瀬戸田訪問を終えて


瀬戸田の港に古い写真が残っていました。

最初に瀬戸田を訪れたのは2002年8月でした、たまたまコンパクトカメラの記録が残っていました。

その後何度か訪れているのですが15年以上は来ていないのでは。

ゆっくりしすぎて最終のフェリーに滑り込みセーフ、危うい所でした。

それにしてもサイクリングの若者が多い、旅客定員75名(うち客席内45席)、自転車積載台数は約50台となっていますが40台以上乗っていました。

暮れかかった陽に照らされ航跡がきれいです。

今回の失敗はたまたま夏休みの最終土曜日を選んでしまったこと。

姫路以西は快速がないことは解っていたのですが列車の混雑が想像以上です、姫路から岡山まで立ち客がぎっしり、岡山でどっと降り、またどっと乗ってきます。

倉敷でほとんど降りるのですがその混み方は通勤列車並み。

一瞬、コロナの恐ろしさが襲ってきました、これでは感染するはずと・・・・恐怖を感じました。

青春18切符の期限が9月10日、9月の天気予報を見ると雨とか台風の話ばかり、つい焦って日にちを設定してしまったのが間違いのもと。

帰りのホームから向かいのホームを見ていると何やらざわついている。

そのうち派手な電車が入線、どうも記念列車のようだ。

帰って調べてみると。

列車名を「Bar Train ~Night ラ・マル~」と銘打ち、車内では「ホテルグランヴィア岡山」のバーテンダーが目の前でつくるカクテル、生演奏などを楽しめるそうだ。

運転日は2022年8月27日(土)のみ。
岡山駅を16時57分に発車したのち、尾道駅へ18時20分に到着。

約100分の自由散策を楽しんだのち、尾道駅を20時03分に発車。
岡山駅へ21時12分に到着。

と、いうもの、いよいよ経済も本格的に動き出したのだなと感じた。

それにしても帰宅は11時30分、とんだ一日でした。
旅の計画は慎重に!!

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昭和初期の豪邸建築「耕三寺 潮聲閣」


こちらお城のような出で立ちの「潮聲文庫」

和館の土間側。
見学にはここから入る。

潮聲閣は、福岡県直方(のおがた)出身の実業家金本福松(1891-1970)が、余生を送る母親のために、母の故郷である瀬戸田に建てたもの。

金本は母の死後に出家して耕三寺耕三と称し、潮聲閣の周辺に耕三寺を建立した。

つまり、耕三寺の敷地内に残る中では本作が最も古いということになる。
(本作も耕三寺建立時に改造されている)

洋館応接室の内部

洋館の応接室は中国清朝期の調度品で整えられ、床は寄木のフローリング

二階へは上がれませんが、随所にステンドグラスがあります。

浴室の丸いステンドグラスも素晴らしい。

廊下まわり

坪庭をはさんで洋館と和館、前面道路に平行に並んでいて、昭和初期の邸宅の一般的なスタイルが踏襲されています。

老人室とよばれるこちらが一番豪奢なつくりに。
用材・装飾ともに最上級グレードです。
屋久杉や吉野杉などなど…

日本家屋は伝統的に応接を最重視するが、本作では和館の応接室よりも居室(老人室と称す)の方が明らかに上で、「母親のための家」ということがよく分かる。

耕三寺耕三さんがいました。

耕三寺博物館の敷地内に残る、昭和初期の邸宅建築。

かつては数多くあったはずの木造邸宅の名品は戦災や老朽化でほとんどが姿を消し、県内では本作を含めて数棟が残るのみである。
もちろん島嶼部では唯一無二の存在だ。

日本庭園もよく手入れされています。




花頭窓は単なる開口。大胆な意匠です。

和館の客用玄関です。

客用玄関から入ると最初にある控えの間。





洋館玄関ポーチを室内から〜

洋館の外構

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純白のアウトドア大理石博物館「未来心の丘」


「未来心の丘」は、広さ5,000平方メートルにもおよぶ白い大理石の庭園で、世界を舞台に活躍されている彫刻家  杭谷一東(くえたにいっとう) 氏にその制作を依頼しているもの。

天猫
仏教護法の十二天より
「月天(がってん)」を望む猫

猫が月を望む「天猫(てんねこ)」

十二天の「月天(がってん)」は猫とコラボ。
笑っているような表情で、癒されます。

大理石はすべてイタリアから運ばれてきたものを使用

使われている大理石の総重量は約3,000t。

東京タワーに使われた鋼材が3,600tと言われているので、とにかくスゴい重量です。

敷地面積は約5,000平方メートル。

サッカーコートとほぼ同じくらいの広さです。

東南方を護る「火天(かてん)」の炎を表現した「未来からの炎」

未来心の丘の中央にそびえ立つ「光明(こうみょう)の塔」

十二天とは東西南北の四方と東北・東南・西北・西南に上下(天・地)を加え、さらに日と月の天尊を加えたもの。

よく耳にする帝釈(たいしゃく)天や毘沙門(びしゃもん)天なども、この十二天に含まれているそうです。

光明の塔は未来心の丘のシンボル的存在で、十二天の「日天」が放つ光(希望)を表現したもの。

仏教護法の十二天より
「日天(にってん)」が放つ光
(希望)の塔

西に沈む太陽に合掌

「カフェ・クオーレ」

大理石が惜しみなく使われ、こちらもアート作品。


風の四季
仏教護法の十二天より
西北方を護る「風天(ふうてん)」の屏風

どの屏風が春?夏?秋?冬?

白獅子の塔
仏教護法の十二天より
南西方を護る「羅刹天(らせつてん)」 が乗る獅子

アクセス
[船] 三原港または尾道港から瀬戸田行きの連絡船を利用。瀬戸田港からは徒歩15分。
[自家用車] しまなみ海道 生口島北ICから20分程度。

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「孝養の寺」 耕三寺


目指す寺、耕三寺は瀬戸田港から徒歩10分。

山号は潮声山(潮聲山)。

1936年(昭和11年)から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれる。

このうち、山門・本堂をはじめ15の建造物が国の登録有形文化財として登録されている。

山門

京都御所紫宸殿の門を模したもの。

御所の門は素木造であるのに対し、こちらは鉄鋼13トンを用いた極彩色の門である。
登録有形文化財。

五重塔

鼓楼・鐘楼から階段を上がって一段高くなった敷地に建つ。

室生寺五重塔を模したもので、心柱は鉄鋼製。第二次大戦後の起工で、1955年に完成した。

孝養門

五重塔からさらに階段を上がった敷地に建つ。

10年をかけて1963年に完成した。

日光東照宮陽明門を模したものであるが、陽明門よりも色鮮やかで、「母親を綺麗に着飾らせたいという気持ちで作られた」とも言われる。

五重塔と孝養門は第二次大戦後の建築であるため、登録有形文化財の登録対象外となっている。

陽明門を模した孝養門から「西の日光」と呼ばれるようになり、瀬戸内海の観光地の一つとなった。

平成期に入ってからは、建築物の特殊性が評価され、15棟が登録有形文化財として登録された。

本堂

平等院鳳凰堂を模したもの。

1940年完成。
中堂には本尊阿弥陀如来像を安置。

西翼楼には塑造の不空羂索観音像(第二次大戦後の制作)、東翼楼には奈良・興福寺から移された釈迦如来坐像(重要文化財、平安時代)を安置する。登録有形文化財。

救世観音大尊像

本堂左後方に立つ。コンクリート・漆喰併用の彫像で総高15mで、法隆寺夢殿の御本尊・秘仏救世観音が手本である。
1967年完成。

耕三寺は、広島県尾道市(生口島)に所在する浄土真宗本願寺派の仏教寺院。

耕三寺の開山は、大正・昭和期に大阪で活躍した実業家の金本耕三のちの耕三寺耕三。

1927年(昭和2年)故郷瀬戸田に住む母のために邸宅「潮聲閣」を建て始めた(耕三寺内に現存)。

母が1934年(昭和9年)に没すると、翌1935年(昭和10年)、金本は母の菩提を弔うため出家して僧侶となり名を福松から「耕三」に改め、同年から母への感謝の意を込めて、潮聲閣周辺にて耕三寺の建立を開始した。

金本はかねてより、瀬戸田の地に誇りうる文化財のないことを残念に思っており、境内を日本各地の著名な歴史的建造物を模した堂宇で埋める構想を立てた。

以来、30余年をかけて、日光東照宮陽明門を模した孝養門、平等院鳳凰堂を模した本堂などをはじめとした伽藍が完成した。

なお金本は1956年(昭和31年)以降、自らを「耕三寺耕三」と名乗るようになった。

耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年(明治24年)12月2日 – 1970年(昭和45年)10月25日)は、福岡県鞍手郡直方町(現直方市)出身の和上。

耕三寺建立者。
旧広島県豊田郡瀬戸田町名誉町民、現尾道市名誉市民。
出身を瀬戸田町とする資料もある。

金本 福松として出生、溶接工から実業家・発明家となり、1935年得度し金本 耕三、1956年耕三寺に改名した。

1908年(明治41年)16歳の時に酸素アセチレン溶接を学びに、大阪桜島(此花区)でフランス人が経営していた日本オキシゼーヌ・アセチレーヌ會社に入社する。

一度は受け入れを拒否されたが福松の熱意が通じ雑役として採用され、のちに影で行っていた努力が評価され正式な溶接工として昇格、フランス人技師のロワイエとセギーの下で学んだ。

酸素溶接がヨーロッパで一般化したのは入社の3年前である1905年ぐらいからであり、後に出版される『全溶連史』(1979年全国高圧ガス溶材組合連合会刊)では福松を「我が国最初の溶接工」と紹介していることから、日本の溶接工の草分け的な存在であったことがわかる。

母ヤツの実家である生口島瀬戸田町との関係は、大阪で成功したこの頃から始まる。

1927年(昭和2年)まず母の別荘として潮聲閣を建て始め、1929年(昭和4年)には島の塩田を買収している。

1934年(昭和9年)、母ヤツ死去。
以降仏教に帰依するようになり、母の菩提寺を瀬戸田に建立しようと動き出す。

1935年(昭和10年)浄土真宗本願寺派で得度、法名「耕三」を受ける。

1938年(昭和13年)山梨県東山梨郡菱山村(甲州市勝沼町菱山)の得祐寺住職に就任、翌1939年(昭和14年)得祐寺を瀬戸田に移転することを許可され、1940年(昭和15年)径大鋼管社長を辞任、1943年(昭和17年)寺号を「耕三寺」に変更することを許可される。

耕三寺の建立は、瀬戸田町からは郷土の発展と失業者対策として期待されたこともあり、様々な様式を取り入れた壮大な寺院が出来上がっていき、附属博物館などとともに晩年まで建立は続いた。

また、瀬戸田病院の新設や瀬戸田学園理事長となり新校舎を新築している。
これが現在は尾道市立市民病院附属瀬戸田診療所、広島県立瀬戸田高等学校として存続している。

1953年(昭和28年)、瀬戸田町名誉町民に顕彰。
1970年(昭和45年)、耕三寺孝庵にて死去。
享年78。

アクセス
[船] 三原港または尾道港から瀬戸田行きの連絡船を利用。瀬戸田港からは徒歩15分。
[自家用車] しまなみ海道 生口島北ICから20分程度。

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尾道航路


尾道に到着、「坂の街」「文学の街」「映画の街」として知られる。

文学では林芙美子、志賀直哉などが居を構え、尾道を舞台とした作品を発表した。

青春18切符第3弾は瀬戸田。

切符の使用期限が9月10日、学校の夏休みが終わる9月を待って実行すべきであったが、この先の天気予報を見るとほとんど曇りか雨、慌てて、8月最終土曜日に血行する羽目に。

それが様々な災いをもたらすとも知らずに・・・・

先ず腹ごしらえ、尾道とくればラーメン、駅前の「居酒家 とりかわ権兵衛」へ。

「サイクリストの聖地」として有名なしまなみ海道の本州側の入り口になっている尾道。

サイクリストのために作られた施設もあり、サイクルフレンドリーな町として注目を集めています。

自転車の若者が続々と繰り出す。

今日のフェリーはサイクルシップラズリ。

サイクルシップラズリは、2018年10月28日開催の国際サイクリング大会「サイクリングしまなみ2018」においてデビュー。

のちに、尾道と瀬戸田を結ぶ定期航路に就航しました。

Lazuli(ラズリ)はペルシャ語で「青」という意味。

しまなみ海道の海や島と、サイクリングロード(ブルーライン)を船で繋ぐことをイメージして命名されました。

サイクルシップラズリが結ぶ航路は、

尾道駅前
尾道新浜
因島重井東
須ノ上(佐木島)
瀬戸田沢(生口島)
瀬戸田(生口島)

旅客定員75名(うち客席内45席)、自転車積載台数は約50台。

見えているのは岩子島と向島大橋。

岩子島の名称は、昔はイワシがよく回遊してきたので、鰯島というところからきているようです。

また、尾道水道の西端(岩子島の北西側)には、大鯨島、小鯨島という無人島があり、鯨が回遊してきたことから名づけられたそうです。

岩子島は、日本有数のわけぎ(ねぎの仲間)の産地です。

ねぎよりも栄養価が高く、ヌタや卵とじにして食べると美味です。

因島 重井東港が見えてきました。

重井には港が2つあります。

1つは重井西港 こちらは三原港への航路として
もう1つは重井東港 こちらは尾道への航路として

重井西港は、看板案内が充実しているので迷うことがないんですが、問題は東港。

サイクリストの尾道へのショートカットとして、けっこう使えるルートなのだが案内が皆無で、地元の人しか知らない港でした。

以前訪ねた村上水軍を訪ねる旅、しまなみ海道を行ったり来たりしました。

しまなみ海道行ったり来たり
村上水軍上を訪ねる旅、それはまさにしまなみ海道を訪ねる旅でもあります。 因島大橋 … 続きを読む →


高根大橋をくぐれば瀬戸田の港です。

高根大橋は,広島県の「高根地区団体営農道整備事業」により,「西日光・耕三寺」で有名な生口島と高根(こうね)島との間に架けられた橋である。

架橋箇所は観光地であると同時に、瀬戸内海国立公園の一部であるため、周辺環境との調和のほか、直下となる両岸の農道や航路の交通に支障を来たさぬよう、配慮する必要があった。

こうした地理的条件や経済性などについて検討の結果、上部工形式は、両端を固定したアーチリブに支持される、中路式ローゼ橋を採用することとしたが、鋼橋のソリッドリブ固定アーチ橋は我が国では前例のない形式であった。

架設は、ケーブルエレクションによりアーチ部から行ない、両端を固定してアーチ系を完成させたのち、補剛桁・床版と順次架設する方法で施工した。

生口島の玄関口、瀬戸田港。

周辺には観光案内所やレンタサイクルなどもあり、観光の拠点となっています。

いよいよ、瀬戸田の観光です。

アクセス
[船] 三原港または尾道港から瀬戸田行きの連絡船を利用。瀬戸田港からは徒歩15分。
[自家用車] しまなみ海道 生口島北ICから20分程度。

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武蔵の里


長躯、岡山まで遠征、武蔵の里到着。

武蔵の里は岡山県美作市宮本の宮本武蔵生誕伝承地として近年開発が進むエリアの名称。

宮本武蔵ゆかりという伝承があるとされる旧跡、名所、顕彰施設が多数建設されていることで知られる。

新装版 宮本武蔵 (朝日文庫)をAmazonで買う。

剣の道を極め、「兵法者」の頂点に立ちながらも「軍学者」としての仕官がかなわなかった宮本武蔵。
出世の道を目指し、挫折した、その屈託と自負心を鮮やかに描き、人間臭い武蔵像を創り出した傑作。

小坂神社

宮本武蔵駅から大原方面へ徒歩3分ほどの旧因幡街道沿いにある。
創建は和銅年間(708年~715年)と、歴史のある神社。

バスの車窓から武蔵駅がチラリと見えた。

お馴染み武蔵、又八、お通の像が出迎え。

宮本武蔵駅

武蔵の里を通っているローカル鉄道 智頭急行智頭線「宮本武蔵駅」。

人名フルネームが使われた駅は全国でも珍しいといわれています。

折しも智頭行の列車が通りかかる。

宮本武蔵青年期像/武蔵道場

宿泊・宴会・食事等の予約を受け付けている武蔵の里五輪坊(むさしのさとごりんぼう)。

その敷地内には、宮本武蔵青年期像、武蔵道場があります。

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道場は現在でも剣道や居合、二天一流の稽古場として使われているためタイミングが良ければ掛け声が聴こえて来るかも?

讃甘神社

武蔵が、神社神主の太鼓を鳴らすバチ捌きにヒントを得て、二天一流を編み出したと伝わる。

武蔵資料館は岡山県美作市の武蔵の里の宿泊施設・武蔵の里五輪坊にある資料館。

宮本武蔵作の絵画、彫刻、小柄、頬当などの武具・工芸品と、ゆかりの作品を展示。

剣聖そして芸術家としての武蔵を紹介する。

宮本武蔵生家跡

武蔵の生家は、昭和17年に現在の瓦屋根となりましたが大黒柱の位置は昔と変わらないといわれています。

外観のみ見学可能。

入口脇には熊本県宮本武蔵顕彰会による「宮本武蔵生誕地記念碑」も建立されており、旧熊本藩主細川護成候の染筆により「宮本武蔵生誕地」と刻まれています。

宮本武蔵自身は、著書『五輪書』に生国播磨と明記しており、播磨国(現在の兵庫県)生まれであるが、吉川英治の小説『宮本武蔵』などの美作国(現在の岡山県)で生まれたという通説の方が有名で、通説に基づいて岡山県および美作市(旧大原町)などは宮本武蔵生誕地として観光開発を行っている。

鎌坂道入口

鎌坂峠 – 因幡街道の峠。
武蔵の義母が住む平福宿に通じる。

平尾家住宅
宮本武蔵の実姉おぎんの嫁ぎ先とされ、旧大原町で最大の茅葺住宅。

武蔵神社
宮本武蔵が祀られている神社。
生涯に一度も勝負に負けなかったといわれている宮本武蔵にあやかり、お正月三が日は勝ち守り(御守り)を求めて多くの参拝客が訪れます。隣には武蔵の墓も建てられています。

宮本武蔵の生誕の地ということで、中央には武蔵自作の「瓢箪鯰図鍔《ひょうたんなまずずつば》と二刀流の刀が描かれ、周囲には「美しい自然と水 武蔵の里」と「OKAYAMA OHARA」の文字が書かれている。鍔の上には大原町章。

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日本六古窯の一つ備前焼の街 伊部散策


独特の土味で落ち着いた風格のある備前焼が、ところせましと陳列されたショップやレンガ造りの煙突、土塀をめぐらした家並みに往時をしのぶものがあります。

伊部町(いんべちょう)は、かつて岡山県南東部(備前地域)に存在していた和気郡の町。

1951年、片上町と合併して備前町となったため地方自治体としては消滅した。

伊部駅のフロアまでが備前焼です。

備前焼は、土を感じる茶褐色の落ち着いた佇まいが魅力。

成形した器の表面に塗る「釉薬(ゆうやく)」を全く使わないのが特徴。

絶妙な凹凸感が味わい深く、手に持ったときに土の温かみを感じます。

「ハルカの陶」、週刊漫画TIMES(芳文社)にて連載され、第13回岡山<芸術文化賞功労賞>を受賞した同名コミックが実写映画化された、伊部の街がロケ地なのだ。

重要無形文化財保持者や備前焼陶友会による全面協力のもと、本物の窯を使った迫力ある窯焚きの映像を織り交ぜながら備前焼の魅力と、その土地に生きる人々の夢と情熱を描く。

未来への展望も情熱も失い、日々を無為に過ごすOL小山はるか25歳。彼女はある日、上司に連れられたデパートの陶芸展で備前焼の赤牡丹大皿を目にして感銘を受ける。

はるかは、そのえもいわれぬ精神的衝撃に浮かされるまま、その場で上司に退職を申し出て岡山県和気郡備前町(現在の備前市伊部)へと直行する。
はるかはそこで大皿の作者、若竹修と出会う。

若竹に弟子入りを願うはるかだったが、若竹は「すぐに会社を辞めるヤツ」「働くだけの毎日に空しさを感じて自分探しをするヤツ」には付き合ってられないとにべもない。

しかし、はるかは若竹に必死につきまとい、結果、見習いではあるが弟子として彼の元で働くこととなる。

まともな作品を作り上げる基礎の基礎を人並みにこなすまですら「土練り3年、ロクロ6年」と言われる備前焼。
その果てしない備前陶の道に、はるかが挑む。

ハルカの陶」予告編
―備前焼の重要無形文化財保持者や備前焼陶友会による全面協力のもと、本物の窯を使った迫力ある窯焚きの映像を織り交ぜながら備前焼の魅力と、その土地に生きる人々の夢と情熱を描く―。(HPより)

伊部駅から徒歩約2分の場所にある、備前焼の老舗窯元「桃蹊堂(とうけいどう)」。

赤レンガの煙突が目印です。

作品の展示販売や登り窯の見学ができる、器好きにたまらない場所。

土の質感をいかした味わいのある作品は、食器や花器、アクセサリーなど豊富なラインナップが揃います。

伝統的な焼成方法を守りつつ、現代に合わせたデザインで普段使いしやすいのが魅力です。

映画では「本で見た備前焼の街にいることを肌で感じながら歩くはるか。」の姿が・・・・・

歩道の石畳も備前焼。

備前市南部から瀬戸内市、岡山市内には古墳時代から平安時代にかけての須恵器窯跡が点在し「邑久古窯跡群」と呼ばれている。

この須恵器が現在の備前焼に発展したといわれている。

「邑久古窯跡群」で最初に築かれた窯は瀬戸内市長船町の木鍋山窯跡(六世紀中頃)で、七世紀後半~八世紀初頭になると瀬戸内市牛窓町の寒風古窯跡群周辺から瀬戸内市邑久町尻海周辺に窯が築かれる。

八世紀になると備前市佐山に窯が築かれ始め十二世紀になると伊部地区に窯が本格的に築かれ始め独自の発展へと進んでいった。

木村興楽園

備前焼窯元六姓木村家の総本家

初代木村長十郎は、1675年に岡山池田藩に選ばれた筆頭御細工人で、以後代々長十郎を襲名する。

現当主は、十六代木村長十郎友敬(木村茂夫)で、2018年に襲名し、長男邦夫と共に作陶している。

映画では「ショーウィンドウに飾られた備前焼を眺めるとワクワクが止まらない。」はるかの姿が・・・・・

鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれる。

鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれる。

当時の主力は水瓶や擂鉢など実用本位のものであり、「落としても壊れない」と評判が良かった。

この当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重される。

室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まるが、江戸時代には茶道の衰退とともに衰える(安価で大量生産が可能な磁器の登場も原因)。

備前焼は再び水瓶や擂鉢、酒徳利など実用品の生産に戻っている。
この当時のものは近郷の旧家にかなりの数が残されている。

天津神社

伊部の人気観光スポットがこちら。

神主さんが備前焼の作家さんということもあって、狛犬から参道のタイル、屋根瓦まで境内のいたるところに備前焼が使われている珍しい神社です。

関ヶ原の戦いの21年前の1579年から続く、備前焼ゆかりの神社として広く知られており、狛犬、参道、屋根瓦にいたるまですべて備前焼。

周囲をかこむ塀には備前焼作家の陶印が入った備前焼が埋め込まれており、その鮮やかな美しさたるや備前焼ファンならずとも目を引かれます。

「ハルカの陶」にも登場します。

明治・大正に入ってもその傾向は変わらなかったが、昭和に入り金重陶陽らが桃山陶への回帰をはかり芸術性を高めて人気を復興させる。

陶陽は重要無形文化財「備前焼」の保持者(いわゆる人間国宝)に認定され、弟子達の中からも人間国宝を輩出し、備前焼の人気は不動のものとなった。

第二次世界大戦時には、金属不足のため、備前焼による手榴弾が試作されたこともあるが、実戦投入はされなかった。

2017年4月29日、備前焼は越前焼(福井県越前町)、瀬戸焼(愛知県瀬戸市)、常滑焼(愛知県常滑市)、信楽焼(滋賀県甲賀市)、丹波立杭焼(兵庫県丹波篠山市)とともに、日本六古窯として日本遺産に認定された(日本六古窯 公式Webサイト)。

釉薬を一切使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた赤みの強い味わいや、「窯変」によって生み出される一つとして同じものがない模様が特徴。

現在は茶器・酒器・皿などが多く生産されている。

「使い込むほどに味が出る」と言われ、派手さはないが飽きがこないのが特色である。

下水道 マンホールの蓋

「天津(あまつ)神社」の備前焼でできた狛犬と、 備前市の市章、「備前焼のふる里」の文字入りです。

備前市伊部にある天津神社は、参道や狛犬、いたるところに備前焼が使われていました。

備前焼の魅力である茶褐色の地肌は、「田土(ひよせ)」と呼ばれるたんぼの底(5m以上掘る場合もある)から掘り起こした土と、山土・黒土を混ぜ合わせた鉄分を多く含む土とを焼くことによって現れる。

土の配合にもある程度比率が存在するが、各々の土を寝かす期間も存在し、出土する場所によっても成分が違ってくる。よって、作るには熟練の技が問われてくる。なお、人間国宝の一人である金重陶陽は10年寝かせた土を使っていたとされる。

土の配合にもある程度比率が存在するが、各々の土を寝かす期間も存在し、出土する場所によっても成分が違ってくる。

よって、作るには熟練の技が問われてくる。

なお、人間国宝の一人である金重陶陽は10年寝かせた土を使っていたとされる。

備前焼の七不思議

投げても割れぬ、備前すり鉢
備前焼は、釉薬をかけず裸のまま、約2週間前後1200度以上の高温で焼き締めるため、強度が他の焼き物に比べると高いレベルにあります。 それがゆえに、「投げても割れぬ・・・・」と言われるようになりました。

冷たいビール、温かいお茶
備前焼は内部が緻密な組織をしているために比熱が大きくなります。 そのため保温力が強く熱しにくく、冷めにくくなります。

きめ細かな泡で、うまいビール
備前焼には繊細な凸凹があり発泡能力が高いことから、 泡はきめ細かく泡の寿命が長いことからより美味しく飲むことができます。

長時間おくと、うまい酒に
備前焼の内部に微細な気孔があるため、若干の微細な通気性が生じます。 これにより、酒、ウイスキー、ワインの香りが高くまろやかで、こくのある味に変身を促します。

うまい料理が食せる
備前焼は、他の焼き物に比べ表面の小さい凸凹が多いため、 食物が皿肌に密着しないので取りやすく、又水分の蒸発力が弱いので乾燥を防ぎます。

花瓶の花が長もち
備前焼には微細な気孔と若干の通気性があるため、長時間生きた水の状態が保たれ花が長もちします。

使うことで、落ち着いた肌ざわり
備前焼の表面の微細な凸凹が、より使い込むことにより角が段々と取れ、使えば使うほど落ちついた味わいを増します。
※ 感じ方には個人差があります。出典(協同組合岡山県備前焼陶友会)

不老川に架かる橋のそば、備前焼で作られたお地蔵さんが・・・・

伊部の住宅地の間を流れている川です。

映画・ハルカの陶にも登場しており、とても美しい風景です。

そしてこの川は水量が少ない時は下に降りて散策出来ます。

「ハルカの陶」の1シーン。

ほろ酔いで歩く陶人とはるか。修の態度に納得のいかないはるかは、陶人に修の過去を訊いてしまう。

伊部の街を歩くと四角い煙突が何本も建っています。

この煙突も備前焼なんです。

今回見逃したところが多々あり、日を改めて訪れてみたい。

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吉備津神社


吉備津駅を降りて東へ歩くと、松並木が500mつづく吉備津神社の表参道に入る。

多くの松並木が、松くい虫で消えていく中で、大切に保護されている。

参道の朱塗りの欄干が、いろどりを添えている。

表参道の入り口は、旧山陽道と結ばれていて、西には板倉の宿があった。
江戸時代には、宮内地区は、吉備津神社の直轄地で、神社の繁栄とともに門前町としてにぎわったそうである。

吉備津神社は備中国一宮。
旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

「吉備津彦神社」とも称したが、現在は「吉備津神社」が正式名。

画像は1の鳥居。

岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備中山(標高175メートル)の北西麓に北面して鎮座する。

吉備中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。
当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。

置岩

吉備津神社内にある、大吉備津彦命が温羅(うら)との戦いのときに射た矢を置いたとされる岩。

吉備津神社には祭神である大吉備津彦命が、鬼ノ城に住む温羅を弓矢で退治したという伝説にちなんだ、矢を放って魔を祓い、国家安泰・五穀豊穣を祈る「矢立神事」があります。

本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。

この事から備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る。

足利義満造営とされる本殿は独特の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定。

また社殿3棟が国の重要文化財に指定されるほか、特殊神事の鳴釜神事が有名である。

当地出身の政治家犬養毅は、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。

神池の畔に犬養毅の銅像が建てられ、吉備津神社の社号標も同人の揮毫になる。

北随神門

室町時代、天文11年(1542年)の再建。
単層入母屋造檜皮葺。

神社正面からの参道途中に建てられている。
国の重要文化財に指定されている。

大吉備津彦命

第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を「彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこのみこと、五十狭芹彦命)」。

崇神天皇10年、四道将軍の1人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。
その子孫が吉備の国造となり、古代豪族の吉備臣になったとされる。

「吉備津神社」の本殿は比翼入母屋造という「吉備津神社」のみでしか見らない様式。

比翼入母屋造りとは、入母屋の屋根を前後に二つ並べ同じ高さで繋ぎ一つの大きな屋根にまとめたもので、全国でも唯一の様式であることから「吉備津造(きびつづくり)」とも呼ばれ、国宝に指定されています。

拝殿は本殿と同時に造営され、桁行(側面)三間、梁間(正面)一間妻入りで、正面は切妻造、背面は本殿に接続。

正面と側面には裳階(もこし)を設ける。
屋根は本殿と同じく檜皮葺だが、裳階は本瓦葺きとする。

これら本殿・拝殿は、合わせて1棟として国宝に指定されている。

回廊

戦国時代、天正年間(1573年-1591年)の造営とされる。
総延長398m。
岡山県指定文化財に指定されている。

本殿と並びひときわ存在感があるのが、岡山県指定重要文化財に指定されている全長360mに及ぶ「廻廊」。

天正7(1579)年に再建された「廻廊」の美しく波打つ全景は、どこから撮っても画になるおすすめの撮影スポット。

「廻廊」の途中には、商売繁盛の神様を祀る「えびす宮」があり、毎年1月9日~11日に行われるえびす祭には、縁起物を求めるたくさんの人でにぎわいます。

「えびす宮」


御釜殿

江戸時代、慶長11年(1606年)の鉱山師・安原知種による再建。
単層入母屋造の平入で、本瓦葺。
南北に伸びた長方形で、北二間に釜を置く。
金曜日を除く毎日、特殊神事の「鳴釜神事」が行われる。
国の重要文化財に指定されている。

内部は以前は撮影できたのですが、撮影禁止となっている、残念に措置だ。

御釜の鳴り具合によって吉凶禍福を占うという神事であり、その霊験は少なくとも室町時代には天下に有名であり、江戸期の怪奇小説『雨月物語』にも登場します。

2014年にNHKで放送された大河ドラマで注目された黒田官兵衛もここで吉凶を占ったことを伝える書簡が残されています。

この吉備津彦命が祀られている吉備津神社なのですが、御祭神の大吉備津彦命は、実は温羅なのではないかとの説が存在。

というのも温羅というのは、朝鮮半島の百済(くだら)国の皇子で、この地に製鉄技術をもたらした人物と言われているのです。

吉備津神社から10kmほど北西にある、温羅が住んでいた「鬼の城(きのじょう)跡」は朝鮮式の城。

吉備の人とも友好的で、次第に人望を集めていきましたが、吉備国の製鉄技術を恐れた大和朝廷が吉備国に侵略。

温羅を捕縛・殺害したことによる民の不満を和らげるために、神として祀りました。
しかし事実を正当化するために、温羅を鬼のような悪者に仕立てあげたのだと…。

古代の日本においては史実を書き換え、正当化することが行われていたと言います。

もちろん今では真相はわかりませんが、この吉備津神社が古代の謎に満ちた神社であることは間違いないでしょう。

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宇賀神社

吉備の中山

境内後方の吉備の中山には多くの古墳や古代祭祀遺跡が残り、古くより神体山として信仰されたと考えられている。

中央の茶臼山(160m)山頂には大吉備津彦命の墓とされる古墳があるほか、最高峰の竜王山(北峰、標高175m)山頂には吉備津彦神社が祀る磐座がある。

社殿前の右手に、まるで地中から這い出てきたような姿の松の大木があり、池の上を這うように大きく枝を張り出している。 

老木の松は、幹周りが約2.4メートルと太く、樹高約2メートルで水平に生育していて、迫力のある黒い幹と大きく広げた枝ぶりが実に見事だ。

今日は申し分ない秋日和できれいな空が広がっている。

今日はZ6のテストも兼ねている。
レンズは24-70mm f/4ボケが美しい。

逆光でフレアを出そうと試みたが、フレアはめったに現れなかった。

宇賀神社の後方に見える寺院は普賢院。

今日は倉敷美観地区、岡山城には寄らず。

>宵の倉敷河畔散策
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川面に映える漆黒の城 岡山城
戦国時代に、備前西部から美作、備中に勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世 … 続きを読む →

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ユニーク


早朝の散歩、とてもユニークな板金屋さん発見。
あちこちに「ヘコんでも復活」の文字。

ユニークな工作物があちこちに、挫折禁止もユニーク。


廃車にプランターもユニーク。

国道を走っていても嫌でも目に留まるアイデア、なかなかのものだ。

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ノスタルジー


5年ぶりに田舎に行った。

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故郷の山河
ふるさとは遠くにありて思うもの・・・・・・ 故郷へ所要がありつかのまの里帰り、観 … 続きを読む →

画像は岡山駅頭にある六校生の像。

高下駄にマント下駄、台座に「青春感謝」と刻まれ、背面の由来文に「三年間の六稜生活は 弊衣破帽 文武両道に励み 時に街頭に出て放歌高吟することもあったが 『六高マン』の愛称で温かく見守られた」とある。

六高は、内田百閒、郭沫若、仁科芳雄など・・・多くの著名人を輩出した。

このブロンズ像は、岡山市出身の児童文学者坪田譲治の小説「風の中の子供」などに登場する善太と三平の兄弟をモデルにしており、像の2人の少年は譲治の生家の方を向いている。

美作落合駅。
1924年(大正13年)5月1日 – 作備線(当時)美作追分駅 – 久世駅間開通と同時に開業。完全な無人駅ではないが、駅員(地元住民へ簡易委託している)のいない時間帯がある。

朝晩の通学用のダイヤがメインで昼間はほとんど列車が走っていない。
車がないと住みにくい地域だ。

旭川(あさひがわ)は、岡山県を流れる一級河川で、旭川水系の本流である。
県の中央部を流域とし、吉井川・高梁川と並び岡山三大河川の一つに数えられる。

また、高瀬舟で木材や大豆、鉄などが運搬された。高瀬舟は初期の頃落合(真庭市落合町)から、その後美作高田(真庭市勝山地区)から岡山城下まで航行し、岡山城下の京橋付近をはじめ、久世、福渡、金川などに船着き場が設けられ、川湊として賑わいをみせた。

明治時代に入っても製鉄による「鉄穴流し」が行われ、土砂堆積による河床の上昇がみられていたため、幾度となく航路維持のため浚渫工事が行われていた。

河原のヨシは焼かれている、一面に霜が降りているが今年は積雪がほとんどなくスキー場は閑古鳥が鳴いている。

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