八幡堀雨中散策


近江八幡市は、豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展した。
いわゆる近江商人の発祥の地。

今日は雨、赤いポストの似合う通り、雨もお似合い。

近世の風情がよく残る新町通り、八幡山もガスに煙る。

この辺りからは八幡城跡もよく見える。

橋の上の人はボランティアのエキストラ。

「時代劇の似合うまち近江八幡」をアピールしようと、近江八幡観光物産協会が春と秋に行っている催しで今回が11回目。

こちらにもさりげなく街の風景に溶け込んでいる。

日牟禮八幡宮、伝承によれば、131年、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている。

691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。

ここにもボランティア侍。

黄菖蒲は近江八幡の顔、雨によく似あっている。

建造当初から、堀には「背割り」と呼ばれる排水路による下水システムがあり、堀に溜まった汚泥は、船の運航にさしさわる前に随時浚渫され、近隣の田畑の肥料として使われていた。

また、その田の粘土を使って八幡瓦が作られていた。

ヴォーリズは、近江八幡名誉市民第一号、女の子が名誉市民のお祝いの花束を渡している情景を像にしています。

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鶏足寺


鶏足寺への小径、途中の沼沢地。


亀山の茶畑

己高庵より鶏足寺(旧飯福寺)への道。
ここには北国には珍しくお茶畑が広がるが、平安時代からの伝統があるという

鶏足寺は、山岳信仰の霊地であった己高山(こだかみやま、923m)の山中に所在した。

寺は昭和8年(1933年)に焼失し、その後は事実上廃寺となっているが、伝来した仏像のみ山下の収蔵庫に安置され、地元住民によって管理されている。

旧飯福寺は紅葉の名所として名高く、秋には多くの観光客でにぎわう。

秋の紅葉めぐり 鶏足寺(旧飯福寺)
鶏足寺跡とされる寺院跡は己高山の山頂近くにある。 また、山麓の古橋地区から徒歩1 … 続きを読む →


鶏足寺は己高山の中心寺院であった観音寺の別院であったもので、伝承によれば天平7年(735年)、行基によって開基。

いったん荒廃したものを延暦18年(799年)最澄が再興したという。
文永6年(1269年)下野国・薬師寺の慈猛が、それまで天台・真言宗、兼帯であったのを真言宗に改宗した。

奈良・興福寺に属する寺院を書き上げた『興福寺官務牒疏』という資料(嘉吉元年・1441年)には、己高山の五箇寺として法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺の名があり、観音寺の別院として鶏足寺、飯福寺、円満寺が挙げられている。

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石道寺界隈


石道寺(しゃくどうじ)は、滋賀県長浜市にある真言宗豊山派の寺院。
山号は己高山。 作家井上靖が、小説「星と祭」の中で当寺の観音像の姿を村の若い娘に例えたことで知られる。

主人公である会社社長、架山が、前妻との間にできた17歳の娘を琵琶湖で亡くし、その悲しみの心の変化を描写した小説です。

遺体が見つからないことから、きちんとした形で娘の葬儀すらできないことに悶々としながらも何年も過ぎていくのですが、その間に琵琶湖の十一面観音のことを知ります。

一度、誘われて十一面観音を拝観しに行ったところ感銘を受け、その後も他の十一面観音を訪ねるようになります。

石道寺のよこから鶏足寺(旧飯福寺)に行く石段があります。

旧木之本町の東方にある己高山(こだかみやま、923m)の山頂および西麓一帯には、古代から中世にかけて多くの寺院が建立され、天台系山岳信仰の聖地であった。

石道寺も己高山関連寺院の一つで、もとは現在地よりさらに1kmほど東の山中にあったが、大正3年(1914年)本堂を現在地に改築し、石道観音堂を合併し新石道寺が誕生した。寺は地区住民により管理されている。

與志漏神社

景行天皇の御代 武内宿称勅命により、北陸巡行の折この地にさしかゝり、荒廃殊の外著しく、この原因は大蛇生棲し人畜に危害を及ぼすと聞き、その子波多八代之宿称を招き須佐の男命の神霊を御剣に勧請しこれを討ち給う、これによって難を他郷に避けていた郷人帰農しいたく宿称の徳として、須佐之男命の神霊と併せ祀るに至る。

聖武天皇の御字、行基この地に来錫し、この大神と習合するに己高山に鶏足寺を創建し、当地の傍らに社坊を建立した。

降って桓武天皇の御宇、最澄が鶏足寺の荒廃を再興し「十所権現」と称して鶏足等の鎮守としたが、当社もその内に加えられた。
「世代山戸岩寺」も現存し、天平時代の諸佛を遺し重文となっている。

浅井長政も神田を寄進その奥方お市の方の寄進と伝える屏風一双あり、昭和38年神社境内地に校倉式の収蔵庫を建設して天平佛、鎌倉佛を収蔵した。
明治9年村社に同18年郷社に列し、同42年神饌幣帛料供進神社に指定された。延喜式内社。

滋賀県神社庁

旧岩戸寺の本堂。

後ろには興志漏神社の拝殿と本殿があって、己高閣と世代閣は神社の境内にあるのが分かります。

大きな樹にできた祠に、別の木が生えてきています。
台風で、こちらがわの幹が折れてできた祠だそうです。

山麓の古橋地区の与志漏神社(よしろじんじゃ)境内には薬師堂、大日堂のほか、己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)と称する2棟の収蔵庫が建ち、鶏足寺や関連寺院に伝わった仏像などはこれらの収蔵庫にて収蔵・公開されている(指定文化財の仏像の所有者名義は「鶏足寺」となっている)。

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眼の地蔵菩薩 木之本地蔵院


伝承によれば、天武天皇の時代(7世紀後半)、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりという。

その後、現在の木之本に移転する経緯については2つの異なる伝承がある。

一つの伝承は奈良・薬師寺の僧を開山とするものである。
これによると、天武天皇4年(675年)、地蔵像をより縁深き地に安置するため聖武天皇の勅命を受け、薬師寺の祚蓮上人が北国街道を下った。

休憩のため地蔵像を柳の下に降ろしたところ、そこから動かなくなったため、この地を安置場所と定め、柳本山金光善寺と号して一寺を建立した。

後にこの地は、「柳の本(やなぎのもと)」と言われ、さらに「木之本(きのもと)」と言われるようになったという。

今一つの伝承は、文武天皇が北陸の白山参詣の途上、木之本の地で紫の雲を見て、この地が霊地であると知り、難波の金光寺を木之本に移したとするものである。

以上の草創伝承は各地に多くある霊験譚の域を出ないものであり、どこまで史実を反映したものであるかは定かでない。

境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされている。

眼の地蔵菩薩として信仰を集めている。

木之本地蔵院は、眼の仏さまであり、片目をつむった身代わり蛙たちが住んでいます。

お寺に住む蛙は、多くの人々が眼の病気で困っているのを見て、「すべての人々の大切な眼がお地蔵さまのご加護をいただけますように」と、自らが片方の目をつむることによって身代わりの願をかけたと言い伝えられています。

北国街道

木之本宿には昭和の初めまで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していましたが、現在では埋め立てられ、商家の家並みに昔の情景を残しています。

旧本陣 竹内五左衛門家

京都、江戸、北陸を結ぶ宿場の本陣跡。

藩政時代には、大名などが、絶えず宿泊した宿札や記録が数多く残っている。

また、将軍の息女、溶姫一行が滞在したときは、三千人分の寝具などを、助郷から集めたと記されている。

先々代の当主は、明治二十六年全国で日本薬剤師第一号の免状を取得されている。

軒下柱の馬繋ぎ金具に宿場の面影を残す。(現地案内板)

木之本地蔵院の斜め向かいの、富田八郎家〈富田酒造〉。

天文2年(1533)、当地に移り住み、以来、酒屋を営む傍ら庄屋を務めたと言うお家。

創業470年の歴史を誇る酒蔵。
ここのお酒のラベルは、当家に逗留した北大路魯山人によって書かれたものだという。

また、ここは明治天皇の北陸巡幸の際、岩倉具視が宿泊をしたところだ。

町の花こぶしと、町を流れる3つの清流高時川、杉野川、余呉川をデザインしたマンホール。

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観心寺 雨中の散策


伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。

その後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。

これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。

今日は雨中の散策となってしまった。

ボタンも雨に濡れてきれい。

金堂は大阪府下で本堂として最古の国宝建造物であり、七間四方、単層入母屋造、和様、禅宗様、大仏様の折衷様式の代表的な遺構である。

室町時代初期に建立され、豊臣秀頼の時、江戸時代の中期、明治の初め、昭和の初め等たびたび修理し、昭和五十九年に昭和大修理の落慶をみた。

本尊は如意輪観音で脇侍は不動明王、愛染明王、内陣に板製の両界曼茶羅がある。

境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。

伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている。

後村上天皇桧尾陵へと通じる、南朝の後村上天皇は後醍醐天皇の思いを受け継ぎ、足利尊氏を討ち果たして天下の覇権を握る野望に固執した生涯の果てに、住吉行宮でその野望と共に崩御する。

その南朝軍と足利軍との戦いの中でも最終局面において、後村上天皇はなぜ賀名生を出、天野山金剛寺・観心寺をも通過点にして住吉行宮を終焉の地としたのでしょうか?

南朝の里 賀名生梅林散策
奈良には「三大梅林」というのがある。 「賀名生(あのう)梅林(2万本)」「月ヶ瀬 … 続きを読む →


楠木正成首塚。

開山堂(本願堂)、本山の実質的開基で空海の弟子だった道興大師実恵(じちえ)が祀られている。

訶梨帝母天堂

鎮守社・鎮守堂とも呼ばれており、訶梨帝母天を鎮守としてまつっている。

訶梨帝母は、サンスクリット語のハーリティーを音写したもので、鬼子母神とも呼ばれて、次のような伝承があります。

訶梨帝母は他人の子どもをさらって食べてしまいます。

仏は一計を案じ、彼女の子どものひとりを隠しました。
子を失う親の苦しみを悟らせました。

それ以後、訶梨帝母は改心して、仏教を守護するようになったというものです。




楠木正成像。

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南北朝の哀史をとどめる金剛寺


山号は天野山(あまのさん)。
高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。

鎌倉時代末期には100近い塔頭があり、後醍醐天皇と近しい関係を築き、南北朝時代には観心寺と共に南朝方の一大拠点となった。
延元元年/建武3年(1336年)10月1日には後醍醐天皇によって勅願寺とされた。

また、この時の綸旨には「皇統の長久を祈るべし」とあるが、数百通ある後醍醐天皇の綸旨の中でこのような文言が書かれた綸旨は他にはない。

また、室町幕府に追われた後醍醐天皇の護持僧である文観をかくまっている。

つい先日落慶法要が営まれたばかりの金堂。

御影堂

食堂(じきどう)

庭園の緑がきれいです。

宝物殿

正平9年/文和3年(1354年)3月には大和国賀名生から北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・廃太子直仁親王を当寺に移動させると観蔵院をその行宮とし、10月には後村上天皇自身も到来し、摩尼院を行宮として食堂を政庁天野殿(あまのでん)とするなどして南朝の本拠地とした。

正平10年/文和4年(1355年)には光明上皇を京都に返し、正平12年/延文2年(1357年)2月には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返された。

そして正平14年/延文4年(1359年)12月には後村上天皇も観心寺に移った。

光厳・光明・崇光 北朝三上皇の御座所

先年、他の取材で金剛寺を訪れた時、その幽居の跡をみて、私はなんともいえぬ感慨に
打たれた。下の書院には、後村上天皇が、上の庵室めいた離れには、北朝の上皇方が、肩をつき合わすように暮していられたのだ。それはお互いに犬そう間の悪い、油断のおけぬ日々だったに違いない。

そして、血で血を洗う争いが、いかに空しい地獄であるか、心の中では痛感されたであろう。半世紀にわたる乱世の間、辛い思いをされたのは南朝の天子・・・・・・

白洲 正子のエッセイ 「かくれ里」の南北朝哀史。

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ボタン咲くころ


長谷寺は朱鳥元(686)年、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を西の岡に安置したことが始まりという。

仁王門を抜け、本堂へと続く登廊(重要文化財)は399段に渡る石段になっており、天井には楕円形の灯籠が吊られている。

登廊は4月下旬から5月上旬に見頃をむかえるボタンに彩られる。

ミドリのきれいな季節になりました。

訪問したのはボタン祭りの最終日、ボタンもほぼ盛りを過ぎている。

登廊のそばの石垣にはテッセンが見頃を迎えている。。

石垣にはわせているがおもむきがあっていい。


登廊のそばのボタンはほぼ終わっており鉢植えの花が並べられている。

本堂を通して、外の景色を眺める。

礼堂から眺める五重塔、ここにもボタンが。

長谷寺の牡丹は、今から千年以上も前、「唐の僖宗皇帝の妃、馬頭夫人が、遠く海を越えた大和国長谷寺十一観世音に願いをこめて祈願したところ、その願いが叶い、御礼として十種の宝物に牡丹をそえて献上した」という寺伝によって始められたのだとか。

目を閉づるとき 牡丹花曰く
      ここにわれ在り    ポール・クローデルの『百扇帖』

目という感覚に映る牡丹より心で想像する牡丹のほうが、より牡丹であるというのだ。

ちりて後おもかげにたつぼたんかな  与謝蕪村


巨大な十一面観音さまの御足に触れてご縁を結べる「大観音特別拝」とぼたん。

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春から夏へ花のメドレー


近鉄大阪線三本松駅は無人駅、滝谷ショウブ園へは三本松駅から徒歩25分(4月中旬~6月下旬のしょうぶシーズンのみ奈良交通の臨時バスjあり、6分、その他の時期は要連絡で送迎あり)

三本松長瀬の大師堂と室生寺を結ぶ道沿いに広がる。
この道は、かつて多くの参拝客が通り大師の道と呼ばれていた。

この花しょうぶ園は広さは1万坪で、600種100万本のハナショウブが咲き乱れる花の名所。

ハナショウブは6月から7月に見頃をむかえるが、桜、シバザクラ、テッセン、ハマナス、スイレン、アジサイ、コスモスなども栽培されており、次々に開花する。

今の時期、テッセンが見頃を迎えている。

テッセンの花はもちろんきれいだが、蕾も捨てがたい。


花色は青紫、紫、白・・・・と各種あるが青紫系に趣を感じる。



ツルバラのアーチもある。

シバザクラは見頃を過ぎていた。

シバザクラのアップ。

チョウチョも盛んに飛び交う。

休憩所にはかわいいマスコットも。

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我が国 最小の塔 慈眼院の多宝塔


南北朝の正平8年(1353年)、戦火を受けて焼失。その後、後村上天皇と後亀山天皇の勅命により再興された。

慈眼院の位置する日根荘(ひねのしよう、日根野荘)は、五摂家の1つである九条家の荘園であった。

文亀元年(1501年)から4年間、前関白の九条政基が日根に滞在して領地の直接経営にあたり、日記「政基公旅引付」(宮内庁書陵部蔵)を残している。

多宝塔は、石山寺、高野山金剛三昧院の塔と並ぶ日本三名塔の一つで、 鎌倉時代に建立されました。その高さは10メートル余、我が国 最小の塔とされており泉佐野市では唯一の国宝とされています。

山号は大悲山、寺号は願成就寺。
近世末までは、隣接する日根神社の神宮寺であった。

境内が「日根荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されている。
仏塔古寺十八尊第十二番。

伝承によれば、天武天皇2年(673年)、天皇の勅願寺として、井堰山願成就寺無辺光院の名で覚豪阿闍梨により開創され、奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願寺となり、寺領1千石が加増されたという。

その後、弘仁6年(815年)、 空海(弘法大師)によって多宝塔、金堂をはじめとする諸堂が再興されたと伝える。

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孝恩寺(観音寺)釘無道


国宝に指定されている観音堂は、もとは「観音寺」と称し、孝恩寺とは別個の寺院であった。

旧・観音寺は「和泉名所図会」のような近世の文献には「木積観音」(こつみかんのん)とあり、奈良時代の神亀3年(726年)、行基による開基と伝える古寺。

現存する観音堂は「木積の釘無堂」と呼ばれ、鎌倉時代の密教建築様式を伝える貴重な文化財として国宝の指定を受けている。

なお「釘無堂」とは建築に際し釘を使用していないとの意味であるが、伝統工法の木組みを用いた社寺建築では、構造部分に釘を使用しないのは必ずしもこの堂に限ったことではない。

境内の宝物館には、仏像など国の重要文化財19件を所蔵・展示している。

行基の開創伝承をもつ寺は奈良県西部から大阪府南部にかけて多数存在し、観音寺もその1つで、「行基建立四十九院」の一つとされている。

付近の地名を「木積」というが、これは行基が多数の寺院を建立するにあたり、山から切り出してきた材木の集積場であったことに由来する地名であるという。

平安時代初頭までに七堂伽藍が揃っていたが、室町時代に山名氏や大内氏らの戦火に巻き込まれ大半の建物を焼失、安土桃山時代には根来寺の傘下にあったがために、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めで観音堂以外のほぼ全ての建物を焼失した。

この際に、仏像を薬師池に沈めて消失を免れた、という逸話は地元の人間には有名な話である。

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