河内小阪


栗林書房

昭和7年創業、初代社長は栗林秋治郎さん。
元は長瀬の古本屋から始まり、後に現在の小阪本店に移りました。
そして、本店だけでは手狭になってきたため、文庫の店とレッド小阪店を順に展開。

東大阪の著名人である司馬遼太郎さんもこのサービスを利用していました。

司馬さんのエッセイ本「以下、無用のことながら」では、栗林書房が「駅前の書店」という見出しで登場します。

そのためか、司馬遼太郎記念館に訪れた人が寄ることもあるのだとか。
「わざわざ鹿児島からやってくる方もいらっしゃいましたよ。

司馬遼太郎記念館へのルート、八戸ノ里駅からのルートもある。

ウラ小坂、何ともレトロな名前。

河内小阪駅から南のアーケードに入り、少し東に入ったあたり。
若干分かりづらい路地。

高田川部屋所属「須磨の海」が「おでんとホルモン煮 須磨」を開店したのもこの路地。

理髪店を営む家主が廃材を用いて自力で建てた、自宅と店舗を兼ねた歴史的な背景の無い城郭風建築物。

まもなく司馬遼太郎の命日「菜の花忌」がやってきます。
住民こぞって司馬さんの好きだった菜の花を植えて記念しています。

司馬遼太郎記念館 菜の花が満開です
司馬さんの菜の花忌は2月12日に終了しましたが、今年は例年になく菜の花の生育が悪 … 続きを読む →

また、今年で生誕100年に当たります。

念財団」は、ファンを対象に最も好きな司馬作品についてインターネットでアンケート調査を行い、1567人から回答がありました。

調査の結果、最も人気を集めた作品は、『坂の上の雲』でした。

近代国家として歩み始めた、明治維新から日露戦争までの日本を松山出身の秋山好古・真之の兄弟と正岡子規の3人を軸に描いています。

「まことに小さな国が開化期をむかえようとしている」という書き出しも有名で、中高年や男性を中心に、全体の20%余りの支持を集めました。

次いで人気だったのは、幕末の志士、坂本竜馬の短くも劇的な生涯を描いた『竜馬がゆく』で、およそ15%の支持を集め、男女を問わずすべての世代で幅広い人気でした。

3番目は同じく幕末を舞台にした『燃えよ剣』。
新選組副長として剣に生き、剣に死んだ土方歳三が主人公です

小坂神社は、東大阪市下小阪に鎮座されています。

御祭神は、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)、受鬘神(うけのりのかみ)。

小坂神社略記によりますと、天正二十年(1592)、十八軒の家がこの原野開拓に当たり、水利至便、五穀豊穣を祈願する為、小坂神社を奉祀したのが小坂神社の起こりとされています。

弥栄神社(いやさかじんじゃ、やさかじんじゃ、やえじんじゃ、やえいじんじゃ)

創建年代は不明で元は牛頭天王と呼ばれていた。
 
その名からもわかるように御祭神は、須佐之男命です。
 
石山合戦で焼失し、1600年に再建。
 
1872年、現社名となっております。

木村重成、大坂城炎上の無念

重成が決死の覚悟をした場所か!

大坂夏の陣で木村重成は、大坂城の救援に向かう途中、この地で城の炎上を見、馬の上に立って城に別れを告げ、戦地へ引き返し戦死したことから、この地が馬立と呼ばれるようになったという。

乱世を生きた戦国武将最後の地を巡る 若江の戦い
八尾・若江の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大 … 続きを読む →


この辺りは大阪空港への着陸コースに当たっており東からの航空機はすべて通過する。

今日は午前中は風もなく陽が射して暖かい日でしたが夕方になるにつれ曇りがちとなり風も出て寒い夕暮れとなった。

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天王寺7坂めぐり ⑥源聖寺坂


天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで、名称は坂下にある寺院名に由来する。

画像は銀山寺、銀山寺には、近松門左衛門の「心中宵庚申」にでてくるお千代、半兵衛の比翼塚が建てられている。

「齢延寺」には、幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢東畡、藤沢南岳父子の墓がある。

これは、司馬遼太郎「世に棲む日日」の1巻で吉田松陰が大阪に行ったときに、藤沢東畡を訪ねたというあの人物です。

松屋町筋に面する坂下の源聖寺と金台寺の間から東へ石畳を登り、上町台地の急崖に差し掛かると石段となり、少し東南東に向きを変える。

再び石畳を登り、坂上の齢延寺と銀山寺の間で水平となる。

道は坂上からも東へ伸び、中寺筋を横断して谷町筋・生玉南交差点の一つ南の辻へと至る。

下寺町(25ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)を横断し、坂上から東は生玉中寺町(12ヶ寺)を横断するため、周辺には寺院が多い。

松屋町筋から東に10mほどの石畳は、昭和44年に廃止された大阪市電の敷石が転用されているということです。

上り始めは石畳の緩やかな坂道ですが、途中から急勾配で大きくカーブした石の階段になります。
「天王寺七坂」の中でも、一番複雑な構造の坂だと思います。

かつて石段を上りきった場所に昭和末期まで「源九郎稲荷」があった。

コンニャク好きの狸が祀られ、天王寺区史に「こんにやくの八兵衛」という祠があったことが記されている。

現在どこへ還座されたかは不明で、生國魂神社に還座されたと記した資料がある一方、同名の末社とは無関係との記述もある。

名前の由来となった源聖寺。

源聖寺坂の南2軒となりには新選組の大阪旅宿跡である萬福寺が。

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会津藩殉職者墓 思わず合掌 金戒光明寺


金戒光明寺、山号は紫雲山。
本尊は阿弥陀如来。

通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。
知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、清浄華院)の一つである。

まさに城構、高麗門。

徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ、直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしているのである。

黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。

小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。

因みに山内の西翁院にある淀看みの茶席(重文)は、茶席より淀川の帆船を見ることが出来たのでこの名が付けられた。

また、黒谷古地図によると浪華城遥よう矚しょくとあり大坂城まで見えたという。

金戒光明寺の威風堂々たる山門は、1400年頃の創建で、応仁の乱で焼失後、徳川幕府の命で、1860年(萬延元年)に再建されたもの。

高さは約23mで、普段は非公開の楼上からは京都市内を一望できます。

京都守護職として会津藩がここに本拠を構えたのも、楼上からの市中監視が目的のひとつでした。

やっと本堂が見えてきました、ここまでかなりののぼり。

山門の先を進んでいると左手に「せいしまるさま」と書かれた銅像。

漢字で書くと「勢至丸」と言うこの人物は、開祖である法然上人のことです。
勢至丸は幼名です。

承安5年(1175年)春、浄土宗の開宗を決めた法然が比叡山の黒谷を下った。
岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。

すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。

そこで法然は、うたたねをすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。
これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。

こうして法然はこの地に草庵を結んだ。
これがこの寺の始まりであるとされる。

ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の時、黒谷の本房と岡崎白川の本房を法然に与えた。

そのため、比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んだ。

法然は、後に信空に黒谷の本房と白川の本房を与え、白川上人信空はこの地に住み、白川門徒の拠点となった。

その後、岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷(くろだに)と呼ぶようになる。

なお、比叡山では、大津市坂本の黒谷を現在も「黒谷」と呼ぶ。

振り返って山門を見る、かなりの高度。

阿弥陀堂 – 慶長10年(1612年)豊臣秀頼が再建した。

御影堂(みえいどう) – 大殿(だいでん)とも言う。
法然75歳時の肖像(坐像)を安置。

昭和9年、火災により焼失1944年(昭和19年)に再建。
中山文殊と吉備観音を安置する。

梅の花がきれいです。

こちらも梅。

春日局の供養塔

春日局という名は、朝廷から賜ったもので、本名はお福といいます。

お福は、明智光秀に仕えた斎藤利三の娘として誕生しました。

明智光秀が山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れると斎藤利三は処刑されます。

しかし、お福は女性だったため、捕えられることはありませんでした。

その後は、稲葉正成に嫁ぎ、慶長9年(1604年)には徳川家光の乳母となります。

三代将軍家光の実母は「ふく」であったとする説。

後に徳川家康は光秀とともに信長を討つ黙契があったと、光秀の血を引くおふく(後の春日局)に三代将軍光秀を生ませ信長の血脈を絶ったとの説がある。

大阪と京を結んだ水陸の要所 淀城
淀は「与渡津」(淀の港の意)と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物や西日本から都に運 … 続きを読む →


江-崇源院供養塔

崇源院は、浅井長政と織田信長の妹のお市の方との間に生まれた女性で、お江(おごう)の名でも知られています。

姉には、豊臣秀吉の側室となった淀殿と京極高次に嫁いだお初がいます。

3人を総称して浅井三姉妹とも呼ばれていますね。

お江は、後に徳川秀忠に嫁ぎます。

2人の間には、豊臣秀頼に嫁いだ千姫、徳川家光、忠長など7人の子供がいました。

文殊塔(三重塔)(重要文化財) – 寛永10年(1633年)建立。近年まで文殊菩薩と脇侍像を安置していた。
現在は御影堂に安置(これらの像は運慶作と伝えられるが実際の作者は不明)。

黒谷墓地を見下ろす丘の上にある高さ約22mの三重塔は、1633年(寛永10年)に徳川二代将軍、徳川秀忠に仕えていた伊丹重好が、秀忠の菩提を弔うため建立。

文殊菩薩を本尊としていたため文殊塔とも呼ばれる。

なお、運慶作と伝えられ“日本三文殊随一”として信仰を集めた文殊菩薩は、現在、御影堂に遷座されています。

会津藩殉職者墓は墓地をずっと北へ進んで寺の北東にあります。

金戒光明寺は、徳川初期に、同じ浄土宗の知恩院とともに、城郭構造に改められていた。

会津藩主松平容保が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。

しかし、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、この年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって、薩摩藩・長州藩が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。

ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。

山上墓地北東には約三百坪の敷地に『會津藩殉難者墓地』が有り、文久二年~慶応三年の五年間に亡くなられた二百三十七霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る慰霊碑(明治四十年三月建立)がある。

墓地には武士のみではなく、使役で仕えたと思われる苗字のない者も、婦人も同様に祀られている。

禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ二十二霊祀られている。

會津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。

また、會津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 會津小鉄」の墓がある。

會津小鉄は本名上こう阪さか仙吉といい、會津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組の密偵として大活躍をした。

しかしながら、會津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分二百余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。

以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。

現在西雲院では、六月の第二日曜日に會津藩殉難者追悼法要を會津松平家第十四代当主松平保もり久ひさ様ご列席のもと京都會津会主催で盛大に勤められている。

明治維新時の忘れることのできない悲劇の一つが松平容保と会津藩の悲劇である。

白虎隊の少年たちだけではなく、戦場で死んだ人たち、集団自殺した国家老・西郷頼母の家族21人や多くの武士の家族たち、邪魔者と見られバンザイ突撃を強いられた老人たちなど、 多くの人たちが死に追いやられた。

会津攻撃軍の残虐行為の犠牲者や、戦闘を避けて避難中、増水した川におちて溺死した者なども数知れずであった。

生き残った武士たちと家族約1万3000人は恐山山麓一帯(青森県下北半島のむつ市)に強制移住させられた。その後斗南藩として小川原湖東岸一帯に移住するが、農業についても、牧畜業についても、その他の職業についても、職業能力も職業経験も無いまま、慣れぬ異郷で辛酸な生活を強いられた。

明治4年の青森県の記録には「移住した会津人、1万3,027人のうち、3,300人ほどが各所出稼ぎ、あるいは離散の由にて、老年ならびに廃疾のもの6,027人、幼年のもの1,622人、男子壮健の者2,388人ほどの見込み」とあった。

会津藩の人たちにとって、下北の地は格子なき牢獄であり、 日々、餓死していくその姿はまさしく挙藩流罪であった。

どれを取り上げても心痛む話ばかりである。

戊辰戦争最大の悲劇 飯盛山の白虎隊
会津領母成峠を急襲し、勝利した西軍はその勢いを駆って、会津盆地へ殺到してきた。 … 続きを読む →

少年隊の悲話を残す 二本松城
二本松城は、別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれる。 2007年(平成19年)7月26日 … 続きを読む →

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竜馬葬送の道


京都市東山区円山町、枝垂れ桜で有名な桜の名所。

龍馬・慎太郎像は公園の東側にある。
昭和9年に建立されたが、第二次大戦中供出させられ、昭和37年に再建された。

沢山の観光の方が歩くニ年坂から、左に曲がると急に人のいない坂道に入ります。

この坂道は、霊明神社・正法寺へ向かう坂道で龍馬坂と呼ばれています。

霊明神社、正法寺に至る急な坂は、いつしか「幕末志士葬送」の道と名付けられている。
 
もともと正法寺の参道であったが、文化六年(1809)、地下の村上都愷(くにやす)が正法寺の境内に霊明社を創建した。

徳川幕府の宗教政策により原則として全ての国民が仏教徒とされていた時代に、神道による葬式を始めた。

これにより、神葬祭を進める長州毛利家との縁ができ、在京志士の葬送・祭祀の地となった。
維新後、霊明社の土地は没収され、創建間もない東山招魂社に譲られた。
 
石碑の背後は神葬墓地となっている。
ここはもと土佐高知藩神霊社があり、東側の現在マンションのある場所には、吉村寅太郎ら天誅組志士の墓があった。

のち霊山護国神社内に移されている。

高低差は32m。斜度10度の坂道、坂の上から見下ろす。

この坂道は慶応3年(1867年)11月18日、海援隊士や陸援隊士らによる坂本龍馬と中岡慎太郎の葬列が通った「幕末志士葬送の道」。

坂本龍馬と中岡慎太郎が、近江屋事件で亡くなったのは1867年の11月。

坂本龍馬31歳。
中岡慎太郎29歳。

志士達が夢見た、明治維新はその翌年の1868年10月でした。

慶応3年(1867年)11月15日 自身33歳の誕生日に京都河原町蛸薬師近江屋新助宅にて狂刃に倒れた。

一週間前に福井から帰った龍馬は風邪気味で近江屋に用意されていた隠れ家の蔵では、寒さがこたえると母屋二階で火鉢を抱え中岡慎太郎と語り合っていた。

腹がへったなぁ、好物の軍鶏鍋でも食うかと使い走りの峰吉に四条小橋の「鳥新」まで軍鶏を買いにやらせた。
そのわずかなスキに賊は押し入り下僕の藤吉も犠牲になった。

入り口からさらに階段を上がっていくと、そこには坂本龍馬と中岡慎太郎並び、そこの横に申し訳なさそうにそして藤吉のお墓が並んでいる。

墓地からは京都市街が一望、八坂の塔も見える。

現在は墓地へ入るのは京都霊山護国神社から。

京都霊山護国神社は明治元年に初の官祭招魂社として創建され、その当時は霊山官祭招魂社といいましたが昭和14年に現在の名に改称。

幕末の長州、土佐、筑前、肥後といった各藩の殉難者ら549柱を祀ります。
その中には著名な方々の名前も数多くあげる事が出来ます。
坂本竜馬・中岡慎太郎・桂小五郎(木戸孝充)と幾松夫妻・吉田稔麿らの池田屋事件殉難烈士、久坂玄瑞らの禁門の変殉難の長州藩の面々・・・。

幕末ミュージアム「霊山歴史館」

館内には幕末の志士ゆかりの品々がたくさん展示されています。
わかりやすい幕末年表もあるので、初心者でも大丈夫!

あの松下幸之助さんが、「明治維新の時代に生きた人々は、日本の近代化の基礎を築いた人々である。

そんな人々の墓が荒れていることは嘆かわしい」と創設したことでも有名です。

こちらは司馬遼太郎の「竜馬が行く」にも度々登場する現在の明保野亭。
坂本龍馬の定宿の一つだったところです。

当時はもう少し北東にあったらしいのですが、石碑とともに産寧坂の近くで今も営業しています。

明保野亭といえば、坂本龍馬好きの方や、司馬遼太郎先生の竜馬がゆくにも登場する、幕末には、坂本龍馬が常宿し、倒幕の密議を志士たちと談合していた場所でもあり、小説上では、土佐藩家老息女のお田鶴様と、坂本龍馬が密会していた場所として登場する料亭です。

現在でこそ明保野亭は、様々な店舗が軒を連ね、あまり目立ちませんが、当時は京都でも選りすぐりの高い建物だったので、坂本龍馬も2階の窓からよく京都を一望していたそうで、新選組をはじめとする、幕吏からの追跡を警戒するのに、最適の場所であったのでしょう。

店の前には龍馬の写真も飾られている。

月真院は高台寺の塔頭の1つで、臨済禅宗建仁寺派に属します。
本尊は千体地蔵菩薩。

でも、それだけじゃないんです!
この月真院は、慶応3(1867)年6月に新撰組から分離した、伊東甲子太郎ら15名が公明天皇陵を守る御陵衛士として屯所を構えた地。

だから、御陵衛士のことを、別名高台寺党とも呼ぶ。
衛士が寝泊まりしたとされる部屋も残っている上、方丈からは八坂の塔、秋には美しい紅葉が見られるそうですが、内部非公開なのが惜しい………

以前の龍馬葬送の道の記事、今回加筆、改訂した。

坂本龍馬 葬送の道を訪ねる
本日の目的は竜馬葬送の道を訪ねることにある。 現在では高山寺参道脇の道を上がり、 … 続きを読む →

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山崎城跡 秀吉の居城

山崎の戦い後、大坂城が築城するまで豊臣秀吉が山麓にある宝積寺も含めて本拠地としていた。
別名「天王山宝寺城」や「天王山城」とも呼ばれている。

青木葉谷展望台 (あおきばだにてんぼうだい) は、天王山頂への登り道の七合目付近にある。

展望台は、その名前の通り、が見えるスポットとなっているはずですが、木々が茂っていて、あまり視界は良くありません。

晴れた日には大阪平野から大阪城まで見えますが、冬は濃霧がでていることもあります。
桜のシーズンや紅葉のシーズンに訪れれば、豊かな自然が鑑賞できます。

酒解神社 二の鳥居の前に山崎合戦之地の碑がある。

この辺りからは桂川、宇治川、木津川の三点合流地点から淀川を経て枚方の辺りまで望める。

山崎城がある天王山(標高270.4m)は淀川を挟んで男山があり、宇治川、木津川、桂川の合流するところで、山城と摂津の国境にある。

山麓には西国街道があり、河川を含め軍事、経済、交通の要所である。

ここから左に入る、城の虎口があったのではないかと思われるが山崎城跡との案内は一切ない。

少し上がると、幕末期の史跡である「十七烈士の墓」がある。
幕末、尊皇攘夷を進めていた長州藩が幕府により京都を追い出され、更に池田屋事件で長州藩士が新選組に襲撃されると、長州藩は京都奪還を目指して大軍で上京。

京都御所で激しい戦いとなった有名な「蛤御門の変」が起こる。

この戦いで長州軍は大敗、山崎まで撤退。

従軍していた真木保臣ら17人の志士たちがここ天王山で殿(しんがり)を務め、長州軍主力部隊は帰国。

当時は朝敵だった長州藩および十七志士たちも、維新成立後は維新の志士として丁重にここに埋葬されたとのことだ。

陶板その5の奥には酒解神社本殿が鎮座する。
細い山道しかない山上とは思えない立派な社殿だ。

隣には重要文化財の神輿庫もある。

清洲会議で長浜城を柴田勝家へ譲り、秀吉の城は姫路城のみとなっていた。

『城と秀吉』ではその時の秀吉の気持ちを「山城・丹波両国のどこかに城を築きたい」とし、更に「いずれ勝家と雌雄を決するときがきるはず」と考える秀吉にとって、京都に近くに、しかも小谷城に匹敵する山城の候補地を物色するうち、天王山の場所に目をつけるようになったものと思われる」と推察している。

小谷城は秀吉が元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)に攻め続けた城で、山城の優位性があったためではないかとしている。

現在の城郭は、最後の城主となった豊臣秀吉時代のものが多くあらわれている。

山崎城の最大幅は、東西約250m、南北約200mで本丸北側には東西35m、南北20mの小曲輪があり天守台と考えられている。

本丸を中心に、東側、南側、南西側に曲輪を配置し、北側は断崖の要害となっている。

さらにここから左に入るが、ここにも山崎城跡の案内は無い、天守への虎口と考えられる。

本丸跡、前方の小高いところが天守台。

山崎城跡概要図、酒解神社 二の鳥居から虎口b、虎口aを経て現在主郭部分にいる。

僅かに石垣の残存部分が見える。

天王山山頂碑、ここにも山崎城跡の表示はない、なぜだ、山崎の合戦から約3年半秀吉の居城がここにあったのだが、一般的に山崎城跡が知られていないのはこのような仕組みのせいではないか。

主郭下の二の丸かなと思われる。

縄張りの基本は四角形で築城されており、『図説中世城郭事典』によると「倭城の長大な登り石垣と空堀と第一戦に捉えた天守台のパターンに近いものが萌芽しており、織田・豊臣系の築城パターンの中でも、秀吉の個性が強く出たものと考えられる」とし、山崎城の築城パターンはその後の倭城に多く出てきており、豊臣系のものが色濃く出ているとしている。

豊臣秀吉が山崎城に在城中は、天王山から宝積寺一帯にかけて布陣していることから、寺を含めて城郭として機能し、寺から山頂にかけての防御はそれほど重要でなく、『図説中世城郭事典』によると「山頂のこの城郭は、全体の詰の城といった存在であったと考えられる」とし、山頂部分の縄張りは最後の砦として機能したとしている。

井戸跡、本来は地上部に木製の井桁が組まれ、水を汲み上げるための釣瓶もあったと思われるが、廃城とともに失われたものだろう。

完成時の深さは不明だが、35年ほど前(1980)には5mほどの深さでした。

山頂に掘られた井戸であることから地下水が湧き出るとは考えられず、雨水を溜めて利用していたのではないかと思われる。

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山崎合戦之地へのアクセス、行き方歩き方

京都府乙訓郡大山崎町
JR京都線 (東海道本線) 山崎駅,または阪急京都線大山崎駅.歩いておよそ30分

新選組ゆかりの島原に現存する唯一の置屋 輪違屋

今年の「京の夏の旅」の目玉ともいえるのが、「島原 輪違屋」の特別公開。
10年ぶりの公開にわくわくしつつ、行きました。
以前島原を訪れた時の記事:島原に おもてなしの「角屋」を訪ねる
日本最初の花街島原に夕霧太夫を訪れる

なつかしき やなぎのまゆの春風に なびくほかげや さとの夕ぐれ
                                           蓮月尼
島原の出口の柳を見て (大田垣蓮月 1791~1875)

入り口の大門では蓮月の歌が迎えてくれます。

大田垣蓮月関連の記事:大田垣蓮月が眠る西方寺
太田垣蓮月隠棲の地神光院
悲運の歌人 屋越の蓮月こと 大田垣蓮月

時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて「島原」と称されるようになった。
正式名称は「西新屋敷」という。

最盛期は1,000人もの女性が働いていたという花街も、都の中心が東京に移って衰退し、今では入り口の大門、資料館となった角屋、ただ一つ営業している輪違屋だけが、当時の面影を残すのみとなった。

輪違屋の創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まる。
置屋として創業当時の名は「養花楼」。
お茶屋兼業は明治5年(1872年)より。

現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となった。

輪違屋の行灯(あんどん)。
夕霧太夫を偲んで清凉寺で夕霧祭には輪違屋の太夫が出演です。

輪違屋の名のごとくに、2つの輪が知恵の輪のよう。

二階への階段その階段の手すりが見事なサルスベリが使用されています、残念ながら二階は撮影禁止で画像はありません。

二階にある、本物の大傘を襖にはめこんだ「傘の間」、撮影禁止につき、ポスターの画像を拝借。

苔むした庭も素晴らしい。

組み木の縁側も見事。

坪庭の灯籠。

この床の間の書は、輪違屋さんの以前のご当主さんの筆。

かって太夫が愛しい人に宛てた手紙の下書きが襖に・・
襖に貼られているのは、当時の太夫が常連さんに宛てて書いたという手紙。
恋の歌が流暢な字で綴られています。

天井を見上げると波のような木の形になっていたりして現代の簡素な天井とは違い凝っています。

この床の間のたぬきさん、誰の作か不明です。

近藤勇の書 本名の藤原昌宣 書とあります。

屏風の右側の書は、婦人色を好む、年季が明け16年経ち白髪が混ざっているのにここで働いている、の謂。

この詩の内容から見ると近藤は吉原のイメージを強くもっていたようで、実際は吉原と違い、島原は折檻などもなく女性が働き易い場所で、年季が明けても出入りが自由であったという。

キリシタン灯篭。

明かり取り窓 縁側の軒にあります。

「輪違屋」という名前は明治5年からの屋号で、その前は「養花楼」と云っていた。

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輪違屋へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市下京区西新屋敷中之町

お問合せ先 京都市観光協会 075-752-7070

JR嵯峨野線「丹波口」駅下車徒歩約7分
市バス206系統(千本通方面行)で「島原口」下車徒歩約7分、もしくは市バス205系統(西大路通方面行)で「梅小路公園前」下車徒歩約7分

明治維新の実現のために倒れた志士たちの霊が眠る京都霊山護国神社

「坂本龍馬 葬送の道を訪ねる」の記事を書くために訪れた京都霊山護国神社および周囲の情報をまとめた。

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坂本龍馬と中岡慎太郎像(円山公園)
京都の公園の中で最も親しまれている円山公園に、坂本龍馬と中岡慎太郎像がある。
これは2人が揃っている珍しいもので、高知桂浜の龍馬像と並んでファンの間では有名な像である。

龍馬は立ち、慎太郎は左手に刀を握り片膝をついている。
その表情は彼らが理想とする世界を見つめているようだ。

この像は、昭和11年京都高知県人会有志により建立され、第二次大戦中に撤去されたが、昭和37年に再建されている。

高台寺の塔頭月真院
幕と勤皇倒幕という思想の違いから 伊東甲子太郎 ら数名が近藤・土方らと袂を分かちます。
その後彼らは 禁裏御陵衛士 の役目を拝命して五条橋詰近辺に移り、更に高台寺の塔頭月真院に移ります。

これが名前の由来となっています。
御陵衛士屯所跡(ごりょうえじとんしょあと)は、幕末維新の時代、孝明天皇の御陵衛士が屯所としたところ。

新選組から離脱した熱烈な勤王主義者ら15名が新選組に暗殺されるまで約5ヶ月の間、勤王派の拠点となった。
新選組は一旦加盟すると脱退/分派が不可でした。
新選組と袂をわかっただけに、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たという。

ただし、近年の研究では倒幕と言っても緩やかなものであり、松平春嶽らの思想に近かったものと言われている他、薩摩藩とは一定の距離を置いていたという説がある。

1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。

それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。靖国神社より古い歴史を持つ。

当初の社号を霊山官祭招魂社と称し、社格にはとくに「官祭社」に列し国費で営繕されてきた。
1936年(昭和11年)、支那事変(日中戦争)をきっかけとして国難に殉じた京都府出身者の英霊を手厚く祀ろうという運動がおき、霊山官祭招魂社造営委員会が組織され、境内を拡大して新たに社殿を造営した。

参道の坂道は維新の道と呼ばれ、春は桜、秋はモミジが美しい。

現在は料理旅館となっている翠紅館(すいこうかん)跡。
勤王の志士の集会場となった所で、この場所で攘夷実行を決定した。

龍馬祭
11月15日
旧土佐藩招魂社祭、墓前祭
近江屋事件(1867年(皇紀2527)慶応3年11月15日)により、暗殺された海援隊々長坂本龍馬、下僕 藤吉、陸援隊々長 中岡慎太郎が鎮まる霊山の墓前にて行われる。
11月15日は、坂本龍馬の誕生日であり命日でもある。

坂本龍馬、中岡慎太郎が、下僕 峰吉に軍鶏肉を買いに行かせている間に遭難し、軍鶏鍋を口にすることなく亡くなったことから、一番汁を墓前にお供えされ、参拝者にも振舞われる軍鶏肉は、中岡慎太郎の郷里 高知県安芸郡北川村より寄進される。

陸軍特別操縦見習士官之碑

京都霊山護国神社は明治元年5月に、明治維新の実現のために倒れた志士たちの霊を慰めるために、明治天皇の発案で創建された神社です。

ちなみに、この霊山護国神社の少し北にある(円山公園の東南)長楽寺の墓地には、幕末の頃、尊王攘夷運動をしていた水戸藩第十一代藩主徳川昭武の兄、松平昭訓(あきくに:慶喜の弟)の墓をはじめ、藩士の大場一真斉、鵜飼吉左衛門、原市之進などなどの墓がある。

参考資料
黄台山 長楽寺 建礼門院が落飾した寺
新緑の長楽寺

霊山神域内には、坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允(桂小五郎)・平野国臣・宮部鼎蔵をはじめ蛤御門の変・天誅組の義拳等に加わった志士の墓三百余基があり、千三百五十六柱が合祀されており、この地は明治維新を偲ぶ大霊域・史跡となっている。

錣形(しころがた)岩右衛門之墓。
勤王力士。
京都角力横綱。
上方相撲頭取。
禁裏守護補佐力士隊長

1997年(平成9年)、大東亜戦争(太平洋戦争)を記念した「昭和の杜」が設けられた。境内にはインド独立50周年を記念し、極東国際軍事裁判にて、ただ一人、被告全員の無罪を唱えたインド代表判事パール博士の顕彰碑などが建立されている。

当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、1946年、東京に於いて開廷された「極東国際軍事裁判」にインド代表判事として着任いたしました。

既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の真理と、研鑽探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。

今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。
パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。
インド独立50年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。

1997年11月20日
パール博士顕彰碑建立委員会

霊山歴史館は幕末歴史資料館で、昭和45年(1970)に開館した。
館内は撮影禁止で、画像の紹介はありません。

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京都霊山護国神社へのアクセス、行き方歩き方

京都霊山護国神社公式サイト
幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」公式サイト

住所:東山区清閑寺霊山町1
電話番号:075-561-7124
FAX:075-531-0972

JR京都駅→市バス206系統で13分、バス停:東山安井下車、徒歩10分。
または京阪電気鉄道祇園四条駅→徒歩25分

島原に おもてなしの「角屋」を訪ねる

角屋(すみや)は、もと京都・島原花街の揚屋。

天正17年(1589年)、豊臣秀吉によって柳馬場二条に傾城町「柳町」が開かれ、初代徳右衛門が角屋の営業を始める。

慶長7年(1602年)、柳町は突然の移転を強いられ、角屋も六条三筋町へ移転を余儀なくされた。

更に寛永18年(1641年)、再度柳町は移転となり、角屋は二代目徳右衛門によって現在地の島原へ移された。

明治5年(1872年)まで営業した後、お茶屋に編入された。
昭和60年(1985年)まで「松の間」を宴会に使用。

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大火後、門は再建されたが、慶応3年(1867)5月には再び建て替えられた。
これが現在の大門である。

この門は本柱上の屋根のほかに後方の控柱上にも小屋根をのせた高麗門で前には「出口の柳」が植えられ「さらば垣」がめぐられて、今日も当時の趣を伝えており島原の由緒を伝える地域の文化財として貴重である。

大門脇には幕末の女流歌人蓮月尼(1791~1875)が、島原大門の柳を
『嶋原のでぐちのやなぎをみてなつかしき  やなぎのまゆの春風に  なびくほかげや  さとの夕ぐれ』
と和歌に遺している。

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鮮やかな角屋の赤壁は、社寺の書院や客殿に使用された高級赤壁と同じものらしい。
ここは並みの建物ではない、ということを示したのではないかと、館でもらったパンフレットには書かれている。

家紋の蔓三つ(つるみつつた)の五幅暖簾。

新選組が付けたという柱の刀傷。

2階にも刀傷が何カ所かあるが、2階は撮影禁止になっており残念ですが画像はありません。
もともと新選組のようなものが入れる場所ではないのだが、見回り組と称して入ったらしい。

入口には酔客を送り届けるための駕籠が展示されています。

台所、竈の神、三宝清荒を祀る。

台所、竈、白漆喰の磨き竈。

水屋(sink)の上には往時使用されていた銅製の鍋などが並べられている。

調理場の上には調理で出る煙を外に排出するための大きな窓が設けられている。
ひもを引くと窓が開けられる仕組みになっている。

調理場の天井。
昔は換気扇が無かったからとても高い~!

土間より座敷を望む、真ん中の柱は後で補強のため入れたもの。
右奥に帳場が見える。

松の間より観る臥龍の松。

現在は3本の木でつないでいる。
初代は1947年に吉井勇の八幡寶青庵より移植される。

その後、10年ほどで枯れたため、3代目が1958年に新たに移植された。
1994年に4本のうちの1本が枯れた。

吉井勇は歌を残している。
「島原の角屋の塵はなつかしや元禄の塵享保の塵」

都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)

大座敷「松の間」で遊興にふける人達と、庭に降り積もる雪を丸めたり、雪投げをしている人達。

禿(かむろ)が雪を丸めている姿も見える。
松にも雪が積もっている。

国貞や広重の浮世絵にも描かれたので京名所として江戸でもしられる。

右上には2階「青貝の間」の露台(バルコニー)から庭の様子を眺めている人達がいる。青貝の間は17畳あり、壁、床の間、襖、障子にいたるまで青貝が鏤(ちり)ばめられてある。

角屋の座敷中最も格が高いとされる。
この図会は江戸時代の寛政11年(1799)に描かれた。

「曲木亭(きょくぼくてい)」(重文)、その奥の「清隠斎茶室」(重文)、かつて樹齢250年から300年という松が茶室の脇に生えていた。

飛び石伝いに茶室に通ったのかな。

ここの掛け軸は、ちょいちょい変わるみたいです。
これは「藤下双鯉図」

江戸時代中期には島原でも俳諧が盛んになり当時の角屋当主(七代目、俳名徳屋)は与謝蕪村を師として招いている。

その蕪村がここに残した「紅白梅図」は国の重要文化財として当美術館に展示されている。

他、天明年間前後に制作された円山応挙、石田幽汀などの襖絵も残っている。

酔った人が宴会場から離れ酔い覚ましをする場所。

中庭、飛石、苔、植栽、蹲踞、石灯籠などにより構成される。

中庭は網代の間の横にある限られたスペースに創られていますが、灯籠の形と位置、苔と飛び石の配置、どれを見ても完全なる隙がない造形。
狭さを超えた深さを感じさせる名庭です。

網代の間
付け書院の明かり障子。
大きな開口部の障子の桟の整然とした様子。

網代の間、天井の大長枌(へぎ)網代組。

2階に上がると、表棟には北から南へ「緞子(どんす)の間」、「翠簾口(みすぐち)の間」、「翠簾の間」、「扇の間」があり、奥棟には「檜垣の間」、装飾に青貝を用いた「青貝の間」などがあり、「青貝の間」には露台(バルコニー)が付属する。

各部屋は装飾や意匠に変化をつけ、数少ない揚屋建築の遺例として、文化的価値が高く評価されている。
2階は撮影禁止で画像はありません。

刀掛、12段あり、ここには太刀を置いた。
刀は刀箪笥に収めた。

刀箪笥

台所、箱階段、押し入れ板戸は堅舞良戸、帯桟は引手が丸形、木瓜形

幕末に、西郷隆盛が訪れた際に使ったという盥(たらい)。

1945年、太平洋戦争中に、建物の強制疎開が行われた。
角屋は山陰線保護のために、取り壊しの予定となっていた。

京都市の担当者が訪れた際に、明治維新の元勲、西郷らも利用したと説明し取り壊しは一時延期となる。

その後、敗戦により角屋は存続となる。
この盥は、角屋を守った盥といわれている。

中戸口前には2本の「槐(えんじゅ)」の木が植えられている。

槐は縁起の良い木といわれているらしく、縁起の良い門をくぐる、という発想かな。

表に回ると屋根の上まで聳える。。

前庭、天水溜、家門が入っている。
上に天水桶、木枠に屋根付き。

輪違屋(わちがいや)は、現在も営業されている京都の花街、島原の置屋兼お茶屋。
置屋として創業当時の名は「養花楼」。

お茶屋兼業は明治5年(1872年)より。
現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となった。

かつては芸妓等も抱えていたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。

表に「観覧謝絶」の札がある(いわゆる「一見さんおことわり」の店である)。

新選組とのかかわり

「青貝の間」の床柱には新選組の芹沢鴨が酔っ払ってつけた刀傷が残る。

水口藩公用方が会津藩邸にて会津藩公用方に新選組の所業の悪さを訴えたことに始まる。それを聞きつけた芹沢が、永倉新八・原田左之助・井上源三郎・武田観柳斎の4人を差し向け、当事者の身柄引き渡しを水口藩に求めた。

水口藩はこれに驚き、平身低頭謝罪し、詫び証文を書いて、その場を納めた。

しかし、詫び証文を書いたことが水口藩主の耳に達せば、事と次第によれば公用方の断罪も逃れられなくなる。

そこで二条通りに直心影流道場を開いている戸田一心斎(栄之助)を通じ、証文の返却を依頼した。
新選組側より、会議の場所を提供すればそこで返却する、との回答があった。
体のいい宴会の要求である。

翌日、角屋にて宴席が設けられた。
席上、証文は問題なく返却されたが、宴もたけなわとなった席上で、酒がまわると酒乱となる芹沢が店の対応に腹を立て、遂に暴れ始めた。

自慢の鉄扇を振り回し、席上に出ていた膳はもとより、店内の食器や什器を悉く叩き割り、挙げ句の果てには廊下の手摺りを外し酒樽に叩きつけて帳場を酒浸しにしてしまった。
そして最後に、店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を申し渡し、意気揚々と引き上げたという。

同年9月18日、会津藩の催した角屋での宴会で泥酔して屯所に帰宅した芹沢は、寝込みを近藤勇一派に襲われて絶命した(同夜、ともにいた芹沢の妾と平山五郎も殺害された。また、 平間重助と芸妓2名はこの難を逃れた)。

「太夫」と「かしの式」について

「太夫」とは島原の傾城(けいせい・遊宴のもてなしを公認された女性)の中でも最高位とされ、その名称は慶長年間(1596~1615)、四条河原で島原の前身六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき、すぐれた傾城を「太夫」と呼んだことにはじまるといわれています。

したがって「太夫」は単に美しいだけではなく、茶・花・詩歌・俳諧・舞踏・文学なあどあらゆる教養を身につけていたわけであり、歴史上は吉野太夫・八千代太夫が有名であります。

「かしの式」とは、太夫を置屋から呼び、お客様に紹介する式であります。
それは太夫が盛装を凝らして盃台の前に座り、盃を回すしぐさをお見せしながらそばにいる仲居が太夫の名を「あんた何々太夫さん」と呼んでお客様に紹介するのであります。

気に入る太夫さんが来るまで何人呼んでもよかったそうです。

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角屋へのアクセス、行き方歩き方

公益財団法人 角屋保存会公式サイト

住所:京都市下京区西新屋敷揚屋町32
電話:075-351-0024/FAX.075-343-9102 公益財団法人 角屋保存会

市バス 島原口下車 徒歩約10分
JR丹波口下車 徒歩7分

2階の特別公開の座敷は事前に電話で申込必要。

二条陣屋は忍者屋敷

ここは京都人も意外と知らない京都観光の隠れた穴場です。
武者だまりや屋形船の茶室、井戸、隠し階段など、ここでしか見れない戦国時代独特の構造がたっぷり拝見できます。

1944(昭和19)年、防火建築として、陣屋式建築として、数奇屋建築としての3点から、当時の国宝保持法に基づく国宝に指定され、現在は重要文化財に指定されている。』

似たような寺が金沢にあります、ぜひ訪れてほしい。
加賀藩の秘策 人呼んで、忍者寺 妙立寺(みょうりゅうじ)

大宮通に面した外観。

写真撮影不可となっているため、内部の様子はお見せできませんが、迷子になりそうな複雑な構造、能舞台、7つの茶室、二重張りの廊下、先人の知恵に次から次へと圧倒されます。

建物の外観は普通の町家となんら変わりはないのですが、内部(一階11室、二階13室)が手の込んだ構造になっていることから話題性を呼んでいます。

豊臣秀吉に仕えて伊予今治7万石の城主となった小川土佐守祐忠は、関が原の合戦に破れて出家し、その長男千橘が、萬屋平右衛門と名乗って、この地で米、両替を商ったが、この建物は、その住宅として寛文10年(1670)年頃に創建されたものである。  

当家屋は、二条場や京都所司代に伺候する諸大名の陣屋として、また奉行所の公事宿としても利用されたので、ただの住宅ではなく、特殊な構造、設備が施され、防火上の工夫も多い。建築様式は数奇屋造りで、極めて繊細優美であり、建築学的価値も非常に高いとされている。

入り口から玄関の風景。

二条陣屋の玄関、暖簾の九曜星は今治七万石小川祐忠の旗印です。

虫籠窓と土戸

京町家に多く見られる虫籠窓は、その形状が虫かご、あるいは麹屋で使う蒸子に似ていることからその名があります。
火災に強い意匠のひとつですが、内側にはさらに土戸が設けられ、開口部を完全に封じて、飛び火の侵入を防ぐようにしてあります。

米・両替商の標章と花頭窓。

玄関前、表の塀の裏側ですが、大きく変わった手水鉢があり、井戸がありました。

井戸は邸内に12有って、元々神泉苑内であった土地柄らしく相互に水脈が連結し、漆喰塗りの外壁と独特な濡れ筵防火設備(開口部に筵を垂らし、至る所にある井戸から水を掛ける)に依って、二条城も焼けた天明大火にも焼け残った、と言うことです。

折から隣の神泉苑では神泉苑祭が行われていた。
善女龍王社拝殿には御神輿を祀り、境内には3本の剣鉾が立てられ、大勢の地域の方や参拝客で賑わう祭典です。

付近は歴史的史跡の宝庫です。
京の中心にそびえる雅やかな城館 二条城
二条城 春の夜に幽玄の世界を彷徨う

武信稲荷神社 龍馬とおりょうの榎

沖田総司の恋人の墓? 光縁寺 新選組隊士の墓

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二条陣屋へのアクセス行き方歩き方

二条陣屋公式サイト

住所:京都府京都市中京区三坊大宮町137
電話:075-841-0972

地下鉄東西線「二条城前」下車すぐ

【予約方法】
見学は事前に電話か往復はがきで申込み

見学時間10:00、11:00、14:00、15:00
見学料1,000円、高校生800円(見学は高校生以上)

電話予約は9:00~17:00

桜咲く伏見を散策

この暖かさで桜も一気に開花する、ここ伏見では桜祭りが開催されていた。

弁天浜の10石舟乗船場、行き交う人も多い。

「十石舟」「三十石船」は、江戸時代に伏見からの酒や米などの搬出および旅客を大坂と行き来させるため、宇治川派流と宇治川・淀川の間を航行する輸送船としてはじまり、明治時代末期まで存続しました。

長建寺には、閼伽水という湧き水があります。
閼伽水とは仏に供える水の事です。

この水は、伏見に湧き出る良質の地下水と同じ水脈から湧き出ています。
弁財天にお供えしたり、庭の桜に木を潤すのに使われているそうです。

高浜虚子の句碑

  花人の 落合ふ駅や 中書島

黄桜の直営店である「キザクラカッパカントリー」の中庭には、社名の由来となった「黄桜」が植えてあります。

社名の由来は、社長が黄桜の花(淡く緑色がかった白い花を咲かせるサトザクラの一種)を好んだことから。

黄桜は別名「ウコン桜」ともいわれ、花びらを10〜15枚つける八重で、淡い黄緑色の花が咲かせる桜。

懐かしいポスターを見つけました、一世を風靡した三浦布美子さんのポスターです。

伏見の黄桜酒造本店に涌く「伏水」は、伏見がかつて「伏水」と呼ばれていたことから命名された。
井戸の深さは約60メートルで、涌き出る水量も多く、まろやかな口当たりは伏見の名水ならではの味。毎日多くの人たちが水を汲みに訪れる。

寺田屋浜乗船場、もうこの辺りから賑わいは始まっています。
淀川三十石船をはじめとする大小の船で賑わった伏見港の中心地は現在の京橋付近でした。

伏見口の戦い激戦地跡
鳥羽伏見の戦いでは、薩長を中心とした新政府軍と、幕府歩兵隊・会津藩兵・新選組など旧幕府軍の間で激しい戦闘が行われた。

旧幕府軍の本拠地・大坂と直結した伏見の水運の中心地・京橋付近でも激烈な戦いが繰り広げられた。

桜満開の4月、伏見を流れる宇治川派流にて桜祭りが開催。
出店やリバーサイドライブで賑わいが生まれ、桜のトンネルの中で開催されるお祭りは今や春の伏見の風物詩。

10石舟も客を満載して下っていく。

松本酒造とその前景の菜の花畑は「燃えよ剣」や「必殺仕事人」をはじめとする時代劇の撮影地となっている場所で、広く知られている。

大正11年に建てられた酒蔵と煉瓦建造物の倉庫と煙突は月桂冠大倉記念館や十石舟等とともに「伏見の日本酒醸造関連遺産」として2007年(平成19年)に経済産業省の近代化産業遺産に認定された。

お昼は桜に囲まれて三栖公園(みすこうえん)でいただいた。

伏見港公園・伏見港広場、宇治川派流は文禄三年(一五九四)豊臣秀吉の伏見城築城にともなう建築資材を運ぶため、宇治川の流路改修工事によりつくられた内陸の河川港です。

疎水の両岸は桜が満開、ここまでは皆さんの足も伸びないようで静かに散策が楽しめます。

三栖閘門は、物資・人員輸送を目的に水位の違う濠川と宇治川に船を通すため、今から84年前の昭和4年3月に、旧内務省によって3年の工期をかけて造られました。
10石舟もここまで下ってきます。

角倉了以の石碑
京都の豪商・角倉了以は、淀川による京都と大阪間の便をより発展させるため、新たに京都二条と伏見を結ぶ高瀬川運河の開削に着手 しました。

この運河を利用することによって淀川を経て、京都と大阪が結ばれ、やがて伏見は港湾商業都市として、飛躍的な発展をみることになりました。

この偉業を称え、高瀬川(宇治川派流と濠川が合流する付近に残っている小さな川)のすぐ横に石碑が建てられています。

伏見御堂、会津藩駐屯地跡
幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が伏見京橋に上陸、ここ伏見御堂を宿陣としました。
現在は幼稚園になっている。

京都市伏見区南浜町にあり、この辺りに土佐藩邸があった。
鳥羽伏見の戦いでは、山内容堂は参戦を禁じたのだが、板垣退助の密命で、一部のものがこの戦いに官軍として加わっている。

この碑は月桂冠情報センター敷地内に立っている。

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ、ごこうぐうじんじゃ)
神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。

境内には桜が多く、特に本殿の東側にある紅枝垂桜は華やかに咲き誇り、参拝者の心を魅了します。

他にも山桜や染井吉野、鮮やかな緋色が特徴である「陽光(ようこう)」という品種の桜を観賞することができます。

伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。

この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。

境内ではネコが仲よくご挨拶。

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