奈良公園バスターミナル


「奈良公園バスターミナル」が4/13(土)に開業、早速訪れてみた。

団体観光や修学旅行のバスの乗降専用に利用するターミナルで、深刻化している周辺道路の交通渋滞の緩和につなげる。

乗客の降車後の観光バスは指定の場所に駐車する。

現在、乗降・駐車場となっている大仏殿前駐車場は、障害者や高齢者などが乗車する観光バス以外は利用できなくなる。

屋上は解放され、若草山も目の前。

大仏殿も目の前。

奈良公園バスターミナルは乗降用のスペースが12台分、予備に4台分の計16台分。

乗客を降ろした後の駐車は、ターミナルから車で30~40分ほどの大和郡山市に設置する上三橋駐車場を利用する。

短時間の駐車の場合は、現在も駐車に利用されている県庁南側の高畑駐車場に振り分ける。

観光情報の入手、歴史や文化の学習に役立つ情報広場や展示スペース、300席のホールも備える。

飲食店や土産店、着物レンタル店なども併設。東棟の屋上スペースも開放し、若草山などを一望できるビュースポットとする。

2階に、「スターバックス コーヒー 奈良公園バスターミナル店」が同時オープン。

近鉄奈良駅から東大寺や春日大社などへ向かう途中にあり、観光での行き、帰りとも非常に便利な立地。

しかも、店舗の内外に奈良の伝統や文化などが感じられるデザインが随所に施され、テイクアウトはもちろんイートインでの利用でもとても居心地よい空間となっています。

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新緑の依水園


依水園訪問は8年ぶりだ。

依水園は、奈良観光の中心、東大寺南大門の真西にあり、その地を流れる吉城川の流れをうまく取り入れて、庭をつくっている。

園内は今、ドウダンツツジが盛り。

フジが古木の枝から垂れている、松が新芽を伸ばし、園内では芽摘みが行われている。

依水園のある場所は、奈良市水門町、その地名のもととなった水門こそ今では見られませんが、かつて吉城川にはいくつもの水門が設けられ、水車の原動力となっていました。

依水園の池の周りには、臼(うす)に使われていた石が飛び石として使われ、園内には水車小屋もあり、当時をイメージすることができます。

昔は、依水園の辺りで、川の水と水車を、製粉業や晒し業に利用してきました。

池には大きなコイがいます。

飛び石の先には行き止まりを示す「止め石」。

「関守石(せきもりいし)」とも呼ばれるが、デザイン性の高い意匠だと関心させられます。

名の由来は諸説あり、池が吉城川の水に依っているためという説や、然庭園内の池が草書体の水の形をしていることに由来するという説、杜甫の「名園緑碌水」の句に由来するなどの説があるが、はっきりしたことは分かっていない。

依水園は、江戸時代前期に奈良晒(ならさらし:高級麻織物)を扱う将軍御用達商人・清須美道清(きよすみどうせい)が造らせた「前園」と、明治時代の実業家・関藤次郎(せきとうじろう)が造らせた「後園」で成り立っている。

昭和33年に一般公開され、昭和50年に国指定名勝を受ける。

奈良晒は奈良地方で生産されてきた高級麻織物。

麻の生平(きびら)を晒して純白にしたもので、主に武士の裃(かみしも江戸時代の武士の礼服)や僧侶の法衣として用いたれた。

また、千利休がかつて「茶巾は白くて新しいものがよい」と語ったことから、茶巾としての需要もあったという。

若草山や東大寺南大門などを借景とする。

前園と後園の二つに分かれており、それぞれが異なった景観を見せる。

前園は寛文12年(1673年)に晒職人であった清須美道清の作庭で、茶室「三秀亭」がシンボル。

後園は明治時代に実業家関藤次郎が築いた築山式の池泉回遊式庭園で、作庭は裏千家十二世又妙斎宗室による。

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県庁屋上から新緑の奈良市内を俯瞰


若草山が目の前に見える。

東大寺総合文化センター、南大門等が見えている。

視線を少し左に移すと、二月堂の屋根が見える。

新緑はこの時期若葉色、月日とともに濃い緑に変わる。

視線を右にずらせば、春日山、御蓋山が見える。

こちらは五重塔、中金堂が、遠くには二上山も望める。

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卯の花苑開園 住吉大社


令和に改元なったこの日、住吉大社の卯の花苑が開園した。

「すみよしの ゆふしでなびく 松風に
うらなみしろく かくるうのはな」
(後鳥羽院皇子 光台院親王)
歌碑に寄り添うように卯の花が咲いています。

卯の花苑は住吉大社の境内の一画にある卯の花畑のことで、13品種500株、白・淡紅・紫紅色の美しい花が咲き、とても見ごたえがあります。

大阪市内に残る数少ない卯の花の名所として有名です。

鎮座日が、神功皇后摂政11年の卯年の卯月の卯日と伝えられ、「卯の葉神事」にはかかせない花となっています。

古式床しく 卯之葉神事 住吉大社
住吉っさんがこの地に鎮座したのが、神功皇后摂政11年(211)の卯年の卯月の卯日 … 続きを読む →


開園は5/1~5/31、見頃は5月中旬のようです。

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住吉大社 御即位奉祝 奉納行事


令和に改元され各地でお祝いの行事が行われているが住吉大社でも御即位奉祝の行事が行われた。

住吉公園では今、ルピナスが見頃。

平成最後の日も令和最初の日もあいにくの雨。

お祝いのちょうちんで飾られた住吉大社。

境内にはいつの間にか遣唐使発進の地の日が建てられている。

参拝者は雨の中長蛇の列。

各本宮の前には行列ができています。

第四本宮向かい側では御即位奉祝記帳所が設けられている。

5月1日~6日(9時~16時)の期間、「神館」を一般公開、皇室ゆかりの御品や肖像画が展示される。

夏祭や御田植神事で奉仕されている各団体をはじめ、御代替りに相応しい能「大典」の奉納や舞楽の奉納が行われている。

武者行事の皆さん、神館前で記念撮影。

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万葉植物園 早咲き種が盛り


2年ぶりに万葉植物園を訪れる。
様々な花に交じって大根の花が存在感を示している。

御衣黄はほぼ終わり、咲き始めから3、4日間は薄緑色の花をつけるが、次第に中心から花びらに真っ赤な筋が入り、最後は全体が薄紅色になって花ごと落ちる。

名前は天皇の束帯である「衣黄」にちなむとされる。

臥竜のイチイガシ

このイチイガシの巨樹は、かつて暴風を受けて倒れた後、そのまま再び枝葉が生長することになったためこのような姿になったものであり、自然を生き抜くたくましさと時間の流れを感じることが出来る存在となっています。

なお、この木を含め春日大社境内には複数のイチイガシの巨樹が生育しており、いずれも「春日大社境内のイチイガシ巨樹群」として奈良市の天然記念物に指定されています。

老樹にフジが絡んで風情を醸している。

「口紅」という名だそうな、粋な名前だねえ。

麝香藤

さわやかな風に揺れる藤の花。
香りがあるのも魅力。

唯一園内に香りを広げる中国の「麝香藤(じゃこうふじ)」やピンク色の濃い「昭和紅藤」など珍しい藤が多い時期は早咲きの頃。

自生種も存在感を示す、高く垂れさがる姿は見事。

昭和7年に萬葉集にゆかりの深い春日野の地に昭和天皇の御下賜金を頂き、約300種の萬葉植物を植栽する、 我国で最も古い萬葉植物園として開園。

藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君        大伴四綱   巻3-330

(大宰府に赴任した作者が、上官大宰府の帥大伴旅人に呼びかけます。「故郷奈良の都を思い出しにはなりませんか。」)

わが盛りをまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ 大伴旅人   巻3-331(世綱に対して)

(若い頃に戻って奈良の都を見たいものだと詠う旅人。願い叶って帰京した翌年、薨去。子供の頃暮らした飛鳥の地を見ることが出来たのでしょうか。)

万葉集ゆかりの地そして令和元年にちなみ旅人の歌を紹介した。

大宰府展示館に旅人を訪れた時の記録。
遠の朝廷と防人を訪ねて②
御笠団印出土地 701年の大宝令(たいほうりょう)に定められた軍団(軍隊)の印判 … 続きを読む →

大宰府展示館の中、天平2(730)年正月13日、大宰師大伴旅人の邸で梅花を題とする歌宴が開かれた。
その様子を博多人形で再現されている。

それにしても見事、名前はわからないが咲き乱れるさまは素晴らしい。

藤棚の下をのぞいてみる、明それぞれかなりの老樹だ。

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甲賀流忍術屋敷


忍者自身の住居として現存する日本で唯一の建物。

甲賀忍者の五十三家の筆頭、望月出雲守の旧宅。

望月出雲守と甲賀忍者

甲賀忍者を世に知らしめた出来事が、長享元年(1487年)の鈎の陣。

幕府の命に背く佐々木六角高頼討伐のため将軍足利義尚自ら大軍を率いて近江に来攻した時、甲賀武士団は佐々木六角氏に助勢し、山中でさまざまな奇襲攻撃をかけ、時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、佐々木六角氏を助けた戦い。

これを機に、望月出雲守を筆頭とする甲賀武士団の神出鬼没の戦術やその高い戦闘能力の印象が、「甲賀忍者」と呼ばれるようになり、その後戦国時代には、各戦国大名を影から支えていきました。

甲賀望月氏本家旧邸の歴史

江戸時代元禄年間(1688~1704年)に建てられたもの。

江戸時代に入り、世の中が安定を取り戻しつつありましたが、戦国時代から百年余りで乱世の記憶も覚めない当時、また甲賀ゆれ(豊臣秀吉による改易処分)等厳しい経験を重ねてきたこともあり、甲賀忍者として高度な資質、能力を有していた望月氏は、今後の不測の事態に備え、身を守るために自身の居宅に、多くのからくりを施したと考えられます。

奈良時代より、甲賀は、杣地方として巨大木が多く、京都奈良の建築物に多く使用され、そのような中で培われた巧みな建築技術や、また非常に合理的な思考、深い洞察力を有していた忍者として、攻撃目的のからくりでなく、素早くその場を離れることを最優先にするというからくりの考案設計技術等、防御建築(防衛建築)としての観点からも、非常に見応えがあります。

くノ一について

女中や小間使いとして潜入して諜報活動を行っていた女性の忍者も存在した。

忍装束を着て映像作品や漫画作品などで活躍するような通俗的な姿は、近代の創作とされる。

史実として武田信玄に仕えた歩き巫女の集団が有名。

「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するがこれとは異なる。

名称については「くノ一(くのいち)」といい、“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現を語源とする説明が一般的である。

その他陰陽道における房術である「九一ノ道」からきたとする説など、いくつかの説がある。

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奥田忠左衛門「信楽陶芸村」


奥田忠左衛門窯は明治21(1888)年に、この山裾で開窯した6代続く100年以上の歴史を持つ窯元。

山の斜面を利用した登り窯や古い形式の穴窯が完全な形で残っています。

窯屋と呼ばれた古い時代の作業小屋や粘土を板状に調整するタタラ小屋など、当時の窯元が持つ仕事場の佇まいを肌で感じる。

陶芸村ののぼり窯は、昭和9年に作られ全長約22m、全11部屋あります。

登り窯の壁は何回もの焼成によって壁が直接火にさらされているため、赤褐色のひいろ(火色・緋色、または炎色)や黒褐色を呈しています。

ちなみに2019年後期のNHK朝の連続ドラマ小説『スカーレット』 ヒロインは戸田恵梨香で、大阪で生まれて滋賀に移り住んで、信楽焼に出会います。

「スカーレット」とは?緋色のことです。

「緋色」というのは、火の色のことなのかもしれません。

以前の訪問先

信楽焼 宗陶苑
宗陶苑は江戸時代に築窯された日本最大規模の登り窯で現在でも信楽焼を作り続けている … 続きを読む →

日本最大規模の登り窯
宗陶苑の登り窯は昔乍らの11室より成る巨大登り窯。 今もなお使い続けている唯一の … 続きを読む →

ロケがどこで行われるのか気になるところですね。

そんな、窯の中の「窯中カフェ」でお茶を飲みながら、薪の火によって土が焼成し、描き出した幻想的な色合いの窯中をじっくりと鑑賞。

のぼり窯の中でちょっと一服!心に安らぎと癒しを与えてくれます。

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御斎峠 司馬遼太郎文学碑を訪ねる


炭窯跡

昭和48年に週刊朝日に連載された司馬遼太郎さんの「街道をゆく」「甲賀と伊賀のみち」 の中で「路傍から白い煙が湧き出てきた。炭を焼いているのである。

私は「梟の城」を書いたころのこの坂の情景をおもいだした。
下柘植次郎左衛門という人物がこの坂をのぼって行ったはずでった。

ちょうどその情景の中にいるこの老人をみていると、われながら滑稽だがはじめて遭ったような気がしなくなってきた。

老人は初老の男とふたりで、ござにすわっている。どちらも無口で「わしは稲本や」と老人がいい、わしは福森や、と初老のひとがいった。」
とある炭窯跡です。

街道をゆく-甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか-朝日文庫-司馬-遼太郎


伊賀上野城を出発点にした司馬遼太郎は、自身の小説『梟の城』の最初の場面の舞台・御斎峠を目指す。途中、西高倉の集落で炭焼きをする老人ら2人に出会い、老人との会話から現代日本の忙しさをかえりみる。

付近にあるはずの廃補陀落寺跡を探すが見つからず、御斎峠を越えて甲賀へ入った司馬さんは、中世の近江の守護・六角高頼の危機を救った甲賀衆を思う。

多羅尾を過ぎ、信楽に至ると、この地を含め複数の地に遷都を繰り返した聖武天皇という人物を考察する。

御斎峠を目指す

案内板の内容。

ここ大杉谷は、昔より生活に深くかかわりのある処です。
東大寺造営の折、用材がこの奥より搬出されました。

下って鎌倉時代には、高倉社の別当補陀落寺建立され参拝者の道しるべとして奈良街道より「町石」が置かれ、熊野信仰が引越してきた感があると伝えています。

補陀落滝も「那智・不動・首落の滝」などの呼び名があり源義経がこの滝の名を忌み御斎峠越を避けたと源平盛衰記に記されています。

御斎峠展望台へ、80段あまりの階段をあえぎながら登る。

まさに絶景、伊賀盆地が一望。

伊賀の市街地、伊賀上野城も見える。

御斎峠は「音聞峠」と書くものもあり、「おとき」と濁らずに読ませるものもある。

標高は630m、滋賀・三重両県境に位置し、その名は鎌倉時代に臨済禅の高僧夢窓国師が伊賀三田の空鉢山寺に来られたときに、村人がここで斎(とき=食事の接待)をあげたことに由来するとのこと。
 
また、小説などでは、服部半蔵がここへ先行して狼煙を上げて忍びの者を集め、家康一行がここへ到着したときには、伊賀・甲賀忍者三百名が勢揃いしていたという。

伊賀国への歴史的交通路であり、壬申(じんしん)の乱(672年)時には大海人(おおあまの)皇子が伊賀から多羅尾にはいっている。

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上野城


藤堂高虎が大規模に改修した時は、大坂城の備えとして西側の防備を固めた。
これは、徳川家康が不利となった場合、この城で籠城する時に備えて、相当数の兵員を収容できるよう、細部の完備や美観を整えるより実戦本意に配慮した。

藤堂高虎は伊賀忍者に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊賀上野城を改修の参考にしたという伝承が残っている。

慶長16年(1611年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張したが、大坂の陣によって、当時高虎が従属する家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。

大坂城の高石垣とともに日本で一、二を競う石垣は1611年(慶長16年)に「打込はぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さを誇り、三方に折廻して、延長368mに及ぶ。

加藤清正公の熊本城の石垣と比べ、石垣が直線的に積み上げられているのが藤堂高虎流。

天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築きました。

菊岡如幻の『伊水温故(いすいうんご)』によれば、城は高丘の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守閣を建て、城下町は古くから開けた北側(現在の小田町)を中心としました。

慶長13年(1608)6月、筒井定次は改易となりましたが天守閣は、寛永10年(1633)頃に倒壊したと推定されます。

石垣の上に登ると、柴小屋や米蔵などの跡地を指す看板が建っていた。

本丸東側に一段高く石垣が組まれた曲輪がある。 
これが筒井時代の本丸で、藤堂時代には城代屋敷があった所だ。  

実際この曲輪に立つと、この城の一番高所で「ここが本当の本丸」といった思いがする。 
筒井時代にはここに三層の天守があり、現在天守台上に石碑が建てられている。

筒井定次の伊賀での石高は5万石とも10万石ともされ、それが事実だとすると事実上の左遷となっています。

筒井順慶の死後、筒井家の力が弱まっていたのと、筒井定次の失政もあったようで、重臣だった島清興(島左近)も1588年2月に、筒井家を離れています。

松倉重政、森好高、布施慶春といった家臣も筒井定次の元を去っています。

しかし、筒井定次は伊賀12万石、伊勢の内で5万石、山城の内に3万石の合計20万石だったとする江戸時代の史料もあり、伊賀での石高に関しては議論が分かれるところです。

昭和34年(1959)神部滿之助氏の篤志寄付により俳聖芭蕉翁を顕彰する事業のひとつとして建てられた。

館内の芭蕉文庫には翁の真蹟をはじめ近世から現代に至る連歌俳諧に関する資料等が数多く保存されています。

芭蕉記念館入り口に立つ杖を持った松尾芭蕉の旅姿。

天井に届くほどの巨大さです。

竹の茂みの中にひっそりと立つ灯篭。

立て札には、「この灯篭は松尾芭蕉の旧主藤堂新七郎家の築山にあったのが当館落成のさい同家十一代の当主藤堂志津氏より寄贈されたものである」とあります。

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