神戸市役所展望ロビー


綿引道郎先生の彫刻 家族の詩(うた)—-憩う時

先生は1942年東京生まれの69歳。

東京芸術大学にて鍛金を学ばれ、そこで修得された高度な技術に より、橋梁建築鋼材としてもっぱら用いられていたコールテン鋼を素材に した具象彫刻の独自の世界を切り拓かれた。

山側のロビーより布引ハーブ園を望む。

神戸布引ロープウェイ風の丘中間駅とハーブ園山頂駅間に広がっている。

展望ロビーからは主に南側の眺望が楽しめます。

ここからは、東は六甲アイランドやHAT神戸の街並みが、南は東遊園地からポートアイランド、晴れていれば対岸の紀伊半島まで見渡すことができます。

神戸三宮フェリーターミナルが見えています。

海側の展望ロビーより東を望む。

市役所1号館1階 市民ロビー及び喫茶

公園の緑がきれいです。

マリーナ像 (阪神淡路大震災の記憶)

金色の女性像だが、時計をもっていて、この時計が阪神淡路大震災の時から停まったままになっている。

加納町の由来 説明文より

居留地の東端、現在のフラワーロードを流れていた旧生田川は、豪雨のたびに氾らんし、居留地の外国人から苦情が絶えませんでした。
そこで明治4年(西暦1871年)6月、生田川付替工事が行われ、誕生したのが現在の生田川です。

今度のフラワーロード整備では、小川の流れを取入れ、旧生田川をしのぶことができます。

加納宗七は、紀州の酒造り、廻船業の家に生まれ、神戸で材木・廻漕を開業していましたが、この生田川付替工事を中心となって請負うとともに、跡地である旧生田川敷も整地して新しい町づくりを進めました。

神戸の中心に「加納町」の名が残っているのは、その業績を讃えたものです。

なお同郷の先輩、陸奥宗光と親交があり、このモニュメントに刻まれている加納宗七の字も宗七宛の陸奥の手紙が原典です。

また、小川の流れの橋詰に建っている加納橋と彫られた石づくりの欄干は、架橋位置は不詳ですが、風雪に風化した石の表に歳月の流れを感じさせます。

このモニュメントの建立にあたって、加納氏の遺族始め、多くの方がたの協賛を得たことを付記します。

昭和56年3月  神戸市

東遊園地

1868年に外国人居留遊園の名称で開園した日本で最初の西洋式運動公園とされる。
開園当時は外国人専用であった。

公園内には、ボウリング発祥の地の碑・近代洋服発祥地の碑などの各種の記念碑がある。

また、毎年12月におこなわれる光の祭典「神戸ルミナリエ」では、東遊園地のグラウンドが終端の会場となっている。

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神戸旧居領地散策


シップ神戸海岸ビル

最新ビル建築との融合が斬新
外壁は御影石貼りで、唐破風のペディメントや幾何学的な装飾が随所に施されている。
震災後に15階建てに再建し、4階までの低層部に保存していた旧外壁を再構築して復元した。

元三井物産神戸支店で、長く「海岸ビル」と呼ばれていた

当時ウィーンの新建築運動であったゼツェッションの影響を強く受けている。
阪神・淡路大震災後に改築。

阪神淡路大震災で全壊認定を受けたために幾何学的装飾が施された外壁を撤去・保管。
その後、同じ場所に新しく再建された高層ビルの低層部に旧外壁を再構築した。

この4階建の旧外壁は国の登録有形文化財に登録されている(なお、空襲の被害があった4階の外壁材は新調された)。

なお、再建された旧建物外壁の1階南正面、東側の玄関には、竣工当時から受け継がれてきた木製ドアが取り付けられている。

また1階エレベーターホールには、かつて南正面玄関ホールを飾った6本の御影石柱が据えられ、南正面玄関の内扉2枚も店舗の出入口に再利用されている。

旧居留地(きゅうきょりゅうち)とは、かつて主に安政の五か国条約により外国の治外法権が及んでいたことのある区域を指す。

神奈川県横浜市、大阪府大阪市、兵庫県神戸市、長崎県長崎市、の旧居留地が有名。

旧居留地は、北は西国街道、東は旧生田川(現在のフラワーロード)、西は鯉川(現在の鯉川筋)、南は海に囲まれた周囲と隔絶されていた地区で、そこにイギリス人技師J.W.ハートが居留地(神戸外国人居留地)の設計を行い、整然とした西洋の街を造り上げた。

その後、東西の川は移設(付け替え)や暗渠化によって道路となったが、現在も道路を越えると街の雰囲気が一変する。

明石町筋と仲町通りが交差する角にあるのは旧居留地38番館。近代建築の匠、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ事務所による設計の情趣溢れた建物で、訪れる多くの人々を魅了しています。

重厚感あふれるヴォーリズ建築

南側正面のイオニア式円柱など、アメリカン・ルネッサンス様式の重厚な意匠が目を引く。
現在は多彩なショップやカフェが入る。

名称の38番は、外国人居留地時代の区画番号。

ナショナルシティ銀行神戸店として建てられた

大丸神戸店の中庭で見つけた神戸復興の女神、ニケの像。

ギリシャ神話の勝利の女神だそうです。
スポーツ用品メーカーの「ナイキ」という社名もこの名前に由来しています。

ニケは、ギリシャ神話の神でアフロディーテの娘で航海中に糸を紡いだり様々な役立つものを作り出す生産の神と同時に勝利の神の象徴として船の先に航海の危機を乗り切り安全を祈願して女神像として取り付けられていました。

1868年(明治元年)から1899年(明治32年)の返還までに、外国人に126区画に分けて競売された治外法権の場所であった。

やがて、居留地の外国人が山手に住居を構えるようになったのが、北野異人館街である。

1980年代までは、「老朽化した古いビルのオフィス街」という認識であったが、1988年に起こった旧神戸商工会議所ビルの保存運動が街再生のきっかけとなる。

商工会議所ビル自体は解体されたが、居留地の一角を占める百貨店大丸神戸店が自ら所有していたヴォーリズ設計の近代建築をLive Lab West(現旧居留地38番館)として店舗化し、さらに周辺の近代西洋建築へ高級ブティックを積極的に出店していった。

それによって近代建築オーナーの意識も変わり、近代建築が点在するのではなく「街並み」として「面」として存在することの価値を認識するようになる。

2000年代に入るとLVMHなどの外資ブランドが直接参入し、今では「最も神戸らしい洗練された街」として活況を呈するようになった。
これは市民運動と商業資本のコラボレーションの成功例として特記に値する。

1992年に国土交通省の都市景観100選に選定、2007年には旧居留地連絡協議会が日本都市計画学会の最高賞である石川賞を受賞している。

乙仲通(おつなかどおり)は昔、海運貨物取扱業者が軒を並べて賑わっていました。

昔の単位で甲・乙・丙・丁があり、昭和14年に政府は戦時体制に備え、これらの業者を乙種海運仲立業にまとめました。

以来、「乙仲さん」として親しまれ、その活況から通りの名前まで「乙仲通」と呼ばれるようになりました。

平成20年4月、地元住民の声も「乙仲通」にまとまり、神戸市より道路の愛称に認定されました。

浪花町筋、遠景はセントモルガン教会 神戸。

新旧が混在、まさに神戸。

三宮神社は航海の安全と商工業の繁栄を守る神として、古くから一般の崇敬厚い神社。

古い記録がなく、いつ創設されたかなどについては未詳。祭神は水の神である湍津姫命(たきつひめのみこと)。

境内に「河原霊社」や「史蹟 神戸事件発生地碑」と当時の大砲が置かれている。

慶応4年(明治元年、1868年)には、三宮神社前において、岡山藩(備前藩)兵と外国兵の衝突が発生した。
明治政府初の外交事件となったこれを、神戸事件あるいは、備前事件と呼ぶ。

当社は、周辺の「三宮」という地名の由来にもなっている。

異国情緒漂う街、神戸を代表する商店街の「神戸元町商店街」は、実は140年以上の歴史がある商店街。

実はこの道、平安時代に山陽道として整備された京都と下関を結ぶ重要な街道。

近世からは西国街道とよばれ、「下にぃ~、下にぃ~」と大名行列も通ったとか。

今から150年くらい前、このあたりには神戸村、二つ茶屋村、走水(はしうど)村という3つの村がありましたが、街道沿いにはいろいろなお店があって賑わっていたようで、やがて商店街へと発展していきました。

すぐ南は南京町、当時、条約の未締結国であった清国から神戸に渡ってきた華僑は、居留地には住むことができず、その西側に多く住み着き、南京町といった中華街を築いていった。

居留地に対してこれら西側のエリアを雑居地といった。

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初夏真っ盛り 長居植物園


連日夏を思わせる暑さが続いているが長居植物園もすっかり夏モード。
スモークツリーもきれいに咲いた。

スモークツリーはウルシ属に近縁な、雌雄異株の落葉樹。

初夏に咲く花木の代表で、ヨーロッパから中国に分布します。

雌木の枝先につく花序は長さ約20cmで多数枝分かれし、花後に伸びた花柄が遠くからは煙がくすぶっているように見えます。

アカンサス

アザミに似た形の葉は古代ギリシア以来、建築物や内装などの装飾のモチーフとされる。

特にギリシア建築のオーダーの一種、コリント式オーダーはアカンサスを意匠化した柱頭を特色としている。

ギリシアの国花。アカンサスをモチーフとした柄は絨毯にもしばしば用いられ、ビザンチンリーフとして知られる。

メタセコイアの化石は日本各地の新生代第三紀層に見られ、カナダ北部・シベリア・グリーンランドなど北半球の北極周辺に広く分布していた。

1939年に日本の関西地方の第三紀層で、常緑種のセコイアに似た落葉種の植物遺体(化石の1種)が発見された。

発見者の三木茂により、セコイアに「のちの、変わった」という意味の接頭語である「メタ」をつけて「メタセコイア」と命名され、1941年に学会へ発表された。

オカメザサ

日本原産であるが、野生種の発見は難しい。
各地で栽培されている。

高さ1-2mの背の低いタケ類。

見かけが小さいのでササの名を持つが、新芽にある鞘がすぐに剥がれるのはタケの特徴である。

地下茎の節間が短いため、桿(かん:タケやササの茎のこと)は密集して出る。

その上、葉の幅がやや広いので葉が密集して見える。
グランドカバーによく使われる。

「オオムギ」は漢名の「大麦(だいばく)」を訓読みしたもの。

「大」は、小麦(コムギ)に対する穀粒や草姿の大小ではなく、大=本物・品質の良いもの・用途の範囲の広いもの、小=代用品・品格の劣るものという意味の接辞によるものである。

大豆(ダイズ)、小豆(アズキ、ショウズ)、大麻(タイマ)の大・小も同様である。

名前不詳、涼し気な花姿が印象的。

チーゼル

おもにヨーロッパからアフリカにかけて分布するマツムシソウ科の二年草または多年草で、15種があり。日本にもナベナが自生する。

チーゼルとはこの仲間を総称する英名で、学名はディプサクス。

鋭い刺をもち、茎頂に長円形の頭状花序をつける。

シャーレーポピー(ヒナゲシ)は5月中旬~下旬ごろに見頃を迎えるポピー。

薄紙のような繊細な花びらで茎が細く、か弱そうですが性質は丈夫。

一重咲きのほか、八重咲きもあり、色合いもとても豊富な一年草です。

セントウレア・ギムノカルパ

一年草のヤグルマギクやスイートサルタンなども同じセントーレア属の仲間ですが、単にセントーレアといった場合、園芸では多年性のもののみを指すことが多い。

種類が多数ありますが、宿根ヤグルマギクと呼ばれるブルー花のモンタナやピンク花のデアルバータ、シルバーリーフのセントーレア・ギムノカルパ(ピンクダスティミラー)、セントーレア・ニグラ、黄色花のオウゴンヤグルマギクなどが出回ります。

ルー

青味を帯びた深いグリーンの葉が魅力的なルーは、南ヨーロッパ原産の常緑性多年草。

草丈は1mくらいにまで成長します。
若い葉は少し黄色を混ぜたような色をしています。

アールヌーボーの絵画から取り出したような、柔らかい曲線の葉が美しい植物です。

初夏に黄色の小花を咲かせますが、花より葉に観賞価値があるとされています。

ルーは、かつては薬用効果のあるハーブという扱いでしたが、今はほとんど利用されていません。
独特の香りがあります。食用にはならないハーブのひとつです。

〝猫いらず草〟とも言われているハーブ「ルー」を使ってみてください。
これはミカン科の植物なんですがちょっと匂いが強めで、この匂いを猫が嫌うんです。

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バラが見頃 長居植物園

長居植物園には、約7,000㎡の広々としたヨーロッパ風のバラ園があります。

ローズ、オオサカをはじめ140種類、約2,600株のバラが春・秋を主体にほぼ一年中楽しめます。

バラの集団の美しさや色彩の変化が楽しめるように、花つきのよい房咲き中輪種を中心に植えています。

オリビア

錦絵

カーディナル

ブルー・バユー

フレンチ・レース

ガルテンツァウバー

ホワイト アロー

ミケランジェロ

バラに囲まれてその美しさや香りを堪能できる「バラの回廊」が新たにオープン。

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柳生の里 もみじ橋


芳徳寺を後にして霊源坂と呼ばれる旧参道を歩いて山を下ると、鮮やかな朱色の橋に出ます。

下に流れる打滝川に架かる古楓(もみじ)橋と呼ばれる。

この近くに柳生石舟斎宗巖(せきしゅうさいむねよし)の家があったという。

これらの風景は、沢庵が選んだと云われる「柳生十景」に数えられている。

名前からすると紅葉のシーズンには綺麗な景色を演出してくれるのではないかと思ってしまいました。

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柳生 芳徳禅寺


芳徳禅寺は正木坂を上り詰めた小高い山の上にある。

右へたどれば一刀石への分岐。

芳徳寺(ほうとくじ)は、奈良県奈良市柳生下町にある臨済宗大徳寺派の寺院。

山号は神護山(じんごさん)で、本尊は釈迦如来。
芳徳禅寺とも称される。

『念ずれば花ひらくなる必ずや
        柳生街道来ます日待たむ』
先代の住職の奥様のお歌だそうです。

直ぐ反対側には、誰もいない静かな正木阪道場に。

柳生十兵衛の弟・友矩の邸宅跡に建てられています
 
芳徳禅寺の先代住職・橋本定芳さんが、昭和6年に道場建設を願い約30年の年月をかけて、同40年春にようやく完成しました

屋根や柱などの構造物は、もと興福寺の別当だった一乗院の建物で、玄関は京都所司代の玄関を組み合わせた重厚な建物です

兵法の 梶をとりても 世の海を
       渡りかねたる 石の舟かな

柳生城は戦国時代、柳生家厳の時に筒井氏との戦いでその名が登場するが、創築の時期は分らない。

柳生氏が土豪として戦国を生き抜く過程で整備されたものであることは間違いないだろう。

(写真・芳徳寺山門前に残る土塁と「石舟斎塁城址」の碑。)

寛永15年(1638年)大和国柳生藩主柳生宗矩の開基、沢庵宗彭の開山により創建されたと伝えられる。

宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した。

宗矩の子列堂義仙が第一世住持となり、宗矩の遺領1万2500石のうち200石が芳徳寺に寺領として分与された。
宝永8年(1711年)の火災により全焼したが、正徳4年(1714年)に再建された。

本堂には本尊釈迦三尊像の他、木造沢庵和尚坐像および、木造但馬守宗矩坐像を安置している。

また、伝柳生三厳筆「月乃抄」などの寺宝を伝え、柳生氏に関する資料多数を収蔵しており、資料館が併設されている。

廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年(1922年)に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義の弟・基夫氏が資金を遺贈し、本堂が再建された。

その後、大正15年(1926年)6月に副住職として赴任した橋本定芳(昭和5年(1930年)には住職に就任)は、芳徳寺の再興に奔走。橋本は柳生新陰流の普及に努めた他、昭和3年(1928年)には境内に大和青少年道場(現在の成美学寮)を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけた。

墓地へ回る。

うっそうと茂る森の中に墓地はある。

柳生家の墓地は元々は中宮寺(現・奈良市柳生下町)にあったが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基あまりが並ぶ。

霊源坂を北へ降りる。

霊源坂の中ほど東側の地が柳生宗厳(石舟斎)の居住地とされる。

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旧柳生藩陣屋跡


陣屋は柳生一族の菩提寺である「芳徳寺」が完成した後、江戸時代前半の寛永19年(1642年)に柳生藩初代藩主の柳生宗矩によって建てられたものであり、広さは1374坪(4534平米)であったとされています。

なお、正式な陣屋の建物があった期間はそれほど長くはなく、約100年後の延享4年(1747年)の火災による全焼後は復興せず、仮建築のまま廃藩を迎えたという歴史を持っています。

現在は静かな風情が広がる「広場」になっている陣屋跡は、建物などは残されていないものの史跡公園として奈良市により整備され、屋敷の区画が石垣で再現されているほか、春にはソメイヨシノが300本ほど咲き誇る隠れた「桜の名所」としても知られており、柳生エリアの観光・ハイキングの途中に休憩に立ち寄るのにも適した空間となっています。

ここは宮本武蔵が柳生石舟斎を訪ねたところです。
立ち合いのときに、風の音、鳥の声が聞こえるか?と諭しています。

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柳生八坂神社


元は春日大社の第四殿比亮大社を祀っていたが、柳生宗冬が大保町の八坂神社からスサノオの分霊を勧請して社殿を造営して、八坂神社と改めたという。


拝殿については同じく柳生エリアにある神社であり、本殿ではなく磐座をご神体とする天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)の能舞台として用いられていた建物を移築したという歴史も持っています。

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のどかな「柳生の里」を見渡す摩利支天山


摩利支天山へ向かう途中で見かけた天狗の案山子、とても怖そうです。

摩利支天(まりしてん)山は、剣豪の里「柳生」エリアの中心部、「柳生八坂神社」や「陣屋跡」に近い場所にある小高い丘(山)です。

柳生の集落を望む眺めの良い空間には、隣接する柳生八坂神社も創建した柳生藩2代藩主の柳生三厳の子柳生宗冬が武道・武将の神様としても信仰を集めた「摩利支天」を祀ったとされており、かつては祠があったとされています。

現在は祠は残されていませんが、それにちなんで「摩利支天碑」と呼ばれる石碑もあり、摩利支天のレリーフが刻まれています。

丘から家老屋敷を望む。

芳徳寺など柳生の名所や街並みが一望できます。
丘には桜が植樹され、春には桜で彩られます。

柳生中学校の南に位置する摩利支天山は、校地の一部であり、かつては桜の名所であった。

雑木の茂るままに長年放置されてきたこの山を復活させるために、以下の取組みを行った。

① 柳生中学校の環境整備活動の一貫として、生徒・教職員・保護者が頂上付近を伐採。
② 伐採の専門家を含む地域ボランティアが急 峻な斜面を伐採。

今後は、山桜の苗を入手し、苗木の植樹にふさわしい時期を選んで、関係者全員の手によって植樹する予定。

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旧柳生藩家老屋敷


バス停から家老屋敷跡へ向かう、田植えの終わったばかりの田に塀が映り込みきれいです。

ちょうど田植えの真っ最中、緑がきれいです。

柳生藩の財政立て直しを行った、家老小山田主鈴(おやまだしゅれい)の旧屋敷。

豪壮な石垣がみごとで、天保12年(1841)尾張石工が築いたと刻まれています。

旧柳生藩家老屋敷の「長屋門」。

説明文には「正門の両側に長屋があり、中間部屋としていた。
明治になって茶づくり部屋に改造されていたが一部を残して両はしの部分が取りこわされた。」とありました

長屋門をくぐって建物を見ると、庭のあちこちに「米蔵」「納屋」「平門」「物置」などの看板が立っていて、その配置が分かるようになっている。

玄関  柵があって ここからは入れない、当時は、主人と殿様や来客者のみが使用した。

家紋「二階笠」。
こちらは、坂崎出羽守という武将からもらった家紋です。

十兵衛映画やドラマを見ていると笠を被った姿が印象的です。

笠の下には眼帯をした十兵衛登場!といったところかな♪

柳生家家紋も”二蓋笠”と呼ばれる二つ笠を記した模様となっております。

殿中衣

庭園:面積約250㎡、東面から北面に、矩折に展開している。

作庭にあたっては大阪の茶人木津宗詮の指導を受けたと伝え、前庭と合わせて大小24基の灯篭が配置されていたという。

手水鉢のあとの石組みのほか、各所に岩の景石が残されている。

カエデ・カシ・モチの巨木は樹齢およそ200年を数えるとみられる。

修復にあたってはできるだけ原型をとどめるよう意を用いた。(現地案内板より)

主鈴は岩代国(現在の福島県)の出身。江戸の柳生藩邸に仕え、文政9年(1826)に国家老として奈良に移り、商才を生かして柳生藩財政を立て直した。

昭和39年作家山岡荘八氏の所有となり、氏の小説「春の坂道」(NHKでドラマ化)の構想を練った屋敷として注目を集め、氏の亡き後は、その意志により、奈良市へ寄贈されました。

柳生焼は、柳生十兵衛の祖母、春桃御前が馬頭観音を焼いたのが始まりと言われる伝統の窯。

藩の性格上「お庭焼」の域だったが、明治に至り、長く中断していたこの窯を、井倉家先々代より再興と研究し、先代喜太郎の代に柳生焼と成した。」とある。

燕が巣を作っています。

 『兵法の かちをとりても 世のうみを わたりかねたる 石のふねかな』
 (意訳:剣術でいくら勝っても、世の中どうにもならんよね)

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