出雲の阿国 ゆかりの地をゆく

京都府
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出雲 阿国(いずもの おくに、元亀3年?(1572年) – 没年不詳)は、歌舞伎の創始者といわれる安土桃山時代の女性芸能者。
伝承によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれている。

確実な資料では『時慶卿記』に慶長5年7月1日条に(1600年8月9日)、京都近衛殿や御所で雲州(出雲)のクニと菊の2人が「ややこ踊り」を演じたという記録があり、ここでクニと名乗っていたことがわかる。
慶長8年(1603年)春に北野天満宮に舞台をかけて興行を行った。
男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じるもので、京都で大変な人気を集めた(「当代記」。

この像は、南座から四条通を渡った鴨川べりにあり、平安建都1200年を記念して建てられたものである。
台座に、「かぶき踊の祖 出雲の阿国 都に来たりて その踊りを披露し 都人を酔わせる」とある。山崎正義氏の作品。

1994年(皇紀2654)平成6年京都洛中ライオンズクラブにより建立される。
しかしながら、出雲阿国が実際に興行したのは、北野天満宮と五条河原町であり、四条河原町の地は、後の遊女歌舞伎の興行地であるといわれている。

四条大橋、右手、川端通を超えれば南座があります。

阿国歌舞伎発祥地
京阪電鉄・四条京阪駅前, 四条通りに面して 劇場「南座」がある。
南座の 鴨川に面する西側に, 茶色の丸い石碑が建っている。
室町時代の頃から, 鴨川の河原では 田楽・猿楽の勧進興行が常設的に催されていたが, 1603(慶長8)に この四条河原で 出雲の阿国が「かぶき踊り」を演じたのが現在の歌舞伎の発祥とされている。

1600年代(元和年間)に, 京都所司代により 四条河原町付近に 7つの櫓(座)を開くことが認められた。
その後 何回も大火にみまわれ 7つの座は徐々に数を減らし, 明治に入った時には南座と北座を残すのみであった。

その北座も 明治26年に廃業し,現在の南座のみが残ることとなった。
1906(明治39)年 白井松次郎・大谷竹次郎兄弟の“松竹合名社”(現在の 松竹株式会社)による経営になった。
南座は 桃山風破風造りの建造物で,国の重要文化財にも指定されているわが国最古の劇場である。

(説明板)
阿国歌舞伎発祥地の碑
慶長8年(1603) この辺り鴨河原において 歌舞伎の始祖 出雲の阿国が始めて かぶきをどりを披露しました。
この碑は 昭和28年11月 吉例顔見世興行を前に 歌舞伎発祥350年を記念して 松竹株式会社により建設されたものです。

我が国が世界に誇る文化財歌舞伎を 日本の至宝として 末永く後世に伝えたいという願いが込められております。
碑の文字は 元日本芸術院長高橋誠一郎氏の筆によります。
    歌舞伎発祥400年を記念して
    平成14年11月吉日
               南座敬白

舞台上を見ると、刀を肩にかけたかぶき者、柱のそばに坐す茶屋のかか、頬かむりをした道化役の猿若がおり、これは阿国歌舞伎の代表的演目である「茶屋遊び」が演じられていることを示す。

出雲の阿国が北野社の能舞台を代用して「歌舞伎踊り」を始めたのは慶長8年(1603)、本図はその舞台を描いたもので、制作もそれからさほど降らぬ頃と考えられる。
囃座も三味線などなく、笛、小鼓、大鼓、太鼓ばかりで、いかにも初期的様相を示す。

これは「阿国」を拡大した図。
案外大柄な様子である。
四条川端に立っているブロンズ像とはちょっと雰囲気が違う。
よく歌舞伎の解説本などに、「出雲の阿国がはじめた歌舞伎」とさらっと書いてあるが、実際はこの屏風に描かれている踊りがそのまま今の歌舞伎になったのではではない。

「阿国」の始めた踊りというのは、この頃はやっていた「念仏踊り」や「風流踊り」に男装した女性が踊るという点とストーリーを持った内容であったという点をつけくわえたもの。
今で言う歌謡ショウ的なものだったと考えられている。

しかし、当時の人達には、説法臭い内容でなく、茶屋の様子等が垣間みられる色気のある話だった点が受けてやんやの喝采を受けた。
このころの歌舞伎は、女性によるセクシャルなもので、儒学を重んじる徳川幕府などにより、女性による歌舞伎は禁止された。

この阿国の踊りはその後「女郎歌舞伎」や「若衆歌舞伎」と成って行き、その「傾く」という要素が強調され、幾度の禁止令をかいくぐって、「野郎歌舞伎」となり、阿国とは逆の男性が女装する「女形」を登場させ、浄瑠璃なんかの要素もいれて、今の「歌舞伎」の様式となっていった。

昨年まで笠(かさ)をかぶった巫女(みこ)姿だったが、60年前に行列に登場して以来初めてデザインを一新。

慶長年間に描かれた「歌舞伎図巻(ずかん)」を基に、舞台衣装をまとった阿国の姿をそのまま再現した。

新しい衣装は、タンポポの葉と扇を散らした小袖に、牡丹(ぼたん)唐草を描いた胴衣(どうい)を重ねた豪華な仕上がり。
首から下げる金襴(きんらん)の掛守(かけまもり)や、金箔(きんぱく)を施したヒョウタン、朱色の柄の太刀など、きらびやかな装飾品が華を添える。

費用は450万円とか。

昨年までの時代祭りでの扮装は 徳川家の所蔵品等の資料をもとに、京都大学の教授により考証されたもの(時代祭パンフより)だそうです。 

この人は平安の女性に比べるとずっと時代は新しく関が原の合戦の頃の人物なのですが、その神秘性から日本神話の時代の女性のような気がします。

後ろに従えたお弟子さんがこれでもかという華麗な服装をしているあたり、おしゃれのセンスに共通するところがありますね。

郭巨山の第二装
天明期の第一装の損傷が大きくなり、昭和時代から平成にかけて新調事業が行われた。
後掛に阿国歌舞伎図、桃山時代初期の歌舞伎の観劇が描かれている。

祇園祭の懸装品では珍しい最初の風俗画。
1991年(皇紀2651)平成3年京都国立博物館に所蔵されている重要文化財を下絵にして新調される。

阿国自身は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえた。
慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある。

没年は慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。
出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。
また、京都大徳寺の高桐院にも同様に阿国のものといわれる墓がある。

細川家墓地から藪を挟んだ裏手には非公開の墓地があり、阿国の墓は恋人と一緒にその中にある。
旧暦4月15日(現在では新暦4月15日とも)が「阿国忌」といわれている。

岡山県津山市に「にらみあ合いの松」の伝承が伝わる。
名古屋 山三郎(なごや さんさぶろう)は、安土桃山時代の武将。
蒲生氏、森氏の家臣。

出雲阿国の愛人といわれ、ともに歌舞伎の祖とされている。
この時、山三郎は宇右衛門を殺すように忠政より命令され、忠政から直々に刀を賜っている。
その後、工事現場において宇右衛門と居合わせた山三郎は喧嘩口論の末に抜刀して襲い掛かるが、逆に宇右衛門に切り伏せられ死亡する。

宇右衛門も居合わせた森家の人間にその場で斬り殺された。
享年は28とも32とも伝わる。
なお、嗣子の名古屋蔵人は後に森家を去り、前田利常に3000石で召し抱えられ、子孫は加賀藩士となって代々名越姓を称した。

ところが通行人に変事が続くので道を北へ移し、塚は田んぼの中となり南に井戸、北に名護屋と並び、一方が栄えると一方が弱まるところから「にらみ合いの松」と呼ばれるようになった。

出雲の阿国が郷里に帰る途中この墓に詣でて涙したと伝えられている。
参考記事太平記で有名な作楽神社

山三郎と阿国の恋~清元「津山の月」
日本舞踊の演目に「津山の月」という清元がある。
登場人物は二人。津山藩士名古屋山三郎と出雲阿国(いずものおくに)である。

山三郎と阿国は相思相愛の仲。
京の都で出会った二人は、山三郎が津山藩初代藩主森忠政に仕官したことから、別れ別れになっていた。

出雲街道を西へ、ようやくたどり着いた津山で、阿国は久方ぶりに山三郎と再会を遂げる。
夜空には二人の逢瀬を見守る、津山の月があった。
月明かりのもとで、美しい恋人同士が艶やかに舞う。

振付は、7世坂東三津五郎。
大正13年に初演されたこの踊りは、時を超え、流派を超えて、今もなお踊り継がれている。
月は「津山の月」が最高である。
若いカップルにとっては・・・・・・・・・・・

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