出席せず宿へ帰った。

その翌日の句席で「升買て……」と詠み、「自分もついつい一合升を買ってしまった。

すると気分が変わって月見より宿に帰って早く寝た方が良いような気がした」と、洒落っ気を利かして、前日の非礼を詫びたという。

その後、芭蕉は発熱下痢を伴い、大坂の花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日夕方、51歳の生涯を閉じた。

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梅雨期の醒ヶ井宿


醒井宿は、近江国坂田郡にあった中山道(中山道六十九次)61番目の宿場であり、現在は滋賀県米原市醒井に位置する。

醒井宿は、柏原宿より1里半(1里18町、5.9km)、番場宿まで1里(3.9km)の距離にある。

番場忠太郎 – 劇作家・長谷川伸の「瞼の母」の登場人物で当地の出身の設定なので実在の人物ではないが、この作品のおかげで当地は知名度を得た。

西行水

山麓の岩間より湧出する清水で、仁安2年(1167年)に西行が旅の途中に立ち寄ったといわれる。

伝承によれば、西行が傍らで飲み残した茶を、心を寄せた茶屋の娘が飲んだところ懐妊して男子を出産した。

後に西行が「もし我が子なら元の泡に帰れ」というと、たちまち泡に戻ったといわれる。

「泡子塚(泡児塚[49])」と称される仁安3年(1168年)に建立された石塔がある。

また、平安時代中期の僧仲算が、延喜年間(901-923年)に岩端を短剣で切り、湧出させたという伝承があり、「仲算結縁水」とも称される。

これにちなんだ川柳「醒ヶ井の水仲算の徳に湧き」が知られる。

十王水の呼称は、かつて付近に十王堂があったことによる。

醒井大橋に近い家屋裏手の山麓より湧出し、往来沿いの川中に「十王」を示した灯籠がある。

平安時代の天台宗の僧浄蔵により開かれたとして「浄蔵水」、「浄蔵結縁水」(じょうぞうけちえんすい)とも称された。

旧中山道わきの了徳寺には、天然近年物の御葉津附銀杏(オハツキイチョウ)があります。

毎年8月から11月に、葉の表面に銀杏(ぎんなん)が実ります。

ふつうギンナンは葉とは別に実りますが、葉の表面に実るのは、めずらしいですね。

醒ヶ井は7年ぶりの訪問です。

前回の訪問記醒ヶ井地蔵川のバイカモ(梅花藻)
中山道を流れる地蔵川のバイカモはキンポウゲ科の水生多年草で、清流でしか育ちません … 続きを読む →

また、湯村温泉に田君川という梅花藻の咲く川がある。
川面覆う可憐な花咲く 田君川
夢千代日記で有名な湯村温泉に田君川はある、鳥取砂丘まであと30分くらいかな、かな … 続きを読む →

しかし、どうも近年不作のようだ。

写真家のブログに記載があった。

台風などで流されては復活し続けたものの昨年に続き、今年もまばらにしか咲いていないらしい。
原因が人の手ではないだけ歯がゆい。

中山道61番目の宿場町。

醒井の地名の由来ともなった「居醒の清水」を源流とした地蔵川の流れに沿って、今も風情ある町なみが続いています。

醒井宿には全国でも珍しく、宿場をきりもりした施設「問屋場」が昔のままの姿で残っており、往時のにぎわいを伝えています。

中山道醒井宿は湖北八景に選ばれています。

水温年間約14度前後の川の水底に群生し、水流中に沈生し、流れに沿って這うように育つキンポウゲ科の多年生草木植物で、長さは約50センチほどになります。

初夏から晩夏にかけて梅の花に似た小さな白い花を咲かせ、7月下旬~8月下旬にかけて見頃を迎えます。

「居醒の清水(いさめのしみず)」は、2008年6月「平成の名水百選」(環境省)にも選ばれています。

なお、梅花藻は6~9月にかけて開花しますが、梅雨時は水量が多く花か沈水するので、8月~9月中旬が見頃となります。

梅雨期にはそういうことで梅花藻は見られず、水槽で栽培されているものが展示されている。


醒井宿問屋場(旧川口家住宅)

醒井宿にあった7軒の問屋の1つとして残存する川口家住宅の一部であり、米原市醒井宿資料館の1つに使用される。

享和4年(1804年)の醒井宿絵図に記される。

江戸時代前期(17世紀中期-後期[134])築、木造平屋建。2000年(平成12年)より修復された。

『古事記』『日本書紀』に、ヤマトタケルノミコトが東国征伐の帰りに、伊吹山の神が白い猪の姿であらわれた。

その猪が氷雨(雹)を吐くと、ヤマトタケルは前後不覚におちいった。

やっとの思いで山をおり、「玉倉部(たまくらべ)の清水」に到って休憩すると、気分が回復してきた。

よって、その清水を「居醒の清水」と名付けたといいます。

ヤマトタケルの西征 建部大社
瀬田の唐橋の東約500m。 この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全 … 続きを読む →

雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →

日本武尊(やまとたける)が東の国征伐から帰る途中、伊吹山に荒神がいることを聞き、その荒神を征伐するために伊吹山に登られました。

山頂近くに達すると大きな白いイノシシが現れたため、尊は弓矢で威嚇してさらに進まれました。

腰掛石・鞍懸石・蟹石 – 居醒の清水の湧き出る場所に、日本武尊が腰を掛けた「腰掛石」や同じく馬の鞍を掛けたという「鞍懸石」のほか「蟹石」などがある。

『近江名所図会』(『木曽路名所図会』)において、カニの形に似るとされる蟹石には、雄略天皇の勅使が美濃国の霊泉より持ち帰った巨蟹に、途中で水を飲まそうと居醒の清水に放った途端、石になってしまったという伝承がある。

高台の上に加茂神社。

京都の上賀茂神社と同じく賀茂別雷神(かもわけいかづちのみこと)を祀ります。

醒井の町と向こうの山々が一望できます。

居醒の清水そばに鮫島中将の歌碑。

明治28年(1895)北白川能久親王が台湾に出征した時、熱病に冒され、水がほしいと所望した。

その時、そばにつきそっていた鮫島中将は、醒井の水の冷たさを思い出し、

あらばいま 捧げまほしく 醒井の うまし真清水 ひとしずくだに

と詠むと、親王は微笑まれたということです。

北白川能久親王はこの台湾出征中に亡くなります。

東京の北の丸公園に馬にまたがる像が立っています。

醒井地蔵堂

慶長年間(1596-1615年)に大垣藩主石川家成(日向守)が病気の治癒に感謝して地蔵堂を建立した。

享和2年(1802年)の『壬戌紀行』には、腰掛石のそばに「地蔵堂たてり。

額に濃州大垣石川日向守建立也と書り」とある。

地蔵堂は何度かの再建を経た後、1889年(明治22年)に現在の宝形造の仏堂が建立され、1990年(平成2年)には大改修がなされた。

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梅雨空百景


梅雨空にハスの花って似合いますよね。

住之江公園では蓮の花が盛りです。

蓮の実は、栄養価が高く、中国や東南アジアではおしるこに入れたり、かき氷のトッピングにしたり広く食用にされているそう。

最近では日本でも少しずつ見かけるようになってきました。

ただ、実際に蓮に実がついている様子は、蜂の巣のようで、少し不気味な印象を受けるかもしれません。

ここ一週間の朝の散歩時に撮った画像、この日は太陽から光の帯が見えていました。

かと思えば、からっと晴れてみたり。

どんより曇って太陽がお月様になってしまっています。

青空なのか曇りなのかよくわからない日もあります。

いつもの住吉川沿いの散歩道。

雨の日は散歩する人も少なくなります。


送水管のハト。

卯の花が散って雪が積もったよう。

晴れなのか曇りなのか。

この日はその後晴れになりました。

梅雨の気候はわかりにくい。

散歩のときに降っていなければ取りあえず良しとしよう。

そぼ降る雨もいいけど土砂降りは嫌だな。

そろそろ梅雨明けのニュースも聞けそうだが・・・・

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夜明けの街 住吉大社


社務所に夜明けの太陽が降り注ぐ。

神々しいばかりの陽が射しています。

ただ今5時半、開門は6時、まだ少し時間がある。

この時間帯の斜光は非常に強い。

前方は神館、この時間帯も熱心な信者さんの参拝が続く。

開門です、第二本宮の屋根越しに夜明けの陽が注ぐ。

梅雨の谷間の爽やかな夜明けです。

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梅雨の街 住之江公園界隈


梅雨入りが早かったので明けるのも・・・と思うがそうはならないようだ。

静岡では大変なことになっている。

ハスも今を盛りと咲き誇っています。

住吉川が干上がっています、2か月に一度くらい水を抜いているようだ。

散歩の途中で空を見上げる、毎日おなじ陽はない。

今日は雲がきれいだ。

明けかかった空に巻雲、なかなかきれいです。 

瞬間的に赤く燃える空、つかの間の美の饗宴。

そぼ降る雨に煙る住吉川。

公園の花も雨露で重そう。

毎日変化があり散歩も楽しい。

木の根が黒光りして不気味。

雨がやんで陽が射してきた。
キラキラと光り輝く。

猫たちも餌をくれる人は良く知っている。

何処で見ているのかすぐに寄ってくる。
結構御馳走をもらっている。

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穴場の観光スポット!余呉湖あじさい園


羽衣伝説や菊石姫伝説で有名な余呉湖畔で、6月下旬から7月上旬にかけて約1万株の紫陽花(あじさい)が約600mにかけて咲き誇ります。

アジサイ園には、白や青、ピンクに紫といった様々な色の紫陽花が咲き余呉湖畔を埋め尽くします。

別名「鏡湖(きょうこ)」と呼ばれる湖の美しさと共に心を和ませてくれます。

1583年4月に羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いは余呉湖周辺が戦場となった。

余呉駅から徒歩30分。 余呉駅でレンタサイクル(1台500円)を借りて散策するのもいいですよ!

水面の標高は133メートル (132.8m) で、琵琶湖よりおよそ50メートル(約47.0m[5])高い位置にある。

琵琶湖と同じ断層湖で、形成は約100-200万年前と見られ、古い琵琶湖の一部であったものが約3万年前に分かれたとされる。

JR余呉駅に近い湖北岸には、羽衣伝説で天女が羽衣を掛けたといわれる「天女の衣掛柳」があった(2017年〈平成29年〉10月、台風により倒壊)。

日本最古の天女伝説の地といわれ、ほかの地域の羽衣伝説では、羽衣を掛けるのは松や岩などが多いが、余呉では柳といわれている。

なお、2017年(平成29年)に倒壊した柳(マルバヤナギ)は、伝説にまつわる北野神社から移植された2代目であった。

近くの訪問地

秋の紅葉めぐり 鶏足寺(旧飯福寺)
鶏足寺跡とされる寺院跡は己高山の山頂近くにある。 また、山麓の古橋地区から徒歩1 … 続きを読む →

鶏足寺の青もみじ
投稿日時: 2021年5月4日
己高庵(ここうあん)で昼食。 鶏足寺に向かう、山藤がきれいです。 沼沢地をしり目 … 続きを読む →

石道寺界隈
石道寺(しゃくどうじ)は、滋賀県長浜市にある真言宗豊山派の寺院。 山号は己高山。 … 続きを読む →

眼の地蔵菩薩 木之本地蔵院
伝承によれば、天武天皇の時代(7世紀後半)、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩 … 続きを読む →

いかごの里で糸取り見学
竹生島、葛籠尾崎を左手に見ながらバスは北國街道を北上する。 竹生島 竹生島は葛籠 … 続きを読む →

賤ヶ岳 雨の登頂
昨日からの雨はいよいよ激しく、雨具を付けての登頂です。 リフトの真下に群生のシャ … 続きを読む →

滋賀のラピュタ!土倉鉱山跡
滋賀県長浜市木ノ本町に国道303号線が通っており途中、金居原(かねいばら)と呼ば … 続きを読む →

遅かりし八重桜のトンネル 伊香具神社
伊香具神社(いかぐじんじゃ)は、滋賀県長浜市木之本町大音にある神社。 式内社(名 … 続きを読む →

今日のお昼は 人には内緒の隠れ宿
今日のお昼は何もない山里にある全6室の古民家の隠れ宿。 茅葺の母屋の奥に宿泊棟が … 続きを読む →

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滋賀のラピュタ!土倉鉱山跡


滋賀県長浜市木ノ本町に国道303号線が通っており途中、金居原(かねいばら)と呼ばれる集落がある。

少し東に移動するとすぐに岐阜県揖斐川町の県境を跨ぐことになる。

国道303号に入り八草峠を目指していると、右手に「土倉鉱山跡」の看板が目に入る。

頭上に見える橋は現国道303号線の橋梁だ。

かつて国道303号線は八草峠と呼ばれる峠を延々走り続けなければならず、狭隘、軟弱な道路を使って岐阜県と滋賀県を行き来するのはくたびれるの一言に尽きたはずである。

現国道303号線であるバイパスが完成し、八草トンネルが開通してからというもの、その利便性は飛躍的に上昇し、八草峠を通過するのに3分とかからない。

鉱山は杉野川上流で明治末期に採掘が始まった。

昭和30年代には人口が千人を数え、住宅や商店、映画館が並んだ。
しかし、海外から安価な銅が輸入され、採算が合わなくなり閉山した。

近年は散策ツアーが行われる。

閉山から半世紀を経た産業遺産と豊かな自然が、新たな地域資源として価値を見直されている。

往時はトロッコが出入りした坑道の入り口。

朽ちた人工物の隙間から木々が生える。

その姿が人気アニメ映画「天空の城ラピュタ」の舞台を思わせると、インターネット上では「滋賀のラピュタ」とも呼ばれる。

土倉鉱山は土蔵岳と呼ばれる標高1003mほどの山麓に坑道が掘られ、1907年(明治40年)に奥土倉という、現在の鉱山跡よりも若干北にある場所で鉱山が開かれた。

だがその後、度重なる豪雨被害や土砂災害などにより、拠点を南側の出口土倉に移した。

これが現在土倉鉱山跡と一般的に呼ばれている場所である。

1965年(昭和40年)に閉山し、現在では出口土倉に選鉱所跡と坑口が残されている。

採掘した岩石は建物の一番上に運ばれ、薬液の入った沈殿分離槽に入れられた。

浮かんだ銅鉱石を取り出した上で、残りを下段の槽へ運ぶということを繰り返し、残った石は建物の外へ捨てたという。

現在、あらわになっている柱のような構造物は土台で、「その上に木造の建物があった」。

集めた銅鉱石は、空中に張ったワイヤを使い、ロープウエーのようにカゴで運搬した。

「そこらの山頂に鉄塔が建っていて、(約12キロ離れた)木ノ本駅まで運んでいた」という。

「若い人? 来ますよ、なんともいえない衣装をつけて。土日は多くて20~30人くらいかな」。

選鉱場の前を通る国道303号付近には事務所や独身寮があった。

付近では積雪が4メートルに達することもあったため、山麓の小学校まで通えない子供たちのために冬季限定の「分教場」も。

麓には診療所や鉱山会社の幹部が住む一戸建ての社宅があったという。

なお、奥へと歩を進める。

伊吹山地の横山岳と土蔵岳のはざまに位置する杉野川源流部の森にはトチノキやサワグルミの巨木が並ぶほか、さまざまな草も生え、豊かな植生をとどめる。

現在は鉄柵で封鎖されている坑道への入り口。

かつてトロッコが走ったレールが見える。

坑道入口を封印する鉄格子は真ん中が鍵付きの扉となっていて、鉱山関係者が点検をする際に使用すると思われる。

中は水があふれ、右端からは鉱水が勢い良く流れ出して暗渠を通し杉野川へ注がれていた。

かつて愛媛県新居浜市の別子銅山跡を訪問したことがある。
土倉鉱山跡よも遥かに大規模で観光地として再開発され、「東洋のマチュピチュ」とよばれ、多くの観光客を集めている。

東洋のマチュピチュ 別子銅山 東平ゾーン
標高750mの山中にある東平(とうなる)は、大正5年から昭和5年までの間、別子鉱 … 続きを読む →

マイントピア別子 端出場(はでば)ゾーン
愛媛県新居浜市の別子銅山は、住友財閥の基礎を作ったことで知られ日本三大銅山(あと … 続きを読む →

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今日のお昼は 人には内緒の隠れ宿


今日のお昼は何もない山里にある全6室の古民家の隠れ宿。

茅葺の母屋の奥に宿泊棟が見え、更にその奥にも、もう一棟の宿泊棟があります。

観光地でもないこの様な山間部の片田舎で、どうして宿を270年程も続けられるのか不思議。

杉野集落を流れる杉野川の源流辺りから、美濃国境の八草峠を経て、揖斐川源流坂内川流域に通じる道を通って、古くからの通婚や経済的交流があった。

今は国道303号線となっている道である。

この道をとおる旅人相手の宿だったのだろう。

1770年代の書状が残っているので、その頃にはもう宿としの営みがあったと思われる。

炭や薬などを運ぶ商人達の宿として重宝がられていたのでしょう。

かってこの長治庵の前を通っていた国道303号線は、今はバイパスとして杉野川を隔てた南側を通り、集落内の道は車も殆ど通らない静かな道となっている。

がっしりした骨組みが見えています、年代を感じさせます。

山菜料理中心のお昼、フキ、ミョウガ、ワラビ・・・懐かしい素材のオンパレード。

マスの竹皮蒸し、「骨まで全部食べられます」とのこと。中を見てみると・・

しっかり蒸されています。
頭も骨も尻尾も、キレイにいただきました。

鹿肉ポン酢、鹿・・・美味しい!想像以上にやわらかい。

久しぶりに田舎を思い出し感激!!

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いかごの里で糸取り見学


竹生島、葛籠尾崎を左手に見ながらバスは北國街道を北上する。
竹生島
竹生島は葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大き … 続きを読む →

隠れ里菅浦集落と奥琵琶湖桜並木
琵琶湖の北端は「奥琵琶湖」と呼ばれ、湖岸まで山がせり出しているその地形は、北欧の … 続きを読む →


西野水道(にしのすいどう)

滋賀県指定文化財。

西野水道(にしのずいどう)は、西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mの排水用の岩穴です。

今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業です。

能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけてノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴です。

清水(しょうず)

大音・西山地区で糸取りが今も続けられている理由の一つに”水“があるとされる。

糸や織りに関する諸作業には多くの良質な水が必要で、水の良し悪しが大いに影響する。

この地区は、賎ケ岳に続く背後の峰々を水源とする湧水が豊富である。

大音も西山も昔からこの湧井戸の水を竹樋によって作業場へ誘導し使ってきた。

湧水は鉄分を含まないため、白く仕上がるとされる。
水で色の出方が違うとされてきた。

これら地区には“清水”と呼ばれる池が多く点在し利用されてきたが、昨今の道路工事などで湧出が止まり今では数カ所残すのみとなった。

大音軍治

「旧家・大音軍治」宅があります。

ここは大音唯一の武家屋敷であり、祖先は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉軍の武将として仕え果敢な活躍をしたと伝えられています。

江戸時代には柳ケ瀬の関所の奉行を務めた、とあります。

三味線・琴糸の生産地である木之本町大音地区では古くから生糸生産の技術が伝わりました。

近世以降では大規模な工場も設立され、昭和初期には最盛期を迎えました。

近年では衰退してしまいましたが、毎年梅雨の時期になると工房では生糸の生産が行われます。

資料館では糸とりの技術の紹介や道具の展示をしています。

賤ヶ岳 雨の登頂
昨日からの雨はいよいよ激しく、雨具を付けての登頂です。 リフトの真下に群生のシャ … 続きを読む →

余呉湖への径。

余呉湖には湖の琴」という水上勉作の悲しい物語があります。

糸取りは江戸時代から受け継がれてきた。

糸は高品質で知られ、国の選定保存技術でもある。

戦前は七十軒ほどの工房があり、「琴糸の里」として水上勉の小説「湖の琴」(一九六六年)の舞台にもなった。
 
しかし安価なナイロン糸が普及したほか、梅雨時だけの仕事のため、サラリーマン化で担い手の確保が難しくなり衰退していった。

現在、糸取り職人は七人でほとんどが六十代。後継者育成が長年の課題だ。

糸取りは、藁(わら)の箒(ほうき)を繭(まゆ)を下から上へとさすって糸口を辿ります。

その糸の端を25本ぐらいの合わせ、糸によりをかけて生糸にし、後方の”こわく”で巻き取ります。

85度くらいの熱湯が入った釜の中で作業するから、湯気でびっしょりとなるとの事でした。

釜のお湯は昔は炭やガスで一定の温度に保っていましたが、IHクッキングヒーターで沸かしています。

でも、木枠の回転には電力を使わず、昔ながらの足踏みミシンのように足で回転させていました。

その方がいつでも回転速度の調整や停止がしやすいように感じられました。

この生糸を一定の太さに保つように時々糸を足さなければなりません。

この糸を足す作業は熟練を要し、一本の糸を両手で引っ張って、メガネの所に近づけて切って絡ませる。

この作業は一瞬の出来事ですから、眼を凝らして観ていないとわからない。

“糸取りの実演”を訪問された時はぜひこの”匠の技”を肌で感じて観て欲しいと思います。

残念ながら早すぎてお写真では撮れませんでした。

皆さん、蚕一匹の呼び方はご存知ですか?

なんと牛や馬のように1頭、2頭と数えるのだそうです。

大音の糸取りの歴史は古く、平安時代の昌泰二年(899年)、伊香厚行が、伊香具神社境内にある湧水で繭を煮て生糸を作り、都で大変な評判になったと文献に伝えられています。

遅かりし八重桜のトンネル 伊香具神社
伊香具神社(いかぐじんじゃ)は、滋賀県長浜市木之本町大音にある神社。 式内社(名 … 続きを読む →


4代目の佃三恵子さん。

琵琶湖湖北地方の大音(おおと)は、昔から養蚕業や製糸業が盛んでしたが、戦後、化学繊維の普及により衰退し、佃三恵子さんの工房がだけが残りました。

実演等で伝統技術の伝承活動が認められ、2018年秋の褒章に黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を受賞しました。

糸取りは、「だるま」と呼ばれる糸取り機で行います。

まず、85度くらいの熱湯が入った釜の中に、水に浸しておいた繭を入れ、稲で作ったお手製の糸箒で、糸口を辿ります。

(事件の糸口をたどる、という慣用句はここから生まれたのでしょうか。)

そこから、約20個分の繭から手繰り寄せた糸を「メガネ」と呼ばれる小さな穴に入れます。

そして上の方の「小車」と呼ばれる滑車までの間に、一本の太い糸になるように腕で摩って糸によりをかけます。

一本の糸に変わると、後方の「こわく」と呼ばれる道具に糸が巻き取られていきます。

その間、糸を出し切った繭を釜から取り除いていきます。

この作業を繰り返し、繰り返し、生糸がつくられていきます。

今は、釜のお湯はIHクッキングヒーターで沸かしていますが、昔は炭、そのあとはガス。

巻き取られた糸は、木ノ本駅側にある「丸三ハシモト株式会社」で邦楽器用の糸に加工されます。

丸三ハシモトさんでは、加工の見学もさせていただけるそうです。

繭一個の糸の長さは、1200~1400m 生糸一本に繭15~16個必要、琴糸一本に繭250個要すとされる。

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