若狭の古刹・名刹 神宮寺

毎年3月2日、奈良東大寺二月堂に香水を送る「お水送り」神事を行っています。
若狭では、お水送りが終わると春が訪れるといわれています。

山門からは長い参道が続きます。

山号霊応山。天台宗。
 
若狭一の宮の神願寺として成立、縁起によれば元正天皇の勅命により和銅7年(714)に泰澄大師の弟子沙門滑元の創建したといわれています。

鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名、七堂伽藍二十五坊を誇りましたが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微しました

本堂は、室町時代末期、天文22年(1553)越前守護朝倉義景が再建。

大きさは間口14.34m、奥行き16.60m。

建築様式は、和様を主体にしたなかに、木鼻に天竺様繰形、唐用束梁などの大陸の技法が用いられており、妻飾も軒隅の反転とともに華麗な姿を表しています。

日本に仏教が伝来した飛鳥時代には、神道と仏教は未統合であったが、平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから日本の神々を護法善神とする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏(本地)の仮の姿である神(権現あるいは垂迹)を祀る神社が営まれるようになった。

鎌倉時代、室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主に保護され、祈祷寺として栄えた。

しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈でほとんどの寺院が神社に転向、あるいは消滅するなどし、急速に数を減らした。

また、福岡県の梅岳寺のように、領主によって明治以前に改名された寺院もある。

現在は、残存した寺院の住職の努力で再興されている。

神宮寺(じんぐうじ)とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。

別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺ともいう。

別当寺は、神社の管理権を掌握する場合の呼称と考えられる。
宮寺は、神宮寺を意味するほかに、石清水八幡宮寺や鶴岡八幡宮寺のように、神祇の祭祀を目的とし、境内には神社のほか仏教施設や山内寺院が立ち並び、運営は仏教僧・寺院主体が行った、神仏習合の社寺複合施設または組織をいうこともある

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若狭の古刹・名刹 萬徳寺

萬徳寺は福井県小浜市にある高野山真言宗の寺院。
山号は延宝山、本尊は阿弥陀如来。天然記念物の大山モミジを借景とする名勝枯山水庭園で知られる。

名勝(国指定) 庭園(1952年3月25日指定)

延宝5年(1677年)に小浜藩主酒井氏の命により築造された面積約1500平方メートルの蓬莱式枯山水庭園。

山麓の斜面地を利用して斜面中段中央に高さ3mの真言密教における本尊石を配し、天然記念物である大山モミジを借景としている。

書院と庭園の間は白砂の広場で仕切られている。

中央は3mの本尊石

当山の前身は極楽寺といい、文永2年(1265年)の若狭惣田数帳に存在が記されている古刹。

室町時代は応安年間(1368年-1374年)に、安芸国円明寺の覚応法印が、極楽寺を天台宗から真言宗に改宗し、寺号も正照院と改めた。

戦国時代には若狭国を領した武田氏が当山を祈願所と定め、さらに天文13年(1544年)に領主武田信豊により若狭国唯一の駆込寺として公許されるなど隆盛したが、元亀年間に兵火を受けて衰退した。

その後、安土桃山時代は慶長7年(1602年)に寺号は萬徳寺と改められ、江戸時代は延宝5年(1677年)に小浜藩主酒井氏の命により音無川の岸から現在の山麓に寺地を移された。

門前にノーゼンカズラがあでやかに咲きほこていた。
少し赤みのかかった花。

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若狭の古刹・名刹 多田寺

多田寺(ただじ)は、福井県小浜市多田にある高野山真言宗の寺院。山号は石照山。本尊は薬師如来。

山門。

山門には古色を帯びた二体の彩色金剛力士像がある。

天平勝宝元年(749年)に孝謙天皇の勅願によって勝行上人が創建したと伝えられ、最盛期には子院12を数えた。

本尊を納める厨子は寛永11年(1634年)に小浜藩主となった酒井忠勝により寄進されたものである。

現在は文化4年(1807年)に再建された本堂が残る。

木造薬師如来立像

多田寺の本尊で、平安時代初期の作。
像高192.5cm。本体から台座蓮肉まで通してカヤの一木造、薬壺を持たない薬師如来。

下半身部分のY字状の衣文の処理は唐招提寺旧講堂薬師如来像、神護寺薬師如来像などの平安初期彫像に共通する様式である。
旧日本三大薬師の一つとして主に眼病祈願の参拝客が多い

この像の特色は、童顔というに近い相好と、衣文の神護寺薬師如来立像(国宝 平安初頭の代表作の一つ)に似た意匠で、面相を拝するとややさがり目の素朴な両眼の表情と、微笑みをうかべるようにみえる小さめの唇に特異の表情がある。

鐘楼は歴史を感じるすばらしいものであるが、細かな注意書きが2枚の立て札に書かれている。

鐘を撞く綱の周囲にもさらにひもが付いていて保護されている。

霊場札所、百寿観音。

多田密寺のもじがみえる、御詠歌が刻まれている。

あたりにはかわいらしいお地蔵さんがたくさん祭ってある。

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若狭の古刹・名刹 明通寺

明通寺は、福井県小浜市門前にある真言宗御室派の寺院。
山号は棡山(ゆずりさん)。

本尊は薬師如来。大同元年(806年)、坂上田村麻呂によって創建されたと伝えられる。本堂と三重塔は国宝に指定されている。

まずこの朱色の橋を渡ります。

橋の下を流れる川は澄んでいて、木漏れ日がさしていい感じ。

急な階段の上は山門(市指定文化財) – 江戸時代の明和9年(1772年)再建、瓦葺、三間、二重門。

三重塔(国宝)

文永7(1270)年上棟。総高22.12m。

和様を基調としているが、初層に拳鼻(こぶしばな、部材の末端部に拳状の装飾彫刻を施したもの)を用いる点に大仏様(だいぶつよう)の要素が現れており、塔に拳鼻を用いた最古例とされている。

明通寺創建当時、棡木(ゆずりぎ)の大木によって、本尊薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体を彫って安置した。

明通寺の山号、棡山(ゆずりざん)のいわれでもあります。

その三体の仏像は、その後火災などによって焼失し、現在の三体の仏像(いずれも国指定重要文化財)は檜材によつて九〇〇年前に彫られたものです

若葉が出てくると古い葉が落ち、次々と代謝していく。

ゆずり葉、譲り葉とも言われる。
含蓄のある名前だ。

お帰り道 勝手門へ。

門の横には樹齢500年のカヤの大木。

そばの畑には半夏生が涼し気に咲いていました。

かくかくに 人は言ふとも 若狭道の
        後瀬の山の 後も逢はむ君

大伴家持の妻・恋人
 
かつて若狭の国府が置かれた小浜は、まるでこの町を優しくつつむような後瀬山に護られている。
 
後瀬とは,「後に逢瀬」を連想させ、国府小浜が比較的都に近いこともあって、その名は通っていたようだ。

表題歌は,恋愛関係にありながら,別れたものの10年ほどの後に夫婦になったと言われる家持の妻の歌。

これには,家持の返歌(万葉集巻4-739)がある。       
  
後瀬山 後も逢はむと 思へこそ 死ぬべきものを 今日まで生けれ

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鳥取藩主 池田家墓所


鳥取池田家は池田家の分家筋であったが、輝政と徳川家康の二女・督姫の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。

また、通常大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはならなかったが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが出来た。

これは鳥取池田氏の他には御連枝や越前松平家の一門といった徳川家一門の親藩と、やはり他の外様大名より家格の高い加賀藩前田氏のみに許された特権であった。

元禄6年(1693年)に初代藩主池田光仲が没し、因幡国法美郡奥谷村、因幡国一宮宇倍神社の北隣に被葬されたことに始まる。

光仲より11代慶栄までの墓がある。
なお、最後の藩主である12代慶徳の墓は多磨霊園にある。

また、支藩である鹿奴藩(東館)、若桜藩(西館)藩主の墓も一部ここにある。

藩主の墓は亀趺円頭墓碑と呼ばれる。高さは各々約4.6メートルである。

亀趺(きふ)とは亀の形をした「趺」すなわち台座のことで、中国では貴族以上の身分に許された墓碑・記念碑の台座である。

この台座は諸大名の墓碑としては、ここ鳥取藩主池田家のものが唯一である。

ただし、2代藩主綱清の墓碑のみ、時の将軍であった徳川綱吉の「生類憐れみの令」に配慮し亀趺が無い。

また、5代重寛の世嗣で夭折した治恕と、11代将軍家斉の十二男で8代斉稷の養嗣子となっていたが夭折した斉衆の墓碑も同様に亀趺円頭墓碑となっている。

中央奥が初代藩主池田光仲の墓。

光仲の墓碑裏側には漢文で功績が刻まれている。
以後の藩主は銅板に功績が刻まれ墓碑の下に埋められている。

各藩主の墓前には廟門・霊廟・回廊が築かれていたが、明治以降老朽化のために撤去され現在はない。

現在は藩主墓も含め78基の墓碑がある。
鳥取池田家の特徴として正室の墓碑には実家の定紋が刻印されている。

また、8代斉稷の養嗣子で夭折した斉衆の墓碑には将軍家の定紋(三葉葵)が刻印されている。

江戸時代の大名家の墓制を知る上で貴重な資料として、昭和56年(1981年)10月13日に、国の史跡に指定された。

同年に史跡指定された大名墓所としては和歌山県海南市の長保寺和歌山藩主徳川家墓所・山口県萩市の東光寺萩藩主毛利家墓所・北海道松前町の法幢寺松前藩主松前家墓所がある。

これらは大名墓所として最初の史跡指定を受けている。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男(輝政の弟)の長吉が6万石で入封し、鳥取藩が立藩した。

元和元年(1615年)嗣子・長幸の代に備中松山藩に転封となった。

同年播磨国姫路藩より、輝政の子・池田利隆の嫡男で池田宗家にあたる池田光政が32万石を与えられて入封した。

光政は在封していた16年の間に鳥取城下町の基盤を整備した。

寛永9年(1632年)備前国岡山藩主・池田忠雄(利隆の弟)が死去し、その嫡男で光政の従兄弟にあたる池田光仲が家督を継ぐと、幼少であることを理由に鳥取藩へ移封され、代わって光政が岡山へ入った。

これ以後、池田氏の分家筋が因幡・伯耆国32万5,000石を治めることとなる。
この忠雄死去の前後に、鍵屋の辻の決闘に関わることで大きな注目を集めた。

幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。

藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。

翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが、明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦した。

明治政府に登用された鳥取藩士は、河田左久馬、北垣晋太郎、原六郎、松田道之らがいる。

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因幡一宮 宇倍神社


宇倍神社は、鳥取県鳥取市国府町宮下にある神社。
式内社(名神大社)、因幡国一宮。

旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社

古代に清音で「うへ」神社と呼ばれたが、語義は不明。境内社の国府神社に合祀された「上神社」に由来するとする説もある。

祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われる。

『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり、成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが当社の創祀かもしれない。

吉田家本『延喜式神名帳』には、仁徳天皇55年、三百六十余歳の武内宿禰が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずになったとある。

なお、本殿裏に残る2つの「双履石」は古墳の一部であり、後に武内宿禰に関する伝説がつくられたとされる。

当地は遺跡が多く、国府が置かれるなど、古くから因幡国の政治・文化の中心であり、当社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列し、同一宮とされた。承徳3年(1099年)、因幡守となった平時範が国府に初登庁した翌日に当社に参拝して奉幣や告文を行い、郡司からの利田請文を奉納したと知られる。

本殿

『二十二社註式』にある大化4年(648年)の創建以降、社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建。

正面三間側面二間の三間社流造の正面一間に向拝を縋破風で付け千木・鰹木を置く。

武内宿禰命は360余歳の長寿であったため長寿の神とされる。

明治32年(1899年)、神社で初めて拝殿が日本の紙幣の図案となり、その後も数度社殿や祭神が図案となったため、金運・財宝の神ともされる。

宇倍神社獅子舞(無形民俗文化財)

昭和34年指定。
因幡地方特有の麒麟獅子舞で山陰独特の獅子舞の原形を伝え、先導役の猩々と獅子の頭役、後役が各1名、太鼓・鉦鼓・能管からなる囃子方3名の計6名で構成され、「入座の曲」の調べにあわせて舞う。

舞は「三方舞」を本式とし、単調でゆるやかな動作は伎楽や能楽に近いとされ、現在は廃れた樗谿神社獅子舞を受け継いでおり、因幡に伝承される各神社の麒麟獅子舞の多くは、この影響を受けたとされる。

東には、中納言行平が百人一首に読んだ稲葉山がなだらかに連なり、南には因幡国庁跡や奈良時代の国司、大伴家持が万葉集に詠んだ歌碑があり、北には国指定史跡の鳥取藩主池田家墓所がある。

庭にはカラーが清らかに咲いています。

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因幡に大伴家持を訪ねる 因幡万葉歴史館


今日のお昼は道の駅「かわはら」

川原城址、美作方面への街道と播磨方面への街道の結節点であり、重要な水運路でもあった千代川を見下ろす要衝の小丘に建てられ、1580年の羽柴秀吉による第一次鳥取城攻略戦の際に陣が置かれたと伝えられている。

ただし、当城が秀吉の本陣だったかどうかは不明。

城跡には犬山城天守を模した展望台(模擬天守)が建設され、「河原城」「お城山展望台」と呼ばれている。

展望台の内部は、旧河原町の観光案内所と資料館となっており、羽柴秀吉が因幡平定後に発した感状などが展示されている。

因幡万葉歴史館は奈良時代~平安時代に因幡国国府が置かれていた国府町に立地する。

当地ゆかりの大伴家持ら万葉集の歌人と、因幡国の歴史民俗文化に関する資料を展示する。

因幡万葉歴史館の竣工を記念し、古代因幡の豪族伊福部家の67代目に当たる、戦後を代表する作曲家の伊福部昭に、大伴家持の万葉集の歌の作曲を依頼し「新たしき年の初めの…」を始めとする「因幡万葉の歌5首」の歌曲が誕生した。

歴史館の竣工式の日に国府町中央公民館で、25絃箏の野坂恵子など日本を代表する演奏家によって初演が催された。

伊福部昭の直筆による楽譜が歴史館に寄贈されている。

因幡の傘踊りは、100個の小鈴をつけ美しく彩った長柄の傘を使い、揃いの浴衣に手甲脚半、白鉢巻に白たすきの凛々しいいでたちで、唄にあわせて傘を回転させながら振り回す、真に勇壮で動きの激しい踊りです。

万葉と神話の庭

一歩外に出れば、回遊式庭園があり、せせらぎに耳を傾けながら「万葉集」に詠まれた約40種類の植物や、国府町にちなむ彫刻を散策できます。

四季折々を彩る万葉植物を楽しめます。

かつら

秋、ハート形の形の良い葉が紅葉します。
材は楽器や家具に使われる。

向つ岡の 若楓(わかかつら)の木 下枝(しづえ)取り 花待つい間に 嘆きつるかも   作者不詳 巻7-1359 
  
乙女を我がものにし、成長を待っている間が待ち遠しく嘆かわしい。カツラの新緑は乙女にふさわしく初々しいものです。

9つの鳥や犬などをモチーフにした彫刻が庭園のいたるところに配置されています。

時の広場

時を刻む日時計をモチーフに、さる・とりなどの「十二支」の彫刻が各方角に配され、悠久の時を感じることができます。

少し離れた場所に家持の歌碑があります。

新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其謄(作者 大伴家持 巻20-4516)。

読み方:「新」は「あらたしき」、「年乃始乃」は「年の始めの」、「波都波流能」は「初春の」、「家布敷流由伎能」は「今日降る雪の」、「伊夜之家餘其謄」は「いやしけよごと」。

口訳:新年と立春が重なり、おまけに目出度い雪が降っている。このように良いことが重なって欲しい

『万葉集』は家持のこの歌をもって終わる。
因幡国に着任したその挨拶として詠んだ歌とされ、万葉全歌をしめくくる歌であるとともに、以降に家持の歌はない。

この歌碑の右側に佐々木信綱が大伴家持の「新しき 年の始めの・・・」から1200年の祭典で詠んだ歌碑が近くにあった。

歌碑:ふる雪の いやしけよ事 ここにして うたいあげけむ ことほぎの歌

口訳:お目出度い雪が降って良いことが重なるこの地で祝福の歌を歌う。

藤波の 散らまく惜しみ ほととぎす
 今城の岡を 鳴きて越ゆなり 読み人知らず

巻10-1944

藤波は藤の花。「今城(いまき)の岡」は奈良県大淀町内の地名その他諸説あって未詳。

「藤の花の散るのを惜しみ、ホトトギスは今城の岡を鳴きながら越えていった」という歌である。

これらの歌碑から少し離れた所に在原行平が因幡の国司として赴任する時の歌碑があった。

この歌は古今和歌集巻8-365に乗っていて百人一首の歌でもある。

歌碑:たちわかれ いなばの山の 峰におふる まつとしきかば 今帰りこむ(在原行平 古今和歌集巻8-365)

口訳:お別れして、因幡へと去ったら、稲葉山の峰に生えている松ではないが、私の帰りを待ち遠しく思ってくれるだろうか。
故郷からの便りでそう聞いたらすぐ帰ってこよう

国府支所の玄関前に展示されていた展示用 カラーマンホール。

町の花「さつき」、町の木「松」、 中央に日本の滝百選「雨滝(あめだき)」が描かれています。

上部に「因幡のふる里」、下部に「こくふ」の文字。
農業集落排水 汚水管マンホール蓋

族(やから)に諭す歌一首

ひさかたの天の戸開き高千穂の 獄(たけ)に天降(あも)りし皇祖(すめろき)の神の御代より櫨弓(はじゆみ)を手握り持たし 眞鹿子矢を手挟み添へて大久米の ますら健男(たけお)を 先に立て 靭取(ゆきと)り負せ 山川を 磐根さくみてふみとほり 國まぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ 服従(まつろ)はぬ 人をも和し掃き清め 仕へ奉りて あきづ島 大和の國の橿原の畝傍の宮に宮柱 太知(ふとし)り立てて 天の下 知らしめしける 皇祖(すめろき)の天の日嗣とつぎて来る君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇方(すめらへ)に極め尽して仕へ来る 祖(おや)の官(つかさ)と 言立てて 授け給へる 子孫(うみのこ)のいやつぎに見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鑑にせむを 惜(あたら)しき清きその名ぞ凡ろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 祖(おや)の名断つな 大伴の氏と名に負へる 丈夫(ますらを)の伴 (巻二十・四四六五)

【口語訳】
天の戸を開き高千穂の岳に降りられた天孫の昔から、はじ弓を手に持たれ、真鹿子矢を脇にはさみ、大久米のますらおたちを先頭に、靫を背負に山川の岩を越え、国を捜し求め、荒れ狂う者たちを鎮圧し国を静めて、橿原の畝傍に宮を建てて、天下をお治めになった天皇の代々の御代に、清い心で仕えてきた祖先から引き継いできた官職であるとお言葉をいただいた大伴家の子孫たちが代々、語り伝えて鏡にすべき立派な名前である。
おろそかにして先祖の名を絶やしてはならない、大伴の氏の名を持つますらおたちよ。

そして、764年、家持は因幡守から薩摩守へ、重ねての転任というかたちで再び左遷させられている。

慎重に行動するよう戒めた「族に諭す歌」から約7年後にして家持が、今度は自らが戒められる側に回ったからである。
仲麻呂暗殺計画に参画したのだ。

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疎水の昼下がり

長瀬川は現在水路状の川となっていますが、以前は柏原市の安堂付近から河内平野を数本に分かれて北流していた旧大和川の主流で、広い所では、川幅が約700mもある大河でした。

宝永元年(1704)の付け替え工事により現在の長瀬川には遊歩道が設けられ、市民の憩いの場となっています。

春先にはカルガモ親子の姿が見られ、近在の人の楽しみの場となっている。

元気に疎水を泳ぐ姿を取材しようと出かけたのですが、あいにくご休憩中でした。

川には、カルガモ、白サギ、ゴイサギなどの水鳥、コイやフナ、時期によっては、ボラの稚魚の大群も見ることができます。

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因幡に大伴家持を訪ねる 因幡国庁跡


因幡国庁跡(いなばこくちょうあと)は、鳥取県鳥取市国府町中郷に所在する、律令制下の地方行政機関の中心施設跡。

1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。

発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。

因幡国庁は、大伴家持が国守として着任したことでも知られる。

758年、家持は因幡守に就任する。
絶頂にあった仲麻呂政権が旧勢力を嫌っての左遷だったとされている。
 
新しき年の初めの 初春の今日降る雪の いや重け吉事
(巻二十・四五一六)
 
『万葉集』は家持のこの歌をもって終わる。
因幡国に着任したその挨拶として詠んだ歌とされ、万葉全歌をしめくくる歌であるとともに、以降に家持の歌はない。
 
そして、764年、家持は因幡守から薩摩守へ、重ねての転任というかたちで再び左遷させられている。

慎重に行動するよう戒めた「族に諭す歌」から約7年後にして家持が、今度は自らが戒められる側に回ったからである。

仲麻呂暗殺計画に参画したのだ。

暗殺計画の首謀者は藤原良継ら、仲麻呂の身内である。

良継の兄は広嗣で、橘諸兄政権のとき、吉備真備と僧・玄防の排斥を聖武天皇に奏上し、沈下していた藤原氏の復権をにらんだ人物である。

聞き入れられずに赴任先の大宰府で乱を起こし、このときの連座で良継は伊豆へ流罪となった経験を持つ。
 
流罪を解かれた後、良継は地方官を経て在京官僚に復帰するが、芽が出ないでいた。

仲麻呂の息子たちは参議にのばっで将来の少中大納言、あわよくば大臣職までを約束されるが、良継は50歳近くとなっでも従五位上。

ぎりぎり貴族と呼ばれるばかりの立場である。

これが伝統体制勢力である佐伯今毛人、石上宅嗣、そして家持を誘った。
 
これはいわば藤原氏の内輪もめで、計画はすぐに仲麻呂側に漏洩してしまい、良継、今毛人、宅嗣、家持は逮捕された。
 
時に家持は40代半ば、脂は乗りきっでいるが位階は従五位上である。

左遷による地方生活が長いことに、中央へのかなりの反発心が為っだことが想像されるが、心情を図れる歌は残っていない。

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若狭の古刹・名刹 圓照寺


圓照寺(えんしょうじ、円照寺)は、福井県小浜市尾崎にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は地久山。本尊は大日如来。

大和国春日大社の神託で彫られた大日如来像を三笠山にて祀ったのち、南川対岸の谷田部地区の若狭堂谷に真言宗遠松寺を建立し祀ったという。

南川の洪水により、文安元年(1444年)に現在地に移して圓照寺と名を改め、より臨済宗南禅寺派に改宗。

若狭観音霊場第20番礼所。

庭園は、自然地形を利用した回遊式庭園。

モリアオガエルの生息地としても知られる。

池の畔にはホタルブクロも咲いていた。

石を配した参道の周りには銀杯草が植えられている。

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