夕張炭鉱跡と幸せの黄色いハンカチ思い出広場

今回の北海道旅行も最終日です、今朝釧路を立ち、夕張を経由して千歳空港へ向かいます。

帰路も恋問海岸へ立ち寄ったが一昨日の往路の快晴とは打って変わって曇りがちの天候で、画像もモノクロに近い。

ホテルマウントレースイで昼食を戴く。

もともと夕張市と夕張市出資の第三セクターによってスキー場として開業した。
その後1988年に松下興産が約20億円で施設を買収し、約100億円以上を投じてホテル建設とコースの大規模な拡張を伴う再開発を行い、1991年にリゾートとして再開業した。
この時に夕張駅前まで施設が拡大している。

1990年代後半に松下興産の経営難が顕著となると、2002年に夕張市に売却(買い戻し)を打診した。
当時の市長であった中田鉄治が26億円で購入し、再び夕張市の施設となった。

2007年に夕張市が財政破綻すると、指定管理者を公募し、応募した加森観光が運営受託を担うようになった

ホテルに隣接する夕張駅もちっちゃなものだ。

ライマンが石炭調査を行った場所にできたのが北炭夕張炭鉱。

ペンシルベニア州、インドなどの石油調査を終えたのち、1872年(明治5年)北海道開拓使の招待で来日、1876年(明治9年)まで北海道の地質調査に従事し、後に工務省の依頼で1876年から1879年の間、日本各地の石炭・石油・地質調査にあたった。

1891年(明治24年)に帰国するまで自身の日本人助手に教育するなど日本の地質学に貢献した。

地下1000メートルの炭鉱へ降りる「竪坑ケージ(入坑用エレベーター)体験」になっていて、アナログで子供だましな仕掛けなんですが、これが結構コワイ。

採炭現場へ

炭鉱に生きた男たち

発破の穴モミをする採炭夫

全員ヘルメットを支給され探索へ出発。

幸せの黄色いハンカチ思い出広場
入口にある、床屋さんの古い建物です。
この家屋も映画で使われたものとか・・

映画で使われた赤い車の周り、壁・柱・天井のいたるところに、黄色い紙に書かれた感想や願い事が貼り付けられていました。

来館者が自由に書いて貼れるように紙と絵筆記用具、画鋲が置いてありました。

シンボルの風にはためく黄色いハンカチの幟や炭住などがロケ当時の姿のままで公開され、壁一面に貼られた訪れた人たちが記念に書き残した黄色のメッセージカード。
まさに圧巻です。

炭住といわれた古い木造長屋が並び、そこが記念館になっています。

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100名城最難関のチャシを攻略

以前にも書いたが誰がチャシを100名城に入れたのか不思議でならない。
遠く、所在地もわかりにくく100名城を目指す人の最難関になっている。
ここだけを残して涙を呑む人もいるだろう。

学説的にも城跡と認めがたいものがあるようにも思える。

今回、チャシ跡群の中では比較的整備されているヲンネモトチャシを訪れた。

チャシはアイヌ文化の中でも重要な位置を占めていると考えられているが、アイヌ族による文献史料が存在しない為、詳しいことは殆ど判っていない。

またチャシが研究対象となったのもアイヌ研究の歴史の中では新しく、河野常吉や河野広道による先駆的な研究を除くと、1973年以降に順次行われたチャシの分布調査が初めての本格的なチャシ調査であった。

このような事情から、チャシについてはっきり言えることは現在でも驚くほど少ない。

チャシの総数は不明であり、地名や伝承には残っているもののチャシの遺構は見つかっていないものも多い。
1992年時点では526カ所のチャシコツ(チャシ跡)が確認されている。

チャシの用途については現在でも諸説あり、結論は出ていない。
チャシが文献に登場するのは17世紀以降で、殆どが和人の残した記録であるが、この時期にはアイヌ族と和人との間で戦争状態が続いていたこともあり、和人はチャシを砦として認識していたようである。

現在では、チャシの用途は複数あり、時代を経るにつれてチャシの主用途は変化していったのではないかと考える研究者が多い。

すなわち、最初期のチャシは聖域としての性格が強く、次いでアイヌ族内での緊張状態の影響からチャランケの場として用いられるようになり、和人との戦いが激しくなると軍事施設としての役割が大きくなっていったのではないかとの見方である。

ヲンネモトチャシから温根元漁港を望む!
漁港の奥に見える納沙布岬の「平和の塔」が印象的です!

チャシ跡群の中では比較的整備されている方で、ここには案内板が。

根室半島には北側にチャシ跡が分布しており、その一つです。
チャシの分布は東蝦夷地(太平洋側のアイヌ文化圏)と呼ばれた道南、道東に多く、特に根室、釧路、十勝、日高地方に集中している。

これはシャクシャインの勢力圏と一致している為、シャクシャインらが和人と戦う中で多くのチャシが築かれたのではないかと推測されている。

やっと最難関の100名城の攻略を終えた、のどかな田園風景を眺めながら、これからまた中継地点の釧路へ帰ります。
長い北海道の旅であった。

シャクシャインの戦い 松前藩の非道

シャクシャインが和人と衝突する前にシャクシャインは同じアイヌであるが、勢力の違うオニビシと漁場をめぐって争っていた。

この背景には和人とアイヌの係わり合いが進んでおり、アイヌの生活において和人との交易が欠かせないものとなっていた。
その中でも和人と親しくしていたアイヌとそうでないアイヌとに分かれていて、オニビシは前者の、シャクシャインは後者のアイヌであったのが現在の認識である。

シャクシャインがオニビシ配下の者を殺害したことから抗争は激化し、それは松前藩にも聞こえていた。
松前藩にとって交易相手として一目置いていた地域での争いだったため何度も停戦を呼びかけ、ついにはオニビシとシャクシャインを松前に呼び、停戦を誓わせた。

しかし数年後、再び漁場をめぐって抗争が起き、ついにシャクシャイン勢によってオニビシは殺害されるのである。

オニビシ亡きあともオニビシ方アイヌは幾度となくシャクシャインに攻撃をしかけるが成功せず、そのためにオニビシの姉婿が松前に出向き援助を要請したが拒否される。
その帰路の途中でオニビシの姉婿は病に倒れ、死亡してしまった。

このオニビシの姉婿の死は病死ではなく、松前藩による毒殺であると各地のアイヌに広まっていった。
この誤報を期にシャクシャイン勢、オニビシ勢両集団の抗争の矛先は和人へと向けられていった。

このころの松前藩は財政危機に陥っており、そのためアイヌと公平な交易を行っておらず、各地で和人の横暴が続いていた。
これらの現状と毒殺の誤報をシャクシャインは巧みに利用し、各地方のアイヌたちに和人と戦うよう呼びかけていった。

呼びかけに応えた各地のアイヌたちは一斉に蜂起し和人の商船を襲い、和人を殺害していった。
はじめはシャクシャイン勢が優勢であったが、松前軍がアイヌ軍戦力分断作戦を主に総反撃に出てからシャクシャイン勢は追い詰められていった。

シャクシャインの本拠地は北海道日高町、名馬ハイセイコーが余生をおくったところである。
松前藩の大将・佐藤権左衛門はシャクシャインに話し合いを申し出た。

当初耳を貸そうとせずに持久戦に持ち込もうとしていた。 
しかし子のカンリリカの勧めで部下と共に松前藩の陣営を訪れた。

松前軍第一陣の指揮者である佐藤権左衛門が武装を解かせてシャクシャイン以下16名を陣内にいれたところ、シャクシャインは刀類を集めて提出したというから和議を受け入れたことになる。 

権左衛門はアイヌたちを引きとめ、和議の酒宴と称して酒を飲ませると時をみはからって襲いかかったのである。 
結果シャクシャイン以下14名は斬殺された。 
そして松前軍は指導者を失ったシベチャリに攻め寄り、アイヌの砦をすべて焼き払った。
これが松前藩が蝦夷で大名として生き残る「松前藩の伝統」である。 
そしてこの乱によりアイヌの絶対服従を誓わせたのである。

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北方領土を望む納沙布岬

1945年(昭和20年)8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、1945年8月28日から9月5日にかけて赤軍(ソ連軍)は北方領土に上陸し占領した。
北方領土は現在に至るまでソ連およびそれを継承したロシアが実効支配を継続している。

日本政府は「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張している。

厚岸は夏季は濃霧に覆われる事が多く、気温は上がらない。
冬季の積雪は少ないが、平均気温は-5度と低い。

風蓮湖は汽水湖としてはサロマ湖、能取湖に次いで北海道第三位であるが、周囲96kmは汽水湖としては全道一。
直接根室湾に面しており、湖面の標高は0m。

湖名の由来は、アイヌ語の「フーレ・ペツ」(赤い川)。
これは本来、流入河川の風蓮川を指した地名であり、川に湿原由来の赤く染まった水が流れ込んでいたことにちなむ。
湖の方はただ「トー」(沼)と呼ばれていた。

ハクチョウの飛来地として有名。
渡り鳥が多数訪れることで知られる。
別海十景や根室十景にも指定されている。

花咲灯台(はなさきとうだい)は、北海道根室市の根室半島南側にある花咲岬突端に立つ赤と白に塗られた四角形の灯台。

周辺は、公園として整備され、太平洋を望む風光明媚の地。
また、「日本の灯台50選」にも選ばれている。

花咲灯台から海岸の先端まで遊歩道があり、遊歩道沿いにはいろんな花が咲いてます。

激しく打ち付ける波、う~ん、いい波だ。

樺太日露国境標石:天測境界標第二號(天第二號)
日露戦争後の1905年。ポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を日本が領有することになり、天文測量による日露両国の国境画定作業が行なわれ、国境標石が設置された。
現在は北海道根室市の根室市歴史と自然の資料館に保管されている。

エカテリーナ号の渡来
寛政4年9月3日、今の暦で1792年10月18日、現在の根室と標津の中ほどにあるバラサン(現在の別海町茨散)沖7.5キロメートルの所に、一艘(そう)の異国船が姿を見せました。

この時、ニシベツ(現在の別海町本別海)にいたシベツの番人勘四郎(かんしろう)は、どこの船なのかを確認するため、アイヌの人たちに舟を出させようとしましたが、異国船が放つ大砲の音に、アイヌたちが恐れて出船できないでいました。

午後四時ころになって、異国船からボートが降ろされ、14人が上陸してきました。
異国人はロシア人であることが分かりました。

後で分かることですが、この異国船がロシアから日本に派遣されたアダム・ラクスマン使節のエカテリーナ号で、日本からの漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らを含めて42人が乗船していたのです。

1789年、アダム・ラクスマンはペテルブルク大学から派遣されてシベリアのイルクーツクに滞在中、伊勢国出身の大黒屋光太夫ら漂流者6名と出会う。

父の支援を受け、光太夫を連れてペテルブルクの女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命により光太夫、小市、磯吉の3名の送還とシベリア総督の通商要望の信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となり、1792年9月にオホーツク海を出発して根室国に到着した。

納沙布岬に北方領土返還記念シンボル像の「四島のかけ橋」がある。

北方領土の返還を実現することは日本国民の心からの願いであるので、返還実現への固い決意を象徴するために建立されたのがこのモニュメントなのである。

像の下には「祈りの火」があり、この公園の北方館の開館時間に合わせて燃え続けている。

貝殻島
納沙布岬と水晶島を隔てる海峡、珸瑶瑁水道のほぼ中間地点にあり、納沙布岬からの距離は3.7kmである。

島というよりは岩礁に近く、1937年に日本により建設された貝殻島灯台がある。
貝殻島灯台は灯台基部と共に基礎部分の劣化が進み、傾いた姿が納沙布岬から目視で確認できる。

勇留島(ゆりとう)は、歯舞群島の島の一つである。
ロシア名はユーリ島(Остров Юрий)、英語表記は”Yuri”または”Iurii”。
納沙布岬からの距離は16.6kmである

島の名前の由来は、アイヌ語の「ユウロ(それの鵜がたくさんいる→鵜の島)」あるいは「ウリル(鵜の島)」から。

納沙布岬(のさっぷみさき)は、北海道根室市にある岬である。
離島を除けば日本の本土最東端にあたる。
根室半島の先端、東経145°49′、北緯43°22′に位置する。

北方館並びに望郷の家2階では、双眼鏡(無料)が設置され、ここから歯舞群島の水晶島(7km)を見ることが出来る。
平坦な島の上に、ロシアの監視塔や、レーダー施設を見ることが出来る。

納沙布岬灯台は北方領土や南鳥島を除いた日本の最東端の地に位置する。
また、「日本の灯台50選」にも選ばれている。

周辺は、北方四島や知床半島を望む、風光明媚の地。

かの「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計による八角形の木造で、北海道の洋式灯台としては最初のもの。
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恋問海岸そして釧路湿原

池田ワイン城を出発、一路釧路を目指します。
途中、隠れた穴場スポット恋問海岸へ寄ります。

国道38号線の釧路と白糠のちょうど間に道の駅「しらぬか恋問」がある。
この道の駅の裏の海岸が恋問海岸だ。
ここは砂浜の海岸が広がり、東側には海越しに釧路の市街地も見える隠れた穴場だ。

太平洋から激しく打ち寄せる波、じっと見つめる少女、かわいいね。

これだけ水平線がはっきり見えるのも珍しいそうだ、左前方に広がるのは釧路市街。

太平洋の波が打ち寄せる、遠くかすんでいるが襟裳岬がかすかに見える。

北海道の道路の謎。
画像の道路の端にある下向きの矢印は何かわかりますか。

道路幅を示す矢印なんです。
冬、地吹雪になると、路面がまったく見えなくなるのでその矢印みて走ります。

また、除雪する時に、道路幅を知る必要あるし、運転するドライバーも必要。
だから、道幅の端が判るように、矢印があります。

釧路市湿原展望台は、建築設計家「毛綱毅曠」の設計により、湿原に群生する「ヤチボウズ」をモチーフとした古風な西欧の城をおもわせる建物で、昭和59年1月にオープンしました。

一般の観光客は、高台にある複数の展望台から眺めるか、遊歩道を歩いたりカヌー等による川下りによって湿原の観察を行うことが出来る。
また、JR釧網本線は一部の区間が湿原内を通るため、列車に乗車したまま観察する方法もある。

1周約2.5kmの遊歩道は1時間弱で回ることができる、格好の散策路です。 湿原の雰囲気を全身に感じながら、森林浴ならぬ草原浴と洒落込んでみませんか?

タヌキの子育て中のカンバン、北海道らしくていいね。

これはいただけません。
ヒグマ出没の注意書きです、通行止めになることもあるとか。

木道は道案内がしっかりしています。

遊歩道の中間地点には「サテライト展望台」があり、釧路湿原西側の最高の眺望地となっています。

釧路湿原は多くの木道で繋がっており、観光客が立ち入りやすくなっている。

サテライト展望台からは、アフリカの大草原のような広大な景観を間近に感じることができます。
各所に解説板が設置され、湿原の知識を得ることもできます。

この先の丹頂広場にも行ってみました。

日没が近づいています、ホテルへ急ごう。

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釧路市湿原展望台へのアクセス、行き方歩き方

名 称:釧路市湿原展望台

住所:〒084-0922 釧路市北斗6-11
電話:0154-56-2424     

釧路駅から車で約30分、駐車場あり
阿寒バス 鶴居線・幌呂線 湿原展望台バス停下車、徒歩1分

世界三大夕日の街釧路を散策

世界三大夕日は、「フィリピン・マニラ」 「インドネシア・バリ島」 「北海道・釧路」
釧路の場合は、海だけでなく「湿原」の水蒸気もプラスされ、より赤く見える要素が多い。

ホテルについたのが日没時間の10分前、走りに走ってやっと間に合った。
幣舞橋からの日没のショットです。

やっと間に合ったところで構図を考える余裕も何もない。
とりあえず日本初の橋上彫刻「四季の像」の一つを入れることでまず1枚。

丁度この日は中秋の名月、夕日がおさまった後で「四季の像」の一つを入れて満月を一枚。

翌朝5時前に幣舞橋の上から夜明け前の釧路川とイカ釣り船を。

釧路川にずらりと並ぶイカ釣り船。

幣舞橋の上流の朝焼けの釧路川を。

幣舞橋と言えば、札幌-豊平橋、旭川-旭橋と共に北海道の三大名橋と呼ばれています。
日本百名橋の一つでもある。
橋上には春・夏・秋・冬を表現する「四季の像」を配し、エキゾチックな香りを漂わせています。

晩秋の広い太平洋を背景に空全体を紅に染める夕陽、夏の薄らと白い霧中に浮かぶ橋影と街路灯はまさに日本ではここでしか見られない幻想的な風景です。

幣舞橋のたもとに建てられた「釧路の夜」歌碑、前に立つと美川さんの唄が流れます。

♪霧は降る降る 今日も又
  一人歩きの ヌサマイ橋よ
  船の汽笛も 泣いている
  女心も 知らないで
  貴方がにくい 貴方がにくい♪


橋をはさんだ向かいのMOOには水森かおりさんの「釧路湿原」の歌碑が建っています。

バス停も釧路を代表する丹頂鶴です。

「釧路駅前 SL動輪のモニュメント」

JR釧路駅前広場に1本のイチイの木がそびえ立ち,その前には「風雪の樹」と刻された石碑が建てられています。

釧路駅付近の大木は,この木しかないためか秋にはツグミが根城にしており野鳥の保護にも貢献しているようです。

幣舞橋の橋上彫刻「四季の像」がシルエットで。

幸町公園に保存されているC58です。
車体は白線など派手な装飾がされていますが、屋根付きで大切に保存されています。

C58-106号機は釧路で過ごした期間が最も長く、お召し列車やSLさよなら列車も牽引した釧路に縁の深い機関車です。

幸町公園はJR釧路駅から500mほどの場所にあり、近くには和商市場やこども遊学館などがあります。

港文館前に建つ啄木の像を朝焼けのシルエットで。

石川啄木は明治41年1月21日に釧路に降り立ち、同年4月5日に釧路を発ちました。
わずか76日間という短い滞在でしたが、その間に啄木は釧路に数々の作品を残しました。

釧路停車場跡に立っていたものを港文館横へ移設した。
台座には、恋人の小奴の手による「さいはての~」の歌が刻まれた石板がはられている。

歌人石川啄木が新聞記者として活躍した旧釧路新聞社は、1908年(明治41年)に建てられた道東唯一のレンガ造りでした。
1942年(昭和17年)以降は北海道新聞釧路支社として使われ、後にとり壊されました。

1993年(平成5年)に復元された港文館の1階は休憩スペースと港湾資料の展示。
2階は釧路新聞社の記者だった石川啄木直筆の年賀状や郷土資料の展示など、休憩しながら啄木の変遷や釧路の港湾史・郷土史にふれることができます。

歩道はカラーブロックが敷き詰められていますが、一部のブロックは石川啄木の歌が切り絵で描かれているブロックになっています。

さいはての駅に下り立ち 
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき


明治41年、小樽から釧路の新聞社に招かれたのが「流浪の天才詩人」石川啄木。

「さいはての 駅に降り立」ってから下宿へ向かう途中に渡った真冬の幣舞橋は、倒壊直前の初代幣舞橋でした。

啄木の釧路滞在はわずかに3ヶ月足らずでしたが、釧路新聞(現在の北海道新聞)のコラムに掲載された「傾きかけしあやふさに・・・・」で始まる幣舞橋の詩は、彼が作者ではないかと言われています。

釧路市街地にはたくさんの啄木歌碑が建立されています。
啄木の詩集片手に、至高の文学散策はいかがですか。

小奴碑
明治四十一年日誌

2月22日
“釧路実業新報”の創刊祝いで鶤寅へ。
小蝶に小奴に春吉、小奴のカッポレは見事であった。

2月24日
鶤寅亭へ飲みにゆく。
 小奴が来た。
 散々飲んだ末、衣川子と二人で小奴の家へ遊びに行つた。
小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活発な気持のよい女だ。

 (啄木日記)

啄木が東京に行ってからの1908年(明治41)12月1日、小奴は前月結婚した夫・逸身豊之輔と上京し啄木を蓋平館に訪ねた。

後年、母の経営していた近江屋旅館を継承し、近江ジンと名を改めた。
この碑は、近江屋旅館のあった場所に建てられた。近江屋旅館は昭和37年11月に閉めた。
1890年(明治23)生まれの小奴は、1965年(昭和40)2月17日、東京多摩の老人ホームで亡くなった。享年 74歳。

碑文

明治四十一年一月二十一日石川啄木妻子をおいて単身釧路に来る
同年四月五日当地を去るまで釧路新聞社に勤め記者として健筆をふるえり

 あはれかの国のはてにて
 酒のみき
 かなしみの滓を啜るごとくに

当時の生活感情を啄木はこのようにうたう
当時しゃも寅料亭の名妓小奴を知り交情を深めり

 小奴といひし女の
 やはらかき
 耳朶なども忘れがたかり

 舞へといへば立ちて舞ひにき
 おのづから
 悪酒の酔ひにたふるるまでも

漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心をとらえ生涯忘れ難き人となれり
小奴また啄木の文才を高く評価し後年旅館近江屋の女将となり
七十有余年の生涯を終るまで啄木を慕い通せり
今 此処小奴ゆかりの跡にこの碑を刻み永く二人の追憶の記念とす
             昭和四十一年十一月

 

所在地 釧路市南大通り3-2
建立  1966年(昭和41)11月27日

北の海鯨追ふ子等大いなる流氷来るをみては喜ぶ

 所在地 釧路市南大通2-2
 建立  1994年(平成6)1月31日

小奴の碑から200mくらい進んだ左手に「啄木ゆめ公園」があり、交差点を右に曲がると左に釧路シーサイドホテルがある。

啄木が下宿していたのがこのあたりで、シーサイドホテルの角に歌碑がある。

こほりたるインクの罎を 火に翳し 涙ながれぬともしびの下

釧路川を渡る幣舞橋を越えるとロータリーがあり、そのすぐそばに急こう配の階段がある。
坂の上には幣舞公園や図書館、生涯学習センターなどがある。
ちょっと雰囲気のある坂道で、「出世坂」という石の看板があった。

大正二年に旧釧路中学校が開設され、この急坂を登る学生の立身出世を願い命名されたという。
きっと、こうした名前がついた坂は日本中にあるに違いない。
なにしろ日本人は「出世」という言葉が大好きだからである。

釧路和商市場
1954年に結成された釧路で最も歴史ある市場で、「わっしょい、わっしょい」という活気あふれる掛け声と、「和して商う」ことから名付づけられた。

鮮魚をはじめカニ、塩干(えんかん)、青果、花、薬、そば、珍味、菓子、漬物、食品、精肉、茶、雑貨、寿司など百店舗近くが店を並べている。
また、ご飯にお気に入りの魚介類を買って載せ、自分好みの海鮮丼を作って行く勝手丼のサービスでも有名。

くろしお丹頂市場は和商市場のとなりにあります。
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池田ワイン城

今日は旅行日だ、根室への中継地釧路への途中池田ワイン城を訪問。
十勝ワインは北海道中川郡池田町で作られているワイン。
ワイン工場は「ワイン城」と言われる町営のブドウ酒研究所である。

占冠(しむかっぷ)PAでは色とりどりの花が咲き誇っていた。

バスの車窓からの星野リゾート トマム、北海道勇払郡占冠村にあるスキー場・リゾートホテル・コンドミニアムを中心とする通年型複合リゾート地。

小高い丘の上に建つ、中世ヨーロッパのお城を思わせる池田ワイン城は、全国的にも名高い十勝ワインを造っています。

ワイン城のぶどう展示園は記念撮影に好適。

ワイン城の横にブドウ畑がある。
ワイン作りはブドウ作りからという基本的な考えに基づくもの。
自由に栽培園に入ることができる。
ここでは池田オリジナル品種「山幸」と「清舞」の2品種の耐寒品種が栽培されている。

地下室の地下熟成樽。

ワインを蒸留してブランデーにするためのアランビック。

コルク栓抜きコレクター。

色々なコルク。

十勝ワインで使われる樽。

ワイン瓶の型。

ワイン城4階にはいけだ牛、十勝牛や十勝ワインが味わえるレストラン十勝がある。
今日はここでお昼をいただいた。

池田ワイン城の屋上展望広場から見た十勝平野のパノラマ。

元々池田町は産業が乏しく、加えて1952年(昭和27年)の十勝沖地震とその後2年連続の凶作が重なって町の財政が破綻状態となった。

町民の暮らしも周辺に比べて貧しく、当時の町長であった丸谷金保が町内に自生している山ブドウをヒントに町営でワインの醸造に乗り出すことになった。
当然のことながらワインの醸造技術を知るものは町内にはおらず町役場職員の大石和也をドイツのミュールハイムに国費派遣しライネル・マルゲートが営むワイン醸造所に飛び込みで修行しはじめた。

また、つてを頼って戦後当時のソ連に抑留されワイン農場で働かされていた者を招いたという。
当時、ワイン酵母の国外輸出はドイツの国内法で禁じられていたが、マルゲートは大石の熱意にうたれ酵母の分配を黙認した。

1963年6月に1kLの試験醸造を始めたが、寒冷地に向いた品種のブドウではなかったため冷害でほとんど収穫できず、醸造技術も未熟で品質は安定しなかった。

当然ながら売り物にはならず、加えて本格的なワインがまだ日本で受け入れられなかったことから町内の農家はブドウ栽培を放棄し町長を批判する声が多くあった。

しかし、ドイツ派遣で習得した技術と耐寒性の高い品種のブドウに切り替えるなどして1975年になってようやく商品化に成功した。

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池田ワイン城へのアクセス、行き方歩き方

住所:北海道中川郡池田町字清見83番地
電話:015-572-2467

JR池田駅下車徒歩約10分。

千歳へ舞い戻る

一昨日新千歳空港へ降り立ち、函館、松前、江差と旅して、また千歳へ舞い戻った。
なぜ? あと一つ残っている100名城根室のチャシを訪れるためだ。
いわば根室への中継地なのだ。
これからまだ明日から釧路を中継地に更に根室を目指します。

誰が決めたのだ、旅行業界の陰謀か。
多くの「100名城」訪問者がこのチャシのスタンプ捺印を「一番の難関」としている。

ま、お蔭であちこち観光できていいかも。

江刺からの帰路、豊浦噴火湾SAで対岸の駒ヶ岳を望む。
紅葉もキレイだけどこんな景色も良いですね~
大沼公園付近から見る駒ケ岳とは、形が真逆に見えるんです。

ついに見ました!!天使の梯子。

天使の梯子、なんて呼び名もある光の筋。
海に差し込んだり、四方八方に広がったり、夕焼けの色に染まったり、様々な姿をとります。

雲に切れ間があって、さらに水滴が多く空気中にあると、太陽の光が水滴で散乱されて道筋が見えるようになる、というものだそうです。

呼び方はいろいろあります。

天使の梯子、天使のはしご(てんしのはしご、angel’s ladder)
天使の階段(angel’s stairs, angel’s stairway)
ヤコブの梯子、ヤコブのはしご(Jacob’s ladder)
レンブラント光線

平成23年11月に「伊達ウインドファーム」か稼働しました。
風車5基で生み出す発電出力は1万キロワットで一般家庭約6,600軒分の電力を供給するとともに、年間7,900トンの二酸化炭素の削減効果が見込まれるそうだ。

千歳のホテルで一夜を明かしたが、特に見るものの無い街、せめてきれいな朝日でもと考え2㌔も歩いて青葉公園を目指す。
広い公園なので、オープンスペースでゆったりと日の出でもと考えたのだが・・・・

千歳市外中心を流れる千歳川と南側に巨大な緑地公園がある。
なんとそこは熊の出そうな森だった。
鬱蒼と繁った樹海に阻まれやっと朝焼けが望めるばかり。

公園で見かけた市民憲章像 像左から右へ「希望」「健康」「愛」「連帯」「自然」をそれぞれ表現しているとか。

急いで公園から抜け出したが時すでに遅し、空しく朝焼けを見上げる。

気をとり直し散策を続ける。
JR千歳駅、ロータリーには市民園芸家の植えた花が咲き誇っていた。

国道337号と接する出入口2側の駅前ロータリーに、渡辺淳一の千歳線にまつわる随筆の一句を直筆したものと蒸気機関車を描いた千歳市による大型看板が立てられている。

グリーンベルと称するお祭り広場、盆踊りなど行われるようだ。
千歳(北海道)駅[西口]から徒歩約6分のところにある。

モチーフは、空港(航空機)と、支笏湖(支笏湖と樽前山)とインディアン水車に代表される鮭が描かれている。

千歳は空港を擁する事から、航空自衛隊をはじめとして、陸上自衛隊もある自衛隊の町とも知られ、約半分くらいがこの自衛隊に関係する仕事に属するようだ。

国立公園支笏湖をはじめとする緑豊かな自然と清冽な千歳川が流れるまち千歳は昔、アイヌ語で「シコツ(大きな窪地、又は谷)」と呼ばれていましたが、当時この地に多くの鶴がいたことから、文化2年(1805年)「鶴は千年、亀は万年」の故事にちなんで「千歳」と命名されました。

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鰊漁の盛衰に伴って、天国も地獄も経験した江差

町名の由来はアイヌ語で岬を意味する地名エサシ (esasi) であり、宗谷総合振興局の枝幸町と同じ語源である。
放送局の天気予報などでは当町を「道南の江差」、枝幸町を「北見枝幸」と呼んで区別することが多い。
江差追分発祥地。

函館市、松前町と並び、北海道で最も早く開けた地域の一つ。
江戸時代はニシンの漁場および北前船によるヒノキアスナロなどの交易港で、「江差の五月は江戸にもない」といわれるほど栄えた。

松前港に三本マストが見えるが、激動の幕末期、徳川幕府が所有した悲運の軍艦「開陽丸」。
戊辰戦争時、暴風のため江差沖で座礁、沈没してから140年の年月を経て、原寸大で再現されている。

江差追分会館
資料展示室、演示室、追分道場からなる江差のメインスポット。

江差追分は江戸時代中期以降に発生したとされている。
信濃の追分節に起源があるとするのが定説のようである。

江差屏風を描いた豪華な緞帳が印象的な舞台では、4月末から10月までの毎日、江差追分をはじめ江差に伝わる郷土芸能を実演している。
[通常実演]江差追分他、唄を披露/毎日11:00、13:00、14:30の3回。

三日後に江差追分の全国大会を控え町は華やいでいた。

「江差追分全国大会」は毎年、9月の第3金、土、日曜日の3日間にわたって江差町で開催される。
全国から選び抜かれた江差追分の唄い手約350人が集い、日本一のノドを競い合う、追分の本場江差ならではの一大イベントが江差追分全国大会。
昭和38年に第1回が開催された、民謡の全国大会としては最も歴史ある大会。

北前船は船型の形式を指すものではなく、廻船の性格、むしろ一種の商取引の形態と称すべきもので、物資の流通が未発達に起因する生産地(供給地)と消費地(需要地)の価額差を利用し、商品を遠隔地に運んで販売し、より利潤を高めようとする商法である。

毎年8月9日、10日、11日に姥神大神宮の神輿3台に供奉する13台の山車(江差では曳き山を「ヤマ」と呼ぶ)が、それぞれ由緒ある人形、装飾品で飾られ町内の威信をかけて個性を競いながら錦の御旗をひるがえし、祭囃子の調べにのって町内を巡行します。

旧中村家住宅は、江戸時代から日本海沿岸の漁家を相手に、海産物の仲買商を営んでいた近江商人の大橋宇兵衛が建てたもの。

家屋は、当時江差と北陸を往復していた北前船で運んできた越前石を積み上げた土台に、総ヒノキ切妻造りの大きな2階建ての母屋。
さらに母屋から浜側まで文庫倉・下の倉・ハネ出しまで続く「通り庭様式」で当時の江差における問屋建築の代表的な造りとなっている。

大正時代初期に大橋家から中村米吉が譲り受け昭和46年(1971年)に国の重要文化財に指定され、さらに49年(1974年)に中村家より町に寄贈。
57年(1982年)に修復が完了し一般に公開している。

通りに面している入口から入ったところは帳場で、3人の手代が座れる珍しい形になっています。
奥には番頭が座る帳場があり、帳場があるところだけが2階建てになっています。

2階は日本三大銘木にもなっている紫檀、黒檀がたくさん組み込まれた床の間で、壁は当時の贅を尽くし、砂鉄やアワビの貝殻をまぶしたきらびやかな書院造りです。

帳場から奥へ、茶の間、仏間と続き、倉の入口が見えてきます。
倉は当時の貴重品が保管されていた場所で、上の窓は日本製のガラスが使用されており、ゆがみがあるのが特徴となっています。

もともとは、多くの廻船問屋の家屋が、こんなふうに直接海に面して建っていた。
(旧中村家住宅の展示から)

旧中村家住宅は、主屋・文庫倉・下ノ倉・ハネダシの4棟からなり、各棟をトオリニワと称する通路で結んでいます。
下ノ倉が江戸時代末、主屋と文庫倉が明治20年代の建築と考えられています。

台石は北前船で運んできた笏谷石(しゃくだにいし)。

家の中から見るとこのようにトオリニワと称する通路で海まで結んでいます。

各棟はこのようにうまくつないであります。

最後のニシン

長い間、江差の経済を支えていたニシンも時代が下るにつれ、次第に捕れなくなっていきました。
こうなると禁止された大網を使って漁獲量の増大を狙うものもでます。
大網の使用がニシンを枯渇させる原因と考える漁民は藩に何度も大網禁止を訴えますが、なかなか守られません。

熊石から上ノ国までの漁民が大勢集まって、大網禁止を藩に直訴する騒ぎや江差地方の漁民が、岩内、古平などの海に出かけ、次々と大網を切る網切り騒ぎも起こりました。
明治になると、ニシンの漁獲はいよいよ減り、漁民の暮らしは苦しくなる一方で、このことが檜山騒動を大きくした背景となりました。

長い間、江差の経済を支えてきた近江商人たちも、ニシン漁がふるわなくなると、本拠地である本州へ引き上げていきました。
一方、日本最初の開港地となった函館は、北海道開発の拠点として発展を続け、江差から函館へ移っていく商家も多数ありました。

一方、まだ資力あった漁民たちはニシン漁のあった北へ北へと移動を始めました。
北に行く資力のない漁民たちは、生活のために漁具を売り払い、出稼ぎに出るまで追いつめられたのです。

こうして江差の浜が無人の浜になろうとした明治41年4月3日。
誰もがもう来ることはないだろうと考えていたニシンが、なんと10年ぶりに押し寄せました。

しかし、この群来を前にして、江差の浜には漁民がおらず、いても漁具が無く、ただ地団駄を踏みつつ巨万の富が去るのを眺めるしかなかったといいます。
その後、大正2年にもう一度ニシンが姿を見せた後、現在に至るまで、ニシンは完全に幻の魚になってしまいました。

江差のマンホール蓋は開陽丸、鴎島の瓶小岩とカモメそして日本海の荒波と江差のみどころ4点セットでお買い得?
字体も江差のイメージぴったりに漢字でビシっと決めています。

近江商人と松前藩

近江商人は、近江の国(滋賀県)で生まれ育ちながら、わざわざ他国へ出て店を開き商売をするというパイオニア精神に特色があります。彼らは、江戸時代初期に海峡を越えてエゾ地へと渡り、北海道初期開発につくしました。

北海道交易の開拓者は近江商人といっても過言ではありません。
まだ定住者も少ない未開地の北海道に移り、松前藩と一体の開拓によって藩の財政を一手に握るようになります。

松前藩は1604年に家康よりエゾ交易独占の黒印状が与えられました。
このエゾ地は江戸期に米の収穫はなく、よって石高も無いのですが、特別に一万石格を与えられていました。

家臣への俸禄(給料)はアイヌ部落ごとの交易独占権の分配という形でなされ、ここに近江商人の商才が入り込んでいくわけです。
松前に拠点をもち各地で活躍した商人たちは、次第にその数を増し、商いも大きくなりました。

北海道で買い入れたさけ、にしん、こんぶなどの海産物は、自分たちの持ち船によって京都、大阪へ運びました。
その輸送経路は、最初は日本海から敦賀を経て琵琶湖を利用し、後に日本海から瀬戸内海を経由するル-トを通って輸送しています。

そして北海道へはこの逆コースによって衣料品、小間物、雑貨、荒物などの物資を運び、往復取引によって繁栄したのです。  

松前藩は広大な蝦夷地をまとめるために、『場所請負制度』というシステムでもってあたります。
『場所請負制度』とはアイヌ居住地域を『場所』という区分で分割し、その支配を『場所請負 商人』に委ねるもので18世紀ごろには確立していました。
松前藩から認められた、こうした特権商人に近江商人が関わっていたのです。

ところが明治維新後、1869年(明治2年)場所請負制度が廃止されます。
独占支配していた場所請負人、近江商人たちは次第に店を閉鎖していきました。
こうして次に松前、江差、函館、小樽に残した近江商人の足跡の上を、北陸の北前船主たちがその全盛期を向かえることになります。

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江差へのアクセス、行き方歩き方

本州から飛行機ご利用の場合
・函館空港より函館駅行きバス-約20分-函館駅前下車

・函館駅前発江差ターミナル行きバス-約1時間40分-中歌町バス停下車又は
  函館駅発JR江差線-約2時間30分-終点江差駅下車 徒歩20分

本州からJRご利用の場合

・JR海峡線(特急白鳥)木古内駅下車

・木古内駅発JR江差線-約1時間00分-終点江差駅下車 タクシー5分(徒歩20分)
 江差線は2014年5月廃止が決まっています。
 現在は廃止を惜しむファンで平日でも満席の盛況。

札幌方面からJRご利用の場合

・JR函館本線八雲駅下車

・八雲駅発江差ターミナル行きバス-約1時間30分-中歌町バス停下車

日本式で築かれた最後の近世城郭 松前城

松前城は、外国船の出没に備えて江戸幕府が嘉永三年(1850)に松前藩に命じて築城させた。
軍学に基づいた最後の日本式城郭である。

7基の砲台と25門の大砲を備えていたが、海への防備に主体を置いたため背後は手薄になっていた。
そのため戊辰戦争で、土方歳三らの旧幕府軍に背後から攻められて落城した。

この時天守は破壊されなかったが、昭和24年(1949)に火事で焼失した。

福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれる。

福山街道を松前を目指します。
車窓からは津軽海峡の美しい海岸線が続きます。

この辺りは知内町、北島三郎さんの出身地です。

青函トンネル北海道出口のある福島町の辺りです。
当地出身の横綱(千代の山、千代の富士)が2人誕生した出身地は、全国どこを探しても福島町だけです。

松前城三の丸広場。

「松前藩屋敷」 江戸時代の松前の城下町を再現したテーマパークです。
中には14棟の建物があります。
時代劇のセットみたいな感じです。

入ってすぐ左手に「松前藩沖の口奉行所」があります。
蝦夷地へ入る人、船、荷物を改め、徴税を課すところです。

蝦夷地へわたろうとする人には取り調べが厳しかったそうです。
かの吉田松陰が蝦夷地渡航を考えながらも断念し、津軽まで来て引き返したのもこれ故。

商家。
松前の城下には近江商人や北陸出身の商人等、他所から来た商人が多かった。

八幡商人
現在の近江八幡市を中心とした地域から生まれ、江戸初期から活躍した商人です。
松前藩領で活躍したグループと、江戸で活躍したグループとに分かれる。

近江商人達は、松前藩と手を組んで、蝦夷交易を担い、大変な勢力を誇りました。
国の重要文化財「旧中村家住宅」は、近江商人の大橋宇兵衛が江戸時代の終わり頃に建てたもので、道指定文化財の山車「松寶丸」を作った近江屋利兵衛という人も近江商人だったといいます。

林の中を松前藩主墓所を目指す。

松前藩主墓所
松前藩の始祖・武田信広から19代にわたる歴代藩主、その室や子などが眠る墓所で、イチョウやオンコの古木にかこまれて55基の墓碑が静かに並んでいる。

墓碑は五輪塔形式で、石造りの屋形風覆屋(やかたふうおおいや)に収められているものが多く、なかにはキリシタン信仰と関係があるとされる織部(おりべ)灯籠や十字型H字が刻まれた墓も見られる。
国指定史跡になっている。

法幢寺(ほうどうじ、曹洞宗)
松前家の菩提寺で、裏手には松前藩主松前家墓所があります。

本堂左手の御霊屋みたまやは、1834(天保5)年に再建され、歴代藩主の位牌が安置されています。
かつて藩主を諌いさめたために流刑となり首をはねられた門昌庵事件の柏巌和尚はこの寺の住職でした。

松前城資料館の入口にあった家紋。

「四つ割菱」、別名「武田菱」。

松前城は1、600年、松前氏の家祖・武田信広の五世武田慶広が徳川幕藩体制の一員となった時、姓を松前と改めて現在の松前城の前身である福山城を築城しました。

本丸御門と天守。
本丸御門は築城当時からの遺構のひとつで、国の重要文化財に指定されている。

天守は昭和24年に焼失したが、昭和35年に鉄筋コンクリート造りで再建された。

搦手二ノ門は、東側から城内へ通じるルート(搦め手)にあった門の一つで、搦手門を守る重要な役割をもっていました。
記録によれば、間口は2間二尺(4.24m)で瓦葺きだったことが分かっていました。

三本松越しに望む天守。

城の前面は津軽海峡です、遠く霞むのは竜飛岬。

幕末の築城にも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験している。
1868年(明治元年)秋、蝦夷が島に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、渡島半島の各地を制圧し、11月5日にはもと新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。

松前藩の軍は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城した。

これは、函館湾からの旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりに脆いものであったためである。
長沼流の軍学者であった市川は、大手門からの通路は曲がりくねって鉄砲の的になりやすい効果的な構えとしたが、搦手方は敵は攻めてこないものとして、直線に通路が続き鉄砲狭間も少ない防御力の低い配備としていたのである。

これを土方に衝かれた形となってしまった。
現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っている。

かつて城内へ通じる坂は馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口、新坂の5ヶ所だったが、そのうちの一つ。
細いく風情ある石段が続き、三の丸跡への入口に天神坂門が建つ。

三の丸には七ヶ所の砲座が設けられていたが、現在は最も東側にあった七番台場のみが復元整備されている。

独り言
とかく松前藩は評判がよろしくない。

松前藩の非道、藩主の無責任

この松前城攻防を含め徳川遺臣軍と戦った松前兵は、必ず敗走の際に民家や村に火を放って逃げたので、後世の批判を受けている。

榎本の学んだ国際法知識を適用した徳川遺臣軍は、戦争に直接関係しない市民を巻き添えにしないよう配慮し、俘虜として監禁した松前兵にも津軽行きの便宜を図ったり、町民・農民として生きる選択肢を与えるなど、それまでの封建日本にない新しい考えを示した。

落城後の松前藩主松前徳広の行く末は悲惨であった。
土方軍が松前城に迫る前にひそかに城を脱し、家族と共に館の新城に移る予定であったが、別働隊が五稜郭から館城に向かっているとの報を聞き、江差北方の熊石に逃げた。

そこから津軽藩をたよって渡船したが、あいにくの荒天で姫を失い、津軽に渡った後には持病の労咳が悪化したため、わずか25才の若さで死亡している。

高田屋没落に松前藩暗躍

高田屋は嘉兵衛の死後、幕府から1833年(天保4年)、家屋、財産とも没収されます。
容疑とされた密輸の事実はなかったものの、航海中に高田屋の商号を染めた旗を掲げれば、ロシア船はいかなる危害も加えないとの約束があり、それを咎められました。

ロシア側にすれば、ゴローニン釈放に尽力した嘉兵衛への感謝の証しでした。

幕府が重罰に処した裏には、松前藩の暗躍があったそう(松前藩は1821年、転封された陸奥梁川=現在の福島県伊達市=から松前に復帰しています)。

函館市史によると、事件以前に松前藩は2年続けて1万両(天保2年時の換算で3億7千万円)の御用金(実態は藩の借金)を高田屋に命じました。
2年目はさすがに全額用意できず、江戸などの問屋から5千両を借りて工面しました。

ところが、高田屋が幕府の取調べを受けると「高田屋が問屋から運上金を取り立てている」と幕府に告発したのです。
後の幕府の調べで松前藩がでたらめを申し立てていたことが判明します。

「松前藩は有力商人からしばしば御用金を借上げた。
そして借財がかさむと、僅かな過失を理由として取り潰してしまうというやり方は、寛政2年(1790年)の飛騨屋久兵衛を始めとし、同8年の村山伝兵衛、そして高田屋金兵衛に至る常套手段であった」(函館市史)。

松前藩は為政者というよりは、ごろつきの集団としか思えません。
高田屋没落後、松前商人が商権をにぎり、嘉兵衛が築いた商業都市・箱館は1854年のペリー箱館来航まで停滞の時代を送ります。

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松前城へのアクセス、行き方歩き方

住所:北海道松前郡松前町松城144
電話:0139-42-2216

JR江差線木古内駅から函館バス松前行きで1時間29分、松城下車、徒歩10分

土方歳三最期の地 函館の街を彷徨う

古来、この地はウスケシ(宇須岸)と呼ばれていた。
1454年(享徳3年)、南部氏との戦いに破れた津軽の豪族・安東政季を擁し、武田信広らと共に蝦夷地に渡った河野政通が、函館山の麓(現在の弥生町付近)に築いた館(「宇須岸館」とも「河野館」とも呼ばれる)が箱に似ていたため箱館と呼ばれるようになり、明治時代になって函館と改められたとされるが、諸説ある。

函館港の朝ぼらけ、摩周丸の船体がシルエットで浮かぶ。

摩周丸とイカのモニュメント
青函連絡船記念館「摩周丸」の近くに「ふれあいイカ広場」があります。

平成6年(1994年)2月に3パイのイカが群れ合う姿を表したモニュメントが設置され開設されました。

夜にはライトアップされ観光スポットの1つとなっています。

ともえ大橋から見た日の出の瞬間。

昨夜登った函館山の展望ホールが朝日に輝いています。

函館の港ならではの繊細な女性は、天使のようだ。
海の女神像

大雪丸大錨

津軽丸大錨とD51主動輪

函館朝市
戦後間もない1945年に函館駅前で農家が野菜の立ち売りをしたのが始まり。
その後、3度移転し現在の場所となった。

新撰組土方歳三の最期の地は、諸説いろいろありますが、有力なのが一本木関門のあった若松町とされています。

一本木関門は、当時の函館市街の端にあたり、旧幕府軍が通行税をとるために設けた関門でした。

復元された一本木関門が隣に立つ土方ファンの聖地。
弔い人と献花が絶えない最期の地だ。

1869年5月11日、土方が銃弾に倒れた一本木関門近くに立つ碑には、凛々しい姿の写真が添えられている。
毎年5月には慰霊祭が行われる。

京都では「鬼の副長」として新撰組隊士を厳しく統率し恐れられた土方だが、箱館での土方は、「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うかのようだ」と伝えられるほど温厚で、明治2年(1869)春からの新政府軍による攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、押し寄せる敵を撃退したという。

土方歳三最期の地への交通

JR函館駅より徒歩10分。
市電湯の川線 新川町駅より徒歩12分。

函館市総合福祉センター敷地内。

北海道函館市若松町33-6

北島三郎の歌で一躍有名になった松風町だが、実際には寂れている。

♪灯りさざめく 松風町(まつかぜちょう)は

君の噂も きえはてて

沖の潮風 こころにしみる・・・・♪

昭和が誇るスーパーヒーロー「月光仮面」。

その像が、函館市内(松風町の「さかえ通り」のグリーンベルト)にあります。

月光仮面の作者である川内康範さんが、函館のご出身であることが縁で、月光仮面(アニメ版)の像を函館市に寄贈(1974年)されました。

台座には

憎むな
殺すな
赦しましょう

という文字がある。
これは「月光仮面」のキャッチフレーズだったとのこと。

川内康範は筋は必ず通す、金は貸しても借りないことなどを信条としており、「喧嘩康範」の異名を取るほど妥協しない性格で知られる。

青江三奈の芸能界の育て親であり、名付け親でもある(青江は自身の小説のヒロインの名である)。

2000年代あたりからは、年齢及び体力的な問題もあり公の場への登場は控えていたが、2007年(平成19年)2月、歌手の森進一に対し今後自作曲の歌唱禁止を通告する会見を開き、いわゆる「おふくろさん騒動」が勃発。
数十年ぶりに時の人となった。
この騒動は新聞の社説にまで取り上げられた。

マンホール図柄はカモメと函館ハリストス正教会です。

マンホール図柄は、五稜郭の中に旧函館区公会堂が描かれています。

後ろ姿の高田屋嘉兵衛像

バスの車中からの写真につき後ろ姿でゴメン。

幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。
また、箱館(函館)の北洋漁業の基を築いた功労者である。

近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路開拓を行った。
択捉島は鱒・鮭が豊富で、嘉兵衛は17ヶ所の漁場を開き、島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え、彼らの生活向上に資した。

享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。

嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した。

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