法金剛院 早朝拝観


今年も早朝を狙って出かけたのですがJR神戸線で線路内に人が立ちいったということで大幅な遅れ。

予定より30分以上遅れてしまった。

7時30分の拝観開始だが撮影に入ったのは8時過ぎ。

おまけに出かけるときカメラのチェックを怠り、セットされていたレンズは24-70、全くドジなことだ。

救われたのは105mmマクロを持参していたこと。

お寺の建物などを借景にと考えていたのだが・・・・

開花するのは早朝で、特に見頃は午前7時〜9時頃、そして10時前には再び花は蕾に戻っていってしまい、お昼には花が閉じてしまう。

皆さんとジナ話は色々とあるようで藤原京にハスの撮影に行った人の話。

畝傍山を借景にというのはいいが、夕日を絡めての撮影を考えていたようだ。

しかし、この時期、日の入りは7時過ぎ、とてもではないが炎天下でそれまで待てない、バスの時間も気になる・・・・

とんだ「トラたぬ」をやらかしてしまったと笑っていた。

花托の撮影やら

ハスの葉のロータス効果やら結構楽しんだ。
結局10時ごろには人がほとんどいなくなっ。

寺は待賢門院(1101年 – 1145年)により再興され、名称を法金剛院と改めている。

待賢門院は藤原氏の出身で、鳥羽天皇の中宮であり、崇徳天皇、後白河天皇の母。

青女の滝(せいじょのたき、国指定特別名勝)は日本最古の人工の滝とされる。
待賢門院の発願により林賢と静意の作と伝わる。

待賢門院(藤原璋子)の墓が、寺院の北にある墓地にあるが、明治以降は寺から切り離されて宮内省(現・宮内庁)の管理する「鳥羽天皇皇后璋子 花園西陵」となり、陵への現在の参道は寺院とは丘の反対側の北側からとなっている。

ところで待賢門院にふられた西行の話は有名。
障子が出家して待賢門院となる頃には、かつての義清も出家し、西行となっていました。
お互いに出家した後も、2人の交流は続いてた様で、待賢門院の従者である堀川局と西行が交わした和歌が残っています。

尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし

花と散りにし 君が行方を   西行

(尋ねても風の便りにも聞くことができない、

 花のように散ってしまった待賢門院の行方は)

吹く風の 行方知らする ものならば

風と散るにも 遅れざらまし   堀川局

(吹く風が行方を知らせてくれるのならば、

 遅れずに後をついていくのに)

西行ゆかりの寺 花の寺勝持
大原野神社から2~3分山道を進むと勝持寺への参道に合流します。 合流する手前に橋 … 続きを読む →

祇園女御供養塔~芭蕉堂~西行庵~石塀小路
清盛ゆかりの地を訪ねようと八坂神社、六波羅蜜寺、六道珍皇寺、円山公園一帯を散策し … 続きを読む →

江口の君堂 西行と江口の君を偲ぶ
往来する貴族たち相手の遊女の里としても知られ、『遊女記』に「天下第一之楽地也」と … 続きを読む →

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在原業平隠棲の十輪寺


善峯寺よりの帰りバスで一駅の小塩で降り、業平をしのんだ。
バスは満車であったが誰一人降りる人は無かった。

十輪寺は、大原野の一角に文徳天皇が女御である染殿皇后(藤原明子)に世継が誕生するよう祈願して、嘉祥3年(850年)に伝教大師作の延命地蔵を安置して祀ったのが始まりだとされる。

祈願後、無事に惟仁親王(清和天皇)が誕生したことから勅願所とされた。

その後、寺伝では平安時代初期の歌人で六歌仙のひとりである在原業平が、晩年この寺に隠棲したとされ、境内の裏山には業平が塩焼きの風情を楽しんだとされる塩竈(しおがま)の旧跡がある。

また、それが十輪寺周辺の地名が「小塩(おしお)」となった由来であるともいう。

樹齢800年の大樟樹と「なりひらもみじ」が素晴らしい。

大樟樹は、十輪寺のご神木で、地蔵菩薩の神力で一夜にして大樟樹にしたという伝説がある。

庭園「三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)」 – 寛永3年(1750年)に、右大臣花山院常雅が本堂再建時に作庭したもの。

作庭時期は江戸時代であり、当時は武士が権力を持ち公家は財力に乏しかったことから豪華な庭園を造ることは叶わなかった。

しかし花山院家の公家たちは、小さな空間でも見方を変えることで様々に楽しもうとこの庭を考案したといわれる。

高廊下、茶室、業平御殿の三か所で場所を変えて見ると、見る人に様々な思いを感じさせる癒しの庭である。

それぞれの場所から「立って見る」「座って見る」「寝て見る」と3通りの見方で趣の違いを楽しめることから、その名も三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)と呼ばれる。

「普感」とは仏の遍万している大宇宙を感じることを意味する。

中庭には樹齢約200年の枝垂れ桜、通称「なりひら桜」がらんまんとさきほこる。

画像はポスターを拝借。

鐘楼(京都府指定有形文化財) – 寛文6年(1666年)再建。

不迷梵鐘(まよわずのかね)と呼ばれ、自分で決心がつかず迷っている時にこの鐘を撞くと、決心がつく不思議な鐘とされている。

在原業平供養塔 – 宝篋印塔が境内裏山にあり、「在原業平卿の墓」の石碑が建つ。

恋と歌に生きた業平が50歳を過ぎてこの十輪寺に隠棲したといわれ、境内奥にある「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」は業平のお墓と伝えられています。

本堂の屋根は鳳輦(ほうれん)型と言うおみこしの型をした珍しい建物。

墓から少し奥へ進むと業平が、塩焼きの風情を楽しんでいたという旧跡がある。

塩竃 – 在原業平が、難波(現・大阪湾)の海水を運んで塩焼きの風情を楽しんでいたという旧跡。

在原業平の思い人である二条后(藤原高子)が大原野神社に参詣した折に、塩竃で紫の煙を立ち上げ思いを託したと伝わる。

謡曲「かきつばた」には業平が歌舞の神とされていることから、中世以降に業平信仰が生じ、塩竃を清めて煙を上げ、その煙に当たり良縁成就、芸事上達、ぼけ封じ、中風除け等々を願うようになったという。

毎年11月23日に、「塩竃清めの祭」が行われている。

画像はポスターを拝借。

業平伝説とはどのようなものか。

時代は、藤原北家が、実質的権力を掌握しつつある時代である。
藤原高子(842~910)は、藤原北家の娘として、将来は天皇の后となり、次期天皇を生むことが期待されていた女子で、「花や蝶や」とそれはそれは大切に育てられた。

実際、藤原高子では、8歳年下の清和天皇(第56代、850~881、在位858~876)の女御のひとりとなる。
そして、藤原高子と清和天皇の子が、陽成天皇(第57代、869~949、在位876~884)である。

そんな予備知識を踏まえて、藤原高子の色恋スキャンダルの一生を。

859年、清和天皇即位後の最初の大嘗祭において、藤原高子は五節の舞姫をつとめた。

五節の舞は、大嘗祭や新嘗祭に行われ、4~5人の舞姫が踊る。
当時の最大級のエンターテインメントで、見物人がドッと押し寄せる。

このとき、高子は18歳、清和天皇は10歳である。高子は、まだ入内していない、未婚の18歳である。
高子の美貌は抜群であった。

藤原北家のトップは藤原良房(804~872)で、清和天皇の成長を待って、高子を入内(→出産)させようと計画していた。

10歳の少年でも、少しは色気もあるだろう、8歳年上であっても絶世の美女の舞を見せつければ、少年でも関心を持つだろう。
少年が男に成長したら、すぐさま入内、すぐさま出産……そんな絵を描いていた。

しかしながら、藤原高子の五節の舞を見ていたのは、清和天皇だけではない。
大勢の見物客のなかに、在原業平(825~880)がいた。

言うまでもなく、日本史上最高のプレイボーイである。
このとき、業平は35歳である。

そして、在原業平と藤原高子の恋愛ドラマがスタートする。

男は女を、あの手この手で口説き落とす。
藤原北家にしてみれば、「清和天皇の女御予定者」を傷者にされては困る。

女は18歳にして初めて恋の甘美な蜜を知ってしまった。
許されぬ恋ゆえの駆け落ち。

しかし、駆け落ちは一夜だけで追手に追いつかれ、引き裂かれてしまう。

藤原北家は、女を蔵に押し込め、男から防衛する。

男は、蔵に向かって、笛を吹く。
結局、男は京都から追放される。

秋の紅葉めぐり 小塩山十輪寺 なりひら寺
十輪寺は、嘉祥3年(850)に創建され、平安時代の歌人で、「伊勢物語」の主人公在 … 続きを読む →

在原業平ゆかりの古刹 不退寺
投稿日時: 2017年3月2仁明天皇の勅願を受け、平城天皇萱御所跡に在原業平が開基したと伝わる。 その由緒か … 続きを読む →

在原業平の子孫が築いたと言われる箕輪城
日本100名城の一つ。 箕輪城は榛名山からのびる低い尾根の末端部を巧みに利用して … 続きを読む →

アクセス
JR東海道本線で、京都駅より約7分、「向日町駅」で降り、阪急バス66系統で約30分、「小塩」バス停下車すぐ。
バスの本数が少なく注意が必要。

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山城 善峰寺 アジサイ紀行


アクセスJR向日町~阪急東向日~向日市役所前~右京の里~灰方~小塩~善峯寺 (JR阪急各駅より所要 約30分 片道370円)

ここから山岳登山開始。

観音堂へ着くとアジサイの生け花がお迎え。

ここからは比叡山が一望。

寺号の由来
「善峯寺(善峰寺)」という寺院は全国でも1つしかないと言われています。
寺号の由来はいくつか伝えられています。

後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜されました。

干ばつの時、源算上人の祈りで、龍王が雨を西山の峰より降らした奇瑞によって、後冷泉天皇より「良峯」の勅額を賜りました。

後鳥羽天皇より、慈鎮和尚ご住山の時に「善峯寺」の勅額宸筆を賜りました。

「本名は阿知坂なりしを改めて善峯山と名附らる諸善奉行の教を流布せんためなり」とあります。

※尚、寺号「峯」の字は歴史上「峰」「峯」ともに使われており、

現在当山では便宜上「峯」に統一しています。

山城善峰寺

南北朝の争乱や応仁・文明の乱でもこの地に戦が行われているように、軍事的な要衝の地にあった山岳寺院は城郭として利用されたと考えられる。

江戸時代の再興であるが、山門から本堂への石段と石垣や釈迦堂付近は、お城好きにはお寺がお城に見えて仕方がない光景がそこにあった。

善峰寺は、長元3年に源算によって創建されたとされている。

建久3年には官寺に列せられ、後に後嵯峨天皇の勅願所となった。

承久の乱の際には後鳥羽天皇の皇子道覚法親王が善峰寺へ避難しており、その後も法親王が住持を歴任している。

南北朝時代の文和2年、南朝方の山名時氏と北朝方の高師詮が善峰寺で戦い寺は焼失した。

その後、室町時代は足利幕府の庇護を受けたが、応仁・文明の乱で焼失して衰退し、江戸時代の元禄4年に徳川綱吉の生母桂昌院によって再興された。

桂昌院(1627~1705)は徳川家光の側室で、名は光子。
五代将軍綱吉の生母。

諸書によれば「京都堀川通西藪屋町」の八百屋仁左右衛門の子で、父の没後、母鍋田氏は二条家家司本庄太郎兵衛に嫁した。

寛永16年(1639年)に部屋子として家光の側室・お万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で、局の指導を受けるようになる[2]。

長じて将軍付き御中臈となり、家光に見初められて側室となり、正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。

慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。

4代将軍・家綱の死後、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。

貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜る。

宝永2年(1705年)6月に79歳で没。

『薬師如来献詠』桂昌院筆
元禄11年(1698)に薬師如来に歌を献じます。

たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏

「たらちを」とは実父のことで、将軍の生母となってからも父の薬師信仰を忘れずにお過ごしになりました。

山城を思わせる遺構が随所に見られます。

途中には打たせ滝である青蓮の滝がありましたが水が流れていません。

本殿を中心に、ぐるりと山を登って参拝を楽しめる善峯寺。

階段が多いにも関わらず、ご年配の方が沢山元気に参拝しておられました。

善峯寺参拝は今回で3回目です。

京都 西山 善峯寺
山号は西山。西国三十三所第20番札所。善峰観音宗(天台宗系単立)。 桜や紅葉の名 … 続きを読む →

秋の紅葉めぐり 西山 善峰寺
善峯寺(よしみねでら)は、京都府京都市西京区にある寺院。山号は西山。 西国三十三 … 続きを読む →

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楊谷寺のアジサイ 今年はアンブレラスカイが人気


楊谷寺は、京都府長岡京市浄土谷にある西山浄土宗の寺院。
山号は立願山。

本尊は十一面千手千眼観音菩薩。
通称柳谷観音(やなぎだにかんのん、楊・柳ともにヤナギの意)。

楊谷寺、善峯寺、光明寺の3つの寺院は「西山三山」と呼ばれる。

今年はアンブレラスカイが登場。

花手水が随所にありますが門前の花手水は規模も大きく長蛇の列。

新西国三十三箇所第17番札所。
独鈷水(おこうずい)の寺として、また近年は紫陽花の寺としても知られている。
縁日は毎月17日。

寺伝では清水寺の開祖延鎮が大同元年(806年)に開山したとされ、延鎮が夢告によりこの地で十一面千手千眼観音菩薩像を感得し、堂を建て安置したのが始まりとされる。

その後延鎮が清水寺に帰った後に空海が度々、ここで修行をしたとされる。

伝承によれば、弘仁2年(811年)、楊谷寺を参詣した空海は、堂の傍らの湧き水で、眼のつぶれた小猿を抱いてその眼を懸命に洗っている親猿を見かけると、小猿のために17日間の祈祷を行った。

すると満願の日に小猿の眼が見事に開いた。

それ以来、空海はその湧き水を眼病に効く独鈷水として広めたという。

独鈷水は、江戸時代に眼の悪かった霊元天皇がそれで眼病を治癒したのをきっかけとして、以後歴代の天皇へ献上されるようになり、明治時代となって皇居が東京に移るまで献上は続けられた。

東山天皇の皇妃新崇賢門院が当山の本尊に祈祷したことにより、後の中御門天皇が誕生した。

その返礼として、中御門天皇が当山本尊を模し、勅刻したとされる観音像が奥之院の本尊として祀られている。

寺名の柳谷観音楊谷寺も、ヤナギの開創伝説にちなんだものです。

ところで、寺名に使われている「柳」と「楊」は、いずれも訓読みすると「やなぎ」です。

いずれもヤナギ属の樹木を指しますが、しだれやなぎのように枝が垂れ下がる種類を「柳」、ねこやなぎのように枝が上に伸びる種類を「楊」と書きます。

柳谷観音楊谷寺があじさいの名所として知られるようになったのは、近年のことです。

1887年に刊行された「京都名所案内図会」では、楊谷観音の絵図にあじさいの姿は全く描かれていません。

かわりに、本堂の前に大きな蘇鉄の姿が見えます。

このころの他の京都ガイドでも柳谷観音楊谷寺の絵図には蘇鉄が描かれており、あじさいよりむしろ蘇鉄の名所だったのかもしれません。

蘇鉄は冬季にこも巻きをするように寒さに弱い植物です。
山間部の柳谷観音楊谷寺で育てるのは大変だったでしょう。

2023年の柳谷観音楊谷寺のインスタ映えする大注目イベントはアンブレラスカイです。

アンブレラスカイとは、空にいろんな色や模様の傘を並べるイベントです。

もともとはポルトガルのイベントですが、近年はインスタ映えするイベントとして日本でも梅雨シーズンを中心に各地で行われるようになっています。

2023年の柳谷観音楊谷寺では、フェリシモとの共催で「紫陽花の傘」によるアンブレラスカイが行われています。

あじさいの階段

2022年からは、柳谷観音楊谷寺に新たにインスタ映えするあじさいの階段が登場しました。

本堂奥にある眼力稲荷社の脇の階段に、ポットのあじさいが並べられます。

楊谷寺ではお寺の補修にクラウドファンディングを行っています。

資金集めのためには集客が必要で、さまざまのアイデアが出されています。

楊谷寺へのアクセスは公共交通機関はなく徒歩での参拝となります。

阪急長岡天神駅から約1時間の行程です。

タクシー利用の場合。

阪急「西山天王山」より約10分
阪急「長岡天神」より約15分
JR「長岡京」より約15分

もう一つ毎月17日の縁日のみシャトルバスがセ運行されます。

阪急「西山天王山」、JR「長岡京」より運行  志納金として300円を支払う。

25人乗りの小型バスによる運行で効率は悪い、満員になると出発するのでバスが帰ってくるまで待つことになります。

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洛西の名刹 正法寺


天平勝宝5年(753)奈良唐招提寺に住持された鑑真和上が中国の唐より渡来されました。

その鑑真和上とともに渡来された高弟、智威大徳が隠棲された地として、正法寺は天平勝宝6年(754)に開山され、当時は春日禅房と称されていました。

その後、伝教大師最澄が長岡京の守護寺院である「大原寺」を建立した際、春日禅房も大原寺の塔頭寺院の一つとして組み入れられました。

その後応仁の乱により焼失したものの、江戸時代に再建され正法寺と改められました。

中でも江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院が大原野の出身で深く帰依された。
そのため徳川家の祈願所として徳川家からの文書等も残ります。

庭園「鳥獣の石庭」

本堂前に広がる石庭は最近の作で「鳥獣の石庭」とよばれ、動物の形をした石が配され、枯山水などといった形式にとらわれないつくりとなっている。

境内や庭園には、合計200トンを超える多数の巨石が配置されており、通称’石の寺‘とも呼ばれています。

大手水鉢

江戸時代に日本最大の財閥を形成した旧大坂商人「鴻池家」伝来といわれる手水鉢

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西行ゆかりの寺 花の寺勝持寺


大原野神社から2~3分山道を進むと勝持寺への参道に合流します。
合流する手前に橋が架かり鳥居が建っています。

『勝持寺は、小塩山の東麓、標高130~170mに位置し、寺伝では役小角の開創といわれる山林寺院です。

京都第2外環状道路の新設工事に先立って、平成22年(2010)から平成24年(2012)にかけて、勝持寺の旧境内にあった子院跡と推定される場所で発掘調査が実施されました。

調査では、建物・井戸・石垣や石塁などが見つかり、当該地において鎌倉時代から室町時代の複数の子院跡の存在が確認されました。
この奥に石塁の一部を移築して保存しております。

勝持寺は京都の西南郊外の大原野に位置する。

勝持寺は古くから桜の名所として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。

寺伝では天武天皇8年(679年)に天武天皇の勅によって役小角が創建したと伝えられる。

その後延暦3年(784年)に大原野神社が創建されると、勝持寺は大原野神社の別当寺とされ、延暦10年(791年)に桓武天皇の勅により最澄が再興して小塩山大原寺と称したという。

保延6年(1140年)10月、佐藤義清が当寺で出家し、西行となっている。
>
勝持寺は古くから桜の名所として知られ、西行ゆかりの寺として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。

平安時代の仁寿年間(851~854)に仏陀上人が伽藍を復興したと伝えられています。

堂中には薬師如来像・金剛力士像・日光菩薩像・月光菩薩像・十二神将像・西行法師像といった重文がずらり。

室町時代には、足利尊氏の帰依などにより寺運は隆盛し、現在の勝持寺の周辺には多くの子院(本寺に付属する小寺院)が存在したといわれています。

不動堂へ上がる石段の下、小さな池の奥に鏡石が在ります。

鏡石は、西行が勝持寺で出家し、この石を鏡の代わりに使って頭を剃ったと伝わります。

瀬和井の泉 – 西行が髪を剃った後にこの泉で自らの出家した姿を見たという。

不動堂前の石段を下って、右側に進むと小さな池の中に石の観音像が祀られています。

この観音像は魚籃観音(ぎょらんかんのん)で、魚籃とは魚を入れる籠のことで、組み合わせた手に籠を持っています。

三十三観音の一尊である馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体とされています。

中国・唐の時代、魚を扱う美女が、観音経・金剛経・法華経を暗誦する者を探しだし、結婚しましたが、まもなく亡くなりました。

この女性は、法華経を広めるために現れた観音とされ、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになりました。

鳥羽上皇に仕えていた北面の武士佐藤兵衛義清が、保元6年(1140)当寺に於いて出家し、西行と名を改めして庵を結び、一株の桜を植えて吟愛していた。

世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになった。

鐘楼堂
西行桜 – この桜の横に西行の庵があったという。
現在の桜は3代目である。

西行と桜の老精とのやり取りを描いた、室町時代の世阿弥作・謡曲「西行桜」の舞台となったところだと云われています。

「花見んと むれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがにはありける」西行法師

鐘楼堂の脇の石段を下りると、小川(三春川)があり石橋が架かっています。

「仁王門」は、応仁の兵火を免れた仁寿の旧構を残す勝持寺最古の建造物になっている。

戦国の争乱をも睨み続けてきた仁王さん。
痛々しく傷ついても、なお迫力満点の風貌。

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法金剛院のハス
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吉野奥千本は雨でした
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ぶらり退蔵院


玄関に網代笠(あじろがさ)があった。

そして中に入ると「旅」と題するぶんが掲げてある。

土に帰るたびか・・考えさせるね。

方丈への入口の門は「袴腰(はかまごし)造り」と呼ばれ、唐破風造りの破風の曲線が直線になってる非常に珍しい様式。

当時は、法要儀式や高貴な方々の出入り以外は使用されなかったそうです。(重要文化財)

なにか意味あり気な置物だ。

涼しそうな座布団。

見上げるときれいな青空、先ほどまでとうってかわって・・・

紅い紅葉が印象的。

余香苑へ。

陰陽の庭(陰)は、黒砂

黒砂が敷き詰めれれた枯山水庭園で、陰陽道における「陰の数=偶数」の象徴である8つの石が配されています。


瓢箪型が可愛いお茶席の小窓。

2016年春「妙心寺退蔵院のさくら特別拝観」
退蔵院ではこの時期、お食事つき特別拝観プランが行われている。 退蔵院の目玉で国宝 … 続きを読む →


お茶席のお部屋は、庭園全体を見渡せるように障子の下半分にガラスをはめ込んだいわゆる「雪見障子(ゆきみしょうじ)」になっており、座りながら庭園の風景を楽しめるように工夫されていました。

前の庭の景色がリフレクションになっている。

この景色が写り込んでいる。

昭和の名作庭家・中根金作(なかねきんさく)によりデザインされた、池泉回遊式の余香苑(よこうえん)が眼前に広がります!

この方は「昭和の小堀遠州(こぼりえんしゅう)」とも呼ばれており、日本庭園ランキングで16年連続で1位を取得している足立美術館(あだちびじゅつかん)の庭園を手掛けたことで有名です。

退蔵院は、応永11年(1404)に無因宗因禅師を開山として建立されたお寺。

「退蔵」という言葉には、「価値あるものをしまっておく」という意味があるそう。

これは、陰徳(人に知られないようにして善行をする)を積み重ね、それを前面に打ち出すことなく、心に秘めながら布教することを表しているらしい。

先ほど方丈でお参りしていた人達がお庭見物にやってきた、そろそろ場所を開けるか。

空が抜けるように青い。


門前に佇む僧侶、鯰について聞いてみた・・・・

退蔵院の目玉で国宝に指定されている『瓢鮎図(ひょうねんず)』。

「ただでさえ捕まえにくいなまずを、こともあろうに瓢箪で捕まえようとする。」この矛盾をどう解決するか、将軍義持は当時の京都五山の禅僧31人に賛詩を書かせました。

高僧連が頭をひねって回答を連ねた様子は正に壮観です。

宮本武蔵は妙心寺の住持になられた愚堂東寔禅師のもとへ参禅に足を運びました。

愚堂東寔は妙心寺で三度住職をお勤めになられましたが、武蔵が教えを求めに上洛したときに、退蔵院所蔵の瓢鮎図を目にしたのではないかと伝わっています。

武蔵自作とされる刀剣の鍔が岡山県美作の「宮本武蔵資料館」に現存しておりますが、それには「瓢箪と鯰」がくっきりとデザインされています。

武蔵の里
長躯、岡山まで遠征、武蔵の里到着。 武蔵の里は岡山県美作市宮本の宮本武蔵生誕伝承 … 続きを読む →

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梅雨期の龍安寺 緑がきれいです


京福電鉄 龍安寺駅から徒歩で訪問、石畳がとてもきれいです。

最近は石畳に熱を上げています。
微妙にカーブしたところなど心憎いばかリ。

本来は帰路に使う鏡容池から逆回りに辿る。

緑が映り込みとてもきれいです。

池には一面にハスの花が咲いています、そして古い小屋にはもやい舟も見えます。

5月から6月の限られた期間中に、鏡容池で見頃を迎えるのが睡蓮の花。

池一面に咲き誇り、雨が降る中でも思わず足を止めてカメラのシャッターを切りたくなるほどの美しさです。

参道は緑の森。

綺麗な石畳の階段から参拝します。

インバウンドに修学旅行生、境内は大混雑です。

寺務所の白い壁面に緑が映える。


隣は勅使門、エリザベス女王訪問時にはこちらの勅使門から入場されました。

イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975年)に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。

女王が石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道され、石庭の名はまたたく間に知れ渡り、現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となった。

方丈の座席は多くの人で埋め尽くされています。

方丈広間の襖絵。

石庭の作庭意図には“禅の精神”や “「心」の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく、今だ謎のままである。

しかし、この謎こそが、この庭の解釈をめぐり人々を引きつけてやまない理由だろう。

龍安寺は宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天を開山に招き創建された。

平成6年(1994年)世界文化遺産に登録。

後に宰相となった「張商英(ちょうしょうえい)」の参禅を指導した「従悦禅師(じゅうえつぜんじ)」が、中国北宋の龍安山兜率寺(とそつじ)の禅師だったことが龍安寺という名前の由来。

参禅とは、禅堂を学ぶことや坐禅を組むことを指します。

茶室蔵六庵前にある徳川光圀の寄進とされる「つくばい」は、中心の「口」の字を共用し「吾唯知足(ワレタダタルヲシル)」と読み、禅の格言を謎解き風に図案化されたものといわれる。

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玉川堤の桜


日本六玉川の一つとして知られる「井手の玉川」は、「平成の名水百選」にも選ばれた桜の名所。

堤防両岸約1.5kmにわたり約500本の桜が植えられており、多くの花見客が訪れる。

日本六玉川

川の名。全国に6か所あり、総称して六玉川むたまがわという。

宮城県塩釜市・多賀城市を流れる、野田の玉川。
東京都を流れる、調布たつくりの玉川(多摩川)。
滋賀県草津市を流れる、野路の玉川。
京都府綴喜つづき郡を流れる、井手の玉川。
大阪府高槻市を流れる、三島(千鳥)の玉川。
和歌山県高野山奥院付近を流れる、高野こうやの玉川。

また、桜のあとは、ヤマブキが咲くことでも有名。

観光客が河原に降りて花見をしたり、弁当を食べたり楽しんでいる。

玉川の上にトンネルが被ったよう多々多々だ。

藤原俊成(ふじわらのとしなり)は、「駒 とめて なほ水かはむ山吹の 花の露そふゐでの玉川」と詠んでいる。

玉川堤では、桜の季節「さくらまつり」が行われ、ライトアップもされます。

子供たちは川に浸かってはしゃいでいました。

4月下旬から5月上旬にかけて井手町の玉川両岸の約1500mに、ヤマブキが咲き乱れる。

奈良時代に橘諸兄がこの地にヤマブキを植えたのが始まりと言われ、歌枕として数多くの和歌に詠まれている。


玉川の上流、椿坂の近くに昔、水車があったという場所があります。

小野小町塚

平安時代の歌人で、絶世の美女 小野小町が亡くなった場所については諸説あるようですが、井手町もその一つのようです。

近くにある小野小町の墓では、

「色も香もなつかしきかな 蛙(かはづ)なく 井手のわたりの山吹の花」〔新後拾遺145〕

と記されており。
当時から井手の山吹の花は有名だったことが分かります。


欽明天皇元年(540年)、玉津岡の南に下照比賣命が降臨、そこでお祭りをした「玉岡の社」が玉津岡神社の起源。

その創祀は天平3年(731年)9月であり、創祀者は橘諸兄公とされる。
境内には橘諸兄とその一族の一人楠木正成公を合祭した橘神社がある。

地蔵禅院の桜

曹洞宗の地蔵禅院(じぞうぜんいん)の歴史は古く、白鳳年間(1200年前)井出左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)公によって草創されたと伝えられる。

1727(享保12)年に植えられたと伝わるしだれ桜は、京都市の円山公園にある先代の枝垂桜と親木同士が姉妹木といわれるもの。

創建当初は華厳宗に属していた。

ご本尊の地蔵菩薩は橘諸兄公の持仏。

地蔵禅院は、菜の花とシダレザクラ(早咲き桜)の景色が素晴らし穴場の桜スポットです。


地蔵禅院のしだれ桜は、高台にあるにもかかわらず、玉川沿いのソメイヨシノよりも一足早く開花が始まり、中庭のソメイヨシノや八重桜、自生の山桜などが順に開花してゆきます。

この地蔵禅院の境内からは井手町の集落から木津川、天候がよければ遠く金剛山・葛城山・二上山などが一望でき、大変美しい眺めが楽しめます。


山門の瓦に小さなかわいい花が・・・スミレのようだが。

アジサイの花の枯れたものが風情を見せている。

塀の上のコケもアップでとらえると芸術だ。

町内の玉川堤に咲く山吹を花と葉で描いています。その間には、井手の「井」の字が描かれています。

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霊鑑寺のツバキ


哲学の道は多くのインバウンドに埋め尽くされている。

桜はほぼ満開に近い。

満開の桜をにらみながら霊鑑寺へむかう。

「椿の寺」として知られる霊鑑寺は、承応3年(1654)、後水尾(ごみずのお)天皇の皇女・多利宮(たりのみや)を開基として創建され、歴代皇女が住職を務めた尼門跡寺院。

現在、椿の特別公開が行われている。

霊鑑寺で参拝客を真っ先に迎えてくれるのは、門をくぐってすぐ左正面目に姿を表す梅の古木と散椿の古木。

散りツバキで埋め尽くされた地面は真っ赤です。

庭園入口に設置された椿の花手水は、ピンクや白などのカラーで統一されており、思わずシャッターを切りたくなる可愛さ。

庭園内の小さな手水鉢にも椿が浮かべられています。

その先の玄関は、竹に色とりどり様々な品種の椿の花を活けた花あしらいが飾られています。

かつてここには樹齢400年と言われた日光(じっこう)という椿(京都市天然記念物)がありました。

残念ながら2015年に枯死して今はその姿は見られません。
枯死した日光椿は後水尾天皇も愛でたと伝わる古木椿です。

実物を見ることが叶わず、大変残念に思っている椿の一つですが3メートルほど離れた場所に生えている日光椿は、元の椿と根がつながっていたたので、市の指定天然記念物はこの日光に引き継がれることになったそうです。

無作為に綺麗そうなのをドンドン撮っていきます。


今年はちょうど桜の時期と重なり、桜と椿のトンネルをくぐりながら歩きます。


別名「谷の御所」と呼ばれた格式と清楚な佇まいを今に伝えています。

本堂は江戸幕府十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が寄進したもので、如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)を安置しています。

後水尾天皇が椿を好まれたことから、広い庭内には100種以上の椿が植えられており、日光(じっこう)椿(京都市指定天然記念物)をはじめ、散椿、白牡丹椿、舞鶴椿などが、色とりどりに咲き誇ります。

当寺は、そもそもは後陽成天皇の典侍であった持明院基子の隠居所であった。

その後、寛永20年(1643年)に基子の希望により後水尾上皇によって寺院に改修されることが決められ、翌正保元年(1644年)には上皇の娘である宗澄女王が入り、寺院化が進められた。

承応3年(1654年)5月に霊鑑寺と寺名が付けられると、女王は得度して宗澄尼と号した。
以降尼門跡として5人の皇女が入室している。

御所人形が約200点ほど伝わっており、皇室ゆかりの寺宝も多い。

特別公開の時期、書院は内部へ上がっての拝観可能だが撮影禁止なのですが画像はありません。。

その後、法然院へと向かいます。

途中、安楽寺がありますが特別公開の日がずれているため拝観できません。

安楽寺は、別名松虫鈴虫寺と呼ばれる浄土宗のお寺です。

なぜ松虫鈴虫寺と呼ばれるのか、それはある姫たちに関する悲しいお話が由来となっています。

鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。

1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。

江戸時代初期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。

白砂壇(びゃくさだん)

山門を入ると、両側に白い盛り砂がある。
水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。

当山には椿が多く、特に本堂北側の中庭には、三銘椿(五色散り椿・貴椿・花笠椿)が整然と植えられている。

花期は3月下旬から4月中旬。

三銘椿、春期特別公開 法然院
正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通っている。 … 続きを読む →


さて、両姫のその後ですが、二人は瀬戸内海の小さな島「生口島」の光明坊で念仏三昧の日々を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生しました。

経緯は不明だが住吉にも松虫鈴虫を祀った塚がある。
松虫塚
昔、このあたりは見渡す限りの原野で、秋には虫の声が満ち、特に松虫 (今の鈴虫)の … 続きを読む →

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