ポートアイランド北公園 港や船を見ながら散策


ポートアイランド北公園は、神戸港沖の人工島ポートアイランドにある海浜公園。

ポートアイランドの建設とともに、港や船を見ながら散策が楽しめる公園として、1976年5月8日に完成。
至近の対岸に神戸ポートターミナルがある事からクルーズ客船撮影の好適地としても知られる。

公園は、ポートアイランドの北岸、神戸大橋の袂に位置しており、神戸港と神戸の街並み、六甲連山を一望できる。

ポートターミナルからポートアイランド北公園までの徒歩ルート
総距離 689 m 歩数 約 984 歩

夕日の散策だと西側を選ぶといいでしょう。

至近の対岸に神戸ポートターミナルがある事からクルーズ客船撮影の好適地としても知られる。

神戸ポートターミナル、中突堤旅客ターミナル客船入港予定

「神戸港港湾殉職者顕彰碑、これは、神戸港で就労中に亡くなった労働者を顕彰しようと造られた慰霊碑です。

始めは神戸水上警察署の辺りにあったようですが、警察署の建設に伴い、現在地に移転してき。

重い袋を肩に担いでいる人など、港湾労働の当時を彷彿とさせるようなモニュメントです。」

神戸大橋を見つめるかのように、神戸の初代オランダ領事として知られる「ボードワン領事」像が。

後方はみなと異人館、2012年からシスメックスが建物の借受人となっておりゲストハウスとして使用されている。

神戸大橋は、本州側の新港第四突堤とポートアイランド間に架かる、日本初のダブルデッキアーチ型鋼橋。

赤色が印象的です。

ここは釣りをする人が沢山集まります。

海鳥が急に増えた、釣り人に海中の情報を教えてくれる。

ところで、釣り人にとってこれら海鳥は海の中の状態を教えてくれる大事な生き物である。
オフショアでボートゲームをやるときなどは、この海鳥がいる場所を捜す。

海鳥は空の上から餌を捜しているので小魚の群れがいるとたちまち発見して集まってくる。

水上バイクのツーリング集団が走り抜けていきました。
見ると結構の年配者。

定番コースは、パルアップ・ツーリングでおなじみの「神戸港」→「明石海峡大橋」→明石海峡大橋を一望できるレストラン「Geragera(ゲラゲラ、神戸市)」でランチを。

遊覧船も帰ってきました。

今日の夕日は雲が多くイマイチでした。

六甲の山並みが西日を浴びてきれいです。

夜の北公園は昼間とはまた違う一面をのぞかせます。

陽が落ちてからも人が集まってきます。

前方に錨山(いかりやま)と市章山(ししょうざん)が見えています。

色とりどりのイルミネーションに包まれた神戸の街の夜景を北公園側の海岸遊歩道から見ると、海面に光が反射してとても美しい夜景の景色が広がって幻想的。

スタート地点(ポートターミナル駅)に帰ってきました。

新港第4突堤にあるポートターミナルは、世界各国や日本中から訪れる大型クルーズ客船、日中定期国際フェリーが利用しているターミナルです。
半日、停泊した船に実際に乗ることができます♪船内でのイベントも多数ご用意しております。託児もあります。

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その間、小樽運河散策。

撮影スポットの浅草橋近辺で写真撮影。
もう少し時間が欲しかった。

奄美大島の高倉


奄美大島や沖縄には高床式(たかゆかしき)の倉が残っています。

このような高床倉(高倉)は台湾やフィリピンなどの南方地域にその起源があると思われます。

古代には日本国中に存在していたと考えられますが、現在では南西諸島や八丈島にわずかに残るのみとなりました。
本高倉は昭和33年(1958年)に重光家屋敷地内にあったものを移築したものです。

気候に適した屋根や床

高倉の屋根を厚く葺いているのは太陽の熱を遮るため、屋根が急なのは雨水が流れやすく雨漏りを防ぐためだといいます。

床板は板張りが多く見られますが、かつては琉球竹を編んだものが張られ、通気性を良くして湿気から食物を守っていたそうです。

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摂津能勢の古民家


大阪で栗と言えば能勢栗!
能勢栗も大振りでおいしい。
が!
おすすめは和栗の銀寄栗(ぎんよせ)です。

この家は大阪府の北端、能勢町吉野から昭和35年(1960年)に移したものですが、移築に際して、後世改造されていた部分を原形に復元しました。

このような民家は、全国的に少なく、京都府から兵庫県の一部に分布していました。
現在、大阪府内では豊能郡だけに残っています。

その中でもこの家は最古のもので、定かな建築時期は不明ですが、恐らく300年以上を経過していると考えられます。

屋内は二分されている。入って左手は土間が奥まで続き、馬屋や炊事場になっている。
右側は部屋で、なんど(寝室)、だいどこ(居間)など。

だいどこには、いろりが土間近くに切ってあり、土間で仕事をしている時に、履き物を脱がなくても座れるように工夫されている。

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日向椎葉の古民家


宮崎県日向の椎葉村は、飛騨白川村や阿波祖谷村と共に、わが国三大秘境として知られています。
昭和34年(1959年)に移築されたこの民家は、急峻な山の斜面に建てられるため、「竿家造り(さおやづくり)」と呼ばれる併列間取りの細長いつくりをしています。

馬屋の中には、耕運機のようなもの、足踏みの脱穀機、千歯こき(鉄の歯を数十本くしの歯のように並べて、それに稲穂を通して引き籾をはずす。
江戸中期以降に広まり、大正時代に足踏脱穀機が普及するまで使われた)が置かれていました。

正面左手に大戸口があり、内部に入ると「ドジ」と呼ばれる土間となり、炊事場兼作業場として機能していました。

煙出し用に天井は無く屋根裏が露出されています。

中央の3連の竈を挟んで奥は板の間の台所となり、食器の水切り用に竹簀子も備えられています。

土間から家の長手方向を見る。
左側が座敷列で手前から「うちね」「でい」「こざ」。
その右に広い内縁(したはら)が通っている。
写真では見えないがその右に外縁(ひえん)がある。

内縁(したはら)から見た「でい」、囲炉裏が設置されている。

この部屋で椎葉神楽が奉納され、その際の見物人は内縁に座る。
敷居は建具用の溝が無い「無目敷居」である。

民家では能面の展示が行われていた。
椎葉は神楽が盛んなことで知られる。

椎葉神楽の特徴の一つとして「板起こし」という「狩猟」に関する演目がある。
「板起こし」とは「冬まつり」の序の部分における重要な儀礼として行われる。

具体的には、山の恵みである猪肉を捧げ、小片に切り分けて竹串に刺すもので、豊猟と安全を願う「狩猟神事」である。

一方で椎葉神楽には、多くの修験の作法が見られるように殺生を戒める仏教色も合わせ持つ神仏混淆の姿も残っている。

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小樽出航が23時30分。
その間、小樽運河散策。

撮影スポットの浅草橋近辺で写真撮影。
もう少し時間が欲しかった。

4年振りです緑地公園


今日は倶楽部の撮影会、4年振りに緑地公園へ。

【 金井良輔「カリアティード1983 3本のねじれた柱」】
ギリシャのラコニアのカリアの町が征服され女たちが苦役に従事した故事から「重荷を支える女」として、女性像による柱をカリアティードと呼ぶ。
そのイメージから、力強く成長しようとする人間の姿を抽象的に表現。

目の前のマンションの入り口、色彩と形がきれいだった。

緑道

緑地公園駅を降りてすぐ、緑のトンネルが出迎えてくれます。
そのまま進むと噴水のある東中央広場に出ます。

ソール・ライタ風に足を少しだけ・・・・

フラメンコ教室がありました、赤が強烈!!
そういえばソール・ライタは赤とか黄の色が好きでした。

道端の石、人面石です、顔がいくつも見えます。

大きな噴水といくつかの彫像で構成された【 福岡道雄「白昼夢」】

通る人々を迎え入れる門。

パンパスグラスが見ごろを迎え、一足早く秋の訪れを告げています。

公園の中央にある時計塔です、鏡面仕上げの美しい塔。

【 松下隆治「仔牛と女」】

この女性いったい何頭身なんだろう。

雀が頭の上に・・・

お待ちかね、「日本民家集落博物館」が木立越しに見えてきました。

噴水のある不思議な建物、コショウ中かな・・・

「日本民家集落博物館」の目の前に・・

水の流れた跡、模様がきれい。

自然は芸術家だ!!

ノウゼンカズラ

中国原産の落葉ツル植物。
幹から気根を出して樹木等に這い登り、夏から秋にかけて橙色を次々と咲かせます。

このノウゼンカズラはさやまで付けています。

河内布施の長屋門(大阪府)国登録有形文化財が博物館の正門として使われています。

旧塩川正十郎氏宅、そうあの塩爺の家の門だったのだ。
塩爺と言っても今の若い人たちにはわかるかな。

古民家を訪ねて・・・・・・4年前に訪れた際の記録です。
今回訪れて色々と変化を感じました。
次回から日本の代表的な民家11棟を巡ります、皆さんもどう変わったか感じ取っていただければ。

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冬季の上高地などいかがですか

明日から閉山というギリギリの上高地を訪れた、9年前のことでした。


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ゆうべはここから焼岳が見えたのに。
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吹雪の梓川沿いを河童橋まで
吹雪の中を河童橋まで歩くことにする。 中千丈沢の辺りも雪に埋もれる。 焼岳から穂 … 続きを読む →

レトロな今井町町並み散歩 パート2


倶楽部の定例会用に作品用にレタッチをしたものを掲載します。














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金沢も中々いいよ、良く通いました。
幽玄空間 兼六園
今回は兼六園ライトアップ【早春の段】、3月11日(金)~20日(日)の短い期間で … 続きを読む →


霞ヶ池の周囲は映り込みが特にきれいだ。

荘厳空間 金沢城
金沢城ライトアップ冬の段、荘厳な雰囲気の中にうかぶ金沢城。 石川門は金沢城の搦手 … 続きを読む →

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レトロな今井町町並み散歩


飛鳥川の流れにかかった蘇武橋を渡ると、現在も江戸時代そのままの情緒と風情を残す町、今井町があります。

飛鳥川のことをかつては蘇武川と言い、その付近には蘇武井、蘇武橋、蘇武田などの地名が残っています。

今井町の東の入り口にある大きな木。

この「蘇武橋のエノキ」は、実は奈良県内で最初に指定された「景観重要樹木」でもあります。
樹齢はなんと400年を超えます。

今井蘇武橋公園として整備された飛鳥川沿いの縦長エリアに蘇武之井が二つ存在しています。

かつて、蘇武井からは良質の水がこんこんと湧き出てき、今井の里の千軒の家々がこの水を毎日汲んでも、またいかなる日照りが続いても、涸れることはなかったという。

今井町にはたくさんの鬼瓦が残されています、鬼瓦の散策も面白いかも。

今井町に現存する最古の鬼瓦(1644年・寛永21年製)です。

歴史を感じるくぐり戸、主たる門扉に付属していて高さが低く頭を下げて通る門戸。

城門や寺や民家の門、防火扉の小さい扉、茶室の躙り口など。

こちらは今井町仕様の蓋。
町並みが描かれている。

河瀬権八郎兵部尉宗綱が石山本願寺の顕如上人から寺号を得て、今井郷に念仏道場を建てたことに始まる。

永禄年間(1558年~1570年)、川井長左衞門正冬と共に周辺に堀と土塁を形成し寺内町の体裁を整え、御坊(今井山)を開いた。

1877年(明治10年)、明治天皇行幸の行在所となった折りに西郷隆盛挙兵(西南戦争)の一報が入ったという逸話があるが、暴発の恐れがあるとの一報が入ったというのが真相のようである。

床屋らしくない佇まいの理髪店がありました。

【床屋】の起源は江戸時代にまでさかのぼります。
この当時、理髪業に従事する今で言う理容師さんのことを【髪結い】と呼んでいました。

床という言葉が性的な意味合いも持つ為か、【床屋】という言葉は差別表現にあたるとしてか、放送禁止用語の一つとなっています。

テレビやラジオなどのマスコミは 【理髪店】【理容院】などと呼んでいるようですが、歴史を辿れば【床屋】という言葉の意味や由来に性的な意味合いは関係ないことがわかります。

なぜ放送禁止・自粛用語になるのか、ちょっと不思議ですよね。 

豊田家は、福井藩の蔵元も務めた木材豪商が1662年(寛文2年)に建築。

建物正面2階の壁の両端に、「丸に木」の字の家紋があることから「西の木屋」と呼ばれてきました。

「西の木屋」の象徴とも言える定紋。
漆喰を盛り上げて木の字を記している。

「駒つなぎ」と呼ぶそうで、低いのが馬、高いのが牛。

「駒つなぎ」は今井町のシンボルでもありマンホールのデザインにもなっている。

16世紀中頃には、四周に環濠・土居を廻し、武装宗教都市がつくられたとみられるが、逐次東方を取り込み、文禄4年(1595)の太閤検地の頃には、ほぼ現状の規模に拡大されていたとみられる。

しかし、天正3年(1575)織田信長の軍門に降り、環濠、土居が埋めたとされているが、17世紀初期頃旧状に基づき復旧されたものが江戸時代を通じて維持された。

今西家住宅を映す今井町西側の環濠。

戦国時代の寺内町が原型となり、全建物数約1500棟弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっており、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

また、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あり、2017年(平成29年)4月28日に日本遺産に認定された。

現在も町の大半が江戸時代の姿を残しており、大部分は実際に住居としても使用されているが、中には廃屋同然に放置された建物も存在する。

幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅した。

今日のお昼はこちらの古伊でいただいた。

お昼をいただいてすぐに雨がポツリと、夕方からは降ると予報されていたのでそれなりの覚悟はありましたが少し早すぎます。

本格的な降りにはならずに済みました、一安心。

消火用ホースの収納箱のデザインがいろいろあって面白い・・・
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冬季の上高地などいかがですか

明日から閉山というギリギリの上高地を訪れた、9年前のことでした。


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梅田界隈


ディアモール大阪

自然光が降り注ぐガレリアや大理石をふんだんに使った格調高いフロアなど、 イタリアの街並をイメージした明るく開放的な大阪・梅田の地下街。


梅田スクエアビル


風の広場、涼しい木陰で・・・

昼下がりのひと時、人出は少なめです。

新しいオブジェが・・・

展示作品名:「FOREIGIN MATTER: ‘Sand in woman’」(異物:’砂の女’)

南館せせらぎテラスには、アーティスト:R E M A本人のセルフイメージを使用したオブジェ作品を展示。

日本語にすると「異物:’女の中の砂’」。

こちらも新しいオブジェ

2023年4月に開業10周年を迎えた大阪・梅田の複合商業施設「グランフロント大阪」(大阪市北区)とJR大阪駅をつなぐ“うめきた広場大階段”で、エネルギーあふれる「顔」が、訪れる人たちを出迎えている。

作品名は「Hello again(ハローアゲイン)」。

JR大阪駅前で進められている「うめきた2期地区開発事業」のプロジェクト名称が、「グラングリーン大阪(GRAND GREEN OSAKA)」に決定した。

約45,000m2の都市公園を含む新たな街が、2024年夏頃に先行まちびらきとなる。
全体まちびらきは2027年度。

新しい空間が次々と出現。

久し振りに歩くと新しい発見が目に付く。

万博へ向け大きく動く梅田界隈。

梅雨の谷間の午後水遊びの親子。

大階段の下、何時もの光景が・・・・

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在原業平隠棲の十輪寺


善峯寺よりの帰りバスで一駅の小塩で降り、業平をしのんだ。
バスは満車であったが誰一人降りる人は無かった。

十輪寺は、大原野の一角に文徳天皇が女御である染殿皇后(藤原明子)に世継が誕生するよう祈願して、嘉祥3年(850年)に伝教大師作の延命地蔵を安置して祀ったのが始まりだとされる。

祈願後、無事に惟仁親王(清和天皇)が誕生したことから勅願所とされた。

その後、寺伝では平安時代初期の歌人で六歌仙のひとりである在原業平が、晩年この寺に隠棲したとされ、境内の裏山には業平が塩焼きの風情を楽しんだとされる塩竈(しおがま)の旧跡がある。

また、それが十輪寺周辺の地名が「小塩(おしお)」となった由来であるともいう。

樹齢800年の大樟樹と「なりひらもみじ」が素晴らしい。

大樟樹は、十輪寺のご神木で、地蔵菩薩の神力で一夜にして大樟樹にしたという伝説がある。

庭園「三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)」 – 寛永3年(1750年)に、右大臣花山院常雅が本堂再建時に作庭したもの。

作庭時期は江戸時代であり、当時は武士が権力を持ち公家は財力に乏しかったことから豪華な庭園を造ることは叶わなかった。

しかし花山院家の公家たちは、小さな空間でも見方を変えることで様々に楽しもうとこの庭を考案したといわれる。

高廊下、茶室、業平御殿の三か所で場所を変えて見ると、見る人に様々な思いを感じさせる癒しの庭である。

それぞれの場所から「立って見る」「座って見る」「寝て見る」と3通りの見方で趣の違いを楽しめることから、その名も三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)と呼ばれる。

「普感」とは仏の遍万している大宇宙を感じることを意味する。

中庭には樹齢約200年の枝垂れ桜、通称「なりひら桜」がらんまんとさきほこる。

画像はポスターを拝借。

鐘楼(京都府指定有形文化財) – 寛文6年(1666年)再建。

不迷梵鐘(まよわずのかね)と呼ばれ、自分で決心がつかず迷っている時にこの鐘を撞くと、決心がつく不思議な鐘とされている。

在原業平供養塔 – 宝篋印塔が境内裏山にあり、「在原業平卿の墓」の石碑が建つ。

恋と歌に生きた業平が50歳を過ぎてこの十輪寺に隠棲したといわれ、境内奥にある「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」は業平のお墓と伝えられています。

本堂の屋根は鳳輦(ほうれん)型と言うおみこしの型をした珍しい建物。

墓から少し奥へ進むと業平が、塩焼きの風情を楽しんでいたという旧跡がある。

塩竃 – 在原業平が、難波(現・大阪湾)の海水を運んで塩焼きの風情を楽しんでいたという旧跡。

在原業平の思い人である二条后(藤原高子)が大原野神社に参詣した折に、塩竃で紫の煙を立ち上げ思いを託したと伝わる。

謡曲「かきつばた」には業平が歌舞の神とされていることから、中世以降に業平信仰が生じ、塩竃を清めて煙を上げ、その煙に当たり良縁成就、芸事上達、ぼけ封じ、中風除け等々を願うようになったという。

毎年11月23日に、「塩竃清めの祭」が行われている。

画像はポスターを拝借。

業平伝説とはどのようなものか。

時代は、藤原北家が、実質的権力を掌握しつつある時代である。
藤原高子(842~910)は、藤原北家の娘として、将来は天皇の后となり、次期天皇を生むことが期待されていた女子で、「花や蝶や」とそれはそれは大切に育てられた。

実際、藤原高子では、8歳年下の清和天皇(第56代、850~881、在位858~876)の女御のひとりとなる。
そして、藤原高子と清和天皇の子が、陽成天皇(第57代、869~949、在位876~884)である。

そんな予備知識を踏まえて、藤原高子の色恋スキャンダルの一生を。

859年、清和天皇即位後の最初の大嘗祭において、藤原高子は五節の舞姫をつとめた。

五節の舞は、大嘗祭や新嘗祭に行われ、4~5人の舞姫が踊る。
当時の最大級のエンターテインメントで、見物人がドッと押し寄せる。

このとき、高子は18歳、清和天皇は10歳である。高子は、まだ入内していない、未婚の18歳である。
高子の美貌は抜群であった。

藤原北家のトップは藤原良房(804~872)で、清和天皇の成長を待って、高子を入内(→出産)させようと計画していた。

10歳の少年でも、少しは色気もあるだろう、8歳年上であっても絶世の美女の舞を見せつければ、少年でも関心を持つだろう。
少年が男に成長したら、すぐさま入内、すぐさま出産……そんな絵を描いていた。

しかしながら、藤原高子の五節の舞を見ていたのは、清和天皇だけではない。
大勢の見物客のなかに、在原業平(825~880)がいた。

言うまでもなく、日本史上最高のプレイボーイである。
このとき、業平は35歳である。

そして、在原業平と藤原高子の恋愛ドラマがスタートする。

男は女を、あの手この手で口説き落とす。
藤原北家にしてみれば、「清和天皇の女御予定者」を傷者にされては困る。

女は18歳にして初めて恋の甘美な蜜を知ってしまった。
許されぬ恋ゆえの駆け落ち。

しかし、駆け落ちは一夜だけで追手に追いつかれ、引き裂かれてしまう。

藤原北家は、女を蔵に押し込め、男から防衛する。

男は、蔵に向かって、笛を吹く。
結局、男は京都から追放される。

秋の紅葉めぐり 小塩山十輪寺 なりひら寺
十輪寺は、嘉祥3年(850)に創建され、平安時代の歌人で、「伊勢物語」の主人公在 … 続きを読む →

在原業平ゆかりの古刹 不退寺
投稿日時: 2017年3月2仁明天皇の勅願を受け、平城天皇萱御所跡に在原業平が開基したと伝わる。 その由緒か … 続きを読む →

在原業平の子孫が築いたと言われる箕輪城
日本100名城の一つ。 箕輪城は榛名山からのびる低い尾根の末端部を巧みに利用して … 続きを読む →

アクセス
JR東海道本線で、京都駅より約7分、「向日町駅」で降り、阪急バス66系統で約30分、「小塩」バス停下車すぐ。
バスの本数が少なく注意が必要。

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西行ゆかりの寺 花の寺勝持寺


大原野神社から2~3分山道を進むと勝持寺への参道に合流します。
合流する手前に橋が架かり鳥居が建っています。

『勝持寺は、小塩山の東麓、標高130~170mに位置し、寺伝では役小角の開創といわれる山林寺院です。

京都第2外環状道路の新設工事に先立って、平成22年(2010)から平成24年(2012)にかけて、勝持寺の旧境内にあった子院跡と推定される場所で発掘調査が実施されました。

調査では、建物・井戸・石垣や石塁などが見つかり、当該地において鎌倉時代から室町時代の複数の子院跡の存在が確認されました。
この奥に石塁の一部を移築して保存しております。

勝持寺は京都の西南郊外の大原野に位置する。

勝持寺は古くから桜の名所として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。

寺伝では天武天皇8年(679年)に天武天皇の勅によって役小角が創建したと伝えられる。

その後延暦3年(784年)に大原野神社が創建されると、勝持寺は大原野神社の別当寺とされ、延暦10年(791年)に桓武天皇の勅により最澄が再興して小塩山大原寺と称したという。

保延6年(1140年)10月、佐藤義清が当寺で出家し、西行となっている。
>
勝持寺は古くから桜の名所として知られ、西行ゆかりの寺として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。

平安時代の仁寿年間(851~854)に仏陀上人が伽藍を復興したと伝えられています。

堂中には薬師如来像・金剛力士像・日光菩薩像・月光菩薩像・十二神将像・西行法師像といった重文がずらり。

室町時代には、足利尊氏の帰依などにより寺運は隆盛し、現在の勝持寺の周辺には多くの子院(本寺に付属する小寺院)が存在したといわれています。

不動堂へ上がる石段の下、小さな池の奥に鏡石が在ります。

鏡石は、西行が勝持寺で出家し、この石を鏡の代わりに使って頭を剃ったと伝わります。

瀬和井の泉 – 西行が髪を剃った後にこの泉で自らの出家した姿を見たという。

不動堂前の石段を下って、右側に進むと小さな池の中に石の観音像が祀られています。

この観音像は魚籃観音(ぎょらんかんのん)で、魚籃とは魚を入れる籠のことで、組み合わせた手に籠を持っています。

三十三観音の一尊である馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体とされています。

中国・唐の時代、魚を扱う美女が、観音経・金剛経・法華経を暗誦する者を探しだし、結婚しましたが、まもなく亡くなりました。

この女性は、法華経を広めるために現れた観音とされ、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになりました。

鳥羽上皇に仕えていた北面の武士佐藤兵衛義清が、保元6年(1140)当寺に於いて出家し、西行と名を改めして庵を結び、一株の桜を植えて吟愛していた。

世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになった。

鐘楼堂
西行桜 – この桜の横に西行の庵があったという。
現在の桜は3代目である。

西行と桜の老精とのやり取りを描いた、室町時代の世阿弥作・謡曲「西行桜」の舞台となったところだと云われています。

「花見んと むれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがにはありける」西行法師

鐘楼堂の脇の石段を下りると、小川(三春川)があり石橋が架かっています。

「仁王門」は、応仁の兵火を免れた仁寿の旧構を残す勝持寺最古の建造物になっている。

戦国の争乱をも睨み続けてきた仁王さん。
痛々しく傷ついても、なお迫力満点の風貌。

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