伊丹空港32Lエンド 撮影行

梅雨明けでうだるような暑さの中、航空機ファンのメッカ、通称「伊丹空港32Lエンド」、千里川土手に行ってきた。

「原田進入灯橋」越しに空港を見たところ。

千里川を挟んで後ろ側に陣取った。

ところで32Lとはどういう意味かな。

滑走路がどちらの方向に向かっているかを指す数字と左右どちらの滑走路かを示すアルファベットです。

磁方位0度が北で、180度が南。
東は90度、西は270度。

これらの上2桁を取っての数字、「32L-14R」の32と14です。

滑走路は直線ですから、片方の向きが32なら反対は180度マイナスになりますので、32-18=14で、もう一つの14です。

RとLは、Right(右)とLeft(左)の略で滑走路が2本あると、進行方向に向かって左右の位置を示します。

32の北西方面に向かって右側の滑走路は、南東方面の14のときは左側になりますので、32Lと14Rということになります。

航空交通管制上の滑走路の命名法なのです。

ここは撮影にレンズを選ばない、それぞれの口径のレンズで特徴のある画像が撮れる。

この画像は50mmレンズで撮ったもの。

東から頭上をかすめるように侵入してくる、コンティニュアスAFで連射すれば何の造作もない。

画像を拡大すると、操縦士、副操縦士の姿が映っています、ピントが合っています。

滑走路に向かう飛行機の美しさ、これまた尋常じゃありません。

着地のシーン、両輪同時に着地というケースはまれだろう、この場合先ず左が先に着地。

続いて右が着地、動画で見ると左右にかしぎながら着地していてとても不安定そうに見える。

もう一枚豪快な着地シーンをどうぞ。

離陸体制に入っています、フルスロットルです、ガスが付近に充満しているのがわかる。

青空の彼方に飛び去った。

プロペラ機です、この時間帯、そのままで撮ると、シャッタースピード400~500、プロペラの回転が止まって写ってしまう。

今度はどうです、プロペラが回っています、シャッタースピード125です。

一心不乱に滑走路へ集中。

最近、NHKが取材して帰ったそうだ、8月に放送とか。

どういうつもりなのかな、観光地でもないこの狭い草地に人が殺到したらどうなるか考えているのかな、無責任な紹介だけはしてほしくないと願う。

結果的に困るのは我々愛好家だ。

陽が西に傾き離陸体制の機体が金色に光る。

きれいに焼ける空に後ろ髪曳かれながら現地を離れた。

間抜けな旅人は三脚を忘れてきたのです、これ以後はスローシャッターが多くなり三脚なしでは撮影が続けられません、無念。

伊丹空港32Lエンドへのアクセス、行き方歩き方

豊中市原田中2丁目1−29

阪急宝塚線「曽根駅」から徒歩約20分。
※曽根駅にはレンタサイクルもあります
※その他、阪急曽根駅から阪急バス、阪急伊丹駅から伊丹市バスでもアクセス可能(本数が少ないので要事前チェック!)

現地にはトイレも何もないただの草っ原です、それなりの用意が必要です。
ただ、徒歩5分くらいのところにコンビニ「サンクス」があるので何かの時には頼りになる。

春待つ仙台へ

鳴子温泉を訪れるべく機上の人となる、寒さを心配していたが幸い突然の陽気で東北も最高気温18℃という温かさ、快適な旅となりそうだ。

快晴の天気、富士もきれいに見えました、手前の山は秩父あたりの山々かな。

仙台は1年半振りの訪問だが、空港近くの農地は当時とあまり変わっていないように感じられた。
そろそろ作付けできるのかなあ、この風景を見るたびに胸が痛む。

名取川を渡る、津波は6㌔以上川上まで遡上したという。

持ち主が不明で手を付けられない家屋がたくさんあると聞く、この家もそうなのかなあ。

堤防機能を付加したかさ上げ道路の建設が始まっている。

閖上(ゆりあげ・名取市)地区を行くと、このような津波到達高さを表示した家屋が目立つ。
歩道橋に逃げてひざ上までつかりながら助かったとか、当時の様子が生々しく語られる。

一日も早い復興を願う。

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航空自衛隊 浜松広報館

航空自衛隊を日本国民により多く理解してもらうことを目的として、1999年4月にオープン。

戦闘機、練習機、ヘリコプターや装備品等の展示をはじめ、航空自衛隊のパイロットが使用している、フライトスーツ及びヘルメット等の体験試着、動揺フライトシミュレーターや、全天周シアター等を設置するなど、見て・触れて・楽しむ事の出来る航空自衛隊初の博物館形式の施設。

入場は無料で駐車場も無料。(某反日政党が与党の時は有料になってたそうだが)

広報館のシンボルとして正面入口に展示されている F-86F 初代ブルーインパルス仕様。
そういえば浜松基地って、ブルーインパルス発祥の地ですね。

田中角栄氏の運命を決定づけた、かの有名なロッキード F-104J。

F-86F等に続く第2世代のジェット戦闘機。初飛行は1954年。日本でもライセンス生産され、1967年には230機が配備され、F15の配備によって、1986年に退役した。

施設に入ると、まずXF2の実物大模型が置かれています。
XF-2はF-2の試作機です。

米国のロッキード・マーティン社のF-16多用途戦闘機を大型化した機体に、空対艦ミサイルを最大4発搭載という、戦闘機としては世界最高レベルの対艦攻撃能力と対空能力を兼備している。

戦闘機などに搭載されたジェットエンジンのカットモデル、エンジンのメカニズムを見ることができます。

ブルーインパルスの模型。

航空機の模型、この模型は全て、1/32スケールで制作されていて航空機同士の大きさの比較ができる。

対空火器のラインメタル社製の対空20ミリ2連砲。

取材日に飛んでいた練習機。

DH115バンパイア、研究用にイギリスから輸入。

第2次大戦末期に完成したイギリスのジェット戦闘機ヴァンパイアを並列複座に改装した。
1956年に国産練習機開発参考用に導入された1機。

ボーイング・バートル/川崎重工 KV-107IIA-5 救難ヘリコプター (24-4832) 尾部の搭乗員、器材扉。

国産化もされ、陸海空自衛隊、そして警察などでも採用された。
米軍ではCH-46と呼称され、原行大型ヘリCH-47チヌークの前の型番である。

ローター直径約15.2m、全備質量約9.7t。エンジン1,250馬力×2基、最高速度約250km/h。

DH115バンパイア 練習機。

零式艦上戦闘機52型、支那事変から太平洋戦争初期にかけて、2200kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能を生かして、米英の戦闘機と優勢に戦い、米英のパイロットからも「ゼロファイター」と呼ばれた。

開発元は三菱重工業。
三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。
生産数は日本の戦闘機では最多の約10000機。

地対空誘導弾ナイキJ、1953年から米国ウエスタン・エレクトリック・カンパニーなどで開発された高高度迎撃用地対空ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」。

航空自衛隊では1970年から導入を開始、三菱重工でライセンス生産して「ナイキJ」と称し、1994年まで運用した。

固体ロケット2段式で、1段目のブースターは1世代前の「ナイキ・アジャックス」のブースターが4本束ねられている。

誘導はレーダー指令方式で弾頭には510kgの高性能炸薬かW-3 10/20ノット核弾頭が搭載可能だったが、もちろん自衛隊の保有するナイキJは高性能炸薬専用となっている。

1969年から13年に渡って自衛隊の合憲性が争われた「長沼ナイキ訴訟」の発端となった誘導弾としても知られている。

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浜松広報館へのアクセス、行き方歩き方

住所:静岡県浜松市西山町無番地 航空自衛隊 浜松基地
電話:053-472-1121

JR浜松駅北口、「浜松駅バスターミナル」14番線『泉・高丘行き』乗車『泉四丁目』下車、基地外柵沿いに、徒歩約15分。

大阪空港 展望デッキ

日よけのルーフが存在するものの、金網などの視界をさえぎるものは皆無であることから、航空機を観るだけでなく撮影に関する制約も比較的少ない。

2本の滑走路を含む空港のほぼ全体を見渡すことができるほか、駐機場が間近であるため地上スタッフの様子なども見学することができる。

1969年に供用開始された既存建物をそのまま活用しつつも新築建物並みのサービス提供を実現したことや、屋上のデッキ(ラ・ソーラ)のガーデニングが評価され、2000年12月11日に「第20回大阪都市景観建築賞」の奨励賞を受賞した。

駐機場が間近なので作業状態を子細に見ることができる。

駐機場への誘導の様子。

駐機したら即、燃料ホースが接続される。

梅田のビル群を背景に離陸体制に入る。

離陸体制に入る航空機と離陸ポイントへ向かう航空機とラッシュ並みの混雑だ。

着陸する航空機の下には離陸を待つ航空機、離陸ポイントへ向かう航空機と、現在、ジェット機枠は満杯の状態が続いており、国内の空港では東京国際空港や福岡空港と並んで増便が困難な空港である。

夕日と離陸する飛行機を撮影しようとマニアが集まる。

太陽の位置と飛行ルートが中々うまく合わず、シャッターチャンスが難しい。

すっかり日が落ちてあたりは暗くなったが、駐機場は真昼並みの明るさ。
この時間になると撮影マニアも引き上げてしまって展望デッキは静かだ。

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大阪国際空港へのアクセス、行き方歩き方

大阪空港 公式サイト

大阪国際空港ターミナルビル 豊中市蛍池西町3丁目555番地
大阪国際空港から約1.4kmの所に阪急電鉄宝塚線蛍池駅があり、大阪モノレールと接続しています。大阪・梅田からは蛍池駅で大阪モノレールに乗り換え、約29分で大阪国際空港へ行くことができます。

関空展望ホール スカイビュー 意外とのんびり

旅客ターミナルビル1階の1番のりばからシャトルバスですぐ。
「展望デッキ」は4・5階にあり、航空機の離発着を間近で見ることができる。

頭上をかすめるように航空機が飛ぶ眺望と滑走路までの近さは、国内でも屈指といわれている。

国有化されても様々な問題を残す連絡橋。

ウィークデーということもあり閑散としている、のんびりとできそうだ。
光線の具合から考えると午後の方がよさそうだ。

駐機場の様子。

チェジュ航空のBoeing 737-800、逆光で画像は見づらい。

大韓航空のAirbus A330-300

アシアナ航空のAirbus A320-200

チャイナエアラインのAirbus A330-300

フィリピン航空 Airbus A320-200

空港らしい表示塔だ。

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桜まとう天守閣 白石城は桜満開

今日から南東北の名城巡りです。
まず仙台藩伊達氏の支城として用いられ、片倉氏が代々居住した白石城からスタートです。

仙台行ANA733便に搭乗、今回は内陸よりの飛行コースをとったため富士を見ることができた。
機内からガラス過ごしの撮影のため鮮明でないのがたまにきず。

九州の八代城などと並んで、江戸幕府の一国一城制の対象外とされて明治維新まで存続した。
別名益岡城(枡岡とも)。

明治維新には戊辰戦争の際、薩長連合に対抗するための奧羽越列藩同盟(三十一藩)の盟約が白石城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。

その後、按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の転換期には一役を担う重要な城でした。

二ノ丸大手二ノ門跡
二ノ丸の東に位置し、白石城東側にある奥州街道沿いの大手口から二ノ丸へ通じる門であった。

天守の代用となっていた三階櫓は、支城という格と幕府への配慮から天守の名をはばかり大櫓と名づけられたとされる。

戊辰戦争に敗北すると、明治6年の「廃城令」によって城のほとんどの建物は取り壊されることになります。

家屋敷を失った片倉家の家臣たちは、その後、当時北海道開拓の運搬船となっていた「咸臨丸(かんりんまる)」に乗船し、海を渡りました。

北海道移住の開拓費用に充てるため、白石城 の建物は各方面に払い下げられ、そのわずかな遺構が市内に保存されています。

情報不足の東北諸藩を道連れにしたのはあの容保の会津藩でした。

天守からは片倉小十郎も眺めたであろう雄大な蔵王連峰の姿を望むことができます。

片倉小十郎は政宗公より十歳年上で、政宗公が幼きころより守役を、そして長きにわたって伊達の軍師を務めた。

政宗公に剣術を指南したといわれるほどの剣術の腕前の上に智略に優れ、政宗公の命運を左右する合戦には必ず景綱の姿ありといわれた。

太閤豊臣秀吉公に直臣にと望まれたが、政宗公への忠義を貫き通した。
一国一城令が敷かれる中、特例として残された白石城の城主となり白石の地を治めた。

本丸御殿跡は桜の園です。
かつてはここに御殿が建てられていた。

天守から見た大手一御門・大手二御門。
天守とともに復元され、桝形を構成し、一ノ門を抜けると、進行方向が鍵形に曲がっている。

本丸御殿跡から三階櫓をのぞむ。

本丸二ノ門
櫓門となっている。
これは本丸側から撮影したもの。

「本丸跡外郭東側の石垣は「野面(のづら)積み」という自然石を積み上げたもので、
大きな石の周りを小さい石で囲むように積み上げている。

時代としては安土桃山時代、蒲生郷成が白石城の城代だった頃に築いたとみられる。

市の花「ヤマブキ」がデザインされたマンホール。
真ん中の釣り鐘は市章で、白石城主片倉公の軍旗からきている。
釣り鐘の中に「白」の字がデフォルメされています。

白石城へのアクセス、行き方歩き方

住所:宮城県白石市益岡町1-16
電話:0224-24-3030

JR東北本線、白石駅下車、徒歩15分。

ルイ14世式の要塞 五稜郭

建造中の名称は亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)、完成後の名称は箱館御役所(はこだておんやくしょ)。

柳野城(やなぎのじょう)とも呼ばれる。
国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。

今回は北海道の100名城巡りの五日間のツアーです。
関空からのフライトです。

函館へ向かう途中の有珠山SAでトイレ休憩。
左が有珠山、右が昭和新山です。

有珠山は20世紀の100年間だけで実に4度もの噴火活動が観測された、世界的に見ても活発な活火山です。
2007年、昭和新山とともに日本の地質百選に選定されました。

昭和新山は明治新山等と同じく有珠山の側火山であり、デイサイト質の粘性の高い溶岩により溶岩円頂丘が形成されている。
現在も噴気活動が見られる。

バスの車窓からの駒ヶ岳。
駒ヶ岳は山頂部には直径約2 kmの火口原があり、西の剣ヶ峯、北の砂原岳、南の馬の背・隅田盛で囲まれるほか、山腹は、火山噴出物で覆われる地形輪廻の原地形(初期段階)を見せる。

半月堡開口部と二の橋
二の橋を渡ったところが表門です。

五稜郭の大きさは, 堀の内側は約125,500㎡と, 東京ドームの約3倍の広さがあります。
また,水堀は約56,400㎡,さらに堀の外側で史跡指定の所は約69,000㎡の広さがあります。
水堀の幅は最大約30m ,深さは4~5mで,この堀の外周りは約1.8㎞ の長さとなっています。

石垣の中で,正面側の石垣の一番上には,石が一列飛び出しているところがあります。
これは「はね出し」や「武者返(むしゃがえ)し」または「しのび返し」と呼ばれるもので,五稜郭の石垣の大きな特徴の一つです。

本塁石垣の構造(現地説明板より転載)
五稜郭の土塁は、堀割からの揚げ土を積んだもので、土を層状に突き固める版築(はんちく)という工法で造られている。

土塁の上から堀を見る。

土蔵(兵糧庫ひょうろうこ)
五稜郭築造時の建物で、唯一現存する建物。

箱館戦争の記憶から、いつしか「兵糧庫」と呼ばれるようになったようである。
大正時代には「懐旧館」という箱館戦争の展示資料館として利用されていた。

文献資料や発掘調査成果から庇屋(ひさしや)があったことが確認されたことから、平成13・14年度の修理工事の際に、現在の姿に復元した。

1854(安政元)年の日米和親条約締結に伴う開港がきっかけで、蝦夷地の開拓や外交などを担うために設けられた箱館奉行所。

当初は函館山山麓(現在の元町公園付近)にありましたが、防衛上の理由で、ヨーロッパの城塞都市を手本に蘭学者・武田斐三郎が設計した、星形の五稜郭へと移転します。

実際、箱館戦争の際、箱館奉行所の建物の天辺にある楼閣が、官軍の軍艦の艦砲射撃の格好の標的となった。

それを知った旧幕府軍は慌てて楼閣部分を撤去したが、射撃角度をかなりの精度で知られてしまい、要塞内に次々と着弾、最早この時点で要塞としての機能は麻痺していた。

五稜郭タワー展望台からの眺望~五稜形をした五稜郭跡

西洋式土塁の特徴である稜堡(城本体からの突出部)とよばれる突角は、左右対称の星形五角形に配置されている。稜堡は土塁で築かれ、一部に石垣が積まれている。

本来のヨーロッパの稜堡式の築城様式であれば、半月堡は二重、三重に築かれて縦深防御を構成したが、たった一箇所の半月堡ではかなり見劣りがする。

一番の問題としては、既にヨーロッパでもこのような稜堡式の築城様式は、いささか旧式化していたことである。

展望台から函館湾を望む。
左手前方に函館山が見える。

函館市街を背にした土方歳三。

京都では「鬼の副長」として新撰組隊士を厳しく統率し恐れられた土方だが、箱館での土方は、「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うかのようだ」と伝えられるほど温厚で、明治2年(1869)春からの新政府軍による攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、押し寄せる敵を撃退した。

しかし明治2年5月11日、新政府軍の総攻撃により孤立した友軍を援護するために出撃したが、一本木関門で銃撃を受け35年の生涯を閉じた。

展示されている開陽の模型。

10月20日に蝦夷地鷲ノ木沖に到着した開陽丸は、しばらく鷲ノ木沖に停泊。
10月25日に旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃った。
旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始。
その援護のために開陽丸も11月11日に箱館を出港して江差沖へ向かった。
11月14日に江差沖に到着、陸地に艦砲射撃を加えるも反撃がないので、斥候を出すと、松前兵はすでに撤退していた。

榎本は最低限の乗組員を開陽丸に残して上陸し、江差を無血占領した。

ところが翌15日夜、天候が急変する。
開陽丸は、タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁。
江差沖の海底は岩盤が固く、錨が引っ掛かりにくいことも災いした。

回天丸と神速丸が救助に向かったが、その神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、開陽丸は岩礁に挟まれていよいよ身動きが取れなくなる。
留守を預かっていた機関長の中島三郎助は、艦内の大砲を一斉に陸に向けて撃ち、その反動で船を離礁させようと試みたがこれも失敗に終わり、乗組員は全員脱出して江差に上陸。

数日後、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消した。

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五稜郭へのアクセス、行き方歩き方

北海道函館市五稜郭町・本通1
函館市電2系統・5系統五稜郭公園前駅 – 徒歩15分

啄木も愛した古城の跡 盛岡城

「盛岡城」は盛岡藩南部氏の居城である。
西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。

今回の旅はここ仙台空港から始まる。

桜山神社の創建は寛延2年(1749)に当時の藩主利視が初代南部信直の功績を称え社殿を建立したのが始まりとされています。

烏帽子岩。
三の丸跡、公園の北入口にそびえたつ巨大な岩石。

城地を削って三の丸を整地しているとき、烏帽子に似た岩石が出現、古くからあった八幡社の宝として崇められた。

原敬遺徳顕彰碑。
もりおか歴史文化館の向かいに建っている。
その隣には、顕彰碑を解説する看板が建っている。

その看板には、
わが国の、政党政治の基礎を確立し、本格的な政党内閣を実現させた平民宰相、原敬は維新の際、南部藩がうけた無辜の罪をそそぐことを念願としていたが、大正六年九月、戊辰戦争殉難者五十年祭が行われた際に祭文を朗読した。

この碑文は原敬日記を基にその心懐を刻している。
と書いてある。

瓦御門から三の丸へ入る。

盛岡城内で一番高さのある石垣で約14mある。

有名な「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」の歌碑が立っている。
少年時代の啄木が学校の窓から逃げ出してきて、文学書、哲学書を読み、白日の夢を結んだのが盛岡城二の丸。

歌碑の文字は金田一京助の書。

二の丸。

本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、存城当時は廊下橋(屋根のかかった橋)が架けられていた。

本丸南西部の石垣/丸
本丸は城内の中心部にあたり,主に城主が日常生活や政務を行う場として使われていました.

発見された築城期の石垣
本丸南西部で行われた発掘調査の結果,石垣は築城当初(16世紀末~17世紀初頭)から構築されていましたが,元和(げんな)年間(17世紀前半)以降の本丸を拡張するため,築城期の石垣を覆い隠すように構築されていることが確認されました .
さらに藩制時代の記録によると,この部分の石垣は地震によって傷んだため,元禄16念(1703)と宝永2年(1705)に石垣の修復を幕府に届け出ており,宝永3・4年(1706・1707)工事が完成していることが記されています . この部分の石垣は,鑿(のみ)加工により石材が整形されており,本丸の他の部分に比べて規格が揃っています. -解説板より-.

腰曲輪
この付近は藩主が乗馬の練習をした「馬場」となっていた。

御末御門から本丸に入る。

南部中佐銅像台座/本丸
第2次世界大戦中の金属特別回収で騎馬姿の銅像が取り払われ今日に至っている台座部分。

本丸より廊下橋を見る。

芝生広場から隅櫓をのぞむ。

独り言

武士道は騎士道に似せて明治になって偽造されたもの
という八幡和郎氏の批評を紹介しておく。

そもそも武士は、殊勲の私有財産である領地を「一所懸命」に守るのが本文であり、とくに倫理的な仕事とは意識されてもいなかったはずである。

むしろ、近江商人に代表されるように、江戸時代の商人の方が実に高い倫理性を発揮し、それを家訓などの形で残している。

江戸時代の慈善事業は武士によって行われることはあまりなく、もっぱら商人や篤農家が行っている。

新渡戸の著作は、日本にも西洋の騎士道に似たものがあり、実践されていたと、欧米人に受けがよさそうな物語を創作したものだというべきだ。

もちろん、その内容は実に美しいから、現実には存在しなかった夢の世界を模範とする処世術の書として読むにはいいものだ。

また、それが日本の評判をよくしたなら、内容の真偽にかかわらず結構なことである。

新渡戸稲造の出身地の南部藩は、安土桃山時代から江戸初期においては全国でもまれに見る意欲的な発展を実現した。
しかし、中期以降は面子ばかりにこだわり苛政の極みにあり、数々のスキャンダルが噴出し、飢饉では大量の餓死者を出した。

それを家老クラスの上級武士の子である新渡戸が、南部藩政への真摯な反省の言葉もないまま、あのような書を書いたこと自体が私には腹立たしく倫理的に許せない。
八幡和郎著 「本当は恐ろしい江戸時代」

江戸時代は北朝鮮そっくりだった!?
江戸時代はユートピアではなかった。実はこんな一面もあった、こんなに住みにくく、生きづらい世の中でもあったという観点から、江戸時代のもう一つの実像をあぶり出す。歴史マニアも目からウロコの、びっくりエピソードが盛りだくさん。

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盛岡城へのアクセス、行き方歩き方

住所:岩手県盛岡市内丸

電話:019-604-3305(プラザおでって2F 観光文化情報プラザ)

JR東北本線・東北新幹線 盛岡駅 徒歩20分
盛岡都心循環バス「でんでんむし」左回りで約10分「岩手公園」下車すぐ

伊丹 仙台 天空旅行

今回のツアーは秋田だ。
秋田空港を使えばいいのだが、機体が小さく大きなツアーは組めない。
従って仙台へ飛び、奥羽山脈を横断するハードなバス旅だ。

西へ向かって飛び立ちUターンして東へ進む。
先ず緑ヶ丘公園、瑞ヶ池が見えてくる

南側は昆陽池。

真ん中あたり、伊丹空港。

大山崎の辺りを飛行中。

眼下には琵琶湖が広がる。

アルプスの上空。

諏訪湖が見えてきた。
上は松本、安曇野方面。

車山高原、エコーバレースキー場も見える。

眼下に広がるのは川俣湖。

機外は快晴、絶好の撮影日和だ。

眼下に見えるのは東小富士。

阿武隈川河口、被害の爪痕が痛々しく残る。

帰路、伊丹空港は夕闇の中だった。

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まほろば唐松・中世の館 唐松城

平安末期、陸奥の郡之司であった阿部貞任の弟、境講師官照がここに館を築き一帯を支配していたが前九年の役で源頼義・義家の攻撃にあい落城したと伝えられる。

また中世末期この地は、安東・戸沢・小野寺の勢力があい拮抗し、覇を競うことになるが淀川をはさんで秋田寄りの地帯は安東氏の勢力下にあったと推測されるため唐松城もある時機に於ては安東氏の最前線基地であったと考えられる。

そして1587年には、各勢力がこの地で激突し、世に言う「唐松野合戦」がおこった。

秋田県大仙市協和境にあった平山城(ひらやまじろ)。
雄物川の支流の淀川右岸の段丘の上に築かれていた。

築城時期、築城主はともに不明。

ただし、大兵力が駐屯できるほどの城の規模はなく、監視や物見(偵察)の役割を持った砦だったのではないかともいわれている。
現在、城跡には郭や虎口、堀切、畝堀の跡が残っており。

淀川に沿って馬房柵が設けられている。

淀川に架かる橋を渡り場内に入る。
「まほろば唐松・中世の館」は城山の東麓に建設された観光スポットで、中世の居館をイメージした建物だが、唐松城を復元したものではない。

秋田県内で初めての本格的能楽殿。
京都西本願寺を模して作られ能楽の資料も多数展示されている。

年2回の「蒔能公演」「定期能公演」では県内外を問わずたくさんの観覧客が訪れ、周りの公園は町民の憩いの場として親しまれている。

唐松岳の主郭をめざし登頂を開始。

登り口の冠木門。

途中の曲に展望台が設けられているがあいにくの雨で視界はあまり利かない。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

下を流れる淀川、かなり急峻な地形だ。

広場には戦いの様子を描いたレリーフもある。

唐松神社の境内の元宮が祀られている場所が、唐松城の主郭のあった場所である。

1587年(天正15)に湊城(秋田市)の安東愛季(あんどうちかすえ)と角館城(仙北市)を本拠とする戸沢盛安の間に起こった唐松野合戦では、安東方の前進拠点として用いられたことがわかっている。

このことから、檜山安東氏が仙北地方へ進出するために築いた拠点ではないかとも考えられている。

淀川からは急峻な崖になっている。

帰途、仙台の七夕間で七夕飾りを見学。
きれいな飾り、みな和紙でできているんだね。

仙台七夕まつりは例年7月7日の月遅れである8月7日を中日として、8月6日から8日の3日間にわたって行われる。

大規模な飾り付けがされるのは一番町や中央通りなどのアーケード街、仙台駅周辺などであるが、それ以外の商店街組織ごとの飾り付けや店舗や家庭など個別の飾り付けなど市内各地至るところに小から大まで合計3000本と言われる飾り付けがなされ、街中が七夕一色になる。

東北三大祭りの1つに数えられ、例年200万人以上の人が訪れる。

伊丹に着いたのはちょうど夕闇が迫る頃であった。

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唐松城へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒019-2411 秋田県大仙市協和境唐松岳44-2
電話:0188-92-3500

JR「羽後境」駅より徒歩15分