前田利長の隠居城 富山城

利長は男子がなかったので、異母弟の利常(利家の四男、初名は利光)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した(隠居領は新川郡22万石)。

幼い利常を後見しつつ富山城を改修、城下町の整備に努めた。
慶長14年(1609年)、富山城が焼失したため一時的に魚津城で生活した後、射水郡関野に高岡城(高山右近の縄張と伝わる)を築き移った。

富山城に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行った。
本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却された。

越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、慶長14年(1609年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。

堀を一周してみる、石垣が白と黒のゴマ塩みたいになってるのは安山岩と花崗岩を組み合わせて築かれていため。
安山岩は常願寺川から、花崗岩は早月川や黒部川などから運んだと考えられています。

神通川の流れを引き込み(松川) 「浮城」の異名をとった。

本来の富山城は石垣は主要な門の周囲のみであり他の大部分は土塁の城であったが、昭和・平成と模擬天守東側に石垣が新造されたことで往時の歴史的な姿とはかなり異なるものとなっている。

史実に基いた復元工事ではなく、土塁であった場所も総石垣にされるなど、観光色の強い整備事業となっており、残念。

橋を渡ると、そこは石垣虎口となっており、右に2石、左に1石、前に2石の計5石の鏡石が配されています。

この5石は陰陽道の五芒星を意味するとも言われている。

その石垣を進んで、右に折れたところに鉄御門がある。

「何事もかわりはてたる世の中に知らでや雪の白く降るらん」と書かれた成政の歌碑。

これは天正13年暮れに天正大地震で被災した民衆を見舞うため、久しぶりに越中に入国した成政が、心を痛めて詠んだ歌であると言われている。

この句を辞世の句として紹介されるケースがよくあるが、成政の辞世の句と言えば「この頃の厄妄想を入れ置きし鉄鉢袋今破るなり」であろう。

前田正甫(まえだ まさとし)は越中富山藩の第2代藩主。

製薬業に興味を持ち、江戸城腹痛事件で名をあげた反魂丹を製薬して諸国に広め、越中売薬の基礎を作ったというエピソードは有名。

以後の富山藩繁栄の名君、また地場産業である製薬業の興隆の祖として現在、富山城址公園内に銅像が建てられている。

上記の事績により名君とされる一方で遊びも好きであり、女癖が悪く、また、狼狩りを好んだと伝わる。

平成の石垣、千歳御門脇(南側)の平成20年(2008年)に完成した石垣。
幅11メートル、高さ7メートル、奥行き12メートルで、富山城の石垣に使用された早月川の御影石を用いている。

今回の度も終わりです、大津サービスエリアでトイレ休憩、暮れゆく空の景色がきれいです。

前回訪問時の記事ササラ峠越えのエピソードを残す 富山城です。

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富山城へのアクセス、行き方歩き方

富山市本丸1

富山駅から徒歩約10分、富山空港より連絡バスで約20分(城址公園前下車)

運命の一日 魚津城の戦い

魚津城の戦いの運命の一日って意外と知られていないと思う。

それは、天正10年(1582年)6月3日落城を悟った上杉方の守将13人が自刃して果て、魚津城は落城し織田軍の勝利となった。

ところが、その前日の6月2日には京都の本能寺で織田信長が重臣・明智光秀によって討たれるという事件(本能寺の変)が起こっていたのだ、まさに運命の一日だった。

勝家らが信長の死を知ったのは翌4日といわれており、この急報に接した織田勢は全軍撤退した。
仮に籠城戦があと2日伸びていれば、事態はどうなっていたか予断を許さない戦いであった。

魚津の「しんきろうロード」

魚津は江戸時代以前から蜃気楼の名所として知られる場所です。
蜃気楼は、大気中で光が屈折し虚像が見える自然現象で、気温や風などの条件が整わないと発生しません。

蜃(大ハマグリ)が気を吐いて楼閣を描くと考えられたところから蜃気楼と呼ばれるようになったという。

道の駅は蜃気楼撮影のメッカ、本日の蜃気楼発生確率なるものが掲示されている。

護岸に三脚を並べ、のんびりと蜃気楼の発生を待つカメラマンたちがたむろしている、まことにのんびりした風景だ。

大正7年7月23日、北海道への米の輸送船・伊吹丸が魚津町に寄港した時、おりからの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が、米の積み出しを行っていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前に集まり、「米の値段が高くなるのは、県外に米を持っていくから魚津に米が無くなるのだ!」と、米の積み出しを止めるように要求し、このため米の搬出は中止された。

この事件が新聞に報じられ、米騒動は近隣の村や町、1道3府32県に及ぶ全国的な米騒動に発展し、その後、内閣を総辞職に追い込む事態に発展した。

「ときわ松(初代)」は、古くから魚津城内にそびえ立っていたとのことで、上杉謙信公が植えたとも云われている。

しかし、昭和16年(1941年)の火災で焼失、焼け残った木の部分を木材にして、大町小学校の机などを作ったという。

今の松は植えなおしたもの。

上杉謙信公の歌碑、天正元年(1573)上杉謙信が越後の精兵を引き連れて越中へ進入し魚津城外でたむろしたときの歌。

「武士(もののふ)のよろいの袖をかたしきて 枕に近きはつかりの声」とある。

魚津城のジオラマ。

明治初期ごろまで、堀や土塁などが残されていたが、のちに破壊され当時を偲ぶものは何もない。

城址の様子は天明5年(1785年)の「越中魚津街惣絵図」に描かれており、これによると本丸とそれを三方から囲む二の丸が見てとれますが、二の丸は元々四方を囲むものであったと推定されます。

現在、その跡地には大町小学校が建っている。

画像は児童たちの作った魚津城の模型。

北陸街道、かつての魚津城の城下町、新川の政治経済の中心都市、北陸街道の宿場町および港町であった。

魚津のマンホールの蓋、ゴチャゴチャし過ぎていて、何が描かれているのかよくわからない。
中央に市章があしらわれ、外周の花は魚津市の花である“かのこゆり”だろう。

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魚津城へのアクセス、行き方歩き方

魚津市本町1-10-39

魚津ICより 車で10分
JR魚津駅より 車で10分
電鉄魚津駅より 徒歩3分

松倉城の支城 天神山城

富山県魚津市天神山(別名・松尾山、標高163m)にあった日本の城(山城)。
別名・萩城。

天神山の山頂部からは弥生式土器が出土しているため、2世紀末の倭国大乱に関係する弥生時代の山城跡と考えられている。

魚津へ向かう途中、有磯海サービスエリア(ありそうみサービスエリア)でトイレ休憩。

前方は日本海側最大級の観覧車を持つ、ミラージュランド、多目的なレジャーに利用できる公園です。

ここには芭蕉の句碑があります。

『早稲の香や わけ入る右は 有磯海』

ここでは早稲が実のって香りが漂ってくる、その早稲を分け入って進むと右側には有磯海が見えることだよ。

那古の浦で詠んだ句です。

岩肌のような斜面の穴に続く石仏の道を進むと、幾つかの竪堀が見られます。

道路は後付けなのでしょう、竪堀が上下で分断されている。

この辺り二の丸だろう、石仏群はここまで続く、主郭部へ取り付く。

天神山城主郭、結構な広さを持ちます。

ブッシュの隙間からチラリと開通したばかりの新幹線が見えた。

魚津の街を見下ろす現代の武者たち。

天神山城は松倉城の支城として上杉氏によって1554年(天文23年)に築城とされる。
城の範囲は現在の金太郎温泉近くまであったと推測される。

安土桃山時代には、上杉謙信がここを越中攻めの拠点として長尾景直を城主として送り込んだ。
1582年(天正10年)の魚津城の戦いの際には上杉景勝が入城した。

再度、新幹線の見える場所に移動した。

この出入り口付近には、本能寺の変の後入城した、前田利家配下の青山佐渡守・豊後守親子の墓がありました。

下山は花の森・天神山ガーデン経由です。
ハナモモ、水仙、シャクナゲ、牡丹、芍薬など、もも園から山に沿って植えられています。

これはクリンソウ。

ツツジも見事、シャクナゲも咲き誇り、時を忘れて眺めていたい雰囲気です。

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天神山城へのアクセス、行き方歩き方

富山県魚津市小川寺字天神山

•JR北陸本線・ 魚津駅からタクシーで約10分
•市民バス・天神ルート「魚津歴史民俗博物館口」下車

加賀藩三代目藩主前田利常の隠居城 小松城

本丸には天守台が築かれ、天守の代用として御三階櫓が築かれた。広大な水堀に浮かぶ姿から浮き城の別名を持つ、難攻不落の実戦を想定した要塞であった。

現在、城域はそれぞれ隣接する小松市役所、芦城公園、石川県立小松高等学校として開発され、遺構の保存状態は良くないが、天守台及び内堀の石垣が残る。

芦城公園(三の丸)、現在は、まるでミニ兼六園のように整備されています。

廃城の後、三の丸には小松懲役場が建てられたそうです。
そして囚人に、小松城の破壊工事させたという。

時代が変わるというのは恐ろしい、罪人が武士の役場を壊してしまうのです。

珪化木(けいかぼく)は、木化石とも呼ばれるように、古代に何らかの原因で土砂等に埋もれた樹木が、膨大な年月をかけ地層からかかる圧力により木の細胞組織の中にケイ素と酸素、水素との化合物であるケイ酸を含有した地下水が入り込むことによって、樹木が原型を変えずに二酸化ケイ素(シリカ)という物質に変化することで、石英や水晶などと同様に固くなり、化石化したもの。

芦城公園に建つ加賀藩3代藩主前田利常像。

小松市立博物館。

のどかな水車の風景。

北前船。

花嫁衣裳、鶴亀松竹梅模様打掛。

小松城ジオラマ、天正4年(1576年)に加賀一向一揆方の若林長門守によって築かれたといわれ、織田信長の武将柴田勝家により攻められ、村上氏、丹羽氏が城主となった。

寛永16年(1639年)、2代藩主前田利常の隠居城という名目で再築、しかし大規模な水堀を廻らし、築島を配するという新城建設に似た大規模なものとなった。

完成した城域は金沢城の約二倍の規模を誇る。

利常の死後は加賀藩金沢城の支城となり、城番により統治され、明治維新を迎えた。

二の丸跡は小松高校に石碑のみが残る。

実はブルーノ・タウトが「泣きたくなるほど美しい」と絶賛した桂離宮と前田利常は深い関係にある。

利常の正室は将軍秀忠の二女珠姫。利常と珠姫との間に生まれた富姫(第四女)は、寛永19年(1642)に後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁親王の嗣子・智忠親王に嫁している。

智仁・智忠両親王は、父子二代にわたり桂離宮の造営にあたっているが、親王妃富姫の父である利常は、幕藩時代に経済的に困窮していた親王の義父として、かなり高額の出資をしている。

桂離宮の造営にあたり利常は、後世まで歴史に残る最高のものを作りたいと考えたようで、優雅な数奇屋造りの建物や回遊式庭園を始め、狩野探幽や俵屋宗達など一流の巨匠に襖絵を描かせたりして、完成までに17年もの年月をかけている。

桂離宮は加賀藩前田家、前田利常の存在なくしてはできなかったといえるだろう。
 
そんな美の追求者、利常が隠居した小松城なのだから、当時の姿はどれほど見事だったことか…。

桂離宮の記事は「早春 桂離宮に遊ぶ」をお読み下さい。

天守台跡は小松高校のグランドを横切ったところにある。

小松城本丸中央には、五重天守閣が余裕で建つほどの、ほぼ10間四方という大きな天守台石垣が造営された。

しかし実際に天守台上に建てられたのは、小さな二重三階の数奇屋造りの風流な櫓。

築城技術がピークに達した時期に築かれただけに、精巧に積まれた石垣は見事。
直線的に加工した石材をブロック状に積み上げる「切込ハギ」と呼ばれる工法は、石を削ってきれいに整形して積む工法で、高くて急角度の石垣を築くことができ、見た目も洗練されて美しい。

一方で手間と費用が膨大となるため、徳川将軍家とごく一部の大大名しか採用できなかったものだという。

小松城の石垣の重要な部分には良質な金沢の戸室石を用い、そのほかの部分には小松産の鵜川石を使っている。

赤みがかった石、青みのある石、白っぽい石のコントラストがとても美しいこの石垣にも、利常の美意識が反映されているに違いない。

天守台への階段はけっこう荒れています

唯一残る、本丸堀石垣跡、この石垣はかつては水堀に面していた、地下に3.5mの石垣が眠っている。

富山へ向かう途中徳光PAから見える日本海に沈む夕陽。

バスの車窓から水田に映る夕日がきれいです。

また、小松は基地の街として別の顔を持つ、小松城跡訪問中もスクランブルの戦闘機のエンジン音が何度も響き渡っていた。
小松基地のスクランブル回数は日本一といわれる。

「小松基地航空祭2012」
「華麗なるアクロバット飛行」
「石川県立航空プラザ」を併せお読みいただくことをお勧めいたします。

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小松城へのアクセス、行き方歩き方

石川県小松城丸の内公園町

JR北陸本線小松駅下車後徒歩20分

天下取りへの転換点 金ヶ崎城

南北朝、戦国期を通じ常に天下取りへの転換点となった金ヶ崎城址への訪問記。

金ヶ崎城跡のふもとには、足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った金崎宮(かねがさきぐう)がある。

城の縄張りは神社境内に設置されたジオラマ(地元の高校作)が参考になる、しっかり頭に叩き込んでから登城しよう。

別名敦賀城(つるがじょう)。

敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜86メートルの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城。

治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。

現在でも月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切などが残り、1934年には国の史跡に指定されている。

戦国時代、永禄九年(1566)九月、幕府再興を目指す足利義昭は一乗谷の朝倉義景に保護を求める為に一旦この城に入っている。

明治30年、金ヶ崎城ゆかりの南朝方武将を祀って、金ヶ崎宮摂社絹掛神社として創建された。

祭神は、南朝方武将の藤原行房、新田義顕、気比氏治、気比斎晴、瓜生保、瓜生義鑑、里見時成、里見義氏、由良具滋、長浜顕寛、武田與一、以下殉難将士。

金ヶ崎城跡にある南北朝時代の金ヶ崎の戦いの古戦場碑。

月見御殿は、金ヶ崎の最高地(海抜86m)で月見崎といい、通称月見御殿と呼ばれている。
南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡で、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えられている。

元亀元年(1570)4月。
朝倉義景討伐を企てた織田信長が越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏裏切りの報が…。

窮地に陥った信長、金ヶ崎城で殿(しんがり)を努めた豊臣秀吉の活躍で、無事帰京できたといわれています。

その後の姉川の合戦で、浅井・朝倉連合軍を敗った信長。
そして、その信を受け天下取りの道を進んだ秀吉。
さらに、秀吉の殿を助け、後に謝意を受けた徳川家康……。

金ヶ崎城をめぐる出来事は、それぞれの武将にとって天下取りへの転換点となっているのです。

三の城戸の堀切。

焼米石出土地、付近から清水がわき出ていたことから「水の手」と呼ばれた平坦地がある。

この土中から炭化した米が発見されたという。
戦国時代、浅倉勢の兵糧庫があり、織田信長との戦いで焼け落ちた際のものと伝えられる。

激戦となった二の木戸跡、1336年(延元元年/建武3年10月13日、足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が入城、直後、足利方の越前守護斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされる。

翌1337年(延元2年/建武4年2月5日)、義貞らは、闇夜に密かに脱出し、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直す。

2月16日、義貞は金ヶ崎城を救援しようとするも敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれる。

3月3日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られる。

尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、3月6日、落城する。

金前寺 古井戸、かつて金前寺境内のすぐそばまで砂浜であり、泉浜と呼ばれていた。
享保11年(1726)頃の泉浜はたいそう賑わっていたという。

この井戸は泉浜に入港する北前船をはじめ日本海沿岸を廻航する船の給水用として大事な役割を果たしていた。

今日の昼食は江戸時代から続く敦賀の豪商であり敦賀駅の駅弁調製業者として有名な「しおそう」

店内に展示されていたたこつぼ、年代を感じさせる立派なものです。

以前の訪問記「南北朝、戦国争乱の城と恋物語 金ヶ崎城址」も併せお読みいただければと思います。

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金ヶ崎城址へのアクセス、行き方歩き方

住所:敦賀市金ヶ崎町1-1
問い合わせ:金崎宮社務所(0770-22-0938)

JR小浜線 「敦賀駅」下車 徒歩29分
「港町バス停」下車 徒歩9分
「セメント前バス停」下車 徒歩10分
「北小学校前バス停」下車 徒歩13分

福井さくら巡り~越前大野城

1575年(天正3年)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近がその翌年、最初に居城とした戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を築いたのが越前大野城の始まりである。

福井から昨日下った道を辿り大野へ入ります。
亀山の上に天守がそびえる、辺りはまだ雪をいただいた峰が続く。

福井から大野市の情報ターミナルである「結ステーション」に到着すると、もう一つのランドマークである時計台の「時鐘」の出迎え。

「結ステーション」から天守を望む、桜とのコラボがいい。

天守は、亀山の山頂にある天守曲輪に建てられた。
本来は望楼付きの2重3階の大天守に2重2階の小天守、天狗の間(天狗書院)と呼ばれた付櫓(天狗櫓)が付属された、複合連結式の天守であったが、1795年に焼失して以降、再建されないままであった。

現在山頂に建つ天守は、1968年(昭和43年)に元士族の萩原貞の寄付金を元に、往時の絵図や創建当時の同時期の他の城の天守を元に、鉄筋コンクリート構造によって推定再建されたものである。

しかし、小天守が天狗の間の位置に建てられていることなど、史実に基づいた復元再建ではない。

観光ブースの結楽座の横には古木の桜が咲いている、幹周囲が6m近い幹にはびっしりと苔が生えており、観光客の撮影ポイントとなっている。

天守台から北を望む、方角的には白山が見えてもいいのだけどな。

水の町として知られた大野。
地下水が豊富で、湧水地が街のいたるところにあります。

水舟清水、水舟とは、かつて谷や川から取水した水を利用するための貯水槽のことです。
木製で段になっているのが特徴です。

新堀清水(しんぼりしょうず)、亀山の南側、新堀川沿いに湧く清水です。「ふくいのおいしい水」に認定されています。

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越前大野城へのアクセス、行き方歩き方

住所:福井県大野市城町3-109

越前大野城 0779-66-0234
大野市歴史博物館 0779-65-5520

JR越前大野駅から徒歩30分/北陸自動車道福井ICから車で30分

柴田勝家の居城 北ノ庄城

城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。
以前の訪問記がこちらにあります、併せてお読みいただけますとありがたい。「北の庄城 勝家が築いた幻の名城」

ガレリア元町商店街、駅前電車通りから南へ、駅前みなみ通りの西側を並行して伸びる商店街。
福井城から北ノ庄城へ向かっています、アーケードの垂れ幕もあやかり商法。

柴田神社、鎮座地は勝家の居城であった北ノ庄城の本丸跡地と伝えられており、作られた時代は不明であるが勝家・市を祀る石祠があり、北ノ庄城の跡に築かれた福井城内の神祠として保護されてきた。

明治23年(1890年)、旧福井藩主松平春嶽、旧藩士、住民らの発意により小祠のある場所に神社が作られ、「柴田神社」とした。

北ノ庄城の石垣です、北ノ庄城址・柴田公園のあたりは、柴田勝家の北ノ庄城の天守閣があった場所と伝えられています。

この写真の石列は、柴田勝家の北ノ庄城の石垣遺構で、本来高く積まれていたものが、結城秀康の福井城築城の際に破壊され、根石のみが残ったものと考えられています。

柴田勝家の逸話として「瓶割り柴田」がある。信長と近江守護 六角氏との戦いで、城を守る勝家は六角氏に水路を絶たれ窮地に立たされたが、水の入った瓶を叩き割るパフォーマンスで味方の士気を上げると共に城内に潜むスパイの目をも欺き、見事六角氏を破ったという。

北ノ庄城の堀跡です、福井城の層より下層から発掘された、幅が25メートル以上ある南北に延びる堀跡。

堀の規模から柴田勝家の北ノ庄城の堀と考えられており、写真に写っている石列は堀南面の石垣です。

裏の庭には椿が見事に咲いていました。

福井市のマンホール、福井市のシンボルである不死鳥(フェニックス)のデザイン。
空襲や地震、水害などから不死鳥のごとく復興したことなどから、 不死鳥が福井市民及び福井市のシンボルになっているそうです。

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北の庄城へのアクセス、行き方歩き方

福井県福井市中央1
JR北陸本線、福井駅下車、徒歩5分

桜満開の福井城

今、福井は桜満開、福井城の散策です。

早朝の福井城、登る陽を受けて桜が紅く輝く。

御廊下橋、福井城内に明治初期までかかっていた木橋を現地にほぼ忠実に復元したもの。
総ヒノキの橋は屋根のおかげで色あせることもなく、美しい姿を保っています。

本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されている。
石垣の一部崩壊に関して、これら施設の重量のせいではないか、と議論されたことがある。

福井城址の石垣修復に向け、石垣上の樹木の伐採や剪定、石垣の欠けた部分の補修などに着手している。

欠けた石垣は2年かけて補修する、形に合わせて加工した笏谷石を、接着剤で張り付ける工法を使う。

福井の語源となった「福の井」。
なお福井市は、これに北ノ庄の「北」をかけあわせデザインしたものを1925年に市章と制定している。

1624年に福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。
(改名の経緯に関しては諸説有り。)

天守跡。
本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされる。

福井地震で一部が崩壊した福井城控天守台石垣。

陽に照らされた桜が美しい。

内堀と、屏風折れの石垣はすべて越前特有の笏谷石(しゃくだにいし)である。

雁木(がんぎ)、本丸大手門脇、石塁の城内側を石の階段としている。
防備上で重要な所に設ける。

陽に透ける桜と草のコラボ。

御本城橋と本丸大手門跡、御本城橋を渡ると、本丸の大手門(瓦御門)があった。

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福井城へのアクセス、行き方歩き方

住所:福井県福井市大手3丁目

JR北陸本線福井駅~徒歩10分

桜咲く 郡上八幡城

郡上八幡城は満開の桜の中にあった。
前回の訪問記「司馬遼に「日本で最も美しい山城」と言わしめた 郡上八幡城」を合わせてお読みいただければ理解が深まることと思います。

駐車場から山上を見上げれば、山内一豊夫妻の銅像を通して天守閣が望めるよう、木を伐採してある。

心を少しずらせば満開の桜。

像の側に「土霊水(井戸)」といわれる井戸がブッシュに隠れたようにしてある。
歴代城主が御殿を構えて日々の飲料水として使用した井戸と説明板にあった。

丸門、岐阜城を模して作ったといわれる、天守へと行ける桜の丸への入り口。

桜の丸から下を見渡せば、長良川の向こうに東海北陸自動車道が見える。
この道路から、天守がきれいに見えます。

東殿山城、標高520m、比高282m。

郡上八幡城の前方の高い峯は東殿山で、東側の頂上が城跡である。
天文十一年(1542)頃、東常慶(東氏十三代目)によって築かれた城で、東西南北約三十メートルの四辺形をなし、断崖と急斜面の天然の要害である。

現在西側には四段に分かれて周囲に石垣が残されている。

千代 悪女説

山内一豊の妻千代は1556年(弘治2年)初代郡上八幡城主遠藤盛数の長女として生まれた。
千代が6歳の時に父盛数は病死、その後母の再婚、義父の敗北そして流浪、波乱の人生がはじまる。

やがて千代は尾張の山内一豊の許へ嫁ぐ。
千代の出生地には諸説あり、この八幡町と米原市近江町の二つが有力である。

山内一豊といえば、へそくりで夫に馬を買わせたという美談の持ち主だが、これは実話ではないと歴史作家永井路子はいう。

江戸後期または明治になって、女子教育の必要から、歴史上の女性の中からたねを探したというのが話ではないだろうか。

古来、良妻と言われているが、わが子を持たなかったがゆえに、おねの轍を踏み、夫没後に城を去る。  

悪女だとおっしゃるのは中島道子さん。


戦国の「いい妻」「ダメな妻」

おもしろい本です一読を。

千代の像は岐阜城、高知城にあります。
戦国の攻防を伝える美濃の名城 岐阜城

南海の名城、高知城

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郡上八幡城へのアクセス、行き方歩き方

住所:岐阜県郡上市八幡町柳町一の平65-9
電話:0575-67-1819 (郡上八幡城)

長良川鉄道郡上八幡駅からまめバス赤ルートで13分、城下町プラザ下車、徒歩20分

桜の季節に苗木城を訪問する

少し盛りを過ぎたが桜の時期に苗木城を訪問した。
苗木城の詳細は前回訪問記「巨岩と石垣との壮大な組み合わせ 赤壁城こと苗木城」に詳しく記しましたのでそちらを参照いただければ幸いです。

大手口道は長さ500m、高低差150mあり「四十八曲り道」といわれている。
前方に天守閣が見えてきました。

少し盛りを過ぎたが桜がきれいに咲いています。

天守閣再現CG、「赤壁城」の別名があり、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたと伝えられる。
諸説あるが、実際には、苗木藩が経済的に弱体で漆喰を塗る経費が捻出できなかったと思われる。

大矢倉跡も桜に包まれる。

木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約170mあります。
岩山の上で利用できる土地の確保が困難であったため、建物の構築方法に懸造(かけづくり)が使われているなど、自然の地形を有効に生かして築かれた山城です。

下方に橋が見えます、木曽川にかかる城山大橋の中ほどから右手を見ると、右岸にこんもりとした高森山を見ることができます。

高森山のあたりは深い淵で霧が立ち込めることが多く、苗木城の別名を「霞ヶ城」と言いました。

苗木城山の天守近く、馬洗岩から木曽川寄りに、吉田冬葉の句碑と柳原白蓮の歌碑がつつましく建っている。

城あとに やかたも人も いまなくて
    かたるは何ぞ 山鳥の声
 

柳原白蓮は1953(昭和28)年5月16日に苗木を訪れた。
白蓮は当時、婦人会を対象に各地を訪れ、 女性の生き方などを話すという活動をされていたようだ。

印字が薄くなり読みずらくなっており、解読に難儀する。

天守台からは川沿いの険しい道を下る。

右側に数本の大木の株が見えるが、最近伐採したもの、城の景観保持に努力されておりありがたいことです。
ここに大木があることを想像していただくとどのような景観かわかると思います。

径の分岐点まで下りてきました、先ほどは左手の道を上がりましたが、今、下ってきたのは右側の観光用に作られた径です、天守がかすかに見えています。

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苗木城へのアクセス、行き方歩き方

住所:岐阜県中津川市苗木2897番地の2(〒508-0101)
電話:0573-66-8181 中津川市苗木遠山史料館

JR中央本線中津川駅から北恵那バスで15分「苗木」下車、そこから苗木遠山資料館まで徒歩20分。