靭公園界隈

靱公園は、大阪市西区靱本町にある都市公園(総合公園)
四つ橋筋からあみだ池筋までなにわ筋を挟んでの東西に細長い敷地を有する。

信濃橋洋画研究所跡

大阪に香り高い文化を根づかせようと、大阪出身の洋画家小出楢重(こいでならしげ)・国枝金三・鍋井克之(なべいかつゆき)らが中心になって、大正13年に開設された信濃橋洋画研究所は、理論と実技を組み合わせた特色ある教育を行った。

そしてその中から、多くの専門画家を輩出した。
その後、研究所は昭和6年中之島に移り、中之島洋画研究所と改称したが、昭和19年戦争激化に伴い閉鎖された。

その間、大阪の近代洋画界の発展に大きく寄与した。

大塩平八郎終焉の地

•この頃、天保の大飢饉による影響が各地に広がり、大阪でも深刻な米不足に陥った。

平八郎は奉行所に庶民の救済を訴えたが、奉行所はこれを無視した。

さらに商家では買い占めを行うなどの状況に平八郎の怒りが爆発、天保8年2月19日(1837年3月25日)武装蜂起をするに至った。

乱は密告により鎮圧され、平八郎は靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅に潜伏、乱のおよそ1月後に役人に取り囲まれ自決した。

大塩平八郎の墓所成正寺
成正寺は江戸時代後期、当時の幕政を揺り動かし、新しい歴史の契機ともなった大阪大塩 … 続きを読む →


天理教飾大分教会前にある「大塩平八郎終焉の地碑」が教会建て替えのため移転を余儀なくされ、靫公園内に移設することになりました。

しかし、大塩事件研究会にはその資金が決定的に不足しています。

そのため、下記趣意書の通り、皆様のご支援をお願いすることになりました。
趣意書をお読みいただき、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。
大塩事件研究会のブログ

「恩愛」をテーマに設置してあるオブジェ。

かつての靱塩干魚市場の跡地にあたる。

海部堀川(1951年埋立)沿いの靱塩干魚市場は干物や肥料にする干鰯などの海産物を全国から集めていたが、1931年の大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖され、1945年の大阪大空襲で一帯は焼け野原となった。

戦後、連合国軍最高司令官総司令部は南北幹線道路である四つ橋筋からあみだ池筋までの京町堀川(1955年埋立)と海部堀川に挟まれた細長い区域(当時の町名でいう靱北通と靱上通の大半に相当)約3万坪を接収し、占領軍の常用飛行場として靱飛行場を置いた。

1952年の講和条約発効から2ヶ月後に飛行場敷地は大阪市へ返還され、戦災復興土地区画整理事業によって1955年に靱公園が開園した。

また、同事業によって1959年になにわ筋が敷設され、公園を縦断するようになった。

大阪科学技術館 「科学技術でひらこう、地球のあした」をテーマに、 最新の科学技術を展示しております。

私たちのくら しの中に生かされているエネルギー、エレクトロニ クス、バイオテクノロジー、地球環境など、さまざま な分野の最新の科学技術をクイズやゲーム、マルチ メディアで楽しく学べます。

敷地は五代友厚の屋敷 跡です。

東横堀散策
東側の上町から東横堀川に架かった高麗橋を越えると船場に入り、そこは「天下の貨、七 … 続きを読む →

どこを見つめるのか、大阪証券取引所前に建つ大きな銅像は、五代友厚像。

彫像 勇者に栄光あれ。

公園の北側の「京町堀」には、おしゃれなカフェや雑貨店も多い。



東園では、公園が街路ではなく直接京町堀通り南側ビル群の裏側に接しているため公園に直接面したカフェやバーが出店したり、バラ園では屋外結婚式が行われている。

梶井基次郎碑

梶井基次郎は、明治34年(1901)、旧西区土佐堀5丁目生まれで、北野中学在学時に靭に住んでいました。

東京帝国在学時に同人誌「青空」を創刊、代表作「檸檬」を発表。公園には檸檬の一節が刻まれた石碑があります。

秀吉の時代、付近一帯は雑喉場(ざこば)魚市場および塩干魚問屋街として栄え、町で魚商人たちが「やすい、やすい」と威勢のよい掛け声で魚を売っていたのを聞き、秀吉は「やす(矢巣)とは靱(矢を入れる道具)のことじゃ」と言ったことから、その言葉にあやかって「靱」という町名がつけられたとか。

また戦後、米軍に摂取された時代には、小型機発着空港として利用されたので、その説明碑もあります。

永代浜跡

靭本町付近にあった海部堀川の荷物陸揚げの便を良くするために開削した約724メートルの堀を永代堀といい、阿波堀川からの屈折点あたりを永代浜と称しました。

海産物の荷揚げ・鰹節の専門市場として靭の中心となりました。

靭海産物市場跡

干物や塩干魚、鰹節など生魚以外の海産物を売買する市場です。

17世紀後半から大坂周辺の農村では商業的農業が発達し、干魚(ほしか)は肥料として取引されました。

享保9年(1724)には干魚俵数140万俵という記録もあります。

靱テニスセンター

ハードコート(西園) センターコート1面(観客席5000人)サブ センターコート1面(観客席500人)一般コート14面アンツーカコート(東園の科学技術館横) 4面靱卓球場

バラ園やケヤキ並木のほか、国際大会の舞台になっているテニスセンター。

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淀殿の墓のある 太融寺


太融寺は、大阪市北区太融寺町にある高野山真言宗の寺院。
新西国三十三箇所第2番札所。

嵯峨源氏の祖である源融ゆかりの寺で、古くから当寺付近の地名にもなっている。

承和10年(843年)に嵯峨天皇の皇子である左大臣源融によって境内地が広げられ、八町四面の七堂伽藍が建立された。

その際、山号を佳木山とし、源融の諱から寺名を太融寺と改めたうえ、鎮守社として神野太神宮(現・綱敷天神社)も創建されている。以後は浪華の名刹として参詣者でにぎわった。

清涼寺
嵯峨釈迦堂の通称で知られる浄土宗知恩院派の古刹。光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇 … 続きを読む →

幽霊屋敷 河原院跡
源氏物語「夕顔の巻」は圧巻である。 源氏は五条辺りに住む夕顔と恋におち、「某の院 … 続きを読む →

事件現場の「某の院」は、源氏のモデルとなった左大臣源融の邸だという(融の実像は式部が描くような女好きではないが)。

「源氏物語ゆかりの地・枳殻邸(渉成園)」
渉成園は東本願寺の飛地境内地(別邸)です。 1602(慶長7)年教如上人が徳川家 … 続きを読む →

源融ゆかりの塔
左大臣源融は、嵯峨天皇の皇子であったが源の姓を賜って臣籍に下った。
「源氏物語」の主人公、光源氏のモデルの一人とも言われている。

太融寺本堂

慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の兵火で全焼するが、元禄年間(1688年 – 1704年)に本堂など25の諸堂が再建される。

1945年(昭和20年)6月1日の第2回大阪大空襲により再び全焼してしまうが本尊は無事であった。
戦後になって本堂、大師堂を始め20余りの堂宇が再興された。

明治13年(1880)には太融寺で国会期成同盟が結ばれ、自由民権運動はここから全国へ広がったと言われています。

一願不動明王は古来より「1つだけ願い事を叶えてくれる」と信仰を集めてきた不動明王です。

人生でただ1つの願い事ですから、何をお願いするかはしっかりと考えた上で参拝したいものです。

一願不動明王が安置されている場所には陽の光が直接届かないためにほの暗く、後ろの岩屋の上からは糸のような滝が水を落としており、一種独特の神秘的な雰囲気を醸し出してます。

本堂の鬼瓦、なんとも味のある顔つきだ。

太融寺の資料では「元和元年5月、大阪城落城によって秀頼と共に自刃して果てた淀殿の遺骨は、大阪城外鴨野郷、弁天島に一祠を作って埋められた。
これが淀姫神社である。

明治10年11月城東練兵場(現大阪城公園)造成に当り移祀されることになり、豊臣に縁りの深い当寺に埋め九輪の塔(現在戦災に依り六輪)を建て境内西北隅に祀った。」とあります。

昭和になり、元は「淀君」と表記していた案内板を、差別用語でもあるため「淀殿」と表記を改めたそうだ。

移転先に四天王寺が候補に挙がったが、家康の本陣だった茶臼山に近いことから淀殿は嫌がるだろうと、北の太融寺にとなった。
ここまでが寺の記録として残っている。

淀殿ゆかりの 淀古城跡
淀古城は、徳川幕府が築城した淀城の東北、500m程のところにあります。 江戸時代 … 続きを読む →

僅かに残る「淀古城址」の石碑は妙教寺鐘楼前にある。

大阪城の謎を探る
大阪城の謎を探ると題するツアーに参加した。 大阪冬の陣夏の陣で家康の本陣となった … 続きを読む →

鴫野神社(しぎのじんじゃ) – かつては弁天島(現在の大阪ビジネスパークの位置)に祀られており、淀殿が篤く崇敬した。

淀殿死去の後は淀姫社と呼ばれるようになった。

秋晴れの大阪城を散策
何度も通いなれた大阪城だが、意外と知らない場所がある。 いかに表面的にしか見てい … 続きを読む →

慶長20年(=元和元年、1615年)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えられている。

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酒乱が治ると評判のお寺 かしく寺


法清寺(かしく寺)、創建は不明。
1911年(明治44年)に再建された伽藍は戦災をまぬがれ現存している。

境内には江戸時代中期に存在した遊女・かしくの墓所として広く知られている。

かしくは北の新地の遊女で、日常は従順な女性でしたが、ひとたび酒が入ると人が変わって乱れたといいます。

寛延2年(1749)のある日、彼女の兄が諌めたところ逆上し、あやまって兄を傷つけて殺してしまいました。

かしくは死罪を申し渡され、市中を引き回されましたが、その途中「油あげ」を所望し、それで乱れ髪をなでつけて身を整えてから、斬首されたといわれています。

劇作家にして小説家の長谷川幸延さんの手になる「酒の咎 引き受け申しそろ かしく」という石碑。

禁酒、断酒を誓う人たちの願いがしゃもじに込められている。

この事件はすぐに芝居に仕立てられて評判をよびました。
後になってかしくの墓石をかき取り、せんじて飲めば酒乱がなおるという風評がたち、数多くの参詣人で賑わったといわれています。

法清寺では、命日の3月18日に毎年かしく祭りの法要が行われています。

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東梅田界隈


阪急東通商店街は、大阪市北区の小松原町と堂山町と神山町に広がる商店街。

商店街の人通りは少ない。

昔懐かしい姿も散見される。

兎我野町にある曹洞宗寺院圓通院。

道路を挟んだ横の墓地には赤穂浪士大石内蔵助良雄の父親の墓や四十七士の一人大石瀬左衛門の父親大石八郎兵衛の墓があります。

大石家の菩提寺だったのでしょうか。
観光寺でなく山門は閉まっています。

お初天神のあたりは夜間営業の店が多く、昼間はひっそり。

人込みを避けて進む。

東梅田の東の繁華街には古代から伝わる興味深い地名がついています。
曽根崎町、兎我野町、神山町、小松原町、堂山町。

繁華街の人込みを抜けると、そこには由緒ある社寺が目の前に・・・・・・・・・・・・。

お初天神、以前の訪問記をご覧ください。

この世の名残夜も名残・・・ お初天神
「誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。 取伝へ貴賤群集の回向の種。 未来成仏 … 続きを読む →


お目当ての昼食場所は7年前に訪れた「夕霧そば」、店名の由来は近松門左衛門作「廓文章」の夕霧太夫にちなみ、夕霧そばと命名したという。

『夕霧そば』の魅力は、白いそば粉に柚子の上(表)皮を練りこんだ香り高いそば、そのものです。

夕霧太夫の眠る上町台地散策
鳳林寺(上島鬼貫墓所)~吉祥寺(赤穂浪士の菩提寺)~青蓮寺(竹田出雲墓所)~増幅 … 続きを読む →,/a>

夕霧太夫の面影をもとめて新町を歩く
四ツ橋駅~西六平和塔~新町橋~新町通(瓢箪町)~新町北公園~新町九軒桜堤跡の碑~ … 続きを読む →

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天満天神繁昌亭


上方落語の始まりは1700年頃といわれています。

京都で露の五郎兵衛、大阪で米沢彦八などが神社の境内などでおもしろい噺を聞かせる「辻ばなし」とも言われ、これが落語の元祖だと言われています。

一次は廃れたものの、1800年頃の寛政時代に大阪坐摩神社で桂文治が初めて寄席をつくり落語を演じるようになり、笑福亭、林家、月亭などの落語家が登場します。

大阪城の謎を探る
大阪城の謎を探ると題するツアーに参加した。 大阪冬の陣夏の陣で家康の本陣となった … 続きを読む →

米沢彦八が上方落語のルーツといわれており・・・・・・・

いよいよ開場!その合図となるのが「一番太鼓」だ。入り口前に備えられた太鼓の音が、これから始まる落語への期待感を一層盛り立ててくれる。

2003年に上方落語協会会長に就任した桂三枝(後の6代桂文枝)が、天神橋筋商店街で落語会を行える空き店舗の提供を商店街側に依頼したことから、繁昌亭開亭の構想が始まる。

商店街はこの依頼を大阪天満宮に持ち込み、上方落語協会も交えて話し合いを重ねた結果、天満宮用地に落語専門の定席を新設することで合意。

用地は大阪天満宮の寺井種伯宮司の厚意により、無料で提供された。

繁昌亭から徒歩数分、天満宮北側の星合池(通称・亀の池)のほとりに、境内社として「高坐招魂神社」が二年前に建立された。

「話の神様」「技芸の神様」として口下手で困っている人や大事なプレゼンや愛の告白を前にして悩む人にはご利益がるとのことなので、寄席に訪れた際には是非足を延ばしてみては。

初代春團治が活躍した時代をモチーフに建設された繁昌亭にあわせ、明治時代の様式による、黒い屋根付きの特殊郵便ポストが設置された。
投函者第1号は、除幕式に立ち会った桂三枝。

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大阪天満宮


延喜3年(903年)に菅原道真が没した後に天神信仰が広まり始めるが、天暦3年(949年)に道真ゆかりの大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。

そして、それを聞いた村上天皇の勅命によってこの地に天満宮が建立される事となった。
以後、当社は大将軍社を摂社として新たに天満宮が中心の社となる。

表門、天井には東西南北と十二支の名の記載された方角盤が飾られています。

度々火災に見舞われている。

なかでも享保9年(1724年)の享保の大火(妙知焼け)では全焼の憂き目にあっている。

後に復興したものの、今度は天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱による大火でまたも全焼してしまった。
天保14年(1843年)には現在の本殿が再建されて復興を果たしている。

1945年(昭和20年)の大阪大空襲の際には幸運にも被害を免れている。

登竜門

初詣のさいなどは、大勢の人が門をくぐりますが、登竜門というのは、中国の大河・黄河を上流に向かって登っていくと龍門に着き、高く険しい瀧や厳しい早瀬を飛び越えると、鯉が龍になる…という「登龍門の伝説」から来ています。

中国では、龍は王道を歩む王者の象徴で、人徳共に兼備した人のことを指しています。

蛭子門(えびす門) 大阪天満宮には六つの門があり、それぞれに用途と由来がある。

正面西側(南西側)の蛭子門は、もともとこの門を入ってすぐ左手に戎社が祀られていたことから「戎門」と呼ばれており、現在は戎社は移動されたがその名が今に伝えられている。

戦後途絶えていた十日戎が、上方落語協会会長・六代桂文枝の意向もあり2007年(平成19年)に「天満天神えびす祭」として復活する。

天満天神えびす祭では天神祭などで活躍した天神天満花娘が福娘として奉仕する。

大阪ガラス発祥の地の石碑、裏面には「宝暦年間(一七五一)長崎商人播磨屋清兵衛天満天神鳥居前ニ工場ヲ設ケ当時ノ玉屋ヲ開業大阪ガラス商工業ノ始祖トナル」と刻まれています。

この辺りは旭硝子や東洋ガラスの発祥の地でもあり、戦前は多くのガラス工場が建ち並んでいたそうです。

白雉元年(650年)、孝徳天皇が難波長柄豊崎宮を造営した際、その西北に守護神として大将軍社を創建したのがそもそもの始まりである。

延喜元年(901年)に菅原道真が藤原時平によって九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、この地にあった大将軍社に参詣し、旅の安全を祈願している。

本殿裏手にある十二社に祀られている神々、読んでいて、このうちの何人かが非業の死を遂げていることに気がつきました。

右から吉備聖霊・早良親王・藤夫人・伊豫親王、とんで藤原廣嗣・橘逸勢・丈太夫たちが政争に絡んで非業の死を遂げた方々、火雷神・火産霊神は火・雷ということですから道真公を意識した祟り神、埴山比売神・天吉葛神・川菜神は荒ぶる火の神を鎮める力を持つ神様たちということのようです。

すなわち道真公と同様、政争により非業の死を遂げた方々を一緒に祀ってその霊を慰める一方、特に道真公についてはその怒りを鎮める神々三柱を配しているようです。

白米(しらよね)稲荷社 – 祭神:稲荷大神。
伏見稲荷大社の奥院と称される。

付近に七夕池・明星池・夫婦池等が明治年間まで現存していた事は昔「難波碕」の付近に残った沼沢の名残であると思われます。

昭和の初めまで池には「宇賀の社」があり、紅梅紫藤が咲きみだれ付近には歌舞伎を常打としていました。

天満八千代座浪花節の国光席 吉本興業発祥となった天満花月吉川館などの寄席が隣接していた歓楽街でした。

池に架かっている「星合橋」は一名「愛矯橋」とも言われています。

天神橋の橋名飾板が2枚ありました。
裏面に明治21年と記されています。

祖霊社 – 祭神:大阪天満宮神官の神職および氏子・崇敬者の祖霊を祀る。

招魂社は、戦後、上方落語の復興に尽力した六代目笑福亭松鶴ら「四天王」をはじめ、同協会が発足した1957年以降に死去した落語家を祭っている。

天満宮北側の星合池のほとりにあり、落語定席「天満天神繁昌亭」と目と鼻の先という落語家やファンになじみの地に新設された。

川端康成誕生地跡

明治32年(1899)6月14日、川端康成は大阪天満宮の表門からほんの少し東、現在は料亭「相生楼」が建つ場所で生まれた。

その門前に「川端康成生誕の地」の石碑が静かにたたずんでいる。

大阪北区天満、当時の大阪市北区此花町のこの場所で、康成の父・栄吉は開業医として医院を営んでいたが、肺結核を患い、康成が1歳になるかならない内に死去。

母・ゲンの実家近く(現在の東淀川区に)へ転居したが、その母も明治34年(1901)、1月に亡くなった。

幼くして両親とも亡くした康成は翌年、祖父母に引き取られ、現在の茨木市宿久庄、当時の大阪府三島郡豊川村へと移り住む。

住吉大社 枝垂れ桜見納め
早朝に住吉大社を訪れた。 汐掛け道は人通りもまばら、ちょうど側道の植え込みに潅水 … 続きを読む →

川端康成が、戦後に発表した、「しぐれ」「住吉」とともに住吉3部作の一つとして数えられる「反橋」には、「上るよりもおりる方がこはいものです。

私は母に抱かれておりました」と描いており、橋の傍には康成の文学碑が設置されております。

文末にあらすじを掲載しておきます。

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先哲の眠る東寺町をめぐる

大坂の陣の後、松平忠明による復興の際には、北の防御線として天満北縁の西成郡川崎村および北野村に天満寺町が形成された。

天満堀川を境に天満東寺町・天満西寺町とも呼ばれる。

善導寺、江戸中期の町人学者山片蟠桃(やまがたばんとう)、三弦合奏創始者近藤宗悦、大阪画壇の西山芳園・完瑛父子の墓がある。

山片蟠桃は大阪町人・大阪商人の学塾である懐徳堂で中井竹山・履軒兄弟に朱子学を、先事館で麻田剛立に天文を学ぶ。

幼時から大阪の両替商である升屋に仕え、明和8年(1771年)に24歳の若さで番頭となり、傾いていた経営を軌道に乗せ、桝屋を繁盛させた。

財政破綻した仙台藩に建議し仙台藩の財政を再建。

『夢ノ代』の冒頭である「天文編」で地動説と太陽系を紹介し、太陽系と同じものが宇宙に無数にあることや万有引力説を説いている。

近年大阪府が国際的な文化賞として、山片蟠桃賞を設けている。

適塾と緒方洪庵
蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。 … 続きを読む →

懐徳堂は、江戸時代後期に大坂の商人たちが設立した学問所。

明治初年の閉校、大正時代の再建、太平洋戦争による罹災焼失を経て、現在は大阪大学が継承しているとされる。

門下より草間直方・富永仲基・山片蟠桃のごとき特徴的な町人学者を輩出したことでも知られる。

天徳寺

儒者・書家の篠崎小竹の墓がある。

詩・書に優れ、書籍を刊行しようとする者のほとんどが小竹に序・題・跋などの文章を求めるほど人気があった。
篆刻も得意とし稲毛屋山の『江霞印影』にその印が掲載されている。

大塩平八郎とも養父・三島に初読を習った弟子である関係で交流があったが、平八郎は陽明学者で朱子学者とは犬猿の仲であり、兄弟子である小竹とも学説上の対立があった。

宝珠院

縁起によれば弘仁年間(810年 – 824年)空海が開基。

紀伊国伊都郡(現・和歌山県伊都郡高野町)の高野山草創の頃、平安城の東寺より往来する際、しばらくこの地に安居して駄都秘法(駄都法)を練習した所で、後に、高弟の室生山堅恵上人が師の跡を慕って駄都法を修し寺院に改めた。

菅原道真が清和天皇に奏請して天満郷を寺領として貰い受けたので菅原山という。

九品寺

伝、行基開創後、浄土宗に改宗。

寺内に五井持軒の墓がある。

大阪生まれの儒学者。

伊藤仁斎・貝原益軒と親交があった。

龍海寺

現在の大阪大学の前身にあたる適塾を開設し、天然痘治療に貢献した、日本の近代医学の祖といわれている緒方洪庵の墓がある。

緒方洪庵の功績は、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲などの幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したこと。

日本陸軍の創始者、大村益次郎の足塚があります。

大村は刺客に襲われて足の傷が原因で死亡。

足塚は「切断した足を洪庵先生の墓傍に埋めてほしい」という遺言による。

適塾と緒方洪庵
蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。 … 続きを読む →

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日本三大えびす 堀川戎神社


江戸時代中ごろより祭礼が盛り上がり、ミナミの今宮えびすとキタの堀川えびすが大阪の十日えびすを代表するようになる。

また今宮戎、西宮戎と並び、「三大戎」に数えられる。

赤い鳥居である。この鳥居は阪神大震災で倒壊した鳥居の後継として建てられたもの。

社伝によれば、欽明天皇の時代、止美連吉雄が蛭子大神の神託により堀江で玉を得、それを神体として富島に蛭子大神を祀ったのに始まる。

当時は瓊見社(たまみのやしろ)・止美社(とみのやしろ)と呼ばれていた。

明治40年(1907年)、近隣の神社を合祀して「堀川神社」に改称し、村社に列格した。

昭和20年(1945年)に戦災で全ての建物を焼失し、昭和38年(1963年)に本殿が再建された。

福興戎像(ふくこう・ふくおこしえびす)

平成7年1年17日の「阪神淡路大震災」で破断した表門石造鳥居(昭和2年奉納)の柱に彫刻されています。

平成10年の十日戎に奉納され、平成12年、「幸いを与える」の「福」と、「生ずる・起きる・盛んになる」の「興」を付けた「福興戎像(ふくこう・ふくおこしえびす)」の応募名称を採用し命名されました。

被災鳥居から蘇った由来をもって、除災招福の象徴として、広く崇敬者の心の支えとなっている。

神の世界もコロナが蔓延していると見えて、マスクをしてござる。

榎木神社(えのきじんじゃ)は、堀川戎神社の境内社である。

本殿は地車(だんじり)の形をしており、地車稲荷の通称で知られる。

木の神・句句廼知神と稲荷神・宇賀御魂神を祀る。

かつての榎の大木の根元には吉兵衛という老狸が住んでおり、毎夜、決まった時間に地車囃子の真似をしていたと伝えられる。

本殿が地車型なのはそのためである。

地車稲荷の神使は狐ではなく狸である。

願い事が叶うとその夜に地車囃子が聞こえるとされ、願いが叶ったお礼として地車の模型や絵馬を奉納する習わしとなっている。

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大塩平八郎の墓所成正寺


成正寺は江戸時代後期、当時の幕政を揺り動かし、新しい歴史の契機ともなった大阪大塩家8代目中齋大塩平八郎の菩提寺です。

乱後は当然廃墓となりましたが、お寺が密かに土中に埋蔵しました。

明治三〇年、「中斎大塩先生墓」、大正五年に「大塩格之助君墓」が建立されました。

ところが昭和二〇年三月の大阪大空襲で、本堂・庫裏とともに墓碑も損傷しました。

それらは、戦後昭和三二年に縁者により、元の場所に復元されました。
また、墓地整理中に土中の墓が発見され、安置されました。

「大塩の乱に殉じた人びとの碑」は、昭和六二年、乱一五〇年を記念して、大塩事件研究会員及び全国有志の浄財により建立されたものです。

大塩の乱とは

天保8年(1837)2月19日早朝、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎が、飢饉の最中幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件。

奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300人を率いて「救民」の旗をひるがえし、天満の自宅から大坂城をめざしたが、わずか半日で鎮圧された。

乱による火災は「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失した。

当時配布された「檄文」は大名から民衆まで密かに伝わり、また、乱の情報は、大塩父子がしばらく潜伏し手配されたため、全国に広く伝わり、幕藩体制に大きな衝撃を与えた。

明治維新の30年前である。
乱の参加者はほとんど捕らえられ、獄中で死亡した者が多かった。

そして檄文は残った

大塩の蜂起の動機と思想は檄文に集約されている。

以下はその要旨である。

「天下の民が困窮すればその国は滅びるであろう。
徳川家康公も“よるべもない弱者にこそ憐みをなす政治を行うことが仁政の基なり”と申されている。

ここ245年の太平の間、上層の者は贅沢三昧で驕りを極め、役人は公然と賄賂を授受している。

私腹を肥やし、民百姓に過分の用金を申しつけている。

我々はもう堪忍できない。
天下のため血族の禍の禁を犯し、有志と申し合わせ、民衆を苦しめている諸役人を攻め討ち、驕りたかぶる金持ちを成敗することにした。

生活に困っている者は金銀や米を分け与えるから大坂で騒動が起こったと聞いたなら一刻も早く大坂に駆けつけてほしい。

これは一揆蜂起の企てとは違う。

また、天下国家を狙い盗もうとする欲念より起こした事ではない。
ここに天命を奉じ天誅を致すものである」

文面からは、大塩が幕藩政治の改革を強く望んでいたことがわかる。

「大塩の乱」の後、厳しい回収令にもかかわらず檄文は民衆によって筆写を重ね、全国に流布した。

そのうち、大塩平八郎の足跡をたどってみたいと思っている。

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ゆりかもめの乱舞


今日は「大寒」一年で一番寒い日とされる。
あとは暖かくなるのを待つだけ。

ここ、住之江公園の心字池ではゆりかもめが散歩する人の目を楽しませている。

パンくずを与える人がいて先を争ってたべにきているのだ。

ユリカモメはシギやチドリなどが泥中から引っ張り出した獲物を横取りするという「盗賊」のような一面も持ちあわせています、何でも食べます。

ユリカモメは仲間とのコミュニケーションや警戒の際に「ギィー」「ギュウーィ」といった地鳴きをします。

人間の「しわがれ声」によく似た鳴き声であまりきれいな声ではありません。

幼鳥の頃は可愛らしく「ミィ―」と鳴き、成長とともにしわがれ声に変化します。

伊勢物語で、都落ちした在原業平が隅田川で京都では見かけない鳥を見て、船頭に聞くと、「都鳥」と教えてくれました。

そこで「名にし負はば いざ言問はん都鳥 わが思う人は ありやなしやと」と詠みました。

この鳥の見かけの様子から伊勢物語の都鳥は現在のユリカモメであると言われています。

現在は京都の鴨川でもユリカモメは沢山飛んでいますが、それは1975年頃から以後のことで、昔は京都にはユリカモメはいませんでした。

漢字で都鳥と書けばユリカモメです。

都鳥をミヤコドリとカタカナで書けばチドリの仲間の「ミヤコドリ」なのです。
ややこしいですね。

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