ちん電あびこ道商店街


阪堺線 あびこ道から府道30号線をつなぐ商店街。

「我孫子」から随分と離れたこの場所がなぜ・・・・

理由は簡単、ここが紀州街道から我孫子観音へ向かう参詣道だったから。

安立商店街を出た所から阪堺線を渡り、あびこ道商店街を抜け遠里小野から山之内を通って我孫子観音まで街道があった。

「我孫子の観音様」に続く道だから「我孫子道」と言う訳。

阪堺電車のお膝元である「あびこ道商店街」に大阪市の意向もあり愛称が付けられた。

その名も「ちん電あびこ道商店街」。

すぐ近くに、より規模の大きい商店街の「安立商店街」があるし・・・・

あびこ道商店街を抜けると清水丘商店街。

この商店街には「サンサンロード清水丘」という愛称が付いている。

商店街の一角に出世地蔵尊。

ちなみに「あびこ」という地名は、地下鉄御堂筋線あびこ駅、JR阪和線我孫子町駅、南海高野線我孫子前駅などの駅名になってもなっています。

また、大阪府道28号大阪高石線の一部 (阿倍野区・東住吉区・住吉区) には「あびこ筋」という名前が付けられています。

この町名 (地名) の由来は、依羅吾彦 (よさみあびこ) が居住していたからといわれています。

依羅氏は百済 (くだら) 系渡来人の氏族で、住吉区庭井あたりに移住しその地を大依羅 (おおよさみ) 郷としました。

庭井には大依羅神社があり、依羅吾彦はこの神社の祭人の子孫にあたります。
「吾=ア」は「我=朝鮮語のア」から出たもので、「孫子=孫の子」は「隔子=彦」となり、その結果「吾彦=我孫子」となっていったといいます。

また、「あびこ」とは「網曳子=網を曳く人=漁師」からできたという説もあります。

これは、太古の昔、住吉の付近は海に面していて漁を営んでいたからです。
「依羅我孫子 (よさみあびこ)」とは「よさみ=寄網」「あびこ=網曳」という説もあります。

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九条下町ぶらりウォーク


キララ九条商店街

明治25年(1892)頃から続く、約600メートル、約200店舗の商 店街。

元は九条新道と呼ばれる大通りでしたが、戦前は芝居小 屋、寄席小屋、映画館が10軒余りもあって、近くには松島遊郭など もあったので大いに賑わい、「西の心斎橋」とまで称された。

今もあちこちに芝居の看板が・・・

下町市場の看板のかかる路地、こちらも面白そう。

九條東小学校の石碑「暴風水害記念誌」

この学校(西成郡九条村)は明治8(1875)に設置され、戦後、学制改革により大阪市立九条東小学校と改称(昭和22年・1947)後、140年以上のときを経てきた。

昭和9(1934年)には室戸台風により、九条東小学校は校舎は被災し、校舎の壁には、兒童らを抱き抱えた先生の姿と台風の模様を記した銅板がはられている。

説明版によると、室戸岬(高知県)より風速60mの突風台風は、3mほどの高潮と伴い、午前8時に大阪市を襲い、これまでにない惨禍をもたらしたという。

市内の家屋、工場、店舗は倒壊・流失、公営物の損害等があり、死者990名、重軽症者16908名にのぼる。
なかでも小学校の被害は甚だしく、校舎の全壊28、半壊71、大波77、それに殉職教員7名、惨死児童269名に及んだ。

九條一帯は大きな難は免れるも、屋根瓦は木の葉のごとく飛び散り、濁流が押し寄せ、全戸床上浸水した。

交通・通信・電燈は途絶し、各学校に殺到し、避難者は100名に達し、前代未聞の大災に遭たが、西区はひとり死傷者も出ずに復興の途についた。

これは、区内の関係者各位の応急の措置によるもので、『禍を転じて福と為し』で、今や新興の気概をもち、第一、第二、第五各小学校の復興も目前にあると記されている。

九條教育会は、各種団体と協議し、事蹟を碑に刻みこれからの戒めの備えとするために記す、昭和13(1928)年3月の刻印がある。

ナインモール九条商店街

約300メートル、約100店舗の商店街。

大阪ドーム型 のシュークリームを売る店があるなど、近鉄バファローズ が大阪ドームを本拠地としてから商店街全体でバファロー ズを応援しており、別名「バファロード」という。

ここも元は九条新道でした。

近くには大阪のミニシアターとし て「第七藝術劇場」(淀川区)と双璧をなす「シネ・ヌーヴ ォ」があり、大阪の通好みな映画ファンの期待に応えています。

大阪市電創業の地碑

明治36年(1903)、九条新道の花園橋を起点に築港埠頭まで の約5キロメートルに大阪市電が開通。

公営による電気鉄道は 日本初の快挙でした。

翌年(1904)には、これまた日本初の試 みで「2階付電車」が走り、これは路面電車の上に長椅子が並ぶ テント屋根付きのデッキを備えたもので、夏は「納涼電車」、冬 は「魚釣り電車」と呼ばれて一躍、大阪名物となりました。

この 「2階付電車」は市電創業50周年記念のさいに模擬電車が作ら れ、現在、緑木検車場(住之江区)に保存されています。

その後 も大阪市電は拡張し続け、最盛期には総延長約110キロメート ルまで路線が拡大、市電としては東京都電に次ぐ規模に達しま した。

大阪市民に愛された市電でしたが、戦後は高速道路主体、 自動車偏重の都市計画が進む中、昭和44年(1969)にその栄 光の歴史を終えました。

ちなみに大阪市電2601形電車は現在 でも広島電鉄(900形電車)として現役で活躍中。

天満宮行宮が松島の地に移るまでは、戎島と呼ばれていた川口の現・本田小学校あたりにありました。

天神祭の舟渡御が木 津川まで来ていた頃の様子が錦絵に残されていますが、これ は戎島時代の天満宮行宮です。

京町堀川下流の地に天満宮の 御旅所が定められたのは1640年代後半頃とされ、それまで 鉾流神事にて御旅所を決めていたのがこれを機に御旅所は常設されることとなりました。(以後、鉾流神事は約300年中止さ れました。)

常設から約30年後に御旅所は戎島に移転されました。

それから約200年後、明治時代に入り、外国人居留地が川 口にできたことから御旅所は移転を余儀なくされ、明治4年 (1871)に松島の現在地へ移転。

戦前は松島からお 迎え船が盛大に出ていましたが、地下水汲み上げによる地盤 沈下で橋が下がり、舟の航行ができなくなって戦後は中止された。

京セラドーム大阪

平成9年(1997)に大阪ガス工場跡地に完成。
東京ドーム、福 岡ドームに次ぐ日本3番目のドーム球場です。

プロ野球のオリ ックス・バファローズの本拠地で、阪神タイガースも主催公式 戦の一部を開催している。

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安治川河底トンネル

かつて安治川上流には、マストの高い船の航行に邪魔にならないよ うに、ロクロを利用して旋回させる可動橋の安治川橋(俗に磁石橋) が架かっていました。

しかし、明治18年(1885)の淀川大洪水によっ て安治川橋に多くの橋の残骸が絡まって危険と判断されて爆破され ました。

その後も大阪中央卸売市場などへの大型船の航行が多いの で橋は架けられず、河底にトンネルが掘られ、昭和19年(1944)に 完成しました。

交差点を曲がるとT字路正面に建物が、これが 安治川隧道入口です。

地下通路、幅の狭い地下鉄連絡通路という感じの通路。

トンネルとなると暗いイメージが浮かんできますが、全長約80mで幅は2.4メートル、川底なので夏涼しく冬暖かく、地上とは違って過ごしやすいのもいい所。

南側のエレベーターに到着、右側が階段になります。

南側から見たエレベータ内の様子。

南側から対岸の北側建物の裏を撮影、裏はこんな造りになっています。
右は阪神なんば線。

完成当時は、車両も通行できました「安治川隧道」。1963年(昭38年)に国道43号線に安治川大橋が開通したことにより、人と自転車専用のトンネルとなりました。

出入口の建物には、外からみると3基のエレベーターの入口があります。

そのうち2基が自動車専用エレベーター、1977年まで使用さていた自動車用エレベータ入口。
完全に閉じられています。

巨大な表示灯が目立ちます。その上の看板も表面が剥がれ黒くなり判読困難です。

自動車が通行していた頃のトンネル内部。
建設コンサルタンツ協会のホームページより借用。

安治川隧道により廃止された「源兵衛渡船」の名は最寄りの交差点名で残っています。

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千歳の渡しで大正内港へ


2003年に完成した千歳橋は2代目である。
大正時代から昭和時代にかけて、初代の千歳橋が架けられていた。

初代千歳橋は1922年に架けられ、鶴町と対岸の新千歳町を結んでいた。

しかし大正内港の建設工事のため、初代千歳橋は1957年に撤去された。
なお、当時対岸だった新千歳町は、町の大半が内港の中に沈んでいる。

初代千歳橋撤去の代替として千歳渡船場が開設され、歩行者や自転車の移動に供されている。

2003年に開通した千歳橋は海面からの高さが28メートルあり、歩行者や自転車の利用には不便なことから、渡船は橋開通後も存続されている。

この渡しは大阪港復興事業の一つとして大正区の内港化工事を行った際、既設の千歳橋が撤去され、その代わりの施設として設けられた。

昭和30年7月にそれまでの民営から港湾局の所管とし(同32年6月直営化)、同39年建設局に移管された。

大正区鶴町三丁目と同区北恩加島二丁目(岸壁間371メートル)間を運航している。

平成29年度現在1日平均約578人が利用している。

水辺に囲まれた大正区は、大正初期まで三軒家と難波島を除く大部分がのどかな農村地帯で交通機関の発達は遅く、井路を行き来する小船と木津川や尻無川の「渡し」が、重要な交通機関でした。

その後、各地での橋の完成に伴い、市民の足である「渡し」から自動車やバスへと移っていきましたが、今も変ることなく区民の大切な足として活躍しており、また大正区の風物詩となっています。

大正内港

大正期に入って、大阪築港工事の一環として川幅が拡張され岩崎運河、大正運河、千歳運河の掘削や埋立地造成が進んだため造船、ガス、金属、機械の工場が河岸に進出し、臨海工業地区となった。

1952年に上流は埋め立てられ、岩崎運河のみで木津川と連絡することとなったが、下流左岸の大正内港は、国内貿易埠頭と鉄鋼埠頭を設置する大阪港の物流基地である。

1940年代前半まで、大正区の土地の大半は海抜0メートル以下にあった為、昭和9年(1934年)9月21日には室戸台風が襲来し、大正区のほとんどの土地が冠水、当区は死者119人(行方不明者を含む)、被災者123,000人、建物の浸水等被害22,535戸にも及ぶ甚大な被害を受けた[1]。

また当時は、付近に貯木場が集中していたので、貯木場から流されてくる丸太により、道路が塞がれ、建物が壊されるなど、多くの被害を受けた。

その後も、昭和20年(1945年)の大阪大空襲により区の大半を焼失し、昭和25年(1950年)のジェーン台風による被害(大正区の83%が約1.9メートルの高さまで浸水、被災者は区民の96%に当たる57,000人で、行方不明者を含めて死者は13人、建物被害は10,654戸。)など、大正区民はたびたび起こる高潮や戦災に悩まされていた。

そのため、大阪港復興計画の一部として、大阪港に注ぐ河川の拡幅や大正内港化が昭和22年(1947年)に決定された。

掘り起こした土砂で大正区を全面的に盛り土し、区画整理する工事が同年に開始され、昭和50年(1975年)には完了した。

この工事の際に、大正運河に連絡していた貯木場や材木市場は閉鎖され、住之江区平林に移された。
この頃、港区では同じくして弁天埠頭が完成した。

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船町の渡しで鶴町へ


船町渡船場は、大正区鶴町1丁目と同区船町1丁目を結ぶ(岸壁間75メートル)。

平成29年度現在、1日平均約196人が利用している。
昭和20年代後半から30年代にかけて、川幅が狭いことを利用して対岸まで船を連ね、その上に板を敷いて人や自転車が通行していた。

対岸の鶴町、距離が短いため、他の渡船がS字に航行し対岸に向うのに対しU字に航行する。

そのため、乗客は左舷から乗り込み左舷から降りることになる。

船町の渡しのある木津川運河は大阪市大正区と住之江区の境界を成す下流の木津川から分かれ、大正区南恩加島・鶴町と工場地帯の船町間を西へ流れる。

その途中、北から大正内港が合流し、大阪港に流れる

大正区内には鉄道がほとんど整備されておらず、鉄道駅は大正駅が北端に所在するのみである。

区内の公共交通はおおむね大阪シティバスが担っている。

南部の鶴町地区(鶴町四丁目停留所)と大正駅(大正橋停留所)との間は早朝から深夜まで比較的運行頻度が高く、昼間でもあまり待たずに乗れる程度の本数を確保している。

大阪市内には8ヶ 所の渡船場があり、 そのうちの7か所 が大正区にある。

渡し船は江戸時 代から始まってい ますが、いまも大切 な役割をはたして います。

※渡船場は その他に千歳・甚兵 衛・船町・千本松・木 津川とあります。 (利用者数:1日約 5800人)。

鶴町地域は、市の築港計画(明治 30 年~昭和 3 年)による埋め立て によって造成され、大正 8 年 3 月、「鶴町」「鶴浜通」「福町」と いう新しい町として誕生した。

鶴町の町名は聖武天皇の「難波宮 なにわみや」の近くの光景を「田辺福麻呂( た な べ さ き ま ろ)」が詠んだ「潮干れば葦辺に騒ぐ白鶴(百鶴とも)の妻よぶ声は宮もとどろに」(万葉集巻 6 -1064)から「鶴」を、また福町は、この詠者の「福」からとられたもの。

神明神社は内平野町の神明宮の遷座したもの。

内平野町へは元和二年(1616)に、山城洛西の西院から勧請された。

『摂津志』には熊野王子社の第一王子である窪津王子祠とされているが、その場合には神明社勧請以前に祠が残っていたと言うこと。

鶴町へは、大正十三年(1924)八月に遷座した。
埋め立て地にも鎮守は必要だからだろう。

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東洋のマンチェスター 船町工場群


明治16年(1883)、三軒家に大阪紡績会社(現・東洋紡績)が設立されると、大正区は日本一の紡績工業都市となり、大阪は「東洋のマンチェスター」とも呼ばれた。

近代化の波は船町・鶴町にも押し寄せ、日本初の公共飛行場や造船所、自動車工場などが設立。
阪神重工業地帯の一翼を担った。


大正12年に初期の民間飛行場である木津川尻飛行場が開設された場所です。

木津川尻飛行場は水上機から陸上機に変わる時代の飛行場で、昭和4年にはスチュワーデスの元祖であるエアガール1号が誕生しています。

高松行の飛行機でエアガールは着物を着ており、運賃は40円でした。

昭和14年には発着数がキャパを超え大阪伊丹飛行場へ移転され当飛行場は閉鎖されました。

中山製鋼所転炉工場は解体されてしまい島一つ迫力に欠けるのはやむを得ないところ。

中山製鋼所船町工場は昭和初期に操業を開始した歴史ある工場で官営八幡製鐵所(現新日鐵住金)、日本鋼管(現JFEスチール)に続く日本三番目の高炉(2002年に休止)を有していました。

敷地面積は全体で約45万m2。
そのうち転炉工場は6万m2を占めていました。

ちなみに船町工場は映画「ブラック・レイン」(1989年アメリカ 監督:リドリー・スコット)とともに語られることが多いですが「ロケ地」と呼ぶのはちょっと過大評価かも。

映画序盤、船町工場を中心とした木津川沿いの工場群が空から映しだされます。

極東アジアの混沌都市をイメージさせる効果的な映像ですが時間にしたらわずか数秒。

しかも夕日をバックにしたシルエットなので意識して見ないと大阪人でもまず気が付かないと思います。

ずどーんと長いパイプが圧巻。このまっすぐな道が木津川飛行場滑走路の跡か。



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万葉岬


相生湾の先、金ヶ崎の頂上に建つ、絶景のリゾートホテル。 

瀬戸内国立公園内のホテルから望む、瀬戸内海の景色は、万葉の歌人たちがその情景に心動かされ詠んだ歌が、三首「万葉集」に選ばれているほどの絶景になります。

瀬戸内海が東西180度展望でき、淡路島から家島諸島、牛窓に至る万葉故地を背景に、眼前に山部赤人の船旅望郷の歌の舞台、辛荷の島、室の浦、鳴島等が千数百年前の風光をとどめて万葉のこころを伝えています。

春には桜が咲き、瀬戸内海の絶景とあわせて楽しめます。

道の駅みつの冬のバーベキューは「牡蠣小屋」で家族や友達とワイワイ楽しみながらボリューム満点の「海鮮バーベキュー」を賞味。

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日本三奇 石の宝殿 生石神社


生石(おうしこ)神社の石宝殿

兵庫県高砂市・宝殿山山腹の生石神社に神体として祭られている巨石。
鎮の石室(しずのいわや)、天の浮石(あめのうきいし)または単に浮石とも。

石の宝殿(いしのほうでん、石宝殿)は、人工的な巨石が残る遺跡などに付けられた名称。
兵庫県と大阪府に5ヵ所ある

この生石神社の石の宝殿と、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾を総称して、「日本三奇」と呼ぶ。

6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2m。重さは推定500トンを越える。
竜山石として知られる凝灰岩の岩山の中腹を削って作られており、三方を加工前の岩盤に囲まれている。

誰がいつ何の目的で作ったものであるのかは、学術的に判然としていない。

謎を解明するため、高砂市教育委員会が、大手前大学史学研究所の協力で各種の調査に着手している。

2005年から2006年にかけては、レーザーによる3次元計測を実施し、周囲の岩盤も含めた形状をくわしく調べた。

下部の岩盤は大きくくぼんでおり、池になっている。

社伝によれば、この池は旱魃の際にも枯れず、水位は海の潮位と連動するとされる。

「浮石」と呼ばれるゆえんは、わずかにつながった底部中央の支柱状の部分が巨石自体の死角になり、巨石が池の上空に浮かんでいるように見えるためである。

岩の上部には、加工当時にはなかったとみられる多くの雑木が生えている。

巨石の脇に建つ霊岩。

神社の脇から頂上に上がってみる、大正天皇の行幸碑が建つ、何のための行幸だったのだろうか。

周囲には竜山石を採石した遺跡だ沢山ある、竜山全体で160箇所以上の採石遺構がある。

竜山石とは今から約9000万年前に形成された凝灰岩で、古墳時代から現在まで約1700年間採石され続けています。

高品質で加工に適した石材として様々な石造物の製作に使われてきた。
古墳時代の大王の棺や江戸時代の建築材などに利用されてきた。

竜山石の製品は、西日本各地に流通し、石の文化を形成している。

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安立(あんりゅう)紀州街道の街並み


住之江区南東部に位置する。現行の安立一丁目から四丁目は、中央を紀州街道が走り、紀州街道の両側に広がる南北約1.5km、東西約120-150mの町域を持つ。

北端を細井川、東端を阪堺電気軌道阪堺線、西端を南海本線、南端を大和川に囲まれている。

もとは住吉大社の歴代宮司家の津守氏の領地の西方にあったため西町と呼ばれていた。

この地は海に沿った白砂青松の 地で、白い砂と松の緑は四季を通じて、す ばらしい景観をみせ、いつしか「霰松原」 と呼ばれていた。

万葉歌碑

「霰打つ あられ松原 すみのえの 
     弟日(おとひ)おとめと 見れど飽かぬかも」

天武天皇の第4皇子・長 皇子も慶雲3年(706)の文武天皇の難 波行幸のさいに当地を訪れ、「霰打つあ られ松原すみのえの弟日娘と見れど飽 かぬかも」の歌を詠んで、その歌碑が建 てられています。

また公園内には、霰松原 荒神・金高大明神(オタヌキさん)・瀧川稲 荷大明神なども祀られています。

地名の由来

徳川将軍家の御典医である半井氏(なからいし)一族の半井安立軒元成(なからい・あんりゅうけん・もとなり)という、名医として知られていた医師がこの地に住んでいたことに因む。

皆さんご存知の「一寸法師」。
住ノ江駅を降りてすぐの安立(あんりゅう)町は一寸法師ゆかりの町なのです。

一寸法師はこの安立の地で生まれ、針の刀を持って、京を目指したのだとか。
昔は安立町の商店街には多くの針屋があり、そこから生まれたお話だったそうです。

もともと一寸法師は住吉大社付近に由来するものでして、近隣にある安立町がそれにあやかった・・・というのが真実のようです。

通りには古い立派な家が目立つ、この酒屋さんも古い家です。

このうちも古いおうち。

川魚を扱う店、繁盛していたそうですが時代の流れには勝てず、最近廃業されたようです。

ここも川魚を扱うお店だったようですが営業品目を変えたりして頑張っている。

畳屋さんも最近では珍しい。

商店街に連結した「安立銀座」なる商店街。
完全にシャッター街と化している。

商店街を抜けた所に紀州街道の道標がある。
高麗橋東詰から十・五キロメートル。

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気になる壁


雨の天下茶屋の散策、古いものがまだ残っているとはいえ開発の波はそこまで押し寄せている。


工事中であったり。

荒れるに任せてしまっている壁。

話題になったブロック塀、ここの塀も膨らみが目立ち回収は急がれるだう。

思わず避けて通りたくなるね。

気になる壁があちこちにある。

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