黄昏時 先斗町


先斗町では住民が5年ほど前から景観に合わない大型看板、ネオンなど広告物を自主的に撤去してきた。

しかし、看板がなくなると電線が余計に目立つようになり、住民が2013年、市へ電線の地中化を要望していた。

電線の地中化完成は平成31年度末の見通しで、観光客や舞妓が行き交う歴史ある通りの景観が良くなる。

逆に、春の夕暮れの京都、先斗町。

老舗すき焼き屋の和な佇まいとモダンな電信柱、そして群青色の空が織りなす絶妙な美しさが忘れられない、といった意見もあるようだ。

狭い路地を足早に歩く舞妓、とにかく足が速い。

黄昏時に忙しく行きかう彼女たち、店ののれんをくぐりすぐ出てくる。

女将さんらしい身なりの人も忙しく通り過ぎる。

一説によれば、先斗という地名の語源はポルトガル語のponto(「先」の意)にあるとされる。

しかし、正しいポルトガル語は”PONTA”なのに「ポント」と読まれることや、なぜ「先斗」の字があてられたのかはっきりしない。

そんな彼女たちの行きかう姿を、屋根の上から優しく見守る鍾馗さん。
花見小路あたりではよく見かける風景。

縁起については諸説あるが、もともとは中国の唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布している。

ある時、唐の6代皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり床に伏せた。

玄宗は高熱のなかで夢を見る。
宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。

玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。

だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。

夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。
感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。

その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった。
この伝説はやがて一般に広まり、17世紀の明代末期から清代初期になると端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた。

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真夏の夜の散策 祇園界隈

京の町も六道参りの人々でごった返している。

こちら花見小路はあい変わらず外人客が目立つ。

歌舞練場の前も外人の団体。

東山区北西部の南北路。
北は三条通から南は建仁寺前まで。

四条通から北のバー、スナック街や南のお茶屋街など祇園歓楽街の中心を貫く。

明治初年、上地された建仁寺境内地に四条通から南へ同寺までの通りが開かれ、1949年(昭和24)に拡幅された。

2001年に電線類地中化、石畳の整備が完成し、情緒ある町並みへと生まれ変わった。

時折、舞子さんとも行き会う花見小路のいつもの風景だ。

この辺りは特に観光客でごった返すのだが、夜も更けるにしたがって人通りも減ってくる。

切り通しの路地、舞子の行きかう路地だが、夜はひっそりとしている。

辰巳橋から切通を見る。

祇園白川・辰巳大明神界隈は、町衆の人々による日々の清掃により、昔ながらの古都の風情を残し、歴史を感じさせる数少ない名所。

昼間の喧騒が嘘のような白川畔、私もそろそろ引き上げます。

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今日のお昼はがんこ二条苑

「がんこ二条苑」はおおよそ380年前の慶長16年 角倉了以によってつくられその後、明治の元勲山県有朋の別邸「第二無鄰庵」となり第三代日本銀行総裁川田小一郎の別邸、阿部信行首相別邸等をへて現在は大岩邸として伝わり、がんこが引き継いでいる。

木漏れ日の美しい窓際の席です。
欄干は明治時代に能舞台として使われていた名残。

たまたま舞妓のショーが有り楽しませてもらう。

高瀬川源流の流れ、吉野石の石橋と木漏れ日がきれいです。

たがそでのつくばい

着物の袖の形をしていることからこの名が付いた。

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陰影のある露地行灯の灯りが見事 東山花灯路

平成15年3月から、「灯り」をテーマとする新たな観光資源の創出事業である『京都・花灯路』が行われている。

陽が落ちて辺りが暗くなるとそろそろ行燈の灯りが灯る。

ねねのみちに灯りが灯りました。

高台寺公園でも沢山の行灯に灯が入る。

ひときわ風情のある石塀小路を歩いてみます。

石塀小路が出来たのは比較的最近のことで、大正時代の初期の頃。

石塀小路の土地は、当初は圓徳院のの所有地でしたが、明治時代になって税金を納める必要が出てきたため、圓徳院庭園の一部を取り崩して、通り抜けの道を造りました。

現在のような姿に完成したのは、昭和になって京都から市電が廃止されるようになって、市電に使われていた石畳をここに敷いたことからのようです。

石塀小路といえば山村美紗を思い出す。

国内におけるミステリー界の女王やトリックの女王と呼ばれ、日本のアガサ・クリスティとも讃えられた。

今は故人の彼女の住まいはこの近くにある。

美術館の辺りのライトアップも風情がある。

通りを抜ければねねのみち。

大谷さんの参道、打水された石畳に行燈の灯りが薄暗い参道を明るい雰囲気にしてくれています。

創作行灯デザインコンペが行われており力作が並ぶ。

陰影の妙を魅せてくれます。

八坂神社では舞妓による奉納舞踊が行わせれ多くの見物人でごった返している。

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紅葉2015 もしかして紅葉絵巻のフィナーレはがんこ二条苑かも

嵐山花灯路を見ようとゆっくり目に出発、とりあえずがんこ二条苑高瀬川源流庭園で腹ごしらえ。

”おおよそ380年前の慶長16年 角倉了以によってつくられた当庭園はその後、明治の元勲山県有朋の別邸「第二無鄰庵」となり第三代日本銀行総裁川田小一郎の別邸、阿部信行首相別邸等をへてがんこが引き継いでいる。

入り口から紅葉の予感。

今日の席は以前から気になっていた場所、紅葉が素晴らしい。

庭に降りてみるとなんと真っ赤ではないか。

既にかなりの枝が葉を落としていて、庭では業者が入り後始末が始まっているがまだまだ観賞に耐えられる。

庭を流れる高瀬川源流、まだまだ紅葉は素晴らしい。
もしかして京都の紅葉絵巻のフィナーレはがんこ二条苑かもしれない。

過去の記事も併せお読みください。

角倉了以別邸跡 高瀬川源流庭苑
高瀬川の源流を求めて鴨川を行ったり来たり

おまけに今日は舞妓さんの舞と撮影会もサービス。
予約なしで突然訪れたが超ラッキーでした。

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がんこ二条苑高瀬川源流庭園へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒604-0922 京都市中京区木屋町通二条下ル東生洲町484-6
がんこ 高瀬川二条苑075-223-3456

京阪電鉄本線三条駅 徒歩7分
地下鉄東西線京都市役所前駅 徒歩4分

祇園祭 花笠巡行

この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2011年7月24日訪問時のものです。

17日の山鉾巡行は女人禁制ですが、この花笠巡行は芸能的色彩が非常に濃く、「女性」と子供が主役です。

10時になり、子供みこしから次々と出発。花笠巡行の始まりです

華やかな神饌行列です。祇園祭でも山鉾巡行は男衆が中心ですが、花傘巡行は女性が中心の巡行です。
巫女さん姿の花笠娘。夏の日差しの下で、花傘が一層鮮やかです。

この背中に背負っている風船の様なものを『幌(ほろ)』と呼び戦において伝令役の人が、途中で矢などを受けて倒されることの無いように防御する役割がありました。

毎年、京都きものの女王は、上古・奈良・平安時代の装束を身にまとい、織商鉾に搭乗します。
「京都・ミスきもの」に選ばれた4名の方が乗っていらっしゃいます。

こちらも花笠娘

おや お知り合いでも見つけましたか?  とても和やかな雰囲気です。

お稚児さんも頑張ってます!後ろ姿の花かごがとってもかわいいです。
戦闘態勢でなく狩猟、遊びの姿で、靫には花が差してあると言う華やかさ、雅やかさ。
それにしてもお母さんも暑い中大変です。

こちらもお知り合いを見つけられたようですね。
寺町通り商店街で。

今年は先斗町お茶屋組合花傘と祇園東お茶屋組合花傘のおねえさんがたの参加です。

お馴染みさんでも見つけたのか、しばらく大笑い。
それにしても大きな口あけて・・・少しはしたないですよねえ。

かぶってる サギの頭にも、傘を さしていますね。

獅子舞 に かんでもらうと厄を払い 福が舞い込んできます

この坊や嫌がっているのに獅子にかまれ、怒っています。
ものすごい形相で獅子を睨み付けています。

四条大橋のたもとで冷たい?飲み物の差し入れも。
これだけ暑いと水の補給なしではやってられません。

巡行を終え八坂さんへ挨拶です。

獅子舞の奉納。
おっとと後役さんの左手が見えていますけど、暑い中、中腰での舞、大変ですね。

組み上げたやぐらの上で後役さんが倒立。
かなりの技です。

獅子の顔もアップでよく見ると、とてもかわいい。

黒塗りの傘をかぶり、白と朱の衣装が とても華やかです。
先斗町お茶屋組合の「歌舞伎踊り」は、出雲の阿国が 慶長8年(1603)鴨川の河原で舞った踊りが 今に伝わっているそうです。

祇園東お茶屋組合の出し物は「小町踊」
江戸時代の初め、京の町々に小さい女の子等が集まって美しく粧をこらして乳母に守られながら京の町を踊り歩いたのが始まりで、歌をうたって太鼓をもってテンテンと打ち囃して歩いたという
着物の柄は、梅散らしと・・・茶や辻と言う 古典柄です。とてもあでやかです。

鷺踊は傘鉾に付属した踊りで傘鉾の周囲を踊りながら巡行していたもので、近世になって傘鉾の中断にともない踊りも中断されるに至った。
寛政年間に八坂神社より、津和野藩に伝習されていた鷺踊をもとにして復興された。
羽を広げて踊る様子は とても、可愛い。

万灯をどり 小学生の女の子達の踊りです。
こちらもとても、可愛い。

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花傘巡行の行き方・歩き方・お得切符

市バス「祇園」下車。/京阪「祇園四条駅」下車、徒歩5分。
市内をあちこち動き回る日は「市営地下鉄1Dayフりーチケット」を求めるとよい。

他にも、「市バス1日券」や「京都観光1日乗車券」など割引になるチケットがいくつかあるので、比較検討したうえで賢く利用したい。

祇園さんへお参りの芸妓舞妓さん/そろいの浴衣でみやび会お千度

この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2011年7月5日訪問時のものです。

7月に入ると〝みやび会〟と言う、祇園町の舞のお師匠さん井上八千代家元を筆頭に井上流の現役芸舞妓が、毎年新しいデザイン柄の浴衣をお揃えで着て、八坂神社に集まります。

浴衣の柄を見ると、今年は「笹と桔梗」でした。
豆ゆりさん、豆まるさんの姿も見えます。

この時季のお千度には、長刀鉾のお千度などもあるので混同されがちだが、祇園祭の祭礼行事ではない。

それにしても御千度に参加された芸舞妓さんの皆さん、この蒸し暑い炎天下でも汗ひとつにじませず、爽やかに処しておられるのは、さすがにこの職業で鍛え抜かれたプロ集団なんですね。

でもよく見ると汗が伝っていますね。
帯をしっかり締めると汗をかかないといいますが、本当かな。

本殿内は、年功序列で座られるらしいのですが、本殿内は暑く、特に中央は暑いそうです。
その為か、後ろは人気があり、芸妓さんが多く座られます。
暑い、中央は舞妓さんだそうです。

神事を終えた井上八千代さん

神事を終え帰りには御神酒を受けられます。神棚にお供えのお菓子も。

神事が終わると、楼門前で記念撮影が行われます。

記念撮影が終えると和やかに…解散となるが、その後さらにお参りするのは「姐さん」たち。
みなさん祇園の街へ消えて行った。

豆まるさん ポーズをとってくれました。

無事終了しました。豆ゆりさん、豆まるさんこれから一寸寄り道です。

豆ゆりさん 四条通の交差点で信号待ち。
白地に紺の柄、襟足がきれいです。

信号待ちの豆ゆりさん傘の柄もかわいいですね。

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観亀神社 祇園東お茶屋街散策

祇園は夜の街として知られますが、昼散歩道としても面白い街です。
すぐ北西の辰巳大明神が、芸妓さんの守り神、祇園白川・新橋のシンボル的な神社として京都観光ガイド等に採り上げられるのに対し、こちらの神社は一般的にはほとんど知られていない。
祇園東界隈の氏神様でもある観亀(かんき)神社界隈を散策してみる。

新橋通に入ってすぐにある路地を南へ下がっていくと祇園会館の横の道に出てくる。
この道は新橋南通という。
雑然とした印象の町並みだが、その中で赤い鳥居が目を惹く。

赤い鳥居の前まで来てビックリ!。
鉄の扉にシッカリ鍵が掛かっています。
観亀神社は享保3年創建。

このあたり一帯は江戸期には膳所藩の京都屋敷があったところで、幕府より御所火の番を命じられた膳所藩が、火伏せの神である遠州秋葉山の秋葉権現を勧進したものである。

現在地は、膳所藩京都屋敷の中庭にあたるところであるが、創建当時付近は竹薮でこれを伐り開く時、亀が出て歓んだと伝えられ、観亀(歓喜)神社と名付けられた。
今でも防火の神としての信仰を集めている。

祇園東お茶屋街は左手突き当りの路地を右に入り、手前の路地を出てくるまでのコの字型の一角にある小さな地域。
明治十四年(1881)、甲部と乙部に区分される。
昭和二十四年に乙部は東新地と改称され、その後昭和三十年ごろから祇園東と呼ばれるようになった。

この地は禁裏守護の火消し役、江洲膳所藩の京屋敷があった場所だが、明治三年にそれが撤去されると、その後にお茶が出来始め、華やかな花街となった。
映画「祇園の姉妹」は、ここ祇園東が舞台であった。
お茶屋約十軒、芸妓約十人、舞妓約三人。

祇園東の中心部に1994年に整備された「ぎおん楽宴小路」という横丁がある。
一見入りにくいが、出入りは自由。

ぎおん楽宴小路
1994年(平成6年)にオープンした横町のようなゾーン。
正確には判らないが、この中の店は町屋を生かす店作りというコンセプトで統一されているらしい。

このあたりに屋敷を構えていた膳所藩が1722年(享保7年)より御所火の番に加えて洛中火消しを兼務することとなった。
膳所藩はその役目の一環として屋敷内に火の見櫓を建て、町の防火の用に供した。
この火の見櫓はその事実を踏まえて、楽宴小路の看板として復元したものである。

この「つくばい」は水戸光圀公の寄進によるものと伝えられる。

お茶屋街 祇園東の裏通りにあるお茶屋街。この道は、
観亀神社を取り巻くようにロの字型になっており、新橋南通にしか繋がっていない。

お茶屋街にある地蔵尊。

新橋南通を東に向かい、東大路通へと戻る。
その右角にあるのが祇園会館である。
秋に「祇園おどり」が催される場所である。

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観亀神社 祇園東お茶屋街へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市東山区新橋南通東大路西入祇園町北側
京阪本線「四条駅」下車徒歩5分、または阪急京都線「河原駅」下車徒歩10分

先斗町歌舞練場 鴨川をどり 2014

先斗町歌舞練場において、「鴨川をどり」が開催されています。
公演期間は毎年5月1日から24日。

京都の5つの花街の中でも最も上演回数が多いことでも有名です。
第177回の演目は「鏡山藤花繪(かがみやまゆかりのはなぞめ)」。
2幕9場で舞台を繰り広げる。

関連記事:新春花街舞初め特別講演2013  都をどり 2013

千鳥の提灯がさがる先斗町。

もともとは鴨川の州で、江戸時代初期の寛文10年(1670年)に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。

繁華街としては茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりである。
芸妓、娼妓が居住するようになり、何度も取り締りを受けたが、川端二条にあった『二条新地』(にじょうしんち)の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立した。

明治5年(1872年)に鴨川をどりが初演され、先斗町は花街としての花を開かせた。

大阪松竹座や東京劇場などを手がけ、劇場建築の名手といわれた大林組の技師・木村得三郎氏により、昭和2年(1927年)に創設された歌舞練場。

先斗町側と鴨川に向いた屋根には、中国の蘭陵王の舞楽面を型取った鬼瓦が。

蘭陵王は舞楽の主要演目の一つで、昔から各節会などでしばしば舞われています。
この鬼瓦は、先斗町の繁栄を祈念して守り神として据えたものと伝えられています。

この曲の由来となった伝説によると、高長恭はわずか五百騎で敵の大軍を破り洛陽を包囲するほどの名将であったが、「音容兼美」と言われるほど美しい声と優れた美貌であったため、兵達が見惚れて士気が上がらず、敵に侮られるのを恐れ、必ず獰猛な仮面をかぶって出陣したと言うもの。

緞帳にも千鳥のデザインが。

千鳥の提灯に埋め尽くされた観覧席。

第1幕の舞踊劇では武家・多賀家の乗っ取りをたくらむ悪人から、お家を守るために忠義を尽くす女たちの思いを、舞を交えて表現。

幕間には先程とは違う緞帳が。

第2幕では暗い舞台を光で演出する「道具寄せ」や、座敷での恋のさやあてをにぎやかに表現した「酒戦(ささいくさ)」が会場を盛り上げる。

フィナーレの「藤見の宴」では、薄紫のフジの飾りが揺れる舞台で、芸舞妓の華やかな総踊りが観客を魅了。

帰りに見かけた昔懐かしい映画のポスターの数々。

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先斗町歌舞練場へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市中京区先斗町通三条下る橋下町130
電話:075-221-2025
京阪電車「三条」駅下車徒歩5分
市バス「河原町三条」下車徒歩5分

平安神宮 神賑(かみにぎわい)の祭り

この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2012年4月16日訪問時のものです。

例祭(翌日祭)神賑行事が4月16日平安神宮で行われた。
例祭(れいさい)または「例大祭(れいたいさい)」とは、神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされるもののことであるとされる。

例祭では、天皇陛下からの勅使がご参向になり全国からの崇敬者が参列します。
神賑「しんしん・かみにぎわい」 行事は、神社の恒例祭の時に、神殿において神職の執行する厳粛な祭典が終わった後、神楽や獅子舞い、舞楽、奉納武道、奉納相撲、競射、神輿、山車、仮装行列などさまざまな催しをするが、これらを総称して神賑行事という。

居ながらにして各花街の舞を一度に見れる貴重な一日だった。

折からの陽気で神苑の紅しだれ桜は見頃であるが、本日はぐっと我慢して神賑行事に専念することとした。

トップバッターは宮川町歌舞会さんの「姫三社」。
三社とは、伊勢神宮・奈良春日大社・石清水八幡宮のことで、江戸時代には、その三社へお参りに行くことが流行だったらしい。

そのなごりの舞が「姫三社」。
応天門をバックに舞います。

出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていたので「陰間」と呼ばれていた花街だった。

その後形態が変わり宝暦年間、正式に認可された。
明治、大正、昭和33年(1958年)3月15日の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。

現在は芸妓一筋の花街で、毎年春には『京おどり』が上演される。
舞妓数は祇園甲部に続いて20人以上の大きい数を誇っている。

舞踊の流派は明治以前は篠塚流、それ以降30年ほど前までは楳茂都流であったが現在は若柳流が主流である。

古式四條流さんの「包丁儀式」。
四条流の庖丁儀式とされる、巧みな庖丁さばきによる荘厳な技術披露が現在でも継承され、行われている。

藤原山蔭が鯉をさばいて以来の伝統と言われる技法を烏帽子・直垂をまとった姿で再現し、庖丁と真魚箸(まなばし)のみを用いて、鯉・鯛・鰹などの素材に一切手を触れることなくさばいていくもので、各地の神事などで奉納されることがある。

次は『花柳芳麿社中』の方々による『今様』。
この今様という言葉は『現代風』といった意味で当時(平安時代)の流行が閉じ込められる踊りと言える。

祇園甲部歌舞会さんの「夜桜」「祇園小唄」。

享保17年(1732年)、正式に茶屋渡世の営業許可が下りると元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町の「祇園内六町」が開かれ、さらに繁栄した。
この際に、団子をモチーフにした紋章が作られた。

この紋章は現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。
江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。

昭和30年代から40年代にかけてお茶屋150軒、芸妓、舞妓合わせて600人を数えたが、時代の流れと共に花街の規模は縮小していった。

笠井社中さん。
神楽の歴史には諸説様々なものがあり、現在でも不明瞭な部分が多く残されていますが、その創始は古く非常に歴史深いものであります。

現代において、笠井神楽の源流となる吉田家の神楽は、残念ではありますが残されておらず、我々神楽を伝承する者としては、古くからの形式・音色等をそのままに、舞と楽曲を尊び、巫女の天冠・緋袴など、古き良き文化を後世に伝えていく事が大切であると考えています。

また、同時に、近畿圏以外の官幣社に講習を行っており、できるだけ神楽を広く伝えられることができるよう願っております。
笠井神楽HPより

先斗町歌舞会さんの「京の四季」。
先斗町(ぽんとちょう)は京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街。
「町」と付くが地名としての先斗町はない。

もともとは鴨川の州で、江戸時代初期に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。
繁華街としては茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりですでに芸妓、娼妓が居住するようになり何度も取り締られていたが当時、川端二条にあった『二条新地』(にじょうしんち)の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立をした。

明治5年(1872年)に鴨川をどりが初演され、先斗町は花街としての花を開かせた。
舞踊の流派は明治より以前は篠塚流、その後若柳流を経て現在は尾上流である。

箏 曲  東登美子社中

“源氏物語”を取り入れながら創作された舞踊が京都十二単舞踊。

「むらさき」というのは本来は源氏物語の紫式部をさすようだが。

むらさき太鼓は女性だけで構成されているのが特徴。
伝統的な美しい音色と近代的なシンセサイザー音楽とのコラボレーションにより、和太鼓の新たなパフォーマンスを見せる。

全身をバネのように使いながらステップを踏み、軽やかに、そして美しくダイナミックに舞う演奏スタイルはむらさき太鼓の見所の一つか。

祇園東歌舞会。
1881年に、第三代の京都府知事の命で祇園は甲部と乙部の二つに分けられ、1870年に取り払われた滋賀県膳所藩の広大な屋敷近辺とその屋敷跡地一帯のお茶屋が乙部と指定された。

祇園乙部は1949年に祇園東新地と名を改め、1955年頃から祇園東と称されて今日に至っている。
東大路と花見小路の間で四条通北側の通り三本(東富永町・中末吉町・新橋)にまたがる地域で、 最近は飲食店やスナックのビルが建ち並ぶ谷間で12軒のお茶屋が営業を続けている。

文中で頻繁に使用している「社中」とは本来は、同門の会(仲間)と言う意味があると聞く。
家元がいて、その直接弟子に当たる人達の集まりを、社中と称するものだと解する。
プログラムも最終にさしかかったころから雨がパラパラ。

急遽舞台を本殿に移し続行されたが、撮影禁止ということであえなく今回の取材は終了。
しかし、めったに入れない本殿に入れてもらえてよかったかな。

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平安神宮へのアクセス、行き方歩き方

平安神宮公式サイト

住 所:〒606-8341 京都市左京区岡崎西天王町
電 話:075-761-0221 FAX 075-761-0225

京阪電車の神宮丸太町駅か地下鉄東西線の東山駅が最寄