のろま人形


佐渡の人形芝居の伝来には諸説がある。

寛保年間に江戸の人形遣い野呂松勘兵衛が佐渡に渡り、人形を遣わせたのが始まりだという説と、新穂村の須田五郎左衛門が京都に上って、公卿から浄瑠璃と人形の遣い方を習い、現在の広栄座が引き継いでいるという説であるが、どちらも文献資料がない。

しかし、広栄座の人形に「享保雛」に似ているものがあり、また上方系の台本が多いことから、享保年間頃に上方から移入されたとする説が有力である。

江戸時代の佐渡の人形は『恵美草』、『天保年間相川十二ヶ月』によると説教人形で、幕間狂言に野呂間(のろま)人形が登場し、祭の余興として神社や寺堂で行われていた。

舞台は高さ四尺の腰幕に水引幕を吊るすだけで、大夫は幕の陰で弾き語りをした。

野呂間人形は説教人形・文弥人形の間狂言として、一人遣いで方言を交えた台詞と滑稽卑俗な話で観客を笑わせる。

人形遣い野呂松勘兵衛によって有名になったことから、野呂の間狂言を縮めて「野呂間」人形と呼ばれるようになった。

一説には、この愚鈍な滑稽芝居が、ノロマ(野呂間)の語源とも言う。
現在は広栄座のみに存在し「生き地蔵」「そば畑」などが演じられている。

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藤戸竹喜


藤戸竹喜(ふじと たけき/1934-)は、旭川を拠点に「熊彫り」を生業としていた父のもとで、12歳から木彫を始めた。

以来、父祖の彫りの技を受け継ぎながら、熊をはじめ狼やラッコといった北の動物たちと、アイヌ文化を伝承してきた先人たちの姿を木に刻み、繊細さと大胆さが交差する独自の世界を築いてきた。

卓抜なイメージ力・構想力とともに、生命あるものへの深い愛情に根ざした生気あふれる写実表現は、他の追随を許さず、北海道を代表する彫刻家として国内外から高い評価を得ている。

平成27年度に北海道文化賞、平成28年度には文化庁から地域文化功労者として表彰された。

右側の立像は父方の祖母で幼少時に藤戸を育ててくれた「藤戸タケ像」

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四合院


北京における民家のなかで最も一般的な建築と言われているのは四合院と言われる住宅。

四合院とは中国特有の密閉型建築で、敷地中央に配置された空間(中庭)を囲むように、四棟の家屋を東西南北に対称的に配置された建物のことを言う。

対称形に配置された平面と、閉鎖型に造られた外観が四合院の特徴となっているわけです。

地方には二階建てやそれ以上の四合院もありますが、北京では殆どが平屋の四合院となっている。

四合院建築は漢代に確立したと言われているのですが、その後は明~清時代までその伝統建築が伝えられた。
今日、北京に残る多くの四合院は清代に建てられたものです。

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アボリジニの岩壁画


民博では、オーストラリア北部アーネムランドの町オーエンペリ近くの聖地であるイニャラック山の岩壁をモデルに、模型製作で定評のある会社に依頼してできるだけリアルな合成樹脂製の岩壁を製作した。

展示に合わせて現地から招いたボビー・ナイアメラ氏が、1週間をかけて、自ら持参した泥絵の具(鉱物質顔料)を使って、イニャラック山で磨いた腕前をふるってレプリカの上に絵を描いた

岩壁画は、雨季の間にアボリジニの人々が住まいとした岩山の壁に、彼らの精神世界の核であるドリーミング、すなわち、創世神話を、次世代に伝えるために描いたものであり、樹皮画や絵画などのアボリジニ芸術の源泉の一つとなった。

この岩壁画にも、「死と再生」や「雨と豊穣」を司る精霊「虹ヘビ」が中央に大きく描かれ、その腹中には飲み込まれた男女の精霊が描かれている。

また、骨格や内臓が透けて見える、いわゆる「レントゲン画法」によるカンガルー、ワニ、ゴアナ、バラマンディの他に、首長ガメ、岩の隙間に住むと言う超スリムな精霊ミミ、巨人ルマルマ、狩人、さらには睡蓮の花や根も見え、これらはすべて、この地域のドリーミングに登場するキャラクターである。

また、岩肌にあてた自分の手の上から口に含んだ顔料をエアーブラシのように吹き付けて描いた手形が中央左端に見えるが、これは作者のサイン代わりだと言う。

このように、土台はレプリカだが、描かれているのはまさに現地の岩壁画そのものなのだ。

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アステカの巨像


民博の中庭にアステカの巨像がある。

左から 神殿型石彫   シウコアトル巨像   コヨルシャウキの巨像  コアトリクェの巨像

「コアトクリエ」は、大地の女神であり、死の神であり、他の神々を産んだ母なる神であるとのこと。

腹部には切り落とされた首があり、そこから血が2匹の蛇となって流れ落ちていて、かなり不気味な造形。

この造形を生み出した感性、アジアやヨーロッパなどの旧大陸とは、全く違います。

「メソアメリカ文明」には、家畜を飼うという習慣がなく、製鉄技術、そして、車輪すらありませんでした。

その一方で、0の概念がインドよりも先に発見されていたり、一年が365日であることを正確に計測できていたりと、天文学や数学、医学、土木・建築技術は高度に発達していました。

宗教は太陽信仰が中心で、占星術が発達。太陽に生贄を捧げる人身御供が日常的に行われていたそうです。

「メソアメリカ文明」は、1519年にスペイン人のエルナン・コルテスによって、西洋人に初めて”発見”されます。

馬も鉄器も銃も持たないメソアメリカ人の文明は、たった600人ほどのスペイン人によって、あっという間に滅ぼされてしまったのです。

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あらしの跡 万博記念公園

台風21号から20日経つ、民博へ行くべく万博記念公園を訪れた。
連休最終日でもあり、お祭り広場などでは大勢の家族ずれの楽しむ姿が見られた。

現在公園は日本庭園の一部と太陽の塔以東が公開されているのみ、唯一中津道のみが通行可能であった。

ソラードへの入り口、たくさんの倒木とチェンソーのけたたましい音が響く。

紅葉谷方面へも通行不可、仕方なくここから引き返す。

「中央休憩所」のほぼ中央部から見た、「心字池」と「築山」の景色、特に普段と変わった様子は見受けられない。。

洲浜(中世庭園地区 鎌倉・室町時代 12世紀から16世紀)の様子。

現在の万博記念公園は「花の丘」「西大路のプラタナス」周辺や「西口ゲート」「北口ゲート」は閉鎖されていますが、「中央口ゲート」「日本庭園前ゲート」「東口ゲート」は営業しています。

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来迎院


来迎院は京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派に属する仏教寺院。
山号は明応山。本尊は阿弥陀如来。泉涌寺の塔頭。

寺伝によれば、大同元年(806年)に空海(弘法大師)が唐(中国)で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされる。

なお境内一角に赤穂義士・大石義雄建立の茶室「含翠軒(がんすいけん)」があり、念持仏・勝軍地蔵尊は本堂に祀られている。

院内庭園には小さいながらも独特の雰囲気をかもし出しており、殊に晩秋の紅葉はすばらしい。

秋の紅葉めぐり 禁裏御菩提所泉涌寺別当 来迎院
来迎院(らいごういん)は京都市東山区にある真言宗泉涌寺派に属する仏教寺院。 山号 … 続きを読む →


弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」は、縦穴の井戸ではなく、崖の下の部分から横方向に伸びる洞窟のような形状をしており、柄の長い柄杓を用いて汲み上げる。

伝承によれば、霊元天皇の寵愛を受けた女官、小少将局の娘は生まれつき目が不自由であったが、独鈷水で目を洗うと良いというお告げに従ったところ、たちまちにして目が治ったと言われる。

祈願の御石 境内に立つ弘法大師像の脇に祈願の御石が積まれている。
石に願い事を書いて、像を3回廻り、立石の梵字に当て祈念し、石を奉納する。

弘法大師像

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善能寺


久し振りの訪問です。

この寺は一説によれば、元は西八条猪熊二階堂町にあった二階観音堂と呼ばれていた寺であったが、弘仁14年(823年)に空海がこの寺に稲荷大明神(荼枳尼天)を祀って寺の名称を善能寺に改めたという。

その後、平城天皇の勅願寺となったこともあるが、天文24年(1555年)に後奈良天皇の命で泉涌寺の塔頭とされ、今熊野観音寺の西北に移された。

泉涌寺の塔頭のひとつで、本尊は聖観音。洛陽三十三所観音霊場第18番札所である。

ところで泉涌寺と言えば天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置し、御寺と呼ばれているわけだがなぜか天武以後称徳女帝までの8代7人の天武系の天皇の位牌が無いのです。
この辺りから当時の時代背景を辿ると面白いことだらけだ。

そして、何よりも紅葉がきれいなのである。
秋の紅葉めぐり 御寺(みてら)泉涌寺
平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちり … 続きを読む →

もちろん善能寺も隠れた紅葉の名所だ。

秋の紅葉めぐり 泉涌寺塔頭 善能寺
善能寺(ぜんのうじ)は、京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひ … 続きを読む →

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今熊野観音寺


参道を進むと朱塗りの「鳥居橋」があり、橋の傍に『今熊野観音寺』と刻まれた石柱が立てられているのが見える。

ここから奥が観音寺の境内になっているように思われるが、通常の寺院に見られるような山門がない。
観音寺は泉涌寺の塔頭であり、そのため山門が設けられていないのかも知れない。

観音寺は、京都市東山区泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院。

泉涌寺の塔頭のひとつで、今熊野観音寺とも称される。山号は新那智山。

秋ともなるとここは隠れた紅葉の名所。

紅葉の穴場、新那智山 今熊野観音寺
東福寺のあまりの混雑にビックリされて途方に暮れた方、大丈夫です。 近くに、今熊野 … 続きを読む →


杉並木の傍の参道を通り抜け境内を奥に進むと、先ず目につくのは「子護大師像」。
像は観音寺の開基である弘法大師の姿であろうと思われる。

階段を上がり振り返ると子護大師像の大きな背中が。

空海が唐で真言密教を学んで帰国した翌年にあたる大同2年(807年)、東山から光が出ているのを見つけた空海は、不思議に思って当地にやってきたところ、老人の姿をした熊野権現が現れた。

熊野権現は空海に天照大神御作の一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡してこの地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り、衆生を救済するようにと言った。

そこで空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像をその体内仏として中に納め、熊野権現の言うようにこの地に一宇を建てて奉安した。

これが当寺の始まりであるとされる。

現在、この観音寺は泉涌寺の塔頭であるが、応仁の乱以前は泉涌寺をしのぐ大寺だったという。

観音寺は「頭の観音」といわれているように、「ぼけ封じ祈願」の寺としてよく知られている。

「ぼけ封じ観音」の台座の近には多数の「身代わり石仏」が置かれている。

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雨の日 十輪院を訪れる


予期せぬ雨になってしまった、久しぶりに十輪院を訪問。

本堂(国宝)
この建物は内部にある石仏龕を拝むための礼堂として建立された。
近世には灌頂堂とも呼ばれていた。

石造不動明王立像

鎌倉期の作、高さ205センチメートル、一部に彩色が残る。

ここには川島英五が眠る。

ハギはやや早いかな、雨に打たれている。

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