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木村康雄 大阪在住 写真家

紅葉見頃 司馬遼太郎記念館


司馬遼太郎記念館の紅葉が見頃を迎えている。

この画像はコンデジで撮影したもの。

コンデジ画像でもレタッチソフトを使うとそれなりに奇麗に仕上がる。

記念館では玄関周りは日陰になる場所だけに紅葉は遅れているがその他の個所はほぼ見頃だ。

特にガラスの回廊からの眺めは素晴らしい。

映り込みがあるので見づらい部分もあるがご覧ください。




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秋真っ盛り 長居植物園


カツラの葉が陽を受けてきれいです、逆光で表現が難しい。

何処も紅葉、目に付いたものをとにかく撮る、撮った順番に並べるだけ。
何か主体性に欠けた撮影だがとにかくきれいなものを撮っていく。

ハナミズキの紅葉は独特の色合いだ。

風の葉も陽に透かす。。

積もった落ち葉と木立の紅葉のコラボ。

パンパスグラスがひときわ目立つ。

対岸の紅葉を愛でる。


小池の渓流に架かる橋、四季折々に絵になる。

アジサイ園の丘も紅葉がきれいです。


落ち葉もアップで撮ると絵になるかな。

真っ赤な紅葉がひときわ目を引く。

多くの人がそれぞれ紅葉を楽しんでいる。

野鳥観察の集団もいます。

何処にレンズを向けても紅葉が撮れる。



ギンヨウアカシア。

ミュウレンベルギアとパンパスグラス。


大池の対岸の紅葉。

逆光を受けて紅葉が輝く。


チームボルタニカの展示物も作品にならないかなといつも狙っているのだが・・・・

バラ園は人がまばら

エノキの大木が存在感を示す。


コスモスはフェアの最中い゛多くの人が集まっている。

風が強く中名か幕タイミングが合わない。

前ボケも風が吹いた時を狙って・・・・




展望塔の紅葉は特にきれいです。





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光と影


冬季は太陽の位置が低いので、日中でも斜光になる時間が多くなります。

強烈な斜光でコントラストがきつくなります、超軟調で丁寧に仕上げたル

特に冬場はひかりが長くなり特徴のある光になる。

木立を抜けてきた斜光も面白い。


木立もフィルターを通せば面白い絵になる。


庭の小さな燈籠も絵になる。

これらの画像はコンデジをポケットに忍ばせて散歩の合間に撮ったもの。

難点はRAW撮影ができないので画質がイマイチです。

ポケットサイズのRAW撮影可能なカメラが無性に欲しくなっています。

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秋の四天王寺


レタッチで赤外線を選ぶと、赤外線写真用の白黒ネガフィルムのようなトーンに仕上げることができます。

赤外線写真では、空や水面は黒く写ります。

通常、空が青く見えるのは、太陽光が大気で散乱を繰り返しそれがあらゆる方向から地上に届くためです。

赤外線写真では青い光が遮断されるために「黒く(暗く)」写ります。

水面が暗く写るのは、赤外線が水に吸収されるためです。

通常のモノクロ写真では植物の葉は黒く写りますが、赤外線写真では植物は白く写ります。

これを「スノー効果」と言います。

この現象は植物の葉が赤外線を強く反射するために起こります。

赤外線写真の一番の特徴と言えます。

四天王寺は、天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。

山号は荒陵山(あらはかさん)。
本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。

聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。

当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。

また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。

蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現:大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。

聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。

その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。

その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。

寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

明治33年(1900年)に大阪・四天王寺にて創業した総本家釣鐘屋。

「世界一」とうたわれた四天王寺の大梵鐘をモチーフに生まれた釣鐘まんじゅうは、当店発祥の大阪名物。

創業時からの変わらぬ味を今に伝えています。
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秋真っ盛り 四天王寺本坊庭園


「釈迦の滝」

昨年は6月に訪問、今日はクラブの人を連れての訪問。

四天王寺の喧騒とは打って変わって静かな本坊庭園。

長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(2003年)8月より通年の公開が行われるようになった。

「極楽の池」の畔に建つルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」は第五回内国勧業博覧会(明治36年・1903年開催)で出品された現存唯一のパビリオンで、後年移建されたもの。

小奏楽堂というからには中で何かの演奏が行われたのでしょうか。
中には入ることができない。

大池には阿弥陀三尊石が組まれている。

阿弥陀如来を中尊とした三尊石は迫力あるものである。
江戸時代以降は丸みを帯びた石が使われることが多く、こちらの庭園が江戸初期に造園されたこととも一致する。

自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」および2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」を配し白砂の廻遊路を「白道」という広さ1万m2の池泉廻遊式庭園である「極楽浄土の庭」と、幾度の戦災を免れて現在に至る湯屋方丈(江戸時代初期建立、国の重要文化財)、そしてその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」からなる。

造園の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたものである。このときに「二河白道」の喩話に基づいた作庭がなされた。


四天王寺 極楽浄土の庭の由来

四天王寺は日本書紀によれば、推古天皇(飛鳥時代)に創設。飛鳥寺(奈良県明日香村)と並び、本格的な仏教寺院としては日本最古である。

極楽浄土の庭は江戸初期とされ、現在の庭は明治初期に火災による焼失から復興されたものである。

極楽浄土の庭は、中国の説話「二河白道(にがびゃくどう)」に基づく。

二河白道とは浄土教における極楽往生を願う信心で、「二河」とは「火の河:怒り」と「水の河:欲の深さ」を表し、その間にある「白道」を進めば、極楽浄土に達し往生できるというもの。

紅葉がきれいです、超広角レンズでいたずらして見た。

ここで望遠ズームに取り換え、これが通常の画像です。

サキシマフヨウの実

和名は先島諸島に由来し、主に鹿児島県西部の島から琉球にかけて分布するとされてきた。
2014年の研究では台湾にも分布することが報告されている。

池に浮かぶ落ち葉

陽を透かしてハイキーで。

元和9(1623)年、徳川秀忠による再建

前には、補陀落の庭が広がる

方丈前庭にある「補陀落の庭(ふだらくのにわ)」。

三尊石の阿弥陀如来の左脇侍は観音菩薩であり、その観音菩薩が住む霊場の伝説上の山が「補陀落」である。

本坊、ガラスに移り込んだ庭園の紅葉がきれいです。






冠木門は通りれぬけできない。

その向こうには、先程とはちょうど反対側から見る唐門が見える。
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変わりやすいのはどちら


清々しい秋空が見られる季節になりました。
雨の後冬型の気候に代わったようです。

秋の空のことわざといえば「女心と秋の空」?「男心と秋の空」?

低気圧と高気圧が日本の上空を交互に通るため、お天気が変わりやすいのもこの時季の特徴で、これを変わりやすい人の心になぞらえ、「男心と秋の空」「女心と秋の空」というようになりました。

もともとは「男心と秋の空」のようです。
男性の変わりやすい心を例えていますが、主に女性に対する愛情が変わりやすいことをさしています。

「男心と秋の空」のことわざができたのは江戸時代。当時は既婚女性の浮気は命を落とすほどの重罪でしたが、既婚男性の浮気には寛大だったこともあり、移り気なのはもっぱら男性だったのです。

また、若い娘に男性を警戒するよう戒めたり、ふられた際の未練を断ち切る慰めにも使われました。

江戸時代の俳人・小林一茶は「はづかしや おれが心と 秋の空」という俳句を詠んでいます。

それ以前の和歌でも男心は移ろいやすいものとして扱われ、室町時代の狂言『墨塗』に「男心と秋の空は一夜にして七度変わる」という有名なセリフがあります。

では、「女心と秋の空」と言われるようになったのは、いつごろでしょう?

明治時代の尾崎紅葉の小説『三人妻』に「男心と秋の空」がでてきますが、「欧羅巴の諺に女心と冬日和といえり」と続きます。

おそらくこれは、イギリスの「A woman‘s mind and winter wind change often」(女心と冬の風)

ということわざのことで、強風や弱風に変化しやすい冬の風を女心にたとえたもの。この頃から変化の兆しがみえてきます。

その後、大正デモクラシーで女性の地位が向上すると、恋愛の価値観も変わります。

当時、一世を風靡した浅草オペラで、『風の中の 羽のように いつも変わる 女心――』と歌う『女心の歌』が大ヒット。

西洋文化の影響で女性が素直に意思表示できるようになったこともあり、この頃から「女心と秋の空」とも言われるようになりますが、愛情に限らず、喜怒哀楽の感情の起伏が激しいことや物事に対して移り気なことを示しており、男心とは少しニュアンスが違うようです。

昭和に入って徐々に「女心と秋の空」も定着していきますが、あの『広辞苑』に初めて掲載されたのは1998年の第5版。

つい最近のことなんですね。
今でもほとんどの辞書では「秋の空」の説明は「男心と秋の空」がメインにされており、「女心と秋の空」が載っていない辞書も多いのです。

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夕暮れ


冷たい雨が止んだら季節が一気に2か月も進むという。

紅葉には待ってましたとなるだろう。

冬の夕方、西日の角度が変わり、影も長く尾を引くようになった。

西日に照らされた落ち葉がきれいです。

ここ暫くモニターの調子が悪く、というか、ソフトのグレードアップの案内があり、グレードアップしたところ調子が悪くなってしまった。

10月20日から延々と得体のしれないものと付き合ってきた。

振り回されて月食も撮れなかった・・・・

キャリブレーション後の有効性の確認で不合格になってしまうのです。

アメリカ製のモニターなのでメーカーとのやり取りも大変です。

何をやっても合格にならないのです。

ここ数年のバージョンアップの情報を送ってくるがそんな膨大な作業はとんでもない。

しまいにはモニターを点検すると言い出しました、27インチもあるバカでかいものを送ったり大変でした。

点検の結果モニターの不具合はないということになり、また大変な確認作業が始まりそうだ。

頭を抱えていても仕方がないが、ついにギブアップしてふて寝です。

八方塞がりになった時は寝るに限る、朝起きた時にふと気が付いたのです。

バージョンアップしてから調子が悪くなったわけだからその直前のバージョンアップの記録を探せばいいわけだ。

必死で探し出して再インストール、キャリブレーションをやってみると予想通り合格だ。

なんでこんな簡単なことに早く気が付かなかったのか、というよりバージョンによりこんなに状況が変わるなんて思ってもみなかったのだ。

と、言うことで今はめでたしめでたしといったところ。

この作業は大変でした、期間中部屋が一つつぶれてしまった状態でした。

その様子を画像にとって奮戦記でも書いたらどうだと思ったが冗談じゃない。

気が向いたらキャリブレーションのことなども書こうかとも思っているが・・・

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四ツ橋筋 中之島~西梅田


キャノンギャラリーへ写真展を見に行きそのまま梅田まで撮り歩く。

キヤノンMJ大阪支店が中之島に移転することに伴い、コミュニケーションスペースも新しく「キヤノンプラザ大阪」として移転。

大阪の経済・文化の一大拠点において、地域に根差した写真文化の発展に尽力するとともに、客の意見を今後の企業活動へフィードバックする重要な役割を担います。

中之島フェスティバルシティは、中之島の中央部、四つ橋筋を挟んで向かい合う超高層ツインタワー。

ショップ&レストラン、コンサートホール、美術館、多目的ホール、ホテル、オフィスなどが入居する複合商業施設。

中之島の北側を流れる堂島川と、南側を流れる土佐堀川の間の、四つ橋筋に面した区画を高さ200mの両タワーで占有しており、中之島のランドマークとなっている。

名物ホールの上に超高層オフィスタワー
2012年11月に完成したフェスティバルタワー、2013年4月にフェスティバルホ … 続きを読む →


堂島川に架かる渡辺橋より北を望む。

中之島フェスティバルタワーと中之島フェスティバルタワーウェスト

渡辺橋から堂島川の風景。

アクア堂島NBFタワー西館は、北区堂島浜1丁目、四ツ橋筋の「渡辺橋北詰」交差点東側に建つ大規模オフィスビル。

ビル南面は堂島川に面しており、リバービューの素晴らしい眺望を誇る。

全面ガラス張りのスタイリッシュなビルが3棟並んだ造りで、西側2棟が西館、東側の独立した1棟が東館です。

堂島は、淀川本流であった堂島川の北に形成された中州で、北を西流する分流を曽根崎川(蜆川)という。

地名は薬師堂があったことから「堂島」になったといわれる。

1685年(貞享2年)に河村瑞賢によって堂島川・曽根崎川の改修が開始されると、それに伴って堂島に新地が開発されて、1688年(元禄元年)に堂島新地が誕生した。

江戸幕府は開発後の振興策として茶屋の設営を許可、大坂市街(大坂三郷)の北に位置したため、北の遊里・北の色里などと呼ばれる繁華街になった。

1697年(元禄10年)、江戸時代の代表的な豪商である淀屋の自宅前、淀屋橋南詰の路上で開かれていた米市が堂島(大江橋北詰)に移され、次第に米取引の場「堂島米市場」へと変貌して行った。

1708年(宝永5年)には曽根崎川の北岸に曾根崎新地が誕生し、1730年(享保15年)に堂島米会所が開設される頃には、堂島新地のほとんどの遊里は曾根崎新地へ移転していた。

堂島米会所では世界初の近代的な商品先物取引が行われていた。

全国から堂島に廻送された年貢米は年間100万石とも150万石とも伝えられ、堂島の西半にはそれらを保管する倉庫と屋敷を兼ねた諸藩の蔵屋敷が建ち並び、その数は中之島に次ぐものとなっていった。

1878年(明治11年)に堂島川と大阪駅を結ぶ堂島掘割が開削されて、東西に二分された。

1909年(明治42年)には天満から福島あたりまで燃え広がった北の大火が発生。

大火で生じた瓦礫で曽根崎川の東半(堂島掘割以東)が埋め立てられ、1923年(大正12年)には残る西半も埋め立てられて、曾根崎新地・梅田・福島と地続きになった。

この世の名残、夜も名残 北新地蜆川跡を辿れば
阪神・福島駅~梅田橋跡~浄祐寺~大阪堂島市役所跡~出入橋~桜橋跡碑~堂島薬師堂~ … 続きを読む →


米取引は昭和初期まで行われていたが、戦時統制により1940年(昭和15年)に廃止された。

堂島掘割は1967年(昭和42年)に埋め立てられ、阪神高速11号池田線が通っている。

夕日がビルの壁面を照らしきれいです。

平均的に5車線であるが、両側1車線は有料駐車スペースとなっているため、おおむね走行に使用できるのは中央3車線である。

ホテル・エルセラーン大阪

JR大阪駅から四ツ橋筋を南下したところにある堂島アバンザ
。毎日新聞大阪本社の旧社屋跡地に建てられたオフィスビル。

低層階は関西随一の売り場面積のジュンク堂書店や文具店などが入居し、高層階はオフィスエリア。

地階は飲食店街で、ドージマ地下センターと直結していま。オープン・スペースが広いのが特長で、草木が多く植えられています。

木々もすでに紅葉が始まっている。

「アバンザ」はスペイン語の”avanzar”(前進する)からとったもので、21世紀を力強く歩もうという決意の表れとのこと。地上23階建て、地下2階、 塔屋1階付き。

ビル正面には、かつてここにあった毎日新聞大阪本社の旧社屋玄関の玄関ポーチがモニュメントとして設置されています。

宝寿堂島ビル
竣工年月 1981年6月

さすがにヒルトンはこの位置からも目立つる


マルビルは円筒状の、大阪・梅田のランドマーク

地上30階・地下2階の円筒形の高層ビルで、名称は建物の形状が円筒形であることに由来。

高層ビルの先駆的存在であり、そのユニークな形から梅田のランドマークとなっています。

もうJR大阪駅の屋根が見えている。

桜橋 曽根崎通

大阪市内に住むとき、覚えておいたら便利なのが「筋」と「通」です。

大阪市内は、道路が縦横に規則正しく交差した「碁盤の目状」に配置されています。

そして、

南北に走る道路には「筋(すじ)」
東西に走る道路には「通(とおり)」
という名前が付けられています。

例えば、自分が今いる道路が「○○通」なら、東西方向に進んでいるということです。



ヒルトン大阪

1986年9月、西梅田に竣工した地上34階建ての大阪吉本ビルディングにおいて開業した。

大阪駅前に位置し、ブランドブティック「ヒルトンプラザ大阪」と共に複合型施設エリアを形成している。

館内には、エグゼクティブ&デラックスフロアを含む562室、5つのレストラン&バー、大小20の宴会場、室内プール、ジム、サウナ、屋外テニスコート、ビジネスセンターなどを備えている。

大阪吉本ビルディングは、梅田一帯の大地主であった吉本五郎右衛門が所有する不動産で、ヒルトンプラザ大阪(第二吉本ビルディング)と併せて「吉本グループ」を形成。

至近距離にある大阪マルビルは、分家の末裔である吉本晴彦がかつて保有していた不動産である。
吉本興業とは関係ない。

桜橋交差点(曽根崎通交点)

現在でも桜橋交差点として名称が残っているが、橋自体は交差点よりも50mほど南の四つ橋筋上に位置した。

堂島アバンザの北向かいにある京富ビルの脇に『元 櫻橋 南詰』の石碑があり、ここに橋があったことを偲ばせる。

近松門左衛門の人形浄瑠璃「心中天網島」の道行「道行名残の橋尽し」に

別れを嘆き悲しみて、あとにこがるる桜橋
とうたわれている。

この付近の川堤にあったサクラの古木が倒れて橋の役目をしたことから「桜橋」と名付けられたと言われる。
1909年(明治42年)に発生した北の大火(天満焼け)で生じた瓦礫の埋め立て処理によって曽根崎川とともに姿を消した。

同じ北行きの一方通行である堺筋と並び渋滞の多い道路である。主に肥後橋交差点(土佐堀通交点)や桜橋交差点(曽根崎通交点)を先頭にした渋滞がよく発生する。


もうすでに陽は暮れかかっている。、光線の具合によってはかなり暗い。

ルクアの北側、夕日をまともに受けている、紅葉がきれいです。

ルクア (LUCUA) は、大阪駅北側のノースゲートビルディングにあるファッションビルで。

店舗面積は2万m2で、開業時点でセレクトショップや飲食店などのテナントが198店出店する。

そのうち24店が日本初、40店が関西初、54店が梅田初のブランド。

20代から30代の女性がメインターゲットであるが、カップルの買い物客を想定して4,300m2を男女共用ブランド店に割り当てたのが特徴。

大階段下、若者の離合集散の多い場所。

うめきた広場 メインスペースJR大阪駅直結

大阪駅の中央北口正面に、さまざまな人々が集い、憩い、楽しむ約1700㎡の広大な広場。

大阪を象徴するシンボル空間として、多彩なイベントに対応、常に若者が集う。

うめきたの工事はかなり長期にわたり、巨大クレーンはこの地区のシンボルと化した感がある。

久宝寺 寺内町


久宝寺という地名は知っているし、過去何度も車でとおったことはあるが歩くのは初めてだ。

久宝寺は緑地のイメージが強く、寺内町が残っていることは全く知らなかった、お恥ずかしい。

倶楽部の撮影会での訪問。

久宝寺の地名のはじまり

この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。

なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれています。

社名は「コマ」と読み、昔、この地は「許麻荘」といわれ(南西に跡碑がある)、高麗からの渡来民族が多く住んでいました。

式内社で、もと牛頭天王、渋川六座の1です。

境内の手洗いの屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。

この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代焼失し、その後観音院のみ復興、明治初年廃寺となりました。

本尊十一面観音は現在は念佛寺にあります。

河内木綿

江戸時代から明治時代にかけて、河内地方で広く栽培されていた綿から手紡ぎ、手織りされた綿布は、山根木綿(高安山麓)、久宝寺木綿、三宅木綿(松原市)などの名で知られていました。
これらを総称して「河内木綿」といいます。

河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたようですが、その生産が飛躍的に伸びたのは、1704年の大和川付け替え以後のことです。

旧川床を利用した畑は、砂地で水はけがよく、綿栽培に最適だったためです。当時の綿は繊維が短く、従って糸が太いため、織りあげた布地も厚くて耐久性にすぐれていました。庶民の普段着のほか、のれん、のぼり、蒲団地、酒袋などに利用され、全国各地で愛用されました。

しかし、明治に入り、機械化による安価な紡績糸や化学染料が出回り始め、輸入綿の関税が撤廃されると次第に姿を消していきました。

長い間忘れ去られ、まぼろしとまでいわれた河内木綿ですが、近年、河内木綿を愛する多くの人々の手によってその技術が復元・継承されています。

2003年、ロシア国立エルミタージュ美術館で「河内木綿特別展」が開催されました。

NPO法人河内木綿藍染保存会が中心となって復元した作品や、八尾市の旧家に残されていた資料などが展示され、訪れた多くの人々を魅了しました。

河内木綿は、郷土の誇る伝統工芸として新たな脚光をあびているのです。



江戸時代からの古い町家も数多く残っていて、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を長く残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めて来ました。

消防団屯所の火の見櫓は遠くからでも見え寺内町のシンボルです。

表町通(八尾街道)と大水路との辻にあり、辻には金刀比羅宮の柱石が置かれています。

札之辻地蔵尊は室町時代末期の石仏です。

寺井戸跡

花崗岩角形の井げたの上部は、甚だしく摩耗している。
後側に“天保十四年癸卯閏九月造之”とある。

内側はまるい井戸側で、溜井戸である。
久宝寺御坊が、顕証寺新田の旧大和川底に元井戸を構え、竹樋を埋めて、ここに引水し、村民の飲用水をまかなった。

村では水代として1軒あたり年1升宛の米を御坊に納めた。
古くは屋形をくみ、夜には鍵がかけられていた。

大正12年簡易水道が設けられるまで、村内唯一の上水であった



越前分光堂

久宝寺寺内町で産声をあげたのが100余年前。
なんと店の奥には歴史ある看板が!

古くは文具店を営んでおりましたが、現在に いたるまで教科書の取扱いをしている。

室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されていて、歴史的価値が注目されています。

久宝寺寺内町の成立

蓮如上人が手がけた久宝寺のまちづくりは、蓮淳に至って完成されました。

寺内町の成立は天文10年(1541)12月15日で、天文日記に「久宝寺、西証寺之制札認来候」と書かれていて、その内容は不明ですが、寺内町としての特権を得ています。

以後、町は人家も増え経済活動が活発となり、当時の代表的な自治組織として繁栄しました。

久宝寺寺内町を守った土居と濠

享保10年(1725)、顕証寺は南側に拡張されました。

現在ただ一ヶ所、顕証寺南辺に残る土居跡は、この時の工事で新しくつくられたもので、久宝寺の貴重な歴史的遺産です。

濠は、久宝寺小学校の西裏地にその名残りがみられます。

久宝寺寺内町の終焉

石山合戦で、大坂をはじめいくつかの寺内町は焼失し消滅しました。

焼失を免れた所もその後の大名による検地で、寺内町として認められていた特権がなくなり、農村部に成立した商工業集落と言われる在郷の町に変容していきまた。

久宝寺寺内町の支配権を返上

久宝寺寺内町は慶長17年(1612)検地を受け支配権を返上し、寺内町としての特権をなくしました。

一般的に、寺内町が存在していた期間は100年余に過ぎなかったと言われていますが、久宝寺の場合は70年余でした。

近世の久宝寺

久宝寺は旧大和川や八尾街道の傍にあったことから、水陸の交通の要衡として栄え、また久宝寺木綿の生産地として木綿商人が活躍する農村部における商業地でもありました。

とくに宝永元年(1704)の大和川付替えによって新しく開発され顕証寺新田、三津新田では綿つくりやその肥料となる菜種つくりが盛んになりました。

旧大和川である久宝寺川(長瀬川)の常水が減少し、船の運行に支障を来たすことが多くなり、次第に商業活動は下降して地域の中心は八尾に移っていきました。



高田家は、江戸時代には油屋と号し、久宝寺村の庄屋を務めてきたため、村に関する貴重な文書等が多数伝わっています。 

顕証寺(けんしょうじ)に通じる東西の通りに面する主屋(おもや)は、屋敷構えを出格子(でこうし)と虫籠窓(むしごまど)で整え、瓦葺きの米蔵は屋敷の東側に建てられています。

本住宅の周囲は碁盤目状の町割りがみられ、寺内町の歴史的な景観を残す貴重な建物であることから、平成20年3月に主屋と米蔵が国登録有形文化財となりました。






初めて久宝寺の街を歩きました。

商業活動は八尾に移ったとはいえ街には古い文化財も多く残り、魅力ある街です。

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大阪南港


大阪国際見本市会場は、大阪市住之江区の咲洲にある国際展示場。

一般財団法人大阪国際経済振興センターが運営する。

1985年に港区朝潮橋から移転・開場した。
インテックス大阪 (Intex Osaka= International Exhibition Center) という愛称が付けられている。

大阪府咲洲庁舎

橋本さんの府庁の全面移転話等話題には事欠かないがあまりにも複雑なので詳細は省く。

旧名称は、大阪ワールドトレードセンタービルディング。

略称は「WTC」。
そのため「WTCタワー」とも呼ばれた。

平成22年度予算が議決後、2010年6月1日に大阪府に譲渡され、現在の名称となった。

高さは256.0mで、あべのハルカス(大阪市阿倍野区、300.0m)、横浜ランドマークタワー(横浜市西区、296.3m)、りんくうゲートタワービル(大阪府泉佐野市、256.1m)に次ぐ日本第4位である。

毎年秋頃に、高さ4mのところにあるビルの2階から, 高さ214mのところにある52階まで、高低差210mの1,176段の階段を駆け上る、大幸工業株式会社スペシャルチャレンジ「THE RISE 256」が開催されている。

最上階の55階には、カフェなどが併設された有料の展望台(2022年3月時点で大人800円、中小人500円、幼児無料)がある。

この展望台は地上252mに位置し、一般向けの展望台としては東京スカイツリーの第2展望台 (451.2m)、あべのハルカスの60F展望台(287.6m)、横浜ランドマークタワーの展望台 (273m) に次いで日本で4番目に高く、東京タワーの特別展望台 (223m) や同じ大阪市内に存在する梅田スカイビル (173m) よりも高い。

非営利団体「新日本三大夜景・夜景100選事務局」によって「夜景100選」に選定されている。

夜景はとてもきれいです。
壮大なパノラマ 大阪府咲洲庁舎展望台
壮大なパノラマが広がるガラス張りのパノラマ展望スペース。 地上252m、360度 … 続きを読む →


アジア太平洋トレードセンターを望む。

アジア太平洋トレードセンターと大阪府咲洲庁舎を結ぶ連絡橋。

大阪南港コスモフェリーターミナル

大阪〜別府間を結ぶ「さんふらわあ あいぼり」「さんふらわあ こばると」と、大阪〜志布志間を結ぶ「さんふわらあ さつま」「さんふらわあ きりしま」が発着する「大阪南港」は、水の都と呼ばれる大阪らしく日本最多の中長距離フェリー発着数を誇ります。

大阪南港には三ヶ所のフェリーターミナルがあります。

その一つが「さんふらわあ」が発着する「さんふらわあターミナル(大阪)」。

大阪市内中心部から電車で直結という利便性の高さを誇ります。実はここ、2017年まで「大阪南港コスモフェリーターミナル」の名称で親しまれていました。

2017年10月に大阪市港湾局のネーミングライツ制度第一号として、2027年までの命名権を「㈱フェリーさんふらわあ」が取得し、「さんふらわあターミナル(大阪)」となった。

ATCオズ岸壁で素人のバンドが賑やかに演奏している。

さんふらわあターミナルは、第1ターミナルが別府航路、第2ターミナルが志布志航路と分かれており、第1ターミナルはアジア太平洋トレードセンター(通称ATC) 直結なので徒歩で乗下船できます。

第2ターミナルへは第1ターミナルからシャトルバスで移動。

船旅
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思いでは沢山ある。

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