肱川の清流に姿を映す景勝の城跡 大洲城

四国
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日本100名城の一つ。
別名としては地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城(大洲の旧称)などがある。
江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。

大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。

また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはややひなびた立地ながらも交通の要衝といえる場所にあった。

奥御殿の上の段にある中江藤樹像。
藤樹宅跡は、大洲高校の西側にある。

その藤樹が高島市の小川村に帰郷するまえに、武士として所属していたのが、加藤家を藩主とする大洲藩であった。
藤樹は、年老いた母への孝を実践したい衝動を抑えることができず、脱藩して故郷に帰ったことが知られている。

城は肱川(ひじかわ)河岸の標高23mの小山地蔵岳山頂に建つ。

高石垣も立派だ。
苔むした石垣には風格さえ感じる。

藤堂高虎らしく直線的な高石垣ですが、石垣の孕みが気になるところです。

伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。
また、明治維新後から現在にいたる地元住民の城郭への保護活動と、2004年(平成16年)に主に市民による寄付によって完成した往時を出来る限り忠実に復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。
江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。

大洲城の本丸は、上段と下段に分かれ、井戸のある下段の曲輪を井戸丸と称しています。
井戸丸の西側には本丸下段の門とそれに付属する多聞櫓が建っていました。

さらに南側には独立した二層の櫓が一棟ありました。
この井戸は、本丸にある唯一の井戸で、直径約3.8mあり、国内でも最大級の本丸井戸として知られています。

暗門跡
この門は、天守に至る最後の城門で城内でも最も大きい櫓門です。
現在と異なり、かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。

通常の櫓門と異なり、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていました。
仮に門を破られても、突き進んできた敵兵の勢いをそぎ、暗りの中で混乱しているところを攻撃する仕掛けになっていたと思われます。

天守と高欄櫓、台所櫓。
台所櫓(国指定重要文化財)は大洲城の数多くの櫓の中でも最大級、その名のとおり内部に台所を思わせる土間があり、煙出し用の格子窓が開けられています。
高欄櫓は大洲城の中で唯一、2階に縁と高欄のある櫓で、ここからは城内が一望のもとに眺められます。

このジオラマは大洲城創建当時の様子を想定したもの。
ジオラマの人形は、一般公募により選ばれた皆さんをモデルに製作しています。

坂本龍馬脱藩150年の記念として、「坂本龍馬脱藩の道写真展」が開催されていた。

天守より肱川を望む。
いつの築城のときかは判然としないのだが、肘川が氾濫して石垣が流され、河岸の基礎を固めることができなかった。

そこで城主は御触れをだし、美しい乙女を一人選び人柱に建てることとした。
名主や庄屋たちは困ったが、因果を含め何人かの娘にクジを引かせた。
当たったのは盲目だが美しく心優しいおひじという娘だった。

両親に早く死別して一人寂しく暮らしていた。
さすがに哀れと思った城主は、おひじが川辺の深く掘った穴に入れられるとき「最後の願い事、何かあれば聞き届けるぞ」と声をかけた。

おひじは「私は近い身寄りもなく、両親の下に行けるので死ぬのは恐ろしくありませんが、出来ることでしたら城と川に私の名前を付けてくだされば嬉しゅうございます」と言った。
城主ははやがて出来上がった城に比志(ひじ)、川に比志川と名付け以後その名で呼ぶことを命じた。
比志城、比志川はこれによるという。

冨士山(とみすやま)
ツツジが咲く5月がきれいだとか。

町を愛した司馬遼太郎が景観が台無しだと著書に書き物議をかもした大洲市民会館。
ひよっとすると、自然や都市美を共有する精神がないのではないかと司馬さんは言う。

司馬さんならずともなんと無粋な行為と非難したい気になる。
これさえなければ美しい石垣と天守が正面に見えるはず。


街道をゆく 14 南伊予・西土佐の道
に詳しく書かれている。

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大洲城へのアクセス、行き方歩き方

住所:愛媛県大洲市大洲903
電話:0893-24-1146
JR予讃線 伊予大洲駅 徒歩約20分