京の町屋歩き


差し込む斜光が美しい。

彫刻「明澄」

この像は、昭和35年5月 七条警察署庁舎落成を記念し、明るい社会の建設を念願して建立されたもので、希望と平和を念願して、「明澄」と命名された。

従来は、左側には近鉄京都百貨店があったが、2007年2月に閉店になり、解体されました。

今はヨドバシカメラの中にある。

えらいところに大国さんが・・・・・

正式名称は真宗本廟。

東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)の東に位置することに由来している。
愛称は「お東」「お東さん」。

この辺りは仏具関係の店が多い。


渉成園(しょうせいえん)は、京都府京都市下京区にある真宗大谷派の本山・真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地。

名称は、中国六朝時代の詩人陶淵明の「園日渉而成趣」の詞にちなむ。

また、周囲に枳殻(カラタチ)が植えてあったことから、「枳殻邸」(きこくてい)とも通称される。

「源氏物語ゆかりの地・枳殻邸(渉成園)」
渉成園は東本願寺の飛地境内地(別邸)です。 1602(慶長7)年教如上人が徳川家 … 続きを読む →


高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河。

開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。

名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。

薫風に吹かれ木屋町を高瀬川に沿って歩く
木屋町は京都の歴史や風情を感じる街た。 多くの歴史遺産を残しながら現代が息づくそ … 続きを読む →


源融 河原院跡

源融は、塩焼きが好きだったようで、陸奥の塩竃の風景を模した池を邸宅内に造り、毎月、難波の海から海水を運ばせて塩焼きを楽しんだと言われています。

河原町の由来は、源融の河原院からと伝えられています。

幽霊屋敷 河原院跡
源氏物語「夕顔の巻」は圧巻である。 源氏は五条辺りに住む夕顔と恋におち、「某の院 … 続きを読む →


大田垣蓮月の歌碑

風化が激しく読み取れない部分は想像で・・・・

あすも来て見んと思へば家づとに手折るもをしき山さくら花

京都生まれの江戸時代後期の女流歌人です。

夫と子供の死をきっかけに、出家しました。
そして、「蓮月」と名乗ります。

悲運の歌人 屋越の蓮月こと 大田垣蓮月
時代祭の江戸女人行列で有名な大田垣蓮月だが、その悲劇的な人生は意外と知られていな … 続きを読む →


遠くの山には雪が残る。

みなとや幽霊子育飴本舗

女の幽霊が飴を買いに来たという伝説が残されている。

みなとや幽霊子育飴本舗、西福寺の逸話が紹介されている。
六道珍皇寺 冥途通いの井戸
京都における平家の最初の拠点。 清盛の祖父が寺領を借り受け、邸宅を建てたといわれ … 続きを読む →


鳥辺野の入り口、六堂の辻に建つ西福寺。

嵯峨天皇の皇后がしばしばご参詣され、皇子の正良親王病気の際、この地蔵尊に祈願したところ、無事平癒し、後に仁明天皇(在位833-850)として即位された。

以来、地蔵尊は「子育て地蔵」と呼ばれ、世の多くの人々に信仰されるようになった。

六波羅蜜寺

創建年は定かではないが、平安時代の歴史書である『扶桑略記』によれば、踊り念仏で知られる市聖(いちのひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した[1]という。

十一面観音立像

当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。

本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。

疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。

空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。

空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。

宮川筋二丁目から六丁目までが花街。

出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていたので「陰間」と呼ばれていた花街だった。

その後形態が変わり宝暦年間、正式に認可された。

明治、大正、昭和33年3月15日の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。

京都で「ろーじ」と呼ばれる「路地」は、行き止まりの細い道のこと。

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皇城鬼門除 出雲路幸神社

京都御苑の東北隅,梨木通を北へ突き当たったところに幸神社は祀られています。主祭神は猿田彦神で交通安全の神として信仰されてきました。

さらに神社の案内板には、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国はこの近くの出身で、一時期はこの神社の巫女であった、と書かれています。
関連記事:京都御所の猿/京都御苑の不思議

幸神社(さいのかみのやしろ)は現場所とは異なるが、京都では最も古い神社の一つで、伝承によれば桓武天皇が平安京に遷都したときに御所を悪霊から守るためにその東北すなわち鬼門に創祀されたという。

そこは古くは愛宕出雲路郷と呼ばれていたことから、「出雲路幸神社」、「出雲路道祖神社」の名がある神である。

道祖紳は「塞神(さえのかみ)」ともいうので、いつしか「さえ」が「さい」になり、幸の字をあてることになったという説もある。
鎌倉時代には現在の場所に移っていた。

幸神社の主神は猿田彦神であるが、もっと有名なのが社殿の東北隅にある御幣を持った「鬼門の猿」である。
猿は日吉神社のお使いで悪霊の侵入を防ぐのが役目。

神社の猿と同様の役目を持った猿が、御所の猿ヶ辻にも、洛北の赤山禅院にも祀られている。
幸神社の猿も東北に張られた二重三重のバリケードの一翼を担っているわけである。
左甚五郎の作とする説もある。

緑に囲まれた社殿には、猿田彦命とともに8柱の御祭神が配祀されています。

拝殿内の様子。奥に黒く見えるのが本殿

この神社は、今では道祖神信仰と結び着いて「縁結び」の神様としても崇敬されているようで、恋愛・結婚成就を記した猿の絵が描かれた多くの絵馬が奉納されています。

ひっそりとした隠れ家のような神社ですが、なんとなく味があります。
ここもネット検索するとパワースポットだそうだ。

もう一つの主役が幸神社の東北隅に祀られた「御石さん」は正しくは「猿田彦石」である。
この神石を拝むと良縁に恵まれるというが、触れば祟りがあるという。

男性性器に似ているのは猿田彦神がもともと生殖の神でもあることによっているのだろう。
神社はたびたびの戦火で焼亡したのに「御石さん」だけは平安時代からそのまま伝えられているという。

境内末社
狭い境内には、中央に本社、左は社務所があります。右には三天社、淡嶋社、厳島神社、二つの稲荷社、三宝大荒社、春日社、天満宮等の末社が並び、その奥、境内の東北隅には御神石の猿田彦神石が祀られています。この石は、狂言「石神」に出て来る神石ともいわれています。

ご利益
縁結び、方除け、王城守護

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参考文献

京都のお寺神社謎とき散歩―歩いて訪ねる古都のご利益さん
どこまでも続く伏見の千本鳥居、光の装飾絵・化野念仏寺の万灯会、火伏せの愛宕神社、恋を取り持つ地主神社…。古都1200年の歴史ロマンを感じさせる本。ご利益ガイド&地図付き。

出雲路幸神社への行き方・歩き方

所在地:京都市上京区寺町今出川上ル西入幸神町303
電話番号:075-231-8774
境内自由

京阪電車鴨東線「出町柳駅」下車、西へ徒歩10分
地下鉄烏丸線今出川駅より徒歩10分

悪縁切り 菊野大明神

河原町二条交差点の少し北東にある法雲寺は、ガランとした境内の地味なお寺という印象ですが、境内奥にひっそりと祀られている「菊野大明神」が良縁を結び悪縁を絶つ、縁切り縁結びの神様として知られていて、参拝者の9割は女性ということです。

もともとこの場所は、正暦元(990)年に関白太政大臣・藤原兼家が邸宅を寺に改めて創建した法興院があったところ。
その後、兼家の私寺は廃絶し、邸宅の池水の跡の泉だけが残っていましたが、そこに永禄10(1567)年、源蓮社清善という僧侶が草庵をむすび、さらに元和元(1615)年に堂宇が建立され伽藍が整ったのが法雲寺の始まりとされています。

元々三条東洞院にありましたが、石の傍を通ると男女の縁が切れるといわれ、花嫁行列もこの石を避けて通ったと伝えられていて、天明の大火の後にこの霊石が法雲寺に祀られるようになったのではないかということです。

まわりには高層マンションが建ち並び、境内も駐車場と化し、かなり経済的に厳しい状況をうかがわせる。

境内の隅にある壊れたままの石塔。

一見民家風の入り口が庫裏の入り口。

庫裏を通った裏手(庫裡の東)に「菊野大明神」の小さな祠が祀られていて、御神体は霊石ということです。
「菊野大明神」の「菊野」は、本来は「聆乃(きくの)」で、願い事をきくという意味の言葉だったのが、いつしか「聆」が「菊」となったと考えられています。

「菊野大明神」の覆屋
縁切り石となった由縁は、「宇治の橋姫」が宇治から貴船神社へと通う毎夜、この石に腰を掛けて休んだからだとか。

「宇治の橋姫」といえば、男への深い嫉妬から、相手の女を呪い殺そうと貴船神社に七日間通って丑の刻参りをし、生きながら鬼となった人物。渡辺綱が一条戻橋で出会った鬼も、この宇治の橋姫でした。

また、一説には小野小町に恋した深草の少将が、腰掛けて休んだことから、縁切り石になったとも言われています。
深草の少将は小町の元に百夜通いをし、その最後の晩にあえなく亡くなってしまい、その無念の思いが「菊野さん」に乗り移ったのだとも。

お堂の中は供えられた線香の煙が満ち、無数の提灯が天井からぶら下がっている。
ご神体とされる自然石は見えない。
かつては、祠に、恨みのこもった祈願書が張られたり、女性の髪や五寸くぎを刺したわら人形が置かれていたが、1988年(皇紀2648)昭和63年に改装された。

今は良縁を結び、悪縁だけを断ち切る神様として信仰されていますが、しかし実際に訪れるのは悪縁を切りたい女性が大半だそうです・・・夫や恋人が不倫や浮気相手と別れて欲しいというのがやはり一番多く、他に子供の縁談が気に入らないから壊したいとか、ストーカーから逃れたい等もあるようです。
今でも五寸釘を刺した藁人形が備えられることもあるそうだ。

京都で「悪縁切りの神様」といえば、安井金比羅宮、鉄輪の井戸、そしてここ菊野大明神、の3つが代表格でしょうか(貴船神社奥の宮や橋姫神社などもありますが、市内からは少し遠くなります)。
いずれも霊験あらたかなことで有名。ストーカー退治なら警察よりキキメが確か、とすらいわれています。

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菊野大明神へのアクセス、行き方歩き方

住所 :京都市中京区河原町通二条上る清水町364-1 法雲寺境内
問い合わせは法雲寺TEL075(241)2331

市バス:京都市役所前 徒歩約5分
東西線 京都市役所前駅 徒歩約5分
京阪電車 三条駅 徒歩約10分

六道珍皇寺 冥途通いの井戸

京都における平家の最初の拠点。
清盛の祖父が寺領を借り受け、邸宅を建てたといわれる。

葬送地であった鳥辺山の入り口に位置し、「あの世に通じる処」とされ、毎年8月には精霊迎えの行事「六道参り」が営まれる。
寺宝展等の特別公開時を除き非公開。
御本尊の薬師如来(重要文化財)や寺宝(地獄絵等)の拝観は事前に申込が必要(有料)。

六道珍皇寺が建つ辺りはその昔 、阿弥陀ヶ峰山麓一帯(清水から今熊野辺りの東山山麓)の鳥辺野(とりべの)呼ばれた東の葬送地への入口 へ続く道に面して建っていたことから”六道寺”とも呼ばれていた。

六道とは、仏家のいう地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界をいい、死後、霊は必ずそのどこかに行くといわれる。
六道の辻は、その分岐点で冥土への入口といわれている。

「愛宕の寺も打ち過ぎぬ 六道の辻とかや 実に恐ろしやこの道は 冥土に通ふなるものを」。
謡曲『熊野(ゆや)清水詣』より、「東大路や六波羅の地蔵堂よと伏拝む。頼む命は白玉の愛宕の寺もうち過ぎぬ六道の辻とかや。
げに恐ろしやこの道は、冥土に通うなるものを心細鳥辺山…」

「三界万霊十方至聖」の石塔婆、ここで野辺送りに先立ち住持は引導を渡したという。
霊魂は迷うことなく浄土に旅立つことが出来たという。

京都では、盂蘭盆会前の8月7日から10日までの四日間、先祖の精霊を家に迎えるため、六道珍皇寺へ参る風習がある。
これを「六道まいり」という。

期間中、境内一帯は多くの参拝者で賑わい、参拝者が打ち鳴らす「迎え鐘」の音が一帯に響き渡る。
鐘は鐘堂の中にあるので見ることは出来ないが、参拝者は堂前の穴から出 ている太い綱を引いて、ご先祖様が迷わず帰れるようにと祈りながら鐘を鳴らすのである。

「迎え鐘」・・・拡大して読んでくださいね。

左が迎え鐘、右が閻魔・篁堂。

「閻魔・篁堂」・・・拡大して読んでくださいね。

閻魔・篁堂に収められている篁象。
6尺2寸(180㎝)の身の丈があったという等身大の象。
「六道詣り」(8月7日~10日)の時に閻魔・篁堂は開戸され、像を見ることができる。

閻魔・篁堂に収められている閻魔象。
篁自身の作と言われる。

篁冥途通いの井戸は本堂横の格子の間から見ることができる。

本堂の背後に残る、小野篁が冥土行きに使ったとされる井戸と、左には篁の持仏を祀る竹林大明神の祠が見える。
この冥土通いの帰路として大覚寺ミナミ付近六道町の一角福生寺の井戸(現在はない)を使ったとの説もある。

六道珍皇寺近くには六波羅蜜寺もあり、その昔「死の空間」と呼ばれ、あの世とこの世の接点として、様々な伝説を持っています。

寺宝展等の特別公開時を除き非公開となっているが、小さなのぞき窓があるので、堂内の様子をうかがうことができる。

西福寺(白塀)の角に「六道の辻」の石柱が立つ。

六道の辻で「幽霊子育飴」を売る「みなとや」さんがある。
子を孕んだまま死んだ女が埋葬された後に棺の中で出産し、我が子のために幽霊となって飴を買いに毎夜飴屋を訪う。

ある夜表の戸を叩く音で出てみると青白い女が一人。「えらい夜分にすみませんが、飴を一つ売っていただけませんか」と一文銭を出して言う。
次の日もまたその次の日も、同じように一文銭を出して買っていく。
それが六日間続いた。

「あれは、只者ではない。明日銭持ってきたら人間やけど持って来なんだら、人間やないで」「なんでですねん」「人間、死ぬときには、三途の川の渡し銭として、銭を六文、棺桶に入れるんや。
それを持ってきたんやないかと思う」。
七日目女はやはりやってくるが、「実は今日はおアシがございませんが、飴をひとつ分けておくれやす」と言う。

「よろしい」とゼニなしで飴を与えてそっと後をつけてみると、二年坂、三年坂を越えて高台寺の墓地へ入って行く。
そして、一つの塔婆の前で消える。
掘ってみるとお腹に子を宿したまま死んだ女の墓。
中で子が生まれ、母親の一念で飴で子を育てていたのである。
この子、飴屋が引き取り育て、後に高台寺の坊さんになったという。

篁と式部、この二人の墓所は堀川北大路交差点から南へ少し下がって島津製作所の傍らにあります。
京都の紫野(むらさきの)と呼ばれる場所です。

左が紫式部の墓、右が篁の墓。
小野篁は平安時代前期の有名な女流歌人・小野小町の祖父です。

一説に、小野篁と紫式部の墓が建ち並ぶのは紫式部が狂言綺語(きょうげんきご)、ふしだらな物語を描いた大罪人で、閻魔大王の前に引き出された紫式部を篁が取りなしたとの伝説によるものと云うのがあります。

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六道珍皇寺へのアクセス、行き方歩き方

【正式名称】六道珍皇寺 (ろくどうちんのうじ)
【通称名称】六道さん(ろくどうさん)
【住所】東山区松原通東大路西入北側
【電話番号】075-561-4129
【FAX】075-561-4129

JR京都駅→市バス206系統で10分、バス停:清水道下車、徒歩4分。
または京阪電気鉄道五条駅→徒歩15分

豊臣秀次菩提寺 瑞泉寺

悲劇の人豊臣秀次の墓所「瑞泉寺」は鴨川の西、三条小橋東詰南、高瀬川沿いに建つ。

慈舟山と号し浄土宗西山禅林寺派に属す。
太閤秀吉の甥・豊臣秀次とその一族を弔うために慶長16年(1611年)この場所に建立された。

秀次は秀吉の養子となって関白の位と豊臣家の家督を継ぐが、太閤の愛妾「淀君」に秀頼が誕生したことから秀吉には次第に疎んぜられ、さらには石田光成らの策謀もあって、ついに文禄4年(1595年)7月、謀反の疑いを理由に高野山へ追放され、同月15日(現暦8月20日)に切腹させられてしまう。

次いで同年8月2日(現暦9月5日)、秀次の子供と側室などの女性一族39人が、三条大橋西南の当時はまだ鴨川の河原であった此の地で無残にも公開処刑され、遺骸はその場に掘られた大きな穴にひとつに投げ込まれた。

そして、その上に世に「殺生塚」(摂政関白の塚よりの転意)と呼ばれる大きな塚が築かれ、その存在は当時の「洛中洛外図」(舟本本他)にも印象深く描かれることとなる。

それから16年後、高瀬川の開削と「木屋町筋」の整備を開始した豪商角倉了以は、洪水などで荒廃したその「塚」を拝み、縁浅からぬ豊臣秀次一族を弔うための墓地と一寺をこの地に建立した。

秀次の法名「瑞泉寺殿高厳一峰道意」に因んで名づけられた瑞泉寺は、「太閤記」に秘められた大きな謎の「秀次事件」と一族の子女30余人の「悲劇」を今になお語り伝えるものである。

中央の墓塔の左右に石の塔が49並んでいます。39人の御一族と後を追った10人の御塔です。

極楽浄土に導く「引導地蔵尊」
この堂の中央に安置された地蔵菩薩像は、秀次公一族の処刑の際、四条大雲院の僧「貞安上人」が刑場の一隅にその木像を運び込み、次々と打たれる子女達に引導を授け続けた、と伝わる尊像です。
極楽浄土へ死者を導く「引導地蔵尊」として京洛の人々に今日なお崇敬されている。

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瑞泉寺へのアクセス、行き方・歩き方
京都市中京区木屋町通三条下る石屋町114-1
連絡先075-221-5741
拝観時間:日中自由
拝観料:無料

京阪電車 「 三条 」 (徒歩約 2 分)
市バス 「 三条京阪前 」 (徒歩約 3 分)

京都太秦ユダヤのパワースポット?大酒神社

大酒神社は現在は立ち止まる人もいない様な小さな神社ですが、歴史ファンには古代秦氏族の祖神として注目されている場所です。

大酒神社の石の鳥居ですが木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居と同じで柱が八角形です。
何の知識がなくても繋がりがあるとわかります。
もともとは大辟神社と書いたらしい。

「大裂」の文字も使われてたらしい。
横を見ると石柱に
「蠶養機織管弦楽舞之祖神」と「太秦明神 呉織神 漢織神」蠶養…養蚕・機織…機織り管弦…管弦楽・楽舞…音楽と舞の祖とはスゴい。

御祭神は秦始皇帝・弓月王・秦酒公の3柱で構成されている。
大酒神社は渡来人秦氏の氏神を祭っていると言われていますが、「秦始皇帝」には誰もが違和感を抱くでしょう。

大酒神社は秦氏の氏神を祭っていると一般的には言われています。
渡来人秦氏が中国を統一した秦始皇帝を祭る理由は彼らが「自らの出自を秦の始皇帝の末裔」と主張していたことによるようです。

本殿です
ご祭神 秦始皇帝(シンノシコウテイ)
     弓月王(ユンズノキミ〔一般にはユヅキノキミ〕)
    秦酒公(ハタノサケノキミ)
神 紋 賀茂葵

さて、大酒神社は、その後広隆寺が建立されると、広隆寺内の桂宮院(けいくういん)(国宝・特別拝観あり)境内に鎮守社として祀られ、治暦四年(1068)に神階は正一位となります。
その後、明治初年の神仏分離によって、神社は現在地に移されました。また京都三大奇祭の一つ」(後二つは、鞍馬火祭り・やすらい祭り)の「広隆寺の牛祭」は、以前広隆寺にあった大酒神社の祭礼と言うことです。

京都の太秦の「広隆寺」と「かいこの社」の「木島神社」に連なって「大酒神社」というのがあるではないか! 
しかも意図的に連ねて建立されている。
現在は位置がズレて点と線が外れているが、昔は元々一つの線上に建てられていた。昔は「大酒」ではなく「大闢」と書かれていたらしい。

さらには「大避」と書かれていたとも言う。
この内の「大闢」とは、ダイビャクとも読み、ダビデを示しているのではないか?
という話しもある。
この漢字は中国語で読むと‘ダビ’となるらしい。
この事からイスラエルのユダヤの王であるダビデの事が問われている。

安永九(1780)年に刊行された「都名所図会」に掲載されていたもの>
この図を見る限り、上宮王院の真西にあったものと思われる。

「ヤコブの井戸」。
大避神社と、「いさら井」は元々は広隆寺の境内にあったのですが、大避神社は明治の神仏分離令により広隆寺から東に約100mの地に移設され、いさら井は広隆寺の境内の縮小により現在は境内から少し離れた民家のそばにあります。

イスラエルは、イスラエル民族の父祖の一人であるヤコブの別名であり、つまり、「いさら井」は「ヤコブの井戸」。
この「ヤコブの井戸」は、イエスがサマリア人の女性から水をもらった井戸でもあります(ヨハネの福音書4章6節)。
しかし古代社会でテクノクラートとして大活躍した彼らは聖徳太子の死後、忽然と政界から姿を消す。

政界中枢から忽然と姿を消した秦一族は消滅したのだろうか。
そんなことはない。
ある者は芸能という呪術を制して呪術界の頂点に向かい、ある者は・・・・一説には平安時代に栄華を極めた藤原氏になったという説もある。
魔界を知り尽くしていた秦一族は、古代から平安時代への変わり目にいったん闇の世界へ潜み、再び機を得て復活するのである。

一説によると河勝は山背を去って赤穂の坂越に向かい、その地で没したという。
赤穂に向かった理由は蘇我入鹿の迫害を避ける為ともいわれている。
大避神社(おおさけじんじゃ)は兵庫県赤穂市坂越(さこし)にある神社。
由緒書きには、「秦河勝は皇極3年(644)に、太子亡きあとの蘇我入鹿の迫害をさけ、海路によって坂越浦に到着。

千種側流域の開拓を推め、大化3年(647)に八十余歳で薨じた。
河勝の御霊は神仙と化し、村人が朝廷に願い出て祠を築き祀ったのが、大避神社の創建と伝えられている」とあり、江戸中期の古書・播磨鏡(1762)には、「秦河勝がこの地で没したので、河勝の霊と秦氏の祖・酒公を祀り、社名を“大荒”・“大酒”と称したが、治歴4年(1068)に“大避”に改めた」という。

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今後の研究が待たれる。

大酒神社へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市右京区太秦蜂岡町30
京福電気鉄道嵐山本線「太秦広隆寺」駅より徒歩約3分

中宮安子の陽気な嫉妬 後宮のわわしい女

安子(あんし)自身は若くして亡くなったが、安子所生の冷泉天皇・円融天皇の即位は九条流摂関家発展の元となり、やがて安子の甥道長を頂点とする全盛期へ至ることになる。
・・・・その源流をずっと遡るとき、恋がたきに茶碗を投げつけた安子という元気な女性に出会うのである。

陵墓は宇治陵(京都府宇治市木幡中村)にある。

村上天皇中宮安子火葬塚への参道。

慶頼王墓の道を北にしばらく進むと突き当りに村上天皇中宮安子火葬塚がある。
中宮安子は冷泉・円融天皇の生母で、女御から皇后となり、天皇には多くの女御・更衣がいたが後宮にゆるがぬ権力をもった。

歴史物語「大鏡」には、「源氏物語」とほぼ同じ時代の高貴な女人の嫉妬がノンフィクションとして描かれているが、こちらの嫉妬は、天下一品、陽性かつ攻撃的である。

なにしろ中宮ともあろうお方が、壁に穴をあけてライバルの女御を覗き見したあげくに、嫉妬の念を抑えきれず、覗き穴から茶碗のかけらを恋いがたきめがけて投げつけたのだから。

茶碗を投げつけたのは村上帝の中宮安子、投げつけられた相手は長い長い黒髪の美女、宣耀殿(せんようでん)の小一条女御芳子だった。
当寺の美女の絶対条件であるその緑なす黒髪は、当人が車に乗っても毛先がまだ母屋の柱のところにあったというほど、途方もない長さを誇っていた。

しかも少し下がり目なのがいっそう可愛らしく魅力的で、さらに「古今集」を全部諳んじているという賢い女性だったら、中宮の安子をさくおいて村上帝の寵愛を一身に受けていた。
あるときそんな二人が清涼殿で鉢合わせしてしまった。

清涼殿に起居する天皇のお召を受けて、安子は弘徽殿(こきでん)の、芳子は藤壺の、それぞれ上御局に入っていたのだが、たまたま両者の上御局が近接していたからたまらない。

安子はかねてうわさに聞く芳子を自分の目で見たくてたまらず、「いと安からず、えや静めがたくおはしましけん、中へだての壁に穴をあけて、のぞかせ給ひけるに・・・・」というはしたない行動に出てしまった。

チラチラと穴から見え隠れする芳子の姿は想像以上に美しく、黒髪が部屋いっぱいに渦巻いて優雅なことこのうえない。
むらむらときた安子は思わず、「穴より通るばかりのかけらの割れして打たせ給へり」という挙にでた次第。

このとき芳子の部屋には村上帝もいたというから、あるいは仲の良いところを見せつけられたのかもしれない。
日ごろから安子を「いみじう怖じまうさせたまひ」、たいていのことは言うなりの村上帝であったが、さすがに腹に据えかねて、こんな女らしくない行為はきっと安子の三人の兄弟たち・・・藤原伊尹(これまさ)・兼通・兼家らがそそのかしたに違いないと、三人を直ちに謹慎処分にしてしまった。

ところがこれを聞いた安子が激怒、村上帝に自分の部屋に来るように何度もきつく催促する。
帝のほうは逃げ回るのだが、結局、もし行かなかったら「いとどこそむずからめ」と思っていやいやながら訪ねると、はたして安子から猛攻撃を受ける。

このときの安子の理屈がふるっている。
兄弟たちがたとえ大逆罪を犯したとしても、私に免じてお許しあるべきなのに、まして私のことでこんな処分をなさるなんて納得できません、ただちに謹慎の罪を解いてくださいと言い募ったのである。

はじめは抵抗していた帝もとうとう降参してしまうのだが、すぐ撤回しては外聞が悪いからいずれそのうちにと約束して逃げかかると、安子は帝の衣を掴んで離さず、いいえ、信用できません、今すぐここへ蔵人を呼んで即刻処分を取り消してくださいと聞かない。
とうとう帝は後宮に役人を呼びつけて宣旨を下すハメになったのだった

后女御を十人前後持ったといわれる村上帝だったが、あるとき安子のもとに出入りしている妹の登子を見かけて夢中になってしまった。
当時、登子は帝の兄にあたる重明親王の室だったが、帝は恋情抑えがたくなんとしても思いをとげたいと安子に打ち明けた。
この好色な申し出に対して、安子は「一、二度、知らず顔にて、ゆるし申させ給ひけり」と、ずいぶんさばけた態度をみせているのである。

むろん、安子が後宮のトップレディでありつづけるためには、彼女の人間的力量に加えて、後ろ盾となる生家の実力がものをいう。
安子の父は九条流・藤原師輔(もろすけ)である。
ついでに言えば、かの黒髪の美女芳子の父は小一条流・藤原師尹(もろまさ)で、師輔の同母弟にあたる。
だから安子と芳子は従姉妹同市なのである。

彼女たちの祖父、すなわち師輔や師尹の父の藤原忠平は、すでに前帝の朱雀時代から村上帝即位のころに関白太政大臣として、その四人の息子たち・・・実頼が右大臣、師輔が大納言、師氏と師尹が参議・・・とともに、廟堂の権力を占有していた。

この時期、忠平一族の競争相手はもはや他氏ではなく、父を同じくする兄弟だった。
いずれも権力へのもっとも確実な近道として、彼らは争って村上帝の後宮にその娘を入れて皇子の誕生を切望した。
しかし実頼の娘の述子は女御となってすぐ若死にしてしまう。

父の期待に応えたのは師輔の娘の安子で、彼女は憲平親王(後の冷泉天皇)、為平親王、守平親王(後の円融天皇)の男子のほかに四人の内親王を産んだ。
憲平親王は第一皇子をさしおいて生まれてすぐ東宮に立てられた。

いっほう師尹も娘の芳子におおいに期待した。
前に芳子が「古今集」を諳んじていると書いたが、村上帝がテスト・・・歌の初句を言っては後の句を芳子につけさせるという・・・を試みていると聞いて、師尹は正装、潔斎までして寺々の僧に誦経させ、娘がうまく答えられますようにと祈願している。
野心のためとはいえせつないような親心である。

この父の期待通りに村上帝の寵愛を得て、安子を異常な嫉妬に駆り立てた芳子だったが、彼女が産んだ永平親王は皇位にはつけなかった。
才女の母に似ないで、姿は美しいけれど「きわめたる痴れもの」であったと「大鏡」に書かれている。

安子が芳子に茶碗を投げつけた逸話はいつごろのことかはっきりしないけれど、だれにでも寛容で聡明な安子が、従姉妹の芳子にだけ異常なまでの嫉妬を抱いていたということは、その底流に実家・・・九条流と小一条流のライバル関係があったからだろう。
事件を師輔の死後のこととすれば、なおさら三人の兄弟たちの失脚は九条流一族の一大事である。

安子がまなじりをけっして帝に即刻処分の取り消しを迫ったのは、たんなるわがままではなく、一族の存亡がかかっていたからである。
こうして九条流一族のかなめにいた安子だったが、応和四年(964)に末娘の選子を出産した直後に急逝した。

頭のあがらなかった安子の死で解放されたはずなのに、村上帝は芳子を見ると安子のことを思い出すという理由で、以後、あまり芳子を愛さなくなったという。

そういうと殊勝なようだが、いっぽうで村上帝は、すでに夫の重明親王と死別していた登子を、安子への気兼ねがなくなったいま、晴れて内侍に迎えて寵愛したというから勝手なものだ。
もっともなによりも九条流の繁栄を願っていた安子のことだから、妹への寵愛なら反対はしなかったかもしれない。

ただし登子には村上帝の子供は生まれなかった。
厚保四年(967)、小一条の女御芳子が没した年、安子の産んだ憲平親王が即位して冷泉天皇になった。
外祖父の師輔も生母の安子もすでに亡くなっていたが、天皇の伯父となった安子の兄弟たち・・・九条流一族の時代が到来した。
憲平親王が冷泉天皇になったとき、東宮にはつぎの弟の為平親王が予想されていたが、その后が源高明の娘だということから忌避されて、まだ若い守平親王が立太子した。
強引にことを運んだのは、安子の兄弟たち伊尹(これまさ)・兼通・兼家だった。
冷泉天皇の在位は短かったが、つづいて即位した円融天皇も安子の子だから、外戚としての九条流一族の地位に変わりない。

しかし以後、兄弟たちの間で権力の座を巡って骨肉の争いが繰り広げられる。
長兄の伊尹は父師輔が願って果たせなかった摂政の座についたが、これからというときに四十九歳の若さで急逝してしまった。

この長兄の死をきっかけに兼通・兼家の対立が激化する。
まず権力の座を手に入れたのは兼通である。
この兼通は弟の兼家とひどく仲が悪かった。

有能な兼家に押され気味で出世も弟におくれをとっいてたのだが、伊尹が死ぬと大方の予測を裏切り、権中納言兼通が大納言兼家を飛ばして関白に就任した。
円融帝の覚えのよくない兼通が、関白位を手に入れるにあたって切り札としたのが「安子の書付」だった。

兼通は村上帝在位のときに妹の安子に頼み込んで、「関白は次第のままにさせたまえ」すなわち「関白就任は兄弟の順に」という意味のことをカナで書いてもらい、そのお墨付きをお守りのように後生大事に首にかけて持ち歩いていたのだった。

カナで書いてもらったのは、将来、幼い天皇に読んでもらう時のための用心である。
亡き母の筆跡を見せられては、円融帝も逆らえない。
しぶしぶながら兼通の関白就任を認めてしまったという。
このためしばらく弟の兼家一族には不遇の時代がつづく。

兼通は関白位を弟兼家ではなく強引に従兄の頼忠に譲って、兼家への憎悪をむき出しにしながら死ぬ。
しかし、結局、九条流藤原家の三番手の兼家が権謀術数の限りを尽くして権力を手中におさめ、息子たちにその栄華を伝えた。
その息子の一人が「この世おばわが世とぞ思う・・・」と藤原氏の全盛を謳歌した道長である。
その源流をずっと遡るとき、恋がたきに茶碗を投げつけた安子という元気な女性に出会うのである。

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美醜の魔界を詠んだ謎の女流歌人小野小町

隨心院が所在する小野は小野氏の一族が栄えたところである。
宮中で仁明天皇に仕え歌人として知られる小野小町もこの地の出で宮中を退いて後も過ごしたとされる。
隨心院には小町の晩年の姿とされる卒塔婆小町像を始め文塚、化粧の井戸などいくつかの遺跡が残る。

真言宗善通寺派の大本山であり、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴二年(西暦991年)奏請して、この地を賜り一寺を建立されました。
古くは牛皮山曼荼羅寺と称されました
総門は宝暦3年(1753)、二条家より移築。

小野梅園 – 境内には約230本の梅の木がある。山紅梅、白梅、薄紅梅などがあり2月末から咲き始め3月中旬が見頃となる。
もっとも多い薄紅梅の色である薄紅梅色を「はねずいろ」ということから「はねずの梅」とも呼ばれている。

隨心院 庫裡
正暦2年(991)建立。
古くは牛革山曼荼羅寺といわれたそうですが、
寛喜元年(1229)、後堀河天皇より門跡の宣旨があり、随心院門跡といわれています。
庫裡は宝暦3年(1753)、二条家の政所であったものを移築。

小野小町歌碑
花のいろは うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに
随心院には、「蓮弁祈願」なるものがあります。入り口のところで販売している蓮弁に願いを書いて、それを蓮弁祈願のツボの中の水に浮かべると願いが叶うという寸法です。

隋心院門跡:大玄関、小町の絵が展示されている。

「言霊作りの巨匠」小町は生没年不詳である。
記録からは「六歌仙」の一人在原業平(825~880年)と同年代を生きた、平安時代初期の女流歌人だと推測されている。

小町がどんな女性であったのかも定かでない。
小野篁の孫、小野後宮に仕える出羽国司の娘、仁明天皇の更衣(こうい)(妃の一人)ともいわれ、巫女説まである。

「古今和歌集」仮名序で、撰者の一人紀貫之は小町をこのように表現している。
「小野小町は古の衣通姫の流なり。
あはれなるようにて、つよからず。
いはば、よきをうなの、なやめるところあるににたり。
つよからぬは、をうなの歌なればなるべし」

「古事記」に登場する絶世の美女・衣通姫は美しさが衣を通して輝くほどの容姿と謳われたが、兄との激しい恋の末に心中する悲劇のヒロインである。
小町が衣通姫にたとえられた背景に「篁物語」にある小町の祖父小野篁の彼の妹との悲恋話が感じられる

薬医門を内側から

本堂・書院前の庭園は、苔が美しいことで知られ、随心院は「洛巽の苔寺」とも呼ばれます。
また奥書院にも四季の花が美しい庭があります。
またこの寺院は石楠花(しゃくなげ)や紅葉の美しさでも知られます

書院に向かう廊下。
残念ながら書院の中は撮影禁止でした。

隋心院門跡:左表書院、奥正面が本堂。

小町が、深草少将が通った日数を数えるために糸を通した跡のあるというカヤの実
深草少将は、積もる思いを胸に小町を訪ねます。
しかし、小町は深草少将に冷たく、「百夜通い続けることができたら、あなたの意のままになります」と告げて追い返しました。

深草少将は、小町の言葉を信じ、毎夜、彼女のもとに通い続け、そのたびに門前の榧(かや)の木の実を証拠として出しました。
小町のもとに通い続けること99夜目。
その夜は、雪が降って大変寒く、少将は、99個目の榧の実を手に握りしめたまま亡くなりました。

小野小町と深草少将のことをいろいろと書いてきましたが、実は、深草少将は架空の人物です。
ただ、そのモデルと伝えられている人物はいます。
それは、深草の帝と呼ばれた仁明天皇(にんみょうてんのう)です。

小野小町
九重の 花の都に 住みはせて はかなや我は 三重にかくるる
この辞世の句を残して世を去った。

もう一つの小町伝説
湯沢市の小町まつりは、古くから芍薬塚(小町塚)で行われます。開催日は、芍薬の花香る六月第二日曜日。

随心院 薬医門
寛永年間(1624~31)の建築で、九条家ゆかりの天真院尼の寄進によるもの。

小町の屋敷跡に残る化粧の井戸で、小町は朝夕この水で化粧をしたと伝える

小町庭苑 – 竹林の中に文塚、小町榧、仁海供養塔、清瀧権現が点在する。

外塀を東に廻り込むと、趣のある土壁となる。斜め対面に文塚。

小町文塚、祈願すれば恋が叶うとか…
深草少将ほか当寺の貴公子たちから寄せられた千束の文を埋めたところ。

仁海僧正供養塔
随心院の歴史を遡れば牛尾山曼陀羅寺と号し、正歴二年(991)に仁海僧正が創建したと伝わります。
仁海僧正は夢の中に亡き母が牛となって鳥羽の地にいることを知り、その牛の世話をし孝行を尽くします。

その亡き後、牛皮をもって両界曼陀羅に仕上げ本尊としたと云います。
牛尾山の号は仁海僧正が牛の尾を山上に埋めて、菩堤を弔った為と伝えられています。
また、仁海僧正は神泉苑において請雨の法を幾たびもおこない、恵みの降雨をもたらした雨僧正としても知られます。
後ろにあるのが榧(かや)の木

門を出てすぐの天田川にかかる橋は、化粧の井戸から流れる化粧水にちなんで化粧橋といわれています。
深草少将が「百夜通(ももよがよい)」した道も残ります。

ご利益
ラブレター上達、恋愛成就、縁結び

隨心院への行き方・歩き方

・住所:〒607-8257 京都市山科区小野御霊町35
・電話:TEL 075-571-0025
・拝観:9:00~16:30:本坊・庭園 400円、石楠花(4月中旬が見頃)
・梅園:400円(2月末~四月初)
・市バス東9で小野下車又は、地下鉄東西線小野駅下車、徒歩約3分

陰陽師・安倍晴明の神秘は不滅


もともとは、修験道の祖とされる役小角(えんのおずの)などを生んだ賀茂氏が取り仕切っていたが、賀茂忠行が出て、その弟子の晴明が活躍するに及んで、以後、賀茂家と安倍家で公家貴族社会の陰陽道の地位を独占し続けた。

後世、晴明の子孫が繁栄を極め、賀茂家を圧倒するようになって、晴明は超能力を持った陰陽道のスーパースターとして奉られるようになった。

戻橋は昔も今も多彩な伝説を生んでいる。
嫁ぐ日、花嫁はその名を嫌って決して渡らなかったし、逆に戦争に出征してゆく者は生きて戻れるよう、この橋を渡って戦地へ赴いて行った。

この橋は正しくは土御門(つちみかど)橋であったが、和泉式部が「いずくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とは人のいふらん」と詠んでいるように、平安中期には既に戻橋と呼ばれていた。

清明は十二体の式神(識神)と呼ばれる鬼神を巧みにあやつって占いに活用したとされる。
その姿は奇怪で、鳥や獣などに姿を変えた。
清明の妻が式神たちの怖ろしい顔におびえるので、通常は石櫃(いしびつ)に入れて戻橋の下に封じ込めていたという。

ごく小さな橋が今では水の流れていない一条堀川に架かっている。

橋の架かる堀川には、いま水は流れていない。
近年に架け替えられた新しい戻橋に果たして魔界は宿っているのだろうか。

晴明の住まいは現在の京都ブライトンホテル南西側、ちょうど西同院通りと上長者町通りが交差するあたりにあったそうだ。

上京区堀川通一条上ルにある晴明神社も、邸宅跡に建てられたといわれているが、現在神社がある場所には応仁の乱以後に移ったものらしい。

晴明神社の紋所は晴明桔梗紋といわれる五芒星で、晴明が天文博士であったことを思い起こさせると同時に、またこれは陰陽道の祈祷の呪符でもあり、西欧ではペンタグラムと呼ばれて厄除けの意味がある。

そもそもここは平安京の大内裏の鬼門にあたる地。
スケールを広げてみると、比叡山には延暦寺、その麓には赤山禅院と、北東の方角はことごとく鬼門封じの装置が仕掛けられており、大内裏に近い晴明の邸は最後の砦だった。

晴明の邸では、蔀戸(しとみど)や門戸がひとりでに開け閉めされるといった奇妙な現象が、人々にたびたび目撃されていたという。
清明が操っていた式神の仕業にほかならない。

その式神たちは主なき後、どこへ行ってしまったのだろうか。
死して神となった晴明のそばに寄り添っているのかもしれない・・・・

厄除け桃
古事記、日本書紀、桃太郎伝説にあるように古来陰陽道では桃は魔除け、厄除けの果物とされています。
厄年の方に限らず自身の厄をこの桃に撫で付けてください。
晴明神社説明書き

伝説では清明は狐と安倍保名との間に生まれたことになっていて、和泉市葛の葉町には、その母親である葛ノ葉狐をまつった信太の森葛葉稲荷神社がある。

実際は安倍益材(あべのますき)という大膳大夫(だいぜんのだいぶ)(宮中の食物、儀式のさいに臣下に下賜する食物を調える役所の長)を務めていた役人が父親で、七世紀後半の政治家・安倍御主人(あべのみうし)より、代々政治家の家系として続いた安倍家の九代目に当たることが分かっている。
母親や出生地についてはよくわかっていない。

晴明が生まれた土地は香川県や茨城県などいろいろと説があり、大阪の阿倍野区にも晴明出生を伝える安倍晴明神社がある。

没年月は寛弘(かんこう)2年九月二十六日。
八十五歳で死んだことになっている。

その墓は転々と移されたようで、これもまたいろいろと説があるのだが、右京区嵯峨天龍寺住倉町の長慶(ちょうけい)天皇陵の裏手にある墓所が、正式なものとされているようだ。

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晴明神社への行き方・歩き方

晴明神社公式サイト

住所〒602-8222 京都市上京区堀川通一条上ル806.
電話 075-441-6460(社務所).
駐車場 あり(有料・20分100円).
参拝時間 9:00~18:00(無休).
拝観料なし

市バスJR 京都駅より: [9]番「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩2分
阪急 四条烏丸駅、地下鉄 四条駅より: [12]番「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩2分
京阪 三条駅より: [12][59] 番「堀川今出川」下車 徒歩2分
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地下鉄烏丸今出川駅より徒歩12分

安倍晴明神社への行き方・歩き方

開門時間:境内自由、占い受付/13:00~17:00
住所:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町5-16
お問い合わせ先:阿倍王子神社
Tel:06-6622-2565
アクセス
大阪環状線「天王寺駅」から阪堺電気軌道「東天下茶屋駅」~東南へ徒歩5分

悪縁を切り良縁を結ぶ 安井金毘羅宮

安井金毘羅宮にお詣りすれば、酒・たばこ・ギャンブルから男女の悪縁に至るまであらゆる断ち物に成功するという。
こうした縁切り・物断という珍しい後利益の由来は、実は祭神崇徳上皇のパワーから生じている。

本殿/中央に崇徳天皇が祀られている
主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、当宮は断ち物の祈願所として信仰されてきました。

また、戦によって心ならずも寵妃烏丸殿とお別れにならざるを得なかった、崇徳帝の悲しみのお気持ちは、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶ちきって下さいます。(安井金毘羅宮HPより)

10月10日の大祭には保元の乱の際、崇徳上皇に味方した七人の武士を偲んで、稚児の小武者行列が町内を練り歩く。

絵馬の道碑

安井金比羅宮から北へ100mほどのところにある「崇徳天皇御廟」
崇徳上皇の死後、都では疫病の流行や大火、ついには源義朝(保元の乱で後白河側に付いた)などの死がが相次ぎ、人々は崇徳上皇の呪いだとささやき始める。

朝廷も怨霊を鎮めようと、死後3年目に「崇徳院」の諡号を贈っている。
また、悲嘆にくれた阿波内侍は、崇徳院を弔うため館を寺に改築して願勝寺としたが、都では憚る(はばかる)ところが多く母の生国である阿波に寺を移した。

その寺は現存する徳島県美馬市にある枯山水庭園で有名な宝壷山・願勝寺である
その後、阿波内侍は剃髪して名を仏種尼と改め、密かに観勝寺境内に廟を造ったとされる。
安井金比羅宮の北に土塀に囲われた「崇徳天皇御廟」の石柱が立つ一画(観勝寺御影堂の跡)がある。

この崇徳天皇御廟の背後(西側)が祇園甲部歌舞練場で、その裏庭に阿波内侍の供養のために建てられたと伝える、小さい五輪塔があるとされるが五輪塔の確認はできていない。

高さ1.5メートル、幅3メートルの巨石で、中央の亀裂を通して神様のお力が下の円形の穴に注がれています。
「○○君と幸せに結婚できますように」という可愛いお願い事から、「夫と浮気相手との縁を切って下さい」といった事まで、様々なお願い事を書いた形代(かたしろ、身代わりのおふだ)が張ってあって、碑が見えないほどです。

まず、形代に願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、

裏から表へ通って良縁を結びます。
最後に形代を碑に貼って祈願します。

縁切り・縁結び両用のご利益をうたっているけれども、むろん悪縁・物断ち祈願のほうに重点が置かれている。

境内には男女の縁、酒、たばこ、賭け事などから縁を切りたいと祈願する絵馬がたくさんかかっている。
そうした絵馬はあまり見るべきものはないのだろうが、境内の一角にある絵馬館の絵馬はじっくりと観察できて興味深い。

著名な画家や文人の納めた絵馬とともに有名なのが「男断ち」の絵馬である。
この絵馬には「わたし儀、これまで男さんを持って困りました故、のたび心をあいあらため、男さん一切お断り・・・・・ただし三か年の事」と決意?のほどが記されている。
奉納したのは54歳の女性、明治22年とある。

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安井金毘羅宮への行き方・歩き方

安井金毘羅宮公式サイト

住所:京都府京都市東山区東大路松原上ル下弁天町
電話番号:075-561-5127
拝観時間/営業時間:10:00-16:00
拝観料・料金:境内拝観自由

JR新幹線・東海道本線京都駅から
市バス206系統北大路バスターミナル行、東山安井下車、南へ徒歩1分
京阪本線四条駅・阪急京都線河原町駅から
市バス207系統九条車庫行、東山安井下車、南へ徒歩1分
または四条通を東へ徒歩15分、東大路通を南へ徒歩10分