admin の紹介

木村康雄 大阪在住 写真家

夏も近づく6月 伊吹山へ


古くから神が宿る山として信仰の対象であった。

室町時代後期には織田信長により、山上に野草園が造られたとされている。

岐阜県関ケ原町から東尾根を登って9合目まで至る有料道路で、9合目には500台以上を収容できる駐車場のほか、展望設備や飲食店、売店を営業している。

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明治以降に近代登山の対象となった。

大正には中山再次郎により、関西におけるスキーの山として注目されるようになった。

1964年(昭和39年)に深田久弥により日本百名山に選定されると、百名山ブームもあり全国的に登山対象の山として知名度も高まった。

1965年(昭和40年)に伊吹山ドライブウェイが開通すると、9合目まで容易に上がれるようになり山頂部は観光地化した。

伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、『古事記』では「牛のような大きな白猪」、『日本書紀』では「大蛇」とされていた。

『古事記』にはヤマトタケルがこの伊吹大明神と戦って敗れる物語がある。

伊吹山の神に苦しめられて敗れたヤマトタケルは病に冒されて山を下り、居醒の泉(米原市醒井の平成の名水百選の1つに選定されている「居醒の清水」)で少し回復したものの、のちに悪化して亡くなったとする伝説が伝えられている。

梅雨期の醒ヶ井宿
醒井宿は、近江国坂田郡にあった中山道(中山道六十九次)61番目の宿場であり、現在 … 続きを読む →

『古事記』『日本書紀』に、ヤマトタケルノミコトが東国征伐の帰りに、伊吹山の神が白い猪の姿であらわれた。

その猪が氷雨(雹)を吐くと、ヤマトタケルは前後不覚におちいった。

やっとの思いで山をおり、「玉倉部(たまくらべ)の清水」に到って休憩すると、気分が回復してきた。

山頂部にはその日本武尊の石像と、伊吹山の神の白猪の像が設置されている。

登山しやすい山と言われていますが、登山道では、大きい岩が露出していたり、石がゴロゴロしていて歩きづらい箇所もありますので登山に適した靴や服装に心がけてください。

表登山道の三合目西側の「高屋」と呼ばれる場所はヤマトタケルが山の神に出会った場所とされていて、大正時代に石の祠が建立されその中に木造の日本武尊が祀られた。

画像 雪渓が見られます、さすが伊吹。

山頂周辺には高山植物を含む野草群落が花畑として保護されており、夏季には色とりどりのお花畑となる。

しかし、近年、鹿の食害により草花が激減、往時の姿はない。
2013年の訪問記雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →

伊吹山ドライブウェイ終点の駐車場からは遊歩道が整備されている。

遊歩道は3本が整備されていて、20分ないし40分程度で山頂に到達できる。

伊吹山山頂より南西を望む。

山頂の伊吹山寺山頂本堂、その左に伊吹山之神「白猪」の像。

山頂には5軒の売店が営業していて、季節によっては一部の店が日中の売店営業だけでなく夜間登山の仮眠所(収容人数350人)として開いている。

山頂部にはその日本武尊の石像が。

伊吹山の西側では滋賀鉱産(株)伊吹鉱山によって石灰岩の採掘が行われています。

2003年3月までは住友大阪セメント(株)伊吹鉱山として、セメント向けを中心に採掘が行われていましたが、現在は骨材、路盤材向けに採掘が行われています。

この石灰岩鉱山の部分は,この付近の地層ができあがって以降の断層運動による破砕が認められ,古くからの崩壊地となっています。

鉱山の初期は崩壊地の下でこの崩壊物だけを採っていました。

現在はこの崩壊地の上部を採掘しており、最終的には急傾斜の破砕を受けた石灰岩や石灰岩の崩壊物を採掘して安定した山腹になる計画です。

緑化も採掘地だけでなく、崩壊地に対しても行われています。

下山は中央登山道を通れば20分ほどで9合目まで。

中央登山道はほとんどが木の階段で歩きやすい。

イヌワシハンター達は、カードレールの外側に入り断崖絶壁の足場の悪いところスレスレに三脚を立てて切り立っている崖の下を飛ぶイヌワシを上から撮るという理想的な撮影が出来るが、足が竦んでしまい尻込みを感じ崖の下が見えるところまではなかなか行けない

(崖から1m位離れる)が、崖スレスレに飛ぶことがあるそうで飛んでも何も見えないことがあると地元の人達が教えてくれた。

湖北野鳥センター
湖北野鳥センターには、「冬の三大スター」のオオワシ、オオヒシクイ(いずれも国の天 … 続きを読む →


伊吹山 バイクツーリング登山。

恋慕観音像様に「恋愛成就のお祈り」。

お花畑をめぐる西遊歩道からの山頂部。

観音様の足元のチェーンには伊吹山ハートロックキーがズラリ!

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大阪市内 西東


大阪市内を歩き回った一日でした。

JR大阪駅西側エリア、高層ビル街がまた変わろうとしています。

旧大阪中央郵便局跡地の再開発、「梅田3丁目計画(仮称)」だ。

陽を受けて輝くビルが美しい。

正式名称「壁抜け猫」、作者は松永真さん、ブリーゼブリーゼの奇抜な策。

高級レストランの予約は、一休.comレストランで・・・。
The 33 Tea & Bar Terrace
ダイニングカフェ&バー

NYペントハウスで過ごすHigh&Roughなカフェ&バー
33階からの眺望を眺めながら
お昼は陽光に溢れ、夜には大阪・梅田の煌めく夜景を前に、肩ひじ張らず自然なスタイルで“良いもの”を提供する気軽でオシャレな空間は、大阪で唯一無二なカフェ&バー。


場所の目安には役に立ちます。

超高層ビルのコンクリートジャングルの中で、怪しい路地へ誘われいつしかタイムスリップしたかのような心境。

その名も「浪漫倶楽部」

まさにロマンチック!

富士フイルムフォトサロン 大阪、地下からヤマボウシが・・・・

今日は小林 修 写真展、司馬遼太郎『街道をゆく』の視点 歩いた風土、見抜いた時代を見に来た。

司馬遼太郎の作品世界を写真で表現し続けているカメラマン小林氏が長年にわたり撮り重ねてきた膨大な写真群の中から「街道をゆく」をテーマに厳選した約90点が展示されている。

靭公園、総面積約9.7ha、東西約800m、南北約150mの細長い形をしており、中央を南北に通るなにわ筋によって東園と西園に分かれています。

みずみずしい新緑の春のケヤキ並木、都心の公園とは思えないほど閑静なたたずまいです。

バラ園

約9,000平方メートルの園内には、170品種3,400株のバラが、春から秋にかけて色とりどりの花を咲かせ、訪れる人の目を楽しませてくれます。

しかし、そのバラ園も多くのテント軍に占領されています。

長いコロナの束縛から解かれ、皆、自由を謳歌しています。

朝の街 靭公園
四季に彩られるケヤキ並木、朝の清々しい空気を吸って散策します。 平成16年にリニ … 続きを読む →

過去の訪問記です、おしゃれなカフェや雑貨店も多く、人ごみが苦手な方にも、もってこい!

ゆっくりと散策が楽しめます。

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藤田邸跡公園


藤田邸跡公園は、大川左岸の大阪市都島区網島町に位置する都市公園。

北に隣接している桜之宮公園の一部となっている。
敷地面積は約16000平方メートル。

画像は南出入口(旧藤田邸表門)

北は桜之宮公園、西は大川、南は大阪市公館、南東は藤田美術館、東は太閤園に隣接している。

元は藤田財閥の総帥である藤田男爵家の敷地の一部である。
大阪市から名勝に指定されており、立派な日本庭園がある。
春は桜の名所ともなっている。

無料の公園ではあるが、開園時間が決まっており午前10時から午後4時までとなっている。

後に藤田財閥となる藤田組の総帥、藤田伝三郎が大川の左岸、網島の地にあった日本郵船会社大阪支店長屋敷を1886年(明治19年)に買い取って移り住み、さらに前年の明治十八年の淀川洪水で荒廃していた大長寺(後に移転)の敷地を1887年(明治20年)頃に取得。1893年(明治26年)から1896年(明治29年)にかけて旧本邸を完成させる。

尚、大長寺は近松門左衛門の人形浄瑠璃、「心中天網島」の舞台である。

大長寺は近松門左衛門の『心中天網島』で小春・治兵衛が心中した場所である。

この時大長寺は現在地の北に300mほどの都島区中野町2丁目に移転し、小春・治兵衛を供養する比翼塚も同時に移転したのである。

したがって、本来の『心中天網島』の舞台は藤田美術館ならびに藤田邸跡公園である。

1910年(明治43年)から1916年(大正5年)にかけて、約53,000平方メートルの敷地内に新本館、西邸、次男徳次郎の為の東邸を今井平七らが棟梁となってこれを完成させ、「網島御殿」や「あかがね御殿」などと称される。

この時、他にも京都大学の日比忠彦が設計した当時はまだ珍しかった鉄筋コンクリート造りの蔵の他、本邸、西邸、東邸にそれぞれ十数もの茶室を設けるなど様々な建物を建築していった。

その際、1916年(大正5年)には長男の平太郎が和歌山県高野山の光台院から檜皮葺の多宝塔を移築(光台院には全く同型のものを新築して寄進)し、それを銅板葺に改めた他、梅園梅叟(ばいえんばいそう)を庭師として豪華な日本庭園を完成させた。

その間の1912年(明治45年)には男爵となった伝三郎が死去し、家長・男爵・財閥総帥の座と敷地の大半、そして本邸は長男の平太郎が相続し、東邸は次男の徳次郎、西邸は三男の彦三郎がそれぞれ貰い受けた。

そして、1943年(昭和18年)には西邸は大阪市の所有となり、市立実業会館として使用される。

しかし、1945年(昭和20年)6月7日の第3回大阪大空襲により表門・東邸・鉄筋コンクリート造りの蔵・多宝塔などいくつかの建物を残して他はほとんどが焼失した。
戦後、その敷地は分割された。

藤田邸の敷地は伝三郎の死後子息達にそれぞれ相続されたが、次男の徳次郎が受け継いだ東邸を中心とする東部が太閤園の直接の母体となった。

東邸を中心とする東部は1959年(昭和34年)に、藤田観光が東邸を「淀川邸」と称し、多数の建物をも新たに建築し、結婚式等を行うことができる料亭・会場太閤園として開業。

2021年(令和3年)2月12日、藤田観光はコロナ禍で業績が悪化し、債務超過寸前にまで陥ったことを受けて、財務体質の改善を図るため、太閤園を「国内法人」に売却し、営業を同年6月30日に終了することを取締役会で決定し、売却先の「国内法人」との間で売却契約を締結したと発表した。

売却による特別利益は2021年第一四半期(1月~3月期)決算で329億円の見込み。

藤田観光のプレスリリースによると、「譲渡先の候補が複数あり、最も良い条件を提示した先に対し譲渡し、価格や譲渡先の詳細については譲渡先からの要請により」公表しないことになっていたが、同年4月2日に朝日新聞デジタルなどが「太閤園の売却先は創価学会で、3月22日に所有権の移転が完了した」と報じた。

なお、太閤園は営業終了までの間、藤田観光が賃借していた。

取得時点では用途は不明だったが、創価学会は取得報道直後の4月18日に開催した第3回本部幹部会で2030年の学会創立100周年記念事業として「関西池田記念大講堂」を建設することを発表し、4月21日付けの創価学会機関紙・聖教新聞で正式に公表した。

表門を含めて長らく放置されていた日本庭園を中心とする北西部だが、やがて大阪市が入手。

この真下の地下を走ることとなるJR東西線とその駅となる大阪城北詰駅の新設工事の際に資材置き場等に使用され、その後きれいに整備。JR東西線開通後となる2003年(平成15年)12月19日に「旧藤田邸庭園」として大阪市から名勝の指定を受けた。2

004年(平成16年)に藤田邸跡公園として桜之宮公園の一部となって新たに開園した。

西邸を中心とする南部は昭和18年に大阪市の手に渡り市立実業会館として使用するが空襲で焼失。

1959年(昭和34年)に大阪市が迎賓館を建築して整備し、大阪市長公館をへて大阪市公館となった。

2014年(平成26年)からはレストラン・ブライダル施設「ザ・ガーデンオリエンタル大阪」として営業している。

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リニューアルオープンの藤田美術館


2022年4月1日にリニューアルオープンした藤田美術館。

同館は、明治維新後に起きた文化財(仏教美術品など)の海外流出を莫大な私費を投じて防いだ大阪財界の重鎮で実業家の藤田傳三郎(1841年~1912年)とその息子達(平太郎、徳次郎)により築かれたコレクションを軸に1954年に開館。

国宝9件、重要文化財53件を含む約2000件のコレクションを所蔵しており、瑠璃色に輝く国宝「曜変天目茶碗」(国宝指定された3碗のうちのひとつ)を保有する館として、ご存じの方も多いのではないだろうか?

画像は展示室の入り口、蔵の重厚な扉です。

オープンスペースに簡易的なお茶室も設けられています。

実業家で男爵であった藤田伝三郎(旧字:傳三郎、1841年 – 1912年)、その長男の藤田平太郎(1869年 – 1940年)、伝三郎の二男の藤田徳次郎(1880年 – 1935年)のコレクションを展示している。

画像は[千 宗屋さんが観たかった作品]交趾大亀香合(こうちおおがめこうごう)

中国・福建省の漳州窯付近で焼かれたと考えられる香合で、藤田傳三郎最後の蒐集品としても知られます。

戦後間もなく日本銀行に担保として押えられていたが、藤田鉱業常務の小川栄一によって散逸を免れる。

画像は国司茄子茶入れ
鎌倉時代(13世紀)以降、室町時代初め頃(14世紀)には日本にもたらされたと考えられます。

1951年(昭和26年)財団法人藤田美術館として法人化、美術館の開館は1954年(昭和29年)5月であった。
なお2013年(平成25年)10月、公益財団法人に移行した。

画像は斗々屋破茶碗

朝鮮半島で作られました。本来の用途とは異なりますが、日本では抹茶茶碗として使われました。

藤田伝三郎は、西南戦争で巨利を得、「藤田組」を設立した、明治時代の関西財界の重鎮であった。

画像は青磁鳳凰耳花入

中国・浙江省龍泉窯で製作されたと考えられる花入です。
鳳凰耳や口縁部が破れ金継されていましたが、この度、修理を行い、往時の美しい姿が蘇りました。

骨董収集の面でも関西第一と言われ、その豪快な買いっぷりは伝説化している。

画像は古瀬戸肩衝茶入 銘 在中庵

瀬戸で作られた、肩に丸みをもたせた茶入です。

胴全体に轆轤目(ろくろめ)が残り、濃い茶色の地に黒の斑紋があらわれています。

小堀遠州(1579~1647)が終生愛用したもののひとつです。

伝三郎の没後、昭和初期に藤田家蔵品の売り立てが3回行われ、この時売却された蔵品には、現在各地の美術館に納まっている名品が目白押しであった。

画像は砧青磁袴腰香炉 銘 香雪

ふっくらとした胴から三本足が伸び、袴をつけた姿に似ることから袴腰の名で知られます。
13世紀頃に中国・浙江省の龍泉窯でよく焼かれた器形で、日本では香炉として用いられてきました。

藤田美術館の所在地は、多くの蔵が並んでいた藤田家本邸(網島御殿)の跡地である。

大工棟梁・今井平七の指揮のもと建てられた藤田邸は明治末期の建設時、関西で最大級の和風邸宅であった。

画像は唐物肩衝茶入 銘 盧庵

邸宅内には30を越す茶室があった。

敷地内には、本邸、西邸、東邸とあったが、東邸(現在の太閤園・淀川邸)と本邸の表門(現:藤田邸跡公園南出入口の門)と多数の蔵、そして和歌山県高野山の光台院から移築して新たに銅板葺にした多宝塔を除き、1945年(昭和20年)6月7日の第3回大阪大空襲により全て焼失。

画像は利休茶杓 銘 藤の裏葉/東方朔

節が高く持ち上がる蟻腰で、樋が一本通る典型的な利休茶杓です。
全体に薄く漆が塗られ、光沢のある落ち着いた姿をしています。

筒に江月宗玩(1574~1643)が記した由来から、利休が秀吉へ献上し、のちに里村紹巴(1525~1602)が拝領したことがわかります。

千宗旦(1578~1658)による追筒が添えられています。

藤田家本邸は、1912年(明治45年)に当地にあった大長寺の敷地を明治十八年の淀川洪水後に買収して建てられた。

画像は茶杓 茶瓢

中国で作られた象牙の茶匙を原型とした茶杓です。

節でくびれて上下がふくらみ、匙と柄とが分かれた姿が瓢箪型に見えることから、茶瓢と呼ばれています。

作者の村田珠光(1423~1502)は室町時代の茶人で、「わび茶」の創始者として知られます。

美術館正門(現在の藤田邸跡公園のゲート)は当時の山門がそのまま残っているとされるが、実際は違う(大長寺は北に300mほどの場所に移転した)。

画像は[国宝] 曜変天目茶碗

中国・福建省の建窯で焼成されたと考えられる茶碗で、碗の内外に青や緑に光る曜変と呼ばれる斑紋がみられます。

曜変天目の典型例は世界に4碗しか現存せず、いずれも日本にあり国宝もしくは重要文化財に指定されています。

この茶碗は徳川家康から水戸徳川家に伝わりましたが、大正7年(一九一八)に行われた同家の売立で藤田平太郎が落札しました。

大長寺は近松門左衛門の『心中天網島』で小春・治兵衛が心中した場所である。

画像は[重文] 渓西広沢墨蹟 偈語

禅僧渓西広沢(生没年不詳)が、日本から禅を学ぶために留学していた白雲慧暁(1228~1294)の人となりを雲に例えた偈です。本文は七言詩で、一段下げてなお5行書き継がれています。末尾に咸淳己巳上元後二日書とあり、1269年正月17日に記されたことが分かります。白雲は帰国後、東福寺四世となりました。

この時大長寺は現在地の北に300mほどの都島区中野町2丁目に移転し、小春・治兵衛を供養する比翼塚も同時に移転したのである。

画像は[重文] 別山祖智墨蹟 法語

別山祖智は中国・南宋時代に活躍した僧侶です。
別山が太白山の天童寺に赴く際に従蔵主という人物にこの墨蹟を与えました。

最後の行にある「姑蘇万寿」とは径山万寿寺のことで、書かれた場所を示しています。

法語とは仏道の修行について教え示す言葉のことです。
なお、別山祖智の遺墨は数が少なく、極めて稀なものです。

したがって、本来の『心中天網島』の舞台は藤田美術館ならびに藤田邸跡公園である。

画像は[重文] 物初大観墨蹟 山隠語

中国・南宋時代の禅僧、物初大観が絹に書いた散文です。

全10行のうち、1行目に題名、2行目から8行目の途中までが本文、それ以降が署名です。

「山隠」とは山林に入って隠棲すること。

何年修行をしても秋雲秋月のような心境には至らないといった内容が記されています。

展示室を出ると、エントランスとは逆側(北側)のホワイエのような空間に出る。
展示室を見た後に、こういうふわっとした空間があるのは珍しい。

展示室内が暗いので、明るい光に包まれたこの空間に出ると、深呼吸したくなる清々しさ。

西側のガラス開口からは多宝塔(高野山から移築したもの)が見えて、庭に吸い込まれるよう。

新しく建築された伝統数寄屋建築の茶室「光雪庵」は美術館の西側に隣接しています。

かって存在した「会庵」の平面を基に再構築し、藤田家席名と部材を旧美術館の茶室から引き継いでいます。

すぐそばにある多宝塔は元高野山光台院にあり、1916年に藤田伝三郎が移築したものです。塔の築年代は室町時代まで遡れるとされています。

南からの眺めです。

周りには東大寺のつくばいや飛鳥時代の礎石などを配置し、回遊しながら歴史に親しむことができます。

美術館の庭と藤田邸公園も一体化され、ひとつの庭園として、大変良い雰囲気で多くの方が散策されていました。

藤田邸跡の庭園は、現在は藤田邸跡公園となっている。
園内に滝を配置するなど特徴のある庭園である。

この庭園は戦後放置され鬱蒼とした森となっていたのを、JR東西線建設工事時に建設基地として使われるために木が伐採され、東西線開業後に大阪市によって公園として整備されたものである。

藤田邸跡公園は、隣接する桜之宮公園とは異なり、夕方以降は閉門され、夜間は入園することができない。

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八坂界隈


建仁寺から人通りの少ない道をトコトコ、八坂の塔、寺の正式名は法観寺です。

八坂神社と清水寺の中間に位置しており、「八坂の塔」という呼称で余りにも有名なので、正式名はあまり知られていないようです。

八坂通りの【奇妙な】画廊

この不思議な人間の体のパーツをモチーフにした作品の数々

危ないからどうぞ近寄らないでおくれやす。

そして写真撮る時は100円と書かれてます。

三本の和傘が象徴的な二寧坂入口。

西暦807年より坂が整備されて約1200年の歴史がある坂。

大正時代に現在のように整備され、近年、電線が地中化。
大正の香りを遺す風情ある道として、フォトスポットとしても人気のスポットです。

画家・詩人の竹久夢二がこの近くに住まいしたことでも知られています。

yahooで「竜馬葬送の道」で検索してみてください。

わがブログが2編検索にかかります。

明治維新の舞台!創業143年の老舗料亭「京大和」

故司馬遼太郎さんはこの料亭をよく使われていたそうです。

前方に大雲院祇園閣。

別名銅閣寺とも呼ばれる中々異色な建築。

1928年(昭和3年)に建築された3階建ての建物で、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部。

屋根は銅板葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったため。

祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太。
元からこの地にあるもので、1972年の大雲院の移転により伽藍の一部となった。

寺内は通常は非公開であるが数年おきに期間を限って公開され、公開の際は祇園閣に登ることや、墓地の石川五右衛門墓所や織田信長らの慰霊碑の参拝もできる。
書院の内部公開は行われない。

大雲院特別公開
天正15年(1587年)、正親町天皇の勅命を受けるという形で、貞安(じょうあん) … 続きを読む →


狭い路地に入ると、路面には石畳が敷き詰められ、両側には町屋が並び、京都らしい風情を楽しむことができます。

路に敷き詰められた石畳の一部は、廃止された京都市電の敷石を移設したそうです。

町屋の石垣がまるで石塀のように見えることから「石塀小路」と呼ばれるようになりました。

石塀小路といえば山村美紗を思い出す。

国内におけるミステリー界の女王やトリックの女王と呼ばれ、日本のアガサ・クリスティとも讃えられた。

今は故人の彼女の住まいはこの近くにある。

石塀小路の歴史は浅く、明治末期から大正初期にかけてお茶屋の貸家が軒を連ねていました。

現在は、旅館や料亭、庭園が美しい喫茶店などが立ち並び、祇園の奥座敷の位置づけにあります。

路は曲がりくねって、袋小路のように思えますが、高台寺通り(ねねの道)へと通り抜けることが出来ます。(逆方向の散策もOK) 

なお、「石塀小路」には2箇所ほど行き止まりがありますが、基本的には高台寺道と下河原通をショートカットする小路。

こういった小路のことを京都では辻子または図子(両者とも「ずし」と読む)といい、行き止まりの小路を路地(ろうじ)と呼びます。

京都ならではの呼び名を少し学んでから「石塀小路」を訪問すると、またひとつ違ったものが見えてくるかもしれません。

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建仁寺


開山堂は建仁寺開山・栄西禅師の入定塔(墓所)。

客殿(方丈)・経蔵・開山塔・楼門(宝陀門・宝陀閣)があります。

また苔むした庭には栄西禅師お手植えの菩提樹があります。

明治時代中期に再建されたとも言われています。

三門は八脚門です。

望闕楼(ぼうけつろう)とも言われています。

望闕楼とは御所を望む楼閣を意味します。

江戸時代末期に静岡・安寧寺(あんねいじ)に建立され、1923年(大正12年)に移されました。
なお三門は本瓦葺です。

勅使門は平清盛(たいらのきよもり)の嫡男・平重盛(たいらのしげもり)の六波羅(ろくはら)邸の門を移したとも、平教盛(たいらののりもり)の館の門を室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))後に移したとも言われています。

鎌倉時代後期(1275年~1332年)に建立されました。
なお勅使門は銅板葺です。

戦乱の矢の痕があり、矢の根門(やのねもん)・矢立門 (やたちもん) とも言われています。

建仁寺織田信長供養塔は庭園・大雄苑に建立されている七重石塔。

織田信長供養塔はかつて1582年(天正10年)に織田信長の弟・織田有楽斎が兄・織田信長追善の為に建立した十三重石塔だったと言われています。

江戸時代に開山塔の南の溝の底に隠されていたとも言われているが、1898年(明治31年)に現在の場所に移されたとも言われています。

3つの石を2つと1つに分けた石の配置、その廻りの白砂が作り出す「間」

大雄苑は1940年(昭和15年)に植熊(うえくま)三代目・加藤熊吉(かとうくまきち)が作庭した枯山水式庭園。

大雄苑は中国江西省奉新県の百丈山(ひゃくじょうざん)の眺めを模し、百丈山の別名・大雄山から大雄苑と名付けられました。

ちなみに百丈山は奈良時代後期に当たる784年(興元元年)に百丈懐海(ひゃくじょうえかい)が入山し、百丈寺(郷導庵)を創建し、黄檗希運(おうばくきうん)らが参禅すると最初の独立の禅宗寺院になりました。

こちらは、方丈から南方向に広がる庭、「大雄苑」を見たところ。

正面の唐門の向こうに聳えるのが、天井画「双龍図」が描かれている建物、「法堂」。

枯山水様式の「大雄苑」(だいおうえん)は、昭和15年(1940年)に、昭和の天才作庭家「植熊」 の三代目・加藤熊吉により作庭されたもので、中国の百丈山の眺めを模して造られたと言われています。

潮音庭は四面正面の枯山水式庭園。

潮音庭には法堂の三尊仏に見立てた三尊石があります。

三尊石の東側には座禅石を据えている。

座禅石の周辺に尾は小石を散らしているあたりに非凡な美的意識を感じる。

○△ロ乃庭は2006年(平成18年)に作庭されました。

○△ロ乃庭は臨済宗古月派の禅僧で、画家・仙がい義梵(せんがいぎぼん)の「○△ロ」の掛軸から名付けられました。

単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)水(○)火(△)で象徴したものとも言われる。

方丈の北側に配置された「納骨堂」。

直線的な模様の白川砂の庭を横切るように、踏み石を雁行させながら配置しています。

方丈の「竹林の七賢図」は16世紀の画家・海北友松筆の筆によるもの。

一番右の人物は、巻物を見ながら語り合っている2名と少し離れて、ちょっといじけた様子・・・

近世初期の建仁寺復興にからんで海北友松が制作した日本を代表する水墨画群、重要文化財「建仁寺丈障壁画」五十面のうち礼の間を飾る八面の襖絵。

建仁寺方丈に招かれた客が最初に通される礼の間に於いて、北面には咆哮とともに雲間から出現する龍が、西面には待ち構えるように睨みをきかす龍が、それぞれに雲を従えながら圧倒的な迫力をもって描かれている。

近世以来武門・禅門に特に好まれた龍を画題として、力量の試される大画面に余すことなく描きあげた本作品は、海北友松の得意とする水墨の龍の中でも随一の作品と言える。

過去の建仁寺訪問記。

春の一日 建仁寺
京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。 山号を東山(とうざん)と号する。 … 続きを読む →

「けんねんさん」こと建仁寺
建仁寺は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。 山号を東山(とう … 続きを読む →

臨済宗建仁寺
建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。 山 … 続きを読む →

紅葉2015 本当のフィナーレは建仁寺 潮音庭?!
京の紅葉の最終は建仁寺 潮音庭という説もある。 建仁寺(けんにんじ)は、臨済宗建 … 続きを読む →

茶祖 栄西禅師 建仁寺
今の中国、宋の国に渡り、日本に初めてお茶を持ち込んだのが臨済宗の開祖栄西禅師。 … 続きを読む →


寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。

なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。

法堂の天井いっぱいに阿吽の口をした2匹の龍が描かれる。

阿形の龍は手に玉をつかむ。仏法守護として、また水の神として仏法の教えの雨(法雨)を降らせるたとえから、禅宗の法堂に描かれることが多い。

建仁寺法堂は古くより龍は描かれず素木(しらき)とされてきたが、1年10ヶ月の歳月を経て、建仁寺創建800年を記念して平成14年(2002)4月に小泉淳作画伯の筆により完成したものである。

風神雷神図は見逃せない国宝です。

風神雷神図は珍しい二曲一双屏風(にきょくいっそうびょうぶ)で、左に雷神・右に風神がダイナミックに描かれています。

風神雷神図は元々豪商・打它公軌(うだきんのり)が妙光寺(みょうこうじ)の再興を記念し、絵師・俵屋宗達(たわらやそうたつ)に製作を依頼したものです。

風神雷神図は江戸時代前期の1639年(寛永16年)頃に妙光寺に奉納されたが、その後妙光寺から寄贈されました。

なお風神雷神図は現在京都国立博物館に寄託され、見られるのは複製の屏風と陶板です。風神雷神図は里帰りすると雷鳴が響くとも言われています。

風神雷神図は俵屋宗達の真筆とされているが、俵屋宗達の印章(いんしょう)・落款(らっかん)はどこにもないそうです。

『対馬行列興』

臨済宗大本山 建仁寺 長崎県対馬「以酊庵」とのつながり

朝鮮通信、対馬藩宗家が起こした国書偽造の柳川一件以来対馬の外交(文書)は、漢籍にあかるい京都五山とその子院の高僧が輪番で担うようになる。

その高僧を対馬の以酊庵までお連れしたのがこの輿。

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住吉川早朝散歩


久し振りの早朝散歩、季節は早くも初夏を迎えようとしている。
センダンの木も花芽を付けている。

散歩中のカメさんと遭遇、首をす込めて警戒のポーズ。

5時22分、太陽がのぞく。

対岸の建物に陽があたる。

歩道にも斜光が届きだす。

暦の上では立夏も過ぎ、もう初夏だ。

散策の足元にも斜光が射し込む。

陽に照らされたグリーンがきれいです。

太陽もだいぶ高度を上げてきた、そろそろ帰って食事にしよう。

ところでGWが過ぎ、心配していたコロナ感染者の数値が上がっている注意!!

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ゴールデンウィークの長居植物園


3年ぶりに縛りのない自由な休日です。
所用を済ませ午後から長居植物園へ散歩に。

すごい人出です、午後だというのに入園ゲートには長蛇の列。

皆さん待ってましたとばかりに繰り出しています、園内、木陰は空きスペースがないくらい人がいっぱいです。

何時もは時計回りに回るのだが今日は反対から回ります。

ネモフィラが見頃ですがものすごい人だかりです。

人込みを避けバラ園に、太陽は真上でピーカンです。

これでは写真にならない、影を探して若いバラを選ぶ。

木陰を求めて里山の林へ、陽を透かしたショット、若い緑がきれいです。

若葉がきれいです。

緑の中を渓流に向かう。

気持ちの良い5月の爽やかな風に吹かれながらせ・・・・・

小池の畔から渓流に架かる橋を望む、多くの人が通り過ぎます。

お気に入りの場所へ、小池に移り込む景色が好きです。

小池に移り込む景色はいつもいろいろな顔をしています。
深いグリーンがきれいです。

小枝でも落ちたのか水面にわだちが・・・・・・

トゲナシハリエンジュの花が咲いています。
高い木なので気づかず通り過ぎる人もいます。

途中でおやつをいただきながら散策を楽しみました。

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唐招提寺で鑑真ゆかりの花 瓊花 が見頃


『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたもの。

寺名は当初は「唐律招提」と称した。

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四方から僧たちの集まり住する所を意味した。

鑑真研究者の安藤更生によれば、唐では官寺でない寺を「招提」と称したという。

「唐律招提」とは、「唐の律を学ぶ道場」の意であり、後に官額を賜ってから「唐招提寺」と称するようになった。

鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。

当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。

鑑真の生涯や唐招提寺は井上靖の小説『天平の甍』(1957年)で広く知られるようになった。

688~763年

唐の揚州に生まれ、14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称されました。

天宝元年(742)、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。

その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失うこととなりましたが、天平勝宝5年(753)、6回目にして遂に日本の地を踏まれました。

以後、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごされ、天皇を始めとする多くの人々に授戒をされました。

唐招提寺「御影堂供華園」は、世界遺産「唐招提寺」の境内北側、江戸時代に建てられたかつての興福寺塔頭「一乗院」の宸殿を移築した「御影堂」の西側に広がる庭園。

「供華園」は、鑑真和上の故郷である中国揚州から昭和38年(1963年)に送られた「瓊花(けいか)」と呼ばれる花が咲き誇る空間となっており、毎年大型連休ごろの見頃になると、白く可憐な花をご覧いただけるようになっています。

ちなみに瓊花はスイカズラ科の花であり、ガクアジサイはアジサイ科もしくはユキノシタ科なので根本的に違う植物らしいが、スイカズラ科の花にはガクアジサイのような花を咲かせるものもあるのだそうだ。

瓊花は中国の江蘇省、揚州市が原産。

隋から唐の時代、「瓊花(チウンホア)」は「玉蘂」とも呼ばれ、その芳香のある黄白色の花が愛でられたといいます。

ただ不稔であったために、「聚八仙」という台木に接ぎ木して増やしていたそうですが、やがて元軍の進入とともに絶え、その後は残った台木の「聚八仙」が「瓊花」と呼ばれるようになったといいます。

わが国では、鑑真和上の縁で揚州市・大明寺から贈られたものが奈良県の唐招提寺や飛鳥寺などに植栽されています。

「ムーシュウチュウ(木綉球)」の近縁種で、高さは4メートルほどになり、葉は卵形から楕円形の革質で、縁には細かい鋸歯があります。

4月から5月ごろ、白色の両性花とまわりに8個の真っ白な装飾花を咲かせます。

別名で「ハッセンカ(八仙花)」とも呼ばれます。

醍醐井戸の近くまでやってきました。

仏の教法の、優れて尊い味わいのことを醍醐の法味(だいごのほうみ)と言います。

深遠な仏の教えを濃厚なチーズに例えた言葉ですが、醍醐の法味はそのまま「醍醐味」という言葉にもつながっていきます。

雰囲気のある塀に沿って、歩いていきます。

鑑真の廟所のコケ、折からの水を含んで鮮やかです。

フォーカスシフトを手持ちで試みる。

背景としてSilkypicsでのレタッチがあります、狙い通り「手持ち撮影時の位置ずれを補正する」という機能が使えた。

これは新しい発見だ。

金堂と南東の、松のところに、石の隅鬼が。

金堂の東南隅で隅木を支える「隅鬼」。

年輪年代調査などから金堂創建時の作とみられています。

同形・同時代のものが北西隅、東北隅にも使われていて、修理後元の位置に戻されています。

これらを見ることができるのは、金堂の解体時のみ。

これまで非公開だった薬草園の一般公開を始めたというのでそちらへ向かう。

菖蒲の時期には少し早いようです。

鑑真ゆかりの薬草園、よみがえる 奈良・唐招提寺が一般公開

薬草園ではアブラナ科のホソバタイセイが黄色い花を咲かせ、高さ約3メートルの瓊花が見ごろを迎える。

瓊花は「八仙花」とも呼ばれ、ガクアジサイのように花のまわりに白い装飾花を咲かせている。

奈良市の唐招提寺は22日、これまで非公開だった薬草園の一般公開を始めた。

金堂修理に伴い閉鎖した薬草園の復元作業が、約6割の範囲で終了したため。寺を創建した鑑真和上ゆかりの23種の薬木各1本と、39種約2600株の薬草を栽培。

鑑真の故郷・中国揚州市の名花「瓊花(けいか)」がちょうど、見ごろを迎えている。

瓊花は5月5日まで特別開園中の御影堂供華(くげ)園でも楽しめる。

境内では松の根が露出してはい回るさまが見事。

古木も多く、何やら動物に似たものもあり。

これなどはマンモスに見立ててみた。

境内散策の愉しみは至る所にある、雨の日の一日を楽しんだ。

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霧のガーデンミュージアム比叡


今日はあいにくの雨です。
木々の緑が雨に洗われて生き生きとしています。

森の緑もきれいです。
一人で来たときはこの辺りも楽しみながらロープウェイの駅まで行くのだが、今日は団体行動です、あまりゆっくりしておれません。

まだ桜が残っているのではと期待していたがさすがにもう見当たりません。

いつもは晴れの日が多いのですが、初めての雨の日に当たりました。
ケーブルの車窓もはじめてみる雨の風景です。

叡山ケーブル・ロープウェイは、施設メンテナンスのため、冬季は運休、比叡山延暦寺へは、坂本ケーブル、比叡山ドライブウェイまたは奥比叡ドライブウェイをご利用となります。

かわらけ投げ広場からの遠景、雲海がきれいです。

今日は霧をどう表現するかなと興味つづ。

雲のグラデーションを表現したかったのですが、なかなか難しい。
モノクロの表現のほうが向いているかな。

雲の切れ間から東塔の景色が見えます。
この辺りまで来ると桜も見れます。

散り際の桜・・・・

雨に濡れたアセビに桜の花びらが・・・

藤の丘から霞む展望塔。

ガーデンは冬季休暇から昨日オープンしたばかりです。

花がどうかなと心配していたのだか、なかなかきれいだ。

何時もは花と絵画が目に付くのだが今回は霧に気を取られている。

気になってた睡蓮の庭へ。

モネたちが愛したモチーフです。

少しづつずらしながら・・・

彼らが思い描いた日本風の庭園・・・

何度も行きつ戻りつしながら霧にかすむ庭を楽しんでいます。

過去の訪問記

一足遅い初夏 ガーデンミュージアム比叡
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天空の花園
庭園は琵琶湖を見渡す位置にありまさに天空の花園。 ホタルブクロという名前の由来に … 続きを読む →


こもれびの庭も鮮やかな花々が・・

帰りも霧を楽しみます。

ちょっと霧が深すぎるかな。

ケーブルのすれ違い場所。

高知に世界で唯一、本家より「モネの庭」の名称を許可されたマルモッタン、青春18切符乗り継いで三泊三日で訪れた時の訪問記。

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