モネの庭マルモッタン ギャラリー・カフェ


エントランスブリッジ。

駐車場から続くエントランスブリッジでは、バラのアーチがお迎えします。

クロード・モネ。

ギャラリースペース

「睡蓮」をはじめとするモネの名画(複製)が並ぶギャラリースペース。
モネの庭の四季折々の姿を写した写真展も行なっています。

草原を散策するカミーユとジャンを下から眺めるようにして描いた作品。

1890年、モネは「このような家もこれほど美しい地方も二度と見つからないことを確信てjジヴェルニーの家と土地を購入し、終の棲家とした。

水連と室内の映り込みの虚実の世界。

天窓から自然光がそそぐ明るい雰囲気の中で庭の中心部にあるギャラリー・ショップは、ジヴェルニーのモネのアトリエと家をモチーフにデザインされています。

緑色の鎧戸、レンガ色の外観は、モネの家そのもの。
館内のギャラリースペースでは、モネの絵画(複製)やモネの暮らしを伝える展示品、画集やガーデニングに関する書物、映像を見ることができる。

フローラルホール

2011年にオープンした多目的ホール。
ギャラリーを兼ねた展示スペースになっています。

維新志士 中岡慎太郎&印象派志士 クロード・モネ 展が開催されている。

同時代を生きた日仏の志士たち。

モネは庭づくりに情熱を傾けたばかりでなく、料理にも深い造詣を示し、ジヴェルニーのアトリエで様々な創作料理を作りました。

キッチンやダイニングなどのインテリアも自らコーディネイトしたり、オリジナルの食器をデザインするなど、アートのある暮らしを実践しました。

2017年4月にリニューアルオープンしたカフェ「モネの家」は、彼が暮らした家をモチーフにしたカフェです。

地元食材を使ったメニューやドリンクなどが楽しめます。

本日の昼食は、白身魚の香草パン粉焼きランチセット

モネレシピのタルタルソース、北川村ゆずソースなど4色ソースとともにいただきました。

落ち着いた雰囲気の店内と高知の自然が一望できる景観の中でゆっくりと過ごす。

ショップスペースでは、モネを中心としたミュージアムグッズ・オリジナル商品をはじめ、ガーデニング雑貨、北川村特産の柚子を使った商品や地元のお酒など豊富に取り揃えています。

ショップではモネゆかりの品々が求められる。

あちらもこちらも睡蓮の池をモチーフにしたデザインであふれる。

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モネの庭マルモッタン 花の庭


展望デッキから見下ろすと、左手に見えるのがバラアーチ。

その足元にはオレンジ色のナスタチウム、さらに左手には絵の具箱のような花壇が広がり、空間の広がりを演出しています。

サルビアの赤が見事。

画家のパレットのなかの色あわせを思わせるような庭は季節の花たちが彩り、バラのアーチやノルマン囲いの造形と、花壇ごとに花色を変えたり、混植にして取り合わせを楽しめるようになっています。

季節がいつも同じではないように気候により変化する植物たちの取り合わせは、私達に見るたび新しい風景で感動を与えてくれます。

いくつの花が見えましたか、花好きにはたまらない空間です。

噴水を配して涼やかな絵に出、猛暑の中わずかに量を感じる。

チョウが忙しく飛び交う。
朝のテレビニュースで見た、幸せを呼ぶというハチ、ブルービーは見つけることができませんでした。

猛暑の中作業は大変です。
すれ違いざまさわやかな笑顔を残してくれました。

庭の植栽を担いでいる場所。
モネの庭で育てた苗などの販売もしています。

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モネの庭マルモッタン 光の庭

世界で唯一、本家より「モネの庭」の名称を許可された施設です。
この庭は本家フランスには存在しない世界で1つの「モネの庭」です。

海や山の借景も庭の一部と考え、高知の自然のなかで、どこにも存在しないただひとつのモネの庭として2008年誕生。

43歳の頃にルノアールと旅した地中海。
その旅でモネは多くの絵を描いています。

「光による色彩」に強い印象をうけたそれらの作品はその後の創作活動を知るうえでの重要なポイントだと言われています。

その描かれた風景、旅と作品をテーマとして庭を造るという世界でも初めてのプロジェクトが本家「モネの庭」の庭責任者ジルベール・ヴァエ氏の発案と協力により実現。
それが「光の庭」です。

メタセコイヤの林の中ユリが咲いています。
ユリはこの時期随所で見かけました。

光の庭へは遊びの森を抜けていきます。

水の庭とは一転し、緑でゴツゴツと乾いた感じの植物が多かった。

オリーブやハーブ類、ヤシ類、ソテツ、アロエ、ユッカ、リュウゼツラン、ジャスミン、ブーゲンビリアなどの地中海の植栽と、柚子をはじめとした柑橘類、堆金菊、ジャケツイバラ、シオ菊などの身近な植栽をあわせる事で、高知ならではの庭造りを続けています。

50年に一度しか咲かないと言われるリュウゼツランが咲いているとの掲示を見つけ、そのあたりを探し回ったが見つけることができず。

帰ってネットで検索、あああの花だったのか、背の高い花で逆光で絵としてはいまいちかなと思い撮らなかった花です、残念。

高台にある風の丘展望台への道、あまりにも暑く、途中で引き返す。

遊びの森を抜け、昼食へと向かう。

光の庭を筆のタッチでイメージしてみる。

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モネの庭マルモッタン 水の庭

念願のモネの庭に来ました。
青春18切符で列車を乗り継いで。

モネは生涯の祈り返しの年にあたる1883年、ジヴェルニーヘ移り住んだ。
当初、モネと息子たち、そしてオシュデ夫人とその子どもたちは借家に住んでいたが、90年には屋敷と土地とを購入している。

家族から離れていたエルネストーオシュデが91年に亡くなると、翌年、モネはアリスと正式に結婚した。

93年には自宅に隣接した土地を入手し、池の造成着手する。
やがて睡蓮の池とその周囲の小径、そして草木の茂みが整備されて「水の庭」と呼ばれるこの場所は、膨大な「睡蓮」の作品群の舞台となっていく。

「水の庭」を描いた「睡蓮」の作品群はおよそ300点にも及び、画家の生涯の全制作数の七分の一を占める。

「睡蓮」の割合は年を追う毎に増し、1895年以降の制作数ではほぽ半数、第一次世界大戦後の作品のほとんど全数が「睡蓮」である。

1890年、モネはジヅエルニーの家と土地を2万2000フランで購入した。

そして、果樹園の樹木を伐採して、四季折々の花咲くっ花の庭」を、その3年後には、土地を買い足して「水の庭」を造り始める。

もともとオモダカや睡蓮の自生していた池を、モネは日本風の庭園へと生まれ変わらせた。
太鼓橋を架けて藤棚をのせ、橋のたもとには菖蒲やかきっばたを植え、池のほとりには柳や竹林を配する。

太鼓橋から見た睡蓮の池。

この連作では池と太鼓橋が描かれ、睡蓮の茂みが水面を覆い尽くしているが、ところどころの睡蓮の葉の隙間に樹木が反映している。

そしてこ水の庭」は、改良を重ねつつ、30年以上もの問、モネのインスピレーションの源であり続けたのである。

太鼓橋からの景色、藤棚のフジを少し入れてみる。

積み藁、ポプラ並木、ルーアン大聖堂……しヽくつもの連作に取り組んだモネが最後にたどり着いたのは[水]、そしてその反映の風景だった。

ジヴェルニーの「水の庭」をモチーフに、倦むことなく「睡蓮」を描き続けたモネ。
その情熱は、死の直前まで続いた。

モネが視力の悪化に気づいたのは、1908年頃とされている。
そして1912年には白内障と診断されたが、モネは手術を先延ばしにしていた。

当時の白内障手術は、多くの苦痛と困難を伴うものだったからである。

しかし、着実に進行していく白内障から失明の危機にまで陥ったモネは、1923年、ついに周囲の説得に応じて、手術を決意。

かろうじて視力を回復したのだった。

そして、「声が出なくなった歌手は引退します。

白内障の手術を受けた画家は描くのを諦めるべきなのでしょう、私にはとてもできないことですが」と主治医への手紙に綴りながらも、その3年後に控えた死の直前まで「睡蓮」に取り組み続けたのであった。

モネの愛した庭として有名なフランス、ジヴェルニーにある《モネの庭)。

彼は43歳から生涯の半分をこの庭とアトU工のある邸宅で過ごし、創作以外の時間を庭仕事に充てていたといいます。

そうしたクロード・モネの思いを高知の自然の中で再現したのが北川村「モネの庭」マルモッタン。
当園は世界で唯一、本家より「モネの庭」の名称を許可された施設です。

睡蓮は彼が晩年最も情熱を注いだモチーフのーつで、様々な色や品種のものを栽培してきました。

その中でどうしても咲かせたかった夢の「青い睡蓮」。
熱帯性である為に、気温の低い北フランス/ノルマンディー地方のジヴェルニーではついに花開くことはありませんでした。

私たちはモネが苗を仕入れていた所と同じ南フランスにある水性植物園から、十種類あまりの苗を持ち帰り大切に育てた結果、ここ南国土佐の眩しいひかりを受け、見事に花を咲かせることが出来ました。

モネが夢みた青い睡蓮

当園で咲いている睡蓮のほとんどは、連作「睡蓮」の舞台となったフランス/ジヴェルニーの「モネの庭」から株分けされたものです。

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近づく実りの秋

住吉っさんの御田の稲の花が咲いているという情報を聞き、早速取材に訪れた。

きれいに花が咲いています。

7月中旬に茎の中に穂が出来てから、だんだん成長し8月10日頃になると茎の中から出てきます(出穂【しゅっすい】)。

いねの一生の中で穂の出る10~15日前が最も大切な時期で、この時期に低い気温や強い風が吹いたり、旱魃【かんばつ】にあったりすると、稔らないもみが出て収量と品質が低くなります。

いねは穂を出してから5~7日程度で、すべての籾【もみ】が花を咲かせて授粉【じゅふん】が終ります。
授粉した籾【もみ】は10日位で胚【はい】や胚乳【はいにゅう】ができ、子房【しぼう】がふくらんで稔っていきます。

少しアップしてみよう。
画像をクリックするとさらに拡大できます。

実りの秋の近づきを感じます。

6月14日13時~お田植え神事

稲作の始まりとともに、田んぼの神さまを祭る田植え行事は全国各地で行われています。
なかでも、住吉では儀式を略することなく、当時と同じ格式を守り、華やかで盛大に行っている祭りとして有名です。

神功皇后が田んぼを設け、御田を作らせたのが始まりだといわれています。
母なる大地に植付される苗には、強力な穀霊が宿るものとして考えられていました。

田植えに際して音楽を奏で、歌をうたい踊りや舞を演じるのは、田や植付する苗に宿る穀物の力を増やすためです。
穀物が豊かに育ち、稲穂が十分に実る秋を迎えるための儀式として、今でもおごそかに行なわれています。

以前掲載したお田植え神事の記事があります、ご覧ください。

住吉大社お田植え神事2013
社伝によれば、千七百六十余年の昔、神功皇后が大社を御鎮祭の後、長門国から植女を召 … 続きを読む →

10月17日10時~宝之市神事
御田で刈り取りのお祭りを行い、引き続き本宮にて刈り取った初穂と五穀を神前にお供えする神事が行われる。

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日本の祭り

「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すもの。

日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶ。

また、祭祀の際には、神霊に対して供物や行為等、様々なものが奉げられ、儀式が行われる。

ねぷたは、東日本各地、とりわけ青森県内の各地で行われる夏祭りの一種。佞武多とも書く。

全国的に有名なのは、青森ねぶたと弘前ねぷた。

弥五郎どん祭りは、おはら祭り(鹿児島市)、お釈迦まつり(志布志市志布志町)と並び県下三大祭りであり、約900年の伝統がある。

始まりは、 飛鳥時代に隼人族と朝廷軍の戦いにより、隼人族の戦死者が多く慰霊のため放生会だったとされています。

「弥五郎どん」は、調停に抵抗した隼人族の首領、6 代朝廷側の武内宿禰など様々な説があり、未だはっきりしていないようです。

弥五郎どんは三兄弟で、岩川八幡神社の弥五郎どんは次男。長男は都城市山之口町にある的野神社の弥五郎どん、三男は日南市飫肥にある田ノ上八幡神社の弥五郎どんと言われています。

鷺舞の源流は八坂神社の祇園祭にて奉納されたもので、中国の七夕伝説を端緒にするものとされる。

津和野の鷺舞は山口祇園会を経て伝習されたもので、1542年(天文11年)、時の城主、吉見大蔵正頼が大内義興の息女を迎え入れたことで、彼女の疫病除けを祈念して始められた。

その後、戦乱の世に伴って一旦廃絶するものの、1645年(正保元年)に亀井茲政が坂田屋兵左衛門ならびに野村仁左衛門の二人を京都に派遣、鷺舞を直接習得させたことで、津和野では以後四百年に亘る年月の間、一度も廃絶することなく連綿と奉納され続けることになった。

一方の本家、八坂神社では江戸時代中期に絢爛豪華な山鉾や傘鉾巡行に圧されるような形で存在感が薄くなっていき、いつしか廃絶の憂き目にあった。
その後は、戦後になるまで奉納はされなくなっていたが、1956年(昭和31年)、祇園会保存会の一員でもあり、狂言師でもある木村正雄が逆に津和野の鷺舞を習得したことで復活、再び奉納されるようになった。

さねもりおくり【実盛送り】

虫送りの行事。
非業の死を遂げた斎藤実盛が稲の害虫に化したという伝説に基づく。

わらで人形を作り、鉦かね・太鼓をたたき、囃子詞はやしことばを唱えつつ村境や川まで送り捨てる。実盛祭り。

宇和島地方の牛鬼伝説は、牛鬼の伝承の中でも特に知られている。

かつて牛鬼が人や家畜を襲っており、喜多郡河辺村(現・大洲市)の山伏が退治を依頼された。
村で牛鬼と対決した山伏は、ホラガイを吹いて真言を唱えたところ、牛鬼がひるんだので、山伏が眉間を剣で貫き、体をバラバラに斬り裂いた。

牛鬼の血は7日7晩流れ続け、淵となった。これは高知県土佐山、徳島県白木山、香川県根来寺にそれぞれ牛鬼淵の名で、後に伝えられている。

天津司舞(てんづしまい)、または天津司の舞(てんづしのまい)は、山梨県甲府市小瀬町の天津司神社に伝わる、等身大でできた9体の木造人形を用いて田楽舞を演じる、神事芸能、伝統芸能。

中世に起源を持つ傀儡田楽(くぐつでんがく)の一種であると考えられており、地元ではオテヅシさん、デッツクさんと呼ばれる。

田楽舞は日本各地の民俗芸能として一般的であるが、人形で演じる民俗は珍しく、1960年(昭和35年)11月7日、山梨県指定無形文化財に指定され、国により1970年(昭和45年)6月8日に記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択された。

新居浜太鼓祭り(にいはまたいこまつり)は、愛媛県新居浜市を代表する秋祭りであり、徳島の阿波踊り・高知のよさこい祭りと並ぶ四国三大祭りとしても知られている。

また日本三大喧嘩祭りとしても有名。

毎年10月16日から18日(一部地域10月15日から開催)までの3日間、金糸銀糸に彩られた50台以上の絢爛豪華な太鼓台(たいこだい)と呼ばれる山車が練り歩く。

熊本県上益城郡山都町の浜町では、野山の自然素材を豊富に使った巨大な「造り物」が名物の「八朔祭(はっさくまつり)」が、毎年、旧暦8月1日の平均に近い、9月第1土曜日日曜日の2日間にわたって開催されている。

この祭りは江戸時代中期から始まったとされ、田の神に感謝し収穫の目安を立てる日とされ、NHKなど全国ニュースにも毎年取り上げられているほど有名な祭りである。

町の中心街を高さ3〜4m、長さ7〜8mにもおよぶ大造り物(山車 他にお囃子隊が同行)が数十基、引き廻される光景は実に壮観で、内外より多くの観光客や写真家を呼び込んでいる。

祭りに合わせて放水する国の重要文化財、通潤橋(つうじゅんきょう)の姿は見事で、夜には通潤橋の近くで花火も打ち上げられ、日頃は閑散とした山の町が遅くまで大勢の観光客で賑わう。

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雑踏






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仮面

民博にはアフリカ・オセアニア他から集められた神像や仮面、生活用品などがたくさん展示されている。

仮面は人間の仮の「おもて・顔」。

人間の複雑な心の動きを具体的な物で表現したともいえます。
そこには地域文化の特色とともに、地域文化を越えた人間の心の表現があるのではないでしょうか。

木彫 男と女

ニュージーランド マオリ族

上部は男性の顔、下部は女性の顔を表している。
ともに伝統的な入れ墨(モコ)が施されている。

クリスマス人形「キリスト降誕」  フランス

ヨーロッパ南部ではクリスマスに、イエスが生まれた馬小屋のセットを飾ることが多い。

母マリアと父ヨゼフのほかに、誕生を祝福する動物もいる。
毎年人形を買い足して豪華なセットにする家庭も多い。

ソゴボ(操り人形付き動物仮面)

パナマの人々の社会では、男性だけが所属する仮面結社が様々な儀礼に携わるが、これとは別に、男女を問わず若者たちが組織するグループが、操り人形付き仮面の舞踏を上演する。

仮面  インドネシア  ジャワ

仮面舞踏トペン・チルボンに使われる。

ジャワ島西部北海岸の町チルボンとその周辺のジャワ人社会で演じられる。
踊り手は順番に仮面を付け替えて踊る。

仮面 パンジ

仮面 トリジョヨ

仮面 シダカルヤ

仮面舞踊劇トペン・パジェガンに使われる仮面。

バリ舞踊9種類、ユネスコの世界無形文化遺産に認定されたがそのうちの一つ。

道祖神の仮面 長野市

目、鼻、鼻の穴、唇、見事にすべてわら、しめ縄のような眉毛とひげでしょうか。

昔、周囲の村で病がはやった時、医者がはやり病が村に入ってこないよう村境の芦ノ尻道祖神に祀り、悪霊を追い払ったといわれています。

縁結びの神様としても祀られ、正月の松飾りのしめ縄で、道祖神の文字碑に独特の顔が、毎年1月7日に作られます。

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真夏の広沢の池を散策

送り火の行われた日、広沢の池を散策した。
夏に別れを告げるという送り火だが照り付ける陽はまだ暑い。

昭和42年に嵯峨帝心経写経1150年を記念して建てられた心経宝塔。

まだ蓮は咲いています、送り火の祭壇は蓮を刈り取って設けられる。

水草も美しい。

サギが飛来。

鵜は口を大きく開け、頭を振って何か叫んでいます、サギは狩りに余念がない。

名古曽滝跡へ通じる小径、風情を感じる小径です、左は梅園、木陰で少し冷気を感じほっと一息。

名古曽滝は、離宮嵯峨院の滝殿庭園に設けられたもので、「今昔物語」では百済河成が作庭したものと伝える。

水は早くから枯れ、石組みだけが残った。

大正11年国定指定名称に指定され、平成6年からの発掘調査で中世の遺水が発見され、平成11年に復元が完了した。

大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残す。

この池の蓮は小ぶりで、「名古曽」と名づけられている。

大沢池の北約五十メートルの所に嵯峨天皇の造営された離宮嵯峨院の滝殿の石組み跡、「名古曽滝(なこそのたき)」があるが、その名に因み命名されたのであろう。

薄明光線(はくめいこうせん、英語: crepuscular rays)は、太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象の俗称。

通常とは逆に、雲の切れ間から上空に向かって光が出ることもある。

おもに、地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方に見られる。
世界中の人々の間で美しい自然現象と認識されており、写真撮影における人気も高い。

「薄明光線」のほか、別名が多数ある。気象現象としては「薄明光線」、一般的には「天使の梯子」がよく知られている。
光芒とも呼ぶ。

天使の梯子、天使のはしご(てんしのはしご、angel’s ladder)
天使の階段(angel’s stairs, angel’s stairway)
ヤコブの梯子、ヤコブのはしご(Jacob’s ladder)
レンブラント光線

池の背後を流れる水路、緑が美しい。

池にかわいい水草が咲いている、名前を知らず。

モミジの種子、かなり成長しています。

この日は特に雲がきれいでした、池への映り込みの雲が特にきれいです。

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静かに夏に別れを告げる嵯峨の送り火・宵弘法 | 大覚寺

毎年8月20日の夜には、大沢の池に数多くの灯籠が浮かび、池にせり出すように作られた祭壇で読経が行われて、池の中央に組み上げられた祭壇に火が灯されます。

早めに大覚寺に到着、準備の様子や大沢池周辺を見て回る。

大覚寺は、弘法大師空海を宗祖とする真言宗大覚寺派の本山。
京都嵯峨野の北端に位置する、広大な敷地を持つお寺。

平家物語に登場する祇王寺は大覚寺の塔頭です。

大沢池から望む五大堂。

参道には早くから火が入り参拝者を待つ。

「宵弘法」が行われるこの日、日が暮れる前に大沢の池にせり出すように作られた祭壇の飾り付けが始まり、灯篭の準備も池に漕ぎ出した船から行われる。

池にはハスの花もまだ咲いている時期です。

舟が静かに漕ぎ出し、沖の祭壇に何か運んでいます。

ただいま5時30分、法要は19時からだが早くも五大堂には人が座っています。

空を赤く染めて陽が沈む。

徐々にせまる日暮れとともに池の中の灯篭の火が輝き始めます。
運が良いと(晴天だと)夕焼けが池面に反射して、色とりどりの灯篭を輝かせます。

祭壇ではローソクに火がともされ、準備は着々と進む。

18時頃から、五社明神の前で護摩焚きも行われています。

お寺の中にある鎮守社は神仏習合時代の名残です。

大覚寺では8月16日の五山の送り火が終わってから、8月20日に法要(宵弘法)が行われます。

灯篭が池に浮かべられ、かがり火がたかれて、16日に帰れなかったおしょらいさんを冥界へ送り届けます。
「嵯峨の送り火」と呼ばれます。

すっかり準備の整った祭壇。

19:00過ぎに僧侶が祭壇に登壇し、般若心境の詠唱が始まります。

全員がおのおの札を取っては 「○○家先祖代々後代~」 と、猛烈な速さで消化していきます。

池の周囲からも見学者がお経を唱和する声が聞こえてきます。厳かな雰囲気に包まれる瞬間です。

法要読経の最中に護摩符を積んだ舟が大沢の池に漕ぎ出して、池の中に組み上げられた祭壇の大きな松明への点火が始まります。
炎はあっという間に燃え盛ります。

燃え上がる炎が、夏の終わりを告げるように池の周りを明るく照らし出します。

パチパチと組み上げられた松明の燃える音も聞こえるほど、近くで見ることができます。

読経の祭壇と燃え盛る松明。

今年の夏もそろそろ終わります。

静かに夏にお別れしました。

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