恐竜王国福井 旅で出会った恐竜たち


恐竜王国福井、その中心地勝山市の下水管カラーデザインマンホール。
恐竜王国の文字と、恐竜、その足跡がデザインされています。

恐竜王国福井には至る所で恐竜に出くわします、今回の旅で出会った恐竜たちを紹介。

恐竜王国勝山、1982年に、北谷町で1億2千年前のワニ化石が発見され、1988年の予備調査では肉食恐竜の歯などが発見された。

本格調査により、勝山市は日本の恐竜化石の大部分を占める恐竜王国となりました。
2000年(平成12年)7月に長尾山総合公園に福井県立恐竜博物館が開館し、卵形の恐竜ホール内は太古の恐竜王国へ迷い込んだ気分が味わえます。


フクイラプトル、勝山橋付近。
フクイラプトルは、第一次恐竜化石調査(1989~1993年)で歯や前あしの末節骨(かぎ爪)が発見され、肉食恐竜の存在が明らかになりました。
その後、第二次恐竜化石調査時(1996~1997年)に、大腿骨など多くの部位が見つかり、000年に新種の恐竜として命名された。

イグアノドン、えちぜん鉄道勝山駅 ロータリー内。

以下の画像は福井駅「恐竜広場」にて。

恐竜が飛び出してくるトリックアート、画像はフクイラプトル・フクイサウルス。

トリケラトプス

フクイティタン:竜脚類の草食恐竜。日本で初めて学名がつけられた竜脚類、全長(骨格(頭の先から尾の先まで))約10m、最高高さ約6.0m(モニュメント)

左は「フクイラプトル」という肉食の恐竜。
前肢、後肢の骨がほぼ揃っていて、肉食恐竜では日本で初めて復元することができた全身骨格だとか。
全長は4.2m。
白亜紀前期のもので、この時代の獣脚類の進化を考える上では重要な発見だそうです。

右は2003年に新しい種類の恐竜として命名された「フクイサウルス」という草食恐竜。
全長は4.7m。
フクイサウルスはイグアノドン類の進化の研究の上で重要な化石標本となっているもので、全身骨格が復元されています

恐竜以外にも、最近仲間入りした「福井の哺乳類」にも注目!
2014年に、恐竜時代の哺乳類の骨格化石が日本で初めて発見された。

ほぼ全身の骨が見つかったため、その骨からかつての姿をイメージして作ったものなんだとか。
この姿はほぼ本物に近いと言われています。
(本物の大きさはもう少し小さいようです。)

福井駅西口広場に面した駅舎の壁面には、縦10m、横45mという巨大サイズの恐竜の絵が描かれている。

わざわざ恐竜博物館に行かなくとも駅前で十分楽しめるようだ。

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勝山弁天桜も雪の中


突然襲った雪に桜も震えているだろう。
勝山弁天桜(九頭竜河畔の桜)の桜は勝山橋を渡った右岸に展開する。

九頭竜川右岸に約1.5km続く弁天桜並木は一目千本と呼ばれ、約450本のソメイヨシノが美しい姿を見せてくれる。

毎年4月中旬には「弁天桜まつり」が行われ、桜のトンネル沿いに出店が並ぶ。

残雪輝く奥越前の山々とのコンビネーションは多くの人々を魅了する美しさだが今年ばかりは様子が違う。

ガスがかかり美しい残雪の山々が見えません。

こいのぼりと桜のコラボです。

勝山橋の上から越前の山々と九頭竜の激流にうっとり。

継体天皇穂訪ねる福井の旅も終わりに近づいています、彼が治水に苦心したという九頭竜川を眺めながら感慨に浸る。

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勝山城跡 福井


現在の勝山市役所付近が城跡中心部で、市役所と公民館があるあたりが本丸跡であり、市役所前の道路付近に堀が設けられていた。

天守台や石垣が昭和40年まで残っていたが、市民会館建設に伴い撤去され、現在は市民会館敷地に城址の碑が建つのみである。

勝山城は、戦国時代の天正8年(1580年)に柴田勝家の一族である柴田勝安によって築城された。
信長公記では勝山城城主は原長頼と思われる。

江戸時代に入ると、慶長6年(1601年)福井に封じられた結城秀康の支配するところとなるが、寛永元年(1624年)松平直基が3万石をもって封じられると、勝山藩の藩庁が置かれた。

その後、松平直良が入るが、正保元年(1644年)直良が移封されると廃城となり、勝山の地は天領となった時期もあった。

元禄4年(1691年)に小笠原貞信が2万2千石で勝山の地に封じられ、以後明治維新まで小笠原氏8代がこの地を治めた。

宝永5年(1708年)には、城址への築城許可が下り、7代藩主小笠原長貴の代に完成を見た。

文政5年(1822年)に、本丸より出火し、門、高塀、土蔵を残して焼失したが、文政9年(1826年)に再建された。
明治時代に廃城となった後、城の建物は取り壊された。

近くに勝山城博物館と称して城跡がたつがあくまでも博物館で勝山譲渡は関係ない。
天守の高さ日本一を誇る勝山城博物館
勝山城は明治維新後解体され今は跡形もない。 博物館は、地元出身の実業家、相互タク … 続きを読む →

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春雪にびっくり 白山平泉寺訪問記


見地の人もびっくりの突然の雪です。
雪と桜が同時に見れるというハプニングに見舞われた。

福井からえちぜん鉄道に乗車、途中からちらちらと積雪が見られた、ところが勝山に着いてみるとなんと白銀の世界ではないか。

参道にはほとんど人影もなく静かな雪の世界。
この坂を精進坂という、これより上は魚類の持ち込みが禁止だった。

境内は1935年(昭和10年)「白山平泉寺城跡」として国の史跡に指定された。
その後、1997年(平成9年)に史跡の指定地域が追加され、指定名称が「白山平泉寺旧境内」に変更された 。

旧玄成院(別当・平泉宮司邸)庭園は、1930年(昭和5年)に国の名勝に指定された。

二の鳥居が霞んで見える、幻想の世界です。

額の上に屋根があるのは神仏習合の名残、1777年のもの。
境内の道路の大半は石畳道で、石組みの側溝など、技術的にも当時の日本の最先端だったと考えられています。

振り返ると一の鳥居がカスミの彼方に。

拝殿が見鵜てきた。

現在の建物は江戸時代の終わりに建てられたもの。

かつては三十三間拝殿という大きな建物が建っていた。

今は、その柱を支えていた礎石が残っています。

拝殿の周辺は、樹齢数百年の杉林の下に、青々とした苔がじゅうたんを敷きつめたように広がっています。

しかし、今日は苔は雪の下です、一面の銀世界です。

以前の訪問記、苔がきれいです。
日本一の苔を見に 平泉寺白山神社にやってきました
白山の登拝口に建てられた平泉寺は、古代から中世後期にかけて白山信仰の拠点寺院とし … 続きを読む →


天正2年(1574年)当時、織田信長方に仕えていた白山平泉寺は、大阪の本願寺方の一向一揆に攻められ、全山が焼失。

10年後に一部再興されたが、境内はもとの10分の1程度にすぎず、多くの坊院跡は山林や田畑の下に埋もれました。

本社は、寛政7年(1795)、福井藩主の寄進で建てられた。

本社の向かって右手には別山社、左手には越南知社があり、白山三山の神をおまつりしています。

彼方に三宮が見える。

白山神社境内の一番奥に位置する社で、この後から白山への登拝道である越前禅定道がはじまります。

三宮の手前には楠正成の墓があり、室町時代の石塔が建っています。

鎌倉時代の初めには、源頼朝に追われた義経主従が、山伏姿に姿を変えて奥州に落ちる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、義経や弁慶に関する伝説も残っている。

御手洗池(みたらしいけ)は、養老元(717)年、泰澄が白山への道中に発見した泉。

現れた女神に、白山へと登ってくるようにお告げを受けたとか。
平泉寺の名前の由来にもなっています。

国史跡白山平泉寺旧境内は、古くから信仰の対象であった霊峰白山(標高2,702メートル)の越前側の拠点として、養老元年(717年)に泰澄によって開かれたと言われています。

先ほどから雪が激しく降っています。

幹が3つに分かれた御神木の杉を見ながら上を目指す。

中世、平泉寺は悪僧の巣窟でもあった。
貴族たちから寄進された所領が多く、寺は富裕で・・・・・・
街道をゆく18 越前の諸道

帰りの道をたどっている。

降りがいよいよ激しくなり振り返っても二の鳥居が見え隠れする。

雪の中、女性の二人連れが参道を上っていく。

あまりの激しい雪に二人は大丈夫だろうかと他人事ながら心配になる。

白山平泉寺歴史探遊館 「まほろば」でバス待ち。

「まほろば」は史跡平泉寺や白山の歴史・自然・文化に関することを展示紹介しています。
また、文化財を活かした学習・交流・地域づくりの拠点施設ともなっています。

降りしきる雪の中に満開の桜、めったに拝めない世界です。

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福井城


復元なった山里口御門と櫓門・廊下橋。

廊下橋。藩主は西三の丸御座所に居住し、そこから本丸内の藩政所へ通うための専用の橋が廊下橋であった。

桜はすでに盛りを過ぎている。

改装なった福の井。

「福の井」は慶長6年(1601)の北ノ庄城(後の福井城)築城当時からあった井戸と考えられている。

安永4年(1775)の「御城下絵図」の天守台には「福井」と記された井戸が描かれている。

この頃には一般に「福の井」と呼ばれ、福井城の特別な井戸となっていたことがうかがえる。
 
昭和23年(1948)の福井地震では、本丸の石垣がいたる所で崩れた。

「福の井」が崩壊することはありませんでしたが、井戸の形が大きく歪んだことから、震災後に井戸枠が大きく作り変えられた。

雁木(がんぎ)、本丸大手門脇、石塁の城内側を石の階段としている。
防備上で重要な所に設ける。

今日の泊はじゃらん 福井マンテンホテル

駅近で新しくきれいなホテルです。

久しぶりの福井、美酒に酔いしれる。

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福井に継体天皇を訪ねる


越前市花筐公園に立つ岡太神社。

迹王の餅神事

毎年九月十三日(現 十月十三日) 未明に行われる神事で、数十の大半桶に盛った餅を積んで献る。 
これは、男大迹皇子が潜龍時代に、郷民を愛育撫恤し給うたというその厚徳に酬い奉らんとして餅をついて皇子に奉ったところ皇子もまた、餅をついて郷民を賑わい給うたという故事によるものという。

さて、村内に男児が出生すれば、迹王の子と称して迹王宮の名簿に記載する。 
成人になると、筆頭のものから三十二人(迹王方十六人・宮方十六人に分かれる)が選ばれ、迹王若者と称して、当年の迹王の餅を献る当役となる。 

当日捧げられた餅は迹王の子たる者に頒たれる。

境内に建つ
「継体天皇潜龍之聖迹」碑

岡太神社 拝殿。

社伝によると、当社の勧請は、男大迹皇子(継体天皇)が御潜龍の折、当地の水害を煩慮なされて水路をお穿ちになり、九頭竜・足羽・日野の三川を開かれた。

このとき、建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀されて、岡太神社と号して祈誓し賜うたという。

即ち、延喜式神名帳に記載の今立郡十四社の一にして所謂式内の社である。

「継体天皇は、応神天皇の五世の孫にあたる人の、その子である」という意味の記述になっているが、婿の系譜がたとえ事実であったとしても、これほど遠い血縁の人を天皇として迎えざるを得なかったというのは、よほど異常の事態がが委員として存在していたのに違いない・・・・

街道をゆく4 北國街道とその脇街道

日本書紀に、継体天皇という不思議な存在が出てくる・・・・・

街道をゆく18 越前の諸道


皇子が池

大迹の王と(継体天皇)目子姫の子、勾大兄の王子(27代安閑天皇)・日隈の高田王子(28代宣化天皇)ご誕生の折、この池の水を産湯に使ったと伝わっている。

現在、池は正6角形で大きさは27㎡、池は大きな石でふさがれているため水の有無は確認できていない。

この六角形の部分の土地だけ国が所有している。

謡曲 花筐

室町時代の世阿弥が作った謡曲「花筐」 には二人の美しいロマンスが語られている。

越前の国 味真野におられた男大迹皇子はにわかに皇位につくことになり寵愛する照日の前に花筐と玉章を贈って上京し継体天皇となられた。

残された彼女は皇子恋しさのあまり花かごと御手紙を持って大和の玉穂の都へと上り紅葉狩りの行幸に遇う。

そこで花筐が縁で再び天皇の愛を回復したという。

世阿弥には巷間に取材した曲があるがこの「花筐」も当時味真野に伝えられていた継体天皇伝説をもとに創作されたものであろう。

JR武生駅にある継体、照日の像。

継体天皇石像  福井市足羽山公園

「 継体天皇は御名を男大迹皇子と称し、御即位に至るまで数十年間当国越前に潜龍ましましたが、その間越前平野の治水を講じ、笏谷山の石材採掘を勧めるなど、民治に深く意を用いられたので、国人長くその御事績を景仰している。

この石像は天皇の遺徳を追慕し、明治十六年福井地方の石匠島田宮崎谷屋藤間林内等相謀り之を建立したもので、石材は天皇に所縁のある笏谷石を用い、石像の向は之亦天皇が治水に際して水門を開かれしと伝えられる北北西の三国港を遙かに望んでいる。

爾来この山頂に存立して常に市民に親しみ敬われて来たが、昭和二十三年の大震災によって倒壊したの修復再建したのである。
     昭和二十七年十一月  福井市  」

足羽山から福井市街を望む。

本来であれば足羽川堤は桜が満開であったであろう、今年は異常気象のせいですでに散ってしまっている。

以前訪問した観桜の記録

桜満開 足羽川堤防の散策
今日の東海北陸20名城巡りの宿はホテルフジタ 福井 夕食を済ませ桜満開の足羽川堤 … 続きを読む →


前府中城は、越前国南仲条郡(後の南条郡、現在の福井県越前市)にあった城。別名は越府城(えつふじょう)。

関ヶ原の戦い後に越前国が結城秀康に与えられると、その重臣である本多富正が越前府中城に入って改築した。

2層の天守閣があったものの、家臣の居館であったことから、「御館」「御茶屋」と称せられた。
また、藤垣がめぐらされていたことから、藤垣城(ふじがきじょう)という愛称でも呼ばれた。

明治維新以降に堀は埋められて城跡は小学校の敷地となり、更にその跡地に武生市役所(平成の大合併によって越前市役所に転用)が建設された際に城跡は完全に破壊されて、現在は市庁舎と武生駅から越前市役所へと伸びる大通りとして完全に整地されている。

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しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。

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古墳の町 上中まで歩く


昨夜のトラフグの宴会が尾を引いています。

全員昼食はいらない!!と 時間が余ってしまい結局バス停二つ分歩くはめに。

前方の山は冠雪しています、越前方面の山か。

天気も良くいい景色を眺めながら・・・

柿の実ひとつ。

こちらは吊るし柿、田舎の風情だ。

ピラカンサもきれい。

上中駅は相対式ホーム2面2線で交換設備を有する地上駅。
敦賀地域鉄道部が管理し、自治体が窓口業務を受託する簡易委託駅でありながら、みどりの窓口(営業時間7:00 – 18:00)も設置されている(e5489サービスによるきっぷの受け取りは不可)。

窓口は上りホーム側に面した南口側に設けられている。
駅舎は2005年(平成17年)3月3日に改築された。

福井県内の駅では最初にエレベーターが設置された駅(その約1ヵ月半後、福井駅には高架化工事完成と同時にエレベーターのほか、福井県内の駅では初のエスカレーターも設置された)。

JRバスはここから山中に分け入り、熊川宿を経て近江今津に至る。

ここ上中は古墳の町。

若狭(上中地域)の古墳と継体大王の擁立

5世紀後半の西塚古墳(福井県若狭町)からは金製の耳飾や金銅製の馬具が出土しているが、特に大加耶地域を中心に、ヤマト政権を介した外交によりもたらされた遺物と考えられている。
 
それが、5世紀末から6世紀前葉にかけての「十善の森古墳」(福井県若狭町)築造の時期には、金銅製の冠帽やガラス玉など百済産と考えられる遺物が出土するようになる。

この時期がまさに継体大王擁立の時期、つまりヤマト政権の不調和の時期に相当し、遺物の内容からも若狭の豪族が独自に朝鮮半島との交流をもった可能性が高いと考えられる。
 
さらに、継体朝から欽明朝にかけては再びヤマト政権の中央集権体制が強化される時期である。

若狭においては、6世紀中葉から首長墓が前方後円墳から円墳にいち早く変化している。

ここからの出土品は、画文帯神獣鏡や馬具など、全国的に見られるものとなっており、ヤマト政権の介入を古墳の形態と出土遺物からも読み取ることができる。
 
今城塚古墳(大阪府高槻市)に近い梶原1号墳からは、剣菱形の馬具が発見されており、十善の森古墳や丸山塚古墳(ともに福井県若狭町)からも類似したものが発見されている。

また、6世紀前半から中頃に築造された、下船塚古墳(福井県若狭町)などの埴輪は、尾張地方の古墳と類似しており、継体朝との関連が推測されている。

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名水百選 瓜割の滝


天徳寺縁起によれば、今からおよそ1300年前の養老年間、加賀・白山を開いた泰澄大師が当地宝篋ケ嶽に上り、馬頭観音像一躯を刻んで山腹の岩窟に安置し去ったことを以て寺の起こりとしている。

起源を、門前の湧き水の水神に対する強い信仰によるものとする説もある。

すなわち、水源地である水の森に祀る水神(ここでは不動明王)に対する近郷の信仰は篤く、旱魃の際に近郷こぞって雨乞いの祈願をした記事がいくつかの史書に見えることからも水神信仰に起源をおいたことは明らかというものである。

瓜割の滝上方の山道を100メートルほど進んだところに四国八十八ケ所石仏霊場がある。
ここは江戸・文化年間、時の住持本如上人が空海(弘法大師)の夢告を受け造営したもので、佐渡島で彫られた石像88体が安置されている。

かつて若狭から出た作家水上勉はその随想集の中で「石仏で名高い天徳寺。石仏は石段をあがりつめた山腹だが、四国八十八ケ所石仏といわれている。(中略)枝の混んだ杉、檜の木の木もれ陽の中で、静かに正座しておられる石仏をみていると、暗い奥山だけに、幽邃である。天徳寺は、また湧き水で名高い水の森があり、この石仏群のしじまのへ水音はきこえてくる。

若狭は、やはり仏の国だと思う」と言った(『若狭路』)。

柵内の岩の割れ目から湧き出す水量は、一日4500t。

水温は12度。冷たい水で瓜が自然に割れたという故事からその名がつけられた。

滝周辺は元々「水の森」と呼ばれる修験者の修行地で、また朝廷の雨乞いを司る祈祷所だったとされる。

また、水中には紅藻植物のヒルデンブリンディアリブラリス(Hildenbrandia rivularis、ヒルデンブリンディア属(英語版)の一種)が繁殖しているため、水中の石が赤く染まっている。

平成18年1月には、ふくいのおいしい水に認定された。

この冷たい湧き水を瓜割清水と呼び、それが滝のように落ちるから総体に瓜割の滝と呼んでいる。

江戸・元禄期に小浜藩から出た『拾椎雑話』という地誌書に「天徳寺門前に岩窟より湧出する清泉あり。

此所を水の森といふ。夏の日には其の冷なること氷のごとく、水中の小石を十拾い取るものなし。

瓜ひやし置かはおのつから破るに俗に瓜割水と呼」とあり、古来、この水がいかに冷たい水として周辺地域に知られていたかが窺える。

和歌森太郎編『若狭の民俗』によれば「この湧き水を中心に寺が出来、ムラが出来た」という。

それによれば、「天徳寺の所在地が、村氏神の岩上神社発祥の地、水の森に近く、集落を足下に控える渓口に位置し、かつその寺名を集落の名称としているところから、この寺が集落成立の草分け的役割を担った」という。

境内の杉や檜の群立する通称水の森と呼ばれる一角に湧く冷水、昭和60年、当時の環境庁が全国名水百選に選定した。

熊川宿、小浜を訪れる人は多いがほとんどの人が瓜割の滝は素通りだろう。
もったいないことだ。

ただ、環境保全の面からは願ってもないことだ。

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古刹 明通寺 紅葉2017

山号は創建当初棡木で本尊薬師如来を彫ったことから棡山といいます。真言宗御室派。

朝日が射し境内を照らす。

京都の清水寺も創建した坂上田村麻呂公が、大同元年(806)創建したと伝えられる。

三重塔は、文永7年(1270)建立の、初層平面方三間(4.18m)総高22.12m、桧皮葺木造三重塔婆。

全体的なバランスの良さや組ものの精密さなどから、高度な建築技術を駆使しており、国内でも鎌倉建築を代表する建造物。

爽やかな冷気が山内に満ちている。

国宝の本堂は、正嘉2年(1258)に建立された、入母屋造桧皮葺、桁行5間(14.72m)・梁行6間(14.87m)の建物。

木漏れ日に散りモミジ、いい風情です。

大伴家持の妻・恋人
 
かつて若狭の国府が置かれた小浜は、まるでこの町を優しくつつむような後瀬山に護られている。
 
後瀬とは、「後に逢瀬」を連想させ,国府小浜が比較的都に近いこともあって,その名は通っていたようである。
 
表題歌は、恋愛関係にありながら,別れたものの10年ほどの後に夫婦になったと言われる家持の妻の歌である。
 
これには、家持の返歌(万葉集巻4-739)がある。       
  後瀬山 後も逢はむと 思へこそ 死ぬべきものを 今日まで生けれ

こちらに後瀬山城の訪問記があります。
若狭武田氏の拠点 後瀬山城
後瀬山城はJR小浜駅の南西に聳える標高168m程の山に築かれている。 現在主郭に … 続きを読む →


木漏れ日と苔むした石組、そして紅葉、いい取り合わせだ。

山間部で陽が昇るのが遅く、ちょうど訪問時にはあちらもこちらも朝日が射して清々しい。

こちらのお堂には不動明王立像が祀られている。

立ち去りがたく、鵜黒を振り返りながら辞した。

明通寺の過去の訪問記

若狭の古刹・名刹 明通寺
明通寺は、福井県小浜市門前にある真言宗御室派の寺院。 山号は棡山(ゆずりさん)。 … 続きを読む →

坂上田村麻呂公の創建と伝わる明通寺
明通寺は、福井県小浜市門前にある真言宗御室派の寺院。 山号は棡山(ゆずりさん)。 … 続きを読む →

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お水送りの寺 神宮寺


お水送りの寺としてあまりにも有名だが紅葉もなかなかのもの、陽の射す表門より入る。

振り返るとはるか向こうまで参道が続く。

仁王門までは数100mある。

仁王門(北門) – 鎌倉時代末期再建。間口6.37m、奥行き3.64m、棟高5.5mの単層屋根、切妻造、二軒和様杮葺八脚門。至徳2年(1385年)造立の木造金剛力士像を一対を安置。

こちらはお水送りの記事ですが、仁王門から案内しています。
春先取り 火と水が織りなす荘厳の世界 お水送り
天平勝宝 4年(752)インドの渡来僧・実忠が二月堂の建立の時、修二会を催して全 … 続きを読む →


表門をくぐるとすぐに本堂。

本堂は、室町時代末期の建築で 入母屋造 檜皮葺の屋根、和洋唐様天竺様の3様式折衷建築物。(重要文化財) 

本堂の正面には、お寺にもかかわらず、鈴 と 注連縄 が掛かっています。(正月にかけ直す)   
仏教徒といいながら、毎朝 お水を神棚にあげて、柏手を打って拝礼する。

本堂右手は茶室。

本堂 – 室町時代は天文22年(1553年)越前国守護朝倉義景による再建。

間口14.34m、奥行き16.60m。建築様式は、和様を主体とする折衷様。建坪は110坪。

本堂横の紅葉。

本堂から庭を。

朝日が影絵のよう。

苔の庭に散りモミジ。

閼伽井戸
右手はお水取りの水を汲む「閼伽井戸(あかいど)」

神宮寺の御神体である長尾山(那伽王山)の水が地下をくぐり湧き出た水、別名、龍王神変水(りゅうおうしんぺんすい)とも呼ばれるそうです。

過去の神宮寺の訪問記

若狭の古刹・名刹 神宮寺
毎年3月2日、奈良東大寺二月堂に香水を送る「お水送り」神事を行っています。 若狭 … 続きを読む →

お水送りの寺 若狭神宮寺
若狭神宮寺は福井県小浜市にある天台宗の寺院。 山号は霊応山、本尊は薬師如来坐像。 … 続きを読む →

お水送り伝説の地 鵜の瀬を訪れる
名水百選(環境庁認定)に選ばれている鵜の瀬は、毎年3月2日に奈良東大寺二月堂への … 続きを読む →

この日は、2月15日から3月5日まではお水送りの祈祷中で参拝できませんと書かれていて参拝できず。。

春先取り 火と水が織りなす荘厳の世界 お水送り
天平勝宝 4年(752)インドの渡来僧・実忠が二月堂の建立の時、修二会を催して全 … 続きを読む →

雪の中、お水送りの開始を待つ間寒かったのを覚えています。

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