アジサイには早すぎた 久安寺


OB会の撮影会で久安寺を訪れたがアジサイには少し早すぎでした。
画像は御影堂、宗祖弘法大師空海を祀る。

撮り足りなさを覚え二日続けて参拝。

本堂

久安寺本尊千手観音のおわします観音堂。

摂津国三十三所霊場第 19番札所。

開運の鐘。

まず、鐘を4回ついてから、お経を唱えます。

それからお願い事をする。

先駆けにカシワバアジサイが境内のあちこちに咲いています。

薬師堂の脇の池でカエルを見つけた。

水面は光を受けてきれいです、多くのカエルを見かけたのだが人の姿を見て驚いて水に潜ってしまいます。

静かな環境でないと観察できない。


バン字池にはたくさんの鯉がいます、人が近づくとえさを求めて寄ってきます。



葉っぱが年中赤いモミジの品種で最も有名なものは「ノムラモミジ」。

ノムラは漢字で「濃紫(のうむら)」と表記するので、ノムラモミジは濃い赤紫色のモミジという意味になります。

ヤマボウシが咲いていました。

ヤマボウシは上向きに咲くので咲いていても気付かない事が多い。

「山法師」の名前は、中央の丸い花穂を坊主頭に、4枚の白い花びらを白い頭巾に見立て、比叡山延暦寺の「山法師」になぞらえた。

弥勒山森林浴巡拝コース

四国八十八か所のお砂踏み巡拝霊場です。

境内山内一周1080メートル(約1時間)の山歩きが楽しめます。

御影堂右側わたりろうか下をくぐってお進む。


三十三所堂

西国観音霊場を祀る。
33メートルの須弥壇に、自宅仏壇をもたない人の先祖霊、遺骨をお預かりお参りできる慰霊壇を設けています。

朱雀池に咲く「ハス」

逆さまに映るリフレクションがきれいです。

日傘の女性のリフレクションを撮ろうと待ち構えるのだが、なかなかまともな画像が撮れません。

涅槃仏の壁面にさす光

裏側に光源があります。


一面に咲くアジサイが美しいのですが、時期が早すぎます、頃合いを見てもう一度訪れようと思っています。

紅葉がまた素晴らしい。

超穴場!久安寺の紅葉
楼門 14世紀、室町時代の建立。 奈良時代の開基、優雅第一と賞される楼門は「軒反 … 続きを読む →

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番所庭園


庭園のある岬は江戸時代より紀州藩の海上への見張り番所が置かれた場所であったことから「番所の鼻」と呼ばれ、当庭園はその見張り番所の跡地を整備したものである。

「ばんどこ」と読む

平坦で海に長く突き出た独特の地形をしている庭園は「番所の鼻」といわれています。黒船の見張り番所の跡で、文久3年(1863)に軍艦奉行並だった勝海舟もここを訪れています。

ペリー黒船来航を機に、紀州藩が海防に本格的に取り組み、江戸時代(1854)に海上への見張り番所「元番所お台場」が造られた。

昭和40年(1965)に、元番所お台場跡に庭園が築かれ番所庭園が開園。
日本遺産にも認定されている。

当庭園は紀伊水道に浮かぶ大島(男島)、中ノ島(女島)、双子島を眼前に望む景勝の地であり、夕日の名所としても知られる。

番所の鼻の先端から望む大島と中ノ島

724年(神亀元年)、聖武天皇が和歌の浦へ行幸された際に、お供した藤原卿が雑賀浦の漁火を見て歌を詠んだという万葉ゆかりの地でもあります。

万葉時代神亀元年(724)に藤原卿が「雑賀(さひか)の浦」の漁火を見て詠まれたといわれている歌はあまりにも有名です。


番所庭園の地質は、緑色を呈する緑泥片岩(りょくでいへんがん)で、紀州青石とも呼ばれています。

紀州では、古来より石垣、門柱、庭石、石碑、石畳などに広く用いられています。

群青の海と、緑泥片岩の断崖絶壁のコントラストは、いかにもサスペンドラマに登場しそうな雰囲気です。

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玉津島神社界隈


玉津島神社

稚日女尊、息長足姫尊、衣通姫尊、明光浦霊をお祀りしています。

古来より風光明媚な和歌の浦、玉津島神社は山部赤人が歌に詠んで以来、万葉集をはじめとして、多くの歌に登場します。

1917年(大正6年)、鹽竈神社は玉津島神社(玉津嶋神社)の祓所から神社になった。

海産物、安産の神として信仰されてきた神社で、神体の塩槌翁尊は輿の窟という岩穴に鎮座する。

近くには家庭円満の守り神として多くの人の信仰を集めてきた樹齢数百年の大木「和合の松」があったが、2012年(平成24年)6月に倒壊した。

和歌の浦のシンボルでもあった姿を復活させようと、通常難しいとされる挿し木によるクローン苗を使って、2018年4月に元の場所に植樹された。

不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道」に架橋したもの。

橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されている。
勾欄部分は雲を文様化したものが見られる。

江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れている。

近年までは不老橋を渡ったところに「不老館」という和風建築の建物があったが、解体され、現在は和歌の浦アート・キューブになっている。

妹背山は玉津島神社のすぐ横にある、旧和歌浦湾の内海に浮かぶ周囲250mほどの小島。

その西側には県内最古の石橋、砂岩製高欄つきの「三断橋」が架けられていて、妹背山に渡ることができます。

妹背山・三断橋

玉津島神社から妹背山に繋がる県内最古の石橋。中国の杭州西湖の六橋を模したとされ、小アーチ型橋を3カ所繋げている。
徳川頼宜により架橋される。

雑賀城(さいかじょう)は、戦国時代に現在の和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目付近に存在した日本の城(丘城)。
妙見山城とも呼ばれた。

いつの頃まで存在したのかは不明であるが、遅くとも秀吉が紀州征伐をする1585年(天正13年)には廃城となっていたであろうと推察される(この年から和歌山城築城が開始される)。

対岸には紀三井寺が見えている。

和歌山市の一部に当たる雑賀地方は、十ヶ郷、雑賀庄、中郷、宮郷、南郷の5ヶ郷からなる。

鈴木氏、土橋氏、島村氏、栗村氏、松江氏、宮本氏らが族党をつくり雑賀衆となった。
鈴木重秀(雑賀孫市)は、雑賀衆を代表する者であった。

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西国三番札所 粉河寺


粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河にある粉河観音宗の総本山の寺院。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。

伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。

中門(重要文化財) – 入母屋造、本瓦葺きの楼門。
左右の間に四天王像を安置する。

棟札によれば明和年間(1764年 – 1772年)から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成。
扁額「風猛山」は紀州藩第10代藩主徳川治宝の筆。

紀州青石

和歌山城築城当初の石垣には、紀州特産の「青石」が多く使われている。

緑色を呈するため緑泥片岩とも呼ばれ、古来から紀州では石垣、門柱、庭石、石碑、石畳など広く用いられている。

青石の産地は中央構造線の南、西南日本外帯に分布し、東は三重県から西は愛媛県に至り、伊勢青石、紀州青石、阿波青石、伊予青石がブランド石となっている。

粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。

清少納言の『枕草子』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪(中略)石山、粉川、志賀」とあり、『梁塵秘抄』に載せる今様には、「観音験(しるし)を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河(後略)」とある。

盥漱盤とはいわゆる「手水(ちょうず)鉢」のことで、寺社に立ち入る前に手や口を清めるためのものである。

「盥」は「たらい」、「漱」は「うがい」を表します。

かつて粉河の地域の鋳物産業は活発で、粉河鋳物と呼ばれるほどであった。

この盥漱盤は安永4年(1775)粉河鋳物師蜂屋薩摩掾五代目源正勝の作品で、粉河鋳物の代表的作品であると言われている。

太子堂

鎌倉時代には天台宗の寺院として550か坊もの子院を持ち、大勢の僧兵を擁し、寺領は4万石もあって広大な荘園を持ち、根来寺や金剛峯寺と比肩しうる大寺院であった。

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中世地中海の港街 ポルトヨーロッパ


イタリアの路地裏に迷い込んだかのような小広場です。

400年の歴史をもつ地中海沿岸の漁村「イタリアのFINO(フィーノ)」がモチーフ


イタリアの路地裏に迷い込んだイメージ。





階段エリアの「ヴィエッタ カプリ」はイタリアの路地をイメージ

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ぶらり退蔵院


玄関に網代笠(あじろがさ)があった。

そして中に入ると「旅」と題するぶんが掲げてある。

土に帰るたびか・・考えさせるね。

方丈への入口の門は「袴腰(はかまごし)造り」と呼ばれ、唐破風造りの破風の曲線が直線になってる非常に珍しい様式。

当時は、法要儀式や高貴な方々の出入り以外は使用されなかったそうです。(重要文化財)

なにか意味あり気な置物だ。

涼しそうな座布団。

見上げるときれいな青空、先ほどまでとうってかわって・・・

紅い紅葉が印象的。

余香苑へ。

陰陽の庭(陰)は、黒砂

黒砂が敷き詰めれれた枯山水庭園で、陰陽道における「陰の数=偶数」の象徴である8つの石が配されています。


瓢箪型が可愛いお茶席の小窓。

2016年春「妙心寺退蔵院のさくら特別拝観」
退蔵院ではこの時期、お食事つき特別拝観プランが行われている。 退蔵院の目玉で国宝 … 続きを読む →


お茶席のお部屋は、庭園全体を見渡せるように障子の下半分にガラスをはめ込んだいわゆる「雪見障子(ゆきみしょうじ)」になっており、座りながら庭園の風景を楽しめるように工夫されていました。

前の庭の景色がリフレクションになっている。

この景色が写り込んでいる。

昭和の名作庭家・中根金作(なかねきんさく)によりデザインされた、池泉回遊式の余香苑(よこうえん)が眼前に広がります!

この方は「昭和の小堀遠州(こぼりえんしゅう)」とも呼ばれており、日本庭園ランキングで16年連続で1位を取得している足立美術館(あだちびじゅつかん)の庭園を手掛けたことで有名です。

退蔵院は、応永11年(1404)に無因宗因禅師を開山として建立されたお寺。

「退蔵」という言葉には、「価値あるものをしまっておく」という意味があるそう。

これは、陰徳(人に知られないようにして善行をする)を積み重ね、それを前面に打ち出すことなく、心に秘めながら布教することを表しているらしい。

先ほど方丈でお参りしていた人達がお庭見物にやってきた、そろそろ場所を開けるか。

空が抜けるように青い。


門前に佇む僧侶、鯰について聞いてみた・・・・

退蔵院の目玉で国宝に指定されている『瓢鮎図(ひょうねんず)』。

「ただでさえ捕まえにくいなまずを、こともあろうに瓢箪で捕まえようとする。」この矛盾をどう解決するか、将軍義持は当時の京都五山の禅僧31人に賛詩を書かせました。

高僧連が頭をひねって回答を連ねた様子は正に壮観です。

宮本武蔵は妙心寺の住持になられた愚堂東寔禅師のもとへ参禅に足を運びました。

愚堂東寔は妙心寺で三度住職をお勤めになられましたが、武蔵が教えを求めに上洛したときに、退蔵院所蔵の瓢鮎図を目にしたのではないかと伝わっています。

武蔵自作とされる刀剣の鍔が岡山県美作の「宮本武蔵資料館」に現存しておりますが、それには「瓢箪と鯰」がくっきりとデザインされています。

武蔵の里
長躯、岡山まで遠征、武蔵の里到着。 武蔵の里は岡山県美作市宮本の宮本武蔵生誕伝承 … 続きを読む →

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梅雨期の龍安寺 緑がきれいです


京福電鉄 龍安寺駅から徒歩で訪問、石畳がとてもきれいです。

最近は石畳に熱を上げています。
微妙にカーブしたところなど心憎いばかリ。

本来は帰路に使う鏡容池から逆回りに辿る。

緑が映り込みとてもきれいです。

池には一面にハスの花が咲いています、そして古い小屋にはもやい舟も見えます。

5月から6月の限られた期間中に、鏡容池で見頃を迎えるのが睡蓮の花。

池一面に咲き誇り、雨が降る中でも思わず足を止めてカメラのシャッターを切りたくなるほどの美しさです。

参道は緑の森。

綺麗な石畳の階段から参拝します。

インバウンドに修学旅行生、境内は大混雑です。

寺務所の白い壁面に緑が映える。


隣は勅使門、エリザベス女王訪問時にはこちらの勅使門から入場されました。

イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975年)に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。

女王が石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道され、石庭の名はまたたく間に知れ渡り、現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となった。

方丈の座席は多くの人で埋め尽くされています。

方丈広間の襖絵。

石庭の作庭意図には“禅の精神”や “「心」の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく、今だ謎のままである。

しかし、この謎こそが、この庭の解釈をめぐり人々を引きつけてやまない理由だろう。

龍安寺は宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天を開山に招き創建された。

平成6年(1994年)世界文化遺産に登録。

後に宰相となった「張商英(ちょうしょうえい)」の参禅を指導した「従悦禅師(じゅうえつぜんじ)」が、中国北宋の龍安山兜率寺(とそつじ)の禅師だったことが龍安寺という名前の由来。

参禅とは、禅堂を学ぶことや坐禅を組むことを指します。

茶室蔵六庵前にある徳川光圀の寄進とされる「つくばい」は、中心の「口」の字を共用し「吾唯知足(ワレタダタルヲシル)」と読み、禅の格言を謎解き風に図案化されたものといわれる。

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鉄砲伝来と根来寺


根来寺は1130年に開祖の覚鑁(かくばん)が高野山に造営した小伝法院という一堂がはじまりとされ、1140年に現在の地へ移り、戦国時代には寺領72万石の大寺院となっています。

根来衆は豊臣秀吉と激しく敵対したことは有名だが、大塔と大師堂は秀吉による焼き討ちを免れたことが知られている。

大塔(大毘廬遮那法界体性塔、国宝) – 本尊・胎蔵大日如来。
高さ40メートル、幅15メートルの木造では日本最大の多宝塔。

基部には羽柴秀吉に攻められた際の火縄銃の弾痕が残されている。

1976年(昭和51年)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。

また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。

それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市立民俗資料館」で保管・展示されている。

新義真言宗の総本山。
長承元年(1132)、宗祖覚鑁上人(興教大師)が高野山に大伝法院を創建したことに始まる。

鎌倉時代に現在の場所へ移転したといわれる。

南北朝から室町時代にかけて大きく発展し境内に多くの院家を擁する一大教団となった。

現存する本尊(重要文化財)や大塔(国宝)もこの頃に再建されたもの。

天正13年(1585)、天下統一をめざす秀吉の紀州攻めにより堂塔・院家の多くを焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の支援などを得て復興した。現在、境内地の大部分は国の史跡に指定されている。桜や紅葉の名所としても有名。

「根来衆」と「雑賀衆」の兵力規模

鉄砲で武装した根来寺の僧兵集団は「根来衆」と呼ばれ、兵力は1万人にも達していたといいます。

さらに当時の和歌山には、「雑賀衆(さいかしゅう)」という鉄砲を主力とする一団もいました。
もともとは雑賀庄内(さいかしょうない)(現・和歌山市)の土着集団で、鉄砲を8000丁も保有する傭兵団でもあったといいます。

また、熊野水軍の流れもくんでいたため、海運と交易が盛んだったばかりか、有事には水軍としても活動しました。

この根来寺と雑賀衆の関係は良好で、雑賀側の住民が根来寺に塔頭を建てることもありました。
また使用した鉄砲も、根来衆が伝えたとする説があります。

根来寺のおみくじは小さなダルマに入っていて境内のあちこちにダルマが並んでいます。

聖天堂(重要文化財)

聖天池に浮かぶ堂で聖天尊を安置しています。
この堂正面の朱塗の壇が有名な「根来塗」で室町時代から伝わっているものです。
令和元年に重要文化財に指定されました。

鐘楼門

根来寺の僧兵、津田監物(つだけんもつ)が種子島から鉄砲と火薬の技術を持ち帰り、門前町の鍛冶屋につくらせました。
このとき製造されたのが、国産最初の1丁であるといいます。

薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長11年(1606年)に書いた『鐡炮記(てっぽうき)』には、種子島に鉄砲が伝来した際に種子島時尭(ときたか)が二丁を購入したのち、この鉄砲を購入する目的でいち早く種子島を訪れたのが根来寺の「杉ノ坊某」であったことが記されている。

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空堀散策


路地歩きが好きなのだ、路地を見つけては散策するのを楽しみにしている。

路地から何やら趣のある建物が見えている。

この辺りは再開発されたのかな、おいしそうな食べ物屋さんが並ぶ。
突き当りを右に回ってみる。

そこは坂になっていて自転車が勢いよく落ちてくる。

車の行き来も多い。

空堀商店街

松屋町筋~谷町筋~上町筋まで東西約800mつづく商店街。
周辺の長屋や路地の散策も楽しい。

空堀の超有名カレー店「旧ヤム邸」
ここのカレーは何と、小麦粉を一切使用していない薬膳カレーです。

しかも、メニューは毎日変わるので、何回行っても違う味が楽しめます。

周辺には昭和時代初期の長屋などの建物や路地が残り、緩い坂道を行きつ戻りつの街散策も楽しい。

かつて、大坂城の三の丸の外堀である南惣構堀があった場所に現在の「空堀」が位置しています。

この南惣構堀は強力な堀で、大坂冬の陣で徳川軍が突破できなかったことで知られています。

空堀は、石畳の路地があって長屋が建ち並んでいる、昔ながらの街並みです。

道路幅員は約2.5~2.7m。
祇園や神楽坂はお茶屋や料亭が並ぶまちですが、空堀は人々が暮らす長屋が並ぶまちです。

大阪は平坦なまちですが、唯一上町台地が横たわっています。

空堀は、その上町台地の端に位置します。

だから、大阪市内では珍しくアップダウンがあるまちです。
石畳の階段や坂も空堀の特徴です。

空堀界隈
大阪市内でレトロな街並みが残るエリアと言えば「中崎町」が有名。 しかし、実はもう … 続きを読む →

以前にも行っているのだまた新しい視点で眺められる。

住まいの大阪六景 空堀通
大阪住まいの今昔館8F、ここにはもうひとつ「住まい劇場 ある家族の住み替え物語」 … 続きを読む →

大阪住まいの今昔館8Fなはミニチュアの空堀が展示されていて興味深く見学できる。


一歩商店街から外に足を向けると、レトロな町屋がずらっと並んでいて、大正時代にタイムスリップしたような感覚に陥ります。。

商店街の外側には、地元のデザイナーや建築家がプロデュースした、町屋を生かしたおしゃれなお店がたくさん

路地から商店街を見たところ。ちょうど空堀通りが一番高くなっています。


内側から通りを見ると…なかなか趣があります。
後で調べると「路地」と呼ぶのは、正式にはこのトンネル型の通路で、幅は6尺(約1.8m)、出口は二か所と決められていたそうです。


ただしこの「路地」も1909年の建築取締規制の改正以降は禁じられたようで、つまりこの潜り抜けタイプの路地があるということは、明治以前から建物(長屋)があったというしるしなのです。

東西に100mほど続く石垣なのですがこの石垣は豊臣時代の空堀の名残だと聞いたことがあります。

こうして古い商店や民家などが残った空堀商店街が、結果としてレトロスポットとして人気を集めることになったのは面白いですね♪


海老江の下町情緒を残す石畳路地と光と影
また阪神本線の高架下には、機械工具や金属材料、配管、建築金物などの企業四十数社が … 続きを読む →

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住友銅吹所跡


東横堀川

土佐堀川の上流部で南へ分かれて、中央区の船場・島之内の東縁を流れる。
全長約3km。西へ向きを変えてから下流は道頓堀川となる。

1585年(天正13年)に豊臣秀吉の命により大坂城の西惣構堀として開削された、大阪市で最古の堀川である。

なお、1594年(文禄3年)の開削とする説もある。

1615年(慶長20年)に大坂冬の陣で徳川方と豊臣方が和睦する際、大坂城の惣掘の一部であるので和睦の条件の通りに埋め立てられた。

しかし、大坂夏の陣で大坂城が落城するとすぐに掘り返され、ほぼ同時に堀止から西へ道頓堀川が開削され、1622年(元和8年)には末吉橋の下流側から西へ長堀川が開削された。

九之助橋は江戸時代初期には既に架けられていた。

橋の西側は九之助町で、このあたりには銅吹所を始め、鋳物屋、鍛冶屋などが多く、工業の町という印象が強かった。
町名や橋名の九之助は関係者の人名につながるようだが、その由来は不明である。

町橋であったため、橋筋の町を中心に町々からの醵出金によって維持されてきた。

興業の街らしく、欄間には町工場の様子が仕込まれている。

九之助橋は大正15年、第1次都市計画事業で、鋼アーチ橋になった。

東横堀川にはアーチ橋が多いが、鋼製とコンクリート製がほぼ交互に並んでいる。
これは偶然ではなく、設計担当の意志が働いていたと考えられる。

住友銅吹所跡

泉屋は元和?年(1623)に大坂・内淡路町に銅吹所を開設。

元禄3年(1690)に本店・居宅を同地に移転し、明治まで続いた。

当時の幕府高官やオランダ人もよく視察に訪れたといいます。

マイントピア別子 端出場(はでば)ゾーン
愛媛県新居浜市の別子銅山は、住友財閥の基礎を作ったことで知られ日本三大銅山(あと … 続きを読む →

東洋のマチュピチュ 別子銅山 東平ゾーン
標高750mの山中にある東平(とうなる)は、大正5年から昭和5年までの間、別子鉱 … 続きを読む →


銅吹所の炉

レプリカのミニチュア銅橋

明治初年、経営が極度に悪化していた住友を救った広瀬は明治12年(1879)、大阪鰻谷の住友本邸に別子産銅で製作した銅橋をかけ「事業は石橋を叩いて渡るがごとく、確実を旨とすべし」と家長以下自らも戒めていた。

元住友家本邸内ビリヤード場(玉突場)

明治9年(1876)に銅吹所廃止後に敷地は住友家の邸宅となりました。
明治12年(1879)には洋館や庭園がつくられ、ビリヤード場はその東側に建てられました。

文明開化期に多くみられる「擬洋風様式」で、ビリヤード場玄関のアーチや円柱飾りは洋風ですが、壁は土蔵造り、屋根は瓦葺きで、洋風と和風とが混在しています。

明治25年(1892)以前の建築と考えられており、独立建物のビリヤード場としては、わが国最古のものです

この地の銅吹所は明治9年(1876)に閉鎖されるが、銅吹所のあった東半分(冒頭写真の左側が銅吹所、右半分は西側の邸宅、手前の北側は長堀川)は日本庭園として整備しなおされ、後に天王寺茶臼山に移されるまでは住友家の本宅として機能していた。

茶臼山に本宅が移されてからは、昭和20年(1945)まで別邸として存在した。

その後、住友銀行社員寮跡地であったこの地に、銀行事務センターの建設計画が持ち上がり、平成2年(1990)から平成5年(1993)にかけて発掘調査が行われた。

そこからは、100基を超える精錬炉、棹銅、住宅で使われていた高級陶磁器など、数多くが出土した。

このことにより、かつてここで大規模な銅の精錬が行われていたことが明白になったのである。

いずれにしても、この地は寛永13年(1636)に泉屋(住友)理兵衛(第2代友以)が銅吹所を開設して以来、泉屋にとって家業の基礎を築き、繁栄させた大切な場所である。

三井住友銀行事務センター

かつての銅吹所は、約10階建ての事務センターになっている。
右端が史跡公園。

ジオラマで摂河泉の中世都市を見る
大坂の商業の中心船場は、人々の暮らしの場でもありました。 このジオラマは、安政年 … 続きを読む →


今日のお昼は「いなり家こんこん」

小ぶりの創作いなり寿司が四種四個

「ちりめん」・「ひじき」・「タコ」・「えび」でしょうか?

メニュー表にのっていなかった「おでん」
「小鉢」

最後にコーヒー、これで800円、やすいね。

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