アジサイと羅漢の寺 正俊寺


正俊寺は枚方市長尾宮前に所在する曹洞宗の仏教寺院。

十三重石塔が大阪府の有形文化財に登録されている。

石塔には「嘉歴二年」(1327年)と刻まれ、鎌倉時代の作とされる。
元は久貝家の領地だった讃良郡中野村(現四條畷市)の正法寺にあったものを移設したと伝わる。

ユニークな封じ込めの穴。

この場所で辛いこと悲しいこと人には言えないような事柄・愚痴・小言・わだかまりなど気持ちを言葉に出しこの筒に向かって大声で発散してからお帰りくださいくださいとある。

また発散したくなったらお出かけください。
言葉を発した後は蓋をすることを忘れずに。

五百羅漢とは仏教で供養尊敬を受けるに値する500人の人々。

第1回,第4回の仏典編集会議に集った人々がそれぞれ 500人であったことから両会議の参加者をさしていう。

いずれも、それぞれの能力を生かして正法を後世に伝える役割を担っている。

深山にこもってひたすらに修行に励むその姿は、肉は落ち粗末な衣服を身にまとってはいるけれども、超人的なさまざまの能力を得て、仙境に遊ぶような風貌である。

仏教では、阿羅漢でない者が、自分が阿羅漢でないことを知っていながら、故意に阿羅漢を名乗ることを「大妄語」とし、最も重い波羅夷罪を科して僧団追放の対象とした。

五百羅漢像は「亡き親、子供、愛しい人に会いたくば、五百羅漢にこもれ」と言われるほど、必ず自分の探し求める人の顔があるといいます。

じっくりとその顔を覗いてみましょう。

文末に羅漢に合える寺を列記しています。





羅漢に合える寺

春の一日 建仁寺
京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。 山号を東山(とうざん)と号する。 … 続きを読む →

建仁寺本坊には、陶製の十六羅漢像が奉納されています。

黄檗山 萬福寺
萬福寺は、京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。 山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、 … 続きを読む →

入母屋造。2階建てに見えるが一重裳階(もこし)付きである。
本尊釈迦三尊像(脇侍は阿難と迦葉)、十八羅漢像を安置する。

高取城の護り五百羅漢
西国三十三所巡礼の札所であり、眼病封じのお寺としても知られる『壷阪寺』。 本堂か … 続きを読む →

この五百羅漢岩がいつ頃のものかは確かな記録は遺されていないようです。
16世紀末ごろ、豊臣家の重臣・本田利久が高取城を築城した際に、石工たちに命じて掘らせたという説が有力とされているとか

愛宕念仏寺
愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)は京都府京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の仏教寺院 … 続きを読む →

本尊は厄除千手観音、別名千二百羅漢の寺。
愛宕山参道の山麓の入り口に位置する嵯峨野めぐりの始発点として知られる。

黄檗宗百丈山(ひゃくじょうざん) 石峰寺 石仏五百羅
宝永年間黄檗第6世千呆性侒(せんがいしょうあん)の創建。 寛政年間に画家伊藤若冲 … 続きを読む →

寺の境内裏山にある若冲の五百羅漢は磊落な筆法にて下絵を描き石上に彫らせたもので釈迦誕生より涅槃に至るまでを中心に釈迦の一代記を描いたもので、長年の風雨を得て丸み、苔寂び、その風化を伴い表情や姿態に一段と趣を深めている。
五百羅漢は撮影禁止です。

念仏小僧と羅漢像 西教寺
寺伝では、聖徳太子(574-622)が創建し、のちに天智天皇(626-671)か … 続きを読む →

羅漢とは修行した僧の、最高位に達した僧を云う。
大岩と大石を配した岩は「雲雷鼓掣電、降雹樹大雨」(観音経の一句)の中で菩薩が大衆に向かって説法している場面を表している。
菩薩(石座)から羅漢に説法を説いている一面である。

嵐山羅漢
天龍寺の近くで見かけたかわいい地蔵さん。 京都・嵯峨野の宝厳院の前に嵐山羅漢とい … 続きを読む →

京都・嵯峨野の宝厳院の前に嵐山羅漢という珍名所があります。

3羅漢とアジサイの寺 正俊寺
境内には立派な涅槃像もある。 久貝因幡守正俊を弔い、息子である正世が建立した久貝 … 続きを読む →

境内には羅漢さんの像があり、そばには約1万5000枝のあじさいが植えられている。

羅漢像に会える興禅寺
興禅寺は、行基が開いたとされる曹洞宗の寺院。 南海高野線美加の台駅を下車して、徒 … 続きを読む →

多数の羅漢像も圧巻です、静かにお顔を拝見していると、なにやら話し声が聴こえてきそうな気配。

黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝ゆかりの 金地院
金地院(こんちいん)は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。 小堀遠州作 … 続きを読む →

開山堂内。正面に後水尾天皇の勅額、左右に十六羅漢像が安置され、奥中央に崇伝像が祀られています。

早咲き六角堂の御幸桜
頂法寺は、天台宗系単立の仏教寺院。 山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。 西 … 続きを読む →

本堂の東側にある十六羅漢。
羅漢は、仏の教えを守り伝えることのできる優れた僧に与えられる名前。
十六は四方八方を倍にしたもので、いたるところに羅漢がいる意味とされる。

荒城の月 瀧廉太郎の町 豊後竹田の散策
周辺はくじゅう連山・阿蘇山・祖母山・傾山などの1,000m級の山岳に囲まれた、竹 … 続きを読む →

石段の右側、自然石の上に石造十六羅漢が並んでいます。

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宝泉寺 十三仏


住吉大社の近くに建つ宝泉寺は、982年往生要集を著した恵心僧都(源信)が念仏坊という草庵を開いたのが起源と伝えられているが、1571年宝泉和尚が宝泉寺として再興したのが実質上の開創といわれている。

十三仏は 元亀年間(1570~73)に、旧住吉村字石本(神ノ木駅付近)にあった巨石を刻んだもので、釈 迦如来以外の十二仏は「干支の守り本尊」として信仰されています。

十三仏を彫り出す例としては、板碑に刻む例が多く、南北朝時代から始まったといわれている。

宝泉寺の十三仏石仏は、16世紀後半~17世紀初期に彫られたと推定されている。

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嵐山羅漢


天龍寺の近くで見かけたかわいい地蔵さん。

京都・嵯峨野の宝厳院の前に嵐山羅漢という珍名所があります。

宝厳院の呼び掛けで、日本各地の個人や企業がそれぞれ思いを石仏に託しを奉納したもので、変わった風景が広がっています。

不気味ではありますが神秘的です。

500人の羅漢およびその群像。
十六羅漢という呼称もある。

十六羅漢は、仏法を護持することを誓った16人の仏弟子で、五百羅漢は、仏の滅後に行われた第1回目の経典編纂(結集(けつじゆう))に集まった仏弟子を指すといわれる。

いずれも、それぞれの能力を生かして正法を後世に伝える役割を担っている。

深山にこもってひたすらに修行に励むその姿は、肉は落ち粗末な衣服を身にまとってはいるけれども、超人的なさまざまの能力を得て、仙境に遊ぶような風貌である。

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孝恩寺(観音寺)釘無道


国宝に指定されている観音堂は、もとは「観音寺」と称し、孝恩寺とは別個の寺院であった。

旧・観音寺は「和泉名所図会」のような近世の文献には「木積観音」(こつみかんのん)とあり、奈良時代の神亀3年(726年)、行基による開基と伝える古寺。

現存する観音堂は「木積の釘無堂」と呼ばれ、鎌倉時代の密教建築様式を伝える貴重な文化財として国宝の指定を受けている。

なお「釘無堂」とは建築に際し釘を使用していないとの意味であるが、伝統工法の木組みを用いた社寺建築では、構造部分に釘を使用しないのは必ずしもこの堂に限ったことではない。

境内の宝物館には、仏像など国の重要文化財19件を所蔵・展示している。

行基の開創伝承をもつ寺は奈良県西部から大阪府南部にかけて多数存在し、観音寺もその1つで、「行基建立四十九院」の一つとされている。

付近の地名を「木積」というが、これは行基が多数の寺院を建立するにあたり、山から切り出してきた材木の集積場であったことに由来する地名であるという。

平安時代初頭までに七堂伽藍が揃っていたが、室町時代に山名氏や大内氏らの戦火に巻き込まれ大半の建物を焼失、安土桃山時代には根来寺の傘下にあったがために、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めで観音堂以外のほぼ全ての建物を焼失した。

この際に、仏像を薬師池に沈めて消失を免れた、という逸話は地元の人間には有名な話である。

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1200体の羅漢 愛宕念仏寺

境内の1200体もの羅漢さんは、寺の復興を祈念して昭和54年から10年間、1200人の一般の参拝者自身の手によって彫られた。

愛宕山参道は古い家並みも残り風情のある景観が楽しめる。

一の鳥居と平野屋、目的地まであと少し。

愛宕念仏寺は嵯峨野では一番奥に位置するので嵯峨野めぐりの始発点として訪れるのがいい。

愛宕念仏寺付近の観光名所
化野念仏寺(800m ⇒ 徒歩10分)
鳥居本八幡宮(1.2km ⇒ 徒歩16分)
祇王寺(1.5km ⇒ 徒歩20分)
滝口寺(1.5km ⇒ 徒歩20分)
二尊院(1.4km ⇒ 徒歩18分)
宝筐院(1.8km ⇒ 徒歩21分)
清凉寺(1.9km ⇒ 徒歩23分)
大覚寺(2.2km ⇒ 徒歩26分)
直指庵(2.6km ⇒ 徒歩34分)

※距離、時間はおおよその目安。

8世紀中頃、称徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建。
平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたらしい。

すでに荒れ寺となっていた上に、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失。

廃寺同然を、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。
千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗に属した。

この際いったんは七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えたが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。

1922年それらを移築して現在地での復興を目指すが失敗。
あまりの荒れように、1955年に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝も、引き受けるのをためらったという。

それを清水寺貫主・大西良慶の「それだけ傷んでおれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、おまえは復興者、復興者やといってもらえる。

わしも手伝ってやるから」(※)の激励で復興に取りかかった。

以来、仏師として全国を飛び回る傍ら、本堂、地蔵堂、仁王門などを整備した。

素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』が始まったのは、1981年。

当初は五百体が目標だったが、10年後には千二百体に達した(※西村公朝『仏像は語る』新潮社、1993年8刷、212頁)

苔がいい感じです、表情に癒されます。

多宝塔と1200羅漢。

本堂前にあるふれ愛観音堂に入ると、堂内にふくよかなふれ愛観音像が安置されています。

手垢で黒光りしている部位は皆さん共通に悩みを抱えている部位かな。

一体一体がとても個性的、カラオケでもやっているのかな。

一つとして同じ羅漢さんはなく、訪れる人々を和ませてくれます。

ほのぼのとさせてくれる素朴な羅漢。

草に埋もれて眠りたい。

帰路、チャノキを見つけた。

チャノキ(茶の木、学名:Camellia sinensis)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。

花は10-12月初旬ごろに咲く。
そのため「茶の花」は日本においては初冬(立冬〔11月8日ごろ〕から大雪の前日〔12月7日ごろ〕)の季語とされる。

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愛宕念仏寺へのアクセス、行き方歩き方

愛宕念仏寺公式サイト

京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5
電話 075-865-1231

阪急嵐山線 嵐山駅から嵐電嵐山駅経由の京都バス清滝行で18分、「愛宕寺前」下車すぐ
JR京都線 京都駅から京都バス72番清滝行で60分、「愛宕寺前」下車すぐ

弥勒谷十三仏


柳谷参詣道から、古刹「乗願寺」への岐れ道角に苔むした石仏がある。

弥勒谷十三仏と言われるもので、岩壁に不動明王・大日如来・地蔵菩薩など13体の仏様が安置されています。

十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、江戸時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる13の仏(正確には仏陀と菩薩)。

また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられる。

死亡した時を1日目として数え、初七日は命日から7日目(6日後)。
他の日数・年数も(一周忌以外は)全て同様。(関西地方では、死亡した日の前日から数えることもある)

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石位寺 最古の石彫り三尊仏


大宇陀に向かう166号線は、外鎌(とがま)山と鳥見山に挟まれた峡谷に入って行く。
峡谷の入口から外鎌山の西麓を粟原川に沿って続いている集落がある。

桜井市大字忍阪である。この集落の中に、我が国の最古の石仏を安置していることで知られる石位寺がある。

収蔵庫に安置されている本尊は、白鳳時代に製作された薬師三尊であると伝えられている。
我が国に現存する最も古い石彫りの三尊仏で、国の重要文化財に指定されている。

三尊を刻んだ石版の大きさは、高さ1.15m、幅1.5m、底辺1.21m、厚さ約0.2mで、丸みをおびた砂岩製である。

石仏の願主は万葉歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)だったとの伝承がある。
額田王の念持仏として作られ、もとは栗原寺(おおばらでら)にあったが、栗原川の氾濫で流されてきたというのだ。

栗原寺は、和銅8年(715)に比売朝臣額田(ひめあそんぬかた)によって川上の粟原集落に建立された寺だが、比売朝臣額田が額田王であるとする言い伝えが古くからある。

造型は、長谷寺の銅盤法華説相図中の三尊物とよく似ているという。

三尊とも薄い法衣を通して内部の肉体の起伏がよく現れており、布の質感も巧みに描かれています。
彩色されていたらしく、その痕跡が像の唇と着衣にわずかに残る美しい石仏です。

川端康成が 晩年 この石仏を一見しほのぼのとした暖かいものがある 美少女といった感じでもあろうかと言ったという。

≪南東部石碑群≫
4基の石碑は、右から3基は「西国三十三所巡礼供養碑」
 
西国三十三所観音霊場を供養した記念碑的要素が強いもの。

右より戦国末~江戸前期のもので法名を刻み、二つ目は江戸時代初期・正保4年(1647)で物故者供養、三つ目は寛文4年(1664)で俗名で構成されたもの。

これらの石碑は、もともと境内の北西隅にあったもので、昭和53年の建て直し時に移設されたもの。
 
左端の石碑は、庚申講衆碑で、大型ですが浅い梵字の形状、半肉彫りですが形骸化した蓮弁などから16世紀後半頃の戦国末から江戸前期のももと推定できます
 
これは昭和28年の国道165号線開通による現・庚申堂の移転に伴い、移設されたもの。

人家の屋根越しに舒明天皇押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)が見える。

粟原川(忍坂川)の谷には非蘇我系皇族の忍坂王家の人々の墳墓と思われる古墳が数多く存在する。

被葬者別に 並べると、大伴皇女墓、段の塚古墳(舒明天皇陵)。鏡王女墓の三陵墓(但し鏡王女墓は現在は指定外)があり段の塚古墳は舒明天皇と、母の田村皇女の合葬の為4人の皇族が葬られています。

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石位寺へのアクセス、行き方歩き方

桜井市忍阪870
予約必要(予約先 桜井市役所観光まちづくり課 電話0744-42-9111)

JR・近鉄桜井駅南口から菟田町行きバス、「忍阪」バス停下車、徒歩2分

高取城の護り五百羅漢

西国三十三所巡礼の札所であり、眼病封じのお寺としても知られる『壷阪寺』。

本堂から1キロ余、山径を東へ廻ると高取山の山中、高香山に奥ノ院がある。
堂字は残されていないが、五百羅漢両界曼荼羅の石仏像があり幽玄な趣が漂っている。

この山道は大淀古道の呼ばれる旧道ですが、かつての生活道路も、今はたまにこの地を訪れるハイカーしか利用しなくなると、けもの道かとも思えるほどの大悪路となっている。

倒木が残されたままの所が何か所もあり、ハイカーのために設けられた階段が深くえぐられている所も多く残ってしまった。

こうした仏さまは、山中の20ヶ所くらいにも及ぶというのですから、全部で何体あるのか想像もつきません。
周遊コースのようになっていますので、ぜひ歩いて色んな仏さまにお会いしてみてください。

画像はお地蔵さんで新しいものです。

この五百羅漢岩がいつ頃のものかは確かな記録は遺されていないようです。
16世紀末ごろ、豊臣家の重臣・本田利久が高取城を築城した際に、石工たちに命じて掘らせたという説が有力とされているとか

また、その周辺の岩に三尊像・五社大神・来迎如来・施無畏像・護法大黒など、たくさんの磨崖仏が刻まれています。

過去の高取町の訪問記は下記です。

土佐街道 高取町の町を散策
高取町の「土佐」は飛鳥時代、都造営のために連れて来られた土佐(現在の高知県)の人 … 続きを読む →

日本最大の山城 高取城
「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた高取城。 日本国内では最 … 続きを読む→

苔むす石垣に名城の面影を偲ぶ 高取城
高取城は別名、芙蓉城ともいわれ近世山城の典型としてよく知られ、巽高取雪かと見れば … 続きを読む→

お里沢一の霊蹟 壺阪寺
本尊十一面観音は眼病に霊験があるといわれ、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃 … 続きを読む→

高取・土佐街道 「町家の雛めぐり」
2007年から、始まった「町家の雛めぐり」は、今回で8回目。 100カ所の会場で … 続きを読む→

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壺阪寺へのアクセス、行き方歩き方

壺阪寺公式サイト

近鉄吉野線「壷阪山」駅下車。
駅前から、奈良交通バス「壺阪寺前」行きに乗車し、終点の「壺阪寺前」で下車する。
バス乗車時間約15分。
12月~2月の冬期期間のバス運行頻度は極端に少ないので、この期間中、路線バスは事実上利用できないと考えた方がよい。

石畳の旧柳生街道「滝坂ノ道」を歩く

奈良から春日山を越えて、忍辱山(にんにくせん)円成寺を通り西から柳生へ至る、通常「旧柳生街道」と言われている道の途中が「滝坂ノ道」で、風流な石畳の道だが少ししんどい山道だった。

日曜日の奈良公園は家族連れも多く子供たちが鹿と戯れる姿が見受けられた。

白乳(しらち)神社、春日大社の摂社で、(婦人)の腰から上の病に、赤乳神社は腰から下の病にご利益があるという。

石畳道が木立の中に続く。

能登川(左)沿いの滝坂の石畳道を進む。

川霧が立ち込めるような場所もあり木立の道は涼しい。

寝仏、道ばたのなにげない石の裏側に大日如来が横に刻まれています。
近くの四方仏の一体が転がり落ちたといわれ、室町前期の作です。
(案内板より)

「夕日観音」の案内板がある場所から見えるのは二つの三体地蔵と地蔵菩薩磨崖仏。

その二つの石仏の更に高いところに来迎印の阿弥陀如来像はあります。
鎌倉中期の作で像高1.6m胸に卍があり来迎印を結んでいるそうですが定かではありません。

朝日観音、対岸の岸壁に彫られているのは朝日観音。

これは早朝高円山の頂からさしのぼる朝日につま先に照らされることから名付けられたもので、実際には観音ではなく中央は弥靭仏 左右は地蔵仏です。

この石窟には文永二年(1265)の銘があり、鎌倉時代の石彫の代表的なもので、この下の夕日観音と同じ作者と思われています。

大木の根がタコ足状に地面にはい出た三叉路。

谷川沿いのこの道は滝坂道と呼ばれ、江戸中期に奈良奉行によって敷かれた石畳の道は、昭和の初めまで柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背につけて下り、日用品を積んで帰っていくのに使われたものです。

荒木又右衛門が試し斬りしたと伝えられる首切地蔵です。
彫刻の手法から鎌倉時代の作と思われます。

休憩所の脇に滝坂道の案内板が建っています。

休憩所より1キロ強行くと峠の茶屋(石切峠)に着く。
石切峠の近くにある茶屋。

家のカモイには、古めかしい鉄砲や槍が掛けられ、武芸者が飲み代のカタにしたという。
神道無念流を図解した武芸帳もあります。

近くの誓多林(せたりん)や大慈仙(だいじせん)の集落の名は、インドの聖跡から付けられたといわれています。
(案内板より)

今回はここから引き返しますが来た道とは別の道を進む。
道は鎖場となっており鎖に掴まって通ります。

地獄谷聖人窟(石窟仏)、聖が住んでいたという伝承から「聖人窟」とも呼ばれています。
 
東大寺の大仏殿を造る石を切り出したあとの洞に線刻したものだと言う説もある。

史跡 地獄谷石窟仏(聖人窟)
1、年代 奈良時代後期(藤原時代)-推定
2.作者 未詳
3、 仏像
   凝灰岩層をくりぬいた石窟で側面に仏像が線彫されている。
   聖(ひじり)が住んでいたという伝説があり、聖人窟ともよばれる。
   向かって右側壁 妙見菩薩坐像
   奥壁右      十一面観音像
   中央        廬舎那仏
   左         薬師如来
弥勒仏は石仏で作られることから、中央廬舎那仏は弥勒仏という諸説がある。 
今も彩色が残っている。
          (近畿中国森林管理局 奈良森林管理事務所)


急な坂を下って、なおも行くと、奥山ドライブウエイの広い道に出ます。

「首切地蔵」の立っている直ぐ上が「地獄谷園地」です。
かなり高い所(標高366m)なのに「新池」があり、能登川の源流です。

先ほど上った石畳み道を奈良公園へと急ぐ。

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臼杵磨崖仏

臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)は、大分県臼杵市深田にある4群60余躯の磨崖仏。
一般には臼杵石仏(うすきせきぶつ)の名で知られている。

磨崖仏造営の時期や事情を証する史料は一切残っていない。

地元に伝わる「真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)」は、用明天皇が登場することから6世紀後半が舞台と考えられるが、この伝説では長者が亡くなった娘の菩提を弔うために磨崖仏を彫らせたという。

しかし、実際の磨崖仏は、仏像の様式などから大部分は平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定されている。

山岳仏教の衰退と共に忘れ去られてしまった磨崖仏は1000年の風雨に曝され続けることとなる。

元々阿蘇山からの火砕流が溶結した凝灰岩に掘られた石仏は脆く、また参拝者によって自然にできた道が大雨の際は川に変わり石仏を削り取った。

現在、多くの石仏の下半身が切り取られたように無くなっているのはそのためである。

劣悪な環境の中で仏頭の多くが剥落した。
中でも、最も有名な古園石仏群の大日如来像の仏頭は、1994年(平成6年)3月に保存修復が完了するまでの間、仏体下の台座に置かれたままであった。

修復にあたっては、元の姿に戻すべきという意見と、臼杵のシンボルともなっている像の姿を大きく変えることを憂慮する意見との間で激しい論争が起きたが、仏頭の元の位置への修復が国宝指定の条件として文部省(当時)から提示されたため、最終的に元の位置へ復元されることとなった。

鎌倉時代の上屋の礎石と伝えられている。

石仏が作り出された時代からあるということになる。

ホキ石仏第一群(堂ヶ迫石仏)は、4つの龕に分かれる。

第一龕と第二龕はともに如来坐像3躯を配し、第一龕はさらに脇侍菩薩立像2躯を配す。
第三龕は金剛界大日如来坐像を中心に、その左右に1躯ずつの如来坐像、さらに左右に1躯ずつの菩薩立像を配す。

第四龕は左脚を踏み下げて坐す地蔵菩薩像を中心に、その左右に十王像を配す。
以上のうち、第三・四龕は鎌倉時代の追刻とみられる。

他に、第一・二龕間に愛染明王坐像がある。

山王山石仏群は全3躯で、丈六の如来坐像を中心に、その左右に小さめの如来坐像1躯ずつを配する。

なかには掘りかけの石仏もある。

古園石仏群は全13躯で、金剛界大日如来坐像を中心に、その左右にそれぞれ如来像2躯、菩薩像2躯、明王像1躯、天部像1躯を配する。尊像構成の意図には諸説あり、金剛界曼荼羅を表したものとする説もある。

古園石仏群の大日如来像の仏頭は、1994年(平成6年)3月に保存修復が完了するまでの間、仏体下の台座に置かれたままであった。

駅前にはこの像が彫られた当初の姿を復元したレプリカが設置されている。
仏頭が再び体とつながったことで、参拝すると首がつながる、会社でリストラ(解雇)されないという俗説が生まれた。

山頭火は昭和四年に臼杵へ来ている。

十二月、九六位山から臼杵石仏へ向かった。
しぐれの時期に濡れながら山路を歩きに歩いて深田についた山頭火は、その後友人に当てた手紙にこう記している。

「秋風の送られて時雨に迎えられてここまで来ましたが、毎日の雨で詮方なしに『雨日聴雨受用不尽』などと呟いております。

仏陀の慈悲蔭いや深くして意外な供養を受けました」と。

また、「濡れ仏となって臼杵の石仏を拝観しました。
或は観賞し、礼拝しているうちに、すっかりうれしくなって、抱きつきたいやうな気分になりました。

そして豆腐で一杯やりました、こんなに親しみのある仏様、こんなにうまい酒がメッタにあるものではありません」と記し「しぐるるや石を刻んで仏となす」と詠っている。

山頭火は臼杵が気に入ったのか、八日間に及ぶ異例の長滞在であった。

この地で初めて黄色い彼岸花に出くわした、しかし、今回の度では結構行く先々でこの花に出くわす。
そう珍しい花でもなさそうだ。

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じゃらん 臼杵周辺の宿

臼杵磨崖仏へのアクセス、行き方歩き方

大分県臼杵市大字深田804-1
TEL:0972-65-3300 臼杵石仏事務所

JR日豊本線臼杵駅からJRバス野津方面行きで約20分、臼杵石仏バス停下車すぐ