元愛宕 愛宕神社


京都府亀岡市千歳町国分にある神社。
旧称は「阿多古神社」。
式内社で、旧社格は村社>

愛宕灯篭

亀岡市内には愛宕灯篭がいくつかあり、石灯篭内部にある燭台は町内を回覧板のように各家に回っていく。

この燭台は手提げ式の灯篭になっており、各家は回ってきた燭台に火を灯して次の家に回す。

社伝では愛宕山の愛宕神社(京都府京都市)は当社からの勧請とし、そのため「元愛宕」や「愛宕の本宮」とも称される。

愛宕山の愛宕神社同様に「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参詣すると一生火災に遭わないとして信仰される。

つまり亀岡の愛宕神社が最初にあって、そこから京都市に勧請されたと言われているのです。

元祖が亀岡で、京都市のは分社ということです。

亀岡の方が創建年代が500年ごろ。

対して京都市の方が大宝年間(701~704)。亀岡のほうが二百年近くも早く作られています。

しかし、京都市のほうが人口も多いので、いつの間にか京都市側のほうが有名になってしまったわけです。

社伝によると創祀は神代で、山を神籬として祀られたという。

その後、継体天皇元年(507年?)に社殿が創建されたと伝える。

当社付近には丹波国分寺が位置するが、その衰退で僧侶が当社に奉仕したこともあり、神仏習合によって仏像が立てられ「愛宕権現」と称されたという。

現在、その仏像は当社西にある養仙寺に移されている。

また社伝では、当社の分霊が京都鷹ヶ峰に祀られた後、和気清麻呂により嵯峨山に遷され、これが現在の愛宕山の愛宕神社になるとしている。

そのため「元愛宕」「愛宕の本宮」とも称されるほか、社殿には当社が全国の愛宕神社の総本山であると記載してあり、鳥居脇の社号標にも「本宮 愛宕神社」と記している。

社務所の前には「亀岡の名木 大スギ」があり、境内の中央には「亀岡の名木 イヌマキ」。

当社の森にはムササビが住んでいるらしいのだが、参拝時には見かけなかった。

牛松山へ向かう道。

明智越に至り、 明智光秀が織田信長を奇襲攻撃するために、亀岡から京都へ抜けるために利用した山道である。

山道付近は紅葉の真っ盛り。


「和らぎの道」に至る。
桜の名所として有名です。

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なぎさ海道散策


駅舎はJR西日本グループのショッピングセンター(JR西日本アーバン開発)、ピオレ明石及び山陽電鉄明石駅と一体化している。

明石城はJR明石駅北側に位置し、駅ホームより間近に望める。

縄張りは連郭梯郭混合式の平山城である。

丘陵舌端に築かれ、本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており、この地は嘉吉の乱で激戦地となった。

今から400年前の1619年(元和5年)に、初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)が外様大名の多い西国の備えとして、徳川幕府2代将軍秀忠から命じられ築城されました。

本丸跡に建つ巽櫓・坤櫓は日本に12基しか現存していない三重櫓のうちのふたつで、国の重要文化財に指定されています。

人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられている。

築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されている。

岩屋神社

社伝によると、成務天皇13年6月15日に天皇の勅命により、淡路島の岩屋より神を勧請して創祀されたと伝えられる。

同年夏に当地の子供に淡路島の岩屋の神が懸かり、当地に勧請するようお告げがあり、勧請したという伝承もある。

旧波門崎燈籠堂(通称 明石港旧灯台)は石造の灯台で、1657年に当時の明石藩主 松平忠国によって作られたと伝えられている。

古代明石港は明石川河口にあったと推測されているが、1621年 当時の明石藩主 小笠原忠真によって城造り、町造りの一環として砂浜に掘り込みを行い新たに明石港が作られた。

明石海峡大橋架橋以前は、岩屋港(播淡聯絡汽船・淡路連絡汽船・明石淡路フェリー)、富島港(西淡路ライン)など淡路島へ旅客船が頻発していた。

架橋にともない航路・事業者が再編されたものの、旅客減により航路廃止が相次ぎ、富島航路が休止となった2008年5月19日以降は、淡路ジェノバラインによる岩屋航路のみが発着している。

内港は小船がひしめいてどうやって外に出るのかなと心配するほど。

魚の棚(うおんたな・「うおのたな」或いは「うぉんたな」とも)は、兵庫県明石市本町一丁目にある商業地区。

鮮魚店が多いのが特徴で、県外からの客も多く明石の観光地としても重要な位置を占めている。

過去にはマルハの創始者中部幾次郎の林兼商店(はやしかねしょうてん)などもあった。

とくに、海峡付近や播磨灘一帯で採られ明石漁港から水上げされた新鮮な魚介類を「前もの」と呼び、「明石鯛」「明石蛸」を筆頭に活きの良さを売り物としている。

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明石文化博物館

明石市立文化博物館は明石駅からほど近く、1991年10月、明石海峡を望む高台に開館。

明石の歴史と文化を「自然環境と人々のくらし」と題して八つのテーマで紹介する常設展示のほか、特別展や企画展などを開催しています。

200万年前に棲息した「アカシゾウ」の実物大模型。

アカシゾウは、明石市とそのまわりの地域から多数の化石が見つかっています。

特に1960年代までは、林崎から江井ヶ島までの海岸の崖からよく発見されました。

た、明石海峡からは現在でもしばしば漁船の網にかかって引き上げられています。

アカシゾウは、象としては小型で今の象と比べると胴の長さのわりに足が短く、肩の高さは大きな個体でも2mくらいでした。

甕、赤根川金ヶ崎窯。

明石の漁業

明石市は、明石海峡のもたらす影響により、地先海域は起伏に富んだ海底や複雑な潮流から瀬戸内海有数の好漁場であり、古くから漁業が盛んな地域です。

当地域で、営まれている漁業は、5トン未満の小型漁船を使用した小型底びき網、船びき網、たこつぼ、一本釣り、ひきなわ、はえなわなど多種多様な漁船漁業に加え、漁業者の約半数が従事するノリ養殖漁業であり、水揚げされる魚介類は「明石だこ」「明石鯛」「明石のり」をはじめ四季折々に多種多様です。

浮樽

昔の網漁のウキ。
上部の筒の中に油をしみこませた布や縄を入れ、それに火をつけて目印にした。

明石海峡のジオラマが展示されている。

明石沖で深く切れ込んだ海溝は不気味なほど、我々は普段意識することなくこの海峡を行き来している。

新門司へのフェリーで何度この海峡を行き来したことか、海峡の深さを意識することなく・・・・・

日の出の瀬戸内航路
早朝5時小豆島沖を航行中、闇には灯台の灯りが時折り灯る。 低い雲間からの日の出。 … 続きを読む →

明石海峡大橋を過ぎたあたりは好漁場なのかおびただしい数の漁船が出漁中。
遠景に湾岸道路、京阪神の街並み。

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柿本人麻呂を祀る柿本神社


柿本神社人丸山西麓の西鳥居。

亀の水(亀齢水)

人丸山西麓の西鳥居前に湧く地下水。
延命長寿の水としての信仰を有する。

元禄12年(1699年)、現在の西参道を造営するに際して手水舎として設けられたのが始まりという。
現存する手水鉢は享保4年(1719年)に飯塚宣政によって寄進された。

明石天文科学館展望室からの柿本神社。

人丸山の頂上に鎮座するが、山名も当神社に因むもの。
旧社格は県社。旧くは「人丸神社」と称し、地元では「人丸さん」とも呼ばれる。

柿本大明神とも称される柿本人麻呂朝臣を祀る。

嘉暦2年(1327年)に著された『人丸縁起』によると本地仏は十一面観音で、その像は旧別当寺として隣接する月照寺に祀られている。

ただし創祀の事情に関しては、人麻呂が水死させられたという説があるので本来は非業の死を遂げた人麻呂の怨霊を慰めるために祀られた可能性、あるいは『古今和歌集』に詠み人知らずの歌として「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れゆく舟をしぞ思ふ」という歌が載せられ、左註に「ある人」の言として作者は人麻呂であるとされ、神社ではこの歌を縁起として重視していることと、人麻呂が文武天皇から下賜された船乗十一面観世音の仏像が大和国の柿本寺という寺にあったのを覚証が迎えて楊柳寺の奥の院に祀ったところ仏像の胎内から『和歌秘弁抄』なる書物1巻が出たとの伝承があることから、和歌を含めた秘事口伝が重んじられるようになった時代に「ほのぼのと」の歌が人麻呂作と信じられそのことが直接の契機となって、神社が創祀された可能性が考えられる。

因みに当神社と密接な関係を持つ月照寺の寺伝によれば、覚証は大和国の広安寺なる寺から人麻呂の念持仏であった船乗十一面観世音を勧請して楊柳寺の奥の院に祀ると共に寺号を月照寺と改めたといい、また同寺では「ほのぼのと」の歌に「初生(ほのぼのと) 娑婆世界(あかしがうらの)朝立霧(あさきりに) 四魔滅(しまかくれゆく) 念仏(ふねをしぞおもふ)」との字を充て、各句を発心大円鏡智(生)、修行平等性智(老)、菩薩如観察智(死)、涅槃成行作智(病)、法界体性智(苦)の「生老死病苦」という仏教的摂理で解釈している。

811年(弘仁2年)空海がかつて明石城のあった赤松山に創建した湖南山餘鵜楊柳寺にはじまると伝えられている。

1618(元和4)年に明石城築城に伴い柿本神社とともに現在の位置に移った。

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万葉集と古代史の謎を訪ねて 阿騎野
現在県宇陀郡大宇陀町を中心としたこの一帯は、飛鳥時代には菟田の「阿騎野」と呼ばれ … 続きを読む →

中山正實画伯の壁画「阿騎野の朝」をもとに作られた柿本人麻呂像。

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今だけの穴場スポット 吉城園


観光客で溢れる東大寺や奈良公園と違い静寂な世界。

2022年に高級ホテルの開業が予定されており、さらに整備される可能性もあり今後の変化が愉しみな庭園でもある。
(当初2019年開業であったが、2022年に延期されました。)

吉城園(よしきえん)は名勝依水園(いすいえん)のすぐお隣(西南側)にある県所有の日本庭園です。

秋には「苔の庭」の周囲のモミジが色付き、美しいコントラストも楽しめます。

紅葉シーズン終盤の、苔の庭の杉苔を散り紅葉が敷き詰める様子はなんともうつくしいです。
11月下旬なら散り紅葉が楽しめると思います。

隣の依水園を訪問したついでに寄ったので紅葉はまだこれからです。

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紅葉一号は依水園


2020年の紅葉第一号は奈良の依水園。

寧楽の都をモチーフとし、若草山や東大寺南大門などを借景とする。
いずれも大和川支流吉城川(よしきがわ)の水を引いている。

後園の池泉回遊式庭園が依水園の紅葉シーンを代表する景観となっており、庭園のイロハモミジと合わせて、ほぼ同時期に色づく真っ赤なドウダンツツジも楽しめるようになっている。

真っ赤なドウダンツツジが見事。


真っ赤なモミジがこの時期のシンボル。

水車小屋のある水回り。

陽気に誘われてカタツムリが出現。

前園は寛文12年(1673年)に晒職人であった清須美道清の作庭で、茶室「三秀亭」がシンボル。


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宮本武蔵作庭園の残る 雲晴寺


1639年 (寛永16年)、明石藩主大久保忠職とその姉桃源院(東丸様、元安房館山藩主里見忠義正室)は、不遇の死を遂げた忠義の菩提を弔う為、ここにあった寺院の伽藍を整備し寺領を増やして供養を行い、里見忠義の法名「雲晴院殿心窓賢涼大居士」からとって雲晴寺と名が改められた。

本堂裏には戦前まで宮本武蔵作と伝えられる庭があったが、1945年(昭和20年)7月の大空襲によって雲晴寺は山門を残して全焼し、庭も戦後復興の過程で埋められた。

2003年(平成15年)、本堂建設に伴う発掘調査により庭園の一部が見つかり復元。

その後武蔵の孫弟子にあたる柴任三左衛門夫妻の墓石が発見され、武蔵ゆかりの寺院の裏付けが濃くなった。

軒を支える邪鬼

山門を入ってすぐ左手に、台座の上に立つ地蔵菩薩像があります。

花崗岩製で、高さ約1.5mの舟形光背面に浮彫りされ、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。

これは江戸時代前期のもので、地蔵菩薩像として非常に貴重なものであります。

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子午線の街明石


明石市立天文科学館は、兵庫県明石市にある、日本標準時子午線上に建つ「時と宇宙」をテーマとした博物館。

手前のドームがプラネタリウム投影室。

壁面に子午線の街のイラストが・・・・

一番館の玄関横を通る子午線上に漏刻が設置され、また「JSTM」(Japan Standard Time Meridian=日本標準時子午線)と表示された時計塔がある。

この塔は東経135度の日本標準時子午線の直上に建設されており、日本標準時子午線を示す標柱の役割もある。

漏刻について

近江神宮の御祭神天智天皇は、その10年(671)4月25日に漏刻を作り、大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始されました。

その10年ほど前、斉明天皇の6年(660)にも中大兄皇子が漏刻を作られたとの記述があり、どちらにも「初めて」と書かれているので、その関係はよくわかっていません。

そして斉明6年の方には日付がないので、天智10年のその日を太陽暦(グレゴリオ暦)に直して6月10日を時の記念日とされました。

飛鳥資料館
1970年閣議において飛鳥地域の出土品などを保管するための施設の建設が決定され、 … 続きを読む →

漏刻とはサイフォンの原理を利用した水時計。

当館の模型は中国の故宮博物院に遺されている清代の漏刻を参考にしている。

漏刻の目盛りは現在時11時20分を指している。
「あきつ」の古名を持つトンボがメモリに使われている。

展望室からは明石の街が一望。

天文学では、地平線上の真北から天頂を通って真南へ至る天球上の仮想的な大円を子午線と呼ぶ。
従って北半球では天の北極、南半球では天の南極が必ず子午線上にある。

1884年、国際子午線会議で英国グリニッジ天文台を通る子午線を世界の時刻の基準となる本初子午線とし、そこから15度離れるごとに1時間ずつ時差のある時刻を各国が採用することを決めた。

日本標準時の基準となる東経135度子午線は、明石市を含む12市を通っています。

北から京丹後市、福知山市(以上京都府)、豊岡市、丹波市、西脇市、加東市、小野市、三木市、神戸市西区、明石市、淡路市(以上兵庫県)、和歌山市(和歌山県)です。

それぞれの町には、目には見えない子午線を表示する標識やモニュメントが建っています。

早い者勝ちで決まった「日本の標準」・・・・嘘のような本当の話。

日本標準時の制定は86年。
明石市最初の標識はその14年後、標準時子午線の重要性をいち早く認識した明石郡校長会が立てたものだ。

この標識は場所は移ったが、今も明石市天文町の交番前にある。

明石市立天文科学館から南に延びる子午線のライン、5最初の標識とある地点が今も明石市天文町の交番前にある。

公園にある「時のふるさと明石」の像、子供たちが背負う地球儀にもちゃんと子午線が引かれている。

柿本神社前の水平日時計。

東経135度をしめす標柱、高さ7m・直径15cmの鉄柱で、上部に地球の子午線を象ったカゴ球がのり、トンボが上に止まっています。

日本の古名《あきづしま》に因むトンボ(あきづ・あきつ)です。

夜には、カゴ球の内側に赤いランプが点灯します。

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卑弥呼と会える!大阪府立弥生文化博物館

古代を代表する女性といえば、必ず名前の挙がる邪馬台国の女王・卑弥呼。

しかし、卑弥呼がどのような女性であり、どのような暮らしを送っていたか、そして、邪馬台国をはじめとする弥生時代のクニがどのようなものであったか、ご存知ですか?

弥生時代の文化や習俗を紹介した大阪府立弥生文化博物館では、そんな女王・卑弥呼の人物像や暮らしぶりなどを知ることが出来るのです。

女王・卑弥呼は2世紀後半に勃発したとされるその「倭国大乱」の後、邪馬台国の女王として「共立」され、歴史の表舞台に登場して来ました。

写真は「卑弥呼の館」。

その名のとおり、当時、卑弥呼が暮らしていた館を想像的に再現した模型。

横5メートル、縦3メートルという大型模型で、環濠と城柵によってかこまれた内部には、卑弥呼の館のほかにも政事をつかさどった建物や倉庫、物見櫓なども再現されています。

『魏志倭人伝』によると、女王になってから卑弥呼の姿を見たものは少なく、一人の男子が飲食を給仕するために卑弥呼のもとに出入りしていたと記述されています。

この館のなかで卑弥呼はどのような暮らしを送っていたのでしょうか。

景初3年(239)、卑弥呼は難升米らを中国大陸に派遣。

魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられました。

ご覧のように、写真では銅鏡を高らかに掲げた卑弥呼の姿が再現されていますが、この時代、銅鏡が権威の象徴でもあったことを踏まえると、実際に卑弥呼がこのように銅鏡を掲げ、国内外にみずからの力を誇示していたことが容易に想像できます。

写真は卑弥呼の食卓を想像的に再現したコーナー。

季節は春に設定されており、各地の遺跡から出土した骨や種子などを分析して得られたデータのもとづいて再現されています。

野菜を混ぜ込んだ炊き込みご飯を主食とし、マダイの塩焼きや煮物、汁物などが並べられていますが、さすがは邪馬台国の女王であることを印象付けられる食卓です。

卑弥呼の宝石箱として、想定復元した首飾り等の宝飾品が展示されている。

先に示したように魏から賜った真珠や金八両から作った金環(イヤリング)は見当たらないが・・・。

先の卑弥呼の着衣と宝飾品で身を飾る様は、現代人と何ら変わることはなく、江戸期や昭和初期の庶民のモノトーンの世界と比べれば何なのかという想いがよぎる。

ひょっとすると卑弥呼の宮室は、賜った鉛丹により朱色に輝いていたのではないかと、飛躍して考えたくなる。

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弥生農耕 大阪府立弥生文化博物館


弥生文化博物館は日本で唯一弥生時代をテーマにした歴史博物館だ。

弥生文化の基礎は農耕、特に水田でのコメ作りだと考えられています。

弥生研究の主テーマは各地での稲作の導入過程とその展開・結果の追求だったといってよいでしょう。

弥生土器、登呂式の新しい段階。
約AD1~AD180 静岡県登呂遺跡。

登呂遺跡で水田が最初にみつかってから現在まで、その具体像はおおよそ明らかになったといえますが、解決していない論点も残り、新たな分析手法の導入で逆に深まる謎もあります。

鋤、池島・福万寺遺跡 弥生時代前期 約BC700~BC400

排水管、志紀遺跡 弥生時代前期 約BC700~BC400

この時代にこんなものまで作られていたとは驚きです。

田下駄、曲金北遺跡 古墳時代中期 約AD400~AD500

本展では、水田というコメを栽培する場に焦点を当てるとともに、近年みえてきた畠作の問題を取り上げます。

農耕の意味を知るには、栽培はもちろん、収穫、保存、食べるまで含めて考える必要があります。

春の水田風景。

弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。

採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。

池上・曽根遺跡は、大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡。

南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がり、総面積60万m2に達する大集落遺跡である。
1976年に国の史跡に指定された。1995年から史跡整備が行われている。

高床式大型建物 建築様式:掘立柱建物建物は井戸の北側3.5mにあり、東西17m、南北7m、面積約135m2の最大級の独立棟持柱(むねもちはしら)の高床式建物跡で、神殿らしい。

建物を支えていた直径70cmヒノキ柱の基礎部分25本が腐らずに出土。

柱の間隔は1.8m、長辺の中央部2.3m前後。

土器編年では弥生時代中期後半であるが、柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、紀元前52年に伐採されたことが判明。

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1928年の調査で多量の弥生時代の石器や土器が出土し、これらの出土品から弥生文化が北部九州から畿内へ流入したと初めて指摘された点で学史上著名な遺跡である。

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